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律「閉ざされた世界」 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

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1 :にゃんこ [saga]:2012/01/17(火) 18:37:20.52 ID:mvyE/vRa0
を繋ぐ。
決して離れないように、二度とこの手を離すものかと強く繋いでる。
私達は指を絡ませ、お互いの体温を肌で感じ合う。
もう何も失くしたくはないから。
失くすわけにはいかないから。

そして、私達は繋いだ手を更に繋ぐ。
お互いの手首周辺を包帯で巻き縛って、そのままで固定する。
もうこれで私達が離れる事はない。
離れたくない。
ずっと皆、一緒だ。
安心。
だけど、同時に不安感。

皆で居るのは幸せだ。
皆と一緒に居れば、どんな困難でも笑顔で乗り越えていけそうな気だってする。
何だって乗り越えられる。
それは私だけが感じてる事じゃない。
ここに居る全員がそう感じてるんだって、私には確信出来る。
それは皆の手が強く繋がっているから。
離したくない、離れたくないという強い意志を、皆の手のひらから感じるからだ。
嬉しい……。
本当に嬉しいんだ。
こんなにも大切な仲間が私にも出来た事が。
生涯の仲間どころか、永遠に一緒と確信出来る仲間達に出会えた事が。
私達の卒業で小さな後輩が少しの間だけ私達と離れる事になりはしたけど、
それでも私達の想いは絶対に揺るがない。揺るがしちゃいけないんだ。
だから、あの夏休みの日。
離れていた距離と離れていた時間を埋めようとして、私達は小さな天使と一緒に……。
そうして、私達は今ここに居る。

でも、胸の中で激しく動く鼓動が私に不安を覚えさせる。
私達は手を繋いでる。
自分達の意思で強く強くお互いの手を繋いでいる。
離れないために。
繋いだ手を更に包帯で強く繋いでまで。
これで私達はずっと一緒に居られる。居られるはずだ。
それは私が心の底から望んだ事のはずなのに、心の底からの笑顔を皆に向けられなくなった。
私達を繋いでくれたもう一つの絆である音楽すら、心の底から楽しめなくなってきて……。
そんな偽物の希望、偽物の笑顔と偽物の音楽に溢れた日常の中で、不意に私は気付く。
ひょっとしたら、私達は手を繋いでるんじゃなくて……。

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2 :にゃんこ [saga]:2012/01/17(火) 18:38:08.12 ID:mvyE/vRa0





「ちょっと、律。
頼んでおいた資料がまだ提出されてないわよ」

和が眉を歪めて、私に向けていつものお説教を始める。
こんな時の和は少し苦手だけど、そもそものお説教の原因は私なんだから仕方がないか。
でも、提出する予定の資料なんかあったっけか?
私は軽く頭を掻きながら、首を捻って和に訊ねてみる。

「あれ? そうだったっけ?
ごめんな、和。何の資料だったっけ?」

「やっぱり忘れてたのね……」

大きな溜息。
それから和は、仕方ないわね、と言わんばかりの苦笑を浮かべた。
どうやら本気で怒っていたわけではないらしい。
怒ってはいないけれど、元生徒会長の立場だった者として、
今の私達のリーダー的立場として、とりあえず私に注意しておくべきだと思ってくれたんだろう。
高校時代、そんな和の真面目さはたまに窮屈に感じる事もあったけど、
こんな状況ではとても頼もしくて頼り甲斐があるし、
和はきっとこんな状況でも慌てないために皆に厳しくしてたんだろうと思う。
流石は私達の生徒会長だ。

一方、軽音部元部長の私はと言えば、
企画こそ言い出しっぺなんだけど、後の事は澪や梓に丸投げしがちだ。
普段ならそれもいいかもしれないけど(いや、あんまりよくないかもしれないけど)、
こんな状況でリーダー的存在になれる自信は無かった。
卒業旅行でロンドンに行った時も散々だったもんなあ……。
最近気付き始めてきたんだけど、どうも私は突発的状況ってやつに弱いらしい。
予想もしてなかった状況に追い込まれると、それこそ澪並みに取り乱しちゃうんだよな。
普段はぼんやりしていて駄目駄目だけど、
本番には強いってキャラがカッコいいのに、私ってばそんな性格とは正反対みたいなんだ。
漫画の主人公にはなれなさそうなキャラ性で、ちょっと落ち込む。
まあ、誰だってそんなもんだろうとは思うんだけど。
唯は除いて、だけどな。
3 :にゃんこ [saga]:2012/01/17(火) 18:38:41.67 ID:mvyE/vRa0
苦笑を崩さず、眼鏡を掛け直しながら和が続ける。

「昨日、書店で周辺地図を探してきてって頼んでたでしょ?
まあ、有り余るくらい食材を集めてきてくれたのは助かったけどね。
大方、律と一緒に行ってた唯が「地図よりごはんが大切だよ!」とか言い出したんでしょう?」

「大当たり。流石は唯の幼馴染みだな」

感心して、軽く拍手する。
和の御推察通り、昨日、私は唯の提案でありったけの食材を集めていた。
それで調理は私と澪でやって、豪勢な食事を皆に振る舞ったんだ。
こんな状況だ。
食事くらいは豪勢にやってやらないと、気が滅入るじゃないか。
和もそれを分かってくれていたのか、昨日は書類……地図については私達に訊ねなかった。
きっと食事で盛り上がる皆に水を差したくなかったんだろうな。
それで今日になって落ち着いてから、私に頼んでおいた地図の件を訊ねる事にしたんだろう。
私は自分の迂闊を恥ずかしく思いながら、今度は大きく和に頭を下げた。

「でも、ごめんな、和。
皆に美味しいごはんくらいは食べさせたいと思った瞬間にさ、
和に頼まれてた事を全部忘れちゃってたみたいだ。
和も和で大切な仕事をやってくれてるのに、
私なんか自分の事ばかり考えてみたいで申し訳ないよ」

「いいわよ。焦る事でもないし、律のごはんも美味しかったしね」

私の謝罪に和は笑顔で応じてくれた。
久し振りに会ったせいかもしれないけど、何だか高校時代よりもずっと大人っぽく見える。
きっと大学でも持ち前のリーダーシップを生かして、皆を引っ張っているんだろう。
ほとんど何も変わってない私達とはえらい違いだよな。

不意に和が、笑顔から真剣な様子の真顔に表情を変える。
笑顔になるべき場所と、真顔になるべき場所を弁えてるって事だ。
私も和に褒められて笑顔になりそうだった自分の表情を引き締めた。
私の表情を確認すると、和が重い口振りで話し始める。
4 :にゃんこ [saga]:2012/01/17(火) 18:39:09.01 ID:mvyE/vRa0
「でもね、律。
焦る状況じゃないし、焦ってどうなる状況でもないけれど、
打開策を練らなきゃいけない時ではある事も分かってくれてるわよね?
こう見えて私も動揺してるんだから、少しは律を頼りにさせてもらっていいかしら」

「頼りにって……、私なんかでいいのかよ?」

「律しか居ないし、律がいいと思うわ。
こんな無茶苦茶な状況、解決出来ないまでも打開策を考えられるのは律か唯しか居ないと思う。
でも、唯は憂につきっきりだし、頭を使うのは苦手な子だものね。
だから、こんな無茶苦茶な状況に適応出来るのは、いつも無茶苦茶な律しか居ないと思うのよ」

「褒めてんのか? 貶してんのか?」

「褒めているのよ」

真顔で和が答える。
そもそも和は冗談を言うタイプの人間じゃない。
非常に微妙だけど、一応褒めてはくれているんだろう。
それにこんな無茶苦茶な状況ってのは、確かに和の言葉通りだ。
軽く溜息を吐いてから、私は立っていた場所から数歩歩いて、
屋上の柵から身を乗り出して私達の母校の桜高を大きく見渡してみる。

グラウンドには誰も居なかった。
校庭にも、通学路にも、廊下にも誰も居ない。
誰も、居ない。
夏休みだからってわけじゃない。
夏休みだって部活動の生徒は居るはずだし、
仕事をする先生や補習する生徒だって大勢居るはずだ。
でも、やっぱり、
誰も、居ない。

学校だけじゃない。
町の方に視線を向けても、まだ午前十時過ぎだってのに、車の一台も見かけない。
通りすがる人すら居ない。
こんな事になってから、何十軒もの家を訪ねてみた。
どの家にも誰も居なかった。
会話の音も聞こえない。
人の生活音すらしない。
風や風に靡く植物の音程度しか聞こえてこない。
誰も、居ないんだ。

私達以外、誰も居ない世界。
それが、あの夏休みの日以来、私達に訪れてしまった無茶苦茶な状況だ。
5 :にゃんこ [saga]:2012/01/17(火) 18:41:25.64 ID:mvyE/vRa0


今回はここまでです。
りっちゃん視点で進む予定なので、お願いします。
あと申し訳ありません。
映画のガンダム00とは関係ないです。
6 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/01/17(火) 18:54:44.06 ID:WgmdyFLfo
ふむ・・・なかなか気になる
7 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/17(火) 22:07:02.70 ID:+OFrnffDO
超期待
8 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/01/18(水) 08:54:46.06 ID:rLQ6KvZR0
申し訳ないのだが、行間空けてくれないかな?
読みづらくてかなわない
9 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/18(水) 12:52:40.17 ID:JNMbRxJVo
前作面白かったんで今回も楽しみにしてます
10 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 18:58:21.73 ID:nNWGVWep0





二週間前、大学と高校が夏休みに入った事もあってか、
梓から軽音部の新入部員を本格的に私達に紹介したいというメールを貰った。
紹介してくれる場所は音楽室こと軽音部の部室だそうだ。
……ん? 軽音部の部室こと音楽室だったっけ?
まあ、いいか。

梓からたまにメールは貰ってたけど、
新入部員がどんな子なのか私はまだよくは知らなかった。
ムギみたいな子と眼鏡の子が入部してくれたって事を辛うじて知ってるくらいだ。
その子達がどんな子なのか気になりはするけど、それ以上の事を私は梓に訊ねなかった。

そういや、新生軽音部には憂ちゃんと純ちゃんも入部してくれているらしいし、
それもあってか梓のメールの文面からは、本当に楽しそうな梓の想いが感じられた。
新入部員の事をあれこれ聞くよりも、それだけで十分なんだと私は思った。
大体、卒業後にも無闇に口を出すOGが一番嫌われるって話もよく聞くしな。

だから、卒業して以来、
私はわざと梓や憂ちゃん達と連絡を取るのを少なくしていた。
勿論、梓の事が嫌いになったわけじゃない。
梓が一人で軽音部を引っ張っていけるんなら、
私があれこれ口出しするのは大きなお世話ってもんだろう。

でも、もしも梓に何か困った事があれば、いつでも助けてやりたい。
一人ではどうも出来ない問題に直面して、
梓が私に頼ってきたなら、何だって手助けをしてやりたい。
それが元部長ってやつなんだからな。

それが元部長ってやつなんだが……、
でも、梓の奴、私に頼ってくれるのかなあ。
あいつは唯に懐いてて、澪を慕ってるから、
私に悩みを相談してくれる事はあんまりないかもなあ……。
11 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:04:08.68 ID:nNWGVWep0
まあ、それはそれで仕方が無いか。
万が一……、いや、百が一……、いやいや、十が一……かな。
自分で考えた事ながらちょっと悲しいが、
それくらいの確率で梓が私に悩みを相談しなかったとしても、
それは梓が悪いわけじゃなくて、相談されなかった私の責任なんだ。
梓を責める気はない。

それでも、澪か唯かムギか、
流石にその中の誰かには相談するはずだし、
澪達も梓が悩んでる事を知れば、私に教えてくれるだろう。
その時、私は陰ながら、間接的にでも梓の助けを出来れば嬉しいと思う。


「……嬉しいな」


だから、梓からメールを貰った時、私は思わずそう呟いてた。
悩み相談じゃなくて新入部員紹介のメールだったけど、
これといった悩みが無いんならそっちの方がずっといいよな。
私は久し振りに梓達と顔を合わせられる事が嬉しくて、
梓から貰ったメールを何度も見ながら、雑誌を積み上げた即席ドラムを叩いた。

梓の事だ。
きっと単に新入部員の紹介をするだけじゃなくて、
新生軽音部のセッションを見せてくれるつもりのはずだ。
サプライズだの何だのって私達に内緒にしながら、それこそ今頃は猛練習に励んでるに違いない。
それでそのサプライズのセッションが終わった後、
「もう先輩達が居なくたって、軽音部は安泰なんですからね」とか言うつもりなんだろう。
相変わらず生意気な後輩め。

そうだとしたら、軽音部の先輩の元部長としてはじっとしてるわけにゃいかん。
新生軽音部のセッションが終わった後で、
元祖軽音部の華麗なセッションを見せてやらないとな。
それで私達の超絶演奏に圧倒される梓に「まだまだだね」と言ってやるのだ。
ふふふ、首を洗って待っているがよい、梓よ……。

だけど、大学での新生活に力を注いでいたせいか、
そんなに怠けていたつもりはなかったのに、予想以上に私のドラムの腕は落ちていた。
ついこの前までは、ハイテンポの『カレー』や『ぴゅあぴゅあ』が簡単に叩けていたはずだ。
それが今じゃローテンポの『天使』や『ホッチキス』でも結構きつかった。
音楽から離れる時間が高校時代から少しだけ増えた事が、
そのまま今の私の実力に跳ね返っちゃってるって感じだな。
それこそ、始まりだけは軽いノリで、知らない内に厚くなったってか?
ううむ、恐るべし、音楽という魔物。
12 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:06:03.58 ID:nNWGVWep0
でも、そんな事で落ち込む私じゃない。
むしろ逆に燃えてきた。
連絡を取ってみると、唯達の方もかなり実力が落ちてしまってるらしかった。
これじゃ梓達を見返すつもりが、逆になめられたままになってしまう。
そうはさせん。そうはさせんぞ。
だから、それから私達は時間を見つけては四人で集まって、
新生軽音部に負けない音楽が演奏出来るように猛練習を積んだんだ。

そうして迎えた新入部員紹介ライブの当日
(ライブってのは私達の中で勝手に決めた事だけど)、
登校中に私達がよく合流してた横断歩道の前で、私達四人は梓を待っていた。
待ち合わせの予定時刻よりはかなり早かったから、
私達を出迎えてくれる梓達がまだ来てないのは分かってた。

でも、私達は一刻も早く待ち合わせ場所に来たかった。
新入部員の紹介を楽しみにしてるからってのも勿論あるけど、
梓達の前でまた演奏出来るのが、四人ともすごく嬉しかったんだ。
どれだけ実力を取り戻せたのかは分からない。
ひょっとしたらひどい演奏になるかもしれない。

だけど、そんな事よりも私達は演奏したくてたまらなかった。
やっぱり、私達は音楽が大好きなんだろうと思う。
きっと音楽という魔物に魅入られちゃってるんだろうな。
ううむ、恐るべし、音楽という魔物。
13 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:06:36.70 ID:nNWGVWep0
「あれっ? 先輩達、もう着いてたんですかーっ?」


待ち合わせの予定時刻の大体十分前、
普段より少しだけ甲高いあいつの声が周囲に響いた。
ああ……、久し振りだな……、って思った。
卒業以来、電話で何回も話した事があるのに、
電話で聞くのと直接聞くのじゃ本当に全然違う。
それだけあいつは私達の心の中に残ってる存在なんだな。

私は自分が笑顔になるのを感じながら、
あいつの……、梓の声が響いた方向に視線を向ける。
私達に向けて駆け寄って来る梓と憂ちゃんの姿、
その後ろから少し遅れて歩いて来る純ちゃんと和の姿が見えた。

あれ? と私はちょっとだけ首を捻った。
どうして軽音部じゃない和が居るんだろうか。
梓からのメールにも和が来るなんて書いてなかったし……。

ま、いいや、と私は首を振る。
ひょっとすると憂ちゃんが和に頼んで来てもらったのかもしれない。
あんまりそう見えないけど、憂ちゃんだって和の幼馴染みなんだもんな。
それに軽音部でこそないけど、和だって軽音部を支えてくれた一人なんだ。
仲間外れにするのはあんまりだろう。
久し振りに和に会えるのは私だって嬉しい。


「おーい、あず……」


「あずにゃーんっ!」


私が手を上げて梓を呼ぶより先に、唯が梓の方に走り寄って行っていた。
予想通りだが、少しは自重しろ、唯。
道路も近いし、夏休みだから人通りも車も多いんだぞ。
流石に梓だってそろそろ嫌がって……なかった。
私の視線の先では梓が足を止め、苦笑しながら唯が来るのを待っている。
これは唯に抱き締めさせてあげる気が満々ってわけだな。

梓は本当はすごく寂しがり屋だ。
唯と会う機会が減っただけに、
溜まりに溜まった寂しさはただ事じゃないはずだった。
久し振りに唯の温かさを感じたいんだろう。

唯も唯で梓とあんまり会えなくなったせいか、
抱き着き癖の相手が私になる事が結構多くなっていた。
梓と体型が似てる私に抱き着いてるわけだ。
断じて私は梓ほど小さくはないけど。色んな所が。

でも、寂しがってた者同士、
今日は久し振りに二人で存分にくっ付き合えばいいと思う。
しっかり唯の言う『あずにゃん分』をチャージするといい。
いや、私もスキンシップは旺盛な方なんだけどさ、
大学の構内で抱き着かれるのはちょっと気恥ずかしいんだよな。
14 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:07:16.46 ID:nNWGVWep0
「やれやれ……」


呟きながら、苦笑した澪が和と視線を合わせる。
和も軽く肩を竦めながら、澪と視線を合わせて微笑んでいた。
二人とも何だか嬉しそうだ。
久し振りに会えた事を喜んでるのは、唯達だけじゃないって事だな。

私達の中で唯の次に和と仲が良いのは澪だろう。
真面目な性格同士で気が合うのか、
傍から見ていても二人はいい親友だと思う。
それがちょっと嫌で澪と喧嘩した事もあったけど、
今は和が澪と仲が良くなってくれた事に私は感謝してるんだ。


「んじゃ、行くか」


私はムギに目配せをしてから、梓達の方に向けて歩き始めた。
「うん」と頷いて、ムギが私の後に続く。その更に後に澪も続いた。
視線を戻すと、既に唯が梓に抱き着いて顔を寄せ、その頭を撫でていた。
暑い上に通りすがりの人も横目に見てるのによくやるよなあ、
とはいつも思うんだけど、唯達にはそんな事なんか関係無いんだろう。

また少しだけ私は周囲を見渡してみる。
見る限り、新入部員らしい子達とさわちゃんの姿は見当たらない。
私達を驚かすためにわざわざ隠れてるって事もないだろうし、
多分、その子達はさわちゃんと一緒に部室で私達を待ってるんだろうな。

どんな子達なんだろう、と私はその子達の姿に思いを馳せる。
何度か梓に写メールで見せてもらった事はある。
眼鏡の子と、何だかムギっぽい子の二人。
梓のメールの文面から性格の想像は出来るけど、それは単なる想像だ。
話に聞くのと実際に会うのとじゃ大違いなんだ。
きっと私の想像とは全然違う一面を持ってたりもするんだろう。
だから、楽しみなんだよな。

私達は唯に抱き着かれる梓に近付いていく。
和と純ちゃんも、少し遅れて梓の傍に辿り着いていた。
久し振りに顔を合わせる八人。
あれから少しは何かが変わったのか、それとも何も変わってないのか。
離れてた時間のギャップは、今から皆で話しながら埋めていけばいいんだ。

そう考えながらもう一歩だけ歩いた私は、
唯に抱き締められる梓の頭に右手を軽く伸ばした。
久し振りに会ったんだ。
頭くらい撫でてやってもいいじゃないか。
そのくらいの軽い気持ちで伸ばした手だった。
15 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:07:51.53 ID:nNWGVWep0
不意に。
強い風が吹いた。

夏なのに春一番みたいに強い強い風。
空気の圧力が私の瞳を擦り、
目を空けていられなくなった私は瞼を閉じる。
「うわっ」、「きゃっ」、
と周りで上がる声を聞く限りじゃ、
唯達も強い風に目を開けていられなくなったみたいだ。

少しの時間、強風が私達を包み込む。

その風はすぐに止まった。
文学的に言えば、一陣の風ってな感じになるのかな。
そう呼んでもいい一度だけ強く吹いた風だった。


「いやー、すごい風だったよなー」


ぼやくみたいに呟きながら、
私は閉じていた瞼を少しずつ開いていく。
その私の呟きには唯が応じてくれた。


「だよねー、すっごく強い風だからびっくりしちゃったよ。
ね、あずにゃん?」


その唯の言葉に梓は何も返さなかった。
目にゴミでも入ったんだろうか。
そう思って心配になったけど、そうじゃないのはすぐに分かった。
梓が目を見開いていたからだ。
その様子を見る限り、風が吹いている間、目を瞑っていなかったらしい。
どうも唯が上手い具合に風除けになったおかげで、風圧に目を擦られずにすんだみたいだな。
16 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:09:18.67 ID:nNWGVWep0
「何……、これ……?」


大きな目を見開いたまま、呻くみたいに梓が呟き始める。
信じられないものを見たって感じの梓の表情。
その肩は小刻みに震えて、何かに怯えてるようだった。

何だよ?
梓は何を見たんだ?
風が吹いてる間に何があったってんだ?

言い様の無い不安感に駆られて、
私はまだ半開きの瞳で私達の周囲に視線を向ける。
だけど、これと言って気になる物は、私の目の中に飛び込んで来なかった。
いつもの私達の高校の通学路と何も変わってない。
そう見える。

じゃあ、梓は一体何を怯えて……?

もう一度、私は大きく頭を振って、周りを見回す。
見落とした物を見逃さないように。
梓の不安の正体を掴むために。
大きく目を見開いて。
不安がどんどん膨らむのを必死に抑えて、精一杯その何かを探した。

でも、やっぱり気になる物は何一つ見つからなくて……、
私達以外には動いてる物は何も無くて……、私もやっと気付いた。
ちょっと待てよ……。
何だってんだよ……。
これは……、一体……!


「――――――ッ!」


思わず叫び出しそうになるのをどうにか堪える。
叫んじゃいけない。
叫んじゃ駄目なんだ。
叫んだ所でどうにもならないし、梓や皆を余計に不安にさせるだけだ。

でも、私には叫ばない事以外には何も出来そうもない。
誰かに救いを求めて、私は視線を彷徨わせる。
誰かこの状況を説明出来る奴は居ないのか……?

勿論、私達の中にそんな事が出来る人間が居るはずもなかった。
唐突に自分達と世界を襲った異変に、誰もが呆気に取られてしまっていた。
それ以外に何が出来るってんだ。
17 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:10:01.42 ID:nNWGVWep0
「人が……、車も……」


梓が怯えた表情を浮かべたまま、その場に座り込んで呟いた。
唯がその座り込む梓の肩を、心配そうに強く抱き締める。
唯自身も不安に満ち溢れた顔をしながら、
それでも怯える梓を身体中で包み込んでいた。

だけど、梓の震えは止まらなかった。
よっぽど衝撃的な物を見たんだろう。
そうだ、と思った。
梓は多分、一部始終を見れてたんだ。
駆け寄って、何が起こったのか梓に問い質したい気分だった。
梓なら風が吹いた瞬間に何が起こったかを知ってるはずだ。

でも、問い質す必要なんて無かった。
私達より数秒目を開いていた梓が知っている事なんて、たかが知れてる。
問い質したって、単に怯える梓をもっと追いつめちゃうだけだ。

それに私だって、世界に何が起こったのかは本当は分かってる。
いや、ひょっとして私達に何かが起こったのか?
どっちにしても、とにかく異変の正体だけは一目瞭然だった。
その異変を信じられない。
信じたくないだけだ。

私は自分の手のひらが震えるのを感じながら、
どうにか意地だけでその手のひらを握り締めて、もう一度辺りを見渡した。
分かってはいた事だったけれど、当然何も無かった。
普段と変わらない町並み以外、消えてしまっていた。
一陣の風が吹いた瞬間、何もかもが私達の周囲から消失してしまっていたんだ。

十人くらい居たはずの通りすがりの人も。
騒音を上げて走っていたはずの車も。
さっき電信柱の裏で見掛けたはずの猫も。
空を飛んでいたはずの鳩も。
生きている物は何もかも。

そこに居た私達と、
耳に痛いくらいの無音の世界だけを残して。

梓が震えながら呆然とした表情を浮かべる。
唯が必死に不安と戦いながらその梓を抱き締める。
憂ちゃんが唯と梓の表情を交互に見ながら泣きそうな顔になる。
純ちゃんが憂ちゃんに駆け寄り、自分も震えながら憂ちゃんの肩を抱く。
何が起こったのか把握しようとしているのか、携帯電話を取り出して和が何かを確認している。
ムギが胸元で自分の手を握り締めながら、皆の様子を不安そうに見渡す。
澪が何も言わずに真っ青な顔で私の背中に抱き着く。
私は背中に抱き着く澪に、手を伸ばす事も何か声を掛ける事も出来ず、
身体の芯から湧き上がる震えを感じながら、呆然とその場に立ち竦む事しか出来なかった。

無音と一緒にこの世界に取り残された私達は、
湧き上がる不安を感じながらも突然の異変を受け容れるしかない。
この後、更に何が起こるのかも分からないままに。

これがあの夏休みの日……、
つまり三日前、世界……或いは私達に起こった異変の始まりだった。
18 :にゃんこ [saga]:2012/01/19(木) 19:12:10.50 ID:nNWGVWep0


今回はここまでです。
前作を読んで頂けていた方も居るようで嬉しいです。
ありがとうございます。
また、前回より改行を多くしてみました。
読みやすくなっていたらいいのですが。

ある程度このSSの内容は固まっていますが、どう転ぶかは分かりません。
まだまだ序盤ですが、お付き合い頂けると嬉しいです。
19 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/01/19(木) 19:21:20.03 ID:+IDj4g2Mo
うむ、先が非常に気になってよいよい
20 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/19(木) 20:30:19.56 ID:WFDcD/gDO
続きを楽しみに待っています。
21 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/19(木) 20:47:06.45 ID:CThzagO5o
続き楽しみ
22 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/19(木) 23:09:12.32 ID:IVTBB41fo
乙!
23 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) [sage]:2012/01/20(金) 14:23:07.79 ID:5RvAinioo
この律語りはどこかで…
24 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:37:06.72 ID:RkUbXfly0





屋上の柵から、誰も居ない私達の町を見下ろす。
三日前から人も他の生き物も完全に消えてしまった私達の町。
静かな風と、風に靡く木々の音だけが響いてる。

一瞬、少しだけ強い風が吹いた。
心臓が大きく鼓動する。
物凄い不安を感じて、私は後ろを振り返った。
まだ屋上に居るはずのあいつの姿が、そこにあるか確かめたかったんだ。

振り返って見た屋上の中央付近、
さっきまでと変わらず、和が穏やかに微笑みながら首を傾げていた。
よかった……。
まだ和はこの世界に私と一緒に居る。

三日前、一陣の風と一緒に生き物がこの世界から消えて以来、
ちょっとでも強い風が吹く度に、私は自分の湧き上がる不安を抑えられなかった。
また風と一緒に誰かが……、
何かが消えてしまうんじゃないかと思えて仕方が無かったからだ。
この世界からまた何かが失われてしまうじゃないかって、
そう思えてしまって、それがすごく恐い。

いや、この世界……、と大袈裟に考えてみてはいるけど、
まだ私達はこの世界全体がどうなっているのか分からなかった。
あの日、一陣の風が吹いてから、テレビは映らないし、ラジオも流れてなかった。
インターネットにも当然繋がらなかったし、
どうにか自分達の目で確かめてみようとしても、
まともな交通機関無しじゃ、県外に出る事すら簡単に出来そうもない。

テレビやネットで世界の事はそれなりに知っているつもりだった。
結局、私達は他の物知りな誰かに教えてもらわなきゃ、
世界どころか県内の事すら、ほとんど何も知らないって事なんだろうな。
自分の身の程を思い知らされて、これまでの自分が滑稽に思えてしまう。
25 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:37:44.49 ID:RkUbXfly0
「どうしたのよ、律?」


知らず知らずの内に自嘲してしまっていたらしい。
和が少し心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
いかんいかん。
自己嫌悪なんかしてても、それで何かが解決するわけじゃない。
今はそんな事をやってる場合じゃないよな。
私は軽く自分の頬を叩いてから、和に向けて軽く微笑んだ。


「いや、何でもないぞ、和。
それより県内の地図だったよな?
今日こそしっかりメモって、忘れずに本屋に行ってくるよ。
この便利屋りっちゃんにお任せあれ」


「悪いわね、律。
毎度お使いなんかさせちゃって。
本当は私が自分で本屋に行くべきなんだけどね……」


「気にすんなって。
私の分担は肉体労働で、和の分担は頭脳労働だ。
適材適所ってやつだな。
その代わり和にはこの世界の謎を解き明かしてもらうから、頑張ってくれよ。

……なんてな。
それは流石に冗談だ。
こんなわけ分からん状況、そう簡単に解決出来るかっての。
でも、その代わり、和には私達がこれからどうすればいいのかを考えてほしいって思う。
情けない話だけど、私の頭じゃこれからどうすりゃいいのか見当も付かないんだよな」


「それが普通だと思うわよ。
こんな状況、誰だってどうするべきなのか戸惑うと思うわ。
さっき律は私の分担が頭脳労働だって言ってくれたけど、でもね……」


珍しく、和が言葉を止める。
それから、さっきの私みたいな自嘲。
いつも自信満々ってわけじゃないけど、
自分に自信が無さそうな和を見るのは多分初めてだから、私はつい訊ねてしまっていた。
26 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:38:16.96 ID:RkUbXfly0
「でも……、何だ?」


「でも……、でもね……、そう。
私ね、頭脳労働が出来るから、しているわけじゃないのよ。
頭脳労働しか出来ないから、理屈付けないと恐いから、そうしてるだけなの。
怪奇現象を恐がる子が、オカルトに詳しくなるみたいなものかしら。
そういう子達はね……、
自分が受け容れたくない物を否定するために知識を得て、理屈をこねるの。

恐いから。分からない物が恐いから。
理論武装して、理解出来ない現実から逃避するために……。
私もそうなんじゃないかって……、こんな状況になって思うのよ」


これも多分、初めて聞く和の弱音。
いつも冷静に見える和だけど、やっぱり相当に参っているのかもしれない。
そりゃそうか。
しっかりした性格の和だって、まだ未成年の女子大生なんだから。
それに、特に和は……。

そう考えた私は和に訊ねていた。
訊ねるべき事じゃ無いかもしれないけど、訊ねておきたい事だった。


「なあ、和……。
やっぱり心配だよな、家族の事……」


「……ええ」


私の言葉に、和が素直に頷いた。
あんまり会った事はないけど、和には大切な家族が居る。
まだ小さくて手の掛かる、大切な兄弟が居るんだ。
心配じゃない方がおかしい。
私だって……。

この世界から人が消えてしまった事が恐いのは、
何も自分達が取り残されたからってだけが理由じゃない。
一陣の風と一緒に消えてしまった人達が、
一体どうなってしまったのか分からないのが一番恐いんだ。

さわちゃんや軽音部の新入部員の子達、
皆の家族や私の父さんや母さん、それに聡……。
皆、どうなってしまったんだろうか……。
この世界じゃない何処かの世界で過ごしてるんだろうか……。
聡は元気に笑ってるんだろうか……。

あまり手の掛からない出来た弟の聡ですら、こんなに心配なんだ。
幼さの残る兄弟を持つ和の心配は、私の想像も出来ないほど大きいに違いない。
本当は不安と恐怖で叫び出したいくらいだろう。
だから、和は精一杯頭を働かせて、その心配や不安や恐怖と戦ってるんだ。

私は和に歩み寄って、軽くその肩を叩いた。
今の私が和に出来る事は多くない。
私に出来る事は、そう、正直な気持ちを和に伝える事だけだ。
27 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:40:25.41 ID:RkUbXfly0
「でもさ、和。
和の冷静さが現実逃避から生まれたものでも、私達はそれに助けられてるよ。
特に一昨日の澪なんか、私じゃとても説得し切れなかった。
和が居てくれたおかげで、和が冷静だったおかげで、
あれだけ怯えてた澪も、とりあえずは落ち着けたんだよ。
だからさ、ありがとうな、和。
私の面倒臭くて大切な幼馴染みを助けてくれて」


「ありがとうだなんて……、そんな……」


言いながら、和が少し赤くなった。
ずっと張っていた緊張も、ほんの少しは解れてきたんだろうか。
ちょっとでも和の役に立てたんだとしたら、私も嬉しい。

私の言葉は和を落ち着かせるためのものでもあったけど、嘘は一つも言ってなかった。
私は本当に和に感謝してる。
和が居なければ、本当にどうなっていたか分からない。

あの一陣の風が吹いて一日経った一昨日、
澪は誰も居ない澪の家に長い間閉じこもっていた。


「パパやママが帰って来るのを家で待つ」


そう言って、私の言葉どころか誰の説得にも応じようとしなかった。
別に澪の行動が間違ってるわけじゃない。
自宅で澪が澪の両親を待ちたいと言うんなら、それも選択肢としてはありだと思う。
ひょっとすると、本当に澪の両親が帰って来る事もあるかもしれない。
途轍もなく低いけれど、その可能性はある。

でも、澪にその選択肢を選ばせるわけにはいかなかった。
こんな状況で、残された八人がバラバラに行動する事を避けた方がいいのは分かり切っていた。
大体、この世界に本当に誰も居ないのか分からないじゃないか。
勿論、それはいい意味じゃない。
悪い意味で、この世界には誰かが居るかもしれない。
それこそ私達を獲物としてるエイリアンみたいなやつが居てもおかしくないじゃないか。

馬鹿馬鹿しい話だけど、それすらも無いとは言い切れない。
突然飛ばされた閉鎖空間の中で、
平凡な主人公は謎の化物と戦う事になる……、
なんて陳腐な話だけど、それだけにありえるかもしれないしな。
28 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:40:52.20 ID:RkUbXfly0
大体、一人で部屋に閉じこもるなんて、死亡フラグ以外の何物でもない。
閉じこもる本人は気にならないかもしれないけど、
周りの人間にしてみりゃ、心配で気が気で無くなるよ。
だからこそ、私達は澪を一人きりにさせるわけにはいかなかった。

でも、その澪を説得する事は、私には無理だった。
考えてみれば、私と澪は傍に居過ぎたせいか、
自分の我儘の貫き通し方を分かってしまってる所があるのかもしれない。
お互いを分かり過ぎてしまってるせいで、
私と澪の会話は平行線を辿る事しか出来なかったんだ。

その点、和は澪の説得の仕方をよく知っていた。
唯と憂ちゃんのお姉ちゃん的存在で、
実際にもお姉ちゃんの和には、我儘を言う子との付き合い方が分かってるみたいだった。

和は無理に澪を説得しようとせずに、
玄関の扉越しにたまに澪に穏やかに話し掛けていた。
修学旅行で京都に行った時の話をしたり、
小さい頃の私と澪について訊ねてみていたり、
一見すると説得とは関係無さそうな話をしていたけれど、
それも澪への静かな説得だったのかもしれない。

結局、二時間くらい閉じこもった後、
澪はとても申し訳なさそうな表情を浮かべて玄関を開いて姿を現した。
久々に顔を見せた澪を和は責めようとはせずに、
ただ澪の手を引いて、澪と一緒に私達に頭を下げて謝ってくれた。


「真似出来ないよなあ……」


意識せずに私は呟いてしまっていた。
私もお姉ちゃんではあるけど、とても和みたいには出来そうもない。
それが和の自分が冷静になるための現実逃避の産物だとしても、
私達はそれに助けられていて、そんな和に感謝する事しか出来ない。

和が私達を支えてくれている事。
こんな状況でも、それだけは本気で不幸中の幸いだと思う。
いや、こんな状況じゃになるよりもずっと先に、私はもっと和に感謝するべきだったんだろう。
本当にありがとうな、和。
29 :にゃんこ [saga]:2012/01/20(金) 19:43:42.63 ID:RkUbXfly0


今回はここまでです。
やっぱり文体でばれちゃった感じですね。

意外と和ちゃんの話が続きます。
もう少しでしょうか。
30 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/21(土) 08:14:46.32 ID:BMJL4fJDO
乙。
ランゴリアーズ思い出した。

所でこれまだ初日?
31 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/21(土) 21:06:18.69 ID:SAjI8kvAo
主人公がりっちゃんで和ちゃんがヒロインなのかと思ったら違うのか
32 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:48:33.73 ID:ybIj+qay0
「どうかしたの、律?」


ほんの少し私の呟きが聞こえていたらしい。
和が首を傾げ、まっすぐな瞳で私に訊ねる。
私は「何でもないって」と言ってから、和の肩に置いていた手を離した。

私には和の真似は出来ない。
そもそも私と和じゃ性格が違い過ぎるしな。
無理に和の真似をしようとしたって、問題が余計にこじれるだけだろう。
なら、私は自分自身の力とやり方で皆を支えなきゃいけない。
それが私に出来るんだろうか?
まだ、それは分からない。


「あ、ちょっと、律……」


不意に和が呟いて私に向けて手を伸ばしてきた。
何だろう、と私はちょっと緊張する。
和が誰かに触ろうとするなんて滅多に無い事だから、心配にもなってくるくらいだ。
身体を硬直させて和の行動を待っていると、
和は軽く私の頭のカチューシャに手を触れて、その位置を微調整してくれた。


「カチューシャ、ずれてたわよ。
今日は気分で位置を変えてたんなら、悪い事をしちゃったかもしれないけどね」


予想外の和の行動に私は軽く呆気に取られる。
まさか和が私の身嗜みに気を遣ってくれるなんてな……。
そういや、今まで和が私の身嗜みについて注意した事なんて、ほとんど無い。
前にメイド服を着た時に「大体、その格好は何よ?」って叱られたくらいだっけか?
あれはお約束的に私が書類を出し忘れてたから、ってのもあるけど……。
でも、そういう規律に注意を払える和が、どうして今まで私の身嗜みを注意しなかったんだろう。

……あ、そっか。
私もあんまりきちんとした服装をしてるわけじゃないけど、
私にはギリギリ最低のラインの身嗜みをするよう注意してくれてた奴が居たんだったな……。
いつも何故か隣に居てくれた、私自身も隣に居たかった幼馴染みのあいつが……。
33 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:50:21.36 ID:ybIj+qay0
一昨日から、閉じこもってた澪を連れて、私達は残された皆で桜高に集まっている。
集まるのは別に誰かの家でもよかったんだけど、
八人で住めるほど広い家の奴は居なかったから、学校がちょうどいいと思ったんだ。
いや、ムギの家なら八人くらい楽勝なんだろうけどさ、
家の人が誰も居ないとしても、友達の家にお世話になるのはやっぱり抵抗がある。
それにムギの家は結構遠い。ああ見えてムギって電車通学なんだもんな。
電車も動いてない今の状況じゃ、正直かなり遠いよ。

だから、私達は今、学校に集まって住んでいるわけだ。
今後どうなるかは分からないけど、
一時的に集まるには慣れ親しんだ場所が一番のはずだった。

学校に住み始めてから二日、私はまだ澪と一言も話していない。
話したくないわけじゃない。
本当はすごく話したい。
胸の中の不安な気持ちを、澪にだけは打ち明けたい。
そんな考えはずっとあった。

でも、澪の方から話し掛けてこなかったし、
私の方も自分から話し掛けようとはしなかった。
何を言えばいいのか分からなかったし、何かを言った所で、
澪を余計に不安にさせる言葉しか出てきそうになかったから、話し掛けるのが恐かったんだと思う。
澪も自分が閉じこもってしまってた事を負い目に思ってるのか、
まだ誰かと明るい調子で会話出来てはいないみたいだった。

出来る限り早く、また澪に笑顔で話し掛けたいと思う。
でも、今は駄目なんだ。
まだ私も澪も今の状況に関して、自分なりの答えを出せてない。
私達がもう一度笑顔で話し合えるには、もう少し時間が必要だった。

澪の事は不安だけど、多分、大丈夫だと思う。
私が澪に話し掛けにくい事を分かっているのか、
今は代わりに唯とムギが積極的に澪と会話をしてくれている。
遠くから見てる限りじゃ、たまに澪の顔から笑みが漏れる事もあるみたいだった。
だから、きっと大丈夫。
後は私がこの世界の異変と向き合って、それに関しての答えを見つけるだけだ。


「いや、別に気分で位置を変えてたわけじゃないから助かったよ、和。
気付いてくれて、どうもサンキュな」


少し微笑んで、私はカチューシャの位置を治してくれた和にお礼を言った。
もしかしたら和が屋上に私を探しに来たのは、
地図の事を私に頼むためだけじゃなくて、私の事を心配してくれたからかもしれない。
それにまさか和が私のカチューシャの位置を覚えてくれてたなんてな。
私が思うより、和は私の事を見てくれてるみたいだ。
34 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:50:50.87 ID:ybIj+qay0
「どういたしまして」


和が小さく微笑む。
とても素敵な笑顔だと思った。
お姉ちゃん……、いや、お母さんかな。
本当に和はこんな状況でも私達を引っ張ってくれる、頼り甲斐のあるお母さんだ。
和には遠く及ばないにしても、私も皆を支えられるお父さんみたいになれたらいいな。

……ん?
いやいや、変な意味じゃないぞ。
私がお父さんで和がお母さんってのは、あくまでも例えだからな。
誰に言い訳してるのかは自分でも分からんが、とにかく変な意味じゃないぞ。

馬鹿な事を考えちゃったせいか、何だか顔が熱くなってきた。
私は頭を振ってから、和に気になっていた事を訊ねてみる事にした。
あんまり触れたい話題でもなかったけど、触れないわけにもいかない事だった。
今後、澪と笑顔で話すためにも。皆と笑顔で話せるためにも。


「そういやさ、和……。
和は結局、世界に何が起こったんだと思う?」


「またそれは突然ね、律。
でも、話題にしないわけにもいかない事でもあるわよね……」


「ごめんな、和。確かに突然だったかもな。
でも、やっぱり気になって……さ。
自分で言うのも変だけど、そんなによくない私の頭じゃ全然見当も付かないんだよ。
勿論、和にだって分からない事だってのは知ってるけど、
だけど、和の事だからいくつか推論くらいは出来てるんだろ?
よかったらそれを教えてくれないか?
……あ、いちいち注文を付けて悪いけど、私の頭で分かる範囲内でさ」


私が人差し指を立てて念を押すと、和が普段より大きく笑った。
こんな時なのにそんな事を気にする私が滑稽だったのかもしれない。
でも、それでよかったんだと思うし、和もそれで納得してくれたみたいだった。
和はしばらく笑った後に頷いて、
「私にもほとんど何も分かってないけど」と前置きしてから始めた。
35 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:51:28.68 ID:ybIj+qay0
「まず私が考えたのはパラレルワールドの存在ね。
私達の世界とは別の可能性の並行世界。
いくら律でもパラレルワールドくらいは知ってるでしょ?」


「知っとるわい! ……一応な。
パラレルワールドってのは、この世界とは違う別の世界の事だろ?
剣と魔法の世界とか、科学技術がSF並みに発展した世界とか、スチームパンクの世界とか」


「何故かスチームパンクは知ってるのね……。
まあ、大体律の言った事で正解なんだけど、そこまで大袈裟に考えなくてもいいのよ。
私の言いたいのはもっとほんの些細な違いのパラレルワールドの事。
この世界ではそれがAなのに、
別世界ではそれに値するのがBだったってだけの些細な違いの世界。

そうね……。
例えば私の幼馴染みが唯じゃなくて澪で、
律の幼馴染みが澪じゃなくて私だった世界って考えれば分かりやすいかしら」


また変な例を出すな……。
でも、確かに分かりやすいか。
要は世界感そのものじゃなくて、
ほんのちょっとだけ今とは違う世界だと考えればいいわけだ。

ちょっと想像してみる。
そうだな……。
私と唯、それに和は誰が幼馴染みでもそうは変わってないはずだけど、
澪の幼馴染みが唯となると、澪は相当今とは変わってたんじゃないだろうか。

前にうちの母さんと澪のママの会話を、たまたま立ち聞きした事がある。
澪のママがうちの母さんに言うには、
澪は私と遊ぶようになってからかなり変わったんだそうだ。
内気で人見知りな性格だから学校で上手くやっていけるか心配だったけど、
私の口調や仕種を真似するようになって、少しずつ活発な性格に変わって安心したんだとか。
うちの母さんは「がさつな娘でごめんなさい」とか笑いながら言ってたが。
……がさつで悪かったな。

でも、澪のママの言う事は正しかった。
確かに澪は私と遊ぶようになってから、かなり元気で活発になった気がする。
口調も私の特訓で男っぽい口調になったし、いつの間にか平気で私を殴るようになったしな。
良かったんだか、悪かったんだか。

つまり、私と会わなきゃ、澪は今とは全然違う性格になっていたのは間違いない。
とは言っても、あの頃の内気な性格のまま育つとも思えない。
何せあの唯が幼馴染みなんだからな。
性格がどう転ぶのかは分からないけど、
少なくとも口調くらいは唯に影響されるんじゃないだろうか。
36 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:51:57.39 ID:ybIj+qay0
そうなると、こうなるのか?


(使用前)

「おい、律、ちゃんとドラムの練習しろよ。
リズム隊はリズムが命なんだからな。
それとテスト勉強も忘れるなよ。
今度泣き付いてきても、勉強見てやらないからな!」





(使用後)

「ねえねえ、りっちゃん、ちゃんとドラムの練習しようよー。
リズム隊はリズムを大切にしなきゃ。リズムが命で魂なんだよ。
あとテスト勉強も忘れないでね。
次にりっちゃんにお願いされたって、もう勉強見てあげないんだからね!」


おわっ、気持ち悪っ!
思わず鳥肌が立ったぜ……。
やっぱり澪は今の澪のままが落ち着くな……。

でも、よく考えたら、私が居なきゃ澪は音楽を始めなかったかもな。
そうなると澪の幼馴染みの唯もギターを弾く事がなかったわけで、
私も一人じゃ軽音部を作ろうとしてたかどうか分からない。
和は私が誘ってもバンドやってくれそうにないから、
私は仕方なくマキちゃんのラブクライシスに入れてもらって……、
あ、でもマキちゃんはドラムか。
となると、私は他のパートを担当する事になって、
そんでもって、軽音部自体設立されないから、ムギはそのまま合唱部に……。

……頭がこんがらがってきた。
まあ、とにかくそれは全部もしもの話だ。
つまり、和は生き物が誰も居ないパラレルワールドに、私達が迷い込んだと言いたいわけだろう。
私は真剣な表情になって、神妙に和にそれを訊ねてみる。


「私達は生き物の居ない世界に迷い込んだ。
事実かどうかはともかく、少なくとも和はそう考えてるんだな……」


「いいえ、逆よ。
パラレルワールドだけはないって考えてるわ」


「うおーいっ!!」
37 :にゃんこ [saga]:2012/01/22(日) 18:55:35.76 ID:ybIj+qay0


今回はここまでです。
和ちゃんの出番が長いですが、今の所ヒロインの予定はありません。
すみません。


>>30

ランゴリアーズ!
そういうのもあるのか!
知りませんでした。チェックしてみます。
あ、まだこれ初日です。
38 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/01/22(日) 19:30:24.53 ID:qeP7A+4mo
ワロタ
39 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/22(日) 19:54:04.46 ID:MCPycbZDO
つまり死亡フラグか

40 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/22(日) 22:52:12.15 ID:S2TWzP5Io
続きが気になる
41 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:42:53.66 ID:d2TFKSm50
学校の屋上に私の突っ込みが響く。
何だったんだよ、今までの前振りは……。
からかわれたのかと一瞬思ったが、和の表情を見る限りそうでもなさそうだ。
大体、和はあんまり冗談を言うタイプじゃないし、特に今は真面目な話をしている時だ。
ちなみに私の突っ込みについては熱くスルーされてるし。

そういえば和は最初に「まず私が考えたのはパラレルワールドの存在ね」と言っていた。
「まず考えたのは」って言ってたんだ。
その言葉通り、和は自分が「まず考えた」事から話し始めたって事なんだろうな。
妙な所で言葉通りなのが、和らしいと言うか何と言うか……。

私はちょっと溜息を吐いてから、
和が今の状況はパラレルワールドが原因じゃないと考える理由について訊ねてみる。
すると、優等生らしい理論的で、
でも、私にも分かりやすい丁寧な説明を始めてくれた。


「パラレルワールドの存在自体は否定しないわ。
シュレディンガーの猫理論、エヴェレットの多世界解釈、
量子宇宙論に二重スリット実験……、並行世界については様々な議論がされてきたわけだし。
実際に存在するかはともかくとしても、
パラレルワールドがあってもおかしくないって私は思っているのよ。
それこそムギと梓ちゃんが幼馴染みとして育った世界だってあるかもしれないわ。

でもね……、それとこの状況は無関係だと思うのよ。
他のあらゆる可能性があったとしても、パラレルワールドだけは違うって思えるのよ」


「どうしてだよ?
生き物が居ないパラレルワールドだってありそうなもんだけど……」


「ええ、生き物の居ないパラレルワールド自体はあると思うわ。
可能性は無限なんだから、そういう世界があってもおかしくないはずよね。
でも、よく考えて、律。
本当に生き物が居ない世界なら……、この桜高は誰が建造したのかしら?」


あっ、と思わず私は声を出していた。
そうだ。完全に和の言う通りだ。
本当に存在するかどうかはともかくとして、パラレルワールドは無限の可能性がある。
でも、パラレルワールドだからと言って、何もかも自由に考えていいわけじゃない。
パラレルワールドにも私達の世界と同じようにルールが存在しなきゃおかしいんだ。
42 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:43:21.39 ID:d2TFKSm50
「そりゃそうだよな……。
パラレルワールドには無限の可能性があるって言っても、
人も生き物も居ないのに、建物だけがそのままある世界なんてそりゃ変だよ。
よくよく考えてみりゃ、この世界には学校だけじゃなくて、町も私達の家もあるんだし。
誰がこの町を作ったんだ。誰がこの町に住んでたんだって話だよな」


「そういう事よ。
だから、私は今の状況とパラレルワールドを繋げるのだけは違うと思うの。
たった一つだけ考えられなくもない可能性はあるけど、そう考えるのも変だと思うし……」


和はその可能性については少し口ごもった。
その顔にはひどく不安そうな表情を浮かべてる。
パラレルワールドとかそういう事じゃなくて、
考えなきゃいけない最悪の事態を考えてるって感じだった。
不安そうに……、辛そうに……、でも、和は毅然とした声で続ける。


「この世界とパラレルワールドを繋げて考えられるたった一つの可能性……。
それはこの世界の生き物がラグナロクとか、ハルマゲドンとか、終末とか、
とにかくそれに値する滅びを迎えた後に、私達がこの世界に迷い込んだって可能性よ。
それならこの生き物の居ない世界が、パラレルワールドであってもおかしくはないわよね?

でもね……、そう考えるくらいだったら、
パラレルワールドと無理に繋げて考えるよりも、そもそも私達の世界が……」


私は和の肩に手を置いてそれ以上の言葉を止める。
和が無理に話さなくても、私にももう分かった。
確かにそう考えた方が自然だった。
無理にパラレルワールドと繋げる必要なんてない。
ここは本当は私達の世界じゃないって考える方が気が楽だけど、
ここが本当に私達の世界だって可能性の方がずっと高いんだよな。

つまり、パラレルワールドじゃなくて、
私達の世界の方の生き物が滅んじゃって、私達だけが取り残されたんだって可能性の方が……。
いちいち私達がパラレルワールドに迷い込んだって考えるよりは、その方がずっと自然だ。

私達の世界は終わってしまったんだろうか?
全部滅びるはずだったのに、何かの間違いで私達だけが生き残って、取り残されちゃったのか?
他の皆は一人残らず死んでしまったってのか?
父さんも、母さんも、聡も、さわちゃんも、大学の皆も、新入部員の子達も……。

背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
夏の熱気に晒されてるからってだけじゃない。
暑いはずなのに寒気まで感じてくる。
もし本当に私達の世界が終わってるんだとしたら、私達はどうしたらいいんだろう……。
43 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:43:55.61 ID:d2TFKSm50
「律」


不意に和が私の右頬に手を置いた。
私は不安を隠し切れない視線をどうにか和に向ける。
和だって不安なはずなのに、私の視線の先の和は軽く微笑んでいた。
微笑みながら、柔らかい声で囁いてくれる。


「ごめんね、律。
不安にさせちゃったわよね……。
でも、可能性の話よ。あくまで可能性の一つなのよ。
まだ情報が全然足りてない状況で、考えられる可能性がそれってだけの話。
勿論、私には想像も出来ない理由で、皆が消えちゃったのかもしれないわ」


優しい声色の和の言葉に、騒いでいた私の心臓は落ち着いていく。
強い和、優しい和、頼れる和……。
私はそんな和に頼り切ってしまっている。
このままじゃいけないのかもしれないけど、今だけはちょっと浸らせてほしい。
せめて、もう少し深呼吸出来るまでは……。

三回、深呼吸。
胸を落ち着かせる。
その間、和は待ってくれていた。
もう大丈夫……、のはずだ。
かなり無理矢理ではあったけど、私はどうにか笑顔を作って和に向けた。


「こっちこそごめんな、和。
自分から訊ねておいて、話が嫌な展開になったら恐がるなんて自分勝手過ぎるよな。
漫画やゲームでそういう奴たまに見るけど、傍から見てたら苛々するもんな……。
だから、こっちこそ悪かったよ、和」


和は私の左頬にも手を置いて、「いいのよ」と言ってくれた。
それからすぐに両手を離して、眼鏡を掛け直しながら笑う。
私ももう少しだけ自然な笑顔を浮かべられる。
多分、お互いの事を考え合って、お互いを安心させるために笑ってる。
44 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:44:22.68 ID:d2TFKSm50
屋上で笑顔を向け合う二人……。
まさか和とそんな関係になれるなんて、初めて会った時には想像もしてなかった。
唯の友達にしては真面目そうな子だな、ってのが初対面の時の印象だったしな。
言葉は悪いけど、気は合わないだろうな、って思ってた。
和が悪いわけじゃないけど、私の性格とはどうも合いそうにない気がしたんだ。

それで二年の頃、澪と仲良く出来てる和が悔しかったんだと思う。
私と全然違うのに、私とは正反対な性格なのに、澪と和は仲が良い。
幼馴染みなのに、澪はもう私には飽きちゃったのか。
私の事なんてもうどうでもいいのか。
そう思えて、悔しかった。

でも、そうじゃなかったんだよな。
和は優しくて頼りになる子だから、澪と友達になるのは自然な事だ。
でも、澪に友達が出来るのは嬉しいけど、同時に不安だった。
澪は中学まで私以外の友達が少なかったし、
その友達もほとんどが私のよく知る子だったから、
私が居ない所で澪に友達付き合いがあるって事が初体験だったんだ。
だから、不安だったんだと思う。
我ながら子供っぽくて恥ずかしいけどさ。

だけど、和はそんな私も澪と一緒に受け容れてくれた。
幼馴染みの唯のためにって所も多いんだろうけど、軽音部のために色んな手助けもしてくれた。
和にとっては、私も澪も唯と同じく手の掛かる妹の様なもんなのかもしれないな。
そんな和と仲良くなれて、私は嬉しいと思う。
勿論、そんな事を面と向かって言えるはずもない。
私は頬を掻きながら、照れ隠しのために違う話を和に振った。


「そういや、可能性の一つ……って事は、
和は他にもまだまだこの状況の原因を考えてるんだろ?
あんまり物騒な話だとノーサンキューだけど、よかったら教えてくれるか?」


「律も元気よね……。まあ、いいわ。
そうね……。
勿論、全部荒唐無稽な夢物語として聞いてほしいんだけど、
次に考えたのは、私達が私達オリジナル本人じゃないって可能性よ。

私達はオリジナルの人格を移植された人工生命で、この町も精巧に出来た偽物。
何らかの実験で偽物の私達は偽物の町に放たれた。
それなら私達以外に誰も存在しなくても問題無い。
……というのは、どうかしら?」


「あー……、よくあるよな、それ。
国民を意のままに操るための政府の何かの陰謀って感じのやつ。
そんな事しても、絶対に元が取れないと思うけどな。
偽物って話になるとさ、私はここが電脳世界って可能性も考えたな。
よく出来たネットゲームってやつ。私はネットとかよく知らないんだけどさ」


「それもよく聞く話ね。
いくつか小説や映画で目にした事があるわ。
まさかあのホラー小説の続編が、そういう話になるとは思わなかったけどね。
まあ、パソコン通信は最近では一般常識になってきてるし、
バーチャルリアリティの進化も驚く物があるから、そういう話もありえなくはないわよね」


「パソコン通信とバーチャルリアリティって言い方は古いぞ、和。
お母さんっつか、おばあちゃんかよ」


「そうかしら?」
45 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:44:54.01 ID:d2TFKSm50
和がとぼけた様に微笑み、私も合わせて苦笑した。
和の言葉が古かったからってだけじゃなく、お互いに感じ始めてきたからだと思う。
結局、こんな推論に不安がる理由は無いって事に。


「何かさ、不毛って気がしてきた」


私はつい口にしてしまう。
気を悪くするかと思ったけど、和は微笑んだままで私の言葉に頷いてくれた。


「やっぱり情報が足りなさ過ぎるわよね。
情報不足でいくら推論を組み立てたって、真相に辿り着けるはずも無いわ。
昨日、律が資料を集めてきてくれなかったかしら?」


「すみません、真鍋生徒会長」


「それは冗談としても、とにかく推論は推論のままにしておくべきでしょうね。
可能性を論じる事は無駄じゃないけど、それに囚われ過ぎるのは無駄だと思う。
それに今はこの状況の原因より、これからどうするかの方が大切よ」


和らしからぬ発言だと思った。
何でも原因を確かめてから、その後に対策を立てるのが和の性格だと思ってたからだ。
首を傾げながら私がそれを訊ねると、和はまた軽く笑った。


「時と場合によるわよ。
情報が足りないわけだし、何にせよ、今はこの状況に適応するのが第一よ。
いずれは真相を明らかにしたくはあるけど、
真相を知った所でどうしようもない事もあるじゃない。
この状況に適応出来てない内にそんな真相に辿り着いてしまったら、
少なくとも私も冷静でいられる自信は全く無いわ」


「恐い事をさらりと言うよな、和も。
勿論、考えておかなきゃいけない事だと思うんだけどさ……。
でも、知った所でどうしようもない真相ってのは、例えばどんなのなんだ?」


「勿論、これも可能性なんだけど、こういうのはどうかしら?
私達はもう死んでいて、この世界は三途の川みたいな世界。
この世界は生前の罪や穢れや煩悩なんかを洗い流すための禊ぎの空間なのよ。
この世界での生活が何らかの形で終わった時、
私達は一つの生をやっと終えて、新しい輪廻の円環に至る……とか」


「うわっ……。
そりゃ確かに縁起でもないし、どうしようもないな……」
46 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:45:33.42 ID:d2TFKSm50
私が呟くと、「勿論、可能性よ」と和は付け足した。
可能性なのは私も分かってるけど、
その可能性が間違っていないとも言い切れない。
それは頭の片隅ででも、考えておかなきゃいけない事なんだ。

でも、まあ、今はまだいいだろう。
まずは和の指摘通り、私達がこれからここでどうやって生きていくかを考えるべきだ。
その答えは私にはまだ出せそうもないけど、
和に考えてもらいながら、少しずつ話し合っていければいいと思う。

にしても……。
私は感心して和に声を掛けていた。


「色んな可能性を考えるよなあ、和も。
流石は頭脳労働担当ってか?」


「律達に動いてもらってる分、色々と考えておかないと申し訳ないもの。
それが私に出来る事だものね。
でも、出来ればたまにでいいから律達にも考えてほしいわ。
私の頭は固い方だって自分でも思うのよ。
試験とかの決まり切った答えなら出せるけど、柔軟な発想じゃ唯達にはとても敵わないから」


「唯の発想と比べたら、誰の脳味噌も筋肉みたいなもんだと思うけどな……」


「それでも、よ。
唯ほどでないにしても、律も私には思いも寄らない発想をしてるもの。
そして、その発想を実践する行動力もある。
唯も発想力はすごいんだけど、突拍子が無さ過ぎて実践出来ない事があるものね。
だからね……、本当に頼りにしてるわ、律」


なるほど……。
和が私を頼りにしてるのは本当らしい。
その期待に応えられるかは分からないけど、出来る限り応えたいな。
47 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:46:55.10 ID:d2TFKSm50
私は親指を立ててウインクをして言ってみせる。
ウインクは苦手だけど、それは放置の方向で。


「頼りにされついでに、一つ私の推論を和にお聞かせしようじゃないか。
そうだな……、この世界から生き物が消えたのは火星人の仕業ってのはどうだ?
UFOで皆をキャトってったんだよ」


「キャトってって……、キャトルミューティレーション?
キャトルミューティレーションは家畜の事を指すから、
正確にはヒューマンミューティレーションになるわね……。

その可能性も無いとは言い切れないけど、
実際に火星人の仕業だったら律はどうする気なのよ?
UFOを見つけ出して殴り込みでも掛けるわけかしら?」


「モチのロンよ!
私達の戦力では無理なんて心配はノープロブレム!
私達には音楽があるからな! 音楽で殴り込むぜいっ!
知ってるか、和?
火星人は音楽を聞くと頭が爆発して死ぬんだぜ?」


「あったわね、そんな映画……。
あ、でも、唯達はいいとしても、律とムギはどうするのよ。
ムギはキーボードを首から掛ければどうにか移動も出来るだろうけど、
律の方は流石にドラムを自由に持ち運ぶのは、やっぱり無理なんじゃないかしら」


「それもノープロブレム!
ドラムを身体中に巻き付け、背中に背負って移動してやるからな!」


「何、その雷様……」
48 :にゃんこ [saga]:2012/01/24(火) 19:47:45.40 ID:d2TFKSm50


今回はここまでです。
長かったですが、和ちゃんのお話はとりあえず終わりです。
49 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/24(火) 23:04:51.52 ID:BASU7A9jo
マーズ・アタックだったっけ
懐かしいなww
50 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/25(水) 19:25:40.20 ID:NkmWumGDO
これからの展開も楽しみに待っています。
51 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:21:25.15 ID:DHbPiHVK0





時間は少しだけ前の話になる。
真夏の朝、私が一人で屋上を訪れていたのには、深いようで浅い理由があった。
そもそも自分でも真夏に屋上で佇むなんて、
風流どころか熱中症を心配したくなるけど、何故だかあまり暑さは感じなかった。
暑いはずなのに、暑さをあんまり感じないんだよな。
それは精神的な問題なんだろうか。
それとも本当に体感温度が下がってるのか?

そういや、ヒートアイランド現象って言うんだっけ?
クーラーやら何やらの排気熱のせいで、都市全体の温度が上がっちゃう現象の名前って。
今の状況、少なくともこの町では誰一人クーラーを使ってないはずだ。
私達も含めて、だ。
人が消えてから、ほとんどの電化製品は全く動かなくなった。
難しい話じゃなくて、単純に町全体に電気が通ってないだけだ。
だから、使いたくてもクーラーなんて使えないんだよな。
そういう意味で町全体の温度が下がっちゃった……、ってのはあるのかな?
まあ、どっちでもいいか。

とにかく、電気が通ってないわけだから、電灯だって点かない。
そのせいもあって、何と私達は昨日は午後の九時に消灯……、じゃないや、就寝した。
九時だぞ、九時。
健全な女子大生が眠っていい時間じゃないよな。

でも、電灯が点かないんじゃ、
テレビゲームどころかボードゲームも出来なかった。
自宅や学校から集めてきた蝋燭を無駄遣いするわけにもいかない。
電池で動く電化製品は動くみたいだけど、
電池を消耗させてまで遊ぶ気力も度胸も残ってなかった。
結局、私達はそれぞれに寝る事しか出来なかったわけだ。

ちなみに全員がまとまって寝るのも手狭だろうって事で、
ひとまずの間だけど、私達は二つのグループに分かれて眠る事になった。
生徒会室で眠る事になったグループが私、和、梓、純ちゃん。
軽音部の部室で眠る事になったグループが唯、憂ちゃん、ムギ、それに澪だ。

勿論……、って言うのも変な話だけど、
私と澪が違うグループになった事は、梓と純ちゃんに心配された。
特に純ちゃんが必死な表情で、私を説得しようとしていた。


「澪先輩と一緒じゃなくていいんですか?
よければ私が澪先輩と変わりますよ!」


って、そう申し出てくれた。
それだけ私達がいつも一緒に居るって思われてるんだろう。
一緒に居なきゃいけないんだって。
52 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:22:16.00 ID:DHbPiHVK0
それはとても嬉しかった。
純ちゃんは本当に優しい子だ。梓と親友なのも納得出来るよ。
私はそんな純ちゃんに感謝しながら……、でも、ちょっと卑怯な事を言った。


「別に澪と一緒じゃなくても大丈夫だよ。
それとも、純ちゃんは私と一緒のグループが嫌なのか?」


我ながら卑怯な言い方だったと思う。
そんな事を言ったら、純ちゃんの方が引き下がるしかないって分かり切ってるのにさ。
予想通り、純ちゃんは「そんな事ないですけど……」と残念そうに引き下がってくれた。
気を遣ってもらいながら、純ちゃんには本当に悪い事をしちゃったと思う。

でも、今はまだ、面と向かって澪と話せそうになかった。
家に閉じこもろうとした澪の事を怒ってるわけじゃない。
澪の気持ちはよく分かるし、出来る事なら支えてやりたい。
だけど、澪に掛けられる言葉が見つからないんだ。
何を言っても、わざとらしい気休めになっちゃいそうな気がしてる。
私が澪に掛けたい言葉はそんな気休めなんかじゃない。

いや……、ひょっとしたら、気休めでもいいのかもしれなかった。
気休めでも何でも、とにかく澪に言葉を掛けるべきなのかもしれない。
少しずつ言葉を掛けていく内に、
本当に言いたかった言葉が見つかるものなのかもしれない。

頭では分かってるつもりだ。
それでも、身体と……、心が動き出せないんだ。
頭の中で見つけた言葉を喋ろうと口を開いても、
うるさく響く心臓の鼓動が、一瞬で私の言葉を消して口を閉じさせる。

恐いんだと思う。
澪を失うのが恐いんだ。
澪だけじゃない。
唯も、梓も、ムギも、和も、憂ちゃんも、純ちゃんも……。
皆を失うのが恐くてどうしようもない。

当然だけど、誰かを失うのはいつだって恐い。
大切な人達を失くしたくない。
こんな状況じゃなくたって、恐いに決まってる。
53 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:23:09.71 ID:DHbPiHVK0
でも、今の世界がこんな状況だから、余計に私は動き出せなくなってる。
下手な事を言ってしまって、もしも誰かから少しでも拒絶されてしまったら……。
私はそれに耐えられる自信が全然無い。
今だって不安を必死に押し殺してるのに、
これ以上誰かを失ってしまうなんて、考えただけで身体が震えるのを感じる。
世界に私達以外誰も居ないこの状況。
こんな状況で仲間を失ってしまったら、その先にあるのは完全な孤独だけじゃないか。

馬鹿みたいだって自分でも思う。
『完全な孤独』だなんて、思春期の中学生かよ……。
私はもう大学生なんだぞ?
自分が誰からも愛されてるって考える事と同じくらい、
自分が誰からも拒絶されてるって考える事は馬鹿な事だって知ってる年頃だろ?

そう思うのに、やっぱり動き出せない自分はまだ本当に子供だ。
少しは成長出来たつもりだったのに、本当に私はまだまだだ。
高校三年間、どうにか軽音部の部長をやり遂げられたと思ってたのにな……。

そんな事を考えてたせいだろう。
休みの日はかなり寝入っちゃう私なのに、今朝に限って早く目が覚めた。
寝袋の中から身体を引きずり出して、
家から持ってきた目覚まし時計に目を向けると、まだ六時にもなっていなかった。
勿論、早寝のせいもあるんだろうけど、
こんな早い時間に目を覚ますなんて滅多にない事だ。

周りを見回してみると、和と梓はまだ眠っていた。
和と梓は静かな寝息を規則正しく立てている。
でも、梓の隣の布団で寝ていたはずの純ちゃんの姿が無かった。
布団だけ残して、純ちゃんの姿は影も形も見当たらない。

部室の方にでも行ったんだろうか?
私もちょっと校内を散歩しようかな……?
そう思いながら、生徒会室の扉を開いてみて……、私は息を呑んだ。
廊下、生徒会室から少し離れた場所に、純ちゃんの変わり果てた姿が転がっていたからだ。
昨晩、一緒に寝ていた時とは、明らかに違っている純ちゃんのその姿……。
髪型は無惨に乱れ、可愛いデザインのパジャマも見る影もなく……。
54 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:23:52.57 ID:DHbPiHVK0
「純ちゃん……!」


小さく叫んで、私は廊下に転がる純ちゃんに駆け寄る。
駆け寄りながら、多くの事を一瞬で考える。

一体、何だってんだよっ?
誰も居ないはずのこの世界に、エイリアンみたいな奴でも居たってのか?
エイリアンが純ちゃんを襲ったってのか?
この世界から人を消したのもそいつ……?
もしかすると、そいつは私達を一人ずつ狩るために世界をこんな風に……?
今もそいつは何処かで私達を監視して……?
ああ、もう、とにかく!
今は純ちゃんだ!

私は仰向けに転がる純ちゃんの頭を抱え、自分の胸元に引き寄せる。
純ちゃんの肌は暖かかった。
でも、暖かいからって、安心出来るわけでもない。
喉から心臓が出そうなほどに緊張し、自分の手が痙攣しているのを感じる。
それでも、私はそれを必死に耐えて、
昨晩とは全く違ってる姿……、
パジャマも纏わず下着だけの姿になってる純ちゃんの異常を探る。

下着だけの姿とは言っても、
寝る前はパジャマだったわけだから、当然ブラジャーも着けてない。
そんなパンツしか履いていない姿の女子高生が、
学校の廊下に転がってるだなんて、そんなのただ事であるはずがないじゃないか。


「純ちゃん……!
どうしたんだ、純ちゃん……!」


頭を揺さぶりながら、目を皿のようにして純ちゃんの全身を見渡す。
純ちゃんの裸を見るのは初めてだが、そんな事を言ってる場合でもなかった。
一見した限りじゃ外傷は無さそうだけど、
人は外傷が無くても死んじゃう事だってあるんだ。
もしも純ちゃんに何かあったとしたら、それは年上の私の責任だ。
そうだとしたら、後悔してもし切れない。
無事でいてくれ、純ちゃん……!
55 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:24:21.54 ID:DHbPiHVK0
不意に。
私の後ろからとぼけた様子の声が響いた。


「あーあ、純ったら……。
あれだけ気を付けてって言ったのに……」


驚いて、私は声の方向に振り返る。
そこには寝ぼけ眼の梓が、呆けた様子で立っていた。
その梓の表情からは、驚いた様子は一切見受けられなかった。

何だよ……。
何を言ってるんだよ、梓は……。
「気を付けて」ってのは何の話なんだ?
梓は何を知ってるってんだ?
学校の中でエイリアンが歩き回ってる事を知ってたってのか?


「律先輩の声で目が覚めちゃいました……。
何があったのかと思ったら……、純のせいだったんですね……。
大丈夫ですよ、律先輩……。すぐ慣れますから……」


梓が何の感動も無く、淡々と言葉を続ける。
背筋が凍る気がした。
こんな異常事態に冷静でいられる梓の事が、心底恐ろしくなってくる。
慣れるってのはどういう事なんだよ。
また何度もこういう事が起こるって言いたいのか?
それとも、梓はこういう事を何度も経験してきたってのか?

私は喉から声を絞り出して、
震える身体を抑えながら、掠れた声でどうにか梓に言った。
56 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:25:06.70 ID:DHbPiHVK0
「大丈夫ってのは何なんだよ、梓……。
こんなのただ事じゃないだろ……。
だって、純ちゃんが……、純ちゃんが……!」


「確かにただ事じゃないですよね……。
純のこの寝相の悪さ……」


「寝相かよ!」


早朝の学校全体を震わせるくらいの声で、私は絶叫した。
朝も早くから申し訳ないが、絶叫せずにはいられなかった。
寝相って何やねん!
その私の声で意識がはっきりしたのか、大きな目を見開いた梓が困った様子で囁いた。


「いきなり大きな声を出さないで下さいよ、律先輩。
和先輩達はまだ寝てるんですから、迷惑になりますよ」


「いや、でも寝相って、そりゃいくらなんでも……」


言いながら、恐る恐る自分の耳を純ちゃんの口元に近付けてみる。
耳を澄ませば、すぐに純ちゃんの口元から安らかな寝息が聞こえた。
それはそれは安らかな寝息じゃったそうな。


「本当に寝てるだけかよ!」


「だから、大きな声を出さないで下さいってば。
さっきからそう言ってるじゃないですか、律先輩。
純ってばいつも『気を付けて』って言ってるのに、全然寝相の悪さが直らないんですよ。
人の布団に入ってくるし、人の顔は蹴ってくるし……、
ひどい時は今みたいに寝ながら服を脱ぎ散らかしたりもするんです。
特に昨日はクーラーを使えなくて寝苦しかったんで、
パジャマを脱ぎたい気持ちはちょっと分かりますけど……。
まあ、もう『慣れ』ましたけどね」


「でも、廊下で寝るってのは、寝相にしてはひど過ぎないか……?」


「あ、いえ、寝相と言うのは言葉のあやですよ、律先輩。
多分、純は半分眠ってる状態でトイレに行って、帰り道で力尽きたんだと思います。
ほら、あそこにパジャマもありますし、蒸し暑いから脱ぎながら帰って来てたんでしょうね。

実は純にはよくある事なんです。
前に純の家に泊まった時の話なんですけど、
私と一緒に部屋で寝てたはずなのに、目が覚めたら純は何故か玄関で寝てましたよ」


仕方が無い子ですよね、と付け加えてから梓が苦笑する。
すげー……。
純ちゃんもすげーけど、それに慣れ切ってる梓もすげー……。
57 :にゃんこ [saga]:2012/01/26(木) 20:30:56.52 ID:DHbPiHVK0


今回はここまでです。
とても馬鹿馬鹿しいお話になってきました。
58 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/27(金) 00:58:33.79 ID:8HOoxbiDO
こう言う笑えるシーンが有るって言うのは良いね。久しぶりに読み応えの有るSSで今後も期待して待っています。これからも頑張ってください。
59 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/27(金) 13:55:22.27 ID:36hRMf9DO
おつ
真っ先にバックホーンの閉ざされた世界が浮かんだんだけど違うようだ
あと過去スレがあるならスレタイかログおくれ
60 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:37:56.20 ID:5EkQnNsE0
そういや、さっき私は今の純ちゃんの髪型を無惨とか考えてしまってた。
何かの事件に巻き込まれたのかと思ってたけど、
こうして眠ってるって事は、今の髪型は単なる寝癖だって事か……。
何か、ごめん……。
無惨な髪型とか考えて、本当にごめん……。

でも、言われてみれば、純ちゃんの気持ちも分からなくもない。
蒸し暑い夏の夜だってのに、昨晩私達は窓を閉め切って眠った。
誰も居ないこの世界だけど、悪意を持った第三者が存在しないとも限らない。
馬鹿みたいな考えだけど、エイリアンみたいな生物が居ないとも言い切れない。
だから、私達は学校の玄関まで完全に鍵を掛けて、眠る事にしたんだ。

安全を考えるとその選択に間違いは無かったと思うけど、
真夏の夜に完全な密閉空間で寝るってのは、かなり無理があったかもしれない。
暑さに弱い唯なんか、ぐったりして憂ちゃんに団扇で扇いでもらってたもんな。
私もそうだけど、現代っ子ってのはか弱いもんだ……。
こうなると電池で動かせる扇風機くらいは探してくるべきか。
電池の残量が心配ではあるけど、背に腹は代えられないしな。


「ほらほら、純。
起き……なくてもいいから、せめてパジャマの袖には手を通して」


気が付けば、梓がその辺に脱ぎ散らかされた純ちゃんのパジャマを拾い集めていた。
「起き……なくてもいい」ってのは、
そもそも起こそうとしても無駄だって事を知ってるんだろうな。
私も寝起きのいい方じゃないけど、流石に純ちゃんほどじゃないぞ。
その事に若干呆れはする。
でも、逆に頼もしくもあった。

こんなわけの分からない状況なのに、純ちゃんはいつもの元気な純ちゃんだ。
純ちゃんについては詳しく知ってるわけじゃない。
梓から聞く話で、どんな子なのか見当を付けてるだけだ。
元気でマイペースな子なんだろうなとは思ってたけど、そのくらいだ。
でも、こんな間近で純ちゃんと梓のやりとりを見られるようになって、気付いた。
梓は本当に純ちゃんに支えられてるんだって事に。

一見、梓が純ちゃんのフォローをしてるように見える。
それはそうなんだろうけど、きっと梓はそれ以上に純ちゃんの事を信頼してる。
大体、友達のために三年から部活を変えるなんて、そうそう出来る事じゃないよな。
澪の奴なんか一緒にバンドやろうって話をしてたのに、文芸部に入ろうとしてたしな。
いや、まあ、それは、二人で軽音部に入ろうと思ってる事を澪に伝えたのが、
軽音部の見学に行こうって誘った当日だった私にも責任があるんだろうけどさ……。

とにかく、梓が純ちゃんに支えられてるのは間違いない。
涙を流しながらも私達の卒業を祝福出来たのも、純ちゃんが傍に居てくれたからだと思う。
きっと私の知らない所では、色んな話をして、色んな事を考えてたんだろう。
私の知らない所で、純ちゃんは何度も梓の心を支えてあげてくれてたんだ。
純ちゃんにその自覚があるかどうかは微妙だけど、
そういう無自覚な優しさを持ってるって所も純ちゃんの魅力だと思う。
だから、梓は苦笑しながらも、純ちゃんの傍に居たがるんだろう。
61 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:38:38.09 ID:5EkQnNsE0
「律先輩、純にパジャマ着せるの手伝ってもらえますか?」


「あいよ、了解」


梓に言われ、私は純ちゃんの頭から手を離して代わりに肩を支える。
「純ったら困りますよね」と苦笑しながら、梓が純ちゃんにパジャマを着せていく。
その手先は器用で、本当に慣れてるんだな、とちょっと感心した。
今までそれだけ何度も純ちゃんのパジャマを着せてあげてたって事か。
不思議ではあるけど、いい関係の友達だよな。


「んー……? あー……?」


パジャマの衣擦れがくすぐったいのか、
梓がパジャマのボタンを留める度に純ちゃんが変な声を上げる。
起きてるんだか、起きてないんだか……。
いや、きっと九割くらい寝てるんだろうな……。
この調子だと、パジャマの代わりに着ぐるみを着せてても、しばらく気付かないだろうな。

そういや、澪もああ見えて寝起きも寝相もいい方じゃないんだよな。
三年の学祭の時、
寝てる澪の腕に散々人って字を書いたのに起きなかったし、
ロンドンでの卒業旅行の時の澪の寝相も、そりゃひどいもんだった。
いや、ここだけの話だけど。


「さてと、次はズボンですね。
律先輩、純の身体をしっかり押さえてて下さい」


ボタンを留め終わると、梓が純ちゃんの足下に回って言った。
「しっかり押さえてて下さい」って暴れ馬じゃないんだから……、
と思った瞬間、純ちゃんは足下の梓に向けて鋭い蹴りを繰り出していた。
あっ、と私が声を上げるより先に、梓がその蹴りを見事に避けていた。


「もう……、律先輩、
しっかり押さえてて下さいって言ったじゃないですか」


「わ……、悪い悪い……」


梓が非難する様な視線を私に向け、私は素直に頭を下げて謝った。
言い訳する事も出来ない。
これは完全に油断してた私の失敗だ。
梓が見事に避けてくれて助かった……。

しかし、本気で鋭い蹴りだった。
純ちゃんの中の獣が叫んだんだろうか。
脳じゃなくて身体が足下の違和感に気付いて、本能的に蹴ったに違いない。
純ちゃん……、恐ろしい子……!
ついでにそれを見事に避けた梓も恐ろしい子……!
62 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:39:06.37 ID:5EkQnNsE0
私はちょっとだけ期待して、純ちゃんの顔に視線を向けてみる。
もしかしたら、今の蹴りで純ちゃんが目を覚ましたんじゃないかと思ったからだ。
でも、残念ながらと言うべきか、予想通りと言うべきか、
純ちゃんは相も変わらずに寝息を立てて、それはそれは気持ち良さそうに爆睡していた。
こりゃ本気で筋金入りの寝太郎(眠り姫?)だ。
流石の澪も、いや、唯でさえも、
純ちゃんのこの眠りっぷりには敵いそうにない。

結局、純ちゃんの脚にズボンを通した後、
梓と二人で両側から肩を支えて純ちゃんの布団まで運んでも、
純ちゃんは遂に一瞬たりとも目を覚まさなかった。
ここまでくるともう褒めるしかない。

でも、普段大雑把に見えて、
異常事態になると一番最初に目を覚ましちゃう私よりは、よっぽど頼りになるよな……。
多分、今の状況で梓を支えられてるのは、私じゃなくて純ちゃんなんだろう。
それを恥に思う事は無いはずだし、
梓を支えてくれる子が居る事に安心するべきなんだろうけど、何だか悔しい気がした。
それを悔しいと思っちゃう自分が悔しかった。

だから、私は生徒会室に梓を残して、
皆の朝食の準備をした後、一人で朝食を食べて屋上に上がったんだ。
これからの事、澪の事、今の状況……、そんな色んな事を考えるために。
答えを出せるかどうかは分からない。
それでも、何かを考えずにはいられなかった。

ちなみに結構騒がしくしちゃったはずなのに、
和は私が目を覚まして最初に見た時から一切変わらない姿で眠っていた。
布団の丁度真ん中で手足を伸ばして、
逆に気味が悪いくらい整った姿勢で、規則正しく寝息を立てていた。
相変わらず頼もしい……。
純ちゃんも純ちゃんだけど、和も和だよな……。
63 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:39:32.44 ID:5EkQnNsE0





屋上ではしばらく和と話した。
主に今日の行動に予定についてだ。
私は今日こそ地図と、ついでに使えそうな電化製品を探しに街に出る。
私と街に出るのは昨日と同じく、唯、梓、ムギ、純ちゃんでいいだろう。
和は学校に残って澪、憂ちゃんと調べ物をする。
大体、そんな予定でいいだろうと結論が出た時、
閉めていた屋上の扉が大きな音を立てて開いた。


「律先輩!
ちょっと一緒に来てもらえませんかっ?」


無音に近かった屋上に甲高い声が響く。
急に名前を呼ばれて、ちょっと驚いた私は扉の方に視線を向けた。
見覚えのある癖っ毛。
屋上の扉を開いて、甲高い声を出したのは純ちゃんだった。


「ど……、どうしたの?」


私は真剣な表情の純ちゃんに少し気圧されながら訊ねる。
純ちゃんは覚えてないだろうけど、
さっき同性とは言え裸を見ちゃってるから、何となく気まずいってのもあった。
ちなみにすごい寝癖がついていた純ちゃんの髪は整えられている。
まったく見事だと思った。
自分の癖っ毛との付き合い方を分かってる証拠だろう。


「ちょっと……、待ってよ、純……!」


不意に仁王立ちに近い体勢の純ちゃんの後ろから、梓が顔を出した。
かなり息を切らせている。
多分、純ちゃんを走って追い掛けてきたんだろうな。
梓は肩で息をしながら私と和と視線を合わせると、軽く頭を下げた。


「律先輩、和先輩、純がお騒がせしてすみません……。
ごはんを食べた後、純と二人で校庭を散歩してたんですけど、
屋上にお二人の姿を見つけた瞬間、
純ったら急に走り出しちゃって、それで私も純を追い掛けて来たんですけど……。

何なのよ、純……。
急に走り出すなんて、何かあったの?」


「仕方ないじゃん。
だって、律先輩の姿を見つけたら、居ても立ってもいられなくなったんだから」


純ちゃんの意外な言葉に、梓も和も、勿論、私も首を傾げる。
純ちゃんの事は可愛い後輩だと思ってるけど、物凄く親しいってわけじゃない。
だから、純ちゃんがそんな事を言い出すなんて、すごく意外だった。
64 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:40:22.57 ID:5EkQnNsE0
「え……? 私……?」


私は思わず呟いてしまう。
純ちゃんは私の言葉に頷くと、近付いて来て私の手のひらを握った。


「はい! 実は律先輩に見てほしい物があるんです。
昨日学校で見つけて、その時は大した物じゃないって思ってたんですけど、
一晩寝てよく考えたら、やっぱり大変な物なんじゃないかって思えてきて……。
だから、律先輩、今から一緒にそれを見に行ってもらえませんか?」


「それなら、私じゃなくて……」


和の方がいいんじゃないか。
そう言おうとしたけど、その言葉は途中で止めた。
大変な物かもしれない得体の知れない何か……。
それを一番正しく判断出来るのは、きっと私達の中では和だけだ。
そんな事なんて、純ちゃんだって分かり切ってるだろう。

でも、純ちゃんは和じゃなくて、私を選んだ。
和じゃなくて、私に見てもらった方がいい物だって思ったから、私を選んだんだ。
だったら、私が行くしかないじゃないか。
和もそれを分かってるんだろう。
私が軽く視線を向けてみると、和は軽く頷いてくれた。
いってらっしゃい、とその視線は言っていた。


「分かった。
それが何なのかは分からないけど、今から一緒に行くよ。
連れてってくれるか?」


「ありがとうございます、律先輩!
じゃあ、すぐそこなんで私についてきて下さい。
和先輩、すみません、律先輩を借りていきます。

ほら、梓も一緒に行くよ!」


「何なのよ、もー……!」


肩を落として呟く梓を楽しそうに見つめながら、
純ちゃんが私の手を引いて屋上の扉に向けて駆け出し始める。
純ちゃんに手を引かれ、私もその場から走り出す。
結局、屋上で見つけられた答えなんて、ほとんど無かった。
でも、今は走り出す。
今は走るべき時なんだ。
走り出していい時なんだって思った。

梓の近くまで駆け寄る。
私は梓の手を取って、純ちゃんと梓と一緒に走り出そうとする。
瞬間、和が私達の後ろから大きな声で言ってくれた。


「律! 朝ごはん作ってくれたの律でしょ?
美味しかったわよ、ありがとう!
いってらっしゃい!」


こんな状況になって、まだ何も出来てない私の胸が震える。
和の言葉に、少しだけ救われた気がした。
65 :にゃんこ [saga]:2012/01/28(土) 14:42:44.61 ID:5EkQnNsE0


今回はここまでです。
純ちゃんやっと起きた。

>>59

過去スレに興味持って頂け、恐縮です。
過去スレは、
律「終末の過ごし方」というスレになっております。
66 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/01/28(土) 17:24:29.71 ID:Er/PNLSzo
67 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:42:03.67 ID:Z8DHpmFV0





階段を駆け降りて、廊下を走る。
夏休み中とは言え、いくら走っても誰にも注意されないのは何だか寂しい。
誰も居ない校舎で過ごした事は、部活で何度かある。
その時も校舎は静かで別世界みたいだった。

でも、今のこれは全然違う。
誰も居ないってだけじゃない。
人が生活してる痕跡すら全然感じられない。
長く過ごしたはずの校舎が、全然知らない建物みたいに思えてきて仕方が無かった。

もやもやした感情が胸の中に広がりそうになる。
今の所、私達に直接的な危険は無い。
エイリアンが居たり、変質者がうろついてたり、そういう事は無さそうだ。
この世界……、少なくともこの町の中には私達しか残ってないと思う。
本当はそれに安心するべきなんだろう。
女の子八人だけの集団に直接的な暴力が襲い掛かってきたら、成す術も無いんだから。

それでも、私は湧き上がる漠然とした不安を押し留める事が出来ない。
このままじゃいけない事は分かってるけど、
何をどうしたらいいか解決の糸口も掴めてないのが恐い。
その不安は自分の将来像に対する不安に似てるかもしれない。

私達の周りから人が消えてしまった今の状況は置いておくとして、
これまで普通の大学生活を過ごしていた私達に、直接的な脅威や危険は無かった。
切羽詰まった抜き差しならない場面に遭遇してるわけでもなかった。
大学生活、新しい仲間も出来て、毎日が新鮮だし、楽しかった。

だけど、完全に不安が無いと言えば嘘になる。
軽音部の皆とは一緒の大学に進学する事が出来た。
澪とは元からそうだけど、これで唯やムギとの腐れ縁も決定したようなもんだ。
順調に進級出来たらの話だけど、残り三年以上は一緒に笑ってられるはずだ。
でも、その先……、大学を卒業した後の事は分からない。
68 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:43:19.90 ID:Z8DHpmFV0
流石に全員と同じ会社に就職するって事は無いだろうし、
バンドでプロデビュー……なんて事もとりあえずは無さそうだ。
ひょっとしたらプロデビューは出来るかもしれないけど、
それで食べていけるようになるかどうかはまた別の話だしな。
つまり、卒業後に私達が別々の道を歩いて行く事になるのは、ほとんど確定に近い。
一緒だった仲間が今度こそ本当にバラバラになっちゃうんだ。

今の私の胸の中を支配してる不安は、
そんな将来の事を考えてる時の不安とよく似てる気がするんだ。
直接的な危険や問題があるわけじゃない。
このままじゃいけないんだろうけど、何をどうしたらいいのか分からない。
何をどうしたって、何も変わらないかもしれない。

胸に湧き上がるのは漠然とした不安。
はっきりとした不安じゃないのに、
その不安が真綿で首を締めるみたいに私を苦しめる。
そういや、自殺の理由を『漠然とした不安』って言い残した小説家も居たんだっけか。

走りながら頭を振って、私は胸の中に湧き上がる不安をどうにか振り払う。
悩んでても何かが変わるわけじゃないはずだ。
今の私に出来る事は、目の前にある問題に一つ一つ取り組んでいく事だけだ。
そうでもしなきゃ、私を少しは頼りにしてくれてる和にも申し訳ない。


「律先輩、ここです」


不意に足を止めて、純ちゃんが深刻な表情で私に囁いた。
どうやら目的の場所に辿り着いたらしい。
純ちゃんの言った通り、その部屋は屋上からあんまり離れていなかった。
私も足を止め、私の隣で息を切らす梓とその部屋に掛かる表札に視線を向ける。
表札にはオカルト研と書かれていた。
肩で息をしていた梓が、少し息を整えると肩を落として呟く。
69 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:43:46.17 ID:Z8DHpmFV0
「ちょっと、純……。
大変な物がある場所って、オカルト研なの?」


「そうだよ。何かおかしい?」


梓の言葉に、真剣な表情で純ちゃんが頷いた。
それでも梓は胡散臭そうな表情を崩さなかった。
まあ、そりゃオカルト研だからなあ……。
オカルト研は桜高の生徒達の間では、
軽音部と並んで胡散臭い部として名前が挙げられてるらしい。
前に信代から聞いた話では、軽音部もオカルト研も、
どんな活動をしてるか分からない謎の部として有名なんだそうだ。
……って、いやいや、失礼な。
軽音部もオカルト研もちゃんと活動しとるわい!

でも、確かにオカルト研は私達にも謎の部だ。
そもそも部員を二人しか見掛けないけど、
桜高って四人揃わなきゃ部活動として認められないんじゃなかったっけ?
ひょっとしたら、オカルト研なわけだし、
あんまり出席しないって意味での幽霊部員じゃなくて、
霊魂的な意味での幽霊部員でも部員として認められるって特例があるとか?
それか部員の誰かが理事長の孫娘だからオッケーとかなのか?

……我ながら発想が古いな。
幽霊の部員とか、理事長の孫娘とか、昭和の漫画かよ……。
まあ、実際は部じゃなくて研究会だから二人でも大丈夫、とかそういう理由なんだろう。
私達だってちゃんとした部と認められてないのに、
何ヶ月も音楽室を好きに使わせてもらえてたわけだし。
やっぱり桜高ってそういう大らかな校風の学校だったんだよな。
そもそもDEATH DEVILが活動出来てた時点で相当に大らかでもあるが。


「オカルト研に大変な物があるって言われても困りますよね……。
すごく胡散臭いと言いますか、何と言いますか……。
ねえ、律先輩?」


同意を求めるみたいに梓が私に視線を向ける。
普通なら梓の言葉に頷く所だったけど、私は軽く首を振って言った。
70 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:44:19.33 ID:Z8DHpmFV0
「いや、そうとも限らないぞ、梓。
胡散臭いのは認めるけど、こんな状況なんだからな。
何があっても、その何かの原因がオカルト研の中の何かでも、おかしくないんじゃないか?
少なくとも私はそう思うぞ?」


「律先輩まで……」


梓が不安そうに言葉を濁す。
肩が少しだけ震えたのは、走ってきた疲れのせいってだけじゃないだろう。
少し恐がらせちゃったかもしれない。
私はちょっと反省した。

そういや、前に唯の家に集まって、
軽音部の皆と憂ちゃんでホラー映画を観た事がある。
私はホラーは平気な方だし、
ムギは何にでも興味津々だから目をキラキラさせてた。
唯はちょっと恐がってたみたいだけど、
その後に憂ちゃんが用意してくれたアイスクリームを食べたら、全部忘れちゃってた。
結局、恐がってたのは、毎度の如く澪だけだったな。
映画の内容より、あいつの叫び声の方が恐かったくらいだ。

そもそもC級に近いホラーだったから、勿論梓もほとんど恐がってなかった。
しかも、梓はホラー映画を映画館でたまに観てるらしいから、
一般的な女子高生に比べれば、ホラーにかなり耐性がある方だろう。
少なくともほとんどの女子高生は、ホラー映画をDVDでは観ても、
デート以外では映画館でホラー映画を観る事は少ない……はずだ。
よく知らんが。
とにかく、人には意外な趣味があるもんだよな。

そんな梓でも、今の状況は少なからず不安らしかった。
私の手のひらをかなり強い力で握ってるのがその証拠だ。
不謹慎だけど、ちょっと安心する。
何かがあっても、梓はそれを顔に出したり、口に出したりする事が少ないからな。

感情を素直に表現しがちな澪の幼馴染みをやってきたせいか、
私は梓みたいに自分の感情を隠しがちな子の相手が得意じゃないと思う。
勿論、梓の事は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
後輩だけど、同い年の子みたいに一緒に本気になって遊べる。
それが嬉しい。

でも、たまに、梓はどうなんだろう、って考える。
梓は私と遊んでて楽しいんだろうか。
いや、楽しいはずだ。楽しんでくれてるはずだ。
喜びを素直に表現してくれるくらいには、私は梓と仲良くなれたはずなんだ。

けど……、辛い時はどうだろう?
悲しい時は……、どうなんだろう……?
私は梓の悲しみのサインを見逃してないだろうか?
あいつに後輩を作ってやれなかった私は、
あいつの本当の寂しさを分かってやれてたんだろうか?

分からない。
分からないけれど……、今はちょっとだけ不安を見せる梓の姿が嬉しかった。
不謹慎だけど、出来れば梓にはもっとそういう弱さを見せてほしかった。
そうすれば、私にも何かしてやれるかもしれないからだ。
71 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:44:49.71 ID:Z8DHpmFV0
「心配すんなって、梓」


安心出来たせいか、自分でも驚くくらい優しい声が出ていた。
本当は梓以上に私が不安がってたのかもしれない。


「オカルト研の中に変な物があっても護ってやるって。
元部長は現部長よりも強いってのがお約束だ。
りっちゃん部長に任せろ!」


私がそう言って梓の頭を撫でると、
妙に冷静な言葉を淡々と返してくれやがった。


「お言葉は嬉しいんですけど、律先輩……。
それ、映画だと真っ先に死んじゃう人の台詞ですよ」


「中野ー!」


ちょっと大声を出して、私は中野の後ろに回ってチョークスリーパーを極める。
中野め、ホラー映画に通なせいか、
死亡フラグにも精通してるようじゃないか、この生意気な中野め。
でも、その言葉が生意気なだけじゃないってのも、私は知っていた。
チョークを極められながら、中……梓は嬉しそうに、楽しそうに笑ってる。
考えてみれば、梓とこんなに身体を密着させるのも久し振りだ。
何故か気持ちがとても落ち着く。
もしかしたら、梓も私と久し振りにくっ付きたくて生意気を言ったのかもしれない。

本当はすぐに梓から身体を離して、純ちゃんの話を聞くべきだったんだろう。
でも、それはすぐには出来なかった。
私と梓、二人ともがお互いの身体を離したくなかったんだ。
どうしようもないくらい。

梓と身体を密着させながら、気付く。
恐がったり、不安になったりした時、澪がよく私に抱き着いて来る理由を。
やっぱり、人肌の温もりは心を落ち着かせてくれるんだ。
だから、澪はよく私に抱き着いて来るんだろう。
それが私にとって、澪にとって、梓にとって、
いい事か悪い事かは分からないけどな……。
72 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:45:15.99 ID:Z8DHpmFV0
時間にして二分くらいだったと思う。
名残惜しく私が梓から身体を離した時、純ちゃんが苦笑しながら梓に言った。


「梓、律先輩とイチャイチャし過ぎ。
やっぱり愛人の私なんかより、本妻の方が好きなのね……!
よよよよ……!」


「何よ、愛人とか本妻とかって……」


梓が呆れて呟き、また肩を落とす。
つーか、本妻って私か?
でも、私と梓がくっ付いてるのを見守っててくれたのを見る限り、
純ちゃんは梓が幸せならそれでいいんだって思ってくれてるんだろう。
勿論、愛人とか本妻とかそういう意味じゃなくて、
一人の親友として、梓の幸福を願ってくれてるんだと思う。

一瞬、純ちゃんが真面目な顔に戻る。
それから、ちょっと苦々しげに言葉を続けた。


「でもね、梓。
そろそろそのハーレム体質、いい加減どうにかしないと。
唯先輩にはよく抱き着かれてるし、澪先輩とは姉妹みたいだし、
律先輩とはメールしまくりだし、最近はムギ先輩とも仲がいいみたいじゃない。
何よ、そのハーレム……。
あー、羨ましい!」


最後には本当に悔しそうに叫んでいた。
苦々しそうに見えたのは、単に羨ましかっただけか……。
まあ、確かに私が純ちゃんの立場なら、梓の事が羨ましくなるかもしれない。

私はともかくとしても、
澪はファンクラブもある上に面倒見がいいし、
ムギも優しくておやつを提供してくれるし、
唯も度が過ぎる所はあるけど後輩想いで面白い奴だからなあ。
こんな先輩達が居るなんて、確かに羨ましいな……。
73 :にゃんこ [saga]:2012/01/31(火) 18:48:38.46 ID:Z8DHpmFV0


今夜はここまで。
やっと話が進んできました。
74 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:36:22.18 ID:sR4KlcE40
純ちゃんのそんな叫びには慣れてるんだろう。
梓が苦笑を浮かべて、言葉を続けた。


「それより、純。
オカルト研の中に大変な物があるんでしょ?
それを見に行かなくていいの?」


「そうそう、そうだよ。
梓のハーレム体質のせいで忘れちゃってた。
ごめん、梓。律先輩もごめんなさい」


純ちゃんはそう言いながら、首を傾げて頭を掻いた。
舌こそ出してなかったけど、
そのポーズはさわちゃんがたまにやるポーズとよく似ている。
梓が何度か言ってた事だけど、さわちゃんと純ちゃんって結構似てるのかもしれない。
少なくとも発想や仕種はそっくりな気がするぞ。

さわちゃん……。
さわちゃんか……。
卒業以来、さわちゃんとは顔を合わせてない。
この夏休み、久し振りに会える予定だったのに、
人が居なくなるって奇妙な現象が起こったせいで、それが出来なくなった。
別にさわちゃんは何も変わってないはずだ。それは分かってる。
でも、その何も変わってないはずのさわちゃんを確かめられないのは残念だ。

さわちゃんは元気なんだろうか?
さわちゃんだけじゃなく、新入部員の子達、皆の家族も……。
そんな事は分からない。分かるはずもない。
だけど、せめて私達の知らない場所で、元気で居てほしいと思う。


「それじゃあ、これから私が見つけた物をお見せしますね。
多分、衝撃的な物なんですけど、律先輩、驚かないで下さいよ。
絶対に驚かないで下さいね。絶対ですよ?」


前振りかよ……。
つい突っ込みそうになったけど、
そう言った純ちゃんの優しい微笑みを見るとそんな気も失せた。
純ちゃんは私が少し暗い顔をしてたのに気付いたんだろう。
それでわざとふざけてみせてくれたのかもしれない。
75 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:38:22.19 ID:sR4KlcE40
ごめんな、ありがとう。
私は心の中だけで純ちゃんに礼を言って、軽く頷いた。
私が頷いたのを見届けると、純ちゃんは私の手を引いてオカルト研の部室の扉を開いた。
鍵は掛かってないみたいだった。
純ちゃんが鍵を見つけたのか、元から掛かってなかったのか、それはどっちでもいいか。

勝手に入るのには、勿論ちょっと抵抗がある。
でも、今更そんな事を言ってる場合でもなかった。
大体、非常事態とは言え、昨日私達は近所のスーパーから食べ物を持ち出してるんだよな。
悪い事をしてるとは思ったんだけど、他に食べ物を手に入れる方法は無かった。
一応、レジの中にお金を入れておいたけれど、勝手にやっちゃ犯罪だよな……。
もしもこの状況が解決したら、スーパーの人に謝らないといけない。
もしも解決したら、ではあるけど……。


「うわー……」


オカルト研の部室に入ってすぐ、梓が何とも言えない微妙な声を上げた。
多分、梓がオカルト研の部室に入るのは久し振りなんだろうし、私だって久し振りだった。
だから、梓が微妙な声を上げる気持ちも分かる。
久し振りのオカルト研は、私の記憶の中にあるオカルト研より遥かにパワーアップしていた。
前のオカルト研は少し怪しくて薄暗い程度の部室だったはずだ。
でも、今のオカルト研は違った。
何と言うか、こう……、単純な言葉じゃ言い表せない感じだ。

まず目に入ったのは等身大のチュパカブラの模型だった。
いや、チュパカブラの正確な体長を知ってるわけじゃないが、多分等身大だろうと思う。
それくらい大きな一メートルくらいの模型だった。
ロミジュリの時に借りたりっちゃんのお墓(平沢唯・談)と言い、うちのオカルト研は本格的だよな。
模型も墓も相当高いと思うんだけど、どこからそんな資金が……?
やっぱり部員の誰かが理事長の孫娘なのか?

それと窓や壁のあちこちがアルミホイルで覆われてるのも気になる。
銀色の光がちょっと目に眩しい。
一見異常な光景だけど、私にはそのアルミホイルの理由に心当たりがあった。
前に皆と百物語をしようと思って読んでおいたオカルト雑誌に書いてあった。
よく分からないんだけど、アルミホイルは人間を操る電波を遮断するんだそうだ。
人間を操る電波ってのが何なのかって事には触れないでくれ。

オカルト研の中で、そういう電波関係のオカルトがブームだった時期があったんだろうな。
でも、窓や壁がアルミホイルで完全に覆われてないのを見る限りじゃ、
結構すぐにその電波関係のオカルトのブームが過ぎちゃったんだろう。
オカルトにも流行り廃りはあるんだよな。
だからこそ、中途半端にアルミホイルが残ってるに違いない。

他にも色々何とも言いにくい物があったけど、それは置いておこう。
とにかく、オカルト研も順調に活動してるみたいで何よりだ。
軽音部も負けないように頑張らないとな。
76 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:39:37.13 ID:sR4KlcE40
「ほら、これですよ、これ。
律先輩、これをちょっと読んでもらえますか?」


私と梓がオカルト研の変貌に沈黙してる間に、
純ちゃんは昨日見つけたらしい大変かもしれない物を手に取っていた。
私は純ちゃんに差し出されたそれを手に取り、じっと見つめてみる。
純ちゃんが言う大変かもしれない物……、
それは黒い紐でとじられた一冊のレポートだった。
レポートのタイトルには『フィラデルフィア実験文書』と記されていた。

梓が私の後ろからレポートを覗き込んで呟く。


「フィラデルフィア実験……?
何、これ……?」


「そうだよ、梓。フィラデルフィア実験……。
驚くかもしれないけど、律先輩と一緒に読んでみて」


言って、純ちゃんが真剣な表情で梓の肩を叩いた。
梓が不安そうな表情で私の肩を軽く掴み、それでもレポートから目を逸らさなかった。
私は小さく息を吐いてから、レポートの表紙を捲る。
このレポートを書いたのはオカルト研の部員の誰かなんだろう。
妙に可愛らしい丸文字でそのレポートは記されていた。
ただ、その丸文字とは裏腹に、内容は私達を戦慄させるものだった。
以下はレポートに記されていた内容である……。


第二次世界大戦中にアメリカのフィラデルフィアで行われたフィラディルフィア実験。
戦艦をレーダーから不可視化するための実験に使われたエルドリッジ号。
数々の電気機器を用い、船体をレーダーのみならず肉眼からの不可視化にも成功。
しかし、実験中に予想外の現象が起こる。
エルドリッチが突如実験場から消失。
その後、千六百マイル離れたノーフォーク沖への顕現を確認。
つまり、艦全体がテレポートしたと言うのだ。
エルドリッジはフィラデルフィアにその後帰還するも、
乗員の中には肉体が船体に溶けてしまった者や、
衣服のみが船体に焼き付けられた者、精神に異常をきたした者も居たらしい。


そして、その文書の最後にはこう記されていた。
近くオカルト研もこのテレポート実験に挑戦したい、と。


「な、何だってーっ!」


私の叫びがオカルト研の中に響く。
その叫びに梓が怯え、私の肩を掴む手に力を込める。
純ちゃんは怯えた様子も見せず、満足そうに私を見つめながら頷いていた。
77 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:40:55.79 ID:sR4KlcE40
「分かって頂けましたか、律先輩……。
封印されたテレポート実験……、人々の消失現象……、
今の私達の状況はこのフィラディルフィア実験によく似ていると思いませんか?
それにその文書の最後の言葉……、
『近くオカルト研もこのテレポート実験に挑戦したい』って……。
もしかしたらなんですけど、今の私達のこの状況はオカルト研の実験で……」


「な、何だってーっ!」


もう一度、私は叫ぶ。
あまりにも衝撃的な事実に、身体を震わせて叫ぶふりをするんだ。
その叫びに梓は怯えず、私の肩を掴む手から力を抜いた。
純ちゃんは怯えた様子も見せず、少し呆れて私を見ながら突っ込んでいた。


「律先輩、二度はわざとらしいですよ……」


「あ? ばれた?
もうちょっとインパクトがあった方がいいかと思ったんだけど……。
このレポートも出来はいいんだけど、オカルト研が実験する予定ってのがなー……。
そりゃ可能性としてありえなくはないんだろうけどさ、ちょっとリアリティ無いよな。
だから、もうちょっとだけ盛り上げようかと思ったんだけど、やっぱわざとらしかった?」


「ばればれですよ、律先輩。
と言うか、いきなり叫ばないで下さい。
びっくりするじゃないですか」


非難するようにまた梓が私の肩を強く掴んだ。
やっぱり梓が怯えたのは、レポートの内容じゃなくて、私の叫び声の方みたいだった。
二度目はわざとらしかったけど、一度梓を驚かせられただけとよしとするかな。
ちょっと微笑んでから、私は手に持っていたレポートを純ちゃんに返した。
78 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:42:56.19 ID:sR4KlcE40
「純ちゃんもよく見つけたよな、こんなレポート。
上手い具合に私達の今の状況とそっくりな事が書いてあるじゃんか。
こりゃ、この実験の内容を知らない人が見たら信じちゃうよ。
だから、澪達には見せないでくれよな。
私と梓だからよかったけど、澪と唯なんかは本気で信じちゃいそうだからさ」


「はい! だから、梓と律先輩を呼んだんです!
期待通りの反応を頂き、ありがとうございます!」


純ちゃんが嬉しそうにピースをしながら笑う。
なるほど。純ちゃんも冗談を言う相手をちゃんと選んでるんだな。
残ったメンバーの中では、憂ちゃんとムギは半信半疑ながら信じかけそうだし、
和に至っては「そうなんだ。それじゃ私、生徒会室に行くね」とか真顔で言いそうだ。
そうなると、純ちゃんがこのネタを使えるのは、私と梓しか居なくなるよな。


「もー……、純ったら変な事にばっかり夢中になるんだから……。
律先輩も純の変な話に乗っからないで下さいよ……。
純が調子に乗るじゃないですか」


言ってから、純ちゃんに向けて梓が頬を膨らませる。
何だ。梓の奴、私達以外にもそんな顔が見せられるんじゃないか……。
拗ねたり、怒ったりも出来るんじゃないか……。
よかった……。

いつの間にか私は軽く微笑んでいた。
その私の表情に気付いたらしく、純ちゃんが悪びれた様子もなく微笑んだ。


「えー、いいじゃん。
これで梓もちょっと気が晴れたでしょ?」


「えっ……?」


驚いた感じで梓が呟く。
瞬間、「隙あり!」と言いながら、純ちゃんが梓の頭を強く撫でた。
撫でられるのが気持ちいいのか、梓はしばらく目を細める。
数秒後、私に見られてる事に気付いたらしく、梓は恥ずかしそうに純ちゃんの手を払った。
79 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:44:28.88 ID:sR4KlcE40
「撫でないでよ、もー!」


「照れるな、照れるな。
梓だって撫でられるの好きなんでしょ?」


「照れてないもん!
撫でられるのも好きじゃないもん!」


大声で否定する梓には悪いけど、私も純ちゃんと同意見だった。
梓は人との身体的接触が好きなんだと思う。
唯にはよく抱き締められてるし、私のチョークスリーパーにも抵抗しない。
澪やムギに頭を撫でられて目を細めるのもしょっちゅうだ。
本当に猫みたいだな、と思う。
あずにゃんとはよく言ったもんだよな。


「照れるなよ、あずにゃん」


何となく思い付いて言ってみると、梓は急に顔を真っ赤にして俯いた。
耳元まで赤くしてるのを見ると、よっぽど恥ずかしかったんだろう。
しかし、何で梓はそんなに恥ずかしがってるんだろうか。
『あずにゃん』なんて唯に呼ばれ慣れてるだろうに。
そう思いながら私が首を傾げると、純ちゃんが楽しそうに私に耳打ちしてくれた。


「梓はですね……、
律先輩に『あずにゃん』って呼ばれるのがくすぐったいんですよ」


「もうっ! 純っ!」


純ちゃんの言葉が聞こえていたらしく、
梓が顔を真っ赤に染めたままで純ちゃんを非難する。
仲が良さそうで何よりだ。

でも、私に『あずにゃん』って呼ばれるのがくすぐったい……?
確かに呼ばれ慣れてはいないだろうけど、そんなに恥ずかしがる事なのか?
そこまで考えた直後、ちょっと変な事に気付いて、私も自分の顔が赤くなるのに気付いた。

梓の事を『あずにゃん』と呼ぶのは、私の周りでは唯だけだ。
唯以外の誰かが梓を『あずにゃん』と呼んだら、梓はどう反応するんだろう。
普通にその呼び方を受け容れるんだろうか。
多分、唯が相手だから、梓は『あずにゃん』って呼び方を受け容れてるんだとは思う。
でも、もし……。
誰が相手でも『あずにゃん』って呼び方を受け容れるんだとしたら、
今の純ちゃんの言葉の意味は、つまり……。
いやいや、何を考えてるんだ、私は。
80 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:45:30.42 ID:sR4KlcE40
ありえない考えだと思うけど、そう考え始めるとどうにも気恥ずかしい。
自分が梓にとって特別な先輩だって考えるなんて、それは自意識過剰過ぎるよな。
頭では分かってるのに、ついつい私は黙り込んでしまう。
その私の様子に気付いているのかいないのか、梓もしばらく顔を赤くして黙っていた。
何とも言えない空気がオカルト研の中に漂う。


「それにしても、梓」


その不思議な沈黙を破ってくれるためか、
純ちゃんが微笑みながら妙に明るい声で切り出してくれた。


「よく騙されなかったよね、フィラディルフィア実験のレポート。
もう少し驚いてくれるかと思ってたんだけど、結構反応薄くて残念だったな。
ひょっとして、この実験の事、知ってたの?」


深呼吸した後、赤かった顔を少し元に戻して梓が頷いた。
流石は優等生の梓。色んな知識を持ってるもんだ。
純ちゃんに乱された髪型を直しながら、梓が小さく口を開く。


「うん。知ってるよ。
この実験をモチーフにした映画が家にあって、ちょっとだけ観た事があるの。
でも、律先輩もこの実験の事を知ってたなんて意外でした。
映画で知ったってわけじゃなさそうですし、何処で知ったんですか?」


「ああ、私はゲームだな。
ロボットが出てくるやつなんだけど、その実験って複雑怪奇な話じゃんか。
SFのネタにしやすいのか、結構その筋じゃ有名らしいんだよな」


「あ、やっぱり律先輩もあのゲームをプレイしてましたか。
前に話題にしてた事があったから、そうじゃないかなって思ったんですけど」


純ちゃんが嬉しそうに私の顔を見つめる。
その顔にはゲームの話が出来る仲間が増えて嬉しいと書いてあった。
梓はあんまりゲームをやらないタイプだし、
憂ちゃんもやるのはパズルゲームがメインみたいだから、ゲーム仲間が少ないんだろう。
あの作品、ロボットの出てくるRPGだからなあ……。
女子の中でプレイしてる子は少ないだろう。私も女子ではあるが。
純ちゃんにはお兄さんが居るらしいから、そういうゲームに触れる機会も多かったんだろうな。

あのゲームをプレイしてた仲間が増えるのは私も嬉しい。
ディスク2から始まる無茶な演出とか、
難解過ぎる裏設定も含めて話し合いたい所だ。
でも、それはまた今度にしよう。
どうして純ちゃんがそんな限られた人にしか分からない話を持ち出して来たのか。
それを話す方が先決だろうからな。
純ちゃんの言葉を聞く通りなら、多分、いや、間違いなくその理由は……。
81 :にゃんこ [saga]:2012/02/02(木) 19:50:06.79 ID:sR4KlcE40


今回はここまでです。
純ちゃん目立つなあ。
82 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/02/02(木) 20:51:56.36 ID:O0FoHsQvo

さて・・・?
83 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:26:24.40 ID:I52c+SL00
フィラディルフィア実験……。
昔、都市伝説レベルだけど、そういう実験が行われたという噂がある。
現実に行われたのかどうかは分からない。
ホラーの雑誌に載ってる事から考えれば、
どっちかと言えばリアリティのある話と言うよりはオカルトに近い。
だからこそ、オカルト研もフィラディルフィア実験に興味を持って、実行しようとしてたんだろう。
予想以上の規模を持ってるオカルト研だから、もしかしたら既に実行も出来てるのかもしれない。

その実験が成功したか失敗したかはさておき、
それと私達の今の状況を繋げて考えるのは急ぎ過ぎだと思う。
特にフィラディルフィア実験は結構有名な実験らしいし、
オカルト好きの人達は世界中で真似た実験を行ってきたに違いない。
そんな下手したら百を下らないくらい行われてきたはずの実験が、
私達と関係してるなんてどうしても思えないんだよな。

確かにフィラディルフィア実験は今の私達の状況と似通っている。
でも、それだけだ。
何かと何かが似通ってるってだけで関係があるってんなら、
例えば髪を下ろした姿が唯に似てるって言われる私は、唯と姉妹って事になるじゃないか。
流石にそれは無茶な話だよな。

それに何となく思うんだ。
これはきっと遠い誰かの実験や、何かの陰謀かなんかで起こった事じゃない。
私達に深く関係のある何かから起こってる事なんだって思う。
何となくだけど、そう思うんだ。
じゃなきゃ、私達八人だけがこの世界に取り残されてる説明が付かないしな。

そういう風に考えているのは私だけじゃない気がする。
様子を見る限りじゃ、梓も純ちゃんもそう考えてるみたいだ。
わざわざオカルト研に私達を連れて来た純ちゃんもそう考えてるって事は、
純ちゃんは私と実験の話をする事じゃなくて、私を連れ出す事が目的だったんだろう。
勿論、梓と一緒に……。
84 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:27:00.30 ID:I52c+SL00
「なあ、純ちゃん。
純ちゃんは私と実験の話をしたいわけじゃなくて、ひょっとすると私と……」


私と梓を連れ出したかったんじゃないか?
とは、口に出せなかった。
流石にそれを言うのは、気を遣ってくれた純ちゃんに悪い気がした。
純ちゃんはきっと梓に元気が無い事が分かっていたんだろう。
私も梓に元気が無いのは分かっていたけど、何も声を掛けられてなかった。
ずっと一緒に居た澪とすら話せてないのに、何を話せばいいのか分からなかったんだ。

でも、それはやっぱり甘えだったのかもしれないな。
大体、後輩に気を遣わせるなんて、先輩としては情けない事この上ない。
元部長としては、後進の手本とならなきゃな。

……よっしゃ。
まだ何を話せばいいのか分からないけど、何とか声を掛けてみよう。
何だって始めてみない事にはどうなるか分からないんだ。
ドラマーに必要なのは勢いだ!


「そういやさ、梓」


「あのですね、律先輩」


見事なくらいに私と梓の言葉が重なった。
梓も純ちゃんが気を遣ってくれてる事に気付いてたんだろう。
梓だって周囲の皆の事を気に掛けられる現部長なんだから。
だから、私と話をしようと声を出してくれたんだ。
でも、流石に私達のタイミングが合い過ぎた。
それだけで、私の口にしようと思っていた言葉が、頭から完全に飛んでしまっていた。


「いや、その……だな……」


思わず口ごもる。
二人の言葉が重なっちゃった時くらい、新しい話題を出しにくい時は無い。
もう一度声を出してまた言葉を重ねちゃうのは恥ずかしいし、
だからと言って「どうぞどうぞ」と譲った所で、変な譲り合いになっちゃうだろう。
軽く視線を向けてみると、梓もまた話を切り出すべきかどうか迷ってるみたいだった。
ど……、どうしよう……。
85 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:29:12.30 ID:I52c+SL00
「あ、そうだ!」


そうやっていきなり大きな声を出したのは、私達じゃなくて純ちゃんだった。
手を大きく叩いて、何かを思い出した……ふりをしたみたいだった。


「そういえば、憂とギターの練習の約束してたんだ!
ごめんね、梓。私、憂の所に行かなきゃ!
律先輩もすみません。自分から連れて来ておいて、ご迷惑お掛けしました!
後はお若い二人に任せますんで、実験について新しい事が分かったら教えて下さいね!
あー、やばいやばい! 急げ急げー!」


その言葉が完全に終わるより先に、
純ちゃんはオカルト研から大急ぎで飛び出して行った。
嵐みたいな子だな……。
私、純ちゃんと似てるって言われた事があるけど、私ってあんな感じなのか?
嫌じゃないけど、何だか複雑な気持ちだな……。


「もう……。何なのよ、純ったら……」


呟きながら、梓が苦笑する。
それは呆れたから浮かべる苦笑じゃなくて、優しい笑顔の交じった苦笑だった。
梓も分かってるんだろうな。
私達に二人きりで話をさせてあげようと考えて、純ちゃんが飛び出して行ったんだって事を。
純ちゃんが本当に憂ちゃんとギターの練習をするのか、それは今はどうでもいい。
私に出来る事は、こんな機会を作ってくれた純ちゃんに感謝して、梓と話す事だけだと思う。


「あのさ、梓」


「ねえ、律先輩」


また私と梓の言葉が重なる。
どれだけタイミングが合ってるんだ、私達は。
これって逆に間が悪いって言った方がいいのか、もしかして。
何だか恥ずかしいな……。

でも、そんな恥ずかしさなんて、もう気にする必要はない。
私はちょっとだけ微笑んで、梓の頭に軽く手を置いて続けた。
今度は言葉が重ならなかった。
86 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:30:18.37 ID:I52c+SL00
「純ちゃんに気を遣わせちゃったな……。
今晩、純ちゃんの好きなドーナツのスーパーオールスターパックでも持って行こうぜ。
賞味期限がちょっと心配だけど、まあ、まだ大丈夫だろ、多分……」


「駄目ですよ、律先輩。
そんなに純を甘やかさないで下さい。
純ったら甘やかすとすぐ調子に乗るんですから。
……せめてスーパーじゃないオールスターパックくらいにしておくべきです」


言って、梓が軽く微笑む。
釣られて、私も笑った。
純ちゃんは不思議な子だ。
普段、我儘を言って梓を困らせてるみたいに見えるのに、いざという時は梓を全力で支えてる。
自慢してもいいくらい立派な梓の親友だ。
純ちゃんに似てるらしい私も、梓にとってのそういう存在になれるんだろうか?
それは分からないけれど、そうなれるように今は少しでも努力したい。


「梓と二人きりで話すのも久し振りだよなー……」


話題を少し変えてみる。
純ちゃんの話もしたかったけど、
純ちゃんの想いに応えるためにも、まずは私達自身の話をするべきだと思った。


「そうですね。
メールのやりとりは結構してた気がしますけど……」


何かを思い出してるみたいに、梓が遠い目をしながら話す。
そうだ。私達が二人きりで話すのは久し振りだった。
卒業以来、私は意識して梓とあんまり話してなかった。
電話もほとんどしてない。しない方がいいんだと思った。
部長の梓が一人で頑張るのを見守るべきなんだと思ったから。
そのおかげだと思いたいけど、梓は立派に部長をやってるみたいだ。

その代わり、私と梓はよくメールしていた。
意外に梓から送られてきて始まるメールが多かった気がする。
勿論、唯達とも沢山メールをしてるんだろうけど、
梓が私の事を忘れてないらしいメールのやりとりは、単純に嬉しかった。
好かれてる方だとは思ってないけど、嫌われてないらしいのは本当に嬉しい。


「メールで読む限りは元気そうだけどさ、最近は元気か、梓?
新入部員の子達ともちゃんとやれてるか?
何か問題が起こったら、この元部長に相談するといいぞ」


ちょっとからかいながら梓の頭を撫でると、
梓は私の手を優しく振り払ってから頬を軽く膨らませた。


「ご心配には及びません。
今の軽音部は律先輩達が居た頃より、
ずっとずっと、ずーっとすごい部になってるんですからね!
律先輩こそ、ちゃんとドラムの練習をしてるんでしょうね?」


「さってなー……。
最近忙しかったから、ちょっと腕が落ちちゃってるかもなー?」
87 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:32:07.46 ID:I52c+SL00
それは単にふざけて言ってみただけの言葉だった。
本当は皆と猛練習してるのはまだ内緒にしておきたかったし、
久し振りに梓に「ちゃんと練習もしましょうよ!」と叱られたかったからでもある。
梓に叱られると、何だか元気になれるんだよな。
やってやろう! って、そんなやる気が湧き出て来るんだ。
いやいや、別に私は人に叱られて喜ぶ趣味は無いぞ。
梓に叱られるのが特別ってだけだ。

だけど、どれだけ待っても梓のお叱りはこなかった。
待ち構えても、期待してた事は起こらない……。
私は不安になって、目の前の梓の顔に視線を向ける。
梓は辛そうな表情で、「そんな……」と小さく呟いていた。


「そんな……、律先輩のドラムが……?
それじゃ、私は……、私はどうしたら……」


瞬間、やってしまった、と思った。
私は、私達が遠く離れてた事を、全然深く考えてなかった。
梓が軽音部で頑張ってる事は知ってる。
メールでそういう話もしてたし、真面目な梓だからその辺の心配はしてなかった。

でも……、考えてみれば、
私の方からバンドの練習について話した事はほとんど無かった。
言わなくても分かってるだろうと思ってたけど、
これまで言わなくても分かってもらえてたのは、近くで同じ部活をしていたからだ。
遠く離れてしまったら、言わなきゃ分からない事が増えていくってのに……。
高校二年の時、澪が違うクラスになった時、
私の言葉が足りずに澪と喧嘩しちゃった時に、それが分かってたはずなのに……。


「あの……、ごめん、梓……。
私、そんなつもりじゃなくて……。私、今でも練習はちゃんと……」


掠れた声をどうにか絞り出す。
どうにか私の本当の気持ちを伝えたかった。
でも、今更言葉を重ねても、何もかもわざとらしくなってしまう気がした。
折角、二人きりで梓と話せる時間が出来たのに、どうして私はこんな失敗をしちゃうんだ……。

言葉が止まる。
オカルト研の中に気まずい沈黙が流れる。
今にも逃げ出したい雰囲気。
でも、逃げちゃいけない。
逃げたら本当にどうしようもなくなる。
どうにかしなきゃいけないんだ。
だけど、私はこれ以上どうしたら……?


「律先輩」


不意に梓が少しだけ大きな声を出した。
表情はさっきより明るくなっていた。
でも、声色は暗いままだった。


「ちょっと、二人で散歩でもしませんか?
少しだけですけど、学校も色々変わったんですよ。
だから、その辺を案内させて下さいませんか?
それに……」


「それに……?」


「この大きなチュパカブラの模型に見られながら、話を続けるのはちょっと……」


チュパカブラの模型に視線を向けながら、梓が苦笑する。
それは確かにその通りで、梓の言葉は正しかったし、笑う所だったんだろう。
でも、梓の声はやっぱり暗いままで、私もこんな状態で無責任に笑う事は出来なかった。
88 :にゃんこ [saga]:2012/02/04(土) 19:33:27.76 ID:I52c+SL00


今回はここまでです。
ちょっと擦れ違い。
89 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/06(月) 01:40:44.52 ID:SMPJa4k5o
乙乙
90 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:12:38.10 ID:ory16CjK0





白い校庭を梓と二人で歩く。
とても白い校庭、白い町、白い世界に私は目を細める。
白い世界……と言っても、実際に白いわけじゃない。
南中に近いくらい昇った太陽の光が、眩しいくらいに地面に降り注いでるだけだ。
そんな事は分かってるのに、
私は自分が白い世界に迷い込んだって感じの錯覚を振り払えない。
電灯が点いてないだけ、生き物の気配がまるでしないだけで、
周りの景色がこんなにも違って見えるなんて、こんな事になるまで思ってもみなかった。

こいつはどう感じてるんだろう、と少しだけ隣に視線を向ける。
まだまだ幼い感じの服を着て、ツインテールの髪型をしている後輩。
背が低い事も手伝って、その姿はとても高校三年生には見えない。
でも、きっと心の中は私より大人びてるんだろう、軽音部現部長の梓。
梓の言葉通り、今の軽音部は去年の軽音部より、ずっとすごい部に成長してるんだろうと思う。
手が掛かる後輩だった梓が今では立派な部長を務めてるなんて、
何だか嬉しくて、誇らしくて、くすぐったくて……、でも、同時に寂しい。

嬉しくて、寂しかったから、私は前みたいに梓に叱られたくなった。
部長になっても本質は変わってない梓の姿を見たかった。
『天使にふれたよ!』の歌詞みたいに、私達の変わらない居場所を感じたかったんだ。
帰りたい場所を再確認したかったんだと思う。

今は後悔してる。
梓に辛そうな顔をさせてしまったのもそうだけど、
さっき梓に案内されて、私達の三年の頃の教室を見せてもらって、より一層後悔した。
ほとんど何も変わってなく見える私達の教室……。
でも、少しずつ変わってる私達の教室だった部屋……。
張り紙の位置や、席の数や、机に掛けられてる荷物や……、
そんな色んな事がやっぱり少しずつ変わってたんだ。
私達の教室はもう無いんだな、って思った。

私達の教室を案内してくれた梓の表情からは、何も読み取れなかった。
その時にはもう辛そうな顔や寂しそうな顔をしてはいなかったけど、
梓が思ってるんだろう本心を感じる事も出来なかった。
一緒に居た時は敏感に気持ちを感じ取る事が出来てたはずなのに、
今では梓の奥底に隠された本心を読み取れなくなってきてるみたいだ。

ほんの少し離れるだけ。
ちょっとした別れを経験するだけ。
再会すれば、いつだって元の私達みたいに笑い合う事が出来るはず。
そう思えたから涙を見せずに卒業出来たのに、それは私の勝手な思い込みだったんだろうか?
短いはずだった四ヶ月という時間。
その時間は私達の想像していた以上に長い時間だったのかもしれない。
91 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:13:08.12 ID:ory16CjK0
「どうでした、律先輩?
律先輩達が居た時から考えると、学校も色々変わってますよね?
私達は毎日通ってますから中々気付けませんけど、
でも、やっぱり少しずつ変わってるな、って思う事もあるんですよ」


梓が小さく微笑みながら呟く。
それは優しい微笑みだったのに、何だか不安になった。
梓はちょっとずつの変化を受け容れられてるんだろうか?
私達と離れてた時間も平気になって来てるんだろうか?
そうして、ひょっとすると……、
いつか本当に私がドラムを辞めたとしても、
それを笑顔で受け容れてくれるようになるんだろうか……?

嫌な想像だった。
思わず身体と心が嫌な意味で震えてしまう。
ドラムをあんまり練習してないなんて、言うんじゃなかった……。


「律先輩……?
どうかしたんですか……?」


多分、私が相当変な顔をしちゃってたんだろう。
心配そうな表情を浮かべて、梓が私の顔を覗き込んで来た。
その梓の表情はやっぱりとても優しくて、それが余計に私の胸を突く。
私は梓から軽く視線を逸らし、誤魔化すためにわざと茶化して言った。


「いやいや、何でもないぞ?
梓の言う通りに学校は色々変わってるみたいだけどさ、
そう言う梓自身の色んな所は変わってないなー、なんて思ってないぞー?」


「律先輩だって変わってないじゃないですか!」


胸元を腕で包み隠した梓が、頬を含ませて唇を尖らせる。
色んな所が変わっちゃった私達だけど、このお約束だけは変わらなかった。
胸の事とは一言も言ってないのに、それに気付く梓もお約束を分かってるよな。
安心しちゃいけない事なのかもしれない。
でも、私は少しだけほっとした気分だった。

実を言うと、梓の胸は若干、少しだけ、ほんの少し、微量、成長してる気もしないでもない。
ずっと会えてなかったせいかもしれないけど、いつの間にか梓も成長してるように見える。
身長は変わってないみたいだから、成長したのは胸だけになるのかな。
……成長したのが胸だけって、何かエロいぞ。
ひょっとすると、誰かに揉まれて成長したのかもしれない。
梓が誰かに胸を揉まれてる様子をちょっと想像してしまう。

……しかし、その相手が純ちゃんしか思い浮かばんな。
同性愛的な意味じゃなく、梓は純ちゃんによく胸を揉まれてる気がする。
その場面に遭遇した事はないけど、途轍もなくそんな気がする。
いや、絶対にそうだ。
何故ならば、私もよく澪の胸を揉んでるからな!
……自慢して言う事じゃないが。
92 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:13:48.37 ID:ory16CjK0
そういや、気のせいかもしれないけど、
私が揉むようになってから澪の胸が成長し始めた気がする。
中学時代、膨らみかけの澪の胸が面白くて、
殴られながらも何度も揉んでやったからなあ……。
それで気が付いたら、今のサイズになってたんだよな。
そうか……。
あのボインは私が作り上げた物だったのか……。
くそう、こんな事なら私の胸も澪に揉ませておくべきだったかもしれん……。


「怒るなって」


ちょっと笑いながら、私は梓の頭に手を置く。
梓はもう少しだけ頬を膨らませていたけど、すぐに苦笑を浮かべて私に身を任せた。
それから、軽く頭を撫でると、梓は目を細めたみたいだった。
子供みたいなやりとりだけど、何だか嬉しくて心地いい。
こういう所だけは、お互いに変わってないんだよな……。
私は自分が笑顔になっていくのに気付く。

暑苦しいけど、何故か気持ちいい太陽の光が私達を包んだ。
風に揺れる木々の音だけが耳に届く。
煌めく空間と煌めく時間に二人は包まれる。


「何かさ、まるで……」


その時、私は私らしくないロマンチックな台詞を言おうとしていた。
普段なら、ロマンチック過ぎて笑っちゃうくらい歯の浮く台詞を。
その台詞はどうにか喉の奥でギリギリ止めた。

本当はその台詞を言って笑っちゃいたかった。
梓と二人でもっと笑顔になりたかった。
でも、その台詞は言えなかったし、言いたくなかった。
今言うと、洒落にならない台詞だったからだ。

『まるで世界に私達二人しか居ないみたいだな』なんて、
現実にはそうじゃないって事が分かってる時にしか言えるもんか。
本当に私達八人しか居ない世界で、そんな事が言えるもんか。
93 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:14:20.58 ID:ory16CjK0
「まるで……、何ですか?」


梓が首を傾げて私に訊ねる。
まったく……、何で私はこんなに余計な事を口にしちゃうんだ……。


「え? あー……、その……だな……」


口ごもりながら、必死に頭の中で言い訳を考える。
こんな時にわざわざ梓を不安にさせる事を言う必要なんてない。
どうにかそれっぽい事を言って、誤魔化さないと……。

そうだな……。
「まるでデートでもしてるみたいだな」とでも言ってしまおうか。
それなら梓も呆れた顔で、「何、言ってるんですか」と苦笑してくれるだろう。
まあ、梓もムギみたいに『女の子同士っていいな』って思ってる可能性もある事にはあるけどさ。
でも、例えそうだとしても、梓が好きなのは唯か澪か純ちゃんになるはずだ。
だから、大丈夫。
そう言って、軽い笑い話にしてしまおう。


「まるでデートでもし……」


そこまで私が口を開いて言った瞬間だった。
さっきまでより、少しだけ強い風が吹いた。
一陣の……、風が……。

不意に。
どうしようもなく不安になって、
気付けば私は梓の身体を自分の胸元に強く引き寄せていた。
強く強く、梓を抱き締めていた。
強い風と人が居なくなった事には、因果関係なんかない。
和の言葉じゃないけど、色んな現象を繋げて考えるには情報が少な過ぎる。

でも、そんな事は関係無かった。
もう誰にも消えてほしくない。
今は幸いにも私と仲が良い皆が残っているから、どうにか耐えていられる。
何とかかんとか、正気でいられる。
これ以上誰かを失ってしまったら、私はきっと耐えられない。
私だけじゃなく、唯も澪もムギも梓も憂ちゃんも純ちゃんも和も絶対に耐えられない。
だから……、これ以上、誰にも居なくなってほしくないんだ……!
94 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:14:50.99 ID:ory16CjK0
風は一瞬で吹き抜けていった。
あっという間だ。
三秒も吹いてなかっただろう。
でも、とても長い三秒だった気がする。
恐る恐る私は胸の中に抱き寄せた梓に視線を向ける。

……よかった、と私は小さく溜息を吐く。
私の胸の中には、梓が小さな身体が変わらずあった。
安心したと同時に、違う不安が私の中に湧き上がってくる。
突然抱き寄せちゃったから、梓を驚かせちゃったかもしれない。
無我夢中だったけど、どうにも風がトラウマになっちゃってるよな、私……。


「いきなり悪かったよ、梓……。
ちょっと風が強かったからさ、それで……」


言いながら、私は胸の中の梓を解放しようと手を離す。
でも、梓の身体は何故か私の胸元から離れなかった。
そこで私はようやく気付いた。
私が抱き寄せたみたいに、梓も私の背中に手を回してたんだって事に。


「あず……さ……?」


状況が呑み込めずに、私は間抜けな声色で呟いてしまう。
腕の力は弱めず、強く私の背中に回したままで梓は囁いた。


「大丈夫ですよ……」


「大丈夫……?」


「私はここに居ますから。ここに居るんですから。
律先輩だって私の腕の中に居ますよ……。
だから……」


それは私に伝えてくれた言葉だったのか、
それとも梓が自分自身に言い聞かせていた言葉だったのか……。
どっちかは分からなかったし、どっちでもよかった。
今は二人、まだこの世界に居られてるって事が嬉しい。
私が梓を失う事が恐くて仕方が無いように、
梓だって少なからずは私を失う事を恐がっているんだろうから……。
95 :にゃんこ [saga]:2012/02/07(火) 20:15:36.56 ID:ory16CjK0


今回はここまでです。
まだ梓のお話はもう少し続きます。
96 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) :2012/02/07(火) 20:54:30.01 ID:GUyFRJhG0
乙です
前作も読ませてもらいましたが、どのキャラもすごく魅力的に描いてくれるから大好きです!
続き非常に楽しみにしています!!
97 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/08(水) 03:45:06.21 ID:X2gJE0SDO
前作もとても素晴らしいお話しでした。
この様な素晴らしい超大作を書いてくださる
>>1さんには心から感謝いたします。
これからも頑張ってください、応援しています。
98 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:48:46.90 ID:IyRJsiHu0





グラウンド横のベンチに梓と二人で座り、静かに空を見上げる。
強い風が吹いた後、私と梓かのどちらともなく、
手を引き合っていつの間にかベンチに腰掛けていた。
私の右手には梓の左手が重ねられている。
私は梓のその手を払わずに、梓の体温を感じる。
手を繋ぐ。
心を繋ぐ。
お互いが隣に居るんだって事を、二人で実感し合いたかった。

私達の視線の先には、
人が居なくなる前と何も変わらなく見える青空が広がっている。
眩しくなるくらいの青空。
雲一つ無いってわけじゃないけど、ほとんど快晴って言ってもいい爽やかな空。
梓と二人で見上げられる青空。
こんな状況でさえなければ、どんなによかっただろう。
でも、久し振りに梓と二人で空を見上げられるのは嬉しくて……、
少し照れ臭かった。

実を言うと、高校時代、梓と二人きりで話す事は少なかった気がする。
梓と二人きりになるのを避けてたわけじゃない。
何となくタイミングが合わなかっただけだ。
まあ、普通に考えれば、そりゃそうなるよな。
二年の頃は唯とムギと三人で、三年の頃は澪を含めた四人で部室に行ってたんだ。
梓とは部室で顔を合わせるのがほとんどなのに、
これじゃ梓と二人きりになるタイミングなんて、そうは出来ないだろう。

だったら、休日に梓を呼び出して二人で遊べばいいんだろうけど、
そこまでして梓と二人きりになる理由なんて無かったし、そうするのはどうにも気恥ずかしかった。
梓には梓の付き合いもあるだろうし、
いつも顔を合わせてるのに休日まで先輩から呼び出すってのもな……。
思い返してみると、二人きりじゃないけど、プライベートな梓と遊べたのは、
ハンバーガー屋で憂ちゃんと一緒に居た梓を見つけた時、それと花火大会の時くらいになるのかな。
……いや、もう一回くらいあったっけか……、とにかく、そんな所だろう。

今はそれをちょっと後悔してる。
照れたりせずにもっと梓を遊びに誘ってればよかったんだ。
二人きりで話す機会も増やせばよかったんだ。
そうすれば、私はもっと梓の事を考えてやる事が出来たんだろうから……。
99 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:49:36.21 ID:IyRJsiHu0
だけど、まだ遅くない。
遅くない……と思う。
こんな状況になっちゃってはいるけど、
梓と二人で話す事は絶対に無駄にはならないはずだ。
私達の心の中に居座る不安だって、少しは晴らしていけるはずなんだ。

だから、もっと梓と話したい。
少なくとも、私と私達が音楽と梓の事を忘れてない事だけは伝えたい。
何があったって、私達を繋げてくれた音楽だけは絶対に忘れたくないんだって。
緊張して鼓動する心臓を抑えながら、私はどうにか小さく口を開く。


「なあ、梓……」


「何ですか、律先輩……?」


視線を空の方に向けたまま、梓が小さく呟く。
一見、私の事なんて興味無さそうに見える梓の素振り。
でも、それは違うんだって事は、私の右手を強く握る梓の左手から強く感じられた。
私が恐いのと同じ様に、梓だって恐いんだ。
これ以上誰かを失ってしまう事が。
勿論、私だけじゃなく、残った誰かの一人でも欠けてほしくないと感じてるはずだ。
だから、梓は私の手を強く握って、でも、私の方に視線を向けないんだと思う。

三日前、人の姿が消える瞬間を直接目撃したのは梓だけだ。
その衝撃がどれくらいのものだったのか、経験してない私には分かりようもない。
でも、すごく恐かったんだろうって事だけは分かる。
それこそ何もかも信じられなくなったはずだ。
そこにあったはずのものが一瞬で消え去ってしまったんだから。
でも、まだ一つだけ信じられるものがあって……。
だからこそ、梓は私の手を握ってるんだ。

まだ一つだけ信じられるもの……、
それは多分、誰かの温もり、誰かの体温なんだろう。
元々、誰かの肌の温もりに弱い所がある梓だけど、
世界から生き物が消えてしまってから、その様子が更に目立つ様になった気がする。
純ちゃんに撫でられた時も、普段よりは抵抗してなかった気もするしな。

それはきっと、生き物が消える瞬間、梓が唯に抱き締められてたからだと思う。
もう目も耳も信じられない。
自分を包んでくれていた人肌の温度以外は……。
そう考えているから、梓は私と手を繋いだまま離さないんだ。
手を繋ぐ事で皆の心を繋いで、この世界に皆の存在を繋ごうとしているんだろう。
私の勝手な推測だけど、それは多分、間違ってないはずだ。
100 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:50:04.06 ID:IyRJsiHu0
その考えは、嬉しくはある。
どんな形でも、私が梓に必要とされるのは嬉しい。
でも、それ以上に寂しかった。
私達の体温、肌に触れる物しか信じられないって考え方は、
私にとっても、梓にとっても寂し過ぎるじゃないか。
それじゃ私達を繋げてくれた音楽が、意味を失くしてしまうって事になるじゃないか。

だから、私はそれを言葉にしようと思った。
上手く伝えられる自信は無いけど、どうにか言葉にして届けたかったんだ。


「さっきさ、私、ドラムの腕が落ちちゃってるかも、って言ったよな……?
忙しかったのは本当だし、卒業前より腕も結構落ちちゃってるって思うよ。
でも……、でもさ……、私、ドラムはちゃんと続けてるんだぜ……?」


言い訳っぽかったとは、自分でも思う。
梓が悲しそうな顔をしたから、無理な言い訳をした。
そう思われても仕方が無かったけど、嘘は一つも言ってなかった。
途轍もなく嘘っぽいかもしれないけど、嘘なんかじゃないんだ。
その想いは少しでも梓に伝わったんだろうか……?

