◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:34:54.72 ID:t/awvdm70<>青年「それじゃ、僕ちょっと用事があるから」
友「ん? おお分かった。気を付けてな」
青年「うん。ありがとう」
【えにしや】
青年(僕はこの前、町の片隅で偶然この骨董品屋を見つけた)
青年(ずっと心が惹かれていたんだ)
青年(今までは入る勇気が無かったけれど、今日は違う)
青年(特に何か買う訳でも無いくせに、僕はどきどきしながらガラスの扉を開けた)
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<>青年「藤の迷宮秘密箱」
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:36:52.61 ID:t/awvdm70<> 青年「……」カチャ
店主「いらっしゃいませ」ニコ
青年「お邪魔します」ペコリ
青年(店主……なのだろうか。若い女の人だ)
青年(さらっとした綺麗な黒髪に、丸い眼鏡をかけている)
青年(柔らかい笑顔は、何だか清潔な印象を与える)
青年「おぉ……!」
青年(店内は、多種多様な骨董品で溢れ返っている)
青年(でも、ごちゃごちゃとした嫌な感覚は無いな)
青年(まるで魚群の一部になったかのような、妙な落ち着きを感じる)
青年(高そうな壺に食器、何かの置物に……甲冑⁉ さすがにレプリカだよな)
青年(どれもこれも新鮮だ。見ているだけでも楽しい)
店主「外は寒かったでしょう、良かったらサービスですので、どうぞ」
青年「あ、ありがとうございます」
青年(熱いほうじ茶か。これはありがたい)ズズ
青年「……うまっ⁉」
店主「ありがとうございます」ニコ
青年(驚いた。こんなに良い味のほうじ茶は初めてだ!)
青年(香り高い茶葉の香気が、身体を内側から浄化していくみたいだ……うまい!)
店主「昔お茶の勉強をした事がありまして。自家焙煎で淹れているんですよ」
青年「だからこんなに美味しいんですね。何だか健康になったような気がします」
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:38:01.54 ID:t/awvdm70<> 店主「何かお気に召した商品は見つかりましたか?」
青年「いやあ、どれも魅力的で……見てるだけで圧倒されますね」
店主「これらの商品は、全てが特殊な縁(えにし)を持った、一点限りのものです」
青年「特殊な、縁……」
青年(おや、あの箱は)チラ
店主「ああ、それは「秘密箱」ですね」
青年「秘密箱……小物入れのような道具ですか?」
店主「ええ。面白いのが……ほら」スッ
青年(! 箱の面の一部が動いた!)
店主「このように、面の一部、さらには面全体などが細かく可動するようになっています」
店主「これらを正しい手順で動かす事によって、中に仕舞っている物を取り出せます」
店主「昔は泥棒対策に宝石などを入れていた……所謂からくり箱ですね」
青年「へえ……」
青年(和風の細工物は、何だか親しみと温かみを感じる)
青年(藤の模様が刻み込まれている。何だろう……僕はこれを探しに来たような気がする) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:39:29.79 ID:t/awvdm70<> 青年「中には何が入っているんですか?」
店主「私も分かりません。誰も開けた事が無いのですよ」
青年「何だか……よく分からないんですが、魅力を感じますね。でもさすがになぁ」
店主「千五百円で構いませんよ」ニコ
青年「えっ……えっ⁉ 十分の一の値段じゃないですか!」
青年(こ、怖い! 何か裏があるだろう絶対!)
店主「先ほども申し上げた通り、店内の商品は特殊な縁を宿しています」
店主「ですので、私は正しい方の元にお渡し出来れば、それで十分なのですよ」
店主「この店も、貯金を使って趣味でやっていますから」
青年「ええ……」
青年(特殊な縁って何だ……?)
青年(あまりにも怪しいが、嘘はついていないようだ)
店主「正直、無料で差し上げたいのですが、それは色々と問題がありますので……」
青年「でしょうね……僕もタダで渡されたら逆に嫌ですし」
店主「特別割引きという事で、いかがですか?」
青年「参ったなあ」
青年(いわくつきの商品じゃないだろうな、買った人間は死ぬとか)
青年(でも……やっぱり妙に心惹かれるな。うん)
青年「買います!」
店主「良かった。大切にしてあげて下さいね」ニコ
青年「はい」
青年(か、買ってしまった……まさか実際に買い物をするとは)
青年(でもまぁ、これも経験だよな) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:40:45.67 ID:t/awvdm70<> かち かちかち かち
青年「うーん」
青年(さすがに複雑だ。簡単に開けられそうにない)
青年(でも何だろう。全く飽きる事が無い)
青年「中に何が入っているんだろう」
青年(動かすと何かがぶつかる音がする。あまり重い物じゃなさそうだ)
青年(でも、こうして動かしているだけでも案外楽しいな)
青年(もし開いたら、何を入れてみようか)
かちかちかち かち かち
……かちゃっ。
青年「えっ、おおおお!! 開いた!?」
青年(マジか! 開いてしまったぞ、中には何が)
青年「……箱? あ、これは」
青年(細いお香が入っている。一体どれだけ前の物なんだろう)
青年(しかし、良い香りだ。花の甘い香りが箱そのものにも染みついている)
青年「どれどれ、一つ試してみよう」
青年(ご親切にも、お香を刺す小さな台座が入っている。さっそく僕はお香に火を灯す)
……ボッ
ゆら……
青年「うわ、すごいな……本当にお香か?」
青年(お香と呼ぶにはあまりにも瑞々しい香りだ。花を絞った雫のような)
青年(心地良い……眠くなってきた)
青年「……」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:41:33.56 ID:t/awvdm70<> 青年「はっ⁉」ガバ
青年(こ、ここは……?)
