このスレッドはSS速報VIPの過去ログ倉庫に格納されています。もう書き込みできません。。
もし、このスレッドをネット上以外の媒体で転載や引用をされる場合は管理人までご一報ください。
またネット上での引用掲載、またはまとめサイトなどでの紹介をされる際はこのページへのリンクを必ず掲載してください。

鐵鋼兵装エリクシアの天使 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

1 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:12:06.41 ID:r2vHYRnw0
パー速から避難してきました。

長編小説です。
つらつらと、空いた時間に投稿させていただきます。

残虐描写などを多く含みますので、R18指定くらいと考えていただければ幸いです。
読者の方がいい気分になれるかどうかは、疑問が残ります。ご注意ください。

途中コメや議論、イラストなど、何でも大歓迎です。
誹謗中傷や感想など、どんどんください。

チラ裏小説ですが、長くなりまして、モチベーションを保てなくなってきました。
お暇な方や奇特な方がいらっしゃいましたら、どうぞ構ってやってくださいm(_ _)m

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1327234326(SS-Wikiでのこのスレの編集者を募集中!)
【 このスレッドはHTML化(過去ログ化)されています 】

ごめんなさい、このSS速報VIP板のスレッドは1000に到達したか、若しくは著しい過疎のため、お役を果たし過去ログ倉庫へご隠居されました。
このスレッドを閲覧することはできますが書き込むことはできませんです。
もし、探しているスレッドがパートスレッドの場合は次スレが建ってるかもしれないですよ。

ぶらじる @ 2024/04/19(金) 19:24:04.53 ID:SNmmhSOho
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1713522243/

旅にでんちう @ 2024/04/17(水) 20:27:26.83 ID:/EdK+WCRO
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1713353246/

木曜の夜には誰もダイブせず @ 2024/04/17(水) 20:05:45.21 ID:iuZC4QbfO
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aaorz/1713351945/

いろは「先輩、カフェがありますよ」【俺ガイル】 @ 2024/04/16(火) 23:54:11.88 ID:aOh6YfjJ0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713279251/

【MHW】古代樹の森で人間を拾ったんだが【SS】 @ 2024/04/16(火) 23:28:13.15 ID:dNS54ToO0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713277692/

こんな恋愛がしたい  安部菜々編 @ 2024/04/15(月) 21:12:49.25 ID:HdnryJIo0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713183168/

【安価・コンマ】力と魔法の支配する世界で【ファンタジー】Part2 @ 2024/04/14(日) 19:38:35.87 ID:kch9tJed0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713091115/

アテム「実践レベルのデッキ?」 @ 2024/04/14(日) 19:11:43.81 ID:Ix0pR4FB0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713089503/

2 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:12:42.93 ID:r2vHYRnw0
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ。
冷たい玲瓏とした水の玉が額を打った。
――あぁ、雨が降ってきた。
ぼんやりと霞がかかった瞳で目の前を見つめる。
腕が動く。足が動く。頭も働く。
声も出る。目も見える。耳も聞こえる。
瓦礫と汚濁の中で、少女はよろめきながら上半身を起こした。
バラバラの髪の毛。綺麗だね、と褒めてもらっていた、自慢の髪の毛。それが見る影もなく一房、二房と散らばっている。
顔を擦ってみると何とも嫌な腐臭がした。手の平は埃とよく分からないもので真っ黒だ。体中、その異臭のする煤に覆われている。
買ってもらった服。産まれて初めて、彼と一緒に行ったデート先でお願いして、買ってもらった大事な服。
その残骸がバラバラと転がり、降りゆく雨と汚濁にぐじゅぐじゅぐとヘドロのような様相を呈している。
転がる人……人、人、人……。
あーあ……。
皆死んでる。
手の平を広げて、見つめてみる。
――ボク?
ボクがやったの?
ポツ、ポツ……ポ、ポ、ポポ……。
雨が強くなった。
脳天を、むき出しの肩を。汚濁に汚された体を洗い流すように。段々と雨がまるで滝のように落下を始めた。
空調管理設備が壊れたらしい。
少女を取り囲むようにして、人間達は皆死んでいた。まるでゴミのように転がり、吐き散らした血反吐の後を地面に残して死んでいた。
不思議と何も感じなかった。
いや、感じることが出来なかった。
近くに転がっている、子供と思しき者の死骸に目をやる。雨が染み込み、みじめったらしくボロボロになっていくそれを見ても、彼女の胸には何も湧き上がらなかった。
――否。
無意識のうちに、口元が不気味に歪んでいた。
それは確かに笑顔だった。
視線をぐるりと回す。
その目の前。五歩歩けば届く先に、十字架があった。人間サイズのそれは合成コンクリートの地面に、無造作に突き立っている。
3 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:13:15.30 ID:r2vHYRnw0
そこには、両手両足を釘付けにされ、骨……そして内臓までもを露出させた、一人の人間の姿があった。
目は見開かれ、半ば飛び出してこちらを凝視している。
生きているときの生気はない。それは、つまるところただ単なる『死人』の眼球だった。
舌はだらりと垂れ、顔の肉は半ば削げ落ちて白骨が見えている。
少女は彼に向けて歩き出そうとし……そして足元の鎖に膝をとられてその場に転んだ。したたかに頭を打ち目の前に火花が散る。
足を見ると、足首に長い……何本ものピンで固定された枷が取り付けられていた。
少女は彼に向かって、手を伸ばした。
しかし、それは。
あまりに遠く。
あまりに、遅すぎたことだった。
あまりに、どうしようもなく。
あまりに、虚無な所業にすぎなかった。
腕を伸ばした姿勢のまま、少女は止まった。
何分……何十分経っても、彼はピクリとも動かなかった。
雨に流されて、全ての汚濁が消えていく。流れ、流れて、何もかも流れて、消えていく。

(あれ……)

少女はふと思った。
いつの間にか、彼女は自分の顔を両手で覆って、体を激しく震わせていたのだった。

(おかしいな……)

そんなことないはずなのに。
そんなこと……ありえていいはずがないのに。
でも。
でも。

(どうしてボクは……笑っているんだろう)

歯をガチガチと鳴らしながら、少女は胸の奥から笑っていた。面白そうに、おかしそうに。ただ、少女は目を見開いて笑っていた。
4 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:14:11.57 ID:r2vHYRnw0
雨の音が全てを掻き消していく。
笑い声も、何もかも全てが流れていく。
そう、今ここにあるのは。
今、ここに存在しているのは。

(ああそうだ)

少女は空を見上げて、大きな声で。
両目を裂けんばかりに見開き。
とめどなく泣き叫びながら、そして笑った。

(もう何もないんだ)

理解。
それは、理解してはいけない事実だった。
笑い声が運んできた、ドス黒い理解。
そう、その時少女ははっきりと。
自分の中の自分が、そのどうしようもなく、抗いようのないほど強力な悪魔に打ち壊され踏みにじられ。蹂躙され……そして跡形も残らないほど砕き去られてしまったのを、心の奥底で感じていたのだった。
5 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:14:53.82 ID:r2vHYRnw0
鐵 鋼 兵 装 エ リ ク シ ア の 天 使

第 一 章   虹 の 悲 雨 が 降 る 夜 は


第一話 魔法
6 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:15:32.05 ID:r2vHYRnw0
ビルが砕け、コンクリートの地面が爆砕し、周囲に街路樹を根元から引きちぎるほどの、凄まじい烈風が吹き荒れた、粉々に割れ散ったガラスの破片が風に混じり、地面に爪あとのような引っかき傷を長く残している。

「対象魔法使いは魔術を展開。威力係数を概算すると、およそBランク上位三十八位の魔法兵器だ。虹、どうする?」

頭上で吹き荒れているその風の猛威を見上げながら、虹と呼ばれた少女は息をついた。

「……Bくらいなら、隠れる必要ない。迎撃する」

「でも、見たことのない系統の魔法だ。詳細も判明してないのに動くのは、懸命じゃないと俺は思う」

もう一人、男性……それも若者の声がする。男性の声の方は、ステレオコンポのフィルターを通したように、時折ざらついたノイズを孕んでいた。
少女は地面に設置されたマンホールの中にいた。このドームのマンホールは、下水路が市民も確認できるように、強化クリア素材で蓋が形成されている。泥棒が多発し、その逃げ道として下水路が使用されたのが、そのように蓋を透明化するという対策だった。
その事実を彼女は知らないが、頭上で巻き起こっている風の真っ只中に飛び込むのではなく傍観できる場所を得るということでは、とても都合がいい場所であったことに他ならない。
下水路の穴は、大人が一人手を広げたくらいの大きさがあった。少女……と言っても差し支えないほどの小さく、小柄な体をした虹は、鉄パイプを曲げたような素材で構成されている梯子を左手で掴み、片手でぶら下がっている状態だった。
虹は、小さな女の子だった。年の頃は十二……三歳程だろう。白金のウェーブがかった髪を、後頭部で小さな房として結んでいる。首には、顔の大きさには似合わない、巨大なヘッドフォン。体にはお尻までを隠す、ワンピースタイプのコート。足は黒タイツに、膝元をカバーする長いブーツ姿だった。
ともすればメディアに露出するようなタレント……いや、どこか人形じみた均整を感じさせる、無機物を連想させるような少女だった。目の色は濁った赤。どこか血の色を思い出させる。
身長は百三十あるかないかだった。おそらく、体重も三十キロに至るか、その周辺かのどちらかだろう。小柄と言うにはあまりにも小ぢんまりとしすぎた体で、彼女は開いている右手に何か重厚で、どうしようもなく無骨で、あまりにも巨大なモノを握っていた。
それは全長百四十センチを超えるほどの大きさの、旋棍(トンファー状の物体)だった。しかし一言で旋棍といえば簡単だが、あまりにも巨大すぎた。幅はそれだけで五十センチをゆうに超える。握り手は銃のグリップのようになっていて、後部にいくにつれて膨らむ構造になっていた。
ところどころに手の平大のビー球のような、青緑色の鉄球が埋め込まれている。後部にはチェーンソーのような回転刃が取り付けられていた。反対に前部には、戦車のキャノン砲のような砲身がすらりと伸びている。
白銀色の、旋棍と呼ぶにはあまりにもおかしい無骨な『よく分からない物体』を軽々と片手で支え、虹は下水路の壁にへばりついていた。
7 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:15:54.93 ID:r2vHYRnw0
「虹、一旦下水道に逃げてから体勢を立て直そう。どっちにしろこの調子で魔法を使っていたら、いずれ奴の魔法力は尽きると思う。そこを叩くのも戦略としてあげられるよ」

男性の声はそう続けた。
それは、虹が右手で支えている巨大な旋棍状の物体から溢れていた。言葉一言一言ごとに、側面に埋め込まれている鉄球が、ネオンのように赤や青など、様々な色に明滅する。チェーンソー部分の近くにスピーカーが内蔵されているらしく、声はそこから響いているようだった。
しかし旋棍にそのように言われた少女は答えず、少し考えてから眼下の下水道に目をやった。悪臭が漂う下水が流れている。高くもなく、低くもなく、微妙な位置。この位置から降りるとどうしてもそこに足を踏み入れることになりそうだった。

「じゃああなただけ降りて」

ボソリと呟かれた言葉を聞いて、旋棍は困惑したようにそれに返した。

「俺だけ落とされたら自力じゃ上がれないから。冗談に聴こえないんだよ……もし下水に沈んだら、虹はドブ臭い俺を拾い上げることになるんだぞ?」

自分を支える手が開きかけたのを感じ、途中から声音が青くなる。虹は息を一つついてしっかりとガゼルを握ると、頭上をもう一度見上げた。

「……あの風の中に入ったら、髪の毛も服も、多分滅茶苦茶になる……」

「心配してるのはそれだったのかよ。そもそも虹がここに隠れたからあいつは俺たちを見失って、無差別に魔法を使ってるんだよ。少しは責任感じようよ」
「どうでもいいし、そんなこと」

端的にそう返し、虹は梯子を掴んでいる左手に力を込めた。そして、片手だけの力で軽々と体を上に引き上げる。

「殺せればそれでいいし……」

「……」

「……」

「…………その話はまた後でしよう……分かった。本当にいいんだね?」

「うん」

「殲滅システムを起動するよ。記録を開始。これより、対象魔法使いの駆逐を認証」

「ピノマシンの散布を開始して。自己認識領域をレベル二十で」

「分かった」
8 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:16:30.97 ID:r2vHYRnw0
ガゼルがそう答えると、旋棍の側面に空いている、幾つかの空気穴のような部分から、白色の煙が溢れ出た。それは僅かな光沢を発しながら虹の周りに集まり、ユラユラと揺れながら球形を形成する。そして、暫くするとフッと透明になり掻き消えた。

「重力子指数七十で固定。負担率加速。レベル二十のモニター、パープル。戦闘行動への移行可能」

「行くよ」

ぽつり、と少女が呟くと同時だった。
彼女は右手で持っていたガゼルをゆっくりとスライドさせ、体の脇で砲身を上斜め先に向けて構えた。

「トレースは?」

「青外認知完了。微動作、直線領域でクリア確認」

「発射」

まるで外に散歩に出かけるような調子で虹が言う。しかし次の瞬間旋棍の前部砲身から噴出したのは、その全ての概念を一瞬で吹き飛ばすほどに強烈で、強大な光だった。
真っ赤なビーム光、と一言で言ってしまえば単純だが。そのワインレッドの光は、常識では考えられないほど太く、そして竜巻にも劣らないほどの渦を描いて砲身から突き抜けたのだった。直径五メートルは超えるだろうか。それが目にも留まらない速さでマンホールの縦穴だけではなく、蓋を、そして地面を大きく抉り、削り、弾き飛ばしながら吹き飛んだ。
一瞬、周囲を閃光弾が破裂したかと錯覚するような強烈な光が覆った。次いで光は、三百メートルほど離れたビルの側面をチーズをナイフで突き刺すかのようにあっさりと貫通し、向こう岸に抜け……そして、球状に収束したかと思った一コンマ後に、渦を描く雲を形成しながら炸裂した。
ごっそりと光が飛んだ軌跡に沿って、アスファルトが削れている。その穴から先ほどまで吹き荒れていた猛風に負けず劣らずの熱風を受けながら、虹は軽く腕に力を込めて、地面の上に飛び上がった。そしてガゼルを構えながらその場を踏みしめる。
光が通過した部分は、削れていた……というよりはよく見てみるとドロドロに溶解していた。鉄を超高熱で溶かしたように。通過した周囲の建物、そして貫通したビルの壁面がブツブツと沸騰し、溶け落ちている。それはアスファルトにも同様のことがいえていた。

「クールダウンまで残り三十秒。ピノ粒子の残存八十パーセント」

「了解。魔法使いの反応は?」

「少なくとも干渉は与えられたみたいだ。さっきまでビュンビュン吹いてた魔術が消えてるから、ひょっとしたら巻き込まれたのかもしれない。いずれにせよ後十分はクルントルナの干渉でレーダーは使えないよ。発射前は十一時の方向三百四メートル地点に確認したから、移動後視認して」

「つまり感知できないってこと……」

「そうなるね」

「役立たず」

ボソリと酷いことを呟きながら、虹はビーム光が通過しドロドロに変化した道に沿って歩き出した。
9 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:17:01.89 ID:r2vHYRnw0
爆発の衝撃を受け、ボロボロと空が剥がれ落ちていた。
ここはドーム……巨大な、半径三十キロ程を球形に覆う建物の内部だ。内壁はスクリーンになっており、空や太陽、月が投影されるようになっている。今は時刻にして昼。中天の太陽が、爆風の影響でところどころはげていた。

「死んだか……蒸発したか…………それとも細千切れになったか……」

端的に恐ろしい呟いを発した虹に、なだめるようにガゼルは言った。

「悪いことは言わないから落ち着いてくれよ。気持ちは分かるけど冷静にいこうよ。ここはこの後、避難してる人達が住む場所なんだ。そんなに怒ってたら誰も住めなくなっちゃうよ」

「あぁ……そう。じゃあもう一発いくよ」

「何で……?」

思わず聞き返したガゼルを一瞥もせずに、彼女は彼の体躯を先ほどビーム光が炸裂した地点に向けた。

「広域セーフティ解除。出力を三百パーセント比に固定して」

「ちょっと待って。俺の話聞いてなかったでしょ!」

「クルントルナ砲、第二射、第三射、第四射、一斉射撃」

「ちょっと!」

攻撃に異を唱えるガゼルだったが、問答無用とばかりに少女はトリガーを握りこんだ。途端、先ほどの熱量とは比べ物にならないほどの規模のエネルギー光が砲口から噴出した。直径十メートルはあるだろうか。それが地面を踏みしめる少女の足を後方に流すほどの勢いで、濁流のように渦を巻きながら噴出する。
真紅の光は先ほどと同じ地点に着弾すると、今度は半球状に収束後、中央に萎んだと思った次の瞬間。光の柱となって天井に向かって飛び上がった。とんでもない熱量が周囲を包み、薙ぎ倒される形で、着弾地点のビル群が溶解し、ドロドロのマグマ状物質になり散っていく。
そんな熱風の中、虹はしっかりと地面を踏みしめて前を見つめていた。彼女の周辺には白いもやのような光が滞留して集まっているのが、赤い光の充満した空間の中で分かる。その霧状物質が熱と風から彼女の体を護っているのだ。
虹が一歩を踏み出すと、もやのフィールドも追従して動き出す。
黒煙と土煙、そして数十メートルにわたり巨大な穴が開いたドームの天井からは、パラパラと砕けた破片が降り注ぐ。
ドームの外は、雪と大粒の雹が降り注ぐ極寒の世界になっていた。周囲全てが氷と雪で包まれている。
そこから雪崩のように冷気がなだれ込み、火がくすぶり続けるドーム内に広がった。
10 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:18:25.18 ID:r2vHYRnw0
「虹、止まれ! 何やってるの!」

完全に予想外の事態にパニックになったガゼルが素っ頓狂な声を上げる。もくもくと煙が立ち昇る瓦礫を踏みしめ、しかし少女は人形のような顔を微動だにさせずに周りを見回した。

「いないねぇ……」

「ゴキブリじゃないんだぞ。君がやってるのはただの環境破壊だよ!」

「ゴキブリの方がまだ可愛げがあるね……どうでもいいよ。報告」

「報告? いや、俺の話を」

「うるさい。早く」

「……」

「……」

数秒の沈黙の後、ガゼルは諦めたようにため息をついて答えた。

「……エネルギーチャージまで、残り二分三十秒。オーバーヒートのゲージがレッド領域。ピノ粒子の残存四十パーセント」

それを確認すると、彼女はまた瓦礫を踏みしめて歩き出した。
ビームの炸裂地点は、まさに地獄のような光景になっていた。白いもやに阻まれて熱量はカットされているにせよ、空気がぐにゃぐにゃに歪むほど、アスファルトや合成コンクリートが溶けてドロドロになっている。所々沸騰して、気泡を発している箇所もあった。ガラスなどもう一枚もない。見渡す限り焦土と化していた。

「酷すぎる。どうして俺達が戦うと毎回こうなるんだ……」

体があれば頭を抱えてうずくまっているだろう絶望的な声を発し、ガゼルが鉄球を青色に明滅させる。
11 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:18:55.62 ID:r2vHYRnw0
「……いない……」

ぐるりを周りを見回し、虹は呟いた。そして今度は地下に向けて砲口を構える。

「下かな……」

「おいやめろ虹!」

「クルントルナ砲、第五射、第六射スタンバイ。狙撃モードオン。出力をフルラインに連結」

「地下には避難した人達がいるシェルターがあるんだぞ。それに、環境維持プラントだってある。クルントルナをその出力でぶっ放したら、融合炉に火がつくかもしれないぞ!」

「どうでもいいし。ボクは別にいいし」

本心の底から煩わしそうに虹が言う。それに対し、必死にガゼルは声を上げた。

「よくないよ。頼むよ。頼むから冷静になってくれ」

「正気だよ。極めて冷静。現時点で出来る最大効率で最適な完全殲滅をするんだ。殺すんだ。殺すの。殺して殺して殺して殺すの。その際の被害なんて、知らない」

「今日ここを吹き飛ばしたら、俺達の泊まる場所がなくなるぞ。また外の氷の下で野宿したいの?」

どもりながらパートナーが言ったことを聞いて、虹は少し考え込んで、口元に手を当てた。

「あぁ……確かに……」

「だろ? ホテルに泊まりたかったら、もっと優しく……ほら、心に余裕を持って」

「消し飛ばしたら、核が取れないねぇ」

「……」

「まぁいいか……じゃあ念のためにやっぱり跡形も残らないくらいに消滅させておこう」

全く話を聞いてもらえない。
いや、彼女には聞くつもりがない。そもそもその気が全くないのだ。
やはり地下に向けてためらいもなく砲口を構えた虹を何とか止めようと、思考をめぐらせる。しかし次の瞬間、彼はこちらに飛来するモノを空動センサーで感知し、声をあげた。

「虹、攻撃。七時のYJ地点」

今度は彼の言葉を聞き、少女は驚くほど従順にその場を飛びのいた。
12 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:19:43.56 ID:r2vHYRnw0
今まで彼女が立っていた場所に、僅差で衝撃波のような渦がぶつかり溶けたコンクリートを周囲に巻き上げた。大きさは両手で抱えられるくらいだろうか。渦を巻くドリルのような形をした空気が続いて一つ、二つと弾丸のように飛来する。
崩れて溶解した建物の中で、割と原形をとどめている部分を跳ね回り、虹は自分よりも大きな破壊兵器を持ちながら軽々とそれらをかわした。そして少し高台になっている瓦礫の上に着地する。
彼女の視線の先には、溶解したマンホールの脇に浮かんでいる一人の人間の姿があった。浮かんでいると表現したのは間違いではない。本当に、そのままの表現で浮かんでいたのだ。
丁度地上二メートルくらいの地点だろうか。そこに、体中火傷と焦げ、張り付いたボロボロのローブ姿の男が浮かんでいた。胸の前で祈るように両手を合わせ、その頭には頭髪はない。いわゆるスキンヘッドだ。

「やっぱり生きてたね……」

「対象魔法使いを視認。撃滅対象に照合完了。マンホールを伝って、俺達と同じように下水道に隠れてたんだ」

ガゼルがそう言うと、焦土の中に浮かびながら、男は周りを見回した。そして歯を噛み締め、虹のことを睨みつける。

「……貴様、頭がおかしいのか? それとも天使とは、人間であろうと、我ら魔法使いであろうと関係なく虐殺する狂人だったとでもいうつもりか?」

「……狂人?」

「まぁその通りだよね……」

「何故人間を考慮せずに攻撃をする! 何かの策があるとでもいうのか!」

ボソリと呟いたガゼルを完全に無視し、虹は怒号を響かせる相手に向けて、言葉を続けた。

「もしかして……人間を盾にすれば攻撃が出来ないだろうと考えてる? 何それ? 幼稚園児?」

そして、彼女は巨大なガゼルの体躯を大きく振って体の脇に構えた。

「もういいや。飽きた。おじさん早速だけどとっととさよならしようね?」

「……何故だ? 貴様は人間の味方ではなかったのか?」

一方的に殺人宣言をされ、しかし表情を硬く閉ざしたまま男は言った。

「人間を護るためではないのか? 違うとしたら、貴様は何故我らを狩る? 類する理由が思いつかぬ。なれば戦闘する理由も……」

「理由?」

しかし、虹は狂気の色を瞳に写しながら、嘲笑するように男を見下ろした。そして口元を歪めて笑みを発する。
13 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:20:44.85 ID:r2vHYRnw0
明らかに幼女としか思えない相手の……その邪悪な表情を受けて男は言葉を飲み込んだ。
言い知れぬ狂った何か。それを感じたのだ。
そう、それはまともに会話をすることは無駄だと思い知らしめるような。
そんな壊れた顔だった。

「敵……ボクはそれを叩き殺し、轢き殺し、刻み殺して、ペーストにして、跡形も残らないほど粉々にしなきゃいけない。理由と聞かれればそういうものだって言うしかないけども」

「何故だ!」

「何故? うーん……敢えて言うならば、楽しいからかな?」

整った顔で目を見開き、虹はガゼルのグリップ近くにあった掴み手を、開いている右手で握った。
彼女の瞳は猛獣が獲物を狙う時のように、まるで月の如くその瞳孔が……開ききっていた。
そしてグンと背後に向けて引っ張る。それが本体から外れると勢いよく、内蔵されていたワイヤー群が引きずり出された。次いで旋棍後部に取り付けられていた巨大なチェーンソーが轟音を立てて回転し始める。

「あんたたちが絶望してるのを見ると、胸がスゥ……ッとするんだ。ドキドキしちゃう。それだけ」

「……」

一瞬、相手は絶句した。
周囲に乾いた風が吹きぬける。

「狂人め……」

一拍後、魔法使いと呼ばれた男は吐き捨てると、大きく両手をドーム空に開いた穴に向けて伸ばした。

「貴様が人間への被害を意に介さずと言うのなら、こちらにも考えがある。ならば、なればこそ! 我の大魔法で地に沈むがいい」

「……まずい。重力子指数を二百パーセントに加速。虹、強力な干渉フィールドが奴を中心に展開してる」

ガゼルの言葉に次いで、男の周辺に青紫色の煙が渦を巻き始めた。それが、まるで天に立ち昇る龍のように極寒の外部に向けて噴出する。
青紫色の龍煙は、そのまま吹き荒れる雪と雹をその身に取り込むと、虹たちの頭上で回転しながら円盤状に収束した。そしてその回転が段々高速になり、直径三十メートルを越える雪と雹の回転鋸のような物体が宙に形成される。

「轢かれ散れ!」

端的な叫びと共に巨大回転鋸が空中で縦になった……と思った瞬間、それが虹の方に向けて急速に落下をした。
14 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:21:38.84 ID:r2vHYRnw0
少女が小さな体で、瓦礫を蹴って横に飛びのく。その地点に寸分違わず、回転鋸は突き刺さった。次いで周囲に散弾銃のように手の平大の雹と、極寒の冷気を撒き散らす。それはドロドロに溶けたコンクリートを一瞬で凝結させるほどの冷気だった。そして固まったところに雹が打ちあたりクレーター状に破砕する。
地面に突き刺さった回転鋸は消えなかった。そのまま、横に逃げた虹の方に地面を砕き、雹と冷気を撒き散らしながら突撃してくる。それが通った後は地面が抉れ、削れ、足元が定まらないくらいの地震を巻き起こしていた。
また飛びのいて避けようとした虹だったが、その体がガクンと揺れて止まった。彼女の右足が、回転鋸の噴出した冷気で凝結した、溶けたコンクリートの隙間に噛み込まれてしまったのだ。

「虹!」

ガゼルが叫ぶ。しかし少女はとっさに動くことが出来ずに、目の前に迫った回転鋸を無表情で見つめていただけだった。
次いで、彼女のいる場所をあっさりと、その狂気の渦は通過した。砕けたコンクリートと冷気、そして雹が嵐のように吹き荒れる。
数十秒経って、その騒ぎは唐突に収まった。回転鋸も溶けるように空中に霧散して消えていく。
それが通った後には、砕けた瓦礫と地面以外に何も存在しなかった。焦土が更に砕き散らされ、まさに廃墟の跡になっている。
砕け散り、蹂躙されつくしたその光景を見て男は息をつきうなだれた。
間髪をおかずだった。
反応さえも出来ない、その僅か数秒後。
彼は、丁度自分の背後で鳴り響く重低音……いや、回転音を聞いた。
――それは、まごうことなきチェーンソーの回転音だった。
背筋に突き刺さるような悪寒以上の何か……殺気、いや違う。
狂気
それそのもの……心臓を針で一突きされたような、そんな感覚を脳の奥深くで感じ、弾かれたように振り返る。
その目に、自分よりも大きな旋棍を振り上げ、空中に飛び上がった少女の姿が映った。
彼女の血色の濁った瞳は、瞳孔が開ききっていた。猫が獲物を狙い、食い殺すまでの単純な目。感情も何もない、機械そのものの目。
そして彼女は、笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに。
瞳孔の開いた目をまっすぐ男に向け、笑っていた。
否、それは嘲笑だった。
それは、男に向けられたものではなかった。
自分自身に、そして、それ以上の何かに向けられた嘲りの笑い。
そう、それは単純な純然たる狂気。
それそのものだった。
15 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:22:37.99 ID:r2vHYRnw0
 胴体から両断され、地面に転がる男を見下ろし、虹は返り血と、血溜まりの中息をついた。
彼女はガゼルを松葉杖のように使って立っていた。右足が、股関節から千切れて無くなっている。
その傷口から、バダバダと水筒を逆さにした時のように、赤黒い血が噴き出していた。

「復元を開始するよ。動かないで」

ガゼルがそう言うと、彼女の周りで停滞していた白いもやが、失われた足の周りに収束した。そして、徐々に光を強くし、足の形を形成する。まるで雪の粘土をこねているかのように、数十秒もかけて足……いや、黒タイツとブーツまでもが光に段々と色、そして質感が形成されていき、元通りに再生していった。完全に今までの様子が形成されると、彼女は二本の足で地面を踏みしめて具合を確かめてから、男を見下ろした。
そして手を伸ばして上半身だけの彼……その首を掴み、軽々と持ち上げる。

「あんなものが大魔法? なめんじゃないわよ」

鼻を鳴らして冷たく言い放つ。その無機質な言葉を聞き、男はガクガクと震えながら掠れた視線で少女を見た。そして、聞き取れるか取れないかのか細い声を発する。

「足を犠牲にして……逃げていたのか……」

「まだ生きてるよこいつ。ね? 殺せば死ぬ分、ゴキブリの方がまだマシだわ」

端的に呟き、彼女は男が額に、ピアスのように埋め込んでいた丸い玉を指でつまんだ。大きさは親指の爪くらいだろうか。男のものは、水色に輝いている。

「や……やめろ……それ、だけは……」

掠れた懇願。しかし虹は、一度男の顔を覗き込み歪んだ笑みを発した後……ためらいもなくそれを引きちぎり、毟り取った。額から噴水のように鮮血が散り、幼い少女の綺麗な顔をベットリと汚す。
玉を取られた男は、何度か痙攣すると白目を剥いて動かなくなった。それをゴミのように投げ捨て、虹は血で塗れた玉を服の端で擦ると、口の中に入れて飲み込んだ。

「対象の沈黙を確認。残存ピノ粒子は三十パーセント。再生待機の必要があるね」

ガゼルを地面に突き立て、虹は瓦礫の上に腰を下ろした。

「…………落ち着いたかい?」

数十秒も経っただろうか。ドーム天井に開いた穴から、極寒の外部より吹雪が舞い込んでくる。相変わらず虹の周りには白いもやが滞留し、寒さからその体を護っていたが……吐く息は徐々に白くなっていった。

「……そんな血まみれでこんなところにいたら、また誤解されるよ。とりあえず、このドームでの血を流せるような、無事なエリアに行こう」

宥めるように言葉をかける、体を持たない兵器。少女は疲れたように肩を落とし、先ほどまでとは打って変わった悲しげな表情でコクリと頷いてみせた。
16 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:47:13.43 ID:r2vHYRnw0
2 狂信者

 警報がずっと……ずっと遅くまで鳴り響いていた。考えるまでもなく、虹が昼間に破壊したドームのこと。そして発見された魔法使いの死体が巻き起こしている騒動だ。
夜、戦闘があった区画と正反対の場所にあるホテルの一室に虹達は宿泊していた。
途中にあった路地裏の水道でびしょ濡れになりながら血を洗い流し、今に至る。元より、ガゼルが持つ服や体の修復機能で細かいところは元通りになったので、あとは髪に絡みついた血などを流すだけだったのだが。
人間の血液は固まると中々剥がれない。
あまりいい知識ではないが……虹とガゼルにとっては、もう日常と言っても差し支えないほど当たり前の知識になっていた。
ホテルの窓にはブラインドが下りている。
このドームでは高級なホテルのはずだったが。元が貧しい機関のために、夜中の暖房はカットされている。加えてドーム内の空調設備も思うように働いていないらしく、外界の極寒の空気が中に吹き込んでいた。
そのせいで施設内部に雪が積もっている。朝になると僅かに気温が調節され、上昇する。そのために窓には、溶けた雪が更に凝固して巨大なツララが形成されていた。
あまりに寒いため、それぞれの部屋には暖炉がついていた。こんな前時代的な暖房器具は滅多にお目にかかれない代物だ。パチパチとはぜる音を立てながら燃えているのは、ゴミを再利用した燃料物。時折コゲくさい臭いが充満する。
ガゼルは体にその臭いがつくのを嫌がり、燃料を使うのを拒否していた虹をチラリと見てから、視線をまた暖炉に移した。
少女は分厚いコート、ブーツ、上着など全てを床に脱ぎ捨て、下着姿になってベッドに包まっていた。こんなんじゃ乾かないんじゃないかなぁ……と思うが、先ほどそれを注意しても完全に無視された。あまり機嫌を損ねたくはないため、彼女自身がそういう態度ならあまり強く言わないことにしている。
それに頭部に当たるチェーンソーの部分に、汗でぐっしょりに塗れた黒タイツが引っかかっていた。
心の中でため息をつき、彼女の体温や匂いを感じることも出来ない自分の体を僅かに呪う。
ガゼルは外の把握を、外装に取り付けられた三十八個のカメラボールから行う。メインカメラは、丁度握り手であるグリップの近くに装着されていた。音の確認や声を出しているのは、全てスピーカーからだ。
本当ならメインカメラの視点を移動させなくても、その大量のカメラアイから外部の様子を確認できるのだが、今はボロボロのチェロケースに突っ込まれているために、使用することが出来ない。かろうじてメインカメラやチェーンソー部分が収まりきらずに飛び出しているが、そこには、カメラを除いてタオルやハンカチがぐるぐる巻きにされていた。流石に明らかに武器だと思われるものをむき出しにして歩くわけにはいかないからだ。
その、メインカメラの上部に虹の黒タイツの左足……爪先の部分が垂れてきていた。
17 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:48:31.71 ID:r2vHYRnw0
……うん。今度、匂いを感知する機能をつけてもらおうかな……。
そんな情緒も何もない妄想を一人で膨らませながら、微動だにせず、壁に立てかけられている。
視線をブラインドの向こうに移動させると、妙な三角帽子を被った集団の姿が見えた。流石に極寒といってもさしつかえないこの気温ではあまり騒ぎ立てるようなことはしていないが、それぞれがライトを持ってうろうろしている。
三角帽子は、目の上まで垂れるほど大きな深緑色のものだった。彼らは手に巨大な聖書のようなものを大事そうに抱えている。そして数人が集まると、雪の中通りの向こうに消えていった。
あれは狂信者……つまり、魔法使いを崇拝している者達だ。さすがに戦闘場所から二十キロも離れたここに、その犯人が隠れているとは分からないだろう。それに、もし奴らが乗り込んで来たとしても、こんなに小さな子供がそれを一人で成し遂げたとは絶対に考えないはずだ。
いや……それ以前に。虹は誰かが乗り込んできたら、きっとそれが人間であろうとなかろうとためらいもなく殺してしまうだろう。だからこそ、あのような狂信者の捜索が今日は及ばないであろうこの区画に宿をとったのだ。
ドームとはいっても巨大な一つの都市だ。ここ『ジェンダ』はその中でもかなりの規模に類するものであり、大小のドームが重なり合って出来ている。昼間に暴れまわって半壊させたのは、東区の三番ドーム。ここは西区の端、十四番ドームだ。
しかし……狂信者はどこにでもいるんだなぁ……と、妙に諦めのような呆れを感じ、ガゼルは心の中でため息をついた。
またブラインドの向こうに視線をやる。今度は子供連れだと思われる狂信者の集団が、数十人束になって三角帽子を揺らしながら歩き去っていくところだった。

