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ドラコニス 〜優しさ欠乏症〜 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

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1 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:22:41.52 ID:kIoz6FWJ0
書き溜めてある創作小説を、ちびちびと投稿させていただこうと思います
休みが不定期なので、不定期更新になるかもしれませんがご了承ください

また、文章がおかしい場所などが多々あるかも分かりませんが、その時のテンションで書いていますので、読み直していない箇所もあります
見なかったことにしていただけると幸いです

SSではないかもしれませんが、お時間のある方、暇つぶしにご利用ください
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佐久間まゆ「犬系彼女を目指しますよぉ」 @ 2024/04/24(水) 22:44:08.58 ID:gulbWFtS0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713966248/

全レスする(´;ω;`)part56 ばばあ化気味 @ 2024/04/24(水) 20:10:08.44 ID:eOA82Cc3o
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1713957007/

君が望む永遠〜Latest Edition〜 @ 2024/04/24(水) 00:17:25.03 ID:IOyaeVgN0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1713885444/

笑えるな 君のせいだ @ 2024/04/23(火) 19:59:42.67 ID:pUs63Qd+0
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【GANTZ】俺「安価で星人達と戦う」part10 @ 2024/04/23(火) 17:32:44.44 ID:ScfdjHEC0
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トーチャーさん「超A級スナイパーが魔王様を狙ってる?」〈ゴルゴ13inひめごう〉 @ 2024/04/23(火) 00:13:09.65 ID:NAWvVgn00
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【安価】貴方は女子小学生に転生するようです @ 2024/04/22(月) 21:13:39.04 ID:ghfRO9bho
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ハルヒ「綱島アンカー」梓「2号線」【コンマ判定新鉄・関東】 @ 2024/04/22(月) 06:56:06.00 ID:hV886QI5O
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713736565/

2 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2011/07/05(火) 02:23:00.81 ID:hkdtXfjUo













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3 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:23:31.40 ID:kIoz6FWJ0
 その夜、彼女は風を裂く音と共に、満天の月に照らされた、天を覆うほどの翼をその目にした。屋根裏部屋から、ぼんやりとその光景を見ていた。

最初は薄暗い空に浮かんだ、雲の群れかとも思った。しかし、見上げたそれは、翼のように見えた。雑然とした部屋で時たま見かける、コウモリの翼そっくりだった。何十メートルあるのだろうか。それがゆっくりとはためきながら、山の奥に向かって段々と高度を下げている。
4 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:24:15.25 ID:kIoz6FWJ0
空には薄く雪がちらついていた。暖房もない屋根裏は凍えるように寒く、彼女、ナキは擦り切れた毛布に包まりながら、両手をすり合わせて空を見ていた。

段々と、そのはためくコウモリの翼は落ちていき、そして山の向こう側に消えた。少しして、離れた場所から鳥の一団が飛び立つのが見えた。

ナキは白い息を吐き出しながら毛布を手繰り寄せ、そして眼を閉じた。体が軽く震えている。この寒さで、体をやられているらしかった。剥き出しの小さな足を毛布の奥に入れ、しもやけが出来ないようにと、手で軽く揉み始める。
5 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:25:08.54 ID:kIoz6FWJ0
 壁にかけられたくたびれた時計が、カチリと夜中の十二時を指した。ゴミ捨て場から拾ってきたものだ。その無機質なコチ、コチという音を聞きながら、ナキは自分の両肩を抱いて小さくなった。

夢でも見たのだろうと思った。あまりの寒さと、疲れで白昼夢を見てしまったんだ。そう思った。

だって、今日は私の誕生日。

それなのに私はここで一人。

たとえ今見たものが、悪魔だったとしても、私の誕生日が終わったということは変わらない。だったら、どうでもいいかもしれない。

一つため息をついて、眼を閉じる。

部屋の隅で丸くなりながら、今日も彼女は、凍えないようにと震えながら、細く息をついた。
6 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:25:43.83 ID:kIoz6FWJ0
1 アルノー
7 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:26:22.04 ID:kIoz6FWJ0
 誕生日の朝だろうと、いつもと変わらない怒号で、少女は目を覚ました。

「いつまで寝てるんだい! とっとと起きて水を汲んでくるんだよ! 」

しばらくぼんやりとしてから、目を擦って毛布から抜け出す。薄暗い屋根裏部屋の窓からは、うっすらと朝日が覗いていた。体が凍えるように寒い。その反面、立つと少しふらついた。頭が熱い。熱があるらしい。

しかしそんなことを説明しても、どうせ鞭が飛んでくるだけだろうと思い、ナキは震えながら、汚れたポンチョを頭から被り、裸足のまま階段を降りた。
8 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:27:05.50 ID:kIoz6FWJ0
今日、十二歳の誕生日を迎えた。その割には痩せていて、小柄だ。ボサボサのショートの金髪を撫でつけながら、ナキはそっと柱の影から顔を出した。

木造りの家の中では、太った恰幅のいい女性が暖炉に火をつけようとしているところだった。裸足のナキとは違い、毛皮のブーツやコートを身につけている。女性の耳はツンととがっていて、涙のような形をしていた。人間ではない、森の妖精と言われる、シルフという種族だ。

ナキには、反面目に付くような特徴が何もなかった。ただ肌の色が妙に白い。具合が悪いのが顔に出ていて、目には少しくまが浮いていた。

女性……バーノンおばさんは、震えているナキを一瞥すると、耳に障るがみがみ声を上げた。
9 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:27:41.86 ID:kIoz6FWJ0
「何をしてるんだい! お父さん達が起きてくる前に、とっとと井戸から水を持ってきな! あと早く食事の支度をするんだよ! 」

「はい……」

素直に頷いて、軽くふらつきながら脇の桶を持ち上げる。口答えをしてぶたれるよりはましだ。ドアを開けて外に出ると、夜の間に降ったのか、一面銀色の様子になっていた。森の中には、シルフの、特徴がある茅葺家が点々と建っている。ここは群落の中でも隅の方なので、この朝早くに外に出ている人は見かけなかった。

少し躊躇してから、足を踏み出す。雪の凍える寒さが、小さな足の裏から脳天に染み渡る。少し体を震わせてから、ナキは思い切って、雪にくるぶしまで埋まらせながら歩き出した。

途中で小さくくしゃみをして、何とか家の裏の井戸にたどり着く。手を擦り、そして桶を縄に結び付けて下に放る。表面が凍り付いていたらしく、鈍い音を立てて氷が割れる感触がした。
10 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:28:38.42 ID:kIoz6FWJ0
小さな手で一生懸命綱を引き、水を上まで持ち上げる。そして両手で掴んで、家の裏にある水道の貯水槽に流し込む。それを何度か繰り返していると、家の中からバタバタという足音が聞こえてきた。次いで、おばさんそっくりのがみがみした耳障りな声が耳に入る。

「ナキはどこ?」

「今外で水を汲ませてるよ」

「まったく、本当愚図ね! まだご飯できてないの? 今何時だと思ってるのかしら。母さん、奴隷の換え時じゃないの?」

「うるさいね! あんなガキでもちゃんと金を払って買ったんだ。モノは大事に使いな! 」

肩をちぢこませながら、何度目かの水を運び、そこでナキは、勢いよくドアが開かれ、ビクッとして立ち止まった。
11 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:29:20.77 ID:kIoz6FWJ0
おばさんそっくりの、恰幅がいいシルフの娘が、まるで汚いものを見るかのような目でナキを見ていた。この家の娘である、リフだった。最近二十の成人を迎えたのに、まだ結婚相手が決まらないので、彼女はその鬱憤をナキに当り散らすようになっていた。シルフは大概成人前に結婚する。遅れてしまっているという苛立ちが、最近全部向けられているので、自然と体が萎縮してしまう。

案の定、リフは桶を持っているナキに鼻息荒く、大声を出して命令をした。

「サボってんじゃないよ! 早く山羊の乳を搾ってきなさい!」

「はい……ごめんなさい」

ぶたれると思って反射的に謝ってから、ナキは桶を脇に置いて、そそくさと家畜場の方に足を向けた。膝から下が冷え切ってしまい、痛い。せめて両手に息を吹きかけると、潰れた血豆がしくじくと痛んだ。

ため息をついて、彼女は空を見上げた。まだ分厚く雲がかかっている。今日はまた、雪が降るかもしれない。
12 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:29:59.65 ID:kIoz6FWJ0
いつもと変わらない山並みだった。昨日と違うのは、木に白い雪が積もっていることだ。いつもリフが食べている、生クリームがたっぷり乗ったパンのようだ。そう考えるとお腹が小さく鳴った。

俯いてまた歩き出す。

それが、ナキの日常だった。山羊の乳を搾った後は、食事を作る。自分の食事は、後に残った残飯だ。それから後は、掃除や繕い物、洗濯。全部終わったら、くたくたのまま眠ってしまって、そして次の日になる。その繰り返し。

こんな生活が始まって、何度目の誕生日なのだろうか。熱に浮いた頭では、考えようとしても霧のように散ってしまい、まとまらない。

また小さくくしゃみをして、彼女は背中を丸めて足を踏み出した。
13 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:30:45.68 ID:kIoz6FWJ0
ふらつく頭で何とか食事の準備をして、ナキはパンとスープを平らげているシルフの家族から目を離した。バーノンの夫である、やはり恰幅のいいモダンが、スープを口に運びながら口を開く。

「それで、舞踏会に行く衣装は出来上がったのか?」

問いかけられて、リフが口の周りをクリームだらけにしながら頷いた。

「ええ。今日出来上がる予定。後でナキにとりに行かせるわ」

「貴族も沢山来るんでしょう? リフちゃん、今度こそしっかりと取り入ってくるのよ」

バーノンおばさんがそう言うと、大きくおじさんも頷いた。

「ああ。こんなチャンスは滅多にないぞ。今回の舞踏会では、あのアルノーも来るらしい」

「アルノー? ドラゴンの?」

リフが咳き込んで聞くと、おばさんが頷いて、砂糖壷に入っているクリームを手ですくい、パンに塗った。

「まだ噂だけど、ドラゴンなんて貴族中の貴族よ。お目に止まることが出来れば、信じられない玉の輿だわ」
14 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:31:32.03 ID:kIoz6FWJ0
ドラゴンというものをナキは見たことがなかったが、少なくともリフのような娘が、貴族の目に留まることが出来るとは思えなかった。貴族は、大きなお城に住んでいて、綺麗な服を着ていて、とても優美だというイメージがナキにはあった。一度街の外れを行進している貴族の移動列を目にしたことがあったのだ。

きらびやかな宝石で装飾された、沢山の白馬に引かれ、黒塗りの馬車が走っていたのだった。その周りには、茶色の毛並みがいい馬に乗った、帝国軍人の制服を着た男の人たちが警護に当たっていた。

馬車のカーテンは開いていて、中に座っていた女の人がチラリと見えたのだった。流れるような白い髪に、透き通るような青い目をしている人だった。まるで人形のようだったという記憶がある。

ああいう人を貴族っていうんだろうな、とその時は思ったものだ。間違っても、汚らしいポンチョを着て、裸足でこき使われている自分なんて、手の届かない存在なんだろうなとも感じたものだった。

目の前で、食べかすを散らかしながら大声で喋っているシルフの娘を見て、頭の中の、人形のような貴族の女性と照らし合わせる。リフが馬車に乗っている姿は、想像ができなかった。

ぼんやりとした脳裏でそんなことを思っていると、バーノンおばさんが、横目でこちらを睨んできた。
15 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:32:24.35 ID:kIoz6FWJ0
「何突っ立ってるんだい。食器を片付けて洗ってきな。それから、薪が足りなくなったから、山から切り出してくるんだよ」

「え……でも、雪が……」

雪が積もっていて、山の中に入るのは躊躇われた。それに、湿っていて、地面に落ちている木片は薪には使えない。必然的に、乾いている木を狙って切り出してくるという重労働になる。

「私、今日具合が……」

最期まで言えなかった。リフが

「口答えするんじゃないよ! 」

と怒鳴って、手にしていたコップをナキに投げつけたのだった。中のぬるくなったスープが頭からかかり、目の前にコップが落ちる。分厚い陶器だったゆえに割れはしなかったが、突然の暴力に縮こまり、ナキは消え入りそうな声で

「ごめんなさい……」

と謝った。その様子をせせら笑って見ながら、リフは吐き捨てるように言った。
16 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:33:23.40 ID:kIoz6FWJ0
「午前中のうちに、ムカデの店に行って、私のドレスを持ってきなさい。薪はその後でいいわ」

「はい……お嬢様……」

泣きそうになりながら、コップを拾って流し台の方に歩いていく。そこで、ナキはたまらず小さく咳をした。その様子を見て、モダンおじさんが太った脂肪の奥で細い目を剥いて、意地悪く口を開いた。

「何だ、具合が悪いふりか? 大層な身分になったものだな」

「奴隷はみんなそうよ。私知ってるもの。奴らは自分の身分を理解しないで、権利ばっかり主張するの。たいした生産性もないくせに、いい気な奴らなのよ」

「違いないわ。ナキ! 病気のふりで同情引こうったってそうはいかないよ。ただでさえ舞踏会の準備で忙しいんだから、サボってる暇なんてないんだよ! 」

謝ろうとしたナキの腹に、そこでバーノンおばさんが投げつけた空のカップがめり込んだ。小さく悲鳴をあげ、その場に尻餅をつく。その様子が面白かったのか、リフが甲高い笑い声を上げた。

本当に痛かったので、お腹を押さえながらその場にうずくまったナキを、冷たい目で一瞥し、バーノンおばさんは

「ぐずぐずしないで片付けな! 」

と吐き捨てた。目の奥に熱い涙が湧き上がってきたのを何とか抑えて、頷き、カップを持って立ち上がる。ここで泣いてしまったら、それをだしにまた、どれだけ虐められるか分かったものではない。
17 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:33:53.18 ID:kIoz6FWJ0
山に入らなきゃいけない……。心が暗くなった。誰が手伝ってくれるわけでもない。しかし重い木片を引きずって、村まで帰らなければならない。それに、斧を振り回すのもかなりの重労働だ。

想像してしまい、体にまた湧き上がった寒気を何とか抑え、ナキは大きな桶に溜めていた、食器洗い用の水にカップを入れた。
18 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:34:32.77 ID:kIoz6FWJ0
 朝食が終われば、おじさんとおばさんは仕事に出かける。リフも学校に出ていく。しかし残されたとしても、ナキは気を抜くわけにいかなかった。洗濯などを終わらせなければ、手痛くお仕置きをされてしまうのだ。とりあえず、雪の道を踏みしめて、村はずれの裁縫屋さんに行き、舞踏会のドレスが入った箱を受け取る。

店を出た頃は、もう太陽は昇りきり、薄い雲の間越しに白い光を発していた。

舞踏会というのは、年に何回か行われる、この土地の領主の屋敷が開催するパーティーのことだ。土地に暮らす人々を労うために企画されているものだが、当然ナキのような奴隷の身分は出席することも、近づくことさえ許されていない。

 どんなところなんだろうな、と外の寒さに震えながら思う。しかし中で、綺麗な装飾に囲まれて踊っている自分を想像することが出来ず、ナキは妄想を頭から振り出した。

家の鍵を開けて、リフのドレスをテーブルの上に置く。少し興味が湧いて、蓋をちょっとだけ開けて中を覗いてみる。白い絹で織られた、羽のようなドレスが入っていた。思わず手を伸ばして触ろうとしてから、ナキは慌てて手を押し留めた。指先が潰れた血豆の黒い痕で汚れている。汚してしまったら、後でどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。
19 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:35:25.76 ID:kIoz6FWJ0
蓋を閉めて、彼女は一度屋根裏部屋に戻った。そして、もうだいぶボロボロになってしまった、リフのお古の靴下を足に履く。