梓と繋いでる手のひらに汗が滲み出て来るのを実感する。
勿論、夏の熱気のせいなんかじゃない。
緊張から出た汗が手のひらを濡らしていく。
汗に濡れた私の手を握る梓は嫌な気分になってるんじゃないかって、
そんな事を考えてる場合じゃないのに、また汗と一緒に不安が溢れ出て来る。

不意に梓が私と繋いでいた手を離した。
一瞬、自分が泣きたい気分になるのを感じる。
やっぱり私の言葉は信じてもらえなかったのか?
嫌な汗に濡れた手なんて繋ぎたくなくなったのか?
ひどく、胸が痛い。

でも……。
梓は離した手ですぐに私の手を掴み、
私の手のひらを上に向けてから私の方に顔を向けた。
その顔には晴れやかとまでは言えなかったけど、優しい微笑みを浮かべていた。
101 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:50:38.58 ID:IyRJsiHu0
「分かってますよ、律先輩……。
練習嫌いな律先輩ですけど、
ドラムが好きなんだって事は私だって分かってます。
腕が落ちてるかもって律先輩から聞いて、
さっきは驚きましたけど……、不安だったんですけど……、
でも……、律先輩と手を繋いで気付けました。
ドラムの練習を続けてくれてるんだな、って。
だって、ほら……」


言いながら、梓が右手を伸ばして私の右の手のひらに触れる。
主に指の付け根……、まめになって皮の剥けて所を触りながら、梓はまた微笑む。


「もう……、律先輩ったら……。
練習……してるじゃないですか……。
こんなにまめも作って、厚くなってるはずの皮まで剥けてしまうくらい……。
律先輩ったら、もう……」


胸が一杯になってしまったんだろうか。
それ以上、梓は言葉を続けなかった。
言葉はもう必要無いと思ったのかもしれない。

確かにそうだった。
私がいくら言葉にしても言い訳にしかならなかったのに、
私の手のひらは私の言葉以上に私の想いを梓に届けてくれた。
梓の言葉通り、私の手のひらは最近の猛練習で結構ボロボロだ。
女子大生としてはどうかと思うけど、梓を安心させられたならそれでいいのかもな。

それにしても、身体は言葉以上に饒舌……とはよく聞く言葉だけど、
自分自身が実際に経験する事になるなんて思ってなかった。
手を繋ぐ事で言葉以上に想いを届けられるなんて、
世界はまだまだ私の知らない事ばかりなんだな……。


「あ……」


私が何かを言う前に、梓がまた私のボロボロの手を握ってくれた。
照れ臭い気分になりながらも、私は手のひらに少し神経を集中させてみる。
私ほどボロボロってわけじゃなかったけど、
梓の左手の指先には小さなまめがいくつかあるみたいだった。
私よりボロボロじゃないのは、
梓の練習量が少ないからじゃなくて、逆に普段から継続して練習してる証拠だ。
私の方がボロボロな理由は、少しブランクがあったせいで、
急な猛練習の久々の負荷に手のひらが耐えられなかったせいだろうな。

そんな事よりも、やっぱり梓は頑張ってるんだな、って私は思った。
真面目な梓の事だから疑ってなかったけど、こうして肌で感じると余計に思う。
梓は音楽の事が好きなんだって。
こんな小さくて可愛らしい指先にまめを多く作るくらい、梓は音楽が大好きなんだよな。
102 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:51:09.83 ID:IyRJsiHu0
「なあ、梓」


もう一度、私は梓に向けて声を掛けてみた。
今度は梓も私の方に顔を向けてくれた。
優しく微笑んでくれてはいたけど、まだ少し不安そうにも見える。
私は梓の不安を吹き飛ばすために、梓と繋いだ手に少しだけ力を込めた。


「セッション……、しようぜ?
私がドラム続けてるって事を信じてくれたのは嬉しいんだけどさ、
やっぱり梓も私のドラムの演奏を聞いてみない事には完全に信じられないだろ?
だから、セッションしちゃおうじゃんか。
今はまだそんな余裕はないけど、落ち着いたら近いうちにやろうぜ?」


本当は新軽音部と旧軽音部でバンド対決とかしたいんだけど、
……とは言わなかった。言えなかった。
旧軽音部はともかく、新軽音部のメンバーは揃ってないんだ。
こんな状態でバンド対決なんて、冗談でも不謹慎過ぎて言えなかった。
今はそんな寂しい事を梓に考えさせなくてもいい時のはずだ。
だから、代わりにもっと楽しい事を考えよう。
今は梓を笑顔にさせられる言葉だけを伝えたい。


「放課後ティータイムの再結成だな。
別に解散してたわけじゃないけどさ」


「放課後ティータイムの再結成……」


私が微笑みながら言ってやると、確かめるみたいに梓が呟いた。
放課後ティータイムの再結成。
勢いで言った事だけど、それはとても素敵な考えだと思った。
考えただけで胸がワクワクしてくる。
こんな状況なんだ。少しくらいは楽しい事を考えたっていいだろう。

それにこれは梓のためだけのセッションじゃない。
この世界に残ってる皆のためのセッションなんだ。
皆でセッションをすれば、唯もムギも喜ぶはず。
聴いてる純ちゃんや和、憂ちゃんも笑顔になってくれるはずだ。
こんな状況でだって、音楽を奏でれば皆の心を一つにする事が出来るはずなんだ。
澪だって、セッションをしていれば、心に残る不安を振り払えるだろう。
音楽ってのは、そういうものなんだから。
絆を深めてくれるものなんだから。

ほら、見る見るうちに梓の表情も笑顔に変わっていく。
きっと梓も放課後ティータイムの再結成に胸が高鳴るのを感じてるんだろう。
よかった……。
やっぱり、梓には楽しそうな笑顔が一番似合うよな。
103 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:51:45.01 ID:IyRJsiHu0
「いいですね、セッション!
私、すっごく楽しみです! 上達した私の腕前、律先輩にも見せてあげます!
あ、でも……」


「どした?」


「練習してるのは信じますけど、
律先輩のドラムの腕ってどれくらい落ちてるんですか?
私達とちゃんとセッション出来るレベルなんですかね?」


「中野のくのやろー!」


「きゃー、おたすけー!」


私が笑って梓にフロントネックロックを繰り出すと、
梓も笑顔で悲鳴を上げながら私に技を仕掛けられてくれていた。
懐かしい梓とのじゃれ合いだ。

嬉しかった。
擦れ違いそうだった私と梓だったけど、音楽の力で一つにまとまろうとしてる。
だから、きっと大丈夫。
皆だって音楽が大好きなんだ。
何もかも解決するってわけじゃないけど、
皆でセッションをすれば、心を一つにして笑顔にする事くらいは出来るはずだ。
何だったら純ちゃんと憂ちゃんにも参加してもらって、
全員参加の大演奏にしてしまうのも楽しいかもしれない。
和にはボーカルをやってもらうってのも面白いだろう。

その時の私はそんな事を考えてたし、
梓も同じ様な事を考えてくれてたはずだ。
私達の笑顔に嘘は無かった。

でも、その時の私は胸に湧き上がってた違和感の正体を、もっと考えておくべきだったんだと思う。
楽しくて、嬉しかったから、私はその違和感から目を逸らしてたんだ。
考えるまでもない事だと思っていた。

梓とじゃれ合いながら胸に湧き上がった違和感……、
それはチョークスリーパーを得意技とする私が、
どうしてその時だけ梓にフロントネックロックを仕掛けたのかって事だ。
いや、その違和感の正体はその時にはもう分かってた。
フロントネックロックを仕掛けた理由は単純。
梓に右手を強く握られていて、左腕しか使えなかったからだ。
左腕しか使えないとなると、私的に使える締め技はフロントネックロックしかない。

そして……。
梓はフロントネックロックを仕掛けられながらも、
私が技から解放するまで、繋いだ手を一度たりとも私から離そうとしなかったんだ。
私達の心を繋いだ手を……。
まるで。
音楽や言葉よりも、私の体温だけをずっとずっと強く信じてるみたいに。
104 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:53:22.44 ID:IyRJsiHu0





また少し梓とセッションの予定や澪の事なんかを話した後、
私の手を離そうとしない梓と歩いて生徒会室に戻ると、私と梓以外の全員が揃っていた。
美味しそうな匂いが私の鼻に届く。
お昼時にはちょっと早いけど、憂ちゃんと和が昼食の準備をしてくれたみたいだ。
唯の家から持って来た携帯用のガスコンロを使って、温かそうなごはんが机の上に並んでいた。

外回りから戻った私達は、嬉しそうな顔の唯に迎えられた。
迎えてくれた唯は私達が手を繋いでる事に気付いたけど、意外にやきもちを焼いたりはしなかった。
自分だけが梓を独占したいわけじゃなくて、
私達の誰かが梓と仲が良ければそれでいいって考えてるんじゃないかな。
唯は梓の事が大好きだけど、私達の事も同じくらい大好きで居てくれてるんだろう。
だから、誰が梓と仲良しでも嬉しそうなんだ。

そういえば、唯は好きな物に順位を付けたりしない奴だ。
前に「唯の一番好きなお菓子は何なんだ?」と訊ねた時、唯は何種類ものお菓子を挙げた。
チョコ、ケーキ、お饅頭、飴ちゃん……、
一番好きなのは何なのか、って聞いてるのに、何種類も挙げる唯に対して皆も苦笑してたな。
でも、別にこれは唯が優柔不断ってわけじゃないって事も、こいつとの結構長い付き合いで分かる。

きっと、唯の中では一番好きな物が一つじゃない。
一番が一杯あるんだろう。
一見、簡単そうだけど、その実はそう簡単な事じゃないはずだ。
何かを守るために何かを捨てなくちゃいけない時は一生のうちで何度もある。
これまでも私は何度も大切な物と大切な物の取り捨て選択をしてきた。
例えば私は中学の頃にマキちゃんと仲が良かったけど、マキちゃんと同じ高校には進まなかった。
澪が居たから、澪と一緒に居たかったから、私は澪と同じ高校に進んだ。
どっちが大切かなんて考えたくなかったけど、その時の私は澪を選んだんだ。

唯は違うんじゃないかなって思う。
そりゃ、どちらが大切かを決める時くらいは唯にだってあるだろう。
皆と同じ様に、一番を決める時は唯にだってある。
だけど、こいつは本当にギリギリまで迷うんだろうな。
普通なら、仕方が無い事だって簡単に諦めてしまう時でも、
こいつならきっと、最後の最後までどっちが本当に大切なのかを悩み続けるはずだ。
一番を一杯持ってる奴だから……。

そんな姿を見せる唯はいつだって眩しい。
何と言っても、卒業旅行の時、
オカルト研に冗談で頼まれたネッシーの写真を、本気で撮ろうと思ってた奴なんだ。
馬鹿みたいだし、本当に馬鹿なんだろうけど、私はそんな唯と友達で居られて嬉しいと思う。
そのままの唯が私だって大好きだ。
105 :にゃんこ [saga]:2012/02/09(木) 19:56:32.92 ID:IyRJsiHu0


今回はここまでです。
応援ありがとうございます。
前回も読んで頂けている方が多くて、嬉しいです。
今回ももっと面白く出来るよう頑張りますので、よろしくお願いします。
106 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/09(木) 20:34:40.44 ID:yxR9WzYEo
107 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:21:45.48 ID:5i+gli3V0
不意に梓が私と繋いでいた手を名残惜しそうに離した。
どうも憂ちゃんと純ちゃんに、私達が手を繋いでる事に気付かれたかららしい。
唯に気付かれた時にはあんまり気にしてなかったみたいだけど、
同い年の親友に自分のそんな姿を見せるのは、流石の梓も少し恥ずかしいみたいだ。
頬を少し染めながら、梓は純ちゃん達の近くの席に腰掛けた。

私は梓が席に座るのを見届けてから、空いている席に足を進める。
最後に空いていたのは澪の左隣で、唯の右隣の席だった。
皆が気を遣ってその席を空けていてくれたんだろうか。

ちょっとだけ、躊躇う。
らしくなく緊張する。
私はまだ澪に掛けられる言葉を持ってないんだ。
こんな状態で、私は澪の隣で落ち着いて居られるのか……?
椅子の縁に手を置いて、何秒か沈黙する。

でも……、
予想もしてなかった挨拶が、私を包んでくれた。


「おはよう、律。
梓と……、散歩にでも行ってたのふぁ……?」


言ったのは、澪だった。
多分、精一杯勇気を出して、言ってくれたんだろう。
言葉の調子は震えてたし、語尾に至っては噛んでいた。
私が視線を向けると、言葉を噛んだのが恥ずかしいのか、
澪は顔を赤く染めて視線を落とし、私達の中では大柄な部類の身体を小さくしていた。

悪いとは思ったんだけど、私は軽く笑ってしまっていた。
久し振り……、って言うほど前の話じゃないけど、
でも、やっぱり久し振りな気がする普段の澪の姿に、安心出来たからかもしれない。
そうだよな……。
私が澪と何を話したらいいのか分からなかったのと同じくらい、
澪だって私と何を話したらいいのか分かってなかったはずだ。
同じくらい、悩んでたはずだ。
108 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:22:17.62 ID:5i+gli3V0
だけど、澪は自分から挨拶してくれた。
澪の性格じゃ相当に難しい事だったはずなのに、
いつもあいつを引っ張ってるはずの私よりも先に声を掛けてくれたんだ。
胸の中が一気に満たされる気がして、逆に息苦しくなる。
嫌な気分じゃない。
でも、何だか胸が詰まり過ぎてて、
口を開けばふとした拍子に泣き出してしまいそうだった。

でも、そんなんじゃ駄目だ。
澪が挨拶してくれたんだ。
私だって澪に自分の言葉を届けなきゃ、文字通りお話にならない。
一度深呼吸をしてから、私はゆっくり口を開いた。


「おはよう、澪。
おうよ! 梓とちょっと校庭を散歩しへはんだぜ!」


……私も噛んでしまった。
やっぱり、まだ緊張しちゃってるのかもしれない。
一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
折角の澪との挨拶なのに、上手く出来ない自分の間抜けさが情けない……。


「あははっ、
澪ちゃんもりっちゃんも噛んじゃってるー!」


唯が急に私達の方を指差して笑い出した。
唯も緊張してなかったわけじゃないんだろうけど、
思いがけない私達の間抜けなやりとりについ笑っちゃったんだろう。
笑っちゃいけないって思ってると、笑いの沸点って一気に下がっちゃうからなあ……。

相変わらず空気が読めてない奴だ。
でも、ある意味、空気が読めている……のかな?
ここは笑っちゃっていい所のはずだ。
周りを見回してみると、ムギと澪は笑いを堪えていて、
残った和達は笑っていいものか複雑な表情を浮かべてるみたいだった。
109 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:23:31.17 ID:5i+gli3V0
個人によって温度差のある生徒会室……。
その様子がどうにも滑稽で、気が付いたら私も笑顔になってしまっていた。


「うるさいザマスよ、唯ちゃん!
噛む噛まない以前に、振り出しと振り袖を素で間違える唯ちゃんが言うんじゃないザマス!」


突っ込みながら、唯の頭に軽くチョップをかます。
「それ今関係無いじゃん……」と唯が頬を膨らませ、でも、またすぐに笑った。
途端、生徒会室の中が笑い声で満たされた。
ちらほら苦笑も混じってはいたけど、とにかく皆が笑顔になれた。
澪の勇気と唯の笑顔が私達を笑顔にしてくれたんだ。

まだ何も解決してないし、
全員が全員、心の底から笑えたわけじゃないかもしれない。
それでも、皆が笑顔になる事が出来ただけでも、大きな一歩だと思いたい。

結局、その後、私は澪と挨拶以上の会話を交わす事は出来なかった。
他愛の無い会話くらいなら、今の私でも出来たと思う。
でも、澪とはもっと深い事を話し合いたかったし、
それにはお互いにもう少しだけ時間が必要な気がした。
少しだけ澪と合わせてみた視線からは、お互いにそんな事を感じ合ってたと思う。

でも、出来れば今晩には、澪と二人きりで話してみたいかな。
今日一日、もう一度だけ私達の町を回ってみて、
何かを感じて……、何かを考えて……、
その後で今までの事を謝って、これからの私達の事なんかを話し合ったりしたい。
この世界で私達が何をするべきなのかを。
110 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:23:57.64 ID:5i+gli3V0





手を伸ばせば届く……。
よりも更に近い距離で私達は肩を寄せ合っていた。
いや、肩を寄せ合うどころか、肩と肩を触れ合わせてるんだけどな。

私達……ってのは、私と憂ちゃんの事だった。
今、私と憂ちゃんは珍しく二人きりで過ごしている。
珍しくって言っても、唯と知り合ってから三年以上経つけど、
憂ちゃんと二人きりになりたくなかったわけじゃない。
憂ちゃんとはもっと色んな事を話してみたかったし、
ゲームが得意な憂ちゃんからあのゲームのコツなんかも特に聞きたかった。
つい思い付きでやっちゃうせいか、
あのゲームじゃ四連鎖以上が中々出せないんだよな、私ってば。

初めて唯の家で憂ちゃんと対戦した時の事は忘れられん。
憂ちゃんってば、平然とした顔で十連鎖を繰り出してきたからな。
たまに追い込めたと思っても、そこから平気で大逆転してくるし……。
憂ちゃん相手じゃ、九割追い込んでも全然惜しくないんだよな……。
ええい!
平沢家の妹は化物か!

勿論、ゲーム以外の事だって話したかった。
憂ちゃんは料理が得意だから、
気軽に作れる夕食のメニューとかも話し合いたかったし、
唯の昔の話を聞き出して、それをちらつかして唯をからかったりもしたかった。

でも、それが出来なかったのは、ちょっとした気恥ずかしさがあったからだ。
いや、普通は誰だってそうなんじゃないかと思う。
年下と付き合うのが恥ずかしいわけじゃない。
年下なら梓とは普通に付き合ってるわけだしな。
恥ずかしい理由はたった一つ。
憂ちゃんが唯の妹だからだ。
友達の妹だからだ。
111 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:24:23.62 ID:5i+gli3V0
友達の妹……、考えてみるだけでドキドキしてくる。
正直、どうしたらいいか、かなり戸惑う。
距離感が全然掴めないんだよな。
憂ちゃんはいい子だ。本当はもっともっと仲良くなりたい。
何だったら聡と憂ちゃんを交換しちゃいたい気持ちもあるくらいだ。
いや、流石にそれは冗談だが。

最初は取っ付きづらかった澪に自分から話し掛けた私だけど、
そんな私だって友達の妹とどんな感じに付き合っていけばいいかは分からない。
友達ではないけれどよく知っていて、
だからと言って、今更個別に付き合う友達にはなれない。
そんな事は無いはずだけど、仮に唯よりも気が合っちゃったらどうしようって気もしてる。
友達の妹と友達よりも仲良くなっちゃうなんて、後々気まず過ぎるわ。

そういや、世界は広いもので、
バンドユニットの中には友達の妹と組んでるバンドや、
お姉ちゃんが元々組んでたバンドに弟が加入してきたってバンドもあるらしい。
前にその話をした時、聡はそういうのは嫌だと言っていた。
「絶対に無理!」だそうな。
そんなに嫌か……。
まあ、聡がバンドを組んだとして、そのバンドに加入する勇気は私にも無いけどな。

そんなわけで、私は今まで憂ちゃんと自分から進んで話をする事は少なかった。
憂ちゃんもそんな私に気を遣ってくれてるのか、
それとも私と同じ様な事を考えてるのか、
憂ちゃんも私に話し掛けて来る事はそんなに無かった。

でも、幸か不幸か、今現在、私と憂ちゃんは二人で肩を触れ合わせていた。
そして、憂ちゃんは裸で、私も一糸纏わぬ全裸だった。
憂ちゃんは髪を解き、私もカチューシャを取って、
お互いに新鮮さを感じ合いながら、肌の感触を二人で感じ合う。
裸の二人が肩が触れるくらい近くに居る。
それも二人とも頬を紅潮させて、熱い汗まで流しながら……。

……いやいや、変な意味じゃない。
二人で風呂に入ってるってだけだ。
この夏の暑い真っ盛り、汗まみれで過ごすのは衛生的に良くない。
そんな発案で和がプールサイドに簡易的なお風呂を作ってくれたんだ。
しかし、それは何故か五右衛門風呂だった。
いや、お風呂場のガスが使えないから、
五右衛門風呂って発想は正しくはあるんだが、何処から持って来た。
それを訊くと「自前よ」と和は言っていたけど、冗談……のはずだ。

だが、そういえば前に和から聞いた事がある。
和達が幼稚園の頃、唯が大量のザリガニを捕まえて、
近くにあった和の家の風呂場に溢れるほど入れてたとか何とか。
ひょっとして、それ以来、和は自宅の風呂場にトラウマが出来て、
自前の五右衛門風呂にしか入れなくなった……、ってのは無いか。
うん、無いな。

何はともかくとしても、風呂があるのは助かる。
三日ぶりの風呂だしな。
いや、風呂には入ってないけど、ちゃんと今までも川辺で水浴びはしてたぞ?
誰に弁論してるってわけでもないけど。
112 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:24:51.85 ID:5i+gli3V0
ちなみに今、私が憂ちゃんと二人で風呂に入ってるのは、
焚き木で何度も沸かすのは手間だし、
お湯が勿体無いから、二人ずつ入ってほしいっていう和の要望からだった。
その和の要望に異論は無いし、応えてあげたいんだけど、
二人ずつ入る組み合わせが憂ちゃんと私ってのは意外だった。
てっきり憂ちゃんは唯と入るものだと思ってたんだが……。

それについて言えば、どうも私が朝から学内を放浪してた事に原因があるらしい。
時間の流れをまとめるとこんな感じだ。


私が屋上に行く。

   ↓

和が風呂の準備をしてから、
梓と純ちゃんを起こして風呂に行かせる。

   ↓

風呂の後、
純ちゃん達が屋上に居る私と和を見つけ、私をオカルト研に連れ出す。

   ↓

その間、和は音楽室に行って、残ったメンバーに風呂に行くよう伝える。

   ↓

風呂に向かうメンバーが、和と唯、澪とムギの組み合わせになる。
憂ちゃんは純ちゃんとのギターの練習と昼食の準備があるから、風呂は後。

   ↓

風呂に入ってないのは、私と憂ちゃん。


……とまあ、こんな感じだ。
確かに私が放浪してた事が原因と言えなくもない。
それでも、やっぱり憂ちゃんは唯と風呂に入りそうなもんだけど……。
疑問に思って首を捻っていると、和が私の耳元で小さく囁いてくれた。
「憂が唯と一緒にお風呂に入るのを恥ずかしがったのよ」との事だ。
普段、結構一緒に風呂に入ってるとは言っても、
見知った人の顔が大勢ある中で、
お姉ちゃんと一緒に風呂に入るのは、憂ちゃんでも結構恥ずかしいみたいだ。

確かにそうかもなあ……。
私だって皆が居る前じゃ、聡と一緒に風呂には行きにくいしな……。
姉妹と姉弟じゃ意味合いが全然違ってくる気がしないでもないが。
いや、別に普段から一緒に入ってるわけじゃない。
下着を忘れた時なんかに呼び出して持って来させるくらいだけど、それくらいは普通のはずだ。
普通……だよな?
113 :にゃんこ [saga]:2012/02/11(土) 19:25:38.85 ID:5i+gli3V0


今晩はここまでです。
憂ちゃんの話になったのに、憂ちゃんまだ一言も話してません。
次回こそは話します。
114 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/12(日) 01:19:08.62 ID:kkgwfH8DO
乙です。
次回楽しみに待っています。
115 :にゃんこ [saga]:2012/02/13(月) 21:12:25.07 ID:fm+CEUEl0
「気持ちいいお湯ですね、律さん」


多分、唯の下着の用意をするのなんて、ほぼ毎日だったんだろう憂ちゃんが笑う。
その幸せそうな笑顔はよく似ていた。
二人は幸せそうに微笑む時が一番似ている気がする。
やっぱり姉妹だ。
髪を下ろすと本当に見分けが付かないくらいに。
少なくとも、二人の事をあんまりよく知らない人だったら、絶対に見分けが付かない。

でも、自慢じゃないけど、最近、私は唯と憂ちゃんが見分けられるようになってきた。
まだ外見だけじゃ分かりにくいかな……。
でも、声は勿論、仕種や唯を真似た憂ちゃんと唯の微妙な違いなんかや、
さわちゃんの言葉じゃないけど、胸の大きさなんかで何となく分かるようになってきたんだ。
特に胸の大きさでは判断しやすい。
唯の奴、唯のくせに順調に胸が成長してやがるらしいからな……。
唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに……!
唯の奴もやっぱり誰かに揉まれ……、いや、何かもうその発想はやめよう。

だけど、唯の胸の成長と比べると、憂ちゃんの胸の成長はちょっと控え目だ。
本人の性格が出てるのか、控え目に成長してるらしい。
今後の事は分からないけど、
とりあえず今は胸を見るのが一番確実な唯と憂ちゃんの区別の仕方だ。


「あの……、律さん、何か……?」


私が憂ちゃんの胸をじろじろ見てる事に気付いたんだろう。
胸を腕で隠しはしなかったけど、何とも不思議そうな顔で憂ちゃんが呟いた。


「あ……、いや……」


まさか憂ちゃんの胸を観察してたとは言えない。
私は誤魔化しの言葉を一気に考えてから、一番最初に思い付いた言葉を言ってみる事にした。


「それより、憂ちゃん。そろそろ身体でも洗わない?
和がボディタオルも用意してくれてるからさ、それで三日分の疲れを落とそうよ。
憂ちゃんの背中は私が流してあげるからさ」


「いえいえ、そんなの悪いですよ」
116 :にゃんこ [saga]:2012/02/13(月) 21:12:57.33 ID:fm+CEUEl0
憂ちゃんが軽く微笑んで、私の申し出を断る。
ひょっとしたら私のセクハラを警戒してるのかな、って邪推しちゃったけど、
憂ちゃんの穏やかな笑顔からは、そんな感じはしなかった。
まあ、胸を見てただけに、セクハラを警戒されてても仕方が無くはある。
でも、憂ちゃんが私の申し出を断ったのは、
そういう意味じゃなかったんだって事は、その後の憂ちゃんの言葉ですぐに分かった。


「私の方は外を出歩いてるわけじゃありませんから、疲れなんて大した事ないんですよ?
それよりもこんな不思議な事が起こってる町の中を探ってくれてる、
お姉ちゃんや律さん達の方が、ずっとずっと大変だし、疲れてらっしゃると思うんです。
梓ちゃんなんて、綺麗な肌があんなに真っ黒になるまで頑張ってくれて……」


「ありがとう、憂ちゃん。
でも、私達だって憂ちゃん達には感謝してるんだよ?
学校に戻った時、憂ちゃん達が待っていてくれてるから、私達も頑張れるんだから。
憂ちゃんのごはんだって美味しいしね。
まあ……、梓の肌は夏空をちょっと歩いただけで、すぐ真っ黒になっちゃうんだけどさ」


ちょっと照れ臭くなって最後に冗談を言ってみると、
「そうですね」と憂ちゃんも嬉しそうに微笑んでくれた。
いや、梓の肌がすぐ真っ黒になっちゃうのは、別に冗談じゃないけどさ。
でも、もう慣れたけど、あいつって日焼けし過ぎだよな……。
体質なんだろうが、いつも大変だろうな、あれ……。
少なくとも私はちょっと外に出ただけで日焼けに苦しむ体質にはなりたくないぞ……。

日焼けで思い出したが、中学の頃に澪の家族と私の家族で海に遊びに行った時、
遊び過ぎてつい日焼けし過ぎちゃって、異常なくらいの日焼けの痛みに苦しんだ事があったな。
あの日は旅館で澪と同じ部屋に泊まったんだけど、
衣擦れすら痛くって、布団に包まりながら、服全部脱いでたんだよな、私。
それで次の朝、ちゃっかりちゃんと日焼け止めを塗ってた澪が、
特に日焼けもしてない肌で、中々布団から出ようとしない私の布団を無理矢理はぎ取って……。
後の事は誰でも想像出来ると思うが、あれは気まずかった……。

お互いの裸は小さな頃から見慣れてるとは言っても、
流石に布団の中に転がる裸の姿を見慣れてるわけじゃないからな……。
「ご……、ごめんなさい!」って叫んで、
顔を真っ赤にして部屋から出てった澪の表情は忘れられない……。
何を勘違いしたんだろうか……。
いや、分かってるけど、そこはノータッチの方向で行こう。

ついでに言えば、その後、真相に気付いた澪に叩かれた肌の痛みも忘れられん。
軽く叩いたのは分かってるけど、あれ、すっげー痛かった。
痛みのショックで死ぬかと思ったぞ……。
しかも、私、別に何も悪くないじゃん……。

あれ?
そういや、理由こそ違うけど、私って今日の純ちゃんと同じ事やってたんだな。
梓が過剰な突っ込みをするタイプの子じなくて良かったな、純ちゃん……。
117 :にゃんこ [saga]:2012/02/13(月) 21:13:21.59 ID:fm+CEUEl0
「ですから……」


純ちゃんの無事を羨ましく思いながら頷いてる私に向けて、憂ちゃんが続けた。
私は慌てて憂ちゃんの顔に視線を向け直す。


「背中は私に流させて下さい、律さん。
この三日間の疲れを取れるように、頑張ってご奉仕させて頂きますね。
律さんにご満足頂けるかあんまり自信は無いんですけど、
「憂の垢すりは上手だねー」ってお姉ちゃんは褒めてくれるんですよ」


また嬉しそうに憂ちゃんが笑う。
やっぱり唯とは結構一緒に風呂に入ってるんだな、とは口にしなかった。
それは言わなくてもよかった事だったからでもあるし、
憂ちゃんの笑顔をもっと見ていたかったからでもある。

憂ちゃんの幸せそうな笑顔は、見ているととても安心するよな。
それが自分に向けられた笑顔じゃないとは分かってるんだけど、それでいいんだって思えるんだ。
憂ちゃんの笑顔には、そんな魅力がある。
私もいつかはそんな笑顔を浮かべられるんだろうか……?
それは、まだ、分からない。
でも、とりあえず今は……。


「それじゃ、まずは憂ちゃんに任せちゃおうかな?
唯のお墨付きの憂ちゃんの腕を見せてもらう事にするよ。
憂先生、お願いします」


私は五右衛門風呂から出て、プールサイドに置かれたバスチェアに腰を下ろす。
今はまず憂ちゃんの好意に甘えようと思う。
正直、この三日間、実は結構疲れてる。
背中を流してもらう息抜きくらいはしたい。
私がこれから皆のために何が出来るのか考えるのはその後だ。

それに変な所で繊細なこだわりがある唯のお墨付きなんだ。
きっと憂ちゃんのテクニックは相当なものなんだろう。
勿論、後で憂ちゃんの背中を流すつもりでもあるけど、今はそれは内緒にしておこう。
何事にも控え目な憂ちゃんだからな。
私から申し出たら遠慮しちゃうに違いない。
だから、私の背中を流してもらった後、
一息吐いてるだろう憂ちゃんの隙を見て、バスチェアに座らせようと思う。
バスチェアに座って背後を取られてしまったら、
流石の憂ちゃんだって私の申し出を断りはしないはずだ。

……しかし、背後、取らせてくれるよな?
俺の後ろに立つな!
とかにならないよな?
ウイ13……、なんつって。

私がそんな妙な事を考えてたのに気付いたんだろうか。
私に続いて五右衛門風呂から出た憂ちゃんが、私の想像もしてなかった行動を取った。
118 :にゃんこ [saga]:2012/02/13(月) 21:14:56.92 ID:fm+CEUEl0
「えっへへー、りっちゃーん!」


え、唯?
と思う隙もなかった。
気付けば、憂ちゃんは背中から私に抱き着いていた。


「ちょっ……、えっ……? 何っ?
憂ちゃん……っ? だよ……ね……?」


頭が混乱する。
いつの間にか憂ちゃんが唯と入れ替わってたのか?
いやいや、そんな事があるか。
ずっと一緒に風呂に入ってたんだ。
そんな時間も無いし、今私の背中に当たる胸の感触は……。
背中の感覚を研ぎ澄ましてみると、やっぱり分かる。
この胸の大きさは、やっぱり唯じゃなくて憂ちゃんのものだ。


「どうしたんだよ、憂ちゃん。
いきなりびっくりするじゃんか……」


言いながら、手を後ろに回して、私は憂ちゃんの頭を軽く撫でる。
すると、憂ちゃんが珍しく、悪戯っぽく微笑んだみたいだった。
勿論、背中から抱き着かれてるから見えてるわけじゃない。
でも、息遣いや言葉遣いから、憂ちゃんが微笑んだ事だけは分かった。


「えへへ、ごめんなさい、律さん。
いつもお姉ちゃんが律さんに抱き着いてるのを見てたから、一度やってみたいなって思ってたんです。
驚かせてしまって、すみません」


そう言って、憂ちゃんはまた軽く笑ったみたいだった。
いつもって程じゃない……はずだ。
でも、憂ちゃんから見ると、いつもに見えたのかもしれない。
私も軽音部の中じゃ唯と一番くっ付いてるから、遠くから見てるとそう感じるのかもな。
119 :にゃんこ [saga]:2012/02/13(月) 21:16:57.29 ID:fm+CEUEl0


今回はここまでです。
日焼けの話だけで終わってしまいました。
120 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(空) [sage]:2012/02/13(月) 22:53:37.71 ID:shHJkaLB0


背中に生ういぱい…


ゴクリ
121 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(千葉県) [sage]:2012/02/14(火) 01:44:15.33 ID:cQ6KzJ/Ao
前門のゆいっぱい、後門のういっぱい
122 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/14(火) 03:13:26.74 ID:QqAG7nrDO
>>121
おもろいwwwwww
123 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:24:27.58 ID:pP9cEDoP0
唯とは高校一年からの付き合いで、今じゃ大親友の一人って言ってもいい。
まだそんな長い付き合いじゃないのに、何だか不思議だ。
唯は誰とでも仲良くなれる奴だけど、勿論、誰とでも親友になるってわけじゃない。
そう考えると、やっぱり私達の気は合ってるんだろう。
一緒に居ると、何をするか分からなくって面白いし、あれで結構頼りになるしな。

特にあの曲……。
梓のために作った『天使にふれたよ!』は他のメンバーからは出て来ない発想だった。
そりゃ皆で歌詞を考え合って作った曲ではあるけど、
最終的に完成させられたのはあいつの発想があったからだ。
照れも無く後輩を天使と呼ぶなんて、メルヘンな澪でもちょっと無理だろう。
でも、唯って奴はそういう事が出来る奴なんだ。

私だって『天使にふれたよ!』は大好きな曲だ。
私の歌うパートがあるって点を除けば、本当に名曲だと思う。
いや、歌うのが嫌ってわけじゃない。
あの曲を梓に聴かせた時、意外そうな顔を向けられたのがどうにも印象に残ってるんだよな。
私が歌うのがよっぽど意外だったんだろう。
別に馬鹿にされてたってわけじゃないんだろうけど、何かな……。
やっぱりちょっと恥ずかしいんだよな。

恥ずかしい理由の一つには、
あの歌詞の中に梓への想いが込められてるからってのもある。
私だってあいつを置いて卒業したくなかった。
あいつと一緒に部活を続けたかった。
でも、離れてても、私達の楽しかった日々を忘れたくないから……。
いつか本当に離れる事になった時にも、絶対、梓の事を忘れたくないから……。
そんな想いを込めて作った曲だから……。

あの曲はそういうある意味で愛の告白みたいな曲なんだ。
だから、歌う時に恥ずかしさを感じちゃうんだよな。
勿論、そんな事、梓には口が裂けたって言えないんだけどさ。

恥ずかしいついでにもう一つ。
梓は確かに天使だったと思う。
唯が言うように、私達の結び付きを深めてくれた可愛らしい天使だ。
それは間違いないし、唯の言う事にしては珍しく正しい言葉だった。

だけど、やっぱり唯はちょっとだけ間違ってる。
梓は天使だけど、それ以上に天使なのはきっと唯だと思う。
いやいや、唯が愛らしい奴ってわけじゃないぞ?
そもそも天使が愛らしい存在ってのは、日本的なイメージらしいし。
まあ……、たまに愛らしい奴だって感じる事もあるけどさ。
でも、そういう事じゃなく、唯は神の御使い的な意味での天使だって私は思うんだ。

唯は梓の事を私達の絆を深めてくれた天使だって言った。
それを言うなら、それよりも前から私達を結び付けてくれてた唯の方がずっと天使だ。
唯が居なけりゃ、軽音部自体成立してなかったってのもあるけど、
あいつが居たから軽音部は楽しかったし、
ムギや梓、澪とだって想像以上に仲良くなれたんだ。

軽音部の皆だけじゃない。
和や憂ちゃん……、私一人じゃ絶対に話し掛けられなかったクラスメイト達……。
それに長い目で見ればさわちゃんや純ちゃんとだって、唯が居なけりゃ仲良くなれてなかっただろう。
124 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:24:58.36 ID:pP9cEDoP0
そう考えると梓もかな。
梓は私達の新歓ライブに惹かれて軽音部に入部してくれたらしい。
勿論、私達全体の雰囲気なんかにも惹かれてくれたんだろうとは思う。
だけど、その中でも一番惹かれたのは唯の演奏のはずだった。
梓自身のパートがギターだからってのもあるけど、
唯の演奏を見る梓の表情がたまに何だかとても優しい感じなんだよな。
唯のギターだけじゃなく、唯自身の事も大好きなんだって感じる。

そんな天使を一番間近で見てたのが憂ちゃんだ。
多分、憂ちゃんこそが唯の事を天使だと思ってる第一人者だろう。
ものすごくしっかりしてるのに、
ものすごく出来た妹なのに、憂ちゃんは唯の事を心の底から慕ってる。
大体の事ではだらしないお姉ちゃんの事を尊敬してるんだ。

前に憂ちゃんがとんでもない事を言ってたのを、私もよく憶えてる。
「お姉ちゃんは私よりもしっかりしてますよ」って、冗談みたいな事を本気の表情で言ってたんだ。
嘘みたいだけど、憂ちゃんは本気でそう思ってるんだろう。
「しっかりして」るかどうかはともかく、唯には敵わないとは私も思う。
唯は私達の想像も出来ない事をやってくれる。
たまにだけど、天使が起こす奇蹟みたいな事を本当にやってくれる事があるんだ。
『天使にふれたよ!』の歌詞もそうだし、私達が想像以上に仲良くなれた事だってそうだ。
卒業式直前に教室でライブをやれたのも、唯の皆からの人望のおかげなんじゃないかな。

そればっかりは私達にはどうやっても出来ない事だ。
逆立ちしたって私が唯くらい好かれる事は無いだろう。
どんなにしっかりしてても、憂ちゃんも唯みたいな奇蹟は起こせない。
だからこそ、憂ちゃんは唯の事が大好きだし、唯の真似をしたくなるんだろう。


「律さん……?」


私が少し黙ってたのが気になったんだろう。
憂ちゃんが心配そうな声を出した。


「すみません、律さん……。
年上の人に馴れ馴れし過ぎましたよね、ご迷惑を……」


言いながら私から離れようとする憂ちゃんの腕を掴む。
私の首に回していた憂ちゃんの手を包み込む。
何を伝えればいいのかは分からないけど、何かを伝えてあげたいって思った。


「ううん、気にしてないよ、憂ちゃん。
意外だったからちょっとびっくりしちゃっただけだよ。
遠慮せずに好きなように私に抱き着いて来ちゃいなYO!!」


「あはっ、律さんったら……」


最後にふざけて言ってみたおかげか、憂ちゃんは笑ってくれたらしかった。
離そうとしていた身体もそのままにしていてくれた。
憂ちゃんの心配を振り払えたのは何よりだ。
でも、私が伝えたい言葉はそれだけじゃない。
目を閉じながら、もう一度、私は口を開いてみる。
125 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:26:19.98 ID:pP9cEDoP0
「ねえ、憂ちゃん……。
唯って奴はすごいお姉ちゃんだよね……。
憂ちゃんの事を大切にしてるし、私達の事も大切に思ってくれてるしさ……。
唯と軽音部をやれて本当によかったって思ってるんだ。
でも、だからって……」


憂ちゃんが唯の真似をする必要なんてない、とは言えなかった。
そんな事、私が言わなくたって、憂ちゃん自身も分かり切ってるはずだ。
私の背中に抱き着いたのだって、
ただ何となく唯の真似をしてみたくなっただけの事だろう。
でも、その心の中には、唯への憧れが少しも無かったとは言い切れない。
外見もそっくりなんだから、
お姉ちゃんみたいな事が自分にも出来るかも、って思う事もあったはずだ。

そういう私だって唯には結構憧れてる。
あいつみたいに素直になれたら、あいつみたいに皆を支えられたら……。
そう思った事は何度もある。
今だってそうだ。
あいつが私の立場なら、今も悩む澪に優しい言葉を掛けてやれる事だろう。
それこそ和が言ったように唯が澪の幼馴染みなら、強く澪の支えになってやれたはずだ。

だけど、澪の幼馴染みは唯じゃなくて私で、
澪の不安を振り払ってやれないのは私の責任でもあって……。
いっそ唯ならどう澪を支えるかを考えれば、もっと話は簡単なんだろう。
唯の真似をしてしまえば、澪の不安を少なくしてやれるはずだ。
ひょっとすると、憂ちゃんも唯の一番近くでそんな事を考えてたのかもしれない。
『お姉ちゃんみたいに誰かを幸せにしたい』って。

でもさ……。
悔しいけど、唯は唯で、私は私で、憂ちゃんは憂ちゃんなんだよな。
私は軽く咳払いをして、話題を変える。


「そういえばさ、憂ちゃんの料理、相変わらず美味しかったよ。
今日の朝ごはんは私も結構頑張ったんだけどさ、
やっぱり毎日台所に立ってる憂ちゃんには敵わないよ。
おみそれしました。私ももっと精進しなきゃな」


「いえいえ、そんな……。
律さんの朝ごはんだって、すっごく美味しかったですよ!
お姉ちゃんも「りっちゃんの料理って、男の料理って感じで美味しいよねー」って褒めてましたよ!」


それは褒められてるんだろうか……。
一応、美味しいと思ってくれてるんなら、まあ、いいけど。
そう思いながら私が苦笑すると、憂ちゃんも私の後ろで苦笑してくれたみたいだった。
私達は唯に憧れてて、魅せられてて、真似をしたいって思う時もある。
でも、真似をしたって、唯みたいに出来るわけじゃない。
私達は私達に出来る何かをするしかないんだろう。

憂ちゃんはそれを私よりも分かってるはずだ。
分かってるから、憂ちゃんは本当に出来た妹になったんだと思う。
お姉ちゃんみたいにはなれないから、別の所で頑張ろうって思ってたんだろうな。
それでしっかりした子になったんだ。

それでも、憂ちゃんの心に不安が無いわけじゃない。
唯が大学に行って、長く唯と離れる事になって、
自分がどうするべきなのか迷っちゃう事もあるんだろう。
だから、唯の真似をしちゃったんだろうな。
唯が居ない場所では、自分が唯の代わりになった方がいいんじゃないか、ってそう考えて。
多分、ほとんど無意識な内に。
それくらい、憂ちゃんと私の心の中では唯の存在が大きいんだ。
126 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:26:59.11 ID:pP9cEDoP0
私は唯の事が大好きだ。
でも、憂ちゃんの事だって好きだ。
友達の妹だから少し距離感が掴めないけど、嫌いなわけじゃない。
憂ちゃんに唯の代わりを求めてるわけでもない。
だから、私は憂ちゃんに言うんだ。


「そういや、憂ちゃんの胸って唯より小さいよね」


突拍子も無い発言だったし、正直言ってセクハラだった。
怒られても仕方が無かったけど、憂ちゃんは怒るどころか笑ってくれたみたいだった。


「あはっ、そうですね。
実はお姉ちゃん、最近、また胸が大きくなってきたみたいなんです。
ブラジャーも合わなくなってきたみたいなんで、
この前、お姉ちゃんに頼まれて買いに行ったんですけど、予想以上のサイズでしたよ」


唯もブラぐらい自分で買いに行けよ……。
若干呆れたけど、今はそれはどうでもいい事だった。
やっぱり唯と憂ちゃんは似てるみたいで違う所は違ってるんだ。
当たり前の事だけど、何だか嬉しかった。
込み上げる笑顔を隠し切れず、少し笑いながら私は続ける。


「さっき憂ちゃんは私を驚かせようと思って、唯の真似をしたんでしょ?
しかし、その技、私には効かなかった!
何故なら、唯と憂ちゃんでは胸の大きさが違うからな!
ふはははは! 胸を大きくして出直して来い!
唯の真似をしたって、憂ちゃんは憂ちゃんなのだよ!」


また何だか失礼な発言だった。
大体、憂ちゃんの胸だって、
そんなに小さいわけじゃないし、悲しい事だけど正直私の胸よりはかなり大きい。
唯と差が付いてるのも、単に唯がよく食ってるから、
その分の栄養が胸に行ったってだけの話なんだろうと思う。
食った栄養が胸に行くタイプなんだよな、あいつは……。
あの野郎……!

私の言葉を聞いて、憂ちゃんは少しだけ黙っていた。
ひょっとして調子に乗り過ぎちゃったか?
そういえば憂ちゃんが怒った所を私は見た事が無い。
怒りの沸点も分からない。
ほんの少しの沈黙だったけど、何だか不安になってくる。

一瞬、憂ちゃんが私から身体を離した。
不安になっていたせいか、私から身体を離す憂ちゃんの腕を掴む事も出来なかった。
やっぱり、怒らせちゃったんだろうか……?
バスチェアに座ったまま恐る恐る振り返ると、
急に憂ちゃんが腕を広げて笑顔で飛び掛かってきた。


「もう、律さんったら……。
女の子に胸の事を言っちゃ……、めっ! ですよ」


正面から私に抱き着きながら、憂ちゃんが私の耳元で囁く。
唯の真似をして私の背中に抱き着いていた憂ちゃんが、
自分の意思と自分の言葉で私に真正面から抱き着いてくれたんだ。
単にふざけてやった事かもしれない。
深い意味があっての行動じゃないのかもしれない。
でも、憂ちゃんが自分の意思で抱き着いて来た事だけは確かだ。
私はそれがとても嬉しい。
127 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:30:48.91 ID:pP9cEDoP0
世界から私達以外の生き物が居なくなる……。
異常で困り果てた状況だけど、こんな事でもなければ、
私は憂ちゃんと一緒に裸の付き合いをする事は無かっただろう。
感謝はしないけど、この状況もちょっとだけ悪くないとは思えた。


「あはは、ごめんごめん。
ちょっとふざけ過ぎちゃっ……てぇっ!?」


瞬間、私は妙な声を出してしまっていた。
妙な声を出したのは、私がバランスを崩してしまっていたからだ。
真正面から抱き着いて来る憂ちゃんをしっかり抱き留めたつもりだったけど、
自分で思ってる以上に風呂に浸かり過ぎてたみたいだった。
予想以上に筋肉が緩んでたらしい。
憂ちゃんの身体を支え切れず、私達はプールサイドに倒れ込んでいく。

まずい……!
せめて憂ちゃんだけは護ろうと抱き締めながら、全身で衝撃に備える。
心配する事は無い。
倒れ込んだ所で所詮はプールサイドなんだ。
ちょっと擦り傷が出来るかもしれないけど、それくらいなら大した事が無いはずだ。
大丈夫だ、問題無い。

数秒後、二人してプールサイドに軽く倒れ込む。
衝撃は思ったよりも少なかった。
憂ちゃんだって、そんなに勢いよく私の胸に飛び込んで来たわけじゃないんだ。
大事故になるはずもない。
ほら、やっぱり大した事無かったじゃないか。

だけど……、私は気付いてしまった。
倒れた拍子に風呂桶に汲んでいたお湯をこぼしてしまっていた事を。
お風呂の温度調整のために、熱湯に近い温度で置いていたお湯をこぼしてしまった事を。
そのお湯が私の右手の上にこぼれてしまっていた事を。

刹那、軽い熱さを感じる。
お湯が冷め切っていたわけじゃない事は私にも分かっている。
その熱さは神の与え給うた確かな猶予。
本当の熱さが訪れるまでの数瞬の時間……。
刹那の熱さが教える、後に襲い来る熱量……。
数瞬……、そして約束通り訪れる、予測を下回る事の無い熱さ!!!


「うおわっちゃああああああ!」


絶叫。
悪いと思う時間も無く、私は目の前の憂ちゃんに抱き着きながら悶絶する。
火傷するほどの温度のお湯じゃない。
最初は熱湯だったとは言え、結構長い間放置してたんだ。
完全にではないにしろ、それなりに冷めてはいる。
でも、そんな事は関係無い。
熱いものは熱いんだ!
128 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:32:03.46 ID:pP9cEDoP0
「すみません、律さん……!
だ……、大丈夫ですか……っ?」


おろおろしながら憂ちゃんが私を気遣ってくれる。
大丈夫な事は大丈夫だ。
でも、今はそれを声に出して言う余裕が無かった。
憂ちゃんには申し訳ないけど、もう少しだけ身体を掴ませていてもらおう。
何処かが痛い時って、何故か何かを掴んでると痛みが引く気がするしな……!
だから、熱さがもう少し和らぐまで、何かを掴んでいたい……!

不意に。
プールサイドに憂ちゃんじゃない誰かの足音と大声が響いた。


「どうしたのっ、りっちゃんっ? 大丈夫っ?」


熱さに耐えながら、何とか声の方向に視線を向けてみる。
プールサイドに駆け込んで来たのはムギだった。
どうしてこんな所に? とは思わなかった。
ムギとは風呂の後に町を回る約束をしてたからだ。
グラウンド脇辺りで私達の風呂が終わるのを待っていたんだろう。
それで私の絶叫が聞こえて、何事かと思って駆け込んで来てくれた違いない。


「えっ……?」


ムギが小さな声を漏らす。
その表情はムギが滅多に見せない呆然とした表情だった。
どうしたんだろう、と私が思う暇もなく、
今度は見る見る内に顔を真っ赤にさせていった。


「ご……、ごめんなさいっ!
お、お邪魔しちゃったよね!
本人同士が良ければいいと思うし……、ごゆっくりぃっ!」


ムギはそう早口に叫んで、
赤い頬を両手で押さえながらプールサイドから駆け出して行った。
プールサイドにムギが居た時間、実に十秒。
次に呆然とするのは私達の番だった。

一体、どうしてムギはあんなに顔を真っ赤に……。
そこまで考えて、今更ながらに気付いた。
私と憂ちゃんが寝転がりながら抱き合ってる(様に見える)事に。
全裸で。

しかも、あの様子だと私が叫んだ理由も勘違いしてる気がする。
何と言うか……、ほら……、何だ……。
初めては痛いから叫んだとか……、何かね……、
そういう意味で捉えてるんじゃないかな……?
うん、何の初体験なのかは考えない事にしよう。


「紬さん、どうしちゃったんでしょう……?」


ふと視線を向けると、憂ちゃんが不思議そうに首を捻っていた。
ひょっとすると、憂ちゃんは本当に何も気付いてないのかもしれない。
それはそれで幸いな事なんだろうけど……、しかし、何なんだこれ。
どうしてこんな事に……。
私は右手の熱さが結構治まってきたのを感じながら、
後でムギに今の私達の状況をどう説明したらいいものか頭を悩ませた。
129 :にゃんこ [saga]:2012/02/15(水) 19:34:00.74 ID:pP9cEDoP0


今回はここまでです。
どうしてこうなった。
次はムギちゃんのお話です。
130 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/16(木) 00:24:21.04 ID:AyJu7PzDO
乙です。紬編楽しみにしています。これからも頑張ってください。
131 :にゃんこ [saga]:2012/02/16(木) 19:21:30.70 ID:gBJIKPgz0





憂ちゃんと裸で抱き合ってた(様に見えた)って誤解を解いた後、
私はムギと二人で私の実家に来て、ムギに居間で待ってもらっていた。
時間が掛かるかもしれないと考えてたけど、意外にムギの誤解は早く解けた。
「お湯で火傷しちゃったから、憂ちゃんに介抱してもらってたんだよ」と弁解すると、笑ってくれた。
「そうだよね……。大丈夫だよ、りっちゃん。応援してるから頑張ってね」と言ってくれた。
……何か誤解が全く解けてない気がするが、解けたという事にしとこう。

誤解を解こうと必死になるのも逆に怪しいし、それにムギは頭の悪い奴じゃない。
今こそ嬉しそうに超うっとりしてるけど、
後で冷静になって考えてみると、自分の誤解だったって事に気付いてくれるはずだ。
今はムギに対してムキになっても仕方が無い。
いや、これ、駄洒落なんだけど。

それにしても、ムギってまだ女の子同士の関係が好きだったんだな……。
昔ほど夢中になってる様子は見せないけど、やっぱり好きなものは好きらしい。
軽音部の中で出会った頃から一番印象を変えたのはムギだろう。
澪は幼馴染みだし、梓は自分のスタンスを変えない奴だし、
私に言えた事じゃないけど、唯は高一の頃から何もかもそのまんまだ。

その点、ムギは本当に変わった。
私と……、特に唯の影響を受けたのかな?
出会った当初はお嬢様っぽいしっかりした奴に見えたんだけど、
今じゃ唯と一緒に狙ってない天然でボケ倒す事も多くなったと思う。
たまに唯とムギの天然に突っ込むのに疲れる事もある。
でも、それは心地良い疲れだ。
楽しくて、面白くて、大笑いして、そうして感じる疲れは、心地良くて嬉しい。

でも、色々変わったムギだって、変わってない所があるみたいだな。
言うまでもなく、百合趣味だ。
最近は百合の話をあんまりしなくなったから好みが変わったのかと思ってたけど、
さっきの様子を見る限りは、単に声を大にして話さないようになっただけらしい。
それを改善と考えるか、悪化と考えるかは人それぞれって事で。
だけど、ムギにもずっと変わってない所があるんだと思うと、ちょっと嬉しくなる。


「そういや、確かここに……」


苦笑に似た笑顔を浮かべながら、私は自室の本棚に視線を向けてみる。
音楽関係の本と漫画に交じって、一冊だけ異彩を放つその本が変わらずそこにあった。
『青い花』。
百合……、つまり女の子同士の恋愛関係ってのが、どんなのか知りたくて買ってみた漫画だ。
変わった趣味だと思うけど、どんな趣味を持ってたって私はムギが好きだ。
ムギの事をもっとよく知るためにも、一度はその筋の本を読んでおきたかったんだよな。
勿論、それはムギには秘密にしてる。
そういうのは本人に知られずにやらないと意味が無いんだから。

そういや、『青い花』の内容はともかくとして、
この本を買った事で思わぬ事件が起こった事もあったよな。
『青い花』を買って数ヶ月、本の存在自体忘れてた頃に澪が私の家に遊びに来た事がある。
特に何をやるわけでもなく、二人で寝転んでお菓子を食べたり音楽を聞いたりしてると、
不意に澪が本棚から『青い花』を見つけてこう言ったんだ。
132 :にゃんこ [saga]:2012/02/16(木) 19:22:49.03 ID:gBJIKPgz0
「『青い花』じゃないか。
律も結構ハードな漫画を持ってるよな」


うん、おまえが何でそれを知ってる。
私は初めて買った百合漫画が『青い花』だから、
内容がハードなのかどうかは分からないんだが……。
そりゃ、同性愛に悩む描写が想像よりも生々しかったとは思ったけど……。
ひょっとして、内容がソフトかハードか分かるくらいに、百合漫画を読んでるのか?

そんな感じの事を澪に指摘すると、
澪は慌てた様子で「ネットの評判を見た事があっただけ」と言っていた。
後でネットで調べてみると、確かにそういう評判が多いみたいだった。
でも、そういう評判を即座に思い出せる時点で、かなりのもんだと思うが……。

まあ、何処まで本気なのかはともかくとしても、
中学生の頃には同性の先輩の事が好きな女子が結構居たからな……。
バレンタインにその先輩に本命のチョコをあげた子も多かったらしい。
中学生ってのはそういう年頃なんだろう。
ひょっとすると、澪にはその延長で百合漫画を多く読んでた時期があったのかもな。
別に澪が今も愛読してても、私は一向に構わないんだけど。

おっと。
ムギを待たせてるのに、思い出に浸ってる場合じゃなかった。
自室には自転車の鍵を探しに来たわけだし、早く見つけないとな。

さっきムギに頼まれて、今日は私とムギの二人でムギの家に行く事になった。
自宅に何かを取りに行きたいんだそうだ。
自宅の様子を見ておきたいって気持ちもあるんだろうと思う。
勿論、ムギの思うようにさせてあげたかったけど、それには一つ大きな問題があった。
距離の問題だ。

ムギは電車通学で、学校からかなり離れた所に住んでいる。
私達以外の生き物が消えてしまった今となっては、それはかなり辛い。
何せ電車もバスも動いてないわけだからな。
徒歩でムギの家に行くのは、体力的にも精神的にも勘弁してほしい。
車で移動するって手段もあるにはあるが、残念ながら私達は全員無免許なんだよな。

そんなわけで、私とムギは私の家まで自転車を取りに来たわけだ。
学校に置いてある誰かの自転車に勝手に乗るのは、何となく気分が悪いからな。
実家にはまだ私の自転車が残ってるし、
聡愛用のマウンテンバイクや母さんのママチャリもあるんだ。
どれかに乗っていけば、すぐってわけじゃないけど、何とかムギの家にも行けるだろう。
133 :にゃんこ [saga]:2012/02/16(木) 19:24:50.31 ID:gBJIKPgz0
「うー……っと……。
何処に鍵置いたっけ……?」


呟きながら自転車の鍵を探す。
私もあんまり自転車に乗る方じゃないから、鍵を何処にやったかはいまいち覚えてない。
そういや、母さんには、鍵を置く場所を決めておきなさい、ってよく言われたもんだ。
分かっちゃいるんだけど、
自転車に乗って家に帰ると、ついついそれを忘れちゃうんだよな……。
大雑把な娘でごめんなさい、お母様。

と。
不意に胸が痛んだ。
今は母さんのお小言を聞く事が出来ない。
どんなに願ったって今は無理なんだ。
それが寂しくて、とても辛くなった。
今はまだ仕方が無いけど、出来ればそれは『今は』であってほしい。
『もう』母さんのお小言を聞く事が出来ない状況であってほしくない。
いつかは……、こんな異常な状況から解放されたい……。

さっき実家の玄関を開けたばかりの時の事を思い出す。
当然、誰も居なかった。
それだけじゃない。
誰かが住んでるって気配すらなかった。
この家には人が誰も住んでない……。
否応無しにそう感じさせられて、眩暈がする気分だった。

この家、こんなに広かったっけ?
ドラマなんかでよく聞くありがちな台詞だけど、その台詞が私の胸を突いてしまう。
広い……。
本当に広いよ、誰も居ないこの家は……。
誰も存在しないこの世界は……。
134 :にゃんこ [saga]:2012/02/16(木) 19:28:14.90 ID:gBJIKPgz0


短いですが、今回はここまでです。
またよろしくお願いします。
135 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:48:53.32 ID:9LZ3haPw0
突然。
私の部屋の扉がノックされた。
聡……?
一瞬だけそう期待したけど、そうじゃないって事はそのすぐ後の声から分かった。


「ねえ、りっちゃん?
ちょっと見てほしい物があるんだけど、いいかな……?」


ムギの声だった。
居間で待ってもらってたはずだったけど、私に何か用件が出来たらしい。
扉をノックしたのは聡じゃなかった。
そりゃそうだ。この家には私とムギの二人しか居ないんだから。
大体、聡って弟は私の部屋に入る時にも、あんまりノックをしない奴だった。

大きな溜息。
やっぱりもうこの世界の何処にも、私の家族は居ないんだろうか……?
聡をからかってやる事も、母さんにお小言を言われる事も、
だらしのない父さんに説教してやる事も出来ないんだろうか……?
また胸が強く痛むのを感じて、泣いてしまいそうになる。

……駄目だ駄目だ。
私は頭を振って、軽く自分の頬を叩く。
辛いのは皆、同じなはずなんだ。
澪だって唯だってムギだって、辛いはずなんだ。
梓も一見しただけじゃ分かりにくいけど、辛いんだと思う。
だから、私くらいは笑顔でいなきゃな。
部長のりっちゃんはいつでも元気で騒がしくなくちゃいけないんだ。
そうじゃなきゃ、私が皆と一緒に居ていい理由なんて……。

溜息……じゃなくて、深呼吸。
ぎこちないだろうけど、少しは笑顔になれたはずだ。
ちょっとだけ無理をして、高い声で返事をしてみせる。


「あいよ、別にいいぞ、ムギ。
どうしたんだ? 見てほしい物があるって、何か見つけたの?」


言いながら、扉を開く。
扉の先ではムギが少しだけ申し訳なさそうに苦笑していた。
出会った頃はともかく、最近のムギがこんな表情を見せる事は少ない。
私は不安になって、声を低くして訊ねてみる。


「どうしたの? 何かあったのか?」


「ううん、ちょっと……。
それよりね、これをりっちゃんに見てほしいんだけど……」


頭を軽く振ってから、ムギが私に小さな何かを手渡した。
手のひらを開いて、私はその何かをまじまじと確認してみる。
見覚えのある『ひらめきはつめちゃん』のキーホルダー。
キーホルダーと繋がってるその鍵は間違いなく……。


「お、私の自転車の鍵じゃんか。
ありがとな、ムギが見つけてくれたのか?
何処にあったんだ?」


私が言うと、ムギはまた申し訳なさそうな顔で頷いた。
ムギは何も悪い事をしてないのに、
どうしてこんなに申し訳なさそうな顔をしてるんだろう。
それを訊ねるより先に、ムギが頭を下げて言った。
136 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:49:45.02 ID:9LZ3haPw0
「ごめんね、りっちゃん……」


「何がだ?」


「私ね、お友達の家で一人で待ってるなんて事少なかったから、
はしゃいじゃって、色んな所を眺めさせてもらってたの……。
それでね、田井中家の鍵置き場みたいな所を見つけて、
覗いてみたらりっちゃんの自転車の鍵があったから、それで持って来たんだ。
りっちゃんの自転車の鍵なら何度か見た事があって覚えてたから……。
でも、ごめんね……、人の家をあれこれ探るなんて失礼だよね……」


言葉の後、ムギが落ち込んだみたいに縮こまる。
そんな事を申し訳なく思ってくれてたのか……。
でも、それも仕方が無い事なのかもしれない。
ムギは色んな事を知ってるけど、その代わりに色んな事に経験が無いんだ。
ムギは私達と会うまで、ファーストフードや泊まりがけの遊びや、
カラオケやゲームセンターや……、そんな当たり前の色んな事を知らなかった。
まだ私達が想像も出来ない未体験の何かがあるんだろうと思う。

ムギはそんなほとんどの事が未経験の中で、沢山の事を手探りで経験しようとしてる。
だから、ちょっとした事でも不安になって、ちょっとした事でも申し訳なく思っちゃうんだ。
まだ色んな事が分からなくて、不安なんだ。
世界や世間を精一杯体験して、吸収してる時期なんだ。
特に今は……、そうだな……。
多分、普段出来てた事が出来なくなっちゃってるから、余計に不安になってるんだろう。


「気にするなって、ムギ。
私はムギが自転車の鍵を見つけてくれて助かってるし、嬉しいよ。
居間の鍵置き場にあったなんて、私には想像も出来なかったしな。
下手すりゃずっと部屋の中を探してて、
長い時間、ムギを待たせる事になってたかもしれない。
そんな事になったら私だって気分が悪いよ。
だから、鍵を見つけてくれてありがとう、ムギ」


軽くムギの頭を撫でる。
こんな事でムギの不安を和らげてやれるかどうかは分からない。
でも、ムギはほっとした表情になって、微笑んでくれた。


「私の方こそ……、ありがとう、りっちゃん」


「おいおい、逆だろ、ムギ?」


「そうだよね、ふふっ……、何かおかしいね。
でもね、りっちゃんにありがとうって言いたい気持ちだったの」


「じゃあ、どういたしまして、かな?
ありがとう、どういたしまして。
……日本語として成立してない気がするが、ま、いいか」


私が笑うと、ムギも晴れやかに笑った。
少しだけ、不安を振り払ってあげられたのかもしれない。
これからまた何かがあったとしても、出来る限りはムギの不安を振り払ってやりたい。
137 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:51:11.12 ID:9LZ3haPw0
悲しい事だけど、私は一つ思ってる事がある。
ムギはきっと完全には私達の絆を信じ切れてないんだと思う。
それはムギのせいじゃない。
どっちかと言うと、私達のせいかもしれない。
ムギはいつも皆に美味しいお菓子を食べさせてくれて、給仕までしてくれる。
それは純粋に嬉しい事で、私達はそんなムギに甘え切ってた。
ムギも楽しくて私達の給仕をやってくれてるはずだけど、
そのせいで今は普段以上に不安が増して来てるんだろうと思う。

理由は単純。
この世界から生き物が居なくなってから三日、
簡単には私達にお菓子を提供出来なくなったせいだ。
勿論、クッキーや飴なんかは大丈夫だけど、
冷蔵庫が使えなくなった上に夏の湿度のせいでケーキ系は全滅だった。
アイスクリームどころかチョコレートですら溶けちゃってる状況だしな。

だから、今の所、ムギは私達にあんまりお菓子を提供出来てない。
当然、私達がムギにお菓子だけを求めてるわけじゃない。
付き合いの浅い大学の友達にはそう見える事もあるみたいだけど、絶対にそんな事があるもんか。
お菓子をくれなくたって、私はムギと一緒に居たいし、一緒に遊びたいんだから。
勿論、澪や梓、お菓子に目が無い唯だってそう思ってるだろう。

だけど、大学の友達が遠くから見てて、
私達とムギの関係がお菓子ありきの関係に見えるって事は、そういう要素があるって事でもある。
もしかすると、私達が知らないだけで、
ムギはクラスメイトの冗談を聞く事があったのかもしれない。
「軽音部の皆って、ムギ本人よりムギのお菓子が目当てなんじゃないの?」って。
そんな他愛の無い冗談を。

勿論、それは単なる悪意の込められてない冗談だ。
そう見える事もあるから訊ねてみただけ、ってそれだけのはずだ。
でも、悪意が無くたって、冗談だって、傷付いちゃう事はある。
特に心の片隅で思わなくも無かった事を指摘されてしまったら、
本当にそうなのかもしれないって嫌でも考えてしまうものだから……。

だから、多分、ムギは今とても不安になってる。
今はまだ残りがあるから大丈夫だけど、
これから後、お菓子を完全に提供出来なくなってしまったら、
自分には存在価値が無くなるんじゃないか、って不安になってるんだ。
そんな不安があるから、小さな失敗でも気になり始めてるんだろうと思う。

何とかしてやりたいって思う。
その責任の一端は、ムギの好意に甘え切ってた私にもあるんだ。
ムギの不安をもっと和らげて、信じさせてあげたい。
何も持ってなくたって、私達は仲間で居られるんだって。
それが部長だった私に出来る最善の事だ。
私はもう一度だけムギの頭を撫でてから、出来る限り明るく言った。


「そういや、どうして鍵置き場に私の自転車の鍵があったんだ?
これまで居間の鍵置き場に、自転車の鍵を置いた事は無かったはずなんだけど……。
家の何処かに落としてたから、母さんが鍵置き場に入れておいてくれたのかな?
本当、危うくムギを無駄に待たせちゃう所だったじゃんかよ……」


お菓子の事については触れなかった。
いきなりお菓子の話題になるのはあんまりにもわざとらし過ぎるし、
これからはお菓子以外の事でもムギに感謝してるって事を伝えてった方がいいと思ったからだ。
こんな時だからこそ、普段以上にムギの事を大切にしたい。
まだそんな私の気持ちは伝わってないだろうけど、ムギが笑顔で私の質問に応じてくれた。
138 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:53:20.25 ID:9LZ3haPw0
「あ、それなんだけど、
私、りっちゃんのお家に入る前に気付いた事があるの。
多分、りっちゃんのお母さんの自転車だと思うんだけど、パンクしてたみたいだよ。
それでお母さん、今はりっちゃんの自転車を使ってるんじゃない?」


「あー……」


名推理に思わず納得してしまった。
大雑把に定評のあるうちの母さんだけに、間違いなくムギの言う通りだろう。
私が大学に入って以来、自宅の自転車は使ってなかったから、
ちょうどいいや、と思って、私の部屋から私の自転車の鍵を持ち出したんだろうな。
パンクくらい修理しろよ……、と思わなくもないけど、
私が母さんの立場なら同じ事をしてそうだから、簡単に文句は言えんな……。

しかし、母さんの自転車、パンクしてたのか……。
一瞬しか見てないはずなのに、そのムギの観察力には舌を巻く。
流石は名探偵ムギ。
『ごはんはおかず』の歌詞に見立てた連続失踪事件を解決出来る女……。
第一に消えたのは……、えーっと……、ごめん。
やっぱ『ごはんはおかず』を連続失踪事件に絡めるのは、私の発想力じゃ無理だ。

それより、参ったな……。
ムギには母さんの自転車に乗ってもらうつもりだったんだが……。
父さんは自転車持ってないし……。
こうなると私が聡のマウンテンバイクに乗って、ムギに私の自転車に乗ってもらうしかないか。
いや、別にムギがマウンテンバイクでもいいんだが、何か似合わないからな……。
とにかく聡のマウンテンバイクの鍵を探さなくちゃな。
よし、と呟いてから、私はムギの手を取った。


「じゃあ、聡の部屋に聡の自転車の鍵を探しに行くぞ、ムギ。
あいつも私と一緒で鍵置き場に鍵を置くタイプじゃないから、鍵は部屋に置いてあるはずだ。
一応聞いておくけど、聡の自転車の鍵、居間には無かったよな?
前見た時から変わってなけりゃ、あのキーホルダー……、ほら、あれだよ。
前ムギに貸した『はるみねーしょん』のキーホルダーが付いてるやつなんだけど……」


「うん、『はるみねーしょん』のキーホルダーは見当たらなかったはずだよ。
でも、りっちゃん……と言うか、田井中家の皆って大沖先生の漫画が好きなんだね。
お母さんの自転車の鍵にも、大沖先生の漫画のキーホルダーが付いてるみたいだったし」


「いやー、何故か家族全員ではまっちゃってさ。
『ひらめきはつめちゃん』と『はるみねーしょん』を見分けられるムギも相当なもんだと思うけど。
ま、とにかく聡の部屋に行こうぜ。
何処にあるかまでは見当も付かないけど、多分、探せばあるだろ」


「いいの? 聡くんの部屋に勝手に入っちゃっても。
りっちゃんはともかくとしても、私まで……」


「いいよ。聡の部屋に入るのは、姉である私が許可します。
女子大生が自分の部屋に入るなんて、男の子のロマンというものだぜ。
惜しむらくは部屋の持ち主本人が部屋に居ない事だが、それはノータッチの方向で。
まあ、聡だって、漫画取りに私の部屋に結構勝手に入ってるんだからな。
お互い様ってやつだ」


私が意地悪く笑ってみせると、急にムギが羨ましそうな顔を浮かべた。
遠い目をしながら、小さく呟く。


「弟かあ……。いいなあ……」


「そうか? 居たら居たでうるさいもんだよ?」


「それでも羨ましいな。
女の子同士の姉妹とは違った、新鮮な感覚になりそうだもん。
うるさいって言ってるけど、りっちゃんだって聡くんの事好きなんだよね?」


「いや、弟に好きとかそういう……」
139 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:54:41.84 ID:9LZ3haPw0
言い掛けたけど、その言葉は止めた。
ムギが妙に真剣な視線を向けて来ていたからだ。
ムギにそんな真剣な表情をされちゃったら、私だって真剣に返すしかないじゃないか。


「……まあ、嫌いじゃない……かな」


私が呟くみたいに返すと、「よかった」とムギが笑った。
あんまり話した事は無いけど、ムギにも兄弟みたいな親戚でも居るんだろうか。
そのムギの表情からは、そんな誰かを失った寂しさが感じられる気がした。

寂しさ……か。
軽音部の皆が傍に居てくれてるおかげでもあるけど、
生き物が消えてしまってから、一番気に掛けてしまってるのは弟の聡の事だ。
うるさくて生意気なんだけど、やっぱり弟だからな……。
あいつが居ないと、寂しいし、辛い……よな。

だけど、それを口にするのは照れ臭かったし、
まだ聡を完全に失ってしまったとは考えたくなかった。
聡は何処かで元気に生きてる。
いつか……、いつか絶対、何処かで再会出来る……。
出来るはずだ……。
だから……、私は拳を振り上げて元気よく宣言してみせた。


「とにかく、聡の部屋で自転車の鍵を探すぞ!
名探偵ムギの事は頼りにしてるんだから、お願いしますよ、ムギ先生!
感覚を研ぎ澄まして、全身全霊全神経の捜査の始まりだ!」


「らじゃー!」


ムギが敬礼のポーズを取り、
それを見届けると、私はムギの手を引いて聡の部屋に向かった。
さて、捜査開始だ!
全身全霊全神経っつっても、しらみつぶしに探すだけなんだけど。
でも、自転車の鍵くらい、すぐに見つかるだろ、多分……。
140 :にゃんこ [saga]:2012/02/18(土) 14:55:47.50 ID:9LZ3haPw0


今回はここまでです。
まだムギちゃんのお話は続きます。
大沖先生プッシュの回でした。
141 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(中国地方) [sage]:2012/02/18(土) 17:35:43.92 ID:tKViPssc0
乙です
142 :にゃんこ [saga]:2012/02/20(月) 18:09:02.55 ID:5SRVmQT60





聡の部屋でマウンテンバイクの鍵はすぐに見つかった。
予想通りと言うべきか、聡の奴はズボンのポケットの中に鍵を入れたままにしていた。
こういう所、姉弟だな、って思う。
私も鍵をズボンに入れっ放しにしてる事って、結構あるからなあ……。
変な所だけ似てるもんだよな。

あんまり簡単に見つかったのがつまらなくて、
折角だから聡のベッドの下も何となく探してみたら、
何処で手に入れたのか分からないけど、エロエロな本が見つかった。
あの年でエロ本を手に入れるのは至難の技のはずなんだけど、
友達のコネか何かで頑張って入手したんだろう。
頑張ったな、若造。
それはいいんだが、隠し場所はもうちょっと工夫しようぜ、我が弟よ……。
多分、この場所だと、母さんもエロ本を隠してるの気付いてるぞ。

意外にも興味津々な様子のムギと一緒にエロ本を開いてみると、
パツキンのボインちゃんで脚がグンバツのチャンネーばかり載っていた。
言い方が古いかもしれんが、そうとしか言えない写真ばっかだったんだ。
何となく気になって発行日を見てみると、昭和六十二年と記されていた。
すげー古い……。
多分、頑張ったけど、これしか手に入らなかったんだろうな……。
弟の血の滲む努力の成果に、姉として何か泣けてくるぞ……。
勿論、ひょっとしたら単にこういうチャンネーが好きなだけかもしれないけど。

そうだとすると、私に対する悪意を感じないでもないな。
スタイルの良いボインのチャンネーが大好きとか、私への皮肉か。
どうせ私は男の子と間違えられる貧相な肉体だよ。
最近は梓にも胸のサイズで負けそうでマジで辛いんだよ……。
いつもじゃなくていいから、心の底では弟として私を応援してくれんか……。

そう思わなくもなかったけど、それはすぐに思い直した。
よく考えると、私と似たタイプを好みと考えられる方が遥かに困るな。
姉としてはそっちの方が複雑だ。
喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、かなり判断に迷うぞ。
隠されてたエロ本が今あるボインちゃん本じゃなくて、
『貧乳お姉ちゃん特集』の本だったりしたら、私はどうすりゃいいんだ……。
そう考えると、聡の好みのタイプが貧乳じゃなかったってのは、逆によかったのかもな……。
いや、貧乳って言うな。

何とも複雑な気分になりながら、私は聡の机の中心にエロ本を置いておいた。
エロ本を見つけた時は、机の上に整理して置いておく。
これが世間一般の礼儀らしい。
漫画で読んだ知識なんだけど、一度はやってみたかったんだ。
……とムギが言っていた。
何つーか、相変わらず知識が隔たってるよな、ムギは。

勿論、私にも別に異論は無かった。
聡の机の上にエロ本を置いてから、私達は名残惜しく聡の部屋を後にした。
名残惜しかったのは、当然だけど最後まで聡が姿を現さなかったからだ。
当然だけど……、仕方が無いけど……、でも、私は心の何処かで期待してた。
ムギも多分、期待してた。
エロ本を見つけた時に限って、都合よくそれを弟に目撃される。
そんなお約束な場面を心の何処かで期待してたんだ。
あるわけないのに、単なるお約束なのに、それでも……。
そんなのにすがり付きたいくらい、私は……。

でも、いつまでもすがり付いてたって、意味が無いって事も私達は分かってる。
だから、未来でいい。
出来る限り近い未来がいいんだけど、遠くたって構わない。
未来、聡が机の上のエロ本を見つけて、恥ずかしさで悶えてくれればいい。
それで私に文句を言いに来てくれれば嬉しい。
せめて、その願いくらいは叶ってほしい。
叶ってくれないと、悔し過ぎるじゃんか……。
143 :にゃんこ [saga]:2012/02/20(月) 18:09:29.66 ID:5SRVmQT60
悔しさを隠し切れないまま、私が母さんの自転車に乗り、
ムギが聡のマウンテンバイクに乗って、実家から飛び出していく。
最初は私が聡のマウンテンバイクに乗ろうかと思ってたんだけど、
ムギがマウンテンバイクに乗りたいみたいだったから、それはムギに譲った。
別に誰がどっちに乗ったっていいわけだしな。
まあ、ムギにマウンテンバイクってのは、究極的にミスマッチだけどさ。

私は自転車でムギの家に向かいながら、
何となく一つ馬鹿みたいな思い付きをムギに発案してみた。
「誰も居ないんだから、道路の真ん中を通ってムギんちまで行こうぜ」って、
そんな我ながら馬鹿馬鹿しい発案をしてみたんだ。
根が真面目なムギだけに、最初は複雑そうな表情をしてたけど、すぐに頷いてくれた。
「面白そう。折角だしやってみようよ」って言いながら、笑ってくれた。

ムギも私と同じに悔しかったんだと思う。
こんな状況になっちゃって、理不尽に巻き込まれて、
そんな現状に対して、何かの抵抗をしてやりたい気分だったんだろう。
これはまだ何も出来てない私達がやってやれる、小さな小さな反抗なんだ。
馬鹿みたいだけど、そんな悪ふざけでもしなけりゃ、やってけないよな……。


「行くぞ、ムギ!」


私は意を決し、大声を出して道路の真ん中に自転車で飛び出した。
すぐにそれに続き、ムギも道路の真ん中を通り始める。
誰も居ない事は分かってるのに、何だか緊張する。
悪い事をしてる、って感じのちょっと後ろめたい気分なんだと思う。
実際はそんなに悪い事じゃないのに、ついドキドキしちゃってるのは私が小市民だからかな。

でも、私よりもずっと真面目なムギは、もっとドキドキしてるらしい。
ムギの家まで先導するために私を追い越すと、
緊張を和らげるためか軽く鼻歌を歌い出していた。
曲は『Honey Sweet Tea Time』みたいだった。
放課後ティータイムの曲の中で、唯一ムギがメインボーカルを務めた曲だ。
やっぱり、持ち歌の方が鼻歌としては使いやすいんだろうな。

しばらく、ムギの鼻歌を邪魔しないよう、黙ってムギの後に続いた。
結構遠いムギの家だけど、自転車を使えばそんなに時間が掛かるわけじゃない。
ムギが家に取りに行きたいって言ってた何かもすぐに見つかるはずだ。
その後は和に頼まれてた街の地図を本屋から拝借し、
それとドーナツ屋に寄ってから、早めに学校に戻ろうと思う。
夕食の準備をしておきたいし、純ちゃんにドーナツの差し入れもしたいからな。
スーパーじゃないオールスターパックに純ちゃんは喜んでくれるかな……?
144 :にゃんこ [saga]:2012/02/20(月) 18:10:22.46 ID:5SRVmQT60
それにしても、と私の前を進むムギを見ながら思う。
ムギと自転車で遠出をするのは、すごく久し振りだ。
ムギと自転車に乗ったのは高一の頃……、夏休みに入る直前くらいだった気がする。
何だか懐かしい。
あの頃、ムギって自転車に乗れなかったんだよな……。
いや、完全に乗れないってわけじゃなくて、少しは乗れてたんだけど、
遠出が出来るくらいには自転車を乗りこなせてなかったんだ。
乗り方に力が入り過ぎてて、自転車に乗った方が歩くよりも疲れちゃうって感じかな。

だから、放課後に皆で特訓をしたんだよな。
ムギはまだ軽音部に慣れ切ってなくて、敬語交じりに私達の特訓を受けてたっけ。
澪も澪で、ムギの特訓をしながら、二人の手と手が触れる度に赤くなってた気がする。
今思い出しても、初々しいな、オイ。
私と唯はと言えば、手と手どころか腰と腰が触れるくらいムギに密着してたけどな。
どっちが正しい付き合い方なのかは微妙な所だけど、
とにかくその特訓のおかげでムギと一緒に自転車で遠出出来たんだったな。
遠出っつっても、ちょっと遠いショッピングモールに行くくらいの話なんだけどさ。

ムギが結構打ち解けてくれたのは、あの遠出の後くらいからだったか。
少し敬語が残ってはいながらも、
自然な感じに話し掛けて来てくれる様になったんだよな。
そんなこんながあって、今じゃムギは私達に完全に気を許してくれてるはずだ。
勿論、確証なんか一つも無いけど、そうだったら本当に嬉しいな。

そういや、あの遠出の日もムギは鼻歌を歌ってた気がする。
『Honey Sweet Tea Time』どころか、
『ふわふわ時間』すら出来てない時期だったから、
ムギが歌ってたのは『ビューティフル・サンデー』だったな。
今思い出しても、古いな!
でも、そういうのもムギっぽいって思えるのが面白いよな。


「りっちゃんと一緒に自転車に乗るのも、久し振りだよね」


いつの間にか『Honey Sweet Tea Time』の鼻歌が終わっていたらしい。
ムギが自転車の速度を少し落として、私の自転車の隣に並んで言った。
私は頷いてから、小さく笑う。
145 :にゃんこ [saga]:2012/02/20(月) 18:10:49.14 ID:5SRVmQT60
「今、私もそう考えてた所なんだよ、ムギ。
懐かしいよなー。ムギって昔は自転車に乗れなかったもんなー」


ちょっと誇張して言って、ムギをからかってみる。
怒られるかと思ってたけど、ムギは笑顔になって続けた。


「そうだよね。
私、りっちゃん達のおかげで、自転車に乗れるようになったんだよね。
そのおかげで今だって自転車に乗れてるんだもんね。
本当にありがとう、りっちゃん」


からかったつもりだったのに、まさかお礼を言われるとは思わなかった。
くすぐったくて、それ以上に申し訳ない。
私は「どういたしまして」と言う事しか出来なかった。
頬を軽く掻いて、私は照れ臭さと申し訳なさを隠して、話を少し変えてみる。


「そういや、ムギって自転車に乗ると鼻歌を歌ってるよな。
ひょっとして、そういうのが夢だったりしたのか?」


「うん、やっぱり、自転車って言ったら鼻歌ってイメージがあるんだ。
爽やかな日曜日、鼻歌交じりに自転車に乗ってお出かけなんて素敵よね。
ずっと夢だったし、それを叶えられてすっごく嬉しいの」


「これぞまさしく『ビューティフル・サンデー』ってやつだな。
今日は日曜日じゃないけど、ムギの言う事は私も分かるよ」


言ってから、ちょっとだけ迷った。
今日って本当に日曜日じゃなかったっけ……?
夏休みだからってのもあるけど、
生き物が居なくなってから、本気で曜日の感覚が無くなってきた。
えっと……、梓と待ち合わせてたのが三日前の火曜日だから……、
うん、今日は日曜日じゃないか。

人は周囲の状況の変化で時間経過を実感するものだって話を、和から聞いた事がある。
その時は放課後ティータイムが全然変わらないから、
時間の流れが実感しにくい、って皮肉みたいに言われたんだけどな。
でも、和の言う通りでもある。
ずっと同じサイクルで同じ様な生活をしてたら、
時間経過も曜日の感覚も分からなくなって来ちゃうもんだよな……。
曜日毎にアクセントを付けたスケジュールでも考えてみるか……。

そこまで考えて、私は何だか嫌になった。
少しずつこの状況を受け容れようとしてしまってる自分を。
何を考えてるんだよ、私は……。
最悪、この世界を受け容れなくちゃいけなくなったとしても、
それまではこの状況の打開策を考えなくちゃいけないじゃないか。
和とも約束したじゃないか。
諦めちゃ、駄目じゃんかよ……。
146 :にゃんこ [saga]:2012/02/20(月) 18:13:19.38 ID:5SRVmQT60


今回はここまでです。
長くなりましたが、まだまだ和ちゃんの歌な感じです。
つまり、まだまだプロローグなんで、
出来る限り山場をお早めにお送りできるよう頑張りたいと思います。
147 :にゃんこ [saga]:2012/02/21(火) 19:32:07.24 ID:2E5Cm4Az0
私は首を横に振って、自転車のハンドルを強く握る。
今日の夜には澪と話をしたいのに、
私の方がこんな迷ってちゃ澪を余計に不安にさせるだけだ。
もっと心を強く持たないと、あいつを支えてやる事なんて出来るはずも無い。
それに、これ以上澪と話すのを先延ばしにしちゃったら、
逃げる口実を無限に探すようになっちゃいそうで、すごく恐い。
だからこそ、今夜、もっと強く決心をして、私は澪と話すんだ。


「りっちゃん……? どうかしたの?」


私が少し黙り込んでた事が気になったらしい。
気が付けば、ムギが首を傾げて、心配そうに私の顔を見つめていた。
私は「何でもないよ」と笑顔になってムギに返す。

澪の事は大切だ。
ずっと一緒に居た幼馴染みなんだ。
こんな時だからこそ、もっと大切にしたいと思う。
でも、ムギだって大切な友達なんだ。
折角、二人で話をしてるんだから、
澪の事を完全に忘れるとはいかないまでも、
ムギの方にももっと目を向けなきゃ、ムギに失礼だよな。


「いきなり話を変えて悪いんだけどさ、
ムギって私達の曲の中じゃ『Honey sweet tea time』が一番好きなのか?
さっきも鼻歌で歌ってたし、よく口ずさんでるのを見かけるしさ。
勿論、わざわざ順位付ける事でも無いって思うんだけど、ちょっと気になっちゃって。
やっぱり自分がメインボーカルだと、お気に入りになる感じなのか?」


私は話題を変えて、ムギに訊ねてみる。
それは私の迷いを誤魔化すため……、
じゃなくて、前々から普通に気になってる事だったからだ。
放課後ティータイムの曲の中で、唯一ムギがメインボーカルを務める珍しい曲。
大抵、そういう曲は完成度が低くなっちゃうのが関の山だ。
やっぱり普段ボーカルを務めてる奴が歌わないと、変になっちゃうもんだよな……。
148 :にゃんこ [saga]:2012/02/21(火) 19:32:36.79 ID:2E5Cm4Az0
でも、同じバンドに所属してる私が言うのも変だけど、
『Honey sweet tea time』はかなりいい曲に仕上がってるって思う。
ムギの柔らかい歌声と、澪の甘い歌詞がすごく合ってるんだよな。
大体、そもそもは合唱部に入部しようとしてたムギなんだ。
本来なら、ムギがメインボーカルを務めるのが自然なのかもしれないしな。
いや、唯と澪のボーカルが駄目だってわけじゃない。
二人のボーカルには、二人それぞれの良さがあるのを私は実感してる。


「そうだね……。
確かに自分が歌う曲だと、自然に歌詞も覚えちゃうんだけど……」


少し照れた感じでムギが微笑み、言葉を止めた。
何だか珍しいな、って思った。
ムギが照れるなんて、和が照れる以上に珍しい気がする。
でも、私、そんな照れさせる事を言っちゃったのかな。
一番好きな曲を訊いただけなんだけど、
それが自分の唯一のボーカル曲だったら恥ずかしいもんなのかな?

その辺、ボーカルを務めた事が無い私には分からない。
私とその気持ちを共有出来るのは、
同じくボーカルを務めた事が無い梓だけだろう。
いや……、あいつとももう共有出来ないか。
梓の奴、新軽音部でボーカルをやるらしいからなあ……。
おのれ、梓、裏切ったな!
仲間だと思ってたのに、私の気持ちを裏切ったな!

なーんてな。
本当は別に怒っちゃいないし、逆に嬉しい。
正直な話、あいつは上手い下手はともかく、人前で歌うのが苦手なはずだ。
前にカラオケに行った時も照れまくって、
「どうぞ先輩達から歌って下さい」って、自分の番をどんどん後回しにしてたからな。
あんまりにも歌わないもんだから、
私がデュエット曲を入れて、無理矢理あいつにも歌わせたんだっけ。

でも、あいつは新軽音部でメインボーカルを務める。
最近、メインボーカルを教えようとしないあいつから、それを無理矢理メールで聞き出した。
やっぱり、まだ恥ずかしい気持ちがあるんだろうな。
それでも、あいつはメインボーカルをやるんだ。
部長だから……、私達の想いを受け継いでくれたから……、
苦手でも、恥ずかしくても、歌いながら部員達を引っ張ろうと思ってくれたんだろう。
それがとても、嬉しくて、心強い。

『ボーカル、頑張れよ』と送ったメールに、
『律先輩と違って、ボーカルも出来る部長になってやります!』って、
生意気この上ない返信があった時も、心強さを感じさせられたっけな。

って、おっと。
ムギの話の最中なのに、今度は梓の事ばかり考えちゃってたな。
どんな時でも皆の事を均等に考えちゃうのは、私の悪い癖なのかもしれない。
私は少し苦笑してから、ムギの顔を見つめて次の言葉を待つ事にする。
ちょっとだけ後、頬を結構赤く染めたムギが言葉を続けた。
149 :にゃんこ [saga]:2012/02/21(火) 19:33:21.16 ID:2E5Cm4Az0
「あのね、りっちゃん……。
私ね、放課後ティータイムの曲は全部好きなの。
最初の方に作った曲も、高校最後に皆で作った『天使にふれたよ!』も大好きよ。
全部大好きだから、その曲の中で順位は付けにくいな……。

でもね……、放課後ティータイムの曲は全部大好きなんだけど、
一曲だけどの曲よりもすっごくすっごく好きな曲があるの。
その曲はね、りっちゃんの言う通り、
『Honey sweet tea time』なんだけど、それは私が歌う曲だからじゃなくて……」


「ムギが歌う曲だからじゃないのか……?
じゃあ、どうして『Honey sweet tea time』が……?」


「えっとね……。実はね……」


何度も言葉を躊躇うムギ。
何だかどんどん顔も紅潮していってる気がする。
どうしてムギはそんなに恥ずかしがってるんだろう?
そんなに顔を赤くしないといけない理由があるんだろうか?

また少し経って、ムギはその理由を口にした。
その言葉を聞いた途端、私の顔も多分真っ赤になった。


「『Honey sweet tea time』はりっちゃんのおかげで作曲出来た曲だから……。
ほら、『かがやけ!りっちゃんシリーズ』で、
りっちゃんがキーボードに挑戦した時があったでしょ?
あの時にりっちゃんがキーボードを弾いてくれて、どんどん曲のイメージが湧いて来て……。

そんな事は初めてだったし、それだけでも嬉しかったんだけど、
りっちゃんが初めて私を『ムギちゃん』って呼んでくれたのが、もっと嬉しくて……。
だからね……、私は『Honey sweet tea time』が一番好きな曲なの」


ムギの言葉が終わっても、私はしばらく何も言えなかった。
顔が熱いし、心臓がかなりの速度で動いてるのを感じる。
嬉しいとは思うんだけど、どう反応したらいいのか分からなかった。

私が初めてムギを『ムギちゃん』って呼んだ……。
直接言葉にしてそう呼んだ事は無いはずだけど、そういや覚えてる事がある。
高校三年の修学旅行前、ムギのキーボードを試してみた時、
私はキーボードの音色で『ムギちゃん』と聞こえるように弾いてみた。
深い意味は無かったし、思い付きでやってみただけだったんだけど、
ムギの中では心に強く残る思い出になる事だったんだ。
150 :にゃんこ [saga]:2012/02/21(火) 19:33:50.82 ID:2E5Cm4Az0
琴吹紬……、あだ名はムギ。
中学生の頃にどう呼ばれてたのかは知らないけど、
高校で一番最初にそのあだ名を付けたのは私だった。
澪とムギと私で軽音部の新入部員を待っていた頃、
何となく付けてみたあだ名だったけど、ムギがとても喜んでくれたのは覚えてる。

それくらい、ムギは私のした事を思い出にしてくれてるんだ。
それはとても嬉しいんだけど、とても照れ臭い。
珍しくムギが何度も言葉を止めたのも分かる。
こんなの流石のムギだって照れ臭いよ……。


「あの……、えっとさ……、ムギ……。
その……、何だ……」


ムギよりも遥かに照れ臭いのに弱いのが私だ。
多分、軽音部の中じゃ、一番褒められ慣れてないしな。
だから、何かをムギに伝えようとして、言葉が全然出せなくなっちゃっていた。
かっこわりー……。
ライブのイメージトレーニングなんかじゃ、
大勢のファンに駆け寄られても、クールに応対する練習してたんだけどなあ……。

ムギが頬を赤く染めたまま、私の次の言葉を待っている。
私は何かを言おうとして言葉にならなくて、頭の中がグルグル回っちゃって……。
気が付けば、一言だけ言葉にしていた。


「ありがとな……」


何に対しての『ありがとう』なのかは自分でも分からない。
褒めてくれて『ありがとう』なのか、
『Honey sweet tea time』を一番好きでいてくれて『ありがとう』なのか……。
自分でも全然理に適ってないと思ってしまう言葉だったけど……、
ムギはそれに対して、「うん!」と頷いて晴れやかに笑ってくれた。

そのムギの笑顔を見て、私は何となく考えていた。
そっか……。
多分、私が言った『ありがとう』は、
『今まで一緒に居てくれてありがとう』って意味だったんだ……。
何となく考えてみただけの事だったけど、それは間違ってない気がした。

うん、ありがとう、ムギ。
こんな状況だからってだけじゃなく、
ムギが今まで一緒に居てくれたおかげで楽しかったし、心強かった。
だから、本当にありがとうな……。

私はそれを言葉にせず胸に秘めて、ムギと並んでしばらく自転車を走らせる。
二人とも何も言わない。
言葉を失くしたわけでも、喋りたくないわけでもない。
二人とも、お互いが傍に居る事だけを、感じていたかったんだと思う。
たまに顔を合わせて、笑い合う。
それだけの事が、とても嬉しかった。
151 :にゃんこ [saga]:2012/02/21(火) 19:39:49.29 ID:2E5Cm4Az0


今回はここまでです。
Honey sweet tea timeはいい曲なんで、よく聴いてしまいます。
152 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:13:23.01 ID:vT0us/C50





「それにしても、よくあんないっぱいあったもんだよなー」


パンパンに膨らんだリュックサックを背負って、自転車を漕ぎながら私は呟く。
かなり肩に来る重さだけど、今後の事を考えると贅沢は言ってられない。
特にムギは私以上に大きなリュックサックを背負ってるんだ。
これで文句を言っちゃ罰が当たるってもんだ。


「非常時の事を考えて用意してくれてたらしいの。
そんなに必要なのかな? って前から思ってたんだけど、
実際こうして役に立つ日が来たんだから、人生、何が起こるか分からないよね」


ムギが苦笑しながら呟く。
その顔に少し元気が無いのは、
やっぱり誰の姿も無い自宅を目の当たりにしてしまったからだろう。
期待しちゃいけないって事は、ムギだって分かってたと思う。
これだけ捜しても、私達以外の姿は何処にも見つからないんだ。
自分の家族だけ無事に居てくれるって考えるなんて、都合が良過ぎる。

分かってる。
私だって分かってるつもりだった。
でも、我ながら馬鹿だなって思うんだけど、
自分の目で確認しなきゃ、期待や希望ってものは持ち続けちゃうものなんだよな。
私なんか自分の家族を自宅に見つけられなかったのに、
ひょっとしたら、ムギの家族だったら無事かもしれないって期待しちゃってたんだ。

ムギの家族は金持ちだ。
どれくらい金持ちなのかはしらないけど、
ただ事じゃないくらいの金持ちではあるらしい。
別荘だって何件も持ってるんだしな。
だから、私は馬鹿みたいな期待をしてた。
金持ちのムギの家族は前々からこの世界……、
まあ、国どころか県からも出てないから、他の地域の事は何も分からないけど、
とにかくこの世界から生き物が全て消失するって現象を予期してて、
今もその現象への対策を自宅の対策本部かなんかで練ってくれてるんじゃないかってな。

勿論、そんな事があるはずも無かった。
そりゃそうだ。
大体、こんな状況になる予期をしてたんだったら、
大切な娘のムギをみすみす外出なんかさせるかっての。
分かっちゃいたけど、期待せずにはいられなかった。
自分の力じゃどうにもならない気がして、他の力のある誰かに頼りたかったんだと思う。
こんな状況、自分達じゃどうする事も出来ないから……。
だから……、誰かに助けてほしかった。
誰かに救ってほしかったんだ……。
153 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:13:50.16 ID:vT0us/C50
でも、その期待は簡単に打ち崩された。
私の実家より遥かに大きくて、
執事やお手伝いさんなんかも大勢居るはずのムギの家にも、誰一人居なかった。
それどころか、ムギの家で飼ってるらしいミシシッピ何たらって亀の姿も一匹も無かった。
分かっちゃいた事だけど、
もう本気で私達以外の生き物はこの世界に存在しないのかもしれない。

無音が私の耳に届く。
いや、自転車の車輪の音と風の音くらいは聞こえるけど、そんなの音じゃない。
音だけど、音じゃないんだ。
音ってのはもっと……、そう、他の誰かや他の何かが立てる物音なんだと思う。
騒がしくて、やかましくて、嫌になる事もあるけど、
その一切が消えてしまった今じゃ、ほんの少しの雑音だって懐かしかった。
誰か他者の存在を感じたかった。

でも、そんなに落ち込んでるわけでもない。
事態が良くなったわけじゃないけど、
自分の置かれた現状が分からなかった時よりはずっとマシだと思う。
テストの結果を待ってる時と、テストの結果が出た後って感じかな。
変な例えなんだけどさ。

テストの結果なんて、自分がテストを解いた時点でもう決まってるのに、
テスト用紙が返ってくるまで、いい点であるよう神様に祈るなんて、誰だってやる事だと思う。
私なんか大学受験の時は、結果が出るまで神様にずっと祈ってた。
結果が分からない時ってのは、それくらい変な期待に満ち溢れちゃうもんなんだよな。
だから、同時に不安にもなる。
期待をするから、そうじゃなかった時の心配もどんどん膨らんでく。
それに押し潰されそうになる事もある。

でも、良い結果でも、悪い結果でも、出てしまえばそれは単なる結果なんだ。
最悪な結果でも、出ないよりはずっとマシなんだと思う。
町をずっと回って、ムギの家を訊ねてみて、
少なくとも市内には誰一人居ないのは間違いなさそうな感じになってきた。
嫌な調査結果だけど、そのおかげでこれからの事を考えられるって事でもある。
落ち込んでる暇なんか無い。

それに私には、まだ大切な仲間が居るんだからな……。
負けてられないよな……。
私は微笑んで、ムギにもう一度話し掛けてみる。
154 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:14:17.89 ID:vT0us/C50
「だけど、ムギも寂しがりだよなー。
自分のキーボードを使いたいからって、電池を取りに行くなんてさ」


「えへへ、ごめんなさい……。
だって、皆は電気が通ってなくても楽器を弾けるのに、
キーボードだけはどうしても電気が無いと弾けないじゃない?
皆が演奏してるの見てて、自分だけ演奏出来ないのは寂しかったんだもん……。
音楽室にはピアノが置いてあるにはあるんだけど、
音色は違ってくるし、やっぱりね……、私は自分のキーボードが弾きたかったの。
これって我儘……かな……?」


視線を落とし、寂しそうに苦笑するムギ。
私は自転車のペダルを漕いでムギに並び、軽くその頭を撫でた。


「我儘だなんて、そんな事無いって、ムギ。
ミュージシャンとしては、むしろ我儘なくらいで問題無しだし!
それより私達も自分達の事ばっかり考えちゃってたみたいでごめんな。
そうだよな。キーボードは電気が通ってないと弾けないもんな……。
内蔵電池式ってのもたまにあるみたいだけど、それにしたって充電しなきゃいけないもんな。
それに気付けなくて、私の方こそごめん。

だからさ、帰ったらムギのキーボード聴かせてくれないか?
考えてみたら、ずっと一緒に練習はしてたけど、
ムギのソロのキーボードはあんまり聴く機会が無かった気がするしな。
まずはハニースイートを聴かせてほしいよ。
ムギの口笛聞いてたらさ、本家本元を聴きたくなっちゃったんだよな。
勿論、ボーカル付きでもいいぞ。

そうだ。折角だし、ムギのワンマンライブってのも楽しそうだよな。
報酬は今日の夕食でムギの好きなおかずを一品増しってのはどうだ?
と言うか、もうムギの好きなおかずを一品増しにする事は決めたから、
ワンマンライブを開催してくれなきゃ、
報酬だけ受け取っちゃったって後味の悪さを、ムギが感じる事になるんだけどな」


「もう……、りっちゃんたら強引なんだから……。
でも、いいよね。ワンマンライブ、すっごく楽しそう!
三日ぶりだから上手く弾けないかもしれないけど、私、頑張ってみるね。

あ、そうだ!
それなら、私、りっちゃんのワンマンライブも見てみたいな。
私、りっちゃんのドラム、大好きだもん」


「私のワンマンライブ……?
あ、いや……、別にいいんだけどさ……。
でも、キーボードならともかく、
ドラムスのワンマンライブなんて、多分つまんないぞ?
まあ、世界にはドラムスでワンマンライブやれてるミュージシャンも居るけど、
その人達はワンマン用の曲を準備してて、そのテクニックを持ってるわけだしな……。

知っての通り、私が叩けるのは皆で演奏する用の放課後ティータイムの曲だぜ?
そんな面白味の無さそうなやつでいいなら、やってもいいけど……」
155 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:16:21.84 ID:vT0us/C50
私が呟くみたいに言うと、ムギが急に真剣な表情を浮かべた。
強い視線を私の方に向けて、強い言葉で話を続ける。


「ううん、つまんないなんて、そんな事無いよ、りっちゃん。
私、セッションしてる時に聴いてるりっちゃんのドラムの音、大好きだもん。
一度、セッション中じゃない時に、落ち着いた気分で聴いてみたかったんだ」


「そう……なのか……?
そっか……。
おっし、わかった!
だったら、ムギちゃんために、りっちゃんのワンマンライブを開催しようじゃんか。
『ゆいあず』ならぬ『りつむぎ』ユニットの結成だぜ!
ユニットっつっても、一緒に演奏するわけじゃないけどな!」


私がニヤリと不敵に微笑んでやると、ムギも不敵な表情を浮かべた。
目尻を細め、口元を悪人っぽく歪める。
出会った頃には想像も出来なかったムギの崩れた表情。
ムギもこういう顔が出来るようになったんだな、って思うと、何だか笑えてくるし楽しい。
まあ、隠し芸でマンボウとか変な顔をする事はあったけどさ。

と。
不意に私は重要な事を思い出し、ムギに真面目な顔を向けて言った。


「ライブもいいんだけどさ……。
ムギに一つお願いがあるんだが、聞いてもらえるか?
とても重要なお願いなんだ……」


「重要なお願い……?
う、うん……。
私に出来る事なら何でも言って、りっちゃん……!」


「それは助かるよ……。
実はな、ムギ……」


私は言葉を止める。
深呼吸をして、結構勿体ぶってから、私は続けた。
重要なお願いをムギに伝えるために。


「学校に戻ったらさ……。
………。

肩、揉んでくんないか?
流石に電池が満杯に詰まったリュックは重いわ、マジで。
肩が痛くなって来ちゃって、結構きついんだよなー」


言った後、「きゃはっ!」って可愛い子ぶってから、ムギにピースサインを見せる。
ムギが少し呆けた表情になったけど、
すぐに「りっちゃんったら……」と苦笑しながら呟いた。
156 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:17:50.58 ID:vT0us/C50
よかった。笑えてもらえたみたいだ。
少しはムギの気が晴れてたら嬉しい。
勿論、これはムギを笑わすために言った冗談なんだけど、
実を言うと、ほんのちょっだけ冗談じゃなかったりする。

いやー……、流石に単一、単二、単三、単四全部で五百本を超える電池は重いよ。
学校に戻ったらしばらく休んで、本当に誰かに肩を揉んでもらいたい。
そりゃ、今後の事を考えると、電池は必要な物なんだけど、
でも、それにしても、単二電池なんて久し振りに見たな……。
小学校の理科の授業で先生が持って来た以来じゃないか?
流石は琴吹家。
準備がいいと言うか何と言うか……。
まあ、単二電池を使う機会は、これからも絶対に無い気がするけどな。

ちなみに私より大きいムギのリュックの中には、
ただの電池だけじゃなくて、変圧器や蓄電池も入ってる。
キーボードを使うには単なる電池じゃ駄目なのは分かってるけど、
まさか蓄電池や変圧器なんかも用意してるなんて、やはり恐るべし琴吹家。
金持ちをやるにはそれくらいの用意周到さが必要なのかもな。


「分かったわ、りっちゃん」


急にムギがまた真剣な表情を浮かべて言った。
私より遥かに重いリュックを背負ってるのに、それはそれは力強い表情だった。


「学校に戻ったら、私、りっちゃんの肩を思い切り揉むね!
大丈夫、心配しないで。
こんな時のために、お家で誰かの肩を揉む練習してたから!
私、友達の肩を揉んであげるのって、一度やってみたかったの!」


「そ……、そうか。ありがとう、ムギ……。
お手柔らかに頼むな。
くれぐれもお手柔らかに頼む……」


くれぐれも、本当に、くれぐれもお手柔らかに頼みたい。
ムギって力持ちだからなあ……。
あんまり力を入れられると、逆に酷い事になりそうだ。
自分から頼んでおいて何なんだけどさ……。
でも、練習してたって言ってるから、多分、大丈夫かな。
ムギはそういう気配りは出来る子だから、心配する事は無いはずだ。

そんな風にムギの事を考えていると、いつの間にか私は微笑んでたみたいだった。
その私の表情に気付いたのか、ムギがまた静かに言葉を続ける。


「そうだ、りっちゃん。
りっちゃんの肩を揉む代わりに、私も一つお願いをしていい?
一つだけ……、りっちゃんに大切なお願いがあるの……」
157 :にゃんこ [saga]:2012/02/23(木) 20:18:29.33 ID:vT0us/C50


今夜はここまでです。
単二電池、見かけませんね。
158 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/23(木) 20:58:14.90 ID:qE+/Ic1Xo
159 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/25(土) 13:25:22.13 ID:pa5IzjEDO

大型の目覚ましなんかは単二のものもあるよね
160 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:41:28.27 ID:60mH76PP0
「何だ?
うん、いいぞ。何でも言ってくれよ、ムギ。
肩を揉んでくれるお返しだ。出来る限りのお願いなら聞くぞ」


私はムギに笑い掛ける。
ムギの大切なお願いなら、聞かないわけにはいかない。
ムギには普段からずっとお世話になってるんだもんな。
肩を揉らうお返しじゃなくたって、ムギのお願いなら何でも聞いてあげたい。

ムギは小さく息を吸い込む。
深呼吸してるんだろう。
そのお願いを口にするのを、結構躊躇ってるみたいだ。
そんなに言いにくいお願いなんだろうか……?
まさか、憂ちゃんとの馴れ初めを教えてほしい、とかってお願いじゃないよな……?
そういやムギの誤解も解けてない事だし、そういうお願いもある……のか?

つい変な事を考えちゃった私だけど、
それからムギは、そんな私の考えとは全然異なった真剣な言葉を口にした。


「あのね、りっちゃん……。
私が言う事じゃないと思うんだけど……、
こんな事、私に言われなくたって、りっちゃんなら分かってると思うんだけど……。
でもね……、私の我儘だと思って聞いてほしいの。

ねえ、りっちゃん……。
あの……ね……、澪ちゃんのね……、傍に居てあげてほしいの……。
りっちゃんが傍に居れば、澪ちゃんももっと安心出来ると思うし……。
だからね……」


言葉を止めて、ムギが視線を伏せる。
漕いでいたペダルも止めて、その場……道路の真ん中に自転車を停める。
ムギより少しだけ前に行っちゃってた私も、
自転車を停めて、ゆっくりとムギの表情を覗き込む。
ムギはとても不安そうな表情を浮かべていた。
その表情には「言っちゃった……」って書いてあるように思えた。

ムギが言葉通り、それはムギが言う事じゃない。
ムギに言われなくたって、私にも分かってる。
私は澪と話をするべきなんだって。
傍に居て、また今朝の挨拶程度じゃなくて、
もっと笑い合えるように努力するべきなんだって。
分かってる。分かり切ってるし、実際にも今晩に澪と話そうと思ってた。
そんなの、ムギに言われる事じゃないんだ。

ムギもそれを分かってる。
自分がそれを口にするべきじゃないのかもしれない、って思ってる。
だから、不安と後悔に溢れた表情を浮かべてるんだろう。

私はムギの言葉に腹が立った。
そんな事、ムギに言われるまでもない……。
腹が立って、拳を握って、不安そうなムギに向けて言葉を届けた。
161 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:42:19.93 ID:60mH76PP0
「ああ……、そうだよな……。
澪の奴の傍にも、居なきゃいけないよな……。
あんなに不安そうにしてる幼馴染みの傍に居ないなんて、駄目だよな……。
ごめん、ムギ。嫌な事、言わせちゃって……」


言い終わってから、ムギに頭を下げる。
そうなんだよな。
ムギに言われなくたって、澪の傍に居るべきなんだって事は分かってる。
今晩、話をしようとも思ってた。
だけど、ムギに言われなきゃ、それは思うだけだったかもしれない。
いや、多分、そうだったと思う。

私って頭で分かってても、行動に移せない事が結構ある。
勉強しなきゃと思いながら遊んじゃいがちだし、
受験する大学の事も全然考えてなかったし、
前に澪と喧嘩した時も、謝ろうと思いながらも自分から謝りにはいけなかった。
今だって……。

今朝の事を思い出す。
和、純ちゃん、梓、憂ちゃん……。
皆、私と澪の事を心配して、話しに来てくれたんだろうと思う。
勿論、動機の全てってわけじゃないんだろうけど、何割かはそうなんだろうな。

だから、私は腹が立って仕方が無い。
勿論、何も出来てない自分自身に対してだ。
皆に気を遣わせて、心配させて、澪にも不安な気持ちを抱かせたままで……。
元とは言え、部長の私が何やってんだよって話だよな……。


「謝らないで、りっちゃん……。
謝らなきゃいけないのは私の方なんだから……。
勿論、澪ちゃんの事は心配。
澪ちゃんにはまたりっちゃんと二人で、いつもみたいな笑顔を見せてほしい。

でもね……、それだけじゃないの……。
私、りっちゃんと澪ちゃんが一緒に居ないのが嫌で、
それが恐くて、自分が不安なのを我慢出来なくて……、
だからね……、りっちゃんと澪ちゃんの問題なのに、
こんな事、口をするべきじゃなかったのに、私……」


ムギが辛そうな表情を浮かべて、私に頭を下げる。
確かに当人同士の問題に口を出しちゃいけない、ってのは一般常識だ。
本当はそんな事に第三者が口を挟むべきじゃない。
でも、それだけ私達の……、
いや、私の行動が見るに堪えなかったって事でもあるんだよな。

確かに私は澪から逃げてた。
澪に何を言えばいいのか分からなくて、
あいつを余計傷付けないようにって言い訳して、あいつから遠ざかってた。
言い訳して、逃げてたんだ。
一番恐がってるはずのあいつをほっぽり出して、自分が傷付かないように……。
162 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:42:47.49 ID:60mH76PP0
「いいよ、ムギ。
こっちこそ、ごめんな。
言ってくれて、ありがとう」


私は自転車から降りて、ムギの方まで歩いていく。
ムギは長い髪を震わせて、まだ不安そうにしていた。
歩み寄りながら、私はもう一度口を開く。


「ムギの言う通りだと思うよ。
伝える言葉が思い付かなくても、澪とはもっと話しとくべきだった。
頭じゃ分かってたんだけどさ、私も恐かったんだな、結局の話……。
不安に怯えてるあいつを前にして、
もっと不安にさせちゃったらどうしようってさ……。

でも、それじゃ駄目なんだよな。
怯えてるのは澪だけじゃなくて、逆に私の方が澪よりも怯えてるのかもな……。
澪の奴だけどさ……、本当に困った奴だよな。
皆、恐いのに真っ先に怯えちゃうしさ、
今だけじゃなくて、普段から駄々こねてばっかりだし……。

だけどさ……、
澪が真っ先に恐がってくれるから、
私達が妙に落ち着けるってのもあるよな。
澪が慌てたり恐がったりすると、何だかすごく落ち着かないか?
澪も別に意識してやってるわけじゃないんだろうけどさ」


話している内に、私は無意識に軽く笑っていた。
ちょっとした事でも不安がって怯える澪の姿を思い出す。
怪談どころか、自分でも他人でも誰かの擦り傷程度の怪我でも大騒ぎする澪。
ジンクスやトラウマも苦手。
恐い事が苦手で、駄々っ子で、ああ見えて子供っぽい所もまだ沢山残ってる。

そういや、小学生の頃に公園で遊んでる時、
登った木から落ちて骨を折った事があったっけ。
あの時は澪が大騒ぎして、大声出して、大泣きしてた。
骨を折ったのは私だったんだが。

澪の奴、「りっちゃんが死んじゃうよう!」とか泣きながら叫んでたんだよな。
いや、死なねーよ、左手の人差し指が骨折したくらいで。
澪が大騒ぎしてるせいで、
別の友達が呼んで来てくれた私の母さんが、
私と澪のどっちが骨折したのか迷ってたくらいだったし……。
まったく、色々と騒がしい奴だよ……。
163 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:44:40.12 ID:60mH76PP0
でも、澪が大騒ぎしてくれたおかげで、骨折した私の方は落ち着いてた。
痛いはずなのに、慌てる澪の姿を見てたら、そんな痛さなんか吹っ飛んじゃってた。
誰かに先に慌てられたら、傍から見てる人間は冷静になっちゃうってのは本当だよな。
何となく、澪にはそういう強さ……、じゃないか、強味がある奴だって感じる。
恐い事を素直に恐がれる事も強味の一つなんじゃないだろうか。

気が付けば、ムギも少し微笑んでるみたいだった。
私の骨折の話を知ってるわけじゃないだろうけど、
私の話の中に思い当たる事がいっぱいあったんじゃないかな。
私はムギから一メートルくらい離れた場所で足を止め、ムギの次の言葉を待つ事にした。
少し経って、「そうだね」とムギが笑って言った。


「澪ちゃんには悪いなって思うんけど、私もりっちゃんの言う事が分かるな。
澪ちゃんが緊張したり恐がってくれると、何か肩の力が抜けるよね。
実はね、高一の学園祭の時なんだけど、私もすっごく緊張してたの。
ピアノの発表会なら何度か経験もあったんだけど、
ライブは初めてだったし、雰囲気も全然違うじゃない?
だから、口にはしなかったけど、すっごく恐かったな……。

でも、私なんかより澪ちゃんの方がずっと緊張してたし、不安な表情も見せてくれてたよね?
そんな澪ちゃんを見てるとね、安心出来たんだ。
緊張してるのは私だけじゃない。
不安なのは私だけじゃない。
澪ちゃんも緊張してるし、きっと唯ちゃんもりっちゃんも緊張してて不安なんだって。
そう思えたから、高一の学園祭も頑張れたの。

勿論、今だってそう。
澪ちゃんが一番に恐がってくれたおかげで、私も少しだけ落ち着けたの。
澪ちゃんが恐がってくれなきゃ、もしかしたら私の方が閉じこもってたかも……」


それはムギだけじゃないって思った。
私にも、多分、他の皆にも同じ事が言える。
和……はどうかは分からないけど、
それ以外の皆なら、澪と同じ事をした可能性があったはずだ。
澪が閉じこもらなきゃ、私だってどう転んだか分からない。

ムギと二人で顔を合わせて苦笑する。
昨日までの澪の姿は、あったかもしれない私達のもう一つの姿なんだ。
だからこそ、私も澪じゃなくて、
もう一人の自分を不安にさせたくなくて、澪と話せなかったのかもしれない。

話そう、と思った。
今晩、本当に真剣に澪と話そう。
事態が好転するとは限らないけれど、逃げたままでもいられないしな。
それに梓との約束もある。
放課後ティータイムの再結成……。
そのためには逃げたままの私じゃ駄目なんだ。
色々な事がいい加減な私ではあるけど、
皆とのセッションだけは真正面から真剣に向き合いたい。

そういう事を考えていたせいか、
私が真面目な顔になってたんだろうと思う。
ムギも苦笑をやめて真面目な表情になって、ある意味ムギらしい事を言った。
164 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:45:12.92 ID:60mH76PP0
「学園祭の時にね、落ち着けたのは澪ちゃんのおかげだけじゃないんだ。
私が落ち着けたのは澪ちゃんと、いつもよりも楽しそうな唯ちゃん……、
それと勿論、澪ちゃんや私達を安心させようとしてくれてるりっちゃんが居たから。
りっちゃんや、皆が居てくれたからなんだよ……。

そうだ。
ライブ直前、りっちゃんがやってくれたMC、今でもはっきり覚えてるんだよ。

「ドラムー! 容姿端麗! 頭脳明晰!
爽やか笑顔で幸せ運ぶ皆のアイドル! 田井中律ぅ!」。

どう? ……似てるかな?」


うん、似てる。
しかも、声色だけじゃなくて、その時に取ったポーズまで完全再現してる。
結構前の話だからはっきりとは覚えてないけど、確かそんなポーズをした気がする。
しかし、完全再現過ぎるだろ……。
ひょっとしたら、ムギの奴、誰かに見せようと思って、家で練習してたんだろうか。
いや、そんな事より……。


「やめてくれー……。
思い出させるなー……」


顔を手で押さえて俯き、呻くみたいにムギに訴える。
やめてくれ。
マジでやめてくれ。
私達が居たから落ち着けたってムギの言葉は嬉しいけど、とても照れ臭い。
それ以上に、昔の自分の行動を間近で見せられるのは本気で恥ずかしい。
三年前の私って、こんな恥ずかしい事をやってたのか……。

後悔はしてないし、あの時はそれでよかったんだって信じてる。
でも、三年前の私と今の私じゃ、色々と違って来てる所もあるからなあ……。
昔の自分を見せられる事ほど、恥ずかしい事もそうはない。
特にこれって小学生の頃の卒業文集を読まれるようなもんだろ……。
そういや、卒業文集には何て書いたんだっけ?

あ、やべ……。
卒業文集はまだマシな事を書いてた気がするけど、もっとやばい事思い出した。
小三くらいの頃に書いた『しょうらいの夢』って題材の作文だ。
確かあれに、『みおちゃんのおむこさん』って書いたんだよな、私……。

いや、その……、何だ……。
あの頃は澪と仲良くなり始めたばかりで、
それこそ澪とはずっと一緒に居た頃に書いた作文だったんだよ。
いつも一緒に居て、澪とは大人になってもずっと一緒に居る約束なんかしてて、
それで単純にずっと一緒に居るためには、二人が結婚したらいいって話になって……。
でも、女の子同士だと結婚出来ないから、
「じゃあ、私がみおちゃんのおむこさんになる!」って私が言ってたんだ……。

うああああああああ!
もいっちょ、うああああああああ!
しかも、確かその作文、母さんに保管されてたんだった……!
中学三年生の頃、私が受験勉強もせずに遊んでばかりいた時、
業を煮やしたのか、母さんが突然あの作文を使って脅迫を始めたんだよな……。
私の部屋を掃除してた時に見つけたらしく、
何かに使えると思って保管しておいたんだとか何とか。
なんつー母親だ……。
165 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:48:14.95 ID:60mH76PP0
「これを澪ちゃんに公開されたくなかったら勉強しなさいよ」って、
途轍もなく意地の悪い笑顔を浮かべてた母さんの顔を思い出すと、未だに寒気がするぜ……。
こんな作文、澪に見せられたらどうなるか分かったもんじゃない。
多分、十発くらい澪に殴られるな……。
流石にこの作文を覚えてるって事は無いだろうけど、もしも覚えてたらそれも困る。
まあ、それで猛勉強を始める事になったおかげで、
桜高に入学出来たってのもあるかもしれんが、それはそれ、これはこれ。

しかし、ムギの奴も人の古傷を抉ってくれるな……。
いや、作文とムギは関係無いんだけど、
思い出したくない過去をちょっと思い出したら、
芋づる式に他のトラウマがどんどん蘇ってくる事ってありますよねー……。
ムギに悪気が無い事は分かってるんだけどな……。

でも、今晩、澪と話す事だけはこれで確定だ。
澪のためだけじゃなく、私のためだけでもない。
放課後ティータイムのために、皆のこれからのために、澪と私は話すべきなんだ。
そう思わせてくれたのはムギのおかげだ。
私は自分の顔を押さえていた手を外して、口を開く。


「MCの話はともかくとして、ムギのおかげで澪と話せそうな気がしてきたよ。
ムギ、あり……」


ありがとう、と言おうとしたけど、それ以上言葉にする事が出来なかった。
一瞬にして、異様で当然の光景が私の視界に飛び込んで来たからだ。
一陣の風が吹いたわけじゃない。
何の前触れもなく、その異変が起こっていた。

音がする。
ついこの前まで耳にしていた人々の生活音。
人の足音、生き物の気配。
人の……声……。

驚いた私は、急いで首を動かして周囲を見回す。
そこには人が居た。
人だけじゃない。
猫や犬、カラスも当たり前みたいにこの世界に存在していた
そして、見覚えのある顔が歩道にあって……。
あれは……、いちごと晶か……?
二人で道路脇で何をしてるんだ……?
二人は知り合いだったのか……? 
いや、そんな事よりも……。

これは……、何だ……?
夢……なのか?
白昼夢?
明晰夢?
夢って……、どっちが夢だ?
誰も居ないはずの世界に、人間が居たって願望の夢を見てるのか?
それとも、元々の世界で、一切の生き物が消えてしまったって悪夢を見てたのか?

分からない……。
何も分からない……。
どうしようもなく不安になって、私は目の前のムギに視線を向ける。
ムギも呆然としていた。
大きな目を更に見開いて、今起こってる事に混乱してるみたいだった。

と。
不意にこれまで聞き慣れてたはずの懐かしい音が響いた。
耳障りだけど、安全の為にもなってる騒音……、自動車の排気ガスの音。
自動車……?
そこで私は迂闊にもやっと思い出した。
私達は今、道路の真ん中に居るんだって事に。
166 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:49:28.65 ID:60mH76PP0
騒音の方向に急いで視線を向ける。
騒音の正体はすぐに見つかった。ムギの五メートルくらい後方……。
私達の姿に気付いていないのか、速度が全く落ちていないトラックが……。


「ムギっ! 危ないっ!」


気付けば、私はムギに走り寄り、飛び掛かっていた。
何が起こったのか、何が起こってるのか分からない。
そんな事よりも、今はムギの身の安全の方が何億倍も大事だ!

ムギを腕の中に抱えながら、自転車を倒しながら何とか路傍に飛び込む。
自転車が倒れる大きな音が響く。
夏のアスファルトに肘から倒れ込み、皮が擦り剥けるのを感じる。
熱くて痛いが……、今は痛くない!
痛くないんだ!
今はトラックから身を隠す方が重要……。

だけど、その瞬間、妙な違和感に襲われた。
音が響いていない事に気付く。
さっきまで世界を包んでいたはずの音が。
人の声も、生活音も、カラスや猫の鳴き声も、
うるさいほど響いていたはずのトラックのエンジン音も……。

アスファルトの上、
ムギを腕の中に庇いながら、頭を振って辺りを見回してみる。
当然と言うべきなのか。
どっちが異常で、どっちが正常なのか。
とにかく、生き物の姿は当たり前みたいに、この世界からまた消え去っていた。
まるで私とかくれんぼでもして遊んでるみたいに。
167 :にゃんこ [saga]:2012/02/25(土) 19:53:42.82 ID:60mH76PP0


今回はここまでです。
澪が出てないのに澪の話になりました。
話もやっと進み始めました。よろしくお願いします。


>>159

そうなんですか。
情報ありがとうございます。
168 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/26(日) 08:31:48.21 ID:MWm6YfAIO
乙!
前作も楽しく読ませて頂きました!
169 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/02/27(月) 01:33:16.97 ID:mvFHpprho
おお・・・少し話が動いた
170 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:07:36.43 ID:gcrOS0dK0
何が起こってるんだ……?
これは私の願望が見せた夢なのか……?
どっちが現実で、どっちが夢なんだ……?

頭が混乱する。
分かってた事のはずなのに、身体中に震えを感じて、叫び出したくなる。
実際、心の中じゃ、絶叫してた気がする。
何が何だか分かんなくて、思い切り叫んでやりたかったんだ。

でも、実際にはそうしなかった。
何とか叫び出さずに踏み止まれたのは、腕の中の違和感に気付けたからだ。
当然、私の腕の中にはムギが居る。
いきなり飛びかかったにしては、何とか怪我もしてないみたいだ。
でも、今のムギの肌の感触は、
これまで何度か抱き着いた事があるムギの肌とは、全然違う感触だったんだ。

冷え切ってる、って思った。
夏なのに、炎天下のアスファルトの上なのに、
しかも、一家に一台欲しいって言われるくらい体温の高いムギなのに、
その肌と、多分、その心も冷え切っていた。
冷たいムギの肌の感触が、私の頭も冷静にしていく。

駄目だ……。
このままじゃ駄目だ……。
澪が怯えてたみたいに、ムギだって自分の置かれた状況に怯えてるんだ。
私だって恐いし、逃げ出したくなってる。
でも、逃げてちゃ、間違いなく、もっとひどい事になってしまう。
何とか……。
何とかしなきゃ……。


「ごめんね、りっちゃん……」


私の腕の中で、ムギがとても申し訳なさそうな表情を浮かべて呟いた。
泣き出しそうにも見えるくらいだった。


「聡くんの自転車、傷付けちゃったね……。
ごめん……、ごめんね……。
私が聡くんの自転車に乗りたいなんて、我儘言っちゃったから……」


「そんな事……っ!」


思わず大声になっていた。
そんな事、ムギが気にする事じゃない。
自転車を倒したのは私だし、傷付いたって言っても見る限りはほんの少しだ。
聡だってそんな程度の傷じゃ怒らないだろうし、
もしも怒ってしまったら、私がバイトでも何でもして新品を買ってやる。
大体、そもそもの原因は、こんな異常な状況に何も出来ないのが悔しくて、
車道の真ん中を走ってやろうってなけなしの反抗を思い付いた私にあるんだ。
ムギが気に病む必要なんて何処にも無いんだ。
171 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:08:12.25 ID:gcrOS0dK0
だから、言った。
辛そうな表情のムギの両肩を掴んで、真正面から瞳を覗き込みながら伝えた。


「いいんだよ、ムギ。
自転車が傷付いた事なんて気にしなくてもいいんだ。
そんな事より、ムギが無事な事の方が何倍も大切なんだよ。

だから、そんなに自分を責めないでくれ。
そもそも最初に道路の真ん中を渡ってやろうなんて、
馬鹿な事を思い付いちゃった私が悪いんだから……。

だから、さ。
ムギが無事で、ムギがトラックに轢かれなくて、本当によかった。
私のせいでムギに怪我をさせる事にならなくて、本当によかったんだから……。
もうそんな事は気にしなくていいんだよ。
聡に怒られたら、ちゃんと私が謝るから、ムギは何の心配もしなくていいんだよ……」


もしも、本当にまた聡に会えたら、とは言わなかった。
今はそんな事を言う時じゃない。
今はムギをもっと安心させてやらなきゃいけない時なんだ。
こんなに冷え切っちゃてるムギの体温を、取り戻してやらなきゃいけない時なんだ。

だから、私はちょっと苦笑しながら言った。
わざとらしかったかもしれないけど、ムギには笑顔を向けたかった。


「それにさ、謝るのは私の方だよ、ムギ。
ムギが倒れちゃったのも、
自転車を倒しちゃったのも、私がムギに飛び掛かったからじゃんか。
大体、トラック何処かに消えちまったし……。
これじゃ私の早とちりって言われても仕方が無いよな。

だから、ムギはむしろ被害者なんだよ。
悲しそうな顔をする必要なんてないんだぜ?
そうだな……。
逆に怒ってさ、澪みたいに私の頭を叩いてくれていいんだ。

思い出してみたら、
私がムギを叩いた事はあったけど、
ムギが私を叩いた事なんて無かった気がするしな。
いいぞ、気の向くままに叩いてくれよ」


私の言葉にムギが戸惑った表情を見せる。
私を叩こうか迷ってるんだったら、全然嬉しい事だった。
いくらでも叩いてくれていい。
でも、残念ながら、ムギが戸惑った表情を浮かべた理由はそうじゃなかったらしい。
ムギが確かめるみたいに小さく呟いた言葉から、それは分かった。


「トラック……、少しだけ見えた町の人達……、猫、犬……。
あれは……、何だったの……?
りっちゃんも見えてたわけだから、夢……じゃないよね……?
勿論、錯覚や幻想でも……。
だったら、あれは……」
172 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:08:47.10 ID:gcrOS0dK0
それについては私も無責任な事は言えなかった。
生き物の姿を見たのが自分一人だけなら、夢や妄想だって事で片付けられた。
夏の熱が見せた蜃気楼って事にしても問題無いくらいだ。
でも、ムギも見てるとなると、話は全然変わってくる。
異常事態の中に起こった異常事態とでも言うんだろうか。
ひょっとすると……、って思った。

ひょっとすると、この世界と生き物が存在する世界が重なった……?
朝話した時に和は否定してたけど、
やっぱりこの世界はパラレルワールドで、
不意のきっかけで私達が元居た世界と重なり合って……、とか?

そこまで考えてから、私はもう一度辺りを見回してみる。
また私達の元居た世界と重ならないかなって、期待と願いも込めて。
瞬間、私は息を呑んだ。
残念だけど、私達の他に生き物が見つかったってわけじゃない。
でも、それくらいの事に気付けた気がしていた。
この状況を解決するための糸口を、やっと掴めたのかもしれない。

気付けたのはとても単純な事だった。
場所だ。
今、私達が居るのが偶然にも……、
いや、多分、偶然じゃないと思うんだけど、
とにかく、とても見覚えのある場所だったんだ。

高校に通っていた時、
いつも軽音部の皆と待ち合わせをしてた横断歩道……。
つまり……、一陣の風が吹いて、
生き物の姿が消えてしまった因縁の場所だったんだ。
これが偶然だなんて、私はとても思えない。

だから、私は考えた。
もしかすると、この場所には何かがあるんじゃないかって。
異世界同士を繋ぐ門みたいな物があるんじゃないだろうかって。
そうだよ……。
多分、私達は何かのきっかけで、
その門を通り抜けちゃって、こんな世界に迷い込んだんだ。
だとしたら、門を通り直せば、元の世界に戻る事が出来るはずなんだ。

解決の糸口はこれかもしれなかった。
多分……、いや、きっと、これが現状の打破の糸口になるはずだ。
糸口になってほしいと思う。
そうでなきゃ、皆、こんな状況に耐え切れない。

気分が高揚して、胸が高鳴るのを感じる。
やっと、ささやかだけど希望を見つけられたんだ。
そりゃ胸が高鳴るってもんじゃないか。
大発見(だと思う)に心が落ち着かない。
とりあえず、これを伝えればムギだって喜ぶはずだ。
これでまたムギの笑顔が見れるんだ……!

ちょっとだけ深呼吸をしてから、私はもう一度ムギに視線を向ける。
今すぐにでもムギを笑顔にしてやりたかった。
ムギの笑顔が見たかった。
だから、私の発見をムギに伝えたかったんだけど、
それよりも先に、ムギが予想以上の大きな声を出していた。
173 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:09:32.38 ID:gcrOS0dK0
「ああっ!
りっちゃん、大変!」


「ど……、どうしたんだよ?」


「りっちゃん、肘から血が出てるじゃない!
皮まですっごく剥けてるし、早く手当てをしないと……!
私、絆創膏持ってるから、ちょっとだけ待ってて……!」


ムギに言われて思い出した。
ムギに飛び掛かった時、確かに私は肘を擦り剥いてた。
結構、思いっ切り飛び掛かってたからなあ。
下手すりゃ、ムギが地面に頭をぶつけてたかもしれなかったくらいだ。
私が肘を擦り剥いたくらいで助かったよな……。

その怪我だって、別に大した怪我じゃない。
剥けた皮が大袈裟に垂れちゃってはいるけど、
よく見ると見事に表面だけが剥けちゃってるだけみたいだ。
血だってそんなに出てるわけじゃない。
だから、必死に絆創膏を探すムギに、私は不敵な笑顔を向けて言った。
心配する必要なんて無いんだって事を伝えるために。


「大丈夫だよ、ムギ。
そんなに痛いわけじゃないし、唾付けときゃすぐに治るって。
実際に唾を付けた事は無いけどな。
それより、私さ、気付いた事が……」


「駄目だよ!」


突然、私の言葉が今まで聞いた事が無いくらい大きなムギの声に遮られた。
予想外の事態に私は思わず言葉を失う。
強い言葉に驚きながらムギの顔に視線を向けると、
さっきまで以上に泣き出しそうな表情を浮かべてるみたいだった。
その表情のまま、ムギが掠れた声を絞り出す。


「駄目だよ、りっちゃん……。
りっちゃん、今、怪我をしてるんだよ……?
しっかり治療しないと、駄目だよ……。
りっちゃんの言う通り、そんなに痛くない怪我なのかもしれない。

でもね……。
もし悪化しちゃったら……、もし破傷風にでもなったらどうするの……?
破傷風に感染すると……、死んじゃう事だってあるんだよ……?」


「破傷風ってそんな大袈裟な……」
174 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:10:06.29 ID:gcrOS0dK0
「うん……、大袈裟なのは分かってる……。
だけどね、感染する可能性はあるんだよ……?
それは一万分の一くらいの可能性かもしれないけど、
例え一万分の一の可能性でも、私、耐えられないよ……。

だって、今はお医者さんが居ないんだよ?
治療出来る人が誰も居ないの。
和ちゃんや憂ちゃんなら色々分かるかもしれないけど、
でも、やっぱり本格的な治療は出来ないと思うの。

大袈裟でも、私、恐いの……。
一万分の一でも、りっちゃんが死んじゃう可能性があるなんて、嫌だよ……。
考え過ぎだって分かってるけど、恐くて恐くて、どうしようもなくなるの……」


確かに考え過ぎだ。
そんな事、滅多に起こる事じゃない。
それこそ一万分の一どころか百万分の一くらいの可能性だって思う。

でも、ムギの言う事は痛いほどよく分かった。
医者が居ない。
助けてくれる人も居ない。
何かが起こっても、自分達だけで何とかするしかない。

そう考えた途端、寒気がした。
ムギの身体が冷え切っちゃうのも分かった。
人が誰も居ないってのは、私が考えてたほど簡単な話じゃなかったんだ。
病気や怪我をしてしまったら、人が居た頃の何倍も危険なんだ。
普通なら死ぬはずがない病気でだって、簡単に死んじゃう可能性が増えるんだ……。

恐かった。
勿論、自分が死ぬ事もそうなんだけど、
それ以上にムギ達の死ぬ可能性が、今までよりも遥かに増えてしまってる事が。
今現在、私達がそんな世界に生きてるんだって事が……。


「ごめん……。
ごめんな、ムギ……」


頭を下げて、ムギに謝る。
ちょっとした発見にはしゃいでしまって、
ムギの気持ちに全然気付けてなかった自分が嫌になった。
私の発見は、ひょっとしたら元の世界に戻るきっかけに出来るのかもしれない。
でも、それはきっと昨日今日の話じゃない。
綿密な調査を重ねて……、少なくとも一ヶ月以上は確実に掛かるだろう。

その間、誰かが大病に感染する可能性はゼロじゃない。
当然、その可能性は百万分の一くらいなんだろうけど……、
百万分の一も誰かが死ぬ可能性があるだなんて、考えたくもなかった。

前にテレビで三年後までに死亡する確率が五%、
って病気に感染した人のドキュメンタリーを観た事がある。
その時は、やけに低い死亡率だなあ、
って思いながら観てたもんだけど、今ならその恐ろしさが分かる。
それは二十回に一回の確率で、三年後に友達と会えなくなる可能性があるって事なんだ。
二十回に一回も……。
考えただけで、吐き気や寒気が湧き上がってくる。

私は何を分かったつもりだったんだろう……。
ムギに肘の治療をしてもらいながら、
何も分かってなかった自分の事がとても恥ずかしくなった。

私達は死ぬ確率が遥かに増えた世界に生きてるんだ……。
175 :にゃんこ [saga]:2012/02/27(月) 20:11:45.61 ID:gcrOS0dK0


今夜はここまでです。
ムギの話は一体お終いです。
次回から新しいお話になる予定です。
176 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/01(木) 10:07:56.73 ID:LQB5dG9DO
新しいお話し楽しみにしています。
177 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:38:01.38 ID:S33VmCS70





憂ちゃんの手が私の身体をまさぐる。
優しく……、時に強く、絶妙な力加減で私の肉体を撫でていく。
時に痛みを感じる事もある。
だけど、時期にそれは溢れ出る快感へと変化する。
私は漏れ出す言葉を止める事が出来ない。


「んあ……っ、駄目だよ、憂ちゃん……っ!
そんな……っ! そんなに……っ!」


「ふふっ、駄目ですよ、律さん。
我慢して下さいね。大丈夫ですから。
すぐに気持ち良くなりますからね」


憂ちゃんは私の言葉を優しく聞き流す。
その間も憂ちゃんは私の肉体に更に密着し、
憂ちゃん自身の柔らかさを私の肌に感じさせようとする。
柔らかく、淡く甘い熱に包まれる感覚……。

不意に視線を向けると、
純ちゃんが舌舐めずりをしたそうな様子で私達を見つめていた。
恍惚に似た表情を浮かべ、甘い声をあげてねだる。
178 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:39:04.84 ID:S33VmCS70
「いいなあ、律先輩。
憂にしてもらえるなんて本当に羨ましい……。
私もたまにしてもらうんですけど、憂ってとっても上手ですよね。
上手過ぎて、声が我慢出来ないくらい気持ち良くなっちゃいましたし……。

ねえ、憂。
後で私にもしてくれる?」


「いいよ、純ちゃん。
律先輩のが終わったら、後でいっぱいしてあげるね。
準備して、待っててね」


「やった!」


本当に嬉しそうな声を上げた後、
純ちゃんがパジャマに使ってるシャツをはだけさせる。
期待に満ちた顔で憂ちゃんを見つめている。


「あ……っ、ああっ……!」


純ちゃんと話している間も、憂ちゃんの手の動きが止まる事は無かった。
私は溢れ出る快感の奔流を止める事が出来ず、漏れ出す声も止められなくなった。。
声を我慢する事すらも億劫に感じて来る。
痛みを感じる事も少なくなった。
もう私に出来る事は、快感に身を任せる事だけだった。
憂ちゃんの……、澪にやってもらうのよりずっと上手い……!