――多分、殺した魔法使いの供養をするんだ。

そう思ってしまい、胸の奥に湧き上がってきた吐き気に心の眉をしかめる。まぁ……実際体がないガゼルは、吐き気を催したとしても吐くことはないが。
いずれにせよ、気分がいいものではない。
目の保養をしよう……とカメラ視点を移動させる。
視線の先には、こちらに背中を向けて眠っている持ち主の姿があった。下着がずり落ちて、肩が完全にむき出しになっている。その白い肌をチラチラ、ぼんやりと眺める。

(何してんだろう、俺)

時折そんな自分が虚しくなる。
あと夜明けまでは七時間半もある。ドームは天井に時間によって太陽が投影され、気温が上がっていくために逆算が楽だ。
その時虹が僅かに唸ってから、寝返りを打った。頭だけは僅かに向こうを向いているが、体はごろりとこちらの方に向けられる。半分以上、あまり膨らんでいない胸が露になっている。
――彼女の目ははっきりと開いていた。眠っていないのだ。
毛布の中で膝を抱えるようにして、猫背の姿勢になっている。そして、小さく小刻みに震えていた。
ガゼルの経験上、こういう状態になった虹にはあまり触れないほうがいいということは分かっていた。そっとしておいてあげた方がいい。それが一番なのだ。
18 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:49:32.81 ID:r2vHYRnw0
しかし、今日は勝手が違った。
たまたまごろりとこちらの方に虹の顔が向き、彼女と目が合う。
ボロボロと大粒の涙を零して泣いていた。慌てて外部スピーカーをオンにして声をかける。

「どうしたの? どこか痛い?」

我ながら稚拙な問いかけだと思ったが、こんなことは今までになかったので、動転しなかったといえば嘘になる。
しかし、声をかけられた虹はきょとんとした顔でガゼルの方を向き、逆に問い返してきた。

「……何?」

「何って……」

「夜は話しかけないで」

「ごめん。でも虹、泣いてるぞ?」

控えめに言うと、意外そうに虹は自分の目元を手で拭った。そして暫くそれを見つめ、また毛布に包まる。

「……別に……」

「…………」

そのまま会話が終了してしまった。ガゼルは、慌てて沈黙が訪れる前に言葉を発した。

「約束を破るけど……虹、もう一回言うよ。服をちゃんと乾かすか、濡れてないものを着るか、毛布を増やすかした方がいい。寒いんじゃないかと思う。何なら今形成してもいいよ」

「うるさい」

「でも」

「いい」

はっきりと断られ、また会話が打ち切られる。
ガゼルは心の中でため息をついて、また静かに言った。

「狂信者はここまで来ないよ。散々この辺の情報を検索して、穴場に泊まったんだ。それに……君は良くやったと思う。昼間はきついことを言ったけど、俺らの目的は魔法使いの殲滅だもんな。このドームでは、まずは一人……頑張ったと思うよ。お疲れ様」
19 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:50:23.61 ID:r2vHYRnw0
しばらく、返事はなかった。
虹はまたごろりと背中を向けると、前よりも更に深く毛布を被った。

「……」

「虹?」

「何が分かるの。機械の分際で……」

唐突に冷たく発せられた言葉に対し。答えることが出来ず……いや、訳が分からずに口をつぐむ。

「……」

しかし。
また沈黙した虹に対し、ガゼルは一拍置いて考えてからそっと答えた。

「分かるさ。俺は君の味方だからさ」

随分と長いこと、虹は応答をしなかった。
ブラインドの外では、狂信者たちが続々と民家や教会から出て来る。大きな声で話をしている者もいる。怒号も聞こえるし、すすり泣きの声も聴こえる。
それは異常な音だった。
虹は、更に小さく、あまりにか細い体を丸めて毛布に潜り込んだ。そして、枕元に置いてあった――彼女の頭にしては大きすぎる――ヘッドフォンを手にとって、胸に抱く。

「…………そう…………」

しばらくして、小さく呟く。
ガゼルは声を発しかけたが、もうそっとしておいてやろうと思い直し、言葉を止めた。
20 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:51:14.61 ID:r2vHYRnw0


 真夜半。
やっと虹の小さな寝息が聴こえてきて、ガゼルはホッと心の中で胸を撫でおろした。

(あと三体か)

ぼんやりとそう考える。
このドーム内で検知した魔法使いの反応は四つ。そのうちの一つを今日消し去ったことになる。単純な引き算だ。
しかしそれから更にマイナス一を行うのは、並大抵のことではなかった。
他のドームに比べても、規格外の数だ。ドーム一つにつき魔法使いが一体いるのが普通だが、四体も存在している例はあまりない。

(やっぱり、Hi8(ハイエイト)がいるのか?)

自分で自分に問いかけ、どうにもならないことに気づいてため息をつく。
考えても仕方ない。
とにかく、自分達の素性がバレないように接触してみなければいけない。そして確認し、対処し、最後には殺害できればいい。
そうだ。それだけいいんだ。
――しかし、ガゼルは心の奥に何か別のしこりのようなものが湧き上がって引っかかるのを感じていた。
事実昼間の戦闘で、自分は虹を止めた。
全ての事情を推し量り、理解し、彼女の何もかもをも把握しているはずなのに、また。
何の疑いもなくナチュラルに止めてしまった。

(……人間なんて死に絶えればいい)

そうも思う。

(魔法使いは滅亡すればいい)

心の底からそう思う。
しかし。
何故かいざとなるとそれに対して躊躇してしまう自分がいた。
21 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:52:19.67 ID:r2vHYRnw0
慈悲や感化ではない。そう、もっと単純な感情。それはおそらく恐れだった。

――虹には、その感情が存在しなかった。

もっと深みまで付け加えると、悲しみ、怒りといった負の情念が彼女の心からはすっぽり抜けてしまっている。
それ故に彼女は痛まない。心も、体も。
誰を殺しても、何を壊しても。
彼女は一片の躊躇もなく、思い出すことも、鑑みることもなく、それを踏みにじることが出来る。
そう、心の底から哄笑しながら。
彼女はそれが楽しいのだ。
それが、彼女にとっての悦楽にして他ならないのだ。
本当に心を持っているはずの虹が機械のように破砕し、砕き殺し、轢き殺している中で、ただの道具にしか過ぎず、機械にしか過ぎない自分が恐れを抱いているのは、考えてみればおかしな話だ。
頭の裏にメモリーとして再生される、東区の破壊されたエリアの映像。虹が操作し、自分が発射した熱線分解砲により、天井に溶解した穴が開いた区画。
その後の魔法使いの破壊により、あの地区はもう、復旧までどれくらいかかるのかは分からないが……人が住むことは出来ないだろう。
虹が起きていたら、こう言うのかも知れない。

――それが?

一言。
多分、それが真実なのだ。
心の中でまたため息をつく。
そこでガゼルは、気分を変えようとブラインドの外にカメラアイを向けた。
外の雪はもう吹雪といっても違いのない様相を呈している。元々ドーム内には洗浄のために雨を降らせるスプリンクラーが各所に設置されている。しかしここまでの吹雪になるということは、外界から内部を遮断している内壁……つまり、上を覆うドームのどこかに亀裂か、ほころびが出ていることに他ならない。

(このドームも長くないんだろうな)

心の中で、何とはなしにそう思う。
22 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:53:12.77 ID:r2vHYRnw0
何千、何万とドームが壊れ、その度に人間は死に、魔法使いは移動し。
そしていつか人間なんて死に絶えるだろうと思っていたけど。
まだ、何も変わっていない。
ガゼルはカメラをブラインドの隙間から、路地の方に向けた。吹雪でほぼ真っ白になってはいるが、三階端のこの部屋の正面には街灯が立っており、うっすらと外の様子が分かる。この位置に部屋を取ったのは、もし万が一のことがあってもすぐ脇の非常階段から脱出できること。それに、このホテルの経営者は……いわゆる狂信者ではない。魔法使いを祭る狂信者達には、妙なかなり強い連帯意識がある。それ故に、ドア、もしくは居間には信仰を表す紋様がかけてあるのが常だ。
連帯意識。
……反吐が出そうな言葉だ。
……まぁ、出そうと思っても出すことはできないけれども。
そう思った次の瞬間だった。
異様な感覚が電子脳幹から奥まで突きぬけ、そして消える。
冷や汗のようなもの。
それがこことの中にぶちまけられる感覚が湧き上がったのだ。

(何だ?)

――見られた。

そんな感覚が脳裏に走る。
慌てて外に向けてカメラを走らせるが、吹雪が強く良く分からない。これだけ大粒の雪霰が吹き荒れていては、光学センサーも役に立たない。動体センサーもだ。
ガゼルには熱感知のセンサーは搭載されていなかった。もとより搭載している兵器が高熱を発するものであるがために、戦闘中に誤作動を起こしてしまう可能性が高いからだ。
擬似脳内に格納された、先ほどの映像を呼び起こして巻き戻す。
四秒前だった。
写っている。確かに外で、一瞬だけこの部屋を見上げている人影があった。
ガゼルは映像を止めて確認し、心の中で首を傾げる。

(……子供?)

丁度街灯の下に、子供のような小さな影がある。こちらの方を顔が見上げていたが、やはり吹雪が強すぎてよく分からない。傍目にはマントのようなもの以外は何も着ていないように見える。
何度か補正をかけてみたがよく分からない。
数秒でそれら一連の動作を行い、またブラインドの外にカメラをズームする。しかし、僅かに空いた吹雪の隙からは何も見えなかった。

「何か来る」

しかし、ガゼルは不意に発せられた虹の言葉に、雷に打たれたようにハッとした。視線をベッドに移動させると、少女が下着姿のまま既に床に降り立っていた。そしてツカツカと歩き寄ると、無造作にガゼルをチェロケースの中から引きずり出して、軽々と片手で構える。
23 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:54:07.61 ID:r2vHYRnw0
ガゼルは、握り手の近くにある接続孔から細く、半透明のコードを押し出すと虹の首筋まで伸ばしてあてがった。それがまるで粘土に飲み込まれていくかのように、少女の白い肌に差し込まれ、そして同化していく。
これで自分と持ち主の意識が繋がった。声に出さずとも、脳内に文字を思い浮かべるだけで、脳内通信を介して会話が出来る。

『どうしたの?』

『変な気(オドス)が見えた。すぐ消えたけど、何かおかしい』

『俺のセンサー類には反応がないよ。でも、コレを見てくれ』

受け答え、虹の脳内に先ほどキャプチャした画像を送る。少女はそれを脳内で確認し、鼻を鳴らした。

『何? 意味分かんない』

『俺が聞きたい。魔法使いかな?』

『その可能性も捨てがたいけど。人間というよりは小動物みたいな……。しかも、ボクが気づいた途端に消えた』

『いずれにせよ、そのままの格好じゃ迎撃も出来ないよ。早く服を着て。だからちゃんと乾かしておいたほうがいいって言ったのに……』

しかし虹は、そんなガゼルの言葉を完全に無視して下着姿のまま、彼の体躯を腰の脇にピタリとつけた。そして入り口のドアの方を向く。

『建物の中に入ったみたい』

唐突に発せられた彼女の声に、ガゼルは心の中で目を丸くした。

『ちょっと待て。俺のセンサーには何もないぞ。つまり、この周辺で動いている物体は、俺が事前に確認登録したものだけだ』

『物体じゃない。幽体だと思う。戦闘待機解除。ジェノサイダーを起動して』

『ここで戦闘するっていうのか?』

『じゃあどこで戦闘するの?』

淡白に交わされる言葉には、一切の迷いも何もなかった。
24 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:55:14.04 ID:r2vHYRnw0
自分自身が何も感じることが出来ないことに加え、虹が言っていることの信憑性も良く分からない状況。そんな中で瞬時に判断することが出来ずに、僅かに躊躇した後、ガゼルは内部機能にかかっていたセーフティを全て解除した。

『広域スキャンを開始して。それと、多元干渉の空間エリアの構築を三十サテンスで開始。速やかに』

『分かった。でも昼間の戦闘のせいで、ピノ粒子のストックがまだ七十パーセントまでしか回復してない。それにチャンバーの修復と冷却、調整、ジェダー莢の装填形成が終わってないんだ。クルントルナ砲の発射は無理だ。Bランク以上の魔法使いとの戦闘行動は無謀だ。無理だと分かったら、即撤退して』

『逃げるなら一人で逃げて』

ためらいもなくそう言い放ち、扉に向けて虹は低く腰を落とした。猛禽類が獲物を狙うかのように、瞳の瞳孔が段々と開いていく。

(何だ? どうしてバレたんだ?)

ここまでのステルス行動は完璧だったはずだ。逃走ルート、方法、全て綿密に立てた計画と経路で行った。
パチパチと、暖炉で燃料素材が燃えている。その音がやけに大きく部屋に響いた。
やはり、センサーの類には何の反応もない。念のため赤外線、およびその他光線類でのスキャンを行ってみたが、ホテル内……それも廊下に動くモノはなかった。

『近づいてる。ボクに気づかれたから、気配を消すのをやめたみたい。今、二階の踊り場にいる』

しかし正確に虹は、その何かのナビゲートを始めた。寝ぼけているわけでもないらしい。でまかせではない。

『数は?』

聞くと、彼女は構えの姿勢を崩さずに答えた。

『一……いや、二……? 小さな気(オドス)……ボクにも良く分からない』

しかし、そこまで言って虹の視線が険しくなった。歯を噛み、彼女はガゼルのチェーンソーを回転させる握り手に手をかけた。

『……早い。こっちに向かってくる』

『え? くそ、調整がまだだぞ』

『防護フィールドの展開。構築』

『分かった』

冷静に呟かれた彼女の言葉通りに、後部の噴出孔から真っ白いもやを溢れ出させる。
それらは虹の周りに集まると、まるで白い雪の結晶のようにキラキラ光りながら停滞した。

『……消えた』

『何だって?』

五秒ほど停止した後、虹は押し殺すようにそう言った。
25 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:56:11.69 ID:r2vHYRnw0
『扉の手前でいきなり消えた……』

『いや、虹……後ろだ。後方三時の方向、JU』

ガゼルが数拍も置かずに、脳内通信の声を張り上げる。構えられていた彼のカメラアイのうち一つが、床下からすり抜けるようにして黒い『影』が部屋に入ってきたのを捉えたのだ。
霧のような……いや、タバコの煙のような黒い揺らめきだった。しかし、それははっきりと人間の形を形成していた。
虹はガゼルの指示を聞くと、確認もせず振り向き様にチェーンソーの回転ワイヤーを引いていた。重低音と共にその鉄の凶器が高速に回転をはじめ、周囲に火花を飛ばす。
そして彼女は振り向いた勢いそのままに、ワイヤーを持った手と反対の握り手を離した。
ガゼルの巨大な体躯が、そのまま太いワイヤーに振り回される形で後方……ベッドの上を水平に薙ぐ。
霧のような人影は、あっさりと回転する狂気に首から両断された。そしてまるで蜃気楼のようにフッ、と掻き消える。
自分よりも巨大なガゼルをワイヤーを引き寄せ軽々とキャッチすると、虹はチェーンソーを回転させながら周囲を見回した。

「おち、ついて、ください」

そこで、彼女達の丁度後方から鈴の鳴るような小さな声が聴こえた。子供の……しかも、女の子の声だった。どうしたらいいか分からずに、途方にくれて途切れ途切れに震えている声だった。

『ちょっと待って!』

最悪の想像が脳裏を走り、慌てて持ち主を制止する。
しかし、虹は無表情で振り返ると、回転するチェーンソーの刃を、もう一度あっさりと横薙いだ。
背後に立っていたのは、三角帽子を目深に被り、目元までを隠した小さな女の子だった。とはいっても相当小柄な虹よりは大きい。身長は百三十後半だろうか。癖毛だと思われる赤褐色の髪の毛が帽子の間から覗いていた。首筋からぶかぶかのマントを羽織っている。
回転するチェーンソーは、その女の子の胴体を丁度半分に裂いたところで停止していた。
だが周囲には赤黒い血液も、生ぬるい肉片の四散もなかった。ただ煙のようなものがたゆたっている。
それは、儚くミントの香りがする煙だった。
女の子の体は、映像のように半透明に透けていた。轟速で回転するチェーンソーで腹部を抉られながら、ふらふらと揺れてこちらを見ている。
その目は怯えた小動物……ネズミを連想とさせる、圧倒的弱者……そう、ただ殺されるのを待つどうしようもない無力な恐怖を色濃く移していた。
煙の体をしている彼女は、空気の揺らめきで掻き消されそうになりながら、体を小刻みに震わせていた。寒いのではない。これは、恐れから来る震えだ。
虹は、相手に対して有効な効果を与えられなかったのを確認すると、飛び退ってチェーンソーの回転を止めた。そして砲身を女の子に向ける。

「あの……」

戸惑いがちに揺れている彼女の言葉など完全に無視し、虹は脳内でガゼルに呼びかけた。

『発射準備』
26 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:56:59.27 ID:r2vHYRnw0
『ダメだ、こんな街中で撃てない。それに、まだ冷却が終わってないんだ』

『少しくらい壊れたっていい。撃つよ』

『壊れるのは俺だろ。ちょっと待って』

何とか必死に持ち主を止めようとする。しかし虹は、考える暇もなく火砲の発射トリガーに指をかけた。ここで撃つつもりだ。
この、街のド真ん中で。

(やっぱり……ダメだ)

意識以外の全てのシステムが落ちてしまうため、これだけはやりたくなかったが。
――強制的に機能を切り、彼女を外に誘導する方法をとろうという考えが脳裏に沸く。

「わたし……あの……」

途切れ途切れに、砲口を向けられた女の子は言った。恐ろしくて堪らないというような顔をしている。しかし彼女は、そこで初めて、相対している相手が自分よりももっと小さな少女であることに気づいたのか、両手を胸の前で合わせて、はっきりと口を開いた。

「Hi8の……更紗(さらさ)の、いるところ……しってます。だから、おちついて……」

その単語を聞いた途端、虹の動きが止まった。熱砲が発射される寸前で、トリガーに力がかかっていた指が停止する。
それはガゼルの思考も同様だった。突然発せられたその言葉にどう反応していいのか。
あまりに唐突で、あまりに予想外な単語。
それは、自分達以外の口からは聞く事が出来るはずもない名前だった。

「わたし、音羅(ねら)といいます……あなたの、てんしさんの……み、みかたです……」

胸の前で手を合わせ、女の子が祈るように、嘆願するように声を絞り出す。
彼女はミントの匂いを周囲に振りまき、怯えたような瞳を真っ直ぐにこちらへ向けた。
27 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 21:59:26.21 ID:r2vHYRnw0
3 エンドゥラハン

 しん……と部屋は静まり返っていた。そうでなくとも外は大雪だ。まるでパウダーのように微細な粒に形成された雪は、大抵の音は吸収してしまう。
それに部屋の中にはガゼルが散布した白い、もやのフィールドが揺らめいていた。雪のような構成を形作り、もしもの時のためにある程度までの騒音は低減するようにしてある。先ほどのチェーンソーの轟音も隣の部屋までは届いていないはずだ。
しかしそれでも尚虹がおとなしくなったのは、ガゼルにとっては半分ほど予想外のことだった。もっと暴れまわるかと思っていたのだが、その意に反して彼女は砲を降ろし、乱暴に少女から距離をとりながら口を開いた。

「よく聞こえなかったな……」

「更紗のいばしょをしっていると、いいました」

迷いなくその問いに答え、煙のようにふらふらと揺れながら、音羅と名乗った少女は虹のことを見た。

「あなたたちは、このドームに更紗をころすためにきたのでしょう? しってます。このよにひとりだけ、まほうつかいをころせるひとがいるってこと。ひるま、あなたたちが『左天』をころすのをみていました。だから、おしえてあげなきゃならないから」

あまり喋るのが得意ではないらしい。ただでさえ、先ほど問答無用に斬りかかられたばかりなのだ。
ばれた際に説明するのが面倒なので、ガゼルは目の前の少女に聞こえないように、虹に通信を送った。

『どういうことだと思う?』

『どういうことも何も。さっき砲を発射できなかったんなら、早くここを離れた方がいいと思う』

虹が冷静にそう返す。あまりにも予想外なその落ち着きに、ガゼルはきょとんとして問い返した。

『どうしたんだ? まずはこの女の子をどうにかしないと』

『魔法使いだよ、こいつ』

『見れば分かるよ』

『無形物を操作する系統のもの。物理衝撃は効果がないと思う。砲は目くらましにしようと思ったのに、あなたが邪魔をするから上手くいかなかった』

『あれは囮に使うレベルの兵器じゃないぞ』

『めくらましは大きければ大きいほどいい』

反論しようとしたが言葉を飲み込む。そしれガゼルは目の前に困ったように硬直している少女の事を見た。
体は半透明にふらついている。タバコの煙のようにも、紅茶から立ち昇る湯気のようにも見える。
28 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:00:20.57 ID:r2vHYRnw0
『でも、そうか……だからセンサーに反応しなかったのか。アレは何かの煙だな? 精神魔法の一種だな。心だけを入れてきたのか』

『どんな目論見があるにせよ、どうせ殺す敵よ。まともに話をする必要はないわ。この場所がばれているということは、じきに他のも攻めてくる。時間稼ぎの恐れもある。適当にあしらって離れるわ。それに……ここにこの魔法使いの意識があるということは、本体がどこかにいるということ。まずはそれを見つけ出して叩き殺す。あれにどんな目論見があろうと変わらない。適当に情報を聞き出してここから離脱。殺しに行くよ』

――やはり、正常ではない。

彼女は決して興奮しない。
そして、怒ることもない。
欠落してしまっているのだ。その、人間にとって必要な決定的な何かを、彼女は持たない。
しかし、その一方で冷静な……まるで機械のような状況判断の能力を備えていた。その事実は単純だが、彼女の狂気を冗長させるにはあまりに大きく、どうしようもない要素だった。
少女を無視してガゼルを壁に立てかけ、虹は服を着始めた。まずタイツを穿き、そして慣れた動作でホットパンツやコートを羽織っていく。

「あの……は、はなしを……」

戸惑いがちに胸の前で指をいじりながら、伺うように音羅が言葉を発する。虹は服を全て着終わると、ガゼルを手にとって彼女を一瞥した。

「顔は覚えた。今から殺しにいくから。できればあんたの本体がいる場所も教えてもらえると嬉しいんだけど」

何の迷いもなく発せられたその言葉を聴いて、少女の顔が青くなるのがガゼルのカメラアイに映った。
そのまま部屋を出ようとした少女達を、音羅は叫ぶようにして呼び止めた。

「まってください! そとにでるまえに、わたしのはなしをきいてください」

『虹?』

『構うことない。戦闘モードに早く移行して。速やかに周りをレーダーでスキャン。どうにもオドスの流れが歪んでて、よく見えない。こんな辺境にあれがいるとも思えないし、罠の可能性が高いし。ともかく敵の』

脳内で会話する彼らの声を遮るように、彼女は細い声を張り上げた。

「こんやもうじきこのエリアに、更紗のケンケツブタイがあらわれます。あなたのそんざいは、『右天』のチカラでかんちされているんです。それに、更紗もここにくるつもりです。なんのサクもなくでていけば、ぜったいにころされてしまいます。はやく、べつのエリアににげてください」

一気に言い、音羅は胸の前で両手を祈るように握った。

「ほんとうのことです。もうじきケンケツがはじまります」

そこで虹は、ふと立ち止まり、振り返った。そして意外そうに目を開いて少女の事を見る。
29 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:01:27.60 ID:r2vHYRnw0
「……献血?」

「はい!」

応答してもらえたのが嬉しかったらしく、こくこくと何度も頷いて音羅は答えた。

「このエリアはきけんです。もうすぐ、わたしも……あっ」

そこで音羅は小さく叫び声をあげた。そして自分の左側頭部を押さえて歯を噛み締める。

「だめ……もうすこし……」

何やら小さく、もごもごと呟いているが、その姿が段々と薄れて、空気に霧散していくのが分かる。

「……待ちなさい。献血と言ったわね? 本当にここに更紗がいるとでもいうの?」

虹が声をあげる。しかし、音羅は今度は両手で頭を押さえて、まるで脳内になにかいびつな虫でも飛び込んだかのように、狂ったように小さな頭を振っていた。

「……はやく……にげて、ください」

「下手な芝居はいい。質問に答えなさい」

冷徹に言い放つ虹だったが、音羅の方は反応さえも出来ない状況になっていた。床にうずくまり、頭を抑えている。
その体は小さく、小刻みに震えていた。

「いや……もう、やりたくない……」

同じ単語を何度も呟く少女。煙のようだった体は、今はミントの香りと共に空気中に飛び散り、ほぼ完全に透けてしまっている。

「にげて、いまは」

最後に、そう一つ呟いて音羅の姿は空気に掻き消えた。
パチ、パチと暖炉の火が燃えている。
しばらくは虹も、ガゼルも意味が分からずその場に停止していた。やがて虹が少し早く気を取り直し、扉を乱暴に閉めて宿屋の廊下に出る。

『献血? 何のことだ?』

ガゼルが聞くと、虹は階段を降りながらそれに答えた。

『更紗が人間を喰う時に使う方法。まさかここでその名前を聞くとは思わなかったけれど』

『何だって? じゃあ、本当にここにいる魔法使いはHi8なのか?』

『確証はないけれど、あの煙の言ってたことは事情を知らなきゃ分からないことが何点かあった。それに……もし献血だっていうなら、すぐ分かる。見てればいい。どっちにしろここは引き払うのが無難ね』
30 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:02:24.21 ID:r2vHYRnw0
やりとりをしながら、無造作に宿屋の外に出る。
東区のドーム破損の影響もあるのだろうが凄まじい吹雪になっていた。ガゼルが虹の周りに停滞させたもやのフィールドがなければ前も見えないレベルだ。膝までが白く、淡いパウダーに沈んでいく。

『飛ぼうか?』

ガゼルがそう聞いた途端だった。

『しっ』

軽く虹が、脳内で沈黙を促す言葉を出す。センサーで周囲の様子を探ってみようと思ったが、雪の粒子が強すぎてよく分からない。動体センサーは動的な動きから空気の揺らぎを感知するために、雪の猛風により誤動作を起こしている。

『何……この気(オドス)』

虹が淡白に……しかし、予想外のことが起きた時の小声で疑問を口にする。
センサーが使えない場所では、彼女の感覚に頼るしかない。

『どうした?』

そう聞くと、虹は急いでポケットからハンカチを出し、口元に結んだ。
吹雪に乗って漂ってきているもの……いや、風にはっきりと混じっている香り。
それは、先ほど部屋に来た魔法使いが振りまいていたミントの匂いだった。寒さでかじかんだ鼻腔を、その澄んだ香りが突き刺す。

『ミント……』

『匂いか。もしかして、もうさっきの魔法使いの展開領域に入ってる?』

『そうみたい。それに……何だかものすごく大きな気(オドス)が、こっちに近づいてくるのを感じた。三キロくらい先だけど、凄い速さ。でも、Hi8のじゃない』

虹はそう答えると、通りの真ん中に出てガゼルを構えた。雪のド真ん中で腰を落とした彼女に、慌ててガゼルは言った。

『応戦する?』

『訳が分からないけど、相手が魔法使いなら叩き殺すよ。なまじ実体がある分、さっきのよりまし。ここは大漁ね。入れ食い万歳だわ』

数瞬後、吹き荒れる雪に混じったミントの香りが急激に濃厚になった。目に見えてのことではない。まるでもったりとしたローションに浸かったかのように、体全体がミントの匂いの中に放り出されたかのような錯覚を受けるほど、風に乗って運ばれてくる匂いが強烈になったのだ。
鼻の奥に刺激性のあるハーブ臭が充満し、虹は不愉快そうに鼻を鳴らした。
その時、ガゼルは自分の中に搭載された感知機能の一つの展開範囲に微弱な反応が引っかかったのを確認して、声を送った。

『……確かに、かなり微弱なフィールドだけど、現在向かい二・五キロ先の地点を中心に、重力子指数が急激に増大してる。もう一つ、虹の言うとおりにおかしな重力子の展開がある。これはまだ停滞してるから、何とも言えないな』

『妙ね。でも、襲ってくるなら警告する必要はない筈だけど』
31 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:03:30.91 ID:r2vHYRnw0
珍しく疑問的に虹が言う。ガゼルは少し考えて、彼女に提案した。

『……迎撃を少し待って、様子を見てみるというのは? 君と俺の感知が正しければ、魔法使いが二体向かってきてることになる。この雪の中戦うのは、さっきの子の言葉を肯定するわけじゃないけど無謀の確率が高い気がする。それに、右天とかいう魔法使いの能力も、この匂いの魔法の効果も分からない』

『何が来ようと関係ない。どんな意向があろうと、殺せば全部平等に同じ。それに』

そこで少女は、瞳孔が開き気味の瞳でまっすぐ前を見据え、口元を裂けそうなまで開いて笑った。

『何か違う気がするけど――もし本当に更紗なら、願ったりだわ』

『……』

彼女のそんな様子に、胸の奥のどこかで言い知れぬ不安を感じる。その間にも、周囲を包むミントの香りは強まっていった。気温の低さも相まって、虹の鼻の奥に針で刺すような痛みが走る。
それから少し経った時だった。
ガチャリ、と近くの民家の扉が開き、そこの家主だと思われる男性が顔を出した。慌ててガゼルは、虹に姿を隠すようにと警告を発しようとして……しかし、それを皮切りに次々と家や店……そして宿の扉が開かれたをの見て、言葉を止めた。
いや、唖然としたのだ。
扉を開けた人々は、ふらふらと……まるで夢遊病者のように雪の中に足を踏み出したのだ。それら全ての人間は、虹になど見向きもしていなかった。何か得体の知れない『もの』が向かってくる方向に一様に顔を向け……そして大部分の者達が寝巻きのまま――中には裸足の者も多かった――雪の中に足を踏み入れる。
狂信者の聖典を胸に抱いている人間もいた。
吹雪の中、一言も発さずにふらふらと雪を掻き分け、人々は虹とガゼルの目前……十メートルくらい前のところに、軍隊宜しく整列をした。
まるで吹き荒れる雪など全く感じていないかのように。
寒さも、それによる痛みなど全く関係ないかのように、人々は背筋を伸ばし、次々とマネキン人形のように通りに並んでいく。
どういう状況なのか判断がつけられず、呆然と立ち尽くす虹の後ろ……そして横からも、このエリアに住む人間たちが続々と集まってきていた。まるで蟻のように続々と整列していく。
子供、男、女……そして老人に至るまで全く関係がなかった。それら全ての人間が、目は虚ろに通りにぎっしりと並んでいく。

『何だ? これも魔法なのか?』

こんな系統の魔法は聞いたことがない。
いや……少なくともガゼルが虹に使用されて戦闘を行ったことがある魔法使いの前例にはなかった。
32 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:04:24.71 ID:r2vHYRnw0
魔法とは、本来自分の身を護るためのものだ。
それの大部分が何か一つの事象を体現するものだが、大部分は直接的に外敵に対して威嚇……それ以上の効果を与えることが出来るものであることが多い。変則的なものを何点か知っているが、こんな……。
足元を、雪に埋もれそうになりながら犬……猫、そして汚らしい鼠などが群れを成して人間達の整列に加わるのを見て、ガゼルの存在しない背中に強烈な悪寒が走った。
この魔法使い。
先ほど現れた、音羅という女の子のやろうとしていることを、電撃のように理解したのだ。
そんなバカな。
心のどこかが警鐘を挙げている。
だが、段々と近づいてくる何かの起こす、地鳴りのような振動はその予測を確信付けるには十分な威力を孕んでいた。

『虹。献血って、もしかして……』

『うん』

何でもないことのように少女はケロリと答えた。

『この魔法使い二人組は、人間狩り部隊みたい。多分、一人がミントの匂いがする魔法で生き物を一箇所に集めて、そしてもう一人が献血をさせるんだよ。あの煙は人を操ることもできるみたいね。随分効率的な方法を考え出したもんだわ』

『助けなきゃ』

反射的に脳内で声をあげたガゼルを、虹は冷たい瞳で見下ろした。

『何で?』

『何でって……今、俺達が動けばこいつらみんな死ななくてすむかも知れないんだぞ』

『嫌だよ面倒臭い』

その提案をあっさりと否定して、虹は目の前を見つめた。
そこには、まるで壁のようにぎっしりと人間たちがひしめき合っていた。目算でも百人……いや、その二倍はいるだろうか。
その膨大な数の人間たちは、全てが自分の意思を喪失してしまったかのように口を半開きにして、視界さえ危うい吹雪の中立っている。
33 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:05:41.20 ID:r2vHYRnw0
『あは……ゴミみたい……無理よ。無理』

『無理って言ったって……』

『じゃ、ここからクルントルナ撃とうか? そうしたら、献血で死ぬよりずっと楽に消滅できるけど』

まるで同じ心を持つ生命体とは思えない冷たい声で虹が言う。その台詞はガゼルの心に、悪魔が心臓を鷲し掴んだような壮絶な悪寒を与えた。もし体があれば、怒り……いや、それ以上の何かを超越したものにより体中に鳥肌が立っていたことだろう。