青年(藤棚がずうっと続いている……夢なのか? これは)
青年(しかし、こんな美しい景色は初めてだ)
青年(花の空に圧倒される……まるで巨大な藤の滝を見上げているようだ)
青年(道の左右は藤棚で囲まれており、散った藤の絨毯がまっすぐ続いている)
青年(奥には、何があるのだろう)
青年「……行ってみよう」
青年(甘い香りに包まれながら、僕はその道を歩き出した) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:42:14.95 ID:t/awvdm70<> 青年(藤の道を歩いていると、何だか懐かしい記憶が蘇る)
青年(桜に囲まれた一本道を歩くのが好きだった)
青年(昔から美しいものが好きだった。芸術にも興味があった)
青年(だけど、結局何もせずに今まで生きてしまった)
青年(純粋だった昔の僕が今の僕を見たら、何て言うんだろう)
青年(……)
青年(一人になると、よくこんな事を考えてしまう)
青年(焦燥感や劣等感は、何もしていなくても溢れてくる)
青年(どうして憂いは消えないのだろう。世界はこんなにも綺麗なのに)
青年「……お」
青年(奥が見えてきた。あれは……) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:43:11.18 ID:t/awvdm70<> 青年(奥には開けた小さな空間があった。藤の広場と呼ぶべきか)
青年(中央には、曲がりくねった大きな藤の木が鎮座している)
青年(藤の木の前には、木製の古いベンチが一つ)
青年(藤を眺めることが出来るように設置されているのかな)
青年「うわ、すごいな……樹齢何年なんだろう」
青年(僕はそっと木肌に触れてみる)
どくん
青年「……うわっ⁉」バッ
青年(い、生きてる⁉)
青年(いや、木なんだからそりゃ生きてるだろうけど!)
青年(あ……温かい!!)
青年(何で木がこんなにも温かいんだ⁉)
「初めまして。良ければお話しませんか?」
青年「! えっ、ああっ⁉」ビク
青年(驚きすぎて脳が追い付かない!)
青年(いつの間にか、ベンチに女性が腰かけている!)
青年(一瞬で現れた⁉ いや、ずっと前から居たような気もする⁉)
女「驚くのも無理はありません。少し落ち着きましょう」
青年(この着物の女性は一体……) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:45:04.99 ID:t/awvdm70<> 青年(少し時間が経過した。僕はほんの少し落ち着いたようだ)
青年(美しい女性だ。これほどまでに整った顔は見た事が無い)
青年(なのに、よく分からない)
青年(顔を見れば見るほど、周囲の藤の花に「紛れて」しまって……見えないんだ)
青年(だまし絵でも見ているような気分だ。分かるのに分からない)
青年(奇妙な感覚だ)
女「さて……私は“藤”です。今貴方が居るのは、私の世界です」
青年「……貴女は一体何者なんですか?」
女「付喪神のようなものと思って下さい。大した存在ではありませんから」ニコ
女「随分とお疲れの様子です。どうぞこちらへ」
青年「あ、はい」
女「貴方は、自分の生き方について悩んでいるようですね」
青年「――!」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:46:27.26 ID:t/awvdm70<> 青年(唐突に核心を突かれて、思わず息が止まる)
青年(確かにその通りだ。僕は生き方についてずっと悩んでいた)
青年(だが、それを言い当てるなんて……)
青年(僕の顔は、そんなに疲れていたのだろうか)
青年「確かに、その通りです。どうして分かったのですか?」
女「私は人の「色」を見通す力があります。貴方は憂色をしていますから」
青年「憂色……」
青年(憂いに色があるのなら、それはどんな色合いをしているんだろう)
女「何か抱えているものがあれば、私がお聞きしますよ」
青年「僕は……」
青年「……分からないんです。上手な生き方が」
青年「何かに対して、必死に努力をしているし、真面目に取り組んでいる」
青年「なのに、上手くいかないんです」
青年「上手くいかないのは、努力の質か量のせい。そう思って必死にやって」
青年「どれだけあがいても、人に誇れるような結果が出ないんです」
青年(そうだ。僕はずっと、自分に対して自信を持つことが出来なかった)
青年(どうにも要領が悪い。周りの皆が全員上手くやっていけているように見えるんだ) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/14(木) 22:49:36.99 ID:t/awvdm70<> 青年(このままで良いのか分からない。ずっと漠然としたもやもやが胸で渦巻いている)
青年「何がとは、はっきり分からないんですけど……苦しいんです」
青年「このままで良いのか、自分の行く末が、全く想像出来ないんです」
青年(僕は、初対面の女性に何を相談しているんだろう)
青年(けれど、この女性には、人にそうさせる穏やかな何かがあった)
女「……随分と辛かったのですね」
女「きっと貴方は、誰にも言えずに今まで苦しみ続けてきたのでしょう」
女「けれど、貴方は「大丈夫」ですよ。きっと上手くいきます」
女「どうか悲しい顔をしないで。心優しい貴方なら、いつかきっと報われます」