「ここが気持ち良いですか、律さん?」


耳元で憂ちゃんが囁かれる。
優しく、柔らかく、甘い声が私の耳をくすぐる。
私は感情のままに何度も頷いた。
179 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:39:35.08 ID:S33VmCS70
「うん……、うん……っ!
そこがいい……。そこがいいよ……っ!
すごく気持ち良い……っ!」


「よかった……。
じゃあ、もっと気持ち良くしてあげますね」


「あっ……、ああっ、憂ちゃん……っ!」


私はまた大声を上げてしまう。
声を我慢するどころか、大声を我慢する事も出来なくなってきた。
肌と肌の触れ合い。
憂ちゃんの体温と私の体温が混じり合い、
それがもっと大量の快感を私の身体の中から生じさせる。
大きな声を出す事で、その快感が何倍にも増えていく気までして来る。
もっと……、もっと気持ち良くしてほしい……。


「ちょっとっ! 二人とも何をしてるのっ!」


不意に音楽室の扉が開き、甲高い声がその場に響いた。
長椅子にうつ伏せに寝転がる体位だった私は、
顔を上げて声の方向に視線を向けてみる。

扉を開けたのは、学生鞄を持って赤い顔をした梓だった。
どうやら私の大声が音楽室の外まで響いていたらしい。
音楽室には防音処理がされてるってのに、
私ったらそれくらい大声を出しちゃってたみたいだ。


「何って……、見て分からないか?」


憂ちゃんを身体の上に乗せたまま、
はだけさせたシャツを少しだけ整えてから私は言った。
梓は俯き、視線を散漫にさせた。
どんどん顔を赤くさせていき、躊躇いがちに小さく口を開いた。
180 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:40:05.34 ID:S33VmCS70
「……マッサージですか?」


「そうだよ、分かってんじゃんか」


軽く微笑んで、梓に言ってやる。
って、まあ、普通に考えたら、
私が憂ちゃんと密着する理由なんて、
マッサージ以外の理由があるはずがないんだけどな。
梓が顔を赤くさせてるのは、何かの勘違いをして(何とは言わないけど)、
敬語を使うのも忘れて、音楽室に飛び込んじゃった事が恥ずかしいからなんだろう。


「紛らわしい事しないで下さいよ、もー!」


梓が恥ずかしそうに大声を出す。
恥ずかしいなら誤魔化せばいいのに、それが出来ないのが梓って奴だった。
唯とは違った意味で素直な奴なんだよな、こいつ……。
私はもう一度笑ってから、恥ずかしがる梓に言ってやる事にした。


「まあ、気にするなって。
こういうのってお約束じゃん?
部屋の中から妙な声が聞こえるから駆け込んでみたら、やっぱりマッサージだったってやつ。
漫画で見かけると、まだこういうネタ使ってんのか、ってうんざりするんだけどさ。

でも、うんざりしながら、何か落ち着く気がしないか?
何だろうな……、何か伝統芸能に近い物を感じる気がするんだよな。
着々と伝えられる文化って言うか何と言うか……。
まあ、結局は、お約束ってやつなんだけど」


「いえ、確かにお約束なんですけど……。
でも、それを分かってて、
本当にやる人が居るなんて思わないじゃないですか……」


複雑そうな表情で梓が呟く。
確かに梓の言う通りではある。
でも、そこが盲点なんだけどな。
だからこそ、梓もそういうお約束がある事を分かってながらも、
まさか本当にそのお約束を実行する人なんて居ないって考えて、音楽室に飛び込んで来たんだろう。
梓が散歩から戻って来る頃を狙って、私が変な声を出してみてたとも知らずに……。
ククク……、見事に引っ掛かってくれたな。
計画通り!
181 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:42:05.52 ID:S33VmCS70
とは言え、さっきまでの私の声は半分以上は本気だったりもする。
疲れてたせいもあるかもしれないけど、憂ちゃんのマッサージは想像以上に上手い。
前に澪に揉ませた時なんかとは比較にならないレベルだ。
澪のマッサージなんて痛いばっかだったよ、マジな話。
ん? あれは澪に罰ゲームで揉ませたから、
恨み節がマッサージする手にこもってただけか?
ま、いいか。

夢なのか現実なのか、
一瞬だけ人の姿を見た後、私とムギは一旦学校に戻る事にした。
ムギが私の傷のちゃんとした治療をしたがってたし、
それ以上にその場に残ってた所で私達には何も出来そうになかった。
もしも私の考えた通りに、
本当に異世界同士を繋ぐ門があるとして、勝手にそれに作動されても困るしな。
私は元の世界に戻りたいわけじゃない。
私は皆で元の世界でまた笑い合いたいんだ。

学校に戻るまでの間のムギとの話し合いで、
一瞬だけ人の姿が見えた事は皆には話さない事に決まった。
あれは私達の気のせいかもしれなかったし、
妙な事を言って、皆に期待させるのも悪いと思ったからだ。

ただ、和にだけは話す事をムギにも納得してもらった。
和ならきっと、客観的に色んな可能性を考えて判断してくれる。
そんな気がする。
勿論、和だって恐いはずだし、焦ってもいるんだろうけど、
それを乗り越えられる強さを持ってるのが、私達の親友の和って奴のはずだ。
182 :にゃんこ [saga]:2012/03/01(木) 19:50:05.83 ID:S33VmCS70


今回はここまでです。
前回までの重い話が何処へ行ったんだったって感じですが、同じスレ主です。
またお付き合いお願いします。
183 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/01(木) 22:13:11.11 ID:LQB5dG9DO
乙です。
184 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:42:26.68 ID:3MkZB8Lw0
「純も何やってるのよ……」


不意に梓が呆れた表情で呟く。
梓の視線の先ではパジャマをはだけさせた純ちゃんがドーナツを食べていた。
そのドーナツはムギと一緒に学校に戻って、
肘の怪我の治療をしてもらった後、私一人で自転車を飛ばして、
ドーナツ屋から持ち帰って来たスーパーオールスターパックの中身のドーナツだ。

肘の怪我の治療中、ムギの肌は冷え切ったままだった。
肌も、心も、怯えや不安で冷え切ってしまっていた。
私の怪我なんかよりも、ムギの不安の方をどうにかしてやりたかった。
でも、私にはそのための手段が無い。
ムギの不安を振り払うだけの力が、今の私には無かったんだ。

何も出来ない自分が悔しくて、辛くて……、
「ちょっと疲れちゃったから、お昼寝するね」って言って、
生徒会室に向かうムギを止める事が出来なかった。掛けられる言葉が無かった。
その後、どうにか私に出来たのは、
約束通りムギの夕食のおかずを一品増しにしてやる事だけだった。

勿論、ムギと私のワンマンライブはまだ開催していない。
夕食の時、一品増しになったおかずに気付いたムギが微笑んでくれたけど、
私もムギもワンマンライブの事を自分から切り出しはしなかった。
分かってるんだと思う。
こんな精神状態じゃ、きっといい演奏なんか出来ないって事に。
上手く演奏出来ずに、もっと落ち込んじゃうだけだって事に。

でも、当然だけど、そのままでいいはずが無い。
少しずつでもいいから、前に進まなきゃ私は本当に駄目になっちゃうと思うから。
誰の為にも動けない情けない元部長になっちゃうと思うから……。
私は今晩、校舎の屋上で澪と待ち合わせをしたんだ。
夕食の後、後片付けをする澪に「話がある」と言ったら、静かに頷いてくれた。
真剣な顔で、まっすぐな切れ長の瞳で。

ムギの事だって勿論気になる。
でも、多分、ムギが一番望んでいるのは、私と澪が話をする事なんだって思う。
二人きりの時はそうでもないけど、大勢で居る時、ムギは一歩引いて私達を見てる。
そういや、「楽しそうにしてる皆を見てるのが好きなの」って、前に言ってたっけ。
それは控え目な性格って言うよりは、
自分より誰かが楽しんでいるのが嬉しくなるタイプなんだろうな。
だから、思う。
私達が元気で居る事が、ムギの元気にも繋がるはずなんだって。

澪とどんな話が出来るかは分からない。
ひょっとしたら、今よりも関係が悪化するかも……。
そう思うと恐くなっちゃうけど、澪の為にも、ムギの為にも、
他の皆の為にも、何よりも私が元気に皆を引っ張っていく為に……。
私は澪と話をしたいって思う。

憂ちゃんにマッサージをしてもらってたのだって、勿論理由があるぞ。
今は澪と唯が風呂に入ってるから、
その風呂が終わるのを待ってる間にリラックスしておこうって思ったんだ。
追い込まれた状態で澪と話したって、ろくな事にならないだろうしな。
緊張せず、少しでも普段の自分に近付いて、自然に話すのが一番のはずだ。
185 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:43:28.67 ID:3MkZB8Lw0
……にしても、憂ちゃんのマッサージがこんなに上手いとは思わなかった。
プロクラスだぞ、これ。
いや、プロのマッサージを受けた事はまだないけどさ。
きっといつも家で唯にマッサージを頼まれてるんだろう。
だらけた唯を笑顔でマッサージする憂ちゃんの姿が目に浮かぶ。

思わずちょっと笑いながら視線を向けると、
梓の言葉を聞き流しつつ、私の方を羨ましそうに見てる純ちゃんの姿が目に入った。
そういや、さっき純ちゃんは「私もたまにしてもらうんですけど」って言ってた気がするな。
つまり、純ちゃんも憂ちゃんのマッサージに魅せられた一人なんだな。
だからこそ、こんな物欲しそうな顔をしてるんだろう。
気持ちはよく分かる。
よーく分かるぞ、純ちゃん……!


「ちょっと、聞いてるの、純……!」


梓が頬を膨らませて少しだけ声を荒げる。
純ちゃんが自分の言葉を聞き流してるのがちょっと悔しかったんだろう。
でも、別に純ちゃんが梓の事を適当に扱ってるわけでもないはずだ。
親しいから軽口を叩き合ったり、話をスルーしたり、
それが許される仲なんだって安心感から取る行動なんだって感じる。
あと、これは私の勝手な考えなんだけど、
梓が心の奥底から一番頼りにしてるのは、純ちゃんな気がするんだよな。
だから、自分の言葉を聞き流されるのが嫌なんだろう。

そうそう。
前に梓が純ちゃんの失敗談を話してた時に、
「純って本当に仕方が無い子ですよね」って言ってた事があったよな。
その時、私は何となく思い付きで意地悪をして、
「そうだな。純ちゃんは手が掛かって仕方が無い子だよな」って返してやったんだけど、
梓の奴、予想通りと言うか何と言うか、普段よりずっと頬を膨らませて拗ねてたっけ。
「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか……」って言いながら、
自分が失敗した時の何倍も悔しそうで辛そうな感じに見えた。
つまり、純ちゃんの悪口を言っていいのは梓だけ、って事なんだよな。

それを指摘してやると、梓は顔を真っ赤にして明らかに動揺してた。
どうも自分じゃ気付いてなかったらしい。
ははっ、妬けますなー、中野殿。
ごちそうさま。


「聞いてるってば。
梓もそんなにムキにならなくてもいいじゃん」


梓の想いを分かっているのかどうなのか、純ちゃんがニマリと笑った。
ニヤリ、じゃなくて、ニマリって感じの笑顔。
純ちゃんも梓の事を心から信頼してるから見せられる笑顔な気がした。


「ちゃんと聞いてよね……って、あーっ!
純ったらもうスーパーオールスターパック食べてるじゃない!
しかも、前みたいに一個ずつを一口ずつ食べちゃって……。
皆の分も入ってるんだから、後の事考えてよー……!」
186 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:43:54.95 ID:3MkZB8Lw0
梓が呆れた顔を浮かべて純ちゃんに言い放つと、
てへっ、ってさわちゃんみたいにして純ちゃんが舌を出した。
その姿は本当にさわちゃんとよく似ていた。
実は梓からのメールにあった話なんだけど、
純ちゃんが軽音部に入ってさわちゃんとの絡みが増えて、二人の行動がかなり似て来てるらしい。

そのメールを貰った時、だろうなー……、と私は妙に納得した。
軽音部に入る前から二人の発想や行動は似てたみたいだし、
そんな二人が傍に居りゃ、それだけ色んな所が似てくるもんだろう。
しかし、何だな……。
さわちゃんが二人か……。
想像しただけで、気が遠くなるな……。
頑張れよ、中野梓部長……。


「律先輩も純を止めて下さいよ……。
後で皆で食べるって話をしてたじゃないですか。
こんな行儀の悪い食べ方されたら、律先輩も嫌じゃないんですか?」


これ以上純ちゃんに言っても仕方が無いと思ったのか、
気が付けば、注意の矛先がいつの間にか私の方に向いていた。
私は純ちゃんと顔を合わせて苦笑した後、梓に返してやる。


「別に私は気にしないぞ?
純ちゃんの気持ちも分かるしさ。
やっぱこういうオールスターパックは、
一口ずつ好きなのを食べるのが醍醐味ってやつだからな!
ねー、純ちゃん」


「そうですよねー、律先輩」


純ちゃんと二人で梓に笑顔を向けてやると、
梓が頭を抱えて「もういいです」と溜息を吐いた。
そのまま習慣で愛用の学生鞄を長椅子に置こうとして、
でも、長椅子には私が転がってるのを思い出したらしく、
自分が使ってる机に向かって学生鞄を置き直した。
187 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:44:21.47 ID:3MkZB8Lw0
その一瞬、私は見逃さなかった。
去年、修学旅行の京都土産にプレゼントしたキーホルダーが、梓の学生鞄に付けられてる事に。
梓がそれをまだ付けてくれている事に。
大切にしてくれてるんだな、ってすごく嬉しくなる。
私達五人揃って『け』『い』『お』『ん』『ぶ』になる、おそろのキーホルダー。
何だかもうとっても懐かしい。

まあ、大切にしてるわりには、
梓の奴、二回もその『ぶ』のキーホルダーを落としたんだけどな。
一回目はともかく、二回目は本当に大騒ぎになった。
二回目は梓の学生鞄のキーホルダーが無くなってる事に唯が気付いて、
梓も唯に指摘されて初めてキーホルダーを落とした事に気付いたらしく、
受験シーズンだってのに、軽音部総出で学校中捜し回ったもんだ。
キーホルダーすぐに見つかったからよかったけど、
もしも見つからなかったら、受験なんかより梓の事が気になって仕方が無かっただろうな。
まったく……、困った後輩だよな……。

でも、梓がどうしてキーホルダーを落とす事になったのか、その原因には心当たりがある。
とは言っても、直接的な原因じゃなくて、落とすきっかけの一つってやつかな。
梓の教室に行ってみた時、何度か目撃した事があるんだよな。
梓が学生鞄からキーホルダーを外して、手のひらに持って嬉しそうに見てた所を。
手のひらの中の思い出を本当に嬉しそうに……。

多分だけど、そうやって何度も外してたせいで、
キーホルダーの留め金が緩くなっちゃったんだろうと思う。
それで二回もキーホルダーを落とす事になっちゃったんだ。
想いの強さのせいで思い出を失くしちゃうなんて、何とも皮肉な話だ。
でも、それはそれだけ梓が私達との思い出を大切にしてる、って意味でもあって……。
その梓の想いがくすぐったくて、嬉しくて、ちょっと切ない。

ちなみに今はキーホルダーを落とす心配は少なくなってたりする。
二回も落とした事で梓も勉強したらしく、
パスポートを入れるみたいな透明のケースにキーホルダーを入れて、それを学生鞄に付けてるんだよな。
そのキーホルダーの姿はちょっと不格好に見えるから、
留め金を丈夫なのに変えればいいんじゃないか……、って言うのは野暮だった。
きっと梓は、留め金も含めてそのキーホルダーを大切にしてくれてるんだろうからな。


「もういいよ。
すっごく気持ち良かった。ありがとう、憂ちゃん」


言って、憂ちゃんに私の身体の上からどいてもらう。
「もういいんですか?」と首を傾げる憂ちゃんの頭を撫でて、
不敵に笑ってみせると、憂ちゃんも柔らかく笑ってくれた。
唯とよく似た幸せそうな表情。
でも、よく見ると唯とは違う表情。
やっぱり、唯は唯で、憂ちゃんは憂ちゃんなんだ。
顔は似てても中身は全然違うし、わざわざ唯を思い出して憂ちゃんと触れ合う必要もない。
何となくだけど、今日憂ちゃんとちょっとだけ触れ合えて、
これからは少しは緊張せずに憂ちゃんと付き合っていけるような気がした。

私は立ち上がり、軽くなった気がする身体で梓の隣に向かう。
そのまま梓の首に後ろから腕を回して、顔を近付けて言ってやった。
188 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:44:50.59 ID:3MkZB8Lw0
「憂ちゃんのマッサージ、気持ち良かったぞ。
そんなに溜息吐いてないでさ、後で梓もやってもらえよ。
憂ちゃんにマッサージしてもらえば、そんな気持ちも吹っ飛ぶぞ?」


「誰が溜息を吐かせてると思ってるんですか……。
それに私は別に憂にマッサージなんてしてもらわなくても……」


「梓もやってもらえばいいじゃんー。
憂のマッサージ、すっごく気持ち良いよ?
あっ、……んっ! 憂っ、そこっ! そこが気持ち良いよ……っ!」


そう言ったのは純ちゃんだった。
私が長椅子から身体をどかせた瞬間、
憂ちゃんの下に身体を滑り込ませて、マッサージを始めてもらっていたらしい。
はえーな、オイ。
まあ、純ちゃんの気持ちも分かるけどな。
憂ちゃんのマッサージは本気で病み付きになる。
純ちゃんが夢中になっちゃうのも仕方が無い事だろう。


「梓ちゃんも後でおいでよ。
梓ちゃんは今日も外回り組だったでしょ?
あんまり自信無いんだけど、少しでも梓ちゃんの疲れを落としてあげたいんだ。
私に出来るのって、それくらいだから……」


憂ちゃんが甘えたような視線を梓に向ける。
マッサージするのは憂ちゃんの方なのに、
マッサージをさせてほしいって梓にねだってるみたいだ。
何となく、その気持ちは分かる。
私が皆の為に何かをしてあげたいように、
憂ちゃんだって誰かに何かをしてあげたいんだろう。
特に憂ちゃんはこの世界を調査する側じゃなくて、
皆の帰りを待っている側だから、余計にそんな気持ちが増して来るに違いない。

梓もそれは分かってるらしく、
複雑そうな表情をしていたけど、でも、すぐには首を振らなかった。
憂ちゃんの気持ちは分かるけど、そこは譲れないって感じだった。
友達と密着するのを見られるのが恥ずかしいのかな、って私は一瞬思った。
その気持ちなら私も分からなくは無いしな。

でも、すぐに思い直した。
そうだ。もっと単純な理由があるじゃないか。
いつもの事だからすっかり忘れちゃってたけど、
本人にしてみればいつもの事で済ませられる事じゃないんだろう。
私は梓から身体を離して、「ごめんな」と頭を下げた。
私の突然の行動に、梓が不安そうな表情を浮かべて呟く。
189 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:45:20.59 ID:3MkZB8Lw0
「ど……、どうしたんですか、急に……?
私……、謝られるような事、律先輩にされてないですよ……?」


「いや、無理するなって、梓。
急にくっ付いたりして悪かったよ。
大丈夫か? 痛くなかったか……?

梓、おまえ、別に憂ちゃんのマッサージが嫌なわけじゃないんだろ?
日焼けが痛いから遠慮してただけなんだろ?
気付けなくてごめんな」


言った後、もう一度、梓に頭を下げる。
そうだよ。梓は日焼けしやすいんだ。
すぐに真っ黒になって、身体中がヒリヒリしちゃう体質なんだ。
今日だって外回りをしてたせいか、身体中普段より真っ黒になってる。

昔、日焼けした肌を澪に叩かれた時の痛さをまた思い出す。
あれ以来、日焼けしないように気を付けて、
今じゃあの痛さを味わう事も少なくなったけど、
梓は気を付けてもどうしようもない体質なんだよな。
日焼けってのは軽い火傷だって話を聞いた事もある。
火傷を負ってる時に、マッサージなんかされたい気分にはならないだろう。
それどころか、私に軽く腕を回されただけでも痛かったに違いない。


「そうなんだ……。
ごめんね、梓ちゃん……。私も気付けなくて……。
そうだよね、日焼けしてる時にマッサージなんかされたくないよね……」


憂ちゃんも申し訳なさそうに、
でも、梓に気を遣わせないように、苦笑を浮かべながら謝る。
梓が私と憂ちゃんの顔を交互に見ながら、焦った様子で胸の前で手を振りながら言う。


「い……、いいんだよ、憂。
憂の気持ち、すごく嬉しいんだから、それだけで十分だって。
私こそマッサージさせてあげらなくて、ごめんね……。
律先輩も、ちょっとくっ付かれるくらいなら、
少しくらい痛くたって私は別に……。くっ付いてくれても私は……」


最後の方の言葉は小声でよく聞こえなかった。
ちょっとくらいなら痛くないって事……だろうか?
でも、痛い事には違いないよな。
今度から、気を付ける事にしないといけない。
私はそれをよく肝に銘じ、決心して梓に伝える。


「とにかく、ごめんな、梓。
日焼けしてる時はくっ付くのは控えるよ。
日焼けした肌のあの痛さは、私もよーく分かってるからさ。
唯にも気を付けるよう伝えとく。
スキンシップが無くて寂しいかもしれないけど、それくらいは勘弁してくれよな。
え? 別に寂しくないってか? こりゃ失敬」


そうは言ってみたけど、
私はともかく、唯にくっ付かれないのは梓も寂しいはずだ。
そうだな……。唯が風呂から上がったら、
梓に抱き着いてもいいけど、出来る限り優しく抱き着け、って伝える事にしよう。
それくらいなら梓も許してくれるだろう。
私も梓とくっ付けないのは若干寂しいけど、それは夏が終わるまでの辛抱だな。
190 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:45:51.95 ID:3MkZB8Lw0
軽く視線を向けてみると、梓が寂しそうな表情になってる気がした。
やっぱり、唯に抱き着かれなくなるかもしれないのが寂しいんだろうな。
私は梓を安心させるために、梓の頭に軽く手を置いて微笑んだ。


「心配すんなって、梓ちゅわん。
唯って奴は、注意してたってつい梓に抱き着いちゃう奴だからな。
でもさ、出来る限りは優しく抱き着けとは言っとくよ。
痛いのはやっぱり勘弁だもんな。
その分、私は控えるし、唯の事はそれで許してやってくれよな」


そう言ってみても、梓は何処か浮かない顔だった。
何かが寂しくて仕方が無いって感じだ。
ひょっとして、私とくっ付けなくなるのが寂しいのか?
……なんてな。そりゃ無いか。
梓に嫌われてるとは思っちゃいないけど、
すごく好かれてるって思えるほど私は自信過剰じゃない。
まあ……、そうだな……。
大切な先輩ってくらいには思ってくれてると、嬉しいんだけどな……。


「そういや、梓」


梓の寂しそうな顔を吹き飛ばすため、
それと恥ずかしい事を考えちゃった私の照れ隠しのため、軽く話題を変えてみる。
梓は小さく微笑んで、首を傾げて私に訊ねた。


「何ですか、律先輩?」


「ムギはどうしたんだ?
一緒に寝る前の準備をしてたんじゃないのか?」


「あ、はい、ムギ先輩はですね、
すごくお疲れみたいで、もう寝られましたよ。
皆さんに挨拶をする気力も残ってないみたいで、
寝袋で横になってすぐに寝息を立ててらっしゃっていました。
よっぽどお疲れだったんでしょうね……。

そういえば、今日は律先輩がムギ先輩と外回りをされてましたよね。
ひょっとして、律先輩がムギ先輩に何か変な事したんじゃないですか?」


「おまえは私を何だと思ってるんだよ……。
変な事なんて別に……」


別に……。
そこで言葉が止まる。
別に私はムギに変な事をしてない。
変な事が起こったのは世界の方だ。
一瞬だけ見えた生き物の……、いちごと晶の姿が私の頭の中に浮かぶ。
気のせい……じゃないはずだ。
あの横断歩道前、確かにいちごと晶が肩を並べて歩いてた。
二人が知り合いだったのかどうかは分からないけど、
そんな事よりも二人の姿を確認出来た事が嬉しかった。

二人の姿が見えたって事は、二人は元気で過ごしてるって事でいいはずだ。
人類が滅びて、私達だけが取り残されたって可能性を消せるはずなんだ。
他の皆も、皆の家族も、聡も元気で生きてるって事になるはずなんだ。
そうなる……はずだ。
そうであって……ほしい。
191 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:46:18.27 ID:3MkZB8Lw0
「律先輩?」


梓が不安そうに私の顔を覗き込む。
私が何も言わなくなった事を不審に思ったんだろう。
首を傾げながら、梓が重々しく続ける。


「もしかして、本当にムギ先輩に何かしたんですか?
そういえば、律先輩、いつの間にか肘に怪我してるし、
ムギ先輩に何かしようとして突き飛ばされたとか……」


「おいおい、そんな……」


「そんな事無いよ、梓ちゃん」


私が自己弁護するより先に、そう言ってくれたのは憂ちゃんだった。
私を信用し切った顔で、笑ってくれている。


「律さんが紬さんにそんな事するはず無いよ。
だって、律さんは私達の軽音部を作ってくれた自慢の先輩なんだから。
お姉ちゃん達や私達の居場所を作ってくれた人なんだよ?
そんな律さんが紬さんに変な事するわけないよ」


まっすぐな瞳に見つめられ、私と梓は言葉を失ってしまう。
勿論、梓だって本気で私がムギに何かをしたとは思ってないはずだ。
ただ私が口ごもるのが不審だったから、カマを掛けてみただけなんだろうと思う。
でも、憂ちゃんに言われて、自分が失礼な事をしてしまったと気付いたらしい。
軽く私に頭を下げる。


「すみません、律先輩。
私ったら失礼な事を言ってしまったみたいで……」


「いいよ」と言って、私は梓の頭を撫でる。
別に怒ってるわけじゃないし、皆に秘密にしてる事があるのは私の方だ。
憂ちゃんに信頼してもらえるのは嬉しいけど、悪いのは私の方なんだ……。
それはとても辛かったけど、それをここに居る皆に伝えるわけにはいかなかった。
こんな状態で、皆にはっきりしない希望は持たせたくない。

それにしても、まさか憂ちゃんが真っ先に私を弁護してくれるとは思わなかった。
憂ちゃんはいつの間に私をこんなにも信頼してくれるようになったんだろう。
梓もそれは感じていたようで、私の耳元で軽く囁いた。


「律先輩……、憂と妙に仲が良くないですか……?
いえ、悪い事じゃないんですけど、
何だかいきなり急接近してるような気がして……」


その原因は私にも分からない。
ただ私も今日から急に憂ちゃんに親しみを持ててるような気がする。
朝に裸の付き合いをしたおかげなんだろうか?
何となく思い付いて、あの漫画の台詞を借りて言ってみる。


「それはひとえに湯の力ですよ、梓さん。
湯のある所に諍いは生じませんからね」


「何ですか、それ……。
確かに今朝、律先輩は憂とお風呂に入ってましたけど……」


「お、ローマのお風呂漫画の台詞じゃないですか。
律先輩も通ですね。
あっ、憂、もうちょっと下の方もお願い」


私達の会話が聞こえていたらしく、
マッサージされながら、純ちゃんが嬉しそうに言った。
純ちゃんも読んでたのか、あの風呂漫画……。
お兄さんが居るからかもしれないけど、
あのゲームのネタといい、純ちゃんも色々とマニアックだな……。
勿論、私に言えた事じゃないけどさ。
192 :にゃんこ [saga]:2012/03/04(日) 14:47:06.79 ID:3MkZB8Lw0


今回はここまでです。
後輩が意外に活躍していますね。
193 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/04(日) 19:54:02.12 ID:XZCxLWxeo
194 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/05(月) 04:36:02.31 ID:YFCDBiVZo
乙です
195 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 19:58:50.16 ID:c3OzPGO10
「それより律先輩、本当に肘の傷、大丈夫ですか?
皮が丸ごと捲れちゃってすごく痛そうなんですけど……」


不意に梓が私の肘を見て、心配そうに呟く。
確かに自分で見てても、すごく痛そうな怪我をしたもんだと思う。
まあ、痛そうなのは見た目だけで、実際はそんなに痛くないんだけどな。
こんな怪我より、あの時の怪我の方がずっと……。
………?

あれ?
私、そんな大怪我した事あったっけ?
昔から落ち着きの無い子って言われてきただけあって、
私は小さい頃から本当に色んな怪我をしてきた。
骨折だって何回かしたしな。
でも……、幸か不幸か、大怪我って言える怪我はした事が無かったはずだ。
じゃあ、あの時の怪我って何だ?
自分で思い付いた事なのに、何故か思い出せない。

夢の話……かな?
夢の中じゃ異世界で大冒険する事も多かったから、
それで負った怪我を思い出しただけなのかもしれない。
夢の中じゃ、何回か死んだ事あるしな。
怪我の事は激しくデジャヴって事で問題無いか。


「律先輩……?
どうしたんですか? やっぱり痛いんですか……?」


私が黙ってた事を不安に思ったらしい。
梓が心配そうに私の右の二の腕を左手で掴んだ。
患部には触れないように気を付けてくれてるんだろう。
私は大きく笑い、梓の左手に軽く触れて言ってやる。


「いんや。
実はすっげー怪我に見えるけど、大して痛くないんだよなー。
ムギにしっかり治療してもらえたし、
そもそも皮だけが見事に剥けちゃっただけみたいなんだよな。
我ながら上手く身を守れたもんだ。
田井中流護身術を甘く見るなよ!」


「変な自慢をしないで下さい。
何なんですか、その怪しげな護身術は……」


梓が呆れた視線を向けながら、微笑んでくれる。
また変な先輩だって思われたみたいだけど、それでもよかった。
はっきりしない夢の話なんかしても意味無いし、梓が笑ってくれるなら何だって嬉しい。
196 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 19:59:54.58 ID:c3OzPGO10
「そういえば律先輩?」


身体を起こして長椅子に座り直し、
憂ちゃんに肩を揉まれてる純ちゃんが私に訊ねる。


「結局、どうしてそんな怪我をしたんですか?
律先輩達は今日は自転車で行動してたみたいですけど、
自転車で転んだにしちゃ肘だけ怪我するってのも変な話ですし……。
まあ、そういう怪我もあるのかもしれませんけどね……」


言い終わってから、純ちゃんは首を傾げて私の方に視線を向けた。
その表情は私の事を心の底から心配してくれてるように見える。
飄々としてて掴みにくい所がある子だけど、やっぱり不安はあるんだと思う。
私と純ちゃんはものすごく仲が良いってわけでもないけど、
純ちゃんが怪我をしたとしたらすごく心配だし、
純ちゃんだって同じ様に思ってくれてるから、心配そうな顔を見せてくれるんだろう。
特にもう八人しか居ない仲間なんだしな……。


「実はさ……」


私は純ちゃんの方を向きながら、最初だけちょっと深刻そうに呟いてみる。


「色々あってムギに抱き着いたら、そのまま二人して転んじゃったんだよなー。
勢いが強過ぎたみたいでさ、いやはやどうにも申し訳ない。
ちなみに『色々』が何なのかってのは乙女の秘密よ。
きゃはっ」


最後にはピースサインを見せて、とぼけてみせた。
純ちゃんと憂ちゃんがちょっと困った様に笑う。
梓も「何やってるんですか……」と呟きながら苦笑した。
うん。嘘は言ってない。
嘘は言ってないんだけど、やっぱり皆を誤魔化すのは結構辛い。
今は話せないけど、いつかその『色々』を皆に話せる時が来ればいいな。

不意に憂ちゃんが少しマッサージを止めて、目を伏せながら言った。


「でも、気を付けて下さいね、律さん。
律さんが怪我しちゃったら、皆、悲しいと思うんです。
お姉ちゃんも今まで何度か怪我した事があるんですけど、
その度に私、すっごく心配で、恐くて、不安で、悲しくて……。
澪さんだって、律さんが怪我したら、すごく心配だと思うんです。

ううん、絶対に心配なんですよ。
だって、さっきの夕食の時、
澪さんが律さんの肘を見ながら、すごく心配そうにしてましたし……」


唯の昔の怪我の事を思い出したのか、憂ちゃんの言葉はとても辛そうだった。
自分の怪我より誰かの怪我の方が辛い。
憂ちゃんはきっとそういう子なんだと思う。
澪……も形は違うけど、自分の怪我より誰かの怪我の方が苦手なんだよな。
痛い話が苦手だし、私が骨折した時にも泣いてたし、
唯がギターの弦で指をちょっと切った時も大袈裟に騒いでた。
そういう意味で澪は誰かの怪我に敏感な奴なんだ。
197 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:02:05.76 ID:c3OzPGO10
どうも憂ちゃんと比べると、
我が幼馴染みながら情けなくなるけど、それもそれで私の好きな澪の一面だ。
そこが嫌いだったら、こんなにも長い間、澪と付き合ってない。
高校だってきっと別の高校にしてた。
だから……、私は澪を大切に思うのと同じくらい、私を大切にしなきゃいけない。

私は重ねていた梓の手から自分の手を放し、憂ちゃんの肩に手を置いた。
まっすぐに憂ちゃんの瞳を見つめ、軽く頷く。


「うん、ごめん、憂ちゃん。
次からは気を付けるよ。澪をこれ以上心配させたくないもんな」


憂ちゃんは軽く微笑んで、
でも、少しだけ目の端を吊り上げて、口元に人差し指を当てた。


「めっ! ですよ、律さん。
そんな事言っちゃ、めっ! です。
律さんの事が心配なのは、澪さんだけじゃありませんよ。
私だって、お姉ちゃんだって、紬さんだって、純ちゃんだって、
和ちゃんだって、勿論、梓ちゃんだって、律さんの事が心配なんですから」


憂ちゃんのその言葉に純ちゃんは「うんうん」と頷いてくれたけど、
梓は私の二の腕から手を放し、「いや、私は別に……」と目を伏せて呟いた。
可愛げの無い後輩だけど、その頬は軽く赤く染まっていた。
どうも私の事が心配なわけじゃないんだけど、
面と向かって親友に自分の気持ちを言われちゃうと恥ずかしいらしい。

まあ……、気持ちは分かるかな。
唯の奴、勝手に私の気持ちを澪に代弁する事が結構あるんだけど、
あれは本当に恥ずかしいんだよな。
「りっちゃんも澪ちゃんの事が大好きだし!」とか真顔で言うんだよ、あいつ。
例え本当にそうでも、はっきり言われちゃうと素直になれなくなるっつーの。
しかも、更に腹立たしいのは、
あいつの代弁がその時の私の考えとぴったりな時が多い事だ。
エスパーか、おまえは。

いや、唯の事はともかくとして。
憂ちゃんの言葉は嬉しくて、申し訳なかった。
そうだな。私はもっと周りに目を向けなきゃいけないんだ。
もう一度、私は憂ちゃんに真剣な言葉を届ける。
198 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:02:51.15 ID:c3OzPGO10
「そうだよね。重ね重ねごめん、憂ちゃん。
私だって皆の事が心配なんだ。皆だって私が怪我したら心配だよな。
気を付けるよ。皆の事、悲しませたくないもんな。

ま、残念だけど、梓だけは私の事が心配じゃないみたいだけどさ」


わざとらしく肩を落として溜息を吐いてやる。
私のその演技には気付いてるらしく、梓が「はいはい」と肩を竦めた。
本気で生意気だな、こいつは……。
昔はあんなに「律先輩、律先輩」って懐いてくれたのに……。
うん、ごめん、それは嘘。
梓は昔から生意気な後輩で、あんまり懐いてもくれなかった。

でも……、昔から私の事をちゃんと見ていてくれて、
今も私に悪い事を言っちゃったんじゃないかって、不安そうな顔をしていて……。
そんな可愛げの無い梓が可愛くて、いつの間にか私は微笑んでいた。

また、その頭を軽く撫でてやる。
抱き着いた回数こそ唯には全然及ばないけど、
梓の頭を撫でた回数なら、多分私の方がずっと多い。
それくらい習慣になってる私と梓のコミュニケーション。
色々と素直になれない二人だけど、このやりとりだけはずっと変えずにいたいと思う。

数秒後、その手は梓に軽く払われる事になるわけだが。
まあ、これもこれで私達の普段のコミュニケーション。
お約束ってやつだ、多分。
199 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:03:59.03 ID:c3OzPGO10





純ちゃんのマッサージが終わった後、
布団の上に広げていたスーパーオールスターパックを席に運び直す。
四人で席に座ると、憂ちゃんがダージリンを給仕してくれた。
給仕役がよく似合うけど、新軽音部でも憂ちゃんが給仕してるんだろうか?
本人に訊くのも何だし、今度、梓に訊いてみる事にしよう。

ちなみに席に座ってる四人は、私、純ちゃん、梓、和だ。
私は元梓の席、和は元ムギの席、純ちゃんは元澪の席、梓は元私の席に座ってる。
勿論、残ってるのは元唯の席だ。
後で憂ちゃんがその席に座ったら、軽音部企画会議を始めようと思う。

そう。
わざわざ私が元私の席に座らずに、
元梓の席に座ってるのは、これから軽音部企画会議を始めるためなのだ!
やっぱり企画会議の時はこういう席割じゃないとな。
議題はまだ誰にも言ってないけどな!


「何をするつもりなの、律?」


梓が探し出してくれた地図に視線を落としながら、和が私に小さく訊ねた。
私は小さく溜息を吐いて、先に突っ込んでおく事にする。


「何をするつもりっつーか、
そっちこそ今まで何をしてたんだよ、和は……」


「何をって……、
地図を読んでいたんだけど?」


「知っとるわ!
私が憂ちゃんにマッサージをされてる時も、
皆と色んな話をしてる時も黙々と地図なんか読んでからに!
居ないのかって錯覚するくらいだったわ!
何つーか……、会話に入ってくれよ……」


私が言うと、和は真顔で首を傾げた。
私の言ってる事が意外で仕方が無いって様子だった。
200 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:06:18.20 ID:c3OzPGO10
「え? 会話に参加してよかったの?
律達、楽しそうだったから、邪魔しちゃ悪いなって思ってたんだけど。
私が軽音部の輪の中に入っちゃっていいものか分からなかったのよ」


「お気遣いありがとう、和……。
でも、和ももう身内みたいなもんなんだからさ、
遠慮せずにどんどん会話の中に入って来てくれよな」


「そうね……、ありがとう、律……。
私ももうちょっと遠慮をやめないといけないわね。
でも……」


「でも、何だよ?」


「貴方達が本当にいいチームに見えたのよ。
一人だけ先輩が混じってるなんて思えないくらい。
だから、ちょっと会話に入りにくかったのよね。
そうね……。
律がもしも留年してたら、今頃はこんな軽音部になってたのかしらね?」


「縁起でもない事を言うなよ……」


私はげっそりとして突っ込みながらも、実はちょっと驚いていた。
私が考えていた事をそのまま和が考えてくれていた事に。
実は私も和と同じ事を考えていたんだ。
この四人で軽音部をやれたら、どうなるんだろうって。
すっごく楽しそうだなって。

でも、それを頭の中で思うのと、口にするのでは全然違う。
それを言葉にしていいものか、本気で迷う。
そのための軽音部企画会議をしようと思ってたわけだけど、
それが三人の心を傷付ける事になるんじゃないかって不安になるんだ。


「軽音部かあ……」


ドーナツを口にしながら、純ちゃんが遠い目を浮かべる。
いつも明るい純ちゃんに似合わず、寂しそうな表情に思えた。


「ライブやりたかったよね、憂、梓。
そりゃ完璧ってわけじゃないけどさ、
それでも私達の曲を澪先輩達に聴いてもらいたかったー!
でも、流石にスミーレ達が居ないとなるとなー……。
ギターとベースだけってのもねー……。
せめて、ドラムが居ないと……。
今更ドラム打ち込みってのも味気無いし、あー、悔しい!」


「無茶言わないの、純。
周りがこんな状況で、そんな事言ってられないでしょ」


「何よー。梓はライブやりたくないのー?」


「そりゃ……、やれるもんならやりたいけど……」


純ちゃんが言うと、梓も悔しそうに目を伏せて呟いた。
そっか……。
やっぱり二人ともライブをやりたかったんだな……。
私だって、梓達の前でライブをやりたいしな……。
201 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:07:15.77 ID:c3OzPGO10
「私……、ドラムやろうかな……。
律さんや菫ちゃんのドラムを見てただけだからね
全然、自信無いけど、純ちゃん達の演奏が聴いてもらえるなら頑張ってみる!」


給仕を終えた憂ちゃんが決心した表情で元唯の席に座る。
憂ちゃんがドラム……。
呑み込みの早い憂ちゃんの事だ。
きっと少し練習しただけで、見事なドラム捌きを見せてくれる事だろう。
だけど、それは……。


「それは駄……」


「駄目だよ、憂!
憂はお姉ちゃんに練習した成果を見せるんでしょ?
ドラムでも一応の練習の成果にはなるけど、
やっぱり憂がこれまでわかばガールズでやって来た事を見せなきゃ意味が無いって!
そうでしょ?」


そう言ったのは純ちゃんだった。
私が言おうとした事を全部言われてしまった。
でも、それが嬉しい。
新軽音部……、『わかばガールズ』はちゃんと機能してるんだ。
お互いを思いやって、最善のために動けてるんだ。

視線を向けてみると、梓も嬉しそうに純ちゃん達を見つめていた。
部員達の繋がりを部長として嬉しく感じてるんだと思う。
部長ってのはこれだからやめられないんだよな。


「でも……、でもね、純ちゃん……。
私、やっぱりお姉ちゃん達に、私達の演奏を聴いてもらいたいよ……。
梓ちゃんも純ちゃんもそのために頑張って来たの知ってるから、だからね……」


憂ちゃんが複雑な表情で呟く。
純ちゃんが自分の事を気遣ってくれて嬉しいけど、
憂ちゃんにもどうしても譲れない所があるんだろう。
全員が全員の事を思ってて、だからこそ、譲れなくて……。

だから、私は決心した。
これ以上、後輩達に重荷を背負わせる必要は無い。
後は私が勇気を出せば済むだけの話だ。

私は席から立ち上がり、両手を掲げる。
わかばガールズのドラムの子(確か菫ちゃん)に、
心の中で謝ってから、高鳴る鼓動を抑えて力強く宣言してみせる。
202 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:08:28.34 ID:c3OzPGO10
「おっしゃ、話は聞かせてもらったぜ、わかばガールズの皆さん。
忘れてもらっちゃ困るぜ。
ここに放課後ティータイムの伝説的なドラムスが居るって事をな」


おどけた言い方をしてはいたけど、本当は緊張で息が詰まりそうだった。
そういう言い方しか出来なかった。
正直、余計なお世話なんじゃないかって気がしてる。
梓達はわかばガールズって新バンドでセッションをしたいんだ。
私達に練習の成果を聴かせたいんだ。
そこに私が参加してどうするんだって話だよ。
余計な上に邪魔者以外の何者でもない。
でも、私はわかばガールズを放ってはおけなくて……。
余計なお世話でも、力になりたくて……。
だから……。

しばらくの沈黙。
立ち上がった私に誰も何も言わない。
わかばガールズがライブをするって意味を分かってない。
そんな風に思われたのかもしれなかった。
私なんかが菫ちゃんの代わりになれるはずもない、とも思われてるのかもしれない。

思わず目を瞑る。
やってしまったのだろうか……。
傷付けてしまったんだろうか……。
わかばガールズのメンバーが揃ってないという事を実感させてしまったんだろうか……。

不意に、椅子が動く音がした。
恐る恐る目を開いてみると、梓がその場に立ち上がってるのが目に入った。
梓は真剣な顔をして、こう呟いた。


「え?
伝説的なドラムって誰でしたっけ?
和先輩でしたっけ?」


言い終わった後、梓が意地悪く微笑む。
からかわれたんだと気付き、私は梓に掴み掛ろうと腕を振り上げる。


「中野ー!」


一瞬、梓は日焼けしてるんだって事を思い出し、
掛ける技をチョークスリーパーからアイアンクローに変更する。
梓の頭を軽く掴み、手の中でクルクルと回してやった。
203 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:09:04.54 ID:c3OzPGO10
「ここに居るだろー。
放課後ティータイムのドラムスの田井中律さんがー!」


「いえ、律先輩が放課後ティータイムのドラムスって事は知ってますけど、
律先輩は普通のドラムスで、伝説的なドラムスではなかったはずなんですよね。
おかしいですね。
放課後ティータイムの伝説的なドラムスって誰なんでしょう?」


「中野あずにゃんこー!」


叫びながら、もう一度、梓の頭をクルクルと回してやる。
確かに伝説的なドラムスは言い過ぎだったかもしれんが、
そんな言い方をしなくてもよかろうが……。
だけど、私の心は落ち着いていた。
多分、私の緊張を感じてくれた梓が軽口を叩いてくれたんだと思う。
それが嬉しくて、高鳴っていた胸も治まって来ていた。

ちょっと思い付いて見回してみると、
純ちゃんも憂ちゃんも、和ですらも苦笑してるみたいだった。


「いいんですか?」


憂ちゃんが苦笑したまま、私に訊ねる。


「律さん、わかばガールズのドラムになってくれるんですか?」


その表情は苦笑を浮かべながら、申し訳なさそうに見えた。
ライブを見せるはずだった相手をバンドに参加してもらっていいのかな、って感じだ。
私は梓の頭から手を放して、小さく首を横に振った。


「ううん、違うよ、憂ちゃん。
私はわかばガールズのドラムスにはならない。
わかばガールズのドラムスは一人だけで、菫ちゃんって子だけだよ」


「え? それじゃ……」


「私は単なる助っ人だよ。
わかばガールズのメンバーの手助けのために来たお助けキャラの一人。
やっぱり、わかばガールズは正メンバーで演奏するべきだと思うんだ。
その時を私も楽しみにしてるしさ。
でも、いつになるか分からないその時を待ち続けるのも、お互いに辛いでしょ?
だから、それまでの今だけのコラボユニットってのは、どうかなって思うんだけど……」


「いいですねー、コラボユニット!」


思いの外、純ちゃんが楽しそうに言ってくれた。
私だって、考えるだけで楽しくなって来る。
コラボレーション。
思い付きで言ってみた事だけど、すごく悪くない気がした。
私は席に座り、人差し指を立てて言ってみる。
204 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:11:42.61 ID:c3OzPGO10
「これこそまさに炭水化物と炭水化物の夢のコラボレーション!」


「炭水化物ばかり食べてると太りますよ」


突っ込んだのはやっぱり梓だった。
確かにそうなんだが、そこは突っ込むなよな……。


「何だよ、梓はコラボに反対なのか?」


言いながら、不意に気付いた。
今朝、私は梓に放課後ティータイムの再結成をしようと伝えた。
それを忘れたみたいにコラボユニットを組むって言うなんて、虫が良過ぎただろうか?
不安を隠し切れず、梓の表情を覗き込んでみる。
再結成の事は決して忘れてないんだって思いも込めて……。


「いいえ。いいと思います、コラボユニット!
律先輩もたまにはいい事考えるじゃないですか!」


たまにはって何じゃいな……。
でも、梓が笑顔でそう言ってくれた事には安心出来た。
それに、コラボユニットを思い付けたのは、梓の軽口のおかげだった。
梓がドラムとは全く関係の無い和の名前を挙げてくれたおかげで、
関係無く見える物同士のコラボレーションってやつを思い付けたんだ。


「コラボユニットね。
それなら一つ提案があるんだけど……」


和が眼鏡を押し上げながら、口を開く。
今度はちゃんと私達の会話に入って来てくれたらしい。
それでこそ和だ。
むしろ、そうでないと困る。
これから和にも頑張ってもらう予定なんだからな。
まあ、とりあえずは和の提案を先に聞く事にしよう。


「コラボユニットなら、新しいユニット名を考えたらどうかって思うのよ。
放課後ティータイムじゃなく、わかばガールズでもなく、
完全に新しい貴方達だけのユニット名を……。
それが本当のコラボレーションじゃないかしら?」


「新しいユニット名……」


ワクワクした様子で純ちゃんが呟く。
ワクワクしてるのは私だって同じだった。
何も出来なかった私に、出来るかもしれない何かがやっと見つかったんだ。
このユニットのライブで澪やムギ、唯を元気にしてやれるかもしれない。
でも、私はそれより先に和に伝えなきゃいけない事があった。
205 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:13:17.76 ID:c3OzPGO10
「貴方達だけのユニット……って他人行儀だな、和」


「どういう事……?」


和が首を傾げ、梓達も一緒に不思議そうな視線を私に向けた。
私は笑顔になって、和の肩を叩いて言ってやる。


「新ユニットには和にも参加してもらいます!
丁度キーボードが空いてるから、和のパートはキーボードな!」


「ちょっと、律……!
いきなりそんな事言われても……!」


珍しく和が動揺した表情を見せる。
予想もしてなかった突然の展開だろう。
私だって数分前まで考えもしてなかったんだ。そりゃ流石の和だって驚く。
無茶な事を言ってる自覚はある。
でも、このユニットのキーボードは、もう和しか考えられなかった。
こうなりゃ勢いで攻めるだけだ。


「頼むよ、和。
ホント言うとキーボードはムギでもいいんだけど、
でも、出来る限りこのユニットには、放課後ティータイムのメンバーを入れたくないんだ。
そもそもがムギ達にわかばガールズの曲を聴かせるためのユニットなんだしな。
無茶を言ってるのは分かるけど、頼む。
分からない所があったら、私も教える。
楽譜くらいなら私も読めるしさ。
だから……!」


「で、でも……、私もキーボードなんて触った事も……」


「和ちゃんがキーボードをしてくれたら、私も嬉しいなあ……」


「ちょっと……、憂までっ?」


憂ちゃんが甘えた視線を向けると、和が軽く叫んで頭を抱える。
誰にでも毅然とした態度を崩さない和だけど、憂ちゃんには弱いらしい。
年下の幼馴染みなんだ。
そんな妹みたいな子の頼みを断れるほど、和も冷たい人間じゃない。
梓達も和に視線を向け、最後の駄目押しとばかりに憂ちゃんがまた言った。
206 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:14:16.29 ID:c3OzPGO10
「和ちゃん、ピアノ弾けたよね?
小さい頃、ピアノを上手に弾ける和ちゃんが羨ましかったんだ。
また和ちゃんのピアノを聴かせてくれたら、私、すっごく嬉しい!」


「いつの話してるのよ、憂……。
ピアノが弾けたのはすごく昔の話よ?
今じゃ犬のワルツが軽く弾けるくらいだし……」


「犬のワルツ……?」


私が訊ねると、梓が私の耳元で囁いて教えてくれた。


「『猫踏んじゃった』のロシアでの曲名ですよ、律先輩」


「ああ、『猫踏んじゃった』か。
梓も変な事知ってんな……。あ、和もか。
でも、それなら私も知ってる事があるぞ。
『猫踏んじゃった』って、楽譜で見るとすっげー難しそうな曲なんだって。
それが弾けるんなら大丈夫だよ、和。
何も私達は難しい課題曲でコンテストに参加するわけじゃないんだし。

なあ、梓?
私達に聴かせようとしてた曲って、そんなに難しい曲じゃないんだろ?」


「はい、新人も多いですし、それほど難しい曲じゃないです。
えっと、ですね……。
私達が演奏するつもりだった曲は……」


少し躊躇いがちに梓が私の耳に口を寄せる。
何を恥ずかしがってるんだろうと思ったけど、聞いてすぐにその理由が分かった。
なるほどな……。
確かにその二曲を演奏してくれるなんて、私だって照れ臭くなる。
私達の中で特に思い入れの強い二曲だしな。
そんなに難しい曲ってわけでもない。
練習すれば、和だってすぐに弾けるようになるはずだ。

もう一度、私達は和に視線を向ける。
強い強い視線。
和は顔を赤くして、何度か眼鏡に触れてたけど、遂に折れて言った。


「分かったわよ……。
どうしても嫌ってわけじゃないし、私だって唯達の喜ぶ顔は見たいもの。
ただし、教えるって言ったからには、ちゃんと教えてもらうわよ、律?
いつもの書類みたいに忘れるのは許さないわよ?」


私は「分かってるよ」って笑った後、
和の手を取って「ありがとう!」って大声で叫んだ。
こうして、私達の新ユニットの結成が決まった。

先の見えない世界だけど、
私達のライブで、澪達を元気付けられたらいいなって思う。
207 :にゃんこ [saga]:2012/03/06(火) 20:16:16.54 ID:c3OzPGO10


今夜はここまでです。
ちょっと計算してみたら、長さが原稿用紙500枚分超えてました。
展開遅くてすみません。
そろそろ話も進むと思います。
208 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/07(水) 02:12:30.62 ID:igfV2GfDO
乙です。
前作同様これほど心が引き込まれる様なSSは他に見た事がありません。これからも素晴らしいお話しを描いていってください。
応援しています。
209 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:49:04.84 ID:KZCU44ik0





「というわけで、
これから新ユニット第一回企画会議を始める」


和の手を握るために歩み寄っていた元ムギの席の近くから、元梓の席に戻って座る。
そのまま机の上で手を組んで顎を乗せ、私は凛々しい表情を浮かべてみせた。


「律さん、格好いいです!」


いつかの唯みたいに、憂ちゃんが私を褒めながら拍手する。
それに続いて純ちゃんと梓、和も軽く拍手をしてくれる。
何だか懐かしい感覚だ。
同時に新鮮でもある。
私と和が留年してたら、今頃は本当にこういう軽音部になってたのかもしれない。
いや、私はともかく、和が留年する事は無いだろうけどさ。


「それでまずは何を会議するつもりなのかしら?」


会議には慣れ親しんでるはずの和が、私に静かに訊ねる。
自分も関係する事になったってのに、
騒ぐわけでもなく、緊張して様子もなく、落ち着いた態度だった。
そりゃ元生徒会長なんだ。
自分が関係してようと、会議なんてお手のものなんだろうな。

企画会議の議長は和に譲るべきかも、
って一瞬思ったけど、すぐに思い直した。
言い出しっぺは私なんだ。
会議は苦手だし、私じゃ力不足なんだろうけど、
出来る限りは私が責任を持って、このユニットを引っ張っていきたい。
練習の指示なんかは梓にやってもらう予定だけどな。
210 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:49:57.06 ID:KZCU44ik0
いやいや、手を抜いてるわけじゃないぞ。
この新ユニットはあくまでわかばガールズメンバーの臨時ユニットなんだ。
私や和は単なる助っ人なんであって、
練習の仕方や指導、演奏する曲目なんかは現部長の梓に任せた方がきっといい。
その方が本来のわかばガールズに近い演奏が出来るはずなんだから。

勿論、梓一人じゃどうにもならなくなった時には、
さりげなく手助けをするつもりだけど、多分、そんな心配は無いだろう。
この四ヶ月、梓は新軽音部を引っ張って来た。
憂ちゃんや純ちゃんの助けがあったからでもあるんだろうけど、
それだけ部員に慕われるのも梓の実力だし、きっと梓は私よりも部長に相応しい人材だとも思う。

まあ、前の軽音部の部長に相応しかったのは、私だってのは譲らないけどな。
つーか、部長が出来た奴が他に居なかったとも言うな。
澪は人の前に立てる性格じゃないし、
ムギは陰から人を支えるタイプだし、唯については言わずもがな。
あ、でも、唯が部長ってのも意外と面白かったかもしれない。
あいつの発想は毎回どこかずれていて、それが私達に驚きと新鮮さをくれる。
唯が部長なら、どこかずれてるけど、面白くて特別な軽音部を結成出来たかもな。

でも、唯が部長だと色々大変そうだな……。
そう思えて、何だかちょっと苦笑してしまう。


「……律? どうしたの?
会議の議題、考えてなかったの?」


和が首を傾げて私に訊ねる。
おっと、今は企画会議の最中だった。
言い出しっぺとして、ちゃんと最低限の責任は果たさなきゃな。
私は咳払いして、「悪い悪い。ちゃんと考えてるって」と和に謝ってから続ける。
211 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:50:27.59 ID:KZCU44ik0
「会議の議題は和の発案通り、新ユニット名から考えたいと思ってるんだ。
実は一年以上バンド名を考えてなかった私が言う事じゃないんだけど、
やっぱり名前ってのは大切な物だと思うんだよな。
結局、さわちゃんに付けてもらった名前なんだけど、
『放課後ティータイム』ってバンド名が決まってから、皆の心が近付いた気がするんだよ。

最初こそ『放課後ティータイム』っバンド名は無いだろって思ってた。
私としては、もっとカッコいい名前が良かったしな。
でも、その内、愛着が湧いて来て、
いつの間にかこの名前しか考えられなくなってた。
勿論、唯や澪達もそうだと思う。
だからさ、名前を付けておくのは大切な事だって気がするんだよ。
思い付いた名前があったら、どんな名前でもいいから各自言ってくれないか?」


言い終わってから、私は全員の顔を見回した。
純ちゃん、憂ちゃん、和、梓がそれぞれ真剣な顔で考え込んでるみたいだった。
皆、どんな名前を考えてるんだろう。
私の中でも何個か候補はあったけど、
正直、どんな名前でも良いんじゃないかって思ってる。
皆で考えて、皆で納得出来る名前があれば、どんな間抜けな名前でもそれでいいんだ。

十秒くらい経った頃、
真剣な表情を私に向けて、純ちゃんが手を挙げた。


「はいっ! 田井中議長っ!」


「はい、佐々……鈴木さん!」


「……律先輩、また私の苗字、間違えませんでした……?」


「気にしないでくれ。
では、鈴木さん、思い付いたユニット名をどうぞ!」


「もう……、律先輩ったら……。
んー……、ま、いいか。
んじゃ、私の考えたユニット名を発表しますね。
『ウィー・アー・レジェンド』ってのはどうでしょうかっ?
カッコいいと思うんですけど、どうですかねっ?」
212 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:53:07.34 ID:KZCU44ik0
純ちゃんが立ち上がって、興奮気味に拳を握る。
本気で推したい名前なんだろう。
確かにカッコいい名前なんだけど、何処かで聞いた事がある気がするぞ。
何だったっけ?

私が首を捻って考えていると、呆れ気味の口調で梓が突っ込んだ。


「純……、それ映画のタイトルのパクリじゃない……。
前、純の家で一緒に観たの憶えてるよ。
まあ、あっちは『アイ・アム・レジェンド』だけどね」


あー、あの映画か。
私も聡がレンタルして来たのを一緒に観た事がある。
そういや、確かあの映画の設定は……。
私の考えをよそに、純ちゃんが少しだけ頬を膨らませて続ける。


「パクリじゃないよ。オマージュって言ってよね。
それにこれはあの映画と私達の状況が似てるって意味も込められてるんだから。
誰も居ない世界で伝説となる私達のロックバンド……!
どう? カッコいいでしょー?」


そうそう。
あの映画はそういう設定だった。
まあ、誰も居ない世界って設定だったはずが、
CMでは人の姿が映ってるっていう速攻ネタバレがあったんだけどな。
いいのか、それ。
別にそれは重要な設定じゃないって事なんだろうけどさ。

でも、純ちゃんの言う通り、カッコいい名前ではあった。
今の私達の状況とぴったり合ってるっていうネーミングの由来もある。
やるじゃん、純ちゃん。
こりゃ反対意見が無かったらこれで決まりかな?

私はそう思ってたんだけど、
それには梓が首を振って「その名前はやだな……」って言った。
その表情は少しだけ辛そうに見える。
梓の表情を見た純ちゃんは、表情を曇らせて訊ねる。


「どうして?
私は普通にカッコいい名前だと思うんだけど……」


「うん……、確かにカッコいい名前だとは思うよ?
でもね、純……。あの映画の結末って……」


「結末……?
ん……、そっか……。そうだったよね……」


純ちゃんが席に座り、申し訳なさそうに呟く。
あの映画の結末か……。
はっきりとは憶えてないけど、確か主人公が伝説になっちゃうんだよな。
伝説になる事自体はいいんだけど、主人公個人としてはあんまり幸せな結末とは言えない。
私だって……、この状況がその主人公と同じ結末を迎えるのは嫌だ。
伝説になんかならなくていい。
元の生活に戻れさえすれば、
私達にとっちゃそれでハッピーエンドなんだから。
213 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:53:35.83 ID:KZCU44ik0
「ごめんね、梓。
私、カッコいい名前だって思ってから、それ以上の事をよく考えてなかったみたい。
そうだよね……。そういう事も考えておかなきゃね……」


純ちゃんが頭を下げると、梓も苦笑しながら頭を下げて謝った。


「ううん、こっちこそごめん、純。
我ながら神経質だって思うんだけど、ついそんな風に考えちゃって……。
カッコいい名前を考えてくれてたのに、ごめんね……」


どっちも悪くない、って私は思った。
純ちゃんはカッコいい名前を思い付いて、皆に発案した。
梓はそのネタ元の結末に嫌なイメージを持った。
それだけの事なんだ。
二人とも間違った事なんかはしてない。
それだけに、これから梓と純ちゃんに出来る事は、お互いに謝り合う事だけになってしまう。
二人とも悪くないんだから……。

だけど、そんな事をさせちゃいけないんだ。
こんな時こそ、普段はあんまり役に立たない私の言葉が必要なんだ。
私は軽く笑ってから、表情を曇らせる純ちゃんに言葉を届ける。


「純ちゃんが考えてくれた名前、カッコいいと思うよ。
でも、悪いんだけど、私も梓と同じくちょっと反対だな。
映画の結末がどうのって話じゃなくてさ……」


「え……?
どうしてですか、律先輩?」


「略称が作りにくいんだよね。
『ウィー・アー・レジェンド』じゃん?
やっぱ、バンド名は略しやすくて憶えやすい名前が一番だよ。
『ウィーレジェ』って略せなくもないけど、ちょっと語呂が悪いよね。
『We Are Regend』の頭文字だけ取って、W・A・Rで『ウォー』ってのもアレだし」


「それは確かに……。
『ウィーレジェ』は言いにくいし、
『レジェンド』だけだと他のバンドと被りまくりそうですよね……」


純ちゃんが少し笑って頷いてくれる。
視線を向けてみると、梓の表情も緩んでるみたいだった。
どうやら、少しは議長の役割を果たせたみたいだ。
そう思った瞬間、和が深刻そうな表情で呟いた。


「ねえ、律……。
こんな時にすごく言いにくいんだけど……」


「な、何だよ、和……」


「レジェンドのスペルはL・E・G・E・N・Dで頭文字はLよ。
律……、W・A・Rでウォーって事はスペルをR・E・G・E・N・Dって間違えてたでしょ」


「うっそ、マジで!?」
214 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:55:09.54 ID:KZCU44ik0
思わず叫んでしまった。
スペル間違いとか恥ずかしい……。
しかも、確か受験の時の英語の長文で、伝説をRegendって書いた覚えあるぞ……。
あそこ配点高かったのに、間違えてたって事かよ……。
よく受かったな、私……。

恥ずかしくなって頭を掻いてると、
梓が今にも笑い出しそうな顔で私を見ている事に気付いた。
完全に馬鹿にされちゃってる気がするぞ……。
梓が笑ってくれたのは嬉しいけど、馬鹿にされるのはちょっと悔しい。
私は口を尖らせて、梓に向けて呟いてやる。


「何だよー……。
私のスペル間違いより、今大切なのは新ユニット名だろー……?
梓は何か名前を思い付いてないのかよー……?」


「私ですか……?
いえ、思い付いてなくはないんですけど……、まだちゃんと固まってなくて……」


「ちゃんと固まってなくていいんだよ。
そのための会議だろ?
思い付いた先からとりあえず言ってみてくれよ。
駄目なら駄目って事にしておかないと、新しい名前も考えられないだろ?」


「それはそうなんですけど……。
うー……、そうですね……、分かりました。
じゃあ、単に思い付いただけの名前ですけど、笑わないで下さいよ?」


「笑うかどうかは聞いてみないと分からん。
ま、とりあえず言ってみてくれよ」


私が言うと、梓が顔を少し赤くした。
そんなに変な名前を思い付いたんだろうか?
いや、変な名前って言うより、自分のネーミングセンスに自信が無いのかもな。
梓は私と同じく作詞とかには全然関わって来なかったから、
新ユニットにはどんな名前が合うのか見当も付かないんだろう。
数秒躊躇ってから、ぼそっと呟くように梓が言った。


「『ほうかごガールズ』……。
ほうかごは平仮名です……」


「まんまかよっ!」


「そのまんまっ?」


私と純ちゃんの突っ込みが重なる。
途端、梓が顔を真っ赤にして、顔を伏せた。


「だから……、ちゃんと固まってないって言ったんですよー……!」


恨み節みたいに梓が呟くと、
憂ちゃんがその梓の背中を慰めるみたいに撫でた。
いや、梓の言いたい事は私にも分かる。
折角のコラボユニットなんだ。
二つのバンドの名前を上手く組み合わせたネーミングにしたかったんだろう。

実を言うと、私も同じ様な事を考えてはいた。
流石にバンドの名前を組み合わせるのはそのままな気がしたから、
メンバーの特徴を組み合わせた名前ってのはどうかと思ってたんだ。
例えば梓は『猫』、『キャット』、『にゃんこ』的な名前。
憂ちゃんは『ポニー』、『リボン』、『妹』、『シスター』。
純ちゃんは『モコモコ』、『ボンバー』……、いや、何でもない。

とにかくそんな感じの名前を組み合わせようかと思ってた。
『にゃんこタイムボンバーシスターアンドロメダ』ってな感じで。
ちなみに『タイム』が和で私が『アンドロメダ』だ。
『タイム』は時間にうるさい和のイメージだけど、
『アンドロメダ』に深い意味は無かったりする。単に語呂です、ごめんなさい。
……流石にこの名前は、私の心の中だけに秘めておこう。
215 :にゃんこ [saga]:2012/03/08(木) 18:57:40.87 ID:KZCU44ik0


今回はここまでです。
応援ありがとうございます。
まだまだ続く予定ですが、出来る限り早めに提供出来るよう頑張ります。
216 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:14:11.31 ID:AHpyqVlv0
「律先輩はどんな名前を考えてるんですか?」


赤い顔が治まらないままチラリとだけ私を見て、梓がぼそっと呟いた。
普段は高めの声が妙に低くなってて何か怖い。


「ん? あー、私のは後でいいじゃん?
ほら、私って議長だし?
議長ってのは意見をまとめるのが仕事だからな」


『にゃんこタイムボンバーシスターアンドロメディア』(ちょっと変えてみた)。
とは、言えないよな。
私は梓から視線を逸らして、誤魔化して言ってみた。


「議長が名前の候補を出したっていいんじゃないですか?」


その誤魔化しに気付いてるみたいで、やっぱり梓は譲らなかった。
私より小さな身体をしてるくせに、その言葉には異様な威圧感があった。
私は梓に気圧されながら、どうにかもう一度言い訳してやる。


「いや……、だからな……。
そうは言っても、議長ってのはあんまり個人的な意見を口にしちゃ……」


「いいから教えて下さい」


「はい……」


負けた……。
つーか、怖いぞ、梓ちゃん……。
『ほうかごガールズ』って名前、そんなに恥ずかしかったのかよ……。
突っ込みはしたけど、私としてはそんなに悪い名前じゃないって思うんだけどなあ。
とにかく、根負けしちゃったからには、私の意見を出さないわけにはいかないか。
一応、候補が無かったわけじゃない。
私は頬を掻きながら、まだジト目の梓の瞳を見つめて言ってやる。


「そうだな……。
私が考えた新ユニット名は『真・恩那組』なんだけど、どうだ?」


「律先輩だってそのままじゃないですかっ!」
217 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:14:39.52 ID:AHpyqVlv0
梓の激しい突っ込みが音楽室に響く。
予想はしてた事だけど、ちょっとびっくりした。
私と同じく純ちゃん達もびっくりしてるのかと思ったんだけど、
何故だか二人は楽しそうな表情で私と梓を見つめていた。
何だ何だ?
二人とも何でそんなに楽しそうなんだ?

私がその答えを出せない内に、梓が突っ込みを続ける。


「『恩那組』って、まだ『放課後ティータイム』って名前が決まってない時に、
律先輩が候補として挙げた名前じゃないですか……。
まだこだわってたんですか、その名前……」


「えー、いいじゃんかよー。
カッコいい名前だろ、『恩那組』?
バンド名ってのは、ちょっとダサいくらいが逆にカッコいいんだって。
しかも、『真』だぜ?
新しい『新』じゃなくて、真実の『真』の方なんだぜ?
いい名前じゃんか、『真・恩那組』!」


「自分でダサいって分かってるんじゃないですか……」


呆れた口振りで梓が呟く。
分かってねーな、世の中にはダサカッコいいって言葉もあるんだぞ。
ロボットとか特撮ヒーローも、微妙にダサい所があるからカッコいいんだよ。
半分ずつ二色で区切られてる奴とか、宇宙に行く白い奴とか、
一見は酷く見えるけど、慣れるとカッコよく思えて来るもんなんだ。

バンド名だってそうだ。
深い意味があって付けられたバンド名なんて、実はあんまり無い。
単に路面電車やホルモンが好きだから付けられたバンド名ってのもあるんだ。
でも、そんなバンドでも、今じゃ大勢のファンに受け容れられてる。
要は名前じゃなくて、何をやったかだと思うんだよな。
まあ、それを声を大にして主張するのは、
流石にどうにも気恥ずかしいから出来ないんだけどさ。


「それに『恩那組』ってパクリじゃないんですか?
いえ、昔居たらしいアイドルグループのパクリって話じゃないですよ?
それよりもですね、律先輩の大学のお知り合いの方に、
そういう名前のユニットがあるって聞いた憶えがありますけど……」


「えっ、実際あるユニットなのっ?」


梓が言うと、純ちゃんが目を丸くして軽く叫んだ。
意外と梓も私達の大学事情に詳しいな。
つーか、私がメールで教えたんだっけ?
……メールしたような気がする。
梓もよくそんな事憶えてるよな……。

憶えてるって言えば、
そもそも私が昔発案した名前って事もよく憶えてるもんだ。
あれ以来、話題にした事が無かったはずの、言わば一発ネタってやつだ。
でも、梓はしっかりと憶えていたらしい。
まあ、それだけインパクトのある名前だったって事なんだろうな。
ある意味、私の目論見は成功してたってわけだ。
218 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:15:05.97 ID:AHpyqVlv0
私は嬉しくなって口の端を緩め、
梓の頭に軽く手を置いてから続けた。


「パクリじゃないぞ。オマージュでもない。
『恩那組』ってのは、実は私が中学の時から温めてたバンド名だからな。
思い付いてたのは私の方が遥かに早い……はずだ!
つまり、私がオリジナルだ。
私が……、私達が……、オリジナルだ!」


「自慢気に言う事ですかっ!
しかも、私達がオリジナルって事は、
もうバンド名が『真・恩那組』で決定してる……っ?」


梓がまた大袈裟に突っ込んでくれる。
結構律義な奴で、何だか嬉しい。
私の突っ込みは本来は澪なんだけど、
澪の奴、長い付き合いのせいか、和のやり方を学んだせいか、
最近はどうにも突っ込みがおざなりなんだよな……。
それもそれで仲が良い証拠なんだろうけど、やっぱたまにはこういう突っ込みも欲しい。

また何となく周りを見渡してみる。
思った通り、やっぱり何故か純ちゃん達が私と梓を楽しそうに見ていた。
うーん……、何なんだろうな、一体……。
滅多に見れない梓の突っ込みが面白い……、とかかな?

でも、梓って基本は突っ込み……だよな……?
純ちゃん達の前じゃ、突っ込みじゃないのか?
いや、梓の突っ込み体質は間違いないはずだから、
放課後ティータイムの前とわかばガールズの前では、
受け答えややり取りのテンションが違ってるのかもしれないな。
梓って純ちゃんの前じゃ妙にクールだったりするから、ひょっとしたらそうなのかも。

そう考えながら、梓の頭に置いていた手を離して首を傾げていると、
さっきまでのテンションの高さが嘘みたいなクールな梓の突っ込みが私を襲った。


「残念ですけど、律先輩、『真・恩那組』は却下します。
パクリはやっぱり駄目ですよ。
先に考えてたって、現実的には先に発表した者勝ちです。
裁判やっても、絶対に勝てないと思いますよ」


「いや、そりゃそうなんだろうけど……。
うーん……、やっぱそうなのかなあ……。
たまたま思い付いた名前が被ってただけだから、
私達もその名前を使いたい……、ってのは駄目なのか?
和はどう思う?」


おばあちゃんの知恵袋……じゃなくて、皆の辞書こと和に訊ねてみる。
こういう法律が関わって来そうな話は、和に訊くのが一番だ。
和はダージリンで一口喉を潤してから、真面目に応じてくれた。
219 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:15:38.79 ID:AHpyqVlv0
「駄目ね。たまたま被ってるって話は法律的には通じないわ。
東に急ぐって書いて『のぼる』って読ませてた俳優が居たけど、
有名な会社と名前が一緒になるからって、裁判で負けた事があるのよ。
本名ならともかく、芸名だものね。
故意にしろ、偶然にしろ、法律的にそういうのは認められないの。
ちなみにその俳優は、今は東に生きると書いて『のぼる』さんになってるわ」


「その俳優……って、私だってその人の名前くらいは知ってるんだが。
でも、その裁判の事は知らなかったな。
そっかー……。やっぱ駄目なのか……」


ちょっと口を尖らせて呟いてみる。
別にそんなに残念ってわけじゃないんだけどな。
でも、恩那組って名前をもう使えないとなると、残念と言うか寂しい感じはする。

その私の様子を見たからなのか、和が軽く笑った。


「まあ、内輪だけの限定ユニットなんだから、そこまで深く考える必要は無いんだけどね。
何もメジャーデビューするってわけでもないんだし。
これはあくまで法律的には、って話よ。

それにね、私はそんなに悪くない名前だと思うわよ、『真・恩那組』って」


「えっ?」


声を漏らしたのは梓だった。
和が『真・恩那組』を悪くないって思ってたのが意外だったんだろう。
私だって意外だったけど、そんな信じられないって顔すんなよな……。
梓の方に視線を向けて微笑んでから、和が話を続ける。


「『真・恩那組』……。
名前自体のセンス云々はさておき、インパクトはあるわ。
素人考えで悪いんだけど、バンド名にはインパクトが必要だと思うの。
少なくとも、『真・恩那組』って一度聞いたら忘れられない名前よね?
私見だけど、名前ってそういうのでいいと思うのよ。
『放課後ティータイム』だって、単純だけどインパクトがあるものね。

それに梓ちゃんの話を聞く限り、
『恩那組』って貴方達だけの思い出の一つみたいね。
それって大切な事よ?
演奏を聴かせる相手は唯達なんだから、
貴方達だけに分かる単語を混ぜるのはいい考えだと思うのよ」
220 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:16:09.16 ID:AHpyqVlv0
そこまで考えてたわけじゃないけど、和にそう言われるのはこそばゆかった。
何だか私の考えを全部分かってくれてるみたいだ。
ふと思った。
よく考えれば、私達のバンドに一番長く付き合ってくれてるのは和だ。
それこそ梓より、憂ちゃんよりも深く長く付き合ってくれてる。
ずっと見ていてくれたんだ……。
だから、私達の思い出を大切にしようって思ってくれてるんだ……。

やっぱり、無理矢理だったけど、和にメンバーに入ってもらってよかった。
参加して、感じてもらいたい。
和が支えてくれた私達のバンドがどんなものだったのかって事を。
心の奥底から。

こんな状況にならなきゃ、絶対に組めなかった私達の新ユニットか……。
私と純ちゃんと憂ちゃんと和と梓がバンドを組むなんて、何だか夢みたいだ。
ドリームチームだよな、マジで。
いや、生き物が居ないこの世界に感謝してるってわけでもないけどさ。
でも、まだ練習も何もしてないけど、本当にライブを成功させたいって思う。

不意に、和がペンと紙を机の上に置いた。
何処にあったのかと一瞬思ったけど、
どうやらさっきまで読んでいた地図に挟んでいた物らしい。
さらさらと何かを描いていく。
私は身を乗り出してそれを覗いてみる。
どうやら和は放課後ティータイムのマークと、
車に付けるわかばマークを重ねて描いてるみたいだった。
描き終えてから、和が宣言するみたいに強めに言った。


「皆にばっかり候補を挙げられるのも悪いから発表するわ。
これが私の考えたユニット名よ」


「おー……、ってユニット名?
マーク……じゃなくて?」


「ええ、これがユニット名。どうかしら?」


「どうかしら……って、読み方は?」


「決めてないわ。これがユニット名なのよ」


「何だよ、決めてないって……」


私は肩を落として呟く。
和の言っている事がさっぱり分からない。
記号がバンド名ってバンドもある事はある。
でも、流石にそういうバンドだって、読み方くらいはあるはずだ。
読み方を決めてないって、一体、何だってんだよ……。

憂ちゃんと純ちゃんに視線を向けてみる。
二人とも私と同じに意味が分からないらしく、首を捻っていた。
三人で視線を合わせながら肩をすくめていると、不意に梓が笑顔になって言った。


「ああ、『ジ・アーティスト』のオマージュですね!
和先輩も聴いてらっしゃるんですね、プリンス!
その話を知ってるなんて、和先輩も通ですね!」


「ええ、嗜む程度には聴いているわ。
唯が軽音部に入ってから、少しは洋楽も聴いてみようって思ったのよ。
それと高二の頃、澪が話す話題も洋楽の話題が多かったからかしらね」


プリンス……?
そのまま王子って事じゃないよな……?
洋楽って事は……、ああ、あのプリンスか。
澪の奴、高二の頃、和と何を話してるのかと思ったら、洋楽の話をしてやがったのか……。
それと和には気の毒だが、唯は洋楽聴いてないと思う。絶対聴いてねー。
まあ、和も分かってて、聴いてみてるのかもしれんが……。
221 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:16:37.60 ID:AHpyqVlv0
和が苦笑を浮かべ、私と憂ちゃん、純ちゃんの順で顔を見回す。


「軽音部だから通じるかと思ったんだけど、意外と通じなかったわね。
『ジ・アーティスト』……、三人とも知らないの?
律から辺りの指摘を待ってたんだけど……」


「そうですよ、律先輩!
軽音部なんですから、『ジ・アーティスト』くらい分かって下さい!」


妙に高いテンションで梓が和に賛同する。
和と梓の立ち位置が同じなんて、妙な光景だな……。
つーか、自分の仲間が見つかったからって、そんなにはしゃぐなよ、梓……。
私だってプリンスくらい知ってる。
そんなに聴いた事は無いけど、相当なビッグネームって事くらいは分かる。
でも、『ジ・アーティスト』ってのが何なのかはよく分からない。
プリンスと何かの関係があるらしいって事だけは分かるんだが……。

埒が明かないと思ったのか、
梓が溜息を吐きながら私に説明を始めた。


「いいですか、律先輩?
プリンスは♂と♀のマークを組み合わせたような記号で名乗ってた時期があるんです。
錬金術に関連した意味のある記号らしいんですが、そこは省きましょう。
プリンスはですね、その記号に読み方を設定しなかったんですよ。
だから、音声では彼の名前を伝える事が不可能になったんです。
そのため、ファンやDJは彼を『ジ・アーティスト』、『元プリンス』、
もしくは『かつてプリンスと呼ばれたアーティスト』と呼ぶようになったんです。
軽音部なら常識な事ですよ?
それなのに律先輩ったら……」


いや、知らねーよ、そんな細かいエピソード……。
それって本当に常識なのかよ……。
と言うか、責められるの私だけかよ……。
純ちゃん達が知らなかった事についてはスルーなのかよ……。
多分、軽音部の中じゃ、梓と澪以外、誰も知らないと思うぞ。

しかし、梓の奴、はしゃぐ時はとことんはしゃぐよなあ……。
もしかすると、そういう話もしたくて、軽音部に入部したのかもしれないよな。
そうなると、期待に添えなくてすまんかったとは思うんだが……。


「まあ、候補よ、候補。
インパクトはあったでしょ?」


流石の和も梓にこんなに食い付かれるとは思ってなかったらしく、
ちょっとした苦笑いを浮かべながら、軽い感じに言った。
確かにインパクトはあった。
珍しく梓が食い付くくらいには、物凄くインパクトがあった。
だけどなあ……。

私は大きく溜息を吐いてから、はしゃぐ梓の頭をポンと軽く叩いた。


「落ち着け、梓。
おまえがプリンスを聴いてるのは分かった。
オマージュも悪くないと思う。
でもな、よく考えてくれ。
和の案を採用しちゃうと、
私達は『かつて放課後ティータイムとわかばガールズと呼ばれたアーティスト』、
……って呼ばれる事になっちゃうぞ?」


「……あっ」


はっとした表情で梓が呻くみたいに言った。
はしゃぎ過ぎてて、そこまで考えが至っていなかったらしい。
プリンスを聴いているとは言え、
梓もその名前で呼ばれるのは嫌らしく、それ以上の言葉を止めた。
まあ、『かつて放課後ティータイムとわかばガールズと呼ばれたアーティスト』じゃなあ……。
何か解散したみたいで気分が悪いしな……。
222 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:17:06.14 ID:AHpyqVlv0
気付けば、和が私に苦笑を向けていた。
『変な話を振っちゃったかしら?』って感じかな。
妙に食い付かれたけど、別に和が悪いわけじゃない。
梓も、まあ、ほとんど初めて出来た軽音部らしい会話にはしゃいじゃっただけだしな。
場を収めるためにも、私は梓の頭を撫でながら、大真面目な顔で皆に言った。


「ユニット名としてはともかくさ、
私達のユニットのマークとしては採用してもいいんじゃないか、これ?
わかばマークとコーヒーカップの組み合わせなんて、私達に丁度ぴったりだしさ。

そこで私は考えたね。考えちゃったね。
純ちゃんと私の案は却下されちゃっただろ?
それを無効票の二票と考えると、
残った票は梓、和、憂ちゃんの三票って事になるよな?
その三票の内の二票が確実に集まる案が私にあるんだぜ」


「そ……それって……、まさか……」


薄々感付いているのか、梓が深刻そうに呟いた。
しかし、梓には悪いが、この案をただ撃ち貫かせてもらおうじゃないか。
私は立ち上がり、右手の親指を立てて宣言してみせる。


「私達の新ユニット名……、
それは『ほうかごガールズ』だ!
和の案はマークとして採用させてもらう事にするぞ!
これで残った三票中二票だ!
マークとして考えると『わかばティータイム』の方が正しいが、
語呂が悪いし、梓の案を無駄にするわけにもいかないからな!」


「やっぱりいっ!」


エコーでも掛かりそうな梓の大声が音楽室に響く。
分かっていた反応だったが、許せ、梓。
これが一番いい形なのだ。

梓が私の左腕を掴み、必死な形相を浮かべてまた叫ぶ。
顔どころか耳まで真っ赤だ。
223 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:17:41.26 ID:AHpyqVlv0
「私の案なんて無駄にしてくれてもいいですって!
それにさっき律先輩、その名前は駄目だって言ってたじゃないですかっ!」


「いやいや、よく思い出すんだ、梓。
『おもいだす』コマンドを使って、よーく思い出すんだ。
私はまんまかよって言っただけだ。
駄目だとは一言も言っていないぞ!」


「何ですか、『おもいだす』コマンドって……。
えーっと、えーっと……!」


私に言われ、律義に梓が私の言葉を思い出そうと頭を捻り始める。
ふふふ、愛い奴じゃ。
しかし、それこそ私が狙っていた展開だと気付かなかったようだな、梓くん!

私は右手を頭の上に掲げると、早口に宣言してやる。


「新ユニットの名前、『ほうかごガールズ』でいいと思う人っ!
はいっ!」


「んもうっ! ずるいっ!」


その梓の言葉は一瞬だけ遅かった。
既にニマリと笑った純ちゃんと真顔の和が手を挙げていた。


「私も賛成しますっ!」


「マークを採用してもらえてるわけだし、異論は無いわ」


純ちゃんと和の言葉に追い込まれる梓。
これで三対一だ。
多数決としては決まってるんだけど、梓は諦めなかった。
すがるような視線を憂ちゃんに向ける。

ぶっちゃけ、それをやられると私としては弱かった。
三対一ではあるけど、その内の二票はさっき私が無効票って言った票なんだ。
梓がそれに気付き、憂ちゃんに反対票を投じさせると私達は逆転されてしまう。
でも、そうはならないでほしかった。
そのまんま過ぎるけど、『ほうかごガールズ』って名前は実は好きなんだ。
特に梓が苦肉の策でほうかごを平仮名にしたってのが可愛らしい。
いい名前だって思うんだ。

全員から視線を向けられる憂ちゃん。
私の左腕から憂ちゃんの肩に手を置き直し、梓が必死に説得を始める。
224 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:18:29.40 ID:AHpyqVlv0
「もっといい名前があると思うよね、憂っ?
憂の案もまだ聞いてないし、
憂の考えたユニット名も聞いておかないといけないよねっ?
ほらっ、憂の案を皆に教えてあげてっ!」


「えっと……ね……」


困った顔で憂ちゃんが呟く。
ここまで慌てた姿の梓が見せる事は少ないから、戸惑ってるんだろう。
数秒躊躇って、憂ちゃんが左手を挙げた。


「ごめんね、梓ちゃん……。
私も『ほうかごガールズ』って素敵な名前だと思うの。
妙に凝った名前より、『ほうかごガールズ』の方がお姉ちゃん達も喜ぶと思うんだ。
だから、律さん……。
私も『ほうかごガールズ』に一票入れたいです!」


「よし、決定だっ!
これからは私が……、私達が……、『ほうかごガールズ』だ!」


「えええええええええええええっ!」


私が拳を握って宣言すると、
梓は茹でた蛸みたいに顔を真紅に染め、また大声で叫んだ。
こうして、私達の新ユニット名は『ほうかごガールズ』に決まったのだった。
いよいよ活動開始ってわけだ。

ちなみに。
後で聞いたんだけど、
憂ちゃんが考えていたユニット名は『ジャンル』だったんだそうだ。
純、梓、和、律、憂をローマ字に変換して、
JUN、AZUSA、NODOKA、RITSU、UIの頭文字を取って『JANRU』なんだとか。
やっぱ一番凝ってる名前だよな、憂ちゃん……。
流石だ……。
225 :にゃんこ [saga]:2012/03/10(土) 19:19:40.57 ID:AHpyqVlv0


今回はここまでです。
長い会議でした。
また、次回もう少し話が進む予定です。
226 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/10(土) 22:32:05.34 ID:4TQ842RT0
おつ
227 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:14:18.41 ID:1/V17SaX0





唯と澪が風呂後の散歩から戻り、
最後に残っていた私と和が風呂に入る事になった。
一瞬でも早く澪達に新ユニットの事と、
新ユニットで行うライブの事を伝えたかったけど、それはどうにか我慢した。

それぞれの先輩に一人ずつから伝えましょう。
そっちの方がカッコいいので。
澪達が戻る前、そう言っていたのは純ちゃんだった。
どうも純ちゃんって、そういうカッコよさにこだわる子なんだよな。
勿論、それに反対意見があるわけじゃない。
皆、嬉しそうにその純ちゃんの案に賛成した。

唯には憂ちゃんから、ムギには梓から、そして、澪には私から。
三人が、三人に伝えようと思う。
皆、多分、私の事をずるいって言うだろう。
唯なんかは頬を膨らませて、
「どうしてりっちゃんだけ」って言いながら、ポカポカ私の胸を叩くかもしれない。
でも、こればかりはどうにもならない事だ。
何しろ私達八人の中でドラムが出来るのは私だけなんだからな。
そんな感じに、ドラムスってのは必然的にどんなバンドにも入れるようになるもんなんだ。
ふふふ、自分達がメジャーな楽器を選んだ事を後悔するがいい。

それは単にドラムス人口が少なめっていう悲しい現実があるからだけど、
今は純粋にドラムって楽器の演奏を選んだ昔の自分に感謝したい。
こんな時にでも出来る事があった。
たまたまなんだろうけど、それが出来るようになった。
本当に嬉しい。
絶対最高のライブを届けなきゃって思う。


「キーボード……か」


五右衛門風呂の湯船(で、いいんだろうか?)に浸かりながら、和が独り言みたいに呟いた。
多分、独り言だったんだろうと思う。
和の視線は私の方に向いてなかったし、
その声は誰かに伝えようと思って出された声には聞こえなかった。
でも、私はその独り言を拾って返した。


「和、ごめ……」


ごめんな、って言いそうになって、ギリギリで言い留めた。
今はごめんって言うより、もっとふさわしい言葉があるはずだ。
小さく深呼吸してから、私は言い直す。
228 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:14:45.57 ID:1/V17SaX0
「ありがとな、和。
キーボード、引き受けてくれてさ」


少し照れ臭かったけど、それはもう一度和に伝えるべき言葉だった。
正直、和には感謝してもし切れない。
元からドラムスの私はともかく、和の方は完全に素人なんだ。
憂ちゃんの話を聞く限りじゃ、
幼い頃にはピアノが弾けてたみたいだけど、それにしたって相当昔の話だろう。
だから、和には本当に感謝してるんだ。

妙に真剣な視線を向けてしまったせいだろう。
和が小さく微笑んで目を細めた。
目を細めたのは、眼鏡を外してて私の顔がよく見えてなかったからだろう。


「いいのよ、律。
引き受けたのは私なんだし、私だって唯達……、
それに憂達の力になりたいって思ってたのは事実なんだもの。
律にはその機会を与えてもらえて、感謝してるわ。
私一人じゃ、自分が憂達のバンドのメンバーになるなんて事、絶対に思い付けなかったから」


「そりゃ、まあ……、普通は思い付かないよな……」


つい苦笑してしまう。
我ながら無茶な事を言ったもんだ。
しかも、バンドを組むだけなら、実はキーボードは要らなかったんだよな。
梓からのメールに書いてあった事なんだけど、
どうもわかばガールズにはキーボードのパートが居ないらしい。
つまり、わかばガールズの手助けをするってだけなら、本当は私一人で十分だった。

でも、私がパッと浮かぶバンドにはキーボードが居たし、
一度、和と演奏してみたいって気持ちも随分前からあった。
そういや、かなり前、軽音部存亡の危機があった時、
唯が和を軽音部に引き込もうとした事があったよな。
あの時のあれは冗談ではあったけど、
和も軽音部に入ってくれたらな、って私は結構本気で思った。

パートに空きがあるわけじゃない。
でも、和とは一回一緒に演奏してみたかった。
何ならボーカルでもいいから、とにかく参加してほしかったんだ。
私達の楽しい気持ちを、和と共有したかったんだよな。

ボーカルと言えば、
そういや、ほうかごガールズのボーカル、決めてなかったな。
まあ……、多分、梓で大丈夫だろう。
歌はそんなに得意じゃないらしいが、
特訓してるって話を憂ちゃんから聞いた事もある。
何だったらコーラスくらい付き合って……、
いや、考えてみたら、あの曲には私も歌で参加しなきゃいけないのか。
うわっ、今更だと思うけど、何か照れ臭いな……。
229 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:15:15.20 ID:1/V17SaX0
でも、照れ臭さや緊張で言ったら、
私のなんて和の数分の一にも至ってないだろう。
『感謝してる』って話してくれながらも、和の表情はやっぱり少し不安そうだ。
私は五右衛門風呂に漬けていた腕を出すと、和の頭に軽く手を置いた。


「私こそすっごく感謝してるよ、和。
私の無茶振りに付き合ってくれて、本当にありがとう。
練習、本気で付き合うよ。
弾けるってわけじゃないけど、知識としてならそこそこある。
発案者なんだもんな。和が嫌って言うくらい、つきっきりで練習に付き合う」


「練習に付き合ってくれるのは助かるんだけど、
私が嫌って言ったら、流石に離れてくれないかしら?」


「ははっ、そりゃそうか」


「そうよ」


私が笑うと、和も笑ってくれた。
眩しい笑顔のまま、和が続ける。


「ねえ、律。
私ね、実はもう緊張してるの。
生徒会の会長を務めて、全校集会にも何度も出たし、
卒業生代表の言葉も務めたのに、そういう緊張とは全然違うのね……。
唯や律達はずっとこんな緊張と付き合って来たのね……。
正直、尊敬するわ」


「それは仕方無いよ、和。
特に和は初ライブなんだし、初めてってのは誰だって緊張するもんだ。
私だって初ライブの時は結構緊張してたんだぜ?」


「そうなんだ。
澪はともかく、律達はいつもと変わらなかったから、
緊張してないように見えたんだけど、そういうわけじゃなかったのね」


「強がってただけだよ。
特にさ、澪の次に緊張してたのは私だったと思う。
ムギは落ち着いてたし、唯は楽しそうだったしな。
だから、和も大丈夫。
和はライブじゃないけど人前に出る場数は踏んでるんだし、
今はまだ練習してないから、不安になっちゃってるだけだよ」


「そうね……。
私は律ほどヘタレじゃないから大丈夫よね」


「そうだな……って、うおいっ、真鍋ー!」


和が軽口を叩き、私は和の後ろからチョークを掛ける。
和は笑顔で私の腕をタップしたけど、もう少しだけ解放してやらない。
しかし、まさか和の口からヘタレって言葉が出るとは思わなかった。
自分でもヘタレの自覚は結構あるけど、和に言われるのは意外だった。
しっかりしてるけど、結構普通な所もあるんだよな、和って。
前に「マジで!?」とか言ってたしな。
230 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:15:47.60 ID:1/V17SaX0
二人で顔を近付けて笑う。
そういや、和にチョークスリーパーを掛けるのは初めてだ。
一緒に風呂に入るのも初めてだよな。
私と和は友達だけど、何故かそういう一線があった。
いや……、ひょっとすると私のせい……かな……。
和は誰にでも優しくて、澪にも優しくて、
私にはそれが嫌だった時期があったんだよな。

あの時の事は解決したけど、私の心の底では遠慮があったのかもしれない。
だから、和ともっと仲良くなるきっかけが掴めなかった気がする。
勿体無い事をしたな、って思う。
和はいい奴なのに、楽しい奴なのに、
大学も別になって、どんどん疎遠になってしまう所だった。
下手をすると、同窓会か誰かの結婚式でしか会わない仲になってたかもしれない。

よかった……。
そんなに疎遠になる前に、勢いだけど和と新ユニットを組めてよかった……。
新ユニットのライブを成功出来れば、
きっと私は和と本当の親友になれる気がする。
ただの親友じゃなくて、離れてても心から信頼し合える親友に……。
そのためにも、私はライブを成功させるんだ。

と。
不意に和がまた不安そうな表情を浮かべた。
私は和の首に回していた腕を離し、真剣な顔になって訊ねる。


「どうしたんだ、和?
まだ何か心配事があるのか……?」


「そうね……。
ムギに悪い気がして……、ちょっとね……。
本来、キーボードはムギのパートでしょ?
私ね、律にキーボードに誘ってもらえたのは、勿論、嬉しいわ。
自信は無いけど、頑張りたいって思ってる。
皆を楽しい気持ちにさせてあげられるなら、私だって何でもしたいわ。

でもね、ムギも同じ気持ちだったんじゃないかって思えるのよ。
ムギも音楽で誰かを楽しませたいって思ってたはずなのよ」


「そうだな……」と私は頷いた。
ムギは今日、自宅まで電池を取りに行った。
勿論、今後の事を考えての行動でもあるんだろうけど、
何よりも自分のキーボードを演奏するための行動だったはずだ。
ムギだって演奏したかったんだ。
だから、ほうかごガールズに参加出来る私を、ずるいって思う事もあるはずだ。
でも、「大丈夫だよ」って私は和に言った。
231 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:17:14.14 ID:1/V17SaX0
「大丈夫だよ、和。
ムギはきっと分かってくれると思う。
ムギは皆の気持ちを分かってくれてる、私達の大切なキーボードなんだ。
私達の気持ち、きっと分かってくれると思う。
そんな事は無いと思うけど、
もし怒られたら、私が何度だって頭を下げて謝るよ。
元の世界に戻れたら、ムギの望む事を何だってしてあげるつもりだぜ?」


「そうよね……。
ムギは私達の気持ちを分かってくれる子だものね……」


そう言いながらも、和の表情はまだ晴れなかった。
ムギの事は信頼してると思う。
私の言ってる事も……。
つまり、ムギの事以外で、和は不安を感じてしまってるんだ。
こんな時に他に不安になる理由なんて、当然だけど一つしか無かった。
和が静かに口を開く。


「元の世界……。
律は……、私達が元の生活に戻れると思う……?」


絶対に戻れる!
とは自信を持って口に出せなかった。
今朝だって冷静だった和が、不安そうな口振りでそう言うんだ。
それだけの理由があるんだと思えた。
私達と別れた間に、何か新しい気付きがあったのかもしれない。
ただ、澪と憂ちゃんの様子を見る限り、
それに気付いてるのはまだ和だけらしかった。
つまり、私とムギが皆に内緒にしてる事があるように、
和も皆に内緒にしてる……、内緒にしなきゃいけない何かを抱えてるんだろう。

その何かを聞くより先に、私は和に今日の昼に起こった事を伝えた。
突然、生き物の姿が見えるようになった事。
晶といちごの姿を見つけた事。
道路の真ん中を自転車で走っていたせいで、ムギがトラックに轢かれそうになった事。
一瞬にして、また生き物の姿が消えてしまった事。
そこが私達の普段使う待ち合わせ場所の横断歩道の前だった事。
全てをそのままに伝えた。
和がどんな重い隠し事をしてるにしろ、
これを伝えれば少しは希望を持てるようになるはずだって信じてたからだ。
少なくとも、人の姿が見えたって事は、
多少は現状の打破のために前進出来たって事で間違いないはずだから。

だけど……。
私の話を聞いた和は、余計にその表情を沈めた。
私の願いは、打ち砕かれてしまったようだった。

和は五右衛門風呂から上がり、
プールサイドに腰を下ろして星空を見上げた。


「実はね……、律……。
私の勝手な推測だし、変な事を言うけど聞いてほしい事があるの。
冷静になって、聞いてほしいのよ……。
何も希望を捨てたわけじゃないし、自暴自棄になってるわけじゃないわ。

でも、私、思うのよ。
ひょっとしたら……、私達は元の世界に戻れないかもしれないって。
元の世界って表現が正しいのかどうかは、まだ分かってんだけどね」
232 :にゃんこ [saga]:2012/03/12(月) 14:18:33.37 ID:1/V17SaX0


今回はここまでです。
和ちゃんのお風呂シナリオのはずが重くなりそうです。
233 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/12(月) 15:02:11.49 ID:69+KWEEq0

次の推測はどんなかな
234 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:00:24.51 ID:j2MHioAf0
元の世界に戻れない。
元の生活に戻れない。
考えたくない事だった。
そんな事、認めるわけにはいかなかった。
でも、和だって、簡単にそんな事を口にしてるはずが無かった。
私は和の言葉を否定したくなるのを必死に我慢して、ただ口の中を強く噛む。

和が星空から目を離し、私の方に振り返って続ける。


「ねえ……、律は運命って変えられると思う?」


唐突な質問だった。
和が何を言おうとしてるのかは分からなかったけど、私は考えてみる。
どうなんだろう……?
運命ってのは変えられるもんなんだろうか?
そもそも、運命ってのは何なんだ?
よく運命は変えられるって言葉を漫画やドラマなんかで言ってるのを見る。
それはそれで立派な信念だと思うけど、変えられたら運命でも何でもないよな、とも思う。

運命ってのはずっと決められてた道筋を辿る事……でいいはず。
唯達と軽音部をやって来れたのは嬉しいし、
運命だと思ってたけど、それを認めるって事は運命の存在を認めるって事になる。
運命の存在を認めるって事は、運命は変えられないって事を認めなきゃいけない。
じゃあ、運命は変えられないってのが私の意見か?

いや、そうでもない気がする。
運命が決まってるって事は、
私が自分で決めたって考えてた事も、運命に仕組まれてたって事になる。
何処かの誰かに仕組まれた道程を勝手に歩かされてたって事になる。
それは……、嫌だ。
運命を感じる事は確かにある。
でも、自分のして来た事が何もかも誰かに仕組まれてたなんて、そんなのは嫌だ。
皆と仲良くなれたのが、全部他の誰かのためにさせられてきた事だったなんて……。


「分からない……」


結局、私は和に対して、そんな言葉を呟く事しか出来なかった。
やっぱり、私にはまだ分からない事だらけだ。
私の様子を見て、和は何故か少しだけ微笑んでくれた。
235 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:02:15.94 ID:j2MHioAf0
「ありがとう、律。
私、意地の悪い質問したわね、ごめんなさい。
運命なんて、私にもあるかどうか分からない。
あったとしても、それを変えられないのなら、運命の存在なんて知りたくないわ。

些細な偶然を運命だと考えて、その偶然に自分一人で勝手に感謝する……。
私の中での運命って言葉の定義は、それだけで十分だと思うの。
それ以上の意味を持つ運命なんて、私には必要無いわ。

そう……。
例えば神様はその人が乗り越えられる困難しか、
その人に与えないって言葉があるわよね?
困難や艱難辛苦は人間をもっと成長させるための試練なんだって。
言葉遊びとしてはいいと思うけど、
現実に困難に遭遇した人間にとっては酷い話よね」


確かにそうだと思った。
困難を自分達の成長に繋げて考えるのは私的にはありだ。
ここを乗り越えれば、自分達はもっと成長出来るって考えるのは楽しいし、必要だと思う。
でも、その困難が他の誰かに無理矢理与えられた物だったとしたら、正直やってられない。
私は頬を膨らませて、何処かに居る神様に向けるみたいに呟いてやる。


「そういやさ。
最近の漫画に多い傾向がある気がするな、そういう仮想敵ってやつ。
人類を襲う謎の侵略者……、
その侵略者の正体は未熟な人類を成長させるための善玉だった! って感じの漫画。
人類がやがて来る更に強い敵と戦えるようになるため、
その善玉侵略者はあえて悪となり、侵略行為を行う……。

って、余計なお世話だっつーの。
もっと他にやり方があるだろうが、って思うよなー。
大体、何だよ、善玉侵略者って」


我ながら安っぽい例えになっちゃったと思う。
でも、そう考える方が私には分かりやすかったし、和はまた笑ってくれた。


「分かりやすく例えてくれてありがとう。
いつか唯に運命の話をする時は、その例えを使わせてもらうわ。
あの子は律の例えの方が分かりやすいだろうし……。

それで、話は少し逸れちゃったけど、私が言いたいのはね……。
現状を変える事は出来ないかもしれないって事なのよ。
それが運命かどうかはともかく、
元の世界に戻れなかった時の事も、考えておかなきゃいけないと思うの。
さっきも言ったけど、自暴自棄になってるわけじゃないわ。
考えておいてはほしいって事なのよ。
この広いようで狭い世界で、どうやって生きていけばいいのかって事を」
236 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:10:45.34 ID:j2MHioAf0
分かってはいた事だけど、人に言われてしまうと複雑な気分だった。
私達が元の世界に帰れず、一生八人だけでこの世界に生きていくって未来……。
考えたくないけど、考えなきゃいけない事だ。
その未来……、私達は絶望せずに生きていけるんだろうか……?

不意に和が私の瞳を正面から見ながら呟いた。


「閉ざされた世界……」


「え? 何だって?」


「閉ざされてる……世界なのよね……」


「そりゃ、まあ……、
元の世界に簡単に戻れない、って意味じゃ閉ざされてるけどさ……」


「ううん、そうじゃないのよ。
閉ざされてるのは世界の方じゃなくて、もしかして……」


それから先は、和の方が口を閉ざしてしまった。
星空を見上げて、何かを考え込んでいるみたいだ。

閉ざされてるのは世界の方じゃない?
一体、どういう事なんだろう?
でも、『閉ざされた世界』って言い方は正しいと思う。
私達だけが閉じ込められた、閉ざされ切ったこの世界。
うん、ぴったりじゃんか。
これからは和の案を採用して、
今の状況の事を『閉ざされた世界』って呼ぶ事にしよう。

和が考え込んだみたいだったから、私はそれ以上和に何も訊ねなかった。
和だって考え込みたい事もあるだろう。
それに心当たりが無いわけじゃない。
閉ざされてるのは世界じゃなくて、異世界と繋がる門だって和も考えてるのかもしれない。
私がそう考えちゃうのは単に、
最近、異世界を門で繋いで渡るゲームや漫画をよく見てるからでもあるけど、
そんな感じで繋がれた異世界への門が閉ざされてるって考えれば、
和の言葉は閉ざされた門の事を言ってたんだって事で十分説明出来ると思った。

和がしばらく黙り込んでいたから、
私は五右衛門風呂から上がって、和の隣のプールサイドに腰を下ろした。
何となく、ゆっくりと和の身体を眺めてみる。

髪が短めなのに、男の子っぽいってわけじゃなく、可愛らしい顔立ちだと思った。
眼鏡を外した姿も新鮮で、濡れた髪も艶っぽくて何だかドキドキしてくる。
いやいや、私は別に女の子が好きってわけじゃないけどな。

スタイルに関しては……、
あー……、やっぱり私より発育いいな……。
うん、もう慣れたよ。
慣れましたよ……。
慣れたっつってんだろ、コンチキショー!
237 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:12:54.18 ID:j2MHioAf0
「何を見てるのよ、律?」


考え事が終わったのか、首を傾げながら和が私の耳元で囁いた。
しまった。
和の肉体美を観察してたのがばれてしまった……!
まあ、別にばれてもいいんだけどさ。
私はニヤリと笑ってやって、嫌らしく手先を動かしてやる。


「グへへ……、お姉ちゃんの裸を観察させてもらってたんだぜ」


「何、その古い変態……」


呆れた表情で和が呟く。
いや、変態に古いも新しいもないと思うんだが……。
と。
急に和が珍しくニヤリと笑った。


「ま、見られて減る物じゃないんだし、
いくらでも観察してくれて構わないんだけどね」


「何だよ、その大人の対応は……」


そう言われてしまうと何だか悔しくて、私は口を尖らせて呟いてやる。
まあ、和は兄弟が多いから、
人に裸を見られる事に慣れてるのかもしれないな。
私も中学くらいまでは聡と風呂に入ってたから、あんまり裸に対する抵抗は無いし。
いや……、人前でいきなりスク水姿になれる唯ほどじゃないが……。

気付けば、今度は和が私の身体を見ているようだった。
目を細めて、隅々まで観察してるように見える。
一応、和に訊ねてみる。


「何をしてるのかな、和ちゃん……?」


「今度は私が律の身体を観察しておく番かと思ってね」


「やめんか、エロ親父!
まあ、こっちも見られて減るもんじゃないから、別にいいんだけどな。
こんな面白味の無い肉体でよければ、存分に観察するといいぞ!」


「そう?
律の身体、面白味の無い肉体なんかじゃないわよ?」


「何だよ?
凹凸が無さ過ぎて逆に希少価値があるってか?
失礼な奴だなー……」


私が大きく頬を膨らませて顔を背けると、
和が私の思ってもみてなかった事を口にした。


「そんなに悲観的になる必要は無いわ。
律、男の子みたいって思ってたけど、やっぱり女の子なのよね。
胸もちゃんと膨らんでるし、女性的な曲線もあるし、
普段のカチューシャ姿も似合ってるけど、前髪を下ろした律も新鮮よ。
すっごく興味深いわ」


「な、何だよ……。何を言ってるんだよ、和は……」


「可愛いって事。
律は軽音部の皆と自分を比べちゃってるのかもしれないけど、そんな必要は無いわ。
律には律の良さがあって、律にしか無い魅力があるんだから。
少なくとも私は、律の事、すごく可愛いって思うわ」
238 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:34:03.31 ID:j2MHioAf0
「うっ……、あっ……」


声が出せない。
顔が熱いのは、勿論のぼせたせいじゃない。
お世辞ならまだよかった。
お世辞なら軽く流してやる事でこの場は終わってたんだから。
でも、和はお世辞を言うタイプじゃないし、
視線を戻して見てみた和の顔はとても真面目な表情だった。
つまり、和は本気で私を可愛いって言ってくれてるんだ。

真面目に可愛いって言われた事なんかほとんど無い。
唯や澪相手なら叩いてやる事も出来ただろうけど、
和相手じゃ、しかも真顔の和相手じゃそんな事が出来るはずもない。
私はどうしたらいいのか分からなくなって、
立ち上がって、五右衛門風呂の方向に逃げて入り直した。
そのまま頭まで潜って、しばらくお湯の感触を全身で感じる。

まったく……。
和の奴は何を言ってるんだよ……。
そんな真顔で可愛いって言われちゃ、勘違いしちゃうじゃんかよ……。
自分が可愛いんじゃないかって思っちゃうじゃんかよ……。
似合わないんだって、私に可愛いとかそういうのは……!
私が目指すのは可愛いとかじゃなくて、カッコいいの方なんだから……!

三十秒くらい潜っていただろうか。
ちょっと息が苦しくなって頭をお湯の上に出すと、目の前には和の顔があった。
「うわっ」と私は軽く叫んじゃったけど、
和はそれを気にせず、五右衛門風呂の空いてるスペースに身体を入れた。
単に冷えて来たから、お湯に浸かり直しに来ただけなんだろう。
それが余計に恥ずかしい。

つまり、和はさっきの言葉を、何でもない常識だって考えてるって事なんだ。
冷えて来たからお湯に入る事と同じくらい、私が可愛いって事は常識だと思ってるんだ。
だから、何でもない表情を浮かべてるんだ。


「うぇ……、えっとさ……、和……。
私、昼間の件で一つ考えた事があるんだけど……」


自分の恥ずかしさを誤魔化すために、私はどうにか和に他の話題を振った。
本当はもっと落ち着いてから話すべきだったんだろうけど、
他に話題も思い付かなかったから、その話をするしかなかった。
急に話題を変えた事に嫌な顔もせずに、和は私の話を聞いてくれた。

私が話したのは、昼間の件の原因についての私の推測についてだ。
急に人の姿が見えたのは、あの場所自体に原因があるんじゃないか。
ひょっとすると異世界同士を繋ぐ門みたいな物があって、
その誤作動だか何だかで人の姿が現れたんじゃないか。
その門を上手く使えられれば、私達はこの閉ざされた世界から脱出出来るんじゃないか。
私の考えの全てを伝えた時、和は真剣な表情を私に向けた。
さっきこの話をした時みたいな、沈んだ表情は無くなっていた。


「異世界同士を繋げる門……。
面白い考えだと思うわ。
そう考えれば、私達は元の世界に戻れるかもしれないわね。
そうだったらどんなにいいかしら……。

でも、ちょっと待って、律。
私ね、今日一つ気付いた事があるのよ。
律の持って来てくれた地図と梓ちゃんの持って来てくれた地図、
両方を見比べて、自分の記憶とも対照してみて、すごく単純な事に気付いたの。
それはまだ誰にも言ってないんだけど、律にだけ言うわ。
他言無用でお願い」
239 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:34:33.58 ID:j2MHioAf0
そんな重要な事を私なんかが聞いちゃっていいものなんだろうか。
そう思わなくもなかったけど、和に信頼されてるらしいのは単純に嬉しかった。
信じられてるんだったら、出来る限りその信頼には応えたい。
私は小さく息を吸い込んでから、ゆっくり頷いた。
ほっとした表情を一瞬浮かべてから、和が続ける。


「今朝、律にこの世界についての色んな可能性を話したけど、
一つだけ話してなかった可能性があるのよ。
まあ、単にその時には思い付いてなかっただけなんだけどね。

だけど、気付いてしまうと、そうとしか考えられなくなったわ。
勿論、まだ勝手な推測なんだけど、私は思ったの。
この世界は本当に現実に存在する世界なのかって」


「現実に存在する世界……じゃないってのか?
つまり、パラレルワールドや、
人類が滅んだ後の未来世界とかじゃなくて、
インターネットの中の電脳空間みたいな仮想世界……って事か?」


「それだと今朝話した可能性の中にもあったでしょ?
そうじゃなくて、もっと単純な話よ。
ねえ、律、この世界は……、
ひょっとしたら誰かの心の中の世界なんじゃないかしら?」


「心の……中……?」


「夢……って言い変えてもいいかしらね。
私達の中の誰かの夢なのか、
全くの第三者の夢なのか……、それは分からないけれど……」


「夢ってそんな非現実的な……、って今更か。
今の状態が十分に非現実的なんだ。
何が原因だって不思議じゃないよな。今朝も話した事だけどさ」


言い終わってから、私は星空を見上げる。
この世界は……、何処かの誰かの夢の世界なのか?
少なくともパラレルワールドや宇宙人の侵略が原因って考えるよりは、説得力がある。
生き物の存在しない『閉ざされた世界』。
確かにこんな世界、夢や仮想空間以外じゃ自然に成立しそうもない。
そこまでは納得出来る。
でも、そう考えてしまうと異世界を繋ぐ門は……。
私が希望を持っていた考えは……。
240 :にゃんこ [saga]:2012/03/13(火) 18:35:06.28 ID:j2MHioAf0


今回はここまでです。
やっとタイトルが出てきました。
241 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:04:36.92 ID:/aEQ2O590
私が考えていた事に気付いたのか、和が軽く私の肩を叩いた。
視線を戻すと、これまで以上に真剣な表情で和が私を見つめていた。


「この世界が本当に誰かの心の中なのか、誰かの夢なのかは分からないわ。
分からなかったから、律と梓ちゃんに地図を集めてもらってたのよ。
一つ……、気になる事があったから。
それで地図を確認してみて、自分の記憶と対照してみて、思ったの。

勿論、この世界が誰かの夢だって、確信出来てるわけじゃないわ。
でも、少なくとも私は、この世界はそういう類のものなんじゃないか、って思えたのよ」


「気になる事?
この世界に何か変な事でもあったのか?」


「変な事……と言えば、変な事かしらね。
ねえ、律……。
確か律と澪の小学校はあの大きな公園の近くにあったわよね?」


和が急に何を言い出したのか分からない。
でも、和の言う通り、私達の小学校はあの大きな公園の近くにある。
この付近で一番大きいあの公園……。
澪達とも何度か遊んだ事があるし、そういや私が骨折したのもあの公園だったか。
和の瞳を覗き込みながら、私は軽く頷く。
すると、和が少し躊躇いがちにまた話を続けた。


「小学校の頃、私も唯、憂と一緒によくあの公園で遊んだわ。
もしかしたら、律達とも何度か擦れ違った事があるかもしれないわね。
この近辺に住んでる子供達の中で、
あの公園で遊んだ事が無い子は居ないんじゃないしら。
それくらい大きな公園だものね。

それでね……、世界がこんな風になって、
閉じこもってた澪を説得した後であの公園の付近を通った時……、
私、違和感に気付いたのよ。
誰も気にしてなかったでしょうし、気にする事じゃないのかもしれない。
でも、私は気付いたの。
ひょっとすると、あの公園に行く事が少なかったからこそ、
逆にその違和感に気付けたのかもしれないわね……。

ねえ、律、変な事を訊くけど、教えてくれるかしら?
あの公園……、大きな樹があったわよね?
登れる事が小学生の間で大きなステータスだったあの樹よ。
何人か私の知り合いも登ろうとして落ちていたわね。
唯も登ろうとしてたけど、身長分も登れてなかったから、
落ちた時に大きな怪我が無くてホッとしたのをよく憶えてる」


唯らしいな、と思う隙もなく、和が更に話を続ける。
躊躇いながらも、誰かに話したい事だったんだろう。
242 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:09:42.40 ID:/aEQ2O590
「あの樹……、大木なんだし、切られてなんかいないわよね?
今もあの公園にあるはずよね……?
最近行ってなかったからそこが分からないんだけど、
私の中の唯とあの樹の記憶は夢や幻想なんかじゃないわよね……?」


「あ、ああ……、確かあの樹はまだあるはずだよ。
この前、聡が年甲斐もなく久し振りに登っちゃった、って話をしてた憶えがある。
大体、あんなでかい樹、切ろうとしたら結構な騒動になるはずだし……。

なあ、和……。
まさか、そういう事か?
私達は気付かなかったんだけど、あの公園に、あのでっかい樹が無かったって事なんだな?」


「ええ、そうよ……。
それで、記憶違いかと思ってこの町の地図や観光案内を調べてみたのよ。
ローカルな地図だと、公園の樹まで鮮明に描かれてる地図もあるから。
でも、地図の方にも、観光案内にも、樹は載ってなかったわ。
公園を遠景で写した写真にも……。
あんなに大きな樹なのに……。
学校にあった地図だけじゃ心許ないから、
律達に集めてもらった地図も調べてみたのに、やっぱり樹の姿は何処にも無かったわ。

勿論、それだけなら記憶違いかもしれない。
あの公園にあったと思ってた樹が、
実は別の公園にあった樹だったって話かもしれないわよね?

だから、私はもう一つ確かめてみる事にしたの。
実は私、桜高の校庭にね、生徒会の皆でタイムカプセルを埋めてたのよ。
十年後の夏、皆で開けようって約束をしてね」


「タイムカプセルって、和も小学生みたいな事してんなー……。
まあ、私達も軽音部でタイムカプセルを埋めたんだけどな。
色々入れたなー、アレ。何かもう懐かしいよ」


「何よ、律達も埋めてるんじゃない」


「私達はいいのだよ、和くん。
勿論、発案者は唯だったんだけどさ、
そういう小学生みたいな事が平気でやれるってのは、結構凄い事だよ。
あいつが言い出してくれたおかげで、思い付いてはいたけど、
照れもあって言いにくかったタイムカプセル計画が実行出来たんだよな」


「そうよね……、唯ってそういう子よね……。
だから、私もあの子が居ると……。

と、今は軽音部じゃなくて、生徒会のタイムカプセルの話よ。
それで私、ふと思い立って、タイムカプセルを掘り出してみる事にしたのよ。
澪と憂に手伝ってもらって、今日、埋めた場所を掘ってみたの。
生徒会の皆には悪い気がしたけど、確かめたい事があったから……。

場所は間違ってなかったと思うわ。
五ヶ月前の事だけど、まだ昨日の事のようにはっきり憶えてる。
でもね……、その場所にタイムカプセルは埋められていなかったの。
ううん、それだけじゃない。
ここ数年は一度も掘り返されてないみたいに、
タイムカプセルを埋めたはずの地面はとても固かったのよ。
そこには最初から何も埋められてなかったみたいに……」
243 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:10:31.59 ID:/aEQ2O590
和が辛そうに呟く。
自分の記憶と現実の世界の間に、大きな差がある事に気付かされてしまったんだ。
そんなの私だって嫌だ。
自分の思い出が否定されるって事は、自分自身を否定されるって事なんだから。
だから、私は和がその話題を切り出すより先に言ってやった。
言わなきゃいけなかった。


「だから……、この世界は誰かの夢みたいな物かもしれないって和は思ったんだな」


「いいえ、私はただその可能性もあるって……」


「いや、きっとそうだよ。
この世界……、とりあえず和の言葉からパクって『閉ざされた世界』って呼ぶけど、
この『閉ざされた世界』は和の言う通りなら、
私達の記憶とはちょっとずつ違う世界なんだよな。
あの公園にあったはずの樹が無かったり、
埋めたはずのタイムカプセルが埋められてなかったり……。
私達の世界が完全再現されてるみたいで所々惜しい……って感じか。

夢……だな。
確かに……夢だ。
誰かが心の中で記憶してる風景みたいだよな……」


本当はパラレルワールドって可能性もまだ残ってた。
私達の世界と『閉ざされた世界』は、
細部がちょっとだけ違ってる世界なんだって考える事は出来る。
パラレルワールドの方なら異世界の門か何かで、元の世界に帰れる可能性もある。
本当はパラレルワールドなんだって考えたい。

でも、そうとはもう考えられなかった。
特に昼間、私とムギが見た光景は、異世界の門の先を見たって考えるより、
この夢を見てる誰かの生き物の記憶がふとした拍子に蘇ったって考えた方が説得力がある。
そもそも自分で考えた事だけど、何だよ、異世界の門って……。
もしそんなのがあったとしても、また簡単に通れるようになるもんなのかよ……。
やっぱもう私達は元の世界には戻れないのかよ……。


「……っ」


くそっ!
と言おうとして、どうにか言い留める。
今、そういう事を一番言いたいのは和のはずだ。
だから、和は言ったんだ。
「私達は元の世界に戻れないかもしれない」って……。

和が多分、私なんかよりずっと辛そうな顔をして、口をまた開いた。
244 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:13:17.84 ID:/aEQ2O590
「細かい所が違うこの世界……。
意識して観察してみたら、本当に多くの所が違っていたわ。
校内だけでも何ヶ所もおかしな所があるのよ。
校長室、図書室、司書室、校庭の樹の本数、グラウンド……、
普通なら記憶違いで済ませる所なんだけど、
間違い探しだと考えて探してみると見つけるのは簡単だったわ。
この世界は人が居ないってだけじゃなくて、そのものもちょっとずつ違ってるのよ。
ひょっとしたら、澪はそれに本能的に気付いてたのかもしれないわね」


「澪……も……?」


「深く気付いてるわけじゃないと思うわ。
でも、違和感や空気の違いには人一倍敏感な子でしょ?
だから、怖がってたのよ、澪は。
誰よりもこの世界に気付いちゃったからこそ……。
私だって……怖いもの」


和の言う通り、確かに澪はそういう自分の身に迫る危機だけは敏感に感じ取る奴だ。
それをあの時の私には気付いてやれなかった。
そうか……。
だから、澪はあんなに……。
今なら澪が部屋に閉じこもろうとした気持ちもよく分かる。
生き物が居ないってだけなら、まだ何とか対応しようがある。
でも、世界そのものの存在自体が中途半端で曖昧だなんて、私だって不安になってくる。

最後に一つだけ、和が私に不安そうに訊ねた。


「世界の方が間違っているのかしら……。
それとも、やっぱり私の記憶が間違っているのかしら……。
私は……」


それに対する答えは私も持ってない。
私に出来る事は信じる事だけだ。
私の目の前に居る和と、和との思い出、そして、和の身体の温かさを。


「信じてくれ、和。
私は和の心の中や頭の中までは覗けないけど、
でも、和の記憶が正しいんだって信じてる。
あの樹だけどさ、実は私も小学生の頃に落ちて指を折った事があるんだ。
だから……、和も和自身と和を信じる私を信じてくれよな。
和は間違ってないよ」


私は和の肩を取って真正面から伝える。
和は少しだけ沈黙してたけど、すぐに微笑んで言ってくれた。


「そうね……。
信じるわ、律が信じてくれる私の記憶を。
それに……、元の世界に戻れる希望が無くなったわけじゃないって。
異世界の門云々はともかく……、何か方法はあるはずなのよ。
もしもこの世界が本当に誰かの夢だったとしたら、
その誰かの夢を覚ます事で私達は元の世界に戻れるかもしれないし……。

大体、律の記憶より、私の記憶の方がよっぽど信じられるものね。
律が憶えてる事を私が憶えてないわけないもの」


最後には微笑みどころじゃなく、眩い笑顔になっていた。
どうやら最後はからかわれてしまったらしい。
私はニヤリと微笑んでから、和の肩を揺らして耳元で叫んでやる。
245 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:14:47.36 ID:/aEQ2O590
「酷い言い方だな、わちゃんめー!」


「わちゃんって呼ばないでよ……。
ただでさえ『かず』とか『なごみ』とか、呼ばれ間違われやすいんだから……」


「じゃあ、平和でピンフの『フ』だ。
フちゃんめー!」


「どうして麻雀用語を知ってるのよ、律は……」


そう呆れた口振りで話しながらも、和は笑っていた。
私も笑っていた。
笑ってみせる。
得体の知れないこの世界だって、皆が居れば笑って乗り越えられるはずだ。
乗り越えて……やる。

不意に和が私の手を握った。
私は自分の胸が高鳴るのを感じた。
そういや、和と手を繋ぐのは初めてだ。
和どころか、唯やムギ、梓や澪とだって手なんかそうは繋がない。
そういう事が出来る女の子同士も多いらしいけど、私にはちょっと無理なんだ。

でも、嫌な気分じゃない。
和と深く仲良くなれたって気がする。
だから、私も手を広げ、指を絡めて和と深く手を繋ぎ合った。


「戻りたいけど、戻れなくても、皆が居れば私は……」


和が小さく呟く。
私も同じ気持ちだったけれど、その和の呟きには何も返さなかった。
そういう事を考えなくてもいい時だと思うから。
今は、まだ。


「ねえ、律」


不意に和が笑顔で言ってくれた。


「ほうかごガールズに誘ってくれて、ありがとう。
音楽……、体験したみたかったけど、その一歩が踏み出せなかった。
踏み出させてくれて、本当に感謝してるわ。
上手く出来るか分からないけど、精一杯弾くわ。
私も皆に想いと演奏を届けたいから……、だから……。
いい演奏に……しましょう……!」


「当然だ!」と言って、私は和と強く手を繋ぐ。
『閉ざされた世界』……、いや、『閉ざされた夢』……か?
とにかく、そんな世界でも私は前に進んでみせる。
その先に八人だけの世界しか残ってないにしても、八人なら……。
多分、和は覚悟を決めている。
元の世界に戻れないって覚悟を。
諦めてるわけじゃなく、強く生き抜こうって覚悟をだ。

私は……、どうするべきだろう?
この世界で生きていく決心をするべきなのか。
それとも、やっぱり元の世界に戻る方法を探し続けるべきなのか。
勿論、まだその答えは出せない。
それでも、少なくともほうかごガールズのライブが終わった後には、考えなきゃいけないだろう。
246 :にゃんこ [saga]:2012/03/16(金) 20:18:02.37 ID:/aEQ2O590


今回はここまでです。
次からあの黒髪の子が出る予定です。
247 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/16(金) 23:19:59.31 ID:tPof5awDO
乙です。次も楽しみにしています。
248 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:08:06.52 ID:wzOF41Z10





夜空。
満天の星空。
和と風呂から上がった後、
私はパジャマの上に上着を羽織り、校舎の屋上であいつが来るのを待っていた。

あいつにしては珍しく、私より先に来てなかった。
別に時間を指定してたわけじゃないんだけど、時間厳守のあいつにしては結構珍しい。
どんな時でも私より先に待ち合わせ場所に来てるのが、私達のある種のお約束だったんだけどなあ。
でも、別に急ぐ用事でもない。
あいつの事だ。
星空を見上げて待っていれば、その内来てくれるだろう。

軽く微笑んでから、屋上に寝転がってみる。
位置的に良かったのか、夜空以外に人工の何かは目に入らなくなった。
私の目に映るのは星降るような夜空だけ。
まさかこの町でそんな夜空を見れるようになるなんて、思ってなかった。
勿論、人工の光がほとんど無いからってのもあるだろう。
地上の光が少なければ、夜空の光は眩しく見えるって寸法だ。

綺麗な夜空だな……、ってらしくなく私は思ってしまう。
本当に綺麗な夜空だ。
初めて見るみたいな、星降る夜。
こんな夜空が見られるなら、閉ざされた世界もそんなに悪くない気はする。
だけど、私は一瞬考える。
綺麗な空だ。夢みたいに眩しい夜空だ。
その空はもしかしたら、和が言ってたように……。


「遅くなってごめん、律」


聞き慣れてるはずなのにひどく懐かしい声が、
私以外誰も居なかった屋上に柔らかく響いた。
久し振りの、あいつの……、声だ。
話をしてなかったわけじゃない。
でも、懐かしく感じるのは、
こんなに穏やかに響くあいつの……、澪の声を聞くのが久し振りだったからだろう。


「どうして屋上に寝転がってるんだよ……。
これから布団に入るってのに、パジャマも布団も汚れちゃうじゃないか」


呆れた声を出しながら、澪が真上から私の顔を見下ろす。
普段、風呂上がりにしてるように、襟足で長髪を結んでて妙に艶っぽい。
こいつ、女子大生になって余計に色気を纏い始めやがったよな……。
何か悔しい……、けど、嬉しかった。
風呂上がりに髪を結ぶなんて、
私達が閉ざされた世界に迷い込んでからは一度も無かったからだ。
まあ、今まで風呂に入れてなかったからってのもあるけど、
髪を結ぶくらいの余裕を持て始めて来たって事でもあるんだろうしな。


「固い事言うなって。
汚れたら後で洗えばいいだけじゃんかよ。
ほらほら、澪もやってみろよ、すっげー星空だぞ」


寝転んだまま、澪の脚を掴んで誘惑してみる。
真面目な澪の事だし断るかと思ってたんだけど、
澪は意外にそうせずに私の横に腰を下ろし、それから手足を伸ばして寝転がった。


「まったく……、しょうがないな、律は……」


苦笑を漏らしながら、澪が囁く。
でも、その声色に嫌そうな感じは混じってない気がした。
ただ私を見守る保護者みたいに、普段みたいに、澪は苦笑してたんだ。
気が付けば、私は笑顔になっていた。
そうか……。
澪は怯えを乗り越えられたんだな……。
249 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:08:47.15 ID:wzOF41Z10
その怯えを振り払ってやれたのが私じゃなかったのは残念だけど、
そんな事よりも澪が元気になってくれた事の方が何倍も嬉しかった。
澪が元気になれたのは、多分、いや、きっと和のおかげだろう。
和は頼りになるよな……。
私達を引っ張ってくれるし、澪を救ってくれるし、
慣れないキーボードってパートでほうかごガールズにも参加してくれる。
凄い奴だなって思う。

私も負けてられない。
一応、部長だったんだからな。
部長として、いや、親友として、
これから澪に、澪達に何かをしてやりたい。
いや、何かをさせてもらおうと思う。
そうでなきゃ、何も出来てない私がここに居るのが申し訳ないじゃんか。
だから、やってやろう……!
少なくとも、ライブだけは絶対に成功させてやるんだ……!

でも、それより先にしなきゃいけない事がある。
私は上半身を起こして、寝転がる澪に視線を向ける。
澪は穏やかに笑っていてくれたけど、それで終わらせちゃいけないんだ。
心臓が鼓動するのを感じたけど、私はまっすぐに澪を見つめながら頭を下げた。


「今日までごめんな、澪」


これだけは言わなきゃいけない事だった。
澪の怯える姿から逃げて、自分が怯えたくなくて逃げて、
澪が本当に怯えてる何かを知ろうともせずに、話も出来なかった事を私は澪に謝らなきゃいけない。
謝ったってどうなるわけでもない。
澪だって謝られる事を望んでなんかいないだろう。
でも、謝らなきゃいけないんだ。
それが私のけじめで、澪と私がこれからも親友でいるためにしなきゃいけない事なんだ。

澪は何も言わなかった。
その代わりに、私のパジャマの袖を引いた後、屋上の地面を軽く叩いた。
寝転がってくれ、って事なんだろう。
私は澪に誘われるまま、また寝転がって夜空を見上げた。

二人で星空を見上げる。
何だか吸い込まれてしまいそうだ。
宇宙と私達が一体化する……ってのは言い過ぎか。
でも、そんな気がするくらいの時間が経ってから、澪が小さく言葉を届けてくれた。


「私こそごめん、律。
年下の子が三人も居るってのに、
真っ先に取り乱して、家に閉じこもっちゃってさ……。
自分でも情けないって思うんだけど、
どうしても怖くて……、目の前の現実から逃げ出しちゃって……。
皆に迷惑掛けちゃったって思う……。

だから、謝るのは私の方なんだよ、律。
今までごめんな、律……」


「いや、でも、私の方が……」


身を乗り出して伝えようとしたそれより先の言葉は、
口元に澪の人差し指を当てられる事で止められてしまった。
澪の人差し指の温かさを唇に感じる。
250 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:10:23.03 ID:wzOF41Z10
とても優しい表情で、澪が続ける。


「それ以上は言わないでくれよ、律。
律が私に謝りたいって思ってくれるのは嬉しいけど、
私だって律に謝りたかったんだ。もっともっと謝りたいんだ。
でも、それは二人のためによくない事だって思うんだよ……。

だからさ、これでお相子って事にしないか?
私も律もお互いに謝りたいんだけど、
それを我慢する事がお互いへの本当の謝罪って事にしてさ。
それが一番いいって思うんだけど……、どうかな?」


言葉が出せなかった。
何だよ……、澪のくせに一番いい解決策出してくれやがって……。
一番先に怯えてたくせに、カッコいいじゃんかよ……。
いや、一番先に怯えてたからこそ、かな。
澪は弱い。怖がりだし、人見知りだし、すぐに逃げ出す。
でも、だからこそ、一番先に恐怖に向き合えるんだと思う。
特に澪は追い込まれてから実力を発揮する奴なんだ。
追い込まれてから、立ち直って、強くなるタイプなんだよな。

追い込まれると弱い私とは正反対だ。
普段こそ澪を引っ張ってる私だけど、
色んなピンチの時には澪に助けてもらってた。
どっちがいいって話じゃない。
そういうのが私達の長い付き合いの中で築き上げて来た私達の関係ってやつなんだと思う。

私はまた寝転がってから、静かな風に吹かれながら空を仰いだ。


「そっか……。そうだな……。
ごめ……、いや、ありがとな、澪……」


それ以上は何も言わなかった。
何も言えなかったし、何も言わない方がよかったんだろうと思う。
ただ、軽く手を伸ばすと、澪はその私の手に指を絡めてくれた。
澪と手を繋ぐなんて本当は恥ずかしいはずなのに、不思議とそんな事は感じなかった。
凄く自然に、子供の頃みたいに手を繋げた。
澪の手の温もりを感じる。
澪も私の手の温もりを感じてるはずだ。
多分、それでよかった。

また二人で言葉を止める。
今度は失ったわけじゃない。
何も言わない時間を過ごそうと思っただけだ。
静かな時間を澪と過ごしたかった。

どれくらい経っただろう。
風に吹かれ、
星空を見上げ、
お互いの体温が一体化する感覚に気づき始めた頃、
私は不意に澪とまた話したくなった。
夜空を見上げたまま話そうと口を開いた瞬間、
私の言葉は先に言われた澪の言葉に止められてしまった。
どうも二人とも同じ気持ちだったらしい。
251 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:14:41.75 ID:wzOF41Z10
「綺麗な夜空だよな……。本当に綺麗な……」


確かに綺麗な夜空だ。
でも、その夜空はもしかしたら……。
その思いは口には出来なかった。
私は躊躇いがちに頷いて、小さく呟いてみる。


「そうだな……、確かに綺麗だよな……」


「うん、綺麗だ。偽物かもしれない夜空でも……さ」


「……えっ?」


驚いた。
この世界が私達の世界とは違ってる事には気付いてるんだろうと思ってたけど、
まさかこの夜空を偽物って考える方が理に適ってる事にも気付いてるとは思ってなかった。
私は和の話からそう考えたわけだけど、澪はほとんど自力でその答えに至ったんだろう。
私は偽物かもしれない夜空から目を逸らさず、澪に訊ねる。


「偽物の夜空かもしれない……ってどういう事か訊いていいか、澪?」


「いいけどさ……。
でも、律だって気付いてるよな?
この世界の夜空、ううん、この世界自体が偽物かもしれないってさ。
さっき、律の反応を見て、気付いたよ。
嘘を言う時の声色だったし、手に汗も掻いてたから……。
分かるよ、律の嘘は……」


「マジかよっ?」


「ああ、長い付き合いのせいか、何となく分かるんだよ。
律の嘘なんて、私には簡単に見抜けるんだからな!
今度から嘘を吐く時は精々気を付けろよ。
まあ、嘘を吐いてたって、全部見抜いてやるけどな」


「何てこった……」


私は呻くみたいに呟く。
いや、澪に私の嘘が見抜かれやすいとは思ってたけど、まさかそこまでのレベルだったとは……。
嘘を言う時の声色……、ってそんなのがあるのかよ……。
今度、唯辺りにどんな声色か聞いてみようかな……。
いや、やめとこう。
下手に意識しちゃうと、変な癖が身に着いて余計に見抜かれちゃいそうだ……。

「だからさ」と妙に真剣な声色で澪が力強く言った。
とても懐かしい気がする澪の強い声だった。


「私に嘘を吐かないでくれよ、律。
嘘を吐かれても分かるし、嘘が分かっちゃうのも悲しいじゃないか。
だからさ……、嘘を吐かないでほしい。
その代わり、私も嘘を吐かないようにするからさ」
252 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:18:25.74 ID:wzOF41Z10
嘘を吐かないでほしい……か。
騙したり、からかったりする事こそ多かったけど、
澪に本当の意味の……自分の気持ちを悟られないための嘘を吐いた事はあんまり無い気がする。
だからこそ、澪には私の嘘が分かるし、嘘を吐かれると悲しいんだと思う。
私だって、澪に嘘を言われたら悲しい。
だったら……。


「分かったよ、澪……。
約束は出来ないけど、出来る限り嘘は吐かないようにする。
澪を悲しませるのは趣味じゃないし、バレバレの嘘を言うのもカッコ悪いしな」


「ああ、ありがとう、律……」


私が言うと、澪が私の手を強く握ってくれた。
私も強く握り返す。
嘘は悲しい。
嘘が必要な事もあるんだろうけど、
八人しか居ないこの閉ざされた世界で、嘘を吐きながら生きるのは私だって辛い。
だから……、せめて澪の前でだけは正直で居よう。

私はとても気が楽になった気がして、笑顔になって……、
でも、口元を引き締めて、訊かなきゃいかない事を訊く事にした。


「それで偽物かもしれない……、ってのはどういう事なんだ、澪?
いや、私もそう思ってなくはないんだけどさ、上手く説明出来ないんだよ。
だから、よかったら、澪の考えを聞かせてくれないか?」


「実はさ、律……。
皆には言えなかったんだけど、こんな事になって一番怖かった事がそれなんだ。
皆の姿が消えてしまったってだけなら、私もそこまで怖くないよ。
いや、怖い事は勿論怖いんだけどさ……。

でも、それより怖かったのは、
この世界そのものが得体の知れない何かなんだって気付いた事なんだ。
こんな事になって夜を迎えて、夜空を見てて気付いたんだよ。
ほら、律、見てくれるか?」


言って、澪が夜空を指差す。
何だか天体観測をしてるみたいだ。
私はつい軽い感じに訊ねてしまう。


「何だよ?
あれがデネブ、アルタイル、ベガってか?」


「違うって。
まあ、確かに今は夏の大三角の季節だけど……。
そうじゃなくてさ、山の近くに見えるあの端っこの方の星座を見てくれないか?
十字型のやつだよ」


「端っこの方の十字……?」
253 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:23:58.11 ID:wzOF41Z10
と言われても、満天過ぎてどれがどれやら分からない。
澪の指先を見つめて、どうにかその十字の星座を探してみる。
って、指先なんか見てても分かるわけないか。
私は自力で十字っぽく見える星を探す。

と。
急に澪が赤いフィルムをライトに巻いた懐中電灯を点けた。
そっか。
廊下に電気点けてないんだから、そりゃ澪も懐中電灯持ってるよな。
私は夜目でどうにか屋上まで来てみたけどな。


「赤い光……?」


「星を見る時は赤い光が眩しくなくていいんだよ。
昔、律の家族と私の家族で天体観測やった時、赤いライト使ってただろ?」


「そうだっけ?」


「まったく、律は……。
まあ、いいか。ほら、ライトなら分かるか?
この光の先にある星座だよ」


指先だと無理だったけど、
流石にライトで辿ってもらえれば私にだって分かる。
澪の照らす光の先には、確かに十字の星座らしきものがあった。
私は頷いてから訊ねる。


「ああ、あの星座な。
あの十字型の星座が何なんだ?」


「あの星座はみなみじゅうじ座……、俗に言う南十字星だよ」


「サザンクロス!」


「どうして英語で言い直す……」


「いや、何となくそんなイメージが……」
254 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:24:25.61 ID:wzOF41Z10
「言いたい事は分かるけどな。
確かにサザンクロスって名前の方が漫画とかじゃ有名かもしれないし」


「ご理解頂き、光栄です。
でも、その南十字星がどうしたんだ?
私だって南十字星くらいは知ってるんだが……」


「名前は知ってても、詳しくは知らないみたいだな、律。
普通はそうなのかもしれないけど、
実は南十字星にはあんまり知られてない事があるんだよ。
律……、南十字星は日本じゃ見えない星座なんだ」


「日本じゃ……見えない……?」


「正確には沖縄くらいかなり南の方なら見える星座なんだよ。
それも十二月から六月頃までならって話なんだ。
つまり、さ……」


うちの県は北の方じゃないけど、沖縄ほど南ってわけでもない。
しかも、今は八月……のはずだ。
なるほど、私にも澪の言いたい事がやっと分かった。
南十字星はどうやったってうちの県から見える星座じゃないんだ。
時期的にも全然合ってない。
閉ざされた世界の偽物の夜空……。
偽物の……世界……。

澪は溜息を軽く吐いてから、続ける。


「あれは間違いなく南十字星だと思う。
だったら、どうして南の方じゃないうちの県から見えるんだろう?
可能性は何個かある。

一つ目は、この世界は星の配置が私達の世界とは全然違う世界って可能性。
それなら説明は付くけど、生き物が存在しない理由には説明が付かなくなるよな?