『やめろ。そんなことはもうさせないぞ』

感情の掛け値なしで発した言葉は、虹を沈黙させた。

『でも……』

少しして、戸惑ったように声を発した彼女は、しかし直ぐに口元を楽しそうにほころばせて、ガゼルを構えがてら腰を落とした。

『あ、来た』

反応が一瞬遅れた。ガゼルがセンサーに気をやった瞬間、千メートル地点まで近づいていた何かの速度が急に速くなった。倍速に近い動きでこちらに突撃をかけてくる。

『くそ……飛ぶよ!』

人間達のことを気にしている場合ではなかった。ガゼルが体躯内の駆動系をオンにし、後部噴出孔から勢いよく、前部から取り込んだ空気を圧縮し噴出する。周囲の雪が巻き上がり、虹の軽い体もろとも巨大な旋棍はふわりと浮いた。それと同時に、白いもや……ピノマシンを周囲に散布する。それらのもたらす反作用により空中に浮かび、ガゼルは棍の下部に取り付けられている小型のブースターエンジンを点火させた。虹が魔女の箒のようにガゼルに跨り、空中に飛び上がると同時だった。
何とも嫌な音がした。
機械の駆動音。巨大なモーターが回転し、火花を散らす金属音。そしてアスファルトの地面を破砕し、踏み散らしながら進むキャタピラの音。
何より雪の中からでもはっきりと聴こえてきたのは。
何か柔らかく、大きなモノが次々と硬い、巨大な物体に叩きつけられていく……そんな潰れ、砕ける音だった。
時間にして十秒とちょっと。
空中に飛び上がったのは殆ど紙一重だといってもよかった。
突進してきたモノは、今まで虹が立っていた場所を軽く通過すると、周囲の家々……今まで泊まっていた宿までもを砕き、半壊させ、もうもうと雪と砕けたアスファルト、そして蒸気を上げながら停止した。
空中七、八メートル地点で静止しながら、眼下の様子を確認して唖然とする。
34 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:06:32.71 ID:r2vHYRnw0
『何だ、あれ……』

該当する記録を照合するが、ガゼルの記録にはなかった。戦車……とも違う。戦闘機とも違う。該当するどんな戦闘機械とも異なる形状の物体が、眼下に鎮座していた。
それは一見人間のような形をしていた。しかし、大きさが異常ということを通り越して、もはや狂気と言っても過言ではないレベルに達している。上半身は、鎧を着込んだようないかついデザインになっている。頭部にあたる部分には、盾のようなフェイスガードが取り付けられていた。マネキン人形のように関節が丸出しの腕が四本、左右に二本ずつ揺れている。胴体もやはり、流線型な板を何千枚も重ねたような形状だ。そしてそのモノの膝から下は、一機の巨大な戦車となっていた。やけにキャタピラの部分が大きい。前部には、ゴミ収集車のような口が大きく開いている。
ギュラギュラと不気味な回転音を発しながら、その巨大な何かは眼下で方向転換を始めた。そして、マネキンのような体……全高で五メートルを超えるかと言うその巨体の首をこちらに向けた。

『……鐵鋼騎兵(エンドゥラハン)じゃない……』

ポツリと虹が呟く。聞いたことのない単語に、ガゼルは慌てて聞き返した。

『エンドゥラハン?』

『エリクシア第八。三十四世界干渉のための突貫武装。天使の中でも制圧戦を担当する子が使う、鐵鋼兵装(シィンケルハン)の一形態……どこから見つけてきたんだろう』

すらすらと意味不明な単語で答える虹。ガゼルは少し考え、それに返した。

『どうして天使の武装を魔法使いが?』

『分からない。何より不思議なのは、見たところピノ粒子も生成してないし、反応もないのにアレが動いてること。エンドゥラハンの起動には、中型ドームの一ヶ月分の生成電力が必要になる。だから普通背中には大きなエネルギーパックがあるんだけど、それが見当たらない』

『動力がないってこと?』

『あなただってそれがなきゃ動かないでしょ』

『……魔法かな?』

『さぁ?』

虹の視線は、今まで人間達が整列していた場所にスライドした。
そこには、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
35 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:07:22.18 ID:r2vHYRnw0
――血だ。
血の川だ。
キャタピラに引きずられるように、赤黒い血と砕けたアスファルト、そして雪の混合物が尾を引いている。
死体は一つもなかった。
全てが……飲み込まれてしまったのだ。
虹がエンドゥラハンと呼んだ機械人形の、巨大な下半身……ボックス状になっている下部戦車の部分。そこの前部がパックリと口を開き、ショベルカーのように掻き出す返しまでついているのが雪の合間から見えた。

『人間を轢き殺して、粉々にしながら収納したのか……』

恐ろしい言葉を口にしていると言うのは分かっていた。しかし、声の震えをどうすることも出来なかった。
そんなことがあっていいんだろうか。
そんな、あまりにもありえない……悪魔のような所業があってたまるんだろうか。

――これが世界に、現在七人存在している大魔法使い……Hi8の所業。

人外の怪物が、効率よく血液を絞り取るための所業なのか。
言葉を失っている虹達の眼下で、エンドゥラハンの戦車部分。その口に当たる部分の真っ赤な血でベットリと汚れたハッチが、音を立てて閉まった。
そしてキャラキャラという回転音を響かせながら、血でどす黒い真紅に染められた通りを回り。その巨大な狂気は虹の方を向いた。
……右肩の部分に、人一人が乗れるくらいの大きさをした複座が取り付けられていた。透明な素材で覆われており、内部に人影が見える。

『パイロットか?』

やっとの思いで自我を取り戻し、虹に通信を送る。しかし少女は何でもないかのように……いつもと全く変わらない声音でそれに答えた。

『違う。あれは、多分さっき姿を見せた女』

『じゃああいつが人間を操って一所にまとめたんだな。まとめて血を絞り取るために』

『そうなる。どうやら、エンドゥラハンを動かしてるのは別の魔法使い。頭部にコクピットがある。多分。機械に何らかの条件で干渉できる能力だと思う。動力無視で動かせるとか。理を変換する、条件魔法の一種だと思う』

『厄介だな……じゃあ、干渉条件を満たせば俺も支配下に置かれるわけか』

『そうなったらすぐ自爆させてあげるから』

『勘弁してくれよ……』

いつまでも唖然としているわけにはいかない。即急に対策を立てる必要がある。
36 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:08:37.63 ID:r2vHYRnw0
『離脱しよう』

ガゼルは、こちらを見上げる不気味な鉄の巨人を見下ろしつつ、高度を徐々に上げながら言った。
『何で?』

『分が悪い。一つは、相手の能力が未知数。もう一つは、それに相乗してあの機械兵器の性能が未知数。加えて雪が強くなってきた。これでもかというくらい条件は最悪だ』

『でも』

『俺達の基本スタイルは、暗殺だ。確実に殺せる時まで、不用意に姿を晒すべきじゃない。一度対策を取り直そう。君の体は、弱い子供のものなんだぞ』

しかし虹は、彼に跨りながら握り手を掴み、言った。

『戦闘開始。プログラムを起動して』

『いい加減にしろよ! ここに入ってから君はどうかしてるぞ。確かに魔法使いの数も多いし、強力だ。本当に更紗がいるのかもしれない。でも闇雲に突っかかってたら、二年前みたいなことになるのが関の山だ』

『二年前……何のこと?』

端的にそう言って、虹は続けた。

『……いいじゃない。どれだけ壊されても。結果的にあっちを殺せればそれで』

『……』

『ここで逃げるようじゃ、どの道Hi8のどいつかに遭遇したら確実に殺されると思う。やっと遭えるかもしれないんだもの……』

ガゼルは言葉を返すことが出来ずに、少しの間沈黙した。眼下では、エンドゥラハンがギギ……と金属がこすれあう雑音を発しながら、右腕をこちらに向けて上げるのが見える。それだけでも子供の身長ほどある、やけに長い指先がピンと伸び、爪の部分が魚の口のようにスライドして開く。

『もっと愉しまなきゃ……』

虹はガゼルから飛び降りると、彼の握り手を右手で掴んだ。そして体を空中で反転させ、空中十二、三メートル以上の高度から自由落下しながら、瞳に怪しい色を浮かべた。

『何のためにここまで来たのか、分かんないと思うけど』

『虹、駄目だ、離脱を……』

しかし制止しようとしたガゼルは、そこで言葉を止めざるを得ない状況になった。こちらに向けられた機械兵器の腕……その指先に、雪でブレたセンサーでも感知出来る程の膨大な熱量を検知したのだ。
それは、自分のクルントルナ砲にも匹敵する程の……いや、指先一本一本がそれを越えるほどのエネルギー総量だった。
37 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:09:18.83 ID:r2vHYRnw0
『離脱しよう』

ガゼルは、こちらを見上げる不気味な鉄の巨人を見下ろしつつ、高度を徐々に上げながら言った。
『何で?』

『分が悪い。一つは、相手の能力が未知数。もう一つは、それに相乗してあの機械兵器の性能が未知数。加えて雪が強くなってきた。これでもかというくらい条件は最悪だ』

『でも』

『俺達の基本スタイルは、暗殺だ。確実に殺せる時まで、不用意に姿を晒すべきじゃない。一度対策を取り直そう。君の体は、弱い子供のものなんだぞ』

しかし虹は、彼に跨りながら握り手を掴み、言った。

『戦闘開始。プログラムを起動して』

『いい加減にしろよ! ここに入ってから君はどうかしてるぞ。確かに魔法使いの数も多いし、強力だ。本当に更紗がいるのかもしれない。でも闇雲に突っかかってたら、二年前みたいなことになるのが関の山だ』

『二年前……何のこと?』

端的にそう言って、虹は続けた。

『……いいじゃない。どれだけ壊されても。結果的にあっちを殺せればそれで』

『……』

『ここで逃げるようじゃ、どの道Hi8のどいつかに遭遇したら確実に殺されると思う。やっと遭えるかもしれないんだもの……』

ガゼルは言葉を返すことが出来ずに、少しの間沈黙した。眼下では、エンドゥラハンがギギ……と金属がこすれあう雑音を発しながら、右腕をこちらに向けて上げるのが見える。それだけでも子供の身長ほどある、やけに長い指先がピンと伸び、爪の部分が魚の口のようにスライドして開く。

『もっと愉しまなきゃ……』

虹はガゼルから飛び降りると、彼の握り手を右手で掴んだ。そして体を空中で反転させ、空中十二、三メートル以上の高度から自由落下しながら、瞳に怪しい色を浮かべた。

『何のためにここまで来たのか、分かんないと思うけど』

『虹、駄目だ、離脱を……』

しかし制止しようとしたガゼルは、そこで言葉を止めざるを得ない状況になった。こちらに向けられた機械兵器の腕……その指先に、雪でブレたセンサーでも感知出来る程の膨大な熱量を検知したのだ。
それは、自分のクルントルナ砲にも匹敵する程の……いや、指先一本一本がそれを越えるほどのエネルギー総量だった。
38 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:10:14.36 ID:r2vHYRnw0
『緊急戦闘用プログラム始動。撃滅対象を登録、確認。空戦モードに入る』

その瞬間全ての雑念を払い、ガゼルは体躯の下部をスライドさせ、両手で握れる掴み手を露出させた。虹がそれを片手で掴み。チェーンソーの握り手を引くと同時に、後部のブースターエンジンを全開で噴かす。
体重三十キロに満たない小さな女の子をくっつけた破壊兵器は、そのまま、凄まじい速度で横方向へと吹き飛んだ。次いで、瞬きする間もなく。彼らが落下していた軌道を、エンドゥラハンが指先から放った光……渦を巻いた熱線砲が通り過ぎた。五本のそれは、互いに絡み合い螺旋状の光に結集すると、そのままドームの天井を貫通して、夜の吹雪が吹き荒れる空の向こうへと消えていった。
虹のクルントルナ砲のような単純な破壊ではなかった。通り過ぎた部分を塵に分解し、粉々の砂に飛び散らせている、振動破壊系統のエネルギー兵器だった。

『分子核破砕か。ピノ融合も行ってないのにどうして……』

驚愕の声を発すると、虹は極めて端的に、抑揚のない声でそれに返した。

『……分からない。でも、やっぱりいくら見てもあのエンドゥラハンの中身は空っぽ。動力も何もない。魔法使いの能力なんじゃない? それも』

『冷静に返すなよ! 流石にあんな太いのが出てくるとは聞いてないぞ』

『言ってない。それにそこまで出来るとは知らなかった』

『…………』

空中を蜂の様に飛び回りながら、心の中で舌打ちをする。
現状の打開策を何点か考えてみる。
最も有効なのは、操縦している魔法使いを直接叩き、殺す方法。魔法使いが死ねば、普通はその魔法の効力も消える。
もう一つは、クルントルナ砲の最大出力で、このドームもろとも消し飛ばしてしまう方法。
……どちらも確実性に欠けるし、何よりHi8がドーム内にいるんだったら、後者は使えない。消耗したところを叩かれればお仕舞いだ。

『虹の方から、戦略として上げられるものはある?』

方向転換しながら言葉をかけてみる。
ドーム上部に開いた穴からは、今まで吹き荒れていた吹雪を倍増させたような、凄まじい風と雪……そして雹が飛び込んできていた。家屋の屋根に突き刺さり、手の平大の雹は、まるで隕石のように硬い合成コンクリートも破砕している。
39 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:10:57.97 ID:r2vHYRnw0
真っ白と真っ黒い空気で、視界も定かではない。流されないように飛んでいるだけでエネルギーが急激に消耗されていく。
その眼下で、今度は逆の腕をこちらに向けて上げる機械人形の姿が、何とかカメラに映りこんだ。慌てて逆方向に吹き飛ぶと、今まで舞っていた場所に二本目の破砕砲が撃ち込まれた。先ほどと同様に、ドームの天井が大きく歪み、そして粉々の塵に分解されて散っていく。

『接近戦。エンドゥラハンは、後頭部のハッチからコクピットが離れてなかった気がする。だから、そこにとりついてクルントルナをハイバーストで撃ち込めば簡単に勝てると思う』

『了解。現状の俺のパラメータからしても、砲は四発斉射が限度だ。それでいける?』

『十分』

答えを確認する間もなく、ガゼルは急激にエンドゥラハンに向けて降下を始めていた。そして、ドームの天井に開いた穴から流れ込んできた突風に乗る形で、そのまま巨大な機械人形の背後に回りこむ。
図体が大きいだけに動きが鈍い。
人間なら通常、落下時のGで胃の中の物を撒き散らし、気を失っていてもおかしくない加速。しかし虹は淡白に唇を舐めると、瞬く間にエンドゥラハンの背中に着地した。相当硬い金属らしく、虹の足の骨と共鳴してガィン、という鈍い重低音が響く。
とりついた背中までもが、先ほど吹き飛ばした人間達の血液でベットリと濡れていた。
虹はそれを気にする風もなく、局面的な背を駆け登るとたちまちのうちに巨大兵器の首筋に肉薄した。そしてガゼルの砲口をピタリと押し当てる。

『第一射から第四射までスタンバイ』

『完了。いけるぞ』

『発射……』

しかし、そこで引き金を引こうとしている虹の動きが止まった。足でしっかりと、巨大兵器の首筋を踏みしめて立っている。しかしその腕は、凄まじい力がかかっているかのようにビクビクと痙攣していた。

『どうした、虹!』

そこまで言ってガゼルはハッとした。機械兵器の首筋には、通風孔と思われる孔が無数に開いていた。よく見れば、機体のいたるところにそのような穴がある。
その、虹から一番近い場所。
手の平大の穴から白い煙が流れ出して、少女の体に絡み付いていたのだ。
40 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:12:13.11 ID:r2vHYRnw0
『ミントの匂いがする。やられた……』

関節を逆方向に引っ張っているらしく。虹の体はピクリとも動かなくなっていた。指先にいたるまで、すべての関節に絡み付いている。

『早く撃て、虹!』

『動かない……強化ゴムみたいに固まってる、この煙……』

煙はシルシルと蛇のような音を立てて、強風の中崩れもせずに虹の首筋まで這い上がった。そして、彼女を立ったままエンドゥラハンの首筋に張り付けにし、その細い首を千切れんばかりに締め付け始めた。

『虹! くそ……』

心の中で舌打ちをして、視線を機械人形の右肩……そこにあるコクピットに移動させる。目深にフードを被った、少女と思われる影がそこにあった。水煙草の機械のような……フラスコがとりつけられた巨大なキセルを吸っている。その先端は、そのスペースの壁にチューブで繋がれていた。

『問題ないわ。左足を切り離す』

その時、千切れんばかりに首を絞められながら平然と虹は言い放った。砲身は煙により絡み摂られ、凄まじい力で空中を向けられているが、チェーンソー部分が少女の左足に密着している。煙がもっとも拘束しているのも、同時にその足だった。

『……了解した』

彼女の指示を受け、すぐさま傷口を修復する準備をする。しかし、虹が何とか動かせる指先でチェーンソーを回転させようとした時だった。

『うごかないでください』

その時、はっきりと二人に音羅の声が聴こえた。どこから……と言うわけではない。自分達に絡み付いている煙から、その声が響いてきたのだ。
構わず虹は、スイッチを入れようとして……しかしやはり動きを止めた。
視線の端に、こちらを向いている危険極まりないモノが入ったからだった。
41 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:14:51.45 ID:r2vHYRnw0
それは連装のガトリング砲台だった。ドラム缶に多数のマシンガンを設置したかのような物騒極まりない火気だ。小型のミサイル発射装置もある。それらは、エンドゥラハンの下部……戦車部分の側面や上部から競り出していた。それら全てが虹の方に照準を合わせている。

『……自爆する気か?』

呆然とガゼルが呟く。しかし虹は、ギリギリと首を絞める煙に僅かに顔を青白くしながら、それに返した。

『あんな兵装でエンドゥラハンは壊れない』

『くそ……じゃあ撃たれ損かよ。早く逃げるぞ』

だが、ガゼルのその言葉は遅すぎた。
何の御託も、予兆もなく。
動くのが一瞬遅れた少女に向かって。
本来なら、そんな小さな子供に対してありえることがない鉛球の雨が――まるで土砂降りの雨のように――何のためらいもなく一斉射撃された。
轟音と、火花……黒煙で一瞬全ての視界が消え去ってしまう。だが、それは吹き荒れる吹雪で直ぐに取り去られ。
数秒後には、白い砂漠のようにクリアになった。
自分で自分自身を射撃したエンドゥラハンの外装は、しかし傷一つついていなかった。煤けと焦げが僅かにこびりついているだけだ。
虹を拘束していた煙も、もう引っ込んでいた。
今まで彼女が魔法で縛りつけられていた場所には、血まみれの左腕と、両足……そして、ポタリ、ポタリと地面に流れ落ちる赤黒い血液――飛び散った肉片と思しきピンク色の物体が、ポツリと残されているだけだった。
ズルリ、とそれらが血で滑り、風に煽られる形で戦車部分の上部に落下する。
エンドゥラハンは、しばらくその場でグルグルと首を回していたが、やがて鉄の鳴る音を響かせ、元来た場所に方向転換を始めた。
42 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:16:06.77 ID:r2vHYRnw0
4 ピノ

 ――どこか遠くから。どこか、ぼんやりとした場所から、聞き慣れた彼の声がした。
 
「……フィルレイン、起きろ」

ペチペチと頬を叩かれて、少女は目を開けた。そこは彼の屋敷の玄関だった。外を歩き回ってきて、そのまま座り込んで眠り込んでしまったらしい。

「……あれ……私……」

軽く首を振り、彼に手を引かれて立ち上がる。
……立った瞬間、猛烈なめまいに襲われた。
そのままふらついて倒れかけ、彼に支えられる。抱きついて胸に飛び込んだ形になってしまった。
慌てて顔を真っ赤にさせながら離れる。
心臓が、ドン、ドン、と聞こえてしまうのではないかというくらい盛大に鳴り響いている。
眠っているところを見られた、ということ。そして、よりにもよって玄関で寝てしまったということ。
更にいきなり彼の胸に飛び込んでしまったということで、寝起きの頭の中がぼんやりと煮沸していた。
壁に寄りかかるようにして 下を向いた少女の方を向いて、彼は呆れたように言った。

「……全く。ピノロイドも睡眠不足になるんだなぁ。こんなところじゃなくて、ちゃんと部屋で寝ろよ阿呆」

「でも……」

言いよどんで、彼女は戸惑いがちに指先を動かした。

「だって…………」

上手く言葉に出来ない。しかし青年は小さく笑うと、いきなり近づいてきて少女の頭を撫で、そして猫にするように軽く抱いた。暖かな体だった。自分よりも五十センチ以上大きな、そのガッシリした体に抱きかかえられて体を思わず硬直させる。

「足りねぇ頭でまだ何を気にしてんだ」

囁くように聞かれ、少女はバツが悪そうに目線をそらした。
途端、彼は「ぷっ」と面白そうに噴き出し、やがて胸を震わせると笑い声を上げた。少しだけムッとして顔を上げる。

「バカにしないで……」

「バカになんてしてねぇよ。だが強情だなァ」

「……でも……」

「俺は別に後ろめたいことはなにもねぇ」

何でもないことのように、軽く言われて少女はきょとんと目を見開いた。
43 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:17:13.74 ID:r2vHYRnw0
「……だって……」

「『でも』も『だって』もねぇよ。やりたくないなら断りゃぁいいだろう。お前はもう、俺の家族なわけだ。諦めろバカ。そう毎日夜になったら外に出て行かれると困る。何より……お前、ちょっと臭いぞ」

気づかいも何もなく言われ、少女は耳まで赤くなった。

「ひどい……」

「事実だろ。風呂にも入らず野宿ばっかしてりゃ世話ねぇぜ。ピノロイドったって人間と大して変わらんのだろ?」

「でもわたし……あなたの」

――あなたのために、外に出てるのに
――聞かれるの、嫌でしょう?
――その優しい言葉を、あんな人たちに聞かれるのは、嫌でしょう?
――それに近くにいたら、ますます私が私じゃなくなってしまいそうで――
……怖い……

そう言い掛ける。
しかし、それは口から出る前にかき消されてしまった。
彼が少女の唇に自分のものを重ねたのだ。
何回……いや、何十回目だろうか。

――最初は倒錯していた。

こんなでいいんだろうか……こんなで、私は生きていていいんだろうかと思っていた。
もう、私には生きる理由も、資格もないと思っていた。
キスをする度に……いや、させられる度に、自分が存在していける権利が一つ一つ剥がされていく様な。そんな倒錯した存在感の喪失を毎日……毎日感じていた。
それがいつしか嫌なものではなくなっていたことに、少女は気づいた。気づいてしまっていた。
ゴミと呼ばれ、廃棄対象と呼ばれ、それでも尚拾い上げられて使い捨ての……何の期待もされていない偵察要員に指名され。
そして、それさえも失敗して、抹殺対象にいいように弄ばれている。
しかし、それが――嫌なことではないことに、少女は気づいてしまっていたのだった。
なくなっていくもの一つ一つの代わりに、何か大事な……それ以上のものを彼からもらっているような気がしてきたのだ。
44 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:18:27.54 ID:r2vHYRnw0
――それは、少女が感じていいことではなく。

――それは、彼女にとっては、最もいけない、禁忌の事項に他ならなかった。

身長差が大人と子供程もあるので、彼は壁に手をついて身をかがめている。押し付けられる形で壁に拘束され、今日始めてのキスを交わす。
息も出来ないくらいに乱暴に口を吸われ、脳の芯までがトロンとしてきた頃に、やっと彼は口を離した。
そして軽く笑って、ガシガシと少女の金髪を撫でた。

「俺ぁ、そもそもエリクシアと戦闘するつもりは、二百年前からさらさらねぇんだよ」

「え?」

心底ビックリして、思わず大声を上げる。しかし聞かれた青年は少しだけ考えると、軽く肩をすくめて見せた。

「降伏するわけじゃないがな。何とかお前らと共生していけたらと思ってるんだ。無論人間ともだ。知ってるだろ? だから、無駄な戦闘はしない。だから、俺とお前が争う必要なんてどこにもないわけだ」

「でも……外にいないと不安で……」

「俺は一向に構わんが」

「それでも……エリクシアはあなたたちHi8を全滅させようとすると思うよ……」

何度も、何度も聞いてきた言葉。だが、少女は決まって下を向いて悲しそうに呟くだけだった。
青年はそんな女の子に対して疲れたように見下ろしていたが、やがてまたニカッと笑うと無造作にその小さな手を引いた。

「なら、今日くらいは中に入れよ。ほら、外になんているから凍えてるじゃないか」

「え? で、でも」

「でももクソもねーんだよ。暇なんだよ。中に入って話し相手になってくれ。それくらいしか能がねーんだから」

殆ど無理矢理に手を引かれて連れて行かれる。

――もう、それがばれてしまっている時点で少女の存在価値はない。

いや、彼をしとめそこなった時に、既にそんな意味はなくなっていたのかもしれない。
だが、彼女を組み伏せた後に彼は言った。

――殺すとか、殺されるとかそんなアホみたいなことを女の子が言うなよ――

人間ではない自分を、まるで普通の女の子のように抱きながら彼は言った。

――なぁ、一緒に暮らそう。フィルレイン――

敵である少女のことを抱きしめ、笑いながら彼は頭を撫でてくれた。
捨て犬同然の価値しかない、失敗作の自分のことを愛しそうにしてくれた。それがたとえ、全て仕組まれた演技から……書き綴られた台本通りの発端だったとしても。
彼は少女のことを認めて、そして受け入れてくれた。
受け入れてくれて、しまったのだった。
45 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:19:28.55 ID:r2vHYRnw0


 目を開く。
虹は、ぼんやりと目の前に移ってきた情報を視認しようと脳を働かせた。
目の端が濡れている。それを手で拭おうとして、しかし虹は自分の四肢が何かで固定されて動かないことに気がついた。

「……あれ?」

口に出して初めて、自分が死体置き場のキャリアーのようなものの上に毛布を敷いた、奇妙なベッドに、両手両足をカエルの標本の如く張り付けにされているのが分かった。手首と足首に、皮の拘束具が絡み付いている。
そのままXの字に縛り付けられ、動けなくなっていた。首は回せるので周囲に視線を回してみる。
そこは、低い……独房のような高さの天井に裸電球が一つだけくっついているどんよりとした部屋だった。端の方にストーブが設置されていて、時折黒煙を発しながら熱気を吐き出している。

――ゴミから合成された石炭燃料だ。

それに気づいて思い切り顔をしかめる。
……最悪だ。服にも髪にも、魚の腐ったような臭いが染み付いてしまったことだろう。自分の置かれている状況に戸惑うことより先に、虹はまずそのことに軽く息をついた。
彼女の服は、ところどころ擦れで汚れているものの、体に関してはほぼ無傷だった。ただタイツがビリビリに破れている。右足の方は足がむき出しになっていた。コートもところどころが破れ、インナーまでもがボロボロで真っ赤な血液がこびりついている。ボロ雑巾のようになった箇所もあった。そこからは少女の幼い白い肌が覗いている。
そこで虹は、自分の首に大きなヘッドフォンがかかっていないことに気づいて目を見開いた。

(ない)

その事実に気づいて、慌てて周囲を見回す。
部屋の大きさは、およそ四方三メートル前後。かなり狭い。壊れかけのパイプ椅子が一つに、その先には鉄格子がついた重金属のドアがある。

(……ない……)

強化コンクリートがむき出しな床にも目を走らせ、ヘッドフォンがないことを確認すると、虹は力の限り両腕と両足に力を込めた。しかし、腕の筋と足の健を逆方向に極められているらしく、腕の骨が悲鳴を上げるだけで、体を拘束しているバンドはびくともしなかった。濡らしてあるらしい。拘束具が細い腕に食い込み、肉が破れて赤い血が噴き出しても、少女は引きちぎろうとする動作をやめなかった。
しかし、遂にゴキン、という硬い音が響き、彼女の右肩から急速に力が抜ける。
途端、虹の全身をスパナで捻じ切るような強烈な痛みが突き抜けた。脱臼したらしい。
その痛みと事実に顔色を変えるでもなく、そこで初めて少女は体から力を抜いた。
46 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:20:22.86 ID:r2vHYRnw0
(ボクのヘッドフォン……)

心臓がいつもよりも早く鼓動しているのが分かる。
今ここは何処なのか。
自分はどうしたのか。
それを確認するより先に、大事なこと。
頭の中の何かがそう告げている。

――武器がいる。

意識を集中し、ガゼルの反応を探る。程なくして自分の武具らしき反応は見つかったが、動作している風ではない。停止している。
少し離れた部屋に置かれているようだ。
そこで虹は、相棒の反応がやけに低いことに気がついた。

(……転移修復したのかな……)

記憶が定かではないが、そう推測して天井を仰ぐ。
転移修復とは、ガゼルの外装を構成しているピノマシンを使用して虹の体を再構築する機能だった。恐らく、四方から機銃やスモールミサイルで射撃をされた際、千切れ飛んだ自分の手足の代わりに、ガゼルが自分の体組織を転換して今の虹を構成したのだ。
しかし、この様子と鈍痛から判断するに左腹部、左足、右腕、左手首、左足先、胸部右に損傷があったと考えられる。そのような状況で大規模な修復を行ったために、相対的に相棒は機能休止状態になってしまっているのだろう。

(余計なことして……)

ボソリと心の中でそう呟く。
おそらく、体に当てる修復箇所が多すぎて服の修復にまでは間に合わなかったと考えられる。暴れたために、服の破れ目から僅かに膨らんだ左の胸がむき出しになってしまっていたが、彼女にはそれを気にするそぶりさえもなかった。
そこで、彼女はこの部屋に一人の人間……らしきものが近づいてくるのを感じ、入り口の方に目を向けた。
程なくして、トレイの上にスープとパン……それに――

(ヘッドフォン)

そう、虹のヘッドフォンと思われるものを乗せた男が入ってきた。左足を引きずっているので危なっかしい。
遠目で良く分からなかったが、近づいてくるのにつれてはっきり見えてくる。間違いなく虹のヘッドフォンだった。それを他人に触られている事実を認識し、少女の瞳が血走り、瞳孔が獲物を狙う猛禽類のように収縮する。
男は、そんな虹の様子に気づいているのか、ドアを閉めると入り口近くに椅子を引き寄せ、その上にトレイを置いた。そして壁に疲れたように寄りかかる。
彼は、顔の右半分に合成セラミックらしき光沢を発するマスクを埋め込んでいた。肉と同一化するように、マネキン人形のような無機的なデザインの銀色のマスクがくっついている。口元は分割されていないらしく、鼻下からは普通の人間の顔だった。
残った左半分の顔は、若さを感じさせる生気が感じられた。緑がかった瞳の色をしている。マネキン状態の右にもかかるように、眼鏡をかけている。灰褐色の髪は、ざんばらに伸ばされて背中まで垂れていた。年の頃は二十五、六程だろうか。床まで届くほどのダブダブな白衣を羽織っていた。
しかし、またバンドを引きちぎろうとした虹は、彼の残った左半分の顔をしっかりとその目で確認し、動きを止めた。
47 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:21:19.82 ID:r2vHYRnw0
(泉(せん)……?)