女「ただ生きていて下さい。それだけで良いんです」
女「貴方の苦しみが、少しでも和らぎますように」
――ふわっ
青年「……あ」
青年(憑き物が、ふっと消える感覚があった)
青年(しつこく残る冬の寒気が、暖かい春風で一気に吹き飛ばされてしまったように)
青年(よくよく聞けば無責任な励ましだ。けれど)
青年(この人の喉から通ってきた「大丈夫」は、本当にそうなんだろうという、妙な説得力があった)
青年(言葉は不思議だ)
青年(初対面の女性のたった一言二言で、僕の心はすうっと救われたんだ)
青年「……ありがとう、ございます」
青年(僕は“藤”の彼女を、先生と呼ぶ事にした)
青年(これが、先生との出会いだった) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/15(金) 23:53:13.14 ID:4VcBxeVn0<> 青年(どうやら、寝る前に秘密箱のお香を焚くと、藤の世界に行けるらしい)
青年(あの香りは非常に強いリラックス効果があるようだ。目覚めの軽さが違う)
青年(だが、僕はあまりあちらへ行かないようにしていた)
青年(お香には限りがある。きっとすぐに使い切ってしまう)
青年(だから、出来るだけ使わないようにはしている)
青年(先生との関係は、最初から終わりが定められている)
青年(僕たちは、限られた時間の中に居る)
青年(でも、それは誰だってそうだよな)
青年(人との関係なんて、いつ何がきっかけで消えてしまうか分からないんだから) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/15(金) 23:57:39.17 ID:4VcBxeVn0<> 女「お元気そうですね。またお話出来て嬉しいです」
青年「先生もお元気そうで。相変わらずここは穏やかですね」
青年(藤の世界には、僕たち以外の音が一切存在しない)
青年(車のエンジン音も、どうでもいい誰かの話し声も、カラスの鳴き声も)
青年(ただ、たまに優しい風が花を揺らすだけだ)
青年(この世界はあまりにも居心地が良い)
青年(それはきっと、先生の放つ空気によるものなんだろうな)
女「最近、何か良いことはありましたか?」
青年「! 全然です。毎日が退屈ですよ……せめてサークルにでも入ればよかったな」
女「なるほど。では、休みの日はどうやって過ごしているのですか?」
青年「いやあ、特には……散歩はよくしますが」
女「それは良い趣味だと思いますよ。散歩は好きですか?」
青年「はい。日常の色んな景色を見るのが楽しくて」
女「なら、絵を描いてみてはいかがでしょう? きっと向いていると思いますよ」
青年「絵、絵かあ。全くの初心者ですけれど」
青年(誰かに「向いている」なんて言われるのは久しぶりだ。何だか照れくさい)
女「皆、最初は初心者ですよ」
青年「ううん……やってみようかな」
女「良い作品が出来たら、何を描いたのか教えて下さいね」
青年「はい。あまり期待しないで下さいよ」
女「さて、どうでしょう? ふふ」
青年「参ったなあ」
青年(「参った」が僕の口癖だ。いつも参ってしまっている)
青年(けれど、今は口角が自然と上がってしまう)
青年(先生と居ると、何気ない会話でも本当に楽しいんだ)
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 10:38:53.54 ID:gqaXZ68y0<> ♪〜
友「……? 誰か歌ってる?」
青年「そうだね。あ、あそこじゃない?」
友「お、ギター弾いてる」
青年(軽音楽部の人かな)
「おぉ、やってるな」
「あれって確か自作の曲らしいよ。噂で聞いた」
「すごいよねー。私だったら恥ずかしくて出来ないけど」
友「熱心だなあ。歌上手いのって羨ましいわ」
青年「そうだね」
青年(通り過ぎる人に笑われながらも、彼は歌い続ける)
青年(それがあまりにも眩しい。僕には出来やしない事だ)
青年(きっと彼は、心の底から音楽を愛しているのだろう)
青年(あれほどまでに夢中になれる物を、僕は持ち合わせていない)
青年(人に笑われても平気でいれるくらいの、自分の背骨となる物が欲しい)
青年(でもまあ、いつか手に入るよな。人生は長いんだから) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 10:40:39.54 ID:gqaXZ68y0<> 女「猪鹿蝶。私の勝ちです」
青年「あ〜! 駄目だー! 勝てない!」ガリガリ
女「まだまだ駆け引きが甘いですね」
青年(かれこれ五回目の敗北だ。花札って難しいんだな)
女「そろそろ休憩しましょうか」
青年「そうさせて貰います……頭が痛い」
青年(この花札は、先生の力で作られたものだ)
青年(先生が手をかざす。並べられていた花札が、ぱっと藤の花に戻る)
女「最初に比べると、随分上達しましたよ」
青年「本当ですか? いつか先生を抜いてやりますからね」
女「ええ、楽しみにしていますよ」
青年(口ではこう言っているが、この人には一生勝てないだろうな)
女「花札以外にも何か作れたら良いのですけれど」
青年「いえ、お気遣い無く。僕は十分楽しいですよ」
女「お世辞でも、そう言って頂けると嬉しいものです」
青年「本心ですって! そうだ、もう一勝負お願いします!」
女「はい。受けて立ちましょう」
青年(勢いに任せて言ってしまった。せめて一勝はしてやるぞ……!)