なら、二つ目の可能性。
この世界は私達の世界から何億年も過ぎた未来の世界って可能性。
それなら多少星の配置が変わっててもおかしくないし、生き物が絶滅したって説明も出来る。
でも、そう考えるとやっぱり変だ。
何億年も未来の世界なら、私達の町がそのままの形で残ってるのはおかしいよ。
食料だって賞味期限も切れずに残ってるしさ。
だから、この可能性も無くなる。

その結果、私の辿り着いた可能性が……」


「偽物の夜空……ってわけだな」


「或いは偽物の世界……かな」


偽物の世界……。
和の言ってた事と大体同じだ。
この世界をちょっと調べれば分かる事だけど、やっぱりそういう事なんだろうか。
この世界は作られた電脳世界なのか、偽物の箱庭なのか、それとも誰かの夢なのか……。

澪が懐中電灯を消して、息詰まるような口振りで呟く


「偽物の世界の正体は私にも分からないよ、律。
私に分かったのはこの世界が偽物って事だけ。
でも、私にはそれだけで十分だった。
それだけで十分怖かったんだ……。

だから、偽物だって分かってても、家に閉じこもる事しか出来なかったよ。
誰に作られた世界だとしても……、
得体の知れない世界に生きる事がすっごく怖かったから……。
この世界にパパとママ……、ううん、他の誰でもいい……、
私達以外の誰かに助けてもらう事でしかどうにかなるって思えなかったんだ……」


吐き出されるような澪の苦しみ。
何とかしてやりたかったけど、私がそうするより先に澪は微笑みを見せていた。
やっぱり……、澪は追い込まれると強い。
255 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:30:00.44 ID:wzOF41Z10
「でも、そうしてるわけにもいかないって、和に説得されて思ったんだ。
皆が動いてるのに、私だけじっと誰かの助けを待つなんて、
何の意味も無いって、和と話をしてて思えたんだよ。
同時に恥ずかしくなったな、皆に迷惑を掛けてる事が。
だから、何も出来なくても、どうにかしたくなったんだ。
……また律達と笑って話したかったしさ」


そういう澪の表情は見惚れるくらい綺麗だった。
畜生、カッコいいな……。
残念だけど、この偽物の閉ざされた世界に関しては、私には何も出来そうに無い。
私に出来るのは、皆のフォローをする事だけだと思う。
この閉ざされた世界の中で、私達がどうなるのかは分からない。
でも、和と澪が居れば、きっといい形の答えが見つけられるはずだ。
その結果、例え元の世界に戻れなくたって……。

私も、笑ってみせる。
笑って、澪に言葉を届けてみせる。


「そういや、和はこの世界は誰かの夢じゃないかって言ってたよ。
誰かの夢で閉ざされた世界なんだって。
一緒に居た時間が長かったおかげか、澪も和も似た事を考えてたんだな」


「和が……?
そうなんだ……、誰かの夢……か。
うん、そういう考え方もあるよな。
だから、和は訊いて来たんだな、あの公園の樹の事を……」


「お、澪も訊かれたのか?
そりゃそうか、重要な事だもんな。
澪も憶えてるよな? あのでっかい樹の事」


「ああ、今日、和の手伝いで地面を掘って、
でも、何も見つからなくて、不安そうな表情の和に訊かれたよ。

樹の事は私も憶えてる。
忘れたくても律のせいで忘れられないよ。
律、あの樹から落ちて、人差し指折ったじゃないか。
あの有り得ない方向に曲がった指……、思い出すと今も……。

あああああああっ!
思い出したくない、思い出したくない……。

………。
……。
…。

と、とにかく、私もあの樹の事は憶えてる。
その調子だと律もあの樹の事を憶えてるみたいで安心したよ。
世界じゃなくて、私の記憶の方が偽物だったら嫌だもんな……」
256 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:30:37.86 ID:wzOF41Z10
「そりゃ私だって嫌だよ。
何もかも偽物でもさ、せめて記憶だけは本物であってほしいじゃん?
とは言っても、あんまりはっきり憶えてるわけじゃないんだけどな。
結構昔の話だし、澪が泣き叫んでた記憶しか無いな。
大体、私はどうして樹に登ってたんだ……?
なあ澪、何で私が樹に登ったのか、おまえは憶えてるか?」


「えっ?
律、憶えてないのか……?」


「うむ、全く憶えとらん!」


「自慢そうに言うなよ……。
そうだな……、私は憶えてるんだけど、律に教えていいもんなのかな……?」


「えー、いいじゃん、ケチ。
私と澪の大切な思い出だろー?」


「忘れてた奴が言う台詞じゃないだろ、それ……」


軽く溜息。
それから昔を懐かしむ表情を浮かべると、澪は穏やかに話し始めた。


「私のために登ってくれたんだよ、律は」


「澪の……ため……?」


「今でもよく憶えてるよ。
あの日、私は律と公園でボール遊びをしてたんだ。
それできっかけは忘れたんだけど、私がボールを暴投しちゃったんだよ。
そのボールがあの樹に引っ掛かって、それを取りに律が樹を登ってくれたんだ。

あの時は怖かったんだぞ?
私のせいでりっちゃんが死ぬ事になったらどうしよう、ってすっごい怖かった」


「いや、死なねーっつの。
たかが人差し指折ったくらいで」


「まあな……。
でも、小学生にとっては、骨折ってそれくらいの大惨事だろ?
それにさ、大した怪我じゃないって分かった時も、まだ怖かったんだ。
私のせいで骨折したわけだし、律に嫌われてたら嫌だって思ってたんだ。

だけど……、律は私を責めなかった。
むしろ骨折した事をステータスとして友達に自慢してたくらいだったしさ。
あの時はホッとしたな……」


「ふふふ……、澪に気を遣わせないように振る舞うとは、やるな、昔の私」


「単に皆に骨折を自慢したくて、私を責めるのを忘れてただけじゃないのか?」


……んー、まあ、多分そうなんだろうけどさ。
澪と話す内に少しずつ思い出して来た。
確かに私はボールを取りにあの樹を登った気がする。
澪の泣き声しか憶えてないから、その辺はすっかり忘れちゃってたな。
でも、澪の表情を見る限り、澪にとっては結構大切な思い出だったみたいだ。
私が忘れちゃってたのは、どうにも申し訳無い気がするな……。
257 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:31:47.84 ID:wzOF41Z10
私のその考えを読み取ったのか、澪が嬉しそうに言ってくれた。


「律が骨折の原因を忘れてた事、変な話だけど、ちょっと嬉しいよ」


「は? 何だ、そりゃ?」


「忘れてたって事は、それは律にとってはよくある事だって意味なんだ。
鍵閉めとか、ガスの元栓とか、
習慣になってる事はちゃんとやってるはずでも憶えてないだろ?
つまり、私のために何かをしてくれる事が、
律にとっては当たり前になってるって事なんだよな……」


「や、やめろよ……、こっ恥ずかしい……!」


「嘘を吐かないってさっき約束しただろ?
ちゃんと正直に自分の気持ちを話さないとな」


澪が少し意地悪く微笑む。
いつも私にからかわれてるから、その仕返しって意味もあるんだろう。
でも、それだけじゃないのも確かで……、それがやっぱり恥ずかしい。
しばらくの間、澪が顔をちょっと赤くしちゃってる私を見ていた。
何だよ、もう……。

私が恥ずかしさに堪えられそうになくなった時、
そのタイミングを見計らっていたのか、不意に澪が口を尖らせて言った。


「そうそう、律。
ここに来る前、唯から聞いたぞ。
律と和と梓と憂ちゃんと純ちゃんで新しいバンドを組んだらしいじゃないか。
おかげで「りっちゃん、ずるいよね!」って騒ぐ唯をなだめるの大変だったんだからな。
少しくらい私達にも相談してくれよな」


「それは悪いと思ってるよ、澪。
思い付いちゃったら止まらなくてさ……、気付いたらバンド結成してたんだよ。
しかし、唯の奴、やっぱり騒ぎやがったんだな……」


上半身を起こし、頭の上で手を合わせて澪に謝る。
謝りながら、心の中で納得していた。
なるほどな、唯をなだめるのに時間が掛かったから、屋上に来るのが遅かったのか。
それは悪い事をしちゃったよな……。

唯が頬を膨らませて澪に絡む様子が目に浮かぶ。
子供っぽくて笑える光景だけど、人の事は言えないよな。
私だって唯が和や梓達と新バンドを組んだって聞いたら、ずるいなあ、と思うだろう。

でも、間違った事をしたとは思ってない。
新バンドを組んだのは完全に勢いからだったけど、
ライブに向けて動けるのは嬉しいし、皆にも喜んでもらえるはずだ。
澪達だって、仮とはいえわかばガールズのメンバーの演奏が聴きたかったはずだしな。
だから、私がやるべきなのは、澪達に最高の演奏を届けてやる事なんだ。
258 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:32:15.68 ID:wzOF41Z10
不意に思い立って、澪の体の上に覆い被さるような体勢になってやる。
覆い被さるって言っても、身体全体で乗っかってるわけじゃない。
妹がお兄ちゃんを朝起こす時に腰の上に乗っかるって感じの体勢かな。
ネタが古いけど、私は何となくそんな体勢を取ってみた。
ひょっとしたら、澪と少しだけくっ付きたかったのかもしれない。

「急に何だよ。重いぞ、律」って言われるかと思ってたんだけど、
意外に澪はそう言わずに、逆に珍しく不敵そうな表情を私に向けて言った。


「別に謝らなくてもいいよ、律。
唯だって羨ましがってるだけで、律を責めてたわけじゃないしさ。
憂ちゃんがちゃんと説明してくれたみたいで、意外に唯も落ち着いてた。
ちょっと目が覚めちゃったらしいムギにも梓が説明してたんだけど、
ムギの奴も羨ましそうにしながら、何か嬉しそうな感じだった。
だからさ……、律の行動は間違ってなかったんだよ、きっと」


そう言ってくれるのは嬉しかった。
特にムギの事は気になってただけに、
嬉しそうにしてくれてるんなら私だって嬉しくなる。
それはよかったんだけど、勿論と言うべきか、澪の言葉には続きがあった。


「でもな、やっぱりずるいぞ、律。
羨ましいし、妬ましいよ。
和まで誘って、楽しそうな事始めちゃってさ」


澪が腕を伸ばして、私の頬を掴む。
それからぐにぐにと動かして私の頬を抓り始めたけど、それくらいは好きにやらせてやる事にした。
しばらく抓って満足したのか、澪がまた言葉を付け加える。


「まあ、いいよ。
律が楽しそうな事を始めるんなら、
私達だって、勝手に楽しそうな事を始めてやるからな?
律だけじゃなく、梓達も羨ましがるような事を始めてやる。
ずるいって思うなよな。これでお互い様なんだから」


「何だよ? 何を始める気なんだ?
教えてくれよー、澪。
嘘は吐かないって約束しただろー?」


上から私が訊ねると、一瞬だけ真面目な表情になった澪が言った。


「内緒だ」


そうして、屈託もなく笑う。
そう来たか……。
確かに嘘は吐いてないよな、嘘は……。

でも、よかった。
澪達も澪達で楽しい事に向けて動き出せてるんだ。
それぞれの未来に向けて、それぞれに向かえてるんだ……。
それならきっと、私達も澪達も元気に生きていけるはずだ。

でも、お互い様ながらちょっと悔しいから、
澪に私達の新バンドの名前を訊かれた時(梓が恥ずかしがって名前は伝えなかったらしい)、
「私も内緒だ」って言って、澪の頬を軽く引っ張ってやった。

こうして、長かった夏の日の一日は終わった。
259 :にゃんこ [saga]:2012/03/20(火) 19:33:43.49 ID:wzOF41Z10


今回はここまでです。
やっと一日目が終わりました。
260 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:05:08.79 ID:uTBomnnF0





ほうかごガールズを組んでから、数日は何事も起こらなかった。
何事も起こらなかったって言うより、
何も進展しなかったって言う方が正しいかもしれない。
あれから何度かあの横断歩道にも行ってみたけど、
何があるわけでもなく、何が起こるわけでもなく、何の手掛かりも掴めなかった。
やっぱりあの時見た生き物の光景は、誰かの夢の中の記憶だったんだろうか。

まあ、こんな事態、進展させようもないっちゃないんだけど、何も出来ないのは悔しい。
だから、その分、私達は新ユニットの練習に励んでやる事にした。
幸いにもと言うべきか、食糧と時間はたくさんあるんだ。
閉ざされた世界に対して何も出来ない分、私達のために何かをしてやりたかった。

ほうかごガールズはほうかごガールズで何かをする。
澪達も澪達で何かをしているらしい。
それでいいんだと思った。
先の見えない世界でも、前に進む事だけはやめるわけにはいかない。
それだけは……、やめちゃいけないと思うから。


「それにしてもさ、和……」


吹奏楽部が使ってる方の音楽室、私はピアノの前に座る和に声を掛けた。
静かに微笑み、和が応じてくれる。


「どうしたのよ、律?」


「上達早いよなー、って思ってさ。
上達って言うか、昔取った杵柄って言うか……。
とにかく、凄いじゃんか。
もう安心して演奏を見てられるよ。
本当に長い間、ピアノ弾いてなかったのかよ?」


「そうかしら?
でも、長い間弾いてなかったのは本当よ。
中学に上がる頃には全然弾かなくなっていたから、かれこれ三年くらいになるかしら。
しかも、音楽の授業とお遊びで弾いてただけだから、本当に弾けるってレベルじゃないのよ。
まだうまく弾けない箇所も多いし……。
こんな出来で唯達に聴かせてもいいものなのかしら……?」


不安そうに和が目を伏せる。
初めてのライブを間近にして、流石の和でも不安を隠せなくなって来てるんだろう。
そりゃ初めてなんだもんな。
内輪だけのライブとは言え、緊張しちゃうのは仕方が無い。
私は微笑みを和に向けて、言葉を返してやる。


「何言ってんだよ、和。謙遜かー?
私なんか和の十分の一もピアノ弾けないし、
ドラムの演奏を人前に聴かせるレベルにするまで、すっげー時間が掛かったんだぜ?
それに比べりゃ、和のピアノの演奏は自慢してもいいレベルだよ」


「そうだよ、和ちゃん!
私、和ちゃんのピアノの演奏、凄いと思うよ!」


手を胸の前で握ってそう言ったのは唯……、じゃなくて憂ちゃんだった。
何か唯みたいな言葉と仕種だけど、別に私が二人を見間違えてるわけじゃないぞ。
全然違ってるように見えても、二人はやっぱり姉妹なんだなって思う。
しかも、その顔を紅潮させた様子を見る限り、
お世辞じゃなくて本気でそう思ってるみたいだ。
261 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:05:45.31 ID:uTBomnnF0
しかし、何だな……。
最近、妙に憂ちゃんと和の仲が良くないか……?
私と出会って三年間、憂ちゃんはずっと和の事を『和さん』って呼んでたはずだ。
いや、そもそも小さい頃は『和ちゃん』って呼び方だったんだろうけどさ。
って事は、呼び方が小さい頃に戻ったって事か。

幼児退行……じゃないよな?
この世界を不安に思って、誰かに甘えたくて退行してるって事は無いよな?
憂ちゃんはしっかりしてるし、そんな事は無いだろうけどちょっと不安になる。
もし憂ちゃんが心の奥で悩んでるんだとしたら、私が力にならなきゃいけない。
何が出来るかは分からないけど、憂ちゃんにはいつも世話になってるんだからな。

そういや、憂ちゃんが和を私の前で『和ちゃん』って呼び始めたのはいつ頃だったっけ?
あの生き物が消えた日には、まだ憂ちゃんは『和さん』って呼んでたはずだ。
それからしばらくも『和さん』って呼んでたはず。
憂ちゃんが和を『和ちゃん』って呼び始めたのは、確か……。
……んん?
私の記憶が正しけりゃ、私と一緒に風呂に入ってからだよ、うん。
あのほうかごガールズ結成会議の時には、もう『和ちゃん』って呼んでたもんな。
風呂って……、和と何の関係も無いじゃん……。
私との風呂と『和ちゃん』って呼び方に何の因果関係があるってんだ……。

そうやって唸ってたせいだろうか、
気が付けば、憂ちゃんが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
憂ちゃんが不安そうな口振りで私に訊ねる。


「ど、どうしたんですか、律さん?
調子でも悪いんですか?」


「あ、ごめん、憂ちゃん。
大丈夫。何でもな……」


何でもない、と言おうとして、私は言葉を止めた。
嘘を吐いたってしょうがない。
私が何でもないって言った所で、優しい憂ちゃんは私を心配しちゃうだろうしな。
だったら、本当の事を訊ねた方がずっといいはずだ。
そうすれば、私だって見つからない答えに悩んで唸る事も無くなるしな。

私はちょっと深呼吸してから、憂ちゃんに小さく訊ねてみる。


「調子は万全なんだけど、ちょっと気になる事があるんだよね。
憂ちゃんの事でさ」


「私の事……ですか?
分かりました!
私で答えられる事なら何でも答えますよ、律さん。
何でも訊いて下さい!」


まっすぐな視線で憂ちゃんが私を見つめる。
やっぱり、いい子だな……。
この調子なら退行って事も無いだろう。
私はホッとしながら、憂ちゃんの好意に甘えて訊ねさせてもらう。
262 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:06:41.70 ID:uTBomnnF0
「いや、大した事じゃないんだけどさ、
最近、憂ちゃんは和の事を『和ちゃん』って呼んでるよね?
これまでは『和さん』だったはずなのに、どうしてなのかなって思ったんだ。
呼び方なんて個人の自由なのに、変な事気にしちゃってごめんね」


私の言葉が終わると、憂ちゃんが苦笑した。
私の質問に苦笑したって言うより、
自分自身の変化にやっと気付いたって感じの苦笑だった。
苦笑しながら、憂ちゃんが私の質問に応じてくれる。


「あ、そうですね……。
律さんに言われるまで気付きませんでした。
そういえば私、律さん達の前では和ちゃんの事を『和さん』って呼んでましたよね。
いいえ、ほとんどの人の前では、『和さん』って呼ぶようにしてたんです。
それこそ、お姉ちゃんの前でも……。
流石にそれはお姉ちゃん相手でも恥ずかしいですし……。
だけど……」


「だけど?」


「本当は私、やっぱり和ちゃんの事は『和ちゃん』って呼びたくて……。
だから、親しい人の前だと、その呼び方になっちゃうんだと思います。
実は私、梓ちゃん達の前じゃ、結構『和ちゃん』って呼んでたんですよ。
つまり……、えっとですね……」


珍しく憂ちゃんが言葉を詰まらせる。
視線をあちこちに動かして、顔を少し赤く染めてるみたいだった。
多分、照れてるんだろう。
憂ちゃんが照れるなんて、滅多に無い事でとても新鮮だ。

親しい人の前じゃ呼び方が変わっちゃう……。
確かにそういう事もあるだろう。
特に憂ちゃんは分別のある子だから、
年上の人に対する呼び方にはすごく気を使ってるはずだ。
私達なんかずっとさん付けで呼ばれてるしな。

考えてみれば、ほうかごガールズは憂ちゃんの親しい人間ばかりで構成されてる。
同級生の梓、純ちゃん、幼馴染みの和。
これだけ親しい人間が揃えば、徹底してた呼び方もつい変わっちゃうってもんだ。
私だって気を抜くと、澪の事をたまに『澪ちゃん』って呼びそうになるしな。
ううむ、幼い頃の習慣と言うやつは恐ろしい……。
まあ、高校生にもなって、
さわちゃんの事をママと呼んじゃった事がある澪には敵わんが。

私は静かに微笑んでから、憂ちゃんに軽く頭を下げた。


「そっか、ありがと、憂ちゃん。
何か恥ずかしい事を訊いちゃったみたいでごめんね。
そうだよね、やっぱり幼馴染みくらい自分の好きな呼び方で呼びたいよね。
唯の前じゃ和ちゃんって呼びにくいってのも分かるな。

……そうだ!
変な事訊いちゃったお詫びに、私の事もりっちゃんって呼んでくれていいよ!」
263 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:07:15.70 ID:uTBomnnF0
最後のは冗談のつもりだったんだけど、
意外と憂ちゃんは笑う事もなく真剣な表情で視線を私にぶつけた。


「本当にいいんですか、律さん?
りっちゃんって呼んでも、いいんですか?
いいんでしたら、私も嬉しいです……!」


「う、うん……。勿論だよ……」


予想外の憂ちゃんの言葉に、私はちょっと気圧されてしまう。
あれ……? おかしいな……。
憂ちゃんなら「もう、律さんったら」って微笑む所だと思ってたんだけど……。
いや、別に嫌なわけじゃない。
呼ばれ方は気にしない方だし、
憂ちゃんがいいなら何だって好きに呼んでくれて構わない。
でも、憂ちゃんって年上にこんな積極的な子だったっけ……?

さっきみたいに私はまた首を捻る。
そうやって憂ちゃんの真意が分からずに悩んでいると、
仕方ないわね、とでも言わんばかりに苦笑しながら、和が口を開いた。


「律はもうちょっと人の話をよく聴くべきね。
律が鈍感だから、憂が困ってるじゃないの。
よく思い出して。さっき憂は何て言ったかしら?
親しい人の前だと私の呼び方が変わっちゃうって、憂は言ったわよね?
これがどういう事か分かるでしょ?」


「言われなくても分かってるって。
今、音楽室には和と梓と純ちゃんが居るだろ?
だから、憂ちゃんが和を和ちゃんって呼ぶのは分かるよ。
やっぱ呼べる時は好きな呼び方で呼びたいもんな」


私が言うと、和がわざとらしく大きな溜息を吐いた。
傍から見ていた純ちゃんの表情もちょっと呆れ気味だ。
何だよ……、間違った事は言ってないはずだぞ……?

溜息を吐きながら、和が話を続ける。


「やっぱり分かってないんじゃない……。
律の言った通り、今、ここには私と梓ちゃんと純ちゃんが居るわ。
それと憂と……、もう一人居るじゃない」


「もう一人……って、私かっ?」


「他に誰が居るのよ……。
律ったら鋭い時は鋭いのに、自分の事になると全然分かってないわよね。
憂が私の事を律の前で『和ちゃん』って呼ぶようになったのは、憂と律が親しくなったからなの。
変わったのは私と憂の関係じゃなくて、律と憂の関係なのよ。
どうして律はそんな単純な事に気付かないのかしら……」


「いや、だって……、そんな……」


私は呻くみたいに呟く。
流石にそこまで自分に自信は持てないよ、和……。
特に憂ちゃんとは三年以上、
『友達の妹』と『お姉ちゃんの友達』って関係で付き合って来たんだ。
急に自分達の関係性が変わるなんて思わないじゃないか……。

大体、きっかけが分からない。
風呂か? 風呂なのか?
一緒に風呂に入った事が、二人の関係をそんなに激変させちゃうもんなのか?
264 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:07:45.90 ID:uTBomnnF0
「律先輩ったら、女泣かせのプレイボーイなんだからー」


からかうみたいに純ちゃんが笑う。
普段なら言い返したい所だったけど、
鈍感な自分に恥ずかしさが増して来てそれも出来なかった。
いや、本当に恥ずかしいのは、きっと私よりも憂ちゃんの方だ。
おずおずと視線を向けてみると、憂ちゃんが顔を赤く染めながら私を見つめていた。

あー、もう!
何やっちゃってんだよ、私は!
こんなの憂ちゃんに物凄く悪いじゃないか!

私は自分の顔が熱くなるのを感じながら、それでもどうにか憂ちゃんと目を合わせて言った。
今は憂ちゃんとしっかり話をしなきゃいけない時なんだ。
私の恥ずかしさなんて、今はどうでもいいんだ。


「えっと……、ごめんね……。
私ったら全然気付かなくてさ……」


「いえ……。
私こそ年上の人をちゃん付けで呼びたいだなんて、
いきなり変な事を言ってしまってすみません……。
でも……」


途切れ途切れながら、憂ちゃんは自分の想いをはっきり口にしてくれた。
憂ちゃんからそんなに信頼されてるのは凄く嬉しい。
でも、何でだ……?
私はその答えが出せない。
自慢じゃないが、この数日でそんなに憂ちゃんと親しくなる何かがあったなんて思えない。
三年間、それなりの距離感を持って私達は付き合っていた。
友達の妹っていう難しい位置にいる憂ちゃん相手に私は少し戸惑ってて、
多分、憂ちゃんはそれを察して、私と丁度いい距離感で付き合ってくれてたと思う。
けど、今の憂ちゃんは私ともっと親しくなりたいと言ってくれてる。

失礼だと思うけど、私にはその理由が全然分からない。
はっきり言って、本気でお風呂以外に理由が見当たらなかった。
梓には冗談で言ってたんだけど、本気で湯の力が私達を近付けてくれたんだろうか?
そりゃ私だって、一緒に風呂に入ったおかげで若干親しくなれたとは思ってるんだけど……。

流石にその理由まで憂ちゃんに訊いちゃうわけにはいかない。
そんなの失礼過ぎるにも程がある。
だから、今度こそ私はちゃんと憂ちゃんの気持ちを考えなきゃいけない。
あの日の事をもっと思い出すんだ。
あの日、憂ちゃんと私の間に何があったのかを……。

裸の憂ちゃんと抱き合うような体勢になった……、ってのは違うよな。
憂ちゃんは本気で私の事を心配してくれてたし、
ムギの勘違いの事にも気付いてないみたいだった。
となると、あの日、私と憂ちゃんの間であった事と言えば一つしかない。


「ほうかごガールズ……?」


私が訊ねるみたいに口にすると、憂ちゃんの表情がパッと輝いた。
私達の様子を見ていた純ちゃんと和の様子も安心した感じになる。
嬉しそうに微笑みながら、憂ちゃんが話を続けてくれる。


「はい……!
あの日は言ってなかったんですけど……、
恥ずかしくて言い出せなかったんですけど……、
だから、今、言わせてもらいますね……。

律さんが新バンドの……、
ほうかごガールズの事を発案してくれて、私、とても嬉しかったんです。
これでお姉ちゃん達に私達の演奏を聴いてもらえるんだって思うと、凄く嬉しくて……。
それもそのバンドに和ちゃんまで参加してくれるなんて、本当、夢みたいです……!
今更ですけど、本当にありがとうございます!」


憂ちゃんは少しだけ興奮して言っていた。
憂ちゃんが興奮するなんて、よっぽどの事だった。
そうか……。
私は憂ちゃんにそんなに喜んでもらえる事を思い付いてたのか……。
正直、単なる勢いだけの思い付きが、憂ちゃんにそんなに喜んでもらえてたなんて思いもしなかった。
265 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:08:12.10 ID:uTBomnnF0
大体、それはわかばガールズのためだけに言い出した事じゃない。
何も出来てない自分が悔しくて、
それと私自身もわかばガールズの演奏が聴きたくて、
そんな下心もあって言い出した事なんだ。
不純な雑念や下心に溢れた勢いだけの発案なんだ。
それがこんなに喜んでもらえてるなんて、何だか申し訳ないけど……。
でも……。

それは口にしないでいい事だと思った。
始まりや理由は何であれ、憂ちゃんはそれを嬉しいと思ってくれた。
私の事を信頼してくれたんだ。
だったら、言いだしっぺとしての責任を取るのが、私のせめてもの罪滅ぼしだ。
私はいつも勢いだけの自分に呆れながら、
でも、ちょっとだけ感心しながら、憂ちゃんの目をまっすぐに見つめた。
今度は変な気負いもなく正面から見つめられた。


「ほうかごガールズの事……、
憂ちゃんにそんな喜んでもらえてたなんて、私も嬉しいよ。
ごめんね、すぐに気付けなくってさ……。

その分、私、皆の演奏をしっかり支えるよ。
部活に力を入れてるわかばガールズの演奏に匹敵出来るかは分かんないけど、頑張る。
だから……」


私は正直な想いを口にした。
頑張ろう。
わかばガールズの完璧な演奏を手助けするために、精一杯頑張ろう……!
そんな真剣な想いを込めていたけど、何故だかその言葉は純ちゃんに苦笑された。
持っていたベースを軽くかき鳴らしてから、純ちゃんが私に言った。


「違いますよ、律先輩。
ここはアレですよ?
「頑張る」じゃなくて、「一緒に頑張ろう」って言う所ですよ?
だって、私達、もう同じバンドのメンバーじゃないですか。
もう仲間なんですから、他人行儀な言い方は無しにしましょうよ。
仲間で一丸になって、澪先輩達にすっごい演奏を聴かせてあげましょうよ!」


言い終わった後、流石の純ちゃんでも照れ臭かったんだろう。
頬を少し赤く染めながら、照れ隠しなのかピースサインを見せた。
仲間……か。
言われてみれば、そうだった。
助っ人のつもりだったから自覚は無かったけど、助っ人でも仲間は仲間なんだ。
もう他人行儀な考え方をするのはやめよう。
期間限定だけど、私の新しいバンドとして、全身全霊で皆と演奏するんだ!


「分かったよ、純ちゃん。勿論、憂ちゃんも。
私、自分の事を助っ人だからって、軽く考えてたかもしれない。
でも、それじゃいけなかったんだ。
助っ人だろうが何だろうが、
メンバー全員が気持ちを一つにしなきゃ、いい演奏なんて出来ないよな。
だから……、一緒に頑張ろうぜ!」


私が手を挙げて宣言すると、憂ちゃん達も笑顔で手を挙げてくれた。
まだライブをする前に、この事に気付けて本当によかった。
単なる助っ人ってだけの気分だったら、いい演奏なんて出来なかったかもしれない。
それに気付かせてくれた皆には本当に感謝したい。
和が私のその様子を見て、静かに微笑みながら言った。


「久し振りに聞いたわね、律の『ぜ』って語尾。
私の前じゃたまに出してたけど、憂達の前じゃあんまり出してなかったでしょ?
律も憂達の前じゃ照れてたのかしら?」


「うおーい!
そこは気付いても黙っててくれよ、和ー……!」


和に言われなくても、そこは私も自覚してた。
憂ちゃんと純ちゃんの前じゃ、ちょっと口調変えちゃうんだよな、私。
二人が嫌いってわけじゃなくて、
年下に素の自分を見せるのはやっぱり恥ずかしかったんだと思う。
いや、梓は除くけどな。
でも、ぎこちなくても、少しずつそういうのはなくしていこう。
私達はもう仲間なんだから。
266 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:08:40.14 ID:uTBomnnF0
私は照れ隠しのために、憂ちゃんに微笑みかけて言ってみる。


「って事で、それは置いといてとにかく……、
憂ちゃんは遠慮なく私の事をりっちゃんって呼んでくれていいぞ!
何だったら律って呼び捨てにしてくれても構わないからさ!」


私の言葉に憂ちゃんが嬉しそうにしながらも、軽く頭を下げて返した。


「ありがとうございます、律さん。
りっちゃんって呼ぶのを許してくれて、私、嬉しいです。
でも……、やっぱりまだしばらくは律さんってお呼びしますね。
りっちゃんで呼ぶのは、まだちょっと恥ずかしくて……。
でもいつか……、いつか必ずりっちゃんって呼ばせてもらいますね……!」


「そっか……。うん、いいよ。
その時を楽しみに待ってる。
こういうのは強制で呼ばせるようなもんじゃないしさ」


「自分で話を盛り上げておいてすみません、律さん……。
あ、そうだ!
律さんの方こそ、私の事、『憂』って呼び捨てで呼んで下さい。
律さんが梓ちゃんを呼び捨てで呼ぶの、いいなって思ってたんです」


私が憂ちゃんの事を呼び捨てに……?
『憂』って……?
うわ、それは想像してなかった。どうしよう……。
私がその答えを出すより先に、純ちゃんが憂ちゃんの話に乗っかった。


「あ、それいいなー、憂。
ねえ、律先輩、私の事も『純』って呼び捨てで呼んで下さいよ。
後輩を名前で呼び捨てる関係なんてカッコいいじゃないですか!
さあさあ、遠慮なく!」


ノリノリだー!
一応、私が純ちゃんを呼び捨てにする光景を想像してみる。
憂ちゃんを呼び捨てにするよりは想像しやすかったけど、
やっぱり純ちゃんを呼び捨てにするのも恥ずかしい。
呼び方を変えるってのは、難しいよな……。
漫画みたいに親しくなったらいつの間にか呼び捨ててるって事は無いぞ、マジで。
私は照れ笑いを浮かべて、頬を掻きながら純ちゃん達に言う。


「機会があればな!
いきなり呼び捨てってのはちょっと……ね。
その内、そう呼ぶからさ!」


私の言葉に純ちゃんと憂ちゃんは残念そうな顔をしたけど、すぐに納得してくれた。
自分達も簡単には私の事をりっちゃんって呼べない気持ちがあるみたいで、
私の気持ちを分かってくれたみたいだ。
その内……、ってのは、勿論その場しのぎの嘘じゃない。
今はまだ恥ずかしいけど、皆でライブをした頃には、少しは呼びやすくなってるはずだ。
その頃には、新しい呼び方で呼び合える仲になっててほしいと思う。
呼びたい、と思う。
267 :にゃんこ [saga]:2012/03/22(木) 14:10:09.76 ID:uTBomnnF0


今回はここまでです。
梓、ちゃんと同じ部屋にいますが、まだ喋ってません。
何故なのかは次回という事で。
268 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/22(木) 14:17:12.39 ID:04NUrMiDO
乙です。
269 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:53:49.52 ID:J932UPGH0
でも、それはまだもうちょっとだけ先の話だ。
私はスティックを掲げると、私の新しい仲間達に向けて宣言してみせる。


「よっしゃ。
仲間同士の親交も大切だけど、練習だって同じくらい大切だ。
そろそろ練習しようぜ!
期限があるわけじゃないけど、出来るだけ早く澪達にライブをみせてやりたいからな!」


私の言葉に、「はいっ!」、「そうですね!」、「分かったわ」と三者三様の返事が上がる。
皆の返事は嬉しかったけど、同時に私は突っ込みを待っていた。
多分、あいつからの突っ込みが来るはずだって思ってた。
このパターンならあいつから、
「普段は練習しようなんて言わないのに、今日はやけに張り切ってますね」って突っ込みが来るはずだ。
そう思ってた。

だけど、あいつからの……、梓からの生意気な突っ込みは来なかった。
梓は私の言葉をまるで聴いてないみたいに、音楽室の壁を見つめながらぼんやりしていた。


「おーい、梓ー?
練習だぞー? おまえがいつもやりがってる練習だぞー?」


ちょっと声を張り上げてみるけど、梓は全く反応しなかった。
そういや、梓はさっきまでの会話にも全然参加してなかったよな。
私と憂ちゃんの会話には参加しそうなもんなんだけどな……。
何か悩み事でもあるんだろうか……。
何だか心配になる。
でも、大事だって騒いじゃうのも、梓に悪い気がするしな……。

どうしようかな……。
何個か解決策を考えてみたけど、私らしい最適な答えは一つしか見つからなかった。
我ながらひどい解決策だなって思う。
でも、それが一番だ思ったから、私は少し深呼吸してから意を決して立ち上がった。
壁を見つめている梓にゆっくりと近付いていく。

手を伸ばせば届く距離。
そんな距離にまで近付いても、梓は私の行動に気付いてないみたいだった。
小さく溜息を吐いてから、私は梓に手を伸ばして……、
成長してる気がしないでもないその梓の控え目な胸を鷲掴み、耳元で囁いてやった。



「あーずーさちゃん?」


「にゃっ!?」


梓があだ名通りの猫みたいな悲鳴を上げる。
やっぱ効果抜群だな。
ぼんやりしてる澪によくやる技なんだけど、澪の奴もこの私の技には弱い。
ほぼ確実に反応して、その後に「聞こえてるよ!」って言いながら殴り掛かって来る。
聞こえてるなら反応しようぜ……。

梓の奴も多分、殴り掛かって来るはずだ。
前に澪のコスプレ……、じゃないか。
とにかく澪の真似をさせようとした時、
こいつ、「律、うるさい!」って言いながら本気で殴り掛かって来たからな……。
あれは痛かった……。
270 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:54:30.45 ID:J932UPGH0
ただ殴られるだけってのも悔しいから、
私は鷲掴んだ胸を揉んでやろうと少し手を動かそうとして……、気付いた。
あれ……?
も……、揉めん……。
ブラジャーの硬い感触だけが手に伝わってきて、どうにも揉みようがない……。
梓……、胸が成長してるように見えたのは私の気のせいだったのか……。
つーか、ブラジャーのサイズだけ大きくしてるんじゃないのか?
サイズが合ってない気がするんだが……。

瞬間、私は途轍もなく悲しくなった。
まさか梓……、自分の成長を信じてサイズの大きいブラジャーを買ったのか?
フィッティングもせずに……?
やめてくれ……。
人の事を言えない立場なだけに悲しくなってくる……。

だけど、今はそんな事はどうでもよかった。
いつまで経っても、梓の拳が私の脳天を襲わない事の方が気になった。
本気で心配になって来て、手を梓の胸から離しておずおずと訊ねてみる。


「おい、梓……?
おまえ、大丈夫か? 熱でもあるのか?
調子が悪いんだったら、早めに昼飯作ってやるから、食べて休んでいいんだぞ……?」


「あ……、はい……。
いえ、えっと……、大丈夫です……。
考え事してただけなんで……、
その……、返事しなくてすみませんでした……」


梓が元気無く呟く。
そして、大きな溜息。
胸を揉んだ私の行動がとても間抜けに思えて来る。
私が間抜けなのは全然構わないんだけど、
その間抜けさに今の梓を巻き込んでしまうのは、ひどく申し訳ない気がした。
271 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:55:06.33 ID:J932UPGH0
私、間違っちゃったのか?
私の思い付きの行動が失敗する事は多いけど、今回も失敗だったのか?
梓の調子を取り戻そうとしてやった事は、完全に失敗だったってのか?

それを梓に訊ねたかったけど、本人に訊く事じゃないってのも分かってた。
私は無理して笑ってから、梓の肩を軽く叩いた。
どうしよう……。
梓に嫌われちゃってたら、どうしよう……。
思わずそんな事を考えちゃってる自分に気付く。

当然だけど、梓だろうと誰だろうと、誰かに嫌われるのはどんな時だって嫌だ。
嫌に決まってるじゃないか。
でも、閉ざされた世界に来てから、私は誰かに嫌われるのがすごく怖くなってる気がする。
皆、親しい仲間達だし、残されたのは私達の八人だけなんだ。
たったそれだけしか居ないのに、そんな数少ない仲間に嫌われるなんて、絶対に嫌だ……!

様子がおかしいはずの梓にすら、私の顔色が悪い事を気付かれちゃったんだろう。
梓が心配そうな顔を向けて、私に言ってくれた。


「どうしたんですか、律先輩?
これから練習するんですよね?
ぼんやりしててすみませんでした。
私はもう大丈夫ですから、練習しましょう?」


悩んでる梓に何で気を遣わせちゃってるんだよ、私は……。
私は自分の情けなさと臆病さに呆れながら、どうにか掠れた声を絞り出す。


「あ、ああ……。
今日は初めてほうかごガールズで合わせる日だからな……。
しっかり頑張れよ、梓。
それと……、えっと……」


「何ですか?」


梓が首を傾げて私に訊ねる。
その顔にはもう微笑みが戻っていた。
梓の悩みはひょっとしたらそれほど深い悩みじゃなかったのかもしれない。
私が勝手に怖がっちゃってるだけかもしれない。
だけど、梓に嫌われた可能性がほんの少しでもあるって思うと、
私は震えてしまう自分の心を押し留められなかった。

本当は「ごめんな」って言おうと思ってた。
「調子に乗って胸を揉んだりして悪かった」って言いたかった。
でも、流石にそれはやめておいた。
それは完全な私の自己満足だからだ。
梓に「気にしてませんよ」って言ってもらって、安心するための謝罪なんだ。
それが分かるくらいには、私の頭は悪くないつもりだ。
272 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:55:33.03 ID:J932UPGH0
だから、私は深呼吸して、軽く笑って見せた。
もし今の行動で梓に嫌われたんだったら、他の所でフォローしよう。
本当に謝らなきゃいけない時はあると思うけど、
自分の不安を消すためだけに謝るなんて、しちゃいけない事だ。
「何でもない。練習、頑張れよ」と私が言うと、「律先輩も」と梓が返した。

むったんを持って、梓が音楽室の中央に向かう。
私は大きく深呼吸をしてから、さっきまで座っていたドラムに向かって歩いていく。
純ちゃん達が梓に心配そうな声を掛け、「大丈夫だよ」と梓が微笑むのを横目に見る。
少しだけ安心しながら、私は相棒のドラムの椅子に座った。

相棒のドラム……。
ほうかごガールズを組んでから、メンバーで分担して運んだ私の黄色いドラムだ。
わかばガールズのライブの後で演奏出来るように、実家に置いておいたんだよな。

菫ちゃんのドラムを借りるって選択肢もあったけど、私はそうはしなかった。
純ちゃんは「スミーレは気にしないと思いますよ」って言ってくれた。
でも、それは遠慮しておいた。
わかばガールズのドラマーは菫ちゃんで、
菫ちゃんのドラムは菫ちゃんだけの物なんだ。
後からしゃしゃり出た私がその居場所を奪っちゃいけないんだ。
例え今後一生会う事が出来ないとしたって、それだけはやっちゃいけない。

まあ、菫ちゃんのドラムが身長の高い人用のドラムだった、ってのもあるけどさ。
話にはちょっと聞いてたけど、でけーな、菫ちゃん……。
梓に見せてもらった写真で見ても、梓より頭一個は確実に大きかったし……。
勿論、ドラムをセッティングし直す事も出来るんだけど、やっぱりそれは駄目なんだ。
私だって自分のドラムを勝手にセッティングし直されたら、
流石に怒りはしないけど、どうも気分悪いもんな……。

また深呼吸。
ふと視線を向けると、ピアノの先から和が私を見つめていた。
何かを言いたそうな表情をしてたけど、何も口にしなかった。
それが嬉しかった。
和は私が何をしようと見守っててくれるつもりなんだろう。
私は小さく頷いて、手に持ったスティックをもう一度頭上に掲げて言った。


「おーし、じゃ、初合わせいくぞー?
誰かに聴かせるわけじゃないんだし、和もあんまり緊張しなくて大丈夫だからな。
憂ちゃんも純ちゃんも、これまで練習した通りにやってくれれば問題無いから」


三人に声を掛けたけど、梓には何も言わなかった。
こればかりは梓に声を掛けるのが怖かったからじゃない。
梓なら何も言わなくても完璧に合わせてくれるだろうと思ってたからだ。
何かの悩みを抱えたとしても、梓はそういう後輩だ。

純ちゃん達が頷き、梓もそれに続いて頷いた。
よし、今は私の不安の事は忘れよう。
今からは音楽の時間。
音を楽しんで、心を一つにする時なんだから。
私は笑顔を浮かべて、声を上げてスティックを叩く。
273 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:56:35.62 ID:J932UPGH0
「予定通り、一曲目は『翼をください』だ。
いっくぞー! ワン、ツー、スリー、フォー!」


曲が始まる。
私達の思い出の曲……、って言っても、このメンバーは誰も知らないか。
私と澪とムギで初めて合わせられた曲、『翼をください』。
この曲を聴いて、唯は軽音部に入部してくれた私達の大切な曲。
まあ、唯には「あんまり上手くないですね」って言われたんだけどな。
それでも、四人ともずっと覚えてた思い出深い曲だ。

ちなみにこの曲を練習曲にしたいって言い出したのは私だ。
そんなに難しい曲じゃないし、何よりこの曲をまた私の始まりの曲にしたかったんだ。
ほうかごガールズと、この閉ざされた世界での初めての曲に……。
なんて、そんな事は口が裂けても皆には言えないけどな。

でも、私達の初セッションは十秒も経たずして、中断されちゃう事になった。
いや、演奏は完璧だった。
十秒で何が分かるんだって感じだけど、決して悪くなかったと思う。
和の演奏もよかったし、純ちゃんや憂ちゃんの演奏も上手だった。
私だって失敗してないし、梓のギターは完璧だった。
梓のギター……だけは完璧だった。

問題があったのは梓のその歌声だ。
わかばガールズのボーカルは梓だって事もあって、
それを引き継いでほうかごガールズのボーカルも梓がやる事になった。
歌は苦手みたいだけど、さわちゃんと特訓したって言ってたから大丈夫だと思ったんだ。
大丈夫だと思ってたんだ。

だが、しかし!
ここまでとは思わなかった……。
梓には悪いが、これほどまでとは思ってなかった……。
失礼を調子で言わせてもらうと、これはひどい。
どうなってんだ……。

何て形容したらいいんだろう……。
見事なくらい音程が一つもあってない。
真面目にやってるのは分かるけど、わざとやってるんじゃないかってレベルだ。
文字にしたら「ぃまあぁ、わったぁしのぉお」っ感じか。
何かの番組で歌が下手な芸能人に歌わせるって番組があったけど、文句無しに出演出来るぞ、梓よ……。
何せその歌声を聴いた和が、惑わされてピアノを弾き間違えちゃったくらいだからな……。
普段冷静な和が惑わされるなんてどんだけだよ……。

たった十秒でここまで場の空気を一変させられるなんて、ある意味才能だ。
逆に褒めた方がいいのかもしれない。
唯ならひょっとしてこっちの方が喜んで……、いや、流石の唯でもそれは無いか。

だが、何つーか……、梓の歌ってここまでのレベルだったっけか?
前にカラオケに行った時、上手い方じゃなかったんだけど、悪くもなかったはずなんだが……。
さわちゃんの特訓のせいで逆に歌が下手になったのか?
いやいや、他の事はともかく、音楽に関してはさわちゃんはエキスパートなんだ。
ちゃんと特訓してくれたはずだし、その点に関しては私もさわちゃんを信頼してる。
274 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:57:33.99 ID:J932UPGH0
純ちゃんも私と同じ疑問を持ったんだろう。
困った表情を浮かべて梓に歩み寄り、軽くその肩を叩いて言った。


「ちょっと……、どうしたの、梓!
ついこの前までは、合宿の成果でうまく歌えてたじゃん!
何? この二週間で歌い方忘れちゃったの?」


梓は何も言わない。
辛そうな表情を見る限り、自分の歌が酷かったのは自覚してるみたいだ。
純ちゃんの言葉が正しいなら、やっぱりさわちゃんの合宿の成果はあったんだ。
私だって『歌が上達してる』っていう梓の自慢そうなメールをもらってたんだ。
その梓の歌が退化しちゃうなんて、よっぽどの理由があるんだろうか。
ひょっとして、抱えてる悩み事のせいで梓の歌声に影響が……?


「……もん」


顔を赤くして、梓が何事かを呟き始める。
その声は小さ過ぎて聞き取れなかった。
梓に悩みがあるとして、それは一体何なんだろう?
訊くべきなのか一瞬迷ったけど、私は年上で部活の先輩なんだ。
私が訊かなきゃ、きっと梓はその悩みを胸の中に抱え続ける事になる。
だから、私は鼓動する胸を抑えて、梓に訊ねる事にした。


「どうしたんだ、梓?
何か悩んでるんだったら、役に立たないかもしれないけど私が……」


途端、梓がその場に座り込んでむったんを胸の中に抱いた。
泣きそうな声色で、大声を上げる。


「だって、和先輩に歌を聴かれると思ったら、緊張しちゃったんだもん!
下手な歌になっちゃったらって思ったら……、
緊張しちゃって……、音程が分からなくなっちゃったのよおっ!」


そう来たか!
あまりにも分かりやすい梓の悩みに、私はつい肩を落としてしまう。
敬語も忘れた梓の必死の様子を見る限り、梓が嘘を吐いてるようにも見えない。
なるほどな……。
悩み事があったから音程を外しちゃったんじゃなくて、歌う事自体が悩み事だったわけか……。

気持ちは分かる。
私も梓と同じくライブで歌った事はこれまでほとんど無い。
カラオケくらいは出来るけど、その程度の歌唱力だ。
人前で歌う事になった時は、やっぱりどうにも緊張しちゃう。
特に梓は自分の歌が上手くないって事を分かってるわけだから、私の何倍も緊張しちゃってるんだろう。
275 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:58:36.46 ID:J932UPGH0
勿体無いな、と思う。
梓はあんなに素敵な演奏をしてるし、
歌の特訓をして上手くなってるらしいのに、
緊張でその力を出せなくなるなんて物凄く勿体無い。
何とかしてやりたいな、と感じた。
梓のためだけじゃなく、私のためにもだ。
私だって完璧な状態の梓の歌と演奏を聴きたいんだ。
最高の演奏を澪達に届けてやりたいんだ。
だから、私のためにも、梓の悩みや緊張を何とかしてやりたくなった。


「なあ、梓……」


ドラムの椅子から立ち上がり、私は梓の近くに歩いていく。
純ちゃんに場所を譲ってもらい、軽く梓の頭に手を載せた。
少しだけ撫でてやる。


「緊張するのは分かる。
私だって歌はあんまり得意じゃないから、梓の気持ちは分かってやれるつもりだ。
でも、やっぱりさ……、緊張なんかで実力を出し切れないのは悔しいだろ?
特に梓はギターは完璧に弾けてるわけだしな。
緊張するってんなら、緊張しなくなるまでずっと付き合うからさ。

だから、そうだな……。
そんなに縮こまらずにもっと前を向いて、自分を解放してやってくれないか?
ほら、今から歌う歌は丁度『翼をください』だろ?
この歌の歌詞みたいに翼をもらって、背中に翼を生やしてさ、
空を飛んでくくらいの気持ちで開き直って、思いっきり歌ってやってくれよ。
その結果がもし下手な歌だったとしても、私は構わない。
緊張して、自分の実力を出せないって悲しい事だけはやめようぜ。な?」


上手く言えたつもりはない。
だけど、折角特訓した梓の本当の歌声が聴けないのは、私だって嫌なんだ。
だから、精一杯思い付く限りの言葉を梓に届けた。
その内の一つでも梓の心に届けばよかった。

幸い、私の言葉に憂ちゃんや純ちゃんも頷いてくれているみたいだった。
二人で駆け寄って、梓に優しい視線を向ける。
そして、和も優しく微笑みながら、梓に言葉を届けてくれた。
276 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:59:12.78 ID:J932UPGH0
「まあ、人間の背中に翼が生えても、決して飛べないんだけどね」


「うおーいっ!」


つい大声で叫んでしまった。
言葉を届けてはくれたが、それはあんまりと言えばあんまりな言葉だろ、和……。
そんな私の突っ込みを受けても、和は優しい微笑みを崩さなかった。


「皆、知ってると思うけど、鳥は空を飛ぶためにあの姿になったわ。
限りなく揚力を得やすい流線型の骨格にね。
骨の中まで骨粗鬆症みたいに穴だらけにして……。
だから、人間の背中に翼が生えたって、空を飛ぶ事なんて到底無理なのよ。
人間の背中に翼が生えたって、邪魔なだけで完全に無用の長物なのよね」


「それはそうかもしれないけどさ、和……。
今、そんな事言わなくたって……」


「ううん、よく聞いて、律、梓ちゃん。
人間の背中に翼は要らないの。そんな物があったって空は飛べないもの。
でもね……、人間は心の中に翼を持てる生き物だって私は思うのよ」


「心の中に……ですか……?」


梓が顔を上げ、和と視線を合わせる。
瞬間、梓はハッとした表情になった。
多分だけど、和が本当に優しい視線を自分に向けてくれてる事に気付いたからだと思う。
頷きながら、和が言葉を続ける。


「ええ、心の中に。
本当は違うのかもしれないけど、私はこの歌をそう解釈してるわ。
この歌詞の中の人達が欲しいのは実物の翼じゃなくて、心の中の翼……。
大空に飛び立とうとする想いと強い意志だと思うわ。
その意志を持ったから、人は空を飛べるようになったはずよ?
自分の背中にある翼ではないけれど、ほら、飛行機や気球や、多くの手段で……」
277 :にゃんこ [saga]:2012/03/24(土) 18:59:58.80 ID:J932UPGH0


今回はここまでです。
もうすぐ山場を迎える予定です。
278 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:44:30.79 ID:a4DBpTkb0
心の翼……。
そっか。卒業式の日、唯が言ってたよな。
梓は私達の天使で、私達に翼と羽をくれたんだって。
私達は梓に心の翼を貰った。
その梓に翼が無いなんて事あるもんか。
今は閉じてるだけ。
緊張や不安で羽ばたけないだけなんだ。

和って奴はいつも私の言いたい言葉の、更に一歩先の言葉まで言ってくれるよな。
だからこそ、私は澪の説得を和に任せられた。
和も澪をずっと支えてくれた。
私にはまだそれは出来てない。
特に閉ざされた世界に迷い込んでからは全然だ。
誰かの支えになろうとして、失敗してばっかりだ。
澪に声を掛けられなかったり、ムギを心配させたり、
梓へのからかいを失敗しちゃったり……。
本当にいいとこなしだよ……。

でも、くじけてるわけにもいかない。
私は梓に心の翼を貰った。
今も和の言葉に心の翼を貰えた。
その分、私も梓に心の翼を送らなきゃいけない。
梓はもっともっと広い世界に飛んで行ける奴なんだから。

私はもう一度梓の頭を撫でる。
いや、撫でるって言うよりは、くしゃくしゃに掻いてやった。
流石にくすぐったかったんだろう。
梓はちょっとだけ不満そうな視線を私に向けた。
私は出来る限りの笑顔を梓に向ける。


「羽ばたこうぜ、梓。
何たっておまえは天使なんだからさ。
唯やムギや澪や……、えっと……、
私……にも新しい音楽って翼をくれた奴なんだ。
背中に翼は無くても、心の中には大きな翼を持ってる奴なんだよ」


言ってて、自分の顔が熱くなってくるのを感じる。
和の言葉に乗っかったとは言え、流石に恥ずかしい事を言い過ぎたかもしれない。
梓は静かな視線を私に向けている。
らしくない私の言葉に戸惑ってるんだろうか。
と。
不意に、梓が小さく呟いた。


「天使……ですか……」


すると、憂ちゃんと純ちゃんが頷いて梓の言葉に応じた。
二人とも、真剣な表情だった。


「うん、梓ちゃんって天使だと思うな。
梓ちゃんに聴かせてもらった『天使にふれたよ!』、すっごくいい曲だったから!
お姉ちゃんや律さん達が梓ちゃんの事を考えて作った曲なんだよ?
そんな曲を作らせてくれる梓ちゃんってすごいと思う。
梓ちゃんって本当に天使なんだなあ……、ってそんな気がするの」


「そうだよ、梓!
澪先輩に天使って言ってもらえてる事、ちゃんと自覚しなきゃ!
悔しいけど、澪先輩やムギ先輩達にとっては梓は天使なんだよ!
あー、もう!
羨ましいなあ……!」


純ちゃんの言葉には多分に羨ましさが混じっていたけど、
それだけに素直に言葉だったし、嘘が無いから心に響いた。
私は軽く笑って、「そういうこった」って梓の耳元で囁いてやる。
梓の頬が赤く染まる。
頬を膨らませて、ちょっと不機嫌そうに呟く。
279 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:44:59.40 ID:a4DBpTkb0
「人の事、天使、天使って言わないでよ、もー……」


嫌がってるわけじゃなくて、照れてるだけだってのはすぐに分かった。
確かに皆から天使って呼ばれるのは恥ずかしいだろう。
私だったら多分恥ずかしさに堪え切れない。
そもそも誰かに天使って呼ばれる事は無いだろうけどさ。
でも、梓は違う。
誰からも天使って呼ばれてもいい子なんだ。
それを誇れとは言わないけど、せめて少しだけは自覚してほしい。
自分は誰かに何かを与えられる人間なんだって。

梓がその場に立ち上がり、私もそれに合わせて立ち上がった。
反っくり返っているのは、まだ照れてるからみたいだ。
でも、そんな状態でも、梓は私達に言ってくれた。


「分かりました……。
分かりましたよ、和先輩、律先輩。
それに憂と純も……。
自分が天使なのかどうかは置いといて、
緊張でちゃんと歌えないなんて申し訳ないですもんね。
そんなの……、皆さんにとって失礼ですもんね……。

だから、私、もっと練習します。
緊張しなくなるように、もっともっと歌います……!
それまでご迷惑をお掛けするかもしれませんけど、
和先輩も律先輩もどうかご指導お願いします……!」


梓らしい真面目で真剣な言葉だった。
天使って事に触れてほしくないみたいなのも、何だか梓っぽいよな。
その事について触れようとした瞬間、
私より先に嬉しそうな表情な純ちゃんが梓の頬を指で突いた。


「照れなくてもいいじゃんー。
梓は軽音部公認の天使なんだから、もっと天使って事を自称しちゃいなって。
自分に贈られた曲を耳コピするなんて、
天使みたいに可愛らしい事しちゃってるくせに、恥ずかしがるなんて今更だよー?」


「ちょっと、純!
それは先輩達には内緒だって……!」


「いいじゃん、いいじゃん。
減るもんじゃないんだし、ここは先輩達に告白しちゃいなって。
ねえねえ、律先輩、和先輩。
実は梓って『天使にふれたよ!』の楽譜、耳コピだけで書き起こしたんですよー?
可愛いと思いません?」


「純ったらー……!」


歌を失敗した時の何倍も真っ赤になって、
梓が純ちゃんのモコモコツインテールに掴み掛かる。
普段なら純ちゃんも嫌がってたはずだけど、
今回だけは特別って感じで、楽しそうに梓に自分のモコモコを触らせてあげていた。
280 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:45:33.50 ID:a4DBpTkb0
しかし、耳コピだって?
梓すげーな……、って驚く所が違った。
でも、やっぱ耳コピは凄いぞ。
私なんか耳コピ出来る人達が居るって聞いた事はあるけど、
そんな事やれるとも思わなかったし、やろうと思った事すらない。
そりゃ本当に絶対音感があるんだか無いんだか分からないけど、
とにかく音楽を聴き取る事に掛けては一流の唯がやってたのは見た事はある。
でも、それは唯の耳だけが特別って事なんだ。
普通の人間は、耳コピなんてやろうなんてそうは思わない。

だけど、純ちゃんの言葉が本当なら、梓は耳コピをやったらしい。
そういや『天使にふれたよ!』の楽譜の出所が分かってなかったんだよな。
私達は何度か梓の前で『天使にふれたよ!』を演奏したし、
曲が入ったカセットテープをプレゼントもしたんだけど、楽譜はプレゼントしてなかった。
梓の奴、何故か楽譜だけ受け取らなかったんだよな……。
だから、いつの間にか梓が持ってた『天使にふれたよ!』の楽譜は、
てっきり私の知らない内に唯から憂ちゃん経由で梓に渡されたんだって思ってた。
そう考えるのが普通じゃないか。

どうやら私の予想は違っていたらしい。
自分に贈られた曲を耳コピで楽譜に書き起こすなんて、何やってんだよ、梓は……。
一体、何回聴いたんだろうか……。
いや、何十回か……?
梓のテクニックは確かに凄い。
でも、それは努力で手に入れたものだし、梓自身に絶対音感があるわけでもない。
なのに、梓は私達に贈られた曲を、自分の力で楽譜に書き起こしたんだ……。

何を考えてそんな事をしたのかは分からない。
素直に楽譜を受け取っておけばそんな事をしなくてもよかったはずなのに、
梓は耳コピで楽譜を書き起こして、わかばガールズで練習してたんだ。
多分だけど、私達への答辞みたいな形で、演奏してみせるために……。

……やっべ。
想いが胸の中から溢れ出しそうになってきた。
気を抜けば泣いちゃいそうだ。

わかばガールズで練習してた曲を引き継ぐ形で、今、ほうかごガールズは同じ曲を練習してる。
初心者も居る事もあって、わかばガールズが練習してた曲は二曲。
『天使にふれたよ!』と『U&I』だ。
何となく感じてなくもなかったけど、純ちゃんのおかげで今はっきりと確信出来た。
梓は自分達に贈られた曲を自分達で演奏する事で、新しい自分達を見てもらいたかったんだ。
『先輩方に贈られた曲を演奏出来るくらい、私達は成長したんですよ』って……。

何だよ、もう……。
泣いちゃいそうになるじゃないか。
梓の奴、後輩の鑑過ぎだろ……。
そんな事されちゃったら、溢れる涙を止められる自信が無いぞ……。

複雑な気持ちが私の中に生まれるのを感じる。
梓の手助けが出来る事の嬉しい気持ちと、
何も知らずにわかばガールズの演奏を聴きたかったなって勿体無さを感じる気持ち。
その両方が同時に湧き上がって来ていた。
両方とも私の本音だったけど、片方の気持ちが少しだけ勝った。
勿体無くも感じるけど、それよりもやっぱり梓の手伝いを出来る方が嬉しい。
梓にだけ羽ばたけなんて言ってられないよな……。
私も、羽ばたかなきゃいけないよな、精一杯。
それが私に出来る事なんだ。
281 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:45:59.86 ID:a4DBpTkb0
私が何も言わない事が気になったんだろう。
純ちゃんのモコモコを手放すと、梓が軽く咳払いをした。
それから、妙に真剣な視線を私に向ける。


「耳コピとか何とかは置いておくとしましてですね、律先輩……」


「な、何だよ……?」


「律先輩、気付いてます?
律先輩は私の事、自分に翼を与えてくれた天使だって言ってくれましたよね……?
恥ずかしいですけど、それは嬉しいです……。

でも、ちょっと考えてみてくれませんか?
私が律先輩に心の翼を贈った天使だとしたら、
今、私に心の翼を贈ろうとしてくれてる律先輩も、天使って事になりませんか?」


「はあっ?」


思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
さっき誰かに天使って呼ばれる事なんて無いだろうって思ってただけに、余計に恥ずかしさが込み上げて来る。
でも、一応理に適ってる言葉だけに、梓に何かを言い返す事も出来ない。
誰かに救いを求めて周りを見回してみると、純ちゃんと視線が合った。
純ちゃんは頷き、私に助け船を出すように言ってくれた。


「いいじゃない、梓!
律先輩は梓に心の翼をくれる天使!
二人とも天使なんだよ!
梓もいい事言うじゃん!」


って、うおーいっ!
助け舟じゃなかったー!
自分が先にやった事ながら、天使って呼ばれるのはあまりにも恥ずかしい。
私のその恥ずかしさを分かってるはずなのに、悪戯っぽく和が純ちゃんの言葉に頷いた。


「そうね、素敵な考え方だと思うわ。
放課後ティータイムのメンバーは全員天使って事でいいじゃない。
律も天使って考え方、私は妥当だと思うわよ」


ひでえ……。
滅多打ちの火だるまだ……。
しかも、天使、天使って言われるから、思わず自分が天使の恰好をしてる姿を思い浮かべてしまった。
白い衣を纏って、頭に光輪を浮かべ、背中には荘厳な雰囲気の翼が……。
って、超似合わねー!
おかしーし! 超おかしーし!
282 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:46:27.92 ID:a4DBpTkb0
私はつい頭を抱えて悶えてしまう。
いくら何でも、我ながらこれはあまりにも酷過ぎる……。
気が付けば、多分、私と同じ事を考えてるんだろう梓が口元に手を当てて笑っていた。


「律天使……、ぷっ!」


「中野アズキャットー!」


私は梓に掴み掛かろうとしたけど、すぐに思い直して梓の頭を掴んだ。
日焼けしてる梓を痛がらせるわけにはいかないからな……。
でも、せめて私の恥ずかしさくらいは思い知れ!
私は梓の頭を存分にクルクルと回し、私の恥ずかしさを思い知らせてやった。

だけど、よかったよな……。
こんな軽口を叩けるくらいなら、梓の緊張も少しずつ解けてきてはいるんだろう。
完全にちゃんと歌えるようになるまではもう少し時間が掛かるだろうけど、それは仕方が無い。
努力家の梓を安心させられるのは、積み重ねた練習だけだ。
梓が自分を信じられるようになるまで、思う存分練習に付き合おう。
梓に嫌われたわけでもなかったみたいだし、しっかり付き合わなきゃな。

胸に湧き上がる安心感。
皆、一緒に笑う。
幸せだ。
こんな世界でだって、皆で一緒に笑えられれば幸せだ。
八人がずっと一緒に笑えるんなら……。

でも。
皆で笑いながら、練習をしながら、気付く。
梓に嫌われてなかったのはとても嬉しい。
凄く嬉しい。
だからこそ、思った。
もしも本当に梓に嫌われてしまったら、私はどうなってしまうんだろう。
梓だけじゃない。
唯でも、澪でも、ムギでも、憂ちゃんでも、純ちゃんでも、和でも……。
残された八人の中の一人でも失われてしまったら、私達はどうなっちゃうんだろう……。

考えても仕方が無い事だって、分かってる。
でも、幸せだからこそ、
私は胸に湧き上がる不安感を忘れる事が出来なかった。
283 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:47:12.63 ID:a4DBpTkb0





「これで全部だったよね?」


「多分なー。ま、足りない物があったら、また取りに行きゃいいだろ」


「うわっ、りっちゃん適当だー」


「うっせ。
だったら、今この場でリュックサック開けて中身確認するか?」


「勘弁してであります、りっちゃん隊長!」


「分かればよい、唯隊員。今後も精進せい」


「は、光栄であります!」


私が隊長っぽく言ってやると、唯が敬礼みたいなポーズを取った。
敬礼はいいんだが、何でドイツ式敬礼なんだよ……。
いや、ドイツ式敬礼ともちょっと違うか。
つーか、唯の奴、こういうポーズ取る事多いよな。
癖なのか?
まあ、いいや。

閉ざされた世界に迷い込んで二十日目。
私は久し振りに唯と二人きりで食糧調達に出ていた。
とっくに夏休みも終わってる時期だってのに、妙にまだまだ暑苦しい。
単に残暑が厳しいだけなのか、
それともこの世界を夢見てる誰かが夏の世界しか想像出来てないのか、
そのどちらなのかは分からない。
まあ、別にどっちでもよかったし、
どっちか分かった所で涼しくなるってわけでもないだろう。

それにしても、唯と一緒に食糧調達に出るのは本当に久し振りだ。
生き物の姿が消えてしまって以来、唯は誰よりも憂ちゃんの傍に居ようとしてた。
憂ちゃんの事が心配なのかなって思ったけど、そうじゃないみたいだった。
勿論、唯自身が不安だから、憂ちゃんに付き纏ってるってわけでもない。
見る限り、単純に里帰りで実家に居る妹に会えて嬉しいってだけみたいだ。
しょっちゅう連絡を取り合ってるはずなのに、
やっぱりずっと一緒に住んでるのと比べれば雲泥の差なんだろう。
私だって、実家に戻った時は必要以上に聡に構っちゃったもんな。

聡の奴、しばらく会わない内にかなり身長が伸びてた。
どんどん男らしくなってて、びっくりするくらいだ。
きっと、いつの間にか私よりずっと背が高くなっちゃうんだろう。
何か悔しい。
私だってもっとおっきくなってやりたい。
……けど、年齢的にどうなんだろう……。
いやいや、希望を捨てちゃ駄目だ。
絶対におっきくなってやるぞ!
胸の話じゃなくて身長の話な!
284 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:47:38.99 ID:a4DBpTkb0
「今日の夕飯、何だろねー?」


お気楽な感じに唯が微笑む。
こんな状況になったってのに、唯はまだまだ変わらず元気だ。
凄い奴だなって思う。
唯だって不安や恐怖を感じてないわけじゃないだろう。
でも、こいつは笑うんだ。
笑えてるのは憂ちゃんや和が傍に居るからだと思う。
二人に依存してるって話じゃない。
二人を不安にさせないために、唯は笑うんだ。
普段通りの姿を憂ちゃんと和に見せるんだと思う。
唯の奴がそこまで考えてるのかどうかは微妙な所だけどさ。


「さあなー? 何だろなー?
今日は澪が夕食の当番だし、カレーにでもするんじゃないか?
あいつ、結構カレーが好きだからな。
まあ、甘口だろうけどさ」


「私、甘口好きだよ?」


「私だって嫌いじゃないけど、たまには中辛も食べたいっつーの。
『カレーのちライス』の歌詞でもあるけど、
あいつにとっちゃ中辛はかなりの挑戦なんだよなー……」


「私も中辛はあんまり食べないなあ……」


「何だよ、女の子ぶるなっつーの。
カレーってのは辛いからカレーなんだぜ?」


「それ駄洒落だよ、りっちゃん……」


「ははっ、まあな。
それより最近どうだ? 練習は上手くいってるのか?」


「もちろ……、何の話?」


唯がわざとらしく視線を逸らす。
ちっ。
さり気無く話題を変えてみたが、引っ掛からなかったか。
あ、こいつ目を逸らしながら口笛吹いてやがる。
唯のくせに口笛吹けるなんて生意気な。
私ですら吹けないっつーのに……。
つーか、口笛って本気でどうやって吹くんだよ。

って、口笛の事はどうでもよかった。
唯の奴、この調子だと白状しそうにないな……。
前に澪は私達で勝手に楽しそうな事を始めるって言っていた。
間違いなく、私達の後でライブをやるんだろうなって思う。
軽音部なんだから、他にやる楽しそうな事も無さそうだしな。

最近、唯と澪とムギは三人で集まって、軽音部の部室に集まってる事が多い。
聴いた事が無い曲が聞こえてくる事も結構ある。
私達ほうかごガールズはそれを聞かなかった事にしてる。
ちょっと聞こえても、すぐ忘れるように努力もしてるんだ。
こいつらがサプライズでライブをしたいってんなら、その邪魔はしたくないからな。
285 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:48:06.90 ID:a4DBpTkb0
だけど、その練習の達成状況くらいは知りたかった。
時間だけは無駄にあった事も手伝って、私達の演奏はもうほぼ完成してる。
和のピアノの上達は凄く早かったし、
梓の歌も上手いってほどじゃないけど、人に聴かせられるレベルにはなってきた。
私だってブランクは完全に埋められたと思う。

でも、だからと言って、勝手にライブを開催しちゃうわけにもいかない。
こっちが完璧な演奏を聴かせたいように、
唯達だって私達に完璧な演奏を聴かせたいのは間違いないんだから。
お互いに最高のライブをやってやりたいじゃないか。

でもなあ……、唯達はサプライズのつもりだろうからなあ……。
練習がどれくらい進んでるか教えてくれるわけないんだよなあ……。
前に唯が「サプライズを考えてるんだよ!」って宣言してたから、
サプライズライブは絶対に間違いないんだけどさ。
つーか、内容が何だろうと、
サプライズを宣言しちゃったら既にサプライズじゃないだろう、唯よ……。
まあ、唯にとっちゃ、サプライズの内容が分からなきゃサプライズなんだろうな。

だから、結局は探り合いをしなきゃいけない。
澪やムギは口が固いから、探りを入れるのは必然的に唯になる。
でも、こいつも結構強情なんだよな。
何だかんだと梓には『天使にふれたよ!』を隠し通せたわけだし。
うーん……、どうしたものか……。

私が腕を組んで首を傾げてると、話を誤魔化すためか唯が急に言った。


「そうそう、りっちゃん。
憂の様子はどう?
最近、憂が素っ気無い気がするんだよねー……。
今日も食糧調達に誘ったのに、断られちゃったし……。
どうしよう……、反抗期なのかなあ……?」


その言葉には誤魔化しもあったんだろうけど、本音も混じってるみたいだった。
ちょっと寂しそうな視線を見る限り、本気で私に訊ねたかった事なんだろう。
正直、憂ちゃんの様子に関しては、私も気になってはいた。
勝手な印象だけど、唯と憂ちゃんは四六時中くっ付いてる姉妹ってイメージがある。
それは二人を知る誰もがそう思ってる事のはずだ。

だけど、最近の憂ちゃんの様子と印象は違っていた。
唯からは近付こうとしてるのに、
憂ちゃんは普段の笑顔でそれをかわしていた。
唯の言葉通りなら、今日だって唯の誘いを断ってたみたいだし……。
何か普段とは違う気がするんだよな。

でも、反抗期って事は無いと思う。
一緒にこそ居ないけど、憂ちゃんの口から出るのは唯の話ばかりだ。
憂ちゃんは本当に幸せそうな顔で、唯の話ばかりしてる。
だから、唯が心配する必要は無いはずなんだ。

私は唯の頭に手を置いて、軽く撫でてやる。
唯の不安そうな視線が少しだけ緩んだ。


「心配すんなって、唯。
おまえと一緒に居ない時、憂ちゃんはおまえの話ばかりしてるよ。
音楽を始めてお姉ちゃんって本当に凄かったんだって思いましたって、
お姉ちゃんにみたいに音楽をもっと好きになりたいって、本当に幸せそうに話してる。
だから、心配するな。憂ちゃんはおまえの事が大好きだよ」


「そっか……。そうだよね」


やけにあっさりと唯が頷く。
ただし、ちょっとだけ自信なさげに。
私はもう一度、唯の頭を撫でる。
286 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:49:23.01 ID:a4DBpTkb0
「そうだよ。
憂ちゃんが素っ気無く見えるのは、実は唯の方が素っ気無いからじゃないか?
サプライズで何かするって言ってたけど、その内容を憂ちゃんにも内緒にしてるだろ?
だから、憂ちゃんが寂しがってる……とかな」


「うーん……、でもー……。
サプライズはサプライズだし……、でもでもー……」


唯が戸惑った表情で呟き始める。
ちょっと意地悪し過ぎたかもしれない。
私は心の中で唯に謝ってから、満面だと思う笑顔を唯に向けて言った。


「いいさ、待つよ、唯達のサプライズ。
まだ……、準備中なんだろ?
こっちも焦り過ぎちゃってたみたいだ。
ごめんな、唯」


「あっ、ううん……。
こっちこそごめんね、りっちゃん……。
もうちょっと……、もうちょっとなんだ……。
完成したら、すぐりっちゃん達に報告するね。
だから……、それまで待っててくれる……?」


「了解だ。待つよ。
ただ急げよ、唯?
もたもたしてると、私達のライブの完成度がどんどん凄い事になっちゃうんだからな!」


「ええぅ!?
い、いいよ! こっちだって負けないもんね!」


「その意気やよし!」


私が笑うと、唯も笑った。
そうだ。焦りたいけど、焦っちゃいけない。
そんなの満足いくライブには絶対に繋がらない。
唯がもう少しって言ったんだ。私はそれを信じて待とう。
この世界で八人で笑って生きてくためにも。。
287 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:49:54.76 ID:a4DBpTkb0
「それでさ、唯……」


「お姉ちゃーんっ!」


私が何かを言おうと言葉を出した瞬間、
その声は憂ちゃんの大きな声に掻き消された。
話をしている内に、私達はいつの間にか学校まで戻って来ていたらしい。
別に何か大した事を言おうと思ったわけじゃない。
私は苦笑して、声がした方向に視線を向ける。
視線を向けた先では、憂ちゃんと純ちゃんが私達の方に駆けて来るのが見えた。

途端、リュックの中身が相当重いはずなのに、
そんな事お構い無しに、唯が手を伸ばしながら憂ちゃんに向けて駆け出した。


「憂ーっ!」


あっという間に傍にまで駆け寄り、
憂ちゃんの手を両手で握ってから唯が続ける。


「ごめんよ、憂!
もうちょっと! もうちょっとだからね!
もうちょっとだけ待っててね!」


おいおい、いきなりそれじゃ分からんだろ……。
いくら何でも憂ちゃんだって、困った表情を浮かべて……ないな。
憂ちゃんは普段通り優しく微笑んで、唯の手を握り返していた。


「分かったよ、お姉ちゃん!
私、待ってるね!」


「ありがと、憂ー!」


すげえ、会話が成立してる……。
流石の憂ちゃんでも、
唯が何の事を「待って」って言ってるのかは分かってないはずだ。
でも、憂ちゃんは待つ事に決めたんだ。
唯が「待って」と言う事なら、どれだけだって待つ気なんだ。

凄い信頼関係だと思う。
私と聡も仲がいい姉弟だと思うけど、唯達には全然敵わないよ。
憂ちゃんはやっぱり反抗期なんかじゃない。
何か理由があって唯とちょっと距離を置いてるだけなんだ。
288 :にゃんこ [saga]:2012/03/26(月) 17:51:45.03 ID:a4DBpTkb0


今回はここまでです。
やっと唯が出て来ました。
歌詞も覚えられない身としては、耳コピ出来る人は凄いなと思いますです。
289 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/26(月) 18:23:22.42 ID:w/O96zFco
次の投下も楽しみにしてる
290 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/27(火) 03:32:19.60 ID:aaaNJPfdo
素敵なSS見つけたかも
291 :にゃんこ [saga]:2012/03/27(火) 19:19:22.25 ID:5ewreEgZ0
憂ちゃんが穏やかな笑顔を浮かべたまま、唯に向けて続けた。


「それよりお姉ちゃん、
澪さんと紬さんが部室で待ってるよ。
そろそろ待ち合わせの時間なんじゃない?」


憂ちゃんに言われ、唯が右手に嵌めた腕時計を見る。
生き物が居なくなって以来、私達は普段使わない腕時計を嵌めている。
電気が通ってないから、正確な時間が分かりにくいんだよな。
携帯電話の充電もしてないし……。
と言うか、右利きが右手に腕時計嵌めんなよな……。
別に左手じゃなきゃいけない決まりも無いんだけどさ。


「あーっ、本当だーっ!
急がなきゃ! また澪ちゃんに叱られちゃう……!」


憂ちゃんの手を離して駆け出そうとして、唯が一瞬止まる。
名残惜しそうに憂ちゃんの顔を見つめている。
自分が憂ちゃんに嫌われてないらしい事は分かってくれたみたいだけど、
それでも仲のいい妹と離れるのを躊躇っちゃってるらしい。
親友と妹……、どっちを選ぶべきか迷ってるんだ。

でも、憂ちゃんは普段通り笑って言ったんだ。


「ほらほら、お姉ちゃん。
リュックサックは私が運んでおくから、早く澪さん達の所に行ってあげて。
澪さん達、お姉ちゃんの事、今か今かと待ってると思うよ?」


迷いの無い笑顔。
大好きなお姉ちゃんを独り占めになんかしない微笑み。
その微笑みを見て、唯も決心出来たらしい。
唯はすぐにリュックサックを下ろすと、一瞬だけ憂ちゃんに抱き着いた。
その耳元で囁く。
292 :にゃんこ [saga]:2012/03/27(火) 19:20:23.31 ID:5ewreEgZ0
「今日の夜……!
今日の夜、一緒にお風呂に入ろうね!
私、憂と色々話したい事があるんだ……!
だから、今はちょっとだけ、またね……!」


瞬間、私は見逃さなかった。
唯に抱き着かれた憂ちゃんのその手が唯の背中を抱き留めようとして……、
でも、遂にはその手が唯の背中に回らず、唯の肩にだけに軽く置かれたのを。
憂ちゃんにも躊躇いはあるのかもしれない。
だけど、憂ちゃんは笑顔を崩さなかった。


「うん!
今日は一緒にお風呂に入ろうね、お姉ちゃん!
いってらっしゃい……!」


「うん!
絶対だよ……! 絶対だからね……!
りっちゃんも純ちゃんもまたね!
いってきます!」


言って、唯は走り出した。
唯のスピードだからそんなに速くなかったけど、
出来る限りの全速力で澪とムギの所に向かってるんだろう。
すぐにその姿は校舎に吸い込まれていった。

軽く憂ちゃんに視線を向けてみる。
思った通り、唯が居なくなった後の憂ちゃんの表情は寂しそうだった。
やっぱり、少しだけ無理をしてるんだろう。
私が何か声を掛けようとした瞬間、それより先に純ちゃんが憂ちゃんに訊ねていた。


「本当によかったの?
何だったら、今日の私達の練習は早めに切り上げてもいいんだよ?」


そう訊ねる純ちゃんの表情も辛そうだった。
親友が寂しそうな表情を浮かべているのが辛いんだろう。
私だって、憂ちゃんが寂しそうにしてるのは辛い。
293 :にゃんこ [saga]:2012/03/27(火) 19:22:55.22 ID:5ewreEgZ0
だけど、憂ちゃんはゆっくり首を振ると、また穏やかに微笑んだ。
寂しそうだったけど、安心出来る笑顔だった。


「ううん、駄目だよ、純ちゃん。
練習はちゃんとしなきゃいけないよ。
いいライブ、お姉ちゃん達に見せてあげたいし……。
それにね……、これは私が選んだ事なんだもん」


「憂の選んだ事……?」


「うん。
私ね……、純ちゃんには言ってなかったけど、一人で決めてた事があるんだ。
ううん、誰にも話してなかった事があるの……。
いい機会ですし、律さんも私の話を聞いて下さいませんか?」


まっすぐな視線を憂ちゃんが私に向ける。
私はリュックサックを下ろし、頷いてから憂ちゃん達を木陰に誘った。
この熱気の中、暑さに参りながら聞くような話でもないはずだ。
純ちゃんも一緒に、大きな木の陰に三人で腰を下ろす。

木に背を預け、緩い風に揺れる葉っぱの音が聞こえる。
小鳥の声や蝉の鳴き声なんかは聞こえないけど、いい雰囲気だ。
気持ちのいい昼下がり……って言えるのかな?
憂ちゃんが優しい笑顔を浮かべて、話を続ける。


「私、皆の姿が見えなくなっちゃって、
律さんや和ちゃんとほうかごガールズを組む前から、ずっと思ってた事があるんです。
お姉ちゃんが大学に入って、傍で暮らさないようになって、寂しかった……。
すっごく寂しかったけど……。
でも……。

寂しかったからこそ、出来る事があるって思ったんです。
寂しかったからこそ、やりたい事があったんです」
294 :にゃんこ [saga]:2012/03/27(火) 19:23:49.32 ID:5ewreEgZ0


此度はここまでです。
ちょっと短めですので、次はかなり進む予定です。
295 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/27(火) 19:43:44.96 ID:sEnN1GTDO
乙です。
次も楽しみにして待っています。
296 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/03/28(水) 23:52:36.37 ID:EWaX7DITo
乙!
腕時計女性は右でいいんじゃないの?
297 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:03:39.34 ID:ijrP8wMy0
「やりたい事……って、ライブ……だよね?」


純ちゃんが首を傾げて、憂ちゃんに訊ねる。
憂ちゃんは少しだけ純ちゃんに視線を向けて、軽く頷いた。


「うん、そうだよ、純ちゃん……。
純ちゃんは知ってる事なんですけど、律先輩、聞いて下さい。
私……、お姉ちゃんと離れて暮らすようになって、ちょっと荒れてた時期があったんです……」


憂ちゃんが荒れてた……?
どんな事になってたんだ……?
凄く難しかったけど、頑張って想像してみる。
結構経ってどうにか想像出来たのは、パーマを掛けて長いスカートを履いた憂ちゃんの姿だった。
スケ番憂ちゃん!
……って、我ながら発想が古いな……。

そうやって、私が変な顔をしてた事に気付いたんだろう。
純ちゃんが苦笑しながら、私に説明するみたいに言ってくれた。


「荒れてたは言い過ぎでしょ、憂?
私が差し入れしたドーナツのスーパーオールスターパックを全部食べちゃったくらいじゃん。
まあ、私がそれ全部食べていいって言ったんだけどさ。
でも、まさか、本当に全部食べちゃうなんてね……」


「うん……、私もあんなに食べられるとは思わなかったよ。
あの時はごめんね、純ちゃん……」


「いいのいいの、終わった事でしょ?
気にしない、気にしない」


言いながら、純ちゃんが憂ちゃんの頭を撫でる。
普段梓にやってるそれとは違って、憂ちゃんを撫でる純ちゃんの手つきは優しかった。
でも、やり方こそ違うけど、梓も憂ちゃんも純ちゃんの親友って事には違いない。

しかし、憂ちゃんにとっては、それが荒れてるって事なのか……。
確かにスーパーオールスターパックを全部食べるなんてただ事じゃないけどさ。
前に皆で食べたけど、あれ、かなり量あるよな……。
それだけ憂ちゃんの喪失感が深かったって事なんだろうな。
大学に入学するまで、唯も憂ちゃんもそれを気にしないようにしてたみたいだけど、
現実にそうなっちゃうとやっぱり寂しかったんだろう。
私だって聡と離れるのは結構寂しかったもんな。

そういや、唯の奴も一時期はかなり荒れてたな。
一回、ムギが用意した二日分のお菓子を一人で全部食べちゃった事があった。
その量、実にケーキ二ホール。
逆に凄いから、怒る気にもなれなかったよな、あの時は……。
ともあれ、姉妹揃って同じ荒れ方をしてたってわけだ。
荒れてた……ってのとは、多大に違ってる気がしないでもないが。
298 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:06:44.80 ID:ijrP8wMy0
「そんな風に、私、お姉ちゃんが居なくなって寂しかったんですけど……、
純ちゃんや梓ちゃんが励ましてくれたおかげで、何とか元気になれたんです」


憂ちゃんが遠い目をしながら続ける。
梓や純ちゃんにしてもらった事を思い出してるんだろう。
その表情は優しく、嬉しそうだった。


「そっか……」


私は呟きながら頷く。
何にでも完璧に見える憂ちゃんにだって弱点はある。
失敗しちゃう事もあるし、悩んじゃう事だってあるんだ。
そういう所もある子なんだよな……。

憂ちゃんと同じバンドでセッションしながら、気付いた事がある。
憂ちゃんの演奏はほとんど完璧だ。
演奏歴が短いなんて思えないくらい、凄い速度で成長してるのが分かる。
合わせていて、安心も出来る。
でも、私にはちょっと物足りなかった。
憂ちゃんの演奏は完璧なんだけど、教科書通り過ぎた。
揺らぎが無い完璧で均一的な演奏なんだ。

勿論、それは欠点じゃない。
むしろ憂ちゃんの方がミュージシャンとしては正しいと思う。
だけど、長く唯と組んでた私にとっては、それが物足りない。
唯はよく失敗するし、難しいパートを弾けたと思ったら、簡単なパートで躓いたりもする。
唯とのセッションじゃ、一度として同じ演奏を出来た覚えが無いくらいだ。
でも、私にはそれがよかった。
唯の失敗は確かに多いけど、予想以上の大成功になっちゃう事も何度もあったからだ。

不思議な話なんだけど、唯とのセッションの方がワクワク出来るんだよな。
あいつは何をやってくれるか分からない面白さがある。
そこがあいつの魅力なんだ。
もしも私達の中の誰かがミュージシャンになれたとして、大成出来る可能性が一番あるのはあいつだろう。
あいつには揺らぎ……、可能性が沢山残されてる。
完成されてない魅力って言うのかな。

私がミュージシャンになれる可能性はほとんど無いと思う。
趣味としては続けるだろうし、
ライブとか音楽的な活動はするかもしれないけど、
商業的なレベルの世界で長く生き残るのは無理じゃないかな。
悔しいけれど、私にはそこまでの実力は無い。
いつかは皆揃ってライブする事も出来なくなるかもしれない。

でも……、唯には、羽ばたいてほしい。
あいつには才能があるし、私達の誰よりも音楽への愛がある。
あいつなら商業的にも成功出来るはずだ。
いつかはきっと、私達を置いて音楽の世界に羽ばたいていけるだろう。
その時まで、あいつの足を引っ張らなくないで済むように、私は精一杯あいつを支えたい。
結局、私は唯のギターが凄く好きなんだよな……。

憂ちゃんも私と同じような事を考えてるはずだ。
唯の事にしてもそうだし、私とのセッションの違和感に気付いてなくもないだろう。
菫ちゃんのドラムを聴いた事は無いけど、ドラムのセッティングを見る限り、かなり几帳面っぽい気がする。
きっと憂ちゃんの完璧な演奏に合わせた、正確なドラミングを刻んでるはずだ。
純ちゃんも生き残りの厳しいジャズ研で演奏してただけあって、意外にもその演奏は堅実だ。
そして、梓もアドリブより積み重ねた努力で魅せるタイプのギタリストなんだよな。
そう考えてみると、わかばガールズは技巧派集団ってやつか。
結構適当に活動してた放課後ティータイムの後を継ぐ者とは思えんな……。
299 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:11:44.52 ID:ijrP8wMy0
タイプは全然違うけど、どっちが優れてるって話じゃない。
要はどっちが自分の性に合うかってだけの話だ。
結局、私の居場所は放課後ティータイムで、
憂ちゃんの居場所はわかばガールズだったんだって事だろう。
急ごしらえのほうかごガールズじゃ、どうしてもその演奏に違和感は生じて来る。
勝手の違いは仕方が無い。
だけど……。


「だけど……」


憂ちゃんの言葉と私の考えが重なった。
ひとまず私は憂ちゃんの言葉に耳を傾ける事にした。
多分、憂ちゃんも私と同じ気持ちなんだろうから。
憂ちゃんは続ける。


「お姉ちゃんと離れて、寂しくて、辛くて……、
お姉ちゃんの事ばっかり考えてて、ある日に私、気付いたんですよ、律さん。
この寂しさも、辛さも、私がお姉ちゃんの事が好きだから感じてる事なんだって。
心と胸が痛いけど、それもお姉ちゃんと離れたから、感じられた事なんだって。

そう思えたら、何だか私の寂しさをそのままにしておくのが勿体無く思えたんです。
この寂しい気持ちは、そのままお姉ちゃんの事が好きだって証拠なんですから。
お姉ちゃんが傍に居ないからこそ、
私にとってお姉ちゃんが本当に大切な人なんだって気付けましたから……。
そんな私だからこそ出来る演奏を、お姉ちゃんに聴いてもらいたいんです。
寂しさや、辛さや……、そんな事を感じられた私だから出来る演奏を……。
それが……、私のやりたい事なんです」


憂ちゃんの決心がこもったその言葉は私の胸に強く響いた。
憂ちゃんはそれだけの決心でライブに臨んでたんだ。
今だからこそ出来るライブをやるために。
寂しさや辛さや切なさを、強さに出来る子なんだ、憂ちゃんは。
この閉ざされた世界の中でも……。

私は微笑んで、感心の溜息を吐きながら言った。


「憂ちゃんは凄いな……。
こんな時でも笑顔で、唯の事を考えて動けてて、凄いよ。
なあ、純ちゃん、憂ちゃん……、
こんな事訊くのも変だけど、正直に言ってくれないか?
演奏しててさ、セッションに違和感……あるよな?」


「そんな事……」


気遣いから否定しようとして、慌てて憂ちゃんが言葉を止める。
私が真剣な視線を向けてる事に気付いたんだろう。
憂ちゃんも真剣な表情になって、私の言葉に応じてくれた。
300 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:12:50.21 ID:ijrP8wMy0
「はい……、違和感……あります。
やっぱり、わかばガールズとは違うなって思います……。
律さんと和ちゃんの演奏が嫌いなわけじゃないんです!
二人の演奏、大好きです!
でも、何かが違ってる気がして……」


「私も感じます、律先輩」


憂ちゃんの言葉に純ちゃんが続いた。
その純ちゃんの表情は真剣だったけど、口の端では微笑んでいた。


「やっぱり違和感ありますよ。
そんなの当然じゃないですか、元々のお互いのバンドが違うんですから!
方向性もメンバーも違いますし、何か違うなって思う事が結構あります。
スミーレならここはこう演奏してるだろうなって、そう考えた事だって……。
でもですね……」


「うん……。でも……」


純ちゃんと憂ちゃんが視線を合わせる。
二人して微笑んで、私に優しい表情を向ける。
そこから先は後輩に言わせる事でもないだろう。
私は深呼吸して、二人の肩を抱き寄せて言った。
二人とも温かった。


「そうだな……。
ほうかごガールズじゃ、どうやっても放課後ティータイムやわかばガールズみたいな演奏は出来ない。
所々ちぐはぐな演奏になっちゃうだろうな……。
でもさ……、同じようにほうかごガールズでしか出来ない演奏もあるはずだよ。
こんな事になって、この世界には八人しか残ってないって無茶苦茶な状況になって、
だけど……、そんな今だからこそ、出来る演奏があるはずなんだ。
あってほしいよね……」


私にしては恥ずかし過ぎる言葉だったかもしれない。
だけど、憂ちゃん達は私の腕の中で頷いてくれた。


「ありますよ、絶対!
澪先輩達に聴かせちゃいましょうよ!
私達だけに出来るカッコいい演奏!」


純ちゃんがモコモコを揺らしながら、興奮した感じで宣言する。
マイペースで、元気で、可愛らしい。
純ちゃんが傍に居てくれれば、梓はこれからも退屈する暇もなく元気に過ごせる事だろう。


「出来る……と思います!
だから、お姉ちゃんと離れてたからこそ出来る演奏のために、
寂しいですけど……、ちょっと辛いですけど……、
もう少しだけお姉ちゃんとは距離を置きたいって思ってます。
寂しかった頃の気持ちも忘れたくありませんから……。
でも、ライブが終わったら……、
終わったら、その時は……」


憂ちゃんが私の腕の中でちょっと身体を震わせる。
全身を支配する寂しさに耐えてるんだろう。
私は手を動かして、憂ちゃんの柔らかい髪をゆっくり撫でた。
301 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:17:33.52 ID:ijrP8wMy0
「うん。
ライブが終わったら思いっきり唯に甘えちゃいなよ。
唯も寂しがってたしさ、姉妹水入らずで思いっきり甘えちゃえ。
あいつ、きっと喜ぶからさ」


私が言うと、「はいっ!」って返事をした憂ちゃんが、私の背中に手を回して抱き着いた。
抱き着かれる寸前に見た憂ちゃんの潤んだ瞳と赤い頬はすっごく可愛らしかった。
畜生、可愛いなあ……。
私は憂ちゃんのあまりの可愛さに、自分の顔が熱くなっていくのを感じる。
どうやら私のその様子を見られていたらしい。
純ちゃんが猫みたいに悪戯っぽい表情を浮かべて、意地悪く私に訊ねた。


「お、律先輩、照れてますね?」


「て、照れてねーよ……」


「あらまあ、りっちゃんったら可愛い!」


純ちゃんに急にりっちゃんと呼ばれ、思わず咽た。
自分で言った事ながら、急に呼ばれると恥ずかしい。
私は腕の中の純ちゃんを解放してから、軽く腕を頭上に掲げた。


「りっちゃんって言うなー!」


「りっちゃんがりっちゃんって呼んでいいって言ったんじゃないですか。
今更、撤回は無しですよー、りっちゃん!」


「それはそうなんだが……、うーっと……、えーっと……。
それよりほら! 梓と和はどうしたんだ?
音楽室で練習でもやってるのか?」


「お、誤魔化しましたね、律先輩。
まあ、今回だけは許してあげましょう。

梓は音楽室で和先輩とボイストレーニングしてますよ。
ピアノでボイストレーニングってやっぱり基本じゃないですか。
私が言うのも何ですけど、梓、前よりずっと上手くなったと思いますよ!
そりゃ……、感動的なほど上手ってわけじゃないですけど、でも……」


純ちゃんが一瞬だけ不安そうな表情を見せる。
何だかんだ言って、やっぱり梓の事が心配なんだろう。
純ちゃんのモコモコを触ってから、今度は私が笑ってやった。


「分かってるよ。
梓が歌が苦手なのも分かってる。
でも、その梓がボーカルに挑戦してくれるって事が、やっぱ嬉しいよ。
ライブの時にさ、純もコーラスで梓を支えてやってくれよな」


「勿論です!
……って、今、私の事、『純』って呼びました?」


「ふっふっふ、どうだったかなー?」


「あ、純ちゃんいいなー。私も呼び捨てで呼んでもらいたいよー」
302 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:18:04.27 ID:ijrP8wMy0
憂ちゃんが私から離れず、羨ましそうな表情を私に向けた。
どうもおねだりされてるみたいだったけど、憂ちゃん相手にはまだちょっと照れる。
今はりっちゃんって呼ばれたお返しに勢いで『純』って呼べたけど、
その勢いのままで『憂』って呼ぶのは無理だった。
でも、まあ、そのうちだな。
この調子なら、ライブの頃には二人を呼び捨てで呼ぶ事も出来そうな気がする。

その時の梓の反応を想像すると、何だか楽しくなって来る。
梓の奴、どんな反応するかな?
梓の事だから、きっと表面上は気にしてない振りをしながら、
私の目の届かない所で純ちゃんと憂ちゃんにあれこれ詮索する事だろう。
「律先輩に弱味でも握られたの?」って訊ねたりしそうだな。
いやいや、失敬な!
あいつは私の事を何だと思ってるんだ……。

まあ、ともかく、もうすぐライブだな。
今の私達だからこそ出来るライブをやってやる。
その先に何が待ってたって、私達はほうかごガールズのライブをやってやるんだ。
この世界で八人で生きていくのか、
それとも元の世界に戻る方法を探し続けてやるのか。
ライブの後でなら、逃げずに皆と真正面から話し合えると思う。
そのためにも、ライブは絶対に成功させたい。
303 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:18:40.17 ID:ijrP8wMy0





更に数日後。
ほうかごガールズのメンバーで、
出来る事はやり切るくらいに練習した頃、音楽室の扉が急に開いた。
扉の先に視線を向けると、そこに立っていたのは唯だった。


「やったで、憂!
お姉ちゃんはやったったんやでー!」


よっぽど興奮してるのか、何故かよく分からない方言を使って叫んでる。
残暑も厳しいし、扇風機もあんまり使えないから、遂に壊れたか……。

……いや、ごめん、冗談だ。
唯は突飛な行動を取る奴ではあるけど、意味も無く突飛な行動を取る奴じゃない。
何か理由があるんだ。
それに唯がこんなに興奮する理由は私にも思い当たる。


「やったんだよ、憂!
やっとね……! やっと完成したんだよ!
今すぐに憂に聴いて……って、あっ……」


方言こそ治まったけど、
興奮冷めやらぬ表情で唯が言葉を続けようとして、途中でそれが止まった。
見る見るうちに『やっちゃった……』と言わんばかりの表情に変わっていく。


「ど、どうしたの、お姉ちゃ……」


「待てよ、唯ーッ!」


「唯ちゃん、待ってー!」


憂ちゃんが訊ねようとした途端、
ドタバタした足音と澪達の声が遠くから聞こえた。
十秒も待つと、息を切らした澪達が唯の後ろから顔を出した。


「興奮し過ぎだろ!
これはサプライズなんだって何度も釘を刺したじゃないか!
後でさり気無くライブの予定を訊くはずだっただろ!」


「そうよ、唯ちゃん!
新曲が完成したのが嬉しいのは分かるけど、って、あっ……!」


ムギが慌てて口を押さえたけど、言っちゃった言葉はもう取り消せない。
胸の前で手を合わせ、傍の唯と澪に向けて頭を下げる。
唯がおろおろと視線をあちこちに向け、
澪は怒っていいのか呆れていいのか分からないという感じの表情を浮かべていた。
304 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:19:12.34 ID:ijrP8wMy0
何つーか……、いいチームだ……。
と言うか、私もこのチームに入ってるんだよな……。
傍から見てると、私達ってこんな感じなのか……。
嫌なわけじゃないんだが、何とも複雑だ。

澪達がサプライズでライブを企んでるんだろうって事は何となく分かってた。
だけど、新曲まで用意してたとは思わなかった。
道理でやけに時間が掛かってたはずだ。
正直、澪達の実力なら、
ほうかごガールズより先に練習が終わっててもおかしくなかったもんな。
私達と違って、昔取った杵柄ってのがあるわけだし。
それでも、私達よりも時間が掛かっちゃってたって事は、
つまりは新曲の準備に予想以上に手間取ってたって事なんだ。

しかし……、こういう時はどう反応するべきなんだ、私は。
新曲が単に完成したってだけなら、唯もいきなり音楽室に顔を出したりはしないはずだ。
新曲が完成して、練習も完全に終わったからこそ、
ライブの時を待ち切れずに駆け出して来ちゃったんだろう。
気持ちはよく分かる。
私だってライブは早くやってやりたい。

やってやりたい……んだが、
この状況でそれを言い出せるほど私も肝が据わってない。
どうしたらいいんだろうか……。
誰かが話を切り出すべきなのは分かってるんだけど、
やっぱ私が切り出すべきなんだろうなあ、部長なわけだし……。
空気が途轍もなく重いが、仕方ないか……。
大きく深呼吸をして私が話を切り出そうとすると、私より先に誰かが言った。


「じゃあ、今からライブをしましょうか、唯」


言ったのは和だった。
あっさりだな、オイ!
まあ、和らしいか……。
と思いながら和に視線を向けると驚いた。
和が顔を紅潮させて、緊張した表情をしていたからだ。

そっか……。
和だってずっと待ってたんだよな……。
だから、誰よりも先に言い出してくれたんだ……。

ありがとう、和。
私は心の中だけで和にお礼を言って、
座っていたドラムの椅子から立ち上がってから宣言した。
305 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:20:29.24 ID:ijrP8wMy0
「よっしゃ、善は急げだ!
今すぐ私達のバンドのライブを開催してやるぜ!
これから準備するから、お客さん達も手伝ってくれよな!」


「おいおい、律……。
今すぐって早過ぎないか?」


少し戸惑った様子の澪。
戸惑う気持ちも分かるけど、今はそれを気にしない事にした。
今は勢いで進んでもいい時のはずだ。
私は口を尖らせて、澪に言ってやる。


「何だよー、澪は今からライブやるの反対なのかー?」


「だって、いきなり過ぎ……。
いや、いきなりでも別にいいよな。
皆、待ってたんだもんな……。
分かったよ、律。今からライブの準備をしよう。
唯もムギもそれでいいか?」


澪が納得するのも早かった。
澪の言葉に唯達も嬉しそうに頷く。
やっぱり、皆早くライブをやりたかったんだよな……。
私は梓、純ちゃん、憂ちゃん、和の順番で顔を見回していく。
四人とも嬉しそうな顔で頷いてくれた。
澪達も含めて、皆の気持ちは一つだってわけだ。

遂にライブの開催だ。
内輪以外に観客が一人も居ない寂しいライブだけど、そんな事は関係無い。
出来る限りの、やれる限りの演奏を響かせてやろう。
異世界なんだか、誰かの夢なんだか、
この閉ざされた世界と真正面から向き合うために。
306 :にゃんこ [saga]:2012/03/29(木) 19:22:26.15 ID:ijrP8wMy0


今回はここまでです。
やっとライブですね。

>>296

すっかり失念してました。ご指摘ありがとうございます。
りっちゃんは腕時計は利き腕と逆にはめる物だと考えてるって事でお願いします。
307 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/29(木) 20:20:10.20 ID:oyyGxaXBo
おつー
308 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 17:55:43.77 ID:dC3rBIds0





ライブ会場は私達が三年の頃に使っていた教室に決めた。
講堂を使うって選択も悪くなかったけど、
観客がほとんど居ない状態で広い空間を使っちゃうってのも何だか寂しい。
それにこれは私達の新しい決意のためのライブでもあるんだ。
高校時代、最後に人前でライブをやった場所で、
新しい世界での最初のライブをやってやるってのも悪くないじゃん?

準備はほうかごガールズの皆でする事になった。
勿論、澪達も手伝ってくれようとしてたけど、それは私から断った。
私達の後で澪達がサプライズライブをするとしても、最初にライブを開催するのは私達なんだ。
お客様には手間になる事をさせたくない。
別に八人でやるような作業でもないしな。
前みたいに時間制限があるわけじゃない。
教室をライブ会場に変えるくらい、五人も居れば十分だ。

机を端に寄せて、楽器を配置するのはすぐに終わった。
簡単なもんだ。
一度やった事だし、前もライブ会場設立の指揮をしていた和も居るんだ。
作業が速いのは当然ってやつだろう。
そりゃすごくあっさりと教室はライブ会場に変わっていた。

少し、胸が高鳴る。
その鼓動が緊張からのものなのか、興奮からのものなのか、自分でも分からない。
ただ、胸が高鳴る。
深呼吸。
衣装に着替えながら、配置された楽器に目を向ける。

私のドラム。
梓達のギターやベース。
そして、和が弾くキーボード。
ちなみにキーボードは梓の両親の物を借りて来たものだ。
やっぱり和もムギのキーボードを借りたがらなかった。
私が菫ちゃんのドラムを使うのを遠慮したのと同じく、
和もムギの相棒のキーボードを使おうとは思わなかったらしい。

それは勿論、ムギ達のためではある。
人のパートや相棒を借りたり奪い取ったりなんて、そんなのはしちゃいけない事だ。
絶対にしたくないし、私はされたくない。
例えムギ達が気にしないと言ってくれても、絶対に。

そして……。
二人の楽器を借りなかった理由の中には、私達の重要な信念も含まれていた。
私達は助っ人だけど、誰かの代わりじゃない。
最初は菫ちゃんの代わりを務められればそれでいいって思ってた。
わかばガールズの手助けが出来ればそれでいいと思ってた。

だけど、皆でセッションしてて、気付いたんだ。
私は菫ちゃんの代わりにはなれない。
和もムギの代わりにはなれない。
梓達もそれを望んでないんだって気付いたんだ。
私達は誰かの代わりになるんじゃなくて、
私達だから出来る新しい演奏を皆に届ければいいんだって。
放課後ティータイムじゃなく、わかばガールズでもなく、
新ユニットのほうかごガールズとして。


「よっしゃ!」


衣装に着替え終わった後、私は軽く自分の頬を叩く。
気合は十分。やる気も十分。
実力も……、多分、十分。
さて、やってやろう!
やってやろうじゃんか!
309 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 17:56:16.65 ID:dC3rBIds0
不意に。
梓が私を見つめてる事に気が付いた。
衣装と私の顔を交互に見ながら、何とも複雑そうな表情を浮かべてる。


「……何だよ、梓」


じろりと梓の顔を見つめて言ってやる。
すると、梓が躊躇いがちに口を開いて答えた。


「本当にその衣装でよかったんですか……?」


「何言ってんだよ、おまえだって同じ服着てるだろ」


「いえ、そりゃ私は問題無いですよ。
いつも着てる服ですし、着慣れてますから、
私達のライブにはぴったりの衣装だと思います。
でも、律先輩とがその服を着るのはちょっと……」


梓が言うその服ってのは、桜高の制服の事だった。
実家に片付けてたのを引っ張り出して来たやつだ。
パッと思い付く私達のライブ衣装って言ったらやっぱりこれだからな。
制服が私達の戦闘服ってやつなんだ。
さあ、どこからでもかかって来い。

まあ、梓が言おうとしてる事も何となく分かる。
女子大生が高校の頃の制服を着るのはどうかって言いたいんだろう。
梓の気持ちはよく分かる。
半年前まで普通に着てたはずなのに、
久々に高校の制服に袖を通すのは何だか恥ずかしい。
スカートもこんなに短かったっけ? って本気で思う。

だけど、そんな恥ずかしさよりも、
梓とまた同じ衣装を着る事が出来たって事が嬉しかった。
そもそもサプライズライブをやるつもりではあったけど、
流石に制服で乱入するつもりはなかったからな。
それこそ下手すりゃ、
一生梓と制服でライブをする事なんて無かったかもしれない。
そう考えると不思議な感覚になって来るよな。
勿論、こんな異常事態を歓迎してるわけじゃないけどさ。

だから、私は開き直って、梓の頭をぐりぐりと撫でてやった。
意外に気持ち良いのか、梓が目を細める。
310 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 17:57:26.92 ID:dC3rBIds0
「いいじゃんか、梓。
これが私達の戦闘服なんだ。
最高のライブをやってやるには、それに相応しい服を着てやらなきゃな。
制服着たら、それいけりっちゃんはいつだって元気百倍なんだぜ!」


「そうですか……。
律先輩がそうおっしゃるんでしたら、私はそれでいいんですけど……」


言ってから、梓が微笑む。
梓も私と同じ衣装でまたライブが出来る事を、嬉しく感じてくれてるのかもしれない。
妙な巡り合わせだよな、本当に……。

と。
急に梓が口元に手を当てて笑った。
今度は微笑んだわけじゃなくて、心底面白くてしょうがないって表情だった。


「それにしても……。
女子大生が高校の制服とか……、ぷっ!」


……卒業してから、こいつの態度が余計に生意気になってる気がするのは気のせいか?
正直、私の事を先輩とは思ってない気がするぞ……。
「中野ー!」と普段通り絡んでやろうかと思ったけど、何となくやめておいた。
今回ばかりは梓の突っ込みが正確だった気がしたからだ。
まあ、たまには許してやるか。

でも、それはそれで逆に梓を不安がらせちゃったみたいだった。
私としては何となく絡まなかっただけなんだけど、
私の突っ込みを待っていたらしい梓は、急に上目遣いで寂しそうな表情を浮かべていた。
め……、面倒臭い奴だなあ……。
だけど、別にそれは嫌じゃなかったし、逆に嬉しかった。
四ヶ月以上遠く離れていたけど、梓は私の事を忘れないでいてくれたんだよな。
傍に居ても、私が普段通りの行動を取らないと寂しがるくらいに……。
今になって、それを実感する。

こうなると、ちゃんと絡んでやらなきゃな。
でも、今更梓に突っ込むのも間が抜け過ぎていた。
はてさて、どうするべきか……。
ちよっと困って周りに視線を向けてみると、
丁度、私と同じく制服姿に身を包んだ和の姿が私の目に入った。
梓の頭を軽く叩いて、和の方に視線を向けさせる。
苦笑を浮かべて、寂しそうな梓に言ってやる。


「ほら、見てみろよ、梓。
和だって女子大生なのに高校の制服を着てんだぞ?
あれはいいのかよ?」


私に言われ、梓がまじまじと和の姿を見つめる。
しばらく鑑賞した後で満足したのか、わざとらしく肩をすくめた。
311 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 17:58:29.82 ID:dC3rBIds0
「和先輩はいいんですよ。
元生徒会長なんですから、高校を卒業した後も制服に袖を通す事は多いはずです。
特に優等生ってわけでもない律先輩が、
女子大生にもなって高校の制服を着るって事が変なんですよ。
何かいかがわしい邪な陰謀が関わってる気がしてなりません……!」


「中野アズラエルー!」


そこまで言われちゃ絡まざるを得ない。
梓を寂しがらせないためにも、
先輩をからかいまくってる生意気な後輩を懲らしめるためにも、
今度こそ私は梓に大声で掴み掛かってやった。
勿論、身体に掴み掛かったわけじゃなく、掴んだのは梓のツインテールだ。
残暑厳しい事もあって、まだ梓の日焼けは治ってない。
特に昨日は梓が食糧調達の当番だったからな。
そんなヒリヒリする身体を酷使してやれるほど、私は鬼先輩じゃない。

梓のツインテールを両側で引っ張ってやる。
私はツインテールが結べるほど長い髪にした事は無いけど、
何回かツインテールにした事のある澪の話によると、
両側で引っ張られると脳が半分に割れるような感覚がするらしい。
それは流石に大袈裟な言い方だろうけど、
つまり殺傷力は低く苦痛は大きめって事なんだろうな。


「きゃー、すみません、律先輩……!
いたいいたい……!」


痛いのか嬉しいのか、何とも言えない声を上げる梓。
それ自体は普段通りだったけど、やってて何だかむず痒くなってきた。
いつもやってるチョークスリーパーと違って、
最近やってた頭クルクルとも違って、
ツインテールを両側で引っ張るって攻撃は、攻撃される側の梓の顔がよく見えたからだ。
そして……、攻撃を受ける梓の表情が笑顔だったからだ。

何だよ……。
こいつ、私の技を受けながらこんな顔してたのか?
私が梓に技を掛ける度に、
特に純ちゃんと憂ちゃんが楽しそうな表情をしてたのは、そういう理由だったのか?
仲が良い先輩後輩だなあって、微笑ましく見てたって事なのか?
うっわあ……、何だか物凄く恥ずかしくなって来たぞ……。
しかも、こいつの笑顔、すっごく嬉しそうだし……。

こんな恥ずかしさを感じるのは初めてだ。
自分で自分の顔が赤くなっていくのを感じる。
澪との絡みをクラスの奴らからからかわれた時とは比べ物にならないぞ。
多分、今まで気付きもしなかったって事が、余計に恥ずかしく感じさせるんだろうな……。

胸が高鳴るのを感じる。
緊張でも、不安でもない妙な鼓動……。
その鼓動にどう反応するべきなのか迷っていると、不意に小さな音が教室に響いた。
シャッター音……か?
音がした方向を探してみると、その場所はすぐに見つかった。
その場所では、純ちゃんが首から掛けたポラロイドカメラを手に持って、楽しそうな表情を浮かべていた。
312 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 17:59:22.43 ID:dC3rBIds0
「純ったら、もー!
勝手に写真撮らないでよー!」


私にツインテールを掴まれた状態で、梓が右手を上げて頬を膨らませる。
解放してやろうかとも思ったけど、
ちょっと嫌な予感がしたから、しばらくはそのままで居る事にした。
純ちゃんがポラロイドカメラから排出された写真を軽く振りながら、ニヤニヤと笑う。


「えっへへー、いいでしょ、このカメラ。
お父さんのなんだけど、この日のために家から持って来たんだ。
私達の新しい門出の日じゃん?
やっぱしっかり写真に収めとかなきゃね!」


「凄いね、純ちゃん!
それってとってもいい考えだよ!」


チューニングが終わったらしい憂ちゃんが、ギターを置いて純ちゃんの隣に駆け寄って言う。
和もやる事が終わったのか、その更に横に陣取って微笑んだ。


「いい考えね、純ちゃん。
私もそれは完全に失念してたわ。
そうよね。折角のほうかごガールズの初ライブだもの。
しっかり写真で残したいわよね……。
思い付いてくれてありがとう、純ちゃん」


まさか元生徒会長の和に褒められるとは思ってなかったんだろう。
純ちゃんはモコモコを軽く揺らしながら、ちょっと顔を赤くして笑った。


「えへへ、どういたしまして。
記念日ですもん。形としても残したいじゃないですか。
あ、そうだ。
これ、そろそろ現像が終わったはずなんですけど……」


言って、純ちゃんはさっき撮った写真を憂ちゃん達と一緒に覗き込む。
私と梓の方からは角度的に見えない。
どんな写真になっているのかは、純ちゃん達の反応から想像するしかなかった。


「あら」


「わあっ」


「いい写真でしょー?」


和と憂ちゃんの感嘆の声が上がり、純ちゃんが鼻高々に腰に手を当てる。
何だよ……、どんな写真が撮れてるってんだ……?
すっげー気になる……!
そもそも被写体は私達じゃんか。
勝手に撮られて、勝手に感心されるのは恥ずかし過ぎる。
313 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:00:10.83 ID:dC3rBIds0
「ちょっとちょっと……!
私にも写真見せてくれって……!」


「私にも見せなさいよ、純ー!」


私達が口を尖らせて言うと、
純ちゃんが笑顔のままでその写真を差し出してくれた。
梓のツインテールを離して写真を受け取ろうとして……、
途中で思い直して右手だけを離し、左手で梓の頭を鷲掴みにした。


「ちょっ……!
何するんですか、律先輩……!
離してくださいよー……!」


梓が頬を膨らませて抵抗したけど、
私はその言葉を聞いてやるわけにはいかなかった。
はい、非常に嫌な予感がします。
いや、もう確信って言ってやってもいいんじゃないかな。
純ちゃんが急に私達の写真を撮った理由……。
その写真を見た和と憂ちゃんの反応……。
その二点から導かれる答えは一つ……!


「すまん、梓。
写真は私が先に見させてもらう。
それで問題が無ければおまえにも見せてやるから、ちょっと待っててくれ」


「何なんですか、それー……!」


まだ抵抗してる梓の頭を左手で掴んだまま、
私は右手を伸ばして、純ちゃんから写真を受け取る。
返って来たテストの点数をチェックする時みたいに、ちょっと薄目で確認してみる。
ほとんど確定してるけど、どうか変な写真になってませんように……!


「うげっ!」


一目見た途端、思わず変な声が漏れた。
分かってはいた事だけど、私の願いは音を立てて崩れ去ってしまったみたいだ。
何なんだよ、この写真は……。
私は一瞬にして制服のポケットの中にその写真を入れると、掴んでいた梓の頭を解放してやった。
吹けもしない口笛を吹く振りをして、梓から視線を逸らしてやる。
314 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:01:05.89 ID:dC3rBIds0
「吹けないのに口笛っぽい声出さないで下さいよ……、じゃなくて!
一体、どんな写真だったんですかっ?
私にも見せて下さいよー!」


「この写真は封印します」


「それ前言った私の台詞じゃないですかー!」


そう叫びはしたけど、梓は無理矢理私のポケットに手を突っ込んだりはしなかった。
その辺、常識があって、私の気持ちを尊重してくれる後輩で助かる。
本当はそんな梓の願いを叶えてやりたくはある。
でも、悪いとは思うんだけど、そうするわけにはいかなかった。
いくら何でも、この写真を梓に見せてやるわけにはいかない。

思い出すだけで恥ずかしくなる。
私の予感通り、写真には嬉しそうな表情の梓が写ってた。
私にツインテールを引っ張られながらも、幸せな表情の梓が……。
いや、それだけならいい。
それだけなら梓に見せても問題無いし、
「嬉しそうな顔しやがって」ってからかってやる事も出来た。

問題なのは写真に写ってるもう一人の人物……、
つまり、私の表情だった。
写真の中で、私は笑顔で梓のツインテールを引っ張っていたんだ。
それも単なる笑顔じゃなくて、
私にもこんな表情が出来るんだ、って思えるくらいの幸せそうな笑顔で……。

こんな写真見せられるかよ……。
他の誰かに見せられたって、梓にだけは絶対に見せられない……。
うわあああああ!
何か私、今すっごく恥ずかしい!
私ってひょっとして自分で思ってる以上に梓の事が大切なのか?
いや、一人しか居ない後輩だから、
楽しい部活動くらいは経験させてやりたいって思ってたけどさあ……!

……うん、今は深く考えるのはやめよう。
とりあえず、この写真だけは厳重に封印しとかなきゃな……。


「律先輩……?」


写真より私の様子が変な事の方が気になったらしい。
梓が首を傾げながら、心配そうな表情で私の顔を覗き込んで来る。
うっ……、そんな顔されると何か罪悪感が……。
私はわざとらしく咳払いすると、何とか話題を変えてみせる。
315 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:01:35.97 ID:dC3rBIds0
「それより純ちゃん、カメラ持って来るなんていい判断だよ!
澪の奴も写真が好きだからさ、
あいつにでも渡してライブの様子を撮りまくってもらおうぜ!」


「あ、律先輩、誤魔化しましたね。
まあ……、いいですけどね……」


梓が呟きながら苦笑する。
どうやら写真を気にするのもやめてくれたみたいだ。
ごめん、梓。
いつか……、いつかは分かんないけど……、
おまえに見せられるって思えたら、この写真、見せるからさ……。


「そうですね!」


嬉しそうな顔で純ちゃんが私の方に駆けて来る。
その後から和と憂ちゃんも続いた。
純ちゃんが首から掛けていたカメラを外して、私に手渡してくれた。


「私達の勇姿、澪先輩にしっかり写してもらっちゃいましょう!
先輩達を泣かせちゃうくらいのライブにしちゃいましょうよ!
あ、澪先輩には律先輩からカメラ渡して下さいね。
私からカメラ渡すのって、ちょっと恥ずかしくて……」


純ちゃんが可愛らしい照れ笑いを浮かべる。
澪の素の姿を知ってても、まだ澪に憧れてるんだろう。
あいつの何処に憧れてるのかはよく分かんないけど、幼馴染みとしてはちょっと嬉しいかもな。
私は軽く笑って、純ちゃんの頭に軽く手を置いた。


「了解だ。澪には私からカメラを渡しとくよ。
あ、でも、それより先に……」


言い様、私は皆の身体を自分の方に引き寄せた。
引き寄せられながら、和が首を傾げて私に訊ねる。


「どうしたのよ、律?」


「集合写真だよ、集合写真!
私達、ほうかごガールズの記念すべき最初の集合写真だ!
撮った後は和もほうかごガールズのマーク書くのを頼むぜ!
こりゃ将来的に高く売れるぞー!」


「売る気なんですかっ?」


梓が呆れた表情で突っ込んでから、すぐに笑顔になった。
売るかどうかはともかく、集合写真ってアイディアは悪くないと思ってくれたんだろう。
視線を向けてみると、和達も嬉しそうな表情で笑ってくれていた。
本当なら組めるはずもなかったドリームバンド、ほうかごガールズ。
実力としてはまだまだだと思うけど、いい曲を皆に、自分達に届けてやりたい。
316 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:02:32.67 ID:dC3rBIds0
「よっしゃあっ!」


教室が揺れるくらいの大声を出してから、皆をフレームの中に入るよう集める。
腕を精一杯伸ばして、出来る限りの笑顔を浮かべてみせる。


「ほうかごガールズーッ!
ファイッ! オーッ!」


「ファイ、オーッ!」


「声が小さーい!」


「ファイッ! オーッ!」


皆の声が揃う。
そして、笑い出す。
それは新しい門出への決意と覚悟の顔。
元の世界には戻りたい。
でも、戻れなくたって、八人でなら乗り越えていけるはずだ。

それは形こそ変だけど、映画のハッピーエンドに相応しいシーンに思えた。
未来に進む決心を持てた私達のハッピーエンドだ。
映画だったら、いい終わり方だったと思う。
希望に満ちたいいラストじゃないか。

まあ、勿論、まだまだ現実は続いていくんだけどな。
ライブはこれから始まるんだし、
この世界がどう転ぶか分かったもんじゃない。
でも、この時、私達が笑顔を浮かべられた事だけは確かなはずだ。
そのはずなんだ。

そう思いながら、私はカメラのシャッターを押した。
夢みたいなバンド……、
ほうかごガールズの姿を写真に収めるために。
317 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:03:10.90 ID:dC3rBIds0





集合写真を撮り終え、
ほうかごガールズのマークを和に書いてもらった後、
写真は梓に渡してから、私以外の四人で澪達を呼びに行ってもらった。
澪達は部室で待ってるはずだから、帰ってくるまで十分くらいは掛かるだろう。
私は急いで最後の準備を始める。
私だけ残ったのはそのためだ。

最後の準備……って言っても、大した事をするわけじゃない。
ポケットに入れておいたマジックを取り出し、私は自分のスティックにマークを書いた。
わかばマークとコーヒーカップを合体させた変なマーク……。
勿論、ほうかごガールズのマークだ。
実は和の書いたマークを見ながら、隠れて書く練習をしてたんだよな。

うん、我ながら中々いい出来だ。
頷いてから、次に梓達の置いて行ったピックにもマークを書いていく。
勝手に書くのは悪い気もするけど、皆、怒ったりはしないはずだ。
全部のピックに書き終えると、私はそのピックを自分のポケットの中に入れた。
帰って来た後、自分のピックを探す三人に渡そう。
どんな反応をするんだろうな……。
憂ちゃんは喜んで、純ちゃんが苦笑して、
梓が「勝手な事しないで下さい」って頬を膨らませるかな。
それを和が傍から見ていてくれる……って所だろう。
その時がちょっと楽しみだ。

澪達が来たら、ひとまずMCを始めてやるかな。
MCの担当は梓だ。
あいつのMCはどんな感じになるんだろう。
何度か見た事はあるけど、あいつがメインでMCをやった事は無い。
現部長として練習もしてるだろうから、どんな語りを見せてくれるか楽しみだな。

演奏する曲は『天使にふれたよ!』と『U&I』だ。
二曲しかないけど、二曲だけに絞ったからこそ、いい感じの曲に仕上げられたはずだ。
和のピアノ……、じゃなくて、
キーボードのレベルもかなりのものになったし、
梓の歌だってかなり聴けるレベルになってきたと思う。
『天使にふれたよ!』は五人で分担して歌うし、
『U&I』でもコーラスでフォローするつもりだから、梓の歌も何とかなるだろう。
まあ、もしアンコールがあったら、『翼をください』を演奏するのも悪くないかな。

……にしても、だ。
ピックにマーク書くだけなら、何も一人だけ残る必要は無かったよな……。
所要時間、二分も経ってねーよ……。
残り八分は待たなきゃいけねーのか……。
携帯も無い状態で八分も待つのは結構辛い。
最後の練習をするってのもいいけど、
八分じゃちょっと中途半端だしなあ……。

ま、いいか。
教室でゆっくりしてりゃ、すぐ皆も来るだろ。
私達の元教室ってのも結構懐かしいしな。
閉ざされた世界に迷い込んで以来、実は意図的にこの教室に来るのを私は避けてた。
深い理由があるわけじゃない。
もう私達の物じゃない教室を見るのが何となく嫌だっただけだ。
知らない生徒達の物になった教室を見て、昔を思い出しちゃうのが怖かっただけだ。

でも、久々に勇気を出して来てみて、ちょっと安心したかな。
教室自体はあんまり変わってないみたいだし、
切なさとかより懐かしい気持ちの方が大きい気がする。
半年前の事なのに、もう懐かしいよな……。
そうそう、唯と授業中によく手紙を回してたっけ。

何となく思い付いて、私は前に唯が使ってた机に手を入れてみる。
唯の机は窓際の一番後ろだから、
机を寄せて舞台にしているとは言え、すぐに見つけられたからだ。
お、夏休みだってのに、机の中に教科書と何かの紙が入ってるじゃねーか。
前の持ち主と同じく、結構適当な生徒が使ってんのかな?
苦笑しながら、手に触れた紙を適当に机の上に出してみる。
318 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:03:55.97 ID:dC3rBIds0
途端、息を呑んだ。
紙には見覚えのある絵と癖のある文字が書かれていた。
『おまえのうしろに真っ白いイルカの親子が』という文字と。
我ながら下手糞なイルカの絵。
我ながら、だ。
そう、それは間違いなく、私がずっと前に唯に回した手紙だった。

こんな事があるか、と思った。
この机を使ってるのはもう別の生徒のはずだし、
大体、私が唯に回した手紙はムギが全部家に持って帰ってる。
じゃあ、これはどういう事だ?
誰かが私と全く同じ手紙を書いたってか?
そんなのあるかよ、どんな偶然だよ、それは。
だったら、ムギがわざわざ自宅から手紙を持って来て、
何の意味も無く唯の机に私の手紙を入れたってのかよ?
それだって有り得るもんか。

考えられる可能性はただ一つだけ。
やっぱりこの世界は誰かの夢の中だって事だ。
夢の中ってだけなら、澪や和と何度も話し合った事だし、別に驚く事じゃない。
驚くべき点は一つ。
中途半端なくせに、この夢の世界が私達の事に妙に詳しいって事だ。
そうでなきゃ、こんな私の書いた手紙なんて再現出来るもんか。
つまり、それは、やっぱり……。

そうだ。
考えてないわけじゃなかった。
一番不自然だと思ってたのは、何でこの世界に迷い込んだのが私達なのかって事だ。
他の誰でもいいじゃないか。
それこそ私達だけじゃなく、
菫ちゃんやさわちゃんや信代やいちご……、
そんな私達の知り合いの誰かが居たっておかしくなかった。

でも、この世界には選ばれたみたいに私達八人しか居ない。
選ばれたみたいに、じゃない。
誰かに選ばれたんだ。
いや、誰かに、でもない。
私達八人の中の誰かに選ばれたんだ。

そりゃそうだ。
これだけ所々中途半端に、
でも、妙な所だけ詳しい世界を造り上げるなんて、私達以外の誰かに出来るわけがない。
この閉ざされた世界は私達の中の誰かの心の中の世界なんだ、きっと。
原因は分からない。理由も分からない。
でも、多分、そうなんだろうなって思う。
謎が解決した昂揚感は沸いて来なかった。
分かって、どうなる?
分かって、どうするんだ?
この夢を見てる誰かを探り出して、問い詰めるか?
そんな事したって、現状がどうにかなるとは思えない。
319 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:05:23.65 ID:dC3rBIds0
急に。


「りっちゃん、おいっす!」


能天気な声を上げて、唯が教室に入って来た。
どうやら唯達を連れて、梓達が戻って来たらしい。
私は手紙を机の中に戻して、どうにか笑顔を浮かべてみせる。


「おいっす、唯。んじゃ、ライブ始めるぞー」


言いながら、唯の後に続いて来た澪にポラロイドカメラを手渡す。
澪の顔は見れなかった。
私の顔をもう少しは見られたくなかったからだ。
「写真頼むぜ!」とそれだけ言って、机の上に登ってドラムの椅子に腰掛ける。

やめよう。
今は余計な事を考えるな。
今はライブを開催して、未来に進む決心をしてやる時なんだ。
犯人捜しなんかしたって、何の解決にもならないんだから。
三回、深呼吸。


「あー、りっちゃん、和ちゃんと一緒で制服着てるー。
二人とも女子大生なのに変なんだー」


そう無邪気に言う唯の言葉には逆に救われた。
普段通りでいいんだ、今は。
見回してみると、澪だけ少し首を傾げてたけど、ムギは私の制服姿を見て微笑んでいた。
澪はちょっとおかしかった私の様子を疑問に思ってるんだろう。
大丈夫だよ、澪……。
もうちょっとしたら、胸の鼓動も落ち着くと思うからさ……。


「それじゃあ、私達のライブを始めますね!」


嬉しそうな表情で梓が宣言してから机の上に登る。
純ちゃん、憂ちゃん、和がそれに続く。
四人の嬉しそうな視線が私に集まる。
皆、これからのライブを楽しみにしてるんだ。
だったら、私も余計な事は考えずに楽しまないとな。
この世界の事は、後でいくらでも考えられるんだから。


「これから私達が演奏する曲は、先輩達もよく知ってる曲なんですけど……。
あれ……? おかしいな……?」


梓の言葉が途中で止まる。
どうやら自分のピックを探しているらしい。
320 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:06:04.58 ID:dC3rBIds0
「おっと……」


私は立ち上がって、梓に近付いていく。
やばいやばい、すっかり忘れてた。
ちゃんと梓達三人にピックを渡しとかなきゃな。

ピックを渡し終わったら、いよいよライブの始まりだ。
そういやまだ澪達にはバンドの名前も教えてなかったしな。
梓が恥ずかしがりながらバンド名を伝える姿が目に浮かぶ。
ははっ、何か面白い。


「悪い悪い、梓。
ピックなら私が持ってるんだよな。
純も憂もすぐに行くから待って……」


その言葉を最後まで言う事は出来なかった。
どうにか出せた私の勇気が二人に届く事は無かった。
風が、吹いた。
そりゃ暑苦しいから窓は開けていた。
でも、だからって、室内にこんな激しい風が吹き込むもんか。

そう。
それは、一陣の風。
目を開けていられないくらいの激しい風。
まるで……。
まるで、この世界に迷い込んだ日のあの風のような……。

風は数秒くらい吹いてただろうか。
風が止まった後、目を開けるより先に、違和感に気付いた。
違う。
空気や、雰囲気や、何もかもが、今までとは全然違う。
大体、机の上に立っていたはずなのに、
今足下に感じるこの感触は……、土……?

目を開ける。
目を開けたってどうなるわけでもないかもしれない。
でも、目を開けないわけにもいかなかった。
321 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:07:04.84 ID:dC3rBIds0
「な……っ?」


それ以上、言葉が出なかった。
これまで散々異常事態を経験してきたってのに、
それでも予想だに出来なかった事態に脳が反応し切れてない。
風が止んだ瞬間、気が付けば私達は見知らぬ野外に佇んでいた。
教室も、机も、楽器も、その場にあったはずの物は何一つ存在していなかった。
その場にあるのは着の身着のままの私と澪、唯、ムギ、梓……。
あ……れ……?

何だ……?
何だってんだ……?
今度は何が……、何が起こったってんだ……?


「純……?
何処なのよ、純ーッ?」


梓の声が聞こえる。
そうだ。見当たらない、純ちゃんの姿が。
さっき折角勇気を出して『純』と呼んでみたあの子の姿が……。
それに……。


「憂……?
憂ーっ! 何処に行ったのー? 出ておいでよ、憂ーっ!
出て来てよーっ! 憂ーっ!」


張り裂けそうなほど大声の唯の声が響く。
外だってのに、耳に響くくらいの大声。
でも、返事は無い。姿も存在しない。
唯の大切な妹、そして、私の大切な友達の憂ちゃん……、『憂』の姿も。

更に。


「和! 和ああああああっ!」


長い黒髪を震わせ、喉を震わせて澪が叫ぶ。
キーボードも、和の姿も、その場には無かった。
私達の元生徒会長……、頼りになって、
こんな世界でも私達を引っ張ってくれていた眼鏡の友達が。

三人とも、忽然と姿を消していた。
いや、逆なのか?
姿を消したのは私達の方で、三人は教室に取り残されてるのか?
違う!
そんな事はどうでもいい!
つまり……、つまり、これは……。


「もうやだ!
もうやだああああああっ!」


叫んだのは澪じゃなくてムギだった。
その場に崩れ落ち、大粒の涙を流し、絶叫を始める。
自分も辛いだろうに、傍に居た澪がムギの肩に手を置いた。
でも、それ以上の事は出来てなかった。
澪だって、絶叫したいくらいに怖いはずだ。
322 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:07:44.53 ID:dC3rBIds0
私だって……、
私だって、頭の中がぐしゃぐしゃで、
何が起こったのか分からなくて、
怒るべきなのか泣くべきなのかも分からなくて。
ただその場に立ち竦んでしまって。

不意に。
制服の袖に違和感。
梓が私の袖を掴んで。
泣き出しそうな表情で私の袖を掴んで。
でも、何も出来なくて。
何をしたらいいのか分からなくて。
頭の中が真っ白で。

だけど、梓が私の袖から二の腕に手を回し直した事で、
どうにか頭が働くようになって、そして、気付いた。
私……、ここを知ってる……。
私だけじゃなく……、ここに居る五人なら全員知ってるはずだ。
だって、あれは……、あれは……!

私の目に映ったのは観覧車。
かなり大型の観覧車。
見た事はあるし、乗った事もある。
そして、見覚えのある街並み……。
日本の建物とは異なる特徴的な建築方式の……。


「ロン……ドン……?」


私は誰に聞かせるでもなく呟いた。
そうだ。
ここはロンドンだ。
ジャパンエキスポだかジャパンフェスティバルだか忘れたけど、
とにかく私達がライブをやった広場の近くにある公園だ。
見覚えのある場所だった事は助かる。
ここが何処だって戸惑う必要も無くなる。

だけど、それが何だってんだ!
分かったから、何だってんだよ!
仲間を……、友達を三人も見失って、何を考えろってんだよ!
どうしろってんだよ!


「何だよ……。
何だってんだよッ!」


喉が痛くなるほどに叫んだ。
何度だって叫んだ。
でも、純ちゃんも憂ちゃんも和も返事をしてくれる事は無かったし、姿も見当たらなかった。
残された梓達も私の言葉に反応してくれる事は無かった。

八人でなら生きていけると思い掛けてたこの世界……。
やっとの事でそう思えるようになって、
前を向いて生きていけるはずだったのに、
こうして私達は、掛け替えのない仲間と、希望を失った。

ようやく理解した。
ここは絶望に満ち溢れた世界。
私達からありとあらゆるものを
奪い去って
最終的に心まで奪い去って
逃げ出そうとしたって
確実に追い詰めて絶望させる

閉ざされた
世界だ。
323 :にゃんこ [saga]:2012/03/31(土) 18:09:57.47 ID:dC3rBIds0


今回はここまでです。
やっと折り返し。
ようやく本編の始まりと言う感じです。
ゲームで言うと、やっとOPムービーが始まる所でしょうか。
まだまだ続きますが、よろしくお願いします。

あと、すみません。
色々あってちょっとだけ更新ペースが遅くなる予定です。
324 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/03/31(土) 20:34:34.01 ID:VcDYAWvho
おk
待ってる
325 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大分県) [sage]:2012/04/01(日) 09:38:35.56 ID:isNgQq+Po
先が気になる終わり方だが、素直に待つか
326 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/04/02(月) 11:29:43.81 ID:ByTtA2AIO
これでまだプロローグなのか
327 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/04/02(月) 22:49:40.13 ID:TwFM010DO
これは超大作になるね。
328 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/04/11(水) 16:35:34.91 ID:Ei9LA9rDO
続き楽しみに待っています。
329 :にゃんこ [saga]:2012/04/15(日) 18:44:25.09 ID:3MlZ2LuN0





どれくらい時間が経ったんだろう。
五分?
十分?
それとももっとか?
緩く肌寒い風に吹かれ、私は長い間呆然としてた。
今起こった現実を受け止められるほど、私は打たれ強くない。
現実……?
現実なのか、これ?
夢じゃなくて?
いや、そんなのどっちでもいい。
これが例え夢だろうと、ずっと覚めなきゃ現実と同じだ。


「律」


私の名前を呼ぶ声がする。
誰の声だっけ?
聞き慣れた声のはずなのに、一瞬、私は誰の声なのか思い出せなかった。


「おい、律!」


もう一度大きな声で呼ばれ、やっと気付く。
私の名前を呼んでたのが澪だったって事に。
そりゃそうだ。
この残されたメンバーの中で私の事を『律』って呼ぶのは澪しか居ない。
分かり切ってた事なのに、何故だかすぐには分からなかった。
こんな現実を認めたくなかったからかもしれない。
認めたくないよ、こんな現実。
でも、認めたくなくたって、やっぱり現実は現実なんだろう。
夢だとしたって、この誰かの夢が覚める気配は、一ヶ月近く全然無い。
だったら、私はこの誰かの夢の中でやれる事をやるしかない。

深呼吸。
気を抜けば涙を流しそうになってる気分に気付きながら、
それでも私はどうにか澪に言ってやった。震えながらも、言ってやった。


「……分かってるって、澪」


そうだ。
分かってる。
こんな所で呆然としてても、何も進展しないのは分かり切ってる。
元だけど私は部長なんだ。
軽音部のリーダーなんだ。
だったら……、皆を引っ張らなきゃいけないじゃないか。
330 :にゃんこ [saga]:2012/04/15(日) 18:44:59.51 ID:3MlZ2LuN0
私はまず澪に視線を向ける。
澪はその場に崩れ落ちるムギの肩に手を置きながら、私を見つめてた。
声こそ強がってはいたけど、澪のその表情は泣き出す寸前みたいに見えた。
澪とは長い付き合いなんだ。
澪が泣き出す寸前の表情くらいよく知ってる。
私がそれを知ってるって事は、澪も私が泣き出す寸前の表情を知ってるって事でもある。
二人して泣き出しそうになりながら、でも、何とか泣き出さずに立ってやる。
失くしたくないから……。
これ以上、失くしたくないからだ。
これ以上、失くさないためには……。

次に崩れ落ちてるムギに視線を向けてみる。
ムギの表情を見たかったからだけど、それは出来なかった。
ムギが両手で顔を押さえ、ずっと震え続けてたからだ。
怖いんだろう、と思う。
世界がこんな事になっちゃって、一番怯えてるのは多分ムギだ。
私が肘をちょっとだけ怪我した時の事を思い出す。
あの時、ムギは大袈裟なくらい私の怪我を心配してた。
それは嬉しいんだけど、やっぱりその理由はムギが誰より不安だったからだと思う。
私の中の誰かを失う事を……。
私だって失いたくなかった。
誰一人、失いたくなかった。
でも、ムギはきっと私なんかよりずっと誰かを失う事が怖かったんだ。
だから、大声で泣き出しちゃってるんだ。
三年の学祭ライブの後、もう学校でライブが出来ない事を誰よりも悲しんでたみたいに。
失う事の辛さを知ってるから……。

その隣では唯が忙しなく周囲を見回していた。
唯の判断力では、今何が起こったのかを理解し切れてないんだろう。
口元に手を当てて、全身を震わせてるようにも見える。
特に唯は自分の保護者みたいな和と憂ちゃんを同時に失ってしまったんだ。
世界から私達以外の生き物が消えた時はともかくとして、
和、憂ちゃん、純ちゃんの姿が消えて一番動揺してるのは唯に違いない。
多分、一番大切な人達を同時に失っちゃったんだから……。
勿論、私だって唯の事は言えた義理じゃない。
私だって震えてる。
泣き出しそうになりながら、怯えながら、どうにか立ってるだけだ。

立っていられるのは、私の二の腕にあいつの手の感触を感じられてるからだ。
小さくて真面目で気難しい、軽音部の現部長……、梓の手の感触を。
軽く梓の表情を覗き込んでみる。
意外だった。
梓は震えてなくて、泣き出してもいなかった。
私も含めて残された五人の中で、一番毅然とした表情をしてると思う。
凄いな、と思った。
梓と離れてた四ヶ月、梓に何があったのかは分からない。
世界がこんな事になって、予想外に梓の近くに居られる事になったけど、
梓がこんなに強い表情が出来る理由までは分からなかった。
そもそも梓って自分の事を進んで話すタイプじゃないしな。
部長としての責任が梓を成長させたんだろうか。
だったら、やっぱり凄い。
私は三年間部長をやって来たけど、
それで自分が成長出来たのかと聞かれると、何とも答えにくい。
少しは成長出来たはずだと思う。
でも、梓くらい成長出来たとは思えない。
成長……しなきゃいけないんだよな、私も。
現部長が毅然としてるんだ。元部長だってやれる限りの事はやってやらなきゃいけない。
もうこれ以上、誰かを失うわけにはいかないんだ。
331 :にゃんこ [saga]:2012/04/15(日) 18:46:04.22 ID:3MlZ2LuN0
私は拳を握り締めて、震える心と身体をどうにか押し留める。
カチューシャを一度外して、前髪を下ろしてから、もう一度カチューシャを付け直す。
前に進んでいくために、力を入れ直すために。


「唯! 澪! ムギ! 梓!」


精一杯の大声を出して、その場の皆に私の声を届ける。
単なる空元気だってのは分かってる。
だけど、空元気でも出さなきゃ、多分、これからもっとひどい事になる。
それは嫌だ。絶対に嫌だ。嫌に決まってる。
だから、私は言ってやるんだ。
言わなきゃいけないんだ。
皆に嫌われる事になったっていい。
それでも、今はやらなきゃいけない事があるんだから。


「行くぞ!」


「行く……って、何処に……?」


呆然としたまま唯が私に訊ねる。
いや、その呆然とした表情の中に、不安の色が強まったようにも見える。
きっと私が何を言おうとしてるのか分かったんだろう。
それを認めたくないんだろう。
でも、私は、唯、おまえまで失いたくないから……。


「おまえも分かってるだろ、唯?
おまえだって、皆だって、ここには見覚えがあるよな?
そうだよ、皆で卒業旅行に来たロンドンだ。
ライブやった広場だ。
一度しか来てないわけだし、
確実な証拠があるってわけじゃないけど、多分……な」


「私だってここがロンドンだって事くらいは分かるよ、りっちゃん……。
でも……、でも……、何なの……?
何処に行くつもりなの……?」


唯がどんどん不安を増した声色になりながら続ける。
私だって唯を傷付ける事は言いたくない。
けど、このままでいいわけがないんだ。
このままじゃ共倒れなんだ。
だから、私は一番言いにくかった事を、わざと大声で言ってやった。


「ホテルだ!
何が起こったのかも、今、どうなってるのかも、分からないだろ?
だから、卒業旅行の時に泊まったホテルに行くぞ!
何をするにしたって休める所が無いと何も出来ないからな!」


自分でも酷い事を言ってる自覚はある。
大切な人を失ったばかりの唯にこんな事を言うなんて、酷いにも程がある。
私の言葉を聞いた唯は泣き出しそうな表情になって……、
いや、一筋の涙をこぼしながら、絞り出すみたいに呟いた。


「私、やだよ……、りっちゃん……。
だって……、だって憂が……、和ちゃんが……、純ちゃんも……。
居なくなっちゃって……、すぐ傍に居たはずなのに……、
皆みたいに風と一緒にどこかに行っちゃって……!
捜そうよ……、きっと近くに居るはずだよ……?
憂達なら近くに居るはず……だよ……?
憂達を置いてくなんて……、そんなの……やだよお……!」
332 :にゃんこ [saga]:2012/04/15(日) 18:46:44.23 ID:3MlZ2LuN0

唯の言いたい事は痛いくらい分かってた。
ほとんど無い可能性だけど、ひょっとすると憂ちゃん達も私達の傍に居るのかもしれない。
あの風の操作ミスかなんかで、この広場から少しだけ離れた場所に飛ばされてるのかもしれない。
そうだとしたら、どれだけいいだろう。
でも、きっとそんな可能性は無いだろう。
ロンドンに飛ばされる前、生き物が消えた時も私達は散々他の皆を探した。
一ヶ月近く、隅々まで探し続けた。
だけど、誰一人として見つからなかった。
生き物が消えた後に誰かが生活してた痕跡すら見つからなかった。
つまり……、きっと……、憂ちゃん達はどうやったって見つからない。
そんな気がする。
百歩譲って憂ちゃん達を探す事にするとしても、今だけは駄目だ。
こんな状態で誰かを探したって余計に消耗するだけだし、それこそ二次災害に繋がるじゃないか。
だから、まずは休める所を探し出すべきなんだ。

唯もそれには気付いてるはずだ。
認めたくないだけで。
私だって認めたくないけど、
部長として、それはやっちゃいけない事なんだ。


「頼むよ、唯……。
分かってくれとは言わないけど、今だけは私の言う事を聞いてくれ……。
憂ちゃん達は後で探そう。どこに居たって探し出そう。
でも、今だけは駄目なんだよ。
探すにしたって、情報が全然足りないのに闇雲に探し回しても……」


「でも……!
でも、憂なんだよ、りっちゃん!」


唯が全く理屈の通ってない言葉を叫んだ。
無茶苦茶だ。
憂ちゃんだからって何だってんだ。
でも、唯の言いたい事は分かる。
唯は憂ちゃんとずっと一緒に居た。
離れて住むようになっても、心は傍にあった。
きっと唯が寂しい時には、丁度憂ちゃんから連絡があったりもしたんだろう。
それくらい繋がり合ってる姉妹だったんだ。
世界がこんな事になったって、一緒に居てくれる。そんな気もしてくる。
でも、それはきっと無理だ。
憂ちゃんだって万能じゃない。何でも出来るってわけじゃない。
完璧に見える子だけど、この一ヶ月傍に居て、色んな事に気付いた。
ちょっとした弱点も持ってる子で、そこが魅力的な子なんだって。
私だって、憂ちゃん達を置いていきたくなんかない。

だけど……、同時に気付いちゃったんだ。
私達だけが特別じゃなかったんだって。
私はついさっきまでこの八人が特別だから、誰かに選ばれたんだって思ってた。
八人で他に誰も居ない世界で生きていくように誰かに選ばれたんだって思ってた。
でも、それは違ったんだ。
憂ちゃん達が居なくなって、五人取り残されて気付けたんだ。
次に誰が消えるか分からないって……。
この五人も、いつまで一緒に居られるか分からないんだって……。
それこそ、風の気まぐれで、次に消されるのは私の方かもしれないんだ……。
333 :にゃんこ [saga]:2012/04/15(日) 18:48:20.86 ID:3MlZ2LuN0


今回はここまでです。
お久しぶりです。
お待ち頂き、ありがとうございます。
ほのぼのしない展開が続きますが、これからもまたよろしくお願いします。
334 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/04/15(日) 19:06:42.41 ID:aUA8NwFDO
乙です。これからの展開を楽しみにしてます。
335 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/04/19(木) 02:22:26.95 ID:3fiB7+TDO
まだまだ序盤とは…
完結まで長くなりそうですが楽しみです
336 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 17:49:37.87 ID:CZrAexFF0
だから、私は選んだ。
まずは五人が無事で居られる可能性が高い選択肢を。
それしか選べなかった。
そうしなきゃ、体の震えで動き出せなくなっちゃいそうだった。
今だって、梓の手の感触を感じてるから、
梓に支えられてるから、どうにか立ってられるだけなんだ。
失くした物に目を向けてる余裕なんて持てなかった。
最低だって思うけど、最悪だって思うけど、
残された物に目を向けなきゃ、そうでもしなきゃ、私は、私は……!