かじかんで、この短い間にしもやけになり、膨らんでしまっていた。

また一つため息をついて、床に放り出してあった小さな手斧を掴み、縄を肩にかけてから家の外に出る。鍵をかけて、しっかりとポケットにしまってから、彼女はトボトボと山に向かって歩き出した。

シルフの村には、あまり奴隷はいない。山奥なので、あまり商人が来ないからだ。同じような身分の子と話でも出来たら、随分と気が晴れるのかもしれないが、ナキと同年代の奴隷など近くにはいなかった。

道ゆくシルフの人たちに、汚いものでも見るように一瞥される。その視線から逃れるように、ポンチョのフードを頭に被り、背中を丸めながら歩く。

足が寒い。しかし、この村の中では、誰一人として、靴下だけで雪の中を歩いているナキに声をかけるシルフはいなかった。森の妖精というのは、かなり閉鎖的な種族だ。自分達以外は劣等な生き物だと考える節がある。だから、ふらついて歩いているナキのことを汚らしいとは思えど、かわいそうだと思うことはなかった。
20 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:36:07.28 ID:kIoz6FWJ0
しばらくして村の外れに出て、ナキは雪を踏みしめながら、なるべく歩調のリズムが整うように歩き出した。一面銀世界に変わっている山の中には、少し前とは異なって生き物の気配がなかった。時折空に鳥が飛び立つ程度だ。降り積もった雪が、しん……と周りの音を吸い込んでしまっているかのようだった。

そこで、ふと昨日の夜に見たコウモリのような羽を思い出す。月の光を浴びて、白く光っていた。森の中、位置だと少し離れた湖に落ちていったような気がする。木を切り出して、そこを少し見てみたとしても、ばれなければ怒られないだろう。

何かあったら面白いかもしれない。ちょっとした、自分の誕生日へのプレゼントに、少しだけ足を伸ばしてみよう、と思う。どうせ木を切り出していたら、湖の方には出ると思われた。そう考えるとちょっぴり気が楽になる。

そしてナキは、手斧を手に持ち直し、森に足を踏み入れた。

少し進んでいくと、靴下に雪が染み込んで、体中に寒さが染みこんでくる。紫色になった唇を噛んで、ナキは、だいぶ歩いてから、視界が少しぶれて足を止めた。山道を少し登ってきたが、これはまずいと、頭のどこかで思う。入る前は、すぐ木を集めて帰ればいいと思っていたが、思った以上に雪に体力を奪われてしまっていた。しもやけの手足がじんじんと痛む。次いで、目の奥がつつかれているように痛み、ナキはそこで足を踏み外し、膝をついた。
21 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:36:47.02 ID:kIoz6FWJ0
次の瞬間、彼女の体が、雪で滑って下に落ち込んだ。丁度、草に覆われた急勾配になっている坂に足をとられてしまったらしい。崖から落ち込むように、ナキはそのまま、十数メートル下の道へと滑り落ちてしまった。

緩やかになってきたところで、したたかに木に頭をぶつけてしまい、一瞬目の前が真っ赤になる。そのまま、熱もあったこともあいまって、彼女は倒れこんだまま、どこかに引きずり込まれるような感覚と共に、ゆっくりと視界が暗くなっていくのを感じた。
22 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:37:13.73 ID:kIoz6FWJ0
どのくらい気を失っていたのかは分からなかった。頬に冷たい感触がして、ナキは腫れぼったい目を開けた。体中が冷え切っていて、だるかった。何とか立ち上がろうとして目の前がぐらりと揺れる。具合が悪かったところ、体を思い切り冷やしてしまったのが、致命傷だったらしかった。鼻をすすってから、ぶつけてしまった頭を押さえる。こぶができているようだ。まだ少し痛む。
23 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:37:53.74 ID:kIoz6FWJ0
涙目になりながら、滑り落ちてしまった道を見上げる。藪の中に落ちてしまったわけではなく、湖へ向かう道に丁度滑り降りたようだった。本当なら随分と遠回りしなければいけないのだが、かなり大雑把な方法で来たことになる。

木の向こうには、湖がある。そこで水を少し飲もうと、ナキは思った。喉がカラカラだ。朝には残り物のスープとパンくずしか食べていない。

近くの木につかまり、何とか立ち上がって、よろめきながら顔を上げた。そこで彼女は、ポカンと口を開けて停止した。

湖に、何か大きな黒いものが浮かんでいた。上半分に雪が積もっている。端が見えないほどの大きさの湖、その反対側に、何か浅黒い小山のようなものが浮かんでいた。目で追っていくと、先端が岸に乗り上げるような形になっている。

何だろう……と少し迷ってから、彼女は手斧を腰の帯に差し、木に捕まりながらそれに近づいた。時折揺れる視界に、何か鱗のようなものが見える。時たま森を歩いていると出てくる、蛇のものに似ていた。大きさは、全体で十メートルは超えるだろうか。口を開けながら、岸に打ち上がった部分に歩み寄る。

半分ほど雪に埋もれていたが、そこには、トカゲの頭を何十倍にも大きくしたような、異様なモノが鎮座していた。頭には燃えるような真っ赤なトサカがある。口元からは真っ白い牙が飛び出していた。トカゲの頭のように見えるのだが、大きさはナキ一人分くらいある。牙なんて彼女の腕くらいの長さはあった。
24 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:38:50.05 ID:kIoz6FWJ0
「何これ……」

思わず呟いてしまい、呆然として口元に手をやる。トカゲ頭からは長い首が伸びていて、膨らんだ胴体に繋がっている。魚のように背びれがあり、その先には、爪が光る、身体の割には小さな手足と……コウモリのような、力を失い萎れた翼があった。羽は一対だったが物凄く大きく、肌色の飛膜がぷかぷかと湖に浮いている。

尻尾もあるようだが、水に沈んでいて見えなかった。

ナキには、目の前にある大きなモノがなんだか、よく分からなかった。時折大きな鼻の穴から、生温い風が出ている。生きているらしい。

その口に当たる、裂けたところには、まるで口輪のように、金属の枷が取り付けられていた。口が開かないようにぐるぐる巻きにされていて、端が南京錠で留めてある。別の端は、分厚い皮に杭が打たれ、突き刺さっていた。

少しして、ナキは手斧でつんつん、とその鼻先をつついた。何かしら反応がないかと思ったのだ。

不思議なことに、彼女はその大きなモノを目の前にしても恐怖を感じなかった。いや、既に熱で何かが麻痺していたせいなのだろうか。ぶれた視界で巨大トカゲを見てはいたが、危険なものだとは思えなかったのだ。それよりも、彼女はもし、これが生きているのだとしたら……口に杭を刺されて、そして鎖でぐるぐる巻きにされ、痛いだろうな、と思ったのだった。鉄杭が埋没している皮膚からは、青い血のような液体が流れ出ている。

反応がないので、もう一度、つんつんと鼻をつついてみる。かなり分厚い、弾力がある皮の感触がした。

やはり反応がないので、手斧を下ろす。そこで後ろに下がろうとして足がもつれ、彼女は湖の岸に尻餅をついてしまった。

そこでナキは、トカゲ頭の少し上の部分……丁度目に当たる箇所が開き、両手で抱えても持てないほどの大きさの、眼球……真っ赤な、猫のような瞳孔がこちらを見ているのを目にし、だらしなく口を開けたまま、その場に停止した。
25 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:39:43.51 ID:kIoz6FWJ0
巨大トカゲは、目玉をぐるりと回して、そして目の前で尻餅をついてポカンとしている、小さな人をじっと見つめた。次いで、その喉から、ぐるるるる……という、猛獣の鳴き声そっくりな音が飛び出した。

まだ停止している少女をしばらく見つめ、そして、その大きなモノは、鎖で縛られている口を少しだけ開いた。ひゅぅ、ひゅぅ、という空気の鳴る音がして、数秒後、かすれた、妙に反響する男性の声がそこから飛び出した。

「……ここで何をしている、愚民」

上手く喋れないのか、声がくぐもっている。それ以前に巨大トカゲが口を利いたことで、ナキは今更ながら、動転していた。まさか喋るとは思わなかったのだ。呆然とこちらを見上げている少女の答えを待っていたが、彼女が言葉を発しないのに業を煮やしたのか、それはまたくぐもった声を発した。

「帝国の者か……? 脆弱な民……無様な俺を引き渡すつもりか……?」

見た目は恐ろしかったが、口調や喋り方はまだ若い青年のものだった。

ナキは唾を飲み込み、そして巨大トカゲに向けて口を開いた。

「あなた……何?」

「何……とはどういうことだ……?」

「怪我してるの……?」

問いにどう答えたらいいか分からなかったので、寒さで震えながら、彼女は聞いた。巨大トカゲは、その質問が意外だったらしく、少しの間目をぱちくりさせた。
26 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:40:45.72 ID:kIoz6FWJ0
「……貴様、俺が恐ろしくはないのか……?」

「別に、怖くないよ」

熱で頬を真っ赤にしながら、ナキはそう言った。

「家のおじさんとおばさん達の方が、怖いよ」

「…………」

「痛そうだよ。外してあげる?」

呼びかけられて、巨大トカゲは、自分の口元に突き刺さっている杭に目をやった。そして不思議そうに問いかける。

「何故だ?」

「私だって、顔に何か刺さったら痛いよ」

「…………」

「自分で抜けないの?」

「ああ。魔法がかかっていて、俺が自分の手では解呪が出来ないようになっている……」

「かいじゅ?」

「何故俺を怖がらない? これを解呪したら、俺は貴様のような小人など、一呑みだぞ」

言われた意味が良く分からず、ナキは少し迷った後、ふらつきながら立ち上がった。そして巨大トカゲの方に近づく。

「私で抜けるかどうか分からないけど……」

「貴様死にたいのか? 何故俺を助けようとする?」

「刺さってると痛いよ」

「…………」

疑いの目で沈黙した彼の鼻先によじ登り、ナキは、口元に突き刺さっている杭に手を当てた。氷のように冷えていて、慌てて手を離す。そして手に息を吹きかけ、ポンチョの端と一緒にそれを握りこんだ。
27 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:41:43.89 ID:kIoz6FWJ0
杭の先端には、宝石のような石が嵌めこまれていた。緑色で、丸い。綺麗な石だなぁと思いながら、ナキは手に力を込めた。

杭は、そんなに深くは刺さっていなかったらしく、ぐらぐらと揺れた。返しもついていないようで、足を踏ん張ると、少しずつ抜けていく。痛いらしく、巨大トカゲは歯をカチカチと鳴らしながら目を見開いた。

少しの間力を込めると、意外なほど簡単に、杭はスポンと抜けた。反動で鼻先にお尻を打ちつけ、ナキは手に杭を持ったまま、数秒間その場にうずくまった。

抜けた解放感と、動かなくなった少女の様子に目を白黒とさせ、少ししてから彼は、くぐもった声を発した。

「だ……大丈夫か?」

「うん……ごめんね、今全部外すからね」

 腫れぼったい目を細めて笑いかけ、ナキは見た目よりも重い鎖を引きずって、そして口から解いていった。最期に牙に穴が空き、南京錠が通されているのを見る。

「鍵がないからあかないよ」

「ここまでやってもらえれば、後は簡単だ」

巨大トカゲはそう言うと、爬虫類の手で鎖を掴み、横に引っ張った。バキンと硬い音がして、南京錠が壊れて飛び散る。それを脇に投げ捨て、彼は杭を珍しそうに見ているナキに視線を落とした。

「何者だ貴様……帝国の者ではないな?」

「ていこく?」
28 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:42:47.14 ID:kIoz6FWJ0
「名を名乗れ」

尊大に命令され、ナキは、彼の鼻先に尻餅をついたまま言った。

「ナキだよ」

「姓は何と言う? 主は誰だ? どの命令を受けて、私を追ってここまで来た?」

「追われてるの? あなたは誰?」

問いを無視して純真に聞かれ、調子を狂わされたのか、巨大トカゲは口をつぐんだ。そして息をついてから言う。

「俺はラッシュだ。脆弱な民は、俺のことを、北のアルノーと呼ぶ」

 「アルノー? それって、何?」

「ドラゴンだ」

その問いを聞いて、ラッシュと名乗った巨大トカゲは、呆れたように端的に返した。

ドラゴンと言えば、貴族の中の貴族。王侯族とも言える、まるで雲の上のような存在だ。

え? ドラゴン?

……ドラゴンって、あのドラゴン?
29 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:43:16.17 ID:kIoz6FWJ0
そこで始めて、ナキは唖然と言葉を失って、自分が座り込んでいる巨大なモノを見つめた。

熱でぼんやりとしていた視界に、不意にはっきりと、目の前の巨大な猛獣の目が映る。

ドラゴンを見るのは初めてだったが、奴隷である自分が、話しかけていいような存在ではないことは、すぐに理解が出来た。道端の捨て犬が神様に声をかけるようなものだ。奴隷は、貴族の通り道をふさいだだけで銃殺されてしまうことだってある。それなのに自分は、こともあろうに、その頭に乗ってしまっているのだ。

昨日の夜に見た翼は、夢でも妄想でもなかったのだ。このドラゴンさんが、墜落したところだったんだ。

十二歳の誕生日、その熱に浮かされた日中に、ナキは自分が今、いかに危機的状況に入るのかをやっと理解し、乾いた喉に、少ない唾を飲み込んだ。
30 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 02:45:19.78 ID:kIoz6FWJ0
第2話に続きます。

すみません、一旦寝ます。

また明日再開します。

皆様もいい夢をm(_ _)m
31 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2011/07/05(火) 17:10:19.31 ID:yT0bmHuYo
ドラニコフに空目した
32 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(香川県) :2011/07/05(火) 17:11:47.48 ID:OfLEZ7oD0
面白そうな匂いがぷんぷんするぜ
つかドラゴンの眼でけえな
33 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:01:09.92 ID:kIoz6FWJ0
戻ってまいりました。続きを投下させていただきます
34 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:01:42.76 ID:kIoz6FWJ0
2 乱暴な王子
35 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:02:15.52 ID:kIoz6FWJ0
 先ほどまでの調子とは打って変わって呆然として、停止しているナキを見て、ラッシュは生暖かい息を吐いた。そして、少し考えてから口を開く。

「お前は……何だ? そしてここはどこだ?」

「…………」

どう反応したらいいか分からなかった。とりあえず、彼の口から降りようとして慌てて腰を浮かせる。その調子に視界がぐらりと揺れ、ナキは鼻皮から足を滑らせた。小さく悲鳴を上げて転がった彼女が地面にぶつかる寸前に、ラッシュは爬虫類の手を伸ばして、その体をキャッチした。そしてぬかるんだ地面にそっと下ろす。

「す……すみません。王族様とは分からなくて……」
36 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:03:04.06 ID:kIoz6FWJ0
口ごもりながら、ナキは慌てて地面に膝を突いて頭を下げた。彼女達奴隷が、貴族に面したときにはこうしなければいけない。いきなり膝まづいた少女を、ドラゴンはガラス球のような目で見ていたが、やがて息をついて言った。

「面を上げろ。貴様のような小さいモノを、別に取って食うつもりはない。ここには俺とお前しかいないのだろう? ならば、咎めるつもりはない」

彼としてみれば精一杯優しく言ったつもりだったようだが、ナキは唾を飲み込んで、さらに深く頭を下げた。

「ごめんなさい……」

「……何故謝る。いいから面を上げろ」

「…………」

「顔を上げろと言っている」

尊大に命令され、ナキは少し下がりながら上半身を起こした。自分を見る目に、先ほどとは違って恐怖がこめられているのを見て、ラッシュは少し口をつぐんだ。

「貴様は何だ? ここはどこだ?」

また問いかけられ、ナキは少し考えてから、小さな声でそれに答えた。

「ここは、フェルンクロストの、シルフの森です……私はナキです」

「それは先ほど聞いた。貴様もシルフか?」

「私は……ただの私です……」
37 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:04:19.57 ID:kIoz6FWJ0
肩をすぼめながら、自信なくそう言った彼女を、馬鹿にされていると思ったらしく、しばらくラッシュは見下ろしていた。そして、小さくなった少女の、剥き出しの肩に、みみず腫れのような痕が沢山ついているのを見る。鞭で打たれた痕だ。