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 14:18:36.51 ID:gqaXZ68y0<> 青年「ふぅ、随分と日が沈むのも早くなってきた」
青年(夕飯の買い出し帰りに、この坂道から見える夕日が好きだ)
青年(静かに燃える空は、何だか一日が終わったんだなと感じさせる)
青年(今日の夕飯は炊き込みご飯だ。炊き立て熱々を食べるんだ)
青年(味噌汁よりは豚汁がいいな)
青年「ん」
少年「はっ、はっ」
青年「……」
スッ
青年(トレーニングだろうか。坂道を駆け上っていく少年と、僕はすれ違う)
青年(……何だか、とても情けない、やるせない気持ちになった)
青年(まるで、未来に向かって懸命に進む彼と)
青年(漠然とのんびり下っていく、何も無い自分との交差点のようで)
青年(僕は何をしているんだろう?)
青年(先生から無料の安心を貰って、それだけで満足しているんだ)
青年(「きっと上手くいく」……そう思っているだけで、特に具体的な努力をしていない)
青年(ただ呆けて生きているだけじゃないか)
青年(きっとこのままでは、僕は何も変われない)
青年(結局、何かを得るには、何かをしないと何も生まれないんだ)グッ
青年「ああ、駄目だ――このままじゃ駄目だ!」
青年(そうだ)
青年(僕は変わらなければ)
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 14:20:46.28 ID:gqaXZ68y0<> 青年(空、みかん、歯ブラシ、靴、看板)
青年(手当たり次第に、描き殴るように作品を作り続けた)
青年(それと同時に、身体を鍛え始めた。器具を使わない自重トレーニングだ)
青年(先生との時間は限られているんだ。それは、僕の人生も同じだ)
青年(時間なんて、使わなければ無限に感じるけど、本当は一瞬の間しか無い)
青年(全てが限られた世界の中で、生きていくしかないんだ)
青年(ほんの少しでも成長したい。前に進みたい)
青年(何にも無いような人間だけど)
青年(せめて、先生に誇れる自分でありたい)
青年(僕を救ってくれたあの人に答える為に)
青年(人として、もっと強くなりたいんだ) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 14:21:50.71 ID:gqaXZ68y0<> 女「以前と比べて、何だか力強くなったような気がします」
青年「そうですか? 少し太ったかな」
女「いいえ……必死に努力をされているんですね」
青年「うっ……お見通しですか。参ったなあ」
女「恥ずかしがらないでも良いのですよ? 立派だと思います」
青年「いやあ、まだまだですよ」
女「私も見習わなくてはいけませんね」
青年「! いやいやそんな恐れ多い! 勘弁して下さい!」
女「そこまで必死にならなくてもよろしいのに……」
青年「いやほんとに。そんな人間じゃないですから」
青年(内心ドキドキしている。僕はそんな立派な人間じゃない)
青年「あ! そうだ、この前面白い事がありまして! 超絶腹がよじれる愉快な話が!!」
女「ええ」クス <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 14:23:26.63 ID:gqaXZ68y0<> 青年「肉屋のコロッケって、やたらと旨いよね」
友「分かる。揚げたてって言われるとつい買っちゃうよな」
青年「あ、向こうで腕時計売ってるよ。欲しいって言ってなかったっけ」
友「お、そうなんだよ……は⁉ やっす!」
友「行こうぜ。アホくさ」
青年「ああ、偽物だったのか」
友「多分な。あの時計があんなに安い訳が無い……ったく」
青年「残念だったね。本物だったらラッキーだったのに」
友「ほらよく言うじゃん? うまい話には裏があるってさ。傍から見てりゃ分かるけど」
友「案外自分の内側に入られたら、なかなか自分じゃ気付けねえんだよな」
青年「……!!」
友「? どうした? 顔色悪いぞ」
青年「いや、何でも……」
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/16(土) 14:27:32.11 ID:gqaXZ68y0<> 女「体調が優れないようですね。大丈夫ですか?」
青年「ええ、まあ」
青年(……お香も、残り一本になってしまった)
青年(この気持ちを、どう表現すれば良いのか分からない)
青年(寂しい、焦り、切ない、侘しい)
青年(とにかく、別れが怖いんだ)
青年(けれど、それとは別に……)
青年(その感情は心のどこかに、確かにある。だけど認めるわけにはいかないんだ)
女「……」
女「少し、話をしましょうか」
青年「!」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/17(日) 21:05:39.48 ID:hwnvmPDv0<> 青年(この藤の世界は、正直よく分からない)
青年(先生の事もだ。付喪神のようなもの、とは言われたけれど)
青年(それ以外の情報は、僕は何も知らない)
青年(きっと、無意識の内に聞くのを避けていたんだ)
青年(それは……きっと、恐れていたからだ)
青年(「自分の尊敬する人物像」を勝手に作って、それが壊れるのが嫌だったんだ)
青年(違和感はあったのに、僕は彼女を都合良く利用していた)
青年(何で尊敬する人すら、自己保身の踏み台にしてしまうんだろう)
青年(自己嫌悪で胸が気持ち悪くなる)
青年(……とにかく、今は話を聞こう) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/17(日) 21:07:30.67 ID:hwnvmPDv0<> 女「あの秘密箱は、百年以上前に作られました」
青年「ええ」
女「付喪神は「九十九神」とも呼ばれます」
女「九十九とは、長い時間や様々な種類を象徴します」
青年(何だろう……声のトーンが変わった?)