「憂達を探そうよ、りっちゃん!
憂なんだし、和ちゃんだって傍に居るし、純ちゃんもきっと寂しがってるよっ?
早く……っ!
ね? 早く見つけてあげなきゃ、三人とも可哀想だよ……っ!
大丈夫……、大丈夫だよ……、大丈夫だから……。
ちょっと離れた所で、憂達が絶対待ってるんだから、だからね……っ!」


らしくなく声を張り上げて、唯が食い下がる。
食い下がりたい唯の気持ちは分かる。
同時に唯が心の奥底ではやっぱり今の状況を理解してるのも分かる。
『大丈夫』と口にしながら、唯の不安そうな素振りは全然変わらない。
いや、むしろ『大丈夫』と口にする度に、表情を歪め、辛そうな様子に変わっていってた。
唯も分かってるんだ。
この閉ざされた世界には……、
少なくとも私達の手の届く範囲には、
憂ちゃんも純ちゃんも和も存在してない事に。

それでも三人を探すべきだったのかもしれない。
時間を決めて、決められた時間まで精一杯三人の姿を探すべきだったのかもしれない。
そうすれば、誰か一人くらいは見つけられたかもしれない。
だけど……。
探し出したら、絶対にきりがなくなる。
大切な仲間達なんだ。
いくら探したって、探し足りるって事は無いだろう。
探し始めたら最後、私自身だって三人を探すのを途中で引き上げられるとは思えない。
冷たい考えだって思うけど、私は居なくなった仲間達よりも残された仲間達を大切にしたかった。
私は天秤に掛けたんだ。
消えた仲間達と残された仲間達を。
ほんの少し片方に傾いた……だけなら、まだ救いがあったかもしれない。
でも、私の中の天秤は、物凄い勢いで残された仲間達の方に傾いていた。
過去に目を向けられない。過去に目を向けたくない。
せめてこれからの事、未来の事に目を向けていたいから、私は唯に言ったんだ。
337 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 17:50:32.33 ID:CZrAexFF0
「唯……。
憂ちゃんでも、和でも……、無理なものは無理なんだ……。
何でも出来そうなあの二人だって……、こんな状況、どうにか出来るかよ……。
傍に居るはずだって信じたいけど……、でも、多分、三人はもう……。
だから……、これ以上の事を、私に言わせないでくれ……!」


私の言葉は聞こえて、理解も出来てたはずだ。
でも、唯は嫌だと言わんばかりに、涙を散らしながら顔を横に振った。
私だって……。
私だって嫌だよ……。嫌に決まってる……!
でも、私はそれ以上に残ったおまえ達を失いたくないんだ!
痛いほどに唇を噛み締める。
気が付けば鉄の味が口の中に広がってた。
どうも強く噛み過ぎて、唇の何処かを切ってしまったらしい。
痛みは感じなかった。
唇の痛みに感けてる暇なんてなかった。
唇の痛みより、胸の痛みの方が何倍も痛かった。

最初から、私達の会話はいつまで経っても平行線だって事は分かってた。
唯は何もかもを大切にする奴だから……。
いちばんがいっぱいある奴だから……。
何かを切り捨てる事なんて出来ない奴なんだって、私だって知ってる。
一番好きな物を一つに絞り切れない……、
そんな唯が大好きだけど、今だけは駄目なんだ。
今は何かを選ばなきゃいけない時なんだ。

不意に澪が立ち上がって、ムギの手を引いて唯の方に歩き出した。
それから唯の手を握り、諭すみたいに優しい声で話し始める。


「なあ、唯……。
憂ちゃん達、探そう?
それなら、おまえも納得するだろ……?」


「おい、みっ……」


私がその言葉を止めようとした瞬間、澪は優しい視線を私に向けた。
『私に任せてくれ』って言ってるみたいに見えた。
私の幼馴染みの澪がそう言うんなら、任せるしかない。
澪はいつだって私の傍で、私の考えを尊重する答えを出してくれた。
だったら、任せるしかないじゃないか……。

唯が澪の突然の申し出に戸惑った表情を見せる。
自分が無茶な事を言ってた事は自覚してたみたいで、不安そうに呟き始める。


「い、いいの、澪ちゃん……?
私……、憂達の事、探してもいいの……?
探して……いいの……?」


「勿論だよ、唯……。
憂ちゃんも純ちゃんも和も大切な仲間じゃないか。
見捨てる事なんて、出来ないだろ……。
探そう、私達に出来る限りは……。
でもな……」
338 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 17:51:00.04 ID:CZrAexFF0
「でも……?」


「探すのは前に泊まったホテルまでの道中だけだ。
見た感じ、この近辺に三人は居ないみたいだ。
だったら何処に居るかはともかく、こことは違う遠い場所に居るんだろうな。
幸い……って言うのも変だけど、ここからホテルまでは結構な距離があるよな?
その道中、三人をじっくり探しながら進むんだよ。
ホテルに到着しちゃったら、今日の捜索はおしまい。
それなら……どうだ?」


いい案だな、と私は思った。
それなら私の考えと唯の想い、両方を尊重出来る。
こんな状態で澪は冷静だよな……。
冷静な判断が出来てる。
いや……、違うか。
澪の肩は私達と同じく少し震えてるみたいだった。
震えてるけど、怖いけど、勇気を出してるんだ。
大体、五人で取り残される前から、澪はずっと怯えて追い込まれてたんだ。
自宅の部屋にしばらく閉じこもるくらい、逃げ回ってたんだ。
逃げ回って、追い込まれてたからこそ、今一番強く振る舞えてるんだろう。
すぐに追い込まれるけど、追い込まれてからが強い。
それが澪の強さで魅力なんだろうな……。

私の方は……、駄目だな……。
普段強がってても、逆境やアクシデントにはてんで弱い。
予想外の事が起こっちゃうと、全然動きだせなくなっちゃうんだよな……。
何やってんだよ、いざという時に役に立たない部長の私……。


「私は……、それでいいと思うよ……。
りっちゃんも……、それでいい……?」


唯が不安そうな視線を私に向けて訊ねる。
自分が我儘を言ってたのを自覚してただけに、
その我儘が少しでも通りそうになった事が逆に不安に思えて来たんだろう。
だけど、我儘を言ってるのは私も同じだった。
二人とも、大切な物が別々だっただけなんだ。
唯は過去を選択して。
私は未来を選択して。
澪が現在を選択してくれて。
多分、そういう事なんだ……。
私は申し訳ない気分になりながら、どうにか絞り出すように言った。


「ああ……、それくらいなら……、私もいいと思う……。
私だって……、憂ちゃん達の事は気にな……」


それ以上は言えなかった。
憂ちゃん達の事が気になってるのは本当だ。
絶対に嘘じゃない。
でも、憂ちゃん達より、残された皆を選んだのも本当で……。
憂ちゃんと純ちゃんと和を切り捨てたのも本当で……。
そんな私が憂ちゃん達を気に掛けてるなんて、言っちゃいけないと思ったんだ。


「ムギも……、それでいいか……?」


澪が涙の止まらないムギに訊ねる。
ムギは涙こそ止まらなかったけど、澪の言葉に頷いた。
ムギだってこのままじゃいけないんだって事は分かってるんだろう。
ただどうしたらいいのか分からないだけで。


「じゃあ……、早速行こう、皆。
場所が関係してるのかは分からないけど、
ずっとここに居るのは、また何処かに飛ばされちゃいそうでちょっと不安だしな……」


澪が表情を歪めながら呟く。
確かにそうだ。
飛ばされるかどうはともかく、忌まわしい出来事が起こった場所には違いない。
今の所は出来る限り早く離れたい気分が私にもある。
339 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:04:18.01 ID:CZrAexFF0
不意に梓が何故か明るい声を出した。


「それなら先輩方、私、一ついい事を思い付いたんですけど……」


「な、何だよ……」


場違いな梓の明るい声に気圧されながら、私は絞り出すみたいに訊ねてみる。
すると、急に梓が私の左手を握ってから、続けた。


「皆さん、手を繋ぎませんか?」


「どうしてだ?」


「もう……、律先輩は分かってませんね。
転移……、あ、今は私達がロンドンに来てしまった現象をそう呼びますけど、
また転移が起こった時にも皆で手を繋いでおけば、大丈夫じゃないかって思うんです。
少なくとも、私達がまたバラバラに何処かに転移させられる事は無いって思うんですよ」


「……わけが分からないんだが」


「よく考えて下さいよ、もーっ!
あの転移が人間の身体だけに作用する現象なら、
今の私達は真っ裸でロンドンに飛ばされる事になってたはずだと思いませんか?
でも、私達は今真っ裸じゃありません。
と、いう事はですね……」


そこまで言われてやっと気付いた。
ゲームやってる時とかによく思う事だ。
人体に作用する転移装置なのに、何で服とか持ち物も一緒に移動してるんだよ、ってやつだな。
そういう時の辻褄合わせは、大人の事情以外では、
その人が触れてる物も一緒に移動出来るんだっていう設定がお約束だよな。
んな馬鹿な、と思わなくもないけど、今の私達の状況がまさしくそれだった。
だったら、その真偽はともかく、梓の言う事にも一理あるのかもしれない。


「なるほどな……。
身体に触れてる物も一緒に飛ばされちゃうって事か。
だったら、皆で手を繋いでおけば安心だよな……。
おっし……、皆で手を繋ごうぜ!」


皆に分かりやすく説明してから、私は歩いてムギの左手を握った。
梓の案に納得したわけじゃない。
気休めみたいなものだった。
だけど、気休めでも何でも、今は縋りたかった。
少なくとも梓はその案を信じてるみたいだし、梓の気が楽になるんなら、それもいいはずだ。
340 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:09:48.80 ID:CZrAexFF0
五人で手を繋ぎ、とりあえず私達は歩き始める。
ゆっくりと時間を掛けて、憂ちゃん達を探しながらホテルに向かった。
分かっていた事だけど、道中、憂ちゃん達の姿は全く見つからなかった。
それどころか誰の姿も、生き物の姿も見当たらない。
やっぱりこのロンドンに居るのは私達五人だけなんだろう。
名残惜しい表情を浮かべながらも、唯もとりあえずはホテルで休む事に納得してくれた。

これから……、私達は一体どうなるんだろう……?
皆と手を離し、皆で同室のベッドに五人で横たわりながら私は考える。
今日は休むとして、明日からはどうしたらいいんだろう。
憂ちゃん達の姿を探すべきなんだろうか。
それとも、日本に帰る手段を探すべきなのか。
いやいや、むしろロンドンでの永住を決心するべきか……?
分からない……。
考える事が多過ぎて答えがまとまらなかった。

と。


「……痛?」


ベッドに横たわって少し落ち着けたせいか、私は急に左手に痛みを感じた。
誰にも気付かれないように左手を広げて視線を向けてみる。
何だ、これ? と思った。
いつの間にか私の左手は何かに圧迫されたみたいに真っ赤になっていた。
どうしてこんな事に……?
あっ、そうか。
また澪が怯えて私の手を強く握ったんだな……。
あいつ、昔、肝試しした時に痛いくらい私の手を握ってたしなあ……。
……って、違う。
さっきまで私は澪と手を繋いでない。
私が手を繋いだのはムギと梓で、私の左手を握ってたのは確か……。
341 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:10:14.19 ID:CZrAexFF0





「どう? 食べられそう?」


私の後ろで冷蔵庫の中を覗き込みながら、ムギが私に訊ねた。
私は頭を軽く掻いて、冷蔵庫の中に入っていた野菜を一つ手に取りながら答える。


「普段、賞味期限の表示に頼っちゃってるからなあ……。
正直、判断は難しいんだけど、この野菜を見る限り……」


「見る限り?」


「食べられそうだよ。
いや、違うか……。
余裕で食べられる鮮度だ。新鮮その物って感じだな」


「そうなんだ……」


喜んでいい事なのか微妙そうにムギが呟く。
私だって微妙な気分だった。
そりゃ食糧に困らなさそうなのは助かる。
でも、この現象は何だろうなって思う。
電源の入ってない冷蔵庫に入ってたとは言え、
夏場に一ヶ月近く放置していた野菜がこんなに瑞々しく新鮮に残るもんか?
いやいや、燻製や缶詰じゃあるまいし、そんな事があるもんか。

大体、季節自体がおかしい気がする。
昨日、ホテルに向かいながら感じてた事だけど、妙に肌寒いんだよな。
少なくとも、夏場の服装で耐えられる気温じゃなかった。
それどころじゃなかったから昨日はそこまでは気にならなかったけど、
少し落ち着いて考えてみると、やっぱりかなり寒い気がする。
ロンドンは日本より北の方だからって考える事も出来るけど、それにしても秋口にしては寒過ぎる。
少なくとも九月中頃の気温じゃないと思う。

だから、何となく、思う。
このロンドンは誰かの思い出の中のロンドンなんじゃないかって。
このロンドンに転移(梓の言葉を借りてみるけど)する前から、
澪も和も疑ってた事だけど、やっぱりこの世界は誰かの記憶の中の世界なんだろうな。
唯の机の中に私からの手紙が入ってた事もその証拠になるだろうし、
考えてみりゃ和のタイムカプセルが見つからなかった事と、
あの公園の樹が影も形も存在してなかったって事からも余計に疑惑が深まる。
まるで誰かの思い出みたいな、中途半端に再現された世界だよな……。

そして……、多分だけど、
それはロンドンに転移した私達五人の中の誰かの思い出なんだろう。
色んな事を勘違いしてた私だけど、これだけは間違ってないと思う。
そもそもロンドンに来た事があるのは私達五人だけなんだしな。
妙に肌寒いのも、冬のロンドンにしか来た事が無いからかもしれない。
もしかすると。和達がロンドンに転移されなかったのも、
あの三人がロンドンに来た事が無かったからかもしれない。
勿論、完全な推測なんだけど、少なくとも私はそう思ってる。

私達の思い出……、私達の夢か……。
少なくとも私の夢じゃない……って思いたい所だけど、自信は無い。
大学生になってから、私はらしくなく色んな事を考えるようになってた。
これから本気で音楽の道を進むのか、
進むにしてもこの四人でデビューを目指していいのか、
私から始めた軽音部の活動をこれからも皆に押し付けていいものなのか……。
それに、また梓を含めた五人で演奏したい。
でも、部長として頑張る梓の邪魔はしたくない。
昔を思い出すなんて私らしくないって思いながら、
それでも楽しかった高校生活に思いを馳せる事が多くなってて……。
この世界がそんな私の逃避が生み出した世界だって誰かに言われてしまったら、正直な話、否定は出来ない。
342 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:10:49.44 ID:CZrAexFF0
それは私に限った話じゃない。
澪だって、ムギだって、唯だって、大学生になってから色んな事を考えるようになってた。
本気で自分達の未来について目を向け始めた。
そんな感じになるまで、私は知らなかったんだよな。
未来に目を向けるって事は、過去にも目を向けなきゃいけないって事だったんだって。
そうして、皆、高校生の頃の事を思い出す事が多くなってたんだと思う。

梓……はどうだろう?
この約一ヶ月、梓と一緒に居て分かったんだけど、
梓も私達と部活をやってた時の事をかなり懐かしく思ってくれてるみたいだった。
妙に私に駄目出しや突っ込みが多かった気もするけど、それも昔が懐かしかったからじゃないかな。
本当はもっと私達に甘えたい。
でも、新部長として、甘えるわけにはいかない。
そんな矛盾した気持ちが梓を妙に厳しく振る舞わせてたのかもな。

となると、この世界は私達五人の中の誰の思い出の世界でもおかしくないよな。
誰の世界でもおかしくない……んだけど、でも、ちょっと待てよ?
この世界が出来たきっかけは何なんだ?
昔を思い出すくらい、誰だってやる事だ。
それこそ私達なんかよりずっと昔の事ばかり考えて生きる人だって沢山居るはずだ。
なのに、この閉ざされた世界に迷い込んだのは私達だけだってのは、いくら何でも変だ。
そこまで過去を懐かしんでた覚えは無いぞ。
つまり、何かのきっかけで、この世界が生み出されたはずなんだ。
こんな世界を作り上げちゃうくらい、衝撃的なきっかけがあったはずなんだよ。

つっても、なあ……。
きっかけらしい事なんかあったか?
始まりからして、あの夏休みの日に強い風に吹かれたって始まりだしなあ。
それにしても、あの強風はびっくりしたよな。
そうそう。
さわちゃんとあの子も眼鏡を落としそうになってたし、ムギも菫ちゃんを支えてあげてて……。

……?
あの子って誰だ?
眼鏡掛けたあの子……、軽音部なのにパソコン担当のあの子……。
私はどうしてその子の事を思い出した?
そもそもあの風が吹いた時、さわちゃんは部室で待ってたはずじゃ……?
何だ……?
記憶が曖昧だ。思い出がはっきりしない。
何かが違ってるって私の中の何かが叫んでる。
何が違ってるのかは分からない。
でも、きっと何かが違ってて、それは多分、この世界にも関係する事で……。
343 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:15:28.45 ID:CZrAexFF0
「りっちゃん!」


不意にムギに肩を叩かれ、思考が現実に戻る。
途端、考えていたはずの重要な何かは、何処かに飛んで行ってしまった。
いや、重要な事だったのかもしれないけど、今はそれよりも大切な事がある。
今はムギと一緒に二人でホテルの中を探索する時なんだ。
私は深呼吸してから、冷蔵庫を閉めて立ち上がて微笑んでみせる。


「ごめんごめん、何かぼーっとしてたよ。
それにしても、どうしたんだ、ムギ?
何かあったのか?」


私が笑顔で訊ねると、ムギが心配そうな表情で首を横に振った。


「ううん、何かあったってわけじゃないんだけど……。
でも、りっちゃん……、今ね、恐い顔してたよ?」


「恐い顔……?」


「うん。とっても恐い顔……」


また不安な表情でムギが言う。
ムギがそう言うんなら、きっとそうなんだろう。
私は軽く自分の頬を叩いてから、もう一度ムギに笑い掛けた。


「ごめんな、ムギ。
ちょっと気になっちゃった事があってさ、それで考え込んじゃっただけなんだよ。
心配掛けてごめんな……。
でも、私は大丈夫だぞ?
きっとムギが見たのは私の恐い顔じゃなくて、珍しい凛々しい顔だったんだよ。
……って、珍しいって言うなー!」


私が冗談交じりに言ってみせると、ムギは軽く笑ってくれた。
何はともあれ、笑ってくれた。
そりゃ曖昧な記憶の正体や、この世界の成り立ちも大事かもしれない。
でも、今はムギと一緒に居るんだ。
そっちの方が大切な事なんだ。
ムギを笑顔にさせてやる事こそが、今の私の最優先事項なんだから。

昨日、ロンドンに転移させられた直後、ムギは泣いていた。
泣きながら、叫んで、震えていた。
最後の学祭以来、初めて見せる……ってわけじゃないけど、久し振りのムギの涙。
唯や澪、私と違って、ムギが涙を見せる事はほとんど無い。
辛い時でもじっと耐えて、いつもニコニコしてくれるのがムギって奴なんだ。
ムギがニコニコしてくれるから、私は安心して泣く事が出来た。
だから……、ムギの涙を見るのは、自分が泣く事より辛かった。
何倍も胸が痛かった。
ムギを笑顔にさせたい。
笑わせてあげたい。
今も笑ってくれてはいるけど、心からの笑顔じゃないって事は分かる。
だから、心からの笑顔をムギに取り戻させてあげたいんだ……。
344 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:23:44.68 ID:CZrAexFF0
「じゃあ、他の階の倉庫も調べてみようぜ?」


出来る限りの笑顔を向けて、私は手に持ったロープを軽く引っ張った。
そのロープの端を握り締めながら、「うん」とムギが少しだけ笑う。
今私達がロープを持ってるのは、澪の案だ。
突然一陣の風が吹いたとしても、
ロープを持ってる人間は同じ場所に転移されるはずだって澪は言ってた。
昨日、梓が言った、自分の触れてる物は一緒に転移するはず、って説を採用したわけだ。

ロープで握り合ってる程度で本当に大丈夫なのかは分からない。
こんなの単なる気休めでしかない。
皆、そんなの分かってると思う。
だけど、気休めでも、縋れる物には縋っておきたいし、
四六時中手を繋ぎ合ってるわけにもいかないから、これが一番いい案のはずだった。

ちなみに今、澪は唯と梓と一緒にロンドンの街を探索してる。
唯が憂ちゃん達の事が気になって仕方が無いみたいだったから、その力になりたいんだ、って澪は言ってた。
私も一緒に行きたいって言ったんだけど、それは澪に断られた。
誰かが残っておいてくれた方が安心出来るって、前に私が澪達に言った言葉をそのまま返された。
そう言われて、私は素直に退いた。
澪の言う事は間違ってなかったし、ムギの傍に居たい気持ちもあったからだ。
唯や梓の事が気にならないと言ったら嘘になる。
でも、今は一番涙を見せたムギの傍に居たかった。

にしても、だ。
急に逞しい感じになったよな、澪は……。
和に説得されたからってのもあるんだろうけど、
この前、私と一緒に星座を見た日から、更に頼り甲斐が出て来た気がする。
完全に開き直ってるんだろうって思う。
どうしようもない……、どうにもならない状況……。
だからこそ、まっすぐに立ち向かっていける開き直り……。
凄い奴だな、って思う。
追い込まれてからが強いってのは、澪の凄い所だ。
土壇場に弱い私も、それに嘆かずに、どうにか澪みたいに頑張りたい。


「にしても、さ。
こんな形でまたロンドンに来ちゃうなんてなー。
ロンドンにまた来れた事自体は嬉しいんだけどさ……」


何となく、ムギに軽く話を振ってみる。
深刻な様子じゃなくて、あくまで軽い感じに。
まずはお気楽な思い出話から。
過去を思い出しながら、未来の事を考えていけるように。

ムギが複雑な表情でちょっと笑ってから、私の言葉に応じる。


「そうだね……。
私もまた皆でロンドンに来たかったんだけど、いくら何でも早過ぎだよね……。
それに……、次のロンドン旅行こそ、
私のキーボードも一緒に連れて行こうって思ってたのにな……」


「お、それは私に対する嫌味かい、琴吹紬くん。
私だって持って行けるもんなら、マイドラムを持って行きたかったっての。
でも、ギターやキーボードと違って、ドラムはかさばるからなー……」


「ご……、ごめんね、りっちゃん……!
私、そんなつもりじゃなくて……」


「いいよ、分かってるって。
ドラムってのはそういうもんだし、ドラマーになるのを選んだのも私なんだ。
楽器は運びにくくてかさばって演奏も一番疲れるのに、てんで目立たない……。
それがドラマーの辛い所よ……。
でも、好きでやってる事だからさ、その辺は後悔してないよ」
345 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:25:54.45 ID:CZrAexFF0
言って、私はムギの頭を撫でた。
普段、ムギは大人っぽいのに、色んな所で子供っぽい仕種を見せる事がある。
もしかしたら唯よりも天然で、子供っぽい所があるのかもって思うくらいだ。
どうも放っておけない……、そんな気にさせるんだよな、ムギは。
考えてみれば、この閉ざされた世界を一番怖がってるのはムギかもしれない。
最初こそ怖がってたけど、澪はこの世界には慣れて来たみたいだし、
唯も梓も怖がってると言うよりは、次に誰かを失う不安感の方が強いみたいだ。
私も怖いって言うより漠然とした不安があるくらいだしな。

その点、ムギは私が怪我した時の様子から見ても、この世界を一番怖がってると思う。
まあ、ムギの言ってる事は間違ってないけどな。
人は一人では生きていけない。
それは寂しさに耐え切れないからってのもあるけど、
自分一人で出来る事が限られてるからって意味でもある。
例えば前にムギが言ってた事だけど、私達の誰かが破傷風になったとする。
それだけでもう終わりだ。
破傷風の正確な治療が出来る人間なんて、私達五人の中に居るはずもない。
死ぬしかないんだ。ちょっとした重い病気に感染しただけで。
病気だけじゃない。怪我や事故……、下手すりゃ盲腸ですら死ぬ可能性が高いんだ。
ムギはそれを分かってるから、この世界を心の底から怖がってる。
だから、「もうやだ!」って泣き叫んだんだ……。

もう泣かせたくないって、心からそう思う。
私じゃ力不足だと思うけど、出来る限りはムギの不安を取り除いてやりたい。
多分、私に出来る事は、笑顔を見せてあげる事だけだろうけどさ……。
でも、出来る限りの事はやらなきゃな。
私は出来る限りの笑顔で微笑んで、もう一度ムギの頭を撫でた。


「ムギだってキーボードを選んだ事、後悔してないだろ?
私、好きだぞ、ムギのキーボードと作曲。
ムギのおかげで色んな曲が演奏出来たわけだし、私、すっげー感謝してるんだぜ?」


「そう……かな……。
私のキーボード……、皆の役に立ててたかな……。
でも、りっちゃんが喜んでくれてるなら、私も嬉しいな」


「何言ってんだよ、ムギ。
ムギが居なきゃ、誰が作曲するってんだよ。
少なくとも私と唯には無理だぞ?
澪と梓は出来るかもしれないけど、
多分、洋楽かぶれなテクニック重視の曲になりそうだしな。
テクニック系の曲が悪いわけじゃないけど、私はムギの曲が好きだな。
あ、澪の歌詞はまだ苦手だけどさ。これは澪には内緒な。
あの甘々の歌詞、未だに背中が痒くなるんだよなー。
ここだけの話、梓も結構背中が痒くなってるみたいだぞ?」


「そうなんだ。
りっちゃんがそう言ってくれるの、すっごく嬉しい。
ありがとう、りっちゃん……」


「へへっ、よせやい。
感謝してるのは私の方なんだからさ」


そうして、二人で笑う。
怖がりながら、不安に塗れながら、それでも向け合えられた笑顔。
こうして少しずつ笑い合えれば、この閉ざされた世界でも生きていけるはずだ。
残された五人で、生きていける。
そう思ってた。
……そう思おうとしてた。
346 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:33:10.57 ID:CZrAexFF0
だけど、やっぱり無理があったのかもしれない。
それから、ムギの笑顔はすぐに消えた。
ムギが悪いわけじゃない。
私だ。
私の選択が悪かったんだ。
私の選んでしまった選択肢が、皆に不安を与えちゃったんだろう。
ムギは不安に満ち溢れた表情で、呟くみたいに言った。


「ねえ、りっちゃん……。
りっちゃんは最近、梓ちゃんと特に仲良しだよね……?」


最初、ムギが何を言い出したのか分からなかった。
私は頭を掻きながら、軽く頷いて応じる。


「そうか……?
んー……、まあ、そうかもな……。
ムギ達を置いて、新しいユニットなんか組んじゃったわけだしな……。
それについてはごめんな、ムギ。
ムギ達に相談無しに勝手な事やっちゃってさ……」


「ううん、それはいいの。
梓ちゃん達、嬉しそうだったし、私もりっちゃんと同じ気持ちだもん。
梓ちゃんの事、大切にしたいもんね……。
でも……、でもね……。
りっちゃん、梓ちゃんと仲良しなのに、今日は一緒じゃなくてよかったの?
一緒に居るのが、私で……、よかったの……?
もし……、もしね……、もしもまた風が吹いたら……」


あっ、と思った。
そこまで言われて、ムギの言おうとしてる事が鈍い私にもやっと分かった。
ムギは……。
そう……、ムギは……、自分でいいのかって、不安になってるんだ。
私の傍に居る資格が自分にあるのかって、不安になっちゃってるんだ。
ああ、ムギの何を分かった気で居たんだ、私は……。
347 :にゃんこ [saga]:2012/04/20(金) 18:34:16.01 ID:CZrAexFF0


今回はここまでです。
あ、すみません。
序盤と言っても、内容は今半分くらい進んだ感じです。
またよろしくお願いします。
348 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/04/21(土) 04:44:39.20 ID:OACXBar9o
お疲れ様です
前のssよりなんだか随分読みやすくなったきがしますね
上から目線みたいに見えたらごめんなさい。一感想としてです
これからも楽しませてもらいます
349 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:28:57.65 ID:sybMAEU90
私はムギと一緒に居たかった。
その気持ちに嘘は無い。
またあの一陣の風が吹いたら……。
そう思うと吐き気がするほど不安になるけど、ムギが傍に居てくれるなら耐えられると思う。
言うまでもなく、私はムギの事が大好きなんだ。
この世界にたった五人で残されちゃって、ムギを大切にしたいって気持ちは更に強くなって来た。
だから、ムギと二人で皆を待つ気にもなれた。
私が怪我をした時、あんなに私を心配してくれたムギだから……。
そんなムギだから、信じられたんだ……。

でも、私自身はムギにそこまで信じられてなかったのかもしれない。
信じさせてあげる事が出来なかったのかもしれない。
それは突飛な思い付きってわけじゃなくて、ずっと前から考えてた事でもあった。
ひょっとしたらムギは寂しがってるんじゃないかって。
私達五人の中で、不安に思ってるんじゃないかって。

ムギは控えめな性格の子だ。
初対面の時より積極的になっては来たけど、まだまだ遠慮しがちな事も結構ある。
一対一で話してる時でもそうなんだ。
軽音部五人が揃った時なんて、ムギは裏方に回って聞き上手に徹してくれてばかりだ。
奇数のグループは難しいって話を聞いた事があるけど、本当にそうなのかもしれない。
一人だけ余っちゃう事が多い、そんな寂しさを胸に抱いてたのかもしれない。
でも、ムギは裏方が好きなはずだ。
私達の給仕をしてくれた時のあの笑顔に嘘は無かったはずだ。
そう……思いたい。

だけど、裏方が好きだからって、
それに甘えてちゃいけなかったって今更になって思う。
ムギとはもっともっと話をすればよかったんだ。
二人きりの時でも、本音で話し合えばよかったんだ。
嘘を吐いてたわけじゃない。
ムギと一緒に居るのは楽しかったし、その時の私の笑顔にも嘘は無かったはずだ。

ただ……、ただ少し……、他の三人よりも気を遣って付き合ってた気はする。
勿論、ムギの事が苦手だったわけじゃないけど、
お嬢様っぽい性格の友達なんてほとんど居なかったから、手探りな感覚で付き合ってたのは確かだ。
唯、澪、梓はスキンシップ的な意味で何度か叩いた事はある。
特に梓相手の攻撃は最近かなり増えて来た気がする。
それはあいつの生意気さがどんどん増して来たからであって、他意は無い。
でも……、ムギの事を叩いた事は、憶えてる限り全然無かった。
一度か……、二度……、多分、そのくらい。
だから、ムギは去年くらい、私に言ったのかもしれない。
「私のこと、叩いてほしいのっ!」って……。
多分、他の皆と同じ様に扱ってほしくて……。
350 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:29:36.10 ID:sybMAEU90
その時、私はすぐにムギを叩けなかった。
どう反応すりゃいいのか分かりにくい事を言われたから叩けたけど、それがなかったら叩けなかったと思う。
そういや……、「叩けない」って私が言った時のムギの表情は凄く寂しそうだったな……。
本当に今になって気付く。
ムギは……、寂しがってたんだ……。
多分、ムギ本人も深く自覚出来てないくらい、心の奥の方で……。

奇数のグループは難しい。
唯は梓と、私は澪と一緒に居る事が多かったから、
一人だけ残ってたムギの寂しさはどれくらいのものだったんだろう。
それは分からない。
寂しがる側の気持ちなんて、寂しくなかった側の人間が想像出来る事じゃない。
想像していい事じゃないって思う。
そんなの、逆に残酷じゃないか……。
だからこそ、私に出来る事はムギのその寂しさを振り払ってあげる事だけだと思う。

私は視線を落として不安そうにするムギの肩に手を伸ばしながら、口を開く。


「何を言ってるんだよ、ムギ。
最近一緒に居る時間が多かったってだけで、私は特別に梓と仲が良いってわけじゃないよ。
またあの風が吹くってのは考えたくない事だけどさ、
でもな……、私は一緒に居るのがムギでよかったって……」


思うよ、とは言えなかった。
口に出しながら、自分の言葉の嘘っぽさに嫌気が差したからだ。
言葉自体に嘘は無い。間違いなく、今の私の本心だ。
私はムギが傍に居てくれて、嬉しいんだ。
安心出来てるんだ。

だけど、思った。
そう思ってるのが本当でも、私のその言葉には説得力が無いって。
自分で……、そう自覚出来るんだ……。
今の私が何を言ったって、ムギの心には届けられない気がする。
いや、違うか……。
ムギは優しい子だから、私の気持ちを尊重してくれるかもしれない。
でも、それをやっちゃ駄目なんだ。
私の中のもう一人の私が、私自身を信じちゃいけないって忠告してる。

ムギを安心させるだって?
見捨てたくせに?
仲間の事を切り捨てたくせに?

頭の中で反響するみたいにそんな言葉が何度も響く。
その言葉手だけが頭の中にこびりついて離れない。
吐き気がするくらいだ。
思い出すのは、昨日の風で離れ離れになってしまった仲間達の顔だ。

こんな世界でも、真面目に私達の事を引っ張ってくれた和……。
思ってたよりも優しくて強くて甘えん坊だった憂ちゃん……。
無邪気さと明るい笑顔で私達に元気を分けてくれた純ちゃん……。
大切なバンドのメンバーだった。
掛け替えのない仲間達だった。
三人の事を思い出すと、胸が張り裂けて引き裂かれそうな気持ちになる。
泣き出してしまいそうになってくる。
大声で泣き叫びたい。

でも、同時にまた頭の中で反響が始まる。
絶対に私を逃がさないって言わんばかりに、響き続ける。
『見捨てたくせに?』、『仲間の事を切り捨てたくせに?』って、
私を雁字搦めに縛り付けるみたいに……。
351 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:30:04.94 ID:sybMAEU90
反響が続く度に私は私自身の事すらも信じられなくなって来た。
私は……、ムギと一緒で本当に安心してるんだろうか?
いやいや、私が安心してるのは確かだ。
ムギと一緒だと心が落ち着くんだ。
でも、その安心はムギと一緒だから感じられてる安心なのか?
それとも、あの視線を感じなくて済むから安心してるだけなのか?
辛そうな表情で私を見つめる唯の視線を感じずに居られるから、
唯と一緒に居なくて済むから、それで安心出来てるだけなのか?
多分、私を非難なんてしないだろうムギだから、責任逃れでほっとしちゃってるだけなのか?

もう……、分からない……。
自分で自分の事が何も分からなくなってた。
ただ頭の中で反響だけが続く。
そうだ。
私は、
見捨てたんだ。
残された皆を優先して、過去を切り捨てたんだ。
私はそういう人間なんだ……。

ムギの肩に置こうとした手は宙を彷徨って、結局何処に置く事も出来なかった。
どうにかムギと持っているロープだけは離さないように強く強く握ったけど……、
それはムギと一緒に居たいからだったのか、
単に一人ぼっちになりたくないからだったのか……。

それはもう、

分からなかった。
352 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:31:26.83 ID:sybMAEU90





結局、ムギとはそれから一言か二言しか喋る事が出来なかった。
ロープだけ握って、少しだけ懐かしいホテルの中を二人で調べる。
当たり前って言うのも嫌になるけど、ホテルの中には猫の子一匹居なかった。
まあ、その辺は諦めてた事だけど、他の所を調べてちょっとだけ分かった事がある。

分かった事の一つ目は、壁に掛かってたカレンダーが二月だったって事だ。
日本とは時差があるって言ったって、半年近くもの時差があるわけがない。
人が消えた瞬間……と言うより、この世界の時間設定は二月だって事なんだろう。
道理で少しだけ肌寒かったわけだ。
でも、夏服で過ごせないほど肌寒いってわけでもないんだよな。
どういう事なのかは分からないけど、
意外とこの世界の夢を見てる人間が寒いのが苦手ってだけなのかもしれない。
寒いのが苦手、で思い出すのは唯だけど、それだけで決めつけちゃっても仕方が無い。
大体、私だって寒いのは苦手だしな。

分かった事の二つ目は、食べ物が全然腐ってなかったって事だ。
それはつまり、この世界で流れてる時間が現実とは全然違ってるって事だろうな。
少なくとも私達は一ヶ月近くこの閉ざされた世界で過ごしてる。
それでも食べ物が腐ってないって事は、
やっぱりこの世界が私達の中の誰かが見てる夢か何かだって証明になりそうだ。
つい最近、新しい夢として作られた世界なんだろう、多分。
だから、季節もおかしいし、食べ物も新鮮な状態で保たれてる。
それがいい事なのか悪い事なのかは分からないけどさ。

そこでちょっとだけ私は考える。
ひょっとすると……、ロンドンに和達が来れなかったのは、
今まで和達がロンドンに来た事が無かったからかもしれない。
三人がロンドンの事をよく知らないからかもしれない。
勿論、深い確信があったわけじゃない。
単に何となくそう思っただけだったけど、何故かそれは間違ってない気がした。
それ以外に私達と和達の違いが見当たらないしな。
卒業旅行でロンドンに行った側と行ってない側……、私達の差は多分そこだ。

和達は今どうなってるんだろうか……。
もう二度と会えないとしても、せめて無事に元気で居てほしい。
私が考えちゃいけない事だろうし、虫の良過ぎる考えだとも思う。
だけど、せめて祈りたかった。
ライブをする事は出来なかったけど、同じバンドのメンバーだったんだから……。
353 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:31:58.79 ID:sybMAEU90
昼過ぎ。
太陽が南中してしばらくしたくらいに、澪達はホテルに戻って来た。
澪、梓、唯、三人とも大きな荷物を抱えて、少しだけ疲れた顔をしていた。
いい発見は無かったみたいだけど、どうやらあの一陣の風は吹かなかったらしい。
それだけで嬉しいし、胸を撫で下ろす気分だったけど、唯の顔を真正面から見る事は出来なかった。
増してや声を掛ける事なんて出来るはずもない。
私の事を一番不信に思ってるのはきっと唯だろう。
あれだけ泣いてたし、一番をいっぱい持てる唯には、私の考えを理解出来ないだろうって思う。
理解してくれなくていい。
いや、投げやりな考えってわけじゃない。
唯は弱気に逃げる私の考えなんて、理解しなくていいんだって意味だ。

唯は強い意志を持った奴だ。
憂ちゃん達を捜すと思ったら、きっと四六時中三人の事を捜し続けるだろう。
大切な妹達のために全力を尽くすだろう。
ひょっとすると、その結果、いつかは憂ちゃん達を見つけ出す事が出来るかもしれない。
でも、それはきっと遠い遠い未来の話だ。
少なくとも二、三日で終わる話じゃない。
一ヶ月先か、半年先か、一年先か、それとももっと……。
その間、唯はきっとボロボロになりながら、傷付き続ける。
それを見たくはなかった。
そもそもこの世界に憂ちゃん達が居るって確証もないのに、唯を傷付けたくなかったんだ。
だから、私は憂ちゃん達を見捨てたんだ……。

罪悪感と無力感が全身を支配していく気がした。
だけど、後悔はしなかった。
しちゃいけないんだ。私は選んだんだから。
過去じゃなくて、未来に進む事を選んだんだから……。

私は唯と視線を合わせないようにしながら、ホテルの食堂に昼食を用意した。
準備って言っても、火が使えないんだから大した物が作れたわけじゃない。
見つけた缶詰をいくつかと生野菜のサラダに焼いてない食パンって所だ。
かなり貧相だけど、調理道具が全然揃ってないからにはどうしようもない。
昼からは私も調理道具とかを探しに外に出ようと思う。
やっぱり誰かを待ってるのは性に合わない。
この世界で未来に進む事を選んだ以上、私はこの世界で生きてく準備をするべきなんだ。

澪達が持ち帰った大きな荷物の中には、主に着替えが多く入っていた。
まあ、そりゃそうか。
洗濯機も使えないんだもんな。着替えが多いに越した事は無い。
イギリスのセンスだから、私のセンスとはあんまり合わない服も多かったけど、贅沢は言ってられないよな。
つーか、この服、絶対子供用が沢山混じってんだろ……。
まあ、イギリス人はでかいからなあ……。
おっと、昼から探す物の中にカチューシャも含めとかないとな。
当たり前だけど、私の持ってるカチューシャは今着けてるこれだけだ。
いくら何でもカチューシャ一つで毎日過ごせるほどには、私も図太くない。
354 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:32:23.51 ID:sybMAEU90
昼からの予定を考えていると、不意に視線を感じた。
澪の視線かと思ったけど、そうじゃなかった。
澪は静かに昼食を食べるムギを心配そうに見守っていた。
視線の持ち主は梓だった。
梓は唯と昼食の話をしながら、私の方に何度も視線を向けていた。
話をしながら器用な奴だな、って思ったけど、
そんな事より梓は何で私の方に視線を向けるんだろう。
私に何か話したい事があるのか?

そういえば……、梓は私の判断についてどう思ってるんだろう。
梓は同級生の親友を二人も失ってしまったんだ。
私だって辛かったけど、梓の方は私なんかより何倍も辛かったはずだ。
私が責められても、仕方ない事だって思う。
でも、梓は私を責めようとはしなかった。
想像以上に冷静な態度で、皆で手を繋いで歩くって提案もしてくれた。
今だって軽く微笑んで唯と話をしてる。
私達に気を遣ってくれてる。

それは安心出来る事だったけど、少し不安にも感じた。
梓は何を考えてるんだろう。
無理してるんじゃないだろうか。
無理してないわけがない。
私なんて一日目なのにもう無理のし過ぎで吐き気がしそうなくらいだ。
まあ、私が打たれ弱いからってのもあるかもしれないけど、
それでも、梓は特に自分一人で溜め込んじゃうタイプだから、無理してるなら話くらい聞いてやりたい。
多分だけど、残った四人の中で梓が一番弱音を吐きやすいのは私のはずだ。
唯には強がるだろうし、澪とムギには心配掛けたくないって考えてるだろうしな。

憂ちゃん達三人を見捨てた私に、
そんな事をする資格があるんだろうかって思わなくもない。
それならそれで梓に責めてもらって構わない。
とにかく、話をしない事には何も始まらないはずだ。
その……はずだ……。
思いながら、私は自分の中の浅ましさに気付く。
ひょっとすると……、私は梓に自分の選択が正しかったのかどうか判断してほしいんだろうか。
そうだな……、判断してもらいたいのかもしれない。
正しかったにしても間違ってたにしても、何かを言ってほしいのかもしれない。
どっちの言葉が欲しいのかは、私自身にも分からないけど……。
ただ、誰かに裁いてほしい……、その気持ちがあるのだけはあるのは確かだった。
355 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:32:49.91 ID:sybMAEU90





「ほらほら、律先輩、早くこっちに来て下さいよー!」


はしゃいだ様子で梓がロンドンの街を駆ける。
ツインテールを揺らして、独特の街並みを走る梓の姿には妙な爽やかさがあった。
元気なのはいいんだけど、これは予想外だった。
梓の奴、一体、何をはしゃいでるってんだ……?


「ちょっと待てよ、梓ー。
そんなに急いで行く必要も無いだろー?」


置いてかれないように、小走りで梓を追い掛けながら言う。
ロープだけはしっかり握り合ってるけど、
あんまり速く走られるとロープが手から離れちゃう危険性がないわけじゃないしな。

昼食を食べ終わった後、私と梓は二人で外回りに出ていた。
唯は少し疲れたという事で留守番する事になった。
きっと澪と梓の何倍も力を入れて街を探索していたんだろう。
体力的にはともかく、精神的には相当に疲弊してしまってるみたいだった。
それで唯の傍には澪とムギが付き添う事になった。
大丈夫だと思うけど、万が一って事が無いわけじゃない。
いざという時のためにも二人は付き添ってた方がいいだろうって話になった。
それで私と梓が二人で街を回る事になったわけだ。

狙わなくても梓と話をするチャンスが出来たのは助かったけど、流石にこれは面食らう。
てっきり唯の話ばかりになるはずだって思ってた。
大した事はなさそうだけど、かなり疲れてるみたいだしな。
唯と特に仲が良い梓なら、唯の事が心配で仕方が無いはずだって思ってたんだけど……。
でも、今の梓からはそんな様子は見受けられなかった。
それどころか滅多に見せないはしゃいだ様子まで見せてる。
もしかして、午前中に唯と何か特別な話でもしたんだろうか。
梓をこんなにはしゃがせるくらいの話を……。

凄く気になるけど、それを直接梓に聞くわけにもいかなかった。
そういうのはやっちゃいけない事なんだ。
何はともあれ、梓が元気なのに越した事は無い。
勿論、無理して明るく振る舞ってる可能性もある。
その辺は少しずつ話をする事で判断していく事にしよう。

また少しだけ梓と軽く走る。
ちょっとだけ疲れ始めた頃、
辿り着いたのは卒業旅行の時に乗ったあの大きな観覧車が見える場所だった。
やっぱりそうか、って思った。
ホテルの近くで観覧車がよく見えたのはこの辺りだったって事は何となく憶えてる。

梓が足を止め、観覧車を見上げるみたいに首を上に向けた。
梓のすぐ隣まで走り寄ってから、梓に倣って私も少し遠くにある観覧車に視線を向けた。
まだ一年も経ってないはずなのに、既に懐かしい。
残念ながら、当然だけど観覧車は回ってなかった。
そりゃそうだ。電気が通ってないんだから。
でも、懐かしかった。
ロンドンなんて、もう二度と来る事も無かったかもしれなかったわけだしな……。
356 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:33:25.22 ID:sybMAEU90
「ねえ、律先輩……」


「ん」


観覧車を見上げたまま梓が呟き始め、私も梓に視線を向けずに小さく反応した。
不意に風が吹いた。
強い風じゃない。
柔らかな少し冷たい風だ。
何となく左手で少し強くロープを握り締めた瞬間、
急にロープを強く引っ張られ、私は体勢を少し崩してしまう。
でも、すぐに私の身体は支えられた。
私の腕に手を回して支えてくれたのは梓だった。
私の体勢を崩したのも梓だったわけだが……。
まあ、いいか。
ロープを握り合うよりは、お互いの体温を感じ合ってた方が安心出来るよな……。

風の事については二人とも触れなかった。
身体を寄せ合ってる事についても触れなかった。
その代わり、梓が私に言い掛けた言葉を静かに続けた。


「こう言うのも変だと思うんですけど……、
こんな形でも、またロンドンに来れて、私、ちょっと嬉しいんです……。
こんな時に不謹慎だって、分かってるんですけど……」


不謹慎だ。
確かに不謹慎だけど、でも、そう思う梓の気持ちもよく分かった。
ロンドンにまた来れた事自体は、ここが現実じゃなくたって私だって嬉しいんだ。
だから、私も呟いたんだ。


「ああ……、そうだな……。
おまえとの卒業旅行はまた行く予定だったけどさ、
流石に二年連続ロンドンって事にはならなかっただろうしな。
下手すりゃ一生来る事も無かったかもしれないよな……。
だから、変な話だけど……、私も嬉しいぞ?」


海外旅行に何度も行けるほど、うちは裕福な家庭じゃない。
聡だって居るしな。
でも、裕福とかそういう事じゃなくて、
皆のスケジュール的に難しいだろうなって思う。
皆でまた旅行するにしても、一度行ったロンドンは候補から外してたと思う。
だからこそ……、二度と来れなかったかもしれないロンドンにまた来れたのは、正直嬉しい。

でも、同時に辛くもあった。
私は旅行ってのは何処に行くかじゃなくて、誰と行くかだって思ってる。
来年の梓との卒業旅行には、憂ちゃん、純ちゃん、和も一緒に来てほしかった。
新入部員の菫ちゃんやあと一人の子も……。
それが……、辛い。
357 :にゃんこ [saga]:2012/04/25(水) 18:34:57.24 ID:sybMAEU90


今回はここまでです。

>>348

ご指摘、ありがとうございます。
少しでも読みやすくなってたらこちらも嬉しいです。
まだまだ続きますが、よろしくお願いします。
358 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) :2012/04/26(木) 02:38:31.99 ID:aox6upsA0
乙です。

あぁ、りっちゃん…そんなに自分のこと責めるなよ…

続き物凄く楽しみにお待ちしております。
359 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/04/26(木) 05:32:26.62 ID:7HBdVAXMo
乙乙
360 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:43:10.26 ID:T2Olr24x0
「律先輩……?
大丈夫ですか……?
その……、体調とか……」


梓が私の顔を覗き込んでから、首を傾げて訊ねる。
その梓の表情はとても心配そうで、とても辛そうだった。
いや、多分、辛そうな表情をしてたのは私の方だったんだろう。
だから、梓は心配そうなんだ。
それに気を遣ってくれてる。
私の精神方面じゃなくて、私の体調の方を訊ねるなんて、気を遣い過ぎだろ、梓……。
精神的に辛い時、心の問題に踏み込まれる事ほど、疲れる事は無いもんな。
それを分かってくれてるんだ、梓は。
私はどうにか笑ってみせる。
無理をしてたかもしれないけど、精一杯の笑顔を向けてみせる。


「ああ、心配しなくても、私の体調は万全だぜ?
突然の環境の変化には体調を崩しやすいって言うけどさ、
私もこう見えてかなり頑丈な身体をしてるみたいだから大丈夫っぽいな。
そういや、私って風邪になった事無いしな!」


「もー……、何言ってるんですかー……!
律先輩が二年生の頃、風邪で休んだ事あったじゃないですかー……!」


「あれ? そうだっけ?」


「そうです!」


梓が頬を膨らませて、私の二の腕を軽く抓る。
言われてみればそうだった。
澪と喧嘩したあの頃、確かに私は風邪で休んでた。
私の記憶としては、風邪で寝込んだ時期ってより、
澪と喧嘩した時期ってイメージの方が強かったから、すぐに思い出せなかったんだろうな。
まあ、風になった事無いって言葉は、単なるお約束で言ったようなもんだけどさ。

そういや、前にそんな台詞を言った唯もしっかり風邪になってたしな。
あいつの場合、風邪になった事を憶えてないってのが正しい気がするぞ。
……待てよ?
一回聞いた事がある気がするな。
馬鹿は風邪をひかないんじゃなくて、風邪になっても気付かないんだって話を……。
いやいや!
私は馬鹿じゃない、馬鹿じゃないぞー!
馬鹿なのは唯だけだ!
361 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:43:38.40 ID:T2Olr24x0
そう……、馬鹿なのは唯なんだよな……。
あいつは馬鹿だから、何でもかんでも背負っちゃってる。
大切な物を何個も何個も作っちゃってる。
何かを諦めなきゃいけない時でも、諦めずに立ち向かおうとしちゃってる。
普段面倒な事から逃げ出しがちなくせに、本当に大切な物だけは精一杯守ろうとしてる。
それであんなに涙を流してる。
憂ちゃん達はもう居ないんだって頭では分かってるはずなのに、
それを認めずに必死に過去にしがみついてる。思い出を守ろうと歯を食いしばってる。
馬鹿だよ、あいつは……。
あんなに壊れそうなくらい必死になって……。

でも、そんな唯を否定したくない私が居るのも確かなんだ。
私だって思い出を大切にしたかった。
折角出来た仲間達を切り捨てたくなんかなかった。
だから、胸がこんなにざわざわするんだ。
息苦しくなって、胸が締め付けられそうになっちゃってるんだろう。

気付けば、私は笑顔を消してしまっていた。
笑顔になろうとしても無理だった。
もう……、今はこんな気持ちでは笑えないから……、
私は一番訊きたくて、一番訊きたくなかった事を梓に訊ねる事にした。
もう一度縁起でもいい。
縁起でも何でも、もう一度笑顔になるために。


「なあ、梓……」


「何ですか、律先輩?」


私が梓に視線を向けると、梓は上目遣いに私を見上げていた。
まっすぐな視線で。
私の言葉を全て受け止めようとしてくれてる表情で。
思わず気圧されそうになる。
強い責任感を持った梓の表情に、自分自身の小ささを感じさせられる。
いつから梓はこんなに強い子になったんだろう。
成長した事は感じてた。
私達が卒業した時より、梓はずっと強い子に成長してる。
私達と離れたからなのか、部長としての責任感がそうさせたのか、
そのどっちなのかは分からないし、別にどっちでもいのかもしれない。
梓は……、成長してるんだ……。
362 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:44:16.84 ID:T2Olr24x0
私は一つ深呼吸する。
梓は強くなった。私のおかげではないだろうけど、頼り甲斐のある部長に成長した。
そんな梓なら、きっと私の選択も正しく判断してくれるだろう。
元部長が年下の現部長に頼るなんて情けない気もするけど、
今は素直に梓の成長を喜んで、梓の言葉を聞かせてもらおう。
今の梓になら、私の選んだ道を責められたって構わない。

私は意を決して、口を開く。
自分の選択肢の是非を確かめるために。
でも、その話題に入るより先に、まずはこれだけは訊ねておこうと思う。


「午前中……さ。
唯の様子はどうだった?
無理……はしてるだろうけど、必死になり過ぎてなかったか?
皆のために一生懸命になり過ぎるのはあいつのいい所だけどさ、
でも、ずっとそんな調子じゃ、あっという間に疲れちゃうよ。
ただでさえ、あいつってあんまり丈夫な方じゃないんだし……」


そう。まずは唯の話だ。
私の選択の事より、まずは唯の話が聞いておきたい。
唯は私と逆の選択肢を選んだ。
未来じゃなくて、過去を選んだ。
選んだ道が違うから気まずくて視線も合わせられないけど、気になるんだ。
それも私の選びたかった道だから。
私の切り捨てた道だから。
それを選ぶ事が出来た唯の今を深く知っておきたかった。

私の言葉を聞くと、梓はまっすぐな視線を崩さなかったけど、何故だか口元だけ嬉しそうに歪めた。
微笑んでるのか……?
何で……?
私、変な事言ったか……?

そうやって戸惑う私の姿が面白かったのかどうかは分かんないけど、
梓は左手で私の右腕を掴んで自分の身体と私の身体を向かい合わせにして、また上目遣いになった。
いや、面白くて笑ってるって感じじゃないか。
嬉しくて微笑んでる感じか?
それはそれとして。
こんなに近い距離で向かい合って見つめ合うなんて、澪ともそんなにやった事が無いから緊張する。
何だかキスする前の体勢みたいで恥ずかしいな……。
って、何考えてるんだ、私は。
私は恥ずかしさでつい逸らしそうになった視線を梓の瞳に戻し、梓の次の言葉をじっと待った。

どれくらい経ったんだろう。
何度目かの深呼吸に似た呼吸を終わらせた頃、不意に梓が口を開いて声を出した。
柔らかく、優しい声だった。
363 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:44:43.77 ID:T2Olr24x0
「唯先輩はお元気ですよ、律先輩。
憂達の事を捜しながら、私達の服や食べ物探しもきちんと手伝って下さいましたよ。
それどころか私達に「私の我儘に付き合わせちゃってごめんね」って気まで遣ってくれて……。
唯先輩、憂の事が凄く心配なはずなのに、私達の事も考えてくれてて……。
何だか……、こちらが申し訳ない気分になってしまったくらいでした」


「そっ……か……」


私は何とも言えずにそれだけ呟いた、
梓の言葉は穏やかで、優しくて、どうも嘘は吐いてないみたいに見えた。
唯が無理してないみたいで安心出来た。
だけど、それに対してどう反応すればいいのかは、自分でも分からなかった。
元気らしい唯の姿を喜ぶべきなのか、
唯に気を遣わせてしまってる事を申し訳なく思うべきなのか……。

どう反応すればいいか分からない理由はまだある。
梓の言葉と梓の態度だ。
私達は仲間を失ったけど、梓はそれ以上の関係のはずの親友を二人も失った。
きっと私達が知らない所で、梓は憂ちゃんと純ちゃんと深い深い信頼関係を築いてたはずだ。
私なんかが想像も出来ないくらいの絆を感じてたはずなんだ。
でも、梓の態度は穏やかで、落ち着いていて、それが逆に不安になった。
梓はどうしてこんなに落ち着いてるんだろう。
二人の親友を切り捨てさせた私に向けて、何でこんな穏やかな表情を向けられるんだろう……。

そう考えた私が視線を落そうとした事に気付いたんだろう。
急に梓が明るい声を出した。


「そうそう、律先輩。
さっき妙な事言ってませんでしたか?」


「妙な事って何だよ……」


そういや、それも気になってた事だ。
さっき私は妙な事を言ったつもりはないのに、何故か梓は嬉しそうに微笑んでいた。
その理由が分からない。
普段ふざけてる時ならともかく、今回ばかりは笑える所は無かったはずなんだが……。
私が首を傾げていると、梓が少し肩をすくめながら、頬を少し赤く染めて続けた。
肩をすくめて頬を染めるなんて、
何だか矛盾した行動のように見えるけど、多分、その二つが両立出来る理由があるんだろう。


「気付いてなかったんですか?
律先輩、さっき唯先輩の事、
「皆のために一生懸命になり過ぎるのはあいつのいい所だけど」って言ってましたよね?」


「……言ったな。ああ、確かに言った気がする。
それがどうしたんだよ?」


「それ、唯先輩だけじゃなくて、律先輩もですよ?
ご自分じゃ気付いてないかもしれませんけど」


「えっ……」


思わず言葉に詰まった。
私が皆のために一生懸命になり過ぎてる?
そりゃ何度か言われた事はあるけど、自分でそう思った事は一度も無い。
私はただ、皆で笑って遊びたいだけで……。
私は自分の顔が熱くなるのを感じる。
自分の言った言葉がそのまま自分に返って来るなんて、そんなに恥ずかしい事無いじゃんか……。
梓はその私の表情に気付いてないのか、いや、多分気付いててそのまま言葉を続ける。
364 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:45:09.26 ID:T2Olr24x0
「それに「ずっとそんな調子じゃ、あっという間に疲れちゃう」って所もですね。
律先輩、頑張り過ぎだと思います。
今だけじゃありません。
今回の風が吹く前、学校に住んでた時もですよ。
律先輩、ほうかごガールズでの活動以外に家事も頑張って下さってましたし、
私達の練習を秘密にするために、澪先輩達と会議もしててくれたみたいじゃないですか。
頑張り過ぎですよ、律先輩……。
私達も嬉しいですけど、そんなに頑張り過ぎちゃ潰れちゃいますよ……。
だから……」


「でも……、でも、私は……。
私は私達が生きていくために、憂ちゃん達を……!」


言った後で後悔した。
言ってしまった、と思った。
言わなきゃいけない事だったけど、まだもう少し後で言うべき事だった。
少なくとも、こんな精神状態で言っちゃう事じゃない。
もっと梓の辛い気持ちを知ってから、それを受け止めてから、謝りたかったのに……!

って……、謝る……?
私は謝りたかったのか?
自分の選択の是非の判断より何より先に、自分のした事を謝りたかったのか?
自分で自分の気持ちが分からなくなった。
自分の事なのに、自分の気持ちが遠くにあり過ぎて理解出来ない。

と。
笑顔を真剣な表情に変えて、梓が私の両手を胸の前に持って来て握った。
包み込むように握ってから言ってくれた。


「頑張らないで下さい、とは言いません。
皆、頑張ってるんです。
唯先輩も、澪先輩も、ムギ先輩も、……私だって。
でも、頑張り過ぎないで下さいよ……。
頑張り過ぎて、潰れてしまう律先輩なんて、見たくないです。
見たくないんですよ……」


「だけど、私は和を……。
おまえの親友まで……」


「私……、律先輩の選択が間違ってたとは思ってません。
昨日、律先輩が選んでくれた道は、最善だったって……、私、思います。
純達の事を考えると悲しいし、辛いですけど、でも……。
それでよかったんだと……、思います……」
365 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:45:36.37 ID:T2Olr24x0
意外な言葉だった。
梓がそこまで考えてくれているなんて思わなかった。
私の選択肢は最善だったんだろうか?
勿論、最善だと思ったから昨日はそうしたわけだけど、
今日になって不安と喪失感が増して来たのも確かだったんだ。
自分の選んだ道に自信が持てなくなってしまったんだ。
だから、凄く……、凄く怖かったんだ……。
私は三人を見捨てたんじゃないかって。
見殺しにしちゃったんじゃないか……って……。
私が三人を殺……し……。

考えるだけで震えが止まらない。
梓の目の前だってのに、色んな感情が混じっちゃって頭痛や吐き気が私を襲って……。
でも、その震えは梓が私の手を強く握る事で止めてくれた。
まっすぐな視線と、まっすぐな言葉で止めてくれたんだ。


「律先輩が選んだ事……、後悔しないでほしいんですよ……。
それを信じた澪先輩達のためにも、私のためにも……。
唯先輩も……、律先輩の事を悪く言ってませんでしたよ?
「昨日はりっちゃんに迷惑掛けちゃったね」って言ってました。
だから……、私のお願いを聞くって意味でも、後悔はしないでほしいんです……。
純、憂、和先輩じゃなくて、皆で生きていく事を選んだんですから。
律先輩も、私も……、それを選んだんですから……!」


後悔をしちゃいけない。
前に進まなきゃいけない。
私はそれを選んだ。
皆にそれを選んでもらった。
だったら……、迷ってちゃ、駄目なんだよな……。
残された物を……、残された仲間を……、全力で守らなきゃいけないんだ……。
それがきっと私のしなきゃいけない事なんだ……!

私はまっすぐに梓に視線を向ける。
真正面から見つめ合う。
そして、私の手を握ってくれていた梓の手を離してもらうと、
梓の頭を抱えて、あくまで日焼けが痛まないように私の胸の中に軽く飛び込ませる。
軽く梓の肩に手を置いて、なけなしの力を振り絞って言ってみせる。


「ああ……、分かったよ、梓……。
やってやる……。やってやりたい……って思う。
私が選んだんだもんな。
弱音なんか吐いてても、どうしようもないよな。
そんな事してる方が、和、憂ちゃん、純ちゃんに悪いよな……。

……守るよ、絶対。
何があったって、おまえ達だけは絶対に守ってやる……。
それだけが私が和達に出来るたった一つの事なんだな……!」


「……はいっ!
でも、無理だけはしないで下さいよ?
私だって、皆さんを守りたいんですからね!」
366 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:46:19.11 ID:T2Olr24x0
私の胸の中で梓が頷いて言った。
守ろう、と思った。
せめて残された四人だけは全力で守らなきゃ、消えてしまった三人に申し訳なさ過ぎる。
ムギだって、唯だって、澪だって、梓だって、私がこの身に代えても守るんだ。
選んだ道を貫いて、前に進む事だけが私に出来る事なんだ。
もう……、迷っちゃいけないんだ……!

そうやって、私はその使命感に持てた。
使命感を持たせてくれたのが嬉しかった。
梓は私の選択肢を最善だと言ってくれた。
その道を進む事こそが私に出来る事なんだって自覚させてくれた。
今言うのも変だけど、私は幸せだった。
驚くくらい成長した梓に支えられて、一緒に歩いていけるのが。
同じ道を進んでいけるのが、幸せで泣き出したいくらいに。
きっと梓と一緒なら、これからも突き進んでいけるはずだ。

安心。
だけど、同時に不安感。
梓と一緒に居るのは幸せだ。
梓と一緒に居れば、どんな困難でも笑顔で乗り越えていけそうな気だってする。
何だって乗り越えられる。
それは私だけが感じてる事じゃない。
梓だってそう感じてるんだって、私には確信出来る。

梓と……、皆と一緒に居る。
その気持ちとその想いとその願いには嘘は無い。
ずっと皆と一緒に居たい。
また一陣の風が吹いたって、皆で一緒に居てみせる。
そのために私達は前に進むんだ!

なのに……。
どうして私はその事に不安を感じちゃうんだろう……。
こんなに幸せなのに、こんなに安心出来てるのに、どうして……。
367 :にゃんこ [saga]:2012/04/29(日) 18:47:46.90 ID:T2Olr24x0


今回はここまでです。
りっちゃん、立ち直った……のかな?
368 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/04/29(日) 19:35:54.89 ID:obxFbZu6o

幸せなときほど不安を強く感じるってのはよくあることだけど
こんな状況じゃ不安もことさら強くなっちゃうんだろうな
369 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/04/30(月) 09:35:17.09 ID:C0NSO7MMo
乙にゃん!
続き楽しみ
370 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:47:55.83 ID:FSovLwsL0





食糧と調理器具、あとカチューシャを何個か鞄に詰めて、私と梓は帰路に着いた。
最初の頃は店から何かを取って行くのに罪悪感があったはずなのに、
今じゃ何の躊躇いもなく手に取って、簡単に持ち帰れるようになって来た。
正直、自分のこの変化はよろしくないなって思う。
まあ、仕方が無いっちゃ仕方が無いんだけどさ。
もしこの世界が夢じゃなくて現実で、
人の姿が戻って来たら、その時は何も言わずにレジにお金を置いて店から出て行こう……。
うん……、他に説明しようも無いし……。

人の姿と言えば、この世界について、梓が興味深い事を言っていた。
今日の午前、唯が言った事らしいんだけど、
唯はこの世界が現実の世界じゃなくて、誰かの夢なんじゃないかって話をしてたらしい。
私は唯とその話をした事は無い。
この世界が誰かの夢だって疑ってるのは、私と澪と和だけのはずだ。
和は唯にはそれを伝えてないみたいだったし、
澪も私以外にそんな曖昧な話をする事は無いはずだ。
となると、唯は自分の力だけでその推論に辿り着いたってわけか?

唯ってそんなに物事を深く考える奴だったっけ?
私がそう考えてるのが丸分かりだったんだろう。
梓が苦笑しながら私の疑問に答えてくれた。
唯が言うには、この世界は今まで生き物が存在していた世界とは音が違うらしい。
反響……、空気の振動……、音波……、とにかく、音。
上手く説明出来ないけど、その音が全然違うんだそうだ。
絶対音感を持ってるからなのか、
人と違う感性を持ってるからなのか、唯はその違和感に気付いてるんだそうだ。
澪辺りの言葉なら笑っちゃう所だけど、唯の言葉なら無視は出来ない。
唯には間違いなく人と違う感性と耳を持ってる。
その唯が言うんだから、この閉ざされた世界の音は元の世界と全然違うんだろう。

それが何を意味するのか?
当然だけど、この世界が生き物が消えたってだけの世界なら、音の質その物が変わる事なんて無い。
それでも、音の質が現実には変わってる、
って事は、世界自体が元の世界とは全然違ってるって事になるよな。
だから、唯はこの世界が現実の世界じゃないって気付いたんだろう。
その正体が夢か、妄想か、仮想世界なのかはともかくとして、
この世界は単に生き物の姿が消えたってだけの世界じゃないのは確かなんだ。
それが何を意味してるのかは、私にはまだ分からない。
大体、この閉ざされた世界の謎が解けた所で、元の世界に戻れるかどうかも分かってないしな。

でも、私達と全く違う方向性から唯は一つの仮定を組み立てた……。
凄いな、と思う。
当然だけど、私が考えてるのと同じ様に、唯だって考えてる。
誰だって、これからの自分達がマシになるように、精一杯考えてる。
私と梓は未来に向かって突き進んでいく事を考えた。
唯とムギは過去を大切にする事を考えてると思う。
そして、澪は現在、自分に出来る事を精一杯やるって事を考えてる。
選択肢はバラバラだ。
だけど、皆、幸せになるために生きてる事だけは間違いない。
371 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:48:26.16 ID:FSovLwsL0
唯達の選択肢は大切にしたいと思う。
私は私達の生き方を強要したいとは考えてない。
そんな事はしちゃいけない。
でも、私は私の生き方を貫く。
誰に何を言われたって、それがこれからに大切な事だって思うから。

ホテルの部屋に戻った時、残っていた三人は私達を笑顔で迎えてくれた。
勿論、完全な笑顔じゃない。
不安や怯えの色も大きい曖昧な笑顔。
だけど、とにもかくにも、私達は笑顔だった。
これからどうなるのか、どう出来るのかは分からなくて、不安ばかりだ。
でも、笑う事だけはやめちゃいけない。
それだけは確かなはずだ。

そうして笑顔のままで居たかったけど、
それより先に私は真面目な顔になって、唯とムギに謝った。
泣いている二人を慰められなかった事。
気を回してあげられなかった事。
和、憂ちゃん、純ちゃんよりも、残された皆を大切にしてしまった事。
色んな事を謝った。謝らなきゃ前に進めないと思った。
これから前に進むために、それはしなきゃいけない事だった。
皆を守り切るために……。

唯達から責められるのを覚悟してたけど、二人とも私を責めなかった。
悲しそうな表情だったけど、二人で頷いてくれた。
色々悩んで、納得いかない事も多いはずだけど、私の想いを感じ取ってくれたんだと思う。
部員に恵まれてるよな、私は……。
こんな私なのに……。

唯達が責めなかった代わりに、澪が私を責める事になった。
いや、責めるってのは言い過ぎか。
諭す……って感じで、澪は苦笑しながら私の頭を軽く小突いた。
「そういう言葉を昨日言えてれば、立派な部長だったんだけどな」って。
それは確かにそうだった。
私は昨日、この想いを正直に皆の前で伝えるべきだったんだ。
突然の事に動揺してるくらいだったら、まっすぐに答えを届けりゃよかったんだ。
そうすれば、唯とムギをこんなに悲しませる事も無かったんだから……。

でも、とりあえずは、どうにか私の想いを皆に届けられた。
梓に後押ししてもらって、何とか前に進む事が出来た。
この世界で生きていく事も、これで出来る……はずだ。

結局、唯達が憂ちゃん達を捜す事を、私は止めなかった。
この世界で生きていくための準備だけ優先してくれれば、
後は各自の自由に過ごすべきだってのも、私の正直な気持ちだった。
私は皆を守るための準備をする。
何の問題も無く生きていけるために、出来る限りの準備をしておく。
唯やムギは消えてしまった三人を捜す。
梓と澪も自分に出来る何かをするだろう。
てんでバラバラだけど、それが私の選んだ道なんだ。
でこぼこな私達が、上手く噛み合って生きてくってのはそういう事だと思う。

そうして、私達はどうにか笑顔になった。
誰からともなく、手を繋ぎ、皆の体温を感じ合った。
強く強く、皆と一緒に居られる事を感じる。
せめて残されたこの五人だけはずっと一緒に居たい。
居るんだ、何が起こったって……。

皆でずっと一緒に居る事。
それが私が一番やりたい事なんだ。
何があったって、絶対に……。

私はそう思ってた。
心の底からそう思ってたんだ。
梓と話をして以来、どんどん膨らむ不安からずっと目を逸らしながら。
皆と離れ離れになる事だけは絶対にしちゃいけないんだって思いながら。
多分……、偽りの笑顔を浮かべて。
372 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:49:12.84 ID:FSovLwsL0





「ロンドンってやっぱり日本より寒いね」


少しだけ厚着をしたムギと一緒に、私はロンドンの街に繰り出していた。
ホテルに置いてあった誰かの自転車を借りて、肩を並べて二人で走る。
ちなみにロープが絡まないよう気を付けてゆっくり走ってる。
ロンドンに転移して三日、事態は何も変わってなかった。
まあ、変わりようが無いとも言うけど。
生き物が居ない事以外、ロンドンの街には何の変哲も無いわけだしな。
結局、私達に出来るのは今日もロンドンの街を探索して回る事だけだ。


「確かにちょっと寒いかもなー。
冬ってほど寒いわけじゃないけどさ。
半袖だと寒い、長袖だと暑い。ぴったりなのは七分袖ってか?
あー、中途半端でイライラするよなー!」


私が軽く叫ぶとムギが楽しそうに笑った。
理由はどうであれ、ムギの笑顔が見られるのは嬉しい。
私が自分の想いを皆に告げて以来、私は意識してムギと一緒に行動するようになっていた。
これまでムギを不安させちゃってたのは、私が原因なんだ。
その不安をどうにか少しでも和らげてあげたかった。
ムギを不安させてたってのは、ロンドンに来てからって話じゃない。
日本で人が消えてからって話でもない。
もっともっと前……、ムギと出会ってから、私はムギを不安させてたんだと思う。

出会ってから、ムギは変わったと思う。
最初は取っつきにくかったけど、そんなムギも今じゃ人懐っこい可愛らしい子になった。
どっちがムギの本当の姿なのかは分かんないけど、いい方に変わったんだって私は思いたい。
とにかく、そうして、ムギは私達の大切な仲間になった。
大切な仲間になったけど、まだまだ私の想いが足りなかった気がする。
ムギは控え目で、私達がはしゃいでるのを楽しそうに見てる子だけど、
たまには私達と一緒にはしゃぎたい事も多かったんだと思う。
でも、性格からそれも上手く出来なくて、
一人だけ自分が残されてるんじゃないかって思ってしまった事も、一度や二度じゃないはずだ。

だから、少しでもムギの傍に居ようって思った。
不安を振り払ってあげられるかは分からない。
ただ、ムギだって私達の大切な仲間なんだって事は、どうにか伝えたかったんだ。

ムギは今、笑ってくれてる。
不安の色も混ざってる笑顔だけど、笑ってくれてる。
とりあえず、今はそれでいい。
でも、最終的には不安が一つも無い笑顔を浮かべさせてあげたい。
373 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:50:31.77 ID:FSovLwsL0
「あっ……、ほら、りっちゃん、見て見て!」


不意にムギが自転車を停めて、顔を上げて視線を向ける。
私も自転車を停め、ムギの視線を辿ってみる。
ムギの視線の先には、回転寿司屋があった。
複雑で単純な事情から、私達が演奏する事になったあの回転寿司屋だ。
色んな意味で懐かしい……。
何であんな事になったんだろうな、あの時……。
つか、澪も英語で何言ってるのか分かってるんだったら、
どうにかあのデカい店員さんに説明してくれりゃいいのに……。
まあ、もういい思い出だけどな。

そういや、本当はマキちゃん達が演奏やるんだったんだよな。
あの時は深く考えなかったけど、マキちゃん、英語出来るって事か?
スゲーな……。
ワールドワイドだぜ、ラブクライシス……。


「大変だったよなー、あの時……」


苦笑しながらムギに言うと、ムギも困った顔して笑った。
でも、楽しそうな笑顔でもあった。


「そうだね……、大変だったよね……。
でも、私は楽しかったな……。
りっちゃんは楽しくなかった……?」


「私か?
うん……、私も楽しかった……かな?」


「ふふっ、どうして疑問系なの?」


「いや、楽しかったんだけどさー……、
もう一度あの雰囲気で演奏しろってのは勘弁なんだよなー……。
怖かったもん、あのデカい店員さん……。
勿論、それ以外は楽しかったんだけどな」


私が肩をすくめると、ムギが口元に手を当ててまた笑った。
釣られて私も一緒になって笑う。
うん、楽しかったよな、あの時は……。
思い出すと楽しくてつい笑っちゃうよ。
374 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:51:05.65 ID:FSovLwsL0
でも、思った。
私が過去を思い出して笑っちゃってるって事に。
悪い事じゃないって思う。
でも、笑っちゃっていいのか、不安になった。
私は未来に進む事を決心した。
皆と一緒に居るために、突き進んでいく事を決めたんだ。
過去を切り捨ててまで……。
失った大切な仲間達を犠牲にしてまで……。
そんな私が……、過去を思い出して笑顔になっちゃっていいんだろうか……?

その答えが出るより先に、ムギが静かに呟いた。
誰に聞かせるわけでもないみたいな、独り言みたいな呟きだった。


「また……、皆で演奏したいな……」


呟いた後、はっとしたみたいにムギが自分の口元に手を当てた。
まずい事を言っちゃったって思ったんだろう。
今、そんな事をしてる場合じゃないって、そう思ったんだろうな。
確かにそんな事をしてる場合じゃない。
今の私達は自分達が生きてく事を最優先に考えるべきなんだ。
……けど。
私だってムギと同じ気持ちだった。
私とムギだけじゃなく、皆、同じ気持ちだと思う。
私達は軽音部で、音楽が大好きなんだ。聴くのも演奏するのも大好きなんだ。
過去がどうのってのはともかく、皆で演奏したいって気持ちだけは、否定したくない。
気が付けば、私はムギの頭に手を伸ばしていた。


「演奏……、また皆でしたいよな……」


言いながら、ムギの頭を撫でる。
演奏したい。
演奏してやりたい。
特に今の私は不完全燃焼なんだ。
ライブ寸前、あの一陣の風のせいで、私達は練習の成果を披露出来なかった。
そんなに上手い演奏にはならなかったかもしれないけど、演奏自体出来ないよりはずっとマシだった。
だから、すごく悔しくて、不完全燃焼だ。
出来る物なら、今すぐにでも演奏してやりたい。

ムギが意外そうな表情で私の顔を見て、
しばらくしてから、真顔になって「うんっ!」と頷いた。
私達は軽音部なんだ。
何も出来なくたって、不安に押し潰されそうだって、音楽だけは捨てたくない。


「だけど……ね……」


ちょっと悲しそうにムギが呟き始めた。
ムギが何を言おうとしてるのか分かったけど、私は黙ってムギの言葉の続きを聞く事にした。
ムギが続ける。


「楽器が……無いんだよね……」


辛そうに呟く。
やっぱりそうなんだなって思う。
私だって同じだ。
唯や澪ほどじゃないにしろ、自分の楽器には愛着があるし、今手元に無い事が辛い。
ムギだって卒業旅行の時に日本から自分のキーボードを送ってもらうくらいだったんだ。
自分のキーボードが無い事を辛く思ってるのは間違いない。
375 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:51:36.70 ID:FSovLwsL0
胸の痛みを感じる。
でも、私は前に進むって決めたから、ムギの頭を撫でながら言ったんだ。
ムギを傷付けるかもとは思ったけど、言っておくべきだって思ったんだ。


「ムギ……、楽器屋、行こうぜ……。
新しい相棒を探しにさ……。
今日はもう遅いから、その内、時間が出来た時にでも……さ。
それでまた演奏してやるんだよ。
な?」


ムギが私の言葉に視線を彷徨わせる。
そうするべきだって想いと、そうしたくないって二つの想いが戦ってるんだろう。
どっちが正しいのかは分からないし、多分、どっちも正しいんだろう。
でも、私は未来に進むのを選んだんだから、新しい相棒を探す事を選びたかったんだ。

結局、ムギは頷きも首を横に振りもしなかった。
迷ってるんだ、きっと。
でも、それでよかった。
私は未来に進むけど、ムギには迷って自分の答えを見つけ出してほしい。
そうやってムギが出した答えなら、私だって素直に受け止められると思う。

そうして、私達は色んな迷いや想いを抱えながら、
食糧や日用品をリュックに詰めてホテルに戻った。
複雑な表情を浮かべてたムギだけど、帰り道ではまた笑顔を見せてくれるようになった。
色んな想いを抱いて、迷いながらも、笑顔になる事を選択したんだろう。
私はそんなムギを支えていけたら嬉しいって思った。

そこまでは、私も笑えてた。
そこまでは……。
でも、それから、その私の笑顔は、
ホテルの部屋に戻って、長く失われる事になる。
長い長い間、笑う事が出来なくなる。
笑えるもんかよ……。

きっかけはホテルに戻って、
部屋の扉を開いた時に目にしたものだった。
ムギと一緒に重い荷物を持って階段を上って、
ちょっと疲れながらも元気な声を出して扉を開く。
376 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:52:15.42 ID:FSovLwsL0
「おいーっす。戻ったぞー」


扉を開いた先には一人の女の子が立っていた。
結ぶには少し短めの髪をポニーテールにした女の子……。
憂……ちゃん……?
私の胸が息苦しいほどに鼓動を始める。
憂ちゃんなのか?
憂ちゃんもロンドンまで飛ばされていたのか?
他の二人も元気なのか?
だったら嬉しい。だったら嬉しい……けど……。
何なんだよ、この不安感は……。
喜ぶより先に私の胸が鼓動し続ける。
これは違うって胸の奥が叫びを上げる。
こんな事があるはずがないって、私の心の声が大声で主張する。

そうだ、ありえない。
こんな事は……、ありえない……。
これは……、これは、つまり……。


「あっ、お帰りなさい」


言いながら、女の子が振り向く。
憂ちゃんの顔の女の子……。
その顔には赤いアンダーリムの眼鏡が掛けられていて……。
和の物と同じ眼鏡が……。

息を呑んだ。
声が出ない。出せない。
これはどういう事だ……?
当然、転移の失敗で憂ちゃんと和が融合しちゃったとか、
馬鹿みたいなわけの分からない陳腐な展開ではありえない。
もっともっともっともっと単純な理由だ。
でも、転移の失敗って陳腐な理由の方が、ずっと良かったかもしれない。

そうだ。ちょっと考えれば分かる事だ。
扉の向こう、髪を結んで眼鏡を掛けた女の子は……。
間違いない。
もう見分けがつくくらい、こいつの顔は見慣れてる。
そう。
こいつは私達のよく知ってる仲間……。

唯なんだって事だ。
377 :にゃんこ [saga]:2012/05/02(水) 19:52:57.95 ID:FSovLwsL0


今回はここまでです。
風向きが怪しくなってきました。
が、またよろしくお願いします。
378 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/02(水) 20:05:04.29 ID:wZiQNUOdo

どうしてもスレタイからはTHE BACK HORNが浮かぶなぁ
ゲームなのか
379 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/02(水) 22:33:06.07 ID:wOm/SwYDO
乙です。
380 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:31:49.84 ID:t2x5TMSU0





何が起こったかはすぐ理解出来なかった。
正直、時間が止まった。
動き出せない。
息が止まる。
でも、頭の中だけは目眩がするくらいの思考が、
ぐるぐるぐるぐる回ってる。

何だよ、これ?
唯はどうして髪を結んでるんだ?
いやいや、髪を結ぶ事自体は全然いい。
たまに結んでた事もあるし、髪くらい自由に結んでいいじゃないか。
唯のくせに可愛い髪型だなって思う事も何度かあった。
でも、何で? どうして?
よりにもよって、どうしてこの髪型を選んでるってんだ?
短い髪をリボンでポニーテールに結んで、まるで憂ちゃんみたいに。
唯に瓜二つの妹の憂ちゃんみたいに……。

そして、眼鏡。
何処で見つけたのか、アンダーリムの赤い眼鏡。
多分、服を探しに行った時に見つけ出したんだろうその眼鏡。
和の物と全く同じ眼鏡。
トレードマークみたいな私達の親友の和と同型の眼鏡を……、
唯が掛けている……。

何だ、何だ、何だってんだ。
唯はどうして二人を思い出させる恰好をしてるんだよ?
過去を思い出すのはいい。
失った三人を捜し続けるのだって構わない。
それは唯の権利だし、私はその唯の選択を否定しちゃいけない。
否定したくない。

だけど、
これは、
これだけは、
駄目だ。

過去に追い込まれちゃう事だけは、絶対に駄目だ。
過去に目を向けながらでも、前には進まなきゃいけないんだ。
唯が思い出に浸るのは構わない。
でも、唯が思い出に支配されてるのは、見てられない。
381 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:32:39.69 ID:t2x5TMSU0
唯は今、失った二人に似せた恰好をしている。
それが何を意味してるのかは分からない。
唯の気持ちなんて絶対に分からない。
でも、推測は出来る。
唯はきっと……、失った仲間達の傍に居たいんだ……。
どんな形でも、どんな手段でも、仲間達の事を感じていたいんだ。
きっとそうなんだ。
だから、こんな事をしちゃってるんだろうな……。

それが私には分かる。
私も同じ事を感じた事があるからだ。
正直な話、閉ざされた世界に来て以来、鏡を見る度に胸が痛むのを感じてた。
鏡を見て、目元なんかを見る度に、思い出すんだ。
聡を。
私の弟の聡を。

私達はそんなに似てる姉弟じゃない。
男と女だし、年子ってわけでもないし、ちょっと似てるかな? ってくらいの姉弟だ。
でも、ちょっとだけ似てるだけで十分だった。
よく歌なんかで別れた恋人と似た誰かを見つける度に辛くなるって歌詞があるけど、その通りだ。
聡の面影を見つける度に、私は胸が締め付けられそうに痛んでたんだ。
しかも、その面影が自分の顔の中にあるってんだから、余計に悔しくて辛くなる。

私でさえそうなんだ。
憂ちゃんと瓜二つの唯は、鏡の中に妹の姿を見つけてどう思ってたんだろう。
今は存在しない妹の姿を見つけて……。
私なんかには想像も出来ない喪失感が湧き上がったはずだ。
どうにかして妹を取り戻したいって思ったはずなんだ。

だから……?
だから、なのか……?
だからこそ、唯は髪をポニーテールにしてるのか?
自分と妹の繋がりを消さないために、
妹を絶対に忘れないために同じ髪型をしてるんじゃないか?
アンダーリムの眼鏡もそうだ。
眼鏡を掛けて、和を必ず取り戻すって決意してるんじゃないか?
思い出を手繰り寄せるために……。
382 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:38:34.55 ID:t2x5TMSU0
それは立派な事だと思う。
何かを成し遂げようとしてる唯の事は応援してやりたい。
唯の決意を支えてやるべきなんだ、私は。
支えるべきなんだよ、私は……。

でも……。
それが、
出来ない。
どうしても、出来ないんだよ……。

唯の姿を見た瞬間、頭の中から何もかもが吹き飛んでしまう感覚が私を襲った。
過去よりも未来を重視しようって決意が崩れていく気がした。
揺らいでしまったんだ、情けない事に。

分かってる。
唯にそんな気持ちが無い事は分かってる。
唯は誰かを責めるような奴じゃない。
誰かのせいにする奴じゃない。
それはよく分かってる。
信じてる。
信じてるはずなのに……。

それを一瞬考えてしまっただけで、私はもう動き出せなくなる。
唯はひょっとして、憂ちゃん達を見捨てた私を責めてるんじゃないかって。
憂ちゃんの姿を見せつけて、三人を見捨てたを自覚させようとしてるんじゃないかって……。
そんな事あるはずないのに、そう思ってしまう私が居る。
それ以上に。
唯が私を責めてるのかもって可能性以上に、
唯を疑ってしまってる自分が情けなくて、辛くて、嫌で……。
私は……、動き出せなくなる……。


「どうしたの、りっちゃん……?」


ムギが扉を開けたまま部屋に入ろうとしない私の肩に手を置く。
返事をしなきゃとは思うのに、咄嗟に言葉が出ない。
口を開いても喉から声を出す事は出来なかった。
そんな私の姿を不安に思ったんだろう。
ムギは身を乗り出して私の背中側から部屋の中を覗き込んだ。
383 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:39:56.15 ID:t2x5TMSU0
「唯……ちゃん……?」


ムギの静かな声が響く。
その声色からは、ムギの感情は読み取れない。
私の方はと言えば、振り返ってムギの表情をうかがう事も出来ない。
ムギが唯の姿をどう思ってるのかを知るのが怖い……。
私は視線を伏せる。
出来る事なら耳を手のひらで塞ぎたい気分だった。
ムギの反応を……、知りたくない……。


「おっ、ムギちゃんもおかえりー。お疲れ様ー」


唯の明るい声が上がる。
その声に対してムギは……、ムギは……。
言った。
想像以上に明るい声で言ったんだ。


「わあっ、どうしたの、唯ちゃん?
その眼鏡、すっごく似合ってる!
あっ、ひょっとしてその眼鏡とその髪型って……」


それ以上の言葉を聞いて、正気で居られる自信が無かった。
気が付くと、私は自分でも驚くくらいの大声を上げていた。
わざとらしかったけど、わざとらしくても、そうするしかなかった。


「あーっ! しまったあっ!」


「ど……、どうしたの、りっちゃん……?」


唯が不安そうな声色で私に訊ねる。
その唯の表情を見る事は私には出来ない。
したくない。
これ以上、ここには居られない。
未来に進むためには、ここに居ちゃいけない……!

私はもう一度、誰の顔も見ないようにして、
背負ってたリュックサックを部屋に投げ入れてから大声で叫んだ。
384 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:40:47.94 ID:t2x5TMSU0
「今日は私が風呂当番だったんだ!
急いで沸かさないと梓達に叱られちゃうじゃんかよ!
悪いけど荷物は頼むよ!
また後でな!」


言い終わるが早いか、私はその場から駆け出していく。
駆け出さなきゃ、自分が自分で居られなくなる……!


「えっ? えーっ?
今日のお風呂当番りっちゃんだったっけ?
そんなの後でも……!」


私を呼び止めようとする唯の声が響いたけど、私は振り返らずに走り続ける。
物凄い勢いで走る。
その場から、逃げ出す。

唯の姿を見たからだけじゃない。
ムギの明るい声を耳にした瞬間、私は自分の心が壊れそうになるのを感じた。
似てる誰かが居るのは、私と唯だけじゃない。
新入部員の菫ちゃんって子はムギとそっくりだって梓が言っていた。
私も何度か目にした事があるけど、菫ちゃんはムギとよく似てると思う。
だとしたら、ムギだって私達と同じ苦しみを感じてたはずだ。
鏡を見る度に、辛い気持ちで居たはずなんだ。

でも……、ムギは唯の姿を見て明るい声を出した。
唯の行動を嬉しく思ってるみたいな声だった。
それはつまり、ムギは唯の想いを認めたって事なんだ。
思い出から目を背けず、
大切な思い出を絶対に取り戻すってムギも思ってるって事なんだ。

やめてくれ、と思った。
やめてくれよ……。
私の決心を揺るがさないでくれよ……。
未来を生きようって選んだ私の選択が間違ってたんじゃないかって思わせないでくれよ……。
思い出をまっすぐ見つめられてる唯達みたいに、私は強くないんだよ……。
私は一つの事に目を向ける事しか出来ないんだよ……。


「ちっ……くしょー……」


私の口から呟きが漏れる。
誰に向けて漏らした呟きでもない。
強いて言えば、自分自身に向けての呟き。
揺れてばかりの弱くて情けない自分への言葉だった。

私だって三人の事は忘れたくない。
忘れたくないけど……、
そればっかりに目を向けて進めるほど、私は器用じゃない。
胸の痛みに目を向けながら歩けるほど、私は強くないんだ。

不意に。
私は憂ちゃんと一緒に風呂に入った時の事を思い出した。
私と憂ちゃんの距離が少しずつ近付くきっかけになったあの日の事……。
憂ちゃんの笑顔と憂ちゃんの言葉はまだ鮮明に思い出せる。
忘れたくない。

だけど……。
あの日、憂ちゃんに背中に抱き着かれた感触だけは、
何故だか、どうしても思い出せなかった。
憂ちゃんの体温が私の中から少しずつ消え去ってしまっている。
憂ちゃんだけじゃなく、和や純ちゃんの体温も……。
少しずつ消えていく仲間達への想い……。
ひょっとしたら、それこそ私の望んでた事かもしれなかったけど……、
それはとても、
悲しかった。
385 :にゃんこ [saga]:2012/05/04(金) 18:43:21.47 ID:t2x5TMSU0


今回はここまでです。

>>378

タイトルはご指摘通りTHE BACK HORNから拝借しました。
曲が好きで、内容に合ってるかなと思いまして。
ゲームが元ネタではなく、展開はオリジナルでございます。
386 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/04(金) 20:26:09.46 ID:GKhOnGsU0
連日の投下乙です
投下ペースが速くて非常に嬉しいのだけど…あぁ、りっちゃん…
387 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/05/05(土) 03:36:01.76 ID:jE9pchAHo
律ちゃんの気持ちが伝わってくる
388 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:05:25.77 ID:i5v7bhML0





浴槽にお湯を張って、私は一人で風呂に浸かる。
日本の風呂と違って比較的浅い浴槽だから、お湯を張るのは五右衛門風呂より簡単だった。
いや、お湯を張る……ってのは、ちょっと違うか。
ムギが見つけてくれたバッテリーに、
片っ端から電気ポットをタコ足配線で繋いで、沸いたお湯を浴槽に入れてるだけだからな。
ちなみに使ってる水は、コンビニとかで見つけたミネラルウォーターだ。
贅沢な気はするけど、水道は使えないし、流石に近所の川から水を汲んでくるわけにもいかない。
とは言え、正直、風呂一つにかなり手間が掛かってる気がしないでもない。

でも、今はそれがありがたかった。
実は今日は梓が風呂当番だったけど、無理を言って代わってもらった。
梓は不審そうな表情を浮かべていた。
だけど、それは「私が一番風呂に入りたいから」って言って、どうにか誤魔化した。
落ち着く時間が欲しかった。
面倒な作業を行いながら、自分の考えをまとめたかったんだ。
まとめなきゃ、唯とムギの前で落ち着いた姿を見せられないからだ。

湯船に浸かりながら、唯の姿を思い出す。
憂ちゃんみたいなポニーテール、和みたいな眼鏡……。
正直言って、唯が何を考えてるのかは理解し切れてない。
唯は単純に今この場所に居ない二人の真似をしたかっただけかもしれない。
ちょっと思いついて、やってみただけなのかもしれない。
でも、その心の奥底に寂しさがあるのだけは間違いないはずだった。
どんな理由があるにしても、唯は自分の中の寂しさと戦うためにそんな恰好をしてたんだ。
過去と立ち向かうために、きっと……。

羨ましかった。
羨ましくて、怖い。
私は未来に進むために過去を見ないようにした。
未来に突き進まなきゃ、恐怖でどうにかなっちゃいそうだった。
だから、私は残された皆と一緒に、この世界で生きてく事を重視しようって思ったんだ。
失った物にいつまでも目を向けていられるほど、私は強い精神を持ててない。
胸の痛みと戦いながら、失くした物を捜し続ける勇気なんて持てない。
これ以上失いたくないから、私は失くした物より残された物を護りたいんだ。
本音を言うと、過去に目を向けられる唯達を羨ましく思う気持ちはある。
私だってそうしたかった。
出来る事なら。

だけど、それはしちゃいけない事だったんだ。
絶対に、しちゃいけない。私だけは、それを選んじゃいけない。
過去に目を向ける事は立派だけど、過去ばかり見てちゃ絶対に前には進めない。
残された五人の中のリーダー的な存在の私だけは、それをやっちゃいけないって思うんだ。
残された皆を、何が何でも護るためには。
それにこれは私だけの決意じゃなくて……。
389 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:05:57.03 ID:i5v7bhML0
「失礼します」


不意にバスルームの扉が開いたかと思うと、聞き覚えのある声が響いた。
私はちょっとびっくりして、つい胸元を二の腕で押さえてしまう。
やってしまった後で気付く。
私、何でこんな女の子っぽい行動してるんだ……?
別に見られて困るような身体じゃないじゃないかよ。
見られるほどの凹凸が無いって意味だが……。
いやいや、そういうのはどうでもよくて……。
バスルーム内、立ち込める湯気の中、目を細めて突然の訪問者に視線を向けてみる。
正体は声で分かってたけど、自分の目で確認しない事にはすぐに信じられそうになかったからだ。

訪問者は長い黒髪を下ろし、タオルも巻かずに全裸でバスルームに入って来ていた。
そりゃそうだ。
銭湯ならともかく、個人用のユニットバスに入るのにタオルを巻く奴は居ない。
いや、小学生の頃の澪は恥ずかしがって巻いてたっけか?
確か「すぐにお風呂に浸かるんだから」って澪の巻いたタオルを無理矢理剥ぎ取った覚えがあるな……。
まあ、それはともかく。
私はその訪問者の予想通りの顔を確認すると、少し溜息を吐きながら言ってやった。


「何だよ、梓……。
まだ私が風呂に入ってから十分も経ってないじゃんか。
おまえは私を大雑把でいい加減って思ってるかもしれないけど、
そんなカラスの行水みたいな風呂で満足出来るほど大雑把じゃないんだぞー」


少し頬を膨らませてやると、私のその表情を見た梓が苦笑して首を傾げる。
どうも私の風呂を急かしに来たってわけでもないらしい。
梓は長い髪を少し後ろに流すと、湯船に手を置いて笑った。


「違いますよ、律先輩。
たまには気分転換に私も律先輩とお風呂に入ってみようかって思ったんです。
……ご迷惑ですか?」


「いや……、別に迷惑じゃないけどさ……。
でも、どんな風の吹き回しだ?
おまえ、この前まで学校に居た時も、私と風呂に入ろうとしなかったじゃんか」


「だから、気分転換ですよ、気分転換。
それに私とお風呂に入りたがらなかったのは、律先輩の方もじゃないですか。
律先輩こそ、どうして私とお風呂に入るの嫌がってたんですか?」
390 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:06:36.82 ID:i5v7bhML0
梓が頬を膨らませながら微笑む。
一緒に風呂に入ろうとしなかった私を怒ってるわけじゃないらしい。
純粋に疑問に思ってるだけみたいだな。
でも、……あれ?
確かに私は梓と一度も風呂に入ってないな。
憂ちゃんや純ちゃん、和ですら一緒に風呂に入ってたのに、
何故か梓と澪とだけは一緒に風呂に入った覚えが無い。
澪は顔馴染み過ぎて気恥ずかしかったからだけど、梓の方はどうしてだったっけ?

はっきりとは思い出せない。
でも、確か私と同じくらいの体型の梓と自分を比較するのが恥ずかしかったからだった気がする。
不本意な事だが、軽音部設立メンバーの中で一番身体にメリハリが無いのは私だ。
悲しくなるくらい、メリハリと凹凸が無い。
それでも、後輩の梓には何とか勝っていた。身長も胸も勝っていた。
万が一……だけど、梓に胸で負ける事になったら、私はしばらく立ち直れそうにない。
だって、あの幼児体型の梓だぞ?
あの幼児体型の梓にまで負けたら……、そう思うと怖くて梓と一緒に入れなかったんだ。
今思うと、ものすっごく下らない理由だな……。

だけど、梓が私と風呂に入りたがらなかったのも同じような理由だろうな。
梓の場合は同じくらいのレベルだと思ってた私が、成長してるんじゃないかって心配してたはずだ。
それを確かめたくなくて、一緒に風呂に入る気になれなかったんだろう。
心配するな、梓。
私もおまえと同じく全然成長してないから……。

失礼な気がしながら、私は髪を下ろした梓の身体を見つめてみる。
今まで梓とは何度か風呂に入った事があるけど、
初めて風呂に入った時から胸も腰回りも全然変わってないように見えた。
まあ、その柔らかそうな肌が劣化してるわけでもないし、
シワが増えてるってわけでもなさそうだから、女としては悔しさと喜びがトントンって感じかな。


「何ですか、律先輩……?」


私の視線に気付いたらしく、ジト目になった梓が私に訊ねる。
私は肩をすくめると、浴槽の隅に背中を寄せて梓を手招きしてやった。


「悪い悪い、何でもないって。
いいよ、たまには一緒に風呂に入ろうぜ?
梓もそのままじゃ風邪ひいちゃうぞ?
若干狭くなるけど、ま、二人なら何とかなるだろ」


「はい、それじゃ失礼しますね。
ありがとうございます、律先輩」
391 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:08:45.29 ID:i5v7bhML0
笑顔になった梓が、お湯を何度か自分に掛ける。
それから、私に背中を向ける体勢で浴槽に入った。
お湯を高く張ってるわけじゃないから、お湯が浴槽から溢れる事は無かった。
二人で並んで体育座りしてるみたいな体勢になる。
何だか変な感じだな。
折角だから梓も私と向き合う体勢で浴槽に入ればよかったのに……。
って思ったけど、その自分達の体勢を想像してみて、すぐに思い直した。
二人で全裸で至近距離で向かい合うとか、何だよ、その体勢……。
いくら何でも恥ずかし過ぎるだろ……。
そうだ。
二人でちょっとだけ立ち上がって、二人で肩を並べる体勢で浴槽に入り直すのはどうだろう。
それなら漫画とかでもよく見る体勢だし、無理なく会話出来るよな。

そう考えて立ち上がろうとした瞬間、
梓が首だけ私の方に回して視線を向けている事に気付いた。
私と梓の視線が交錯する。
梓の背中と私の膝や腕なんかが触れ合う。
何となく、まあ、いいか、と思った。
この体勢でも会話が出来ないわけじゃないしな。
たまには、こういうのも悪くないかもしれない。

急に。
梓が苦笑しながら喋り始めた。


「やっぱり……、ちょっと狭かったですね……」


「だから言っただろうが、中野よ……」


私はお湯に濡れた梓の頭を掴み、手の中でクルクルと回してやる。
分かり切った事を言うなってんだよな……。


「やめて下さいよ、律先輩。
お風呂の中でそれやられるとのぼせやすくなるじゃないですか」


言いながら、梓が微笑む。
元気だよな、こいつは……。
でも、梓の言う事にも一理ある。
それなら久々にチョークスリッパーでも喰らわせて……。
と、そこで不意に私は妙な事に気が付いた。
そういや、今まで梓の日焼けが痛いだろうからってチョークを自重してたんだが、
少し肌寒いロンドンに転移して三日経つってのに、何で梓の肌はまだ日焼けしてんだ……?
赤ちゃん並みの新陳代謝の梓だぞ?
あっという間に日焼けが治っててもおかしくないはずだろ?
私は首を傾げ、唸ってしまう。
392 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:16:22.42 ID:i5v7bhML0
「あれ?
どうしたんですか、律先輩?
もしかして律先輩の方がのぼせちゃいましたか?
すみません、大丈夫ですか?」


梓が心配そうに私の顔を覗き込んで来る。
その梓の顔を見て、私は少しだけ思考を元に戻す事が出来た。
心配そうな梓の頭を軽く撫でて言ってやる。


「いや、何でもないよ、梓。
まだのぼせてもないって。
ちょっとどうでもいい事を考えちゃっただけだよ」


「本当ですか?
本当に大丈夫なんですか?
何かあったら、いつでも私に言ってくださいよ?」


「ああ、分かってるって、梓。
サンキュな」


また、梓の頭を撫でる。
うん、治ってない梓の日焼けなんて、今はどうでもいい事だよな。
多分、たまたま治りが遅いだけなんだろうし、今は私に気を遣ってくれる梓の様子が嬉しい。
とても……、嬉しい……。

思った。
私が過去よりも未来を大切にしようと思えたのは梓が居たからだって。
この閉ざされた世界に来る前から、梓は私達に翼を与えてくれた。
未来へ進む意志ってやつを与えてくれた。
それだけじゃない。
ロンドンに転移してからも、梓は私達を、私を支えてくれた。
今だって、きっと私の事を心配して一緒に風呂に入ってくれてるんだ。
私を励ますために。
無理をしてるのかもしれないけど、まっすぐに未来に進もうとしてるんだよな、梓は。
だったら、私は未来に進まなきゃいけないじゃないか。
梓と一緒に前に進むべきなんだよ、私は。
それが皆のために繋がるはずだ。

私は右手を梓の頭から肩に置き直して、梓の温もりを感じる。
温かい……。
風呂には入ってるからってだけじゃなく、梓の全身は心から温かい。
梓と一緒に進んでいければ、何だって乗り越えられる。
乗り越えたい。


「あの……、律先輩……」


梓が笑顔を消して、躊躇いがちに口を開いた。
何か言いにくい事を言い出し始めるつもりなんだろう。
多分、それは私も分かってたけど、梓の言葉を止めようとは思わなかった。
話しにくいけど、話しておきたい事でもあったからだ。
梓がゆっくりと続ける。
393 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:16:51.27 ID:i5v7bhML0
「唯先輩の事なんですけど……、律先輩も見ましたよね?
唯先輩の憂と和先輩みたいなあの恰好……」


やっぱりそうなんだな、って思った。
今日は梓は唯と澪と一緒にホテルに留守番してる日だったんだ。
私より先に唯の姿を見てても全然不思議じゃなかった。
唯の姿を見て、梓はどう思ったんだろう。
多分、残された仲間の中で、一番私に近い考え方を持ってるのは梓だ。
未来に進んで、残された仲間達を何としても護りたいって思ってくれてるはずだろう。
そんな梓が唯の姿を見て思った事は……。


「ああ、見たよ。正直、驚いた。
唯の奴があんな恰好をするなんて、思ってもみなかったからさ……。
唯の想いが……、痛いくらい分かったよ……」


私が呟くと、梓も神妙な表情で頷いた。
辛そうだけど、でも、何かを決心したみたいな表情だった。
梓は私の方に少し近付いてから、口を開いた。


「私も唯先輩の気持ちは分かります……。
私だって、どんな形でもいいから、憂達を感じていたいって思いますし……。
憂や和先輩の真似をする事で憂達を感じられるなら、それでいいのかもとも思います。
それが……、唯先輩の選んだ事なんですから……。
でも……」


「ああ……、そうだな……。
でも……、だよな……」


梓の言葉は私が継ぐ事にした。
梓にばかり辛い言葉や言わせたり、痛い決心をさせてちゃいけないって思ったからだ。
私だって、梓を引っ張ってやらなきゃいけないんだ。


「唯は……、唯達はそれでいいと思う……。
唯の姿を見ると、憂ちゃんの事を思い出して辛くなるけど、それでいいんだよ、きっと。
あいつには……、皆の過去を持ち続けてもらおうって思うんだ。
私は皆の未来を探したいし、守りたい。
その分、唯達には私と梓の過去を捜してもらおう。
私と梓は唯達の未来を見つける。唯達には私達の過去を捜してもらう。
役割分担だよ、バンドのパートみたいなさ。
それがきっと……、一番いい事なんじゃないかな……」


私が想いを言葉にすると、「はい」と梓が頷いてくれた。
実は本音を言わせてもらうと、かなり無理をしてた。
必死に皆の事を考えて、どうにか無理矢理に出せた答えだった。
唯の姿を見ているのは辛い。過去を思い出して悔しくて、悲しい。
だけど、唯の選択は私が選びたかった選択でもあるから、
せめてその唯の、唯達の気持ちだけは守りたかったんだ。
だから、きっとこれが私に出せる最善の答えなんだと思う。
私達は未来に突き進んで、唯達は過去を大切にするんだ。
それでやっと皆が生きていけるはずなんだ。
胸に痛みを抱えながらでも……。
394 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:27:38.52 ID:i5v7bhML0
急に梓が笑顔になった。
優しい笑顔と甘い声色で喋り始めた。


「もう……、律先輩に全部言われちゃいましたね……。
律先輩ったら大雑把でいい加減なのに、色々考えてて困ります。
たまには私にもカッコつけさせて下さいよー」


何を言ってるんだよ、梓。
私が前に進めてるのはおまえのおかげだよ。
おまえが支えてくれて、励ましてくれるから、私は未来に進めるんだ。
おまえが私達に翼をくれたんだ。
おまえの笑顔が私を私で居させてくれてるんだ。
梓が居るから……。
梓が……。
そうだよ……。
きっと梓なら何度も私を立ち直らせてくれるし、
何があったって私を支え続けてくれるはずなんだ。

私は両手を伸ばして梓の肩に手を置く。
梓が私の方に視線を向ける。
私の大好きな笑顔を見せて、温かさを手のひらに感じさせてくれてて……。
もっと……、梓の体温を感じていたい……。
心にぽっかり空いた穴を、誰かの体温で埋めたい。
梓だってそう思ってるはずだ。
たった五人きりの世界、誰かの体温を感じたいって思ってるはずなんだ。
梓の柔らかそうな唇が目に入る。
梓の唇に私の唇を重ねたら、この不安は消えるだろうか。
梓の不安も消してやる事が出来るだろうか……。
そうだな、大丈夫。女同士でも不安を消すためならキスくらい別に……。
そうして私は……、
梓の肩を私の方に引き寄せようとして……。

限界の所で押し止めた。
どうにか……、それ以上の事をせずにいられた。
梓の両肩から手を離して、嫌な汗を掻くのを感じながら拳を強く握り締める。

何だ……?
今、私は何をしようとしてたんだ……?
梓を抱き締めようとしてたのか……?
抱き締めて、キスをしようとしてたのか……?
どうして……?
何で私は急に梓にそんな事をしようと……。

自分のしようとした事が信じられなかった。
裸で梓とキスをしようとするなんて、どうかしてる。
そんなの一時の気の迷いだ。
そうに決まってるじゃないか。
どうして私が梓とキスしなくっちゃいけないんだよ。
女同士だし、梓の事は好きだけど、そういう意味なんかじゃないんだ
395 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:31:28.33 ID:i5v7bhML0
だけど……。
必死に自分の行為を否定しようとしながら、
妙に冷静な自分が自分の行動を客観的に判断してしまってた。
私は寂しかったんだ、って。
寂しかったから、梓の体温で自分を慰めたかったんだ、って。
誰かの温もりを感じてたかったんだ、って……。
大好きな梓なら私を受け止めてくれるはずだって思って……。

いや、それならまだ全然マシだった。
私がさっき考えてたのは、もっとずっと最低な事だった。
梓の事が好きなら、好きだって言えばいい。
好きだって言って、それから慰め合いになるのなら、それはそれで一つの選択肢だ。
でも、違う。さっきの私は全然違う。
未来に進むための支えって言い訳を考えて、
梓なら私を拒否せずに受け入れてくれるはずだって下心も持って……。
皆の未来を守るんだから、それくらい許されるって思っちゃってたんだ、私は……。

何だよ。
何なんだよ。
そんなの許されるわけないだろ!
どうしてそんなの許されるって思っちゃったんだよ!
どうかしてるぞ、私は!
でも……。
でも……。

気が付けば、私はまた梓に手を伸ばそうとしてしまっている。
梓を抱き締めて、体温を感じようとしてしまっている。
心に空いた穴を塞ぐためなら、何だってしてしまいそうになっている。
さっきの決意が馬鹿みたいだ。
未来に進むって考えてたのは建前だったのか?
辛かったのは確かだ。悲しかったのは本当だ。苦しかったのは現実だ。
だけど、皆の未来を護るはずの私が、
梓の未来を奪おうとしてるなんて、どういう事だよ……。
それが許されるって考えてるとか、最悪以外の何物でも無いじゃないか……。
どうやら……、私は自分で思う以上に浅ましくて最低らしい……。


「律先輩……?
どうか……したんですか……?」


急に自分の両肩から手を離した私を不審に思ったんだろう。
梓が首を傾げながら私に訊ねた。
優しい声で。
優しい瞳で。
優しい想いで……。

途端、私は自分がどうしようもなく汚らしい存在に思えた。
梓に心配される資格も、支えられる資格も私には無い……。
胸が張り裂けそうになるのを感じる。
少し気を抜けば、嗚咽が漏れ出してしまいそうだ。
自分で自分を殴り付けてやりたい衝動に駆られる。
396 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:32:11.61 ID:i5v7bhML0
だけど、私はそうはしなかった。
私が苦しむのは私のせいだ。私の自業自得だ。
私の胸の痛みなんて、重要じゃない。どうだっていい。
私なんて後で散々苦しんでしまえばいい。
でも、梓だけは……、
皆に翼をくれた梓だけは巻き添えにしちゃいけない。
私の卑しい下心で梓の未来と皆の未来を奪っちゃいけないんだ……!

私は何度か深呼吸してから、梓の頭に軽く手を置いた。
震える手のひらを隠して、精一杯の優しい声を出して言った。
出来る限りの偽物の笑顔を浮かべて。


「何でもないよ、梓。
ちょっとのぼせちゃったかなって思っただけだ。
でも、そうでもなかったみたいだから安心してくれ。
梓は……、何も心配しなくても大丈夫だよ」


梓はまだちょっと不思議そうな顔をしていたけど、すぐに頷いてくれた。
そうだよ、何でもない。
梓が心配する事なんて何も無い。
私が梓の未来を見つけ出すから。
安心して生きられるようにするから……。
だから……、梓は私なんかを心配せず、皆に笑顔を見せ続けてほしい。
私以外を、大切にしてほしい。
私も、絶対に大切にしてみせるから。
私以外の皆を、この身に代えても……。
397 :にゃんこ [saga]:2012/05/06(日) 17:37:46.87 ID:i5v7bhML0


今回はここまでです。
折角のお風呂回でしたが、こんな事になってしまいました。
398 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) [sage]:2012/05/07(月) 02:36:22.17 ID:BTjuXIYc0
乙!
続き期待
399 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/05/07(月) 10:12:56.77 ID:kc5fd8Rno
律ちゃん強い子だ
400 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/08(火) 09:21:39.73 ID:pyu3/BlJo

なんかりっちゃんが無茶しそうなフラグが…
車や変質者もいないから事故や襲われるってことはなさそうだけども
401 :にゃんこ [saga]:2012/05/08(火) 17:47:13.13 ID:KV32gPEW0





ロンドンの夜、ホテルの屋上で人の生活の明かりがほとんど見えない街を見下ろす。
見える灯りは電力以外の動力で動いてるらしい灯りと、私達の灯してる物だけだった。
風呂から上がって、夕飯を食べると、皆はすぐに床に就いた。
毎日疲れてるし、電気があんまり使えない状態で夜更かし出来るほど、皆の神経は図太くなかった。
私だってそんなに図太い神経をしてるわけじゃない。
それでも、今日だけは一人で夜の風に吹かれていたかった。
だから、私は一人で屋上に上がったんだ。

秋なんだか冬なんだか分からないけど、ロンドンの夜の風は冷たかった。
大した冷たさじゃないけど、今の私なら心まで冷え込んじゃいそうだ。
念のため、ライブの衣装として身に着けてた高校の制服を着込んではいる。
体調を崩したり、風邪になったりするわけにはいかないからな。
これから進んでいくためにも、誰かに心配掛けるような事があっちゃいけないんだ。
今度こそ、皆の未来を守る決心を揺るがさないためにも。

ロンドンの街並みを見下ろしながら、思う。
私は……、どうしようもない奴だ。
見返りを求めて、皆を守ろうとしてた。
皆の事を守るんだから、少しは誰かに寄りかかったって問題無いって思ってた。
それくらい許されるって、甘えてた。
誰かの温もりを求めるために、皆に頼るために、
その代償行為として、皆の未来を守る気になってたんだ。
最低だって思う。
自分でも分かるくらい、最低だ。

ああ、認めるよ。
私は寂しかった。
ずっとずっと、寂しかった。
閉ざされた世界に来て以来、寂しさでどうにかなりそうだった。
大声で叫んでやりたいくらい、取り残された孤独に心が壊されそうだった。
和達三人が居てくれた時は、まだ耐えられた。
八人だけ取り残された世界だけど、皆、それだけなら耐えられたんだ。
これ以上失う物は無いはずだって思ってたから。

だけど……、三人を失って気付いた。
失う物が無いなんて事は幻想だった、自分勝手な希望だったんだって事に気付いた。
これ以上酷い事にはならないって思いたかっただけなんだ。
そう思わなきゃ、生きていけそうになかったんだ。
そして、その希望は壊された。
三人の姿が消えて、五人だけ取り残されて、思う。
次消えるのは私かもしれないって。
私じゃなくても、誰がまたすぐに消えてしまってもおかしくないって。
残された五人が、五人のままで居られるなんて、もう奇跡みたいなもんなんだって。

だから、誰かに頼りたかった。
だからこそ、誰かに縋りたかった。
自分の中の喪失感と絶望感を、誰かの体温で消したかった。
心を人肌の温もりで満たしたかった。
身体を求める事で、孤独から目を逸らそうとしてた。
身体だけでも誰かの温もりを感じ続けたかったんだよ、私は……。

もっと悪い事に、私はそれを梓に求めた。
梓なら私を拒絶しないはずだって、心の何処かで思ってた。
唯にいつも抱き着かれてて、人肌の温もりに弱い梓なら、
私達の事を気遣ってくれて梓なら、私を受け入れてくれるはずだって思ったんだ。
自分でも分かるくらい、ひどい打算だ。
最低な……、打算だ……。

長い長い溜息が私の口から漏れる。
自分はあんまり利口な方だとは思ってなかったけど、こんなに最低だとも思ってなかった。
見たくなかった自分の姿を自覚させられて、心底嫌になる。
こんな私が皆を守るだなんて、笑い話にしかならない。
溜息を漏らす以外、私に出来そうな事は無い。
402 :にゃんこ [saga]:2012/05/08(火) 17:47:40.46 ID:KV32gPEW0
でも……。
今度こそ、と私は思う。
私は梓の優しい顔を見て、どうにか思い留まれた。
梓の未来を私の甘えなんかで、絶望と後悔に塗り潰しちゃうわけにはいかないって思えた。
梓の事が大切なら、今度こそ本当の意味で梓を、皆を守らなきゃいけないんだ、私は。
今度こそ……、間違えちゃいけない。
もう絶対に溜息なんか吐かない。
溜息を吐いてる暇なんかあるんだったら、皆の未来について考えるべきなんだ。
その未来に私の姿が無くたって、絶対に皆だけは笑顔で居させてみせる……!
そのためには……。

私は制服のポケットの中に手を突っ込む。
さっき、思い出したんだ。
私がこれを持ってるって事に。
ポケットに入れた手の中に固い感触を感じる。
それを握り込んでから、私は自分の顔の前で手のひらを開いた。
手のひらの中には三つの小さな三角形……、ピックがあった。
和がほうかごガールズのマークを描いてくれたピック……。
純ちゃんと憂ちゃんと梓に渡すつもりだった……、
私達のバンドのピックだ。

色んな思い出が頭の中に浮かんでくる。


「人間は心の中に翼を持てる生き物だって私は思うのよ」


普段の姿に似合わず、ロマンチックな事を言って梓を励ましてくれた和の顔。


「ここはアレですよ?
「頑張る」じゃなくて、「一緒に頑張ろう」って言う所ですよ?」


照れくさそうにしながらも、優しい微笑みを浮かべてた純ちゃんの顔。


「りっちゃんって呼んでも、いいんですか?
いいんでしたら、私も嬉しいです……!」


予想外に私と仲良くなってくれた、憂ちゃんの甘い笑顔。
403 :にゃんこ [saga]:2012/05/08(火) 17:48:11.44 ID:KV32gPEW0
他にも多くの思い出が私の中に蘇って来る。
皆で頑張ったバンド練習、ライブ前の高揚感、大切な私の思い出達……。
だけど……。
それを抱えながらじゃ、私はきっと前に進めないから……。
思い出を見つめながら進めるほど、私は強くないから……。
皆の未来を守れそうにないから……。
ぎゅっ、とピックを握り締める。
強く強く、最後に握り締める。
これが私からの、三人へのお別れ……。

私は腕を振り上げると、
一つ大きな深呼吸をして、
屋上から三つのピックを放り投げた。

ピックは
放物線を描いて
ロンドンの闇の中に
吸い込まれていった。

ありがとう。
さようなら、私の大切な……、思い出。

ピックを放り投げた後、私は長い間、放心していた。
大切な物を自分から切り捨てた罪悪感。
これでよかったんだっていう満足感。
二つの想いが複雑に混ざり合って、
どうしたらいいのか分からず、夜の風に吹かれる事しか出来なかった。

ふと、私はもう一つ、大切な物がある事を思い出した。
ピックを入れていたのとは逆の方のポケットを探ってみる。
……あった。
写真。
純ちゃんが撮った私と梓の写真……。
灯りがほとんど無くて、夜目だったけど、
その写真の中の私達は月明りでよく見る事が出来た。
404 :にゃんこ [saga]:2012/05/08(火) 17:49:02.99 ID:KV32gPEW0
自分で言うのも変だけど、本当に幸せそうな私達の笑顔……。
迷わず笑えてた頃の私達……。
胸の痛みを感じる。
息苦しくなって、居ても立っても居られない焦りを感じる。
思わず写真を両手で掴む。
親指に力を入れて、破り捨てようとして……、
それは出来なくて、私は写真をもう一度ポケットの中に仕舞い込んだ。

違う。
思い出を捨てられなかったわけじゃない。
この写真は梓の思い出だから、捨てなかっただけなんだ。
三つのピックの事を知ってるのは私だけだけど、
この写真を私が持ってるって事は梓も憶えてるだろう。
だから、私は梓の思い出を捨てる事はしなかった。
今は未来だけに進もうとしてくれてる梓だけど、
いつかは思い出に目を向ける余裕が出来る日も来るはずだ。
その日のためにも、この思い出だけは残しておいてやりたい。
梓には思い出が必要なんだから。
……破り捨てなかったのは、それだけの理由だ。

不意に。


「こんな所でどうしたの、りっちゃん?」


屋上の扉が開いたかと思うと、柔らかい声が聞こえた。
振り返って声の方に視線を向けてみると、
そこには普段の髪型の眼鏡を掛けてないパジャマ姿の唯が立っていた。
その髪型が気紛れなのかどうなのかは分からない。
憂ちゃんに似せた髪型の方こそ気紛れだったのかもしれない。
でも、どっちでもよかった。
唯がどんな選択をしたって、私はそれを支えてやるだけだ。
私は軽く笑ってから、唯に言ってやる。


「おまえこそこんな所でどうしたんだよ、唯。
風邪ひくぞ?」


「むー……、私だってそんなに風邪ばっかりひかないよ、りっちゃん……。
じゃなくて、私、ちょっと目が覚めちゃって、
気が付いたらりっちゃんが居ないから捜しに来たんだよ。
やめてよ、りっちゃん……。
一人で何処かに行くなんて……、心配になっちゃうよ……」


月明りに照らされた唯の表情はとても不安そうだった。
そうだな……。
私の身の安否はともかく、唯達を心配させるのは私の本意じゃない。
私は小さく微笑んでみせてから、唯の方に駆け寄って口を開く。


「悪い悪い。
ちょっと夜風に当たりたくなってさ。
心配掛けて悪かった。もうしないよ、唯」


「本当……?」


「ああ、本当だ。約束する。
だから、そんな悲しそうな顔すんな。」


言いながら、手を伸ばして唯の頭を撫でる。
約束だ。唯が、皆が悲しむ事はもうしない。
悲しくて辛いのは私だけで十分だ。

唯の手を引いて、「戻ろうぜ」と耳元で囁く。
屋上の扉の中に入って、ゆっくり扉を閉める。
私の心の扉を閉める。
和、憂ちゃん、純ちゃんの思い出が入ってる心の扉に鍵を掛ける。


「……ごめん」


気が付けば私はそう呟いてしまっていたけど、
その言葉が唯の耳に聞こえてしまったかどうかは、分からない。
405 :にゃんこ [saga]:2012/05/08(火) 17:50:20.41 ID:KV32gPEW0


今回はここまでです。
ピックの話の回でした。
406 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/09(水) 00:17:52.36 ID:qNz4MzeDo

ピック捨てちゃったのか、なんか哀しいな
ピックと一緒にあの3人も戻ってくる未来があればいいんだが今のところグッドにもバッドにもいけそうな雰囲気だから予想がつかない
407 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/09(水) 06:42:23.84 ID:nYzSszvN0
乙です
りっちゃんの心が今にもポッキリ折れてしまいそう…
りっちゃんが自分のことを好きになれる日がくるといいな
408 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:44:07.55 ID:OawZK8Yu0





澪と二人きりでロンドンの街を歩く。
ロンドンに転移させられてから七日目。
ここ三日連続くらい、私は澪と一緒にロンドンの街を探索している。
本当は唯とロンドンを回りたかった。
今まで避け続けてた唯の支えになってやりたかった。

だけど、それは出来なかった。
私が唯を避けてるからじゃない。
今度こそ、それは嘘じゃない。
唯が私を避けているからだ。
どうして避けられてるのかは分からない。
あの夜、ホテルの屋上で話をして以来、唯は私と視線を合わせようとはしなかった。
落ち着いて話をしようとしても、ムギか梓を連れていつの間にか何処かに行ってるんだ。

嫌われてしまったんだろうか……。
いや、唯はそう簡単に人を嫌うような奴じゃないはずだ。
人を嫌える奴じゃない。
色んな人を好きになっちゃう奴なんだ。
少なくとも、私の中では唯はそういう奴だった。

だったら……、どうして唯は私を避けるんだろう。
今の所、思い当たる事は何も無い。
避けられる憶えは無いんだよな……。
でも、多分、何かの理由があるはずだ。
私はそれを深く踏み込んで聞いちゃいけない気がしてる。
私だって澪とどうしても視線を合わせられない時があった。
誰だって何かの事情を抱えてる時があるんだ。
だから、唯が私と話したい時が来る時まで、待とうと思う。
それもあいつを支えてやるって事のはずだから。

ロンドンの外回りについては、
まだ心配してくれてるのか、何度か梓が私を誘いに来てくれた。
一緒に風呂に入った時、私の様子が変だった事に気付いてるのかもしれない。
気を遣ってくれるのは嬉しかったけど、それは断った。
梓の傍に居てまた自分が抑えられなくなるのが怖かったからだ。
梓の未来を私の勝手な行動で無茶苦茶にしたくない。
でも、それと同じくらい大きな理由がもう一つある。
梓の優しさを皆にも分けてあげてほしい。
私に前に進む翼をくれたみたいに、ムギや唯にも翼をあげてほしい。
梓の優しさを感じさせてあげてほしい。
そう思ったから、私は梓の誘いを断ったんだ。

誘いを断った時、梓は少し寂しそうな表情を浮かべたけど、
「最近、澪と二人っきりになる事も少なかったからな」って言うと、納得してくれた。
「仲の良い幼馴染みですよね。
正反対なお二人が仲良しだなんて、未だに不思議です。
それにしても、律先輩ったら意外と寂しがり屋だったんですね」って生意気な事も言いながら。
少し不本意だけど、それでもよかった。
澪と一緒にロンドンを歩いてみたいってのも、私の本音には違いなかったから。
409 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:44:33.78 ID:OawZK8Yu0
「卒業旅行の時は時間が全然足りないって思ったもんだけど、
流石に一週間も回ってると、回る所も無くなってくるよなー……」


自転車に乗って、隣を走る澪に声を掛けてみる。
澪は少し苦笑して応じてくれた。


「そうだな、もう回り切ったって感じだよ。
それも仕方無いとは思うけどさ。
観光してるわけじゃないし、回るのはデパートやスーパーばっかりだし。
しかも、交通手段が自転車しかないから、回れる所も限られてくるからな……」


「交通手段が自転車だけってのは痛いよなー……。
……いっそ、誰かの自動車を借りてみるか?」


「む、無理無理無理!
大体、誰が運転するんだよ!
誰も運転免許なんか持ってないだろっ!」


「いやいや、ムギは結構、運転出来るみたいだぞ?
教習所には通ってないみたいだけどさ、
執事の人に少しずつ教えてもらってるらしい。
私達とさ……、車で遠出するのが夢だって言ってた。
楽しそうだよな、車の遠出……」


「いや、確かに楽しそうだし、ムギの夢は叶えてやりたいけど……」


「それに私の運転だってかなりの腕前だぜ?
おまえだって私のレースゲームの腕、知ってるだろ?」


「甲羅投げたり、ジャンプしたりするレースゲームと現実の運転を一緒にするなっ!」


「ごめん、冗談だよ、冗談」


自転車に乗りながらでも澪の拳骨が飛んで来そうだったから、先に謝っておいた。
こいつ……、どんな所でも反射的に私を殴って来るからなあ……。
それこそ吊り橋の上でも殴って来た事あるぞ、こいつ……。
まあ、その時、悪かったのは、
吊り橋の上で怖がる澪をからかった私だったわけだけどさ。
410 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:45:01.03 ID:OawZK8Yu0
でも、私は自転車を停めて、真剣な表情を澪に向けた。
少しだけ先に行った澪も自転車を停め、私の方に振り返って言った。


「どうしたんだ、律?」


「車を運転するってのは半分冗談だったけどさ、半分は本気なんだよ、澪。
そろそろ本気で考えなきゃいけないって思うんだ。
このままロンドンに居るのか、他の街に行ってみるのか……ってさ。
それでもし他の街に行ってみるんだったら、必然的に車は必要になってくるもんな……」


私が言うと、澪も真剣な表情になって頷いた。
長い髪を横に流すと、口を開き始める。
やっぱり、澪だって考えてなかったわけじゃないんだ。


「そうだな、律。確かにそうだよ。
私もずっと考えてた。
このままロンドンに居ていいのか、違う街に行くべきなんじゃないかって。
それこそ、日本を目指すべきなんじゃないかってさ。
日本に戻ればさ……、確証は無いけど……、ひょっとしたら……」


それ以上の言葉を澪は言わなかった。
確証の無い言葉を続けられるほど、私達は希望を持ててない。
でも、澪が何を言おうとしてるのかは分かった。
日本に戻れば、私達の街に戻れば、和達が待っててくれてるんじゃないかって。
今も和達はそこに居るんじゃないかって。
そうだったら、どんなにいいだろう。
もう一度、三人と会えるんだったら、どんなにいいだろう。
唯達はどれだけ喜んでくれるだろう……。

勿論、確証なんて一つも無い。
和達が日本で待ってくれてる可能性は、きっと相当低い。
そんな気がする。
大体、日本までどうやって戻るってんだよ。
日本は島国だぞ?
自動車だけじゃどうやったって辿り着けない。
韓国辺りまで行って、船か飛行機でも操縦するか?
それこそどうやって操縦するってんだよ。
いくら何でもムギだって船と飛行機を操縦するのは無理だろう。
どうやって戻れってんだ……。

それでも、このままロンドンに滞在する事が得策だとも思えなかった。
ずっとロンドンに居たって、少しずつ精神を擦り減らしていくだけだ。
永住する決心が出来ない限り、
いっそ当ての無い旅に出た方がマシな気もしてくる。
当てが無くても、少しでも前に進めるなら、そっちの方が安心は出来る。
411 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:45:58.90 ID:OawZK8Yu0
だから、考えなきゃいけない。
私達は考えなきゃいけないんだ。
これからの自分達の生きていく道を……。


「唯とムギはさ……」


不意に澪が呟き始めた。
そうだな。それも考えなきゃいけない事だった。
私達の道は、私と澪だけの意志で決めていい事じゃない。
私、澪、唯、ムギ、梓の五人で決めるべき事なんだ。
私は真剣な表情を澪に向けて、澪の次の言葉を待つ。
数秒経って、澪が静かに口を開いた。


「まだロンドンで三人を捜したいみたいだ。
でも、一応、ムギの方は他の街にも行ってみたいって言ってたよ。
ムギも散々捜して気付いたんだと思う。
ロンドンに和達は来てないんだろうって。
和達は何処か違う街か世界に居るんだろうって。
でも、完全には諦め切れてないみたいでさ……、
もう少しだけ……、もう少し納得出来るまで捜したいらしい。
それはそれで大切な事なんだって私も思うよ……。

だけど、唯は……、唯はさ……」


澪が視線を散漫とさせる。
躊躇いがちに何度も呼吸する。
唯が何か変だって言うんだろうか。
私はそれを察して、澪に訊ねてみる。


「唯の恰好の事か?
あいつ、半日に一回くらい、
憂ちゃんみたいな髪型して、和みたいな眼鏡を掛けてるもんな……。
でも、あれは、きっと……」


あいつの決心だ。
とは言えなかった。
私の言葉が終わるより先に、澪が首を横に振ったからだ。
予想外の澪の行動だった。
私は思わず間抜けな質問をしてしまう。


「違う……のか……?」


「うん、違うよ、律……。
いや、違ってないけど、違うんだ……。
唯のあの恰好を見た時は私も驚いたよ。
過去に……、思い出に逃げ込んでるのかって思った。
でも、それは違ったんだんだよな。
唯は和達を忘れないためにあの恰好をしてるんだ。
それは唯の決心で、私は唯の選択肢を尊重したい。
まっすぐに思い出に目を向けてられる唯は、本当に凄いなって思う。

でもさ……。
ここ三日くらいの唯は変じゃないか……?
特に唯の奴、律と視線を合わせようとしてない気がするんだよ。
律……、唯と何か……、あったのか……?」
412 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:49:21.35 ID:OawZK8Yu0
分かるわけがなかった。
私だってその答えは出せてないんだ。
でも、やっぱりな、って妙に納得もしていた。
澪達が見てて分かるくらい、私達の関係は変になっちゃってるんだ。
それをどうしたらいいのかは、分からない。
私が黙ってるのを不安に思ったのか、澪が静かな声で続けた。


「ごめん、律……。
当人同士の問題なのに口出しちゃって……。
でも、もし私に何か出来る事があったら……」


澪の申し出はありがたかった。
でも、それは澪のためにも唯のためにもならない気がした。
私と唯の問題は私達が解決するべき事だし、
唯だって何か考えがあっての行動のはずだ。
だから、私に出来る事は……。

私は自転車から降りて、澪に近付いてその肩を叩いた。
澪は何の心配もしなくていいんだって伝えるために。


「ありがとうな、澪。
でも、大丈夫だよ。
私達が考えてるのと同じように、唯だって何かを考えてるだけなんだ。
だから、あいつの好きにやらせてやろうぜ?
私はあいつの答えが出るまで待つつもりだよ。
それまで私はどっちの準備もしておく。
ロンドンに滞在する準備と、何処か違う街に行く準備をさ。
両方の準備をしておけば、皆の答えが出た時にすぐ行動が起こせるだろ?」


それは澪を安心させるための言葉だったけど、本音でもあった。
私は皆の選択肢の支えになれたら、それで嬉しい。

だけど、澪は更に不安そうな表情になって、逆に私の両肩に手を置いた。
何故かとても……、辛そうな表情だった。


「皆の答え……って、律のは……?
律の答えは……、どうなの……?
律はどうしたいの……?」
413 :にゃんこ [saga]:2012/05/09(水) 19:50:07.99 ID:OawZK8Yu0


此度はここまでです。
そろそろ決断の時が迫ります。
414 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/05/10(木) 06:39:39.48 ID:cIE4BGlmo
乙乙
415 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:18:02.95 ID:7lmMqyTV0
私がどうしたいかだって?
そんなの決まり切ってるじゃないか。
私は肩に置かれた澪の手を取って、真面目な顔で言ってみせた。


「皆の出した答えが私の答えなんだよ、澪。
皆がどんな答えを出したって、
おまえがどんな答えを出したって、
私はどんな答えでも実現出来るように、精一杯フォローしたいんだ。
皆の手助けが出来るって事が、私の一番嬉しい事なんだよ」


それは私の心の底からの本音だった。
私はこれまで、皆のためにほとんど何も出来てない。
だから、何かをしたかった。
こんな頼りにならない部長の私でも、
いや、頼りにならない部長だからこそ、皆の答えを支えたいんだ。
それが私の答えなんだ。

でも、澪は辛そうな顔のままで首を振った。
それは滅多に見せる事が無い澪の本当に辛そうな顔だった。
澪は怖がりだ。色んな事からすぐ逃げるし、何にだって怯えがちだ。
だけど、本当に辛そうな表情を見せる事は少なかった。
特に澪は自分に何かが起こったからって、辛そうな表情を見せる奴じゃない。
前に澪がこんな顔を見せたのは、確か、そう、私が骨を折った時の事だったはずだ。
澪はそういう奴なんだ。そういう幼馴染みなんだ……。

澪が口を開く。
普段の私に似た口調じゃなくて、小さな頃に戻ったみたいな口調で喋り始める。


「駄目だよ、律……。
そんなの、絶対に駄目だよ……。
律は律で、自分の答えを出してよ……。
私達の事を支えようとしてくれてるのは嬉しいけど、でも……。
この答えだけは……、律も……、考えてよ……」


どうして澪がこんなに辛そうな顔をするのか、私には分からなかった。
ただ、私が澪を悲しませてしまってるって事だけは分かった。
私は今……、澪を傷付けちゃってるんだ……。
でも、何でなんだ?
私は皆の手助けがしたいんだ。その気持ちには絶対に嘘は無い。
和達を守れなかった分、残された皆だけは守りたいんだ。
皆、幸せで居てほしいんだ……。
そのためなら、私は何だってしたい。

だけど、澪はそれを辛いと思ってる。悲しんでるみたいだ。
私なんかに支えられたくないから……?
役立たずの私に支えられたって、足手纏いにしかならないから……?
いや、違う。そうじゃない。
澪はそんな事を考える奴じゃない。
澪は私の事を考えて、私を思いやって、辛いって思ってくれてるんだ。
長い付き合いなんだ。それくらいの澪の気持ちは分かるつもりだ。
澪の気持ちは嬉しい。
どうしてそんなに私の事で悲しんでくれるのかは分からないけど、とっても嬉しい。

でも、澪の気持ちを嬉しく思ってばかりもいられなかった。
澪の気持ちは嬉しいけど、それに甘えちゃいけないって思う。
もう決めたんだ。
私は過去を見ない事にした。自分の気持ちに溺れない事にした。
胸の痛みを感じながら前に進めるほど、私は器用じゃない。
馬鹿みたいに、全然、器用じゃない。
もう何も失わないために、皆が傍に居るために、私は精一杯皆を支えるんだ。
そのためにピックだって投げ捨てたんだ……!
416 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:18:30.43 ID:7lmMqyTV0
私は自分の肩に置かれた澪の手を握る。
強く握って、嘘っぽくても力強く笑ってみせる。


「悪かったよ、澪……。
でも、そんなに心配しなくても大丈夫だぜ?
私だって考えたんだ。考えて、考え抜いた答えがそれなんだよ。
皆と一緒に居て、皆の手助けが出来たら、すっげー嬉しいんだよ。
それが私の答えなんだよ。
皆が出してくれた答えなら、何だって納得出来ると思うしさ」


「律の言ってる事は分かるよ……。
でも……、でもね……、律……。それは……」


澪が躊躇いがちに口ごもる。
きっと澪も自分が何を言いたいのか、完全には分かってないんだろう。
心の何処かで私にそうさせちゃいけないって思いながら、その理由が分かってないんだと思う。
詳しく分かってないのは私達も同じだ、って、その澪の姿を見て、私は何となく気付いた。
私も含めて、澪もムギも梓も唯も怖がってる。
何かを失う事を心の奥底から恐怖してる。
でも、どうしてそんなに怖いのか、その理由を多分、全員が分かってない。
ただ、失うのが怖いって気持ちだけは、胸の中にずっと居座ってる。

失うのが怖いのは当然の事だ。
誰だって、大切な物を失いたくないはずだ。
そんなの当たり前じゃないか。
だけど、必要以上に怖がってるって気がしなくもないんだよ。
人が消えたとは言え、ムギってあんなに怖がりだったか?
澪もあんなに家の中に閉じこもるくらい臆病だったか?
私だって何でこんなに不安になっちゃってるんだ?

どうしてだ?
ひょっとして、私達は大切な事を忘れてしまってるのか?
この閉ざされた世界に迷い込むより先に、私達は何かを既に失ってしまってたのか?
思い出せない。そこの記憶がすごく曖昧だ。
私達は本当にあの夏休みの日に、この世界に迷い込んだのか?
本当はもっと後だったんじゃないか?
あの日、梓達と合流した時じゃなくて、もっと後、何かが起こって私達は……。

そう思うのには、ちゃんとした根拠もあった。
私の中のはっきりとしない記憶の事だ。
あの夏休みの日、強い風が吹いた時、さわちゃんはそこに居なかったはずだ。
眼鏡の新入生のあの子だって居なかったはずだ。
だけど、不意に思い出すんだ。
その場に居なかったはずの二人の姿を、その風景の中に。
心地良い疲れを感じながら、皆で帰り道を歩いてたような、そんな気がするんだ。
同時に強く感じる。
何かを失ってしまったっていう、今にも叫び出したいくらいの喪失感を。
417 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:18:57.41 ID:7lmMqyTV0
「澪、おまえは……」


訊ねようとしたけど、すぐに私もそれ以上の言葉を出すのを躊躇った。
訊ねてどうなるって言うんだろう。
自分達の記憶が曖昧だって事に気付いて、どうするんだ?
自分の記憶すら信じられない状態になって、もっと不安になっていくつもりか?
他に出来る事や、やるべき事があるんじゃないか?
いや、それでも、答えを知る事はきっと前に進むきっかけにも……。
色んな感情や考えが頭の中でぐるぐる回る。
この答えだけは、出さなきゃ……。
皆が一緒に居るためにも、この答えだけは出せなきゃいけない……。


「律先輩! 澪先輩!」


急に甲高い声がロンドンの街に響いた。
急な事に驚いた私達は身体を離し、声の方向に視線を向ける。
その場所では、梓が自転車に乗って凄い速度で私達に迫って来ていた。
どうしてこんな所に?
いや、梓が私達の居る場所を分かってるのは不思議じゃない。
ロンドンに転移させられて以来、
私達は街を回る時、前もって皆で地図を見ながら回る道順を決めている。
勿論、連絡手段が全く無いし、お互いの居場所が分からなくなったら困るからな。
流石に狼煙で緊急事態を伝えるわけにもいかないし……。
だから、念のため、私達は前もってその日に回る道順を決めてたんだ。
梓に私達の居場所が分かってても、何の不思議も問題も無い。

でも、この場所に梓が姿を見せたって事が問題なんだ。
しかも、一人っきりで。
皆で手を繋いで行動する事を提案した梓が、
私を風呂の中でも一人にしたくなかった梓が、一人っきりでこの場所にやって来たんだ。
よっぽどの事があったんだ……。
胸を不安が支配していく事に気付く。
その場に立っていられない不安感。
私は思わず梓の方に駆け寄ろうとして……、出来なかった。
その場から動き出せなかった。
足が固まって、踏み出す事が出来なかった。

緊急事態の詳細を知るのが怖いってのはある。
これ以上、自分達の身に降りかかる災難に目を向けたくないって弱気は勿論ある。
でも、それよりも動き出せない理由が、私にはあった。
梓の事だ。
梓の傍に近寄るのが、怖かった。
そんな事はもう無いと思う。
無いと思うのに……、もし梓に近付いた時に、
私が自分を抑えられなかったらどうしようって思ってる。
私の胸に突然衝動が湧き上がって、それでもう一度自分を押し留められる保証はない。

その不安には、梓の身体が小さいって事も関係してる気がする。
梓の身体は小さい。小柄って言われる私よりも更に小さい。
だから、余計に怖いんだ。
唯、ムギ、澪なら私が自分を抑えられなくなっても、止めてくれると思う。
唯もああ見えて、それなりに力がある奴だし、意志も強い奴だからな。
でも、梓はきっと無理だ。
小柄で、優しい子だから、
私が変な衝動に囚われても、受け入れてくれるんじゃないかって思う。
嬉しいけど……、そんなのは駄目だ。
梓の優しさに甘えてちゃ駄目なんだ。
自分の弱さを慰めててもらってちゃ、私はもっと弱くなる。
今まで以上に、前に進めなくなる……!
418 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:19:48.05 ID:7lmMqyTV0
結局。
先に梓の方に駆け寄って行ったのは澪だった。
梓が自転車から降りて、澪がその梓の肩に両手を置くのを見届けてから、
やっと私は自分の足を動かす事が出来た。どうにかこうにか、やっとの事で動き出せた。
そうして私は、澪から何十歩も遅れて、歩き出した。


「どうしたんだ、梓?
非常事態なのか?
唯かムギに何かあったのか……?」


さっきまでと違って、逞しい姿と口調で澪が梓に訊ねる。
切り替えの早い奴だな、って思う。
誰よりも怖がりなのに……、
いや、誰よりも怖がりだからこそ、澪は恐怖との付き合い方を知ってるんだ。
怖いくせに、不安になってる梓を安心させてやるために、気丈な姿を見せてるんだ。
くそっ……、やっぱり何も出来てないのは私だけじゃないか……。
もっともっと色んな物を心の中に閉じ込めて、皆の足手纏いにならないようにしないと……!