一瞬だけ、心の底から唖然として、その瞬間虹は確かにポカンと口を開けた。
それが、あまりにもそっくりで。
それが、あまりにも心の中の彼の顔に似ていたから。
思わず、動きを止めてしまったのだった。
しかし数秒後我に返り、また脱臼した右腕に気を使わず、バンドを引きちぎろうと悶え始める。
それは、割り切った心だった。
一瞬だけそう思ってしまったが、それはもう為しえない、ありえない事実なのだ。
それに瞳の色が似ているだけで、よく見てみれば相違点の方が多い気がする。
暴れ始めた虹を見て、男性は慌てたように口を開いた。

「暴れないでくれ。そのバンドは合成ランクテンを織り込んである。重量級戦車も持ち上げられる代物なんだ。ほら、血が出てるじゃないか。今治療してあげるから……」

理性的な喋り方だった。
知性と、落ち着きを感じさせる声。
似ている……彼と。
嫌悪感を前面に出した顔を作り、虹は吐き捨てるようにそれに返した。

「返せ」

突然、幼女としか思えない相手に居丈高に言われて、男はきょとんと目を見開いた。

「返せって……何をかな?」

「ヘッドフォンだ。早く返せ!」

気づけばヒステリーを起こしたかのように金切り声を上げていた。男はどうしたものかと暫く迷っていたが、そっとトレイの上からヘッドフォンを持ち上げると、それを示して見せた。

「君は……女の子、だよね? ヘッドフォンって、これのことかな? 君の近くに落ちてた武器……みたいなものにコードが絡まってたから、持ってきたんだ」

「……」

答えずに感情の読めない、今にも爆発しそうな狂気の様相で、虹は彼を睨みつけた。
男性はその視線を受けて、しばらくはヘッドフォンを示した姿勢のまま硬直していた。しかし、やがてそれを降ろし、また壁に背をつけて息を吐いた。

「……返してもいいけど、その前に私と賭けをしないかい? なぁに、簡単なゲームだ。君が勝てば、これは直ぐ返す。もし私が勝てば、君は当分そのままだ、当然これは暫く預からせてもらう。それでもいいなら、ちょっと遊ばないかい?」
48 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:22:23.85 ID:r2vHYRnw0
唐突に、何とも鬼畜な申し出を口にして、男性は伺うように髪の間からこちらを見た。一つしかない緑色の瞳に見つめられ、虹は忌々しそうに吐き捨てた。

「……どっちにしろ、この拘束を外したら殺してやる」

「君みたいな小さな子が、穏やかじゃないな……私は約束だけは絶対に守るよ。そうだな。じゃあアレだ」

勝手に話を進め、男性は部屋の隅を指差した。そこには、手の平大の蜘蛛……赤黒い背中を光にチラチラ光らせ、体毛を頼りなげに隙間風になびかせている蟲がいた。当然のことながら、あまり獲物は獲れないのか細い個体だ。
彼はその蜘蛛を指差し、軽く笑ってから言った。

「アレに、この小さな蜘蛛を近づけてみる」

そう言いながら、彼は懐から小さな、コルクで蓋をしてある試験管を取り出した。そこには小指の先くらいの、灰色の蜘蛛が入っていた。

「どっちが勝つでしょう?」

にっこりと笑って軽く、そう聞いてくる。
しかし虹は、その小さな蜘蛛を見た途端に息を詰めて暴れるのをやめた。

「……」

「君が先に選んでくれ。私は、残りの方でいいよ」

試験管をゆらゆらと振りながら、彼は続けた。
虹は少し考え、そして視線を周囲に泳がせた後。ヘッドフォンにチラリと視線をやってから口を開いた。

「……小さい方……」

「じゃあ私は大きい方だ」

まるで子供が玩具で遊ぶように、彼は試験管のコルクの蓋を開けると、中の蜘蛛を投げるように、大きな蜘蛛の方に放った。
灰色の小さな蜘蛛は、ふわりと壁に着地すると、自分よりも何十倍も巨大な蜘蛛を確認し、次の瞬間蟻や百足のような速度で駆け寄った。そして、瞬く間に大きな蜘蛛に飛び移ると、その腹に牙を立てる。
勝負は一瞬だった。蜘蛛は標的に噛み付くと、大概は神経を麻痺させる毒を注入する。そして、相手が動かなくなったところに消化液を注入し、溶かしながら喰らうのだ。
この場合、体長一センチに満たない蜘蛛が胴体だけでも十五センチを越える巨大な相手に対して……だったが。
巨大な蜘蛛は、しばらく壊れたマリオネットのように自分の糸の上でもがいていたが、やがて何度か痙攣して動かなくなった。
49 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:23:00.60 ID:r2vHYRnw0
「はい、君の勝ちだね」

男性はにっこりと笑うと、白衣のポケットから小さな鈴を取り出した。それを軽く何度か鳴らす。すると、小さな方の蜘蛛は折角仕留めた獲物を放り、壁を伝って男性の方まで這い近づいてきた。それを難なく試験管の中に回収し、彼はコルクの蓋を占めた。

「……勝ちも何もないわ。それ、ピノマシンを注入してバイオロイドに改造したバトルスパイダーじゃない」

呆れたように、小さく虹が呟く。男性は軽く含み笑いをすると、試験管を懐に締まってからヘッドフォンを手に取り、虹に近づいた。そして彼女の枕元にそっと置く。

「何だ、知っていたのかい?」

「感覚で分かる。あなた、服の中に他にも十七個のバトルスパイダーを隠してる」

そう言われ、彼は軽く肩をすくめて頷いた。

「知ってたのか。じゃあ、私の言いたいこと……分かるね?」

「……」

「……まぁ、おいおい話はしていこう。それはそうと、落ち着いたかい? 出来れば、君の傷の手当てをさせて欲しいんだが……それに、外れた肩もちゃんと嵌めてあげなきゃね」

まるで妹か子供に言い聞かせるように、そっと、静かに彼は続けた。

「私の名前は、紅(こう)と言うんだ。ここはジェンダドームの地下。対魔法使いの反抗派の拠点だよ。君が魔法使いと交戦していたのは知っている。そこから安全な場所に、勝手だけど運ばせてもらった」
50 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:24:04.66 ID:r2vHYRnw0
 どうして彼の言うことに素直に従う気になったのか、虹には良く分からなかった。
つまらない蜘蛛の狩りショーを見せられ、命の危険を自覚させられてしまったということもあるが、何よりその緑色の瞳を見ると、いつもならためらいなく叩き殺そうとしている感情が、別方向からの緩やかな波に押しとどめられていくような……そんな感覚に襲われるのだ。
紅は虹の拘束を全て外すと、白衣から消毒液と抗生スプレーを取り出し、カサブタのような膜を傷に張り付けた。
そして、少女の肩に手を当て、力を込めて骨を嵌める。表情を変えもしない虹を見て怪訝そうに彼は口を開いた。

「……大丈夫? 今のはかなり痛かったと思うけど……」

「触るな……」

「意地を張っても痛いだけだよ。それにそんな話は聞いたことないな。待ってて。固定するから」

そう言い、傷に包帯を巻き、慣れた動作で右腕も肩から吊り下げるようにしてやる。その間虹は、ずっとぼんやりと彼の横顔を見つめていた。
十数分も処置を行い、やがて彼は息をついてトレイをベッドに置くと、上半身を起こした虹の前にパイプ椅子を引いてきてそこに座った。

「後でレントゲンを撮った方がいいな」

「いらない」

「……縛り付けたことは謝るよ。ただ、魔法使いを相手に戦っていたと聞いたからね……それも、あれとだ。正気とは思えない。昨日の東区エリアの爆発も、君の所業なんだろう? こちらとしても、慎重を期す必要性があったんだ」

「今はないの?」

淡白な冷たい声でそう虹は呟いた。しかし紅は軽く笑って、疲れたように肩をすくめた。

「どっちにしろ私は君を傷つけることはできないよ」

「……」

答えずに、ヘッドフォンを左手で持ち上げ、虹は大事そうに胸に抱きかかえた。
そのまま数秒間沈黙し、やがて彼女はやる気がなさそうな視線を紅に向けた。

「……何? 本当に殺すよ」

「食事を持ってきたんだ。君が安全な子なら、ちゃんと食べて元気になってもらおうと思ってね」

「安全? ボクが?」

「私には小さな女の子にしか見えないけどな。それに、たとえ君がピノロイドだとしても、デバイスがなければ傷を治すことも出来ないだろう? 見たところあのデバイスは動作休止しているみたいだし、私から見れば今の君は、小さな小さな患者なんだよ」

彼がピノロイドという単語を口にした瞬間、虹の目の色が変わった。瞳孔が気味悪く収縮し、ヘッドフォンを抱いたまま彼の方を向く。
51 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:25:12.81 ID:r2vHYRnw0
「……どうして? 答えによってはただじゃおかない」

「怖いな……どうしてそんなにピリピリしているんだい?」

「……」

「暴れるつもりなら、君をまたそこに縛り付けるしかないな……」

こともなげにそう言い放ち、紅は困ったように頭を掻いた。

「縛ってどうするの? 慰めてくれでもするのかしら……御免こうむるわ」

淡々と、どことなく辻褄が合っていないことを呟く虹を暫くの間見つめて、彼は言った。

「患者に手を出す医者がどこにいるんだい」

「医者なんて全部そんなものよ」

「違うよ。私はその中でもスペシャルな医者さ。危害を加えるなら、とっくにそうしてる。君だってそうだろう?」

「……」

ばれている。
ガゼルが手元にない虹には、何の脅威もないことが完全に把握されてしまっている。
また意識下で相棒のことを探ってみるが、再起動には至っていないようだった。起動さえすれば何とかなるのだが、体の大部分を構築する修復機構起動後、おそらく十五時間程度は休止が続くはずだ。少なくとも、すぐに復帰する可能性は低い。
そこでふと、虹は自分の手が小さく震えていることに気がついた。意思とは無関係な体の反応だった。指先がまるで壊れたマッサージ器のように痙攣している。
そのままヘッドフォンを強く抱くことで、手の痙攣も握りこむ。
紅はその一連の動きを見ていたが、彼女が自分から視線を外したのを確認して立ち上がった。

「……服がボロボロじゃ私も目のやり場に困るな。今病院服を持ってきてあげるよ」

「……」

「名前は、何て言うんだい?」

去り際にそう聞かれ、虹は横目でチラリと彼を見た。

――答える義理はなかった。
――黙っていてもいいことだった。

「……虹……」

呟いた後に、少女はそう思った。
52 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:26:36.42 ID:r2vHYRnw0
5 灰の世界

 渡された病院服に素直に着替え、虹はボロボロになった服を脇の方に放り出した。全く紅のことを気にしない振る舞いに、彼は一応便宜上視線を逸らし、彼女の行動が終わったのを見計らって椅子に座りなおす。
虹はベッドの上に疲れたように腰掛け、彼のことを見た。

「……何がしたいの?」

「ん?」

淡々と聞かれ、青年はきょとんとした後、少しだけ意外そうに微笑んでみせた。

「何をも何も、私達は魔法使いと敵対していてね。端的に言うと君の力を借りたいんだ」

「敵対……?」

その単語を聞いて、虹は心底あざけるように鼻の端を震わせて言った。

「自分でやれば? 貸すと思う? そんな義理ないし……バカじゃないの? 死ねば?」

「貸してくれるさ。現に君は今、私とこうして話をしている」

「はぁ? 根拠ないでしょそれ……」

「あながち根拠がなくもない。君は私の顔を見た途端、暴れるのを一瞬止めたよね? それに、今だって私の顔を直視しようとしない。どうして?」

遠慮も解釈もなく問い詰められ、虹は珍しく口をつぐんだ。そして視線を外し、胸にヘッドフォンを抱いたまま毛布を手繰り寄せる。

「助けてほしいとは言ってない。勝手に連れてきたんだ。ボクは何も悪くない」

「……」

「出てけ。その顔でボクの前に立つな。気色悪い……」

「悪いけど、そういうわけにもいかない。君を助けるために私の仲間が何人も重傷を負ったり、怪我をしたりしたんだ。あの大型兵器の注意を引こうとしてね。私は彼らをまとめる者として、少なくとも君に話を聞いてもらわなきゃいけない

諭すようにゆっくりと、静かに言い聞かされる。しかし虹は生気のない瞳を彼に向けると、ゴミでも見るかのように瞳孔の開いた視線で紅を直視した。

「殺すよ?」

歪んだ口元から、予想だにしていないほどの凶悪な言葉が発せられる。その言葉を聞いて、紅は額を押さえるとため息をついた。
53 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:27:43.81 ID:r2vHYRnw0
「……いくらピノロイドっていったって、痛みは残るはずだろう? どうしてそんなにツンケンしていられるんだい。私は敵ではないと言っているじゃないか」

「……」

「…………」

「何が分かるの?」

しばらく見つめあい、やがて紅は頭を掻いてから続けた。

「まぁ、あらましになるけど……ピノロイド。エリクシアが魔法使い抹殺のために作り出したピノマシン兵器」

静かに発せられる情報に、しかし虹は全く反応をしなかった。毛布を手繰り寄せ、ベッドの上で両足を体に引き寄せる。

「ナノマシンよりも小さい、原子核レベルの機械の集合体。その展開構造は生命体や空間の理を支配して、構成することが出来る」

「……」

「君は、その生体兵器の一種だということまでは把握してる」

「……」

「最も……今は天使はどこにもいない。多分現存して稼動してる個体は君だけらしいね」

そこまで言って、紅は小さく笑った。

「そんな貴重な存在を、みすみす手放したくないな。何としてでも仲間になって欲しい」

その言葉を言い終わるか、終わらないかのうちに紅の顔面に、自分が持ってきた食事のトレイが打ち当たった。白衣と髪を飛び散ったスープがベトベトに濡らす。
生暖かい水滴を垂らしながら、紅は肩をすくめてポケットから出したハンドタオルで顔と服を拭いた。そして遂に毛布に顔をうずめた虹に、息をついて語りかける。

「……私は、君の婚約者を知っている。いや……そういう言い方はおかしいな。伝え聞いているといった方がいいか。あの繰り返す者のことを、私は知っているんだ」

「……?」

そこで初めて、虹は顔を上げてまっすぐ紅のことを見た。

「何で?」

「簡単なことさ。私は、彼のコピーなんだ」

そう言って、青年は自分のマネキン人形のような左半分の顔を、指でこんこんと叩いた。
54 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:28:51.52 ID:r2vHYRnw0
「組成体は人間に近いけど、私はセクサロイドさ。Hi8のところで飼われていてね。あることで、そこから逃げ出したんだ」

「セクサロイド……?」

意味が分からない、という風にオウム返しに虹が聞く。しかし、数秒後彼女は目を見開いた。そして顎をかすかに震わせながら、もう一度問いかける。

「……は……?」

「私も昔はそうだったが、不興を買ってしまってね。逃げ出したというよりは、実は半分廃棄をされたという方が近いかもしれない」

「……」

「その表情を見て確信がついたよ。今までは正直半信半疑だったが……」

その途端、虹は布団を蹴立てて立ち上がっていた。そして脱臼した腕を気にかける風もなく、瞬く間に紅に肉薄すると、彼の首を掴んだまま壁に叩き付けた。そのまま、自分の半分ほどしかない背の女の子に首をギリギリと絞められ、紅は半分の顔を赤くしながら、彼女の手を握った。

「わ……悪かった。しかし……私は君の全てを知っているわけじゃない。悪気はなかったんだ……落ち着いてくれ」

「有機アンドロイドも確か、舌がないと喋れないわよね……」

僅かに焦点がぶれた表情で、虹が囁くように呟く。そして彼女は脱臼した方の腕を上げて、彼の口に手を突っ込んだ。
その一連の行動は脅しではなかった。
瞳孔が開ききった瞳で見つめられ、紅の額に汗が流れる。そして、彼女の細い指が青年の柔らかい舌をつまんだ途端だった。

「紅!」

突然部屋の中に、聞き覚えのある少女の声が響き渡った。次いで虹の体に白い煙のようなもの……一見して紡がれたロープのように見えるものが絡みつき、そしてそれは振り子のように振り回すと、反対方向に向けて彼女を投げ飛ばした。脱臼している方の腕を反射的に突き出してしまい、受身を取り損ねて虹はしたたかに合成コンクリートの壁に額を打ち付けた。パッ、と視界に赤い光が散り、それと同時に肉が裂け、どろりとした鮮血がベットリと壁を汚した。頭に衝撃を受けてしまったため、周囲の光景がぐるりと回転する。そのまま床に倒れこんだ虹の目に、扉をすり抜けるようにして表れた音羅の姿が映った。
ミントの匂いを振りまきながら、煙で出来た少女は倒れこんでいる紅の様子を見ると、一瞬唖然とした後、たちまち憤怒の表情を浮かべた。そして煙の腕を振り上げる。そこに、周囲をたゆたっていたミントの匂いを持つ白い煙が渦を巻いて集まっていき、数秒後には手首から先が子供の胴体ほどもある槌の形に変わる。
魔法だった。
動けない虹を叩き潰そうと、彼女がそれを振り上げた時だった。

「やめろ、悪いのは私の方なんだ」

紅が煙をかき消さんばかりの声を上げた。その声を受けて動きを止め、しかし煙の少女は上ずった言葉でそれに答えた。
55 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:29:53.88 ID:r2vHYRnw0
「でも!」

「やめるんだ。折角話を聞いてもらっていたんだ。君は奥に下がって!」

「どう見ても話を聞いていた雰囲気じゃなかったじゃない!」

「いいんだ、どいて!」

そう言って紅は彼女の煙の体をすり抜けると、床の上で額を押さえて呻いている虹に駆け寄った。そして壁に軌跡を描いた血痕を見て、慌てて彼女の上半身を抱き上げる。
見かけよりも、かなり凄まじい力でぶつけられたらしい。虹の視線は定まらずに、焦点の合わない瞳が紅を探している。

「大丈夫か、しっかりしろ!」

「……ころして……やる……」

歯を噛み締めて虹はそう呟いた。

「お前ら皆殺しにしてやる!」

そして金切り声を上げ、飛び跳ねるように立ち上がろうとして……失敗した。そのままぐるりとよろめき、膝から床に崩れ落ちる。

「……あれ……」

体中がわなわなと震えていた。動きが自由にならない。
額を抑えて動きを止めた虹を背後から抱き寄せ、紅は音羅に向かって怒鳴り声を上げた。

「仕方ない……早く、この子のデバイスを持ってきてくれ!」

「もういいよ、やっぱり殺そう。変更だよ。今ここで……」

「落ち着いて。今までの苦労が全部水の泡だ。ここまで漕ぎ着けたんだから、諦めるのは早いよ。目的はそこじゃないでしょう!」

「そ、そんな……」

「……早くあれを持ってきて!」

音羅は、暫く紅と虹に代わる代わる視線を彷徨わせていたが、やがて忌々しそうに眉をしかめて目を閉じた。その背中の方から伸びていた煙の一筋が扉に向かい、ノブを回して開く。そこからもう一本の煙が伸びていき、やがて巨大な旋棍……ガゼルをずるずると床に引っかき傷を作りながら引き寄せて、部屋の中まで引きずり込んだ。
ところどころ外装が欠け、ガゼルの内装はむき出しになっていた。欠けている部分は、まるでブロックノイズのように角ばった傷になっている。
その内部機械におびただしい数の煙が入り込んでいた。音羅はその巨大な凶器をベッドの上に乗せると、中に滑り込ませていた煙を引き抜いた。蛇のように白い糸が抜けていくと、ガゼルの体に取り付けられているカメラアイが一つずつ点灯していく。
56 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:30:43.41 ID:r2vHYRnw0
数秒後、旋棍のスピーカー部分から格式ばった駆動音がもれた。
次いでザザ……という砂を擦り合わせるような音がして、メインカメラに青い光がつく。
次の瞬間、ガゼルは虹の姿を確認して素っ頓狂な声を上げた。

「虹……!」

「違うんだ、誤解しないでくれ。それより早く彼女の治療を……」

青くなって紅が叫ぶ。ガゼルは少しの間何か言いたげに沈黙していたが、考えている暇はないと判断し、噴出孔からおびただしい数のピノマシンを散布した。部屋の中に白銀色のもやが充満し、虹の頭部に集中していく。それは彼女の肩や腕の傷にも集まっていくと、淡い黄色に発光し始めた。
数十秒も立たずに煙は引き、虹の額から溢れて出ていた血液も逆行するように停止する。

「虹、目を開けろ!」

彼女の治療が完了したのを確認し、ガゼルが怒鳴り声を上げる。それに音羅の煙が反応するよりも早く、虹は血が混じった咳を漏らし、紅を突き飛ばして立ち上がった。そしてガゼルを掴み、持ち上げ……砲口を音羅に合わせる。

「クルントルナ砲、残存エネルギー斉射スタンバイ」

「了解、発射可能だ」

彼女の命令に対して速やかにガゼルが答える。
状況を認識するよりも何よりも先に、この状況の打開と逃走のきっかけを作ることを目的とした認証だった。

「やめろ! 落ち着いてくれ!」

だが、倒れこんだ紅はそう叫ぶと、虹と音羅の前に飛び込んだ。そして砲口を掴んで、ガゼルを奪い取ろうとする。
しかし、その手はまるで固定された重金属のようにピクリとも動かなかった。先ほどの治療と同時に、彼女の身体能力を物理保護するピノマシンのフィールドを、ガゼルが展開していたのだ。

「構うな、虹……撃て!」

ガゼルは、少女の指がトリガーにかかっていることを確認してそう声を発した。
一秒経ち、二秒経ち。
しかし虹にはトリガーを引く気配がなかった。
脂汗を浮かべた顔は歯を噛み締め、渾身の力を指先に込めている。
しかし、それから先がどうにも体が動かないようだった。
それは身体的な硬直ではなかった。
時折、ガゼルを握る虹の目の色が変わる。怒りと憎しみを含んだ狂気の色から、チラチラと焦点が合わない、猫のように瞳が収縮し、猛獣のそれとなっているものと点灯するように切り替わっている。
57 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:31:36.94 ID:r2vHYRnw0
数秒たち、頭を振り。
砲口にしがみついている紅を見て、彼女は砲のトリガーに指をかけたまま、ガゼルの体を勢いよく振った。それに軽々と紅が振り回され、先ほど虹がされたように壁の方に投げ飛ばされ、床を転がる。

「どうした!」

ガゼルが叫ぶが、少女はもう一度紅の方に砲口を向けた。
しかし、また腕の筋肉が痙攣し、整い、しかし焦りの色を浮かべた顔が一瞬弛緩し、まるで別人のような、マネキンを連想とさせる無表情になった。口元をぐにゃぁ、と曲げて乾いた笑みを発したあと、虹はハッとして表情を元に戻した。
そしてまた腕を振り上げようとしてから動きを止め、歯を噛みしめる。
一瞬後、彼女は砲口を逸らしてからチェーンソーを回転させるグリップを思い切り引き込んだ。轟音を立てて鉄の凶器が回転し、虹はそれを振りかざして紅に向けて腕を振り上げた。
彼女の体に、音羅が伸ばした煙が絡みついたのと、ガゼルが振り下ろされたのはほぼ同時だった。勢いを煙でも止めきることが出来ずに、少女の腕が無情に壁を薙ぐ。
だが……チェーンソーの刃は紅の顔面の脇、すれすれのところを通過しただけだった。唖然として言葉もない青年に、虹が歯を噛み締めてもう一度ガゼルを振りかぶる。
そこに、滑るように音羅の体が割って入った。
二人の少女が数瞬間、にらみ合う。
音羅の目は相当量の恐怖に溢れていた。しかし、その芯には確かに怒りがあった。静かな、憎悪……どうしようもない怒り。それが真っ直ぐに虹の瞳を貫いて抜ける。

「虹、下がれ! 早く!」

チェーンソーを回転させたまま動きを止めた虹の腹に、次の瞬間重機が正面衝突したかのような衝撃が走った。音羅の髪にあたる部分の煙が延び、凝結して楕円形の槌を形成していたのだ。それが振り子のように少女の腹部を捉え、そして壁に向けて弾き飛ばす。
先ほど殴り飛ばされた時と比べ物にならないほどの力だった。ガゼルの展開する物理保護フィールドがあるとはいえ、体中の骨がひしめきをあげ、内臓が全て潰れて口から噴き出したかのような、とてつもない重圧。それに弾丸のように弾かれ、虹はガゼルを盾にしながら壁を歪ませ、貫通して向こう側に抜け、それでも足りずに更にもう一枚の合成コンクリートの壁を破砕して、少し広めの廊下に飛び出した。
頭の中が真っ赤になり、一瞬視界がブラックアウトする。ゴポッ、と気泡がはじける音を立てて、彼女の小さな口から血の塊が飛び出した。それを情緒もなく床に吐き散らし、虹は荒く息をついた。

「虹、大丈夫か!」

ガゼルの声にとっさにこたえることが出来ずに、コクコクと頷く。口の中を切ってしまっただけらしい。

「……何だあの煙の力……Hi8並の干渉力だ。ただのレプリカンだと思ったのが間違いだった。俺の再生値もまだ三十パーセントだ。君のコンディションもレッドに近い。休止の間に何が起きたのか分からないけど、まだ戦闘中なんだな? とりあえず逃げろ。今回ばかりは拒否を認めないぞ」

しかし虹は、歯を噛み締めるとクルントルナ砲を自分達が吹き飛ばされてきた方の壁の穴に向けた。

「バカ、逃げるんだよ」

その彼女の行動を、心の中から青くなってガゼルは後部ブースターを噴かせることで阻止した。彼女の体が空中を滑るように移動し始めたガゼルに引きずられて、廊下の端まで吹き飛んでいく。彼は器用にサブエンジンを展開して方向を変えると、叫ぶように言った。
58 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:32:39.76 ID:r2vHYRnw0
「このエリアのスキャンをする。ここは地下なのか……とりあえず地上に出るぞ!」

「逃がさない」

その途端、彼の声に割り込む形で音羅の声が廊下中に響き渡った。ガゼルと虹が周囲を見回した次の瞬間、廊下の下部に設置されている通風孔から、凄まじい勢いで白い煙が流れ込んできた。火事かと錯覚するような猛烈な速度だった。その、ミントの香りがする白煙が、まるで白いマットのようにガゼルと虹の体を跳ね返した。
勢いそのままに煙に打ち当たり、彼女達は床に投げ出された。その小さな体に、凄まじい量の白煙が、まるで獲物を狙う猛獣のように覆いかぶさる。
虹とガゼルは体中を綿のような感触に締め付けられながら持ち上げられ、ガッチリと空中に固定された。

「どうして潰れないの……? やっぱりこの体じゃ……」

魔法使い……音羅の苦しそうな声が聞こえる。
とてつもない力が煙の内部にはかかっていた。音さえも押しつぶされているかのように、虹の耳奥でキーンという高音を発している。密度が圧縮されているのだ。ガゼルが事前に展開していた保護フィールドも密度が高まり、ギシギシと粒子が擦れ合う音を出している。
身動きが取れなくなった虹の目に、崩れた壁の穴から音羅の煙の体がスル……と抜け出してくるのが見えた。彼女は煙で形成されたパイプのようなものを吸っていた。大人の手の平くらいの大きさがある、その葉巻を吸うための器具……口の部分から、黙々と新たな白煙が、まるで煙突の先のようにあふれ出ている。

「これは煙じゃない。灰だ」

押しつぶされそうになりながら、ガゼルはフィールドを維持するためにピノマシンを散布し続けながら怒鳴った。

「灰の粒子を作り出して操る魔法だったんだ。ミントの匂いが、多分その触媒だ。物理的な力な分、たちが悪いぞ」

「もう逃がさない。いっそ、ここで終わらせる。そのほうがいい。多分そのほうがいいの」

煙の少女は血走った目で呟き、ひときわ強く息を吸い込んだ。しかし虹は、小さく笑うと彼女に向けて嘲るように言葉を発した。

「……そう、そういうことか……無様な小娘ね……」

「何ですって!」

「虹、不味いぞ。この魔法使いの干渉力は異常だ。空間構築率の値が凄まじい速度で書き替えられてる。重力子指数がミリテンに到達。空間保護フィールドの耐久値突破。三百六十度の水圧と同じで動けない。早く砲を撃ってくれ」

ガゼルの声に反応し、虹が指先を動かし、何とかトリガーを握る。それとほぼ同時に、広がっていた煙が全て少女の周りに収縮した。周囲の砕けた壁の破片なども中央部に引き込まれていくが、圧搾機に放りこまれたかのように、到達する前に粉々の砂にすり潰され、散っていく。
そして、トリガーを引き込もうとして伸ばした虹の人差し指が、耳障りな音を立てて逆の方法にへし折れた。

「虹……!」

自分の装甲も歪んできたのを確認し、ガゼルが持ち主の身を案じて声を上げる。

「許さない……!」

もう一度、音羅は大きく息を吸い……そして煙のパイプに息を吹き込もうとした時だった。
59 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:33:20.84 ID:r2vHYRnw0
「いい加減にしろ!」

怒号が響き渡った。
それは、辺りに充満している煙をつきぬけ、虹の耳にも飛び込むほどの腹の底から発せられた声だった。
思わずビクリと体を震わせ、音羅が振り返る。その視線の先に、砕けた壁を乗り越えて紅が左足を引きずりながら歩いてくる姿が映った。
そして彼は、手を振り上げると……音羅の頬を張り飛ばした。当然煙の体をすり抜け、手は向こう側に抜ける。
しかし音羅は、本当に張り飛ばされたかのように呆然とした。そして、紅の歯を噛み締めた怒りの表情を見ると、手にしていた煙のパイプを慌てて下に落とした。それは床に触れる寸前に空気中に霧散したが、それと同時に、周囲に充満していた白い煙も、まるで幻か何かのように掻き消える。
虹は地面に投げ出されると、暫くは悲鳴を上げている体中の筋肉と骨の影響で、ブルブルと小さく震えていた。しかし、数秒も立たずに無事な方の手でガゼルを拾い上げ、その砲を音羅に向け、トリガーに指をかける。
そして照準もつけずに引き絞ろうとした瞬間……彼女の頬も、近づいてきていた紅に、同様に張り飛ばされた。
パァン、という乾いた音が辺りに反響し、虹は数瞬呆然として言葉を失った。

「……喧嘩両成敗だ。音羅も虹ちゃんも、落ち着きというものを覚えなきゃいけないな。だって、ここにいる何の罪もない人たちは、君たちのこづきあいに巻き込まれただけで、簡単に潰れて死んでしまうからね」

押し殺した声で紅が言う。頬を押さえて周囲を見回した虹の目に、分岐しているそれぞれの廊下の端に折り重なるように人間達が詰めて、こちらの様子を伺っているのが見えた。
大人……子供。男も女も、様々な年齢層がいる。その全ての顔は、恐怖と戸惑いに歪んでいた。

「ご……ごめんなさい……」

音羅がそれに気づき、バツが悪そうに唇を噛んで俯く。

「分かってくれたんならいいんだ。さ、君もおいで」

そう言って紅は、倒れている虹に手を差し伸べてにっこりと笑ってみせた。
意味が分からず、きょとんとした虹に彼は言った。
60 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:34:00.55 ID:r2vHYRnw0
「また服がボロボロだ。ちゃんと着替えないと。それに、君との話はまだ途中だったね。食事も、また用意する。冷えてしまっただろう。温かいスープでも飲まないと。ほら、一緒に戻ろう」

「虹。君はまさかこいつの言うことを信じていたのか? 明らかに怪しいぞ。信用するな。逃げるぞ」
ガゼルが相反することを、噛み締めるように発する。しかし虹は、叩かれた頬を押さえたまま、呆けたように紅の顔を見つめていた。

「……フィルレイン。言うことを聞くんだ」

紅が、唐突にボソリとそう言った。
それが決定打だったらしかった。
その声を聞いた途端、虹の動きが止まった。
ポカンとして、次の瞬間何かの痛みをこらえるように頭を押さえる。
虹の汗の浮いた顔。
その表情が、今までの緊迫していたそれではなく。
スッ……と、また、猫の瞳のように収縮した不気味な目に変わり。
そして口の端がだらしなく歪んだ顔になった。
持ち上げようとしていたガゼルが、ドズン、と重低音を立てて床にめり込む。
そこで彼は、思い出したかのように白衣の懐から、引っ掛けるように持っていたヘッドフォンを取り出して虹に差し出した。

「君のだろう。私は、君の大事なものを壊さないし、君のことも大事にしてあげられるよ」

彼の首には、虹が握りこんだ時についた絞殺痕のような青緑色の痣が浮いていた。爪が食い込んだところからは血も出ている。
虹は、黙ってヘッドフォンを受け取ると首にかけた。
そしてガゼルを掴んでよろめきながら上体を起こす。

「虹、どうしたんだ!」

相棒の声を聞きながら、少女は殆ど無意識のうちに、紅の手――温かい、少女のものとは比べ物にならないほどの大人の手――それを、掴んでいた。
61 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:35:10.58 ID:r2vHYRnw0
6 レジスタンス

 目算はどうやら間違っていたようだった。ガゼルの話によると、少なくとも虹が意識を取り戻すまで丸一日……正確に言うと二十三時間程の時間がかかっていたらしい。それまでにガゼル自体は再起動したものの、音羅の煙に稼動を制限されていたようだった。
丸々と壁を破砕してしまった部屋から離れた場所に移動し、虹をなんとか座らせるのに、さして苦労はなかった。何故か彼女はおとなしく紅の手を握り、素直にそこまで誘導されたのだ。
ここは、ジェンダドームの地下らしかった。恐らく、過去使用されていた発電施設を改造してあるのだろう。そこの中でもひときわ広い部屋に通される。数台のベッドと、試験管などが並んでいるおびただしい数の棚に囲まれ、三台の机が連結されていた。
虹は、そのうちの一つのベッドに腰を下ろすと、ガゼルを脇の方に立てかけた。
それを追うような形で、紅と音羅が入ってくる。彼らは顔を見合わせ、虹から少し離れた場所にパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。最も、煙で出来ている音羅の体は椅子に固着されたわけではなくふわふわとたゆたっている。
紅は、心配そうにこちらを覗き込んだ男性――おそらく、ここにいるという『反乱分子』の一人なのだろう――に心配しないように、と手を振って答え、首筋につけられた血を、ハンドタオルで拭った。
音羅は相当警戒しているのか、紅の隣から離れようとしなかった。静かに、怒りを孕んだ瞳でこちらを睨みつけている。
ガゼルはどういう状況か判断がしかねていたが、とりあえずはまず、虹の周りにピノマシンを散布して彼女の体についた傷を修復する。今は病院服を着せられているようなので、服の修復はやめておく。また、まだ危険であることに変わりはないと判断して、周囲に保護フィールドを固着させておいた。
そして、彼は紅達に気づかれないように後部から通信ケーブルを延ばすと、それを虹の首筋に差し込んだ。次いでそっと言葉を送り込む。

『何があった? どうしてさっき、攻撃しなかったんだ? 何故言うことを聞いてる? 魔法使いだぞ、敵だろ!』

咎めるように問い詰めると、虹はぼんやりとガゼルの方に目をやり、そして視線を外して天井を見上げた。
答えがない。
右手では首にかけたヘッドフォンを弄り回していた。

『……俺の回復機構も、あの魔法使いに阻害されてて、エネルギー効率がダウンしてる。さっき君の内臓や皮膚に負った傷は修復したけど、君自身の体力は限界に近いだろ? それに、修復にエネルギーを使いすぎて、今は君の周りに固着的な保護フィールドを維持するだけで精一杯だ。多少無理をすれば外に逃げられるけど、どうする? あの魔法使いは本体を叩かないといけないぞ』

『…………』

やはり返答はなかった。
まるで魂が抜けてしまったかのように、呆けている。
62 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:36:09.41 ID:r2vHYRnw0
『……じゃあ、悪いけど君のメモリーを確認させてもらう。俺も状況が分からないんだ』

そう断り、ガゼルは虹の記憶中枢にアクセスし、彼女の体験情報を自分の記憶内に書き込んだ。大した量がなかったので、移し変えも確認も、ものの数秒で終了する。

(……あの紅って男は敵じゃないのか?)