女「道具は百年経つと化ける、と言う言葉を聞いた事はありますか?」
青年「はい、確か悪さをするように……」ハッ
女「はい。ですが、大事に扱われた道具は人々を救う神になるとも言われています」
青年「ああ。じゃあ――」
女「そして、私は買われた数日後に捨てられました」
青年「……!!」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/17(日) 21:10:07.73 ID:hwnvmPDv0<> 女「正確には物置の肥やしにされていました。使わずに、ずっとずっと」
女「買った事すら、もう忘れられていたんでしょうね」
女「そうして……最後に貴方の元へたどり着きました」
女「この「私」が形成されたのは、つい最近の事です」
女「花が何故甘い香りを放つか知っていますか? 都合の良い虫を呼び寄せる為です」
女「私は大した存在ではありません。人をこの世界に引きずり込む力はありません」
女「なので、渾身の力を使ってあのお香を作りました。虫が無意識にこちらへ来るように」
青年「……そんな」
女「分かりますか? 貴方は私にとって、都合の良い「虫」なのですよ」
女「人間への復讐をする為だけに、貴方が望む言葉をわざとかけ続けていました」
青年「……う……うあぁ……!」ボロ
女「ですが、貴方はあまりにも下らない。大した努力もせずに、頑張っている顔をする」
女「まさか、殺すに値しない人間が居るとは」
女「貴方に費やした時間、全てが無意味なものでした」
女「なので、これで終わりに……しましょう」
青年「――!」ハッ
女「さようなら、塵虫」
ブワッ!
青年(! 藤の花吹雪で……前が……!)
「二度と、来ないで下さいね」
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/17(日) 21:12:43.86 ID:hwnvmPDv0<> 青年「!」ハッ
青年「はっ……はっ……」
青年(今のは……夢じゃない……いつもの世界だった……つまり)
青年(先生にとって僕は、ただの塵虫にすぎなかった)
青年「ああ、ああ」
青年(あまりのショックに震えが止まらない)
青年(上手く、呼吸が、出来ない)
青年(僕は一体、何のために)
青年(僕は)
青年(僕は……!!)ギリ
青年「こんなもの……!!」ガシ
青年「こんな……」ハッ
『良かった。大切にしてあげて下さいね』
青年「……」
青年「……それは、駄目、だよなあ……」スッ
青年(心臓が内側で暴れ狂っている)
青年(後頭部の内側に、鈍い釘が刺さっているような感覚がある)
青年(もう何も考えられない。何も考えたくない)
青年(もう、良いんだ。全部忘れて眠ってしまおう)
青年(全部、全部が無駄だったんだからさ)
青年「……あはは、はは……」
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:48:10.32 ID:Utj58+7H0<> 友「大丈夫かよ、最近連絡取れなかったけど」
青年「ああごめんね。体調壊しててさ」
友「それでも、お前は急に連絡絶つタイプじゃないだろ……」
青年「……」
友「まぁ、人に言い辛い事の一つや二つくらい、誰だってあるよなあ」
青年「ごめんね」
友「……ラーメン食べに行こうぜ。奢るよ」
青年「え、いいの?」
友「おう」ニッ <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:48:49.65 ID:Utj58+7H0<> 青年(……どうすれば良いんだろう)
青年(何もする気が起きないな)
青年(あ、ご飯炊かないと)
青年(……いいや、今は)
青年(最近、絵も筋トレもしてないな)
青年(このまま、崩れたままなのかな。僕は)
青年(親しい人であればあるほど、言葉のナイフはより鋭くなっていく)
青年(心の傷は、いつまでも新鮮なままだ)
青年(しんどいな)
青年(……) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:50:40.94 ID:Utj58+7H0<> 青年(随分と眠っていたようだ)
青年(目が冴えてしまったので、僕はベランダへ向かう)
青年「……寒い」
青年(月が出ている。僕は何もせず、ただ月を見る)
青年(満月の光は落ち着くんだ)
青年(……先生は、今どうしているのかな)
青年(あの時、彼女は……)
青年(……) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:52:57.23 ID:Utj58+7H0<> 【えにしや】
ガチャ
店主「あら、お久しぶりです」
青年「どうも。お聞きしたい事があります」
店主「……あちらの席で話しましょうか」
青年「貴女は、どこまで知ってたんですか?」
店主「あの秘密箱が、人に恨みを持っている事……ですか?」
青年「っ……そこまで分かってるなら、何で!」
店主「縁で決まっているからです」
青年「は!?」
店主「あの秘密箱を救えるのは、貴方しか居ません。だからこそ、貴方に渡しました」
青年「……救うって、僕はもう」
青年(全てを見透かされている。この人と会うと毎回そう思わされる)
青年(この人は、きっと全てが分かっているんだろう)
青年(僕が、どうすべきかも)
店主「何があったのかは知りませんが、答えはもうお持ちのはずですよ?」
青年「……何で分かるんですか」
店主「――縁です」ニコ
青年「そう言うと思いましたよ……」ハァ <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:54:24.40 ID:Utj58+7H0<> 青年(行こう。先生の所へ)
青年(でも、それは今じゃ無いよな)
青年(結局僕は中途半端だった。だからあんな顔をさせてしまった)
青年(会う前に、きちんと自分のやるべき事を済ませよう)
青年(久しぶりに手に取った筆は、以前よりもしっくりくる)
青年(絵のコツを掴む為に、手当たり次第描いてたけど)
青年(描きたいものは初めから決まっていた)
青年(ずっと前から、描きたかったんだ)
青年「さて、何日かかるかな」スッ <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:55:12.51 ID:Utj58+7H0<> 青年「……完成だ」
青年(絵を描く事のみに、全てを向けていた)
青年(ここ数日、ろくに食事をしたかすら覚えていない)
青年(悪くない出来だ。我ながら凄い作品になった)
青年(顔が見えなかったのは、最初は彼女が心の壁を作っていたからかもしれない)
青年(けれど、途中からは、僕自身が彼女を見ようとしていなかったんだ)
青年(でも、ようやく完全に見る事が出来た)
青年(いつだって忘れられない。目を閉じればあの景色が浮かぶ)
青年(……猛烈に腹が減った。カップラーメンでも作るか)
青年「初めてだな。こんなに嬉しいのは」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/18(月) 21:56:00.55 ID:Utj58+7H0<> 青年「よし」
青年(秘密箱から、最後のお香を取り出し、ライターを握る)
青年(これが最後だ。何がどうなっても……)
青年(僕は行くべきなんだろうか)
青年「でも……」
青年(……行くべきだ。行かなければ、きっと一生後悔する)
……ボッ
<>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 21:55:07.26 ID:ExrXq7k70<> 青年「はっ……え?」
青年(おかしい……いつもの一本道が、三つに分かれている!)