「なるほど、俺は奴隷に助けられた訳か」

そう言って、ラッシュは薄いボロをまとっているナキの様子に、納得がいったように頷いた。

「しかしフェルンクロストの森まで来てしまったのか……随分と逃げてきた」

呟いて、巨体を起こそうとする。しかし体が動かないらしく、彼は何度か体を波打たせたが、湖の表面に波が起こっただけだった。数秒して深く息を吐き、そして彼は忌々しそうに言った。

「体が動かん……」

「大丈夫……?」

おどおどと、ナキは口を開いた。ラッシュは体の大半を水に浸けたまま、巨大な頭を横に振った。

「正直に言うと、大丈夫ではない。変身する体力もなくなっているようだ」

「私に何か、出来ることはありませんか?」

問いかけられ、ドラゴンは少し考えた。そして周りに視線を向け、人の気配がないことを確認してから、目の前の小さな人間に言った。

「俺の体を引き上げるのは無理だろう。貴様には出来ることはもう、ない。後は自分で何とかする。貴様には封印を解いてもらった。何もせずに見逃してやる。消えろ」
38 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:05:00.67 ID:kIoz6FWJ0
「でも、体が水に入ったまま……このままだと凍えちゃう」

「だからと言って、貴様に何が出来る。脆弱な民」

「そうだ。火を起こせば少しはあったまるかも……」

呟いて、ナキは少しふらつきながら立ち上がった。そしてラッシュに熱ぼったい顔でぎこちなく微笑んでから言う。

「ちょっと待っててください。すぐに薪を集めてきます……」

「おい、待て。貴様、様子が……」

ドラゴンの返事を最後まで聞かずに、ナキはぐしょぬれの靴下を履きなおし、手斧を持って近くの森に足を向けた。
39 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:05:36.95 ID:kIoz6FWJ0
もしも山の中で凍え死にそうになったら使おうと持っていたマッチは、殆どがしけってしまっていた。紙箱にはカビが生えている。

十二歳の女の子が、熱に浮かされながら集めてこれる木々など、たかが知れている。一応一生懸命に切っては来たのだが、燃えそうな比較的乾燥しているものをより分けると、ほんの小さな枝の集まりにしかならなかった。

ポンチョの端を手斧で千切り、火種にしようとしている。マッチを薪の中に投げて、また次をつけようとしているナキを、ラッシュは戸惑いの顔で見ていた。

少ししてやっと成功したようで、彼女はそれを、そっとポンチョの切れ端に燃え移らせた。体で覆いかぶさるように火を守り、しばらくして枝に燃え移ったのを確認し、息をつく。

ラッシュの鼻先で、小さな焚き火が炎を上げた。ほんの少しだったが温かくなり、ナキはしもやけと血豆だらけの手を、慌てて火にかざした。しばらく、その様子を黙ったまま見ていたラッシュは、やがてだいぶ火が消えてから、白い息を吐き出しながら呼吸が整ってきたナキに言った。
40 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:06:32.89 ID:kIoz6FWJ0
「お前は、病気なのか?」

「あ……ごめんなさい。寒くて、つい……」

思わず謝ってしまい、ナキは慌ててその場に正座をした。

「別に咎めているわけではない」

「もっと集めてきます……」

立ち上がろうとした彼女を、ラッシュはくぐもった声で呼び止めた。

「人の話を聞かん娘だな。体は温まったのか? ならば、この火は俺がもらってもいいのか?」

「え? あ……はい。あなたのために集めてきましたから……」

「…………」

しばらく押し黙ってから、ラッシュは先ほどまで鎖で封じられていた口を開いた。ピンク色の口の周りに、おびただしい数のとがった牙が並んでいる。

一瞬、噛みつかれる、とナキは体を硬くしたが、ラッシュはそうはしなかった。息を吸って、火が残り少なくなった焚き火の方に口を近づける。

空気が彼の口の中に吸い込まれていき、しばらくすると、火のついた枝が、ポヒュンという軽い音を立てて飛び込んでしまった。ポカンとしているナキの前で、彼は火を口の中で咀嚼してから、ごくりと飲み込んだ。

「不味い火だ……」

呟いて焦げ臭い息を吐き出す。
41 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:07:34.97 ID:kIoz6FWJ0
「火を食べちゃった……」

「うむ。ないよりはましだ。脆弱な小人。そこをどけ。ここから体を動かす程度は出来そうだ」

鼻先でナキを脇に押しやり、ラッシュは湖の縁を手で掴んで、そしてずるずると体を持ち上げ始めた。それにしたがって冷たい水が勢いよく波打ち、ナキは慌てて下がり、木に寄りかかりながら、巨大なドラゴンが自ら出てくるのを見た。

右足を怪我しているらしく、青い血のようなものが流れている。近くの茂みを体で押しつぶしながら、ラッシュは数分もかけて大きな体を岸に横たえた。尻尾を出す力はなかったらしく、巨体だけが草木を押しつぶして、雪の上に横たわっている。

荒く息をついている彼の鼻先に近づき、ナキは、杭が刺さっていた場所に手を触れた。まだ青い血が出ている。足のほうに移動し、傷を見ている彼女を、ラッシュは目だけを回転させて見つめた。

右足は、足首の部分が何か刃物で切られたようになっていた。傷自体は小さいが、深い。ナキは少し考えると、来ていたポンチョを脱いで、そして彼の足に巻きつけた。小さくてしかもボロボロなため、足を一巻きしただけで、青い血が染みこんでくる。しかし傷を覆っていないよりはましだろうと思い、彼女は結び目を固く縛ると、ボロのワンピース姿でガタガタと震えながら、ラッシュの鼻先に戻った。
42 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:08:33.43 ID:kIoz6FWJ0
「何かお薬持ってきます……」

「待て。何故お前は俺にここまでする?」

怪訝そうに聞かれ、ナキはその意味が分からずに首を傾げた。

「今の俺には、お前に取らせる褒美はないぞ。何かを要求しても、何も出せん」

「要求だなんて……」

「何を企んでいる? 正直に話せば、よきに計らおう」

偉そうに言われ、しかしナキは反論するでもなく、汚れた靴下を両方とも脱ぐと、彼の口元の、傷口に貼り付けた。

「誰にも言わないです。安心してください……」

質問と噛み合わない台詞だったが、ラッシュは口をつぐんだ。そして口元で青く染まった靴下を見る。

「私、お家から薬を持ってきます。お仕事があるので、夜中になると思いますけれど……待っててください」

「……いい。これくらい半日もすれば治る。それより、お前は寒くないのか?」

少ししてから、ドラゴンは静かにナキに呼びかけた。そこで始めて彼女は巨大な目の前のモノを見上げた。熱でうつろになっている目を細めて、小さく笑ってみせる。

「慣れてますから……」

「……こちらに来い」

呼ばれて、ナキはふらつきながらラッシュの鼻先に立った。そして膝をつく。

「俺の血を舐めろ」

命令され、彼女は戸惑って彼の目を見た。動こうとしないナキに、苛立ったようにラッシュは続けた。
43 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:11:20.35 ID:kIoz6FWJ0
「どうした? アルノーが愚民に血を授けるなど、滅多にないことだ。何をためらうことがある?」

「血を舐めて、どうするの?」

「やかましい。何故貴様は質問に答えずに質問を返す。俺が褒美を取らせてやろうと言っているんだ。これで貸し借りはなしだ。その代わり約束だ。俺のことは忘れて、とっとと家に戻れ。そして二度とここには来るな」

しかしナキは、少し考えてから、困ったような表情を浮かべて立ち上がった。そして首を振る。

「私、いらないよ……」

「何? 何故だ! 」

思わず大声を出したラッシュから、身を引いて距離をとり、彼女は腰帯に手斧を挟んだ。

「貴様は俺を愚弄するのか! 命令だ、血を舐めろ! 」

怒鳴りつけられ、しかし少女は怯えたような顔をしただけだった。彼の傷ついた顔と足を見て、また一歩下がる。

「また来ます。お薬を持ってくるから……」

「いらんと言っている。おい、待て! 」
44 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:11:55.26 ID:kIoz6FWJ0
ドラゴンの怒号を聞き、しかしナキは足早にその場に背を向けた。どうして血なんて舐めろと言ったのか、それは分からないが、このまま彼を放っておいていいわけがない、と彼女は思ったのだった。ここでお礼をもらってしまっては、約束どおりに忘れなければいけない。久しぶりに、意味もなく怒鳴りつけられるだけではなく他人と会話をしたのだ。そんなことは寂しすぎた。

それに、彼女には、半分凍った湖に浸かった巨大な生き物が、どこか自分と重なって見えたのだった。雪の中に一人でいれば、寒いし冷たい。それに、心も体も痛いのだ。何故か、放っておけなかった。
45 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:12:25.09 ID:kIoz6FWJ0
結局ポンチョも靴下もなくなり、熱が高くなってきたために、ナキはガタガタと震えながら家に戻ることになってしまった。途中でしけった枝を何本か拾って抱きかかえていったが、薪に足りる量ではなかった。

熱で倒れそうなナキは、しかしおばさんが投げつけたコップに迎えられることになった。散々嫌味を言われたが、おじさんが仕事から帰ってきて、背負っていたものを見て、ナキはさらに哀しい気持ちになった。最初から彼女のことなど当てにしていなかったらしく、彼はちゃんと街で売っている薪を買ってきていた。ようは、ナキが虐められて弱っている様を見て喜んでいただけだったのだ。

ラッシュの所に行きたかったが、おばさんの監視の目が厳しくて、それどころではなかった。鼻をすすりながら、何とか夕食の準備をして、井戸の冷たい水で洗濯をする。ラッシュのことも気になったが、仕事をちゃんと終わらせなければ、またぶたれるかもしれない。何年も虐められてきたことで、彼女はどんなに辛くても言われたことはちゃんと守るように躾けられてしまっていた。

両手の指が、あまりの寒さに真っ赤に腫れて膨れ上がってしまっている。足も、靴下をラッシュの血止めに使ってしまったために、しもやけで膨らんでいて、歩くたびにビリビリとした痛みが走った。
46 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:13:03.39 ID:kIoz6FWJ0
しかし何よりきつかったのは、殆ど裸同然の格好で森を歩いて帰ってきたことによる、風邪の悪化だった。もう目の前がぼんやりしてしまって、よく前が見えない。今までは何とかやり過ごしてきていたが、今年の寒さは異常だった。それに、ナキが買われてきた頃はまだおじさんもおばさんも死なないように気をつけていたのだが、彼女が大きくなってから、その気遣いがほとんどなくなってしまっていた。一応領主の方針で、奴隷を買ってから五年間は使う義務が、領民にはある。ナキはそろそろ六年になる。法律的には、病気で死んでしまっても、雇用主にとっては痛手にはならない。むしろいなくなってもらって、新しい奴隷を買った方が役に立つ。そのような、何の保護もない事実が、ナキに対する過酷な仕打ちの裏づけになっていた。

彼女がポンチョではなく、ボロのワンピースに裸足であることに、おじさん達は、まるで気づかないように無視を決め込んでいた。夕食の時、本当に倒れそうになり、誤ってリフの服にスープを少しこぼしてしまった。激昂した彼女に、いつでもナキを叩けるようにとテーブルに取り付けられていた、乗馬用の鞭で顔を殴られ、左目のまぶたが少し切れてしまった。

やっと家族が寝静まり、ナキはよろよろと屋根裏部屋に足を運んだ。そして毛布に頭から倒れこむ。切れた目が腫れている。じんじんと痛んで、涙が出てきた。
47 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:13:54.92 ID:kIoz6FWJ0
しかしいつものことなので、動かない体を何とか引きずるようにして、毛布を頭から被る。部屋の隅に置いておいた、拾った役に立ちそうなゴミを詰めた麻袋の紐を解き、中身を取り出す。少しすると、かなりどろどろに穴が空いていたが、何とか自分で繕って直した靴下が見つかった。ないよりはましだと思って足に履く。少しだけ気が楽になったような気がした。

 (お薬持っていかなくちゃ……)

次に彼女はそう思った。既に身を切るほど寒く、時計は夜中の一時を過ぎていた。しかし、自分よりももっとラッシュは寒いのだ。ドラゴンで、貴族で、はるかに偉い人だとしても、怪我をしている。あそこから動けないようだった。はやくお薬を持っていってあげなければ、凍死してしまうかもしれない。

そこまで考えたが、ナキは自分が薬を持っていないという事実に今始めて気がついた。念のために麻袋の中身を全部床にあけてみるが、ガラクタがでてきただけで、薬らしきものは見当たらなかった。代わりに、捨てられていたのを拾って、洗った、薄汚れた包帯が少し見つかったので、特に痛みが酷い右手の指に巻きつける。

そして、少し考えてから、彼女は決心して毛布を体に巻きつけた。ポンチョはラッシュにあげてしまったので、防寒できるものはそれくらいしか持っていない。やはりゴミで捨てられていた、まだ使えるカンテラを持って、足音を忍ばせて階下に下りる。寝ているところを起こしてでもしまったら、しこたま鞭で殴られてしまう。自然と足が震えたが、何とか暖炉脇の戸棚にたどり着く。そして、ナキはタンスを開き、中から薬箱を取り出した。

取り出したはいいが、暗くてよく分からない。一本だけならばれないだろうと、暖炉脇のマッチを擦ってカンテラに火をつける。燃えカスを暖炉に入れ、彼女は薄暗い明かりに薬箱を照らした。
48 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:15:14.21 ID:kIoz6FWJ0
確か、薬湯を煮込んだ傷薬は、小さな瓶に小分けにされていたはずだ。他ならぬナキが、自分の手で作ったものだった。案の定、綺麗に整頓されて置いてある。どんな怪我をしても使わせてもらえず放置されたが、やはり一本だけならばれないだろうと、勇気を出して小瓶を取る。そしてそっとタンスの中に戻し、蓋を閉めた。

家の裏口から外に出ると、昼間とはまったく違う、肌を刺すような寒さが体を貫いた。地面なんて、降り積もった雪が氷になって固まっている。時折滑りながら、彼女は、また降ってきた雪を頭に積もらせながら、ラッシュのいる湖に足を向けた。
49 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:15:56.03 ID:kIoz6FWJ0
夜の森を歩くのは初めてで、思ったよりもずっと時間がかかった。想像していたよりもはるかに、寒さが体に染みこんでくる。小さく、なるべく寒気を吸い込まないように息をしながら、何とか泉にたどり着く。

今夜は月が雪雲に覆われているため、かなり薄暗い。草を掻き分けて、震えながら泉に近づく。しかし、ナキは泉に、昼間のように大きな影がないのを目にして動きを止めた。カンテラをかざしてみるが、確かに昼間、ラッシュが横たわっていたはずの場所には、今は何かが這ったような痕しかなかった。少し離れた場所の木が、中ほどから折れて倒れている。

「ラッシュさん?」

震える声で呼びかけてみる。あれほどの巨体だ。近くにいればすぐ気がつくはずだ。

良くなって、飛んで行ったのだろうか。それはいいことなのだが、そう考えるとナキの心には少しだけ、チクリとした痛みが走った。

一人ぼっちで湖に浮かんでいたラッシュが、自分と重なって見えた。でも、彼と私は違う。彼は大きくて、強そうで……そして、何より空を飛ぶ翼を持っていた。その気になればどこへだって行ける、大きな翼を。

私には何もない。この寒さの中、ここに来るだけで凍えて死にそうな、弱い自分。夕食の席で殴られて腫れている左目が、膿んだようにじくじくと痛んだ。
50 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:16:42.55 ID:kIoz6FWJ0
岸に下りてみる。地面が少しだけ抉れていたが、そこにも薄く氷が張っていた。鼻をすすって、肩を抱く。髪の毛まで凍ってしまいそうだった。