心の中で考え込む。
ジェンダの街中で、機械兵器に乗ってこちらを襲ってきたのは間違いなくあの音羅という魔法使いだ。妨害のせいで、虹はもろにおびただしい数の銃撃を浴びることになってしまい、ほぼ胴体のみの状況で地面に落下を余儀なくされた。とっさに彼女の生命を護るために、ガゼルは自分の体組織を使用して、外傷他を再現修復。しかし、あまりにも修復箇所が膨大だったために、システムがオーバーロードして停止してしまったのだ。
彼が出来たことは、雪に少女が落下する際に保護フィールドを拡大してその衝撃を分散させること。そして、同様に保護フィールドを白色の雪のように変質させ、彼女の体を覆い隠すことくらいだった。
再起動した時には、この地下に放り出されていた。虹が近くにいることは感知できていたが、煙に阻害されてシステムをフル起動することが出来なかったのだ。
ざっと感知しただけで、この地下エリアに存在しているのは、人間が約五十人ほど。そんなに大きな数ではない。それに、先ほどはあの魔法使いに追い詰められはしたが、今再度戦って先ほどのような魔法力を発揮するとは考えづらい。
魔法力とはつまるところ、電池のようなものらしい。使用すればするほどそれは減少していき、当然使い切れば補充しないと再使用は出来ない。
多少無理をすれば、逃げられるはずだった。
それから後のことはそれから後。体勢を立て直してからやればいい。

――しかし、虹に動きはない。

彼にとって持ち主の行動は絶対だった。自分の意思がどうあろうと、結果的には自分を使用する虹の考えにより、ガゼルの意識は統合される。
それ故に、いくら危険を訴えようと当の虹に反応がなければ何ともならなかった。
攻撃でさえも、彼女との意思の同調がなければ行うことが出来ない。それは彼に課せられている一種のストッパーだ。

『虹、どうしたんだよ。君らしくないぞ。あれは魔法使いなんだろ? そしてあれは、魔法使いの仲間なんだろ?』

反応はない。
その事実に、何だかいつも感じている以上の狂気の影を嗅ぎ取り、ガゼルの存在しない背に冷や汗が走った。
自分がひょっとしたら、とんでもない的外れな呼びかけをしているのかもしれないと思い始めてきたのだ。

――入れ替わったのかもしれない。ひょっとしたら。

だとしたらまずい。この状況でそれは……最悪だ。
眼前にいる存在が敵なのか、味方なのか推し量りかねない状況。加えて自分達が万全ではない状況。この二つの状況の中で、彼女がこうなってしまうこと……ガゼルに押しとめられない状態に陥られるのは避けたい。
虹の状態でもいうことなんて聞いてもらえないのだ。
63 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:37:04.64 ID:r2vHYRnw0
会話さえままならない状況になってしまうのは、文字通り最悪の事態だった。
何かしらのショックが虹に与えられて裏返ったと考えられる。いつもなら、時間が経つか何かの呼びかけにこたえる等でこのあいまいな状態を抜け出すことができるらしい。
何とか言葉を返してもらおうと、かける台詞を選んでいると、首の傷にバンドエイドを張り付けた紅が口を開いた。

「さて……そろそろ、落ち着いてくれたかな。さっきの話の続きを聞いてくれるかい?」

「……」

虹はそれに答えるでもなく。
だらしない目を彼に向けた後。
埃まみれの自分の髪に気づいて、服のポケットに手を入れようとして……しかし、今は病院服に着替えているのを見て。
ガゼルに向かって右手を差し出した。

『……?』

『櫛』

一言だけ、言葉をかけられる。

『あ……ああ』

その言葉の予想外さに半ば驚愕しながら、ガゼルは虹の手の平にピノマシンを集中させた。その白いもやが凝結していき、やがて銀色の光を発し始め、数秒も経たずに小さな櫛を形成する。虹はそれを掴むと、自分の髪を丹念に梳かし始めた。

「……驚きだな。君は、そこまでピノマシンを操作することが出来るのか。原子レベルの粒子の組成から干渉して、体だけじゃなくて無機物も構成できるなんて……」

紅が目を丸くして言う。その隣で、歯を噛み締めて音羅が声を上げた。

「やっぱりダメだよ。殺しましょう」

その目は、明らかに侮蔑と……そして、まるで人間が猿に対して持ち合うような、激しい見下しの感情を孕んでいた。それは、彼女が初見で見せた怯えた小動物のような目ではなかった。
しかし虹は、彼らの方は見向きもせずに、髪についた埃を丁寧に取り除き、同じ場所を何度も、何度も梳いていた。
……いや、同じ場所しか梳いていない。
壊れた機械のように、その髪を梳かすという作業を繰り返している彼女を見て、紅は軽く息をつき、立ち上がろうと体に力を込めた。

「……少し時間が経ったら、また来るよ」

「紅、何を言っているんですか。先程の大暴れを見ていないわけはないでしょう? 放っておけば、この狂人はまたあなたを……私達を襲いますよ」
64 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:38:23.44 ID:r2vHYRnw0
(最もだ)

ガゼルは、心の中で音羅の言葉に同調してしまい、慌てて警戒を神経に張り巡らせた。
しかし、今ここで虹が一人にされるのは非常に不味かった。何かに気をとらせないと、本当に最悪の事態になりかねない。
心ここにあらず、という状況に陥った彼女が何よりも危険なのは、ガゼルが一番良く知っていることだった。
そこで一つ決心をし、大きく心の中でため息をついてから……彼は、スピーカーから声を外へ向けて送り出した。

「待て。何点か質問をしたい」

彼からの接触は意外なことだったのか、紅は一瞬きょとんとした後、ほっとしたように息をついた。そしてガゼルの方を向き、笑いかける。

「良かった。彼女は大丈夫なのか?」

「馴れ馴れしくするな。貴様らが虹にやったことを客観的情報だが鑑賞判断するに際し、俺の中で結論、貴様らは敵だ。心配などされる筋合いはない」

端的に彼の言葉を跳ね返し、ガゼルは続けた。

「だが、話し合いを所望しているようなので一応は応じる。俺からの質問は二点だ。一つは、貴様がここまでの危険性を理解しながら、何故虹を狙うのか。もう一つは、俺達の妨害をしてきたはずのそこの魔法使い。貴様が何故ここにいるのか。その二点についての解答を、速やかに願う」

虹の状態回復の時間稼ぎをしたいというのもあった。あちらが話し合いを求めているというのなら、それを利用させてもらおうという算段だ。だが、もしも先ほどのように突然戦闘が始まるようなことになれば、少なくとも虹の命だけは護れるように逃走経路と過程を考えておく。

「敵ですって……先に紅を殺そうとしたのはそこの女が最初でしょう!」

しかし、冷静に話をしようとした努力は一瞬で打ち砕かれた。音羅が感情的に声をあげ、虹のことを指差す。自分が今話しているのが、人間ではなく兵器だということさえもよく認識していないようだ。完全に頭に血が昇っている。
怒鳴りつけたいのはこっちだが、なるべく虹を刺激したくなかった。一拍置いてそれに答える。

「先に攻撃を受けたのはこちらが最初だ。地上でのエンドゥラハンとの交戦時、俺は貴様の姿を視認した。理はこちらにある。喚かないでもらおう」

「言うに事欠いて……機械人形の分際で口答えするとでも言うの……?」

「静かにしてくれ、音羅。相手さんが静かな話し合いを求めてるんだ。さっきのような横槍は、もう勘弁だよ」

そこに紅が割って入る。少女はまだ何か言いたげに歯軋りをしていたが、やがて僅か下方に視線を移動させた。
65 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:39:19.91 ID:r2vHYRnw0
「……ええと、君は……」

「ガゼルだ」

「宜しく、私の名前は紅。この子は音羅、お察しの通り……と言ってはまぁ、見た通りなんだが魔法使いだ。色々失礼なことをしてしまった。気を悪くしただろうが、どうか許してくれ。こちらにも事情があるものでね」

「……」

「それにしても、稼動している鐵鋼兵装と話をするのは初めてだよ。それも、よく分からない奇妙なチューンをされているとは」

「……何故俺が鐵鋼兵装だと知っている?」

「喋る武器は天使の持ち物でしかないだろう。私の顔を見ても何もない、と言うことは君は、五年前の記憶はないようだね」

随分と突っ込んだ話を突然に振られ、ガゼルは一瞬言葉に詰まった。そして押し殺すようにゆっくりと聞き返す。

「五年前?」

「ああ。ベルダデッドの崩壊の時の記憶さ」

その単語を聞いて、ガゼルは思わず大声を上げた。

「何?」

「まぁ実は私も、メモリーを移植されただけなんだがね……本質的には、私は君と似ている。Hi8の更紗に製造された、繰り返す者のコピー、つまりアンドロイド、生体ロボットさ。私はその中でもセクサロイドだ。だからある程度のことは知っている」

「本当に、ここにはHi8の更紗がいるんだな?」

先ほどの虹の記憶と統合し、ガゼルはいくつかの事実を繋ぎ合わせながら言った。それに対して紅が頷いて、傍らの音羅を見る。

「この子は、更紗の使用するレプリカンだ。だから、奴が食事をすれば相対的に力が高まる。先ほどの魔法は、そういうわけだ。そして彼女には説明をしたが、私達は魔法使い……いや、更紗に反抗しているレジスタンスだ。計画は前からあったんだが、先日、君たちが折しもレプリカンの一人、左天を殺す現場にこの子が遭遇した。そこで、力を貸して欲しいと考えたんだ。これで一つ目の質問の答えはいいかな?」

少し前に大量の人間を轢き殺し、回収していった巨大な人型兵器を思い出す。背筋に寒気が走るような錯覚を覚え、ガゼルは続けた。

「レジスタンス? 狂信者と逆か」

「ああ。大部分の人々は、魔法使いに命を捧げることが、死後の世界に際する幸福への道だと考えてはいるが……」

そこまで言って、紅は僅かに顔を伏せた。そして息をついてから言った。

「何処にだって、自分の命を大事に思う人はいる。それに、自分の命以上に大事なものがある人は、時にその妄信を真っ向から否定だってするものなんだ」
66 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:40:08.68 ID:r2vHYRnw0
それを聞き、ガゼルは鼻で笑うようにして聞き返した。

「勝ち目がないのにか?」

――それは事実だった。

魔法使いに、人間は太刀打ちする術を持たない。それほど魔法の力は圧倒的で、そして絶望的な戦力差なのだ。
そう、魔法使いに対しては。
人間はただの餌に過ぎず、押し潰され、叩き潰され、蹂躙されるだけの『生き物』……ただ、それに過ぎない。
だからこそ人々は狂信する。
その絶対的な存在に屈服し、崇め、奉り、そして自らの身を犠牲にし捧げることで。
死後、幸せになれることを祈る。
それは、まさに狂気だった。
それは、ただ単なる逃避だった。
だが、それほど人間は弱いのだ。
弱いくせに増える。吼える。生存権を主張する。
だから屈する。何もせずに、何も出来ずに負ける。
そしてその事実を認めたくがない故に。心のどこかで、自分という存在を確立し、護り、一個の生命として自分自身が尊重するために。
自分に都合のいいルールを形作ろうとするのだ。
それが狂信だった。
このドームには、そうでなくとも魔法使いの最高位と言われるHi8の一人がいる。人間狩りの規模も、頻度は分からないが先ほどの様子を見る限りではかなりのものだ。
それに、音羅という魔法使いと戦闘した感じだと、Hi8が摂取した人体の量と、それに順ずるエネルギーの半端ではない規模が伺える。
まこと、狂っている。
ガゼルはうんざりしていた。
何処のドームにもこういった狂信信者は存在している。そして、信者は一様にこう言うのだ。

【魔法使いは尊い】
【魔法使いは美しい】
【糧になれ】
【救われるために】

そう、それは人間と言う弱い存在が編み出した恐怖からの逃避に過ぎない。倫理と常識から見れば、当然そうだ。
しかし……狂信というものは、恐怖、絶望と言うものは。それだけで人間という動物の理性を崩し、溶解させ、別の確固たる確立要素を形成させるのには、十分で余りある威力を孕んでいた。
狂信者たちは、魔法使いの犠牲になることを少しも恐れていないだろう。何たって、毎日毎日、それに恐れを抱かず、安らかに逝くことが出来るためのイメージトレーニングのようなものを行っているのだ。
67 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:41:25.29 ID:r2vHYRnw0
怖いはずがない。
辛いはずがない。
毎日、静かに暮らせるその確約。
ガゼルから見ると、それはただひたすらに。
そう、ただひたすらに人間と言うものは。
狂っていた。

「その魔法使いを打倒するために、我々の戦力が欲しいと?」

少し考えてからそう返すと、紅はパッと顔を輝かせて何度か頷いた。

「話が分かってもらえるようで助かる。随分と回りくどい方法をとってしまったが、ようは、私達の要求はそれだけなんだ」

「こちらの内情や現状も分からずに、協力を依頼してくるなんて正気の沙汰とは思えないが」

「それだけ進退が窮まっているんだ」

そう言い、彼はふとガゼルから視線を外した。そしてハッとして立ち上がる。そして、傍らに畳んで置いてあった病院服を手にとった。

「……と、忘れていた。話の途中だけど、これが代えの病院服だよ。さっきのドサクサでまたボロボロになっただろう? 着替えてくれていい」

「近寄るな。しかも、そんなものいらん。後ほど服を構成する」

端的に返し、ガゼルは話を続けた。

「一つ目の話は、以降に詳しく聞こう。それより二つ目の質問に答えろ。その魔法使いのことだ」

突然話を振られ、音羅はキッ、とガゼルの方をにらみつけた。

「……何ですか?」

「貴様は私達からすれば、敵だ。今ここで戦闘を開始し、叩き殺していいものかどうか了承を取ろうとしただけのこと。魔法使い駆逐に例外はない」

……不遜な態度にいい加減イラッと来て、ガゼルは思わず物騒なことを口走っていた。しかし、その脅しは効果覿面だったらしく、音羅は一瞬顔を青くすると、紅の背後に浮かび上がって移動した。
彼女の様子を見て、紅はため息をついた後に口を開いた。

「……この子のやったことや態度については、私から謝らせてくれ。悪かった。本当にただ、君達をここに安全に連れて来ようとしただけだったんだ」

「先ほどの攻撃は、我々に対する確実な破壊衝動を確認できるものだった。信じろと言う方が無理だ」

「頼む、信じてくれ」

そう言い、紅は深々と頭を下げた。
68 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:42:34.67 ID:r2vHYRnw0
「ちょっと……!」

驚き、戸惑いの声を発した音羅の方を、彼が一瞥する。その咎めるような視線を受け、暫く躊躇したあと音羅は息をつき、頭を下げた。

「……ごめんなさい……」

今の行動と、先ほどまでの行動に差がありすぎる。もう判断するのが面倒になり、一瞬全部吹き飛ばしてしまった方が……とも考えるが、それだと虹の狂気を助長させることになってしまう。

――頭を下げると言うのは、敵に最も弱い急所をさらけ出すと言う行為だ。

ましてや男。プライドも何もないというならともかく、この紅という男性には少なからずの理性が感じられる。少なくとも、この男が虹に危害を加えているメモリーはなかった。

(俺だけでも正気を保たなければ)

心の中で自分にそう言い聞かせ、ガゼルは言葉を返した。

「頭を上げろ。俺は機械だから、そんなことをされても何も感じない。それより、その魔法使いのことについて答えろ」

「先ほども言ったがこの子は、Hi8である更紗のレプリカン……複製魔法使いだ。この街に更紗、この子達と私がやってきたのは今から二年ほど前のことになる」

(二年前? 道理で見つからんはずだ。この地方に隠れていたのか)

聴こえないように心の中で呟く。続いて音羅も、頭を上げて口を開いた。

「……あなた達に警告に行ったのは、本当に交戦するのを避けてもらうためです。でも、あなた達は向かってきた……あの位置で、あの威力の火砲を放たれたら、私の本体は死んでしまいます。だから、迎撃させていただきました」

悪びれる様子はない。そもそも魔法使いの天敵である天使など、死んでも対した変更はない……そういう意思を感じ取り、ガゼルは少し沈黙してから返した。

「すると貴様は、本体は大魔法使いの護衛をしながら、意識だけをこちらによこすことが出来るわけか。何故ご主人様に歯向かっている? そもそも、Hi8の子飼い護衛が反乱を企むなんて、バカげているにも程がある。信じろと言う方が無理だ」

「それは……」

紅が言いよどみ、傍らの音羅の方を向く。すると、煙の少女は歯噛みした後に、自分の膝を叩いて立ち上がった。
69 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:44:00.05 ID:r2vHYRnw0
「そんなことはどうでもいいの。あなた達の身柄はここで、他でもない私が拘束しました。敵は同じ大魔法使い、Hi8でしょう。共闘してあげると言っているんです。協力してあげるといっているんです。それが何ですか? 片方の女は発狂して襲ってくるし、もう片方の機械は何やかんやと理屈を並べ立てて敵対心剥き出し。話し合いにもなりやしない」

「落ち着いて」

「いいえ紅、もう話すだけ無駄です。こいつらはここで始末して、やはり私たちだけで計画を実行しましょう」

物騒なことをためらいもなく口走り、見開いた目を青年に向ける音羅。ガゼルは突然豹変した少女の様子に戸惑いながら、しかし淡々とそれに返した。

「願ったりだ。そもそも我々は魔法使いの撃滅を目的に行動している。貴様らの事情など知ったことではない。話し合いが終わりというのなら、攻撃に移らせていただいてもよろしいか?」

半分ほど張ったりだった。確かに、このままでは話し合いにならない。案の定、音羅という魔法使いの激昂は空元気……いや、こちらに与えようとした威圧だったらしく、ガゼル、及び虹に何の反応もないことを見ると、途端に音羅の目は怯えの色に変化した。
元より、煙で出来ている音羅はともかく、ここで虹が火砲を撃てば、間違いなく紅という男……それに、ここに隠れている反乱派の人間は死んでしまうだろう。それに気づいていないわけでもないらしい。いつでも、こちらが動けば迎撃できる位置に音羅が移動するのが見える。
しかし、それはガゼルから見ただけでも相当な及び腰だった。威嚇するように目ばかりはぎらついているものの、立ち姿に威勢が感じられない。
あれだけの規模の空間侵食を起こした後だ。とっくに残存の魔法力は尽き掛けているのだろう。張ったりも何もかもの演技は最低ランク。見れば分かるものを、張ったりとは呼ばない。
先ほど、この少女は自分の本体は別の場所にいると言っていた。おそらくそれは、彼女を束ねるHi8の所。そして、今ここにあるのは意識だけを煙に入れ込んだ虚像に過ぎない。
はじめに、宿屋に現れた時に突然消えたのはブラフでもアピールでもないだろう。単に、本体の意思支配を主であるHi8が行ったか、もしくは意識体の行動を維持できるほど集中力がなくなったか。それのどちらかだ。
レプリカンというのは、世界に現在七人存在している大魔法使いHi8が製造した、人型の量産魔法使いのことだった。素体は人間なのだが、その体には魔法使い特有の『核』がある。レプリカンだけで自立し動いているものも多かったが、大部分は主の護衛を行っているのが常だ。
威勢だけはいい魔法使いには構わずに、ガゼルは紅に視線を向けた。

「……我々が宿に泊まっていることを感知していたな。だから。あのエリアにピンポイントで献血を行った。違うか?」

そう言うと、紅はひとまず相手に暴れる意思がないということを知りホッとしたのか、隣の音羅に座るよう、ゼスチャーで促してから言った。

「ああ、その通りだ。更紗には、三人の魔法使いが護衛に当たっている。一人が君たちが殺した左天、二人目はこの子、そして三人目は右天という」

「あのエンドゥラハンを操作していた者が、やはりいるのか。能力は?」

しかし、聞き返したガゼルに紅は首を振って答えた。
70 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:44:52.12 ID:r2vHYRnw0
「……この子も、私もそれは分からない。魔法使いの間では自分の能力を主以外に明かすことはタブーに相当するらしい。しかし、少なくとも街中にいる限り右天の監視からは逃れられないと聞く。だから、君たちが左天殺害後に、あの宿に泊まったということはすぐ発覚していたんだ」

――そんなことってあるのか?

ガゼルは、ふと考え込んだ。
現状から判断するに、右天という魔法使いは機械を操作する。それも、動力も何もない過去の遺物……エンドゥラハンを、火砲を使用できるほどまでに操る能力だ。それに加え、街中全ての監視……?
魔法使いの能力は、一体一つ。
というのは、揺ぎ無い唯一つのルールだった。
複数の力を持つことは、出来ない。それは確定している事実だ。

(もう一人いるのか……? いや、虹の感知能力は絶対だ。一人殺したから、残りは三体。なら、その右天という魔法使いの能力が分からない)

「ここなら、右天の監視は行き届かない。そうだね、音羅?」

紅が聞くと、少女は息を吐いて頷いた。

「いや、街中から運び込まれたなら、その過程を把握されていても不思議はないはずだ」

思ったままに疑問を口にすると、音羅が首を振って言った。

「右天は、夜の間には監視が上手く出来ないらしいのです。特に吹雪いていると精度はかなり落ちます」

それを聞き、ガゼルはハッとして口をつぐんだ。そして沈黙する。

「……どうだろう、私達も、かなりの危険を犯して君達に協力をお願いしている。力を、貸してくれないだろうか?」

その沈黙をイエスと捉えたのか、紅が身を乗り出して問いかけた。
依然、虹は髪を梳かし続けていた。同じ場所を何度も、何度も梳いている。
床には、パラパラと抜けた金髪が振り落ちていた。
71 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:45:51.60 ID:r2vHYRnw0
そんな彼女の様子に言い知れない不安を感じながら、何とか交渉を延ばそうとガゼルが言葉を選んでいた時だった。

「いい加減にして! 真面目に話を聞く気がないなら、そう言えばいいじゃない!」

音羅が再び激昂した。無理もない。先ほど、本気で叩き殺そうとした相手なのだ。いきなり静かになって、何度も何度も自分の髪を梳く奇行を目撃すれば、恐慌を起こしても不思議ではない。
少女の煙で出来たローブの筋が紐のように伸び、打ち出されると、簡単に虹の手にある櫛を弾き飛ばした。銀色のそれはカチン、と乾いた音を立てて床を転がり、壁にぶつかって止まる。
虹は、暫く空っぽになった自分の手を見つめていたが、やがて顔を上げるとぼんやりとした瞳で音羅を見た。
その目には、生気が感じられなかった。
言うなれば何も考えていない、そんな空虚な瞳。瞳孔が収縮し、感情の読めない、人形のような瞳で凝視されて、音羅は体中に悪寒が走ったかのように硬直した。

「ひ……」

彼女が出しかけていた言葉が一気に引っ込んだ。
虹は無表情のまま、自分の髪を手で掴むと、引き抜くかのように荒々しい手つきで繰り返し引っ張り始めた。当然柔らかい髪はブチブチと抜けていき、情緒も何もなく床に落ちていく。
血が出て、頭皮が破れてしまうのではないかというほど、彼女の髪をいじる行動は激しかった。
唖然としている周囲に構わず、暫く経った後、虹は髪をむしりながら、僅かに震える口を開いた。

「くそ……」

「……」

「分かったよ……だからそんなに怒らないでよ……ボクには関係ない……だからやめて。分かったから。分かった。分かりました……ごめんなさい……ごめんなさい許して……」

「え……?」

紅が、呆けたように聞き返す。
それは、目の前の人間に対して発せられた言葉ではなかった。まるで夢遊病者のように、ブツブツと呟く。

「ごめんなさいって言ってるのに……そんなに引っ掻かないで。髪をいじらないで……お願いします……言う通りにする。言うこと聞くから……」

虹は、ひときわ強く髪を掴み、腕の筋が浮かび上がるほど強く力を込めながら、ニィィ、と口の端を歪めて笑った。そしてガラス球のような目をぼんやりと開き、音羅を見る。

「……あんたが、生贄になれるんなら、協力してあげても、いいよ」

ところどころをブツ切りにし、ゆっくり一言一言を噛み締めるように虹は言った。そして束になった金髪を多量に引き抜き、床にパラパラと落としながら、続けた。
72 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:46:42.23 ID:r2vHYRnw0
「更紗を、轢き殺した後、アンタが、ボクに轢き殺されるんなら、考えなくも、ないよ」

「な……何ですって……」

怒鳴るにしては意外すぎたのだろう。目を丸くして、音羅は言葉を失った。そして数瞬後、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。

「手伝うから、私に死ねと仰るんですか!」

「それが、どうかした?」

「頭おかしいんじゃない? 私はあなたたちに協力すると言っているんですよ。言わば、仲間になって欲しいと言っているんです。それなのにどうしてですか!」

「詭弁もそこまで行くと面白いわ」

唐突に虹の声音が変わった。低く、呻くような声で聴こえるか聴こえないか、その微妙なラインで呟く。しかし、その短的な威圧の台詞が、自分よりも小さい女の子から発せられたと言う事実。そして彼女が言いながらむしった髪の量を見て、音羅は唾を飲み込んで後ずさりした。
虹は口元を奇妙な形に歪めながら、舌で自分の唇を湿らせた。そしてクマの浮いた目で、上目遣いに音羅を見つめた。

「変わらないねぇ。何年経っても変わらない。あんたも私も、いつまで経っても子供のまま。変なオドスだとは思ったけど、なる程そうか。アバズレ女が考えそうな下劣な作戦ね」

「虹、落ち着け」

ガゼルがそっと声をかけるも、虹が自分の髪をぐしゃぐしゃに握り締める行動は止まらなかった。瞳孔が不気味に収縮した瞳を真っ直ぐ音羅に向け、彼女はドスのきいたしわがれた囁き声を続けた。

「まずは腕。それから足……」

「……」

「内臓全部かき回して、カエルの餌にしてやっても。それでも尚許さない」

「ちょっと……何なん……ですか?」

意味不明の凶悪な感情を浴びせられて、完全に音羅は萎縮してしまっていた。

「しらばっくれるんだ? 久しぶりの再会じゃない……もっと、もっとこの子に思い出話をしてあげてもいいんじゃない?」

「意味が私には……」

「そうねぇ……あの夜に何があったのか、教えてあげると……」
73 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:47:22.44 ID:r2vHYRnw0
そこまで喋って、虹の顔からフッ、と余裕が消えた。次いで、石膏を擦り合わせるかのようなキリキリキリという重低音が辺りに鳴り響く。
それは、虹の奥歯の方からあふれ出ていた。
少女が、自分の病院服の裾を握り締め、歯を噛み締めながら体を震わせる。その目は、裂けるのではないかと言うくらい円形に開ききられていた。
数秒後、まるで金属がひしゃげるような破砕音の後、生硬いものが折れ曲がる音が空気を裂いた。次の瞬間、虹は握り拳でベッドを殴りつけ、顔を上げると明らかにおかしい、焦点の合っていない見開かれた瞳を音羅のほうに向けた。
そして血の混じった唾を床に吐き出す。コツン、カラカラ……と言う音とともに合成コンクリートの床に転がったのは、少女の白い、小さな奥歯だった。
「な……」

「よくのうのうと生きていられるな……よく、のうのうと私の前に姿を現せたな! この、私の前にいッ!」

それは、怒号だった。
若干十二……三歳にしか見えない、小さな、小さな女の子。それも、見た目は可愛らしい、人形のような子供。
その子の口から発せられたのは、それは、ドロドロとした、そこが見えないほどの薄汚い憎悪の叫びだった。

「な、何を言って……私は、あなたとは初対面のはずじゃ……」

「しらばっくれるつもりなんだ……しらばっくれるつもりなんだ! のうのうとのうのうと……どの面下げてここにいる? あぁ分かった、分かったよ! 殺してやる、今度こそ絶対に殺してやる!」

予期さえしていないほどの、豹変だった。次いで血が混じった唾を吐き散らして狂乱する虹の両目から、まるで滝のようにボロボロと涙が溢れ出す。彼女は、ガクガクと震える自分の小さな手で、頬を挟むように持つとこめかみに赤黒い血が溢れ出すほど、爪を突き刺した。
そして彼女は肩を震わせながら、唖然としている紅の方を向いた。そして、ハッと息を呑んで硬直する。

「…………」

どう声をかけたらいいか、分からないのだろう。
虹はしばらくの間、そのままの姿勢で停止していた。
その目がやがて驚いたように大きく見開かれ、だしなく口を開ける。
そして彼女は口元に手を当て、掠れ声ですがりつくように呟いた。
74 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:48:04.67 ID:r2vHYRnw0
「泉(せん)助けて……助けてよ……あなたも協力してくれるでしょ? みんなで私をいじめるの。みんなで、みんなで私をいじめるのよ? いつになったら助けにきてくれるの? どうしてそこで見てるだけなの? 助けてよ……泉、助けてよ……」

意味が分からず、紅は少しの間困ったような顔で少女のことを見ていた。かなりの及び腰だ。それはそうだ。明らかに、いや……明らかを越えて、これはどう考えても異常だ。
聞いているガゼルでさえも、全く意味が分からない。

(協力なんて無理だな……)

ガゼルは、心の中でそう決め、通信ケーブルを差し込んだ虹に通信を送ろうと意識を集中した。
しかしその途端だった。
紅は、小さく息を吸うと。大きく息を吸ってから、そして吐いた。続いて傍らの病院服を手に取り、立ち上がる。
彼は呆然としている周囲の空気の中大股で少女に近づくと、彼女の頭にポン、と手を置いた。

「……?」

「……」

「…………?」

何とも言えない表情だった。
辛さというのだろうか、やるせなさというのだろうか。
よく分からない負の感情がごちゃ混ぜになって、訳の分からない顔を紅はしていた。

「………………?」

「夜、遅いからさ……」

「……」

「今日は休んで」

彼はくしゃくしゃになってしまった髪を何度も手で撫で、そっと笑ってみせた。
いきなり喋り方を変えた紅に、呆然として音羅が口を開く。しかし青年は、彼女の方を振り返らずに、かすれたような声で続けた。
75 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:48:43.57 ID:r2vHYRnw0
「な?」

「……」

「…………」

「寝ればいいの?」

「ああ、そうだ」

「寝れば助けてくれるの……?」

「ああ」

「じゃあ……寝る……」

前後の会話など全く繋がっていない、意味不明な意思疎通をして虹はこくりと頷いた。
そして息をついて肩を落とす。
それを確認し、紅は音羅と目配せをして出口の方に体を向けた。

「泉……」

その時、ふと虹が口を開いた。
それはすがりつくような。消え入りそうな。
どうしようもなく弱く、儚い小さな声だった。

「ん?」

「また消えないでね……」

「……」

「もう置いていかれるのは私やだよ……もうやだ……もう嫌だよ……」

「……」

「いい子にしてるから。何でも言うこと聞くから……だから、約束だよ。助けてね。今度こそ、助けてね……」

「……」

その意味不明な言葉に、紅は応えることができなかった。
しばらく呆然と彼女と見つめあい。
やがて彼は、静かに扉から出て、それを閉めた。
76 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:50:36.92 ID:r2vHYRnw0
7 繰り返す人

 そうだ、ナイフだ……ナイフ。
ナイフはどこに行ったのか……。
ブルブルと頼りなく震える手で、懐から小さなナイフを取り出す。装飾も何もない、ただ湾曲した両刃のナイフ。それだけ。
それだけしか、少女に武器はなかった。

(やるんだ)

少女は唇を噛んで、目の前の男性を睨みつけた。このスカートの中に隠したナイフ。油断させて近づき、そして延髄に突き立てる。刃渡りは七センチ。二センチも抉りこめば、致命傷だ。

(やれる、私はやれるんだ)

簡単だ。できるはずだ。この男は油断している。私のことを、濡れた捨て犬……それ以下の存在だと勘違いしている。油断……致命的な隙を曝け出している。
やれる。殺せるんだ。
頭の中で何度も、何度もそれを反芻する。
ロングスカートのポケットに震える手を突っ込み、少女は今まで生きてきて見たこともないほど長いテーブルの対極に座り、呆れたようにこちらを見ている男……少年と言っても差し支えないほど若い彼を見た。
彼は、似合わないスーツを着ていた。自分の体よりも大きなサイズの黒いタキシードのような服――所々膨らんでいる風にアレンジがなされている――少女から見ればどこか変な服に身を包み、胸元のシャツを大きく開けていた。そして、足を組んでテーブルの上に上げている。
彼の手には、真っ赤な液体がなみなみと注がれたグラスが握られていた。この位置からでも分かる、生臭く、生ぬるい臭い。べっとりと鼻に染み付くその異臭。
人間の血液が熟成され、半ば腐りかけの臭いだった。

――そうだ。

こいつは化け物だ。
人間じゃない。人間じゃないの。
こいつを殺すことは、正しいことなの。
やれる……私なら、やれる。
視線を降ろし、目の前に所狭しと並べられたパン、ステーキ、スープ……それぞれが最低でも五種類以上はある料理の山に目を落とす。
錠剤型の栄養モジュールしか摂取したことがなかったため、目の前に並んでいるものが何だか、先ほどまで良く分からなかった。
促されて始めて食べ物だと理解はしたが、どうやって摂取すればいいのか分からない。

「どうした? 久しぶりに作ってみたんだが……やはり、変か? いけねぇなぁ。もっと勉強しとくんだった。なぁ変なら変とはっきり言ってくれ」

困ったように青年は声をかけてきた。それに緊張感を破られ、体を僅かに硬直させてから、震える声を発する。

「い……いえ……だ、大丈夫、です……」

「大丈夫? 何が?」

「え? あ、いえ……あの……」

「いいから早く食ってみろよ。そこのパンはな、さっき入ったばっかのコンテンクの小麦を使ってるんだ。合成食料じゃないぞ?」

「は…………はぃ…………」

何のことやら、さっぱりだ。
ぱん? どれだろう。こむぎってなんだろう。
77 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:51:25.66 ID:r2vHYRnw0
「何だ何だ……近頃の女の子は、食事までエスコートしてやらなきゃいかんのかぁ?」

呆れたようにそう言い、彼は足を下ろしてテーブルにグラスを置いた。そしてポケットに手を突っ込み、絨毯が引かれた床を、こちらに向かって近づいてくる。
年の頃は十七、八くらいだろうか。ポマードか何かで逆立てているのか、赤茶けた髪の毛がツンツンに天井を向いている。後頭部の髪だけが妙に長く、女の子のように三つ編みになっていた。整った顔の右目の下には、三センチほどの小さな縫い痕がある。
――間違いない。こいつだ。

(……Hi8)

こいつは殺していい人なんだ。
こいつを、私は殺せるんだ……殺せるんだ。
やれる、やれるんだ……やる。絶対に……。
だってやれなかったら。
やれなかったらば。

――あなたに一世一代の機会を与えます。
――やるのです。
――成功すれば、あなたを天使にしてあげましょう。
――ただし、失敗すれば、あなたはリサイクルに回されます。
――最も、失敗した際、あなたを生きたまま回収することは困難だと思いますが。
――どうしますか?
――ここで、このまま被献体として解剖を受けるか
――行くか
――選びなさい

震えていた。
知らずの間に、ぶるぶると指先は震え、スカートの中のナイフをしっかりと持つことが出来なくなっていた。
怖い……。
怖い。
近づいてくるHi8を見て、唾を飲み込む。
怖い……怖い……怖い……。

――――――出来ないよ。

私になんて、出来ないよ……。
そんなこと、私には出来ないよ……。
呆然と、唖然と、自失しながら少女は背後に立つ相手を目で追った。
ばれたのかな?
このまま、首を掻き切られるのかな。
嫌だ、死にたくない。死にたくないよ。

――このまま、生産したクロニクを置いておくスペースもないので、間引きを行います

嫌だ……嫌だよ……。
私は、私は……私は。

(人間に、なるんだ……)
78 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:52:24.16 ID:r2vHYRnw0
ガチガチと鳴る歯を噛み締める。そして、少女はスカートの中で小さなナイフ、その柄を指に食い込むほど握り締めた。
硬直している少女の背後で、怪訝そうに青年は頭を掻くと、手を伸ばして丸パンを掴んだ。そして小さく千切り、湯気を立てているスープの中に放り込む。

「こうやってな。スープに沈めてから食うと美味いんだぜ? このスープは」

そこまで彼が説明した時だった。
少女は、何だかよく分からない奇声を発し、椅子を蹴立てて立ち上がると、振り向き様に青年に向けてナイフを振り下ろした。完全に予想外の行動だったのか、小さな叫び声を上げて彼が尻餅をつく。
パッ、と飛び散った真っ赤な……生臭い血液が、少女の服に張り付いていた。彼は右腕を切られたらしく、スーツの袖から、まるで水道の蛇口を軽くひねったように血が垂れ流れている。

「な、何だ? おい待て!」

慌てて静止しようとする青年に、恐怖と絶望に歪んだ瞳を向け、少女はもう一度絶叫すると、間髪をおかずに飛び掛った。そして馬乗りになると、少女の瞬発力とは思えない俊敏な動きでナイフを振り下ろす。
生き物は、刃物で攻撃する際には首が最も弱い場所となる。何故なら一番皮が薄く、一番動脈が皮膚に近いからだ。相手が仰向けのために延髄を狙うことができず、目標部位を変更したのだ。
少女のナイフは正確に青年の右頚動脈を切り裂いて、深々と絨毯に突き刺さった。
一瞬間があった。
次の瞬間、少女の顔面に、まるで噴水のように粘着質の歪んだ液体が打ち当たった。慌ててそこを離れようとして、しかし表向きに転んで後頭部を強く打ってしまう。
そのまま痛みで星が走った視界を、何度か瞬きしてはっきりさせようとして……しかし、返り血が入ってしまったことに気がつき、少女は急いで何度も目を拭った。
しょっぱい。
苦い。
生臭い。

(やったの……?)