青年(中央には、小さな藤の木がある。こんな道は見た事が無いぞ)
青年(まさか、これは)
青年「とにかく……真っ直ぐに行ってみよう」
ざっ ざっ
青年「……!」
青年(また十字路になっている!)
青年(やはり……いや)
青年(まだ決めるには早い。もう一度真っ直ぐだ)
ざっ ざっ
青年「……やっぱり」
青年(いつもなら、そろそろ藤の広場に出るはず)
青年(けれど、景色が変わらない……つまり)
青年「場所自体がもう別物なんだ……!」
青年(まずい、まずいぞ。まるで迷宮だ)
青年(どうすればたどり着ける? そもそも繋がっているのか?) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 21:56:59.44 ID:ExrXq7k70<> 青年「……駄目だ、また十字路……」
青年(だが、藤の枝の生え具合が違う……?)ザッ
青年「あ……今度は、最初の藤の木だ」
青年(間違い無い。戻ってきてしまった)
青年(でも、少し分かったぞ)
青年(おそらく、これは秘密箱と同じなんだ。ただ真っ直ぐじゃ駄目だ)
青年(正しい手順のルートじゃないと、たどり着けないようになっているんだ)
青年「……やっぱり」
青年(そうなんですね。先生)
青年(好き勝手言って消えましたけど、僕にも言いたい事が沢山あるんです)
青年(だから)
青年「待ってて下さい。今行きますから」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 21:57:50.28 ID:ExrXq7k70<> 青年(どれくらい時間が経ったんだろう)
青年(似たような景色が続く。脳が麻痺してくる)
青年(そもそも、僕の考えが正しい保証なんて無い)
青年(不安はいくらでも膨らんでくる)
青年(それでも、僕は正しいルートをしらみつぶしに探し続ける)
青年(何度も何度も間違えては、その度に挑み続ける)
青年(脚はもう上手く動いてくれない)
青年(脇腹の辺りがズキズキ痛む)
青年(よく分からないけど、涙が出てくるんだ)
青年(いつでもこんなの終わりに出来る。さっさと戻って楽になれる)
青年(でも)
青年「負けて、たまるか……負けてたまるか……!」ギリ
青年(それは、諦める理由には不十分すぎる) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 21:59:39.05 ID:ExrXq7k70<> 青年「……抜けた、のか……?」
青年(ようやく、よく知っている一本道が現れる)
青年(もう藤の広場にたどり着ける)
青年(随分と消耗してしまった。疲労困憊の無様な姿だ)
青年(でも、ようやく……会える)
青年(もう少しで……)フラッ
――ヒュオオオォォ!!
青年「!?」
青年(何だこの藤の花嵐はっ……)
「来ないで」
青年「!」
青年「……はぁ」
青年(参ったな。もう一踏ん張りか)
青年(前も見えないほどの凄まじい風だ)
青年(でも先生。知ってますか)
青年(僕、これでも結構怒ってるんですよ)スッ <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 22:02:51.28 ID:ExrXq7k70<> ゴゴゴ……ゴゴッ……!
青年「うっ……!! やばっ……!」
青年(身体が持っていかれる……やばい!)