「あ、はい……! 実は……、あの……っ!」


梓が私の方に視線を何度か向けながら喋り始める。
普段なら一番先に駆け寄るはずの私の足が遅い事が気になってるんだろう。
そりゃ気になるよな……。
私は意を決して、急いで梓の傍にまで走り寄った。
ただし、梓と澪からは少し離れた距離に。
梓はその私の距離をまだ気にしてたみたいだけど、
それどころじゃないと思ったらしく、澪に向けて言葉を続けた。


「今、ムギ先輩に付き添ってもらってるんですけど……、
唯先輩が……、唯先輩の様子がおかしくって、それで……っ!
それで私、先輩達を呼びに……っ!」


「唯が……っ?」


澪が小さく叫ぶ。
私も叫びたかったけど、それはどうにか押し留めた。
この三日くらい、様子がおかしかった唯……。
誰よりも大切な妹を失った唯……。
唯に何が起こったんだろう。
いや、何が起こってたって構わない。
唯に何かが起こったってんなら、私は全力であいつを助けてやるだけだ。
助けなきゃ、いけないんだ……!
澪が私に視線を向ける。
私は澪と視線を合わせ、大きく頷いてから、大声で言った。


「分かった!
戻るぞ、澪、梓!
唯に何が起こったのかは、帰り道で詳しく教えてくれ!」


言った後、私と澪は急いで自分の自転車に乗り直した。
梓は少しだけ安心したみたいで、私達の様子を静かに見ていてくれたけど……。
私の気のせいかもしれないけど……。
その梓の視線はとても……、とても寂しそうに見えた。
419 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:20:18.35 ID:7lmMqyTV0





梓から話には聞いてた事だったけど、
ホテルの部屋に戻って唯の姿を見た瞬間、私は自分の胸が強く痛むのを感じた。
もっと早く気付いてやれてれば、と後悔の心が湧き上がって来る。
でも、後悔してるだけってのは、自分自身で許せなかった。
私はベッドの横で心配そうに唯を見守るムギに静かに声を掛ける。


「唯の様子は……、どうなんだ……?」


ムギが泣き出しそうな表情を私に向ける。
ベッドに横になってる唯と二人きりで不安だったのかもしれない。
私はムギの肩に優しく手を置いてから、口を閉じた。
ムギが話し始めるのを待とうと思ったんだ。
十秒くらい経ってから、少しは落ち着いたのか、ムギが口を開いてくれた。


「うん……、唯ちゃんはさっき眠ってくれた所よ……。
少しうなされてたみたいだけど、今はちょっと落ち着いたみたい……」


「そっか……」


呟いて、私はムギの隣で膝立ちになった。
そうして、ベッドに横になって寝息を立ててる唯の顔を見ながら呟く。


「風邪……なのか……?」


「うん、多分……。
風邪……だと思うよ……。
唯ちゃん……、ずっと気を張ってたみたいだから……」


私の質問には、ムギが自信なさげに応じてくれた。
「薬はのませたのか?」と聞こうと思ったけど、すぐに私は口を噤んだ。
ムギは「風邪だと思う」って言ったんだ。
風邪って確証も無いのに、勝手に薬を飲ませていいものなのか、私は知らない。
気が付けば、机の上には沢山の薬の箱が置かれていた。
箱には英語が書いてある。
当然だ。ここはロンドンなんだから。
封が開いてないのを見る限り、唯にはまだ飲ませてないみたいだ。
勿論、ムギに英語が分かってないからじゃない。
副作用を考えて、服用させるのを自重してるってだけだって事はすぐに分かった。

ムギはずっと私達が病気になるのを心配してた。
私は知ってる。
私と街を回ってる時、辞書を片手に必要になりそうな薬を探してくれてたって事を。
それも私達に病気を連想させないように、隠れて探してくれてたって事を。
……当然だけど、ムギは私達が思う以上に、私達の事を考えてくれてるんだ。
420 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:20:58.21 ID:7lmMqyTV0
それだけにムギが辛く思ってる事もよく分かった。
薬だけはどうにか集められたけど、
肝心な処方のタイミングが分からないんだろう。
でも、それは仕方が無い事だ。
ムギだけじゃなく、私達には簡単な医療の知識すら無いんだから。
病気の事なんか、私達には何も分かってないんだ……。

ムギが拳を握り締めて、絞り出すような言葉を出し始めた。
ムギらしくはないけど、言わずにはいられない事だったんだろう。


「ごめん……、ごめんね……。
皆に病気や怪我に気を付けてって言っておきながら、私……。
何も出来なくて、ごめんね……。
本当にごめんね、唯ちゃん、りっちゃん……」


ムギのせいじゃないよ、とは言えなかった。
多分、ムギはそんな言葉を望んでない。
それが私の本心からの言葉でも、きっとムギはもっと傷付くだけだ。
私がそうだったみたいに……。

私は何も言えなくて、自分自身の無力を感じながら、
それでもどうにか横になってる唯の顔に視線を向けてみる。
唯はかなり赤い顔をしていた。
寝息こそ立ててはいるけど、たまに乱れる呼吸がとても苦しそうだ。
部屋の外で待っててもらってる梓によると、
そんなに重い病気じゃなさそうだとは言っていた。
熱も38℃前後だし、咳やくしゃみが多いわけでもないらしかった。
大した病気じゃないはずなんだ。
環境が一変してしまったから、単に体調を崩してしまっただけのはずなんだ。

だけど、それが確定したわけじゃないって事は、梓もムギも分かってるみたいだった。
私達は病気の事について何も知らない。
想像以上に、何も分かってない。
私達に出来るのは、ただ傍に居て看病する事だけだ。
それ以外、何も出来ない。
それがすごく……、不安だ……。
421 :にゃんこ [saga]:2012/05/11(金) 18:21:35.56 ID:7lmMqyTV0


今夜はここまでです。
唯が体調を崩してしまいましたが、また次回もお願いします。
422 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/11(金) 19:06:55.42 ID:6K1G6IEq0
乙です

>もっともっと色んな物を心の中に閉じ込めて、皆の足手纏いにならないようにしないと……!

りっちゃん、これはあかん…
423 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:43:23.38 ID:To/8p/je0
それにしても、無理のし過ぎだよな、唯……。
自分の体力の限界も知らないとか、小学生かよ……。
でも、思い返してみれば、唯が体調を崩す兆候はあった。
ロンドンに転移させられた次の日、唯は午前中しか行動出来てなかった。
あの唯が、午前中しか動けてなかったんだ。
私はその事に気付くべきだった。
いや、気付いてはいた。
でも、自分の事ばかり気に掛けてて、私はそれを気にする事が出来なかった。
自分の弱さに耐え切れず、梓の優しさに甘えちゃってたんだ、あの日は……。
何処までも自分本位な自分自身が情けなくなる。

だけど、一つ深呼吸。
もう迷わない。
唯が疲れてるなら、唯が辛いなら、私はその手助けになろう。
皆の足手纏いにならないよう、精一杯生きよう。
それがこの世界で私に出来る唯一の事だと思うから……。

私は腕を伸ばして唯の額に手のひらを置いてみる。
……熱い。
大体38℃くらいらしいけど、そうとは思えないくらい唯の額はすごく熱かった。
こんなに無理して……、強い意志を持って……、
思い出を守ろうとしてたんだな、こいつは……。
これが私の選べなかった選択肢を選んだ唯の姿……。
私と唯のどっちが正しいのかは分からない。
でも、せめて唯の選択肢だけは、私自身も含めて誰にも否定させたくない。


「……ん……?
あ……、りっ……ちゃん……?」


呻くような唯の声が響く。
どうやら目を覚ましてしまったらしい。
私の手のひらが冷たかったんだろうな。
折角さっき寝付けたらしいのに、何だかとても申し訳ない。
私は唯の額を撫でながら、小さく囁いた。


「悪い……。起こしちゃったみたいだな……。
体調は……、まあ、悪いんだろうけど、休む邪魔しちゃってごめんな……。
寝るのに邪魔みたいだったら、すぐ隣の部屋行くからさ」


「いい……よ、りっちゃん……。
りっちゃんの手、小さくて、冷たくて、気持ちいいし……。
傍に居てくれて、嬉しいし……。
だから……ね?
りっちゃんが邪魔だなんて……、私、思ってないよ……?」


「そっか……、ありがとな……」


軽く唯の頭を撫でる。
やっぱり、かなり熱い。
今のだけでも、結構無理をさせちゃってるんだろう。
私は唯に休んでもらうため、それ以上何かを言うのはやめておいた。
424 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:43:56.29 ID:To/8p/je0
「唯ちゃん、平気?
痛い所とかない? 水枕代える?
今、氷を切らしちゃってて、ごめんね……。
もうすぐ新しい氷が出来るはずだから……」


ムギが泣き出しそうな表情で唯に訊ねる。
自分に何も出来てない事を悔しく思ってるんだろう。
でも、悔しいのは私も同じだった。
ムギはずっと心配してくれてた。病気の心配をずっとしてた。
私はこんな事態になるまで、それを考えないようにしてた。
病気になったら大変なんだって、そういう事を考えないようにしてたんだ。
怖かったから……、逃げてたんだ……。
逃げてばかりいた私。でも、もう逃げられない。
向き合わなきゃいけない、ムギを見習って、私も……。

呻きながら、それでも、唯はムギに笑顔を向けて言った。
こんな時なのに、普段と同じ幸せそうな微笑みだった。


「いいよ、ムギちゃん。
ありがと……。いつもすまないねぇ……」


「えっ、えっと……」


突然の言葉にムギが面食らった表情を見せる。
まだ突発的なボケに対応出来るほど、ムギは突っ込み体質じゃないんだよな……。
私は唯の額から手を離して、ムギの耳元で囁いて教えあげる。
ムギは頷くと、妙に真剣な表情で唯に言った。


「そ……、それは言わない約束でしょ、おとっつぁん……!」


いや、突っ込みじゃなくて重ねボケだったか?
まあ、いいや。
とにかくムギがそう言うと、唯がまた幸せそうに笑った。
それを見て、ムギも遠慮がちに……、でも確かに笑う。
唯はこうして皆を笑顔にしていくんだよな。
どんな時だって、こんな時だって……。
私も、こんな風に誰かを笑顔に出来るんだろうか……?
今は無理かもしれないけど、いつかはそうしたい。
そうしてみせたい。

でも、不意に。
唯が私の手を握った。
何か用があるのかと思って唯の方に視線を向けて、驚いた。
唯が泣きそうな顔をしてたからだ。
さっきまでの笑顔を消して、辛そうな表情だったからだ。
私は突然の事に声を出す事が出来ない。
そんな私を見ながら、唯は私の手を強く握って言った。
425 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:44:27.03 ID:To/8p/je0
「ごめん……。
ごめんね、りっちゃん……」


最初、唯が何を言ってるのか分からなかった。
謝られてるんだって気付いたのは、それから十秒くらい経ってからの話だ。
でも、気付いた所で、何で? としか思えなかった。
何でだ?
何で唯は私に謝ってるんだ?
体調を崩した事を謝ってるのか?
でも、それなら、私の方こそ唯に謝らなきゃ……。
慌てて私は唯に返した。
謝る必要は無いんだって、唯は間違ってないんだって。
そう伝えようと思って。


「そんなに謝るなって、唯。
ゆっくり休んで美味い物食っときゃ、すぐ元気になれるはずだからさ。
だから、そんな悲しそうな……」


「ごめん……。ごめんね、本当に……」


「だから、唯……」


「本当にごめんね……」


それから後も、唯は何度も「ごめん」と繰り返した。
私はムギと顔を合わせて、二人で首を傾げてみたけど、
どうして唯がそんなに謝るのか、二人とも分からなかった。
唯が謝っている本当の理由……。
唯の言う「ごめん」は体調の事だけじゃなくて、
二重三重の意味が込められてたんだって気付いたのは、
それからしばらく後、唯の体調が今よりずっと悪化してからの事だった。
426 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:44:53.97 ID:To/8p/je0





「どういう事なんだよ……。
どうなってるんだよ……」


焦りや不安や無力感……、色んな感情が私の中を巡る。
原因は唯の体調だった。
唯が体調を崩して三日の間、
私達はロンドンの探索を一旦中断して、交代制で唯の様子を見ていた。
ムギが見つけた医学書を翻訳して唯の診断をしてみた結果、
恐らくは単なる風邪なんだろうって事になった。
生き物が居ないこの世界にウイルスが居るのかって話だが、
厳密には生物じゃないらしいウイルスならこの世界にも存在出来てるのかもしれない。
いや、そんな事はどうでもいい。
とにかく唯は単なる風邪のはずだったんだ。

だけど、唯の体調は全然治らなかった。
治らないどころか、悪化するばっかりだ。
声を出す事すら辛そうになってるし、
寒気も感じてるみたいだし、熱なんかさっき計ったら40℃もあった。
40℃だぞ?
確か私も一度40℃の熱を出した事があったけど、
あれは思い出すのも嫌になるくらい辛かった覚えがある。
あの時はこのまま死んじゃうんじゃないかって本気で思った。
いや、死にはしなかったから、今ここに私が生きてるわけだけど……。

でも、その想像は私の背筋に寒気を感じさせた。
死ぬ……? 唯が……?
いやいや、そんな事があるか。
そんな事があってたまるか。
だけど……、考えてしまう。どうしても悪い方に考えてしまう。
前に聞いたムギの豆知識が頭の中に何度も浮かぶ。
ムギが言うには、人間は体温が41℃を超えると意識を失ってしまうらしい。
そして、42℃を超えた時には、身体中の蛋白質が固まって死んでしまうんだそうだ。

42℃……、つまりあと2℃。
あと2℃体温が上がると、唯は死んでしまうんだ。
唯が……、死んで……。
死……。
だから、違う違う!
唯は死なない! 殺しても死ななさそうな唯だぞ!
そんな唯が死ぬはずがあるか!
死なせるもんか!
唯にまで居なくなられてしまったら、私は何のために……。
何のために和達を忘れようと……!
427 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:50:47.29 ID:To/8p/je0
私は椅子に座って拳を握り締めながら、
でも、それを何処かに叩き付ける事も出来ず、私は汗を掻く唯にじっと視線を向ける。
唯は真っ赤な顔をして、喘ぐみたいに呼吸をして、呻いていた。
眠っているのか、意識が朦朧としているのか、それすらも判断出来ない。
それくらい、消耗してしまっている。
誰だよ、風邪をひいた事無いって言ってた奴は……。
こんなになっちゃって……、
こんな状態になっちゃってるじゃないか……。

私の焦りや不安を感じ取ったんだろう。
私と一緒に唯の看病をしてる澪が、私の肩に軽く手を置いた。
視線を向けると、澪は気丈な姿で私に真剣な表情を向けていた。
唯を起こさないよう、小さな声で囁く。


「もうおまえも休め、律。
そろそろムギとの交代の時間だろ?
そんな調子じゃ、律だって参っちゃうよ……」


澪が気遣ってくれるのは嬉しかったけど、私は首を横に振った。
確かに澪の言う通り、交代制なのに私無理言って唯の看病に半日くらい付き添ってる。
勿論、私に何が出来てるわけじゃない。
汗を拭いたり、たまに唯が落ち着いた時に会話をするくらいだった。
それは唯のためだったけど、それ以上に私のためでもあった。
休もうとしたって、唯の事が気になって休めるわけがない。
唯の苦しむ姿を思い浮かべるだけで、不安に押し潰されてしまいそうになる。
だから……、唯の傍から離れたくない……。
でも、澪はもう一度、私に諭すみたいに言った。


「頼むよ、律……。
唯の事は勿論心配だけど、私はおまえの事だって心配なんだ。
風邪って決まったわけじゃないけど、
もし唯が本当にウイルス性の風邪だったらどうするんだ?
律まで体調を崩して寝込んじゃったら、どうするんだよ?
そんなの皆に迷惑じゃないか」


皆に迷惑……。
そう言われてしまうと弱かった。
その通りだ。全くその通りだ。
私はまだ皆のために何も出来てない。
いや、出来てないどころか、むしろ迷惑しか掛けてない気がする。
辛い……、それが本当に辛い……。
皆の手助けが出来てない私に、一体どんな存在価値があるって言うんだろう……。
胸の痛みを感じて、私は視線を伏せる。

言い過ぎたと思ったのか、澪が腰を下ろして、
私の伏せた視線と同じ高さになって、悲しそうな声を出し始めた。


「ごめんな、律……。
でも、言い過ぎたとは思ってないよ。
皆、唯の事を心配に思ってるし、看病したいと思ってるんだ……。
それでも、我慢してるんだよ。
唯と同じくらい、律の事だって心配してるから、我慢してるんだから……」
428 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:51:37.26 ID:To/8p/je0
心配?
私は皆に心配掛けちゃってるのか……?
私が皆を心配したいのに、逆に私の方が……?
やっぱり、私は皆の足手纏いなんだろうか……。
だけど……。
「でも」、と私は澪に言った。


「でも、私、思うんだよ……。
もっと早く唯の様子に気付いてやればよかったって。
私は自分の事ばかり考えてたから、唯の体調の変化に気付けなかったんだ……。
唯が憂ちゃんみたいな髪型をし始めた日からじゃなくて、
もっとずっと前から、唯を気に掛けてやればよかったんだ。
気に掛けたかったんだ……。
そうすれば、唯はこんな事には……」


「それは……、律の責任じゃないだろ?
唯の異変に気付けなかったのは、私達も同じなんだから……。
特に憂ちゃんの髪型を真似した次の日から、唯の様子は特におかしかったらしい。
梓に聞いたんだけど、唯は体調を崩す前、
ずっとホテルの周りを徘徊してたらしいんだ。
梓達と一緒に家事をしてる時でも、
気が付けば姿を消して、ホテルの周りを徘徊してたらしい。
何度注意しても、それだけはやめてくれなかったみたいだ。
もしかしたら、私達が寝てる時にも、部屋を抜け出してたのかもしれない」


それは知らなかった。
私はやっぱり唯の事について、何も知らない。
過去を捨てて、皆の未来を守ろうって決心した後でさえ……。


「何だよ、それ……」


それは唯に向けた言葉じゃない。
自分に向けた言葉だ。何も出来ず、何も知らなかった自分に対する言葉だった。
でも、澪はそれを唯に向けた言葉だって思ったのか、
少し目を伏せて、辛そうに言葉をこぼすみたいに続けた。


「そんな風に言わないでやってくれ、律……。
唯だって精一杯なんだ。
精一杯、この世界で何が出来るか探してるんだよ。
勿論、私達だって……」


「いや、今のは……、唯に言ったんじゃなくて……」


「それでも、だよ。
律、最近、無理し過ぎだよ……。
ううん、最近じゃないな。
ずっと……、この世界から生き物が消える前からずっと……。
律はずっと皆のために頑張ってくれてるって、皆分かってるから……。
だからね……、そんなに自分を追い詰めないで……」
429 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:53:23.97 ID:To/8p/je0
頑張ってるのを、皆が分かってくれてる……?
嬉しいけど、分かってくれてても、それだけじゃ駄目なんだよ、澪……。
皆の役に立てなきゃ、駄目なんだ。怖いんだ。
何より、自分自身がそんな自分を許せないんだ……。

勿論、それを声に出しては言わなかった。
言っちゃいけない。
そんな私の想いまで、澪に押し付けちゃいけない。
そういう事は、自分の中で抱えてなくちゃいけないんだ……。

それにしても、唯は本当に何をしていたんだろうか。
夜に部屋を抜け出してたかもしれないって、そんなんじゃ体調崩して当然じゃないか。
唯だって必死なんだろうけど、
憂ちゃん達が大切なんだろうけど、それで自分の体調を崩してちゃ本末転倒ってやつだ。
責めるわけじゃないけど、少しは自分の身も案じてほしかった。
憂ちゃん達と同じくらい、唯の事を大切に思う人間も沢山居るんだから……。
だから……、元気になってくれ、唯……。
元気になったら、思う存分叱ってやるから、だから……!
おまえが元気になるためだったら、何でもしてやるから……!


「ん……、あ……」


急に呻き声が聞こえる。
澪と一緒に視線を向けると、やっぱり呻き声を上げたのは唯だった。
目を薄く開いて、私達の方に顔を向けている。


「お……はよー……。
りっ……ちゃん、澪ちゃん……」


途切れ途切れな言葉を出しながらも、唯は軽く微笑む。
こんな身体で……、それでも、唯は笑う。
唯って奴は本当に……。
私はつい泣きそうになってしまう自分に気付きながら、小さく唯に囁いた。


「おはよう、唯。
まだ熱が下がってないんだから寝てろって。
でも、何かしてほしい事があったらすぐ言えよ。
出来る限りのお願いは聞いてやるからさ」


「あは……っ、ありがと……。
じゃあ……、おでこに……、手置いてくれる……?
りっちゃんの手……、冷たくて気持ちいい……んだよね……」


「お安い御用だ」


言ってから、私は唯の額に手を置いた。
相変わらず……、物凄く熱い。
唯は……、こんな熱に苦しんでるのか……。
今だって相当辛いに違いない。
でも、唯は変わらない笑顔で言ってくれた。
430 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:53:51.01 ID:To/8p/je0
「えへへ……、りっちゃんの手……、気持ちいいな……。
ありがと……ね……」


まったく……、おまえ、今凄い熱なんだぞ……。
お礼なんてやめてくれよな……。
お礼なんてなくたって、何だってやってやるからさ……。

澪はそんな私達に目を細めてくれてたみたいだけど、
不意に真面目な声色になってから、唯に向けて言った。


「律の手の冷たさを感じるのもいいけど、折角起きたんだ。
辛いだろうけど、身体を起こしてくれるか?
汗を拭いて、服を着替えよう。
服が汗を吸って凄い事になってるからな」


「ええぅ……?
恥ずかしいなあ……」


「病人が恥ずかしがるな。
と言うか、毎日やってる事だろ?」


澪が微笑んで突っ込むと、唯が軽く頬を膨らませた後で笑った。
頷いて布団をどけると、汗でびっしょりのパジャマを脱ぎ始めようとする。
だけど、熱のせいだろう。
手元が震えてパジャマのボタンを外せないみたいだった。
私は唯の手を握ると、その手を使って一緒にボタンを外してやった。
意外とかなり膨らみのある唯の胸が露わになる。
羨ましい……と思うよりも、心配になった。
パジャマの下の唯の肌は胸も含めて、熱のせいで真っ赤になってた。
早く少しでも楽にしてやらないと……。

私は澪に唯のパジャマを手渡すと、代わりにタオルを受け取った。
背中から丁寧に汗を拭いていってやる。
くすぐったいのかたまに変な声が上がってたけど、それは気にしない事にした。
背中を拭き終わり、前も拭こうとすると、私の手は唯にの手に力無く握られた。
唯が照れたように呟く。


「ま……、前は自分でやるよう……」


「遠慮するな」


「え……、遠慮じゃなくって……」


「そんな力の入らない手で汗が拭けるかっての。
いいから私に任せたまえ、唯隊員」


「むー……、りっちゃんのえっちぃ……」


「誰がエッチだ。
ほら、パンツも脱がすぞ。変に動くなよ」


「んもう……」
431 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:54:36.29 ID:To/8p/je0
口を尖らせながらも、唯は私の言葉に従ってくれた。
脱がせた唯のパンツは少し重いくらい汗を吸っていた。
こんなに汗を掻いてたのか……。
よっぽど苦しかっただろうな……。
せめて、その苦しみをこのタオルで少しは吸い取ってやりたいな……。
そう思って、一生懸命に唯の汗を拭いた。

大雑把って言われる私だけど、精一杯丁寧に唯の身体を拭いたつもりだ。
吹き出す汗を止める事は出来なかったけど、
唯の身体に纏わりつく古い汗は全部拭けてやれただろう。
私と澪は唯に新しいパジャマを着させると、頷き合ってから二人で唯の身体を抱き上げた。


「え……っ? 何……?」


唯が動揺した様子を見せる。
そりゃいきなり二人に抱き上げられたらびっくりするよな。
澪がちょっと笑いながら唯に説明を始める。


「心配するな、唯。
隣のベッドに移ってもらうだけだよ。
このベッドはもうおまえの汗でびっしょりだからさ、
新しいベッドで寝た方がおまえも少しは気持ちよく眠れるはずだよ」


「それはそう……だけど……。
でもでも……、えっと……」


「何だよ? とりあえず移すぞ?」


言って、唯を隣のベッドに寝させ、上から布団を掛ける。
その間中も、唯は何か言いたげに元のベッドの方を見ていた。
いや、正確には枕……か?
この枕に愛着でもあるんだろうか?


「何だよー、唯。
枕の下にエロ本でも隠してんのかー?」


からかうみたいに言いながら、枕を手に取ってみる。
うわっ、唯の汗を吸いまくってんなあ……。
いや、そんな事より、この枕、ちょっと固い所があるな。
何だ……?
何か入ってるな……。
唯の奴、何か隠してるのか?
私は反射的に枕カバーの中に手を突っ込んでみる。


「あっ……、駄目……」


唯のその言葉はちょっとだけ遅かった。
私は唯のその言葉より先に、
枕カバーの中に入っていた固い何かの感触を感じていた。
感じた事がある気がする……。
いや、でも……、これは……、まさか……。

私は胸が激しく鼓動するのを感じながら、枕カバーの中から手を出した。
手のひらを広げて、握りこんでいた物に恐る恐る視線を落としてみる。
感触で半ば分かってはいたけど、この目で見ない事には信じられなかった。
いや、この目で見た所で、信じられなかった。

私の手のひらの上には、
あの日、投げ捨てたはずの、
過去と一緒に捨てたはずの、
ほうかごガールズのピックがあった。
432 :にゃんこ [saga]:2012/05/13(日) 17:55:39.27 ID:To/8p/je0


今回はここまでです。
お気楽な話になると思いきや……。
また次回お願いします。
433 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/13(日) 18:26:06.59 ID:Ct+DP/nko
乙っした

あー、やっぱり拾ってたのか…
りっちゃんが精神的にもうちょっと落ち着いた頃合いを見て返すまで預かってるつもりだったんだろうけど最悪の状態でばれちゃったな
まだ揺らぎまくってるりっちゃんにとってこれは追い打ちに近い大きな揺さぶりになりそう
そろそろ抱えきれなくてパンクしちゃいそうだよ
434 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/16(水) 16:07:09.56 ID:uzj6ZaSDO
汗の染み込んだ唯パン……ゴクリ
435 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:30:45.42 ID:WgkY/9oG0





頭が真っ白になった。
何が起こったのか、何が起こってるのか、分からない。
息苦しいほどの心臓の鼓動と震える自分の指先だけは感じる。
かなり長い間、放心してた様な気がする。

不意に唯に見つめられている事だけには気付き、
やっとの事で頭の中で何かを考える事だけは出来るようになった。
だけど、それだけだった。
次々と湧き上がる疑問と不安と恐怖と後悔で頭の中がぐちゃぐちゃだ。
考える事が出来るようになったって、余計に嫌な気分になっていくだけだった。
それでも、私の中の思考は止まらない。

何だよ?
どうしてピックが唯の枕カバーの中にあるんだ?
いや、分かってる。
唯が拾ったからだ。
私の捨てたピックを探し出して拾ったんだ。
ピックの事を唯がどうして知ってる?
あの日、屋上でピックを捨てた私を見てたのか?
ピックを捨てた直後じゃなくてもっと前から唯は私を見てて、
たまたま屋上に顔を出したわけじゃなくて、
ピックを捨てた私のそれ以上の行動を止めようと姿を現したって事なのか?

だけど、いくら何でも、
あの暗さの中じゃ私が何かを捨てたって事しか分からなかったはずだ。
……分からなかったはずなんだ。
でも、唯は二つだけとは言え、ピックを拾い集めてる。
三日間掛けて……、そうだよ、三日間掛けたんだ、唯は。
何の手掛かりも無く、誰にも秘密のままで、一人で探し出したんだ。
憂ちゃんより、純ちゃんより、和より、私の投げ捨てた物を優先して。
こんな状況で三日間も掛けて……。
一人っきりで……。

胸が締め付けられるように痛むのを感じる。
きっと私は喜ぶべきだったんだろう。
私の事にそんなに目を向けてくれてる親友が居るって事を、嬉しく思うべきだったんだ。
頭では分かってる。
分かってるのに……、そう考える事が出来ない。
自分にそれだけの価値があるなんて、どうしてもそう思えない。
私にはまだ何も出来てない。
出来てないだけならまだよかった。プラスマイナスゼロならまだよかった。
でも、私自身が一番よく分かってる。
私の存在はプラスマイナスゼロどころか、皆にとってマイナスにしかなってない。
ムギを不安にさせて、梓に気を遣わせて、澪に心配を掛けて、
そして、唯には……、唯には……。
436 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:31:56.43 ID:WgkY/9oG0
私の目に映るのは、辛そうな唯の姿。
40℃もの熱を出して苦しんでる唯の姿だった。
そして、唯を苦しませる事になってるのは、間違いなく私が原因なんだ……。
後ほんの少し熱が上がるだけで死んでしまう状態に追い込んでしまったのは……、
今まさに唯を殺し掛けてるのは……、
私……なんだ……。

何をしてたんだ、私は。
過去を捨てて、前に進んだ気になって、何をしようとしてたつもりだったんだ。
大体、私が皆を支えるなんて思い上がりだったんじゃないか?
私はいつだって皆に支えられて来た。
ずっと支えられて来た。
そのお返しをしたかった。
少しでも誰かに恩返しをしたかった。
私に出来る事は少ないって分かってたから、
この閉ざされた世界に来る前は、皆を楽しませる事で恩返しをしようと思ってた。
皆を笑顔にしてあげたかった。
だけど……、それは皆には迷惑だったのかもしれない……。
私は一人でずっと空回りしてただけなのかもしれない……。
自分勝手な被害妄想かもしれない。
でも、今の私には、もうそうとしか考えられない……!

梓の事にしたってそうだった。
私は自分が思う以上に弱いって事を、梓と風呂に入った日に気付いた。
誰かの体温を感じたかったんだ。
誰かの体温を感じなきゃ、孤独に押し潰されそうだった。
それで一番華奢で弱い子に頼ろうとしちゃったんだ。
一番私を拒みそうにない子の未来を奪い取ろうとしてしまったんだ。
馬鹿じゃないかって思う。
私はあんまり利口なつもりじゃなかったけど、今こそよく自覚出来た。
私は利口どころか単なる馬鹿なんだ。
自分の事しか考えられなかったどうしようもない馬鹿なんだ……。

こうなると皆の支えになりたいって想いも、我ながら怪しくなってくる。
私は皆の支えになりたかった。
皆を笑顔にしてあげたかった。
でも、それは皆のためじゃなくて、自分のためだったかもしれない。
いや、多分……、きっとそうなんだろう。
私は自分が安心したいために、笑いたいために、皆を利用してたんだ……。


「おい……、どうしたんだ、律?」


急に黙り込んでしまった私を不審に思ったんだろう。
澪が長い髪を耳元に流しながら、心配そうに訊ねてくれた。
応じられるはずがなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
口の中がカラカラだ。
胸が絶え間なく痛み続けてる。
口を開けば大声で泣き出してしまいそうだ。
私が澪に言える言葉なんて、一つも無い。
私に出来たのは、澪から顔を逸らして、
この泣き出してしまいそうな表情を澪に見せないようにする事だけだった。
437 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:32:25.51 ID:WgkY/9oG0
「おい……、律ったら……!」


澪が私の肩を掴んで自分の方に振り向かせようとする。
私の事を本気で心配してくれてるんだろう。
だけど、私にはそんな事をしてもらえる資格なんてない。
やめてくれよ、澪……。
もう私なんか心配しないでくれよ……。
だから、今の私の顔を見ないでくれ……。
見ないでくれ!


「ねえねえ……、澪……ちゃん……」


私が肩を置かれた澪の手を振り払って駆け出そうとした瞬間、不意に唯がそう言った。
熱で意識もはっきりしないだろうに、軽く微笑みながら言ったんだ。
途切れ途切れの声で、一つ言葉を口にするだけで苦しそうにしながらも……。


「どうしたんだ、唯?
苦しいんだろ? 無理に喋らなくていいから……」


澪の心配そうな言葉に、唯がまた微笑んで首を振った。


「私……、オレンジジュースが飲みたいな……」


「オレンジジュース……?
それは構わないけど……、でも、今は……」


「お願い……、澪ちゃん……」


「いや……、でも、律が……。
えっと……。

……。
……分かった。
よく冷やしてから持って来るよ、唯。
お腹壊すかもしれないから、あんまりがぶ飲みするなよ?」


澪がそう言って頷く。
唯が何を言っているのか、その言葉の意味を理解したんだろう。
私にも唯の言葉は理解出来てはいた。
唯は私と二人きりで話をしたいんだ。
澪に今の顔を見られたくない私への助け舟って意味もあるんだろうと思う。
私だって唯と二人きりで話したかった。
ピックの事や、今の気持ちや、色んな事は澪に知られたくない。
でも……、唯と何をどう話したらいいのかは、分からない。
438 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:32:54.57 ID:WgkY/9oG0
「じゃあ……、また後でな、二人とも」


そう言って、澪は部屋から出て行ったみたいだ。
みたいだってのは、結局私は澪の顔どころか姿にすら視線を向けられなかったからだ。
扉が閉まる音と澪の足音で、部屋から出てったんだろうなって判断しただけだ。
私って奴はどれだけ情けないんだろう……。

ともあれ、私はそうして唯と二人きりになった。
唯の気配りのおかげで、二人きりになれた。
話したい事は沢山あった。
話さなきゃいけない事も沢山あった。
だけど、情けない私は何をどう切り出していいか分からなかった。
病人に気を遣わせておいて、それでも、何も出来なかったんだ、私は……。


「ごめん……ね……、りっちゃん……」


結局、情けない私より先に話を始めてくれたのは唯だった。
前も聞いた言葉から、唯は切り出したんだ。
唯が言うべきじゃない言葉から……。


「隠してて……、ごめん……。
ピック……、全部揃えてから、渡したかった……から……。
隠してて……、ごめんね……。
二つしか見つけられなくて、本当に……ごめん……」


「二つしか……って……。
どうして、唯……、ピックが三つあるって……。
大体……、何で私がピックを捨てたって……」


口を開く度に泣き出しそうになってしまいながら、唯に訊ねる。
そうだよ……。
私がピックを捨てた事までは気付けたとしても、
唯はどうしてピックが三つだって事を知ってたんだ……?

唯がばつの悪そうに微笑んでから、息も絶え絶えに続ける。


「分かるよ……。
前にね……、屋上でりっちゃんが何か捨ててるの見かけて……、
見つけなきゃ……、拾わなきゃ……って思ったんだ……。
何か分からないし、見つかるかなって思った……んだけど……、
見つかってよかった……、よかったよ……」


「だから……、どうして三つだって……。
放課後ティータイムみたいなマークは描いてるから、
ピックだって事はどうにか分かったにしても、どうしておまえは……」


「え……っ?
だって……、それ憂達のなんだよね……?
憂と……、純ちゃんと……、あずにゃんの……だよね?
ライブの時……、りっちゃん、あずにゃんに何か渡そうとしてたから……。
その時のピックなんだろうなって……、思ったんだ……」


鋭いな、と思った。
唯って奴はどうしてこう……、妙な所で鋭いんだよ……。
そうだよ……、その通りだよ、唯……。
おまえの言う通り、投げ捨てたピックは三人に渡そうとしてた物だよ……。
でも、それはもう……、もう必要無いから……、捨てようとした物なんだ。
だから、悪いけど、唯……。
439 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:33:20.82 ID:WgkY/9oG0
私がそれを伝えるより先に、唯がもう一度言った。
唯が言う必要ない言葉を、また言ったんだ。


「ごめん……ね……」


「どうして……、どうして謝るんだよ、唯……」


「だってだって……、りっちゃんが捨てた物なのに、
りっちゃんが……ちゃんと考えて捨てた物なのに、私が拾っちゃって……ごめん……。
でも……、でもね……、りっちゃんには……、捨ててほしくなかったんだ……。
私の我儘だけど……、りっちゃんに思い出を大切にしてほしかった……から……。
我儘な事言って……、ごめん……ね……」


思わず息を呑んだ。
ああ……、何だよ……、何て事だよ……。
唯は思い出を大切にする。私は未来に進む。
二人のその想いは違ってるようで同じだったって事に、何で私は気付かなかったんだ。
私は未来を、皆の未来を守りたかった。
同じ様に唯は思い出を……、自分だけじゃなくて、皆の思い出を守りたかったんだ……。
過去を捨てようとした私の思い出まで……。

馬鹿だ。唯は本当に馬鹿だ。
私なんかのためにこんなに満身創痍の状態にまでなって……。
死にかけてるんだぞ、おまえ……。
私は捨てようとしてたのに……。
過去と思い出を捨てようと思ってたのに……。
何て……、何て馬鹿な奴なんだ……。
そして……、それに気付けなかった私が一番馬鹿だ……!


「ごめん……。ごめん……ね……」


また唯が謝る。
辛そうに、苦しそうに、悲しそうに謝る。
もうやめてくれ、唯。
おまえは謝らなくていい。もう謝らなくていい。
むしろ責めてくれ。
こんな結局自分の事しか考えられなかった私を、
思い出を捨てる事で唯達も捨てる事になりそうだった私を責めてくれよ……!


「もういいよ、唯……。
謝るなよ、もう……、謝らないでくれよ……。
ピックの事は私も怒ってない……。だから……」


私が言うと唯が苦しそうに首を振った。
ピックの事以外に謝りたい事がある……。
そんな素振りに見えた。


「ううん、私……、謝らなきゃ……。
皆に謝らなきゃ……、いけないんだ……。
だって……、私ね……、気付いちゃったんだ……。
ずっとベッドに寝ててね……、皆に看病されてて……、
何だか思い出して来たんだ……。
私……、確か……、風邪になる前から、皆にずっと……」
440 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:33:46.89 ID:WgkY/9oG0
それ以上の唯の言葉は聞けなかった。
急激に唯が苦しみ始めたからだ。
痙攣してるみたいに身体を震わせ始めて、呼吸も荒くなって、
本当に辛そうに……、苦しそうに……。


「唯……? おい、唯! しっかりしろ! おい……!」


「うぅ……、だいじょ……はぁはぁ……ぶ……」


「大丈夫なわけがあるか!
今、澪達を呼びに……!」


瞬間、私の中で一つの記憶が甦った。
夢か……、妄想か……、現実か……。
とにかく私の中に唐突に溢れ出すように記憶が湧き上がって来る。
思い出すのは今と同じ様に病室のベッドに横たわる唯の姿。
ベッドの上で沢山のコードに繋がれた唯の姿……。
辛そうに唯の姿を見下ろす憂ちゃんと和。
遠巻きに三人を見つめる私と澪とムギと梓……。

何だ?
この記憶は何だ?
どうしてこんな記憶が私の中にある?
私達は一陣の風でこの閉ざされた世界に迷い込んだけど、
こんな状態になった事は一度も無かったはずだ。
無かったはずなんだ……!

でも、違う、と私の中のもう一人の私が考える。
曖昧だった記憶が少しずつ辻褄を合わせてまた甦ってくる。
そうだよ……。
あの一陣の風が吹いた日……、やっぱり私達は間違いなくライブをやったんだ。
菫ちゃんと奥田さんって子も紹介されて、わかばガールズのライブも聴いたんだ。
帰り道、さわちゃんも一緒に学校から帰ってて、
その途中で私達は……、私達は何かがあって大怪我をして、
その時に強い風が吹いて、でも、その風はただ吹いただけで……、
それで……、それで唯は……。
今みたいにベッドの上に……。

突然の記憶の渦に巻き込まれて、息が出来なくなる。
これ……か……?
こういう事だったのか……?
私は……、私達は……、だから、失いたくなかったのか?
失う事が怖くて仕方が無かったのか?
失いたくなくて、傍に居たくて……、それでこの世界に逃げ込んだのか?
目眩がしてしまいそうだ。
いや、実際に目眩がしてる。
唐突な真実を受け止めきれない。
でも、そんな事よりも、今は……、今は、そう……。
441 :にゃんこ [saga]:2012/05/16(水) 18:34:31.45 ID:WgkY/9oG0


今回はここまでです。
世界の真相に触れたり触れなかったり。
またよろしくお願いします。
442 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/16(水) 21:58:25.68 ID:5Mi1q+6bo
乙乙

ここが夢の世界なんじゃないかってのは和との考察ですでにあったけど
肉体ごとこの世界に飛ばされてるのか肉体は現実世界にあって精神だけ同期してるのか律一人の夢なのか分からなくなってきたなあ
443 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/17(木) 11:28:30.20 ID:6nkqFNuV0
乙です

なんだか物凄く悲しいお話の予感・゚・(つД`)・゚・
444 :にゃんこ [saga]:2012/05/18(金) 18:46:39.62 ID:h4cAwdoQ0
私の目に写るのはベッドの上で苦しむ唯。
熱に苦しみ、不安や、辛さや、悲しさや、色んな物に追い詰められている唯の姿。
残りほんの少し悪い方に転んでしまったら、
すぐにでも死んでしまう可能性がある唯の姿だ。
死に瀕している唯……。

この世界が何なのかはっきり分かったわけじゃない。
沢山の事を思い出しては来たけど、まだまだ分からない事だらけだ。
でも、一つだけはっきりしてる事がある。
私は失いたくなかった。
大切な仲間をを失いたくなかった。
失いそうになって、失いたくなかったから、何が何でも傍に居ようと思った。
どうしても傍に居たかった。
そうやって私はこの世界に辿り着いたはずなのに、
私はまた大切な仲間を失いそうになってしまっている。
しかも、今回は唐突に訪れた事故や事件じゃなく、
紛れもなく私の責任で、仲間を失いそうになってしまってるんだ。
今、唯が苦しんでるのは、完全無欠に私の責任なんだから。

吐き気がした。
目眩や動悸や窒息しそうな息苦しさや、多くの苦しみが私を襲う気がした。
でも、そんなの自業自得だし、唯の方がその何倍も苦しんでるんだ。
私の苦しさなんて、自業自得どころか自己満足レベルの勝手な症状だ。
そんなの……、気にしてるわけにはいかない。

……って、何やってるんだよ、私は!
私には何も出来ない。
唯の治療をする事どころか、唯を安心させてやる事すらもきっと出来ない。
私はもう……、唯を苦しめる存在でしかないんだ……。
だからこそ……。
だからこそ、せめて唯が安心出来る仲間くらいは、私が呼びにいかないと……!

私は「ちょっと待ってろ!」って唯に言ってから、
唯に背中を向けて駆け出そうとしたけど、その私の右手は誰かに強く掴まれた。
考えるまでもなく、当然、私の右手を掴んだのは唯だった。
唯は病人とは思えないほど強い力で、私の右手を掴んでいた。
私は自分が動揺するのを感じながら、私の手を掴んでる唯に視線を向けた。
驚いた。
相当苦しいはずなのに、40℃以上の熱があるくせに、
唯がいつの間にか身体を起こしていて、まっすぐな強い視線で私を見つめていたからだ。
445 :にゃんこ [saga]:2012/05/18(金) 18:47:12.82 ID:h4cAwdoQ0
「お……、おい、放せって……!
私じゃ看病も治療もしてやれそうにないし、だから……!」


唯の存在感に気圧されそうになる自分に気付きながらも、私はどうにか唯に言った。
せめて、私に出来る最後の事くらいはやらなきゃ、
それくらいは出来なきゃ、もう、私は……。

だけど、唯は強い視線のままで首を横に振った。
息も絶え絶えながら、私に言葉を伝えようと口を開いて喋り始めた。


「でも……、ね……。
私……、りっちゃんに聞いて……ほしい事が……あるんだ……。
はぁ……、ずっと前……から気付いてたんだけど……、
怖くて……、皆に嫌われちゃうのが……嫌で……、
言い出せなかったんだ……よね……。
私……、私ね……、きっと……」


「いいから喋るなって!
おまえ、自分がどういう状態なのか分かって……」


「聞いてったら!」


唯の大きな声が部屋の中に響く。
真剣で、強い意志のこもった唯の叫び……。
それだけで、私は唯に対して何も言い返せなくなる。
涙が溢れ出しそうになる。
自分が情けなくなったからでもあるけど、唯の強い気持ちを感じ取れた気がするからでもある。
唯は……、覚悟している。
覚悟して、決心しているんだ。
そんな強い想いを持った唯を止める事なんて……、私には出来ない……。

私は俯きそうになりながら、
それでも、どうにかそれを食い止めて、唯の顔に視線を向けた。
唯の奴は……、息を切らしながらも、嬉しそうに微笑んでくれていた。


「ごめんね……、大きな声出しちゃって……。
でもね……、聞いてほしいんだ……。
私の考えを……、聞いてほしいんだよね……。

りっちゃん……さ。
この世界……、閉ざされた世界……だっけ?
確か和ちゃんが……、そう呼んでたような気がするけど……、
まあ……、それはいっか……。
とにかくこの世界が……、誰かの夢の中じゃないかって……、思ってるんだよね……?

私も……、そうだ……と思うんだよね。
音の響き方が違う……気がするし……、普通の世界とは何か違う気もするしね……。
最初にそうじゃないかって思い始めたのは……、澪ちゃんに訊かれた時から……なんだ。
あの公園の……、大きな樹……。
「律が落ちて骨折した事あるんだけど、あの公園にそんな大きな樹があるの知ってるか?」
……って、澪ちゃんとお喋りしてた時に……、訊かれたんだ……」
446 :にゃんこ [saga]:2012/05/18(金) 18:47:50.60 ID:h4cAwdoQ0
あの樹……。
小さな頃、私が落ちた事があって、
この世界では何故か存在してないらしくて、
実際に確認に行った時にも、存在を確認出来なかったあの樹の事だ。
何故か、生き物が消えた後に存在しなくなった樹。
澪は唯にその樹の事を訊ねた。
別に唯を狙い打っての質問じゃないだろう。
誰か憶えてない人間が居ないかと思って、質問してみたんだろう。
それが何かの手掛かりになるんじゃないかと思って……。

唯が続ける。
困ったように微笑みながら、静かに。


「私ね……、その樹の事、知らなかった……。
ううん、多分ね……、忘れてたんだと思う……。
後で気になってね……、憂や純ちゃん達にも訊いてみたんだけど、
私以外の皆は憶えてるみたいだったんだよね……。
あははっ……、私だけ記憶力が無くて恥ずかしい……ね……」


唯が何を言おうとしているのかは、もう完全に私にも分かった。
私だって、思ってなくはなかったんだ。
この中途半端に再現された世界は私達の中の誰かの夢じゃないかってずっと思ってた。
この世界に居る私達の人格はともかくとしても、
世界全体は誰かの意志が創り上げた夢のような存在のはずなんだ。
でも、それ以上の事は考えないようにしてた。
分かってどうなるものとも思えなかったし、犯人捜しをするみたいで怖かった。
誰かの責任にしたくなかった。
何より自分の夢かもしれないって思いたくもなかった。
それで……、私はずっと問題を棚に上げてた……。

でも、私と同じ様に、やっぱり皆もこの世界について考えてた。
皆も何も考えてないわけじゃない。
事態を前進させるために、必死に色々考えてたんだ……。

ああ、そうだ。
もう……、目を逸らすのはやめよう。
勇気を出して、ちょっと情報をまとめれば分かる事だ。
そうだ。この世界はきっと夢なんだろう。
私達の意識が少しは影響してるかもしれないけど、
誰かの夢が大部分を構成してると考えて間違い無い。
なら、この世界の根本となった夢は誰の夢なのか?

まず憂ちゃん、純ちゃん、和ではありえない。
三人は今この世界に存在しないし、和の場合は特にタイムカプセルの件もある。
生徒会で埋めたらしいタイムカプセル……。
それがこの世界に無かった理由は、和以外の皆がタイムカプセルの事を知らなかったからだろう。
知らない以上、タイムカプセルの再現なんて出来るはずもない。

残されたのはロンドンに転移させられた私達五人だ。
この世界がロンドンを再現出来てるのは、卒業旅行でロンドンに来たからだろう。
ロンドンだけはどうやったって和達には再現出来るはずもない。
その点から考えても、この世界は和達三人の夢ではないはずだ。
残った五人の中でこの世界の夢を見てる可能性が一番高いのは誰か?

まず梓ではありえない。
理由は元唯の席に入っていた私と唯の落書きだ。
私達と同じクラスじゃない後輩の梓が落書きを知っているはずがない。
憂ちゃん辺りから話で聞いていたとしても、落書きがどんな内容かまでは知らないはずだ。
447 :にゃんこ [saga]:2012/05/18(金) 18:49:45.42 ID:h4cAwdoQ0
残る中では澪とムギでもありえない。
理由はサザンクロスこと南十字星の位置だ。
ロンドンに転移させられる前の日本……、星空には何故か南十字星があった。
星が好きなメルヘンな澪と優等生のムギは南十字星が日本で見えない事を知ってる。
そんな不自然な点を世界に再現するだろうか?
日本でも見たかったからそこだけ捏造した、
って考える事も出来るけど、真面目な二人だけにそういう事はしなさそうな気がする。
例えそれがただの夢でも、だ。

残るは私と唯になる。
直接聞いた事は無いけど、唯は南十字星が日本で見えないって事は知らなかったはずだ。
私も知らなかったわけだし、唯もそう星に興味があるようには思えない。
ここまでは私も絞ってた。
ロンドンに転移させられた頃には、目星を私達二人に絞ってた。
それ以上は怖くて出来なかった。
犯人を見つけたくなかったし、自分がこの夢を見てる本人だなんて、思いたくもなかった。
すごく……、怖かった……。

だけど、もう分かった。
さっきの唯の言葉で分かったんだ。
私はあの公園の樹の事を憶えてる。はっきりと憶えてる。
あの樹は辛くて楽しい私の思い出のある樹なんだ。
例え夢の中でだって、あの樹を忘れるもんか。
他の何を再現出来てなくたって、あの樹だけは忘れないと思う。
つまり……、この世界の根本になった夢を見ているのは……。

私は静かに唯に視線を向ける。
責めるわけじゃない。疑うわけでもない。
ただ静かに唯を見つめる。
私の考えを分かってくれたようで、唯はまた困ったように笑いながら言った。


「ごめん……ね……」


何度も聞いた唯の謝罪の言葉。
二重三重の意味が込められていた唯の『ごめん』……。
そういう……事だったんだよな……。

唯に何て言えばいいのか分らない。
私はそもそもこの夢を見てる誰かを知りたいわけじゃなかった。
この世界から脱け出せれば、それでよかった。
知りたくなかった。
知ってしまえば、誰かを責める事になるから。
きっと弱い私は誰かを……、唯を責めてしまうから……。
でも、それは結局逃げていただけだったのかもしれない。
誰からも責められない事で、唯はずっと罪悪感を一人で背負ってたんだ。
私が……、逃げていたからだ……。

私は何とか口を開く。
唯に少しでも私の気持ちを伝えるために。
何を言えるかは分からないけど、とにかく何かを伝えるために。
だけど、それより先に唯が言った。
聞きたくなかった決意を口にした。


「皆に……、迷惑掛けて……ごめんね……。
でも、大丈夫……だから……。
大丈夫……になりそう……だよ?
この世界は……多分、ううん、きっと、私の夢……。
だからね……、もうすぐ元に戻るはず……だよ?
皆も……元の世界に……、戻れるはず……。

私が居なくなっ……たら……ね。
私がね……、



死んだら」
448 :にゃんこ [saga]:2012/05/18(金) 18:51:05.15 ID:h4cAwdoQ0


今夜はここまでです。
もうちょっとでクライマックスになる予定です。
449 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/19(土) 19:59:01.77 ID:YDOpX00H0
乙です

もうクライマックスなんですね、寂しくなります…
唯ちゃん・゚・(つД`)・゚・
450 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/19(土) 22:23:06.96 ID:WBu+AfqSO
ツイッターやってる暇ないぞオラァ!
451 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/05/19(土) 23:33:17.41 ID:fxHqPjAqo
ぎぃやぁああああ
どうなるの
乙です
452 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:39:08.86 ID:Q/gkUNmc0
死んだら。
唯のその言葉には聞いてて辛くなる杭くらいの決意が込められていた。
覚悟が決められた言葉だった。
唯は覚悟してるんだ、自分が死ぬ事を。
自分が死んで、この世界から私達を解放する事を。

言うまでもない事だけど、この世界が唯の夢だって確定したわけじゃない。
色々考えてはみたけど、結局は全部仮定なんだ。
唯の夢である可能性が高いってだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
唯が死ねばその夢が覚めるのかもしれないけど、
そんな物の試しみたいな理由で唯が死んだって何の意味も無い。
唯が死ぬ必要なんて無い。
死なせてたまるか。

でも、そんな事は唯だって分かってるだろう。
分かってて、言ってるんだと思う。
自分は今の所死ぬ必要は無い。
でも、必要となったら、死ぬ事になったって構わないって思ってるんだ。
私達をこの閉ざされた世界から解放させるためなら、
自分の命だって惜しくないって思ってるんだ。

そんな事させるか。
そんな事させてたまるか。
私はこの世界から早く脱け出したかった。
元の世界に戻りたかった。
でも、それはこんな意味ででじゃない。
皆で一緒に戻って、皆と一緒にまた笑い合えるために、この世界から脱け出したかったんだ。
また皆で演奏したかったんだ……。
唯が犠牲になって、唯無しで演奏して、どうなるってんだよ……。
そんなの……、そんなの嫌だよ……。


「やめろよ、唯……。
死ぬなんて、そんな事言うなよ……。
おまえに死なれたら、私は……、私は……」


まっすぐな視線を崩さない唯の表情を見ながら、私はどうにか呟く、
強く強く痛む胸と戦いながら、消え入りそうな声で呟く。
呟きながら、本当は分かってた。
唯は簡単に生き死にの問題を口にする奴じゃない。
唯は色んな物を大切にして、ちょっとした物でも失うと悲しむ奴だ。
大切な物が分かってる奴なんだ。
そんな唯が大切な自分の命を犠牲にする話をするだなんて、とても……辛い。

勿論、唯にその決意をさせてしまった原因の一端は私にあった。
唯の体調を崩させてしまったのは私だ。
過去を、思い出を抱えながら生きる自信が無かった私の責任だ。
私は捨てようと思った。ピックと一緒に思い出を捨てなきゃ、生きていける自信が無かった。
失ってしまった皆、和達の事を思い出すと、
辛くて、悲しくて、動き出せなくなくなりそうだった。
だから、私は屋上からピックを投げ捨てたんだ。

でも、唯はそれを嫌がったんだ。
自分だけじゃなくて、私達全員の思い出を大切にする奴だから、
私の捨てようとした過去や思い出や想いまで拾い集めて来てくれたんだ。
満身創痍の状態になってまで。
死を意識するくらい、こんなに体調を崩してまで……。
453 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:39:36.27 ID:Q/gkUNmc0
ああ、もう、何をやってたんだ。
何をやってたんだよ、私は!
私は皆の未来を守るためって言って、自分の弱さから逃げるために思い出を捨てて。
それで、私の思い出を守りたかった唯にこんな行動を取らせる結果になって。
何だよ、もう……。何をやっちゃったんだ、私は……。

私のせいだ……。
私のせいで、私が弱かったせいで、私は唯に死を自覚させる事になったんだ。
体調を崩させたってだけじゃない。
苦しんでる私を、何をしたって救いたいって唯に思わせちゃったんだ。
例え自分の命を引き換えにしたって……。
自分が傷付く事より、私達が傷付く事の方に耐えられない奴なんだ、唯は。


「私……ね……?」


唯が優しい声色で穏やかに言葉を続けた。
穏やかな声が、逆に辛かった。
責められた方が何倍も楽だと思った。
でも、それは私の逃げだったし、楽になってもいけなかった。
私は息苦しさと強い胸の痛みに耐えながら、唯の顔に視線を向け続ける。
それだけが私に出来る事だったから……。


「私……、皆に会えて……嬉しかった……。
音楽に出会えたし……、皆のおかげで……ずっと楽しかったもん……。
皆の事が大好き……。
りっちゃんの事だって……大好き……だよ……。
大好きだから……ね……、嫌なんだ……。
これ以上、皆に嫌な思いを……させたくないんだ……よね。

私、嬉しかった……。
皆とまた遊べて、ライブをやろうって頑張れて、嬉しかった……。
傍に居てくれて……、すっごく嬉しかったんだよ……?
だけど……、いつまでも我儘言ってちゃ、駄目だよね……?
だから……、だからね……、もう……」


不意に唯の言葉が止まった。
聞いていて辛かった唯の言葉。
だけど、いつまでも聞いていたかった唯の声。
そう……、私達はまた唯とこうして話したくて、きっとこの世界に……。
でも、唯がその先の言葉を口から出す事は無かった。

苦しみ始めたからだ。
凄い汗を掻いて、呻き声を上げて、ベッドに転がってもがき始めたからだ。
まるで……、消える前の蝋燭の火みたいな、激しい苦しみ方で……。
いや……、違う!
何を考えてるんだ、私は!
何を考えちゃってるんだよ、私は!
そんな事はさせてたまるか!
唯を絶対に死なせてたまるか!

さっき唯は私の事を好きだと言った。
大好きだと言ってくれた。
私だって唯の事が大好きだ。
無茶苦茶な部だった私の軽音部にずっと居てくれて、私だって嬉しかったんだ。
大切な唯達を失いたくなかったから、思い出を捨てようと思ったんだ。
何よりも残された唯達を大切にしたかったんだ。
もし元の世界に戻れるとしたって、その世界に唯が居ないなんて……、意味が無い!
何の意味も無い!
死なせない……!
絶対に助けてみせる……!
454 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:40:13.98 ID:Q/gkUNmc0
だけど……、私に何が出来る……?
私には何も出来ないんじゃないか?
看病なんてろくに出来ないし、私が今までやって来た事のほとんどが裏目だ。
決意も決心も、何もかもが皆を追い詰めるだけだった。
皆を傷付けるだけだった。
だったら、私はもう何もしない方が……?
その方が……唯達のために……?
でも、それじゃ、私は何のために今まで……。
いや、私の事よりも、今は苦しむ唯を救う方が先決で……。

堂々巡りだった。
こんな状態になって、私は自分に出来る事、出来た事がほとんど無かった事に気付く。
部長が聞いて呆れる。
皆の足を引っ張ってばっかりだ。
足手纏いになりたくて、逆に足手纏いになってしまってる。
完全に単なる間抜けでしかない私……。

だけど、立ち止まってるわけにもいかなかった。
私には何も出来ないけど、何も出来ないなりにやらなきゃいけない事がある。
私は強く唯の手を握る。


「唯……、おまえは治る……! 元気になるって信じろ……!
治ったら話したい事がある。
文句を言ってやりたい事もいっぱいある……!
だから……、死ぬなんて……、もう言わないでくれ……!」


私に言える精一杯の言葉を伝える。
今の唯にどれだけ私の言葉が届いたか分からない。
届いてなくたって構わない。
私の言葉を届けようと思えた。今の所はそれだけで十分だ。
届けたかった言葉は、いつかまた必ず届けてみせる……。
頷くと、私は大きく息を吸い込んでから、大声で叫んだ。


「ムギぃ! 梓ぁ!
唯の体調が急変した!
頼む! 今すぐ来てくれえっ!」


叫んでいる間も、私は唯の手を強く握り続けた。
この先、唯の手の熱さと私の唯達への想いを絶対に忘れないように。
それが何も出来ない私に出来る最後の抵抗だ。
455 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:41:09.22 ID:Q/gkUNmc0





隣の部屋で休んでいたムギと梓はすぐに駆け付けてくれた。
オレンジジュースを取りに行っていった澪も、
私の叫び声が聞こえたようですぐに部屋に入って来た。
いや、澪は部屋の外で私達の話が終わるのを待ってくれていたみたいだ。

この世界に取り残された五人が部屋の中に集まる。
唯が私達が集まった事に気付いているのかどうかは分からなかった。
目を瞑り、ただ呻き声を上げて、苦しんでいる。
唯のその様子を見ているのは辛かったけど、
私はその唯から目を逸らさずに、唯の様子を見るムギに訊ねた。


「どうだ、ムギ……?
唯の様子はどうなってる?
風邪が悪化した……って感じか?」


ムギは心配そうな表情を浮かべ、ゆっくり首を横に振った。
それから、小さく呟くみたいに答えてくれる。


「ごめんね……、分からないの……。
熱は計ってみたけど、そんなに上がってはいないみたい。
多分、疲れが溜まってた分が出ちゃっただけだとは思う……。
安心出来る状態ってわけじゃないけどね……」


「で、でも、唯先輩、こんなに苦しそうじゃないですかっ?」


梓が小さく叫んだけど、
すぐ後にはっとしたように「すみません」と謝った。
ムギに叫んでも仕方が無いって事は梓だってよく分かってるんだろう。
でも、分かってても叫ばずにいられない気持ちもよく分かる。
ムギは梓の叫びを悪く思ったわけでもなさそうで、また言葉を続けた。


「そうなの……、梓ちゃんの言う通りなの……。
病状が悪化してるはずないのに、まるで体調だけ悪化してるみたい。
何だかね……、症状こそ風邪に似てるんだけど、
唯ちゃん、本当に風邪なのかなって私、思うんだ……。
ねえ、皆?
唯ちゃんがこうなってから、咳やくしゃみを出してる所、見た事ある?」


ムギの突然の質問に皆で顔を見合わせる。
しばらく経ったけど、それには誰も名乗り出なかった。
そう言えば、私も唯の体調が崩れてから唯の風邪の症状を見た事が無い。
ただ熱が高くて、苦しんでるだけだ。
いや、ただ……ってレベルでもないのは分かってはいるんだけど。
でも、唯の風邪と言えばくしゃみのイメージがあるし、
その唯がこんな状態で一回もくしゃみをしてないなんておかしくないだろうか?
風邪じゃないって事なんだろうか?
456 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:41:51.01 ID:Q/gkUNmc0
そこまで考えて、不意に私は思い付いた。
現実離れした考えだったけど、今更現実離れしてたって誰も気にしないだろう。
この世界は誰かの夢の中の世界で、多分、それは唯の夢のはずだ。
世界は夢だ。
でも、ここに居て、物を考えてる私達はどうなんだろう?
少なくとも、私は私や唯、ムギ達が唯の夢の産物とは思えない。
私達は確かに生きてる。生きて、考えてる。
他の物が全部夢だとしても、私達の心だけは本当の物のはずだ。
心だけは本当なんだ。
本当だから、苦しんでるんだ。

だけど……、ひょっとしたら……。
そう思った瞬間、辛そうな表情の梓の顔が視界に入った。
真っ黒に日焼けした梓の顔……。
気が付けば私はその梓の頬に手を伸ばして触れていた。


「律先輩……?
な……、何なんですか、こんな時に……」


梓が複雑そうな表情をしながら呟いて、
それど私は自分のやってしまった事に気付いて「悪い」と素直に謝った。
だけど、正直、私の頭の中はそれどころじゃなかった。

そうだ……。
私達の心は本物だ。確証は無いけど、そうだって思える。
でも、私達の身体はどうだ?
この世界の構成物質が夢だとしたら、
私達の身体の抗生物質も夢だとしても全然おかしくない。
私達の身体が誰かの夢だって証拠の一つが梓の日焼けだ。
日本の夏よりもずっと涼しいロンドンに転移させられて一週間も経つのに、梓の日焼けは全然治ってない。
すぐ真っ白に戻る新陳代謝のくせに、今回だけ梓の日焼けは治らない。
それこそ、梓の身体も誰かの夢で構成されてるって証拠じゃないだろうか。

それを伝えていいものなのかどうかは迷った。
そもそもこの世界が誰かの夢だとは確定してない。
唯の夢だなんて、確定したわけじゃない。
それに唯は私だけにその話をしたんだ。
約束をしたわけじゃないけと、私と唯だけの内緒の話にしてほしかったんだろうと思う。
もしかすると、自分が死んだ時に誰も悲しませないために。
元の世界に戻った澪達が、唯が死んだおかげで元の世界に戻れたって事に気付いて傷付かないために。
唯の気持ちは痛いほど分かる。
私だって、唯と同じ状況ならそうしてたかもしれない。

だけど、思った。
今の唯と私の状況が逆だったなら、唯はきっとこうするだろうと思った。
もしもこの世界が私の夢で、私が唯だけにそれを打ち明けていたなら、こうしたはずなんだ。
心の何処かでこうしてほしかったはずなんだ。
だから、私は皆に全てを打ち明ける事にしたんだ。
後で唯にどれだけ怒られたって構わない。
これも私と唯の選びたかった選択肢なんだろうから。


「なあ、皆、聞いてくれるか?
突然だけど、この世界の事についてなんだ。
唯の体調にも関係してくる話だから、落ち着いて聞いてほしい。
唯と話し合ってて思い出した事があるんだ。実は……」
457 :にゃんこ [saga]:2012/05/20(日) 17:42:40.78 ID:Q/gkUNmc0


此度はここまでです。
また気になるところで終わってすみません。
今度は丁度いい所にいければと思います。
458 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/20(日) 21:03:47.53 ID:JeGBX7DLo
乙!
459 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/21(月) 17:11:43.07 ID:HISC4UUXo
乙乙
続きが楽しみでもあり、終わりが寂しくもあるな
460 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/22(火) 11:27:55.18 ID:KYVGhH5DO
>>459
同感。
461 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:03:14.83 ID:x6fXrDtV0
私は、話した。
私の思い出した曖昧な記憶の事を。
あの夏休みの日、私達は確かに梓達のライブを観た事。
その後で私達も演奏をした事。
大成功とは言わないまでも、それなりの満足感を持って、
さわちゃん、菫ちゃん、奥田さんを含める皆で一緒にいつもの帰り道を帰っていた事。
そして……、私達の家路の別れ道のあの横断歩道で……、確かに何かが起こった事を。
事件なんだか事故なんだかはまだはっきりしないんだけど、私達はそれで大怪我をしたはずなんだ。
私達の怪我は命に関わるような怪我じゃなかったと思う。
だけど、唯だけは……、違った。
唯は病室に横たわっていて、目も開かずにいくつものチューブやコードに繋がれていて……。
それはまるで、体調を崩して寝込んでいる今の唯みたいな状態で……。
それで、唯も、私も、少しずつ思い出して、気付き始めたんだ。
この世界が本当に夢だとして、この世界が誰の夢で、何のための夢だったのかって。
そう、私達はきっと、傍に居たかったんだ。
始まりはそれだけだったんだ。


「そんな……」


私が唯が自分が死について話した事以外について語り終わると、
梓が動揺した表情を見せて呟き、澪が梓を気遣ってその肩を軽く抱いた。
ムギはただ真剣な表情で唯と私を交互に見ている。


「やっぱり……、この世界は誰かの夢って事でよかったのか?」


澪が梓の肩を抱きながら私に強い視線を向ける。
この世界が誰かの夢だって強く疑ってたのは、和と澪だ。
和が居ない以上、この世界について一番考えられるのは自分だけ。
自分こそが、この世界の真実を考えなきゃいけない。
そういう意志の強さが見える澪の視線だった。
私は気圧されそうな気持ちになりながら、それでも頷いた。


「完全に決まったわけじゃないよ、澪。
まだまだ分かんない事だらけだからな。
でも、多分……、そうだと思う。
私と唯が少しずつ思い出して来た記憶の事もそうなんだけど、そう考えると辻褄が合う事も多いんだよ。
ロンドンの中途半端な気候、日本じゃ見えないはずの南十字星、
あの公園にあるはずなのに無くなってたでかい樹、治らない梓の日焼け、他にも色々……。
この世界は夢……、誰かの思い出のイメージなんだ。
それでその誰かって言うのは……」


「唯ちゃん……なの……?」


ムギが唯の手を取りながら、静かに呟いた。
その声色からは、ムギがどんな感情を持っているのかまでは読み取れなかった。
私はムギの肩に手を置いてから続ける。


「ああ……、そう……だと思う。
この世界が誰かの夢だって決まったわけじゃない。
でも、この世界が誰かの夢だとしたなら、それは間違いなく唯の夢だよ。
色んな状況がそれを示してるし、唯自身も自覚し始めたみたいだった。
それに……」
462 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:03:41.47 ID:x6fXrDtV0
一瞬、私はそれ以上の言葉を出すのを躊躇った。
まだはっきりしない記憶を口に出すのもどうかと思ったし、
それ以上にその記憶をはっきり断定させるのが怖かった。
あの日、私達は大怪我をした。したはずだ。
怪我をした箇所は、私は右腕、ムギも右腕で、澪は左脚、梓が肋骨。
そして……、唯が……。
唯……が……。


「私……、本当はね……」


不意にムギが静かに語り始めた。
口を挟めるような様子じゃなかった。
私は……、私達はじっとムギの次の言葉を待った。
三十秒くらい経っただろうか。
ムギが決心した表情でまた言葉を出した。


「何度か……、夢で見てたの……。
世界から皆が居なくなっちゃってすぐの頃からかな……。
皆がね……、大怪我をしてね……、
血まみれでね、倒れててね……、凄く……凄く怖い夢でね……。
それで……、それで唯ちゃんが病院のベッドに……、ベッドに居てね……。
私……怖くて、でも、夢の話だから、皆に言い出せなくて……。
ごめん……、皆……」


決心した表情だったけど、ムギの肩は震えていた。
言葉にする度に、夢の恐怖を思い出してるんだろう。
それを必死に抑えてるんだ……。
私はそんな夢を見た事は無かったけど、
個人それぞれで記憶の残り方が違ってるって事なんだろうと思う。
でも、なるほどな、って思った。
やっぱり、ムギは私達に何が起こったのかを、夢に見る事で何となく思い出してたんだ。
それで私達の中で一番この世界を怖がってたんだろうな……。

ムギの肩は長い間震えていた。
ひょっとすると、泣き出しているのかもしれない。
ムギはずっと私達の事を心配してくれていた。
誰かが死んでしまう事を嫌がっていた。
だから、自分が見た夢を現実に起こった事だと思いたくないんだろうと思う。
私だってそうだ。
私が思い出した過去の方が、本当の意味での夢だったらどんなにいいだろう。
どんなに幸せだろう。

でも……。
唯がこんな状態になってる以上、もう目を逸らしてるわけにもいかなかった。
目を逸らしてたら、今度こそ本当に手遅れになる。
もう手遅れになってしまうのは嫌だ。
絶対に……、嫌だ……!
もう……、仲間達を失いたくない……!
だから、私は自分が震えてるのが分かりながらも、何とか言葉を口に出した。
463 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:05:15.79 ID:x6fXrDtV0
「唯は病室のベッドに横たわってた……。
悲しそうな表情の憂ちゃんや和達が唯を見てた……。
それを私達が遠巻きに見てた……。
そこまでは思い出した。思い出したんだ。
それで……、唯がベッドで寝てる理由も思い出したよ。
唯は怪我をしたんだ。とんでもない大怪我を。
頭に……さ」


頭……。
そう、頭だ。
私達が大怪我をした時、唯は私達と同じく、
そして、よりにもよって頭を大怪我したんだ。
だから、唯はベッドの上にずっと横たわってたんだ。
横たえられていたんだ。
脳死……、ではなかったと思う。
まだ思い出せてないだけかもしれないけど、脳死じゃかったはずだ。
だけど、唯は目を覚まさなかった。
頭の何処かに大きな損傷を負ったって話を聞いた記憶はある。
これから目を覚ますかどうかわからないらしいわ……、
って、そう悲しそうに呟く和の表情だけはしっかり思い出した。

私達はそれが嫌だった。
脳死でないにしても、唯が目を覚まさないなんて耐えられなかった。
また唯と話したかった。笑いたかった。演奏したかった。
どうにかしてまた一緒に居たかった。
傍に……、居たかったんだ……。

そうして、私達の願いは叶った。
何がどんな作用を起こしたのか。
何でこんな状態になってるのか。
その辺りはまだ何も分からないけど、とにかく夢は叶ったんだ。
叶って……しまったんだ……。
それがよかったのかどうかは……、私にもまだ……、分からない。

しばらく沈黙が部屋の中を包んだ。
聞こえるのは苦しそうな唯の呻き声だけ。
沈黙してる場合じゃないのは分かってたけど、
何をどうしたらいいのか、その解決の糸口も掴めてなかったからだ。


「あ、あの……」


少し呆然とした様子ながら、梓が呟き出した。
何か考えた事があるんだろう。
「どうした?」と私は梓に訊ねてみる。


「はい……。
この世界が唯先輩の夢だって言うのは……、
あの……、私も何となく分かるんです……。
律先輩もおっしゃってましたけど、こんなに日焼けが治らないのなんて初めてで……、
もしかしたら私の身体は本当の私の身体じゃないんじゃないかって、そう思わなくもなかったんです。
唯先輩の私に対するイメージが、私の身体を作り上げたってそんな気も……します……。

ですけど……、どうして……、
どうしてこんな事が起こってるんでしょうか……?
私、怪我の記憶はあんまり無いんですけど、
律先輩の言う事が事実だとしたら、私、この世界に来れて嬉しいです。
唯先輩が……、目を覚まさないなんて嫌です……。
傍に居て、笑っていてほしいです……。

だけど……、どうしてこんな不思議な事が起こってるんでしょうか。
あの……、もしかして……、ひょっとしたら、唯先輩が……。
いえ、でも……」
464 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:05:47.82 ID:x6fXrDtV0
梓がそれ以上の言葉を躊躇う。
この世界が唯の夢だとしても、その責任を唯一人に押し付ける形にはしたくないんだろう。
でも、梓の言う事ももっともだった。
この閉ざされた世界を想像して創造してるのは、間違いなく唯だ。唯にしか出来ない。
それをどうやってるのか……。
それが分かればこの事態を変える事が出来るかもしれない。

心当たりと言えば、やっぱり唯の頭の怪我の事だ。
唯は目を覚まさないほどの大怪我を頭に負った。
それが唯に何らかの変化を与えたって事は無いだろうか?
でないと、こんな事が起こるはずもない。
私がそれを口にすると、澪が口元に手を当てて小さく独り言みたいに呟いた。


「サヴァン……?」


「……何だ、それ?」


そう私が訊ねても、澪はそれ以上何も答えてくれなかった。
いや、独り言みたいだったんじゃなくて、本当に独り言だったって事なんだろう。
私は口を噤み、澪も気付けば口を閉じていた。
また部屋を沈黙が包むかと思った瞬間、ムギの心配そうな声が部屋の中に響いた。


「ねえ、皆……、私、思ったんだけど……。
この世界が唯ちゃんの夢だとしたら、どうして唯ちゃんはこんなに苦しんでるのかな……?
今の私達の身体は、現実にある身体とは違うんだよね……?
だったら、体調が崩れるなんて、そんな事は……」


「確かにムギの言う通りだ」


応じたのは澪だ。
とても凛々しい表情で、何かを考え始めたみたいだった。
瞬間、私の胸が激しく鼓動し始めた。
澪の凛々しい顔に見惚れたわけじゃない。
いや、多少は見惚れてたかもしれないけど、それだけじゃなかった。
澪が考えている。
真剣に、凛々しい表情で、真相に近付こうとしている。
もうすぐ答えを出すんだな、って思った。
きっと私が辿り着いたのと同じ答えを。

私はその答えを澪が出すのが怖かった。
その答えを出してしまったら、きっと澪は私を嫌いになる。
ムギも梓も私を嫌いになるだろう。
それはとても辛かったけど、自業自得でもあった。
逃げ続けた結果がこの有様だったってだけだ。
悪かったのは……、逃げ続けた私なんだ……。

私は二度深呼吸をする。
拳を握り締め、鼓動する胸を気力で抑える。
澪が何かの答えを出すより先に、私は一番言いにくかった事を言葉にした。


「なあ、皆、聞いてくれ……。
唯はさ、自分が死ねばこの夢は覚めるって、
さっきそういう感じの事を言ってたんだよ……」


「唯先輩がっ?
そんな……、唯先輩が死ぬだなんてそんなの……」


梓が辛そうな声を上げる。
唯の事を心から心配してるんだろう。
それこそ、自分の事よりも……。
でも、それに対して構ってやる事は出来なかった。
私は言葉を続ける。
私にはまだまだ伝えなきゃいけない事がある。
465 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:06:17.91 ID:x6fXrDtV0
「考えてみりゃ、その通りだよな……。
この世界は唯の夢で、唯が死ねば私達はこの世界から解放される……。
単純過ぎて笑っちゃうくらいだよ……。
簡単な……答えだよな……、馬鹿みたいに……」


「おい、律……?」


私の様子がおかしい事に気付いたのか、澪が心配そうに私に訊ねる。
私も自分自身の様子や感情がおかしい事は自分で気付いてた。
だけど、止められなかった。
止められなかったんだ、どうしても……。
自分への嫌悪感から、吐き捨てるような言葉をまた言ってしまう。


「馬鹿だよ、唯は……。
この世界が自分の夢じゃないかって気付いてさ……、
自分が私達に迷惑掛けてるんじゃないかって考えてさ……、
それで……、きっと唯は自分で自分を追い詰めたんだ。
この世界は唯の夢で、この世界の唯の身体も唯の夢だ。

そうだよ……。
唯の体調を崩せるのは唯だけなんだ。
現実の方の唯に何かあったとは考えにくい。
目こそ覚まさなかったけど、それ以外の唯の身体は健康だったはずだしな。
だから……、だから、唯は自分自身で自分の身体を追い詰めたんだよ!
この……馬鹿野郎……っ……」


「馬鹿野郎……って、律先輩、それは……」


梓が悲しそうな表情で私を見つめる。
唯の事を責められたと思って悲しく思ったんだろう。
でも、違うんだよ、梓……。
私が責めたいのは唯じゃない。私自身なんだ。
唯なんかよりずっとずっと馬鹿な私の方なんだよ……。

私は続ける。
ひょっとすると、これを言うと皆に軽蔑されて、
もう顔も合わせられなくなるかもしれないけど、言わないわけにもいかなかった。
言いたかったんだ、どんなに軽蔑されたって。
皆に……、嫌われたって……。


「分かってるよ、梓。
唯は馬鹿だけど、馬鹿な奴だけど、まっすぐな奴だ。
まっすぐに私達を考えてくれる馬鹿で、いい奴だ。大好きな仲間だ。
失いたくない仲間だよ……。

馬鹿なのは……、もっと馬鹿なのは私だ……。
私なんだよ……」


「律……先輩……?」


梓が私を気遣って手を伸ばそうとする。
私はムギの肩から手を離して、梓のその手を避けた。
梓は傷付いた表情を見せたけど、でも、今の私には触れてほしくなかった。
こんな最低な奴を気遣う必要なんてないんだ……。
梓は私なんかより、皆を支えててあげてほしいんだ……。
466 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:06:55.04 ID:x6fXrDtV0
私は壁際に寄って、背中を壁にくっ付けながらその場に座り込んだ。
もう立っていられる気力も無かった。
だけど、それでも、言葉だけはどうにか皆に届ける。


「皆、聞いてくれ……。
唯を追い詰めたのは唯自身だけど、そのきっかけを作ったのは私なんだ……。
私なんだよ……。
唯が体調を崩す前、このホテルの周辺を一人で探ってただろ?
あれは私のせいなんだ……。
私のために、唯は一生懸命になってくれたんだよ……。
私なんかのために……。
逃げてばかりの私なんかのために……。

唯の奴……、きっと考えたんだ。捜しながら考えてたんだ。
自分が誰かの迷惑になってるんじゃないかって。
このままでいいのかって。
それで少しずつ自分を追い詰めて体調を崩して、
ベッドで看病されるうちに自分が頭を大怪我をした事にも、
この世界が自分の夢だって事にも気付いて、それで……。
それで……!」


叫びながら、唯の方に視線を向ける。
唯は……、赤い顔をして、低い唸り声を上げ続けている。
自分で自分を追い詰めて、自分から死に至ろうとしている。
私達のために……、死のうとしている……。

これは……、何なんだ……?
私は唯と傍に居たいと願っただけなのに、どうしてこんな事になっちゃうんだ……?
私は唯を失いたくなかった。大切な仲間を失いたくなかった。
唯達とずっと一緒で演奏して、笑っていたかった。
ずっと……、一緒に……。
その願いが間違ってたと言うんだろうか?
願っちゃ……いけなかったんだろうか……?

それは分からないけど、一つだけ分かってる事がある。
私が唯を追い詰めてしまったって事だ。
私がピックを捨てたせいで、過去を捨てようとしたせいで、
私は私よりも唯を傷付けてしまったんだ。
そうして、私はまた唯を失いそうになってしまっている。
それも一度目とは違って、他の誰でもなく私のせいで……。
私の……せいで……。

嫌だ……!
そんな嫌だよ……!
私が皆から嫌われるのは自業自得だけど、唯には死んでほしくない!
生きててほしい!
元の世界の事は関係無い!
もう唯を失いたくないんだ!
そのためには何だってしてやる! 何だって……!

だけど……、私に何が出来る……?
今度こそ唯のために何かをしたいのに、それを思い付けない。
何も思い付けない。
肝心な時に……、何も出来ない……。
ちっく……しょー……。
467 :にゃんこ [saga]:2012/05/22(火) 18:10:16.54 ID:x6fXrDtV0


今回はここまでです。
かなり話が終わりに向けて近付いてきました。
ここまでお付き合い頂けて、本当にありがとうございます。
468 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(茨城県) :2012/05/23(水) 09:27:20.51 ID:t4+Q+ubP0
一気読みしてしまった 乙です LvEもまじって外と内から干渉するかな?
なんておもっていたらとんでもない方向に向かって行ってびっくりです
心が締め付けられるような感じに襲われる文章も素敵です 続き楽しみにしています
469 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:54:11.61 ID:aQbTBr6w0
「律……」


澪が呟きながら歩き寄って来る。
私は唯の顔から視線を逸らさなかったけど、それはよく分かった。
澪の足音が響いてるんだ。それくらいは分かる。
澪が近付いて来る。
でも、私は澪の表情を知る事は出来ない。
澪の顔に視線を向ける事が出来ない。
私は嫌われてしまっただろう。
軽蔑されてしまっただろう。
これ以上はもう皆の傍に居られないだろう。

思わず逃げ出したくなる。
でも、逃げられない。逃げたくない。
最終的には皆の傍に居られなくなってしまうとしても、
今は皆の考えや想いを私にぶつけられるべき時なんだ。
皆は私にぶつけるべきなんだ、怒りや、悲しみや、苦しみを……。
どんなに辛くたって、私はそれを受け止めなきゃいけないんだ……。
私はそれだけの事をしてしまったんだから……。


「ごめん……、皆……」


喉の奥から声をどうにか絞り出す。
私は謝らなきゃいけない。
謝りたい。
何も出来てない私。
足手纏いにしかなっていない私。
和達を見捨ててしまった私。
唯を追い詰めてしまった私。
こんな私なんだ。
謝らなきゃ……、謝る事しか……、私には……出来ない……。


「ごめん……、本当にごめん……。
足手纏いにしかなってなくて、何も出来なくて……、悪かった……。
何を言ってくれたって構わない。
どんなに責めてくれたっていい。
皆の前から居なくなれって言うなら、居なくなる。
消えるよ……。

でも、せめて唯の体調がもう少しよくなるまでは、居させてほしい……。
唯のために何でもする……。
何か……させてほしい……。
だから……っ!」


謝りながら、いつの間にか私の目の前に来ていた澪の顔に視線を向ける。
怖かったけど、視線を逸らし続けているわけにもいかなかった。
本気で謝るには、真正面から相手を見つめるしかない。
まっすぐに見つめて、謝り続けるしかないんだ。
それが私に出来る事なんだと思う。
470 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:54:52.07 ID:aQbTBr6w0
「律……」


また澪が呟く。
私はそう呟く澪の表情を見つめて、初めて気が付いた。
澪が顔しそうな顔をしている事に。
凄く悲しそうな顔をしている事に。
私は……、また澪を傷付けてしまったのか……?
傷付けるつもりは無かった。もう傷付けたくなかった。
ただ謝りたかった。
皆に謝りたかっただけなのに……。
なのに、私はまた……?
心臓が強く鼓動し始めた事に気付く。
また……、私は間違えちゃったのか……?

瞬間、悲しそうな顔のままで澪が腕を振り上げた。
勢いよく振り上げて、拳を握り締めて……、
その拳が勢いよく私の脳天に振り下ろされる。


「……っ!」


脳天に鈍い痛みを感じて、思わず小さく呻いてしまう。
かなりの痛みを感じながら、
そういえば澪に殴られるのも久し振りだ、って、
何故かそんな間抜けな事を考えてしまっていた。
本当に久し振りに殴られた気がする。
でも、殴ってくれて構わなかった。
何度でも殴ってくれていい。
私はそれだけの事をしてしまったんだから。
皆には私を殴る権利があるんだ。

だけど……、澪がそれ以上拳骨を落とす事は無かった。
ただ悲しそうな表情で私を見つめるだけで、続く拳骨は来なかった。
澪の表情を見て、不意に気付いた。
そうだった……。
澪とは何度も喧嘩したけど、何度も殴られたけど……、
澪は本気で怒った時だけには、私を殴らないんだ。
殴らずに、怒るんだ、澪は。
私を殴るのは恥ずかしがってる時や突っ込みの時……、
そして……、私に何かを気付かせる時に殴るんだよ、澪は……。


「み……お……」


私は呆気に取られながら呟く。
澪は私に何かを気付かせようとしている。
何かを……。
それが何なのかはまだ分からない。
ただ、澪が私に大切な何かを気付かせようとしてるって事だけは分かった。

数秒くらい、沈黙が流れる。
それからやっと、澪が小さく口を開いた。


「……もういいよな?」


それだけ呟く。
澪が何を言ってるのか、
ムギも梓も分かってなかったみたいだったけど、私には分かった。
私だけには分かった。
もういい、って澪は言ったんだ。
十分苦しんだんだから、律はもう苦しまなくてもいい。
……なんて甘っちょろい事を言ったわけじゃない。
澪はそんなに甘い奴じゃない。
『もういいよな?』ってのは、『もう甘えなくてもいいよな?』って意味なんだ。
471 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:56:22.54 ID:aQbTBr6w0
そうだな……。
私は……、甘えていた……。
甘えていたんだ、皆に……。
私は皆に謝りたかった。皆に責められたかった。
あらゆる事に役立たずの自分を自分自身が許せなくて、
辛くて……、一人で抱えてるのが怖くて……、謝りたかったんだ。
和達を見捨ててしまった事も、唯を追い詰めてしまった事も、謝りたかった。
それで、皆に責められて罪悪感を抱く事で、逆に楽になりたかったんだよな……。
誰かに罰される事で、抱えていた物を軽く出来るって勘違いしてたんだ……。

分かるよ……。
今なら、分かる。
だから、澪は殴ってくれたんだ。
甘えていた私の甘えを果たさせてくれるために。
一発だけ……、殴ってくれたんだ……。
でも、もう甘えは許されない。


「ありがとう、澪……」


『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』と私は口にしていた。
口に出来た。
澪に『ありがとう』なんて、どれくらいぶりに言うんだろう……。
でも、本当にありがとう、澪。
最後の最後で、本当にギリギリの崖っぷちで、私は間違えずに済んだんだ……。
私の想いを分かってくれたのか、澪は少しだけ微笑んでくれた。


「これで最後だからな?
これ以上妙な事ばかり言ってると、もう二度と殴ってやらないからな?
覚悟しとけよ?」


「ああ……、十分甘えさせてもらったよ、澪……。
ありがと……な」


私が言うと、澪が私に方に手を差し出してくれた。
その手を握って、私は立ち上がる。
何とか、立ち上がる。
今度こそ。

ムギと梓の顔に視線を向けてみたけど、二人とも私と澪の間に、
どんな想いのやりとりがあったのか分かってないみたいで、
不思議そうな表情で私達の事を見つめているみたいだった。
そりゃ……、そうかもな……。
こんな短い会話で想いが分かり合えるなんて、
長い付き合いの幼馴染みにしか出来ない事だと我ながら思う。
その善し悪しは別として、今は純粋に大切な幼馴染みの澪が傍に居る事を感謝したい。


「あの……ね……?」


不思議そうな表情をしながらも、ムギが私に向けて話し始める。
私はムギにまっすぐ視線を向けて、続きの言葉を待つ。


「私……、りっちゃんの事、責めないよ……。
りっちゃんは何も出来てないって言ってたけど、そんな事無いと思うし……。
それにね……、謝るのは私の方だと思う……。
謝らないで、りっちゃん……。
前に変な事訊いちゃって、りっちゃんを迷わせちゃったのは私だから……。
だから……、ごめんね、りっ……」


「ストップ」


私はムギの言葉を止める。
前に変な事訊いたっていうのは、ムギが寂しがっていた時の事だろう。
自分がただ一人残されちゃうんじゃないかって、ムギが不安に思ってた時の事だ。
あの時、私はムギにはっきりした言葉を届けられなかった。
はっきりと伝えてあげるべきだった。
それを後悔する事は出来たけど、今は後悔よりもするべき事がある。
だから、私はムギに伝えるんだ、自分の正直な想いを。
472 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:58:06.42 ID:aQbTBr6w0
「そこからは私に先に言わせてくれないか?
私……、甘えてたんだと思う……。
私を責めてたのは……、私自身だったんだよ……。
澪に殴られてから気付くなんて間抜け過ぎるけどさ……。
まったく……、責められて楽になりたいなんて、甘え過ぎだよなー……。
本当の意味で馬鹿だよ、本当に……。

だからさ……、今度こそ後悔しないように言うよ。
ムギは私の大切な仲間なんだ。
大切な仲間だから、居なくなった和達よりも優先して守りたかったんだ。
それを口に出せなかったのは、私が弱かったからだよ。
自分の決心を信じられる意志の強さが私には足りなかったんだ……。
だから、言い出すと切りは無いけど、一度だけ謝らせてほしい。
思っていた事をちゃんと伝えられなくて……、ごめんな……」


「ううん……、私の方こそ……。
私の方こそもっと自分の気持ちを伝えればよかったよね……。
りっちゃんに何もかも抱えてもらう事になっちゃってて、ごめんね……」


言いながらムギは少し視線を伏せていたけど、
言葉の最後の方では軽く微笑みを見せてくれていた。
ムギの穏やかな笑顔……。
そうだよ……。
私はこの笑顔が見たかったから、皆の未来を守りたかったんだ。
自分の過去を捨てて、皆の笑顔のために頑張りたかったんだ。
その選択肢は間違ってないはずだった。

だけど、私が過去と思い出を捨てると悲しむ仲間が居たんだ。
私は自分の事だけに目を向けてたから、それに気付けてなかった。
私が皆の悲しむ姿を見たくないように、皆だって私の悲しむ姿を見たくなかったんだ。
その事に、やっと気付けた。
だから……、私はもう一度澪に視線を向けてから言った。


「……行ってくるよ、澪」


「何処……に……?」


「私に何が出来るか分からない。
何をしても裏目に出ちゃうのかもしれない……。
だけど、まだ出来る事があるって気付いたから、
澪達が気付かせてくれたから、それをやりたいって思うんだよ……。
唯を安心させてやりたい……。
唯が眠ってる内に、それが出来るようにしておきたいんだ……。
まだ仮定に過ぎないけど、安心出来れば、唯の体調も回復するはずだから……!」


言いながら、私はポケットの中に手を突っ込む。
ポケットの中には唯が拾ってくれた二つのピックがある。
三つあるうちの二つのピックが……。
残り一つのピックを、探しに行きたいと思う。
見つけ出して、苦しむ唯に見せてあげたい。
唯してくれた事は、無駄じゃなかったんだって。
私を苦しめるだけじゃなかったんだって。

そんな事をして、何の意味があるのかは分からない。
そんなちっぽけな事には、何の意味も無いのかもしれない。
今更、ピックを見つけたって、何も……。
だけど……。
私に出来る事は、多分それだけだ。
澪や梓みたいに誰かを支えてあげられるわけじゃない。
ムギみたいに看病が出来るわけでもない。
唯の傍に居たって、私に何か意味のある事が出来るわけじゃない。
だから、私は私に出来るちっぽけな事を精一杯やらなきゃいけないんだ。
473 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:58:38.47 ID:aQbTBr6w0
「……ああ、分かったよ、行って来い、律。
おまえが唯を追い詰めた理由については聞かないよ。
聞いたって、それは本人同士にしかどうにか出来ない問題だろうしな。
おまえに出来る何かがあるんだったら、私はそれを待ってるよ。
待ってるから……!」


澪が強い視線で私の言葉に頷いてくれた。
大切な幼馴染みが、私を送り出してくれた。
私も、強く頷く。


「ありがとな、澪。
唯が目を覚ましたら、私は必ず戻って来るって伝えておいてくれ。
おまえを元気にさせてみせる、絶対に死なせないからな! ってさ。

……もう一度言うけど、本当にありがとう、澪。
おまえが居なきゃ、私は多分何も出来てなかった……。
もっともっと後悔してた……。
何かを出来る気になれたのはおまえのおかげだ。
何だよ……、怖がりのくせにカッコいいじゃんかよ、澪……」


私がちょっと口を尖らせて言うと、澪が軽く笑ってくれた。
正直な想いを、告白してくれた。


「私だってギリギリだよ、律……。
怖いし、痛いし、辛いし、悲しいし、苦しい。
今だってパパやママ……、和達の事を思い出すと辛くてどうにかなりそうだ……。
でもさ……、頑張らなきゃって思うんだ。
皆の……、律の元気に頑張ってる姿を見てると、私も精一杯頑張らなきゃって思うんだよ。
律が元気な姿を見せてくれるから、私だって怖くても頑張れるんだ」


「でも……、それは私の本当の……」


本当の姿じゃない。
強がってただけの姿だ。
本当の私はもっと弱くて情けない奴なんだ……。
それを言うより先に、澪は首を横に振って言ってくれた。


「ううん……、それもおまえの本当の姿なんだよ、律……。
律の元気な姿を見てると、勇気が湧いて来るんだ。
空元気だったとしても、無理をしてたにしても、
律の元気な姿を見るのは、本当に嬉しかったんだよ……。
何も出来てないって事ない。
私は……、律の元気な姿に救われてたよ……」


「私だって……!
私だって……、りっちゃんの元気な姿、大好きだよ!」


澪の言葉に続いて言ってくれたのはムギだった。
真剣な表情で、私を見つめてくれている。
そう……なんだろうか……。
ほんの少しでも、私は皆の役に立てていたんだろうか……。
それなら、嬉しいな、凄く……。
私は少し救われた気分になりながら、頭を下げて二人に伝えた。
474 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 17:59:11.68 ID:aQbTBr6w0
「ありがとう、二人とも……。
じゃあ、悪いけど……、行ってくる。
ムギ、澪、唯の看病は頼む。
二人になら唯の看病を任せられるからな。

ムギ……、自信を持ってくれ。
私、ムギが必死に医学書を翻訳してたの知ってるよ。
病気じゃないだろうけど、それでも唯がまた苦しんだ時には役に立つはずだ。

澪も……、ありがとう。
おまえのおかげで少しだけ勇気が出せたよ。
私が皆のために何の役に立つかは分からない。
でも、出来るだけの事はやってみせるよ」


二人に想いを伝え終わった後、私は梓に視線を向けた。
さっきから何も喋っていない梓。
ひょっとすると、私に何が出来るわけでもないって思ってるんだろうか。
そんな事は無いと思うけど、それでもよかった。
そう思われても仕方が無い事を私はして来たんだから。
私をまた信じてもらえるかどうかは、私のこれからの行動次第だ。
私は小さく深呼吸してから、梓に声を掛ける。


「梓……、おまえはここに居て……」


「私も連れてって下さい!」


私の声よりもずっと大きな声で梓が叫ぶ。
予想外の事に私は驚いて硬直してしまう。
澪達も不思議そうに梓を見つめてるみたいだった。
だけど、梓はそれを気にせずに言葉を続けた。


「律先輩が何をしようとしてるのかは分かりません……。
でも、お手伝いしたいんです!
唯先輩が元気になるなら、そのためのお手伝いがしたいんです!
だから……、私も連れてって下さい、律先輩!」


強い視線だった。
強い意志だった。
梓を連れて行くべきかもしれないって、一瞬考えてしまう。
だけど、私は首を横に振った。
それはしない方がいい事だと思ったからだ。
私が一人でやらなきゃいけない事だし、梓にはやってほしい事がある。
梓が悲しそうに視線を伏せて続ける。


「どうしてですか、律先輩……?
私……、私も……、皆さんのお役に立ちたいです……。
私には看病なんて出来ないですし……、
それに……、律先輩を一人で行かせるなんて心配で……」


梓は一陣の風の事を言ってるんだろうと思った。
確かに誰かを一人で行かせるのは心配な気持ちは分かる。
私は梓の肩に軽く手を置いて、静かに頷いてみせた。


「大丈夫だよ、梓。
梓にはやってほしい事があるんだ。
唯の傍に……、居てやってほしい。手を握っていてやってほしいんだ。
唯の事が大切なんだって、元気で居てほしいんだって、
そんな気持ちを込めて、私の代わりに一緒に居てやってほしいんだよ。
梓が傍に居た方が、唯だって喜ぶよ」


「でも……、でも、それじゃ、律先輩が……」


まだ寂しそうな表情を浮かべる梓。
私は梓を安心させるために、床に置いていたリュックサックに入れておいた物を取り出した。
雑誌とかをまとめる時に使うビニール紐だ。
400メートルのビニール紐を四つ。
そのうちの一つを私の腰に巻いてから結んだ。
私の突然の行動に、唖然とした表情で梓が呟く。
475 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 18:02:48.95 ID:aQbTBr6w0
「な、何やってるんですか……っ!」


「おまえが最初に言い出した事だろ、梓?
自分の身体に触れてる物は一緒に転移するんじゃないかってさ。
その理論の応用だ。
ビニール紐を身体に結んでおいて、
誰かがそれを持っていてくれれば、どんなに距離が離れてたって大丈夫なはずだろ?
そんなに遠出をするつもりじゃないし、四つもあれば大丈夫だろ。
紐の端と端を結べば一キロ以上は進める。
それにこれも被ってくからさ」


言いながら、私はライト付きのヘルメットを被った。
さっき時間を確認したけど、午後五時を回ってたからな。
そろそろ太陽も沈み始める頃だ。
そんなに時間を掛けるつもりはないけど、万が一の時のために被っておいた方が安全だろう。
懐かしくなって持って来ておいてよかった。


「それなら安心……のはず……ですけど……。
でも……、でも……」


まだ心配そうな表情を浮かべる梓。
安心させてやりたかったけど、今は無理にでも信じてもらうしかなかった。
ビニール紐の固まりの端を梓に握らせてから、私は部屋の扉を開ける。


「律先輩!」


「りっちゃん!」


「律!」


三人の言葉が重なる。
全員の視線が私に集まる。
続きの言葉は澪が代表して言ってくれた。


「ちゃんと帰って来いよ!
唯と一緒に待ってるから……!
だから、ちゃんと帰って来て……!
お願い……!」


「ああ!
唯の事……、頼む!」


そう言ってから、駆け出して行く。
未来への希望と、少なからずの不安を胸に抱きながら……。
476 :にゃんこ [saga]:2012/05/24(木) 18:07:12.27 ID:aQbTBr6w0


今回はここまでです。
いつも感想を下さる皆様、どうもありがとうございます。
りっちゃん立ち直……った?
またお願いします。
477 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/25(金) 03:42:51.07 ID:VjGh/py00
乙です

ここへきて冒頭部分が気になってきた…
478 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:28:08.91 ID:Don8XXFs0





走る。
階段を駆け下りていく。
ビニール紐を腰に巻いて、ライト付きヘルメットを被って、そんな間抜けな姿で私は走る。
間抜けだけど、私が今出来る最善の、最良の装備姿だ。
どんな姿でだって、走ってみせる。
見つけ出してみせる。
ピックを。
私の過去を。
唯が大切にしようとしてくれた物を。

さっき、私は勇気が出せたと皆に言った。
勇気は確かに出せた。
ギリギリの所で踏み止まれた。
踏み止まれたのは澪の拳骨、ムギの信頼、梓の支え、唯の想いのおかげだ。
最低な私が最後の最後で勇気を出せた。
それは本当だ。
でも、怖さは全然無くなってない。
むしろ不安と恐怖はどんどん増して来てる。

それを誤魔化して、拳を握り締めて、唇を噛み締めて、私は走ってる。
怖い……、物凄く怖い……。
唯の事を失うのが怖い。
捨てた過去と向き合うのが怖い。
ピックを見つけられたとして、唯に何て言えばいいのかも分からない。
皆は私を信頼してくれたけど、その信頼に応えられるか全く自信が無い。
無い無い尽くしで我ながら呆れ果ててしまいそうだ。

でも、走る。
走らなきゃいけない。
走らなきゃ、今度こそ私は恐怖で動き出せなくなる。
それは駄目だ。絶対に駄目だ。それだけは許しちゃいけない。
今一番苦しいのは唯なんだ。
唯の苦しみと比べたら、私の恐怖なんて大した事無いんだ。
無いに決まってるんだ……!


「……はあっ!」


溜息なんだか深呼吸なんだかよく分からない吐息が私から漏れる。
何だよ……。
いい加減にしろよ、私……。
何でまたこんなに怖がってるんだよ、畜生……。
本当に苦しいのは唯だ。唯なんだぞ……!
死ぬ事まで覚悟させちゃってるんだぞ……!
だから、進め!
今は私の苦しみなんて考えるな。
もう陽は沈みかけなんだ。
陽が沈んでしまったら、小さなピックを見つけるのがもっと難しくなる。
悩むのは後からだっていくらでも出来るんだから……!

階段を降り切り、私はホテルの玄関から飛び出していく。
視線を地面に向けると、建物や私の影はかなり長くなってしまっていた。
この調子じゃ二時間もしないうちに完全に陽が沈んでしまうはずだ。
勝負は二時間……。
長い時間のはずなのに、気だけが焦る。
そもそも唯が三日間掛けて見つけられなかったんだ。
残りニ時間で私に見つける事なんて出来るんだろうか……?

いや、出来る……、出来るはずだ……!
唯は何の手掛かりも無くピックを捜して見つけ出してくれたんだ。
私がピックを投げ捨てた方向すら把握出来ずに、見つけ出したんだ。
投げ捨てた方向を憶えてる私が、
投げ捨てた私が見つけられなくてどうする……!
479 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:29:41.97 ID:Don8XXFs0
私は屋上を見上げ、あの日、自分が立っていた方向を確認する。
あの日、確か私はホテルの道路に面した方の端に立っていたはずだ。
それをまっすぐに投げ捨てたわけだから……。
よし……、間違いない。
あの方向なら、丁度道路の方に落ちた形になっているはず……。
私は頷くとまっしぐらに全速力で道路に飛び出して、しゃがみ込んだ。

後は総当たり。
目ぼしい場所は唯が全部調べてるはずだけど、
もしかしたら何かの原因で見落としてるって可能性もあるから、絨毯爆撃的に端から端まで見ていこう。
そうすればいつかは必ず見つかる。
見つかるんだ……!
後は単なる時間との勝負だ。
いつかは見つけられるとしたって、全てが手遅れになってからじゃ遅過ぎる。
だから、急げ……!
急いでピックを見つけ出すんだ……!

私は目を皿のようにして、道路から街路樹から、片っ端から探り始める。
今は幸いにと言うべきか車も人も道路には居ない。
他の何を気にする事も無く、ピックを捜す事に専念出来るんだ。
大丈夫、見つかる。
絶対に見つかるって自分に言い聞かせて、とにかく探し続ける。

だけど……、私の中の弱い私が私の想いの邪魔をする。
私の中で耳鳴りみたいに、迷いの言葉を囁き続ける。

ピックを見つけてどうする?
ピックを見つけて唯を喜ばせて、それでどうするってんだ?
捨てようとした過去を受け止め切れるのか?
過去を見てちゃ動き出せなくなるから、ピックを捨てようとしたんだろ?
ピックを見つけたら、また動き出せなくなるんじゃないか?
和達を見捨てたって罪悪感に囚われて、何も出来なくなるだけなんじゃないか?
それとも、ピックを見つけて、皆の前で演技を続けるのか?
もう過去の事なんて乗り越えた。
何もかも大丈夫だって演技をして、皆に嘘を吐き続けるのか?


「駄目だ!」


私は声に出して自分に言い聞かせる。
今はそんな事を考えちゃいけないんだ。
唯の事を一番に考えるんだ。
唯が元気になれるんだったら、私は自分の気持ちに嘘を吐いたって構わない。
私はもう失いたくないんだ。
皆から唯を失わせちゃいけないんだ。
最後の最後に残った五人を、五人のままで居させなきゃいけないんだ……!
例え自分の気持ちに嘘を吐いたって……!

だからこそ、今は何も考えずに、前に進むんだ!
ピックを絶対に見つけ出すんだ!
それが一番いい答えなんだ!
さあ、今は地面を這って、ピックを捜すんだ!

それからどれくらい捜しただろうか……。
私は目に映る目ぼしい道路や建物付近を片っ端から捜した。
見落としは無かったはずだ。
街路樹の植えてある土まで掘り起こして捜したんだ。
だけど、何処にどう捜してもピックは見つからなかった。
どうやっても、見つからなかった。
何でだ?
どうして……、どうして見つからないんだ?
私がピックを投げ捨てたのはこの方向で間違いなかったはずだ。
片っ端から地面を捜し切ってやったはずなんだ。
なのに……、どうして?

瞬間、待てよ? と思った。
唯は三日間この付近を捜していた。
それで最後のピックを見つけられなかったんだ。
私がピックを投げ捨てた方向が分からなかったとは言え、そんな事があるか?
三日間だぞ?
特に唯はああ見えて誰よりも集中力がある奴じゃないか。
そんな唯がピックを二つも見つけて、最後の一つだけ見落とすなんて事があるか?

考えられるのは、最後のピックだけ何処か全然離れた場所に移動してるって可能性だ。
例えば風か何かで……。
風……。
思い出すのは梓と一緒に居た時に吹いた風。
強い風じゃなかった。あれはそんなに強い風じゃなかった。
だけど、小さくて軽いピックを何処かに飛ばすには十分な風だ。
480 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:32:26.42 ID:Don8XXFs0
「まさか……」


思わず呟いてしまう。
まさか私はまた間違ってしまったってのか?
時間が無いっていうのに、唯が苦しんでるっていうのに、
自分の迷いと戦う事に精一杯で、肝心な事に目が行ってなかったってのか?
風でピックが飛ばされてるかもって、そんな簡単な想像も出来ず……。
三日間も唯が必死に捜してくれた物を、
投げた方向が分かってるってだけで、簡単に見つけられるって勘違いして……。

馬鹿か、私は!
いや、正真正銘の馬鹿だ!
何で私はこんなに……。
こんなに馬鹿ばっかりやっちゃってるんだよ……。

いや、後悔してる時間は無い。
後悔してたって、何も出来ない。
風で飛ばされたってんなら、範囲を広げて捜すだけだ。
何としてでも捜し出すだけだ。
私に出来るのはそれだけなんだから……。
もうそれしか出来ないんだから……。
だから、急いで他の場所を捜しに……。

不意に。
私は思い付いた。
思い付いてしまった。
それは私の焦りが産み出した悪魔の囁きだったのかもしれない。
だけど、悪魔の囁きでも、それは私自身が産み出した悪魔には違いなかった。

時計屋から拝借してきた腕時計で時間を確認してみる。
時間はもうすぐ七時を回ろうとしている。
あっという間に二時間も過ぎ去ってしまった。
もうすぐ陽も落ちてしまうだろう。
ピックが落ちている場所の推測が全然出来てない上に、陽まで落ちてしまったら本当に打つ手が無い。
ライト付きのヘルメットは被ってるけど、
こんな小さなライトくらいが何の役に立つのかも分かったもんじゃない。

だから、私は思った。
思ってしまった。
今から楽器屋に行って適当なピックを見つけて、
それにほうかごガールズのマークを描いてしまうってのはどうだろうって。
そのピックを本物として通すのはどうだろうって……、思ってしまった……。
ピックの事は私と唯しか知らない。
そして、本物のピックの形は私しか知らない。
本物のピックだって言って渡してしまえば、唯は単純に信じてくれるだろう。
心を落ち着かせてくれて、元気になってくれるだろう。

そうだ……。
今は一刻も争う時なんだ……。
さっき私は自分に嘘を吐く事を決めたじゃないか。
唯のために、皆のために、嘘を吐くって決めたじゃないか。
単に私がこれからずっとこの嘘を胸に抱えて、生きていけばいいだけだ。
唯に生きてもらうためなんだ。
唯に元気になってもらうためなんだ。
皆のためなら、私は嘘吐きにだってなってみせ……。
481 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:32:56.71 ID:Don8XXFs0
「……くそっ!」


拳を握り締めて、コンクリートの道路に自分の拳を叩き付ける。
分かってる。
唯を救うためには、そうするのが一番いいんだ。
私以外の誰も傷付かないいい方法だって事はよく分かってる。
でも……、駄目だ……。
それだけは……、絶対に出来ない……。
唯は私のために精一杯ピックを捜してくれた。
澪達も私を信じて、私に勇気をくれた。
皆の想いを……、どうしても裏切れない……。
肝心な所で、私は私の想いを偽れない。裏切れない……!
唯のためだってのに……。
そうしなけりゃ、唯が死んじゃうかもしれないっていうのに……!

だけど、耳に響く言葉がある。
私の言葉より強く響くあいつの言葉がある。


「私に嘘を吐かないでくれよ、律。
嘘を吐かれても分かるし、嘘が分かっちゃうのも悲しいじゃないか」


ロンドンに転移させられる前、夜の屋上で澪に言われた言葉。
嘘なんて吐けない。
あいつの前では吐けない。
勿論、唯の前でだって、ムギの前だって、梓の前だって吐きたくない。
嘘を吐きたくないんだ……!
嘘なんて吐けるかよ、皆の前で……!
少しは吐けたって、吐き続けられるわけないだろ……!

本当にどうしようもない奴だとは自分でも思う。
最善のはずの行動すら出来ない。
本当に役立たずだな、私は……。
皆の足を引っ張ってばっかりだよ……。

だけど、どうしようもなく臆病なおかげで、
弱かったおかげで、どうにか最後の失敗だけはせずに居られたみたいだ。
偽物のピックを持っていく事なんて絶対に出来ない。
私はもう嘘なんて吐けない。
皆の前でも、自分自身の気持ちにも、嘘なんて吐きたくないんだ。

ああ、認めるよ。
私だって本当は和達を見捨てたくなんかなかった。
何としても和達を見つけ出したかった。
一緒に居たかった。
ほうかごガールズのライブをしてやりたかった。
でも、それ以上に残った皆を失うのが怖かったから、自分を誤魔化してたんだ。
皆を守るため、皆と一緒に未来に進むためって言い訳して、
和達の事を必死に思い出さないようにしてたんだ。
そのためにピックを捨てたんだ。
未来に進むためじゃなくて、過去を思い出さないために……。

私はずっとそんな自分を見たくなかった。
弱くて逃げてばっかりの自分を見ていたくなかった。
でも、もうそれは無理だ……。
もう認めようと思う、今度こそ。
私は弱くて、皆の足手纏いだったって事に。
それをどうにか悟られないように自分の心を誤魔化して、
余計に皆に心配を掛けて、結局、嘘を吐いた所で何も変えられなかった。
事態を悪化させただけだったんだよな……。

だから、もう嘘は吐けない。吐かない。
ピックをもし見つけられても、正直な想いを唯に伝える。
今度こそ、なけなしの誤魔化しの勇気じゃなくて、本当の勇気で皆を支える。
そのためには……!
482 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:33:27.84 ID:Don8XXFs0
「……っしゃあっ!」


声を出し、立ち上がる。
全ては振り出しに戻ってしまった。
何もかも振り出しで、ゼロだ。
だけど、マイナスじゃない。もうマイナスじゃない。
ピックを見つけてみせる。
今度こそ自分の意志で、自分の気持ちに嘘を吐かないで。
それこそが本当の意味で皆と私のために出来る最後の事だ……!
見つけてみせる、絶対に……!

まずは落ち着け。
落ち着いて考えるんだ。
この周辺の地面にはピックが落ちてなかった。
それは事実だ。
だからって、何処か遠い場所にピックが飛ばされたって考えるのも早過ぎないか?
そう思うのにはちゃんと理由がある。
昔の話なんだけど、聡がカードゲームに使うカードを落とした事があった。
家の近くで落としたのは確からしいんだけど、
私も一緒に捜したのに何故か見つからなかった。
大事なレアカードらしく、聡は相当落ち込んでいたけど、
数日後、そのカードは本当に意外な所から見つかった。
聡のカードが見つかったのは自宅の屋根の上だった。
風で飛ばされたのか、何かの拍子で運ばれたのか、そのどちらかは分からない。
だけど、落としたカードは、確かに私の家の近くにあったんだ。

この周辺の地面にピックは無かった。
地面には。
だったら、地面以外に落ちてるんじゃないか?
それなら唯がピックを見つけられなかったのも納得出来る。
唯もピックは地面に落ちてる物だって思い込んで捜していたはずだ。
それが普通なんだ。さっきまでの私もそうだったしな。
だとしたら、地面じゃなくて建物の屋根や窓、
配水管なんかに挟まってる可能性も決してゼロじゃないどころかかなり高いはずだ。


「よしっ……!」


そう呟くと、私はまず一旦ホテルの入口に戻り、フロントに置いておいた物を手に取った。
それを首から掛け、すぐに元の場所まで戻る。
一息、深呼吸。
逸る気持ちを抑えながら、それの接眼レンズに目を近付ける。
持って来たのは、当然だけど双眼鏡だ。
地面ならともかく、高所にピックが挟まってるとなると肉眼じゃとても捜し切れない。
私は久々に使う双眼鏡に戸惑いながらも、全力でピックを捜し始める。
簡単に見つけられるとは思ってない。
私の考えが間違ってる可能性だってある。
だけど、絶対に見つけ出してやる……!
今度こそ、何が起こったって……!

元々捜し物が苦手な私だ。
最初こそ直立不動でピックを捜していたんだけど、
そのうちに双眼鏡を覗き込むだけじゃもどかしくて、いつの間にか歩き出していた。
少なくとも歩きながら捜した方が、効率よくピックを捜せるはずだしな……。
そう思っていたのが、間違いだったのかもしれない。


「いだっ……!」


不意に、私は自分の側頭部に鈍い痛みが襲ったのを感じた。
双眼鏡を目から離して周囲を見渡してみて、
私はやっと自分がビルの壁にぶつかったんだという事に気付いた。
双眼鏡を覗き込んでたせいで近くが見えてなかったらしい。
これは気を付けないといけなかったな……。
でも、私の頭にそれほどの痛みは無かった。
それはライト付きヘルメットを被っていたおかげだったみたいだ。
ライトの方をメインで使おうと思って被っていたはずなんだけど、
まさかヘルメットの方に助けられるとは思わなかった。
これが転ばぬ先の杖ってやつか?
いや、違うか。
483 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:34:19.18 ID:Don8XXFs0
いや、そんな事はどうでもいい。
自分がライト付きヘルメットを被っていた事を思い出して、
その瞬間、私はとても重要な事に気付いていた。
今……、何時だ……?
さっき時間を確認した時は七時前だったはずだけど、まだ結構明るいぞ?
昨日までは七時過ぎには完全に陽が落ちていたはずだったんだが……。
そんなに経ってないのか……?
そう思って腕時計を確認してみて思わずぎょっとした。

腕時計が七時五十分を指し示していたからだ。
なのに、陽が落ちてない……?
それどころか朝焼けくらいには明るくないか……?
何でだ……?

私は少し動揺して太陽に視線を向けてみる。
太陽はかなり低い位置にあったけど、どうもこれ以上沈みそうには見えなかった。
夕焼けと言うか、まるで朝焼けみたいだ。
いや……、もしかしたら、これは……。


「白夜……?」


気が付くと私は呟いていた。
そうだよ、白夜だ。
直接目にした事は勿論無いけど、テレビで何度か見た事はある。
夜になっても一晩中太陽が沈まないって言うあの自然現象だ。

そういや、ロンドンに行く前に澪に訊ねた事があったっけな。
ロンドンって北の国ってイメージあるから、白夜見られるかなって。
そう訊ねると、呆れた顔で澪は言ってくれたんだったな。
白夜が見られる季節は夏。
それも北緯が66.6度以上の国だけだって。
それはそれは詳しく教えてくれた。
多分、澪もイギリスで白夜が見られるかと思って、私より先に調べてたんだろうな。

だけど、今はそんな事はどうでもよかった。
見られるはずのない白夜が、どうしてロンドンの街で見られるんだろうか。
しかも、今日に限って。

……唯だ、と瞬間的に思った。
私も人の事は言えないけど、
唯だってロンドンじゃ白夜が見れないって事は知らないはずだ。
南十字星が何故か日本で見られるのと同じように、
唯の勝手な思い込みで今このロンドンに白夜が発生してるんだろう。
本当に適当な奴だよな……。

でも、私はそれを唯の意志だと感じた。
ロンドンで白夜が見られるかどうかは別として、今日白夜になったって事が重要なんだ。
これは唯が私を助けてくれてるって事だと、私は思う。
私がピックを捜す手助けをしてくれてるんだ。
多分、無意識の内に……。
ここは唯の夢の世界とは言っても、
唯自身が完全にコントロール出来てるわけじゃないみたいだ。
もし自在にコントロール出来るくらいだったら、最初から和達の姿を消したりはしないだろう。
唯自身もこの世界の力を持て余してるんだ……。
484 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:34:57.49 ID:Don8XXFs0
だけど、今、ロンドンは白夜になっている。
それは唯の生きたいって意志の反映のはずだって、私は結論を出した。
勿論、そうじゃないかもしれない。
単に熱に苦しむ唯の想いが暴走してるだけなのかもしれないし、
それ以外の理由で白夜になってるだけって可能性だってある。
それでも、私はこの白夜を唯の生への意志だと思う事にした。
勘違いだって構わない。
どちらにしろ、この白夜が私の手助けをしてくれてるのは間違いないんだから。
あまり悠長な事は言ってられないけど、少なくとも多少は落ち着いてピックを捜せるんだから。


「待ってろ……。
待ってろよ、唯……。
和、純ちゃん、憂ちゃん……」


気が付けば私は消えてしまった三人の名前を呼んでいた。
和達を見捨ててしまった私に、三人の名前を呼ぶ資格は無いのかもしれない。
恨まれても当然なのかもしれない。
これまで私はそれが怖かったけど、今は三人を忘れる事の方が怖かった。
もう忘れたくない。
恨まれてたって憎まれてたって、和達の事は憶えていたいんだ。
それに和達がもしも私を恨んでいたって、
和達も唯に生きていて欲しい事だけは間違いないはずだ。
恨んでくれても構わない。
だけど、今だけは唯のために、私に少しだけ勇気を分けてほしい。
皆との思い出を力にさせてほしい。
心から、そう思う。
485 :にゃんこ [saga]:2012/05/27(日) 18:35:49.87 ID:Don8XXFs0


今夜はここまでです。
長い回り道をしましたが、ここまでやっと来れたみたいです。
またよろしくお願いします。
486 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/05/27(日) 18:53:08.33 ID:mHbvotwro
乙乙
見つけたところで何か変わるのかってところでもあるが、そういう問題じゃないんだろうな
りっちゃんがようやく前を向けたようで何より
487 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/27(日) 19:15:50.81 ID:Qz8CqVXIO
乙乙!
488 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/05/27(日) 21:24:10.48 ID:DV2yimBZ0
乙です

あの曲のBメロの歌詞と重なって鳥肌立ちました
りっちゃんの完全復活がすごく嬉しい!
489 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/28(月) 11:37:20.58 ID:SFl5Wotao
もう一度〜信じるだけの勇気をもって〜
490 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:38:17.41 ID:rzsgqDp00
また必死に周囲を捜す。
小さなピックを見つけ出すのは至難の業だけど、もう諦めない。
絶対に見落とさない。

見つからない……。
唯が三日間捜して見つからなかった物なんだ。
そう簡単に見つかるはずもない……けど、そこで不意に私はある事に気付いた。
私はホテルの周囲を三時間以上捜した。
これでもかってくらいに捜した。
でも、まだ捜してない場所がある事にやっと気付けた。
時間制限が少なくなって、多少は冷静になれたからかもしれない。
また捜してない場所……、そこは……。

私は振り向いて、双眼鏡のレンズを覗き込んでその場所を見渡す。
簡単でこれまで思いもつかなかった場所、
単純過ぎて呆れてしまうくらいの盲点……、その場所こそ、私達が滞在してるホテルだ。
この周辺にピックは落ちていなかった。
確信は無いけど、風で遠くに飛ばされてるとも考えにくい。
周囲の建物の何処かに挟まってるようでもない。
なら、これで決まりだ。
ピックがある場所はこのホテル以外には考えられない。

あの夜、私は三つ同時にピックを投げた。
自分の過去と一緒に捨てようと思って投げ捨てた。
でも、力強く投げ捨てられたわけじゃなかった。
躊躇いや迷いや悲しみや……、
そんな色んな想いがあって、どうにか投げ捨てられただけだった。
力なんて……、ほとんど入れられてなかったんだ……。
遠い場所に飛ばされてたわけじゃない。
近過ぎて分からない所に落ちたって考える方が妥当だった。

唯が見つけられた二つのピックが何処にあったのかは分からない。
ホテルの周辺をずっと捜してたらしいし、
ここからそう遠くない場所で見つけたんだろうと思う。
だとしたら、一緒に投げた最後のピックだって、その二つのピックの近くにあるはずなんだ。
その場所こそこのホテルの外壁の何処かなんだ。
例えば、ホテルの入口の庇とか……。

思って、私はホテルの入口の庇……って言うのかどうかは分からないけど、
とにかく日本建築の建物だと庇に該当する部分を双眼鏡で見渡した。
勿論、そう簡単に見つかるとは思ってない。
でも、見つからなくたって、絶対に見つけ出してやる。
今度こそ私の考えは間違ってないはずだ。
ピックは間違いなく、このホテルの外壁の何処かに挟まっているはずなんだ。
どんな高い場所にあったって、どんなに見つけにくい場所にあったって、
私は絶対に今度こそ諦めずに見つけ出してやるんだ……!
だけど……、私はそこで予想もしてなかった事態に、声を上げてしまう事になる。


「あった……っ?」


あんまりにも簡単で信じられなかった。
唐突過ぎて変な夢でも見てるんじゃないかと勘違いしたくらいだ。
何度も双眼鏡を確認してみる。
でも、私が見つけたそれ……、ピックは確かにそこにあって、
双眼鏡越しにでもほうかごガールズのマークは簡単に確認出来た。
まさかホテルの外壁にあるかもって気付いてから、即座に見つかるとは思ってなかった。
確かにこれまで捜しもしなかった場所ではあるけど、こんなすぐに見つけられるなんて……。
ホテルの入口の庇だぞ?
これまで捜してた場所とは目と鼻の先じゃんか……。
491 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:39:13.34 ID:rzsgqDp00
いや……、これまで捜しもしなかった場所だからこそ、か。
思いもよらない場所だからこそ、それに気付けばすぐに見つけられるんだ。
まさしく灯台下暗しってやつだ。
そうか……。
ちょっと考え方を変えるだけで、答えは簡単に見つけられるんだな……。
そう……だったんだな……。

私は思わず泣き出しそうになってしまう。
悲しいのか嬉しいのか分かんないけど、何故だかとても泣いてしまいたい。
でも、そんなわけにもいかなかった。
私は鼓動が激しくなる心臓を抑えながら、ホテルの入口に向かう。
今はピックを回収して、唯に見せてやる方が先だ。
唯に何を言えばいいのかは分からない。
何を言ってやれるのかは分からない。
でも、とにかくピックだけは回収しておかないとな……。

と。
ピックを見つけられた事で少し安心出来たせいか、
私に不意に今まで気にしないようにしていた感覚が頭に戻って来た。
痛みだ。
ズキズキと痛む私の頭頂部の痛み。
さっき壁に頭をぶつけた時の痛みじゃない。
あれも痛かったけど、ヘルメットを被ってたおかげで大した負傷にはなってなかった。
それ以外の頭の痛みと言えば、考えるまでもない。
澪に殴られた痛みだ。
さっきまで忘れてたけど、気にし始めるとかなりズキズキと痛い。
澪の奴……、相当本気で殴りやがったんだな……。

でも、私はそれが嬉しかった。
変な話だけど、澪が傍に居てくれてるってそんな気がしたからだ。
私が弱気に傾こうとした時、こうして喝を入れてくれるんだ、澪は。
今は傍に居なくたって……。
弱気になってなんて、居られないよな……。


「よっしゃあっ!」


私はそう言って自分に気合いを入れ、入口の庇に視線を向ける。
少し高い場所ではあるけど、脚立があれば簡単に届くくらいの高さだ。
脚立なら確かホテルのフロントに置いていたはずだ。
梓がホームセンターから念のため持って来てた物だけど、こんな時に役に立つなんてな。
梓の先見の明ってやつには感謝しないといけない。
あいつには助けられて、支えられてばっかりだ。
律先輩、律先輩って、呆れた顔をしながらも、あいつは私を支えてくれた。
呼ばれ過ぎて、傍に居なくたって鮮明にあいつの声を思い出せるくらいだ。


「律先輩!」


ほら、今だってあいつの声が……。
……って、違う。
今のは現実に耳に届いた声だ。
私は驚きながら声がした方向……、ホテルの内部に視線を向ける。
居た。梓だ。小さな身体で私達を支えてくれてる梓だ。
その梓がツインテールを振り乱して、息を切らしながら私に駆け寄って来ていた。
私の目の前にまで辿り着くと、梓は大きな声を張り上げた。
492 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:45:03.63 ID:rzsgqDp00
「大丈夫ですか、律先輩……っ!」


「大丈夫……って?」


「何不思議そうな顔してるんですか!
心配したんですよ!
だって……、律先輩、三時間も経つのに全然戻って来てくれないし……、
気になって窓から外を見てみたら、八時過ぎなのに全然太陽が沈まないし……、
こんな異常事態……、心配するなって方が無理ですよ!」


言い様、梓が私の胸の中に飛び込んで来る。
勿論、抱き締められたいから、ってわけじゃない。
私の存在をただ確認したかったんだろうと思う。
梓は私の胸の中で震えていた。
梓の奴……、こんなに私を心配してくれてたのか……。
心配するな、とは言えなかった。
心配してくれてる相手に向かって、心配するなって言うのは無神経過ぎる気がした。
私も何度もした事があるだけに、今回ばかりはそれをしちゃいけないって思った。
梓の震えを止めるために、気休めじゃなくて、事実だけを伝える事にする。


「……悪かったよ、梓。
遅くなって……、ごめんな。
でも、見つけられたんだ。捜し物はもう見つけられたんだ。
後はそれを取りに行くだけだよ。もう……、それだけだからさ」


「本当……ですよね……?」


梓が上目遣いに私の表情をうかがう。
私は梓から視線を逸らさずに、ゆっくりと強く頷いた。
もう嘘は吐きたくないんだ。
嘘を吐いちゃ、いけない。

数秒見つめ合ってから、梓が強張っていた表情を崩してくれた。
少し安心してくれたみたいだった。
静かに梓が口を開く。


「本当……みたいですね……。
だから、信じますけど……、
律先輩の事、信じますけど……、もう嘘は吐かないで下さいよ?」


「何だよ……、私ってそんなに信用無いのか?」


私が口を尖らせて梓の頬を軽く抓ると、そのままの状態で梓が頷いた。


「それはそうですよ!
律先輩はいつもいい加減で大雑把で適当で変な事ばかりやってて……、
さっきだって……、部屋から出てくだって……、
「大丈夫」って言いながら、律先輩、泣き出しそうな顔してて……。
そんな顔見てたら、そんな嘘吐かれたら、心配せずにはいられないじゃないですか……!」


言葉の最後では梓はまた声を荒げていた。
私と会えて安心出来た事で、感情を少し抑えられなくなってるんだろう。
少し面食らったけど、それでよかった。
私と同じ様に、梓にも好きなだけ自分の気持ちに正直になってほしい。

それにしても、だ。
梓にまで私の嘘が見抜かれてるとは思わなかった。
この調子じゃ澪は勿論、ムギにだって私の嘘が完全にばれてるに違いない。
澪が前に「律の嘘なんて、私には簡単に見抜けるんだからな!」って言ってたけど、
どうやら私の嘘は本気で物凄く下手糞らしい。軽音部の皆に分かり切っちゃうくらいに……。
嘘で全てを誤魔化せると思ってた自分が、何だか恥ずかしくなってくるな……。
493 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:46:27.98 ID:rzsgqDp00
でも、嬉しかった。
心底、安心していた。
偽物のピックを作らなくてよかった。
嘘に嘘を重ねなくて、本当によかった……。
多分、偽物のピックを見せても、唯は喜んでくれてただろう。
澪達も私達の会話を見守っててくれてただろう。
私達の嘘を……、お芝居を見守っててくれてただろう。
皆が嘘を嘘と分かって、気持ちを誤魔化して、
皆のために嘘を吐き続ける関係になっちゃう所だったんだ……。
私の……せいで……。

だから、嬉しい。
本当に最後の最後にだけど、限界の所で踏み止まれたのが、泣きたくなるくらい嬉しい。
伝えよう、と思う。
正直な気持ちを、今度こそ皆に……。

私は手を伸ばして梓の頭を軽く撫でる。
何を伝えればいいのかは分からなかったけど、感謝の想いだけは届けたかった。
数秒、梓の頭を撫でる。
想いを届け切れるまで頭を撫でていたかったけど、そうしている時間も無かった。
今は唯の事を考えなきゃいけない時だし、梓だってそっちの方が大事だと思ってくれるはずだ。
私は小さく深呼吸してから、梓の頭から手を離して訊ねる。


「ところで、唯の様子は……?」


頭から手を離された梓の様子は少し寂しそうに見えたけど、すぐに真剣な表情に戻って口を開いた。
梓だって、今自分がどうするべきかを分かってるんだ。


「唯先輩の様子は小康状態……だと思います。
ムギ先輩がおっしゃるには、よくもなってないし、悪くもなってないとの事でした。
澪先輩も、ムギ先輩も、唯先輩を必死に看病してくれています。
勿論、私だって唯先輩の事が心配ですよ……。
だけど、律先輩が全然戻って来てくれないし、外を見てみると明るいままだし、
律先輩に何かあったのかもって思うと、私……、居ても立っても居られなくて……。
それで……、私……、律先輩まで居なくなっちゃったらどうしようって、私……」


躊躇いがちに梓が目を伏せる。
自分の弱さを見せる事と、私の言いつけを守れなかった事が辛いんだろう。
私にはその梓の気持ちがよく分かった。
私だって同じだったからだ。
何となくだけど、私達の選んだ道や考え方はよく似ていると思う。
未来に進もうとしたのも同じだし、誰かを失う事が何よりも怖かったのも同じだ。
私達は……、似た者同士なんだろうな……。
だから、あの日、私が風呂場で梓を求めようとしたのは、ひょっとしたら……。
いや、今はそんな事を考えてる場合じゃない。
私は梓の両肩に手を置いて、梓の視線がまた私の方に戻るのを待った。
梓は責任感の強い子だ。
迷いを見せながらも、すぐに視線を私の瞳に見度してくれた。
見つめ合いながら、私は言葉を続ける。


「詳しい事は言えないけどさ、外の様子は心配無いと思う。
こんな時間になっても太陽が沈まないなんて異常だけど、多分、これは白夜なんだよ。
梓だってテレビで何度か観た事があるだろ?」


「白夜って、律先輩……。
確か白夜はロンドンじゃ見られなかったはずじゃ……。
ううん……、そっか……。
この世界が唯先輩の夢の中なら、もしかしたらそういう事も……」


「理解が早くて助かるよ、梓。流石は優等生だよな。
だから、確実ってわけじゃないけど、今の外の様子は問題無いはずだ。
とりあえず気にするのはやめとこうぜ?
そんな事より、今は唯に届けたい物があるしな。
届けたいんだよ、『それ』と私の想いを……。
だから、『それ』を持って部屋に戻ろうぜ?
澪達は部屋で唯を看病してくれてるんだろ?」


「はい……、さっきも言いましたけど、
お二人とも、唯先輩の看病をしてらっしゃってます。
私が律先輩の事が気にしてるのを気付いて下さったみたいで、
「律の所に行って来い」って澪先輩が送り出して下さったんです……。
澪先輩達だって律先輩の事が心配なはずなのに、私だけを……」
494 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:48:18.89 ID:rzsgqDp00
それはそうだろうと思う。
ムギもそうだけど、特に澪は私の幼馴染みなんだ。
私の嘘も強がりも全部分かっていたはずだ。
分かっていて、送り出してくれたんだ。
勿論、私がどんな選択肢を選ぶのかは分かってなかったはずだと思う。
だけど、あいつは私の選んだ事を全部受け止めるつもりで、
そんな想いを抱いて送り出してくれたはずなんだ。
確証は無いけど、そんな物は必要無かった。
あいつはそういう幼馴染みなんだ。
どんなに情けなくたって私を信じてくれてるんだ。

ムギだって同じ。
ムギも私の事を信じてくれた。
だから、不安でも私を信じて今も待ってくれているんだ。
その信頼を裏切る事なんて、もう絶対に出来ない。

私は梓の頭を軽く掴んで、ホテルの入口の庇に視線を向けさせる。
不思議そうな表情を浮かべつつも、梓は素直に私の動き従ってくれた。
私は頷きながら言葉を続けて、梓に想いを届ける。


「心配、ありがとな。嬉しいよ、梓……。
あそこにさ……、私が唯に渡したい物があるんだ。
何かは言えないんだけど、ちょっと待っててくれないか?
私、もう嘘は吐かないからさ。
正直な気持ちを皆に伝えるようにしたいからさ……、
そのためにも、ほんの少しだけ待っててほしいんだ」


それは私の正直な気持ち。
やっと久々に伝えられた私の本当の想いだった。
だけど、梓は私の言葉には首を振る事で応じた。


「駄目です」


「え……っ?」


「私も一緒にあそこまで登ります。
律先輩を一人きりにするのなんて、もう嫌です。
唯先輩と律先輩の問題ですから、
律先輩が何を捜してるのかは確認しないようにしますけど、
目を瞑ってますけど、あそこまでは絶対に一緒に登らせてもらいますからね」


「いや、でも……」


「律先輩はもう嘘を吐かないんですよね?
だったら、私だって嘘を吐きませんし、吐きたくありません。
私の想いを偽って、譲ったりもしたくありません。
だから……、絶対絶対!
絶対に私も一緒に行きますからね!」


梓の声と表情は真剣そのものだった。
梓がこんな我儘を言うのは滅多に無い事だ。
いや、我儘ってわけでもないけど、こんなに自己主張するなんてな……。
私は正直になる事を決めた。
梓もその私の姿を見て、自分も正直になる事を決めてくれたんだろう。
だったら、私に断る理由なんて一つも無い。
梓が一緒に来てくれるんだったら、例え短い距離でも勇気が湧いて来る。
私は梓の表情を見ながら頷く。
495 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:50:04.90 ID:rzsgqDp00
「分かったよ、梓……。
私に私の考えがあるみたいに、おまえにもおまえの考えがあるんだよな……。
よし、じゃあ、一緒に登るぞ?
フロントにおまえが持って来てくれてた脚立があったはずだから、まずはそれを取りに行こう。
その後でブツを回収したら、全速力で唯の所に戻るぞ。
私の正直な想いを……、今度こそ唯に伝えるからさ……。
それじゃ、おまえはこれを持って……」


言いながら、私は余っていたビニール紐の端を渡そうとする。
だけど、それより先に私の手は、強く梓の手に握り締められていた。
強く強く、握り締められていた。
突然の事に驚いて梓の顔をのぞき込んでみたけど、梓の顔は真剣そのものだった。
私を一人きりにしたくないって想いは、本気で強いものだったらしい。
だったら……。

私は握っていたビニール紐の端を離すと、手を開いて梓と指を絡め合った。
梓とは何度か手を繋いだ事はあるけど、指を絡めて握り合った事はほとんど無かった気がする。
梓の体温を感じる。
私だって、梓や皆とは二度と離れたくない。
強く強く、手と手、想いと想いを繋ぎ合う。
フロントに向けて二人で駆け出していく。
もう嘘を吐かず、本当の想いで皆を守っていくために。

走りながら、不意に梓が呟いた。


「そういえば、律先輩……。
澪先輩から律先輩に伝言がありました」


「伝言……?」


「「絶対に戻って来いよ。
戻って来たら、聴かせたい新曲がある」との事です」


新曲……って言うと、完成したのが嬉しくて唯が自分からばらしに来たあれか?
どんな曲かは分からないけど、そんな事はどうでもよかった。
それがどんな曲であろうと、その曲は澪とムギと唯が演奏する曲なんだ。
澪はその三人の内、誰一人欠けさせるつもりも無いって事なんだ。
唯は絶対に救ってみせるって言ってくれてるんだ、澪は。
カッコいい事ばっかりしやがって、まったくあいつは……。
私だって、負けてたまるか……!

だから、私はまた梓の手を強く握った。
握りながら、宣言してやった。


「唯は元気になる……。
絶対に元気にさせてみせる……。
それで唯が元気になって、皆が元気に揃ったらさ……。
私達もほうかごガールズの腕前を澪達に見せてやろうぜ、梓……!」


「……はいっ!」


私の言葉に梓は笑顔になって、強く私の手を握り返してくれた。
梓の体温を感じながら、守ってやる、と私は決心した。
今度こそ守ってやる。
唯も、澪も、ムギも、梓も……。
そして、私自身の想いと過去も……!
496 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:51:02.53 ID:rzsgqDp00





部屋に駆け込んだ時、唯は目を覚ましていた。
でも、目を覚ましてるとは言え、
その苦しそうな表情からは体調が全然回復してないのがよく分かった。


「あ……、あずにゃん……、
りっちゃん……、おかえり……なさい……」


苦しいくせに、呆れるくらい身体が辛いくせに、
唯は無理に笑顔を浮かべて、私達を出迎えてくれた。
私達に心配させないように、私達の事を気遣って……。
それは私が何度も皆にやって来た事ではあったけど、
自分がやられると無力感に苛まれて辛いだけだった。悔しいだけだった。
私は……、こんな事を皆にやっちゃってたのか……。

それを後悔する事は出来たけど、今はそんな場合じゃなかった。
私は椅子に座って唯の様子を見てくれていたムギと場所を代わってもらう。
それから苦しそうに息をする唯の手を握って言った。


「いいんだ、無理に喋るなよ、唯……。
私が……、私が悪かったんだ……。だから……」


「そうですよ、唯先輩!
無理しないで下さい!
そんな無理してちゃ、治るものも治らなくなっちゃいますよ!」


辛そうな表情の梓が私の後ろから言葉を重ねる。
澪達は何も言わず、私達の様子を見守ってくれていた。
本当は唯に伝えたい言葉が沢山あったはずだ。
でも、澪とムギは静かに私達を見守ってくれている。
私達を信じて、任せてくれているんだ……。

私は皆のためにも、自分のためにも、その信頼に応えなきゃいけない。
もう嘘を吐かず、正直な気持ちを唯達に伝えなきゃいけないんだ。
私は自分の手が震えてるのに気付きながら、それでも言葉を続けた。


「おまえの言いたい事と、おまえの気持ちは分かったよ。
この世界がおまえの夢みたいなものなのかもしれないって事もさ……。
だけど、それが何だってんだよ。
そんな事より、私はおまえに元気になってほしいんだよ、唯」


「で、でも……、でも……、私……、私が……」


「いいから無理して喋るな、唯……。
さっきおまえは言ったな。
自分が死んだらこの世界は消えるかもしれないって。
私達が元の世界に戻れるかもしれないって。
確かにそうかもしれないな。
ここがおまえの夢の世界だってんなら、そういう事も考えられる。
おまえが死ねば、私達は元の世界に戻れるかもしれない……。

だけど、それがどうした!
おまえなしで元の世界に戻ったって……、何の意味も無いんだよ、唯。
私はただ元の世界に戻りたいわけじゃない。
おまえと一緒に、皆と一緒に、元の世界で傍に居たいんだ。
遊びたいんだ。笑いたいんだ。演奏したいんだ!
だから……、もう死ぬなんて言わないでくれ……!」


それは私の想い。
私が唯に伝えたかった想いの一部。
でも、唯は納得してくれなかったみたいで、何度も首を横に振った。
自分が死んで私達を解放するって答えは、唯だって必死に考えて出した答えなんだと思う。
拳を握り締めて、唇を噛み締めて、血反吐を吐くような気持ちで出した答えのはずなんだ。
そう簡単に折れられるはずもない。
私達の事を大切に思うからこそ、唯は折れられないんだろうな。
だけど、私だって、唯の事が大切だから折れたくないんだ。
497 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:52:01.87 ID:rzsgqDp00
私は口を開いて、次の想いを伝えようとしたけど、
その言葉は唯に先に言葉を言われる事で遮られてしまった。
これ以上唯に無理はさせたくなかったけど……、
でも、唯にも自分の想いを言葉にさせてやらなきゃ、私の一方的な押し付けになるとも思った。
私が私の想いを伝えたいように、唯だって唯の想いを私達に届けたいに違いないんだから。


「でもね……、りっ……ちゃん……。
私ね……、思うんだ……。思い出したんだ……よ?
元の世界での……、私の事……。
私……、ずっと眠っててね……、身体が……、動かせなくて……、
でもね……、憂や和ちゃんや……、
りっちゃん達が私を心配してくれてるのだけは……分かって……、
皆に心配掛けたくないな、泣いてて……ほしくないなって……、私……、思って……。
私が思っちゃっ……たから……。
だから……、皆が私の夢の……中に……」


ああ……、きっと、そうだろう。
そうなんだろうって思う。
完全に思い出せたわけじゃないけど、私もかなり思い出せてはきていた。
あの夏休みの日、一陣の風のせいで生き物が消え去ったわけじゃない。
ライブの帰り道、私達は何かの原因で大怪我を負った。
交通事故なんだか、通り魔なんだか、隕石なんだか、その原因は憶えてないしどうでもいい。
とにかく、私達は大怪我を負ったんだ。
特に唯が頭にとても大きな怪我を……。

その日以来、唯は目覚めなくなった。
目覚めなくて、悲しくて、
もう一度唯と話をしたいって、多分、私達全員がそう思ってた。
それがどういう理屈か叶ったんだ。
唯の夢の世界に私達の意識が迷い込むって形で、叶ってしまったんだ。
生き物が消えた理由は一陣の風のせいなんだっていう、
理に適ってるんだか適ってないんだかよく分からない設定で合理性が取られた唯の夢の世界に……。

でも、それなら、唯に責任は無いじゃないか。
この世界が生まれたのは唯がきっかけだったのは間違いないだろうけど、
それを望んだのは他の誰でもない私達自身だったって事になるじゃないか。
唯の傍に居たいと願った私達の想いが起こしてしまった出来の悪い奇蹟だったんだよ、これは。
漫画やドラマなんかでよく見るみたいな、ありきたりな奇蹟なんだ……。

私はそれを唯に伝えた。
唯に責任は無いんだって。
完全に思い出せたわけじゃないけど、私達は私達の意志でこの世界に来たはずなんだって。
でも、唯はやっぱり首を横に振った。
とても悲しそうに……、
体調の悪さよりも、心の問題こそが辛そうに……。


「あり……がとね……、りっちゃん……。
でも……ね……、私……、
もうりっちゃん達に……、辛い思いをしてほしくないんだ……。
私ね……。
憂達が居なくなっちゃった時……、凄く辛かった……。
怖かったし、辛かった……し、悲しかったんだよ……?