やった。やったはずだ。
この手に残る、吐きそうな、不気味な、凶悪な、あってはならない感触。これは確かだ。確かな手ごたえだ。

(私、やったんだ……)

頭の上から、小さな水滴が降り注ぐ。
その狂気の噴水は、数秒間続いた後唐突に勢いを落とした。
壁も、絨毯も、真っ赤に染まっていた。
赤いペンキをいびつにぶちまけたみたいだ。
少女は凍えきったかのように激しく震える肩を抱き、その場にうずくまった。

(Hi8を殺したんだ……私、やった……)

不思議と、喜びは欠片も沸き起こらなかった。
代わりに体中に渦巻いていたのは、ただ、ただ一つだけ恐怖、それだけだった。
79 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:53:06.02 ID:r2vHYRnw0
――どうして?

どうして、怖いの?
どうしてこんなに……怖いんだろう?
数秒間深呼吸して、息を整える。

(逃げなきゃ……早く、逃げなきゃ……)

そう思った途端だった。

「だから待てって。そんなにことを急ぐ必要はどこにもないだろう?」

そっと耳元に声が飛び込んできて、少女は目を見開いて固まった。

「え……?」

弾かれたように顔を上げると、飛び掛る前……こちらに近づいてきていたときのまま、スーツの襟元を直し。
青年が脇に立っていた。

「え……え……?」

わけが分からなかった。

――自分は。

数分前までと同じように、いつの間にかテーブル前の椅子に腰掛けていた。

「あれ?」

思わず、先ほど彼を刺した場所……すぐ後ろの壁際に目を走らせる。
そこには、確かに見たペンキをぶちまけたような血の紋様も、何もなかった。ただパチパチと暖炉が火を上げている。
小さく震えながら、横を向く。
青年はパンを千切り、スープの中に投げ入れた。そして残りの塊を皿の上に置く。

「ひ……!」

訳が分からなかった。
叫び声を上げることも出来ずに息をつめ飛びのこうとすると、彼はそっと腕を椅子に回し、少女の小さな肩に手を当てた。そして軽く力を入れて椅子に座らせる。
それどころか、あまりに意味不明な恐怖のために、自分の手よりも一回り、二回りも大きな手に触れられ、完全に少女の抵抗心は打ち砕かれてしまっていた。
先ほどまで張り詰めすぎていた感情を一気に解放して、その反動とでもいうのだろうか。
心臓だけが破れそうなほど激しく、早く波打っている。
80 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:54:06.41 ID:r2vHYRnw0
「あぁこんな危ないもん女の子が持つんじゃないぞ? 女の子は、外に出るときは男に護ってもらうのが定石ってもんだ。武器はNGだな。男を武器にしろ」

「……?」

「俺みたいな、カッコいい男をな」

顔を上げると、青年がひらひらと何かを振った。

「えっ?」

思わず小さく叫び、スカートのポケットに手を入れる。そこには、どこにも……先ほどまで握っていたはずのナイフがなかった。
そう、男が握っていたのは、少女がスカートのポケットに入れていたはずの……小さな、ナイフだった。

「しかし……こんなちっぽけな刃でも殺されちまうとはなぁ……どれだけ弱いんだ俺。ターニングポイントの数を増やしておくか」

「そ、そんな……ど、ど、どうして……」

怯えきっていた。
手品でもない。魔術でもない。
そうだ、これは……魔法。

――私は魔法をかけられている

(殺される……私、殺される……)

――失敗した……

その事実を理解した瞬間、少女の体から全ての力が抜けた。椅子の上に脱力し、目を見開いて頭を垂れる。

――もうダメだ。

帰るところもない。行くところもない。
ここを切り抜ける力も、私にはない。

「ほら」

そんな少女の様子を見て、気づいているのかいないのか。青年はスプーンの上に、スープにふやけたパンをすくって差し出した。

「いつまでも死にそうな顔してるんじゃねーよ。口開けな」

(もうどうにでもなれ……)

反応を示さない女の子に、ため息をついて彼は、スプーンの中身を無理矢理に口に押し込んだ。突然口中に入り込んだ異物に、目を白黒させて少女が吐き出そうとする。しかし、彼は手を伸ばしてその口を押さえた。
反射的に飲み込んでしまう。

(毒……?)

一瞬その考えが脳裏を駆け巡ったが、何秒経っても体には何の影響も見られなかった。
81 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:54:59.41 ID:r2vHYRnw0
「なぁ美味いだろう?」

手を離し、青年は少女の手にスプーンを握らせた。そして、パンを手に取り何個か欠片をスープに落としてやる。

「あ……あれ……?」

「冷めちまうぞ?」

一歩下がってそう言うと、彼は残ったパンを口の中に放り込んだ。

「何だ、ちゃんと焼けてるじゃないか」

そう言い、ナイフを柄のところで折りたたんでスーツのポケットにしまう。

「俺を殺したいなら、メシ食ってからにしな。腹が減っちゃ、元気もやる気も出やしねぇ。なぁエリクシア?」

呆然と彼を見て、少女はわななく唇で呟いた。

「……知ってたの……?」

「バレバレだろーが。ほら、お前は俺には勝てない。俺はお前に危害を加えない。加えるつもりもない。ド弱い虫けらを潰す趣味はないんだ。めんどくさいし、飽きた。で、お前の前のメシは美味い。お前より強い俺が食えと言っている。理解したか? 分かったらさっさと食事をしなさい」

そう言い残し、彼は元いた自分の席に戻っていった。そしてグラスを手に取り、中身を全て口の中に空ける。

「まあ知ってるとは思うけど、俺の名前は泉(せん)だ。お前は、何て名前なんだ?」

傍らのボトルから、生臭い液体をグラスに注ぎながら彼が言う。少女はスプーンを握り締めたまま、動くことも出来ずに呆けたように泉を見ていた。
五秒経ち、十秒経ち。
少女はやがて、おぼつかない手つきでスープにスプーンを入れると、パンの欠片をすくい、口に入れた。そして長い時間をかけて租借し、意を決して飲み込む。

「……美味いだろ?」

伺うように聞かれ、どう答えたらいいのか分からない、という風に、彼女は台の上を見回した。

「なぁ、名前は?」

もう一度聞かれ、弾かれたように顔を上げる。
真っ直ぐに、泉の氷のような水色の瞳に見つめられ、少女は慌てて目をそらした。

「教えてくれても、減るもんじゃないだろ」

もう一度促され、彼女はスプーンを握り締め、言った。
82 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:55:34.34 ID:r2vHYRnw0
「……名前は、ないです……」

「ないってことはないだろ?」

「型番は千八十二号……作戦のコード名では、Fi=リルレインって……」

「ん〜? 意味がよく分からんなぁ……」

そう答え、少し考え込んだ後泉は続けた。

「じゃ、フィルレインと呼ぼう。今日は偶然、ドームの天候は大雨だしな。ピッタリじゃないか。なぁ、ちょうど退屈していたところなんだ。話し相手になってくれ」

「話し相手……?」

「ああそうだ。メシ食ってる間だけでもいいよ。そしたら勝手に帰れ」

そう言って、彼は笑ってみせた。
フィルレインと呼ばれた少女は、先ほど自分の手で確かに殺したはずの彼の、屈託のない笑顔を見て、また慌てて視線を逸らした。

――不思議と、もう怖くはなかった。

どう違うのか明確には本人にも分からなかったが、どこか恐ろしくはあった。どうしようもなく、逃げ出したくはあった。
しかし少女には逃げられる場所はなく。
迎えてくれるところもなく。
ここにいるしかなかった。
彼女は、唇を噛んでまた、スープにスプーンを入れた。
83 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:56:17.64 ID:r2vHYRnw0


 沈黙を続ける紅を取り囲む視線は、冷たかった。
レジスタンスの中核に位置する五人の男性、そして紅と音羅で一つの部屋に集まり、話し合いを始めてから既に五分は経過している。早く物事を決めてしまいたいものだが、そんな簡単に進まないことは他でもない紅が一番分かっていることだった。
胸の前で組んだ腕が、僅かに震えている。

(何だあれは……)

想像していたこと、いや、聞かされていたことを遥かに越えている。
あれでは、もう既に……いや、とっくの昔に手遅れだ。どうすることも出来ない。
想像を越えてBMZ侵食が展開している。
それは、紅の立てていた全ての計画が、あっさりと水泡に帰してしまう可能性を示唆している事実でしかなかった。
会話の余地がない。おそらく、どんなに誠心誠意話したとしても、彼女は言葉の一遍も理解をしていないだろう。
それにおそらく、分裂している。
成るほど。
そうやってレベル9の侵食から人格崩壊を免れたのか。
おそらくある程度まで理性的に話していた、あの凶暴な子はダミーキャットである確率が高い。
そしてもう片方の、現状認識でさえできていない、狂った子。
あれがおそらく、フィルレイン。
虹といった子の方は理解はしているのかもしれないが、あの様子ではおそらく、フィルレインに抑えつけられて自由な行動がとれていない。
その予測が、人工知能の内部を駆け巡っていた。
甘く考えていた。
あの少女がこのドームに入れば、全てトントン拍子に進むと思っていた。それだけ紅の立てた計画は綿密なものであり、彼女はその一要素でしかなかったのだ。
だが……。

(こんなに酷かったとは……)

――会話。

会話、それを為せばいい。
過程などどうでもいいのだ。丸め込めればいい。
丸め込んで、計画の軌道にはめ込めば、あとは勝手に動くはずだ。
そうでなければいけないのだ。
そうだ、目的はただ一つ。それが最優先で、最大のことだ。
しかし、それは――
生き物として……いや、彼とおなじ人間の心を持つ者として許されることなのだろうか。
本当に、自分はそれに一歩を踏み出してしまってもいいのだろうか。
そのたった一つの事実を決めかね、言葉を発することが出来なかったのだ。
それが結果的に彼女の望みにつながるとしても。
それを為してあげたことで導き出される結果は、絶望それだけだ。
84 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:57:07.32 ID:r2vHYRnw0
(しかし二年待った。これ以上は……)

そこまで考えた時、近くに座っていた男性の一人が遠慮がちに声を発した。

「先生……どうするんだい?」

聞かれて、紅が顔を上げると、その隣では音羅が眉をひそめて下を向いていた。唇は硬く閉じられている。
少し考え、息を吸ってから青年は言った。

「当初の話にもあった通り、通常の魔法使いならいざ知らず、Hi8に限っては立ち向かった時点で死が決定します。それ故に、私達には牙が必要です。代わりに隙を作ってくれる、犠牲が必要です」

その淡々とした声に、淀みはなかった。

「更紗を殺すためには、現存している天使の唯一の生き残りである彼女の力を借りるのは決してマイナスには作用しません。折角、この施設に誘導することが出来たのです。利用します」

「しかし……先生も見ていただろう。ありゃ、完全に気狂いじゃよ。天使と言うのは全部ああいう狂人なのかい? 御する前にワシらがやられてしまっては……」

「確かに、あの状態にあることは完全に予想外でした。しかし、利用する手段はあります。皆さんは安心して、プランCを実行に移してください」

「本当にいいのかい?」

「はい、間違いはありません」

頷いて、紅は小さく息を吸った。そして軽く彼らに笑いかける。

「明日中に、もうこんな……恐怖に怯える毎日はお仕舞いにしましょう。あなた方は、狂信教の方の処理を宜しくお願いします」

「先生がそう言うなら、お任せしても宜しいのかね?」

「安心してください。それと、皆さんにはくれぐれも……あの少女を刺激するような真似を控えるように伝達してください。私以外に近づかない方が無難でしょう」

そう言い、彼は眼鏡の位置を直し続けた。

「それでは……これからの行動予定をお話します。イレギュラー要素が入りましたが、基本は変わりません。各班においては、伝達を忘れないように」
85 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:58:02.96 ID:r2vHYRnw0


「虹……落ち着いたか?」

静かになった少女に、ガゼルはそっと言葉をかけた。数分前から、先ほどまであれほど激しく髪を抜いていた虹の動きが止まり、今度は糸が切れたマリオネットのようにベッドの上に脱力してしまったのだ。
傍らの相棒の声を聞き、虹はぼんやりとした視線を彼に向けると、吐き捨てるように呟いた。

「何?」

「落ち着いてるのか。今はどっちの方なんだ?」

「…………」

「虹か。戻ってよかったよ。肝が冷えた……これからどうするのか聞きたかっただけなんだ。正気に戻ったんなら、ちょうどいい。ここを出よう」

「……その必要はないわ」

「どうして?」

「だって相手の方からわざわざ出てきてくれたんだもの……」

猛烈に疲れているらしい。額をおさえて脂汗を拭い、か細く息をしている。

「出てきた? どういうこと?」

「今は乗ってればいいよ……どっちにしろ抵抗したって殺られるだけだし、なら馬鹿のふりして嵌まってた方がいい。あなたはむしろ知らない方がいいと思う……当然予防策は張るけど……」

「罠だっていうの? 俺にはさっぱり……」

「……」

「…………」

軽く息を吐いて、虹は大分長い間沈黙していた。

「……宿には戻れないから、今日はここに泊まることにする……正直疲れた……あの紅とかいう男のせいで、あの子が騒いで、苦しい。死にそうだよ……」

いつになく虹は弱っているのが目に見えていた。
相当に体力を消耗しているらしい。
どちらかというと、筋肉的な疲労ならガゼルが治してやれるため、今現在は精神的な疲労が大半を占めているのだろう。
それに気づき、これ以上は言及しないでおく。
へそを曲げられたりまた狂われたりしたらそれこそ最悪だし、なにより虹の判断というものは大概機会であるガゼルよりも正確である場合が多かった。
86 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:58:59.48 ID:r2vHYRnw0
「そうか……人間と、魔法使いが近くにいるけどいいのか?」

「どうでもいい。どうせ最後のカタストロフィーには、みんな死ぬんだし…………今日寝る場所があればそれでいい……」

さらりと危険極まりないことを口走った虹を諭そうとしたが、ガゼルは考え直して言葉を飲み込んだ。そして数秒置いてからまた、静かに言う。

「今回のこんなパターンは初めてだ。魔法使いへの敵対組織が協力を要請してくるなんて。どうもキナ臭いような気がする。本当にやるの?」

「協力? ……つくづく機械ってバカね……そういう風にしか論理だてられないの? あっちが表向きはいい顔をしてるんだから、せいぜい利用してやればいいの」

「利用?」

「あなたにはまだ早いよ」

そこまで言って、少女は息をついた。

「……頭がガンガンする」

「待って。薬を出すよ」

そう言ってガゼルは内部調合炉で錠剤を形成すると、排出孔から外部にせり出した。それをつまんで口の中にいれ、虹は音を立てて噛み砕き、飲み込んだ。

「また彼女との暗転症状が出ると面倒だ。君は、調子が悪いようだったら喋らない方がいい。あいつらとの交渉は俺がやるよ」

「……うん……」

しばらく黙ったまま、虹は疲れたように大きく息を吐いた。

「更紗がここにいるんだ……」

ポツリと呟かれた言葉。
それを聞き、ガゼルは一拍置いてから答えた。

「どうやら今までに至る情報を総合するに、本当みたいだ。まだ用心の必要はあるけど、一連を鑑みるに一応は信用していいと思う。これで虹がここに入る前から感じていた違和感の説明がつくし。それに……二年前の戦闘の時の警戒で、周りをレプリカンで固めているみたいだ。でも、あの女がそれだけで君への対策を済ませているとは思えない」

「二年前……? 二年前……」

繰り返し呟き、虹はガゼルの方を見て続けた。

「二年前?」

「え? いや」

言葉を濁して、ガゼルが口ごもる。
87 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 22:59:42.09 ID:r2vHYRnw0
その時だった。
ガチリ、と言う音がして、目の前の扉のノブが回された。そしてそっと、こちらを伺うように小さな女の子が顔を覗かせた。
上下つなぎのワンピースのような服に、直接コートを羽織っている。服装はボロボロではないが、貧しい階層らしく、そんなに整ったものではない。薄汚れていると言った表現の方が近いだろうか。
髪は、虹と同じ透き通るような白金髪だった。
しかし彼女とは異なり、長く伸ばしたものを後頭部で一つにまとめている。
身長は虹と同じくらい……年齢も、同様に十二、三歳ほどだろうか。
少女はベッドの上に上半身を起こした虹を見ると、ハッとしたように目を見開いて部屋を見回した。そして紅がいないことに戸惑っているのか、その手に持った食事のトレイを所在なげに揺らしていた。

「何だ、用がないなら出て行け」

ガゼルが打って変わって高圧的な言葉を発する。見た所部屋の中に男性はいないので、少女はポカンと口を開けて、その場に停止した。
あまり頭の回転が速い方ではないらしい。

「あの……にぃは、ごはんを持ってきただけですの……」

稚拙な口調に似合わないお嬢様言葉だった。
そして彼女は、ガゼルの言うことを聞いていなかったのか、そのまま部屋の中に入り込むと首を傾げて見せた。

「……おかしいですの。あなた、もしかして男の子ですか?」

問いかけられて、虹は数秒間ポカンと口を開けていた。そして、暫く経ってからやっと意味を理解したのか、呆れたように息を吐いて口を開いた。

「は? ボクに言ってるの?」

「先ほどのお声とは違うみたいですけど……女の子は、自分のことを僕とは言わないのですよ? わたくしと言わねばならないのです」

「……」

「にぃは、小さい頃そう教えられましたの。でも、いつまで経ってもそういう風に言えませんの」

『何だこいつは』

にこにこ微笑みながら話しかけてきている少女に戸惑いを覚え、ガゼルは虹に刺していたケーブルから疑問を送った。
しかし、虹はそれに答えずに少女を見てから、ポツリと一言言った。
88 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:00:29.92 ID:r2vHYRnw0
「………………綺麗な髪ね」

「ありがとうございますの。にぃは髪の毛だけが自慢なのです。他には何もいいところはないのですが……」

そう言いながら近づき、少女は非常にナチュラルな動作で、虹の脇にスープとパンを乗せたトレイを置いた。

「どうぞです。さっきは、いきなり壁が爆発したのでびっくりしました。里の部屋がなくなってしまったのです」

「……里?」

「私のメイドです」

ポン、と手を叩いてから、少女は虹の前に椅子を引いてきて、腰掛けた。そして手を伸ばしてガゼルのことを指先でつつく。

「もしかして、先ほどのお声はあなたなのですか?」

無邪気に呼びかけられ、ガゼルの存在しない喉が一瞬詰まった。

『おい虹』

対処に困って主に支持を求めるが、虹からの応答はなかった。どうも、先ほどの発作前から彼女の反応が鈍い。
そう思っている間に、少女はガゼルのカメラアイに指をつけて、くりくりと押し始めた。
そこで、遂にたまりかねて彼が声を発する。

「やめろ。指紋がつくだろ」

「あらあらあらまー。本当に喋りましたわ。変なアンドロイドですわねぇ」

「厳密にいうとアンドロイドじゃない。シィンケルハンドモジュールの、ガゼルバデッツァーだ」

「よく分かりませんがよろしくおねがいしますですガゼルバデさん。そこのあなたは?」

満面の笑顔でそう話を振られ、虹はまたきょとんとした後、一瞬うざったそうに鼻の脇の筋肉をピクリと動かした。
だが、少女の金髪が揺れるのを見て、視線を床に落とす。
そして、彼女は少し置いてからそれに答えた。

「…………虹」

「こんにちは、虹さん。にぃは、アルトニース・C・燐と申しますです」

「アルトニースだって?」

彼女……燐がそう言ったことを聞き逃さずに、ガゼルが言葉を発する。

「はい、その通りでありますよ?」

パンを取り、虹の手に渡しながら燐はそう言った。先ほどまで紅と音羅があそこまで苦労していた虹との会話をあっさりと成功させている事実に驚きながら、ガゼルは言葉を続けた。
89 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:01:28.00 ID:r2vHYRnw0
「その姓は、確かこのドームの総支配人のものだ。お前はもしかして、その一族の者なのか?」

「そうなのです。さすが天使さん、お耳が早いのですね」

燐はぼんやりとしている虹がスプーンを握らないのを見て、自分の手でスプーンを持ち、スープをすくうと、それをそっと差し出した。

「あーん、してくださいまし」

――何て怖いもの知らずなんだ。
ガゼルの中に驚愕と、それを越える悪寒、恐怖が駆け抜ける。慌てて怒鳴りつけて追い払おうとしたが、肝心の虹の行動は、彼の想像の外のものだった。
おとなしく口を開いてスープを飲み込むと、彼女は黙ってスプーンを受け取り、椀につっこんだ。そしてパンを小さく千切って中に放り込み始める。

「かわった食べ方をなさいますねー」

「……」

無言の虹を興味深そうに見る燐に、ガゼルは胸をなでおろして続けた。
……どうやら、今の虹は安定している……それがブラフなのか、演技なのかは分からないが、先ほどのように激昂する節はないようだ。

――彼女の意識は、時々かなり強力に不安定になることがある。

それにはいくつかの法則性がある。
そのパターンを、ある程度は把握しているが……確実ではない。
スイッチがはいると暗転するのだ。意識と、存在の中身が。

「アルトニース家の者なのか。どうしてそんな娘がここにいる?」

「天使さんが、にぃのパパとママの仇をとってくれると、先生が仰っていたのです。どんな人なのか見に来たのですよ」

無邪気なのか、思慮が足りないのか、言うことに遠慮がない。

「パパとママ? 父親と母親のことか」

「死んでしまったのです」

驚くほどあっさりと燐はそう言った。そこには悲しみも、怒りも、憎しみも感じられなかった。ただ、淡々と日常であるかのように彼女はそう言い、ガゼルの方を見てニパ、と笑った。

「それから少ししてと先生といるのです」

「そうか。まぁ……本当かどうかなんてどうでもいいが。俺達はお前の父母のことなどどうでもいい。仇を討ちたいのなら、自分でどうにかしてくれ」

冷たく突き放そうとしたガゼルの言葉に、しかし燐は軽く首を傾げただけだった。
そして虹のボロボロの髪の毛を見ると、口元に手を当てて息をつく。
90 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:02:21.65 ID:r2vHYRnw0
「まぁ、天使さんだって、お疲れになりますわよね。髪の毛、梳かして差し上げましょうか?」

外見では同じくらいの年頃の女の子だということから、最初から気を砕いているのだろうか。普段虹と、このような日常的会話をしたことがないガゼルが判断しかねていると、虹は彼に端的に通信を送った。

『櫛出して』

『え? いいのか?』

『後の調整はボクがやる』

黙って彼女の手に櫛を再度構成すると、虹は黙ってそれを何度か指でさすった。僅かに指先が白く光る。ピノマシンが集まり、模様なようなものを形成した。
虹がそのような女の子らしいことをするのを見るのは初めてだったので、ガゼルはぽかんとした。
その前で彼を気にする風もなく。
虹はそれを、燐に差し出した。
少女は突然現れた櫛に目を丸くしていたが、それを受け取ると、銀光りする外観に少しの間見とれていた。

「あげる」

少しして、虹がポツリと言う。そして彼女は、スプーンでふやけたパンをすくうと、口の中に入れた。

「あ……ありがとう」

少し頬を染めて、嬉しそうに燐は笑うと、ベッドに登り、虹の背後に膝立ちになった。そして、そっと彼女の髪に櫛を入れる。

「痛かったら言ってくださいまし」

「ん」

小さく、それに答えて虹は食事を続けていた。

(分からん)

その光景を見ながら、ガゼルは心の中で大きくため息をついた。
どうしても、先ほどまで発狂していた少女の姿と、今の安定している姿が重ならない。しかも、何処がどう彼女の発作スイッチになったのか、未だに彼には判断がつけられずにいた。

(俺じゃ対処できないのか)

虹は何も相談してくれない。いつも、端的に命令するだけだ。

(俺じゃ駄目なのか)

同年代の女の子に髪を梳かされる虹を見ながら、そう思う。
91 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:03:03.66 ID:r2vHYRnw0
本来なら――。

そう、本来なら。
彼女には、このような未来、このような生活があって然るべきだったはずなのだ。
このように、誰かに髪を梳いてもらい、静かに食事をする時間が、あったはずなのだ。
それを打ち砕いたのは。
彼女から、そんな当たり前の時間を消し去ったのは。
魔法使い。
あいつらだ。
心の中で、小さく思う。
そうだ、甘えを捨てろ。
優しさも、捨てろ。
一番大事なのは虹なんだ。
彼女をこれ以上壊さないために、俺はいるんだ。

だから――。

そこまで考えた時だった。
唐突に扉が開き、そこから紅が顔を覗かせた。音羅の姿は見えないが、彼の背後に白い煙がたゆたっている。最低限こちらの状況は分かるようにしたらしい。

「燐さん……」

思いもかけていなかったのだろう。燐が虹の髪を梳いている場面を目視し、紅は驚きのあまり一瞬息を詰めた。
それは、ただ純然たる驚きではなかった。もっと何か、ハッとしたような……そんな警戒の色だった。

「先生、こんばんは」

「どうしてここに……あなたは、食事のお手伝いをしていてくださいと……」

「天使さんのことを見たくて、運んできたのですよ。可愛い可愛い天使さんなのです。髪だって綺麗で、びっくりいたしましたわ」

恐らく、紅は彼女をここから遠ざけたいのだろう。それはそうだ。あそこまでの狂乱を見せられて、警戒しない人間はいない。
しかし、その肝心の虹はスープを見つめながら一言……全く関係のない台詞を小さく言った。

「……髪くらいしか、取り得はないから」

「え?」

「にぃと同じなのです」

にっこりと笑い、また虹の髪を梳かす作業に入る燐。紅は、ひとまず安全であることを確認すると、ガゼルの方を向いて言った。
92 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:03:56.38 ID:r2vHYRnw0
「……ガゼルさんといいましたね」

「何だ?」

「この度の作戦をご説明いたします。あなただけ、何らかの形でご参加いただくことはできませんか?」

どうやら、虹と話しても無駄だということをやっと理解したらしい。
それか……気狂いの少女一人を説得している時間がなくなってきたのか。

(本性が出てきたな)

心の中で軽く舌打ちをして、ガゼルはそれに返した。

「可能だ。通信ケーブルを延ばす。それをスピーカー、マイクがついている端末に刺して引っ張っていけ。それと、話し合いの最中、この燐という娘をこの部屋に置いておけ」

人質、という案はつい今思いついたことだった。やはり信用が出来ない。

「それは……」

断ろうとしたのだろう、語気を強めた紅に、しかし燐はきょとんとした視線を向けてから言った。

「先生、にぃは天使さんともっとお話をしたいのですわ。それに、もっと髪を梳かして差し上げないと……」

「それ以外に、条件は呑まない」

ガゼルが追い討ちで言葉を続ける。
紅は暫く考え込んでいたが、やがて額の汗を拭うと、燐に向けて口を開いた。

「燐さん、何かあったらすぐ、携帯端末のボタンを押してください」

「分かりましたわ」

それから暫く、紅は燐のことを心配げに見ていた。
虹は一度も顔を上げずにスープ椀の底を、スプーンでコツコツと叩いているだけだった。

『虹、ちょっと行ってくる』

ガゼルがそう断ると、少女は視線を変えないまま脳内通信で返した。

『まぁ、そっちはいいよ……任せる』
93 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:05:10.67 ID:r2vHYRnw0

 
 ガゼルの通信ケーブルが差し込まれた小型携帯端末をテーブルに置き、紅は先ほどと同じ面子を見回した。隣では音羅が、ガゼルの声を伝える役割になっている端末を睨みつけている。

「協力を取り付けることが出来ました。こちらは、今は部屋で休養されている天使の少女、虹さんの代理であるドロイドのガゼルさんです」

携帯端末を指し示すと、部屋の中にいる人々にざわめきが走った。
それを音声情報で認識し、ガゼルは押し殺した声で言葉を送り出した。

「協力をするとは言っていない。ただ、俺の持ち主の容態が安定したので、話だけを聞いておこうと思って同席したまでのこと。過度な期待はしないで頂きたい」

突然冷たく跳ね除ける台詞を相手方が発したのを聞いて、男たちは顔を見合わせた。そこに、紅が息をついてから口を開く。

「まだ、私達を信用してはいただけませんか?」

「そのような問題ではない」

ガゼルは、いい加減渦巻いている胸のムカつきを押さえきれなくなり、声を僅かに荒げた。

「彼女を制することは、こちらにも出来ない。だから、作戦の途中で彼女が錯乱する危険性は非常に高い。何故なら、戦闘と言う行為が限定要因となり、あの子の精神に及ぼす影響が最悪だからだ。それ故に確約はできないと言っている」

「それは、つまり……」

「何らかの対抗措置があるならともかく、作戦途中で敵味方の区別がつかなくなる可能性がある。お前たちがそれでもいいというのなら、こちらとしてはHi8を駆逐するのに協力関係を結んでもいいとは考える」

「そんな……容認できるわけがないだろう」

座っていたレジスタンスと思われる男の一人が、吐き捨てるように言った。

「もう、怯えるのは魔法使いにだけで十分だ……その上味方に背中から討たれちゃ溜まったもんじゃねぇ」

その台詞を聞き、紅の隣に浮かんでいた音羅の表情が、まるで申し訳ないとでもいうかのように曇る。
ガゼルは、少し考えてからその言葉に返した。

「言い忘れていたが、こちらの持ち主は現在は安定しているものの、危険性はいまだ変わらない。それを無理に、お前たちが留まれと言っているのを聞いている。そちらが条件措置を飲まないのであれば、こちらはこちらで動かせてもらうまでなのだが。同じことを、いい加減何度も言わせないで欲しい」

「……それは……」

声を出しかけていた男が、唇を噛んで言葉を飲み込む。少しの間部屋の中を沈黙が覆い、紅は大きく息を吸うとそれを静かに破った。

「……私が、虹さんと交渉し、作戦行動中は常に彼女、及びガゼルさんと連絡が取れる位置、状況にいます。それでは駄目でしょうか?」

「当方としては問題ない。しかしそれでも、持ち主が錯乱する可能性は捨てきれない。弾みでお前たちを攻撃する可能性もある。その了承を欲しい」

「構いません」

押し殺した声で紅が言葉を発する。
94 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:05:49.98 ID:r2vHYRnw0
「紅……?」

音羅を筆頭にざわついた部屋を見回し、彼はテーブルの上で拳を握り締めながら続けた。

「私達には、時間がありません。左天が殺されたこと、そして音羅がこちらに協力をしてくれていること、この二点が偶然にも噛み合い、今や更紗の守りは実質右天のみとなっています。この機を逃すわけには行きません。それに、このプランCを強行するためには、どうしても右天を始末しなければいけません。そのためには虹さん達の力が必要です」

「……」

顔を見合わせた人々を見回し、紅は言った。

「更紗が代わりのレプリカンを用意するまで待つとでもいうのですか? 折角駒がそろったのです。すぐにでも討って出るべきだと、私は考えます」

(随分と短絡的だな)

心の中で僅かに疑問を感じながらも、ガゼルは言葉を挟まずに沈黙していた。

言い分は分からなくもないが――。

「勝算はあるのか?」

一言、少ししてからそう聞く。
紅は息を吸い、軽く微笑んでから頷いた。

「今からそれを説明いたします」
95 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:06:53.42 ID:r2vHYRnw0


 「……更紗がこの街に来たのは、二年ほど前のことでしたわ」
 
虹の髪を梳きながら、燐はそう言った。
天使の少女はスープを食べ終わり、トレイを脇に置きながら、視線を床に落とした。

「二年前……?」

不思議そうに呟いて、額を抑える。

「ええ。別のドームからのキャラバンに混じっていましたの。最初は、普通の女の子だと思いましたわ……パパやママとも仲良くなって、にぃの家に、数ヶ月間暮らしていましたの」

やつれたように微笑み、燐は息を吐いた。

「一緒に……暮らしていた?」

怪訝な声で虹が聞き返すと、少女は頷いて続けた。

「両親がいないということで、色々あって引き取ろうというお話になりまして……にぃは、最初は妹さんができたというくらいにしか思っていなかったのです」

そこまで話して、燐は虹の髪を梳く手を止めた。

「どうか……しましたの?」

虹は、自分の顔を両手で覆うようにして体を丸めてしまっていた。

「どこか痛いところでもありますの?」

心配げに顔を覗き込まれ、少女は軽く喉を鳴らした後、指の間から覗く目を怪しげに光らせてそれに答えた。

「いいえ……特には」

「そう……」

大きく息を吐いて、また姿勢を元に戻した虹の髪に櫛を入れ、燐は話を続けた。

「でも、あの日を境に更紗は変わってしまった。にぃも、パパもママも信じられなくなってしまって……どこかに行ってしまったんです」

「……」

「それから献血が始まった」

淡々と言葉を発し、燐は相手から反応が返ってきていないことに気がつき、慌てて櫛を動かす手を止めた。

「……ごめんなさい。天使さんには、関係のないことでしたわね」

「そう……ね」

囁くように答え、虹は病院服の裾を、軽く手で握った。そして弄びながら壁の方に目を向ける。
96 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:08:05.60 ID:r2vHYRnw0
「これくらいで、よろしいかしら?」