……帰ろう。そう思って、ポケットの薬の小瓶を握り締める。そこで始めて、ナキは自分が主人の薬を盗んできたという事実に肝が冷えた。ばれてしまったら、左目を殴られるだけじゃすまないかもしれない。最近の家族の虐めは度を越していた。本当に動けないまで痛めつけられても、容赦なく仕事を強要されるだろう。

もう一度湖を見回してみる。不意に、心細さから無事な方の目から小さく涙が出た。それをごしごしと手で擦り、毛布を手繰り寄せて、背中を向ける。

そこで彼女は、少し離れた場所から、一対の金色に光る目を見た。いや、一つではない。獣の瞳が四つ……六つ。三対、こちらを茂みの中から見ていた。少ししてうなり声が聞こえてくる。昼間聞いた、ラッシュの喉鳴りそっくりだった。

森の中には、いろいろな獣がいる。夜中に入ったことはないので、ナキには分からなかったが、当然夜行性の肉食獣も生息していた。本能的にそれらに恐怖を感じて後ずさる。しかし背後は、冷たい、薄く氷が張った湖だった。カンテラを掲げると、薄暗い明かりに照らされ、茶褐色の毛皮をした四足の動物が、うなりながら木の陰から頭を出した。目が血走っていて、牙がむき出しになっている。

昼間のラッシュには恐怖を感じなかったが、これは怖かった。明らかな敵意を感じる。簡単に傷つけて、そして喰らってしまいそうな、そんな圧迫感を感じる。

しかしその時のナキには、走って逃げる気力も、大声を上げて助けを求める元気もなかった。
51 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:17:24.82 ID:kIoz6FWJ0
尻餅をついて、包囲するように近づいてくる獣を見回す。子供一人分くらいの大きさの、涎をたらした獣だった。森に生息している森オオカミの群れだった。普段は死肉を貪る臆病な動物だが、獲物が小さく弱いと、徒党を組んで襲うことがある。それに今は真冬だった。食料も少なく、気が立っているようだった。彼女は気づいていなかったが、水場がある所はこのような獣の縄張りになりやすい。測らずも、ナキは自分からのこのこと飛び込んできた形になってしまっていた。弱った子供一人くらいなら殺せると踏んだらしく、動けないナキを見て、三匹の獣はまた方位を縮めた。完璧にもう、木の陰から体を現している。

その殺気を含んだ獰猛な目に、ナキは唾を飲み込んで、何とか逃れようとして這うようにしてその場から立ち上がった。

その途端だった。腹を空かせた動物は、彼女が高熱を出していようと、どんなに弱っていようと待ってはくれない。それ以前に、その方が彼らにとっては好都合なのだ。

一匹がうなり声で威嚇しながら、ナキに飛び掛ってきた。悲鳴を上げて腕を前に出すと、焼けるような痛みが上腕に走った。噛み付かれたらしい。見た目よりもずっと重く、小さな少女は簡単にその場に押し倒された。痛みに引きつった声を上げながら、何とか引き剥がそうとする。しかしもがけばもがくほど、鋭い牙は、ナキの細い肩に食い込んだ。森オオカミは頭を振っているので、体が大きくぶれて訳が分からない。爪で胸を押さえつけられ、羽織っていた毛布が引き裂かれた。そこでナキは、放り出したカンテラの明かりに、こちらに向かってくる残りの二匹を見た。

心臓が何かに掴まれたように、ぎゅっと詰まる感触がした。殺される。そう、頭の奥の方の部分で感じたのだった。
52 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:18:11.94 ID:kIoz6FWJ0
細い首筋に、もう一匹の森オオカミが噛み付く。皮が破れ、血が出てきて……喉笛が噛み千切られる……そう思った時だった。

不意に、体に覆いかぶさっていた獣の重さがなくなった。次いで、何かを蹴り飛ばす重い音と共に、「ギャン! 」という森オオカミの悲鳴が聞こえる。少し離れた地面に、ナキの喉に噛み付いて息の根を止めようとしていた森オオカミが、宙を飛んで叩きつけられた。

ナキの前には、コートを羽織った背の高い人影があった。薄暗いカンテラの明かりに照らされ、その人の燃えるような赤い髪……膝裏まで伸びている、長いざんばら髪が見える。

その人は、ガッシリした体つきをしていた。片手で、まるで子犬のように、ナキに覆いかぶさっていた森オオカミの首を掴んでいる。そして太い腕を振るって、後ろ手にそれを湖に投げ捨てた。弧を描いて獣が飛んでいき、だいぶ離れた湖の対岸部分に、水柱を上げて落ちる。蹴り飛ばされた森オオカミの首も掴み、また、突然の邪魔者に牙を剥いていたもう一頭の首も難なく掴んで、その人は同様に湖の向こう側に投げ捨てた。

ボシャンボシャンと連続した音が響き、次いで頼りない獣の声が夜空に反響する。

恐怖と痛みで訳が分からなくなり、体を丸めて泣きじゃくりながら震えているナキの脇にしゃがみ、彼は聞き覚えのある声を発した。

「……何故また来た? ここには来るなと言ったはずだ」
53 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:18:49.94 ID:kIoz6FWJ0
それは、ラッシュの声だった。ナキは荒く息を吐きながら、涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を彼に向けた。本当に怖くて、恐ろしくて、彼女は声を発することが出来なかった。

硬直した右手は、いつの間にか、ポケットに入れていた薬の小瓶を握り締めていた。その様子を見て、ラッシュの声をしている青年は少し押し黙った後、彼女を抱き上げた。そして肩から血を流しているのを見て息をついた。

「……お前のおかげで、帝国の者に見つからずに、変身をして身を隠すことが出来た。本来なら、愚民に手を触れてはいけないのだが、確かにか恩がある」

「…………」

歯をガチガチと鳴らしている彼女を、彼は見下ろした。薄明かりの中、彼の右目の下……丁度昼間のドラゴンが杭を打たれていた場所に、深い傷がついているのが見えた。

「仕方がない……助けてやる。光栄に思え。お前の村まで案内をするがいい」
54 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:20:48.34 ID:kIoz6FWJ0
ナキを抱いて青年が村に着いたときには、雪も本降りになっていた。黒色の体にフィットした、ピッチリとしたコートだった。足は長く、丹精な顔立ちをしている青年だった。額に爪のような形をした、真っ青な刺青が掘ってある。目の下の傷が痛々しかったが、ナキが、彼はラッシュであると気がついたのは、そのコートの肩に薄汚れたポンチョがかかっていたからだった。昼間に、ドラゴンの傷口に結んであげた服だった。

程なくしてシルフの村に入り込み、彼はナキが弱弱しく指し示した家の玄関に立った。かなり背が高いため、比較的体が小さいシルフの扉は、身を屈めなければドアノブに手が届かないほどだった。

彼は面倒くさそうに、裏口ではなく、鍵かかかっている正面口のドアを引いた。当然ガチャガチャと音がして、扉が軋みを上げる。

裏口に回って欲しいと伝えるより先に、彼はノブに力を込めると、無造作にそれをひねった。重低音がして、木作りの頑丈な扉、そのちょうつがいが真っ二つに割れる。彼は壊れたドアを掴んで、森オオカミにしたように脇に投げ捨てた。音に驚いて出てきたモダンおじさん達が、髪の長い青年が、ぬぅっと部屋に入ってきたのを見て、唖然と停止している。

彼は部屋の中を見回すと、だいぶ背中を丸めながら口を開いた。
55 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:22:08.38 ID:kIoz6FWJ0
「何だ? 何か文句があるのか?」

喧嘩腰に呟き、彼は近くのソファーに、震えているナキを横たえた。そして近くのブランケットを掴んで、彼女にかける。

「寒いな」

そう言って、ペッと暖炉に唾を吐く。途端にくべてあった薪に、真っ赤な火がついた。

「何をしている。湯を湧かせ」

尊大に命令した彼に、そこでやっと我に返ったのか、モダンおじさんが壁の猟銃を抜いて突きつけた。リフがバタバタと降りてきて、突然の侵入者に甲高い悲鳴を上げる。バーノンおばさんを背後に庇い、おじさんは引きつった大声を上げた。

「誰だ! 警察を呼ぶぞ! 」

「愚民が……俺に鉄を向けるか」

歯を噛み、忌々しそうに彼はそこから目を離した。そして壁にかかっている燭台を順繰りに睨みつけていく。その瞳が一瞬、昼間のドラゴンのように、光を反射する金色に輝いた。それに当てられたように、次々と燭台の蝋燭に、何故か自然と火がともされていく。

そして彼は、熱が高くなり、眼を閉じて意識を朦朧とさせているナキに視線を落とした。その左目から血が流れているのを見て、鼻をしかめる。

「な……何なんだ? バーノン、警察だ! 」

「ナキを連れてるよ! 人攫いかい! 」

「お父さん、怖いよ! 」

恐慌を起こしながら、太ったシルフ達が叫んでいる。それを冷たい目で見ながら、彼はソファーの掛け布に手をやると、承諾も得ずにビリビリと引きちぎった。そしてナキの目の傷を抑え、少し考えた後、自分の右手の親指を口に含む。歯で指先を噛み千切ると、赤ではなく、真っ青な血液が流れ出した。
56 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:23:46.87 ID:kIoz6FWJ0
それを見て、彼に銃を突きつけていたモダンおじさんが息を呑む。青年は、青い血が流れている指をナキの口に突っ込んだ。そして自分の血を彼女の中に絞り出し、指を抜く。小さな口を掴んで閉じ、無理やりに飲み込ませてから、彼はまだ血が出ている指先を、彼女の左まぶたと右肩の傷口に押し付けて塗りたくった。

「へ……返事をしろ! 」

モダンおじさんが、どもりながら素っ頓狂な声を上げる。青年は、血を飲み込んだナキが小さく息をつき、数秒して寝息を立て始めたのを見てから、すっくと立ち上がった。そしてコートのポケットに手を入れながら、身をかがめてモダンおじさんを睨みつける。

「鉄を降ろせ、愚民めが」

尊大に命令され、シルフの家族が唾を飲み込む。彼は瞳をうっすらと金色に光らせながら、もう一度繰り返した。

「鉄を俺に向けるな。俺を誰だと思っている。殺されたいのか?」

脅迫まがいの棘がある言葉を吐き、彼は髪を掻き上げ、額の爪のような紋章をあらわにした。それを見た途端、バーノンおばさんが悲鳴をあげ、おじさんが口を開けてポカンとした後、慌てて銃を脇に投げ出す。

「控えろ。図が高い」

蔑むように青年に見下ろされ、おじさんとおばさんは、慌ててその場に膝をつき、頭が床につくくらい深々と下げて平伏した。両親の様子にただならぬものを感じたのか、リフまでも、床に両膝をつく。

「まさか、あなた様は……」

緊張と恐怖からか、喉を震わせながらおじさんが言う。青年は髪を元に戻し、胸をそらして、地面に小さくなったシルフの家族を見た。
57 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:24:34.66 ID:kIoz6FWJ0
「我が名はラッシュ・アルノー・クンドルフ十二世。ドラゴン族、北のアルノーの、由緒正しき末裔である。妖精風情が、俺に鉄を向けるか」

「お……王子様? そんなまさか……」

バーノンおばさんが震える声を発する。ラッシュはそれに答えずに、ナキの額に手を当てた。熱が下がっていることを確認し、彼はブーツの足を上げ、モダンおじさんの頭を踏みつけた。まるで虫ケラを踏むように、何の躊躇もない行動だった。

「無礼者が。その首へし折って……」

そこまで口にして、しかし彼は横目でナキを見て口をつぐんだ。しばらく迷ってから息をつき、硬直しているモダンから足をどけ、ソファーに乱暴に腰を下ろす。そして尊大な態度を崩さずに、居丈高に口を開いた。

「ぐずぐずするな。戸を閉めよ。湯を沸かし、この娘を快方するのだ」

 「…………」

「何度言わせるつもりだ! 」

唖然としている彼らをまた一瞥し、ラッシュは苛ついたように、乱暴にブーツで家の床を踏みつけた。物凄い音がして、足が床板を踏み抜き、半ばまでめり込む。

それに突き飛ばされるようにおばさんが立ち上がり、慌てて台所に向かった。ラッシュはそれを見て息をつき、足を床から抜いて、そして寝息を立てているナキを見た。段々と顔の血色が良くなってきている。顔と肩には絵の具のようにラッシュの血液が塗られていたが、そこに触れた傷口は、数分も経っていないのに、もう塞がってきていた。
58 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:25:43.96 ID:kIoz6FWJ0
第2話は以上になります。

少し休んでから、第3話を投下させていただきますm(_ _)m
59 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東海・関東) [sage]:2011/07/05(火) 20:33:45.83 ID:luFZQkjAO
三毛猫さんじゃないですか!
モンハンの方も楽しみにしてますよ。お体には気をつけて!
60 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 20:37:53.41 ID:kIoz6FWJ0
>>59
ありがとうございます。
少しだけ時間が空いたので、前書いていた小説を投下させていただいている最中です。
そちらも、お体に気をつけてくださいね。
61 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:00:36.26 ID:kIoz6FWJ0
3 帝国からの使者
62 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:01:14.66 ID:kIoz6FWJ0
 ナキには、小さい頃の記憶がなかった。

気がついた頃には、ボロを着せられ、奴隷の子供達が詰まった馬車に押し込まれていた。時たま各地で起こる紛争による孤児達を奴隷商人が集め、売るのだ。そのような事情は後から知ったことで、ナキは自分が何故馬車にいるのか、そしてこれからどうされるのか。その時にはさっぱり分からなかった。

だいぶ長いこと運搬され、しこたま鞭で殴られた後市場に連れて行かれた。そこでシルフの家族に買われてから、時間が建って今になる。

考えても、自分がどこに住んでいたのかなどを、彼女は知らなかった。忘れてしまっていたのだ。思い出そうとすると、頭の奥の部分がちくりと痛んだ。うっすらとだけでも思い返すことができれば、また違う希望を持てたのかもしれない。

しかし彼女を買ったシルフの家族は、小さい女の子にはあまりに酷な現実を刷り込んだのだった。

お前の両親は奴隷で、売られたんだと、何回も繰り返し言われた。
63 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:01:50.77 ID:kIoz6FWJ0
奴隷と奴隷が子供を作ってしまった場合、その子供に人権はない。市場で売買される小さい子供は、大概そのクチだという話だった。 小さい頃は、辛くて、きつい仕打ちに耐え切れずよく泣いていた。泣けば、お父さんやお母さんがきっと来て、自分を連れて行ってくれると、そう思っていたのだった。

しかし現実は、そんなに甘くはなかった。泣いていたら蹴られ、ものを投げつけられ、痛みで動けなくても仕事をすることを強要された。シルフの家にいる彼女は、家族でもなんでもなく、雑用をするだけの存在だったのだ。同じ心を持っているとは、誰一人として認めてくれなかった。

そんな環境にいて、いつしか彼女は、顔も分からない父と母のことを想像することをやめていた。どんなに助けを求めても、お父さんもお母さんも助けてくれない。おじさんやおばさんの言うとおりに、自分は奴隷の子で、売られたんだという事実が、時を経るにつれて心に、実感として重くのしかかっていた。捨てられたというのならば、まだ救いがあった。

でも、商品として売られたということを繰り返し刷り込まれ、少女はそれを受け止めきれるほど強くはなかった。だから、想像にすがることも止めたのだった。

そんな中でも、疲れて体が動かなくなって、泥のように眠った時、両親の夢を見ることがあった。顔は分からない。どんな姿をしているのかも分からない。
64 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:02:37.09 ID:kIoz6FWJ0
しかし、夢の中のナキは、いつも目の前でシルフの娘がやっているように、こんがりと焼いたトーストに、たっぷりのクリームをつけて頬張っているのだった。時折、新しい服をプレゼントされて、喜んではしゃぎまわっているところを、おばさんに叩き起こされ、何故か自然に涙が出たことがあった。

