過去ログ - あなたの物語を。トエル 『氷菓』
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1: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:30:21.64 ID:fiJYedV+0
 湯船に肩まで浸かり、深く息を吐き出す。

一日の疲労の、最後の一滴までもその呼気に混ぜ吐き出してしまうように念入りに。

一日一日がまさしく光陰矢の如く過ぎ去っていく。昨晩も風呂場で同じことを私は考えていた。

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2: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:31:45.70 ID:fiJYedV+0
 バスタブの底に触れていた手をそっと持ち上げる。

水面に大きな輪を描くように、両の人差し指を立て、湯の中から水面ぎりぎりのところで指先を一周させてみた。

左で半円、右で半円、描いたそばから、その線は僅かな波紋を残響のように漂わせ消えていく。
以下略



3: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:33:02.14 ID:fiJYedV+0
 水面を通して見る手は我が子のように小さい。

これは光の屈折のせいであると、昔に父が教えてくれた。

小さな頃の私は何にもまして好奇心が旺盛だったらしく、そのことでよく両親を困らせることもあったそうだ。
以下略



4: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:34:15.29 ID:fiJYedV+0
 たまりかねた父がふりがながふんだんに振られた百科事典を買い与えてくれた日のことをよく憶えている。

私は主にそれを読むというよりは、眺めるために開いていた。

気に入ったページがあればドッグイヤーをこしらえ、仕事から帰宅した父にそのページの内容について
以下略



5: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:35:08.21 ID:fiJYedV+0
 いつからの習慣なのかは記憶にないが、入浴の間、一度は指を確認する作業が日課になっていた。

手を広げ、目の前にかざし、表裏から指を一本一本仔細に検分していく。


6: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:35:57.17 ID:fiJYedV+0
二十代前半の頃に比べれば、全体的に少し節が太くなっているように思えたが、見る人が見れば

そんなことはないと否定するぐらいの微々たる変化ではあるかもしれない。

左の中指の爪先にひびが入っている。右手の薬指に小さな痣ができていた。
以下略



7: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:37:28.88 ID:fiJYedV+0
 蛇口から一粒の水滴が落ちる。どこか添水に通底する趣のある音だった。

私たち日本人はこういった静寂を際立たす音色というのを元来好む傾向にあるらしい。

水滴の音、それを包み込む静寂の気配が、十本の指に夢中になっていた私を現実へ引き戻す。


8: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:38:29.04 ID:fiJYedV+0
そろそろあがらなければならない。長く浸かるつもりはないのに、いつも私は長湯をしてしまうきらいがある。

添い寝して、子供の様子を見てくれている夫にも悪い。あの人だって随分疲れが溜まっているはずなのだから……それに、

寝室の隣部屋に置いてある道具をあの人に見られることには、痴態が露見するような恥ずかしさがある。


9: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:39:40.75 ID:fiJYedV+0
過去に置いてこなければならなかったであろう物事に指先を掛け、未練がましく引きずっている様は

誰かに知られたいものではない。ただ、夫は優しい人だから、そのようなことを思ったりはしないだろう。

私のことを未練がましい人間だと一番思っているのは、たぶん私自身だ。
以下略



10: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:40:32.82 ID:fiJYedV+0
 夫は案の定船を漕いでいた。ここ数日は酷暑の下での作業が続き疲れ果てている様子だったから仕方がない。

「起きて、あなた」



11: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:41:21.27 ID:fiJYedV+0
 肩を揺すると、うめき声をあげながら夫が目覚める。寝ぼけ眼が私と子供の寝顔を捉え、表情が薄い笑みへと変わった。

すまない、知らない間に寝てしまっていた、と断りを口にする夫に私は首を振る。

「いいの、あなたも疲れているでしょうからゆっくり休んでください」
以下略



12: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:42:59.16 ID:fiJYedV+0
 夫が私の頬に口づけし、立ち上がって障子戸を開いた。予報通り、夜空には雨雲が浮かんでいる。

まるで明け方からの雨に備えて、その一片一片の雨雲同士がお互いの策を披露している集会のようだった。

 明日は雨か。夫がそう漏らし、おやすみと私たち二人に呟いて障子戸を閉じる。私は障子戸へ向かっておやすみと独りごちたあと横になり、
以下略



13: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:43:47.63 ID:fiJYedV+0
 隣室へと繋がる障子戸を見遣る。立ち上がれと自らを鼓舞する。

身体を瀰漫していく疲労感に抗うためには、気持ちを奮い立たせる必要がある。私がやりたいことでしょ! 

心の内でそう何度も命令し、立ち上がって、隣室へと歩を進めるが、障子戸の引手に手を掛けるとそこでも逡巡が訪れる。
以下略



14: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:13.18 ID:fiJYedV+0
本当に私にできるのだろうか? 技術や感性、運といった総合的なものを力や才能とするならば、

それを飛翔させる翼になるものはきっと若さだ。私に力は残されているのだろうか。翼は折れていないだろうか。

雑念を振り払うように、勢いで障子戸を開く。真白なキャンバスが木製のイーゼルの上に鎮座している。
以下略



15: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:51.68 ID:fiJYedV+0
 目をつぶり、ゆっくりと数字を十まで数える。余計なことを振り払うための私なりのルーチンだ。

匂いがこもるといけないので、中庭に面した窓を開け、脚にカバーを履かせた椅子に腰掛けた。



16: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:46:41.37 ID:fiJYedV+0
 開け放した窓から夏の香りがこの鼻腔を素通りしていく。

脳裏に浮かんでくるのは、どれもこれもオリジナルとはいえない代物ばかり。

苛立ちから、思わず膝小僧にげんこつをぶつけていた。


17: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:47:41.67 ID:fiJYedV+0
 残り時間はどのくらいなのだろうか? 向き合うたび、焦燥感だけが募っていく。

雲間から現れた三日月、夏の虫の音、緩く吹く風。時間は、私から技術だけを奪い去っているわけではなかった。

あらゆる事物のささめきがいまやじっと耳を澄ましていなければ、容易には聞き取れない。
以下略



18: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:48:58.40 ID:fiJYedV+0
 現実的に見れば、私の最たる望みが叶うことは非常に難しい。

そう理解しているつもりでも、心がその考えを跳ね除ける。

ありえるわけもない、希望の一握りをこの手にすることができるならば……けれど、そのためには
以下略



19: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:49:53.10 ID:fiJYedV+0
 叫び出したい気分になる。何の恥じらいもなく、思う存分夜闇に向けて声が枯れてしまうまで叫びたかった。

責任やしがらみを投げ捨て、全力で走りだしたかった。その間だけでも、きっと色々なことを忘れることができるだろうから。



20: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 19:23:29.48 ID:fiJYedV+0
 あの子の泣き声……私を呼んでいる。なるべく物音を立てないように、あの子の傍に歩み寄り、

その小さな身体をそっと抱きしめた。子どもらしい、あの柔らかな匂いが私の鼻先をくすぐる。

お気に入りのうさぎのぬいぐるみが所在なげに仰臥し、
以下略



21: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 19:24:08.72 ID:fiJYedV+0
暫く彼女をあやし、その暖かな頬に軽く口づけし、もう一度、時間をかけて布団へ寝かしつけた

あとにそれらを拾い上げた。失くしてしまったら大変だ。

彼女の宝物入れである網代編みの籐の箱を開け、その二つをしまい込む。
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