バサバサに乱れていた虹の髪を、綺麗に細かく梳き、燐は満足そうに言った。そしてベッド脇の棚においてあった鏡台を手に取り、虹の前に差し出す。

「天使さんは、お綺麗な方です」

そう言われ、虹は鏡に視線を落として小さく笑った。

「……ありがとう」

「…………元気がないのですか? お食事はおいしくありませんでしたこと?」

心配しているのか、鏡を置いて燐が虹の脇に腰を下ろした。顔を覗き込まれ、天使の少女はぼんやりと燐の顔を見返した。

「元気なんて、ないわ」

「どうしてですか?」

「……どうしてかしらね……」

自嘲気味に呟き、虹はまた視線を床に戻した。数秒考え込み、そして囁くように続ける。

「……大方、怪我でもさせたんでしょう」

ポツリと呟かれた言葉は、しかし燐の耳の奥に入り込み、彼女の心を凍りつかせた。弾かれたように顔をあげ、小さな少女は、同じくらいの背丈の天使を見つめた。

「……え?」

「更紗に、血を見せたんでしょう?」

「あなた……ご存知ですの? 更紗のこと」

戸惑いがちに発せられた台詞を肯定するでもなく、虹は燐に視線を向けないまま深く息を吐いた。

「天使さん……何か、ご存知なんですの?」

櫛を握り締めたまま、燐が僅かに震える唇で言葉を紡ぎ出す。その瞳は、不気味に……狂気、いや、明らかなる恐怖をはらんで歪んでいた。

「よく崩壊の力を目撃して、生きていられたわね。不思議……適性があるんだ。あんた、使えるね……」

聞き取れるか、聞き取れないかの声で虹は囁き、僅かに瞳孔が開いた瞳のまま、口元だけをにこりと笑わせてみせた。そして、燐の耳に口を近づけ、そっと言葉を発する。

「……安心なさい……あの雌豚は挽肉にして今夜のシチューに責任もって混ぜるから」

その台詞に、燐の背に筆で背を撫でられるような悪寒が走った時だった。プツン、という音とともにガゼルのカメラアイが点灯し、彼の声が部屋の中に流れ出す。

「虹、話し合いが終わった。明日の朝、八時に決行だ。まず右天を潰す」
97 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:09:05.71 ID:r2vHYRnw0
「ふーん……」

呆れたようにため息をついた虹に、ガゼルは素っ頓狂な声を上げて答えた。

「えぇ? 君が受けるって言ったんだろ?」

「……そう聞こえたんなら、それでいい。どうせ結果は変わらないし。データを頂戴」

一方的に話を打ち切られ、ガゼルは何かを言いたげに数秒沈黙していたが、やがて観念したのかケーブルを延ばし、虹の首から会議内容を彼女の脳内に送り込んだ。

「……成る程ね」

一言だけ呟いて、虹は隣で櫛を握ったまま呆然としている燐の方を向いて、もう一度歪んだ笑みを発して見せた。

「どうしたの?」

問いかけられ、少女は一瞬ビクッと体を震わせた。そして床に目を落とし、何度か息を吸い込む。

「何?」

もう一度聞くと、燐は顔を上げ、虹の顔を上目使いに見つめた。

「ずいぶん怖い顔を、なさるのですね……」

発せられた少女の言葉。
虹はそれを聞き、しかし言葉を返さなかった。
黙ってベッドの毛布をまくりあげ、その中に体を滑り込ませる。
燐は立ち上がると、背を向けて毛布を手繰り寄せた虹の髪をそっと撫で、先ほど彼女がしたと同じように、耳元に口を近づけて、小さく囁いた。

「先生の作戦は、囮なのです。気をつけてくださいまし」

「……?」
僅かに反応を示した彼女に、しかしそれ以上は囁きかけず、燐はトレイを手に持ち上げた。そしてガゼルの方に笑いかける。

「明日、朝ごはんもお持ちいたします。今日はごゆっくりと、お休み下さいまし」

「おい待て。虹、出していいのか?」

「別に」

戸惑いがちに声を発したガゼルに、冷たく虹が返す。それを聞き、燐は一礼をして扉を空け、部屋を出て行った。

「どういうことだ?」

先ほどの囁きを聞いていたガゼルが、その単語を反芻する。虹は毛布に顔をうずめながら、どうしようもない……やるせない瞳で虚空を見つめ、それに返した。

「まだ分からないの…………その通りの意味よ」
98 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:10:38.82 ID:r2vHYRnw0
8 右天攻略作戦

 朝六時を過ぎると、ジェンダのドーム内に吹き荒れていた吹雪は止み、しかし、ドーム天井の亀裂からは、残留の粉雪がちらついていた。天井のスクリーンには、昇りかけている太陽が投影されている。
虹は、部屋を出て少し歩いた先……マンホールを見上げ、ぼんやりと冷たい通路に腰を下ろしていた。ガゼルを抱いて、呆けたように空を見上げている。
一睡もしていない。いや、おそらく虹は眠っている。
彼女が常に疲弊している一番の原因はそれだった。
意識がない場合に体が動くため、無意識の疲労感が溜まるのだ。それは意識的に体を動かした場合に比べ、数倍、いや数十倍の憔悴を心にもたらす。
いわば、夢遊病のような類だ。
何を話しても反応を返さない。
ついには言葉をかけて刺激するのを諦めて、今に至る。

――やはり、ここのマンホールも蓋の材質は透明なものになっている。ここは丁度死角になっていて見えないようにはなっているが、気温は零度を下回っている。

虹が担ぎ込まれたレジスタンス施設は、ドームの端の方で使用されなくなった、古い発電施設を改修して再利用を行っていたものだった。
良く考えたもので、その施設は非常時のシェルター機能も備えていた。何重かにハッチがロックされていて、外からも、内側からも開けられないようになっている。加えて、通路中に張り巡らせた水道管に入り口は覆い隠され、よほどのことがない限り分からないように偽装が為されていた。おそらく、施設を閉鎖する際に、その取り壊しを避けるために、体よく水道管の増築と、地下通路の増築で隠してしまったのだろう。
ガゼルの機能で少女がロックを全て解除し、外に出てから既に二時間以上が経過していた。
ここは下水道とは言えども、元々は発電施設に通じる道だ。床に汚水が流れているというわけではなく、壁に幾重にも張り巡らされた子供の胴体ほどの太さもある水道管の中で、水が循環している音がする。結構古くなっているらしく、所々が錆びて、そこから漏れた汚水が凍り、長いツララを形成しているところもある。

――ドーム内の全ての住人が、魔法使いを振興する狂信者であるとは限らない。そもそも、虹が宿泊した宿は狂信者のマークを玄関に貼り付けてはいなかった。弱い者は群れたがるものだ。それが圧倒的弱者であるとするとなおさら。

そして、その群れたどうしようもないコミュニティの中で、自分だけが外れないようにと、厳正なルールを形成するのも常。
それは理性生物として仕方のないことだし、逆に考えれば人間の本能であるともいえる。
しかし……。
その、不気味な連帯感を放つ組織が存在しているという事実。それだけですなわち、狂信信仰であると明言していない人間も、それに表立って反抗、及び敵対は出来ないという社会状況が形成されていた。
それは、どこでも同じだ。
魔法使いにはかなわない。
ドームの外に出れば、人間は死んでしまう。
それ故に、ドーム内に魔法使いが入り込めば、逃げることも出来ず、反抗することも出来ず。
そして結果、先日の夜での献血……あのようなことになる。
立ち向かうことが出来ないならどうするか……簡単だ、服従すればいい。服従し、駆逐されることこそが正しいと、正義のありようを変質させてしまえばいい。
それだけで救われる。
99 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:12:33.46 ID:r2vHYRnw0
そして、その理に反さない限りは、人間は限られた世界の中で普通に生きていくことが出来るのだ。
間違ってはいない。
いや……むしろ、それこそが唯一つの正解なんだろう。
だから、魔法使いに敵対している人間達がこのように身を隠しているのも分かるし、それは当然の在り様だ。

――だが敵対するだけだったら。

猿でも出来る。
心の中でそう思い、彼女はまた透明なマンホールの蓋から空を見上げた。
作り物の空、作り物の空気。
その中でもがき、足掻くすべての人間が、滑稽で、哀れで堪らない。
何て馬鹿らしいのかしら。
何て、矮小なのかしら。
小さく含み笑いをした彼女の耳に、コツ、コツという足音が聞こえてきた。

『あの紅という男だ。反応が近づいてくる』

ガゼルの通信を受け、しかし少女はそれには答えずに膝を引き寄せただけだった。少しして、白衣の上からコートを羽織った紅が、通路の突き当りを曲がり、顔を覗かせる。

「ここにいたのか。探したよ」

そう言い、微笑みながら彼は歩み寄ると、彼女を見下ろした。
病院服ではなく、元の通りの服を再構築している。しかし、コートの端から覗いている足は黒タイツをはいただけで、ほぼむき出しだった。首にかけたヘッドフォンを手で弄び始めた彼女を少しの間見つめ、紅は自分が羽織っていたコートを脱ぐと、それをそっとかけた。そして隣にしゃがみ込む。

「寒くない?」

聞かれ、少女は横目で紅を一瞥してから、小さく口を開いた。

「……別に……」

「そうか。どうして……こんなところに?」

「機械の臭いは嫌いだから……」

一言そう返し、また虹はガゼルのことを引き寄せた。紅は一瞬きょとんとした後、自分の体を見回してから言った。

「そうかな……? 毎日風呂には入るようにしているんだが」

そう言って紅は肩をすくめてみせた。
その仕草を見て、少女は一瞬ハッとして顔をあげた。しかし、すぐにまたうつむき……髪の毛に手を当てる。

「お風呂に入るの、好きになったんだ……」

彼女は生気のない瞳を地面に向けて、ブツブツと続けた。

「いえ?」

「あんなに嫌いだったのにね……」

表情の読めない目で一瞥され、紅は少しだけ迷い、考え込んだ後に引きつった顔で笑った。

「……ま、まぁ……」

しばらくそんな彼を見つめていたが、やがて彼女は紅のコートに顎をうずめて、白い息を吐き出しながら言った。
100 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:14:30.23 ID:r2vHYRnw0
「愛寡ちゃんの言うことなら聞くのかな……」

「……何を言っているんだ?」

黙って聞いているガゼルにも、彼女の言葉の意味は良く分からなかった。紅も、言葉上では応対をしているが、顔に張り付いた笑顔が引きつっている。
下手に声をかけて刺激しない方がいいか……とガゼルが判断していると、少女はヘッドフォンをいじっていた手を髪に当て、前髪にあたる部分を指先で引っ張り始めた。

「でも私は奴隷だし……仕方ないかなって……」

「奴隷だなんて……」

「もう私を虐めるのに飽きたんでしょう? 私……ボキャブラリーないから……だから、飽きられても仕方ないかな……って……」

段々言葉が途切れ途切れになり、虹は髪を掴む手に力を込めた。そして、目元を拭って息をつく。
大分長いこと沈黙した後、彼女はポツリと言った。

「……更沙さんがここに来てるんだって。泉も楽しみでしょ? 私より、可愛いものね」

「え……?」

「こっちに来るんだって…………」

そこまで言って、少女の目の瞳孔が怪しく収縮した。

「そうか。あいつか」

唐突に声音が変わった。
押し殺したようなかすれ声を発し、虹は薄ぼんやりとした表情のまま、紅の方を見た。

「あいつ?」

意味不明な質問をされ、紅は困ったようにガゼルの方を向いた。

(そろそろ止めておいた方がいいか……)

危険だ。そう思いガゼルが言葉を発しようとする。しかし、それを遮るように、軽く唾を飲み込んで紅は口を開いた。

「違うよ。俺は君に飽きたりなんてしていない。更紗のことだって誤解だ。あいつはただの妹だ。妹と、お前じゃ比べようがないだろ」

(え? 何だって)

予想外の台詞が外部マイクから飛び込んできて、ガゼルは出しかけていた言葉を引っ込めた。紅は疲れたように微笑んで、虹の頭をグリグリと撫でた。
101 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:15:50.14 ID:r2vHYRnw0
「誤解……?」

「ああ。誤解だ。それどころか、俺はお前の力を借りたいと思っているんだ」

「泉は強いんじゃないの? 私なんか手伝えること、ないよ……」

不思議そうに聞き返され、紅は一瞬言葉に詰まったが、やがて自分の髪を掴んでいる虹の手をそっと外させ、彼女の目を見つめてから続けた。

「……お前の力が必要なんだ。分かってくれないか?」

「…………」

しばらく、呆けたように口を半開きにして小さな少女は紅のことを見ていた。やがて、小さく頷く。

「分かった。私頑張る。良く分からないけど一生懸命頑張る。あの子にも頑張るように言っておくよ……だから、褒めてくれる?」

「………………勿論だ。じゃあ、作戦はそこのガゼル君に伝えておいたから」

「誰?」

「お前を助けてくれる人だよ」

そう言い、紅は急いで虹から視線を外し、立ち上がった。

「……準備が出来たら、戻ってきてくれ。俺は中で待ってるよ」

背を向け、通路を戻ろうとする紅。それを見送りながら、虹は自分の髪の毛を掴んで引っ張った。そして掠れた声で呟く。

「信じてるから……」

「あ……ああ」

コツコツという足音を立てて、紅が歩み去っていく。放って置いても、虹は作戦に協力してくれると言う確信でもあるかのような態度だ。その姿勢に少なからずムッとして、ガゼルは紅が去ってから数分ほど時間を置き、虹に通信を送った。
102 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:16:53.00 ID:r2vHYRnw0
『……どうした? 君の会話内容が俺にも良く分からない。今はどっちだ? 記憶が混在してるんじゃないか? 記録領域をデフラグメーションした方がいいと思う』

暫くの間、言葉は返ってこなかった。

『虹、俺だ。ガゼルだよ……分かる?』

聞かれ、少女は髪を引っ張る手をふと止めた。そして代わりにヘッドフォンに指を当て、ボタンを撫で回し始めた。

『……何?』

『何を言っていたんだ? さっぱりわけがわからないぞ』

『何って……何が?』

『覚えていないのか? ちょっと不安定すぎるぞ。こんな状態で戦闘なんてできるのか?』

『……』

『質問を変える。このまま、従ってあいつらの作戦に参加するのか? 何だかキナ臭い。警戒の必要はあるぞ』

『別に……』

また、同じ台詞だ。

――どの【別に】なのか推し量りかねて、ガゼルは声を荒げた。

『俺がそんなに信用できないか?』

滅多に聞くことのない彼の怒りの声を受け、虹は体をビクッと震わせた。そこで初めて意識がはっきりしたのか目を見開き、傍らの相棒に視線を落とす。

『え……?』

『虹の味方は俺だけだ。俺だけが、君のことを理解し、サポートしてあげられる。なのに最近の虹は俺にも何も語ってくれない。一体どうしてしまったんだ? あの紅とか言う男に会った時からも、君の様子はおかしい。あいつが君の精神を侵食している要因だというなら、今すぐ殺しに行こう』

過激極まりないことを口走るガゼルに、しかし虹はマンホールから空を見上げて首を振った。

『いいの』

『いいのって……何が?』

『もう死んでるから』

一言だけ呟き、彼女は立ち上がった。そしてお尻の埃を払い、紅のコートを肩に担ぐ。
ガゼルを持ち上げ、虹は口を開いた。

「さぁ、殺しに行こうか」

心の中で大きなため息。
ガゼルは、どうしようもない、どこにもぶつけようがない感情を押し込めた。
103 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:17:56.87 ID:r2vHYRnw0


 分かっていることは三点だった。
まず一つ目、右天という魔法使いは、今では動力が切れているはずの機械兵器を動かすことが出来る。二つ目、地上を何らかの手段で監視している。三つ目、それら二点を一つの能力で行っているということだ。
とりあえずは、その能力を判別できないまでには、こちらから不用意に地上に出て行くことは出来ない。
そこで、紅から提案されたプランCという作戦は、このようなものだった。
今日の朝八時から、中央ドームの内部施設で魔法使いを崇める狂信者達が集まり、礼拝を行うらしい。それは、先日虹が葬った左天の正式な葬儀も兼ねている。
その礼拝には、警備のためなのか、人間達を威圧するためなのか、右天が出席するらしい。

――だが、Hi8の更紗が出席することはない。彼女はかなり用心深い性格らしく、人前に姿を見せることは滅多にないという音羅の話だった。

紅が提案した作戦は、その狂信者達の礼拝会場の一部を爆破し、まずは混乱を招かせるというものだった。その中で右天が迎撃をしようと機械兵器を持ち出せば、信仰対象の力を目の当たりにした狂信者達は、周辺に集まり始めることが予測される。
紅、そして音羅の話だと、そのような状況下では魔法使いは、表立って攻撃を出来ないとのことだった。
それはそうだ。
献血という恐怖の儀式を不定期に行っているとは言え、それは人間達の決めたルール内での正行為だ。狂信者達に言わせれば、断じて虐殺ではない。
しかし、そのような理由で信仰を集めている頂点が、進んでその信仰対象を気にせず戦闘を始めてしまってはどうだろう。
切れそうな、張り詰められているルールの糸がそこで消滅してしまい、狂信者達はよりどころをなくしてしまう。
無論、そうなれば魔法使いは無差別に人間を虐殺し、そして別のドームに渡れば済む話なのだが、二年もの間このドームに君臨している更紗の護衛……その筆頭である右天は必ず、躊躇する時間、そして主である更紗に確認を取る間があるはずだ。

――その間に、虹と、そしてレジスタンスの者達で右天を叩く。

Hi8と戦うためには、まずそれを護衛する魔法使いを倒さなければならない。
これは、その周辺戦力をまず裂こうという主旨がこめられていた。
地上に出てしまっては、いつ右天に感知されるか分からない。それ故に、虹たちは地下の下水道を通って移動する手はずになっていた。
紅は本拠から、虹、そしてレジスタンスに対して司令を送る役となっている。彼から渡されたイヤホン型通信機を耳に突っ込み、虹は周囲に集まったレジスタンスの男達を見回した。
全員が、小銃と小型の爆弾を組み込んだベストを着用している。
男達は、明らかに戦闘が行えるとは思えない、どう見てもただの小さな女の子に一様に奇異の瞳を向けていた。会議に参加していた者達ではない。紅と話していた上層部の者は、一様に年老いていた。しかし実際にこれから作戦に当たる男達は、皆若々しく、体も逞しい人間だ。
ガゼルを背負い、俯いたままの虹を囲むように彼らは集まると、一人だけ浮いている少女をことを品定めするように見つめた。
104 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:21:00.48 ID:r2vHYRnw0
「……先生を疑うわけじゃねぇが、こんなモヤシみたいな女の子が、本当にあのエリクシアなんですかい?」

「パッと見普通の女の子のようだが……」

「皆さん。彼女のことは刺激しないで下さい」

慌てて紅が口を開くが、遅かった。一人虹よりもはるかに身長が高い男性が、馬鹿にした様に少女のことを突き飛ばしたのだ。
虹はそれに、特に反応するでもなく床にお尻から倒れこむと、そのまま尻餅をついた。

「……先生、何の冗談だ? 遊びじゃねぇんですよ!」

虹を突き飛ばした男はそう激昂すると、紅に掴みかからんばかりの勢いで声を張り上げた。

「俺達は、献血とやらで殺された家族の仇を討つためにここにいるんだ。タチの悪い話はやめてくれ。ガキの相手をするためにいるんじゃねぇ!」

「落ち着いてください。彼女は本当に……」

「こんな子供に、魔法使いに対抗できる力があるとはとても……」

他のメンバーがそう呟くと、途端に集まっていた人間達の間に動揺が広がった。
一番最初に怒鳴り声を上げた男は、尻餅をついたまま起き上がろうとしない虹の襟首を捕まえると、その顔を覗き込んだ。

「子供は奥に隠れてろ。作戦は元の通りに俺達だけで……」

しかし、そこまで言った時に、彼の言葉は止まった。虹が手を伸ばし、自分の襟首を掴んでいる男の小指を掴んだのだ。
小さな女の子の手だったが、その力は強かった。何のためらいもなくその小指を逆方向に押し曲げる。小枝をへし折るような音が響き、ついで男の絶叫が部屋に轟いた。
指を押さえてうずくまった彼を見下ろし、氷のように詰めたい瞳で虹は呟いた。

「ボクに触るな。汚らわしい」

「こ……このガキ……!」

小指を折られた男が痛みから立ち直り、激昂して虹に掴みかかる。その手を軽く体をひねってかわし、彼女は軽くガゼルの砲口を突き出した。それに男がつまづき、派手に床に転がる。すかさずその足……膝の脇をブーツのかかとが勢い良く踏んで固定した。
次の瞬間、男の顔がまるで死人のように青くなった。
自分の動きを抑えた少女が流れるように、持っている武器の後部に取り付けられているチェーンソーの刃を回転させ始めたのだ。

「え……ちょ、ちょっと……嘘だろ……」

倒れたまま、唖然と呟く彼を見下ろし、少女は淡々と繰り返した。

「我慢してるのはこっちの方だってのに、あの子が泣いてる。ボクに触らないでよ。同じ空気を吸ってるだけで耐えきれない。汚らわしいのはこっち。汚らわしい」

もう一度同じことを言い、呆然としている周囲に気をかけることもなく、また、何のためらいも見せずに虹はチェーンソーを振りかぶった。
105 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:21:58.84 ID:r2vHYRnw0
「やめるんだ!」

そこで、紅が大声を上げた。彼の言葉を聴いて、少女の動きがピタリと止まる。
紅は駆け寄ってくると、倒れている男を抱え起こした。

「やめるんだ……」

小指を押さえた彼を抱え、こちらを睨みつけた紅の視線を受け、虹は一瞬停止した後、またこめかみを押さえてから、ワイヤーを曲げてチェーンソーの回転を止めた。そして、ガゼルを乱暴に床に立てかけて、忌々しそうに紅を見る。
虹が静かになったことを確認し、紅は指をへし折られた男を出口の方まで誘導した。そして出入り口の近くにいた者に、彼を医務室に誘導するように言い残してから、部屋の中を見回す。

「……もう一度しか言いません。この少女を刺激しないで下さい。そして作戦は、先ほどご説明したとおりに行います。決行まで三十分しかありません。既に、音羅が右天と共に礼拝会場に向かっています。彼女からの合図があった瞬間に、会場に仕掛けられている爆薬を起爆します」

無理矢理に説明を開始した紅と、沈黙した虹を代わる代わるに見比べ、決行メンバー達は虹から距離をとった。先ほど、何の躊躇もなくチェーンソーを回転させたその表情。
圧倒的な無表情に、触れることが出来ない狂気を感じ取ったのだ。
紅は虹の方を向き、続けた。

「……虹さんは、ポイントGで待機。そして爆発が起き、混乱が発生したら、メンバーの攻撃にあわせて右天へのアタックを頼む。出来れば機械兵器に乗られる前に仕留められればベストだ」

「……」

答えない虹の代わりに、ガゼルが応対を始める。

「了解した。右天を始末した後は、速やかに南地区の地下施設に移動すればいいんだな」

「その通りです。後は、全員に渡した通信機に入っているメモ音声を確認してください」

紅がそう言うと、男たちは、まだ先ほどのことを気にしているのか中々反応を返さなかった。
しばらくして、虹がその空気を気にかける風もなく周囲を見回す。
そこは、発電施設内部の倉庫だった。今では使われない大型の機械などが無造作に積み重ねられている。出入り口から一番近いところにある部屋なので、ここでミーティングをしていたのだ。
その中で埃を被っている一つに目をつけると、彼女は歩み寄り、そして被さっていたホロを取り去った。
そこにあったのは、大型のエアバイクだった。サブ的に二輪はついているが、底部から高圧で空気を噴出し、ホバーの要領で浮かび上がり移動するものだ。
壊れているらしく、ハンドルやエンジンがさび付き、ボロボロに腐食している。

『これ、使おう』

『俺には乗らないのか?』

ガゼルが聞き返すと、虹は通信で静かに返した。

『出来れば両手とかが空いてるほうがいいし、速度と安定性を出したい』

『別にいいけど、こんな大型のもの、取り込めるかな……』

『やってみて。男の子でしょ』

彼女の意図は測りかねたが、ガゼルは了承の意思を伝えた。それを確認し、虹は彼の体躯を無造作に持ち上げると、その壊れているエアバイクにあてがった。
106 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:22:31.00 ID:r2vHYRnw0
次の瞬間、ガゼルの表面装甲がまるで粘土のようにぐにゃりと歪んだ。それは、アメーバ状に広がると、たちまちのうちにエアバイク全体を包み込んだ。
まるでゴム風船だった。
明らかに硬く、堅牢な材質で出来ていると見えるガゼルがぐにゃぐにゃに歪み、バイクの表面に広がっていく。
時間にして数秒。
瞬く間、といってもいいかもしれない。
部屋の中の全員が息を呑んでいる間に、壊れているはずのエアバイクは、真っ白なフレームに覆われてエンジンを噴かしていた。
表面には、ガゼルのカメラアイであるビー玉状の物体がいくつもくっついている。そして後部座席の後ろには、取り外しが出来るようにアームで固定されているチェーンソーが取り付けられていた。チェーンソーは、そのエンジン部分が大きく肥大し、持ち手の近くに拳銃のような砲身がせり出している。

『侵食完了。動作良好だ。やろうと思えばできるもんだな……』

バイクから伸びている通信ケーブルからガゼルの声を聞き、虹はそれに跨った。そしてハンドルを軽く回す。

「ピノマシンの侵食作用か……? バイクを取り込んで再構成……初めて見た……」

紅が唖然と呟く。
虹は、そんな彼を一瞥してから黙ってバイクに変質したガゼルのエンジンを噴かした。ふわりとその巨体が浮かび上がり、ついで開け放たれている扉から、地下道の中に急発進をした。
たちまちのうちに小さくなった虹を見て、紅が残った男達に向けて口を開く。

「とにかく、配置についてください。彼も指の治療を完了したら向かっていただきます。二年待ったんです……シュミレーション通りにお願いします」
107 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:23:23.72 ID:r2vHYRnw0


 虹が左天を惨殺してから、既に丸二日が経過していた。直径数十キロ小の小型ドームの集合体であるジェンダドームの中枢は、他のものと違いかなり小型なドームとなっている。一つのスポーツエリアのような巨大施設が建っており、政治などの中枢はその地下で行うことになっている。
つまり、ジェンダドームの中枢は地下に向かって根を伸ばしている。
今回は、その中央エリアに分岐している水道管の内部から侵入する作戦になっている。直径三メートル弱の暗い水道管内を、バイクに変質したガゼルをふかしながら、虹は猛スピードで駆け抜けていた。足元にはわずかに水が流れているが、バイク下部から高速で噴出している空気圧で周囲に巻き上げられている。

『これはいい。出来ればこの形質変化を記憶していきたいもんだ』

操縦はガゼルに任せながら、虹は細かいハンドル操縦に専念していた。ドーム地下であり、さらに空調も効いていないので、かなり生臭く、かつ突き刺すように寒い。特殊な合金加工をしている水道管内部に、水は凍りつくことなく流れてはいるものの、不快感は募るばかりだった。
強力にバイクのライトを点けながら、虹は突き当りのコーナーでハンドルを切った。
小柄すぎる女の子には明らかに大きすぎるバイクが、その操縦に忠実にコーナーを曲がる。他のメンバーは、もっと細く、体を水につける必要があるルートから進入する手はずになっている。本当は虹もそれに追従する形だったが、それだけは断固として彼女は拒否していた。そのため、事前に知らされたルート内からガゼルは別個の進入経路を割り出していた。
しかし、そこではどうしても垂直なラインを昇らなければいけない。どうしたものかと考えていたところ、虹がこのように機転を利かせたのだ。元々考えていたことなのか、その場で思いついたことなのかは分からないが。
しばらく進むと、一つの民家ほどもある巨大な丸プールのエリアに出た。多岐に渡り、水の運搬経路を分化させる中継プールだ。白濁した水が、ブクブクと空気を発している。上を見上げると、直径はかなり広くなり七メートル以上ものエリアが、頭上三十メートル程続いていた。ここは、地上深度で言うとおよそ六十メートル地下ほどの場所になる。中央エリアは、いわゆる盆地の建設形態になっているために、正確な深度ではないが、かなり深いところだというのは確かだ。
事前に紅に渡されていた地下水道の経路データを確認し、ガゼルはバイクのエンジンを大きくふかし、水を巻き上げながら上昇した。そして十メートルほど上がった先にある横穴から入り込む。
ここからは直線距離で、およそ十キロ弱。かなり遠回りになっているが、同じような中継プールを経由し、かつこの速度を維持すれば七分とかからない。
ライトに照らし出された水道管内部の錆を一瞥しながら、虹はバイク後部に形成されていたチェーンソーを手で持ち、そしてロックを解除した。

『虹、走行中だ。ハンドルを握っていて』

『大丈夫』

注意した相棒に軽く返し、少女は足で座席をはさみ、体を固定すると自分の胴体ほどもあるチェーンソーの胴体を手で握った。左手で十のグリップのようなものを持ち、固定するようになっている。回転する平刃の下には、戦車の砲身を小型化したようなものが、三十センチほど突き出していた。

『……随分と小型化したね』

『出力も抑えてあるが、連発できるようにしておいた。いわゆる、クルントルナ砲のマシンガンだ。近距離戦を想定して、貫通力に特化させてみた』

『今までの通りでいいのに……』

『無理だよ。バイク稼動の干渉で、大分エネルギーを回してるんだ。いちいちキャノンのためにピノ融合炉を焼ききってたら、これも稼動しなくなるぞ。君がバイクに変質しろって言ったんだぞ?』

冷静に言い返され、虹は眉をしかめた後に口を閉ざした。そして右手でチェーンソーのグリップを握り、左手でハンドルを掴み、固定する。
108 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:24:17.79 ID:r2vHYRnw0
『しかし、あの音羅とか言う魔法使い、また攻撃してきたりはしないだろうな』

心配げに、ガゼルが口を開き、コーナーを曲がると、虹は体重を脇に移動させて重心を取りながらそれに返した。

『分からない。だったら、どさくさに紛れてついでに殺せばいいよ』

『君の割り切りを俺にも分けて欲しいよ』

半ば呆れながら答える。そして先ほどと同様な中継プールに飛び出し、今度は斜め上のパイプに入り込んだ。

『ここを抜けると、中央エリアの礼拝堂と呼ばれている場所……その、丁度裏手の場所になる。俺達は建物の屋上に上り、待機』

『……』

『虹?』

答えない虹に対し、ガゼルは少しだけ言いよどむと、決心したように言った。

『どうせ人間になんてまた裏切られるんだ。今回、どうして君がそんなに素直に相手の話を聞いているのか、俺には分からないけど……でも、もしも君が、これ以上傷つくのが嫌だというのなら。もしそうなら、レジスタンスの奴らが作る隙に便乗して、ここの魔法使いを二人消去。そして、Hi8を騒ぎに乗じて認知確認して撃破。さっさとこんなところオサラバしよう』

『……何だ、あなたも学習するのね……』

『随分と失礼な物言いだな。真面目に話してるんだ』

『けなしてるわけじゃない……』

そう言い虹はハンドルを切って今までよりも細い水道管内に進路を向けた。

『じゃあ何だよ?』

『その方法じゃ更紗は殺れないと思うだけ。行動を起こすためには、あいつの姿を少なくとも視認してからじゃないと……それだけのことができたら苦労しない。だから、今回これに乗ったんだ』

『確かに、それはそうだけど』

『いざとなれば、レ・ダードを起動する』

『待てよ。あれを使うのか? なら、核が足りないぞ。それに第一射は派手に失敗したじゃないか』

『核は調達する。次は外さない』

いい加減頭がこんがらがってきてしまい、ガゼルは口を閉ざした。彼女の言っていることは極めて理路整然と、そして理知的で筋が通っている。
正直、このドームに入ってから、ガゼルは虹に対しての接し方をどう持ったらいいのか、判断をつけあぐねていた。

――そう、彼女を信用していないのは。

(俺の方なのかもしれないな……)

心の中でふと、そう思う。
109 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:25:10.80 ID:r2vHYRnw0
地上に向かって上昇している中で、彼は一拍置いてから彼女に言った。

『君がそこまで考えているなら、俺はそれに従うよ……それともう一つ、虹。戦闘に入る前に、君に一つ言っておくことがある』

『……何?』

『君は覚えていないと思うけど、遭えて言うよ。泉はもう死んだんだ。とっくの昔に、ベルダデットはこの世にはない。それに、君……いや彼女に酷いことをする奴はどこにもいないんだ。自分をしっかりと保て』

『……ベルダデット? いきなり何?』

『いいから聞け。あの紅という男も、あれは泉じゃない。君の事を利用しようとしているだけの、腐ったアンドロイドだ。いいか、泉は死んだ。もういない。その事実をしっかりと心に思い描け』

中央部の地上マンホールの方にゆっくりと上昇しながら、ガゼルが言う。虹はチェーンソーのグリップを握りながら、眼下のバイクを不思議そうに見た。そして少しだけ考え込み。やがて囁くように答えた。

『……そう……ね』

『あいつは、君の知っている泉じゃないぞ。どう見ても違う。しっかりしろ。彼女の方は完全に昔の泉とあれとの区別がつかなくなっているようだけど』
『その話をするのはやめて。頭があの子にひっかきまわされる』

虹は自分の口元に手を当てて言葉を飲み込んだ。

『やっぱり……もしかしたらと思ったけど、やっぱりそうなのか……君の記憶もあやふやなんだろう? 左天を殺したこと、覚えてるか?』

『さてん? だってこのドームには魔法使いは四人のはず……ボク達はまだ一人も……』

『一人殺しただろ。君が、その手で』

相棒の声に、虹は一瞬息を呑んで考え込んだ。マンホールのすれすれで停滞しながら、数秒間停止する。
少しの間、沈黙が二人の間を流れた。
虹はしばらくガゼルのことを戸惑いを隠せない瞳で見ていた。その、彼女の顔をカメラアイで確認し、ガゼルは心の中で深くため息をついた。

『いや、ごめん。覚えていないならいいんだ』

『……』

『これからやることは、分かるな? ターゲットは?』

『馬鹿にしないで。目の前の化け物を殺すだけだよ』

『OK。気にしてる時間もないみたいだ。後で、色々話は聞くよ』

そう言い、彼女との話を無理矢理に切り上げる。これから戦闘が始まるという最中、余計な混乱をこれ以上与える必要はないだろうという配慮からだった。
虹は考え込むそぶりを見せたが、追求はせずにクリア素材のマンホール蓋に手をかけた。
110 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:26:20.28 ID:r2vHYRnw0
そこで、彼女の耳にかかっていた携帯型通信機に微振動が加わった。