夢の中でくらい、両親の顔を想像しようとしたこともあった。ぼんやりと輪郭は思い浮かぶのだが、両親と暮らしたことのないナキには、それらを思い描くための経験が少なすぎた。だから、か細い願望を夢に見るようになっていたのだった。

そういう夢を見た後、目が覚めると決まって哀しい気持ちになる。だが、そんな気持ちでも仕事はしなければいけない。少しでも休もうとすると、暴力と罵声が飛んでくるのだ。ナキには、その言われなき事柄に抵抗できるだけの力も、心もなかった。

ナキは、ぼんやりと両親の夢を見ていた。眠っている自分の傍に、にこやかに寄り添ってくれている二人の姿を想像した。温かいベッドと、柔らかいシーツにくるまれて、どこも痛いところなんてない。苦しいところもない。母が手を伸ばし、頭を撫でてくれた。そこが本割と温かくなり、ナキは薄目を開けて微笑む。父も自分のことを見下ろしてくれている。
65 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:03:19.44 ID:kIoz6FWJ0
顔も分からないが、夢の中で想像すれば、会うことができた。目が覚めればそれだけ哀しい気持ちになるが、ドロドロに疲れた体は、その幻想に逃避することを求めていた。本能的に頭のどこかが、それを察していたのだった。

母と父が手を握ってくれる。ナキは嬉しくなって、その手を握り返そうとした。それがふっ、と感触がなくなり、不意に目の前が段々暗くなっていった。父と母の姿が薄れていく。慌てて目を開けると、そこは暖かいベッドの上ではなく、いつも転がっている、寒くて薄暗い屋根裏部屋だった。

体が、石になったように重かった。伸ばしていた手がゆらゆらと空中を掻く。そこでナキは、鋭い痛みを手に感じ、悲鳴を上げて引っ込めた。

目の前には、鞭を持ったバーノンおばさんが、仁王立ちになって立っていた。おばさんは何事かをわめきながら、所構わずナキの体を鞭で殴りつけていった。わけもわからず、頭を覆って小さくなり、必死に耐える。

お父さん、お母さん。

体を走る痛みから逃れるように、ナキは心の中で無意識のうちに両親のことを呼んでいた。
66 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:06:38.92 ID:kIoz6FWJ0
怖いよ。痛いよ……苦しいよ。

どうして助けてくれないの?

どうして一人にしたの?

鞭を振り下ろすバーノンおばさんが、ひきつった甲高い笑い声を上げる。不意に目に涙が盛り上がった。痛いし、苦しい。

そして何より、寂しかった。

呼びかけても、呼びかけても父も母も現れてはくれなかった。先ほどまで近くにいてくれたのに、おばさんが現れた途端、まるで逃げるようにいなくなってしまった。

奴隷だっていうのは、本当のことなの?

だから私を売ったの?

心の中の、自分ではない何かがブツブツと呟く。それから目をそむけるように、ナキは涙を流しながら、耳を塞いだ。

その時、おばさんの鞭がこめかみに打ち当たり、ナキは意識が薄れるのを感じた。目の前がぐるぐると回り、意識が落ち込んでいくような感覚が体を包む。手を伸ばして床を掴もうとしたが、その手はすり抜けるように、するりと空を切った。そのまま転がるように、どこかくらい場所へと落ち込んでいく。

最期にナキは、おばさんが喚く声を聞いたような気がした。
67 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:07:28.46 ID:kIoz6FWJ0
ナキは、慌てて頭を庇いながら、小さく悲鳴を上げた。またおばさんの鞭が飛んでくると思ったのだ。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

何度も繰り返し謝りながら、必死に目を瞑る。そして体を丸めてへ立ち上がろうとした彼女の肩に、そこでずっしりとした手が置かれた。思わずビクッとして体を硬直させる。

「……ぶたないでください……お薬のことは謝ります……また作りますから……鞭は、鞭はいや……」

心のしこりとなって残っていた、薬を盗んだということが自然と口をついて謝罪として出てくる。震えている彼女に、しかし肩に手を置いた人は、一拍置いてから静かに言葉を投げかけた。

「俺はお前を殴らない。誰にもお前を殴らせはしない。何を謝っている」

怪訝そうな言葉に、ひとつ引きつったしゃっくりを上げ、ナキはゆっくりと目を開いた。いつまで経っても、体を裂くような鞭の衝撃はなかった。そこで始めて、自分が夢と現実の区別がついていなかったことに気がつく。
68 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:08:31.16 ID:kIoz6FWJ0
疲れてくぼんだ目に、脇の椅子に大きく足を広げて座っている、赤い髪をした青年の姿が映った。まるでコウモリの翼のように光沢がある、体にまとわりついた形のコートを着ている、大きな人だった。襟元には白いふわふわした毛皮がついていて、首を覆っている。髪は腰の辺りで一つにまとめられていた。額に、青い爪のような形の刺青が見える。足にはぴっちりとしたズボンと、長いブーツを履いていた。彼はナキの肩から手を離すと、もう片方の手と同様にポケットに突っ込んだ。

姿勢が悪く、端正で整った顔かたちをしているのに、しかめっ面で顎を突き出すような座り方をしている。目つきは鋭く、まるで鷹のようだ。瞳孔が細くて、そちらはまるで猫のようだ。

そこでナキは、彼の口元……右目の下に、抉ったような切り傷があるのを目にした。

数秒間彼と見つめ合い、彼女はそこで、自分が冷たい屋根裏の床ではなく、温かく柔らかいベッドの上にいることに気がついた。ここは、おじさんとおばさんの家……いつも掃除している、リフの部屋だった。体には何枚も毛布がかけられている。指のしもやけや、肩には包帯がきつく巻きつけてあった。

数秒間ポカンとしてから、彼女は右目の下に傷がある青年に目をやった。

「あれ……私……」
69 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:09:31.14 ID:kIoz6FWJ0
まだ震えていて、上手く声が出ない。恐ろしい夢だった。両親の姿が消えて、バーノンおばさんに鞭で殴られるなんて最悪だ。夢の中でさえ逃げることはできないらしい。

言葉を発しない少女をしばらく見つめ、彼は右目下の傷を手で擦った。そして口を開く。

「お前には俺の血を与えた。病気はもうじき完治する。ドラゴンの血に治せないものはない」

「ドラゴン……?」

そう問いかけてから、ナキはきょとんとして言った。

「ドラゴンの血……?」

「どこまでも抜けている娘だ。俺の顔に見覚えはないのか。図が高いぞ」

尊大に言われて、首をひねる。しばらくして彼女は、夜、森に入ったことを思い出した。うなり声に弾き飛ばされて、痛くて訳が分からなくて、意識が薄れて消えてしまったのだった。

 「あなたは……?」

何か、大きな手に抱え上げられた気がする。この、リフのベッドに横になっているということが夢や妄想でなければ、誰かが運んでくれたということだ。

彼はしばらくの間、戸惑った顔でナキを見下ろしていた。そして息をつき、ポケットから手を出す。空になった、薬の小瓶が握られていた。それをベッド脇のテーブルに置き、彼は言った。

「俺はラッシュだ。お前が火種をくれたドラゴンだ」

言われて、意味が分からずしばらく停止する。そして彼女は、ラッシュと名乗った青年の頭からつま先までをゆっくりと見回した。湖で会ったドラゴンも、自分のことをラッシュと言っていた。しかし、物凄く大きくて、少なくとも人の形をしてはいなかったはずだ。それくらい憶えている。
70 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:10:54.57 ID:kIoz6FWJ0
怪訝そうな顔で見返され、ラッシュは困ったように頭を掻いてから続けた。

「……ドラゴンは、変身の魔法で、体を変質させて人間の姿になることができる。服は俺の鱗を変化させて作った。お前が昨日、湖で見たモノは、俺だ」

「ラッシュ……さん?」

問いかけて、そこで始めてナキは息を呑んだ。そして口元に手を当てる。

「ドラゴンの、王族様?」

「先ほどからそう言っている。お前は愚図だな、奴隷女」

冷たくそう言い、ラッシュは椅子から立ち上がった。

「本来、王族である俺が、愚民であるお前のような屑と話をすることさえ、あってはならないことだ。ましてや、この俺が、奴隷に血を分け与えるなど……」

忌々しげにそう言ってから、彼はため息をついて額を押さえた。そして軽く首を振る。

「衝動的にとはいえ、それで助けた女がこれとはな……失敗した」

「ラッシュさんが、私を助けてくれたんですか?」

そう、おどおどと問いかけてみると、その言葉を待っていたらしく、ラッシュは偉そうに胸を張って頷いてみせた。

「感謝をしろ。お前など見捨てても良かったのだが、火種をもらった恩がある。ここまで運び、俺の血を授与した」

「ここまで運んでくれたんですか?」

「だから感謝をしろと言っている。何故俺の言葉を繰り返す。馬鹿なのかお前は?」

かなり短気な性格らしく、彼は噛み付くようにそう言った。せかされた形で、息を呑んでから、ナキはもぞもぞとベッドの上に正座をした。そして頭を下げる。

「王族様が、わざわざ……私みたいなのに……」

「まったくだ。あのまま朽ちゆいてもいいと思っていたものを、貴様のせいで生きながらえてしまった。余計なことを……」
71 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:13:27.58 ID:kIoz6FWJ0
吐き捨て、彼は燃えるような金色の瞳でナキを見下ろした。睨みつけられていると感じ、ナキは慌てて目をそらし、体を縮こまらせた。別に怖がらせるつもりはなかったらしく、ラッシュは少し戸惑った目をしてから口をつぐんだ。

そこで、控えめにドアが叩かれ、ラッシュが

「入れ」

と言と、ゆっくりと扉を押しながら、着飾って髪をきれいに結ったバーノンおばさんが、湯気の立つスープを入れた陶磁器を盆に乗せ、それを持ったまま膝立ちで入ってきた。向こう側の廊下には、モダンおじさんとリフが床に正座をして深々と頭を下げている。おじさんの禿げ頭が、窓から差し込む朝日に光っている。

その光景に唖然として目を丸くしたナキの前で、おばさんは、いつも聞くようなガミガミ声ではない、艶のある声を発した。

「アルノー様……ご命令の通りにお持ちしました……」

わずかに声が震えている。ラッシュはそれに答えずに、顎でナキを指した。おばさんがしずしずと進んできて、無言でナキにスープの入ったカップを差し出す。頭は下げたままだ。
72 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:14:37.01 ID:kIoz6FWJ0
しばらくの間、ナキはそれが自分に向かって差し出されているということが分からなかった。ポカンとしたまま、自分にかしづいているおばさんを見下ろす。そのまま数十秒が過ぎ、ついに業を煮やしたラッシュが苛立った声を発した。

「貴様のものだ」

それでもなお理解できずに、ナキは目の前で湯気を立てているスープを、ポカンと見つめた。いつも怒鳴って、鞭を振り回してコップを投げつけてくるおばさんが、他ならぬ自分なんかにスープを出してくれるはずがない、と心のどこかが危険信号を発していたのだ。夢か、もしくは頭がおかしくなって幻想を見てしまっているのか。

それほど、シルフの村では奴隷に対する扱いが過酷だった。六年間の虐待は、ナキの心に、スープを受け取るということさえもためらわせていた。

ラッシュは硬直しているナキに対し、忌々しげに舌打ちをすると

「もういい下がれ。役立たずめ」

と言い、バーノンおばさんからカップをむしりとった。そして、体に触ることさえごめんこうむると言った軽蔑した目で、彼女を見る。睨まれたおばさんは、身も心も震え上がったらしかった。太った体が引きつり、転がるように出口に走っていく。リフが顔を上げて、どこか紅潮した頬を彼に向けていたが、母が殆ど蹴り飛ばされるように出てくるのを見て、慌てて床に頭をこすり付けた。
73 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:15:28.43 ID:kIoz6FWJ0
ラッシュは湯気の立っているスープを、停止しているナキの手に押しつけた。彼自身、スープをどう扱っていいものか分からないらしく、中身が乱暴にこぼれて毛布にかかる。半分ほどになったスープを見下ろし、ナキは伺うようにラッシュを見た。そして頭を下げて平伏しているおじさんたちに目をやる。

そこで彼女は、朝日に照らされた窓の外に、沢山の人が集まっているのを見た。全員、背中を丸めて膝をついていたため気づかなかったのだ。今のおじさんたちのように、雪の中に平伏している。この家の周りに、蟻の行列のように群がっていた。こんな朝早くに、村中の人が出てきたような感じだ。

ナキは、しばらくの間沈黙していたが、やがて、睨みつけるように眉をひそめてこちらを見ているラッシュと目を合わせた。その金色の目が、昨日湖に半分沈没していたドラゴンのものと重なる。

唾を飲み込んで、彼女はラッシュにカップを差し出した。

「どうぞ……王族様」

引きつったように、ぎこちなく笑ってみせる。突き返された形になるラッシュは、一瞬目を白黒とさせた。完全に予想外だったらしい。

ナキの言葉を聞いて、おじさん達があんぐりと口をあけ、顔を上げたまま硬直した。目の玉が飛び出しそうになっている。リフなんて、太った顔の脂肪に埋もれていた細い目が、見たこともないほどまん丸になっていた。

きっとこれは、この人のために用意されたものなんだ、そうナキは解釈したのだった。ラッシュは金色の瞳でカップを見ていたが、そっと手を出して、指先でナキに押しやった。

「貴様にくれてやる。そんな臭い汁、口が腐るわ」
74 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:16:06.23 ID:kIoz6FWJ0
尊大に言われ、ナキは少し戸惑った後、カップを持ったまま、その温かそうなスープを随分長いこと見下ろしていた。やがて、もう一度おじさん達を見て、顔を床に向けているのを目にしてから、ラッシュに睨みつけられているのに気がつく。その目に催促される形で、ナキはスープに口をつけた。

昨日、自分が作っておいた山羊の乳と野菜、お肉を煮込んだものだった。こんなに沢山飲んだことはなかったので、最初はおどおどと少し口に入れたが、温かさと肉の旨味が口の中に広がり、彼女は口の中に湧いてきた唾を抑えることができずに、もう一口飲み込んだ。身体の芯が、温まる感じがした。ここに買われてから、初めての、怯えずに口をつけた食事だった。大概自分が食べるときは冷めているので、体力が落ちた体に染み渡る温かさが、逆に心に異常性を感じさせた。もう一度おじさん達を見て、こちらに目が向いていないのを確認してから、ナキはがっつくようにスープを一気に口に流し込んだ。その拍子に喉に詰まらせてしまい、小さく咳き込む。

数分もせずに、全てを飲み込み、ナキは空になったカップをぼんやりと眺めた。自分が作った食事が、温かいとこんなに美味しいものだとは知らなかった。いつも冷え切っている胃と、内臓が内側からポカポカとしてくるような気がする。
75 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:17:02.48 ID:kIoz6FWJ0
そこでラッシュに、目を細めてじーっと見られていたことに気がつき、彼女は慌ててからのカップを毛布の下に隠した。

ひとまずは、やっとナキがスープを飲んだのに安心したのか、ラッシュが椅子に乱暴に腰を下ろし、肘掛に腕を乗せ、足を広げて偉そうにふんぞり返った。

そして廊下で固まっているおじさん達を、ゴミでも見るかのように一瞥し、冷たく言った。

「そこで何をしている。まだ王都からは迎えが来んのか。貴様らも大概愚図だな」

我侭全開の口調で罵られ、しかしおじさんは、言い返すでもなく、従順に、震える声で彼に返した。

「王子様、今しばらくお待ちを……使いの者が、急ぎ向かっております」

「王子様?」

きょとんとナキが口を挟む。彼女が口を開いたことにビクッとして、おばさんが弾かれたように顔を上げ、凄まじい顔でこちらを睨みつけた。思わず息を呑んで、毛布を掴んだまま体全体が引きつる。