だから……ね……?
せめて、二人が傍に居るって思いたくて……、
髪型を憂みたいにして、眼鏡も掛けてみたんだよ……?
最初はそれで……安心……出来たんだ……。
でも……、後で気付いたんだ……。
りっちゃんの姿を屋上で見つけて、気付いたんだ……よね……。
私……、ひどい事しちゃったんだって……。
りっちゃんに辛い事を思い出させちゃった……って。
私が……、憂達の思い出に甘えちゃったから……、だから……。

もう誰にも私のせいで悲しい想いをしてほしくないんだよう……!」
498 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:52:51.44 ID:rzsgqDp00
それは唯の想い。
唯の悲痛な想い。
皆の事を大事に思って、皆の事を考えられるからこそ感じてしまう唯の痛みだ。
大切な物が沢山あるからこそ、人の何倍も感じてしまう胸の痛みなんだろう。
でも……、唯のその痛みは分かるけど、それを認めるわけにはいかなかった。
認めちゃいけないんだ、私のためにも、唯のためにも。
私は一つ大きな深呼吸をする。
大切な事を伝えるために、心を整えて口を開く。


「唯……、確かに私は悲しかったよ。
おまえの姿を見て、凄く怖くて、凄く悲しかった。
自分の心が壊れそうになるくらいだった。
でも、それは私の責任なんだよ、唯。
私が弱かったから、弱いくせに強がってたから、
それで……、自分の悲しさを隠し切れなくて、無茶な事をしちゃってたんだと思う……。
だから、あれを投げ捨てたんだ、私は……。

でも……。
おまえが見つけてくれて、二つだけ見つけてくれて……、
悲しかったけど、怖かったけど……、心の何処かでは嬉しかった気がするんだ。
私の事をおまえがそんなに考えてくれててさ、
私の思い出を大切にしてくれる友達が居て、本当に……」


「でもでも……、
りっちゃん達に辛い想いをさせてるのは……私で……。
りっちゃん達を悲しませてるのは私で……。

それに私……、怖いんだよ……。
今はまだ……、五人揃って……られてるよね……?
だけど……、だけどね……、
多分ね……、いつか私達も……離れ離れになると思うんだ……。
憂達が居なくなって……、気付い……たんだ。
この夢の世界は私の夢だけど……、私が自由に出来てるわけじゃない……んだって。
それはそうだよね……、夢だもんね……。
夜見る夢だって、自由な夢を見れるわけじゃ……ないもんね……。

だから……、いつか皆が離れ離れになる前に……、
憂達みたいに消えちゃう前に……、私が居なくなった方が……」


「それがどうしたってんだよ!」


私は大声で叫ぶ。
突然の事に唯は驚いたみたいだったけど、私は言葉を止めなかった。
止めるわけにはいかなかったんだ。
それだけは唯の意志でも通させてやるわけにはいかない。
私は唯の手を強く握り直して、唯の瞳を見つめながら言ってやる。


「それが何だよ?
私達がまた何処かに転移させられて、
誰かと離れ離れになるってのは、おまえが死ぬ事よりも辛い事だってのか?
おまえの命が消えるより、大変な事だってのかよ?」


「そうですよ、唯先輩!
私……、どんなに辛い事になっても、唯先輩が生きててくれた方が嬉しいです!
生きててほしいんです!」


私の言葉に続いたのは梓だった。
梓は今にも泣き出しそうな表情で唯を見つめている。
流石の唯も大好きな後輩にそんな表情をされては躊躇ってしまうらしい。
強い意志を持っていたはずの唯の言葉が弱くなっていく。
499 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:53:33.68 ID:rzsgqDp00
「でも、私が生きてたら……、皆、元の世界に……戻れないんだよ?
それに元の世界の私は……、
きっと……、もう目を覚ませられないと思うんだ……。
ここに居る私こそ……、本当の意味で……夢みたいな物なんだよ……。
皆を悲しませて、これからも不安にさせちゃう……迷惑な子なんだよ……?
それでも……いいの……?」


「いいに決まってるだろ!」


「唯ちゃんが死んじゃう方がやだ!」


言ったのは澪とムギだ。
ずっと見守ってくれていた二人だけど、
今ばかりは自分の気持ちを唯に伝えたいみたいだった。
伝えるべきなんだと思った。
嘘を吐いてたって、誤魔化してたって、物事は前に進まない。
それを教えてくれたのは唯じゃないか。
過去を捨てないでほしいって気持ちでピックを集めてくれたのは唯じゃないか。
今度は私達が唯にそれを教える番なんだ……!

私はポケットの中に入れていた三つのピックを取り出し、
誰にも見られないように、唯に握らせる。やっと見つけ出せたピック。
唯が大切にしようとしてくれた私の……、私達のバンドのピックだ。


「あっ、これ……」


唯が戸惑った表情で呟く。
まさか自分があれだけ捜して見つけられなかった物を、私が見つけてるとは思わなかったんだろう。
それとも、私がピックを捜しに行くとは思ってなかったのか……。
まあ、どっちでもいい。
とにかく、私は唯に自分の正直な気持ちを伝えるんだ。


「ありがとう、唯。
おまえのおかげで私はこれを捜せた。捜そうって思えた。
自分の思い出を捨てちゃ駄目だって思えたんだ。
もう大丈夫だよ、唯。
私は過去と向き合え……」


言っていて、違和感に気付いた。
違う。これは単なる唯に対する気休めだ。
強がってるだけの、大嘘だ。
そうじゃない。そうじゃないだろ、私。
私はもう皆に嘘を吐かないって決めたんじゃないか。

高鳴る鼓動を抑えて、私は本当の自分を曝け出す。
見せたくなかった自分を、やっとの事で皆に見せる気になれたんだ。
自分でも震えてる事に気付きながら、伝える。それでも。
500 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:54:03.40 ID:rzsgqDp00
「……正直に言うよ、唯。
本当は怖い。すっげー怖い……。
和達の事を思い出すのもそうだし、この先、皆と離れ離れになるかもって事もさ……。
それは唯の夢の世界に来てからって話じゃない。
唯が目覚めなくなるずっと前から、大学に入ってから、それをずっと考えてた。
怖かったんだよ、色んな事が……。
大学までは一緒になれたけどさ、
就職先まで一緒にはなれないだろうし、バンドを続けられるかも分からない。
色んな事が不安だったし、これからも不安は消えないはずだ。

だけど……、それよりも私は唯が元気で居てほしい。
例え夢の世界だけでも、唯には元気で居てほしいんだ。
私達のために死ぬだなんて、言ってほしくないんだ……。

唯に私の存在が負担にならないように、私は強くなる。
強くなってやりたいんだ。
何が起こったって乗り越えられるように……、強く……。
だから、おまえは生きていてくれ、唯!」


情けない決意表明。
自分の弱さを認めるだけの、気恥ずかしい宣言。
でも、それでよかったと思う。
ここまで追い込まれてからだけど、私はやっと素直になれたんだ。
皆の前で、弱さを見せられたんだ。
今はそれだけでも上出来だと思うべきなんだろう。
やっと一歩。
これで私はやっと一歩進めたんだから。

私の言葉を聞いて唯はどう思っただろう。
私の想いの何分の一かでも届いただろうか。
せめて、唯に生きていて欲しいって気持ちだけは届いていてほしい。

不意に、唯が笑った。
久し振りに見る、唯の優しいほんわかとした笑顔……。
その笑顔を浮かべたまま、唯が喋り始める。


「え……へへ……。
嬉しい……なあ……。
皆に迷惑掛けてばっかりなのに……、いつもいつも迷惑掛けてるのに……。
皆が私の事を思ってくれて……、私……、すっごく……嬉しい……。
私……、生きてて……いいのか……な?
皆と一緒に居て……いいの……かな?」


「生きてて下さいよ!
ずっと……、ずっと一緒に居ましょうよ、唯先輩!
皆で……、またセッションしましょうよ!」


梓の悲痛な声が響く。
唯の事を心の底から心配した声色。
唯はその梓に向けて笑顔を向けて言葉を届けて……、


「あり……がと、あず……にゃん……。
私……、私ね……、皆と傍に居られて本当に」


瞬間、私が握っていた唯の手から力が抜ける。
身体中から力が抜けていく。
目を閉じる。
そうして、その唯の続きの言葉を聞く事は出来なくなった。
501 :にゃんこ [saga]:2012/06/01(金) 18:55:04.44 ID:rzsgqDp00


今回はここまでです。
久しぶりなのでちょっと長くなってしまいました。
502 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/02(土) 09:21:17.96 ID:i9xArtjvo
え、ちょっとこの切れ方だと唯は…
でもこっから冒頭のやつがあるわけだしなー、どうなるんだろ
冒頭も皆で手を繋いでて、だけど音楽にすら疑問感じてるから幸せそうでそうでもない印象なんだよね

とりあえず乙でした
503 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:34:57.37 ID:w9A0afgF0





雲が流れる。
何処までも果てしない空に、輝く雲が。
窓の外で静かに流れていく。

これまでの喧騒が嘘みたいな静けさ。
あいつが私達の心をこんなに占めてたなんて、思ってなかった。
あいつがこんなにも大事だったなんて、思ってもみなかったんだ。
失ってしまって、それをまた確認する。

私は横たわっていた主の居なくなったベッドに視線を向ける。
確かにあいつはここに居た。
ここで孤独や恐怖と戦っていた。
私達の事を思って、私達の傍で、生きてくれていたんだ。
でも、あいつは……、もう……。


「いい奴……だったんだけどな……」


「うん……」


私が呟くと、応じるみたいにムギが悲壮な表情で頷いた。
いい奴だったと思う、本当に。
失いたくなかった。
どんな形でも生きててほしかった。
守りたかった。
だけど、それは叶わなかった。
無力感が心を支配し、私は肩を落として拳を握った。
もうあいつに会えないんだと考えるだけで、自分の胸に大きな穴が出来てしまったかのように感じる。
その穴が塞がる日はいつか来るんだろうか……?


「この世界は……、これからどうなるんだろうな……」


澪が唯の横たわっていたベッドを整えながら、独り言みたいに呟いた。
独り言だったのかもしれないけど、私はその独り言に応じてやる事にした。
独り言にだって、返事が欲しい時もあるだろう。


「さあな……。
これからどうなるんだろうな、この世界……。
まだ分かんないよな、その辺もさ。
この世界が本当に唯の夢の世界だったのか、それも確定してないしな……。
でも、多分、世界は変わる。変わると思うよ。
いい方向になのか悪い方向になのかは分かんないけど、きっと世界は変わると思う」
504 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:35:35.50 ID:w9A0afgF0
「そう……だな……」


「ねえ……」


澪が私の言葉に頷いた後に、
誰かが声を掛けてきたような気がするが、空耳だろう。
私は空耳を気にせずに、辛そうな表情を浮かべているムギの肩に手を置いた。


「もう……、そんな顔をするのはやめようぜ、ムギ。
唯はムギがそんな顔をしてるのなんて望んでないよ。
笑ってやろう。どんなに辛くたって、笑顔で居てやろう。
唯だってその方が喜ぶだろうからさ……」


「そう……だね……。
いつまでも悲しい顔をしてるわけにはいかないよね……。
私……、頑張る。
唯ちゃんが安心出来るように、私も頑張らなきゃね……」


「その意気だ、ムギ」


「ねえってばー……!」


ムギが軽く笑うと、またも妙な空耳が聞こえた。
今日は空耳がよく聞こえる日だな……。
まあ、空耳は放置しておいていいだろう。
私は何故か呆れた表情を浮かべている梓の頭に手を置いて、
とても青い空と太陽に人差し指を向けて、決意表明をしてみせる。


「私達は唯を失った……。
だけど、あいつも私達が立ち止まってるのは望まないと思うよ。
だからさ……、前に進もうぜ、皆。
あいつが託してくれた分も、精一杯生きてやろうぜ!」


「ああ!」


「うんっ!」


私の宣言に澪とムギが力強く頷いてくれる。
梓は相変わらず呆れた表情を浮かべていたけど、まだ気持ちの整理が出来てないだけだろう。
いつかは梓だって気持ちを整理出来る。
また笑顔を浮かべられるようになる。
そのためにも私は梓を傍で支えてやらなきゃな……、
とか思ってたら、急に何者かに肩に思い切りしがみ付かれた。
何者かは泣き出しそうな声色で喋り始める。
505 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:36:17.56 ID:w9A0afgF0
「ごめんよ、りっちゃんー!
心配掛けてごめんよ、りっちゃんー!
だから、そういう扱いはやめておくれよー……!」


しがみ付いて来たのは唯だった。
ついさっきまで寝てたくせに、その力は妙に強い。
それにしても、起きたばっかりのせいか、相変わらず寝癖を立たせまくった髪型だな……。
私はその寝癖っ子に向けて、わざと冷たい言葉を掛けてやる。


「あ、死んだふりをしてた平沢唯さんだ」


「死んだふりじゃないよー……!
あの時は本当に疲れてたんだよー……!
疲れて寝ちゃってただけなんだよー……!
ごめんよー、許してー……!」


唯が私の顔に自分の顔を近付けて何度も謝り出す。
暑苦しい……。
けど、その暑苦しさは嫌じゃなかった。
またこうして唯の体温を感じられるのは、私としても凄く嬉しかった。
泣き出してしまいたいくらい、息が詰まるくらい、嬉しい。
でも、それを唯に悟られるのも恥ずかしかった。
私は照れ隠しに唯の寝癖をくしゃくしゃに撫でながら言ってやる。


「許すも許さないもないよ、唯。
おまえが生きてくれてて本当によかった。
だけど、もう紛らわしい真似はもうすんなよ?
今度やったら、そうだな……、ムギ! 言ってやれ!」


「今度やったら、おやつ抜きだからね、唯ちゃん!」


「ええぅ?
わざとじゃないのにぃ……。
おやつ抜きは許してよ、ムギちゃんー……!」


唯が慌てた様子でムギに頭を下げ、その様子を見てムギが微笑んだ。
周囲で見てた澪や梓も苦笑してるみたいだった。
釣られて、私もちょっとだけ苦笑した。

あの時……、唯の身体中から力が抜けた時、私達は本気で動揺した。
唯を失ってしまったのかと思って、絶叫してしまいそうだった。
それくらい、胸が痛かった。
だけど、すぐに唯から寝息が聞こえてきて、
喜んでいいのか、怒っていいのか分からないけど、とにかく心の底から安心出来た。
唯まで失う事にならなくて、本当によかった……。
それだけは私達の共通の想いのはずだ。

「疲れも溜まってたみたいだし、安心して力尽きちゃったんじゃないかな」とはムギの言葉だ。
確かにずっと熱に苦しんでたわけだし、私達の言葉に安心して体力が尽きる事もあるとは思う。
思うけど……、何て紛らわしい奴なんだ……。
大体、突然電池が切れるとか小学生かよ……。
いや……、前々から死んだふりの演技ばかりしてる奴だったけど、
こんな時に無意識の内に死んだふりが出来るようになるなんて、その成長を褒めてやるべきか?
褒めてやるのも何だか悔しいが。
506 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:37:08.20 ID:w9A0afgF0
それにしても、唯が目覚めた時の気まずさったら何とも言えなかったな。
あれだけ皆が自分の想いを伝え合ってた時に、それが中断されちゃったんだ。
唯を含めた全員が不完全燃焼で、気恥ずかしい空気だけが漂ってた。
真面目な話をしてたはずなのに、どうにも決まらないんだよな、私達は……。
でも、それでよかったんだ、って私は何となく思ってる。
間抜けだけど、それが私達なんだ。
気を張り過ぎてて忘れてたけど、それが私達……、放課後ティータイムなんだよな。
そんな大切な事を、ずっと……、忘れてた気がする……。


「それにしても……、何だったんだろうな、唯の病気……か?
いや、病気なのか何なのかは分からないけど、とにかく唯の体調不良はさ。
今はあれが嘘だったみたいに、寝入ってからたった三時間でこんなに快復してるし……」


不意に澪が口元に手を置いて首を傾げた。
それは確かに謎だよな。
今の唯の様子を見る限り、その身体には何の異変も異状も無いみたいだ。
あれだけ苦しんでいたはずなのにどうして? って思わなくもない。
ピックを見せてやれば少しは落ち着くはずだとは思ってたけど、こんなに快復するなんて思ってなかった。
嬉しいには嬉しいんけど、やっぱり謎だ。

そうやって澪と一緒に首を捻っていると、ムギが口元に手を当てて神妙な表情を浮かべた。
お、久し振りの名探偵ムギバージョンだ。
ムギには何かの答えが出てるんだろうか?
少し待っていると、ムギがそのままの表情で話し始めた。


「知恵熱……だったんじゃないかな?」


「知恵熱ぅ?」


私と梓の声が重なる。
澪はといえば、呆れた表情を浮かべてないみたいだった。
どうやら澪もその可能性を疑ってたらしい。
唯は澪とムギが主に看病してたんだ。
同じ答えを導き出すのも当然と言えば当然かもしれない。
澪がムギの言葉を継いで続ける。


「ムギもそう思うか……。
私も唯の症状は知恵熱だったんじゃないかって思ってたんだよ。
子供が発症する本来の意味での知恵熱じゃなくてさ、
頭を使い過ぎると熱が出るっていう都市伝説的な意味での知恵熱……。
現実にあるのかどうかは分かんないけど、まあ、唯だしな……」


「あー、唯だし……」


「唯先輩ですしねえ……」


唯を除いた四人が同時に頷く。
知恵熱って、小学生どころか赤ちゃんかよ……。
思い返してみれば、その兆候はあったけどな。
知恵熱とまではいかないけど、唯は難しい事を考えるといつも頭がショートしてた。
本能と感覚で生きてるような奴だから、深く考えるのが苦手なんだよな、唯って奴は……。
それでも、憂ちゃん達が居なくなって、私が馬鹿な事をしようとしてて、
この世界が自分の夢じゃないかって疑い始めたりして、
色んな事があり過ぎて、唯の頭が働き過ぎてたのかもしれない。
そんな事で体調崩すなよって、馬鹿には出来ない。
私だって、高二の頃に澪と喧嘩した時には、知恵熱みたいな感じで風邪引いちゃったもんな……。

私は私の肩にしがみ付く唯に顔を向けてみる。
唯は自分の頭を掻きながら、恥ずかしそうに頭を掻いていた。
まったく……、こいつはいつだって大袈裟で紛らわしい……。
でも、それでいいんだって思った。
私はそんな唯が好きで、そのままの唯で居てほしいんだし、
知恵熱だか何だか分かんないけど、とにかく元気になってくれたのはとても嬉しいんだから。
507 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:38:40.70 ID:w9A0afgF0
だけど、心配させたお仕置きくらいはしてやってもいいだろう。
私は唯の頭に軽くチョップしてやると、のこぎりみたいに前後に動かしてやった。
こんなチョップをしてやるのも、そういえば凄く久し振りだ。
手を動かしながら、言ってやる。


「二度とこんな事で心配させんなよ、唯。
いや、その原因の一端は私にもあったわけだけど……、
それでもさ、もうこういうのはやめてくれよ?
私はさ……、私達は……、唯が元気で居てくれるのが一番嬉しいんだからな?」


私は自然に言ったつもりだったけど、唯にとっては意外な言葉だったらしい。
唯は私から身体を離すと、そのまま部屋の床に座り込んで涙を流し始めた。
変な事を言っちゃったんだろうか?
私は少し動揺しながら、涙を流す唯の肩に手を置いた。


「おいおい……、泣くなよ、いきなり」


「だって……、だってぇ……!」


言いながらも、唯の涙は止まらない。
ボロボロと床に零れ落ち続ける。
でも、涙に負けないように、唯は私達に自分の想いを届けてくれた。


「嬉しいよ……?
りっちゃんの言葉、凄く嬉しいけど……、ごめんって思っちゃって……。
皆に迷惑掛けてばかりで……、今だって、皆に……。
この世界はきっと……私の夢で……、皆に嫌な想いをさせちゃってて……。
それが……、すっごく……すっごく……」


拭っても拭っても溢れ出す唯の涙。
こいつは自分の辛さには耐えられるけど、
私達が辛く思う事には耐えられない奴なんだ。
でも、それは私達だって同じだ。
私達だって唯が辛いのは嫌なんだ。耐えられないんだ。
だから、私は唯の頭を撫でながら言うんだ。


「迷惑じゃないよ。
そりゃ大変で辛い事もあるけどさ……、
でも、唯と一緒に居て笑えるのは嬉しいんだ。
笑ってくれ。笑って、元気で生きててくれよ、唯」


「生きてて……いいの……?
私が生きてたら、皆が元の世界に……」


「いいよ」


言ったのは澪だった。
家族に一番再会したいのは多分自分のはずなのに、澪はそう言った。
澪は前に進む事を決めてるんだ。
思い出を捨てず、未来を夢見ながら、現在を生きていく事を決めてるんだ。
それは和と……、こんな弱気になる前の私のおかげらしい。
澪にとっては私はそんな頼り甲斐ある奴だったらしい。
自信は無いけど、澪が私をそう思ってくれてるなら、今度こそ迷わないように前に進みたい。

澪が私の方に一度だけ視線を向けてから、言葉を続ける。
508 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:39:58.59 ID:w9A0afgF0
「いいんだよ、唯。
律も言ったけど、私達はおまえが元気なのが一番なんだ。
おまえが元気で居てくれたら、それだけで嬉しいんだよ。
勿論、もしも遠く離れる事になったって、おまえが生きてくれてるなら嬉しい。
それにな……」


「それ……に……?」


「一つの事に集中出来るのはおまえの良い所だけど、それしか見えなくなるのは悪い所だよ、唯。
おまえが死ねばこの夢は覚めるかもしれないよな?
でも、もしかしたら覚めないかもしれないし、この世界がおまえの夢じゃない可能性も残ってる。
そんな物の試しみたいな事でおまえに死なれてたまるか。

あと、視野が狭いぞ。
元の世界に戻るためには、おまえが死ぬ以外の方法があるってどうして考えないんだ?
私達はまだこの世界について詳しい事は何も分かってないだろ?
おまえが死ぬのはこの世界の事がもっと分かってからでもいいはずだよ。
勿論、それしか方法がなくったって、おまえを死なせるつもりはないけどな」


「でもでも、元の世界に戻っても、私は……」


「だから、視野が狭いって言ってるだろ?
その解決策も一緒に見つけるんだよ。
元の世界でのおまえは寝たきりなのかもしれない。
目を覚まさない状態なのかもしれない。
でもな……、こんな世界を作り上げられるくらいなんだ。
どうにか頑張れば、おまえが元の世界でも生きられる方法があるって思わないか?」


正直、驚いた。
私もそこまで考えてなかったからだ。
唯を死なせたくないとは思ってたけど、その解決策までは思いが至ってなかった。
そんな……考え方があったんだな……。
もう、澪の奴を怖がりってからかえないな……。
澪は強くなった。
この世界に迷い込んでから、私なんかより、ずっと強くなった。
負けてられないよな、これは……。

勿論、本当にそんな方法があるとは限らない。
無い可能性の方が大きいと思う。
そんな都合よく、唯も私達も救われる手段があるなんて考えられない。
それでも、よかった。
何の目的も絶望するより、過去から逃げ出してるより、それを探す方がずっといい。
もうすぐ、私達が離れ離れになるかもしれないけど……。


「そうだよ、唯ちゃん。
私、唯ちゃんとまた演奏したいもん。
唯ちゃんのギター、澪ちゃんのベースと合わせた新曲が演奏がしたいよ。
折角作った新曲なんだし、皆に聴いてもらいたいな。
りっちゃんと梓ちゃんにも、勿論、和ちゃんや憂ちゃん、純ちゃん達にもね……」


真剣な表情でムギが言葉を紡いだ。
新曲が演奏したい……。
私だってまた唯と、皆と演奏したかった。
今度こそ自分達のために。前に進めるために。
本当の意味で、だ。

皆で本音で話し合えるようになって、やっと分かった事がある。
ロンドンに転移させられる前にやろうと思ってたほうかごガールズのライブ……。
あれは皆と自分を元気にさせるために、勇気を奮い出させるためのライブにしようと思ってた。
ライブをすれば勇気を出せる。
ライブをすれば元気に生きていける。
って、そんな風に考えちゃってた。
それはそれで間違ってないはずだけど、私達らしくなかったかなとも思う。
509 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:40:38.97 ID:w9A0afgF0
私達は音楽が好きだ。
音楽を皆で演奏するのが大好きだ。
ただただ純粋に、音を楽しんでいるのが好きだったんだ。
でも、あの時のライブは違った。
音を楽しむんじゃなくて、自分達の不安を紛らわせるためのライブだったんだ。
今ならそれが私にも分かる。
だから、あの日、ライブを開催出来てたとしても、
心の中にしこりのような物が残ってたんじゃないかな……。
もう、そんな演奏はしたくない。
そんな偽物じゃなくて、私達が大好きな本物の音楽を演奏したいって思う。
今度こそ、心から音楽を楽しんで……。


「りっちゃん」


急にムギが私に視線を向けて言った。
私はちょっと動揺しながら訊ねてみる。


「どうした、ムギ?」


「約束……、憶えてる?
ワンマンライブ……、今度こそ、やろうね」


「……ああ、憶えてるよ、ムギ」


「本当?」


「うん」


忘れっぽい私には珍しく、それは本当だった。
ずっと前、ムギと自転車で遠出した時にムギとした約束。
私とムギのワンマンライブの約束……。
あの約束は自分達の不安を振り払うための気休めみたいなものだった。
でも、今こそ本当に音を楽しむ意味で演奏したいなって思う。
色々あって延期に延期を重ねた分、最高のライブを見せてやるんだ。


「私だって!」


梓が私達の会話に入って来る。
自分だって負けたくないって意志が感じられる表情だった。
梓だって、ずっと我慢してたんだよな……。


「私だってライブをしたいです!
皆さんとまたライブをしたいんです!
私達のバンドのライブもまだでしたし……、皆さんに私達の曲を聴いてもらいたいです!
だから……、だから、唯先輩……。
もう絶対……、死ぬなんて言わないで下さい……!
私、唯先輩と一緒に居たいです……! 皆で一緒に居ましょうよ……!」


軽く叫んでから、梓が唯の胸に飛び込んだ。
梓のその小さな肩は小刻みに震えていた。
ずっと言い出せなかった本音を言うために勇気を出したんだろう。
普段の梓の姿からは想像出来ない意外な行動だった。
梓も素直になりたいんだ。
510 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:41:24.04 ID:w9A0afgF0
「あ、あずにゃん……」


いつも自分から抱き着いてるくせに、抱き着かれるのは慣れてないらしい。
戸惑った表情を浮かべながら、それでも、唯は梓を抱き締め返した。
感極まったのか、唯の肩も軽く震えてるみたいだった。
そのままの体勢で、唯が震える声で呟く。


「ありがとね、あずにゃん……、皆……。
そうだよね……、皆でまたライブ……やりたいよね……。
音楽……、やりたいよね……。

ねえ、皆……?
私、皆でまたライブやりたいな。
元の世界に戻ってからでもいいけど……、それじゃ我慢出来ないよ。
私、今日……はちょっと無理だけど、明日にはライブしたいな。
それくらい、皆とライブしたい。
いきなり過ぎる我儘だけど……、どう……かな?」


それは唯がやっと見せてくれた生きる事への意志。
私達と一緒に居たいって想いだった。
その意志を見せてもらえたら、もう断れるはずなんかないじゃないか。
断るつもりなんて最初からないけどな。
私は唯の頭に自分の手を言って、笑った。
自分でもびっくりするくらい、自然に笑えていた。


「いいに決まってるだろ?
明日出来るかどうかはともかくとして、明日からライブの準備を始めようぜ?
久し振りだから腕が鳴るよな。
ただ、相当演奏してないから、どんな出来になるのかは怖いが……」


「あははっ、それもそうだよねー……。
でも、私、それでもいいな……。
下手でも、ひどくても、とにかく皆とライブしたいよ。
どんなに下手でもね……、それが今の私達の精一杯だもん」


言ってから、唯も微笑む。
目尻を涙に濡らしながらも、笑ってくれた。


「そうだな……。
下手でも……、別にいいよな」


「そうだね」


「はいっ!」


澪達が次々に頷いてくれる。
この先、どうなるかは分からない。
唯が言ってた通り、また一陣の風で私達の中の誰かが居なくなるかもしれない。
もっともっと辛い事が起こるかもしれない。
それよりも先に私達はライブをしてやりたいんだと思う。
私達が五人で居られるうちに、精一杯の私達の音楽を演奏してみせたいから……。


「ねえねえ、りっちゃん……」


気が付けば、いつの間にか私は手を唯に掴まれていた。
私は首を傾げて唯に訊ねてみる。
511 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:42:04.55 ID:w9A0afgF0
「どうしたんだ、唯?」


「今日……、りっちゃんと一緒に寝たいな……」


「ええっ?」


叫んだのは私じゃなくて梓だった。
まさか唯がそんな事を言い出すとは思わなかったんだろう。
私だって思わなかったけど、梓に先に叫ばれたせいで他の言葉を言い出せなくなった。
唯が無邪気に微笑みながら、梓の頭を撫でる。


「何ー? あずにゃん、やきもちー?
心配しなさんなー。あずにゃんとは明日一緒に寝てあげるからねー」


「そ、それはいいです!
ちょっと驚いただけです!」


「もー、あずにゃんは素直じゃないんだからー」


「素直ですってば!」


唯達がいちゃつき始めたせいで、当事者なのに私は言葉を挟めない。
仕方ないから、しばらくいちゃつくのを見ていてやると、
やっと落ち着いたのか、唯がまた柔らかく微笑んで私に言った。


「あずにゃんとは明日一緒に寝るけど、
今日はりっちゃんと一緒に横になって色んなお話をしたいな……。
考えてみたら、私達、最近そんなに話せてなかったよね?」


言われてみるとそうだった。
日本に居た時もライブの準備であんまり会話出来なかったし、
ロンドンに来てからも私の迷いのせいでまともに話せてなかった気がする。
こんな風に普通に喋れてるのって、凄く久し振りなんだよな……。
私は頷いてから、唯の手を軽く握った。


「そうだな……、私もおまえと話したいよ、唯。
大切な話、馬鹿馬鹿しい話、これからの話、これまでの話、それに和達の話……。
色んな事を話したいけど、覚悟しとけよ?
長い話に……なるぞ?」


「うん……、長くてもいいよ。
私、いっぱいいっぱい、いーっぱい、りっちゃんと話したい事があるんだ」
512 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:42:59.09 ID:w9A0afgF0





を繋ぐ。
決して離れないように、二度とこの手を離すものかと強く繋ぐ。
私と唯は指を絡ませ、お互いの体温を肌で感じ合う。
もう何も失くしたくはないから。
失くすわけにはいかないから。

夜、私は唯と二人でベッドに横になって話した。
話しても話しても尽きない事を話し合う。
唯達が準備してた新曲の話。
私達の新しいバンドの話。
和達を失って私がどう思ったのか、唯がどう思ったのか。
その悲しみとどう向き合っていけばいいのか。
そして、これからどうするのか、どうしていきたいのか。
色んな話をした。
皆が傍に居られるための話をした。

皆で居るのは幸せだ。
皆と一緒に居れば、どんな困難でも笑顔で乗り越えていけそうな気だってする。
何だって乗り越えられる。
それは私だけが感じてる事じゃない。
皆がそう感じてるんだって、私には確信出来る。
それは私達の手が強く繋がっているから。
離したくない、離れたくないという強い意志を、皆の手のひらから感じるからだ。
嬉しい……。
本当に嬉しいんだ。
こんなにも大切な仲間が私にも出来た事が。
生涯の仲間どころか、永遠に一緒と確信出来る仲間達に出会えた事が。
私達の卒業で小さな後輩が少しの間だけ私達と離れる事になりはしたけど、
それでも私達の想いは絶対に揺るがない。揺るがしちゃいけないんだって思ってた。

でも、胸の中で激しく動く鼓動が、私に不安を覚えさせる。
私達は手を繋いでる。
自分達の意思で強く強くお互いの手を繋いでいる。
離れないために。
繋いだ手を更に強く繋いでまで。
これで私達はずっと一緒に居られる。居られるはずだ。
それは私が心の底から望んだ事のはずなのに、心の底からの笑顔を皆に向けられなくなった。
私達を繋いでくれたもう一つの絆である音楽すら、心の底から楽しめなくなってきて……。
そんな偽物の希望、偽物の笑顔と偽物の音楽に溢れた日常の中で、不意に私は気付く。
ひょっとしたら、私達は手を繋いでるんじゃなくて……。

だからこそ、私達は今度こそ本当の音楽を演奏しなくちゃいけない。
本当の笑顔を見せ合わなきゃいけない。
今度こそ……。
今度こそは絶対に。
皆とは一緒に居たい。ずっとずっと一緒に居たい。
傍に居たいからこそ、私達は自分の意思で……。
513 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:43:58.74 ID:w9A0afgF0





目を覚ました時、私は自分の腕の違和感に気付いた。
何故だかとても腕が痛い。
締め付けられてるような気がする。
唯と手を繋いで眠ってたはずだから、唯が私の手をきつく握ってるのか?
まあ、私も結構強くあいつの手を握ってはずだから、人の事は言えないか。
大学生にもなって友達と手を繋いで寝るなんて、思い返してみるとかなり恥ずかしいけどな。

でも、いいか。
恥ずかしいけど、自分の気持ちに正直になれたと思う。
言いたかった事や、言えなかった事をやっと二人で話し合えたんだ。
それだけで、恥ずかしさなんてどうでもよくなる。

にしても、唯の奴、
いくら何でも私の腕を握り締め過ぎじゃないか?
やれやれ、仕方が無い奴だな……。
私はそう思いながら右腕を布団の中から出してみて……、息を呑んだ。

何だ、これ……?
どうしてこんな事になってるんだ?
一体、誰がこんな事を……?

頭が混乱する。
起きたばかりだからかもしれないけど、頭の中が全然整理出来ない。
眠る前、唯と話していた時にはこんな事になってなかったはずなのに、
唐突過ぎる突然の出来事を受け止めきれずに、ただ心臓だけが激しく鼓動する。

確かに私は唯と離れたくなかった。
皆と一緒に居たかった。
一緒に居たいって想いを大事にしようと思った。
一緒に居たいからこそ決心しようとしたのに、何なんだ、これは……。
こんな形じゃない。
離れたくないって思ったのは、こういう意味じゃないんだ……。


「おはようございます、律先輩」


声を掛けられて、やっと気付いた。
ベッドの横の椅子に座って、梓が私と唯を嬉しそうに見ていた事に。
その梓の右腕が私の左腕と繋がれてる事に。
包帯でぐるぐると巻かれて、私の手首から肘くらいまでが繋がれてる事に。
今、私と唯の腕が包帯で決して離れないように繋がれてるみたいに……。
二度と離れ離れにさせないために……。
514 :にゃんこ [saga]:2012/06/03(日) 17:45:42.55 ID:w9A0afgF0


今回はここまでです。
大団円かと思ったらまだもうちょっとだけ続きます。
ようやく冒頭に繋がってきました。
そろそろラストとなります。
515 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/03(日) 20:07:14.13 ID:LS1zaRWDO
乙です。
516 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/03(日) 23:23:57.51 ID:qzDma0lD0
乙です。

唯ちゃんが死ななくて本っっっ当によかった!
で、なんかあずにゃんが病んでるし…
517 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:19:18.16 ID:QW3lfYqc0
言葉を出せない。
私ただ上半身を起こし、梓と視線を合わせ……、ようとしてそれが何かに遮られた。
何かって勿体ぶるまでもない。
言うまでもなく、それは私の前髪だった。
愛用のカチューシャはホテル備え付けの机に置いてある。
カチューシャを取りに行こうかとも思ったけど、
両腕が繋がれているせいで、それも出来なかった。
でも、少しだけ助かった気もしていた。
今の梓の真意が全然掴めない。
目を合わせた所で、何を話したらいいのか見当も付かなかったからだ。

私は口を閉じたまま、梓と繋がれた自分の腕に視線を下ろす。
梓の右手の指は私の左手の指と絡まっていた。
強い力で絡まっていて、それでも足りないと言わんばかりに上から包帯が巻かれている。
絶対離れたくない……、ずっと傍に居たいって、
そういう梓の強い意志が目に見えるみたいだった。


「……おわっ、何これ!」


私が上半身を起こした事で、私と包帯で繋がれてる唯も目を覚ましちゃったんだろう。
唯も上半身を起こして、私と繋がれてる包帯を見ながら驚いた声を出していた。


「おはようございます、唯先輩」


「……え? あ、おはよー、あずにゃ……」


戸惑いながらも挨拶を返そうとした唯の言葉も止まる。
梓の異変に気付いたんだろうと思う。
梓と特に仲の良い唯だって、梓の今みたいな様子を目にした事は無いみたいだった。
今、梓は嬉しそうな表情を浮かべている。
これまでずっと抱えていた物を降ろせたかのような、爽やかな表情を浮かべている。
こんな状態になってるってのに、こんな状態にしてるってのに……。

唯が戸惑った表情で私と繋がれた自分の腕に視線を下ろす。
包帯で私と強く繋がれた自分の腕を見ると、唯は途端に表情を変えた。
戸惑ってるわけでも、怒ってるわけでも、怖がってるわけでもなく、ただ悲しそうな表情に。
責任を感じてるみたいに……。

私達が無言のままで居たせいだろう。
流石に梓も私達が今の状況を呑みこめていない事に気付いたらしく、
ツインテールの髪を左右に揺らしながら、身振り手振りを交えて説明を始めた。


「あっ、この包帯はですね、
寝る時に皆さんの身体が離れないようにと思って、繋がせて頂いたものなんですよ。
私、何度も考えたんですけど、
何度も何度も考えたんですけど、やっぱりあの強い風が吹いた時でも、
私達の身体が触れ合ってたら、同じ場所に転移する事が出来るって思うんですよ。
まだ確証はありませんけど、その可能性は高いって思います。
だから、先輩達……、勿論、私も含めて、皆、もっと傍に居るべきだって思うんです。
特に睡眠の時は寝る前に手を繋いでいても、無意識に手を離しちゃうかもしれないじゃないですか。
そんな時にまた風が吹いてしまったら困るじゃないですか。
だから、そうならないためにも、私達は手首を包帯か何かで繋いでた方がいいと思うんです。
私達が傍に居るためには、それが一番いい方法だって思うんです。
最善の方法なんですよ!」


早口の梓の説明に私と唯は圧倒される。
理に適った梓の言葉に私達は何も言い出せなくなる。
確かにそうだ。
梓の言ってる事は間違ってない。何一つ間違っちゃいない。
徹頭徹尾、理屈としては正しい事を話してる。
梓の言う通りにすれば、確証は無いにしろ私達は転移させられた後も傍に居られるはずだ。
傍に居られる可能性は何もしてない時よりもずっと高くなるはずだ。

だけど……、この胸に広がる不安感は何なんだ?
私は皆の傍に居たい。ずっとずっと傍に居たい。
傍に居て笑い合っていたい。
それなのに、これは違う。こんな事をしちゃいけないって思ってしまう。
どうしてなのかは自分でも上手く説明出来ない。
でも、どんなに傍に居たいからって、こんなのはしちゃいけない事なんだ。
518 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:19:50.15 ID:QW3lfYqc0
私達は傍に居たいと思ってた。
高校を卒業して、離れ離れになってからその想いはずっと強くなった。
遠く離れても大丈夫ってよく聞く言葉は建前だ。
遠くでお互いの事を思い合う事なんて、そんなに簡単な事じゃない。
傍に居なきゃ想いは伝えられない。
傍に居なきゃ不安ばかり募っていく。
傍に居なきゃ……、傍に居なきゃ……。

だから、まだはっきり思い出したわけじゃないけど、
元の世界で唯が頭に大怪我した時、確か私達はもっと唯の傍に居られればって思ったはずだ。
唯の傍に居るんだ、皆の傍に居るんだって、皆で強く思ったんだ。
どういうわけか、どういう理屈か、その願いは叶った。
そして、叶った結果がこれだった。
誰よりも傍に居る事を願った私達が手に入れた物は、私達五人しか存在しない世界だったんだ。
私達が傍に居られる事はとても嬉しい。
だけど……。

私は私と包帯で繋がれた唯と視線を合わせる。
唯は悲しそうな表情を浮かべて、首を横に振っていた。
それだけの事で、私にも理解出来た。
唯も私と同じ気持ちなんだって。
梓にこんな事をさせちゃいけないんだって。

私は唯と繋がれた右手の指先を動かして、唯に合図を送ろうと思った。
この件に関しては、私は梓に上手く伝えられそうにない。
これまで何度も伝え方を間違って来た私なんかじゃ、
また梓に哀しい想いをさせてしまうだけじゃないかって、そう思えて仕方ない。
だから、これは唯に伝えてもらうべきなんだ。
唯なら感性的な言葉にはなるだろうけど、上手く伝えられる気がする。
梓だって世話ばかり掛けてた私の言葉より、大好きな唯の言葉の方が嬉しいだろう。
私なんかより唯の言葉の方が……。

瞬間、私は指の動きを止めた。
いや……、駄目だよ。
唯の方が間違いなく上手に梓に想いを伝えられる。
そっちの方が梓だって喜ぶ。
それでも、それは絶対に駄目なんだ。
どんなに下手でも、私は自分の気持ちをちゃんと伝えなきゃいけないんだ。
それだけはこの世界に来て、私が学べたたった一つの事だと思うから……。
私は息を吸い込んで、梓に顔を向けて言うんだ。


「なあ、梓……」


「はい。何ですか、律先輩?」


梓が微笑みながら私の言葉に頷く。
ロンドンに転移させられてから、滅多に見れなくなってた梓の安心した微笑み。
ずっと見ていたかった。
ずっとその笑顔のままで居させてやりたかった。
でも、駄目なんだ。
梓の笑顔を奪う事になっちゃうとしても、これだけは私の口から伝えなきゃいけない。
唯が私を悲しませる事になるかもしれないって思いながらも、
私が投げ捨てたピックを見つけ出してくれたみたいに、私は同じ間違いを梓にさせちゃいけない。
519 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:20:17.63 ID:QW3lfYqc0
「包帯……、ほどかないか?」


「えっ……?」


途端、梓の表情が悲しそうに歪んだ。
予想出来ていた事だったけど、その梓の表情を見るのは辛かった。
胸が痛かった。張り裂けそうなほどに痛かった。
やっと安心する方法を見つけられた梓を突き放すような事はしたくなかった。
だけど、こうしなきゃ、私も梓ももう戻れなくなるから。
元の世界に……じゃなくて、大切な仲間だった私達に戻れなくなるから。
私は……、続けるんだ。


「梓の気持ちは嬉しいし、分かるんだけどさ……。
でも、こういうのはよくないと思うんだよ、梓。
傍に居たいって気持ちは嬉しいよ?
私だってそうだし、でも……」


「そ、そうですよね!」


私が言葉を終えるより先に梓が言葉を重ねた。
悲しそうだった表情が、笑顔に戻ってる。
でも、鈍感な私にもはっきり分かった。
その梓の笑顔は、無理に浮かべてる笑顔なんだって。
そんな歪な笑顔を浮かべたまま、梓がまた早口で言った。


「先輩達も目を覚まされたわけですし、いつまでも繋いでるわけにもいきませんよね。
今、突然風が吹いても、すぐに手を繋ぎ合えばいいだけの事ですし……。
それにずっと包帯で繋いだままじゃ、手首が痛んじゃいますよね!
すみません、そんな単純な事にも気付かなくて……。
じゃあ、すぐに包帯をほどきますから……」


言ってから、梓が私の手首の包帯をほどこうと左手を伸ばす。
私は唯の手と繋がれたままの右手を伸ばし、その梓の手の上に置いて言った。


「そうじゃない……。
そうじゃないんだよ、梓……。
皆の手を何かで繋ぐ事自体をやめないか?
おまえの言う通り、包帯で手を繋いでたら、風が吹いても一緒に居られるかもしれない。
皆、ずっと傍に居られるかもしれない。
だけど……、でも、それはさ……、上手く言えないけど違うって思うんだよ。

私だって、唯だって、澪だって、ムギだって、皆と傍に居たいって思ってる。
おまえもそう思ってくれてるのは分かる。
でもさ、傍に居られればいいってわけじゃないはずなんだ。
ただ傍に居られたらそれでいいって……、そういうの……、何か私達じゃないだろ?
単に傍に居る事が大事なんじゃなくて……、その……何だ……」


上手く言葉に出来ない。
全然、思ってる事が伝えられない。
もっとちゃんと伝えたい事があるのに、私にはそれが出来てない。
素直になって、嘘を吐かずに真正面から梓に向き合ってみた所で、私にはこの程度の事しか出来ない。
悔しかった。
梓が大切だって事が上手く言葉にまとめられないのが辛かった。
私って奴は本当に何も出来てないな……。

でも、梓は微笑んだ。
微笑んで、私と梓を繋いでいた包帯をほどきながら喋る。
静かに、言葉をその口から出す。
520 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:20:45.26 ID:QW3lfYqc0
「そう……ですよね……。
皆で傍に居ればそれで解決……ってわけじゃないですもんね……。
すみません……。
唯先輩が倒れて、私、神経質になってたのかも……。
妙な事をしてしまって、すみません、お二人とも……。

包帯で繋げばもう離れる事は無いんだって、
傍に居られるんだって、私、律先輩達の事を全然考えてなくて……。
ごめんなさい……、申し訳ないです……」


呟きながら、淡々と私と梓を繋いでいた包帯をほどいていく。
私達が傍に居るために必要だった包帯を……。
ほどいてしまったら、傍に居られなくなってしまうかもしれない包帯を……。

私の……、私の想いは少しでも梓に届いたんだろうか?
私の言いたかった事のほんの少しでも梓の胸に届いたんだろうか?
届いたからこそ、梓は私達を繋いでいた包帯をほどいてくれているんだろうか?
いや、多分……、きっと……。

私は胸が激しく鼓動するのを感じながら、梓の震える手を自由になった左手で握ろうとした。
包帯が無くても、傍に居られるんだって事を伝えたかった。
それだけは伝えたかった。

でも、
その私の手は、
宙を舞って、
梓の手を掴む事が、
出来なかった。

梓の手が私の手を避けてしまったからだ。
拒絶されてしまったからだ。
いや、多分、違う。
私達に拒絶されてるって、私に思わせてしまったからだ。
やっぱり……、私の想いは上手く伝える事が出来なかったらしい……。
結局、こうなるのか、私は……。

私は胸が激しく痛むのを感じながら、
逸らしそうになってしまう視線をどうにか梓に向けて言った。
言わなきゃいけなかった。私達は梓を拒絶したわけじゃないんだって。
一緒に居たいからこそ、繋がれた状態で居たくなかったんだって。


「梓、誤解しないで聞いてくれ。
私達はおまえの事が大切で……」


「分かってます!」


私の言葉が梓の叫びに遮られた。
その悲痛な叫び声に遮られてしまった。
私が何を言うより先に梓が言葉を重ねていく。


「分かってます!
大丈夫です! 私、大丈夫です!
律先輩の言いたい事は分かってますから、平気です!
私……、甘えてたんですよね……?
甘えてしまってた……んですよね……?
律先輩達はそれが私のためにならないと思って、言ってくれたんですよね……?
私達は傍に居なくても大丈夫って事を信じるために、それが必要……な事なんですよね……?
離れてても仲間だって事を信じられる心の強さを……、持たなきゃ……いけないですよね……?

分かって……ます!
分かってます……から、私、大丈夫です!
ほ、本当に大じょ……じょうぶで……ですか……ら……」
521 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:21:11.55 ID:QW3lfYqc0
途端、梓の瞳から大粒の涙が一筋こぼれた。
梓の悲しみの詰まった涙が……。
私の想いが上手く伝えられなかったせいで……。


「あずにゃん……。
そうじゃないよ……。そうじゃなくてね……」


唯が辛そうな表情で呟く。
梓を心の底から心配してるのがよく分かる表情だった。
私は梓だけじゃなく、唯まで悲しませてしまったんだ……。
辛いし、自分の不器用さが情けない。
それを後悔する事は出来たし、今までもそうして来たけど……。
私はもうそうするわけにはいかなかった。
これから先、私は梓にもっと嫌われる事になるかもしれない。
拒絶されてしまうかもしれないって思うと怖い。
だけど、誤解させたまま梓を悲しませてるのだけは、絶対に駄目だ。

傍に居なくたって大丈夫って思えるのは大切な事だ。
離れててもずっと仲間だって信じられるのも立派だと思う。
それでも、私達はまだそんなに強くない。
想いの力だけを信じられるほど、皆と話し足りてない。全然足りてない。
もっと話がしたい。演奏をしたい。一緒に居たい。
私はやっと皆が一緒に居られるために必要な事を見つけ出せそうになったんだ。
あれだけ皆に迷惑を掛けて、やっと見つけられそうになったんだ。
それを梓に伝えたいんだ。
本当に大切なのは、皆がただ一緒に居る事じゃなくて……!


「あず……」


もう一度、私は必死に左手を動かしたけど、
その場に立ち上がってしまった梓の身体の何処も掴む事は出来なかった。
一筋の涙を拭って、梓は私達に背を向けて部屋から飛び出して行ってしまった。


「し……、失礼します!」


絞り出したみたいなその言葉だけを私達に残して……。
呆然としていたと思う。
今までの私達だったら。
昨日までの私と唯だったら。

でも、もう呆然としてるわけにはいかなかったんだ。
もう自分の無力に泣いてるのはやめなきゃいけないんだ。
私も、唯も。
唯と頷き合うと、私達は布団を蹴り飛ばして床に脚を下ろした。
梓を追い掛けるんだ。

そうして、駆け出そうとした瞬間、不意に唯がその場に崩れ落ちた。
腰から力が抜けたって様子だった。
私は腰を下ろして、唯に調子を訊ねてみる。


「どうした、唯っ?
平気かっ? 知恵熱……かどうか分からないけど、それがぶり返したかっ?」


唯は悔しそうな表情を浮かべ、私の言葉に首を振る事で応じた。
私は左手を唯の額に当ててみたけど、熱がまた上がったってわけじゃないみたいだった。
悔しそうに唯が小さく呟く。
522 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:21:47.80 ID:QW3lfYqc0
「ごめん……、ごめんね、りっちゃん……。
私、足に全然力が入らなくて、こんな時なのに……。
本当にごめんね、りっちゃん……、あずにゃん……も……」


あっ、と思った。
そうだ。すっかり失念してしまっていた。
唯は三日以上ベッドで寝込んでいたんだ。
昨日体調が快復したとは言え、ちょっとやそっとで体力が全快するはずがない。
少なくとも起き抜けで全力で走れるくらいの体力は戻ってないだろう。

私は唯と繋がれてた包帯をほどきながら、唯に宣言する。
宣言してみせる、力強く。


「大丈夫だよ、唯。梓は私が追い掛ける。
唯はそこでもう少し休んでろ。
大体、梓を悲しませちゃったのは、私の言葉が足りなかったせいだ。
全然上手く伝えられなかったせいだから……、私が梓を連れ戻して来る。
梓は私達の大切な後輩なんだって、
大事な天使なんだって事をちゃんと伝えて来る……!
だから……、待ってろ、唯……!」


「りっちゃん……。
私ね……、りっちゃんの言葉、間違ってなかったと思う。
私もりっちゃんと同じ様な事、あずにゃんに言ってたと思うし……。
りっちゃんが責任を感じる事無いよ……。
だけど、私……、
今はこんな状態で、役に立ちそうにないから……、
あずにゃんの事……、任せて……いい……?」


唯がそう言ってくれるだけで救われる気分だった。
でも、一人だけ救われてても意味が無い。
私達が本当に救わなきゃいけないのは梓なんだ。
今はそれがよく分かる。
梓が私達の腕を包帯で繋いだ理由、今なら分かる気がする。
さっきは驚いたけど、考えてみればそう突然の行動ってわけでもなかったんだ。
そうする素振りはずっとずっと前からあったんだ……。

ロンドンに転移させられてから、その素振りには気付いてた。
気付いてたけど、自分の事ばかりに目を向けてて、本当の意味では気付けてなかった。
まず転移させられた直後からそうだ。
皆で手を繋いで移動する時、梓は私の手を強く握ってた。
下手すりゃ臆病な澪に握られた時よりも痛いくらい、私の手を握ってたんだ。

その後だってそうだ。
梓は妙なくらい私の行動に付き合ってくれていた。
外の探索で私を励ましてくれたし、風呂まで珍しく一緒に入った。
その後も何度も外回りに誘われた。
それは私を心配しての行動だと私は思ってたし、
実際にもそうだったんだろうけど、それだけが理由じゃなかったのかもしれない。
梓も不安だったんだ。
不安で怖かったから、私の傍に居たがったんだ。
過去に目を向けてた唯とムギの傍じゃなく、強い意志を持った澪でもなく、
多分、同じ気持ちを抱いて過去より未来を見つめようとしてた似た者同士の私と……。
今、こんな状態になって、私はやっとその事に気付けたんだ。

救わなきゃいけない。
私は梓にこれまで何度も救われた。
今度は私が梓の心を救わなきゃいけない時なんだ。
その先、梓の隣に私の姿がなくったって、私は梓を救うんだ……!
523 :にゃんこ [saga]:2012/06/06(水) 18:22:27.10 ID:QW3lfYqc0


今回はここまでです。
ラストまでもう少しですが、この話はまだまだ長くなりそうです。
またよろしくお願いします。
524 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/06(水) 18:43:10.68 ID:mSZxRsW2o
おっつでーす
525 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/06(水) 19:43:43.64 ID:Mgdh61sDO
乙です。まだまだ続いほしい素晴らしい作品ですね。
526 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/07(木) 00:25:21.26 ID:JRjBVgvco

ああ、問題が解決していくと終わりが近いんだなって気がして物悲しい
てか、他の3人はもう目覚めてるんだろうか
527 :にゃんこ [saga]:2012/06/08(金) 17:53:45.06 ID:RGQQDkqe0
私は部屋の中に置いたままにしておいた、
昨日使ったビニール紐に手を伸ばそうとして……、やめた。
本当はビニール紐を身体に結んでいた方が安心出来る。
誰かに端を持っていてもらう方が正解なんだろうとも思う。
だけど、そうするのはやめておいた。
一陣の風の事を気にし過ぎてもどうしようもないし、
何より私達はもっと前に進んでいかなきゃいけないと思うから……。
私は唯の頭に軽く手を置いて言うんだ。


「梓の事……、連れ戻して来るよ、唯。
本当はおまえが行った方が喜ぶのかもしれないけどさ……、
でも、あいつに誤解させたのは私だし、私がどうにかしたいって思うんだよ。
一応、元部長……なんだしな。
澪達……、先に呼んで来るか?」


「うん……、ありがとう、りっちゃん……。
でも、大丈夫。
ちょっとふらふらするだけだから、もう少し休めば大丈夫だと思う。
それにね……、私が行った方が喜ぶなんて、そんな事無いよ。
りっちゃんが来てくれたら、あずにゃんだってきっと喜ぶよ。
あずにゃんに……、りっちゃんと私達の考えを伝えてあげて……ね?

……紐、いいの……?」


唯がビニール紐に視線を向けながら呟く。
本当は私にビニール紐を結んで行ってほしいんだろう。
唯のその視線は凄く心配そうだった。
私だって胸の中が不安で張り裂けそうだったけど、どうにか首を振った。


「……いいんだよ。
梓が私達の手首を包帯で結んでくれてさ、分かったんだ。
昨日は非常事態だったからともかく、さ。
もうそういうのに頼ってちゃいけないって思ったんだ。
だから……、な……。
いや、とにかくもう行くよ、唯。
そろそろ追い掛けなきゃ流石に梓に追い付けなくなるからな。

おまえはもう少しだけ休んでから、澪達と一緒に居てくれ。
それより先に調子が悪くなったら、すぐ澪達を呼ぶんだぞ?
澪達、梓の事を心配するかもしれないけど、大丈夫だって言っておいてくれよな。
私……、絶対に梓を連れ戻して来るからさ。
絶対に……。

そうだ。
おまえから梓に伝言は無いか?
私じゃ梓に上手く伝えられない事もあるかもしれないしな。
何か私じゃ浮かんで来ないような言葉があるようだったら言ってくれよ。
そのおまえの言葉だけは……、絶対に伝える」


すると、唯はゆっくり頭を振った。
静かに瞳を閉じながら、囁くみたいに言ってくれた。


「ううん……、大丈夫だよ……。
私の思ってる事、私達の思ってる事はりっちゃんと同じだって思うもん。
だから、私にりっちゃんからあずにゃんに伝えてもらう事なんて無いよ。
りっちゃんの気持ちが私の気持ちなんだよ。
私はりっちゃんとあずにゃんと……、皆と一緒に居ると幸せになれるんだ。
一緒に居てほしいんだ……。居てほしかったんだ……。
でも、それだけじゃ駄目……って事なんだよね?」
528 :にゃんこ [saga]:2012/06/08(金) 17:54:13.37 ID:RGQQDkqe0
言ってから、唯が瞳を開く。
その瞳からは寂しさみたいな物を感じたけど、でも、強い想いだって感じられた。
私と同じ……、いや、私以上に強い唯の想いを……。
どんな形であれこの夢を見てる張本人だからこそ、
唯は私よりも、誰よりもその事を分かってるんだろう。

私は深呼吸をしてから立ち上がる。
これで終わりだ。
これで終わりにさせるんだって強く思いながら、自分の足で駆け出していく。


「じゃあ……、行って来る!」


「あっ!」


私がドアノブに手を掛けて飛び出そうとした瞬間、
不意に唯が何かを思い出したみたいな大きな声を出した。
私は振り返って唯に訊ねてみる。


「何だよ、どうした?」


「りっちゃんに思い付けない事……、一つだけあったよ。
今、思い出したんだ。
それだけ……、あずにゃんに伝えてもらってもいい?」


「ああ、勿論伝える。遠慮なく言ってくれ。
何だ? 何を伝えればいい?」


「新曲!」


「あ?」


「新曲だよ、りっちゃん!
あずにゃんに伝えて!
私達、あずにゃんに新曲を聴かせたいんだって!
この世界に来て、皆で作った新曲を聴いてほしいんだって!」


新曲……か。
なるほど、確かにそれは私からはどうやったって出て来ない言葉だ。
澪もそうだけど、唯達はよっぽど新曲を私達に聴かせたいんだろう。
勿論、私だって聴きたかった。
そんな自信作なら、何をどうしたって聴いてやりたい。


「了解だ、唯。
新曲の事、絶対に伝える。
帰って来たら聴かせろよ?
私だっておまえ達の新曲、気になってるんだからな!
それと……」


「それと……、何?」


唯が首を傾げて私に訊ねる。
だから、私は拳を握り締めて、言ってやった。
私達の想いはこういう所でも同じなんだって教えてやるために言ってやったんだ。


「私達だって帰ったらおまえらに演奏見せてやる!
私と梓の新バンドの実力聴かせてやるんだからな!
覚悟しとけよ!」


唯は一瞬だけその私の言葉に呆気に取られてたみたいだけど、
すぐに笑顔になると、力強く頷いて言ってくれた。


「うん、楽しみにしてるね!
りっちゃん達が戻って来たら、放課後ティータイム同士の対バンだよ!」
529 :にゃんこ [saga]:2012/06/08(金) 17:59:26.98 ID:RGQQDkqe0





私は全速力で走る。
正直な話、梓が何処を目指して走り出して行ったのかは分からない。
広いロンドンであいつを見つけ出せるのか、不安が無いと言ったら嘘になる。
でも、私には一つの確信があった。
あいつを見つけ出す事は簡単なはずなんだって。
それだけは間違いないと思う。
梓は私の前から逃げるみたいに去って行った。
でも、本当に逃げたかったわけじゃないって事くらいは分かる。
自分の涙を……、自分の弱さを私達に見せたくなくて、あいつは飛び出して行ったんだ。

だから、あいつはすぐ傍には居るって思う。
ホテルの中には居ないにしても、
私が全力で捜せば簡単に見つけられるくらいの場所には。
その点においてだけは私に不安は無いんだ。
あいつは私と違って身勝手に行動するような奴じゃない。
責任感を持って、周囲に気を遣って、精一杯努力する奴なんだ。
本当のあいつの姿を知ってるわけじゃない。
あいつの全てを分かってやれてる自信なんて全然無い。
だけど、私の中では、梓はそういう責任感の強い後輩だった。
私達に心配を掛けるような事は絶対にしないはずだ。

そうだな……。
多分、あいつはホテルのすぐ傍で迷ってるはずだと思う。
つい飛び出して行ってしまったけど、
戻らない事には不安ばかり募ってしまうって事にも気付いてる頃だろう。
梓は私達の手首を包帯で結んだ。
傍に居るために、もう二度と離れないために、私達の繋いだ手を更に包帯で繋いだんだ。
そんな梓があんまり遠くに行ってるはずがないって確信がある。
私達の傍に居たいって思ってくれてる梓が、遠くに行くはずがないんだ。
その点においてだけは安心出来る。

でも、それ以上に不安もある。
さっき、私は梓を誤解させてしまった。
上手く伝えられなかった。
伝えなきゃいけない事を、伝えてやる事が出来なかった。
私がこの世界でこれまで何度もしてしまったように、私はまた私の想いをちゃんと伝えられなかった。
何度も何度も何をやってるんだろうって自分でも呆れるし、もう一度梓と話すのが怖い。
もっと悲しませる事になってしまいそうで、本当に怖い。

それでも、止まらない。
私は足を止めない。
怖くても、進む。
伝えなきゃいけないし、伝えたいからだ。
本当に大切だと思う事を。私達の想いを。皆、梓の事が大好きだって事を。
その結果、私が梓に嫌われる事になったって……。

私は息を切らして、まずはホテルの屋上に上った。
梓がホテルの屋上に居ると思って上ったわけじゃない。
屋上からホテルの周辺を見回した方が梓を早く見つけられると思ったからだ。
私は屋上の柵に近寄ると、首に掛けていた双眼鏡を手に持って瞳を寄せる。
530 :にゃんこ [saga]:2012/06/08(金) 18:01:00.32 ID:RGQQDkqe0
「梓……、梓……!」


気が付けば私は口に出していた。
どうしてなのかは自分でも分からない。
だけど、私は梓の名前を呼んでいたかった。
怖いのに、凄く怖いのに、もう一度梓と話をしたかった。
話をして、私達の想いを伝えたかった。

双眼鏡を必死に覗いて周囲を見渡す。
その最中、何度も視界が遮られた。
言うまでもなく、私の前髪にだ。
そういえば、カチューシャをせずに飛び出して来てしまった。
私のトレードマークのカチューシャ。
カチューシャをしてない自分には、何となく自信が持てない。
外見的にもそうだけど、内面的にもそうだった。
小さな頃からカチューシャをしてるのが自然だったから、
カチューシャをしてない時の自分が人からどう思われるかが今でも結構怖い。
二年以上の付き合いになる梓にだって、
カチューシャをしてない私を見せたのは何度くらいあっただろうか。

だけど、そんな事を気にしてる場合じゃなかったし、取りに戻る時間も勿体無かった。
それに逆にいいかもしれないって思った。
前髪を下ろした私が本当の私ってわけじゃないけど、
私のそういう一面も見せるべきじゃないかって思えたんだ。
包み隠さず、私は私の思ってる事をそのまま梓に伝えたい。

だから、前髪を掻き上げながらも必死に捜す。
軽音部の現部長を、私の大切な後輩を、大好きな梓の姿を……。
見つけ出すんだ……!

不意に。


「梓……っ!」


私は半分叫ぶみたいに声に出していた。
双眼鏡の先、ホテルから少しだけ離れたビルの陰に、
見覚えのあるツインテールの女の子が座り込んで膝に顔を埋めていた。
遠目だから詳しくは分からないけど、もしかしたら泣いているのかもしれない。
泣かせたままでなんて、居られるもんか……。
梓の涙を止めてやらなきゃ……。
私は双眼鏡をその場に置いて、屋上から階段を全速力で駆け下りる。
身体と心臓が悲鳴を上げて軋む。
でも、そんな事は気にならない。
私の胸はそれよりも強く痛んでるから、
梓の胸は私よりももっと痛いはずだから、私は梓が居る場所まで走るんだ。

今度こそ。
私の嘘の無い想いを伝えるために。
聞かせたい……。
いや、聞いてほしいんだ、私の想いのこもった言葉を。
531 :にゃんこ [saga]:2012/06/08(金) 18:01:30.46 ID:RGQQDkqe0


今回はちょっと短めです。
またお願いします。
532 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/09(土) 06:24:42.29 ID:Mo3uPaIRo
乙乙
次回は熱い展開になりそうだ
533 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/09(土) 06:52:18.43 ID:BJU4seJIO
乙ですー
534 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:31:45.31 ID:bX5VV6EK0





ホテルの屋上から梓の姿を見かけたビルに駆け寄る。
私は息を整えて汗を払うと、心を落ち着かせるために二回深呼吸をする。
それから、気配を悟られないように、
梓が座り込んでいるはずのビルの側面をそっと覗き込んだ。


「あっ……」


思わず声を出しそうになってしまったけど、どうにか喉の奥にその言葉を仕舞い込む。
梓はそこに座っていた。
膝を抱え込んで、泣きこそはしていないけど、悲しそうな表情を浮かべていた。
梓を悲しませてしまったのは多分、私だ。
胸の中にある漠然とした不安を上手く伝えられなかった私の責任だと思う。
だけど、その漠然とした不安は、曖昧なだけに間違ってないはずだった。
私も唯も本能的に感じてる不安……。
上手く伝えられないし、理に適ってない気もするけど、
やっぱり梓のした事は、私達がしてきた事は間違ってたって感じたんだ。
私はそれをこれから梓に伝えなきゃいけないんだ。


「梓」


梓が座っている側に身体を出して、座り込んでいる梓に呼び掛ける。
また逃げられるかもしれないって不安もあったけど、
でも、私は梓を無理矢理捕まえるような事はしたくなかった。
信じたかった。
梓だって私のさっき言おうとした事を心の何処かで分かってるはずなんだって。
それを認めたくないからこそ、逃げ出してしまったんだって。


「律……先輩……?
どう……して……?」


梓が驚いた顔になって私に訊ねる。
多分、私が梓の前に姿を現した事を驚いてるんじゃなくて、
私がほとんど音もなく現れたって事に驚いてるんだと思う。
確かに今までの私だったら、当てもなく駆け回って疲れ果てた姿で梓をどうにか見つけ出していたはずだ。
だけど、今回はそうならなかった。
そうならないために、そうしないために、私は屋上から梓を捜したんだから。
逃げ回る梓とそれを追い掛ける私って関係じゃなくて、
お互いに真正面から対等な二人として話をしたかったからだ。


「隣……、いいか……?」


私が穏やかに言った事に面食らったんだろう。
梓はとても複雑そうな顔を浮かべてたけど、しばらくしてから軽く頷いた。
追い掛けられるようなら逃げるつもりだったのかもしれないけど、
こうやって静かに言葉を掛けられるなんて思ってなかったんだろうな。
それも私に。
自分で言うのも何だけど、私自身もかなりそう思う。

そういや、梓が入部届を出しに来た時、
私は「確保」って言いながら梓を捕まえたんだっけ。
何だか懐かしくなって、嬉しくなって、
同時に胸が痛くなったけど、私はその沢山の想いを受け入れる事にした。
悲しさや辛さや痛さ……、
そういう物も全部ひっくるめて梓に想いを伝えたいからだ。

私はゆっくりと梓の左隣にまで歩み寄って、静かに腰を下ろす。
梓はその私の動きから目を逸らさなかった。
何かを言おうとしながら、何も言葉が浮かんで来なかったのかもしれない。
私も何も言わなかった。
話を始めるにしても、もう少しだけ梓と二人でこの世界の空気を感じてたかったんだと思う。

二人とも何も言葉を出さない。
肩を並べて、膝を抱えて、顔を向けて、視線を合わせる。
私達五人以外誰も居ない、夢のようで、多分、実際にも夢なんだろう世界を感じる。
五人で傍に居たかったから辿り着けた、辿り着いてしまった世界を。
535 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:32:23.36 ID:bX5VV6EK0
ふと、静かに風が吹いた。
少しだけ涼しさを感じる軽い風だった。
瞬間、梓は少しだけ全身を震わせたみたいだった。
肌寒さを感じたわけじゃないと思う。
生き物の姿が消えてしまった風と、和達の姿が消えてしまった風を思い出したんだろう。
私達以外の物を消し去って行く風。
あの一陣の強い風の事を。

正直言うと、私だってまだ怖くて震えそうになる。
また誰かを失ってしまうなんて、考えたくもない。
まだまだ皆と傍で笑い合っていたいのに、あの風は私達から色んな物を奪い去って行く。
夢みたいに、何もかも消し去ってしまう。
ビニール紐を結んで来るべきだったかと、一瞬後悔しそうになる。
でも、私はそれをすぐに振り払った。
私はもうそういう物に頼るのをやめなきゃいけないんだ。


「律先輩……、あの……」


梓が私の腰に視線を向けながら不安そうに声を出した。
私の腰にビニール紐が結ばれてない理由を訊きたいんだろう。
でも、それ以上の言葉を躊躇ってるみたいだった。
私がビニール紐を結んでないのは、
梓が急に飛び出したのを追い掛ける事になったから、
紐を結んでる時間が無かったからじゃないか、って思ってるに違いない。
私はその梓の不安には、軽く首を横に振って応じてやる事にした。


「ビニール紐はさ……、結ばなかったんだよ、梓」


「すみません……。
私が……、飛び出しちゃったから……」


「いや、勘違いしないでくれ、梓。
結べなかったんじゃなくて、結ばなかったんだ。
もうビニール紐を結ぶのはやめる事にしたんだよ」


「え……っ?」


梓が大きな瞳を更に見開く。
私の言葉を信じられなかったんだろうし、信じたくなかったんだろう。
そりゃそうだろうなって思う。
折角梓が考えてくれた私達が傍に居られる方法を、私の方から拒絶したようなもんだからな。
梓が驚いて、辛そうな表情になるのも当然だった。


「でも……、でも、それじゃ……。
もしまたあの風が吹いたら、皆さんが……、皆さんがバラバラになっちゃうじゃないですか。
離れ離れに……なっちゃうじゃ……ない……ですか……。
そんなの……、そんなの……って……」


梓の声がまた震え始める。
ホテルの部屋の中で泣き出した時と同じ、悲しみのこもった声だった。
私はまた梓を悲しませてしまったんだろう。
自分が見捨てられてしまったような気分にさせてしまったのかもしれない。
私だってそんな梓の声を聞くのは辛かったけど、伝えないわけにもいかなかった。
この先、この世界で何が起こったとしても、私は最後まで皆と仲間で居たいんだって事を。
536 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:32:56.15 ID:bX5VV6EK0
「聞いてくれ、梓。
これは私だけじゃなくて、唯も同じ気持ちなんだ。
私達はもうビニール紐とか、包帯とか、
約束……とか……、
そういう物に……、頼るのをやめようって思ったんだよ……。
だからさ、今、唯は部屋で私達を待っててくれてるんだ」


「唯……先輩も……?
どうして……っ? どうしてなんですか……っ?
約束……したじゃないですか……。
『ずっと永遠に一緒だよ』って、歌で……贈ってくれたじゃないですか。
なのに……、なのに……っ!」


梓は声を荒げ始めていた。
トレードマークのツインテールが悲しみで震えているのが分かる。
悲しんで、辛くて、怒ってもいるのかもしれない。
だけど、『永遠に一緒』って言葉は、私達の嘘の無い想いだった。
私は梓と……、皆と永遠に一緒に居たい。
仲間であり続けたい。
でも、それは永遠に一緒に居るって事とは違うんだ。
似てるようで違うんだ、それは。

私はそれを梓に上手く伝えられなかった。
これからも、上手く伝えられないかもしれない。
嫌われる事になるかもしれない。
でも、伝えるんだ、私は。
どんな事になったって、本当の気持ちを伝えるんだって決めたんだから……!


「あず……」


「律先輩……っ!」


梓に声を掛けようと瞬間、不意に大声を出した梓が私に飛び掛かって来た。
あまりの勢いに、私はバランスを崩して、その場に全身で横たわってしまった。
その私の身体の上に梓が乗っていて、俗に言うマウントポジションになっている。
殴り掛かられるのか、って一瞬思ったけど、そうじゃなかった。
雫が私の顔に零れて来て、気付いた。
梓が泣いてるんだって。

梓は大粒の涙を流しながら、
全身を震わせて悲痛な叫びを私に向ける。


「私……、私、何か間違った事、しちゃいましたか……っ?
先輩達に嫌われるような失敗……しちゃったんです……か……?
包帯で私達の手首を繋いだ……から?
ひっく……、それとも……、何の役にも立ててないから……?
この世界に来て……、誰の役にも……立ててないから……ですか……?
役立たず……なのは自分でも分かってます……。
でも……っ!」


えっ、と思った。
梓の事をずっと考えていたはずなのに、間抜けな私はそれに気付けてなかった。
まさか、梓が自分の事を役立たずだと考えているだなんて、想像もしてなかった。
だって、梓は皆を支えててくれたじゃないか。
梓が居たから、私は道を踏み外さずに済んだんだ。
梓が居たから、崖っぷちギリギリで立ち直れたんだ。
それは全部梓が居たおかげなのに、役立たずだなんてどうして……。

と。
不意に私は澪の言葉を思い出した。
「律の元気な姿を見てると、勇気が湧いて来るんだ」って言葉。
「律の元気な姿を見るのは、本当に嬉しかったんだよ」って澪は言ってくれた。
私にその自覚は無かった。自覚が無かったから、不安だった。
でも、それで皆に勇気を分けてあげられてるんだったら、嬉しいと思えたんだ。
537 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:33:26.13 ID:bX5VV6EK0
同じだ。
梓は私と同じなんだ。
私と同じで、ずっと不安を胸に抱えてたんだ。
自分が何の役にも立ててないって思って、ずっと怖がってたんだ。
私達は本当に似た者同士だったんだ。
自分に自信が持てなくて、誰からも必要とされてないって思えて、私も梓も怖かったんだ。
だから、梓は今泣いてるんだ……。

梓は涙を流し続ける。
身体を傾けて私の身体に顔を寄せ、その小さな手を私の背中に強く回す。
梓の強い震えが私の身体に直接伝わって、梓の心の震えまで感じられるみたいだった。
同時に、私自身の胸の強い痛みを感じる。


「捨てないで……下さい……」


梓が吐き出すような言葉を口にした。
それは梓の不安の全てがこもった言葉。
梓が心の中に抱え続けていた不安の言葉だった。
一度言葉にしてしまった事で止まらなくったのか、
心の枷から解き放たれたかのように、隠されていた言葉を梓が告白し続ける。


「捨てないで下さい……。
見捨てないで……下さい……。
私……、皆さんの役に立ってない事は……、分かってます……。
何の役にも……立ててません。
でも、皆さんの傍に……、傍に居させてほしいんです……。
頑張ります……、ひっく、もっと頑張ります……から……っ!
見捨て……ないで……、
一人に……、しないでよぉ……!」


強く梓に抱き締められる。
抱き締められながら、私は自分を責めてやりたい気分に胸が支配される。
私は……、梓は強い子だって思ってた。
この世界で私達を支えてくれてる梓は強い子なんだって。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
自分が梓に何もしてやれてなくて、それが悔しくて、
でも梓は誰の手助けも必要じゃなさそうに強く振る舞っていたから、
それで梓は大丈夫なんだって勝手に思い込もうとしてたんだ。
本当は……、小さなことで傷付く繊細な後輩だって、
涙脆くて寂しがりな後輩なんだって、分かっていたはずなのに……。


「梓……、ごめん……、ごめんな……。
私、何も気付けてやれてなかった。
おまえがそんなに苦しんでる事に、全然気付けてやれてなかった。
元部長なのに……、部長なのに……、何も気付けてなかった。
本当に……ごめん……」


私は自分の無力に悔しさを感じながら、それでもどうにか言葉を絞り出した。
本当に私は無力だ。
伝えたい事を上手く伝えられないばかりか、梓の考えも上手く理解出来てない。
本当に……、何やってんだよ……。
でも、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。
私は梓に想いを伝えなきゃいけない。
梓は大切な後輩なんだって。
何の役にも立ててない事なんてない頼れる後輩で、
皆が梓の事を大好きだって思ってるんだって、それだけは絶対に。
私は自分の胸が張り裂けそうになってる事に気付きながらも、それをどうにか言葉にしてみせる。
538 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:34:12.23 ID:bX5VV6EK0
「梓……、おまえは頼れる後輩だよ。
皆を支えてくれて、私を支えてくれて、本当に感謝してる。
こう言うのも変なんだけどさ……、私はおまえが居たからこの世界でも生きてられたんだ。
憂ちゃんも純ちゃんも和も消えて、三人の事を思い出すのも怖くなったけど……、
おまえが傍で支えてくれたから、元気をくれたからどうにか立ち直れたんだ。
ロンドンに転移させられたすぐ後だって、おまえが傍に居てくれたから落ち着けたんだ。
それだけは間違いなく本当なんだよ。
それを直接おまえ言葉で届けられてなくて……、悪かった。

昨日、私が自分で言ってた事ですまないけど、頼むよ……。
自分で自分を役立たずなんて言わないでくれ……。
私も唯も澪もムギも、梓に支えられてるんだ。
梓が居たから、頑張って来れたんだ。
おまえがそう思ってくれてるみたいに、私だってずっとおまえの傍に居たいよ。
だから……」


言っていて、私は昨日の自分の情けなさに気付いていた。
何だか自惚れみたいで恥ずかしくて、
これまで真面目に考えた事はなかったけど、私は皆から大切に思われてるんだろう。
皆は私を大切に思ってくれてるんだろう。
だからこそ、私はとんでもない事をしてしまったって気付いた。
大切に思ってくれてる人の前で自分を否定するなんて、
どれだけ皆を傷付けてしまう行為だったんだろう。
どれだけ皆の想いを踏み躙ってしまったんだろう。
私はそれにやっとの事で気付けた。
自分に自信が無いのは仕方が無い事としても、
それで自分を否定してしまったら、皆の想いすら否定してしまう事になるんだって。


「律先輩……」


梓が私の胸で囁く。
まだ震えてはいたけど、その震えは少しだけ弱まっている気がした。
分かってもらえたんだろうか?
肝心な事が何も言えてなかった私の想いは少しでも届いたんだろうか?
梓の事が大好きだって想いは、届いたんだろうか?

数秒、二人して黙り込んで、
もう少し梓の震えが治まった頃、梓がまた小さく口を開いた。
声はもう震えてなかった。


「私……、お役に立ててましたか……?」


「ああ……、心配するな。
十分だよ。十分、おまえは私達を支えてくれてたよ。
役立たずだなんて、そんな事無い。
おまえが居てくれたおかげで、私達は元気に過ごせたんだ」


「本当……ですか……?」


「本当だ。嘘なんか言うかよ。
一緒に居てくれて安心出来たし、嬉しかった。
だから、おまえとはこれからどうするかって話を……」


「律先輩」


私の言葉が梓の声に遮られる。
その声は震えてなかったけど、妙に力のこもった声だった。
気が付けば、さっきよりも強く背中に回された腕に力を入れられてるみたいだった。
私は少し緊張しながら、梓に訊ねてみる。
539 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:35:40.94 ID:bX5VV6EK0
「どうしたんだ、梓……?」


「私……、皆さんの傍に居て……、いいんですか……?」


「ああ、当然だ。
傍に居たいっておまえが思ってくれるんなら、私だって嬉しいよ。
私だって、皆だって、おまえの傍に居たいんだ。
離れ離れになんて、なりたくないよ。
一緒に居たいって思ってる」


「ありがとう……ございます。
私……、律先輩にそう言って頂けて嬉しいです。
本当に嬉しいです……けど……、
私、もっと皆さんのお役に立ちたいんです。
お役に立てたら……、って思うんです」


「別にそんなに気負う必要は無いぞ、梓。
おまえはそのままのおまえでいいんだ。
でも、まあ……、何かをしたいって言うんなら、止めないよ。
私だって出来る限り皆の役に立ちたいって思ってるのは、おまえと一緒なんだしさ」


「ありがとうございます、律先輩……。
それじゃあ……」


言い終わってから、梓が私の背中から腕を離して顔を上げた。
結構久し振りに見た梓の表情はもう曇ってはいなかったけど、何故か頬を赤く染めていた。
少しの間、二人で見つめ合う。
何だか照れ臭いな、って私がそう思ったのと同じ頃、急に梓が目を閉じた。
目を閉じた梓は自分の唇をそのまま私の唇に重ねようと近付け……。
瞬間。
驚いた私はその梓の両肩を自分の両手で掴んだ。


「ちょ……っ。えっ……? 何だ?
梓、ちょっと……、急に何を……、えっ……?」


心臓が激しく鼓動するのを感じながら、
私は自分でも何を言ってるのか分からない言葉を口にしていた。
何なんだ?
梓の唇が私に近付いて来た……?
私とキス……しようとしてたのか?
何で? どうして?
どうして梓は急に私にキスしようとしてるんだ……?

私の目の前に居る梓が寂しそうに大きな目を開いて、寂しそうに口を開いた。
次の瞬間、これまで梓の想いは何も分かってなかった私だけど、
その私がそれ以上に想像しようと思ってすら出来てなかった言葉が梓の口から出されていた。
540 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:36:19.55 ID:bX5VV6EK0
「律先輩……、私、皆さんの役に立ちたいんです……。
皆さんに必要にされたんです。
もっともっと傍に居たいんです……」


「いや、でも、急に……、何で……。
私にキスしようとなんて、どうしていきなり……。
傍に居るとか必要にされたいとか、それならもっと他に何か……」


「だって……、律先輩……。
一緒にお風呂に入った日、律先輩、私にキスしようとしてたじゃないですか……。
私の事を抱き締めようとしてたじゃないですか……。
ですから、私は……」


気付かれていた!
私は一瞬で自分の頭が真っ白になるのを感じた。
気付かれてないと思ってた。
私の逃避を……、梓に甘える事で逃げようとしてた事を、気付かれてないと思いたかった。
実際、梓は私の逃避に気付いてないよう思えた。
だけど、梓は私のしようとしてた事に気付いていたんだ。

身体が震え、嫌な汗を掻いて、
息が止まりそうなほど緊張している自分に気付く。
梓の真意が掴めない。全然掴めない。
私がしようとしてた事に気付いて、
それでも私の傍に居ようとする梓の想いが……。
全然、分からないから……。
私は……、震え続けてしまっている。
541 :にゃんこ [saga]:2012/06/10(日) 18:38:28.40 ID:bX5VV6EK0


今回はここまでです。
意外と根の深い問題のようでした。
この問題はもう少し続きます。
542 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/10(日) 20:09:01.15 ID:MyBz39yIO
乙です
543 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/11(月) 01:36:55.65 ID:4QmJmvV50
乙です

正直、序盤から梓律に仄かな期待をしていたのだけれど
そんな邪まな気持ちで今まで読んできてた自分が恥ずかしいです。
544 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/06/11(月) 07:13:06.61 ID:/pl/5x20o
下心って大抵バレてますよね
はー先が気になる!
乙です
545 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/11(月) 19:21:52.74 ID:hPGuptnoo
それでも律梓を見たいと思ってしまう俺っていったい…
でも、ここの二人だといちゃいちゃじゃなくて落ちついた感じになりそうだな
何も話さなくてもぴったりくっついてたりとか
546 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/11(月) 22:29:33.48 ID:r/X6kbVDO
この作品は読めば読むほど奥が深い素晴らしい作品ですね。
547 :にゃんこ [saga]:2012/06/12(火) 18:45:47.51 ID:CIyJ1PTT0
「梓、あれは……、あ……あれは……」


上手く言葉に出来ない。
上手く説明出来ない。
あの時、私がどうしてあんな事をしようとしたのか、自分でもはっきりとは分かってないんだ。
私は梓の温かさが愛おしかった。
優しさを求めたかった。
寂しさを紛らわせたかった。
それは間違いなく、言い訳しようの無い事実だ。

でも、それだけで同性の後輩を……、
梓を抱き締めたいと思うようになるものなんだろうか?
梓の事は好きだと思う。
小さくて可愛らしくて、私の事をずっと見てくれてる。
支えてくれて、引っ張ってくれてる。
梓が大好きで大切な後輩なのは間違いない。
ひょっとしたら、それはただの後輩に対して向ける感情じゃなくて……?


「律先輩、私……」


梓が顔を赤く染めたままで続ける。
その声色からは嫌悪感は全然感じられなかった。
むしろ嬉しそうに、優しい声色で囁いてくれていた。


「私、嬉しかったんです……。
あの日、お風呂の中で律先輩が私を抱き締めようとしてる事に気付いて、
最初はびっくりしたんですけど……、どうしたらいいのか分からなかったんですけど……。
でも……、やっぱり嬉しかったんです。
何の役にも立ててなかった私ですけど、何も出来なかった私ですけど、
律先輩が……私の事を大切に思ってくれてるって思うと、凄く嬉しくて……。
だから、私……、私も律先輩と……」


そこから先は聞けなかった。
そこから先の言葉を口にするには、梓も自分自身の想いが固まってないんだろう。
私だって固まってなかった。
自分の想いを完全に受け止めるには、まだまだ早過ぎる。
でも、梓と寄り添って、支え合って生きていくって想像は私を嬉しくさせた。
きっとそれは幸せな事だろう。
梓と抱き締め合ったり、キス……したりして生きていくのは、とても幸せな事なんだ。
私だって、幸せになりたい……。
だから、私は上半身を起こして、私の上に乗る梓を胸の中に抱き留めたんだ。
548 :にゃんこ [saga]:2012/06/12(火) 18:46:16.03 ID:CIyJ1PTT0
「梓……。
私はさ……、梓の事が好きだよ……。
梓と傍に居るのは楽しいし、面白いし、嬉しい。
私の想いを受け止めようとしてくれてるのも、涙が出そうなくらいに嬉しいんだよ……。
だから、さ……」


「私も……です、律先輩……。
私、律先輩の傍に居られると、嬉しくて、落ち着けるんです。
今だって、律先輩の腕の中に居ると……、私、落ち着けて安心出来て……。
ですから……」


私は胸の中に抱き留めていた梓を解放して、至近距離で見つめ合う。
あと拳一つの距離ほど近付けば二人の唇が重なる距離。
まだ私は震えてる。
梓も多分、緊張で震えてる。
でも、私達の唇が重なれば、この震えは止まるはずだ。
そうして、私達は手だけじゃなく、想いだけじゃなく、心と身体でも繋がれるようになるだろう。
梓が口を開き、少し遅れて私も口を開く。
お互いの想いをほとんど同時に言葉にして、お互いの気持ちを確認し合った。


「もう一度抱き締めて下さい、律先輩」


「もうやめよう、梓」


瞬間、梓の大きな瞳が更に見開かれた。
何が起きてるのか分からないって表情だった。
赤かった頬は若干青ざめてるようにも見えた。
梓のそんな表情を見るのは辛かったし、こんな風にしか言えない自分が悔しかった。
だけど、今これを言葉にしなきゃ、私達はもっと辛くて悲しい想いをする。
そう思ったから、私は梓に言ったんだ。


「えっ……? えっ……?
律……先輩? あの……、今、何て……?
だって、その……えっと……」


梓が視線を散漫にさせて、言葉を何度も途切れさせながら呟く。
その呟きは自分に言い聞かせてるみたいでもあった。
そんな事があるはずがない、今のは聞き間違いなんだって。
きっと梓はそう思ってるんだろうと思う。
冗談だ、って言ってやれれば、私もどれだけ楽になれるだろう。
梓をどれだけ安心させてやれるだろう。
でも、私はそうは言わない事にしたんだ。
梓の事が大切だから……、梓の事が大好きだからだ。
私はまだ自分の身体が震えてる事に気付きながらも、どうにか梓から視線を逸らさない。
まっすぐに梓の泣き出しそうな瞳を見つめる。


「もうやめようって言ったんだ、梓。
梓が傍に居てくれると嬉しいし、正直、今でも抱き締めたい気持ちは残ってる。
二人でずっと一緒に居れば、安心出来るし、幸せになれるんだろう……。
だけど……、これ以上の事はよくないって思うんだよ。
これ以上は……、駄目なんだ……」


「どう……してっ? どうして……っ?
だって、だって、律先輩、あの日、私……、私を……っ!
嬉しかった……。嬉しかったのに……っ!」


梓の表情がまた崩れる。
また涙を流し始めながらも、その言葉が止まる事は無い。
信じていた全てに裏切られた気分になってるんだろうと思う。
私に裏切られたとも考えているのかもしれない。
だけど、私は梓を裏切りたくないらこそ、自分が胸が痛いのを感じたって続けるんだ。
549 :にゃんこ [saga]:2012/06/12(火) 18:46:43.24 ID:CIyJ1PTT0
「梓……、おまえの言う通りだよ。
私はおまえと一緒に風呂に入った時、おまえを抱き締めようと思った。
抱き締めてキスをすれば、安心出来ると思った。
安心させてやれるって思った。
でも、それは出来なかった。
私の勝手な暴走と下心でおまえを傷付けたくなかったからだ。
いや、多分、怖かったからでもあると思うよ。
おまえとそんな関係になってしまったら、私達はもう二度と戻れなくなる。
皆で笑い合ってた頃には戻れなくなるって思ったから……、
あの日、おまえにキスしなかった事に、後悔はしてないんだ……」


「そんな……、そんなのって……ないですよ……っ!
私、嬉しかったのに……、戻れなくたって構わなかったのに……っ!
どうしてそんな……、今更……っ!」


梓の大粒の涙が止まらない。
自分でも自分が何を言ってるのか分かってないのかもしれない。
そう思えるくらい、梓は自分の心を曝け出していた。
この世界に来て以来感じていた辛さや寂しさや悲しさや怒りや、
そういう感情を受け入れてくれるはずの私に拒絶されてしまったんだ。
やっと安心出来るはずだったのに、
幸せになれるはずだったのに、それを私が台無しにしてしまったんだ。
梓の涙と怒りはもっともだと思う。
私だって自分がやられていたら、怒って、泣き出していたかもしれない。
でも、私には傍に居るだけじゃなく、突き放してくれる仲間が居た。
殴ってくれる澪が居た。
叱ってくれるムギが居た。
辛い決心をしてくれる唯が居た。
だから、今度は私が梓にそうしなきゃいけない時なんだ。


「ごめんな、梓……。
あの日、私が弱くて、おまえに頼ろうとして、本当に悪かった……。
そんな事しちゃいけなかったのに、私は……」


「いいんですよ!
律先輩の気持ち、私、嬉しかった!
嬉しかった……んですから、だから、私……、
もう戻れなくたって……、構わないですから……っ!
そんな事より……、一人になりたくない……。
一人になる事の方が怖いから……、
だから……、抱き締めて……、抱き締めて……下さい……っ!」


「梓……っ!」


私が低い声で呼ぶと、梓の肩が大きく震えた。
怯えた表情で私の顔を見つめている。
私自身に怯えてるっていうより、私に嫌われたんじゃないかって怯えてるみたいだ。
さっき、一人になりたくないって梓は言った。
それが梓の偽りのない本音なんだろうと思う。
元々、私達が高校を卒業する時、一人きりになる事を本気で怖がってた子なんだ。
誰よりも、孤独を怖がってるんだ、梓は。
だから、今日、もう誰とも離れないために私達の手首を包帯で結んだんだ。
今だって、自分を必要と思われたくて、
私の歪んでいた想いを受け入れようとしてくれてるんだろう。
550 :にゃんこ [saga]:2012/06/12(火) 18:47:27.23 ID:CIyJ1PTT0
「すみません、律先輩……。
私……、私……、変な事を、でも……、でも……っ!
私……っ、この気持ちは本当で……」


梓が震えた声で呟く。
心底怯えた表情で、戸惑っている。
一人になりたくなくて誰かを受け入れようとして、
その結果、自分を失くした上に一人になってしまうっていう矛盾。
私も同じだった。
私だって一人になりたくなかった。
和達を失って、それ以上誰かを失う事になりたくなくて、私は私の想いを殺した。
そうする事でしか、皆と一緒に居られる方法が無いと勘違いしてた。
でも、そんな事をしたって、余計皆に心配を掛けてしまっただけだった。
もうそういう事はやめないといけないんだ、私も、梓も。
私は手を伸ばして、流れる梓の涙を一滴拭った。


「謝るのは私の方だよ、梓。
私だって一人になりたくないし、皆といつまでも一緒に居たいよ。
出来る事なら、永遠に皆の傍に居たい。
でも、さ……、私、思ったんだよ。
唯が体調を崩して、この世界の事について深く考えて、思ったんだ。
梓が私達の手首を包帯で結んでくれたからでもあるかもな。

とにかく、思ったんだ。
『一緒に居る』って事と、『一緒に居たい』って思う事は似てるようで違うんだって。
違うんだよ、この二つは絶対に……」


「『居る』事と……、『居たい』って思う事……?」


「私達が卒業する前の事を思い出してくれ。
私達はいつも部室に集まってた。
それは部活だからでもあるけど、それだけの意味じゃなかったはずだよ。
部活する予定じゃない日でも、誰が呼んだわけでもないのに、
自然と五人が集まっちゃった事も何度もあっただろ……?
口にこそ出さなかったけどさ、私、それが嬉しかったんだよ。
皆が皆と『一緒に居たい』って思ってくれてるんだって思える事が、凄く嬉しかったんだ。

でも……、でもな……、『一緒に居る』って事とそれは違うと思うんだ。
『一緒に居なきゃ』って、誰かや自分に強制されるなんて、
そういうのは嫌だって思うし、悲しい事だと思うんだよ……」


そうだ。
それが私の違和感だったんだ。
皆と一緒に居れば安心出来るし、幸せになれるし、笑顔で居られる。
それはとても嬉しい事だけど……、でも、それに頼り切ってちゃいけなかったんだ。
軽音部で活動して、私達は音楽を繋いだ。
手を繋いだ。
想いを繋いだ。
でも、心までは繋ぎたくない。繋いじゃ駄目なんだって思った。
その事を梓に手首を包帯で繋がれる事で気付けた気がする。
私達は手を繋いでるんじゃなくて、心を繋いでたんじゃないかって。

閉ざされた世界。
和はこの世界の事をそう呼んでいた。
確かにこの世界は閉ざされてる。外の世界に干渉出来ないって意味で閉ざされてる。
でも、そういえば和はこうも言っていたはずだ。
「閉ざされてるのは世界の方じゃなくて、もしかして……」と。
閉ざされているのは唯の夢で、同時に私達の心でもあったんだ。
皆が傍に居なきゃ不安で仕方が無くなってた私達の心の方なんだ。
閉ざされた心。
それがきっと私達がこの唯の夢に迷い込んだ本当の理由なんだろう。
551 :にゃんこ [saga]:2012/06/12(火) 18:48:50.52 ID:CIyJ1PTT0


今回はここまでです。
タイトル否定になってしまいました。
552 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/13(水) 17:48:46.50 ID:UHOLiGis0
乙です

ついにこのお話の答えが出たんですね。
あずにゃんの心はこれからどこへ向かうんだろう?

>>545
おお、同志よ…
553 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/14(木) 08:34:28.94 ID:MDhfV39So
乙乙
しかしあれだな
singing!のジャケを物悲しく思う日が来るなんて…
あの中の5人は一体何を想ってるんだろうとか変なこと考えてしまう
554 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 17:43:34.46 ID:wM9rIEft0
私達はお互いを繋ぎ止めてた。
五人で居なきゃ不安だった。
いつの間にか、お互いが傍に居る事を無意識の内に強制していた気がする。
離れていたって大丈夫だなんて言葉は嘘だ。
傍に居なきゃ……、一緒に居なきゃ……、不安な気持ちは決して消えない。
皆にいつか忘れられてしまいそうで怖い。忘れてしまいそうで怖い。
それが自然な感情なんだと思う。

でも、だからって……、傍に居れば、ただそれでいいわけじゃなかった。
強制して、心まで繋ぎ止めて、無理矢理に傍に居てもらって、
安心するためだけに傍に居て、絆を再確認し合うなんて、悲しいじゃないか。
私達の想いの全てを否定してしまうみたいじゃないか。

私が梓にキスしようとしてたのだってそうだ。
私は安心したかった。傍に居て梓の体温を感じたかった。
同時に私は自分の体温で梓の心を繋ぎ止めようとしちゃってんだ。
梓は優しいから、私達の事を思ってくれてるから、
身体で繋がれば、ずっと一緒に居られると考えてたんだと思う。
しなくてよかった。
躊躇ってよかった。
もしも梓が私を受け入れてくれていたら、
私はどれだけ後悔しても後悔し切れなくなっていた。
元の二人に戻れなくなってた。
傍で笑い合えてた二人には、もう二度と……。

私は梓の頬に自分の手のひらを軽く触れさせた。
まだ日焼けしている梓の頬。
子供みたいに体温が高くて、手のひらに心地良い。
二人の体温を感じ合う。
とても嬉しくて安心出来たけど、これ以上の事はしちゃいけないって思った。
私はまた涙をこらえている梓に向けて、呟いた。
少しだけ自分に言い聞かせるみたいに。


「ごめんな、梓……。
今まで上手く言えなくて……、言葉に出来なくて……。
でも、これが今の私の本当の気持ちなんだよ。
梓が私の気持ちを受け入れようとしてくれたのは嬉しい。
すっごく嬉しい。

でも……、皆のおかげで気付けたんだよ。
そういうのはしちゃいけないし、したくない事なんだってさ。
勿論、それを教えてくれたのは梓でもあるんだ。
梓は私と一緒に居てくれた。私の馬鹿げた想いにも向き合ってくれた。
ずっと私や皆を支えててくれただろ?
私達はそんな梓の事が大切だって思ったんだ。
私はもうそんな梓の笑顔を奪いたくないんだ。
今、私達がキスなんかしたら、梓は後で絶対に後悔する。
前みたいに笑えなくなる。
だから……」


私の言葉が終わるより先に、また梓の瞳から涙が一筋流れた。
身体を小刻みに震わせて、流れる涙を自分で拭いながら呟く。
555 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 17:44:25.23 ID:wM9rIEft0
「ずるい……、ずるいです、律先輩……。
わた……私……、後悔して……も……ううっ、構わ……構わないのに……。
律先輩の気持ち……、私、嫌じゃ……なかったのに……」


「ごめん……、ごめんな、梓……。
でも、今は駄目だ。駄目だと思う。
これは私の我儘だ。怒ってくれたって構わない。
これまで自分の気持ちから逃げてて、上手く言えなかった私の責任だ。
どんなに責められたって仕方ないと思う。
だけど、それだけは……、それだけはしちゃいけないんだ……」


私は絞り出すように言葉を吐き出す。
辛い言葉。胸が強く痛む言葉。
声に出す度に心が削り取られていくみたいだ。
辛い……、叫びたくなるくらい辛い……。
それでも、ここだけは譲るわけにはいかなかった。
私は梓の笑顔が好きだから。
何の迷いもなく傍に居たいと思えていた梓の笑顔が好きだから。
私は、譲らない。


「ずるい……、ずるいです……っ!」


呟きながら、梓が私の胸に両拳を交互に振り下ろし始める。
何度も何度も私の胸を叩く。
でも、その拳には力が入ってなかった。
軽く置くみたいな速度で、私の胸に言葉の代わりに想いを叩き付けていた。
私はその梓の拳を受け続ける。
避けたりなんてしない。
私は今度こそ、梓とまっすぐに向き合うんだから……!

梓が私の胸を叩きながら言葉を続ける。


「嫌い……、嫌いです……。
律先輩なんて……、大っ嫌いです……っ!」


「……ああ」


「自分勝手で、大雑把で、いい加減で……、
練習しないし、お菓子ばっかり食べてるし、変な事ばっかり思い付くし……、
ううっ……、本当に嫌な……、嫌な先輩です……っ!」


「……ああ」


「大雑把でいい加減なのに……、
自分の事しか考えてないように見えるのに……、
それなのに……、最後の……最後には……、
私の事……や……、先輩方の事をちゃんと……考えてて、
先の事もしっかり考えてて……、うううううっ、ひっく……。
そんな……そんな所……、本当に……本当に大っ嫌いっ!」


「……ああ」


「ずるい……、ずるいよう……。
律先輩ったら……、最後の最後で逃げ出さなくて……、
私にも逃げるのを……許してくれなくて……。
私の……後悔なんか……、私……、気にしない……しないのに……っ!
どうして、律先輩は……そんなに……っ!」


「……ああ」


「だけど……、だけど、私……。
そんな……、そんな律先輩が……。
わた……、私……」
556 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 17:50:20.01 ID:wM9rIEft0
梓の言葉と拳が止まる。
涙も止まりこそしなかったけど、少しだけ落ち着いたみたいだった。
一息だけ吐いて、私は梓に正直な想いをもう一度伝える。


「梓。
私はおまえの笑顔が好きなんだ。
私の悪ふざけに苦笑してくれるおまえの笑顔が好きだ。
演奏が終わった後、満足そうに微笑んでくれるおまえの笑顔が好きだ。
部室で見せてくれるおまえの笑顔が大好きだ!
私は……、その笑顔を失くしたくないんだよ……。
今、私達がここで慰め合ったら……、
おまえのそんな笑顔が二度と見れなくなると思うんだよ……」


「私の……笑顔……?
でも、私の笑顔……なんて……」


梓が自信の無い様子で呟く。
当然だ。自分の笑顔に自信がある奴なんてそうは居ないだろう。
そもそも笑顔なんて自分で見えないものなのに、
自分で自信を持てる奴の方がどうかしてると思う。
私は梓の笑顔が大好きだ。
でも、それを上手く言葉に出来る自信は無い。
どんなに伝えようとしたって、情けないけど私なんかの言葉じゃ届けられないと思う。
だから、私はポケットの中に入れていた物を、梓に差し出したんだ。


「これ……は……?」


それを手に取った梓が大きな目を見開いて呟く。
梓が知らない梓の魅力。
梓が知らない梓の笑顔。
私の大好きな梓が詰まった、その写真……。
その写真の中には、幸せな梓の笑顔が溢れていた。


「憶えてるだろ……?
教室でライブをする前に、純ちゃんに撮られた写真だよ。
あの日、ポケットに入れてたおかげでさ、写真も一緒に転移してたんだよ」


「あの時……の……」


呟きながら、食い入るように梓がその写真に視線を下ろす。
屋上で梓を見つけた後、
一瞬だけ部屋に戻って制服のポケットから取り出した写真。
上手く言葉に出来ない、上手く想いを伝えられない私だから、
せめてこの写真で想いを伝えられればと思ったんだ。


「いい笑顔……だろ?」


私は写真を見つめる梓に囁く。
梓がこの写真を見て何を思ってるのかは分からない。
滅多に見る事の無い自分の笑顔に対して、どう感じてるのかは分からない。
この写真を初めて見た時の私と同じみたいに、予想外な自分の表情に戸惑っているのかもしれない。
でも、きっと分かってくれてもいるはずだ。
写真の中の梓の笑顔が、とても幸せそうだって事に。
幸せそうな理由は、勿論一緒に写ってるのが私だからってだけじゃない。
ちょっと残念だけど、それだけが理由じゃない。
私はそれを梓に伝えようと思って、口を開いた。
557 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 17:57:13.46 ID:wM9rIEft0
「幸せそうな写真だろ?
照れ臭いけど、梓だけじゃなくて、私も幸せそうに笑ってると思うよ。
この写真がこんな幸せそうな写真になったのは、
撮られてる私達が幸せだからってだけじゃなくてさ……、
きっとさ、撮ってくれた人も幸せだったからだと思うんだ」


「純……」


「いや、純ちゃんだけじゃないな。
周りに居た皆も楽しかったから、幸せだったから、こんな写真が撮れたんだよ。
私は……、そう思う」


「憂……、和先輩……」


呟きながら、また梓の瞳から涙が溢れ始めた。
だけど、きっとその涙は今までとは少し違ってる涙だ。
悲しさや辛さは勿論込められてる。
でも、嬉しさや喜びもきっと混じってる涙だと思う。
そう……信じたい。


「うっ、うっく……、うううううう……っ!」


ボロボロと梓の涙が流れ続ける。
止まらない涙。
止められない涙。
そして、きっと止めなくていい涙。
私は梓の頭の上に手を置いて、軽く撫でた。
思う存分、泣かせてやりたかった。


「泣いていいよ。
もっと泣いてくれ、梓。
その後でどれだけ私を怒ってくれたって構わない。
でも、私達が大好きなおまえの笑顔だけは、憶えておいてほしいよ。
これから先、その笑顔を私に向ける事が無くても、それだけは憶えておいてほしいんだ。
そのためにさ……、この先、笑顔になるためにさ……、今だけは泣いててくれ……」


伝えられた、と思った。
嘘ばかり吐いて逃げていた私がやっと伝えられた本当の想い……。
それで梓に嫌われたって構わなかった。
いや、構わなくはないけど、それでも嘘を吐き続けるよりはずっとよかった。
もう私は嘘を吐いて自分を誤魔化したくないんだから……。

不意に。
梓の涙が止まった。
あれだけ流していた涙が止まった。
一瞬、私は不安になった。
私の言葉と想いが届かなかったのか、
届ける事が出来なかったのか、そう思うと震えだしそうなくらい怖くなった。

でも、そうじゃなかったのはすぐに分かった。
梓はしゃくりあげる声をどうにか堪えながら、私に言ったんだ。


「律先輩……。
私……、これから、泣きます……。
今まで我慢してた分、泣けなかった分……、声の限りに泣こうと思います。
純や憂、和先輩の事と向き合うためにも……、私、涙が涸れるくらい泣きます。
その後で、律先輩に思いっ切り文句を言ってみせるためにも……」


「そうか……。
ああ……、泣いてくれよ、梓。
おまえの文句、覚悟しとく。覚悟して、待ってる。
だから、泣いてくれよ、思い切り」
558 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 18:00:05.67 ID:wM9rIEft0
「律先輩」


「……どうした?」


「私、これから、泣きます……。
泣きますけど……、一つだけ条件があります。
条件を……出させて下さい……」


「条件……?」


「泣いて下さい、律先輩も」


「私……も……?」


訊ねながら、私は気付いてしまった。
最後の最後、気付かない振りをしてた自分の胸の痛みに気付いてしまった。
締め付けられるみたいに、痛い。胸が、心が、痛い。
そうだ……。
これが私が自分に吐いていた最後の嘘なんだ……。
私……、泣きたかったんだ。
ずっとずっと……、泣きたかったんだ……。
559 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 18:00:37.11 ID:wM9rIEft0
「あ……ず……」


何かを言おうとしたけど、言葉にならなかった。
もう少し、一瞬でも気を抜けば、自分が泣き出してしまうって事だけはよく分かった。
不意に、梓が私の頭に手を置いた。
今までとは逆に、梓が私の頭を撫でてくれて……。
梓の方も涙を堪えながら、それでも言った。


「泣きましょうよ、律先輩も……。
ずっと我慢してた分、泣きましょう……?
泣いたってどうなるわけじゃありませんけど……、
でも、今だけは……一緒……一緒に……」


その言葉が終わるより先に、梓の瞳からまた大きな粒の涙が零れた。
我慢していた分、今までよりずっとずっと大粒の涙だった。
声を上げて、泣き出し始める。


「うわああああああああっ!」


大声で泣く梓。
何の計算も、想いもなく、ただ自分の感情のままに泣いている。
ひたすらに大声で泣いている。

梓の言う通り、泣いたってどうなるわけじゃない。
救われるわけじゃないし、元気になれるわけでもない。
そんな事は私だって分かってる。
でも、涙を堪えてたって、強くなれるわけじゃない。
泣かない事が前に進むって事でもないんだ。
だから、私も今はもう泣こうと思う……。
最後の嘘から、私と梓を解放しよう……。
もう……、嘘は終わりだ……。
溢れ出す涙を、止められない……。


「う……くっ……。
ううううううううううう……っ!
あああああああああああああっ!」


一斉に溢れ出す私の涙。
馬鹿みたいに後から後から溢れ出ては止まらない。
梓と二人で大声で涙を流して、色んな感情を吐き出す。
ロンドンの街が、私達の涙で染まっていく。

でも、それでいいんだって、私は泣きながら思った。
泣く事は弱さかもしれないけど、泣かない事も強さじゃない。
それを梓と話してやっと分かった気がしたから、私は大声で泣くんだ。
今度こそ前に進むために。
未来も過去も現在も、全てを背負って前に進むために。
もう逃げだしたりするもんかって、それだけは強く誓いながら……。
私達はいつまでもいつまでも大声で泣き続けた。
560 :にゃんこ [saga]:2012/06/14(木) 18:06:10.58 ID:wM9rIEft0


此度はここまでです。
いつもレスを下さる皆様、ありがとうございます。
多分、後二週間くらいで終わると思います。
最後までよろしくお願い致します。
561 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/14(木) 18:58:35.58 ID:vpwBG/O9o
おつ
562 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/15(金) 08:54:40.19 ID:oYzdV31uo
乙乙
次回作にも期待してるんだぜ、というのは気が早いか
切ないのも好きだけど、色々あったし皆が幸せであれるような結末であればいいなぁ
563 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/15(金) 17:42:44.96 ID:Q0bCKuiB0
乙です

迷いのないりっちゃんはやっぱりイケメンだなぁ。
ようやく気持ちにかかる負担が軽くなったようでよかった!
あとは実世界の唯ちゃんの体が心配だ…
564 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:50:07.64 ID:LMLRxZRo0





どれくらい泣いてたんだろう。
本当に涙が涸れるくらいに泣いて、私達はようやく泣き止んだ。
思う存分泣いたと思う。
泣けたと思う。
かなり朝も早い時間に外に飛び出して来たはずなのに、
気が付けば太陽はかなり高い場所で私と梓を照らしていた。
梓と二人して泣き腫らした目で、太陽を見上げてみる。

空は青かった。
太陽も眩しかった。
例え唯の夢の世界だとしても、世界はとても綺麗だった。
いや、唯の夢の中だからこそ、かもしれない。
唯はとても多くの物を大切にしている。
一番をいくつも持ってる。
きっと唯の中では、何もかもが輝いてるんだ。
辛い事、悲しい事、苦しい事、全部含めて眩しいくらいに光ってるんだろう。
思い出っていう名前の宝物として。

唯が居たから、私は高校生活が心の底から楽しかった。
あいつが傍で笑ってくれるだけで、
何もかも上手く行ってなくても、それでいいかもしれないって思えた。
だから、私達は唯を失いたくなかった。
しがみ付いてでも、唯と生きる日常を守りたかったんだと思う。
そうして起こった奇蹟が今の私達が置かれてる現状で、
それがよかったのか悪かったのかはまだ分からないし、これから皆で話し合っていくべき事だろう。


「すっごく泣いちゃいましたね……」


まだ目の端を少し濡らしながら、不意に梓が軽く微笑んだ。
散々泣いてしまった自分を少し恥ずかしく思ってるんだろう。
頬をちょっとだけ赤く染めていた。
でも、それを言うなら私だって同じ立場だった。
私も少しだけ恥ずかしさを感じながら、小さく笑ってみせる。


「そうだな……。
すっげー泣いちゃたよな……」


言って、梓と瞳を合わせて、また二人で笑う。
恥ずかしさは確かにある。
悲しさや辛さが全部無くなったわけでもない。
それでも、ひどくすっきりした気分なのは確かだった。
私も、多分、梓も。

私達はずっと自分の心に嘘を吐いていた。
和達の事を忘れて、思い出を捨てて、
未来だけ見なきゃいけないって自分に言い聞かせてた。
そうしなきゃ、この世界で生きてく事なんて出来ない。
それこそが自分達に出来る唯一の事だと思ってた。思い込もうとしてた。
でも、それは違ったんだな、って今は思う。
結局、私達は怖かったんだ。
和達の事を思い出すのが、怖かったんだ。
皆の安全を考えるためとは言え、私と梓は和達の事を見捨てた。
私達はそれを思い出したくなかったんだ。
だから、和達の事自体を忘れようとしちゃってたんだと思う。
565 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:50:36.54 ID:LMLRxZRo0
だけど、そうした所で自分の中の罪悪感から目を逸らせるわけじゃなかった。
何としても和達を忘れようとしない唯達の姿を見て、動揺して、
自分の選択肢を疑って、自分と同じ道を選んだ唯一の仲間に頼る事しか出来なくなった。
だからこそ、私は風呂場の中で梓を求めようとした。
だからこそ、梓は慕っている唯じゃなくて私と自分の手首を結んだんだ。
同じ道を選んだ相手だから、自分を認めてくれるんじゃないかって下心を持って……。

酷い話だと思う。
その方が和達を見捨てた事よりも、和達に対してずっとずっと酷い仕打ちじゃないか。
忘れ去ってしまった方がいいなんて、そんな事が許されるはずがない。
私達が楽に生きるためには、和達の事を忘れた方がよかったんだろう。
それなら、簡単に、気楽に、幸福に生きていける。
私はそんな単純で最低な道を選ぼうとしてた。
結局、逃げようとしてただけだったんだ。

でも、もう……、逃げたくない。
自分の気持ちに嘘を吐きたくないんだ。
苦しくたって、悲しくたって、今度こそ自分の気持ちとまっすぐに向き合おうと思う。
そう思う事が出来たのは、梓も含めた皆のおかげだ。


「あっ、そういえばすみません……!
私、ずっと律先輩に馬乗りになってて……!」


急に梓がそう言って頭を下げると、私の腰の上から身体を退けた。
そのまま身を翻すみたいにして、私の右隣に腰を下ろして肩を並べた。
そういえば、ずっと梓にマウントポジションを取られたままだったな。
我ながら無茶な体勢で泣いてたもんだよ……。
でも、腰が痛くなってるわけでもなかったし、嫌な気分でもなかった。
こう言うのも変なんだけど、身体を重ねて梓の悲しみや震えを感じる事で、
私の悲しみは私だけの物じゃないんだって感じられた気がする。
皆、辛くて、悲しんでて、それでも必死に生きてるんだって。
それこそ実際に梓と肌を重ねて、キスをしたりするよりも、深く感じられたと思う。

私は隣に座る梓の頭に手を置いて、撫でながら言ってやる。


「いいよ、梓。
別に腰とかが痛くなってるわけじゃないから気にすんなって。
それより……、その……、ありがと……な」


梓に感謝したい気持ちは間違いなくあった。
でも、それをどう表現していいのか分からなくて、曖昧な言葉になってしまった。
梓に私のこの想いはちゃんと伝えられたんだろうか?
何故か心臓が鼓動するのを感じながら梓に視線を向けてみると、
梓は妙なジト目を私に向けながら、ちょっと上擦った声を出した。


「ありがとう……って、私、感謝される覚えはないんですけど……。
ま、まさか律先輩、全身を圧迫されて喜ぶような人だったんですか?
趣味は人それぞれですからいいと思いますけど……、
でも、私にはちょっとそういう趣味は無くて……、ぷっ」


「何の話をしてるんだ、中野ー!」


鼻で笑われてしまった私はつい反射的に梓の首に手を回していた。
私の得意技のチョークスリーパーの体勢だ。
よし、このまま締め上げて……。
566 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:51:23.44 ID:LMLRxZRo0
「痛っ!」


瞬間、梓から苦痛の声が漏れた。
チョークスリーパーに苦しんでるわけじゃなくて、
私の腕が梓の身体に触れた事自体に痛みを感じているような声だった。
しまった、と私は後悔した。
久々に反射的にやっちゃってたけど、そう言えば梓は……。


「悪い、梓!
おまえ、まだ日焼けが……」


言いながら、私は梓の首に回した腕を慌てて放そうとする。
でも、私の腕は梓の手のひらに柔らかく掴まれた。
放さなくてもいいって事なんだろうか?
私は自分の胸が何故か高鳴るのを感じながら、梓に訊ねてみる。


「……いいのか?
日焼け……、まだ痛いんだろ……?」


その私の言葉を聞いても、梓はしばらく何も言わなかった。
目を瞑って、少しだけ微笑んでいるみたいだった。
十秒くらい経っただろうか。
梓は目を瞑ったままで静かに口を開いた。


「いいんですよ、律先輩。
確かにまだ痛いんですけど……、それでもいいかもって思うんです。
私、今、律先輩に触られてる所がヒリヒリ痛いです。
でも、その分、律先輩の存在を感じられるんです。
私、それが何だか嬉しくて……」


「嬉しい……?」


「はい、嬉しいんです。
私、思うんですよ。それは身体だけじゃなくて、心の痛みもそうなんじゃないかって。
純達、お父さん、お母さん、わかばガールズの皆……、皆の事を思い出すと胸が痛いです。
また泣き出したくなるくらい、とても胸が痛くなります。
今まではその痛さが怖いだけでした。
でも……、律先輩に色んな事を教えて頂けて、思ったんです。
この胸の痛みも、辛さも悲しさも、まだ私の心の中に皆が残ってくれてるって証拠なんだって。
皆が傍に居てくれてるって事なんだって。
ですから……」


そう言って、梓が私の腕の中で微笑む。
清々しいくらいの笑顔。
それは無理をしているわけでも、強がってるわけでもない、心の底からの笑顔に見えた。
痛みも、苦しみも、心の中に皆が残ってる証拠……か。
その考えが正しいかどうかは、私にもはっきりとは言えない。
だけど、痛みから目を逸らして生きるよりは、ずっといい事のような気がした。
567 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:53:02.11 ID:LMLRxZRo0
腕の中の梓と至近距離で視線が合う。
流石に気障過ぎたと思ったのか、梓がまた頬を赤く染めた。
一つ咳払いをすると、普段通り、
でも、凄く久し振りに生意気な口調になった。


「大体、律先輩は普段大雑把なのに、妙な所で気を遣い過ぎなんですよ!」


「えー、何だよ、いきなりー!」


「思い出してみて下さいよ、律先輩。
私が日焼けしてから、律先輩、私にどれくらいくっ付きました?
私にプロレス技を掛けなくなって、どれくらい経つと思ってるんです?」


「いや……、えっと……、どれくらいだったっけ……?」


そういやどれくらいだっただろう。
私は頭を捻って遠い過去に思いを馳せてみる。
言われてみれば、梓が日焼けをしてから、全然プロレス技を掛けた覚えが無い。
確か憂ちゃんにマッサージをしてもらってて、
そのついでに梓もしてもらえ、って話になった時、
いや、日焼けしてるからマッサージは痛いよな、
私も梓に触らないように気を付けるよ、ってな話をして以来、
代わりにツインテール両側引っ張りや、頭クルクルをするようになったはずだ。
確かに最近は梓にプロレス技を全然掛けてなかった気がするな。

「でも、それは……」と私が弁明しようとすると、梓が頬を膨らませて首を横に振った。
弁明なんて聞きたくありません! って事なんだろう。
申し開きもさせてもらえないのかよ……。
何となく釈然としない気分だ。
その私の様子に気付いたのか、梓が急に寂しそうな表情になって続けた。


「私の事を考えてくれてるのは、勿論嬉しいですよ?
でも、律先輩ったら、いつも極端なんですよ。
これまで普通にやられてた事を、急にやめられてしまった方の身にもなって下さい……。
日焼けが原因だって分かってても、他に何かあったんじゃないかって思ってしまうじゃないですか。
私が何か至らなかったのかも、って思ってしまうじゃないですか……」


「いや……、梓が至らないなんて、そんな事あるわけないじゃんか。
私は梓を傷付けたくなかっただけなんだよ……。
日焼けの痛みは昔色々あってこの身でよく知ってたからさ、それで……」


「いえ、すみません、律先輩……。
分かっているんです。律先輩が優しい人なんだって事は……。
分かってますけど……、私、寂しかった……。寂しかったんです……。
気を遣われる事って……、すっごく寂しくて、私……」


その言葉の最後の方は掠れてしまっていた。
もしかしたら、また泣き出しそうになってしまっているのかもしれない。
私は……、そういう所でも梓に寂しい気持ちにさせてしまっていたのか……。
梓の事を想ってした事のはずなのに、誰かのためにってのは難しい事なんだな……。
そう考えて、私が頭を下げて謝ろうとした瞬間、不意に梓が微笑んだ。
梓が滅多に見せない悪戯っぽい微笑みだった。
568 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:53:39.02 ID:LMLRxZRo0
「なんちゃって」


「……えっ?」


「そんな顔しないで下さい、律先輩。
寂しかったのは本当ですけど、律先輩の気持ち、私、分かってます。
私の事を考えてくれてたんだってちゃんと分かってます。
律先輩の気遣い、嬉しいです。
でも……、寂しかったのも本当ですから……、その事も知っていてほしかったんです。
両方、私の本当の気持ちなんですよ?」


嬉しかった気持ちと寂しかった気持ち。
二つとも本当で、二つとも嘘が無い。
矛盾してるみたいだけど、梓の言ってる事はよく分かった。
多分、私だって同じだからだ。
この閉ざされた世界に来て、辛くて苦しくて、でも、嬉しさもある。
どんな形でも、唯ともう一度話せるようになった事は、
何を犠牲にする事になったとしたって、確かに嬉しい事ではあるんだ。
もしかしたら、梓はこの世界に対する想いも同時に私に伝えてくれたのかもしれない。

とは言え、久々の梓の生意気発言をそのままにしておくのも、何となく決まりが悪い。
私はいつもよりちょっとだけ弱く、梓の首に回した腕に力を入れてやる事にした。


「それならそうと、からかわずにちゃんと言え、中野ー!」


「あははっ、ごめんなさい。
痛っ。痛いですって、律先輩。
痛い痛い。すみませんってばー」


痛い痛いと言いながら、梓は私から逃げようとはしなかった。
私も梓から離れたくなかった。
梓の傍に居られる事は嬉しいし、とても安心出来る。
前みたいに梓とこんな風にふざけ合える事がこんなに嬉しくなるだなんて、思ってもみなかった。
私の想像以上に、梓は私の中で大きな存在になっているらしい。
いつまでも二人このままで居たい気持ちは正直ある。
でも、そういうわけにもいかなかった。
まだやらなきゃいけない事は残ってるし、いつまでも傍に居るのが仲間だって事じゃない。
私は名残惜しく梓から腕を放すと、少し溜息を吐いてから言ってみせた。


「それにしても……、本当に治らないよな、おまえの日焼け。
日本に居た頃ならともかく、ロンドンのこの気温で日焼けしたままってのは何か怖いよなー」


私が腕を放した事でまた寂しそうな表情になっていた梓だけど、
その私の言葉を聞くとすぐに苦笑してくれた。
自分自身の身体の事なんだ。私に言われなくても百も承知って事なんだろう。
それでも、梓は律儀に私の言葉に応じてくれた。


「ホントですよね……。
正直、自分の身体の事ながら、私だって結構怖いです。
いえ、確か私の本当の身体じゃなかったんでしたよね?
律先輩達の推論が正しければ、この身体は唯先輩の私に対するイメージ……なんですよね?」


「ああ、確定したわけじゃないけど、多分……な。
この世界で私達の意識以外の物は、全部唯の夢のはずだよ。
私達以外他に生き物が居ないのも、それが原因なんだろうな。
生き物の外側まではイメージ出来るけど、その中身までは作れないんだと思う。
生き物の精神構造なんてさ、想像以上に複雑な物だもんな。
だから、こんな変な世界が出来ちゃったんだろうな」


「そうですね……。
妙な所で唯先輩らしいと言うか何と言うか……。
でも、そんな事より唯先輩ったら……」


「ああ、そうだよな……。
唯の奴……」
569 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:58:46.92 ID:LMLRxZRo0
「どれだけ私が日焼けしやすいタイプだって思ってるんでしょうか……」


「だよなー……」


梓が呟き、そうして二人して苦笑する。
梓が日焼けしやすい体質なのは確かだけど、こんな肌寒い気候でまで日焼けするほどじゃない。
言っちゃ悪いが、こりゃいくら何でも設定ミスだ。
唯の中で梓がどれだけ日焼けキャラとして確立してるってんだ……。
まあ、その辺は唯自身にもコントロール出来ない事なんだろうけどさ。
私は肩を落とす梓の頭に手を置いて、ちょっと笑いながら言ってやる。


「その辺、唯に文句言ってやらないとな」


「ええ、後でしっかり文句を言います。
日焼けって痛いんですからねって、思いっきり文句を言いたいです。
勿論、この世界を夢見てる唯先輩に……」


ああ、と私は頷いた。
やっぱりそれが一番いいんだろうな、って思った。
この世界を夢見てる唯ってのは、この世界に居る唯の事じゃない。
元の世界……、病室で眠り続けてる唯の事だ。
両方唯ではあるけれど、何も分からずに自分の力に振り回されてるこの世界の唯よりは、
無意識にこの世界を創り上げてる元の世界の唯の方に文句を言ってやる方が道理っちゃ道理だよな。
梓はそれを……、元の世界に戻る事を選んだんだ。
私は静かにそれを訊ねてみる。


「……いいんだな、梓?」


「はい、私……、思ったんです。
何度も忘れようとしました。思い出す度、何度も辛くなりました。
でも、やっぱり私、純達の事、忘れられなくて……、忘れたくなくて……。
もう一度、会いたいんですよ、やっぱり……。
この世界じゃなくて、元の世界で……、もう一度三人と話をしたいんです。
いいえ、三人以外の皆とも……。
律先輩は反対するかもしれませんけど、でも……」


「反対なんか、しないよ。
言っただろ? 私はおまえの笑顔が好きなんだよ。
それでさ、おまえが一番の笑顔で居られるのは、皆と笑ってられる時だと思うんだ。
純ちゃんがおまえをからかって、憂ちゃんが見守ってくれて、
和がよく分からない突っ込みをして、さわちゃんがまた変な事を言い出して、
わかばガールズの残り二人がそれを見つめてて……。
そんな時に浮かべる笑顔が、きっとおまえの最高の笑顔なんだよ。
それは元の世界じゃないと出来ない事なんだ。
だから、私はおまえが元の世界に戻りたいって思う事に、反対なんかしないよ」


「あの……、律……先輩……も」


梓がそこまで言って口を噤んだ。
ちょっと恥ずかしい事だけど、私の言葉をまっすぐ受け止めてくれたんだろうと思う。
私にはそれが凄く嬉しかった。
梓は本当の笑顔を取り戻すために行動しようと思ってくれたんだから。
梓に負けないよう私も笑って、その梓の頭を撫でながら言葉を続けた。
570 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:59:21.84 ID:LMLRxZRo0
「うん、戻るよ……。
私だって元の世界に戻りたいんだぜ?
勿論、元の世界は辛い事が多いんじゃないかなって思う。
唯ほどではないけど、私達だって大怪我をしてるはずだし、
元の世界に戻れたとしても、その最初は病室のベッドで冴えない目覚めを迎える事になるんだろうな。
冴えないよなー……。

それでどうにか戻れたとしたってさ、おまえ達とはまた離れ離れになる。
学校生活に戻って、顔を合わせる事もどんどん少なくなって、
今のこの閉ざされた世界みたいに四六時中顔を合わせるって事は本当に出来なくなる。
歳を取る度に、会う機会が全然無くなっていくんだろう……。
それは正直辛いよ、私も。

だけどさ……、この世界で傍に居るって事と、
元の世界で傍に居たいって思い続ける事とは、何かが違うって思うんだ。
私達が目指したのは、この世界でいつまでも傍に居るって事じゃなかったはずだよ。
会えなくても……、辛くても……、悲しくたって……、
皆の事を思い出すと元気になれて、たまに会えると昔みたいに笑い合えて、
そういう意味で永遠に皆の傍に居たかったはずなんだ」


「『永遠に一緒だよ』……」


梓が『天使にふれたよ!』の歌詞を口にする。
ひょんな事から叶ってしまった永遠……かどうかは分からないけど、
少なくとも永遠に近い、私達の……、私達だけの日常生活。
だけど、やっぱりこれは私達の求めた永遠とは違っているはずだから……。
梓は力強く頷いてくれたんだ。


「戻りましょう、律先輩……。
私、また律先輩が大好きだって言ってくれる笑顔になりたいです。
皆と笑顔になりたいです。
本当の永遠を手に入れるのは、その時なんだって思いますから……。
律先輩も、澪先輩も、ムギ先輩も、それに……」


「ああ、勿論、唯も連れて、一緒に元の世界に戻ろう、梓。
そのために出来る事が何なのかはまだ全然分かってないけどさ、
皆で唯が元の世界でも目覚められる方法を考えてながら、探して行こう。
戻ってやるんだ、唯も一緒に……な」


「……はいっ!」


それが私達の決心。
偽りの笑顔と偽りの信頼、偽りの絆を捨てて、
今度こそ私達は本当の笑顔と信頼、絆を取り戻しに行くんだ。
先はきっと長いだろうけど、いつか必ず皆と一緒にその道を見つけ出してみせる。
でも、今はそれよりも先に……。

私は立ち上がる。
長く泣いてたせいか少し立ち眩みはしたけれど、別に問題は無かった。
これから私達は前に進むんだ。そう思うと、立ち眩みなんてすぐに気にならなくなった。
私に続いて、梓も立ち上がる。
梓のその表情は、私の大好きな笑顔にまでは及ばないまでも、いい笑顔だった。
私は宣言するみたいに梓に言った。
571 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 17:59:50.86 ID:LMLRxZRo0
「行くぞ、梓!」


「はいっ!
……でも、まずは何をしましょうか?」


「まずは……、ライブだな!」


「ライブですかっ?」


「何だよー、いいじゃんかよー……。
ほうかごガールズでライブ出来なくて、不完全燃焼なんだよー。
それともおまえはこんな時にライブなんかやってられない、とでも言うつもりかよ?」


「いえ……、そりゃ私だって皆さんとセッションしたいですよ?
でも……、全然練習なんて出来てませんし……」


「いいんだよ、それでも。
練習出来てないのは皆一緒なんだし、
唯だって下手でもいいから皆と演奏したいって言ってたぞ?
そうそう、私達に新曲も聴かせたいんだとさ。
くっそー、新曲かー……。あいつらだけずるいよなー……」


「新曲……ですか。
そうですね……、私も聴きたいな……。
それに……、私だって皆さんとまたセッションしたいです!
私、本当はずっとずっと、先輩達とまた演奏したかったんですから!」


「おっしゃ、決まりだな。
戻ったら、皆と私達だけのライブだ。
唯は対バンだよ、とか言ってたけど、よく考えたらそれはちょっと無理だな。
唯チームはともかく、私達部長チームが不利過ぎるわ。
ギターとドラムだけでどうしろってんだよ。
てなわけで、五人一緒に放課後ティータイムの再結成ライブになるな」


そう言って私が笑うと、梓も嬉しそうにまた笑顔を見せてくれた。
勿論、ライブしたからって、何がどうなるわけでもない。
ライブの影響で唯の脳が活性化して元の世界に目覚める、
って、漫画とかにありがちな奇蹟も多分起こらないし、そもそもそれが目的じゃない。
ライブの目的はただ一つ。
これから前に進む決心のためだ。
いつかまた一陣の風で皆が離れ離れになった時でも、
ライブの事を思い出して、少しでも前に進める勇気を持つためだ。
まあ、単純にライブしたいだけって理由もあるんだけどな。
結局、私達は音楽が大好きだって事なんだろう。
572 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 18:01:16.37 ID:LMLRxZRo0
私は一歩進む。
胸を張って、前を向いて、まっすぐに進んでいく。
大目標は出来たんだ。
後はそれに向かって進んでいくだけだ。

……と思っていたら、何故か不意に梓に腕を掴まれた。
何事かと思って振り向いてみると、梓は上目遣いに私を見上げていた。
その頬はこれまで以上に紅潮してるようにも見える。
私はちょっと驚きながら訊ねてみる。


「何だ何だ?
どうしたんだよ、梓?
何か忘れてた事でもあったのか……?」


「えっと……、あの……、さっきの事……なんですけど……」


「さっき……?」


「私、律先輩に「抱き締めて」って……、言ったじゃないですか。
その事で、ちょっと……」


ああ、なるほどな。
あの時の梓は私に縋ろうと本当に必死だった。
私に捨てられないよう、身体ででも私を繋ぎ止めようと躍起になってた。
その事を忘れてほしいって事なんだろう。
私にもそれに異論は無い。
誰だって、動揺して自分でも思いの寄らない行動を取ってしまう事くらいある。
梓が忘れてほしいって言うんなら、ちょっと寂しいけど私も忘れてやるべきなんだ。
私は梓の頭に手を置いて、軽く笑ってやった。


「分かってるよ、忘れてほしいってんだろ?
嘘……はあんまり皆に吐きたくないけどさ、内緒にするくらいなら、まあ、いいだろ。
うん、気にするなよ、梓。
私、あの時のおまえの行動、気にしないか……」


「いえ、そうじゃないんです!
私の言葉……、忘れないで……いてくれませんか……」


「えっ?」


梓に言葉を止められ、私は動揺した声を上げてしまう。
想像とは全く逆の言葉を言われて平静で居られるほど、私は落ち着いた性格をしてないんだ。
でも、どういう事だ?
どうして梓は自分の言葉を忘れないでなんて……。
梓は私の手を取ると、そのまま自分の頭から私の手を離させた。
拒絶……ってわけじゃなく、私と対等に話をしたいって様子に見えた。

数秒だけの沈黙。
顔を真っ赤にした梓は何度も深呼吸をすると、私の瞳を見つめてから、力強く口を開いた。
偽りの無いまっすぐな言葉を届けてくれた。
573 :にゃんこ [saga]:2012/06/17(日) 18:04:16.58 ID:LMLRxZRo0


今回はここまでです。
りっちゃんと梓の話がとても長いですね。
これだけでこれまでの全体の八分の一は使っているようです。
もうすぐ次の展開になる予定です。
574 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/17(日) 18:20:02.20 ID:9dhW5SB4o
乙ですー
575 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/17(日) 18:49:49.24 ID:vCkfd5pfo
乙乙
長々ともどかしいイチャイチャをしても構わないのよ?
576 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/18(月) 19:06:00.35 ID:j8gCBXQq0
乙です

あれ、もしかしてキタ?超俺得展開キタ?
577 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:56:31.38 ID:WKz3Fjby0
「さっきの言葉……、あれは気の迷いです!」


「はあっ?」


まっすぐな言葉だった。
確かにまっすぐな言葉だ。
構えてただけに私は自分の力が抜けていくのを感じる。
梓が気の迷いって言うんなら気の迷いでもいいんだけど、
そうまっすぐにはっきりと言われると何とも複雑な気持ちになるな……。

私が苦笑すると、何故か梓が更に顔を赤くさせる。
まるでトマトみたいだな、って私は何となく間抜けな事を思った。
でも、梓にとっては真剣な話のつもりみたいだったから、
私は表情を引き締めて梓の次の言葉を待つ事にした。
視線を彷徨わせた後、息を何度か吸って、梓がまたその小さな口を開く。


「あれは気の迷いなんです。
私、ずっと寂しくて、辛くて、怖くて、誰かに頼りたくて……、
それであんな言葉が出てしまったんだと思います。あんな事を言ってしまったんだと思います。
変な事言ってしまって……、すみませんでした……」


「いや、いいんだよ。それはいいんだ。
でも、忘れないでほしいってのは何なんだ?
気の迷いなら、忘れてほしいってのが普通だろ?」


「いえ、違うんです!」


急に梓が大きな声を出して私の言葉を制した。
どうやら、忘れてほしくないって事だけは間違いが無いらしい。
その一方で梓は自分の言葉を気の迷いって言っちゃってる。
どうも矛盾してる気がするんだが……。

その矛盾には梓自身も分かっていたらしく、
どうにか私に自分の気持ちを届けようとしたみたいで、見る見るうちに早口になった。
早口になるのは、梓の焦った時の癖だ。


「私のあの言葉は気の迷いです……。気の迷いなんです……。
私が律先輩に、あんな時に……、
よりにもよってあんな時に「抱き締めて」なんて言うわけないじゃないですか。
冷静な状態であんな事、言えるわけないじゃないですか。
大体、律先輩に失礼ですよ。
律先輩の想いを利用して、優しさに頼って、
自分を慰めてもらおうとするなんて、絶対にやっちゃいけない事です。
やっちゃいけない事なんです。
それなのに……、分かってるのに……、私は律先輩に縋り付いちゃって……。

だから、あの時の私の行動は気の迷いじゃなきゃいけないんです……。
あんな私が本気だったら……、律先輩に申し訳ないじゃないですか……。
私が私自身を許せなくなっちゃうじゃないですか……」


「梓……、もういいって……。
もういいよ……、そんなに自分を責めるな……。
それはおまえだけじゃない。元はと言えば私が……」


私は言いながら梓の頭に不意に手を伸ばし掛けて……、やめた。
今の梓はそれを望んでない気がしたからだ。
私は手を宙に彷徨わせた後、握り締めて元の位置に戻した。
今は肌の温かさより言葉を梓と交わすべき時なんだ。
だからこそ、私は梓の目をまっすぐ見て、今度は私が真剣な言葉を届けようと思った。
578 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:57:03.48 ID:WKz3Fjby0
「ごめんな、梓……。
おまえの行動が気の迷いだとしたなら、おまえを迷わせたのは私だよな。
私がさ……、部長なのに……、年上なのに……、
おまえが優しかったから、おまえが私を支えてくれたから、
もっと支えてほしくて頼りたくなっちゃったんだよ。
おまえは気に病む必要無いよ、梓。
こればっかりは完全無欠に私の責任なんだ。
だから、もう自分を責めなくても……」


「ねえ、律先輩……。
一つ、訊いていいですか……?」


急に梓が話を変える。
少し面食らったけど、今は梓の言う事は何でも聞いてやりたかった。
私は一息吐いてから、ゆっくりと頷いた。


「……ああ、何でも訊いてくれよ、梓」


「じゃあ……、訊かせて頂きますね……。
あの……、その……、えっと……、
律先輩は……、その……私の……私の事が……。
私の事が好きだから……、あの日、私にキスをしようとしたんですか……?」


「……そう……だな。それは……」


私はそれ以上の言葉を口にする事が出来なくなった。
答えてやりたい質問だった。
あの時の梓を拒絶した以上、梓を迷わせてしまった以上、
絶対に私が答えなきゃいけない質問だった。
なのに……、私はその答えを持ち合わせていない。

梓の事は好きだ。
小さくて可愛らしいし、何だかんだと私を慕ってくれるし、
支えてくれるし、頑張ってる姿も健気だし、ずっと見ていたい気にさせてくれる。
そうだ。私は梓の事が大好きなんだよな……。
でも、恋愛対象かと訊かれてしまうと、話は全く違ってくる。
女同士ってのもあるけど、それを抜きにしても自分の気持ちがよく分かってないんだ。

答えを伝えてやりたい。
想いを伝えたい。
でも、私にはその想いが自分でも分かってない。
歯がゆくて、悔しくて、拳を握り締めてしまう。
私は梓の事を恋愛対象として考えていたから、キスをしようとしてたんだろうか?
分からない……。
どんなに考えてもその答えが出ない……。

私が真剣に考えていた表情がおかしかったのか、梓が小さく笑った。
頬の赤味は少しだけ治まっていて、何処となく嬉しそうな表情だった。


「自分の気持ちが分からないんですよね、律先輩……。
実はですね……、私もなんです」


「梓……も……?」


「はい。私、律先輩の事、あの……、好きですよ。
今言うのも何なんですけど、律先輩って最初は苦手な先輩で、
私、この部でやっていけるのかな、って不安だったんですけど……、
でも、その内に律先輩の事、信頼するようになってて、
一緒に居るのも楽しくなって……、ですから、私、律先輩の事が好きです。
大好き……なんだと思います」
579 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:57:33.17 ID:WKz3Fjby0
私は言葉がまた出なくなった。
今までみたいに絶句したわけじゃない。
嬉しかったからだ。
嬉しくて、ただ嬉しくて、胸がいっぱいになって言葉が出なくなったんだ。
私も梓も想いを素直に表現出来ない者同士だと思う。
だから、嫌われてると思ってたわけじゃないけど、
梓が私の事を好きだと言ってくれるのは本当に嬉しかった。
それだけで軽音部で活動して来た価値があったって思える。

私は口を開く。
何て言ったらいいのか分からないけど、私はこの想いを言葉にしたかった。
梓が私を好きで居てくれて嬉しいんだって。
こんな私なのにありがとうって。
その気持ちだけはどうにか伝えたかった。
でも、その言葉は梓が私の唇に右の人差し指を当てる事で制されてしまった。
まだ梓には話したい事があるって事なんだろう。
私は出そうだった言葉を呑み込む。
その私の様子を見届けると、梓は頬をまた赤くさせながらはにかんだ。


「私、律先輩の事が好きです。
大好きなんですよ?
ですけど……、本当にキスしたいくらいまで好きなのかは、私にも分かりません。
先輩としては大好きですけど、それとキスとは全然別問題じゃないですか。
恋愛関係とは全然違うじゃないですか。
ただの先輩にキスしようとするなんて、変な話じゃないですか。
そんな風に自分の気持ちがよく分かってないのに、
キスしようとするなんて、気の迷い以外の何物でもないじゃないですか。
だから、さっきの私の行動は気の迷いなんです。
気の迷いなんですよ、あれは……」


そうか……。
確かにそれは気の迷いだな。
自分の気持ちもはっきりしないのにする事なんて、全部気の迷いって言っても過言じゃないもんな。
梓の言う事はもっともだよ。残念だけど、そういう事なんだよな……。

……?
あれ……?
残念だ……、って思ったのか、私……?