青年(脇を締めろ。もっと重心を落とせ、身を屈めるんだ)
青年(一歩ずつ、一歩ずつだ)
「来ないで!」
青年「……!」カチン
青年「好き勝手言ってくれますね、ほんとに」
青年「あんたのおかげで僕は救われて」
青年「尊敬してたら、突然傷つけられて」
青年「おかげさまで、随分と苦しんだよ。全部全部あんたのせいだ」
青年「僕の全てを否定されて、ぶちのめされてさ」
「……」
青年「でも……忘れられないんだよ。あんたとの思い出が」
青年「あんたの言葉が、全部嘘だったなんて思えないんだ」
青年「騙すなら、最後まで騙してくれよ」
青年「何で最初に殺さなかったんだよ、何で優しい言葉をかけてくれたんだよ……!」
青年「ずっとあんたと居たけどさ、あんたの顔なんてほとんど見えなかった!」
青年「あんたが何を考えてたか、僕に分からないけど!」
青年「何であの時、泣いてたんだよ!!」
「――!」
パシッ
青年「ようやく会えましたね。先生」
女「……どうして……」
青年「人を恨んでいたのは本当かもしれないけれど」
青年「本当は信じたかったんじゃないですか?」
女「違う、私は……人を……」
青年「なら、今回だって僕が来た瞬間殺せば良いでしょう」
青年「わざわざあんな面倒な道にしなくたって」
青年「本当は見つけて欲しかったんじゃないですか?」
女「……」
青年「座りましょうか。実は立っているのもやっとなんです」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 22:04:39.20 ID:ExrXq7k70<> 女「私は」
青年「はい」
女「人を恨んでいました……それは本当です」
女「でも、貴方がやって来て……ああこの人は、綺麗な目をしているなと感じました」
青年「はは、照れますね」
女「最初はただの興味本位でした。今はまだいい、と」
女「貴方と話しているうちに、自分が分からなくなってしまって……」
女「人への恨みで生まれた自分との、ずれがどんどん広がってしまって」
青年「ええ」
女「苦しくて、今更何を善人ぶっているんだ、って思って……」
青年「はい……ゆっくりで良いですよ」
女「……本当に自分が嫌になって、どうする事も出来なくて」
女「別れが……辛くなってしまったんです。どうしようもなく」
女「人を恨む為に生まれたのに……こんな中途半端な存在になってしまって」
女「だから……私は……もう、謝る事すらおこがましいです」
青年(彼女は大粒の涙を流す。今の僕にはそれが見える)
青年(初めて会った時と、立場が逆になってしまったな)
青年(彼女が悩んでいるのに、不謹慎かもしれないけれど)
青年(彼女が全てをさらけ出してくれた事が、今はとても嬉しい)
青年「先生。初めて出会った時の事を覚えていますか」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 22:06:25.90 ID:ExrXq7k70<> 女「……はい」
青年「僕は本当に不安だったんです。将来の事、自分の事」
青年「具体的に何が、とは分かりませんが……形の無い不安に押しつぶされそうでした」
青年「先生は生きてさえ居ればいいって、僕に言ってくれましたね」
女「……そう、ですね」
青年「僕がただ存在する事を肯定してくれて、どれだけ僕は救われたか」
青年「僕の心が安らぐよう、祈ってくれる人が居るなんて思いませんでした」
青年「だから、先生も自分を悪者にしないで下さい。そもそも、誰も殺してないでしょう」
青年「僕は、先生が生きてさえ居てくれたら、それで幸福なんですよ」ボロ
青年「だから、だから……!」
女「……ごめんなさい!! 私はっ……私は!」バッ
青年「ええ……もう十分ですよ」ギュッ
青年(僕の腕の中で震える彼女は、まるで幼い子供のようで)
青年(思えば、先生に触れるのは初めてだ。随分と小さく感じる)
青年(先生だって僕と同じだよな。心の傷は皆苦しいよな)
青年(僕らはしばらくの間、そのままベンチに座っていた) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/19(火) 22:08:00.60 ID:ExrXq7k70<> 青年「先生。ようやく僕は自信のある絵を描けましたよ」
女「良かったです。どんな絵ですか?」ニコ
青年「この世界です」スッ
女「!」
青年(この美しい世界を、僕は絵に写したかった)
青年(藤の広場では、大きな一本の藤の木。手前にはベンチがあって)
青年(先生が、藤の木に触れている)
青年「先生が勧めてくれた瞬間から、僕はずっとこの世界を描きたかったんです」
青年「ようやく、先生を描く事が出来るようになりました」
青年「この世界が、僕にとって一番綺麗な場所なんです」
女「何だか……照れますね。でも嬉しいです」
青年(穏やかな会話だ。ずっとここに居たいな)
青年(けれど、それは叶わない)
青年(僕には現実の生活がある。友人も居る。戻らないといけない)
青年(そして、戻ってしまえば、もう――)
女「青年くん」
青年「! はい」
青年(な、名前を呼ばれた! そう言えば、今まで呼ばれた事無かったな)
女「お願いがあります。どうか」
女「あの秘密箱を、燃やして欲しいのです」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:49:02.74 ID:8mwWLc8c0<> 青年「ど、どうして」
女「もう、私には何の力も残っていません。あのお香も作れません」
青年「それでも、僕は使い続け……」
女「あの箱自体、もう負の力が染みついています」
女「貴方に誇れる私で居る為に、一度綺麗さっぱり生まれ変わらないといけません」
女「私も貴方を見習って、挑戦してみようと思います」
女「私は、青年くんの絵に乗り移るつもりです」
青年「! そんな事が……」
女「出来ません」
青年「えっ」
女「付喪神は、その道具から離れる事は出来ません」
女「道具には、人の思いと物の思いが込められているからです」
女「ですが……青年くんが私を思って描いた絵なら」
女「ほんの僅かな存在になって、別の場所へ行ってしまったとしても」
女「その思念を辿って、いつか乗り移る事が出来るかもしれません」
青年「……けれど、可能性は低いんですよね?」
女「ええ。広大な森の中から、葉を一枚だけ探し当てるようなものです」
女「ですが、それでもやらなければいけません」