「貴様は黙っていろ馬鹿が。話が進まん」

冷たくナキに吐き捨て、ラッシュは掴んでいた、椅子の肘掛けを手で引きちぎった。かなりの太さがある高級木材だったのだが、まるでウェハースのように、簡単に砕けてしまった。
76 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:17:56.17 ID:kIoz6FWJ0
そして木片に軽く息を吹きかける。彼の手の中で、マッチを擦ったわけでもないのに、それは炎を上げて燃え始めた。その光景に、おじさんたちがあんぐりと口を開けている。同様に目を丸くしているナキの前で、ラッシュは火が熱くないのか、手づかみでそれを口に運び、パンをかじるように食べ始めた。燃え盛る火が口の中に入っていくのは、何とも異質な光景だ。

しばらくしてゲプッ、と下品にこげた臭いがするげっぷをして、彼は呟いた。

「……不味い」

「申し訳ございません……! 」

何に対して謝っているのか、自分でも分からないのだろう。泣きそうな声でおじさんが甲高く叫ぶ。ラッシュは苛立ったように何度か息を吐いた。まるで何かを恐れていて、しかし必死にそれを尊大な態度で隠そうとしているかのようだった。

彼はナキが自分を見ているのに気がつき、乱暴な手つきで、毛布に手を入れ空になったカップを奪い取った。それをおばさんの前に投げ出し、口を開く。

「食事を用意しろ。五分くれてやる」

「た……ただ今! 」

どもりながら悲鳴をあげ、おばさんがカップを拾い上げ、バタバタと台所に走っていく。

それを見ながら、ラッシュは何かを思い悩むかのように天井を見上げ、そして自分のこめかみを指で押さえた。

しばらくして、膝まづいているおじさん達を完全に無視し、彼は、まだ呆然としているナキに目をやった。そして口を開く。
77 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:18:52.88 ID:kIoz6FWJ0
「奴隷女。貴様を帝国サバルカンダに連れて行く。こうなってしまっては仕方ない。どう足掻いても、俺が奴隷に血を与えた事実は変わらん」

「ラッシュ……様は、サバルカンダの王子様なんですか?」

そう問いかけると、彼は不愉快そうに鼻を鳴らした。おじさん達が、ナキが全く恐れずに口を利いたことに、目を剥いて物凄い形相をしている。ラッシュは彼らの方を一瞥し

「何だ?」

と興味がなさそうに言ってから、答えを聞かずに、視線をナキに戻した。

「殿下と呼べ。馬鹿が」

「ええと……はい。殿下……ごめんなさい……」

頭を下げる。素直な態度に気を良くしたのか、彼はまた少し置いてから口を開いた。

「汚らしいな……」

「え……」

「貴様だ。異臭もする。まぁそれは、宮殿に帰ってからおいおい整えるとしよう。いかにも、俺はサバルカンダの第一王子である。敬え、奴隷女」

どうしてそんな偉い人が、湖に沈んでいたのかはわからなかったが、ナキはとりあえず頷いておいた。おじさん達や村の人の態度を見ると、あながち嘘でもないらしい。

汚いと言われ、ナキは、寝ている間に着替えさせられたのか、リフのぶかぶかな寝巻きを着ている、自分の体をくんくんと嗅いだ。水で毎日体を拭くようにはしているが、確かに汗やら何やらでベトベトだ。随分と頭も洗っていないので、もはやくしゃくしゃの様相になっていた。
78 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:19:54.16 ID:kIoz6FWJ0
急に髪を弄り始めた娘から目を離し、ラッシュはそこで、窓の外を見た。何か小さな影が、物凄い速度でこちらに近づいてきていた。

ピュゥェッ、という甲高い鳴き声を上げ、段々とそれが大きくなってくる。巨大な翼を広げた鳥だった。頭に虹色のトサカをつけた、翼を広げた状態ではナキと殆ど変わらないくらいの、鷲だった。翼をはためかせ、雪がまだちらついている空を、流れるようにこちらに向かってきている。

ラッシュは立ち上がると、無造作に窓を開いた。勢いあまって掴み手ごと、窓枠をバキンと折り取ってしまう。大して気にした風もなく、彼は窓をナキの膝の上に投げ捨てると、ポケットに手を入れて、鷲の到着を待った。

不思議な鷲だった。体に鎧をつけている。お腹は丸々と太っていて、少しベルトからはみ出ていた。くるっと曲がったくちばしが、朝日を浴びて光っている。二本の足に光る長い爪は、ナキなど一掻きで切り裂いてしまいそうだ。

鷲は、翼をはためかせて上空を何度か旋回すると、やがて壊れた窓枠までゆっくりと降りてきた。そして翼の音を響かせながら、器用にそこに着地する。

「殿下! 探しましたぞ! 」

野太い声があたりに反響し、ナキはポカンとして周りを見回した。

「一体全体、どこにおらしたのですか。爺は心配で心配で、心の臓が張り裂けるかと……」

「遅いぞアーンガット」

ラッシュはその言葉を遮って、淡々とした声を発した。鷲が、まん丸な目をさらにまん丸にし、くちばしをパクパクと開閉させる。

「殿下、それはあまりにご無体でございまする。爺の方こそ、あなた様がどこで何をされていたのかを……」
79 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:20:59.54 ID:kIoz6FWJ0
そこでやっと、ナキはその野太い声が、巨大な鷲から発せられているということに気がついた。

時折、シルフの村にも商人として、人の言葉を話す、動物の姿をした魔獣が来ることがあった。その類なのだろう。

アーンガットと呼ばれた鎧鷲は、きょろきょろと落ち着かない様子で周りを見ながら、矢継ぎ早に畳み掛けた。

「何故妖精の村になど? 殿下が姿を消されたので、王宮はとんでもない騒ぎになっております。現在サザンノーン全域に、殿下の捜索隊が出動しておりまする」

「俺も昨日、やっとここがフェルンクロストだということを知った。どうやら転移の魔方陣で、南ではなく東に飛ばされたらしい」

「飛ばされたと? まさか……ややっ! そのお顔は一体! 」

そこでアーンガットは、ラッシュの右目下に深い傷が走っているのを目にしたらしかった。舌を突き出して、全力で驚愕の極みであることを表現している。

ラッシュは横目でナキと、妖精の家族を見てから声を低くして言った。

「魔女にやられた。話は王宮に戻ってからだ」

「魔女に! ああ殿下……よくぞご無事で……爺が先に駆けつけてようございました。しかし、帝国の宝であるお顔に、嘆かわしや……」

「俺にそう言うのはお前くらいなものだ」

端的にそう返し、ラッシュは椅子に腰を下ろした。
80 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:22:12.83 ID:kIoz6FWJ0
「まだ奴らの目があるかもしれん。昨日の夜は賭けだったが、この薄汚い小屋に入り込んだ。ルケンの奴は、俺の死体を捜そうと躍起になっていただろう」

「殿下、滅多なことを口にしてはなりませぬ。そのお話は、王宮に戻ってからで……」

アーンガットが慌てて、強い口調でそれを遮った。そして横目で、ポカンとしているナキに視線を留めた。

「……何でしょうか、この態度が大きな、薄汚い小娘は? 殿下の御前であるぞ! 頭を下げよ! 」

「ひっ……ごめんなさい……」

怒られて、ナキはしゃっくりのような声を上げて、慌ててベッドの上で深々と頭を下げた。

「やめろ爺。この小娘は、ここで拾った。俺の奴隷とする」

彼がそう言った途端、モダンおじさんとリフが、口をあんぐりと開けて、顔を上げた。おじさんがたまらず、悲鳴のような声を上げる。

「奴隷……! 召し抱えられるのですか!」

「殿下、今何と……?」

アーンガットが口を開くと、おじさんの背後で、派手にお皿をぶちまける音がした。おばさんが、料理を載せたトレイを床に落とし、まるで彫像のように停止していた。

「王子様……? こっ、この娘は、我が家の奴隷です! 」

モダンおじさんが、ひきつった声を上げた。それを興味がなさそうに見下ろし、ラッシュは言った。

「今この時より俺の奴隷だ。文句があるのか?」

いつの間に、ラッシュにナキの所有権が移ったのか。急な話に、ナキは唖然として、隣のドラゴンを見た。アーンガットも、大きな目をぎょろぎょろとさせて、少し停止した後、間抜けな顔をしているナキに視線を落とす。

「我が家から、王宮に召し抱えられると仰るのですか! 」

おじさんの声は、もう完全に悲鳴だった。
81 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:23:06.80 ID:kIoz6FWJ0
ラッシュは少し考えると、淡々と首を振った。

「貴様の家からもらっていくのではない。落ちていたから拾っていくだけだ。文句があるなら申してみよ」

「も……文句など……」

震え上がって、慌ててモダンおじさんは床に頭をこすり付けた。しかし、ここが運命の分かれ道と察したのか、声を震わせながら、彼は続けた。

「どうぞ、どうぞお持ちください。文句などありようはずもございません」

「言われるまでもない」

「つきましては、王子様! 差し出がましいことを承知の上で、申し上げるのですが……我が娘も、どうか宮殿に召し抱えていただけませんでしょうか?」

おじさんが必死に言葉を発したのだが、ラッシュも、アーンガットもそんなことは歯牙にもかけていなかったらしく、顔を見合わせた。

家の娘を無視され、よりにもよって、虐待死をさせかけていた召使いを連れて行かれるなど、プライドの高いシルフにとっては屈辱の極みなのだ。

おじさんはさらに深く頭を擦りつけ、傍らの娘を引きずって前に出す。リフは顔を上げ、太った顔面を精一杯の笑顔にしてみせた。

「幼い頃より、貴族様のお役に立てるよう、教育をしてまいりました……必ずや、王子様のご期待に沿える器量を」

「いらん。見苦しいし目障りだ。しかもやかましいし汚らわしい。下がれ」
82 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:24:15.59 ID:kIoz6FWJ0
どこからそんな酷い言葉が出てくるのかというくらい、ラッシュは氷のように冷たくおじさんの言葉を打ち消すと、話は終わりといわんばかりに顔の前でパタパタと手を振った。あまりに我侭で尊大な態度に、シルフ一家が、目を飛び出しそうに見開いて呆然とする。リフなんて、口を半開きにしたまま、寝起きの熊のような顔をしていた。

彼らを無視し、ラッシュはアーンガットを見た。

「事情は後程話す。この、小汚い女に警護をつけよ。傍係として仕えさせる」

「殿下がそう仰るのでしたら、御意のままに」

納得はしていないのだろうが、アーンガットは議論は無駄だと察したらしく、深々と頭を下げた。そして窓枠から足を離し、外に向かって飛んでいった。

ナキはそこで頭を上げ、ラッシュに向かって戸惑いがちに声を発した。

「私を、連れて行ってくれるんですか?」

聞かれ、ラッシュは不機嫌そうにそれに返した。

「仕方がないだろう。俺と共に来い」

「王族様の、宮殿に、私が入れるんですか?」

一言一言を噛み締めるように聞く。ドラゴンの王子は、一つ深く息をついてから、始めて真正面からナキを見た。

「文句があるのか?」

金色の瞳に見つめられ、彼女は声を発することができなかった。その深い色の奥……強気で我侭な態度の奥に、森で一人、湖に沈みかけていた時の、彼の瞳……どこか寂しそうで、心細そうな色を感じ取ったのだった。恐れているのだろうか、ほんの少し……爪の先ほどだが、偉そうな色に支配された目の奥が、何となく揺らいでいるのが感じられた。

そう、彼はどことなく、寂しそうだったのだ。森の中で、どうしてナキは、あの恐ろしいドラゴンを放っておけなかったのか。その合点が、今噛み合った。見た目や口調では分からない。しかし、その丸まった背中というのだろうか。オブラートに分厚く包まれた中心の部分が、ナキ自身が発していた、「寂しい」という部分にどこか触れ合ったような、そんな漠然とした気がしたのだ。
83 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:25:13.87 ID:kIoz6FWJ0
目の前で自信満々にしている男性が、冷たい水の中、力なく横たわっていた巨体と重なる。

ナキは、横目でおじさん達を見た。自分をモノのように過酷に扱ってきた人たちは、今ではしょぼくれて小さく恐縮していた。怒りや憤りなど、そういったものは不思議と全く感じなかった。どちらかというと、ラッシュに跳ね除けられたリフが、少しだけ可愛そうだという気がした。

黙っているナキに業を煮やしたのか、ラッシュは手を伸ばし、彼女の襟元を、大きな手で掴んだ。そして乱暴に少し持ち上げる。

「俺の質問には、はっきりと答えろ。文句があるのかと聞いている」

明らかに怒りを含んだ、威圧するような声だったが、ナキは何故か恐怖を感じなかった。反面、アーンガットは、身を乗り出して奴隷に手を触れている主に、くちばしを震わせながら、目を剥いて驚愕している。

ナキは何度か息を吸って吐くと、か細い声で言った。

「文句、ないです……」

そこで、窓の外に鐘を打ち鳴らす音が響いた。続いて鎧が鳴る音と、馬のひづめの音が響き渡る。
84 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:26:22.95 ID:kIoz6FWJ0
慌てて外に目をやると、沢山の茶色い毛並みの馬に乗った、鎧を着た軍人達が、家の周りに整列していくのが見えた。村人達が散り散りに道を明けていく。数台の馬車も見えた。それぞれ、五匹の白馬に引かれていて、黒塗りの外壁が日の光にピカピカと光っている。

「よし」

ラッシュはナキの襟元から手を離した。次いで、家の扉が勢いよく開かれ、バタバタと足音がした。遠慮も解釈もなしに、銀色の鎧兜を光らせた兵士達が数人、部屋の中に駆け込んでくる。彼らはラッシュの姿を見ると、床に膝をついて、右拳をつま先に押し当てた。もう片方の手は腰の剣を握っている。

兵士の中でも、兜に真っ赤なトサカをつけた男が進み出て、兜の前面を開きラッシュを見上げた。尊大に椅子から立ち上がった彼に、男が声を発する。

「第一王子。ご到着が遅れてしまい、陳謝の極みを申し上げます。紅蓮騎士団、ただ今参上いたしました」

「魔女の気配を連れてきてはいないだろうな」

「道中二度襲撃を受けましたが、撃退いたしました」

「警備を固めよ。呪物避けの結界もだ。四半刻後に、宮殿に向け出発する」

ラッシュはそう言い、横目でナキを見た。

「何をしている。立て。奴隷め」

偉そうに命令し、彼は大股で出口に向けて歩き出した。

「この小屋の住人に、褒賞をくれてやれ」

言い残して、周囲を兵士に固められながら、彼は出口で立ち止まった。そしてポカンとしているナキを睨みつける。

「ぐずぐずするな。紅蓮騎士団、そこな小娘は、俺の血を体に持っている。厳重に連れて来い」
85 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:27:18.75 ID:kIoz6FWJ0
「はっ! 」

兵士の皆さんが口を揃え、一辺の疑問も挟まずに頭を下げる。赤いトサカを兜につけた男が、忠実にナキの近くまで来て、その小さな体を抱え起こした。床に立つが、まだ体はふらついていた。その様子を見て、トサカの男は、ひょい、とナキを持ち上げた。そして子供をかかるように胸の前に抱く。彼が歩き出すと、周囲をラッシュ同様、数人の兵士が固めた。

家から出ると、ナキの、いつもとは違って高い視点に、村人達が地面に平伏している絨毯のような光景が映った。家から馬車までの道には、馬に乗った他の兵士達が、先を真っ赤に塗った、ナキの新潮よりも長い槍を天に向け、両側に並んで道を作っている。