胸が激しく鼓動するのを感じる。
若干、痛みも感じる気がする。
何だよ……?
これってひょっとして……、失恋の痛み……ってやつ……?
私ってそんなに梓の事が……?
いや、でも、だけど……、そんな簡単に決めちゃっていいのか……?


「梓……、あの……、私……」


私は何かを伝えようとして言葉を出した。
でも、想いも気持ちも言葉も固まらない。
情けない事だけど、多分、初めての感情に動揺する事しか出来なかった。
今、私はどんな表情をしてるんだろう……?
やだな……、こんな表情、梓に見せたくないな……。
泣き顔は見せられたのに、今の表情だけは見てほしくない。
一瞬、私は梓の顔から視線を逸らしそうになる。
だけど、梓はその私の情けない行動を柔らかい言葉で止めてくれた。
580 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:58:07.22 ID:WKz3Fjby0
「気の迷いなんですよ、私の行動も、律先輩の行動も……。
そんないい加減で曖昧な気持ちで、キスなんかしていいはずがありません。
もっとお互いの気持ちを確かめ合って、信頼し合って……、
それからでないと、抱き締め合ったりなんてしちゃ駄目なんですよ」


「ああ、そうだよな……。
その通りだよ、梓……。
私……、とんでもない事をする所だったよな……」


「ええ……、お互いに……。
気の迷いでそんな事しちゃ駄目です。
しちゃ駄目なんです、絶対……。
ですけど……」


「けど……?」


「私……、あの時の気持ちを気の迷いって言葉だけで、終わらせたくないんです」


「……えっ?」


多分、その時の私の顔は凄く間抜けな物だったと思う。
それくらい予想してない言葉だった。
私の表情がよっぽど崩れてしまっていたんだろう。
梓がちょっと苦笑したみたいになってから、言葉を続けた。


「勿論、気の迷いは気の迷いなんですけど……、
でも、その気の迷いの中に、私の本当の気持ちが無かったとも言い切れない気がするんです。
火の無い所に煙は立たないって言うじゃないですか。
気の迷いだとしても、私が律先輩にキスしてほしかったのは、
少しはそんな気持ちもあったからじゃないかって……、私、思うんです」


「私達の……本当の気持ち……」


「ええ……、本当の気持ちが……。
だから、私のさっきの行動、律先輩には忘れないで居てほしいんです。
気の迷いって言葉で、終わらせたくないんです……。
大体、全部が全部、気の迷いのせいにするなんて、私のプライドが許しません!
それだと全部を気の迷いって言葉のせいにして逃げてるみたいじゃないですか!」


言った後、また照れ臭そうに梓がはにかむ。
いい笑顔だった。
私の大好き笑顔にかなり近い眩しい笑顔。
気付けば私も微笑んでしまっていた。
梓らしいと言うか何と言うか、だな。
まったく……、本当に何事にも真面目な梓っぽいよ……。
何事にも決して逃げずに立ち向かって行く梓。
そうだよ……。私はそんな梓の事も好きだったんだ……。
そんな梓を見ていたいんだ……。
だったら、私も負けてはいられないよな。


「そうだよな、梓。
何かから逃げるなんてさ、私達ほうかごガールズのプライドが許さないよな。
そんな事してたら、きっと和達に叱られちゃうだろうしさ。
特に和は厳しいだろうなあ……。
「そんな事で部長が務まると思ってるのかしら?」とか言いそうだよ。
梓の言う通り、気の迷いなんて言葉に逃げてられないよな……。
探したくなったよ、私の中の本当の気持ちがさ……」


「はい!
二人で探しましょう、律先輩……。
律先輩が私に嘘を吐いちゃいけないって事を教えてくれました。
だから、私は本当の気持ちを見つけたいんです。
律先輩にも本当の気持ちを見つけてほしいんです。
色んな事から決して逃げずに、物事をしっかりと見据えて……。
例えその先に……」


「そうだな……。その先に……」
581 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:58:36.66 ID:WKz3Fjby0
それ以上の事は二人とも言葉にしなかった。
分かり切った事だからだ。
深く分かり切ってるから、それは口にしなくてもよかった。
多分、私達の別れの時は近い。
今すぐって話じゃないく、まだ結構先の話のはずだけど、私達の別れはそう遠くないはずだ。
この夢の世界の一陣の風で離れ離れにさせられるってだけじゃない。
もしも元の世界に戻れたとしても、恐らくは私達はこの想いを……。

だけど、探すんだ。
探してみせるんだ。
もう逃げない。
この世界から。
過去から。
恐怖から。
自分の気持ちから。
そして、梓の気持ちから。

別れは少し怖くなったけど、私は笑った。
笑い飛ばして言ってやるんだ。
私達の決心を宣言してやるんだ。多分、未来ってやつに向けて。


「私も探すよ、梓。
本気で真面目に探すよ、私の本当の気持ちをさ。
もしも、それが梓への恋愛感情だったらさ……、おまえは受け入れてくれるか?」


「さあ……?
それとこれとは別問題ですから」


「うおーいっ!」


突っ込みながらも、私は笑顔のままだった。
梓も悪戯っぽく笑っていた。
それでいいんだと思った。
まずは本当の気持ちを見つける事。
全てはそこから始まるんだから。
いつかは終わるとしたって、始まらせなきゃ意味が無いんだから。
582 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:59:10.84 ID:WKz3Fjby0
梓が笑顔のまま、目元の涙を拭いながら続ける。
涙の理由は笑い過ぎたからなのか、悲しかったからなのか、それは今は訊かなくてもいい事だ。


「さっき、本当の気持ちって言いましたけど、
私が律先輩の事を恋愛対象として好きな可能性は少ないですよ?
あったとしても少しだけだと思います。
だから……、後悔しちゃ駄目ですよ、律先輩?
私と恋人になれる可能性が高かったのは、さっき私が迷ってた時だったんですからね?
冷静な私が律先輩に恋するなんて思います?」


「ひっでー言い方だなあ、おい……。
でも、ま、いいよ。許してしんぜようぞ、梓。
私が本当におまえに恋してるって気付いて、
おまえが私を受け入れてくれなかったら一人でシクシク泣くさ。
だけど、後悔はしないぞ?
弱ってる子の気持ちを利用して付き合うとか私の性に合わないからな!」


「そう言うと思いました」


梓が言ってから、二人で顔を合わせて大きな声で笑う。
空を見上げてつい自嘲する。
あーあ……、損な生き方だよなあ、私達。
不器用で、変な所で真面目で、似た者同士で……。
だけど、後悔は無い。二人とも、後悔なんて無い。
これが私達の嘘の無い生き方なんだから……。

不意に笑顔のままで梓が私に手を差し出した。


「見つけましょう、私達の気持ち。
そのためにも、これから私達に出来る限りの……」


私は差し出された梓の手と握手する。
先輩と後輩としてでなく、支える側と支えられる側としてでもなく、
対等な……同じものを目指す仲間として、想いを伝え合うために。


「ああ、出来る限りのライブをやってやろうぜ!」


まずはそれから。
新しい道を歩いていくための一歩。
そのための握手。そのためのライブだ。
これが私達の新しい始まり。
それが悲劇になるとしても、喜劇になるとしても、
とにかく私達の新しい物語は幕をこうして開けたんだ。
それだけは確かに嬉しかった。
いつかは忘れる運命にあるとしても、この想いだけは心に残しておきたい。
583 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 17:59:38.08 ID:WKz3Fjby0





私達が連れ立ってホテルの部屋に戻ると、唯達三人は嬉しそうな顔で私達を出迎えてくれた。
私はこれまでの事情を説明しようとしたけど、
何を言うよりも先に梓と二人で風呂場に追いやられてしまった。
どうやら、私達の表情を見ただけで三人には全部の事が分かってしまったらしい。
唯の体調は心配だったけど、見る限りでは特に問題は無さそうだった。
と言うか、物凄い力で私達を風呂場に追い込んだのは唯だった。
元気そうで何よりなんだが……、元気過ぎないか?
ひょっとして私と梓に話をさせるために、
体調が悪い振りをしてた……、っってのは考え過ぎかな?
どっちにしても、唯が元気なのは嬉しい事だ。

追いやられた風呂場には既に湯が張られていた。
疲れてる身体をこの湯で癒せって事なんだろう。
ありがたい事にはありがたかったけど、何か凄く裏を感じる……。
絶対何か企んでるな、あいつら……。
まあ、勘繰ってみた所で私達に何が出来るわけでもない。
私達は肩をすくめながら、とりあえず服を脱いでありがたくお湯を頂く事にした。
服だけは濡れないように、こっそり扉の隙間から唯が回収してくれたみたいだった。

湯舟に浸かりながら、私と梓は特に会話はしなかった。
話す事はいくらでも湧いて来るだろうけど、今は二人で黙っていたかった。
考えたい事があったんだ。
お互いに考えているのは、多分、ライブの事だと思う。

ライブで演奏したい曲は決まってる。
『天使にふれたよ!』だ。
とりあえずだけど、この曲だけは梓と、皆と演奏したい。
私達の最後の曲を再始動の最初の曲にするのも悪くないし、
あんなに練習してた梓の歌声を聴きたいんだ。
聴かせたいんだ、皆に。
まだそんなに上手くなってるわけじゃないけど、聴いてほしいんだ。
この世界で、この世界だからこそ私達が辿り着けた音楽を。

私が梓と視線を合わせると、梓は静かに頷いてくれた。
考えが伝わっているのかどうかは分からないけど、多分、考えてる事は同じだった。
これでも一応新バンドの仲間なんだしな。
その点に関してだけは、唯達よりも梓の事を分かってる自信はあるぞ。

カラスの行水ってわけじゃないけど、私達は早めに風呂場から上がる事にした。
全身をちゃんと洗ってはいるぞ?
でも、普段より急いで二人で洗い合ったのは確かだ。
気が早って仕方が無かったからだ。
皆とライブの話を、世界の話をしたかった。
ゆっくり湯舟に浸かってなんて居られなかった。
そうして、置いてあったタオルで身体を拭くのもそこそこに風呂場から出ると……、驚いた。
私も梓も目を見開いて息を呑んでしまっていた。

無いんだ。
何一つ無かったんだ。
その場にあるはずの物が消えてしまっていたんだ。
どういう事なんだ……。
584 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 18:00:05.33 ID:WKz3Fjby0
いや、服の話だけどな。
唯に回収されたはずの服どころか、着替えの服すら置かれていなかった。
着替えの服くらい用意してくれてると思ったんだが……。
しかも、何処に行ったのか、唯達の姿すら見えない。
あいつら、私達にどういう罠を仕掛けたんだよ……。

仕方ないから私達はバスタオルを身体に巻いて部屋の探索を始める。
下着と服はすぐに見つかった。
と言うか、ベッドの上に二着置いてあった。
いや、置いてあったのはいいんだけど、その服は非常に不可思議な形状をしていた。
さわちゃんが縫いそうな奇妙な服ってわけじゃない。
ただ、何と言うか……、超ヒラヒラだった。
水色のヒラヒラのワンピースで、例えるなら赤毛のアンが着るみたいな服だった。
……これを私に着ろって事か?
私がこの服に袖を通した姿をちょっとだけ想像してみる。

………。
……。
…。

無い無い無い!
超無いし! 超おかしーし!
こんな服を着た日にゃ、一生、唯か澪に馬鹿にされ続けるわ!
とんでもない罠だ!
ムギは褒めてくれるかもしれないけど、それはそれで何か嫌だ……。

肩を落としながら梓に視線を向けてみると、梓もげっそりとした表情を浮かべていた。
流石に梓もこの衣装は嫌らしい……。
そういや、梓もそんなに女の子っぽい恰好をするタイプじゃないしな……。
私達の中では比較的スカートを穿く奴ではあるんだけどさ。

私と梓はその服をベッドに置くと、他の服を捜してみる。
確かベッドの横にまとめて畳んでたはずだったんだが……、やっぱり無かった。
この調子だと隣の部屋にでも全部隠してるんだろう。
私は溜息を吐きながら、部屋と部屋を繋ぐ扉のノブに手を掛けた。
この部屋に居ない以上、唯達は多分隣の部屋に隠れてるはずだ。
意外にも扉に鍵は掛けられてなかった。
呆気なく開いた扉の先には、意外な光景が広がっていた。


「……何やってるんだ、おまえら」


私は思わず小さく呟いてしまった。
後ろから身を乗り出して扉の先を確認した梓も微妙な顔をしていた。
それもそのはず。
ベッドに置いてあったのと同じワンピースを既に唯達三人が着ていたからだ。
準備がいいと言うか何と言うか……。
こいつら、自分達が着替えるためにも私達を風呂場に追いやったわけか……。

しかも、三人とも普段とは全然違う髪型をしていた。
ムギが襟足で二つ結びにしていて、澪も珍しい三つ編みにしてる。
そして、普段とは一番変わってる髪型にしてるのは唯だった。
私とそう長さが変わらない髪のくせして、無理矢理左右両側で三つ編みを結んでる。
しかも、眼鏡まで掛けてるとか、一体これは何なんだ……。
でも、ちょっと安心もしていた。
眼鏡こそ掛けてるけど、その唯が掛けた眼鏡は和と同じ眼鏡じゃなかった。
掛けていたのは太い黒縁の眼鏡。
田舎臭いと言うか古臭いけど、その唯の髪型にはよく似合っていた。


「何だよ、律。まだ着替えてないのか?」


そう言ったのは澪だ。
こいつ……、さわちゃんの衣装を着る時は一番嫌がるくせに……。
こんなの着られるか!
と言おうかと思ったけど、やめた。
澪の奴、さわちゃんの衣装は嫌がるくせに、
こういう女の子女の子した服を着るのには抵抗の無い奴なんだよな……。
昔、ヒラヒラを私に着せようとした事も何度かあったしな……。
こいつには何を言っても無駄だろう。
ムギ……も駄目だな。
強要したりはしないはずだけど、褒め殺しで説得されちゃう気がする……。

だとすると、唯か……。
あんまり説得出来る気もしないけど、他に可能性も無いし、頑張ってみる事にしよう。
私はずれ落ちそうになるバスタオルを押さえながら唯に言ってやる。
585 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 18:00:36.94 ID:WKz3Fjby0
「何なんだよ、おまえらのその服装は……」


「知らないの、りっちゃん?
ワンピースだよ!」


「服の種類を訊いてるんじゃねーよ!
どうしてそんな服を着てるのかって訊いてるんだよ!
いや、おまえ達がワンピースを着るのは勝手だけど、
どうしてそのワンピースを私達が着なきゃいけないんだ……」


「そうですよ!
唯先輩! 人の服を隠してどういうつもりなんですか!」


私の言葉に続いたのは梓だ。
予想以上にワンピースを着るのを恥ずかしがってるらしい。
よし、流石の唯でも、梓の援護射撃があれば説得出来るか?
だけど、梓の責めに珍しく唯は譲らなかった。


「えー、ワンピース可愛いよー。
あずにゃんのワンピース姿可愛いと思うよ?
私も澪ちゃんもムギちゃんも楽しみにしてるから、着て見せてよー……」


「……そ、そうですか?」


唯の言葉に満更でもなさそうに梓が呟いた。
弱っ!
もう落とされやがった……!
やっぱ梓は私よりも唯の事の方が好きなんじゃ……。
……って、何嫉妬してるんだよ、私は……。
いや、嫉妬じゃない……はずだ……。
でも、私は自分に素直にならなきゃ……。
いやいや、今はそんな事はともかく……!

私は一息吸うと、少しだけ大きな声を出してやった。
上擦っていたたかもしれないけど、それは気にしない事にした。


「とにかく、梓はいいとしても私は嫌だぞ、あんなヒラヒラ!
何で私があんなヒラヒラ着なきゃいけないんだよ!
他の服を寄越せ、他の服をっ!」


「りっちゃんも着てみようよー。
折角のロンドンなんだし、ロンドンっぽい服装するのもいいと思うよー?」


「ロンドンっぽいのか、それっ?」


「だって赤毛のアンっぽいでしょー?
赤毛のアンってヨーロッパの話だよねー?」


唯も赤毛のアンっぽいって思ってたのか……。
それはそれとして、赤毛のアンってイギリスの話だっけ?
読んだ事ないから確かな事は言えないけど違ったような……。


「カナダだ、カナダ」


呆れ顔で突っ込んだのは澪だった。
そうか……、カナダだったのか……。
ヨーロッパですらねえよ……。
流石はメルヘン代表の澪しゃん。
赤毛のアンも既に読破しておられたか……。
そういや、澪の家で何度か見掛けた事がある気がするしな。
しかし、赤毛のアンを知ってても、読んだ事がある人ってどれくらい居るんだろう……。
少なくとも唯は読んでないみたいだが、まあ、それはどうでもいいか。
586 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 18:01:22.35 ID:WKz3Fjby0
私は腰に手を当てて、はったりを大量に込めて唯に言ってやる。


「ほれ、やっぱりロンドンも何も関係無かったじゃんか。
だったら、私がそれを着る必要は無いよな?
さあさあ、隠した私の服を出したまえ、唯隊員」


「ええぅ……? でもでも……」


唯は譲らなかった。
唯がこんなに食い下がるのは珍しかった。
でも、唯はどうしてこんなに五人お揃いの服にこだわってるんだろうか。
五人で同じ服を着る理由なんて……。

……あっ。
そこで私はやっと気付いた。
そうだ。一つだけあった。私達が同じ服を着なきゃいけない理由。
それは……。


「ひょっとして、それ……、ライブの衣装……か?」


私が訊ねると、唯が少しだけ嬉しそうな顔になって頷いた。
澪とムギも唯に続いて頷く。
なるほどな。唯の奴が対バンとか言ってたから、すっかり勘違いしてた。
唯は最初から放課後ティータイムのライブをするつもりだったんだ。
そういや放課後ティータイム同士の対バンとも言ってた気がする。
対バンするにしても、あくまで放課後ティータイムとしてライブをするつもりだったんだ。

私は小さく息を吐いてから、唯の頭に手を置いて続ける。


「何だよ……。
それならそうと最初っから言えよな、唯。
澪とムギもだぞ?」


「ううん、澪ちゃんとムギちゃんは悪くないよ。
私が用意してたこの服でライブやりたいって言ったんだもん。
可愛い服だって思ったから、皆でこの服を着たかったんだ……。
でも、りっちゃんとあずにゃんは、こういう服苦手かなって思って……。
変な意地悪みたいになって、ごめんね、りっちゃん……」


唯が落ち込んだ様子で呟く。
衣装を勝手に用意してたって事もあるけど、まだ申し訳無さを感じてもいるんだろう。
この世界に私達を引き込んでしまった事にまだ責任を感じてるに違いない。
でも、唯がそんなに責任を感じる必要なんて無かった。
確かに始まりは唯が原因だろうけど、それを選んだのは多分私達なんだ。
私達が唯と一緒に居たかったんだ。
唯はそれを叶えてくれただけなんだ。
私は軽く唯の頭を撫でながら言ってやる。
587 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 18:01:49.69 ID:WKz3Fjby0
「確かにこういう服は苦手だよ。
ヒラヒラしてて、無駄に女の子っぽくてわけ分かんねーし……。
でも、さ……、そんな事より皆でお揃いのライブ衣装を着れる事の方が嬉しいんだぜ?
折角唯が用意してくれた服なわけだし、ライブ衣装なら喜んで着るよ」


「いいの……?」


「いいって言ってんだろ?
妙に遠慮すんなよ、唯。もっと普段通り好きな事言ってくれよ。
おまえもおまえらしくやってくれた方が、私も嬉しいからさ」


「じゃ、じゃあ……、髪を……」


「あ、三つ編みは嫌だからな。
嫌だよ、あんな痛い髪型。三つ編みだけは断固断る。
それ以外なら従ってやらんでもないが」


「先を越されたっ?」


唯が悔しそうに唸り、それを見ていた澪達が楽しそうに笑った。
やれる事はやってやるが、出来ない事はちゃんと断る。
それこそが本当の仲間ってやつだ、多分。


「じゃあ、風邪をひく前に着替えちゃいましょうか、律先輩?」


梓が私の肩を軽く叩いて言った。
確かにそうだ。
三つ編みはともかくとして、冷える前に着替えなきゃ風邪をひいてしまう。
まあ、この私であって私でない身体が、風邪をひくのかどうかは分かんないけどさ。
梓がベッドに置いてある衣装に向かったのを見届けた後、
「じゃあ、着替えてからな」と言って私が部屋を繋ぐ扉を閉めようとした瞬間、
唯が最後にもう一つだけ私に小さな頼み事をした。
小さな事。でも、私としては結構勇気の居る唯の頼み事……。
少し躊躇ったけど、三つ編みよりはマシかもしれない。
私は頷いてからそれを受け取ると、扉を閉めて梓と一緒に着替えを始めた。
588 :にゃんこ [saga]:2012/06/20(水) 18:03:22.07 ID:WKz3Fjby0


今回はここまでです。
やっと終わり続けるから始まり続ける事が出来るようになったようです。
後もう少し、書き手も頑張ります。
589 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/21(木) 15:45:16.52 ID:XBmRaLSIO
乙!
楽しみにしてます
590 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/21(木) 22:40:12.62 ID:B6lGe8JW0
乙です

どうして二人は別れが近いと感じているのか、自分に読解力が無さ過ぎて悲しい。
学生生活の終わりとかそんな単純なことじゃないんだろうし…

みんなが幸せな結末を迎えられるといいな。
591 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:11:00.98 ID:dCovMAmZ0





五人並んで、ロンドンの街をゆっくりと歩く。
お揃いの水色のワンピースに腕を通して、
自分で言うのも何だけど、何処か古い神学校に通学する女生徒達みたいだ。
仮にも女子大生の身として気恥ずかしい感じもするけど、別に悪い気分じゃなかった。
皆でお揃いの恰好をするのなんて、高校の卒業式以来だ。
久し振りで懐かしくて、何だか嬉しい。
恰好だけじゃなく、皆の心も同じだったら、もっと嬉しいなって私は思う。

ただ同じ恰好をするのはいいんだけど、一つだけ問題があった。
それはやっぱり髪型の事だ。
梓は三つ編みを断らなかった。
普段からまっすぐな長い黒髪を結んでる奴だ。
恥ずかしい髪型ってわけでもないし、三つ編みくらい何でもないんだろうな。
梓の三つ編みは結構似合ってるし、新鮮でいいと思う。
でも、私自身の髪型にはちょっと納得がいってない。

今、私は前髪を下ろして、白い帽子を被っている。
三つ編みを断っちゃった気後れもあって、
唯から受け取った帽子なんだけど、被った後に鏡を見るとどうにも恥ずかしかった。
やっぱり前髪を下ろすのなんて、私には似合わないよな……。
苦し紛れにカチューシャを着けようとすると、それは何故か梓に止められた。
その帽子にカチューシャは似合わないって言うのが、梓の反対理由だった。
いや、まあ、それは私も分からないわけじゃないけどさ……。

仕方が無いから、思い切って前髪を下ろしたままで、
ワンピースに着替えて唯達の前に姿を見せると、唯に笑われてしまった。
私の髪型が笑われたってわけじゃない。
唯は私の被った白い帽子を指差して、くすくす笑った。
唯曰く、「りっちゃん、肉まん被ってるー」との事だ。
いや、この帽子被れっつったのおまえじゃねーかよ……。
怒っていいのか呆れていいのか迷ったから、とりあえず私は唯の頬を軽く抓っておいた。
ちょっと強めにしておいたつもりだったけど、唯は頬を抓られながら何故か笑っていた。
私もそれに釣られて笑ってしまった。
色々と納得いかなくはあるけど、唯がこうして笑ってくれるなら、別にいいのかもしれない。

今、私達が向かっているのは、私達が最初に転移させられた場所……。
私達がロンドンでライブをやったあの公園の広場だった。
向かっているのは、勿論これから五人だけのライブをするためだった。
私と梓は知らなかったんだけど、唯達はライブをするために既に楽器と会場の準備をしていたらしい。
新曲を私達に聴かせたがってた三人だ。
本当なら、もっと早く私達に新曲を聴かせたかったんだろう。
私だって聴きたいし、演奏したいんだから、これから楽器を集める手間が省けて助かった。
どんな楽器を用意してくれてるんだろうって一瞬思ったけど、その考えはすぐに振り払った。
心配する必要は無い。
唯達の事だ。
きっと私と梓にぴったりな楽器を見つけてくれているはずだろう。

そうして、私は歩く。
皆と肩を並べて、五人笑顔で歩いて行く。
私達のライブ会場へ。
前に進んでいくためのライブを開催するために。
大好きな音楽に包まれ、包み合うために。

半分くらいの距離を進んだだろうか。
「あ、そうだ!」と唯が何かを思い出したみたいに小さく叫んだ。
唯の事だから本気で忘れてたんだろう。
私が首を捻って「どうした?」と唯に訊ねてみると、
「ねえ、皆、私ね、ちょっとやっておきたい事があるんだ」って言って、
そのワンピースの何処に仕舞い込んでいたのか、細長くて白い物を取り出した。
一瞬、包帯かと思ったけど、そうじゃなかった。
唯が取り出したのは純白のリボン。
肌触りの良さそうな、優しい感触のリボンだった。
592 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:11:33.83 ID:dCovMAmZ0





何となく目にした公園の隅っこ。
私達は腰を下ろして、肩を並べて、少しだけ微笑む。
私達の手首は純白のリボンで結ばれていた。
繋いでいるわけじゃない。
強く結んでるわけでもない。
軽く……、本当に軽くだけ私達五人の手首は結ばれている。
多分、その事に皆安心出来てる。

まだそんな物に頼ってしまっちゃうのかって、情けなく思わないと言えば嘘になる。
手を結ばなきゃ、安心出来ないのかって。
でも、私達はまだそんなに強くない。
私達のこの世界での物語は始まったばかりなんだ。
皆の絆をずっと信じらていくには、自信も勇気もまだまだ足りない。
いきなり絆だけを信じて生きるなんて、そんな事は出来そうにない。
それに、いきなり身の丈に合わない事をしようとしたって、余計酷い目に遭っちゃうだけだとも思う。
過去を無理矢理に捨てようとした私と梓、
過去を縋り付いてでも守ろうとした唯の姿を鑑みるに、無理をしたってろくな事にはならない。
だから、少しずつ……。
私達は少しずつ前に進んでいくべきなんだ。

今、唯が掛けている眼鏡もそうだった。
五人で手首を結ぶ前に、唯は言っていた。
「眼鏡を掛けてると、和ちゃんが傍に居てくれてる気がするんだ」って。
確かに眼鏡は和のトレードマークだ。
眼鏡で和を連想するのは理に適ってるし、そういう意味で唯も前まで赤い眼鏡を掛けてたんだろう。
赤いアンダーリムの眼鏡……、和の物と同じ種類の眼鏡を。
でも、今の唯はその眼鏡を掛けていなかった。
太い黒縁の古臭い眼鏡。和の眼鏡とは似ても似つかない眼鏡だ。
私がその理由を訊ねるより先に、唯は照れた顔で言葉を続けていた。


「でもね、和ちゃん……、
きっと「そういうのはやめなさい」って言うと思うんだよね……。
和ちゃんが本当に傍に居てくれたら、そういう風に言うと思うんだ……。
「私の事ばかり考えるのはやめなさい」って、きっと……。
でも、私、和ちゃんにはまだ傍に居てほしいし、忘れそうになるのが怖いから……、
だから、この眼鏡なら和ちゃんも許してくれるかも、って思ったんだよね。
和ちゃんは私が頑張るのを待っててくれる子だったから、
のんびりゆっくりでも私が前に進むのを嬉しく思ってる子だったからね……、
だからね……、いつか眼鏡無しでも和ちゃんの事を信じられるために、今は……」


唯が最後まで言う前に、私は唯の手を強く握って頷いた。
強くなろう。皆で少しずつ。
まだ弱くて情けない私達だけど、未来を信じていくために進むんだ。

そうして、五人で肩を並べ、空を見上げる。
右端から、梓、澪、私、唯、ムギの順で手首を繋いで語り合う。
色々な事を語り合っていく。
今まで言えなかった事、隠してた想い、これからの事、色んな事を……。

澪が自分が強がれた理由を告白する。
ムギがほんの少し憶えていた私達の大怪我について語る。
唯が眼鏡だけじゃなく、憂ちゃんと同じ髪型にしていた理由を言う。
梓が私達の手を包帯で繋いでしまった理由を喋る。
私が今まで皆に迷惑を掛けてしまった事を謝罪する。
隠していた想いを、お互いがお互いに伝えていく。
少しずつ、お互いの想いを理解していく。
本当に少しずつ。
だけど、確実に……。
593 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:12:14.50 ID:dCovMAmZ0
ある程度、皆の想いをお互いに伝え終わった頃、梓が静かに独り言みたいに呟いた。


「結局……、この世界って何なんでしょうね……?」


「えっ……?
私の夢……じゃないの?」


唯が首を傾げて梓に訊ねると、梓は苦笑する事でそれを返した。


「いえ、それは多分そうなんでしょうけど、理屈……って言うんでしょうか?
そもそも、どうしてこんな事が起こってしまったのか、って事ですよ、唯先輩。
唯先輩が大怪我をしてしまって私達はそれが悲しくて、
それで私達はこの閉ざされた世界に来る事になりました。
でも、悲しかったからって、それだけでこういう事になるものなんでしょうか?」


「それもそうよね……」


名探偵ムギが口元に手を当てて首を捻る。
ムギはしばらくそうしていたけど、答えは出なかったらしく、困ったように苦笑した。
そりゃそうだ。
ムギは名探偵だけど、こんなの名探偵が解決する事件の範疇じゃないもんな。
と、私は不意に思い出した。
そういえば、この世界の謎について、心当たりがありそうな奴が一人だけ居たって事に。
私はそいつと繋いでいた手に少しだけ力を入れてから、訊ねてみる。


「そういや、澪……」


「どうした?」


「おまえ、この世界の正体について、何か心当たりがあるんじゃないか?
この世界が唯の夢だってのはほぼ確定として、
その原因についても考えがあるっぽいじゃんか」


「いや、確かにあるよ?
ある事にはあるんだけど……、でも、確証があるわけじゃないし、
いい加減な事を言って皆を戸惑わせるわけにもいかないだろ……?」


慎重そうに澪が呟く。
まったく……、人の事には口を出せるくせに、自分の事となると相変わらず気弱だな、澪は。
でも、それは、私も同じ……かな?
やっぱり幼馴染みなんだって事だろうな、私と澪は。
私は苦笑してから、澪と繋いだ手に優しく力を込めてやった。


「いいんだよ、確証が無くたってさ。
そういうのも皆で話して検証して行こうぜ?
違ってたら違ってたでいいじゃんか。
もう今更何が原因でも、ちょっとやそっとじゃ驚かないしさ」


「そうだよ、澪ちゃん!
難しい事は分からないけど、私もこの世界の事についてもっと知りたいよ!」


私に続いて唯が賛同してくれた。
多分、私達の中でこの世界の正体について一番知りたいのは唯だろう。
そもそもの原因が唯の夢なのかもしれないんだもんな。
責任を感じてる所もあるんだろう。
澪もそれは分かってたみたいで、真剣な表情で「分かったよ」と頷いてくれた。
私はその澪の様子に嬉しくなって、つい肩で軽く澪の肩を押してしまっていた。


「ありがとな、澪。
そういや、昨日、この世界についてなのかは知らないけど、何か呟いてたよな?
サンバ……だっけ?」


「サヴァンだ、サヴァン」
594 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:12:41.52 ID:dCovMAmZ0
ボケたつもりはなかったけど、澪に突っ込まれてしまった。
そうか……、サンバじゃなかったのか……。
しかし、何だ、サヴァンっては……?


「サヴァンって……、サヴァン能力の事ですよね?」


そう澪に訊ねたのは梓だった。
梓も意外と色んな事知ってるよな……。
梓も知ってるって事は、そんなにマイナーな言葉ってわけじゃないのかな?
澪は梓の言葉に頷くと、何も分かってない私達三人に説明を始めてくれた。


「サヴァン能力って言うのは、脳に障害を持っていて、
そんな事が出来るはずがないのに、何故か出来てしまう能力の事なんだ。
……って、この説明だけじゃ分かりにくいよな……。
そうだな……、サヴァンって言葉は知らなくても、テレビで見かけた事はあるはずだよ。
確か律と私の家で一緒に何となく観てた番組の特集でもやってたはずだ。
憶えてないか?
漢字を書く事も出来ない人が十桁以上の掛け算を一瞬で解いたり、
会話も出来ない人がピアノを完璧に演奏してしまうってシーンがあったはずだけど……」


あー……、何となく憶えてる気がするな。
アンビリーバブル的な番組だったはずだ、多分。
私、あの番組はホラーとファニーが好きだから、その辺真面目に観てないんだよな……。
でも、一応、澪とそういう番組を観てたって記憶はある。
その特集の中では、会話もままならない人が確かに私達よりも完璧な演奏を見せていた。
あんまりにも上手かったから何か悔しかった事だけはちょっと憶えてる。
でも、そのサヴァンってのが、この世界と何の関係があるって言うんだろうか?
私がそれを訊ねると、澪はまた丁寧な説明を続ける。


「サヴァン能力ってのは、大概が生まれつき身に着けているものって思われてたらしい。
でも、それは単に後天的に脳に障害を持つ事が少なかったから、そう思われてたってだけみたいなんだ。
サヴァン能力みたいな物を後天的に身に着ける人もいるそうだ。
サヴァン能力の原因については諸説入り乱れてるみたいだけど、
今の所有力な説は脳の再配置ってやつが原因だって前に本で読んだ事があるよ」


「脳の再配置と言えば、幻肢痛の原因とも言われてる現象ですよね?」


そう訊ねたのはまた梓だった。
本当に博学な奴だな、こいつは……。
澪はよく本を読む奴だからいいとしても、梓は何処でそんな知識を仕入れてるんだ?
あー、ひょっとするとインターネットか?
梓の奴、ネットは結構やってるみたいだから、その辺から仕入れてるのかもな。
まあ、今はそんな事はどうでもいいか。
私は苦笑してから、澪に訊ねる。
595 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:13:08.00 ID:dCovMAmZ0
「で、その再配置が何だって言うんだよ?」


「詳しい説明は省くけどさ、要は弱点を補うために別の所が成長するって事かな。
律には漫画的な説明の方が分かりやすいかもしれないな。
たまに見かけると思うけど、盲目の武術の達人を連想してもらえれば分かりやすいと思う。
律がよく読む漫画にはそんな登場人物って結構出て来るだろ?」


「いや……、そんなに格闘漫画ばっかり読んでるわけじゃないんだが……。
でも、まあ、確かに居るな。
うん、思い出してみただけで、結構居るよ、盲目の武術の達人」


「だろ?
実はあれには科学的な根拠もあるらしいんだ。
視覚を失う事で、元々視覚のために使っていた脳を、
聴覚とか嗅覚とか別の機能に使えるようになる事もあるらしいんだよ。
それが脳の再配置……、ここまでは分かってくれたか?」


「まあ、何となく……。
つまり、失った何かを補うために、一点集中で違う何かを伸ばすって事……でいいのか?」


「大体、そう考えてもらって間違いないかな。
さっきも言ったけど、サヴァン能力もその脳の再配置が原因らしい。
会話をする能力が無い代わりに天才的な音楽の才能を持ったり、
数字の計算が出来ない代わりに写実的で完璧な絵画を描けるようになったり……、
とにかくそれがサヴァン能力なんだよ。

……何かに似てると思わないか?」


「ひょっとして……」


澪の問い掛けに、ムギが神妙な表情で呟いた。
ムギが呟いてくれたおかげで、私もムギが何を言いたいのか気付けた。
私達の中で一番、私達の怪我の事を憶えているムギ。
そのムギが誰よりも先に気付くって事は……。
躊躇いながら、ムギが言葉を続ける


「唯ちゃんの……、頭の大怪我……?」


何処か悲しそうなムギに向けて、「ああ」と澪は頷いた。
澪も少し悲しそうだったけど、それでも言葉を続けてくれた。


「まだはっきりと思い出せてるわけじゃない。
でも、元の世界では、確か唯は頭に大怪我を負って、その日から眠り続けるようになった。
植物状態ってわけじゃないけど、何故か目を覚まさなくなったはずだ。
多分、脳の何処かに障害が出たんだと思う。
それで目を覚ます事が難しくなったんだ……」


「……唯が目を覚まさなかったのは、私も何となく憶えてるよ、澪。
でも、それとこの世界に何の関係があるって言うんだ……?」


私が訊ねると、澪は少し溜息を吐いた。
どうやらそこから先の推論には自信が無いみたいだ。
それでも、澪は私の瞳を見つめて言ってくれた。
596 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:13:38.05 ID:dCovMAmZ0
「ここから先の推論は科学的と言うより、SFの範疇になるんだ。
あくまでそういう考え方も出来るって前提で聞いてほしい。

……脳波くらいは皆知ってるよな?
詳しくは違うんだろうけど、簡単に言えば人間の脳に流れてる電気の事だよ。
電波って言ってもいいかもしれない。
とにかく、人間の脳も電気と電波で動いてるんだ。
脳からの指令は弱い電気信号で全身に伝えられてるのは、もう常識レベルの話だしさ。
当然の話だけど、その電気信号はその人固有の物で、他の誰かに影響を与える事は無い。
そう考えられてる。

でも、本当にそうなのかな?
何らかの原因で強い脳波を発せるようになれば、
誰かの脳にも影響を与えられるようになるとは考えられないか?
例えば脳に障害を負って眠り続けるようになってしまって、
誰とも喋る事も触れ合うも出来なくなってしまったけど、
その代わりに別のコミュニケーションの方法として、
近い脳波を持つ他人を自分の夢の中に引きこめるようになった……、そんな感じにさ」


「じゃあさ……、澪。
つまり、この世界は本当の意味で……」


「ああ、夢なんだよ、本当の意味で。
正確に言うと、私達が唯の夢の中に入り込んでるわけじゃない。
唯の脳波の影響で、同じ夢を五人とも同時に見てるんだよ。
元の世界での私達は、傍から見ていると唯と同じく眠り続けてるように見えるはずだ。
それがきっとこの世界の正体なんだと私は思う」


夢……。
本当の意味での夢……か。
簡単には信じられる話じゃなかったけど、心の何処かでは納得していた。
澪の推論が正しいとは限らないけれど、そう考えれば全ての説明が出来る気がした。
そう考えれば……、って、あれ?
そういや、一つだけちょっと分からない所があったな。
それを私が訊ねるより先に、梓が小さな声で澪に私が考えていたのと同じ事を訊ねていた。


「近い脳波……って言うのは、何なんですか、澪先輩?」


「そうだな……。
これも私の勝手な推論なんだけど、
この夢は唯が無意識に選んだ人しか入れないって思うんだ。
私達以外には他に誰も居ないわけだし、
無差別に他人を夢の中に引き込めてるようには見えないだろ?
だから、脳波か、感情か、想いか、どれかは分からないけど、
そのどれかが唯と近い他人しか、この世界には来れないんだと私は思う。
例えば……、唯ともう一度話をしたくて耐えられなかった、私達とか……さ」
597 :にゃんこ [saga]:2012/06/22(金) 18:16:32.55 ID:dCovMAmZ0


今回はここまでです。
サンバじゃなかったのか…。
あと三、四回の投下で終われるかもです。
またよろしくお願いします。
598 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/23(土) 12:57:14.27 ID:hH2s1uU0o
乙でしたー
599 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長野県) [sage]:2012/06/23(土) 20:03:44.83 ID:M8ZWKRh/o
乙乙
600 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/24(日) 02:18:19.37 ID:gL31pT6DO
乙です。とても素晴らしい良いお話ですね。もう少しで終わってしまうそうですが最後まで応援させていただきます。
601 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:44:38.99 ID:zgF1iagU0
澪の言う通りだと思った。
そうだ。唯が無意識に望んだからってだけじゃない。
私達も望んだから、私達はこの世界に来る事になったんだ。
この世界は唯の夢ってだけじゃなく、私達の夢の姿でもあるんだ。
だけど、そこで梓が珍しく澪に食い下がった。
まだ納得出来てない事があるらしい。


「唯先輩ともう一度話をしたかったっていうのは、分かります。
私だって、唯先輩が目を覚まさなかった事は……、凄く辛かった憶えがありますから……。
でも、澪先輩……、それなら、もっと他にこの世界に来るべき……、
いいえ、残るべきだった子が居るって思いませんか?」


「憂ちゃん……だな……」


澪が梓の言葉に頷きながら呟く。
それは澪も考えてなくはなかったらしい。
梓の疑問はもっともだった。
順位を考えるなんて馬鹿馬鹿しいけど、
でも、世界中を見渡してみて、唯の事を一番考えてるのは憂ちゃんのはずだ。
それに私達よりも、唯の家族の方が唯とまた話をしたがってるのも間違いない。
だとしたら、どうして憂ちゃんはこの世界に残っていないんだろうか……?

澪は皆の顔を見渡してから、続けた。
この世界に怯えてたからこそ、見つけられた答えを伝えてくれた。


「さっき言ったけど、そこはまた脳波が原因じゃないかって思うんだよ、梓。
皆は知ってるか?
傍で共同作業をしている人間の脳波は、いつの間にか似通って来るらしいんだ。
軽音部でさ、皆が活動している内に、皆の脳波が近くなってたとは考えられないかな?」


「それは……、喜んだらいいのか、悲しいんだらいいのか、何とも言えないな……」


私が呟くと、話を黙って聞いていた唯が頬を膨らませた。
私の発言に納得がいかなかったらしい。


「ええー……、皆の気持ちが一緒になるって素敵な事だよー?
りっちゃんはそれが嬉しくないのー……?」


「それは確かに素敵な事だと思うんだが……、
知らず知らずの内に私の脳波が唯の脳波に近付いちゃってたってのがなー……。
何か色んな日常生活に支障がありそうじゃん」


「何それー……。
ひどいよ、りっちゃん……」


唯がちょっと悲しそうに視線を伏せる。
私は苦笑して、リボンで結んだままの手で唯の頭を撫でて言ってやった。


「冗談だよ、唯。
それが今のこの世界に来る事になったきっかけになったんなら、私だって嬉しいよ。
私……、おまえと話したい事がいっぱい残ってたんだからさ」


「りっちゃん……」


「まあ、唯と考え方が似通っちゃうってのは、勘弁だけどな!」


「りっちゃんたら、もーっ……!」


「私も唯先輩の脳波に近付いちゃうのはちょっと……」


「あずにゃんまでー!」
602 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:45:06.10 ID:zgF1iagU0
私と梓の波状攻撃に唯は拗ねたみたいになりながらも、笑ってくれていた。
やり方はちょっとずるかったけど、唯には笑っていてほしかった。
澪の推論が正しければ、私達は夢の中とは言え、
目を覚まさなかった唯とやっと再会出来たって事なんだ。
せめて唯には笑っていてほしいし、私だって笑っていてやりたい。

私達のやり取りを見ていて肩の力が抜けたんだろう。
澪がちょっと呆れたみたいな表情を浮かべて、でも少しだけ笑いながら続けた。


「脳波と思考回路はほとんど関係ないらしいから心配するな。
まあ、ずっと一緒に居たから、皆の考え方が似通って来たってのは否定しないけどさ。
でも、多分、そういう事なんだろうと思うよ。
私達はいつの間にか似た脳波を持つようになってたんだ。
血の繋がった妹の憂ちゃんより、幼馴染みの和よりもずっと近い脳波を……。
そう考えるのには、もう一つ理由があるんだ。それは……」


「音楽……だよね?」


ムギが微笑みながら澪に訊ねる。
澪はちょっとだけ驚いた顔を浮かべたけど、すぐに頷いた。


「ああ、ムギの言う通りだ。音楽だよ。
私、この夢のそもそもの根本には、音楽が関係してる気がするんだよ。
皆……、思い出したくもないだろうけど、
和達が私達の前から消えた時の事を思い出してくれないか?
あの時……、私達は何をしようとしてた?」


「……ライブだ。
そうだよ、ライブだよ。あの時、私達はライブをしようとしてたんだ……。
音楽を……、始めようとしてた……」


思い出しながら私は呟く。
その後に起こった事のせいで、すっかり忘れちゃってたみたいだ。
私達がライブをしようとした時に、和達の姿が消えてしまったって事を。
私が続けるより先に、私の言葉はムギが継いでくれた。


「ねえ、澪ちゃん……?
傍で同じ行動をしてると皆の脳波が似通って来るんだよね……?
だったら、ただ部活をするよりも、もっと皆の脳波が近付ける事があるよね?
私達だからこそ、そうなる原因がある……よね?」


「ああ、ムギの言う通りだよ。
そう。セッションだ。
セッションをしてる時、私達の脳波や想いは物凄く近くなってたと思う。
それこそ、血を分けた家族よりも気持ちを共有してたんだ。
音楽にはそういう力があるんだって私は思う。

ロンドンに転移させられる直前、私達はライブをしようとしてた。
演奏しようとしてたのは律達のバンドだったけど、
私達だって律達の演奏の後で新曲を披露するつもりだった。
多分、五人とも、今まで何度も重ねた五人での演奏の事を考えてたはずだ。
皆の想いがライブに向けて共鳴してたんだ。
それで……」


「一緒に新バンドを組んではいたけど、
まだ私達ほど脳波が近いわけじゃない純達がこの世界から弾かれた……って事でしょうか」
603 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:45:32.90 ID:zgF1iagU0
梓が少し辛そうに呟いて、澪がその梓の頭を軽く撫でた。
その行為は梓の言葉が間違ってない事を意味しているみたいだった。
数秒くらい撫でてから、また澪が静かに続ける。


「梓の言う通りだと私も思う。
これも私の推測でしかないんだけど、
唯は一番最初、唯と一緒に怪我をした皆を夢の世界に引き込んだんだと思う。
怪我をして辛い、悲しい、唯とまた話をしたい、って思ってた七人を。
でも、ライブをする事になって、唯はライブの事を一番に考えるようになった。
辛さや悲しさより、ライブの高揚感に目を向けるようになった。
それで、その高揚感が最大限に膨らんだライブ当日……、
唯の脳波はこれまで一緒にライブをして来た私達四人を優先したんだ。
憂ちゃん、純ちゃん、和の三人は私達とライブをした事があったわけじゃない。
脳波も私達とそれほど似通ってるわけでもなかった。
だから、多分、自分でも無意識の内に、
唯は自分の脳波と遠くなった三人を、この夢の世界から弾き飛ばしたんだと思う。
それであの三人は私達の前から姿を消す事になったんだ……」


「それじゃ、憂達は……」


唯が呻くように、独り言みたいに呟いた。
澪も辛そうな表情を浮かべながら、それでも言葉を続けた。


「こればかりは分からないけど、三人は元の世界に戻ってるんじゃないかな……。
この夢の世界から覚めて、元の世界で眠り続ける私達の姿を見てるんだと思う。
勿論、これも私の勝手な推測でしかないけど、でも……」


「よかった……」


「えっ?」


「よかった……! 本当によかったよう……!」


一筋の涙を流しながら、そう言って唯は笑った。
予想外に眩しい笑顔。
唯がそんな表情をするとは思ってなかったみたいで、澪が不思議そうな表情で訊ねる。


「よかった……のか、唯……?」


「よかったに決まってるよ!
だって……、だって、澪ちゃんの言う通りなら、
憂も和ちゃんも純ちゃんも元の世界で元気にしてくれてるんだよ?
こんなに嬉しい事なんて無いよ!」


唯がまた涙を流す。
止まる事の無い、長い長い涙……。
でも、同時に浮かべる笑顔は眩しくて、私は唯の頭をまた撫でていた。
そうだ……、そうだよな……。
澪の言葉が全面的に正しいって決まったわけじゃない。
それでも、元の世界で三人が元気で過ごしてる可能性は高いんだ。
それなら、私達はもっと喜んだっていいんだ……!
今は傍に居なくたって……!
私は自分も泣きそうになるのを感じながら、だけど、泣かずに唯の頭を撫で続けた。
今は唯こそが泣いていい時。
私達はそんな唯を見守ってやる時なんだから……。

三分くらい泣いていただろうか、
涙を止めた唯が照れ笑いを浮かべながら言った。
604 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:46:00.55 ID:zgF1iagU0
「ごめんね、皆……。
私、いっぱいいっぱい泣いちゃって……」


「いいよ、唯。
大体、おまえ結構泣き虫なくせに、この世界に来てからは全然泣かなかったじゃんか。
まったく……、無理すんなっての。気が済むまで泣いててくれていいよ」


「えっ……へへ……、恥ずかしいな……。
でも……、りっちゃんとあずにゃんだって泣き虫さんでしょ……?
二人でずっと泣いてたんだよね……?」


「な、何を証拠にっ?」


「だって、二人ともお風呂上がりなのに、まだ目の周りが赤いよー?」


「こっ……、これはだなあ……」


言い訳しながら、梓と二人で顔を見合わせる。
誤魔化せるかと思ってたけど、やっぱりよく見ると梓は目の周りを泣き腫らしていた。
多分、私の目の周りも似た感じになってるんだろう。
泣く事が悪いわけじゃないんだけど、梓と二人で泣いてたってバレてるのは何か凄く恥ずかしい。
あー……、何かムギと澪から妙な視線を感じる気がするー……!
私は咳払いをしてから、どうにか話題を変えてみせる。


「そ、そういや、サヴァンで思い出したんだけどさー……」


「え、何々? 何を思い出したの、りっちゃん?」


よし、空気を読んでくれたのか、
純粋に興味があったのか、とにかくムギが食い付いてくれた。
私は必死に思い出した事を口に出して話を誤魔化す。


「脳にダメージがあって特殊能力が目覚めるって、トレパネーションみたいだよな」


「トレパネーション……?
それは知らないな……」


澪が不思議そうに呟く。
お、妙に色んな事を知ってる澪も、トレパネーションまでは知らなかったみたいだ。
何も言わないのを見ると、どうやら梓も知らないらしいな。
皆の豊富な知識に圧倒されるしかなかった私だけに、この状況はちょっと嬉しかった。
私は少しだけ得意になって話を続けてやる。


「私も漫画で読んで知ってるだけなんだけどさ、
トレパネーションってのは頭蓋骨に穴を空けて脳に影響を……」


「ギャーッ!!」


そう叫んだのはやっぱりと言うか何と言うか澪だった。
色んな恐怖に耐えられるようになった澪だけど、痛い話はまだ苦手らしい。
何か落ち着くな……。


「痛い話はやめてくれー……!」


言いながら、私と梓と結ばれてる手を使って、澪が自分の耳を塞いだ。
脳に痛覚は無いから痛くないらしいぞ。
って、雑学を披露するのはやめておいた。
まあ、そういう問題じゃないしな……。
澪は放置しておいて、とりあえず私は説明を続ける事にする。
605 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:46:39.03 ID:zgF1iagU0
「何かよく分からないんだけど、頭蓋骨に穴を空けて風通しをよくしたら、
脳にその風の影響があって、変な能力が目覚める事があるんだってさ。
その漫画じゃ他人が皆変な生き物みたいに見えるようになってたんだけど……。
まあ、それはともかく、つまりトレパネーションってのは、
人工的に脳の再配置を行わせるための手術だったんだなって、そう思っただけだよ。
ほら、もう話終わったから、耳を塞いでなくて大丈夫だぞ、澪」


私は自分の腕に力を込めて、澪の手を膝の上に戻らせる。
澪はまだ泣きそうな顔をしながら、まだまだ不安そうな声色で呟いた。


「……本当?」


「嘘吐いてどうするんだっての。
単に私が前読んだ漫画の話を例えに話してみただけだよ。
ほら、私の家にあったろ?
春子に借りてそのままにしてたら、おまえが開いてすぐに閉じたあの漫画の話だよ。
まあ、絵柄が怖かったから、すぐに閉じたんだろうけどさ」


「漫画……?」


「そうだ、漫画だ。
漫画の話なんだから、そんなに怖がる必要なんてないんだっつーの。
おまえもさ、ホラー映画は勘弁してやるとしても、
いい加減、ホラーチックな漫画くらいは読めるようになろうぜ……」


私がちょっと呆れて言ってやると、何故か澪が少しだけ笑った。
笑える事は言ってなかったはずなんだが……。
私が首を捻って唯達と顔を見合わせてみたけど、皆も不思議そうな顔を浮かべてるみたいだった。
仕方が無いから、とりあえず澪に訊ねてみる事にする。


「どうしたんだよ、澪?
私、何か面白い事言ったっけか?」


「いや……、そうじゃないんだけどさ……。
今、律が漫画の話を例にしたんだろ?
実はさ……、私も同じなんだよ。
私の方は漫画じゃなくて小説なんだけど、
結局、私はその小説で得た知識で、この世界についての仮説を組み立ててみただけなんだよな。
自分で言うのも何なんだけどさ……、ベタな設定だと思わないか?」


話し終わると、また澪が一人で小さく笑い出した。
よっぽど笑いのツボにはまってしまったんだろう。
でも、確かに澪の言う通りだよなー……。
ベタだ。確かにすっげーベタだ。
生き物が存在しない世界の正体……、それは皆が見ていた夢だった!
なんて、手垢が付き過ぎてて、今更小説で取り上げる気も起きない題材だよ……。
宇宙人とか異世界とか三途の川とか電脳世界とか終末の後とか、
ああでもないこうでもないと色々悩んじゃってた私達が馬鹿みたいだ。


「ホントですよね」


「ベタベタだよね」


澪の言葉に続いて、梓とムギが呟いてから苦笑を始める。
澪の仮定を馬鹿にしてるわけじゃない。
唯だけ皆がどうして苦笑してるのか分かってないみたいで、複雑な表情で首を捻っていた。
私も苦笑して、唯の首に腕を回しながら丁寧に説明してやる。


「ホントにベタな設定に付き合わせてくれたもんだなー、唯」


「ええぅっ? 私っ?」
606 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:47:36.35 ID:zgF1iagU0
「ええぅっ? 私っ?」


「そうだぞ、唯。
この世界が出来た根本原因は多分おまえだろ?
今時、こんなベタな設定に巻き込むとか、ありきたり過ぎて呆れて来るわ!
だから、皆、苦笑いしちゃってんだぜ?」


「わ、私のせい……だけど、私のせいじゃないよう……。
やりたくてやってるわけじゃないよ……。
でも……、えっと……、ご……ごめん……?」


唯が戸惑った表情で呟いて、私と結ばれてる手で頬を掻く。
理不尽な言い掛かりではあるけど、強く否定し切れないくらいに責任を感じているんだろう。
これ以上からかってやるのも可哀想だ。
私は頭を近付けて、唯の耳元で柔らかく囁いた。


「いいんだよ、唯」


「えっ……?」


「ベタでもありきたりでも何でも、いいんだ。
どんな手段でも、どんな方法でも、私達はもう一度おまえとこうして出会えた。
出会えて、触れ合えて、話せてる。
それは……、すっげー嬉しい事だよ……。
無意識ででもさ、私達の願いを叶えてくれて、ありがとうな……」


「で、でもでも……、そのせいで皆も夢の世界に……」


「それは言いっこなしです!」


梓が真剣な表情になって叫ぶ。
それは唯の事を心の底から大切に思ってるからこそ出せる表情だった。


「この世界に来たのは、私達の意志でもあるんです!
唯先輩だけの責任じゃありません!
もし責任を感じてるんだったら、謝るより先に見つけて下さい!」


「見つけるって……?」


「おまえも目を覚ます方法だよ、唯。
私達だけじゃない。おまえも一緒に目を覚ますんだ、唯」


澪が何度も頷きながら言った後、力強く頼り甲斐のある顔で笑った。
澪はもう決心してるんだ。
これから皆がこの世界でバラバラになったとしても、決して諦めないんだって。
皆で戻れる方法を探してみせるんだって。
そんな力強さを持って、澪が続ける。


「まだ具体的な方法が分かってるわけじゃない。
でも、きっと出来るはずだって私は信じてる。
大体、他人を自分の夢の中に引き込むなんて凄い能力だよ、唯。
その能力を上手く応用すれば、おまえ自身が目を覚ます事だって難しくないはずだよ」


「そう……なのかな……?」


「ああ、大丈夫だ。大丈夫だって信じてくれ。
大体、唯は元々頭で考えるタイプじゃないだろ?
全身で世界を感じて、全身で生きていくタイプだろ?
ちょっとばかり頭にダメージがあったって、唯なら大丈夫だよ」


「えー……、その言い方は酷いよ、澪ちゃん……」
607 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:48:16.40 ID:zgF1iagU0
唯は頬を膨らませて言ったけど、その目は笑っていた。
澪も少しだけ笑っていた。
まあ、それは冗談だけど、と前置きしてから、澪がまた喋り始めた。


「全身で生きてるってのは本気での言葉だよ、唯。
人間はさ、脳からの指令だけで生きてるわけじゃない。
身体中で色んな事を感じて、身体中に色んな事を記憶してるんだ。

『ドナーの記憶』って知ってるか?
嘘か真か、臓器移植した患者がドナーの記憶を夢に見る事があるらしいんだ。
つまり、人間は脳だけじゃなくて、全身で色んな物を考えてるって事なんだよ。
おまえが目覚めるためにはいくらでも……、方法はある。
私はそう信じてるんだ」


「私達もその方法を探すの手伝うから!
それまで私、絶対絶対! 元の世界に戻らないからね!」


叫んだのはムギだった。
眉を吊り上げ、誰とも結ばれてない方の手を握り締める。
心強いな、と私は思った。
本気になってくれたムギの姿は、どんな時だって本当に心強い。
私ですらそうなんだから、唯の心強さは私の何倍になるんだろうな……。


「そういうこった」


私はそう言って、唯の頭をくしゃくしゃに撫でてやる。
唯は瞳を俯かせて、震える声で、それでも最後まで言った。


「皆……、ありが……とう。
私……、見つけるから……、皆と元の世界に戻れる方法……、絶対……。
あり……、ありがとう……!」


そうして、皆でまた結んだ手を繋ぎ合った。
この温かさと想いを忘れないために。
遠く離れる事になったって、また傍に居たいと思い続けられるために。
口約束はしない。
強制もしない。
昔みたいに、自分達の意志で自分達のした事をした結果、
皆で集まれて、皆で笑顔を向け合えるようになるために……。
私達は音楽で結ばれた仲間。
音楽の絆のせいでこの世界に閉じ込められて苦しんで、
それでも、皆の傍に居れて嬉しかったし、前に進めるようになった。
願わくはこの夢から目を覚ました時も、皆でこの絆を感じられていられますように。
この世界での思い出が、夢みたいに何処かに消え去ってしまうとしても……。
608 :にゃんこ [saga]:2012/06/24(日) 17:49:22.84 ID:zgF1iagU0


今夜はここまでです。
いつもありがとうございます。
そろそろ最後の展開に入ります。
609 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/24(日) 21:18:57.01 ID:gL31pT6DO
乙です。
律唯梓澪紬の友情、絆の強さが凄く伝わって来ました。
610 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/06/25(月) 09:38:48.04 ID:D/3aaKuko
和ちゃんたちがいなくなった理由が感動しました
演奏するとその人の事まるわかりですしホントに
611 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:27:09.07 ID:1YUM5IIB0





色んな話を重ねた。
多くの想いを交わした。
繋いでいるんじゃなくて、結び合った手を重ねながら、私達は誓い合う。
ただ傍に居る事じゃなくて、傍に居たいって一人でもずっと思い続ける事を。
仲間を大切に思い続けるって事を。

話は尽きなかったけど、尽きさせたくなかったけど、
それでも、いつまでもこうしてるわけにもいかなかった。
不意に少しだけ会話が途切れた時、梓が静かにリボンを解き始めた。


「もう……、いいのか……?」


少し残念そうに、澪が梓に訊ねる。
心を強く持っている澪だって、まだこうしていたいって気持ちはあるんだろう。
私にだって、勿論ある。
唯とムギ、梓にだってあるだろう。
手を繋ぎ合ってるのは、絆を感じられて、凄く安心出来る事には違いないんだから……。

だけど、梓はゆっくり頷いたんだ。
寂しそうでも、少し口の端で微笑みながら。


「はい……!
もう……、大丈夫です。ありがとう……ございました!」


力強い意志のこもった言葉。
梓は決めたんだ。
一瞬だけの安心や温かさに頼らず、長い孤独の中でも未来を信じて歩いていく事を。
後輩の梓にそんな事をされてしまったら、先輩の私達としても負けているわけにはいかない。
皆で頷き合うと、一斉に手首のリボンを解いてやった。
不安、恐怖、後悔、そんな感情が一瞬だけ私の心の中に生まれる。
離れていく事は、やっぱり怖い。
一人で多くの恐怖に耐えながら生きていけるほど、私は強くない。

でも、私はそれを笑い飛ばしてやった。
一人を怖がっているのは私だけじゃない。
卒業で離れ離れになって、ずっと怖がっていたのは皆も同じだったんだ。
皆だって、誰だって、見えない未来に不安を抱いてるのは同じなんだ。
この世界に来る事になって、それだけはよく分かったから。
自分や皆の不安や恐怖に嫌でも目を向ける事が出来たから……。
だから、きっと大丈夫。
私も、皆も、大丈夫なんだ。
結局、私達は自分の中の不安や恐怖から逃げ出す事は出来ない。
逃げ出せないんだったら、それを抱えながら生きてやるだけだ。
この先に何が待ってるとしたって、笑いながら生きてやろう。
未来、一人っきりで生きる事になったとしたって、
私達が生きて来た思い出を皆が憶えていてくれるって、私は思えるから。
笑顔で生きていける、きっと。

一斉に立ち上がり、皆で顔を見合わせる。
皆、微笑んでいた。
不安や恐怖や後悔を抱えながら、それでも。
未来を、信じて。

不意に。
一陣の強い風が吹いた。
目を閉じたくなるくらいのとても強い風。
でも、私達は目を閉じない。
手も繋がず、肩も寄せ合わず、自分だけの足で立って、ただ自分の想いを信じる。
そして、皆でリボンを持った腕を掲げる。
リボンを風に靡かせて、強い風を手の中に感じて……、
その手を、皆で同時に放した。
612 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:27:35.17 ID:1YUM5IIB0
リボンが風に乗り、空に舞い上がる。
リボンが宙を舞う。
私達を繋いでいた物、結んでくれていた物が飛んでいく。
繋がれていた私達の心を解放していく。
残されたのは私達の孤独で自由な心。
何処までも不安と隣り合わせの心。
でも、それでよかった。
私達はこれまで自分達の心を雁字搦めに縛っていた。
皆と傍に居なきゃいけないって強迫観念に囚われていた。
それで自分だけじゃなく、皆の心まで雁字搦めに縛ってしまっていたんだ。
だけど、そんなの……、孤独よりももっと酷くて悲しい事だ。
私達は自由になって、自由にさせるべきなんだ、皆の心を。

宙に舞ったリボンを目で追えなくなった頃、
唯が軽く微笑みながら、また突拍子も無い事を言った。


「ねえ、皆……。
ライブ会場まで走らない?」


「走る……って、唯、おまえ、体調は……?」


私が訊ねてみると、唯は軽く首を横に振って続けた。
その瞳には強い想いが宿ってるように見えた。


「身体の調子なら大丈夫だよ?
澪ちゃん達のおかげで結構休ませてもらったもんね。
勿論、危ないと思ったらすぐに走るのやめるよ。
何だかね……、今とっても走りたい気分なんだ。
駄目……?」


駄目なわけなかった。
実を言うと、私だって今すぐにでも走り出したい気分だった。
自分でも自分の中の想いが掴み切れてない。
でも、走りたかったんだ、どうしても。

私は自分のわけの分からない衝動に苦笑しながら、澪、ムギ、梓の順で視線を交わしてみる。
三人とも苦笑しながら、多分、私と唯と同じ想いを抱いてるみたいだった。
私はまたもうちょっとだけ苦笑してから、唯の頭に軽く手を置いて言った。


「いいんじゃないか?
私もちょっと久々に走ってやりたい気分だったからさ。
でもさ、走るのがちょっとでも辛くなったら、すぐに言えよ?
別に急がなきゃいけない用事ってわけでもないんだからな」


「うんっ!
ありがとう、りっちゃん、皆!
じゃあ、早速……、
よーい……、ドン!」


言い様、唯が勢いよく飛び出して行った。
まあ、ゆっくり追い掛けるか、とか思っていたら、
既に結構先に行っていた唯がとんでもない事を言い出しやがった。
613 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:28:03.37 ID:1YUM5IIB0
「最下位の人は一週間料理当番ねー!」


「ちょっ……! おま……、ずるっ!」


唯の言葉に驚いた私から、澪、ムギ、梓の順で唯の後を追い掛け始める。
唯はそう足が速いわけじゃないし、体力もそう無いから、すぐに追い付けるはずだ。
料理が嫌いなわけじゃないけど、流石に一週間の料理当番は面倒臭い。
これは言い出しっぺの唯に涙を呑んでもらう事にしよう。
……あれ?
となると、もし唯が最下位になったら、
これからの一週間、私達は唯の料理を食べ続けなきゃいけないわけか?
それはそれで微妙な感じだな……。
まあ、唯の料理は外見は悪いけど、不味いわけじゃないから別にいいか……?

唯の足は予想以上に遅かった。
私達四人はすぐに唯と肩を並べる事が出来た。
このまま抜き去るべきかどうか迷っていたら、ちょっと驚いた。
横目に見た唯が満面の笑顔を浮かべていたからだ。
楽しそうに、嬉しそうに、もうすぐ抜かれそうだってのに眩しいくらいの笑顔で。
唯は、走っていた。

私は思わず丁度隣に走っていた梓に視線を向けてみる。
梓も面食らった表情をしてたけど、すぐに唯と同じくらい眩しい笑顔になった。
少し離れた距離でムギと澪のペースがちょっと落ちてるのを見ると、
二人ともいつの間にか笑顔になっちゃってるみたいだ。
まったく……、こいつらは何がそんなに面白いんだか……。
そう思いながらも、私もいつの間にか自分で気付けるくらい満面の笑顔になってた。


「あ……、ははっ。
あははっ。あははははははっ!」


声を上げて大声で笑い始めてしまう。
唯も澪もムギも梓も大声で笑い始めていた。
何がそんなに面白いのかは分からないし、自分でもどうかしてると思う。
だけど、確かに嬉しかった。
心の中の不安や恐怖はまだ全然消えてない。
喉元に引っ掛かった魚の小骨みたいに、気になり続けてる。
それでも、そんなのよりずっと嬉しい気持ちが私達を笑顔にさせていた。
私達は本当は一人でも、いつか一人になったとしても、
こうして皆で居られた時間は確かに存在してたんだって、そう思うと嬉しくなるんだ。
私達の時間は確かにあったし、あるし、これからもあるかもしれないんだ。
614 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:28:57.27 ID:1YUM5IIB0
信じよう、と思った。
実は私が梓の想いを受け入れられなかったのは、もう一つだけ理由がある。
それには気付いてるだろうけど、梓もそれについては触れなかった。
触れるべき事なのかどうかは、私にも分からなかった。

私が梓を抱き締められなかったもう一つの理由……。
それはこの夢の世界から目覚められた後の話だ。
きっと私達はいつか目覚められる。
どんな形であれ、和達みたいに元の世界に戻る事が出来るだろう。
重要なのは元の世界に戻った後での話だ。
私は思うんだ。
元の世界に戻った時、私達はこの夢の世界での事を憶えてるんだろうかって。

この世界は唯……というか、私達全員が同時に見ている夢だ。
夢の世界での出来事なんだ。
今は勿論、鮮明に憶えてるし、自分の意志で色んな事を考えられる。
だけど、その記憶や想いがどうなるのかは、目覚めてみるまで分からない。
この世界で考えた事や思い出が、何もかも無かった事になっちゃうかもしれない。
むしろその可能性の方が高いんじゃないかなって思う。

そんな状態で、梓と恋人みたいな関係になる事なんて出来なかった。
例えばそれは、いくらでもやり直せるからって、
気に入らない展開になったゲームをロードして再開するみたいなものだった。
この世界で梓と恋人になって慰め合って、
目覚めた後で何も憶えてないなんて悲しいじゃないか。
私の想いも、梓の想いも、何もかも無駄になっちゃうじゃないか。
それ以上に、無かった事に出来るかもしれないって現状に甘えたくなかった。
無かった事に出来るから、とりあえず梓を抱き締めておくなんて事は、絶対にしたくなかった。
だからこそ、梓と恋人になるにしろ、元の先輩後輩に戻るにしろ、それは目覚めた後での話にしたいんだ。
私は一度きりの人生を生きてるし、一度きりの人生を生きてたい。
ゲームみたいにやり直せる人生なんて、自分にも梓にも失礼で残酷でしかないから。
だから、きっと梓も「忘れないで」と言ったんだろう、と思う。
この世界での出来事が夢みたいに消えてしまうかもしれないから……。

でも、信じる。未来ってやつを信じてみせる。
全部は無理にしたって、私達は少しでもこの世界での出来事を憶えてられるはずだって。
確かにあったこの時間、この想いを憶えててやるんだって。
絶対に……。


「うわあああああああああああっ!」


いつの間にか私は走りながら大きな声で叫んでいた。
それは不安や恐怖からの叫びでもあったけれど、未来に対する決意からの叫びでもあった。
忘れたくない。忘れてやらない。
私はこの世界での想いや記憶、皆との思い出、梓がぶつけてくれた想いを忘れない。
そして、絶対に唯と一緒に元の世界に戻るんだ……!
その意志を込めて、私は大声で叫んだ。

気付けば、私に倣って唯達も大きな声で叫んでいた。
世界に向けて、皆に向けて、自分に向けて。
きっと多くの不安を抱えながら、だけど、私も含めた全員が笑顔で。
未来を信じるために、私達は叫びながら走ってやった。
615 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:29:48.54 ID:1YUM5IIB0





最初に転移させられた広場に辿り着いた時、正直、私は驚いた。
会場自体は雨よけに建てられたテントの中に、
レジャーシートを敷いただけの物だったけど、それはそれで十分だった。
私達は別にそんなに豪華なライブをやりたいわけじゃないんだからな。
それより驚いたのは揃えられた楽器の方だ。
ギー太にエリザベスにむったん……、
ムギのキーボードに私のドラムまで全て同型の楽器が揃えられていたからだ。
いや、同型ってだけじゃなく、カラーリングまで全部同じだった。
よく見ると、シート脇に置かれてるギターケースとかも同型なんじゃないか?


「おい、これ……」


私が指差して訊ねてみると、
走ってきた事でちょっと息を切らした唯が、両手を腰に当てて鼻息を荒くした。


「あ、気付いた、りっちゃん?
色んな楽器屋を回って皆のと同じ種類の楽器探すの大変だったんだよー?
もっと褒めてくれていいんだよー、ふんすっ!」


いやいや、楽器屋を回ったからって、色まで同じ楽器を全員分集められるもんなのか?
いくら何でも都合よ過ぎだろ、それ……。
待てよ……?
そうか……、ここは唯の夢の世界なんだよな……。
そう楽器に詳しいわけじゃない唯の事だから、楽器の種類の多さなんて考えずに、
楽器屋を回れば全員分の同じ楽器が見つけられるはずだって、無意識の内に思っていたのかもしれない。
それで都合よく私達の楽器と同型の楽器を揃える事が出来たのかもしれない。

私は唯にそれを指摘しようと思って口を開いたけど、すぐにそれをやめた。
やめよう。
楽器自体は唯の夢の産物かもしれないけど、
楽器屋を回って全員分揃えてくれたのは、確かに唯達の努力の結晶なんだ。
大変だった、って言ってたわけだし、かなり苦労して探し出してくれたんだろう。
それだけは間違いないんだ。今はその事だけで十分じゃないか。
私が唯の頭に軽く手を置いて「ありがとな」と言うと、唯は照れた様に微笑んでくれた。


「それにしても……」


自分のムスタングと全く同型のギターを手に持ちながら、梓が目を俯かせて呟いた。


「本当に今からライブをするんですか、唯先輩?
勿論、私だってセッションはしたいですよ?
でも……、まずは皆で練習してからの方がよくありませんか?
最近全然演奏出来てませんでしたし、私、自信無いです……」


「いいんだよー、あずにゃん」


言いながら、唯が梓に抱き着く。
梓は唯に身を任せながらも、また首を傾げて訊ねていた。


「いい……ですか?」


「うん、いいんだよ、あずにゃん。
自信が無いのは皆同じだし、練習出来てないのだって皆同じなんだよ?
でも、何度も言うけど、下手でもいいんだって思うんだよね。
これから私達がやりたいのは上手いライブなんじゃなくて、
今の私達が出来る今の私達の精一杯のライブなんだもん。
それはあずにゃんも一緒でしょ?」


「そうだぞ、梓」


唯の言葉を継いだのは澪だった。
唯に抱き締められながら、梓が澪に視線を向ける。
616 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:33:32.49 ID:1YUM5IIB0
「実はさ、本当は私達も練習したかったけど、
それは梓達に卑怯だと思ったから、楽器だけ集めて練習してなかったんだ。
今の私達の実力をそのまま曲にしたかったからさ。
そんな事で上手く演奏出来るわけないし、下手でいいんだって思うんだよ。
鈍っちゃった自分達の実力を再確認して、
自分達の無力さを知って、それからやっと前に進んでいけると思えるんだ。
だから、ぶっつけ本番でライブをやろうよ、梓。
そりゃ……、私だって鈍っちゃった自分の演奏を聴かれるのは恥ずかしいけどさ……」


「お願い、梓ちゃん!
私の我儘で悪いとは思うんだけど、やっぱり私も唯ちゃん達と同意見なの。
だから……、練習より先に皆でライブをやらせてもらっていい……?」


ムギが両手を胸の前で合わせて梓に頭を下げる。
皆、真剣だった。真剣な表情と想いで、未来に進もうとしてた。
梓もそれが分かったのか、軽く微笑んでから唯の胸の中で頷いて言った。


「……分かりました!
私、自信ありませんけど……、皆さんも同じ気持ちなんですよね……。
それでも、今の自分達に出来る演奏をしたいって気持ち、私にも分かります……。
私も、今の実力を知って、それからまた努力を始めたいです……!」


「ありがとう、あずにゃんー!」


唯がまたつよく梓を抱き締めて、澪達も嬉しそうに梓の頭を撫でていた。
それはとてもいい事だったんだけど、何となく疎外感が胸に湧いたから訊ねてみた。


「……ちなみに私の意見については誰も訊かないのかね?」


何故か数秒の沈黙。
どうしてそこで黙るんだよ……。
しばらく後、梓が唯から身体を離すと、肩を竦めながら生意気に答えてくれおった。


「律先輩は練習してもあんまり変わらないんじゃないですか?」


「中野アズスンアズー!」


一気に梓との距離を詰めて、得意のチョークスリーパーを食らわせてやる。
もう遠慮はしない。
遠慮はお互いのためにもならないはずだし、本気で嫌なら梓も言ってくれるだろう。
こういうのが私達の関係でいいはずだ。

不意に見回してみると、澪達が微笑みながら私達を見つめている事に気付いた。
そういや、澪達の前で梓にチョークを食らわせるのは、久し振りだったかもしれない。
多分、私達の様子を懐かしく思ってるんだと思う。
優しい視線を私達に向けてくれていた。
でも、澪達はすぐに苦笑を浮かべたままで、自分達の楽器に向かって歩いていった。
早くライブを始めたい気持ちもあるんだろうな。
練習云々はともかく、私だって同じ気持ちだった。
そう思って私が梓から身体を離そうとすると、
梓が首に回された私の腕を強く握って、私以外の誰にも聞こえないくらいの声で囁いた。
617 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:35:03.37 ID:1YUM5IIB0
「律先輩、あの……、私……。
歌いたい曲が……あって……」


その言葉だけで梓が何を言いたいのか分かった。
ほうかごガールズのメンバーとして、それを分かってやらないわけにはいかなかった。
『演奏したい』じゃなくて、「歌いたい」って梓は言ったんだ。
つまり、それは……。

私は軽く梓の頭を撫でてから、
腕を頭上に掲げて、皆に宣言するみたいに声を大きくして言ってやった。


「おーい、皆ー!
ぶっつけ本番って事は、どの曲を演奏してもいいって事だよなー?
って事は、部長権限で私に演奏する曲決めさせてもらってもいいよなー?」


「えー……。いきなり何言ってんのさ、りっちゃん元部長ー……」


唯がちょっと不満そうに言ったけど、その目は笑っていた。
唯としても演奏出来さえすれば、曲目はどれでもいいと思ってるんだろう。
わざとらしく勿体ぶってから、ちょっと後に唯が折れてくれた。


「まあ、いいかあ……。
それで何を演奏するつもりなの?
ひょっとして『冬の日』とか?」


「何でもいいけど、どうしてそこで『冬の日』が出て来るんだ?」


「え? だって、今のロンドン、二月みたいだから……」


「それだけかよ!
まあ、演奏する直前で私が伝えてやるから、その辺もお楽しみって事で。
それが真のぶっつけ本番ってやつだぜ!」


「うーん、合ってるような合ってないような……。
私はいいけど、ムギちゃん達もそれでいい?」


唯が訊ねると、ムギと澪は苦笑しながら頷いてくれた。
悔しいけど、私の突拍子も無い発言には慣れてるって事なんだろう。
ちょっと悔しいけど、別にそれでもよかった。
それにこの様子なら、まさかあの曲を選ぶとは思いもしないだろうな。
びっくりさせてやれそうで、何だかちょっと楽しくなる。

私は梓から身体を離して、肩を少し押してやる。
梓は少し駆け出した後、振り返って軽く頭を下げて、ムスタングに向かって行った。
私に気を遣わせてしまったって思ってるんだろう。
でも、梓が気にする必要は無い。
ずっと梓に支えられて来た私なんだ。
元部長の私にだって、たまには梓を支えさせてほしい。
618 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:36:09.26 ID:1YUM5IIB0
私もドラムまで歩いて行って、ゆっくり腰を下ろした。
それだけで何だか泣き出したくなった。
勿論、悲しかったわけじゃない。
懐かしくて、嬉しくて、泣き出しそうな気分になってしまったんだ。
ずっと忘れていた感覚が全身を駆け巡る。
そうだ、私は……、私達はやっぱり音楽を奏でたかったんだよな……。

チューニングやドラムの位置の調整はする必要が無かった。
念のため軽く叩いてみたけど、
音質や叩いた時の感覚は私の元の世界のドラムと全然変わらない気がした。
ドラム自体は唯の夢の産物としても、
チューニングや位置取りをしてくれたのは唯達だ。
私はそれに感謝しながら、何度か深呼吸をして、
皆の準備が終わった時、不意に大切な事を思い出していた。

そうだ。
これは私達のためのライブだけど、私達のためだけのライブじゃない。
忘れちゃいけない皆が居るんだ……。

私はドラムの椅子から立ち上がると、
澪と梓、唯をレジャーシートの中心付近に集合させた。
首を捻る唯達に私は帽子の中にさりげなく入れておいたそれを取り出して手渡した。


「これ……って……」


梓が驚いた表情で呟く。
見覚えのあるマークが書いてあったから驚いたんだろうな。
澪はそれが何だか分かってないらしく首を捻り、
唯はそれを手のひらの上に置いて嬉しそうに見つめていた。


「律……、このピックは……?」


澪が不思議そうに訊いて来たから、
私は出来る限りの笑顔を浮かべて答えてやった。
未来に進むのと同じように、過去からも目を逸らしたくないから、私は笑ってやったんだ。


「私達の新バンドのマークを書いたピックだよ、澪。
前にやろうとしたライブでさ……、
本当はそれを純ちゃんや憂ちゃん達に渡そうと思ってたんだ。
渡す前に転移させられちゃったけどな……。
おまえに渡したのは純ちゃんに渡そうと思ってたピックだよ。
そのピックで、今からライブをやってくれないか、澪?
その方が……、純ちゃんだって嬉しいと思うからさ」


「純ちゃんの……」


澪が私に手渡されたピックを見つめながら、驚いたみたいに呟いた。
ほとんど同じマークに見えるけど、自分で描いたマークなんだ。
三つの微妙な違いくらいは、私もちゃんと分かってる。
澪に渡したのは間違いなく純ちゃんに渡そうと思ってたピックだった。
619 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:38:07.32 ID:1YUM5IIB0
「使って……いいんだよね……?」


唯が嬉しそうな顔で私に訊ねる。
唯だけこのピックの存在に驚いてない。
当然だった。
このピックは風呂上り、唯が私の白い帽子の中に入れて渡してくれたものだからな。
ただ、私がピックをどう使うかだけは唯も考えてなかったらしい。
単に私を勇気付けるためだけに渡してくれた物のはずだった。
だから、唯はこんなに嬉しそうな顔を浮かべているんだろう。
私の中に過去と向き合う決心が出来たから……。

私は頷いてから、唯のその手を軽く握って想いを伝える。


「ああ……、いや、違うか。
使っていい……じゃなくて、おまえに使ってほしいんだ。
おまえに渡したのは憂ちゃんに渡そうと思ってたピックだよ。
憂ちゃんの分も、おまえに演奏してほしいんだ。
元の世界に居る憂ちゃん達に届けられるくらいにさ……!」


「うん……っ!」


唯が満面の笑顔で頷き、力強く返事をしてくれた。
そういう事なら……、と澪が唯の後に続く。


「私だって純ちゃんに届けるよ、律。
純ちゃんとはまだそんなに親しくなれたわけじゃないけど、
私だって純ちゃんの事は好きだし、すごく大切に思ってるよ。
私にそんな資格があるのかどうかは分からないけど、
純ちゃんに憧れられた先輩として、憧れるに値する演奏をしたいって思う。
……私だけじゃなく、律だって精一杯演奏しろよな?」


「当然よ!」


言ってから、私は澪とハイタッチを交わした。
私の大切な幼馴染みの澪。
澪がギリギリで引き止めてくれたおかげで、私も今ここに居られる。
憧れとは違うかもしれないけど、
私も澪が好きで居てくれた強い私を澪に見せてやりたいと思う。
620 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:38:34.74 ID:1YUM5IIB0
「梓」


私はまだ驚いた表情を浮かべてる梓に向けて、言葉を掛けた。
梓は躊躇いがちに私に視線を向けてくれた。


「律……先輩……」


梓が小さく呟く。
過去に向き合う私の姿に驚いてるってわけじゃなく、
私の出した一つの答えを受け止め切れてないのかもしれない。
私だって確かな答えを出せてるわけじゃないけど、これだけは伝えておきたかったんだ。


「梓、おまえに渡したピックは勿論、おまえのピックだ。
でも、私達の新バンドの思い出のピックでもある。
今でも和達の事を考えると辛いし、怖いし、謝りたくなる……。
だけどな、その過去を私は忘れたくないんだ。
また和達と会って、話をしたいし、悲しさや辛さも憶えていたいんだ。
これまでの事だけじゃないし、
これからの事も、勿論、おまえとの事だって……。

だから、そのピックで過去も未来も今も抱えて、演奏してやってほしいんだ。
私だって、演奏してみせる。忘れたくないし、憶えててみせる。
その後の事は元の世界で……、おまえとの事も元の世界で、きっと……!」


その言葉で全部の想いが伝わったとは思ってない。
完全には伝えられてないんだろうと思う。
でも、ほんの少しでも私の想いが伝わっていればとても嬉しい。
梓は私の手渡したピックを強く握ってから……、


「はいっ! よろしくお願いします、律先輩!」


満面の笑顔を浮かべて、言ってくれた。
今はそれだけで十分だ。

そうして、私達は始める。
長く回り道をして来た私達の、最初の第一歩を刻むライブを。
621 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:39:04.20 ID:1YUM5IIB0





妙な緊張感がこの世界と私達を包む。
別に皆が何かを怖がってるってわけじゃない。
私が勿体ぶって演奏する曲目を皆に伝えてないってだけだ。
ちょっと意地悪な気もしたけど、それでいいんだとも私は思ってた。

私達がこれから演奏するのは、梓が歌うあの曲だ。
梓が好きになってくれて、絶対音感も無いのに耳コピで楽譜に書き起こしてくれたあの曲……。
それを知った時、私は驚いたし、凄く嬉しかった。
私達の想いを受け取ってくれていたんだって思えて、感動するくらい嬉しかったんだ。
この曲を演奏した後、唯達にもそれを教えてやりたい。
皆、きっと私と同じくらい喜んでくれるだろうな。

澪、唯、ムギが私に視線を向けている。
そろそろどんな曲を演奏するか教えてもらわなきゃ、不安なんだろうな。
私としてもこれ以上勿体ぶるつもりはない。
一息吐いてから、私は梓と視線を交わす。
緊張した面持ちで梓が頷いたのを見届けたから、私は大きく息を吸い込んだ。
ロンドン中……は無理だろうけど、
せめてこの広場全体に聞こえるくらいの大声で、ライブの開催を宣言する。


「よっしゃあっ!
これから私達の最初のライブを開催するぞおっ!
最初の曲は放課後ティータイムで『天使にふれたよ!』だあっ!」


「ええっ?」


唯、澪、ムギが同時に声を上げたけど、
私はそれを気にせず両手のスティックを胸の前で三度叩いた。
それに合わせて、唯達も戸惑いながら演奏を始める。

始まりこそ急だったけど、皆はブランクがあるとは思えない演奏を聴かせてくれた。
唯も、澪も、ムギも、勿論梓も見事な演奏だ。
畜生……、やっぱり皆上手いな……。
音楽の才能が無いのは私だけなのかなって、一瞬不安になる。
でも、そんな不安なんて、すぐに吹き飛ばしてやる。
下手で元々。駄目で元々。
才能が無い分は勢いと魂と想いでカバーしてやるんだ。
どんなに才能が無くたって、技術が足りなくたって、私は音楽が大好きなんだから!

『天使にふれたよ!』の演奏はすぐに歌のパートの寸前に入る。
自分が歌うべきなのかって訊ねるみたいに、唯が私に視線を向けた。
それには首を横に振る事で私は応じた。
その私の行動で皆、今回の演奏はインストゥルメンタルかと思ったに違いない。
事情を知らなかったら、私だってきっとそう思ってた。
だけど、そうじゃない。
今回は三人ともびっくりするサプライズがあるんだ。

歌詞パート。
緊張した様子で顔を赤くしながら、梓が大きく口を開いて歌い始める。
高い、独特の声で、私達が考えた歌詞を言葉にして、届けてくれる。
私達への返答みたいに、歌ってくれる。

唯達が心底驚いた表情で梓を見つめる。
梓がわかばガールズでボーカルをしてる事は知ってはいたけど、
まさか『天使にふれたよ!』を歌ってくれるとは夢にも思ってなかったんだろう。
いや、少しは思っていたのかな?
楽譜すら受け取っていなかったはずの『天使にふれたよ!』を梓が演奏し始めた瞬間、
梓がこの曲に強い思い入れを持ってくれていたって事は、三人とも分かっていただろうからな……。
まあ、その辺りはどっちでもいい。
今は演奏と旋律に集中するべき時なんだ。

梓は歌う。
歌詞の全パートを。
顔を真っ赤にして若干震えながら、でも、逃げずに精一杯歌ってくれる。
私達が梓に贈った歌を言葉にして、旋律に乗せてくれる。
622 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:39:36.25 ID:1YUM5IIB0
『天使にふれたよ!』は卒業の歌。
残す方と残される方の両方の気持ちを記した歌。
大切な思い出と未来への希望を織り交ぜて、私達の小さな天使に届けた歌だ。
卒業は終わりじゃない。
私達の人生はまだ続いていく。
良くも悪くも、先の見えない未来が目の前に広がってる。
でも、私達は今度こそその未来を良い方に向けられるように、またこの曲を演奏するんだ。
未来を信じて進んでいくために。

本当はほうかごガールズで演奏したい曲だった。
新バンドとして、唯達三人届けたい曲だった。
だけど、それは叶わなかった。
もしかしたら、これからも叶わないかもしれない。
元の世界に戻った所で、和達がほうかごガールズの事を憶えているとは限らない。
憶えてない可能性の方がきっと高い。
でも、私は諦めないし、諦めたくない。
きっと梓だって。

今はほうかごガールズの曲を三人に聴かせられない。
私達の聴かせたかったほうかごガールズの演奏は、きっと永久に出来ない。
でも、私達には出来る事がある。
それはほうかごガールズの曲をまた演奏したいと思い続ける事。
傍に居たいと思い続けるみたいに、私と梓はそう思い続ける。
出来る出来ないじゃなく、忘れずに憶えておく事こそが、未来に繋がるはずなんだ。
過去のほうかごガールズの曲が完全に消え去ってしまったとしても、
思い続けていれば、前に進み続けていれば、
いつかは未来のほうかごガールズが新しい演奏を皆に届けられるはずだ。

『天使にふれたよ!』の演奏が終盤に差し掛かる。
私も含めて、皆自分のパートを歌いたそうにしていたけど、それは我慢していた。
今は梓の歌声を聴く時で、梓の歌声をこの世界に響かせる時なんだ。
これはもう梓の曲なんだ。
私達はその梓の歌声を世界に響かせる手伝いをするだけだ。

それにしても……、と私はつい苦笑してしまう。
梓の歌はやっぱりかなり下手だ。
音程も外れ気味だし、声量がおかしい所もある。
歌詞を間違えない事だけは褒められるけど、
それ以外はずっとボーカルを務めてた唯や澪とは比較対象にもならない。

もっとも、それは梓の歌に限った話じゃなかった。
私も自分で分かるくらいにリズムキープを失敗していたし、
普段私を支えて土台になってくれるはずの澪のベースも所々バラバラだ。
ムギの弾き間違いも何度かあったし、
唯に至っては全然違うメロディを演奏……、いや、作曲したりしていた。
ははっ、最初こそどうにか取り繕ってたけど、やっぱりブランクは大きかったみたいだな……。

でも、それでよかった。
これが今の私達で、今の精一杯なんだ。
自分達の現状が分かっただけでも、十分に嬉しかった。
そして、今が駄目って事は、成長する余地があるって事でもあるからな。
これから……。
そうだ。私達の音楽はまだまだこれからなんだ。
623 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:40:06.50 ID:1YUM5IIB0
それに梓の歌は下手ではあったけど、単なる音痴じゃなかった。
この世界に来た当初に練習で聴かせてもらった歌よりはずっと成長してる。
下手だけど、それだけじゃない。
前よりは確実に上達しているし、何より心が強くこもってるのを感じた。
梓の歌には、想いがこもっていた。
私達への想いが。
少しずつだけど、梓は前に進んでいるんだ。
私達だって、前に進むんだ。
これから、未来に向かって。

歌が最後のフレーズに差し掛かる。
『ずっと永遠に一緒だよ』。
これまで梓が何度か言葉にしていた、『天使にふれたよ!』の最後のフレーズ。
ずっと永遠に一緒になんて居られるはずがない。
きっといつかは離れ離れになる。心が離れて行ってしまう事もある。
永遠なんて、単なる言葉のあやだ。

だけど、私達は信じて、誓うんだ。
永遠に一緒には居られないかもしれないけど、
それでも、永遠に一緒に居たいって思い続けるんだって。
仲間は私の事を忘れるかもしれない。
永遠なんて望まなくなるかもしれない。
でも、自分一人だけでも忘れずにそう思い続けられるのなら、それはきっと永遠に繋がるんだ。
それが自分だけじゃなく、強制するわけでもなく、
もしも誰か一人でも同じ様に考えてくれる仲間が居れば、私達の想いは永遠になれる。
そう信じてる。
それこそ、この夢の世界で見つけられた私達の誓いなんだ。
624 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:44:59.75 ID:1YUM5IIB0





転調。
『天使にふれたよ!』を演奏し終わった瞬間、
誰からというわけでもなく、全員が同時に一つの曲を演奏し始めていた。
示し合わせたわけじゃないし、その予兆があったわけでもない。
ただ皆が皆、その曲を演奏したいって考えてたんだと思う。

届けたかったんだ。
私達の演奏を。
私達の想いを。
私達だけじゃなく、元の世界に居るはずの皆にも。

皆で同時に演奏を始めたのは『U&I』。
唯が風邪で寝込んでいた憂ちゃんに向けて作詞した曲。
大切な妹に贈る、唯の想いを歌に込めた曲だ。
自分で作詞しただけあって、相当な思い入れがあるんだろう。
とても真剣な表情で、唯がギターを弾きながら大きな声で歌い始めていた。
いい曲、いい歌声だと思った。

だけど、憂ちゃんにはちょっと悪いけど、
私は憂ちゃんのためだけに『U&I』を演奏してるわけじゃなかった。
憂ちゃんに対する想いも勿論込められてる。
でも、それだけじゃない。
和に、純ちゃんに、聡に、家族に、さわちゃんに……。
多くの人への想いを込めて、精一杯に演奏する。
『私』から多くの大切な『君』に向けて、想いをドラムに叩き付ける。
傍に居るのが当たり前だと思っていた皆に向けて、
今まで傍に居てくれた感謝を込めて、
もう一度再会するって決心を込めて、皆の想いを込めて演奏し続ける。

気が付けば、唯の瞳から涙が流れていた。
でも、その歌声は止まらない。
唯の想いは涙に負けない。
涙なんかに言葉や願いを止めさせない。
強い想いを込めて、唯は涙を流しながらも歌い続ける。

いつの間にか私も顔に熱い物が流れてる事に気付いていた。
とめどなく流れる熱い涙が私の涙腺から溢れ出す。
私だけじゃない。
隣に居るムギも泣いていたし、その背中を見ただけで澪や梓が涙を流してる事が分かった。
それでも、皆、演奏を止めない。止めてやらない。
涙なんかに私達の想いを邪魔させるわけにはいかないんだ。

不意にムギが震える声で歌声を唯の歌声を重ね始めた。
二人の声が響き、重なり、決心を強くしていく。
必ず元の世界に戻って、今の気持ちを皆に伝えてみせるんだって。
今は遠い世界に居たって、必ず再会してみせるんだって。
そう誓う。

曲も中盤に差し掛かった頃、澪が唯の使うスタンドマイクに顔を寄せた。
二人で顔を並べて、一つのマイクに想いをぶつける。
泣き虫な澪、泣き虫な唯が、涙に負けずに歌う。
歌う。
想いを言葉に変え、世界に響かせる。
世界に、自分に、皆に、想いを届けてみせるために。
625 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:46:29.43 ID:1YUM5IIB0
最後に私と梓が三人の歌声に声を重ねていた。
メインボーカルを務めた事が無い私達だ。
正直言って、曲の完成度を下げる行為のような気がしないでもなかった。
でも、歌わずにはいられなかったし、
唯達は涙を流しながらも笑顔で私達の歌声を迎えてくれた。
そういう事を許してくれる仲間達が居て、本当に嬉しくて、また涙が溢れた。
だけど、当然、歌声を止める事はしない。
下手糞でぐしゃぐしゃな歌声をこの夢の世界に刻み付ける。

五人の歌声が重なる。
バラバラで、音程もずれてて、鳴き声混じりの酷い歌で……。
本当に笑っちゃうくらい酷い演奏だったけど……。
でも、歌詞だけは間違えなかったし、
五人の強い想いは真実で、酷い出来ながら旋律としては決して悪くなかった。
最低だけど、最高の音楽になっていったと思う。
これが私達の想いと決意。
これまで私達を支えてくれた人に向けた、想いの結晶なんだ。

皆、ありがとう……!
軽音部の皆も、元の世界に居るはずの皆も、
私達が一緒に居られたのは、当たり前のようで当たり前じゃない奇蹟だったんだ。
ありふれているけれど、決して無駄にしちゃいけない奇蹟だったんだ。
だから、私と……、皆と傍に居てくれた全ての人にありがとう……!
私達、唯を連れて戻るから……、
どんなに辛い事が待っていたとしても、皆が居る世界に戻るから……!

勿論、それはまだずっと先の事だろう。
唯を元の世界で目覚めさせる方法の糸口すら掴めてない。
そんな事が出来るのかって事すら分かってない。
でも、いつかは必ず戻る。戻ってみせるから……!
だからこそ、せめて今は願うんだ。
当たり前じゃない当たり前をくれた全ての人への感謝の気持ち……。
他の誰でもなく、私達が今抱えている皆への想いを……。
この気持ちはずっとずっと忘れない。
だから……!



想いよ、





届け……!



626 :にゃんこ [saga]:2012/06/27(水) 18:47:24.20 ID:1YUM5IIB0


今回はここまでです。
長い間書いてまいりましたが、
次回、最終回に出来れば思います。
終わる……かなあ。よろしくお願いします。
627 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/27(水) 18:54:43.11 ID:HjygaFG3o
しつこくて胸焼けしそう
油でギトギトの焼きそばみたい
628 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/27(水) 20:40:03.29 ID:UMb75a+eo
終わっちゃうのは寂しいけど最終回も楽しみにしてます
629 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/06/28(木) 03:50:45.61 ID:wCBxU2xu0
乙です

5人で歌うU&Iは聴いてみたいなぁ
もう終わりなのかぁ…寂しいなぁ!
630 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/28(木) 19:35:53.88 ID:B4qt8xrDO
乙です。もうじき終わってしまうのはとても残念ですが、また素晴らしい作品を書いてくださるのをお待ちしております。
631 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:53:25.08 ID:zmR1v/Ro0





演奏が終わる。
音楽の余波が夢のロンドンに溶け込んでいく。
心が、反響する。
皆して涙を拭い、少し太陽が傾き始めた空を見上げる。

空は綺麗で輝いていた。
唯の夢の中の空で、本当の空とは違ってるんだろうけど、
凄く綺麗で、輝いていて、何だか嬉しくなってくるくらいだった。
多分、この空は唯が世界をこんなに綺麗な物だって思ってるって事だから。
辛い事があっても、苦しい事があっても、
今、元の世界の自分が病院のベッドで眠り続けてても、唯は世界を綺麗だと思ってるんだ。
多くの物を、何もかも全部を一番にしちゃう困った奴だから、
そんな厄介で無茶苦茶で素敵な奴だから、私達は嬉しくなっちゃうんだ。


「想い……、皆に届いたかなあ……」


唯が目尻の涙を拭いながら呟く。
きっと憂ちゃんや和や純ちゃん……、それだけじゃなくて、
元の世界の唯と関わりのある全ての人の事について考えてるんだろう。
大切な人達、大切な世界の事について、考えてるんはずだ。
私達の演奏、私達の歌、届けたい思い……。
それらがさっきの演奏で元の世界の皆に届けられていたら、どんなに素敵だろう。

私は少しだけ苦笑して、唯の独り言みたいな呟きに応えてやった。


「馬ー鹿。届いてるわけないだろ、唯」


「ええー……。それ言っちゃ台無しだよ、りっちゃん……」


恨めし気な視線を私に向けて、唯が頬を膨らませる。
確かに台無しだったかもしれないけど、私達はこんな所で立ち止まってるわけにはいかないんだ。
唯もそれは分かってたみたいで、すぐに軽く微笑み直した。
私はドラムの椅子から立ち上がり、唯の傍に近付いてからその首に腕を回してやる。


「私だってさ、この歌が元の世界の皆に届いたらいいなって思ってるんだぞ?
でもさ、そんな一方的に押し付けちゃっても、元の世界の憂ちゃん達に迷惑だよ。
私達は憂ちゃん達が居ない場所で勝手に歌っただけなんだからな。
そんな歌が憂ちゃん達に届くわけないだろ?
例えるなら、寝てる時に見る夢の中で会った知り合いに、
「この前、夢の中で君と会ったけど、あの夢面白かったよね」って、現実で訊ねるみたいなもんだよ。
そんな事言われたって、どんな反応しろってんだよ……。
確か小学生の頃にそういう事訊いて来た同級生が居た気がするが……。
とにかく、こんな五人だけで演奏した曲を誰かに届かせようってのは、無茶な話だよ」


「うーん……。
それを言われちゃうと弱いなあ……」


私の腕の中で私に視線を向けながら、唯が苦笑する。
唯だって分かってるんだ。
夢の中で演奏したって、届けたい想いを皆に届けられるはずがないって。
そんなの当たり前だ。妙な期待をしたって、遠い所に居る人に想いなんて届くはずがないんだ。
分かり切った事だ。私も唯も澪もムギも梓もそんな事は分かり切ってる。


「ですけど……、だからこそ……」


梓が私達に近寄りながら力強く言った。
心の底からそう思ってる……。
そう感じさせられる強い気持ちのこもった言葉だった。
632 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:53:54.63 ID:zmR1v/Ro0
「元の世界で届けなきゃいけないんですよね、私達の演奏を。
憂に、純に、和先輩に、届けたい皆の前で、直接。
今度こそ私達の想いを届けるために。
今の想いを絶対に忘れずに……」


言った後、気障過ぎたと思ったのか、梓が頬を赤く染めて笑った。
確かに気障だけど、それでよかったし、梓の言ってる事は間違ってなかった。
私達はこの想いを届けなきゃいけない。
この夢の世界じゃなくて、元の世界で。
想いを、届かせるんだ、今度こそ。
そのためにも、私達は唯と一緒に元の世界に戻るんだ。
でも、それはまだずっと先の話だと思うから……、だから……。


「忘れちゃ……いけないんだよな」


澪が梓の言葉を継ぐみたいに口を開いた。
その澪の表情は柔らかい笑顔だった。
ずっと弱かったはずの澪が、もう私達の中心で皆を支えてくれている。
ちょっと寂しくはあるけど、凄く嬉しい事でもあった。
皆、変わっていくんだ。
現実の世界でも、この夢の中の世界でも、少しずつ確実に変わっていく。
その変化を少しでもいい方向に向けられたら、私も嬉しい。
多分、澪はこの世界でいい方向に変われたんだろう。
私も澪みたいにいい方向に変わっていかなきゃな……。
そのためにも、私は皆と話しておかなきゃいけない事がある。
そう強く思った。

私の考えに気付いたのか、澪が私と視線を合わせてから静かに頷いた。
こいつは妙な所で私の考えを感じ取っちゃう事があるんだよな。
きっと私の小さな決心を認めてくれたんだろう。
私がその話を切り出しやすいように澪が話を変えてくれる。


「私も元の世界に戻るために、精一杯考えるよ。
今更言うのも変なんだけど、この世界が本当に夢の世界なのかどうか確信は持ててないんだよな。
あくまでその可能性が高いってだけだからさ……。
だから、私、この世界についてもっと調べて、元の世界に戻る方法を考える。
もしこの世界が本当に唯のサヴァン能力の発現だったら、
その制御方法についても唯と一緒に探して行こうと思うんだ。

だからさ……、元の世界に戻れる日まで、私、忘れないよ。
皆でこうして演奏した事、あんまりいい出来じゃなかったけど演奏出来た事、
和達や元の世界の皆に届けたかった想いの事……、絶対に忘れない。
想いを届かせたいって事だけは、忘れないよ、ずっと……」


結局の話、私達に出来る事はそれだけなんだろうな、って私は思った。
この世界に永遠は無い。
約束で相手を縛る事も出来ない。
大切な人と傍に居続ける事が正しいわけでもない。
誰かを縛り付ける事だけは絶対にしちゃいけない。
そんな中で私達に出来る事は、想いを心の中にずっと持ち続ける事だけだ。
皆の事を憶えていて、また会いたい、想いを届けたい、って強く思い続ける事だけなんだ。

言うほど簡単な事じゃないのはよく分かってる。
卒業から四ヶ月、梓とたったそれだけの時間離れていただけで、私は不安で仕方が無かった。
絆を信じようとしながらも信じ切れなくて、
多分、それもきっかけとして、私達はこの世界に迷い込んだ。
強がりながらも弱い私の事だ。これからも何度も不安になるだろうな。
でも、この世界にずっと居て、こんな私にもやっと一つだけ分かった事がある。
想いを強制て心を縛って繋いだって安心出来なかったし、全然嬉しくなかった。
皆が傍に居るのに、寂しくて辛かった。
もうそんな気持ちにさせちゃいけないんだ、私自身も、皆も。
だから、その想いだけは胸に抱いて、これから前に進んで行こうと思う。
あの一陣の風が吹いたって、その想いだけは絶対に……。
633 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:54:32.19 ID:zmR1v/Ro0
「あの風……、結局何だったのかな……?」


不意にムギが首を傾げながら呟いた。
これまでみたいに風を怖がってるって感じじゃなくて、純粋に疑問に思ってるだけみたいだった。
言われてみれば、私としてもそれは大いに疑問だった。
この世界が唯の夢だとしたら、あの風自体には何の意味も無い事になる。
大体、あの一陣の風が吹いた時には唯は元気だったはずだし……。
私と梓がムギに続いて首を捻ってみると、澪がその疑問に応じてくれた。


「あの風は多分、初期設定ってやつなんじゃないかな」


「初期設定?」


私が訊ねると、澪は大きく頷いた。
一息吸ってから、少し自信無い様子で続ける。


「これもこの世界が唯の夢だったらって前提の話なんだけどさ、
あの夏休みの日にさ、とても強い風が吹いたのは皆憶えてるだろ?
それくらい印象に残る強い風だったんだよ、私にとっても、唯にとっても。
でも、それは単なる強い風だった。
私達をこの世界に連れてくる原因の風ってわけじゃない、単なる印象深い風だったんだ。

その後、何が原因かは分からないけど、私達は大怪我をする事になった。
それで唯が私達をサヴァン能力で自分の夢の中に引き込む事になったわけだけど、
唯はそのきっかけとなる現象をあの風っていう設定にしたんじゃないかって思うんだ。
病院にお見舞いに来てた私達が、何の前触れも無く唯の夢に入り込むなんて不自然過ぎるだろ?
いや、まあ、突然人が消えちゃう事自体が不自然って言われたら、その通りなんだけど……。

でも、少なくとも、病院で前触れも無く人が消えちゃうよりは、
私達がライブ当日に待ち合わせをしてた時に、謎の強い風が吹いて人が消えたって方が自然だろ?
少なくとも唯はそう考えたんだと思う。
『強い風が吹いて生き物の姿が消えてしまった世界』。
それがこの唯の夢の初期設定だったんだよ」


「なるほどな……。
私達がこの夢の世界に適応しやすいように、
その設定を私達の記憶に植え込んでたわけか。
澪の言う通り、病室でいきなり生き物が消えちゃうより、
強い風のせいで生き物が消えたって話の方が少しは自然だもんな。
それで、その時間設定がライブの後じゃなくて、ライブ前だったのはきっと……」


私はそれ以上の事は言わなかった。
言わなくたって、私も唯も皆も分かってた。
わかばガールズとのライブの成否は私もまだ思い出せてないけど、
とにかく唯はもう一度私達とライブをやりたかったんだろうって事は。
私だって唯ともう一度ライブをしたかったし、
今ライブをやってやれたわけだけど、やっぱり少し違っている気がしていた。
ライブをやるなら、私達が揃うなら、それは元の世界で。
どんなに辛い事が待ってたって、私達は現実の世界で歩いていきたいんだ。
梓との事を考えるのも、元の世界の方がお互いにいいと思うしな。

私は唯の首に回していた腕を放して、レジャーシートの中央に立った。
一つ深呼吸をして、皆と一度ずつ瞳を合わせる。
澪の凛々しい瞳。
唯の照れたような瞳。
ムギのまっすぐな瞳。
梓の何処か潤んだ瞳。
全員の瞳を目に、脳に、胸に、心に焼き付ける。
忘れない……、どんな事があっても……。
私は拳を握り締めると、皆に向けて宣言するように言ってみせた。
634 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:55:02.06 ID:zmR1v/Ro0
「なあ、皆。
私さ……、皆に聞いてほしい事があるんだ。
この世界やあの風の正体は今の所は澪の考え通りの物でいいって私は思う。
元の世界に戻る方法もこれから皆で探したい。
でも、私、思うんだよ。
多分……、いや、きっと、元の世界に戻る前にあの風が……」


瞬間。
私の言葉が止まった。
風が。
強い風が吹いたからだ。
ひどく強い、目も開けてられないくらいの強い一陣の風。
私も含め、皆が一陣の風に体勢を崩される。
それでも、目だけは閉じない。
見開いていてやる。
もう目を閉じる事は……、
目を逸らす事はしてやらない。

一陣の風は数秒吹いていただろうか。
気が付けば、私の瞳はこれまで目にしていた風景とは全く違う物を捉えていた。
風以外に何の前触れも無かった。
まるで映画の場面転換みたいに、私は……、
私達はロンドンとは全く違う場所に転移させられていた。

転移させられた場所には今回も見覚えがあった。
日本風の建物が周囲に見える長い橋の中央。
ここは確か……。
修学旅行、猿山を見に行く前に通った京都……?
いや、京都だ。
私はまた一陣の風に弄ばれ、
予想もしていなかった場所に転移させられてしまったんだ。

覚悟はしていた事だったけど、
胸に強い不安を感じた私は急いで周囲を見渡した。
四人の姿はすぐに見つかった。
当たり前だ。
すぐ傍に居るんだ、探すまでもない。
だけど、皆、動揺を隠し切れてなかった。
分かってはいた事なんだろうけど、頭で分かる事と心で分かる事とは全然違う。
私だって自分自身が胸の鼓動で息苦しくなるのを感じていた。

やっぱり、そうだ。
一陣の風は止まらない。
唯の意思とは関係なく、これからも無作為に無規則に吹き荒れる。
いつかは必ず私達を引き裂く。
あの風には、きっと抵抗しても無駄なんだろう。
あの風の前では私達は単なる無力な存在でしかない……。

と。
唯がその場に両膝を着いて崩れ落ちた。
両手を着いて、一陣の風の余波のある京都の空に視線を向ける。
635 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:55:27.40 ID:zmR1v/Ro0





掛ける言葉が見つからなかった。
掛けられる言葉が無かった。
私も覚悟はしていた。
これから先、皆と離れ離れになる事を、あの一陣の風に引き裂かれる事を。
でも、これは……、早過ぎる……。
前の風はこの世界に来て一ヶ月近く経ってからだった。
せめてそれくらいの周期の風だと思ってた。
それくらいの周期であってほしかった。
だけど、その見立てはどうやら甘かったらしい。

どうやらそう考えていたのは、私だけじゃなかったみたいだ。
梓もムギも澪でさえも、不安を隠し切れない表情を浮かべていた。
唯なんて、レジャーシートの上に膝から崩れ落ちてしまっている。
全身を震わせていて、その表情は悲痛で……、
私がその唯の肩に手を置こうとした瞬間、唯は京都の空に向けて叫んでいた。


「ここは……、地球だったんだー!」


「何処だと思ってたんだよ!」


「自由の女神何処だよ!」


「猿繋がりっ?」


「古過ぎますよっ!」


唯の突拍子も無い叫びに、私、澪、ムギ、梓の順で突っ込んでいた。
あまりに突然の出来事に、私は思わず脱力して苦笑してしまう。
脱力したのは唯以外の皆も同じみたいで、つい苦笑してるみたいだった。
でへへ、と唯が頭を掻きながら照れ笑いを浮かべ、私を見上げる。

私は唯と視線が合って、気付いた。
唯の目尻の辺りが少し潤んでしまってる事に。
涙を堪えて、ボケてくれたんだって事に。
そうか……。
唯は皆と一緒に前に向かう事に決めてくれたんだよな……。
こんな時でだって皆が笑ってくれる事を選んでくれたんだ。
一番辛い立場の唯がそれを決めたんだ。
だったら……、もう一陣の風なんかに怯えてるわけにはいかないよな……。
今度こそ、それは本当だ。

私は唯の頭に手を置いて、軽く撫でてやった。
何も言葉は掛けなかった。
先に唯の言葉を聞いてやりたかったからだ。
しばらく経ってから、唯が涙を堪えながらまた微笑んだ。
636 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:55:54.56 ID:zmR1v/Ro0
「ごめんね、皆……。
私のせいでこんなに大変な事になっちゃって……。
でも……、でもね……、私、もう逃げないよ?
自分が死んだら皆が助かるなんて、そんな事も考えない。
元の世界で皆で居られる方法を頑張って探すから……、
我儘だと思うけど、それまで皆には笑顔で居てほしいんだよね……。
私も笑ってるから……、笑顔で頑張るから……。
それまで皆には迷惑掛けちゃうけど、ごめんね……」


「それは言わない約束でしょ、おとっつぁん!」


唯の言葉に急にそう返したのはムギだった。
唯が望んだ優しい笑顔で……、
いや、きっとムギ自身がそうしたいと望んだ笑顔で。
唯の笑顔がムギを笑顔にして、皆を笑顔にしていく。
それが私達の関係で、とても落ち着けて嬉しい。
遠く離れていても、その笑顔を浮かべられるようになれればって思う。

ただ唯はちょっと呆然としていた。
ムギの笑顔と言うより、単にムギのボケに驚いてるだけみたいだった。
確かに私も結構驚いた。
これは確か唯が知恵熱(?)で寝込んでいた時に私がムギに教えたネタだった。
いつの間にか使い所を完全に習得してるみたいだ。
きっと私達の知らない所で場を和ませるために練習してたんだろう。
ムギの中に……、私のネタがある。ムギの中に私が居るんだ……。
当たり前の事のはずなのに、私にはそれが凄く嬉しくなった。


「ムギちゃんがボケた……」


まだムギのボケを受け止め切れないのか、唯が小さな声で呟いている。
そんなに衝撃的だったのか……。
まあ、確かにムギがボケたのは澪か私相手くらいで、
唯に向けてボケた事はそう無かったから驚いたのかもしれないな。
いや、唯がムギのボケをボケとして受け取ってなかっただけか?
唯の奴、私の渾身のボケを素で流す事あるもんな……。

澪がそんな唯の姿に呆れたのか、
肩を竦めて軽く笑ってから、唯の肩に手を置いた。


「変な顔をしてるなよ、唯。
ムギだってボケる事くらいあるよ。
それにさ……、謝る必要なんて無いよ、唯。
おまえが我儘だって言うんなら、私達だって我儘なんだ。
おまえの夢の中に来た上に、今度はおまえを元の世界に連れ戻そうとしてるんだからな。
こんなの我儘以外の何物でも無いよな。

でも、私はその我儘を貫きたいんだ。
やっぱり唯達とまたライブしたいし、おまえと和達をもう一度会わせてあげたいしさ。
皆でもっと我儘になろう、唯。
私達はそれを望んでるよ。

それでも私達に悪いって思うんなら、一日でも早く自分の力の使いこなし方を憶えてくれ。
ライブ前にも言ったけど、おまえがその能力を生かせれば、
元の世界に戻る事も決して難しくないはずだって思うんだ。
それ以外で私達に悪いって思う必要は無いんだ。
だから、頑張ってくれよな、唯?」


「澪ちゃん……」


「そうですよ、唯先輩!」


熱心な表情を浮かべて続けたのは梓だ。
赤毛のアンみたいな衣装に似合わず、熱さまで感じる。
それくらい唯を大切に思ってるんだって事がよく分かった。
梓は唯の前に立つと、手を差し伸べて握らせて唯をその場に立たせた。
637 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:56:21.04 ID:zmR1v/Ro0
「立って下さい、唯先輩。
私も立ちます。自分の足で立ってみせます。
まだ不安ですけど……、
さっきも吹いた風の事を考えると怖くなりますけど……、
それでも、私は立つです!
唯先輩と元の世界に戻りたいですから!
私達の新バンドの曲を唯先輩達に聴いて頂きたいですから!
ですから……!」


「あずにゃん……」


「勘違いしないで下さいよ!
元の世界に戻って、三年寝太郎な唯先輩に文句を言いたいだけなんですからね!
元の世界に戻った時は、覚悟しておいて下さいよ!」


「ええぅ!?
あずにゃん、おっかないよう……」


怯えたような表情になった後、すぐに唯は微笑み直した。
目尻を指で拭って、涙を振り払って、
私達の大好きな輝く笑顔で、
唯は笑った。


「それにしても……、だ」


私も笑顔になりながら呟くみたいに言った。
このまま皆で笑顔で居たかったけど、まだ話さなきゃいけない事が残ってる。
流石に大丈夫だと思うけど、またすぐに一陣の風が吹かないとも限らないからな。
時間の猶予に頼るのは、この世界ではもうやめておくべきなんだ。
私はちょっとだけ溜息を吐いてから続ける。


「今回、皆で転移させられたのはレジャーシートを敷いてたおかげか?
見事なくらい、レジャーシートの上の物が全部転移させられてるじゃんかよ。
私達だけじゃなく、楽器とかギターケースも一緒にさ。
大らかと言うか大雑把と言うか……、
まだ確定したわけじゃないけど、やっぱ唯の夢だよなー、これ」


「えー……。何それー……」


唯が頬を膨らませて私にジト目を向ける。
私は少しだけ苦笑してから、唯の頭に手を置いてやった。


「褒めてんだよ、一応な。
レジャーシートのおかげかどうか分かんないけどさ、
京都……だと思うけど、今回は皆一緒に京都まで転移出来たじゃんか。
偶然だとしても助かったよ。
私、まだ皆に話しておきたい事があったからさ」


「話したい事……?」


私はもう一度レジャーシートの中央に立って、皆の顔をまた見回した。
風が吹く前、言えなかった言葉を今度こそ言ってみせる。
638 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:56:49.57 ID:zmR1v/Ro0
「さっきまた風が吹いたよな?
すぐってわけじゃないと思うけど、また近い内に吹くんじゃないかなって思う。
多分、それは唯の無意識の責任とかじゃなくて、唯の目覚めが近いからじゃないかって思うんだ。
私だけかもしれないけど、目が覚める直前の夢は場面転換が多い気がするんだよな。
いや、これは個人的な意見だから、どうでもいいんだけどな。

とにかく、多分、これから凄い頻度であの風が吹くだろうって思う。
今回は運が良かったけど、これから先にまた運良く皆一緒に居られるとは限らないだろ?
これからは皆が離れ離れになっちゃう可能性の方が物凄く高いんだ。
だから、皆が離れ離れになっちゃった時の事を話しておきたいんだよ」


「離れ離れになった時……ですか……?」


そう言って、梓の肩が少し震える。
その時の事を想像しちゃったんだろう。
怖がるのは当たり前だし、私だって凄く怖い。
でも、私は言うんだ。
皆の事が大切だし、私は何だかんだ言ったって部長だから。


「皆が離れ離れになった時、皆が皆好き勝手に動くわけにはいかないだろ?
入れ違いで二重遭難なんかになっちゃったら、笑い話にもならないよ。
だから、離れ離れになった時、皆が誰を捜すか決めておこうって思うんだよ。
ちなみに部長権限で悪いけど、それぞれの組み合わせはもう決めさせてもらってるぞ。

もしこの五人があの風で離れ離れにさせられた時、
唯と梓、澪とムギの組み合わせでそれぞれの相方を捜してほしい。
もしもそのどちらかの組み合わせの相方が見つかった時は、
次は梓、ムギを優先で捜してくれればいい。
これなら二重遭難にはならないはずだよ」


「あの、律先輩……」


「どうしたんだ、梓?」


「律先輩は……、どうするんですか……?
どっちの……、組み合わせにも入ってないじゃないですか……!」


梓が心配そうな視線を私に向けて言ってくれた。
本気で私の事を心配してくれてるんだろう。


「梓、律は……」


澪が私の代わりに泣き出しそうな梓に私の考えを伝えてくれようとする。
でも、私はその澪の言葉を手で制止した。
これは私が言わなきゃいけない事だ。
澪は傍で私を見守ってくれてる。それだけで十分なんだ。
639 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:57:19.75 ID:zmR1v/Ro0
「梓、よく聞いてくれ。
私達は五人なんだ。奇数である以上、誰かが余らなきゃいけないんだよ。
だったら、部長の私が余らなきゃな。
これが部長の辛い所ってやつだ。
おっと、現部長の私が……、とか言い出すなよ、梓。
ここは年上で元部長の私が余るのが一番なんだよ」


「でも……、でも、それじゃ、律先輩が……!」


「大丈夫だよ、梓。
これは強がりじゃない。今度こそ本当だ。
私を捜すのは一番後回しでいいってだけの話だよ。
まずおまえ達四人が集まるだろ?
その後で私を捜してくれりゃいいんだ。
私は……、そうだな……、梓、唯、ムギ、澪の順で捜すよ。
一人でも絶対に捜し出してやる。
だから、もしもの時は心配せずに、唯から捜し出してやってくれ」


「だけど……、それじゃ……、私……」


梓が視線を俯かせる。
こう言うのも失礼かもしれないけど、まさか梓が私をこんなに心配してくれるとは思わなかった。
ひょっとすると、梓は私の想像以上に私の事を好きでいてくれてるのかもしれない。
それは凄く嬉しかったけど、その梓の想いに縋っているわけにもいかなかった。
私は梓を安心させるために、梓の背中側に立って首に腕を回してやった。


「中野ー!」


「えっ……? 律……先輩……?」


「まずは……、元の世界に戻ろうぜ……?
私、元の世界に戻って、考えるよ。おまえの事、自分の気持ちを……。
思い切りうんざりするくらい考えてやる……。
それにこれはもしもの話なんだぜ?
離れ離れになる前に元の世界に戻る事も出来るかもしれないしな。
私の事を心配に思ってくれるなら、一刻も早く皆を集めてくれればいい。
それから私を捜し出してくれよ、待ってる……からさ……」


「元の……世界……」


梓がまた不安そうに呟く。
今の自分の想い、私の想いが消えてしまってるかもしれない元の世界。
元の世界に目覚めた所で何もかも忘れ去ってしまってるかもしれない。
それを考えると、不安が募ってしまうんだろう。
でも、梓をそれを口に出さずに、別の事を小さく呟いた。


「元の世界に戻ったら……、私達はどうなってるんでしょう……」


「それは……分からないな……」


応じたのは澪だ。
色んな仮定を立てた澪には珍しく、弱気な発言だった。
こればかりは澪にも全然分かってないらしい。
複雑そうな表情で澪が続ける。
640 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:57:50.95 ID:zmR1v/Ro0
「一番考えちゃうのは、やっぱり元の世界の時間経過だよな。
もし今、元の世界に戻れたとして、元の世界はどれくらいの時間が経ってると思う?」


澪がそういう風に言うという事は、
元の世界とこの世界の時間経過が異なってる可能性が高いって事なんだろう。
確かにこの世界と元の世界の時間経過の速度が同じだって確証は全然無い。
だとしたら、この世界と元の世界の時間差はどれくらいになるんだろう?


「一年くらい……かな?
ううん、何となくなんだけど……」


ムギが皆に訊ねるみたいに呟く。
一年か……。
それくらいならいいけど、でも、あんまり嬉しくないな。
それじゃあ、目覚めた所で私達は確実に留年だ。
いや、私達はともかくとして、高校三年生の梓の方が問題だった。
受験も全部終わっていて、高校三年生をもう一度やり直す事になるなんて、梓があんまりにも可哀想だ。
でも、それも一年程度だったらって話だ。
ひょっとすると、一年どころじゃすまないかもしれない。
下手をすると元の世界で五十年くらい経ってたっておかしくないんだ。
何てったってこの世界は夢の世界なんだ。
元の世界とどれくらいの時間差があるのかは分かったもんじゃない。

ちょっと私達が落ち込み掛けた時、
唯が人差し指を立てて妙に自信満々に言った。


「ひょっとしたら、一日くらいしか経ってないかもしれないよ!
長い夢を見てたはずなのに、三時間くらいしか経ってなかったって事よくあるでしょ?
だったら、元の世界の時間が全然経ってないって可能性もあるよね?」


「なるほど……」


私は思わず頷いていたけど、よく考えたらそれもちょっと嫌だった。
この体感時間で大体一ヶ月の時間が、
現実では一日しか経ってなかった……とか、物凄く脳に悪そうじゃんかよ……。
時間が経ち過ぎてるにしても、経ってないにしても、どっちにしろろくでもなかった。
元の世界に戻る意欲がちょっと失せて来るよな……。

でも、失せたのはちょっとだけだった。
元の世界がどうなってるにしても、私達は戻るって決めてるんだからな。
私は軽く溜息を吐いてから、静かに笑ってみせた。


「ま、その辺は元の世界に戻ってから考えるとしようぜ?
今そんな事考えてたって、取らぬ狸の皮算用ってやつだよ。
まずは元の世界に戻る事……、それを考えよう。
もしも元の世界で五十年くらい経ってて、
皆がお婆ちゃんになってたら、その時は笑い飛ばしてやるからさ。
それでも、ライブはしてやろうぜ?
老体に鞭打って一花咲かせてやろうじゃんか!」


「もう……、律先輩ったら……」


そうやって呆れた表情を浮かべながらも、梓は苦笑してくれていた。
気が付けば、私も笑っていた。
未来がどうなってるにしろ、不安に思い続けてたってどうにもならない。
結局、私達に出来る事は、未来がいい方向に向かってるって信じる事だけなんだ。
とても難しい事だと思うけど、私達はそれを信じて生きたいと思う。
信じるために、最後に梓にだけ耳元で囁いた
641 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:58:28.35 ID:zmR1v/Ro0
「忘れないよ、梓」


「律先輩……?」


「元の世界がどうなってても、この世界であった事は憶えてたいんだ。
元の世界でおまえとどんな関係になるとしてもさ。
だから、忘れない。忘れたくないって思ってるよ、この世界の事を……」


「私だって……、私だって憶えててみせます……!
元の世界で律先輩が忘れてたら、耳元で怒鳴りますからね……!
本気で怒りますよ……!」


「ははっ、お手柔らかにな。
全部は無理かもしれないけどさ、出来る限りは憶えておきたいよな。
連鎖記憶……って言うんだっけ?
ほんの少しでも憶えていたら、それをきっかけに芋蔓式に全部思い出すってあれだよ。
だから、少しでも憶えておけたらいいなって思う」


「……お願いしますよ?」


「ああ、おまえも、な」


そうして、二人で顔を合わせて微笑み合った。
信じるんだ、未来と自分の想いを。
梓の想いを。


「さて、と……」


私は梓から身体を離すと、目の上に手をかざして周囲を眺めながら言った。


「今更だけど、ここ、京都……だよな?」


「だと、思うけど……」


私の質問に応じながら、澪も私に倣って周囲を見回した。
それに続いて梓、唯、ムギも辺りに視線を向ける。


「やっぱり、京都……だと思うよ?
おさるさんに会いに行く時、通った橋だよね?」


「ムギもそう思うか……。
だったら、やっぱりここは京都なんだろうな……。
まあ、唯の夢の中の京都って意味だけどさ……。
知ってる所で助かったけど、しかし、何でまた京都なんだよ?
京都に何かあったっけか?」


私が愚痴るみたいに言うと、唯が声をちょっと大きくして反論した。


「何言ってるの、りっちゃん!
京都ってすっごいいい所だし、また来たかったんだよ!
私、京都大好きだよ!」


いや、私も京都が嫌いってわけじゃないんだが……。
と言うか、やっぱそういう事だったんだろうな。
今回の京都もそうだけど、さっきまでいたロンドンも、
結局の話、唯がもう一度行きたかった場所だったって事なんだろう。
夢の世界とは言え、強く印象に残った場所でないと再現のしようもない。
それくらい唯は卒業旅行と修学旅行を楽しんでたって事なんだ。
まあ、私だって楽しかったけどさ。
642 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:59:02.47 ID:zmR1v/Ro0
私は苦笑しながら、頬を膨らませる唯に弁明してやる。


「私だって京都好きだぞ?
でも、ちょっと困ったなーって思ってさ。
ライブやる前、競走で最下位になったの私だろ?
だから、今日はハンバーグでも作ろうかと思ってたんだけど、
いきなり京都なんかに飛ばされちゃ、流石に今日のハンバーグは無理だな……」


「ええー……。りっちゃんのハンバーグ楽しみにしてたのにー……」


「仕方ないだろ、まず調理器具集める所から始めなきゃいけないんだから。
大体、今日の寝床も探さなきゃいけないわけだし……。
明日なら作れると思うから、今日は我慢してくれよ」


「うー……、残念だなあ……。
でも、そうだねー……、泊まれる所から探さなきゃいけないもんねー……」


唯と二人で肩を落として苦笑し合う。
大変な事は大変だけど、まだ五人で居られるだけマシだった。
もうすぐ離れ離れにさせられてしまうかもしれないけど、
それまでは五人で協力して元の世界に戻る方法を探していければいいと思う。
過去や現在や未来や、色んな物を胸に抱えて、背負って行きながら……。


「んじゃ、まずはカチューシャ探さなきゃなー……。
ライブも終わったわけだし、そろそろ前髪上げさせてくれ。
これ以上、このおかしー髪型で居させるのは勘弁してほしいしな……」


「あ、ちょっと待ってくれ、律」


言って、私が前髪を上げようとすると、急に澪に止められた。
何故か嬉しそうに笑ってるから、
馬鹿にされてるんだろうかって思ったけど、そうじゃないみたいだった。
澪はレジャーシートの端に置いてあるギターケースの方に歩いて行くと、
腰を下ろして「よかった、あった」と言いながら何枚かの紙切れを取り出した。
レジャーシートの上に置いていたから、ギターケースも転移させられてたんだろう。
いや、それはともかくとして。
澪はその紙切れを手元で二冊に分けると、私と梓に手渡した。
とりあえず、その紙切れに視線を落としてみる。


「『風に乗って流れる私達の今は』……。
おい、これって……」


「新曲だよ、新曲。
律達に聴かせようと思いながら、ずっと聴かせられなかったからな。
今日こそ今から演奏したいんだよ。別にいいだろ、律?」


「いや、それは別に構わないんだけどさ……、
つーか、普通、楽譜渡すのって私達に曲聴かせた後だろ。
いきなりネタバレってどういう事だよ……」


「いやいや、よく見てくれよ、律。
その楽譜はドラムの楽譜なんだぞ?」


「……あっ! 本当じゃんか!
おまえ達、ドラム専門じゃないってのに……」


そう呟きながら、私は心の何処かで納得していた。
澪達が新曲を作曲してるのは知ってたけど、
それにしたって作曲に時間を掛け過ぎじゃないか、って思ってたんだよな。
何でそんなに時間が掛かってるんだろうって疑問に思ってたんだけど、今その疑問が解けた。
簡単な答えだ。私達が居ないのに私達のパートまで作曲していたからなんだ。
特に梓のパートはともかく、私無しでドラムのパートまで考えるのはそりゃ手間が掛かった事だろう。
私と梓の事まで考えてくれていたのは嬉しい。
嬉しいんだが、うん、ちょっと待て……。
643 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 17:59:40.49 ID:zmR1v/Ro0
「おい、澪、ひょっとしてこれ……」


「ああ、そうだ。
今から律達も一緒に演奏してくれないか?」


「ええーっ!」


梓が素っ頓狂な声を上げる。
私だって叫びたかったけど、先を越されてしまった。
梓がおろおろした様子で続ける。


「無茶ですよ、そんなの……!
だっていきなり……、こんな難しい曲……!」


「そうだよ、澪。
いくら何でも急過ぎるって……!
今私達が入ったら、正直目も当てられないくらい酷い曲になるぞ?」


梓と私が波状攻撃で澪の説得に掛かる。
私達だって新曲を演奏したいけど、まだそれには早過ぎる。
これから少しでも練習を積んでからの方が……。
それを私達が言葉にするより先に、ムギが微笑みながら言ってくれた。


「いいんだよ、りっちゃん。
酷い曲になっても、私、それでもいいの。
この五人で新曲が演奏出来るって事が嬉しいって思うの。
だから……」


「私もりっちゃんとあずにゃんに新曲に参加してほしいな。
駄目……かな……?」


唯が上目遣いに私と梓に視線を向ける。
私は梓と顔を向け合って、
少しだけ躊躇って……、でも、二人で苦笑した。
そうだな……。
この世界で回り道をしてる時間が無いって思ったのは私じゃないか。
カッコつける必要はもう無い。
酷い曲だって、下手な曲だって、それが今の私達の曲なんだ。
下手だって思うんなら、これから少しずつ上達させていけばいいだけだ。
今は皆で新曲を演奏する方が大切な事なんだ。

私は頭を掻きながら、「しゃーねーな」と言ってから続けた。


「分かったよ。
多分、酷い曲になると思うけど、文句は言うなよ?
私ってこう見えて天才型じゃなくて努力型なんだからな?」


「うん……、分かってるよ、律。
ありがとう……!」
644 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 18:00:27.76 ID:zmR1v/Ro0
澪達が私に頭を下げるのを見届けた後、
梓は苦笑してから、譜面台に楽譜を乗せた。
梓も私と同じ気持ちだったみたいで、もう弱音は吐かなかった。
でも、最後に一つだけ首を傾げて、楽器の場所に戻る澪達に訊ねた。


「そう言えば、新曲の曲名は何なんですか?
歌詞は書いてあるみたいですけど、曲名が見当たらないんですが……」


梓のその質問に、澪達三人は顔を見合わせて笑顔になる事で応じた。
どうやら意図して曲名を書いてなかったらしい。
なるほど……、そういうネタバレだけは避けたってわけか……。
やるじゃないか……。
やる……のか……?
まあ、いいか。

もう少しだけ笑顔を浮かべ終わった後、
澪達は不意に同時に息を吸い込むと、三人で声を合わせてその曲名を発表した。


「『Singing!』……!
私達放課後ティータイムの新曲は『Singing!』だよ!」
645 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 18:01:14.75 ID:zmR1v/Ro0





新曲が始まる。
この世界だからこそ作曲出来た私達の新曲。
一度だけ全てに目を通してみたけど、曲よりも歌詞の方がとても印象に残った。
曲は勿論、時間を掛けただけあって相当いい出来なのは分かった。
けど、やっぱり心に残ったのは歌詞の方だった。

澪が口を開き、ベースを弾きながらその歌詞を歌い始める。
風に翻弄されて、風に乗って彷徨ってきた私達の今を歌い出す。
私達はずっと翻弄されてきた。
あの一陣の風にってだけじゃない。
人生や、生き方や、時代や、色んな物に翻弄された。
翻弄されて、怖くて、不安になった。
永遠だと思いたかった絆もすぐに崩れ落ちそうになって、
それが悔しくて自分と皆の心を縛り上げて、
無理矢理にでも傍に居る事に偽りの安心を得ていた。
そのままならきっと幸せの中に居られたんだろうと思う、偽りの幸せの中に。

だけど、私達はそれじゃいけないんだって事に気付いた。
皆が自由で、自由のままで皆と一緒に居なきゃ、決して嬉しくないんだって気付いた。
多くの間違いを重ねて、多くの失敗を重ねて、やっと歩き出せるようになったんだ。
だから、私達は道なき道でも歩いて行くんだ。
どんなに多くの不安を重ねたって。
傍に仲間が居なくたって。
一緒に居られた頃の事を胸に抱いて。

ムギが見事なキーボード捌きを見せる。
『天使にふれたよ!』と『U&I』ではブランクを見せたムギだけど、
新曲に関しては何のミスも無く演奏してるみたいだった。
それだけ新曲に対する思い入れが強かったんだろうと思う。
私達の事を心配に思って大切に思ってくれていたムギ。
皆のために医学の勉強までして支えてくれていたムギ。
今は新曲で演奏の根本を支えてくれてる。
皆を大切に思ってるからこそ出来る演奏。
そんなムギを、私も今度こそ支えてあげたいと思う。

澪が精一杯の形相でベースを弾きながら、言葉を音楽に乗せていく。
臆病なのに、自分の恐怖に向き合って、誰よりも前に進む事が出来た澪。
今だって怖いだろう。
本当は逃げ出したくて仕方が無い恐怖がその身を襲ってるんだろう。
でも、逃げない。
逃げずに、多分、ほとんど澪が考えたんだろう歌詞を旋律に乗せる。
感じられるのは澪の強い意志。
どんな世界だって、澪が見ている私みたいに力強く生きてやろうって意志だ。
本当の私は澪が思うほど強くなんてない。
もしかしたら、澪だって私が思うほど強くないのかもしれない。
だけど、お互いがお互いに無い物を持ってるからこそ、
それをお互いの強さだって感じられるのかもしれない。
だったら、少しでもお互いのために強くなってやろう。
それが私達幼馴染みの関係なんだ。

唯がギターを弾きながら澪の歌にコーラスを重ねる。
この世界の根本となる夢を見ている唯。
それは唯が弱かったからでも我儘だったからでもない。
唯はきっと私達が悲しんでるのを見てられなかったんだ。
私達が悲しんで泣いていたから、私達の願いを叶えてくれたんだ。
サヴァンだか何だか、不思議な能力を使ってまで……。
今だって澪と同じマイクを使って、澪の歌を支えてくれてる。
二人で顔を合わせて、笑顔でコーラスをしてくれてる。
全ての物を大切に思う唯だからこそ、私達皆を支えてくれてるんだ。
今度は私達が唯を支える番だ。
どうすればいいのか見当も付かないけれど、絶対に唯を助けてやる。
皆と離れ離れになる事になったって、一人でも唯を助けられる方法を探すんだ。
646 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 18:01:41.38 ID:zmR1v/Ro0
梓……。
梓が四苦八苦しながらも初めての曲に対応していく。
基本がしっかり出来てる証拠だ。
基本を大事にして、それでいて目立ち過ぎず、フォローも怠らない。
梓を部長としている現軽音部の皆は幸せだろうなって思う。
元部長の私としては少し恥ずかしく感じないでもない。
私とは全然違ったタイプの部長の梓。
だけど、私と一番似通ったタイプなのも梓だと思う。
色んな事を抱え込んで、暴走したり失敗したり、
決して天才型じゃない自分に悩んだり、誰かの事ばかり考えてしまったり……。
一見違ってはいるけど、根本ではかなり似通ってる気がする。
だから、私達はこの世界で他の誰よりも一緒に居て、
普段見ない姿に惹かれたり、心を通わせたりする事が出来た。
私はそんな梓が好き……なんだと思う。
恋愛対象としてなのか、後輩としてなのか、仲間としてなのか、それは分からない。
それは今じゃなく、元の世界で向き合うべき事なんだろう。
元の世界に戻った時、この想いは全て消え去ってしまってるんだろうか?
私の想いも梓の想いも夢と一緒に消えてしまってるんだろうか?
それは分からないけど、信じようと思う。
私達の想いはそんなに軽い物じゃなかったはずなんだって。
ほんの少しかもしれないけど、元の世界でもこの想いを憶えてるはずなんだって。
そんな風に未来を信じようと思う。

私はドラムに想いを叩き付ける。
悔しかった事や悲しかった事もあったはずだけど、そんな想いは叩き付けなかった。
今はただ皆と居られる喜びと、未来への希望だけをドラムに刻んでいく。
大体、初めての曲に嫌な気持ちを叩き付けられるほど、私は器用じゃない。
笑っちゃうくらい馬鹿な理由だけど、私はそれで何だか笑えて来た。
これからも笑えていけるような気がした。

曲が終盤に入り、いつの間にか私の胸の中にある予感が湧き上がって来ていた。
元の世界に戻れるって予感だ。
私達は絶対に元の世界に戻れる。
近い日の話じゃない。
でも、決して遠い日の話でもない。
いずれきっと唯と一緒に皆で元の世界に戻れる。
何故だかそんな確信がある。

だけど、元の世界に戻る事が私達の物語の終わりじゃない。
一つの物語は終わるけれど、私達の人生はそれこそ死ぬまで続いていく。
いや、死んだって続いていくのかもしれない。
私達の残した何かがあれば、そこから色んな物語が始まっていくんだ。
私達の物語はいくらでも終わり続けて、いくらでも始まり続ける。
それは嬉しい事であると同時に、怖い事でもあった。
物語の始まりは喜びに繋がるとは限らない。
悲しみや、怒りや、苦しみや、色んな苦難に繋がっていく事の方が多いんだ。
私達の物語にはまだまだ多くの恐怖に満ち溢れてるんだろう。
でも、その私達の物語の中には、確実に喜びの物語もあるはずなんだ。
そうでなきゃ、今の私達はこんなに笑えてないし、幸せにもなれてない。
音楽で繋がり合えて、想いを伝え合える事も出来なかっただろう。
647 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 18:02:25.31 ID:zmR1v/Ro0
だからこそ、私達はまた色んな物語を生きていく。
沢山の音楽と一緒に生きて、沢山の曲を歌を歌っていく。
奏でていく、想いを。
紡いでいく、心を。
私達はそうやって今を、今こそ歌い続けていくんだ。
この先、どれだけ辛い事があって、例え皆がバラバラになったって。
また何処か遠い世界ででも、再会出来た時に今みたいに笑い合えるように。
その先にある未来を、いつまでも信じて……。

だから、その時まで私達は、
いつまでも、ずっと……、




Yes, We are Singing NOW!








               おしまい
648 :にゃんこ [saga]:2012/06/30(土) 18:05:11.80 ID:zmR1v/Ro0


これにて完結です。
長い作品となってしまいましたが、どうにか終わる事が出来ました。
ご愛読頂いた皆さん、どうもありがとうございました。
三日ほど置いておきますので、何かミスや分からなかった事があればお気軽にお訊ね下さい。
長い間、本当にありがとうこざいました!
649 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/30(土) 19:31:11.50 ID:8J/uz3UMo
ずっとROMってたけど毎回楽しく読んでました
乙でしたー!
650 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/06/30(土) 22:00:31.46 ID:NPoik7wDO
>>1さん、長い間本当にお疲れ様でした。とても素晴らしい感動する良いお話でした。
651 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(北海道) :2012/07/01(日) 00:16:49.00 ID:WOAajxKH0
あれ、オチは? なし?
652 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関西地方) [sage]:2012/07/01(日) 02:15:33.76 ID:7/KVD62R0
完走お疲れ様でした!
次回作はあるのかな?また素敵なお話お待ちしております。
653 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大阪府) [sage]:2012/07/01(日) 15:11:58.86 ID:Xy2B+shso
唯は音が違うと言ってたから、唯の世界ではないと信じてたのに

654 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/07/02(月) 10:50:29.41 ID:rdqZImIko
今回も楽しかったです!
シリアスなストーリーだけど、最後には希望しかみえないですね
また次回作も見つけられますように
655 :にゃんこ [saga]:2012/07/04(水) 06:14:06.75 ID:rFGMhcGh0


>>651


この先の話も考えなくはなかったのですが、少し蛇足かと思いここで終了する事にしました。
中途半端に感じられたみたいで、何だかすみません。
この後も様々な事が起こりますが、全員、どうにか乗り越えていくはずだと思います。


>>653


その箇所はこの世界は元の世界とはやっぱり違う…くらいの描写のつもりでした。
そういう考え方もありましたね。
そんな所まで細かく読んで頂けて嬉しいです。
ご指摘ありがとうございました。



これにて本当に終了です。
失敗した点も多かったと思いますが、
このSSを最後まで読んで頂けてありがとうございました。
これを糧にまた何かSSを書ければと思います。
皆様、本当にありがとうございました!
656 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関東) [sage]:2012/07/04(水) 09:58:06.09 ID:cZPRs4bAO
おつ!
よくがんばった!
657 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/07/04(水) 11:00:25.19 ID:Nr9OH34l0
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