青年(先生の目には、強い力が込められている)
青年(あの目を、どこかで見たような気がする)
青年(……ああそうか、本気で絵を描き出した頃の僕の目だ)
青年(もしくは、あの夕暮れ坂を上っていた、少年の目だ)
青年(不思議だな。ずっと僕は助けられていたのに)
青年(気が付けば、お互いに力を与えあっている)
青年「……分かりました。あの秘密箱は、灰にしてしまいます」
女「はい。よろしくお願いします」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:49:58.09 ID:8mwWLc8c0<> 青年「……」
青年(言葉に出さなくても、お互いが分かっている)
青年(もうそろそろ、戻らないといけない)
青年「……先生」
青年(何て言えば良いんだろう。相応しい言葉が浮かばない)
青年「……“藤”さん」
女「はい」
青年「待ってますから。ずっとずっと」
女「……ええ。きっとたどり着きます」
青年(風が揺れていた)
青年(藤の花弁が舞い踊る中)
青年(透明な涙を流しながらも)
青年(彼女は、確かに笑っていたんだ) <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:50:45.91 ID:8mwWLc8c0<> 青年「本日は晴天なり、か……」
青年(焚き火可能な場所って、案外見つからないもんだな)
青年(直火は禁止らしいので、わざわざ焚き火台を購入した)
青年(随分と早い時間に来たから、周りには誰も居ない)
青年「さて、始めよう」
青年(くるくる絞った新聞紙を、井の字形に積み上げていく)
青年(中央には着火剤を入れ、新聞紙を囲うように薪を立てかけていく)
青年(後は、着火剤に火をつければ)
バチ……バチ……
青年「よしよし。何とか上手くいった」
青年(後は……)
青年「……」スッ
青年(思えば、とんでもない事ばかりだな)
青年(付喪神の世界に行くなんて。人が聞いたらびっくりするだろう)
青年(箱には、まだ花の香りが残っている)
青年(きっと先生は、まだそこに居る)
青年「……さっさと帰ってきて下さいね」
青年(そう冗談めかして、僕は秘密箱を手放す)
青年(強い炎だ。あっという間に秘密箱は炎に覆われる)
青年(どうか、灰になるまで焼き切ってくれ)
青年(苦しみも悲しみも、全部真っ白にしてくれ)
青年(それが、彼女の願いだ)
青年(彼女の苦しみが、少しでも安らぎますように)ギュッ <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:52:34.13 ID:8mwWLc8c0<> 【えにしや】
青年「どうも」
店主「あら、いらっしゃいませ」
青年「すみません。色々あって、あの秘密箱……焼いてしまいました」
青年(うっ、言い方ってものがあった。ただ色々あってで焼くな!)
店主「ええ。ありがとうございます」ニコ
青年「ええ……怒らないんですか?」
店主「勿論です。どうやら無事に救って頂いたようで」
青年「何で分か……いや、やっぱいいです」
店主「――縁です」
青年「だからいいですって! 縁言いたいだけでしょ!」
店主「ふふ……私には、縁を見る力があります」
青年「あ、はい……急に言いますね」
青年(今なら普通に適応出来る自分が怖い。多分それも見透かした上で話してるんだろうな)
店主「縁を持った道具は、同じ縁を持った方に使われるのが一番です」
店主「縁とは繋がりです。縁を持った方は、自然とこちらへやって来ます」
店主「なので、最初からあの秘密箱は、貴方が持つ事になると決まっていました」
店主「……秘密箱を救って頂いて、本当にありがとうございました」ペコリ
店主「きっと、貴方にしか出来ない事でしたから」
青年「いやいやそんな。大げさですよ」
青年「……僕の方こそ。藤……あの秘密箱のおかげで救われました」
店主「きっと、秘密箱も喜んでいるはずですよ」
青年「だと嬉しいですね」ニコ
店主「……そうだ、お礼にまた新しいお茶を淹れさせて下さい!」パン
青年「本当ですか? それは楽しみだ」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:54:27.85 ID:8mwWLc8c0<> 友「最近、何か良い感じじゃん」
青年「え? そうかな」
友「うん……何があったのかは知らねえけど、ふっきれた感じがする」
友「良かったな、青年」
青年「……ありがとう。さ、上がって上がって」
友「おじゃまします」スッ
友「! へえ、すごいなあの飾ってる絵! まさか自分で描いたのか!?」
青年「ああ、そうなんだよ」
友「すげえな! いつの間に描けるようになったんだよ」
友「何だろう……何か、懐かしいような、何て言えば良いんだろう」
友「とにかく、めっちゃ良いよ。感動してる」
青年「そんなに褒めても、お茶しか出てこないよ?」
友「いやいやマジで。藤の花も綺麗だけど……この女性の表情が特に良いな」
友「これ、モデルは誰だ? ハッ……!」
青年「違う違う。そんなんじゃないよ」
友「まあ良いか。さて、鍋の準備を始めようぜ。野菜切るわ」
青年「あ、じゃあお願いしようかな」
友「おう」 <>
◆XkFHc6ejAk<>saga<>2021/01/20(水) 20:56:08.00 ID:8mwWLc8c0<> 青年(あれから一年と少し経った)
青年(僕は相変わらず、絵を描き続けている)
青年「暖かくなってきたなあ。またランニング始めようかな」
青年(厳しい冬の寒さは、もうほとんど消えてしまった)
青年(ああ、また春が来て、季節が移ろってゆくんだなあ)
青年(今年も、色んな事があって、色んな事が去って行くんだろうな)
青年(良い天気だし、洗濯物でも干そうか)
フオッ……
青年(心地良い風だ。まるであの世界のような)
青年「――えっ!?」ガタ
青年(僕は思わず、あの絵の元に駆け寄る)
青年(間違い無い、間違い無い……これは……!!)
青年(この時を、どれほど待っていたんだろう)
青年「はは、はは……思ったよりも早かったですね」
青年「お帰りなさい――‘藤’さん」
青年(藤を描いたあの絵からは、確かに花の香りがしていた) <>
◆XkFHc6ejAk<>sage saga<>2021/01/20(水) 20:57:12.64 ID:8mwWLc8c0<> 終わりです。ありがとうございました。 <>