御者が黒塗りの馬車のドアを開くと、ラッシュは頷いて、兵士に脇を固められながら乗り込んだ。その随分後ろの方に連れて行かれながら、ナキは、事態の急さに声を上げることもできず、引きつった顔を周りに向けていた。
86 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/05(火) 21:28:17.95 ID:kIoz6FWJ0
第3話は以上となります。

第4話は明日投稿させていただきます。

おやすみなさいませ。皆様も良い夢をm(_ _)m
87 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(千葉県) [sage]:2011/07/05(火) 23:22:26.68 ID:tPoc3fHX0
乙です!
88 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(北海道) [sage]:2011/07/07(木) 22:33:59.23 ID:RTjOcNMB0
VIPから。期待上げ。
89 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/11(月) 20:45:06.70 ID:H20yO5fe0
お待たせして申し訳ありません。
急な仕事が入ってしまいまして、数日間IN出来なくなってしまいました。
もうしばらくお待ちくださいm(_ _)m
90 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(香川県) [sage]:2011/07/11(月) 21:05:37.67 ID:uGbHtdsy0
面白いから、いつまでも待ってるぜ
91 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:28:03.76 ID:Z9zDZ2260
>>88 >>90 ありがとうございます。大変お待たせしてしまい申し訳ありません
92 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:29:12.80 ID:Z9zDZ2260
4 魔方陣
93 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:30:05.30 ID:Z9zDZ2260
 馬車の中は、想像を遥かに超える程広かった。ふかふかとした毛皮のソファーが広がっていて、ワインなどが入っているらしい樽型のサーバーがいくつも設定されていた。

壁の部分には戸棚があって、そこには大小さまざまなカップが並んでいる。

戸棚の脇には、羊皮紙に血のような色のインクで、奇妙な円と、図形が描かれたものが、貼り付けられていた。

ナキをその中に押し込み、トサカがついた兜の男は、ブランケットを投げてよこしてから、外に出て行った。馬車の中は、どこかに暖炉でもあるのか、うっすらと焦げ臭く、そして温かかった。

扉が閉まり、ナキはソファーに背中を預けたまま、なるべく窓から遠ざかろうとした。腰を浮かせて中を覗き込もうとしていた村人の姿が見えたのだった。

反射的にそこから体を隠し、そして樽サーバーの隣に小さくなる。

しばらくすると、馬車の扉が開いて、兜のトサカを揺らしながら、先ほどの騎士が中に入ってきた。

同様に他の騎士たちも、数人馬車の中に入り込み、ナキを囲むように座る。

居心地が悪くなって背中を丸めた彼女は、その時、馬車がガタンと揺れて走り出すのに気がついた。
94 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:31:13.00 ID:Z9zDZ2260
こんな広く、動くものに乗ったのは初めてのことだったので、思わずソファーを掴んで、体を背もたれに押し付ける。

騎士の男たちは、一様に皆背筋を伸ばし、握りこぶし二つ分ほど足を広げたまま、彫像のように座っていた。

兜の奥の目が見えない。左手は太ももの上に乗せてあり、右手は剣をいつでも抜刀できるように、腰の剣柄に添えてある。

瞬く間に、馬に引かれて馬車はシルフの村を離れていった。

窓から、いつも彼女が料理の材料を買いに行った道や、村の子供達に泥団子などを投げつけられた場所などが目に入る。

まだ少し熱が残っていたので、特に感慨というものが湧かなかった。

それよりも、自分がこれからどうされるのか、そしてどうなってしまうのか、その不安感に押しつぶされるような感覚が体を包んでいた。

今まで殆ど迫害されるような生活を送ってきたため、やはり知らない人というのは怖かった。また殴られるのではないか、とピクリとも動かない騎士達を見て、体を硬くする。

第一、自分を連れて行くと尊大に命令した、他ならぬラッシュが、別の馬車に乗ってしまったことがナキの不安を煽っていた。

自分の意思ではどうにもならない個室に押し込められている。
95 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:32:01.01 ID:Z9zDZ2260
そして何より、ナキは馬車の中というものが、本能的な部分で、とてつもなく苦手だった。両手を握って膝の上に乗せていたが、手の平にじんわりと汗が湧いてくる。

意識せずに、自然に心臓の動悸が早くなった。段々と気持ちが悪くなってくる。

揺れているから、ではなく、それはナキが小さい頃、奴隷商人に馬車に詰め込まれて長い間搬送された、トラウマによるものだった。

足と首に鎖と鉄輪をつけられ、食事も与えられずに、商人の気まぐれで何度も殴られる馬車の中。記憶はうっすらと消えかかっていたが、体はそうではなかった。

胸を押さえて、自分ではそう気づかない反応に戸惑う。顔色が青くなってくる。

緊張と遠慮から、何とかそれを押し隠そうとしていたのだが、自然に体が震える。

これではいけないと思ったところで、不意に周囲に整列している騎士達の姿が、蜃気楼のようにぐにゃりと歪んだ。

大声で笑いながら鞭を振り下ろしてくる、バーノンおばさんの姿と、恐ろしい顔をした奴隷商人の姿が頭にフラッシュバックした。
96 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:33:05.14 ID:Z9zDZ2260
まだ、馬車は走り出してから幾時も経っていなかった。

目が覚めてからも、たいして時間が経っていない。ラッシュは殆ど何も説明をしてくれなかった。

どうやら、自分は森に入って、気を失ってしまい、彼に助けられたらしい。ここまで運んでくれたらしい。体のこの包帯などは、彼が巻いてくれたのだろうか……。

いや、先ほどまでの偉そうな……実際とてつもなく偉いんだろうけれど……態度を見る限りでは、この汚い体を拭いたりするとは思えなかった。

だとしたら、命令されたおばさんたちがやってくれたんだろうか。

気を失っていて記憶もなかったが、それは六年間の生活の中で、ナキにとってはおそらく始めての、シルフたちの優しさだった。

たとえそれがラッシュに命令されてのことだとしても、一概に信じることができない。

それ以前に、ラッシュがどうして自分にここまでしてくれて、そしてシルフの村から外に連れ出してまでくれているのか、その理由をナキは推し量りかねていた。
97 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:34:05.25 ID:Z9zDZ2260
頭がついていかないということもあるのだが、彼女自身は、ラッシュにそこまで優しくされる覚えが全くなかった。

自分がしたことといえば、傷を負って寒そうだったドラゴンに近づいて、杭を抜いてあげてから、火を起こしただけだった。

薬も渡せなかったし、彼の体を水から引き上げることもできなかった。

自分など関係なく、彼は自力で脱出していたような気もする。

それに、自分はただの汚らしい奴隷だ。王族様や貴族様や……自分より上の人たちを助けるのは当然のことであって、感謝をされるなど、考えたこともなかったし、そうは思えなかった。

そこでナキは、寝巻きのポケットに、ラッシュの口元に突き刺さっていた杭が突っ込んであるのに気がついた。

ガタンゴトンと、いっそう早く揺れ始める車内で、心細さを隠すためにそれを強く握る。
98 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:35:11.78 ID:Z9zDZ2260
怯えている風の奴隷に目を留め、トサカ兜の騎士は、少し考えた後兜を取った。

茶色の髪が逆立った、ゴツゴツした顔の男性だった。顔の掘りは深く、ナキの顔と比べると、一倍半ほどの大きさがある。

ラッシュも大きかったが、こちらはまるで巨人だ。黒目が灰色に濁っていて、瞳孔が拡散しているような印象を受ける。

口を開いて息をすると、前歯の部分が尖っているのが目についた。

鬼(ゴブリン)だ。

時折シルフの村にも、織物などを求めてやってくることがある。

貴族が多い種族で、体が大きくて、とても強いらしい。傭兵などが多いことを、ナキはおぼろげに知っていた。

しかし始めて間近で見る鬼は、小さな少女に恐慌しか引き起こさなかった。

安心させようとしたらしく、兜を脱いだことがむしろアダになっていた。

巨大な傷ついたドラゴンを間近にした時、一瞬もひるまなかったナキだったが、熱と緊張と、馬車に乗ったことによる悪寒で訳が分からなくなっている状況では、恐怖を抑えることができなかった。
99 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:36:07.82 ID:Z9zDZ2260
思わず小さく悲鳴を上げ、真正面に座った彼の視線から逃げ出そうとする。

しかし両脇にも同様な騎士がいることに気がついて、ソファーに、小動物が身を守る時のように体を小さくした。

引きつった目で自分を見ているナキに、少しの間視線を落としてから、鬼の男性は口を開いた。

「事情は殿下から聞いた。突然のことで混乱していると思うが、気を楽にしなさい」

静かな声だった。それに拍子抜けし、ナキは唾を飲み込んでから、慌てて姿勢を直した。まだ気分は悪かったが、ソファーの上に正座をする。

「ごめんなさい……」

どうしたらいいのか分からなかったので、とりあえず、失礼なことをしてしまったのなら謝っておかないと……と、深く頭を下げる。

その様子を怪訝そうに見てから、彼は続けた。

「何がだ? 君は、殿下の血を賜ったのだろう。それまでの身分が何であれ、貴族として我々は扱うようにと、厳命されている。宮殿に着くまでに君を警護するが、そのことについて気に病むことはない。仕事であるからな」

「貴族? ……私が?」

驚きのあまり言葉を反芻すると、彼は深く頷いた。話をしていても、背中が伸びきったままで、視線だけがこちらを向いているため、見上げなければ視線を合わせることができない。
それよりも、周囲の騎士達が、真正面を見つめたままピクリとも動かないのが、どこか恐ろしかった。
100 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:37:22.76 ID:Z9zDZ2260
「アルノー様の血を賜った者は、名実共に貴族となる。しかし、君のような立場の子が、傍係に任命されるなど、おそらく帝国の歴史の中でも、他に類を見ないことだろう。我々も、少々戸惑っている。しかし……」

鬼は、少しだけ首を曲げて、ナキに対して頭を下げて見せた。

「君に敬意を払おう。小さい人。我々も、殿下の足取りを必死に捜索していた。よくぞ庇ってくれた」

「敬意だなんて、そんな……私、何もしてないです……」

「殿下の顔の傷は、君が持っている封印釘のものだろう。君に持たせたと仰っていたが、それか……」

そう言い、彼は、ナキが引きつった手で胸に抱いている、宝石のついた杭を見た。

「すこし拝見させてもらってもいいだろうか」

「あ……はい。どうぞ……」

弱弱しく呟いて、素直に差し出す。彼はそれを受け取り、そして目に近づけた。

「やはり、南の魔女か……」

そう呟くと、周りの兵士達が、一斉に首だけを曲げて彼の方を見た。その動作にビクッとして、ナキは、恐怖のあまり涙がこみ上げてくるのを必死に抑えた。
101 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:39:07.79 ID:Z9zDZ2260
逃げ場も何もないここで、一斉に殴られたら、さすがに死んでしまう。表情が読めないのも恐ろしい。

「これは、預かっていてもいいか?」

聞かれて、ナキは空っぽになった手を所在投げにうろうろとさせ、そして寝巻きの袖を掴んでから頷いた。

男は、傍らの兵士に

「宮殿についたら、魔法解読士に回せ」

と命令してから渡した。そして縮こまっているナキに目をやる。

「申し遅れたが、私の名前はリスタルと言う。シャディーン家の総督をしている。よろしく」

「はい……私はナキです」

恐縮しながらそう返す。見たところ、モダンおじさんほどの年齢のようだが、彼とは違って全然落ち着いている。

しかしナキにとっては、いつ彼が激昂してくるのかが不安だった。これだったら、いつもプリプリ怒ってくれていた方が気が楽だ。
102 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:40:06.04 ID:Z9zDZ2260
どうにもナキが落ち着かないのを見て、リスタルは顎に手を当て、隣の兵士になにやらボソボソと指示をした。

命令された兵士が、鎧を鳴らしながら敬礼し、そして馬車室内に設置されていたクローゼットの蓋を開け、中から小箱を取り出す。

それを受け取り、彼はずいっとナキに差し出した。そして小箱を開ける。

中には、ピンク色やら紫色やら、様々な色の見慣れないものが入っていた。

甘いお酒の匂いがする。親指の先ほどの大きさで、星の形や、ハートの形をしているものもある。小さな砂糖の粒がちりばめられていた。

しばらくして、それが、リフがよく食べていたウイスキーボンボンだということに気がつく。

一度バーノンおばさんに命令されて作ったことがあったが、難しくてうまくいかなかったのだ。透き通るような薄い糖蜜の殻に、お酒と蜜液が詰まっているお菓子だ。

もとより、相当作るのが難しいため、ちゃんとしたパティシエでないと、こんなに綺麗に作るのは無理なものだ。

「本当は軍規で禁止をされているのだが、私は馬車がどうにも弱くてな。これを持つようにしている。食べてみなさい。気が楽になる」
103 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:42:36.43 ID:Z9zDZ2260
ナキは、少しの間伺うようにリスタルを見ていた。やがて、砂糖の匂いに負けて手を伸ばし、一つだけ摘んでみる。

口の中に入れると、軽い感触と共に砂糖殻が割れ、口の中にわずかに苦い、ふわりとした花の香りと共に、甘い味が一気に広がった。思わず体を硬くして、口中のその感触に酔いしれる。

だいぶ長いことそれを舐めて、ナキは口の中から感触がなくなった頃、やっと顔を上げた。本当だ。すこし楽になったような気がする。

リスタルは小箱をナキに握らせ

「内緒だぞ」

と言ってから、周りの兵士達を見た。

「お前達もだ」

「「「無論であります」」」

微動だにしていなかった兵士達が、前を向いたまま口を揃える。ナキが眼を閉じて舐めている間に、彼ら全員にも配られていたらしく、全員兜の下の口がもぐもぐと動いていた。

その様子を見て、やっとナキは小さく笑った。みんな一様に、親に隠れてこっそりお菓子を食べているような、怖い鎧の人たちなのに、そんな感覚を受けたのだ。
104 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:43:47.38 ID:Z9zDZ2260
ナキが口元を崩したのを見て、リスタルは一人で深く頷いてから、背もたれに寄りかかった。

「私からのお礼ということで、その小箱は君にあげよう」

「一個でいいです」

慌ててナキがそう言うと、彼は首を振った。

「私は沢山持っている。いいからもらっておきなさい」

その言葉を聞いて、少し迷った後頷く。手の中の、ウイスキーボンボンの小箱が少し温かいように感じた。

人から何かをもらうというのは、初めてのことだ。それに、こんなに沢山のお菓子を手の中に持ったのも初めてのことだ。

嬉しい、と単純にナキは思った。もう一つ食べようと思ったが、今は蓋を閉めておく。

脇に置くと、リステルは鎧の前で腕を組んだ。

「さて、宮殿に着く前に、君に何点か質問したいことがある。正直に答えて欲しい」

抵抗する理由もないので、素直に頷く。それに、ウイスキーボンボンを食べたことで少し元気が出た。

そういう魔法でも掛けられていたのだろうか。

彼女にはよく分からないことだったが、熱が出ていた体が、だいぶ楽になったように思える。
105 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:44:48.15 ID:Z9zDZ2260
聞かれたのは、ラッシュを見つけてからのことだった。

ナキが奴隷であることには、リスタルは殆ど触れなかった。

見れば分かることだし、何より彼はそれを気にしている態度は全くなかった。

何度か言われたが、ラッシュが血を与えたことで、既に自分は貴族の身分に格上げされているらしい。

どうやら、王族直属の給仕係、メイドとして、ラッシュが宣言した瞬間に既に位置づけられているようだった。

その事実に驚き、またナキは戸惑ってもいた。

昨日までは、寒い中震えながら家事をしていたのだ。それがいきなり貴族になった、と言われても、実感など湧きようもなかった。

しかし同時に、高熱に苦しんでいたのが嘘のように軽くなっていたのは事実だった。

リスタルが説明してくれたことによると、ドラゴンの血は、あらゆる病気を治す効果があるらしい。

さすが王族様なんだなぁと、特に疑問は抱かなかったが、ナキはラッシュの顔についていた傷を思い出した。
106 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:45:58.91 ID:Z9zDZ2260
足の怪我は問題ないようだったが、顔の、あの杭で打たれた部分はふさがっていなかった。

血は出ていなかったのだが、痛々しい。

あの杭は、何か特別なものだったのだろうか。

今考えてみれば、自分が手にかければ簡単に抜けたのに、あの大きなラッシュが、鎖を引きちぎれなかったのもおかしな話だった。

いずれにせよ、顔に傷をつけるなんて、ひどいことをする人もいるものだ。そんなことを思いながら、リスタルの説明を聞く。

自分はどうやら、これから帝国サバルカンダに連れて行かれるようだった。

王族であるドラゴンは、それぞれの大陸に分かれて、土地を統治している。アルノーというのは、ドラゴンを指す敬称だ。

ナキはよく知らなかったし、奴隷の身分で知っていても役に立つことではなかったのだが、ラッシュは本当に、サバルカンダの王子のようだった。

いまいち実感が持てなかったのだが、彼の話を聞いて、とりあえず頷いておく。

確か、ラッシュは一番最初に会った時、帝国の者かとナキに聞いた。どこか、何かを恐れているようだった。

最初は、その帝国の人が彼をあんな目に合わせたのかと思っていたのだが、そこに戻るというのもおかしな話だ。
107 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:47:38.78 ID:Z9zDZ2260
「しかし……殿下に施された封印術を破る術を、どこで学んだ? 見たところ、君は小人だろう? 小人族にそんな技術があるとは、驚きだ」

リスタルにそう言われ、ナキは少し考えてから答えた。

「私は、小人なんですか?」

「分からないのか? そう見えるがな」

頷いて、彼は続けた。

「特に意識をして施したわけではないのか?」

「何をですか?」

意味がよく分からずに、オウム返しに聞き返す。

リスタルは、最初とぼけられていると思ったらしかったが、ナキのきょとんとした目をしばらく見つめてから、小さく呟いた。

「……反呪の才能があるのか。小人にしては珍しいな……」

首を傾げたが、彼はそれ以上は話すつもりはないらしく、口をつぐんでしまった。
108 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:51:17.64 ID:Z9zDZ2260
最初は恐ろしい外見だと思ったが、リスタルは想像以上に優しい人のようだった。

人の、そんな温かい空気に触れたのは、ナキは初めてのことだった。

よく夜中に外に蹴りだされ、家族が寝静まるまで外を徘徊していた時、窓から他の家の、温かい家族団らんの様子を見ていたことがあった。

お父さんに子供が抱きかかえられているような姿も、何度も窓の外から見ていた。

不意に、父がいたらこんな感じなのだろうかと思う。黙り込んだナキに、リスタルは自分のブランケットを投げてよこして言った。

「まだしばらくはかかるだろう。眠るがいい」

促されて戸惑ったが、まだ体力が回復していないのを肌で感じる。

本当に、ラッシュが血を飲ませてくれなかったら命が危なかったかもしれない。

周りの兵士達も、当初のガチガチの様子が少し崩れてきていた。

さすがに日が中天に昇るまで微動だにしなかったのは、キツいらしい。あぁ、生き物だったんだ……と少し安心する。

体にブランケットをかけ、指示されたとおりに目を閉じる。

ガタン、ガタンと馬車は揺れていたが、ウイスキーボンボンのアルコール度数が高かったこともあいまってか、ナキはすぐに眠りに落ちていった。
109 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:52:24.52 ID:Z9zDZ2260
少しリスタルと話したことで、馬車の中の不安などは、わずかに薄れてきていた。しかしやはり、眼を閉じると恐怖が襲ってきたが、眠気の方が強かったのだ。

次に目を覚ました時は、あたりはだいぶ暗くなっていた。

日は既に落ちて、空には月が浮かび上がり始めている。目を擦って息をつく。

外に目をやると、一面の銀世界が広がっていた。畑の道を進んでいるらしく、どこまでも平坦な、雪が敷き詰められた空間が広がっている。

少し離れた場所に、雪の中で作物を育てる雪作をしているのか、動いている数人の農夫の姿が見えた。

日が落ちたので、背に収穫した作物を積んで、森の方に歩いていく。

その光景をぼんやりと見て少し咳をしたナキに、ずっと起きていたのか、リスタルが声をかけた。
110 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:53:16.01 ID:Z9zDZ2260
「具合はどうだ?」

「だいぶよくなりました……すみません」

寝ていたことを怒られると思って、反射的に姿勢を正して謝ってしまう。それに特に反応を返すでもなく、彼は頷いて言った。

「もうじき野営で馬車は止まる。気分も少しは良くなるだろう」

「帝国までは、まだかかるんですか?」

「紅蓮騎士団の馬は速いから、明日の夜までには着くだろう。私たちは、偶然この近くを捜索していたので、殿下の召集に応じることができたんだ」

家から出て、こんな遠くで夜を明かすというのは、初めてのことだった。まだ緊張が抜けないが、少しだけ期待が胸に湧く。

「帝国に着いたら、私はどうなるんですか?」

伺うように聞いてみる。リスタルは少し考えてから、顎に手を当てて口を開いた。

「君は、曲がりなりにも殿下の血を賜っている。眷属として殿下の身の回りのお世話をすることになるだろう。最も、はじめは教育から入るだろうがな……貴族の元で働いたことはあるのか?」

「そんなこと、全然ないです……」
111 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:54:03.98 ID:Z9zDZ2260
「そうか。紅蓮騎士団は平民出身も多い。私たちに偏見はないが、宮殿の中では辛い目に遭うかもしれない。それは覚悟しておいた方がいいだろう」

親切心からの忠告だったのだが、ナキは体を包んだ緊張感がさらに増すのを感じた。

自分は小汚いし、生まれだって定かではない。気品もない。

そんな自分が、貴族の中に入って生活できるか、と考えればよく分からないところではあった。

何しろ、ナキにとってはまるで未知の世界なのだ。

リスタルがまた口を開きかけたところで、不意に馬がいななき、馬車が止まった。

合図も何もなかったので、体制を崩したナキが、リスタルの太い腕に支えられる。

馬はそれぞれ、何かを恐れているらしく、怒り声のようなうめきを発している。

それを、周囲を警護していた騎士団の人たちが、必死になだめようとしていた。
112 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:55:20.10 ID:Z9zDZ2260
「警備を固めろ。魔女の魔方陣かもしれん」

リスタルがそう言った途端、周りの兵士達が、腰の剣を抜いてナキを守るように、馬車の中で円陣を組んだ。

突然のことに硬直しているナキを、兵士の一人が腕でソファーに押し付ける。

それを確認し、リスタルは勢いよく馬車のドアを開けた。

ナキは知らなかったが、これには、もし何者かに攻め込まれた場合、中から逃げ出す退路を作るという意味があった。

火でも射掛けられてしまったら、閉鎖された場車内にいれば、それだけ危険なのだ。

外の冷たい空気が流れ込んでくる。剣を抜いて右脇に構えた彼の背中越しに、ナキは何か、白いものが無数に動いているのを見た。

馬車と、陣を組んだ騎馬兵を取り囲むようにして、瞳の部分を青白く光らせた犬のようなものが動いている。

月明かりに照らされたそれらは、大きかった。それぞれ子供一人分くらいはあるだろうか。

何だろう、と思う間もなく、ナキはたいまつに照らされたその一角を見て、引きつった悲鳴を上げた。

骸骨だった。
113 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:56:28.38 ID:Z9zDZ2260
正確に言うと、犬なんかよりももっと大きい、四足獣の骨だ。

所々、腐っていると思われる、灰色の肉片のようなものが垂れ下がっている。

あばら骨も何もかもが剥き出しだ。本当に骨なら分解してしまうはずなのだが、それらはカタカタと、風に鳴る奇妙な音を響かせながら近づいてきていた。

眼窟にあたる部分には、ランプの明かりのような青白い光が入っている。炎のような形なのだが、不思議と熱さと光を感じさせない。

その不気味な光を目にした時、ナキの左目に鋭い痛みが走った。

思わずくぐもった声で呻いて、手で覆う。何か刃物を抉りこまれたかのような痛みだった。それは一瞬だったが、自然と涙が溢れてくる。

「魔方陣だ! 一匹も逃すな! 」

リスタルが大声を上げ、その気味の悪い生き物に全くひるまず、足を踏み出した。
114 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:57:40.10 ID:Z9zDZ2260
そこで、ナキ達の馬車の前を走っていた、大き目の馬車のドアが開いた。

そして中から、周囲を兵士に固められながら、コートのポケットに手を突っ込んだ不遜な態度で、ラッシュが出てくる。

彼の視線は、驚くほど険しかった。鼻元を物凄く不機嫌に歪ませ、彼はリスタルの脇に立った。

「……魔女が、懲りずに俺に何の用だ?」

胃の辺りが縮こまるような威圧感をはらんだ声を、彼は発した。

「殿下、お下がりください」

進み出た兵士の一人を手で制し、彼は続けた。

「北のアルノー直轄、紅蓮騎士団と知っての狼藉か。先日俺を襲った一団も、貴様らだな」

彼の問いに、骸骨達は答えなかった。先頭に出ていた一匹が、体中の骨をカタカタ言わせながら体を丸め、跳躍する。

まっすぐラッシュに向かって来たが、リスタルが巨大な体で剣を振るうと、まるでボールのように簡単に吹き飛ばされ、少し離れた地面にぶつかって、粉々に砕け散った。
115 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:58:29.40 ID:Z9zDZ2260
また何匹かラッシュに向かって飛び掛ってきたが、ポケットに手を突っ込んだままの彼の周りで、騎士団の人たちが剣を振るい、たちまち動かぬ骨片にしていく。

少しして、また一匹が前に進み出た。それが口を開き、暗く向こう側が見えた腹の中から、奇妙にブレた、老婆の声のような音を出した。

「奇妙な波動を感じて来てみれば……何故水の封印が解けている……ラッシュ・クンドルフ……」

その問いかけを聞いて、ラッシュは目の下の傷を指でなぞってから、馬鹿にするように笑ってみせた。

「あれしきで俺を封じた気になっていたとはな。地獄の使いも、たいした魔法の使い手ではないようだ」

「口の減らぬ餓鬼めが……我の封印は完璧だったはずだ……我以外に、水の印を持つ者がいるとでもいうのか……」

骨犬はそう言うと、首を回してゆっくりと周りを見回した。

その目が、馬車の中で縮こまっていたナキに留まる。

その青白い眼球に見つめられ、途端、またナキの左目に突き刺すような痛みが走った。涙が止まらない。

体を丸めたナキに、骨犬はガチガチと歯を鳴らして、うなるように言った。
116 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 20:59:14.94 ID:Z9zDZ2260
「あ奴か……あ奴が貴様を解き放ったとでも言うのか……」

「図が高いぞ魔女め。俺を恐れたか」

ラッシュが嘲るように言うと、骨犬はうなりながらそれに返した。

「護衛に固められた身で何を言う……貴様は死ぬはずだった……」

「しかし、現にこうして生きている」

「予想外の事態といわざるを得ぬ……」

骨犬はそう言うと、喉の奥から、嘲笑うような声を発した。

「粋がりおって……貴様の度量など、たかが知れている。貴様は何も守れない……」

「何い?」

押し殺した声でラッシュが言う。
117 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 21:00:12.33 ID:Z9zDZ2260
途端、骨犬が身をかがめた。

そのまま支えを失ったように地面に崩れ、次の瞬間、ナキ達の馬車の近くにいたモノが、不意に弾丸のような勢いで彼女に向けて飛び上がった。

不意を突かれた兵士達の間を抜け、その一匹が突進してくる。しかし途中で、風を切って飛来した大きな影に叩き飛ばされた。地面に転がり、骨をぶちまける。

飛び掛ってきた影は、夜の空をくるくると回ってから、ナキ達の馬車に降り立った。くちばしをカチカチと鳴らしながら、鎧鷲のアーンガットがブツブツと呟く。

「……鳥目なんじゃから、夜くらい休ませて欲しいものですな……」

だが、砕けた骨犬とは別の……少し離れた場所の一匹が、変わらない調子で口を開く。

「顔は覚えたぞ……娘。ラッシュ・クンドルフ。次こそ貴様はお仕舞いだ……貴様の大事なモノを全て引き裂いてくれる……絶望の顔を、また我に見せておくれ……」
118 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 21:01:05.52 ID:Z9zDZ2260
ラッシュは一瞬、ナキの方を向いた。その瞳が揺らぎ、彼は次いで折れんばかりに歯を噛み締めた。そして右手で目を覆う。

「無礼者がァ!」

激昂の叫び声が夜の乾いた空気を突き、彼は右手を勢いよく横に振り……次の瞬間、その両瞳が強い金色に光った。

それに睨みつけられた骨犬達が、口々にかすれた絶叫を上げた。

一拍遅れて、周囲を見開いた目で見つめたラッシュの眼前で、全ての骨犬の体から、誰も火種を投げつけたわけでもないのに、ボウゥッ! と音を立てて炎が吹き上がった。

数匹の頭部が炎に巻き上げられ、地面に次々と転がっていく。そのうちの一つがラッシュの目の前に止まった。

その口が開き、ケタケタという不気味な甲高い笑い声と共に、老婆の声が響く。

「成る程、成る程。炎の力はもう十二分というわけか……しかし覚えておくがいい小僧……貴様にはもはや、安息の場所はない……安息の権利もない……分かったらほら、我の膝においで……ラッシュ……我は」

そこで老婆の声は途切れた。ラッシュが無表情で、炎を上げている骨犬の頭部を踏み潰したのだった。そのままつま先で炭になるまですり潰し、彼は地面に唾を吐いた。

「変態め……出るぞ」

一言だけ言い残し、ラッシュはナキの方を見もせずに、自分の馬車へ戻った。雪の中で炎を上げていた気味の悪いモノ達が、すぐに燃え尽きて崩れていく。
119 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 21:01:58.94 ID:Z9zDZ2260
ナキは涙が止まらない左目を抑え、こちらを一瞥もしないラッシュを、もう片方の目で追った。

どうして目が痛くなったのかは全く分からなかった。いや、それよりも……骨が動いていた。あんなもの、見たことも聞いたこともないし、とてつもなく不気味だった。なんだか、触れてはいけない、汚物のような邪悪な気分がした。

そして何より……あのうちの一匹は、私に向けて飛び掛ってこなかっただろうか。

リスタルが

「周りを探れ! 確認次第、安全な場所に移る。斥候部隊は先行して、第二野営の予定地へ向かえ!」

と言ってから、呆然としているナキに近づく。

「大丈夫か?」

と聞かれ、ナキは目の涙を拭ってから何度も頷いた。その頭を軽く撫で、リステルは近くの馬にまたがって、闇の中に消えてしまった。

心細さを抑えられずに、それを見つめる。

耳に、あの不気味な生き物が発したけたたましい笑い声が、いつまでもこだましていた
120 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2011/07/15(金) 21:03:20.11 ID:Z9zDZ2260
第4話は以上となります。

続きは、時間が空き次第投下させていただきます。
121 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(香川県) [sage]:2011/07/15(金) 22:08:44.47 ID:oHSdNOH+0
乙!次も楽しみにしてるぜ
122 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(千葉県) [sage]:2011/07/16(土) 13:34:48.99 ID:VaB1LAQT0
乙!
123 :Gファルコン [sage]:2011/07/16(土) 15:41:28.50 ID:WTvdeL7DO
こちらも面白そうですね。三毛猫さん頑張って下さい!
124 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2011/07/17(日) 00:42:52.22 ID:ODN1qMXm0
お疲れ様です。次も楽しみにしてます!!
125 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西・北陸) :2011/07/24(日) 10:11:14.63 ID:mHOcCTIAO
期待age
126 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/09/28(水) 21:47:30.57 ID:x63XUp0+o
まだかな
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