『通信だ……』

少女の声に、ガゼルは慌てて下降すると横に空いた水道管の中に入り込んだ。そして空気噴射を止めて、その場の水に着水する。
幸い浅かったがために少女のブーツまでを濡らさないで済んだ。
建物の裏側とはいえ、いつ何時、誰に発見されてしまうか分かったものではない。
虹は耳元に手を当て、軽く通信機のボタンをスライドさせた。少し周波数を合わせる間があり、次いで囁き声のような女の子の声が流れてきた。

『……虹様、ですの?』

それは、燐の声だった。

『…………何か用?』

応答は、単純な疑問の声だった。

『にぃですの、昨日お話を致しました。アルトニースです。お食事をお持ちいたしましたのに、いらっしゃらないので、焦りました。良かった……通信が繋がって……』

『……今忙しいんだけど……』

『あなた方がお進みになっているルートは、外に出たところで監視システムに引っかかってしまいます。右前方一つ前のマンホールを使用して下さいまし』

燐の声は、ガゼルにもキャッチされていた。こちらの位置は虹がつけている通信機から相手方に把握できるようになっているが……おかしい。虹が答えあぐねているようなので、ガゼルはケーブルから音声を通信機に送り込んだ。

『紅を出せ。奴からのルート指定は、確実にこの選択で間違いのないはずだった』

『先生は……今、別件で指示が出せませんの。とにかく、そこからは出ていけません。本当です。魔法使いの監視網に引っかかってしまいますわよ』

妙に確信を持った声だった。しかし、誰かに聞かれることを恐れるような、かすかな声だ。僅かなハウリングノイズからして、恐らく口元に覆うようにして通信機を忍ばせているのだ。

『紅に連絡が出来ない? そんなことがあるか。何か隠しているのか?』

『作戦決行まであと五分しかありませんわ。お願い……天使さん、にぃの言うことを信用してくださいまし……』

そこで、一方的に通信は切れた。
ガゼルは盛大に舌打ちを発し、通信機に手を置いたまま停止している虹に、慌てて呼びかけた。

『紅に確認するよ。いいね?』

『待って』

しかし、その言葉はあっさりと打ち落とされた。虹は片手でチェーンソーを構えると、ガゼルのハンドルを握り、そして前に押し込んだ。

『一つ前のところから出るよ』

『本気か? その前に、指揮官に確認を』

『いらない……状況は良く分からないけど、しない方がいいと思う』

『どうして?』

『勘、それだけ』

また言葉が打ち消される。ガゼルは、暫く迷った後、作戦決行まで四分半をきったことを確認し、主に通信を送った。
111 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:26:53.30 ID:r2vHYRnw0
『分かった。ルートを変えるよ。そして地上に離脱後、建物の屋上に上がる。虹?』

『……何?』

『大丈夫?』

何に対しての心配なのだろうか。
自分は、何を恐れているのだろうか。
さっぱり分からない。判断がつけられない。しかし、その最後に送った通信に対し、虹は疲れたようにクマの浮いた目を細めて、頷いた。

『うん……』

『…………』

『私……頑張る。一生懸命……頑張る……』

壊れたスピーカーのように、感情を込められていない単語が囁かれる。ガゼルはそれに答えずに、エンジンをふかし、水道管の内部を滑るように走り出した。
112 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:27:57.72 ID:r2vHYRnw0
9 殺せと言う

 ジェンダドームの中央部。そこは、人々が集まって会合を開くことの出来る施設になっていた。
集まっている人間は、少なくとも五百……いや、その二倍はいるだろうか。大人、子供。性別の関係もなく、球場型の礼拝堂にひしめき合っている。
礼拝堂と呼ばれているその施設は、元々はドームを統括している政府が政などを執り行う際に使用する多目的ホールだった。しかし、二年前に魔法使い……Hi8がこのドームに入り込んでから、いわゆる狂信教が拡大。政権などを、魔法使いの威光を勝手に使用し乗っ取った形になる。
事実、人間を餌にする魔法使いは定期的に献血という名の虐殺を行っていた。その恐怖、そして遭遇したこともない倒錯は、人間の感覚を麻痺させ、正常な常識さえも覆してしまうには十分なものがあった。
左天という魔法使いの一人……その卦報がドーム中に行き渡ると、人間の反応は大きく二分された。
一方は、どんな思惑があるにせよ、魔法使いに対して忠義を見せようとする者。そしてもう一方は、魔法使いからの報復を恐れ、閉じこもる者だった。
半球状の天井は半分ほど開き、内部が見えている。階層に分けられ、およそ十階構成。おびただしい数の人間が、集まっていた。

「恐れを捨てなさい。迷いを捨てなさい」

周囲に、いたるところに設置されているスピーカーからけたたましくアナウンスが鳴り響いている。

「全てを神の御意思、試練と受けるのです。その先に私達の未来は開けているのです」

集まっている人間達は、皆一様に目深に帽子を被っていた。胸には分厚い経典のようなものを抱えている。
エンドレスで流されている聖書の言葉の中で、人々は一様にステージの先を見つめていた。
その中央には、おびただしい数の花が設置されているステージがあった。そして、白い棺が置かれている。恐らくは、虹が惨殺した左天の遺体が入っているのだろう。

――泣いている人間もいる。

嗚咽が漏れているのか分かる。
ステージの上には、座席が設置されていた。このドームの総支配人……つまり政治の責任者が数人。そして、帽子を被った……恐らくは狂信教のトップと思われる老女が一人。
それから少し離れた場所に、大柄の男と、対照的に小さな女の子が椅子に腰掛けていた。
一人は音羅だ。
煙の体ではなく、実体だ。灰色のゆったりとしたローブを着ている。隣の男性も同様な姿だ。頭髪はなく、浅黒い肌が光っている。服越しにも筋骨隆々とした体格が伺え、堀が深い顔には、細い黒塗りのサングラスをかけていた。
おそらく、奴が右天。
左天とかいった魔法使いと外見がそっくりなのは、名前の関連性から見ても双子か……アンドロイドの同型機なのだろう。
音羅は、手に小さなパイプを持っていた。それを口にくわえてくゆらせている。
腕組みをして椅子に腰掛けている右天の表情は石のように硬かった。何処となく落ち着きがなく、肩をすぼめて縮こまっている音羅とは対照的だ。
少しすると、右天は傍らの音羅に手を伸ばし、その肩を抱いた。そして、軽くポンポンと背中を叩いてやる。
ステージ上には真っ赤なカーペットが敷き詰められていた。それ自体が電気暖房具の役割を果たしているらしく、ステージ周辺だけやけに温かい。信者達が集まっている観客席側は、まだ早朝だということもありかなり肌寒い。
ガゼルは、半分ほどだけ開いた礼拝堂天井の四角に着地し、その光景をカメラに捉えていた。
113 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:29:14.82 ID:r2vHYRnw0
――燐の忠告を聞いていてよかった、ということが分かるまでにそう時間はかからなかった。

この礼拝堂の周辺には、やけに大量に監視カメラが設置されていたのだ。普通は一つでカバーできる範囲に、少なくとも三つ……いや、四つの監視カメラが動いている。
こんなに設置しても、誰も確認が出来ないのではないかというくらいだ。
確かに、ここで飛び出していってしまっては監視網に引っかかり、どうなるか分かったものではない。少なくとも、ことを起こすには何かの混乱が必要だ。

――敵が、どのような能力を有しているのかも詳しく分からないのだ。さらに、彼らの主であるHi8の姿が見えない。

(しかし、紅のルートが間違っていたのか)

心の中でそう疑問を呟く。燐の助言を聞いていなかったら、少なくとも監視カメラに引っかかってしまっていたところだ。
それを確認しようかとも思ったが、丁度狂信教の元締めと思われる老女が演台に登ったのを見て、言葉を飲み込む。
虹は、片手でチェーンソーを握ったまま、眼下でひしめいているカルト教信者を見つめていた。すすり泣いている人間達を、無表情な瞳が順繰りに追っている。

「同胞達よ。この、我らの国の中に、神に仇なす逆賊が入り込んでいる」

見た感じはかなりの高齢だと思われる割に、声にはしっかりと張りが通っている。礼拝堂の中にそれは響き渡ると、幾重にも反響して消えた。

「逆賊は、我らの神に手をかけるという侵犯行為をなした。恐れ多く、恐ろしいことぞ。我々はこの事実を厳粛に受け止め、そして即急に対策をとらねばならぬ」

(さすが、これだけ大規模なドームになると狂信の錯乱具合もとんでもないな)

ガゼルは、眼下で発せられるお門違いな演説を聴いて、心の中で深く呆れのため息をついた。

「逆賊の名は、天使!」

その瞬間、老女は叫んで演台を平手で叩いた。乾いた反響音が礼拝堂に響き渡る。カゼルは息を呑んで、素っ頓狂な声で虹へと通信を送った。

『何だ。何であいつ、俺達のことを知ってるんだ』

「我らが神が、逆賊がその穢れた空気を持ち込んだ場を浄化された。しかし尚、その汚泥はこのドーム内から駆除されておらぬ」

そこで、このドームの政治責任者と思われる男が立ち上がり、老女の隣の演台に進んだ。そして軽く息を吸い、マイクに向かって声を発する。

「我々政府は、その危険分子を今朝未明、危険度レッドの特A級犯罪者と認定。ジェンダドームの特殊軍隊、グレイハウンドを出動させました。これは、テレビ報道もまだなされておりません」

『ばれてる。俺達のこと、完全にばれてるぞ』

ガゼルの視線に、ステージの上に座っている小さな魔法使い……音羅が映りこむ。
肩をすぼめて小さくなっている彼女の姿を見て、彼はノイズ混じりの声を発した。。

『やっぱりあの女か! あいつ、ハナっから俺達に協力するつもりはなかったんじゃないのか? 紅も騙されているんだ』

『……隠密行動の意味がなくなったね……』

彼女のその言葉を聴き、ガゼルは次いでステージ上のモニターに映し出された映像を見て言葉を止めた。
114 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:30:06.65 ID:r2vHYRnw0
――それは、紛れもない虹の姿だった。

時間的には左天を惨殺し、そして別のエリアに離脱しようとする寸前のものだった。体中に血が降りかかっている、どこか現実味を感じさせない映像。
しかしそれは、礼拝堂内に衝撃を走らせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。

――怒号?
――怨嗟?
――狂声?

まるで、その場にいる全ての人間が同時にヒステリーを起こしたかのようだった。会場内の空気をビリビリと震わせる勢いでその声は絡み合い、周囲に轟いた。
数珠のようなものを手で挟み、一心不乱に何かを唱えている者もいる。ただ手を振り上げ、目を血走らせて何かを叫んでいる者もいる。
共通するのは唯一つ。

「殺せ」

『畜生、いつの間に撮られてたんだ。俺が全く気付かなかったぞ。それにしてもこいつら狂ってやがる。自分達を餌にするためだけに住み着いてる化け物だぞ、魔法使いは』

ガゼルがそう吐き捨てると、そこでやっと虹はポツリと呟いた。

『人間なんて、こんなもんじゃない……』

『……』

『死ぬことこそが幸福だと誰かが言えば、それが真実になるのよ。だから簡単に善悪の判断なんて逆転する』

チェーンソーを弄びながら、少女は風になびく髪をもう片方の手で撫で付けた。

『……どうする? おそらく、君のことを感知しているのはあの右天という魔法使いだ。奴の能力が未知数である以上、下手に手を出さない方がいいような気がする。不気味だ』

『少なくとも、千里眼系統の能力じゃないと思う』

『どうして?』

『それだったら、とっくにボクたちは見つかってなきゃおかしい。だってあいつらの頭上にいるんだよ』

最もなことをさらりと気づかされ、ガゼルは考え込んだ。

『しかし、隣に音羅がいる以上迂闊に攻撃は出来ないな。あの女は作戦を知ってる。しかも今は生身のように見える。Hi8には隠して反乱してるらしいから、攻撃が来ると知ったら、全力で迎撃してくるぞ』

『だったらどうするの?』

『俺に聞くなよ。とにかく、あと二分少々でこのドームに仕掛けられた爆薬が炸裂するはずだ。そのドサクサに乗じて、速やかに右天を始末しよう』
『結局ボクたちだけでやっても大して変わらないような気がするけどね。そのプロセスはさ……』

その言葉には、ガゼルは答えなかった。先ほどマイクから入ってきた言葉が気にかかっていたのだ。
115 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:31:03.72 ID:r2vHYRnw0
グレイハウンド、とかあの壇上の男は言っていた。特殊部隊だと言っていた。これだけ大規模なドームとなると、警備隊がいても不思議ではない。
しかし、そんなものを動かしているならなお更何故、虹という敵対分子がいることをすぐさま報道しないんだろう。その方が彼女には逃げ場がなくなるし、行動だってしづらくなる。
その理由として考えられるのは、その特殊部隊はもしかしたら正規の警備隊ではないということ。いくら政治中枢が魔法使いの狂信に犯されているとはいえ、これだけ大規模な人口を収容しているドーム内全てが魔法使い信仰と言うわけではない。おそらく、社会の中でも狂信者が占める割合も半々のはずだ。
そのグレイハンドという部隊がもし、狂信者達が魔法使いの敵を駆逐するために組織した特殊部隊だとしたら。
それならばドーム内全てにテレビ報道をしなかったことも説明はつく。さらに、政治中枢に魔法使いが入り込んでいるのなら、そういった特殊部隊が設立されているのも合点がいく。おそらく、Hi8は政治中枢だけは献血しないとでも言う約束を出しているのだろう。無論他の狂信者達には秘匿事項だろうが、魔法使いにしてみても、人間を勝手にまとめてくれる者がいなくなれば都合が悪いはずだ。
でも、だとすると。
その特殊部隊は、他でもないこのドームに潜伏しているHi8、更紗の指示で作られたことになる。

(二年前の失敗はもうしないということか。だとしたらあいつが姿を見せていないことからも、たったそれだけで対策が終わっているとは思えない……)

心の中に生まれた疑念は段々と膨らみ、それは少しずつ確信へと変わっていった。

(ここは離れた方がいい)

その考えが、脳裏に沸きあがるのに数秒もかからなかった。体があれば、全身に鳥肌が立っていたのかもしれない。

(これは礼拝なんかじゃない)

その事実を少女に伝えようとした瞬間だった。唐突に虹がバイクのハンドルを握り、エンジンを噴かした。そして球面状の屋根を急発進し、空中に飛び上がる。
少女の姿が突然空中に現れたのを見て、大衆の騒ぎが止まった。次いでざわめきが広がっていく。

『虹、どうしたんだ。姿がばれちまったぞ!』

『囲まれてる……生き物じゃないねこれ……』

『何だって?』

そう答えて眼下のドーム屋根を見下ろしたガゼルは、妙な光沢を発する場所があるところに気がついてハッと息を呑んだ。

『何だ。あれまさか、光学迷彩か?』

『熱源センサーにも反応はないの? じゃあほぼ完璧なステルス性ね。迂闊だったわ……単純な熱感知で見つかっちゃったみたい。赤外の暗視に切り替えて』

『了解』

彼女の指示通りに、認識システムを光による認識から赤外線認識に切り替える。そして浮かび上がった光景に、ガゼルは言葉を失った。
どう形容すればいいのだろうか。
蜘蛛のように八本の足を持ったモノだった、それは。
その胴体は、まるで狼のような寸胴体型になっており、頭部はまさに犬類のそれだった。
大きさはおよそ一つが二メートル弱。
機械だ。ケーブルや、関節が見えている。それらの表面装甲が光の反射を逸らし、視認できないようになっているのだ。
それが、今までいた場所をぐるりと取り囲み……十、二十。三十体を越える数が集結していた。
あまりにもおぞましい光景に唖然とする。
そして、そこまでの接近に気づくことも出来なかった自分に呆然とした。
例えるならば、そうだ。虹が紅に見せられた機械の蜘蛛……バトルスパイダー、アレを巨大に改造したかのような姿だ。
その映像を虹にも送ると、彼女は舌打ちをしてそれに答えた。

『あれがグレイハウンドね……』

「ご覧下さい、悪魔はまた、我々の心を打ち砕こうとここへやってきた!」

唐突に虹のほうを見て、老女が喚き始めた。

「神を殺めた大罪を、その穢れた臓腑で洗い流さんことを! 黒い血を絞り出し、御前に捧げよ!」

瞬間、グレイハウンド……胴体だけが狼の形をしたバトルスパイダーの群れが光学迷彩を解いた。その口は大きく開かれ、喉奥に設置されているマシンガンと思われる砲口が一様にこちらに向けられている。
唐突に姿を現した異形の機械兵士の群れを確認し、壇上の男は大きく手を空に向けて伸ばした。
116 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:31:50.36 ID:r2vHYRnw0
「これが、我らが神兵、グレイハウンドの勇士です! さぁ皆さん、この悲しき日に、我らの汚れた心を天使の血で洗い流しましょう。この屈辱を、この怒りを忘れぬために!」

次いで礼拝堂の中の空気が爆裂したかのように揺れ動いた。狂信者達が口々に虹に向かって絶叫し、手を振り上げて何かを叫び始めたのだ。

――殺せ
――殺せ

(これは礼拝じゃない)

ガゼルは無数の砲口に包囲されている自分達の現状を確認しながら、心の中で強く歯噛みした。

(これは虹の、紛れもない彼女の公開処刑だ……)

誰に嵌められたのかは分からない。
しかし、自分達は確実に嵌められていた。
これ以上の上昇はできない。エンジンをふかしながら、空中に停滞し周囲を確認する。グレイハウンドという戦闘アンドロイドの総数は三十五。マシンガンと思われる武装に包囲されている。エンドゥラハンと戦った時もそうだが、虹の周りにはピノマシンを散布、停滞させて防御膜を張っている。これはミクロレベルの粒子の集合体であり、外部から何かの衝撃が加われば互いに凝結し、衝撃を跳ね返すというものだ。また、同様の作用で連結をさせれば、外部からの熱量をある程度シャットアウトすることも出来る。
しかし、その程度にも当然耐久力はある。いくらほぼ万能のピノマシンとは言っても、質量保存の法則に順ずる限り、フィールドに使用した量と同等の衝撃を緩和すれば、後は跳ね返すことが出来ずに紙のように突き抜けてしまう。あの時に虹が致命傷を負ってしまったのはそういうわけだ。
今回のこの兵器総数。与えられる衝撃値を概算し、とても緩和しきれるものではないと考え、ガゼルは心の中で舌打ちをした。完全に包囲をされている。少しでも動いたら、一斉に射撃がなされそうな勢いだ。
例えば防御膜に現在生成できる全てのピノマシンを回したとしても、厳しいかもしれない。その場合、虹に取り返しのつかない損傷を与えてしまうことになる。

――それだけは避けなければ――

最優先事項を確認し、急いで逃走経路を把握しようとする。その相棒に跨りながら、虹は太股で座席を挟み込み、マシンガンとチェーンソーが一体になった形の武装を構えた。
その眼下では、目を血走らせた人間達が手を振り上げて怒号を飛ばしていた。まるで一つの生き物のようだった。
そう、黒い獣。
一つの巨大な生き物。どうしようもない、脆弱なものが寄り集まり、どうしようもない、強固な存在になろうとする。
なろうとしてなれない、そんな生き物。
自分の周囲をたゆたっているピノマシンの霧を一瞥し、虹は自嘲気味にクスッと笑った。そして、次の瞬間ピンク色の舌を出して唇を嘗め回し、裂けそうなほどに、いびつに口元を歪めて微笑んだ。
眼下の狂信者達には、性別の区切りはなかった。子供……大人、老人、それら全てが、まるでスポーツ観戦のようにグレイハウンドに嬌声を送っている。
そう、虹というこの小さな存在が八つ裂きにされ、物言わぬ肉の塊に退化するのを求めているのだ。
誰しもが。ここにいる、その全てが。
虹は自分達を包囲している異形のバトルスパイダーを確認し、落ち着いた声でガゼルに通信を送った。

『応戦するよ』

『正気か? この状況で、一体何に応戦するっていうんだ?』

『めんどくさい、こいつら。もういいから皆殺しにする』

ためらいもなく言い放ち、虹はトリガーを引いてチェーンソーの刃を回転させ始めた。
117 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:32:43.76 ID:r2vHYRnw0
『待て、これは一種の集団ヒステリーだ。あの人間達は君の敵じゃない』

『BMZ核、D三十一号のレベルシーケンスを作動』

ガゼルの声が聴こえていないのか、虹は不気味な笑顔を貼り付けたまま、狂ったコールが鳴り響く会場の上空で、右手を高く空に掲げた。
細い腕が発泡スチロールを握りつぶしたような音を立て、軽く脈動する。そして白い手の平にクレバスのような裂傷がパクリと開いた。顔や肩に彼女の血が降りかかる。次いで、その傷口から青白いビー玉のような球体が内部より押し出され、手の平にコロンと転がる。

「撃ち殺しなさい!」

その瞬間、壇上の狂信者……老女が金切り声を上げた。その声を受け、会場内の空気が激しく脈動するほどに狂信者達が怒号を轟かせ始める。
大人も、子供も。
黒いうねりの中に消え、その巨大な……竜巻のような憎悪の塊が周囲から理性と言う名の最終防壁と、そして常識と言う垣根を押し流してしまう。
怒り、怒り、怒り。
何も聴こえず、視界が泥沼のような色になるほど、平衡感覚を失わせるその音は作り物の空をビリビリと震わせた。
それと殆ど間髪を置かずに、グレイハウンドの銃口が一斉に火を噴いた。毎秒何百発というとてつもない弾速の鉄の凶器が、四方八方から空中に浮かぶ少女に撃ち込まれる。

『シーケンス接続。コピー完了。エネルギー抽出オールグリーン。全ての設定をニュートラルヘ』

ガゼルが、少しでも銃撃を避けようと更に高度を上げようとした中、虹は冷静に、まるで膜のように飛来する銃弾の嵐を見つめていた。
その表情には全く揺るぎがなかった。
身を護るそぶりも、それ以前に状況を認識している風もない。
瞳孔だけが獲物を狙う猛禽類のように収縮し、彼女は初弾が自分に突き刺さる寸前に、頭の中で呟いた。

『ジャンクション』

彼女の手に握られていたビー玉状の物体……先日惨殺した左天の額に浮いていた核、と呼ばれる物体は粉々に握りつぶされていた。その粉が風で空中に巻き上がった瞬間だった。

――虹の周辺に、白い柱が突き立った。

十メートル、二十メートル……それは光の本流のように渦を巻きながら駆け上ると、ウエハースのようにドームの天井を突き破り、空中の彼方に吹き上がった。
それは、空気の渦だった。
圧縮された層が突然彼女の周囲に展開し、そのまま弾丸のような速度で噴出したのだ。それは飛来していた銃弾を全て巻き込むと、螺旋状に回転させながらドームの外へと弾き飛ばした。
それは、紛れもなく魔法だった。
左天。
殺したあの魔法使いの魔法。
それと同様の渦を形成し、虹は裂傷が開いた手の平をペロリと舐めた。そしてその竜巻の中心で、眼下で呆然としている人間達を見回す。

「自分達の神様に殺されるがいいわ。蝿共」

鉄のような声だった。
何の感情も感じさせない、魂のこもっていない機械音声。淡々とそう呟き、彼女はパチン、と指を鳴らした。
118 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:33:38.10 ID:r2vHYRnw0
途端、ドームの外まで渦を巻いていた空気の本流が、逆回転を始めた。

『やめろ虹、どうして勝手に核を使った! レ・ダードを起動できないぞ。エンドゥラハンとどうやって戦うつもりだ!』

ガゼルの怒号に反応をせずに、虹はチェーンソーを構えている手と逆の腕を振り上げ、軽く顔の前で振った。
その動きに呼応するように、空気の渦が見る見るうちに白濁を始めた。いや、外部……ドームの外から、掃除機のような勢いで雹と冷気を吸い込んでいるのだ。それはたちまちの内に回転と共に周囲に冷気を撒き散らし始めた。
グレイハウンドの部隊が異常に気づき、後退しようとした時にはもう遅かった。コンクリートが固まるような音を立てながら、それらの関節に凝結した氷が入り込み、その動きを鈍らせる。
次の瞬間、虹がまた腕を軽く上げた動作に次いで空気の渦が直径八メートルを越えるほどに拡大した。
それは礼拝堂の屋根をドリルのように砕き、そして眼下の地面に突き刺さった。冷気を取り込んだ渦の周辺に、瞬く間に霜が張り、氷が走り、そして握りこぶし大の雹が弾丸のような速度で撃ち叩いて破砕する。

「あは……っ」

眼下のグレイハウンドが、雹にぶつかり次々と爆炎をあげるのを確認して、虹は喉の奥を痙攣させた。

「あは……あはははははははは!」

面白そうに、子供のように笑いながら彼女が腕を振る。
また渦の直径が拡大し、今度はステージを削り、その合成コンクリートを粉々に砕き始めた。自失からいち早く立ち直ったのは音羅だった。ポカンと口を開いていたが、ハッと気がつき急ぎ口にくわえたパイプに息を吹き込む。途端、周囲にミントの匂いが駆け抜け、灰色の煙が充満した。それが雲のように、右天をはじめとする壇上の人間達を包み込み、次いでバスを髣髴とさせる塊に凝結し、観客席の方に吹き飛んだ。
その、今まで彼女達がいた場所を雹混じりの狂風は駆け抜けると、一瞬で瓦礫の道と化した。そのまま音羅は観客席に転がると、大きくパイプに息を吹き込んだ。その先端から凄まじい勢いで灰が噴出し、ステージと観客席の間に霧の幕を形成する。ガトリング砲を斉射したように飛び荒れていた雹は、その灰のエリアに撃ち当たると、綿の塊に打ち当たったように減速し、その場に転がった。
実質、風が吹き荒れていたのはおよそ二十秒足らずのことだった。
段々と風の勢いが弱まっていき、そして遂に小さくなり消える。
しかし、その間に虹がもたらした被害は筆舌に尽くしがたいものだった。
彼女の周囲がクレーターのように陥没し、すり鉢を連想させる半球状に抉れている。そして、ドッとドーム天井に開いた穴から冷気と雪が雪崩れ込んでくる。
たちまちの内に吹雪の様相を呈し始めた礼拝堂に、やっと状況を理解した人々の恐怖の叫び声が響いた。

「何だ……回収から時間が経ちすぎてたみたい……」

残念そうに虹はそう呟くと、手の平から流れる血を、今度は唇をつけてズズゥとすすった。

「残念。もう少しだったのに。じゃあ私の手で、一匹ずつ潰そうか……」

途端、狂信者達の恐怖が爆発した。今まで銃に囲まれ身動きさえも取れないと思われていた少女。彼女が起こした突然の現象に、頭がついていかないのだろう。
熱狂が激しかった分更に、そのフィードバックは大きかった。一人が何かを叫びながら出口の方に走り出すと、それが瞬く間に周囲に伝染し、蜘蛛の子が大挙して狭い出口に殺到するような光景が発生する。
人間はパニックになると、前後の見境がなくなるといわれている。まさにその状況だった。大人が倒れた子供を踏みつけ、蹴り飛ばし、老人を脇に押しやり、女が男を押し倒し、阿鼻叫喚の宴を形成し始める。

「さて……」

我先に逃げようとする狂信者達を見下ろし、虹はチェーンソーガンの銃口を眼下に向けた。

「どいつから殺そう」

『虹、待て。待つんだ!』

「もう少し近づかなきゃ撃てないか……」

ガゼルの声に反応しない。その顔は壊れた人形のように奇妙な笑顔を張り付かせたまま、揺れ動くこともなかった。
119 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:34:16.84 ID:r2vHYRnw0
彼女がガゼルのハンドルを握り、エンジンを全開で噴出させる。上空に飛び上がった自分の体を確認し、ガゼルはその動きを制御しようと思考を働かせた。
しかし、即座に虹に制御命令が打ち消され、完全に彼の意思に反した動きでバイクが空中を滑空し始める。

『虹、やめろ! 俺の話を』

「あいつにしよう、あいつ……あははは!」

甲高く笑いながら、少女はチェーンソーの回転している刃を振りかぶった。進行方向には逃げ出そうとする大人に蹴り出されたのか、地面に突っ伏している小さな影があった。子供だ。転んだ時に頭をぶつけたのか、地面に突っ伏したまま動かない。

『やめろ、そいつは敵じゃない!』

「まず一つ」

そう言って、虹は駆け抜けざまにその子供の首筋をチェーンソーで凪ごうとして……。
炸裂した爆薬の熱風に煽られ、逆方向にバイクごと吹き飛ばされた。
一瞬ガゼルにさえも何が起きたのか分からなかった。ただ、目の前を真っ赤な閃光が走り、小さな持ち主の体がバイクを離れて数メートル離れた地面に叩きつけられるのが見える。次いで自分の体は、その場の地面にズシン、と突き刺さり、鼓膜があれば破れているのではないかと思われるほどの炸裂音の後、再度襲いかかってきた爆風に煽られ、何度か地面を削りながら回転した。その中で必死に虹を探す。体重三十キロにも満たない少女は、機械であるガゼルよりも遥かに爆風の影響を受けていた。まるで木の葉のように宙を吹き飛ばされ、会場の端……先ほど彼女が魔法で破壊した瓦礫の山に頭から叩きつけられる。
幸い、彼女の周りにはピノマシンを滞留させたままだった。衝撃はさほどでもないはずだ。
しかし、十数メートル離れた場所で、崩れた合成コンクリートを掻き分けながら立ち上がった虹の脇で、再び爆発が起きた。また、抵抗することも出来ずに彼女は熱風に煽られ、無事な壁に叩きつけられる。背中からぶつかったようだが、離れた位置にいるガゼルにも奇妙な音が聞こえた。石膏を握りつぶすような嫌な衝撃音と共に、虹がずるりと壁から力なく剥がれ、地面にうつぶせに倒れこむ。
爆発は、それから何度かに分かれて発生した。
それが、紅が言っていた爆破計画によるものだったと気づいたのは、随分経ってからのことだった。それほど爆発は大規模で、強烈なものだったからだ。
これは、目くらましなんてレベルではない。
皆殺しにするつもりの、爆発だった。
一回につき、ダイナマイトを数十個分束にしたような火柱が上がる。それは吹雪になった周囲の空気を劈き、爆風と爆炎をばら撒いた。

「虹……虹!」
120 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:34:50.86 ID:r2vHYRnw0
必死にスピーカーから絶叫するが、視線の先の虹はピクリとも動かなかった。気絶してしまったらしい。それどころか、半開きになった口の端からドロドロと血の塊があふれ出していた。早く治療しなければ危ない。
彼女が衝突した壁には、放射状に窪みが出来ていた。相当な衝撃だったはずだ。防御膜により熱風は避けられているものの、非常に不味い状況だ。通信ケーブルも抜けてしまっている。

――騙されたのか?

【先生の作戦は、囮なのです】

燐の呟きが脳裏を掠める。
囮? つまり、虹が狂信者の前に姿を現し、それに対して応戦するということまで、もし読んで、そしてそのように調整をしていたとしたら。
その後に、虹に目をひきつけたまま、会場内の全てを爆風で吹き飛ばす。
その、囮?

――利用されたのか?

【私を、信じてくれませんか?】

虹のヘッドフォンを返した時の紅の笑顔がフラッシュバックする。

(あの野郎……あの野郎……!)

心の中に、どうしようもないどす黒いものが湧き上がってくるのを感じる。

【私は、君の大事なものを傷つけないよ?】

(あの野郎!)

――騙された。

完璧に。
あの、優しい演技に騙されていた。
足があれば地団太を踏んでいただろう。
歯があれば折れるほどに噛み締めていただろう。
信じたかったのだ。
ガゼルは、口では否定しながらも。
虹に向けられた優しさを、信じたかった。
だから否定しきることが出来なかったのだ。
爆発は、実に二十数回も上がった後やっと止まった。
もう既に、目くらましの役割を完全に逸脱してしまっていた。パチパチと燃えている瓦礫のカスの中で、何かが絨毯のように敷き詰まっていた。
入り口付近は、粉々に砕けて塞がっていた。恐らく、一番最初に爆発したのはあそこ。逃げ道を封じて、そして爆殺。
簡単な作戦だ。
とても。
累積するモノ、モノ、モノ、モノ。
折り重なり、焦げ臭いそれが広がっている。
動く者は誰もいない。
簡単なものだ。
呆気ないものだ。
そう、それほど人間とは脆弱で。どうしようもなく儚く、抵抗も何も出来ず。
脆い、脆い生き物なのだ。
121 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:35:34.20 ID:r2vHYRnw0
――嘘だろ……

ガゼルは、ノイズの混じった思考の中で、山のように積み重なったそれを見つめた。

――こんなの嘘だ……

脳裏に、先日機械兵器が為した献血が浮かぶ。
魔法使いがやることと。
今人間がやったこと。
こんなの……。
何も。
何も。

――何も変わらないじゃないか……

黒コゲになったモノ。
折れ曲がったモノ。
もう動かない。動くことがない。
呆気なく壊れたモノ。
彼の視界の端に、山のようなそれの一部がもこりと動くのが見えた。そして丸太を連装とさせるほど無機的に、その一部が崩れて地面に転がり、止まる。
そこから漏れてきたのは、灰色の煙だった。
今まで人間だったものを押し分け、四角形に凝固した灰色の煙に包まれている人間が現れる。

――人を盾にしたのか……?

その事実に気づくのと、灰色の煙が消えるのは同時だった。
モノの山から抜け出した男は、手に抱いていた音羅の体を、そっと比較的安全な地面に下ろした。そして自分が着込んでいたローブを脱ぎ払い、彼女の体にかける。
それは、Hi8のレプリカン……右天の姿だった。体にはコゲ後一つついていない。上半身は筋骨隆々とした体がむき出しになり、下半身はゆったりとした胴着のようなズボンを着用していた。
彼は頭髪がない頭から煤を払うと、細いサングラスの位置を指で直した。そして、人間だったモノ……モノの山の上に仁王立ちになり、こちらを向いて両腕を組む。
右天の足の下にあるモノ。
それは、先ほど虹が殺そうとしていた子供の、半ば焼け焦げた顔だった。
照合もしたくないのに脳内機能がそれを実証する。
ガゼルは、ボタボタと血を吐き散らしながら、僅かに体を振るわせつつ立ち上がった虹を視界に捉えた。
そして周囲の地獄のような光景を見回す。

「……」

コホッ、と血の塊を吐き、持ち主がこちらを見る。

「虹。右天だ。戦闘を開始するぞ!」

数秒後、ガゼルは最大音量で声を上げていた。
122 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:37:00.98 ID:r2vHYRnw0
10 許してください

 焼け付くように薄ぼんやりとした思考の端で、彼の声が聴こえた。
少女は霞がかかった視界を定めようとして失敗し、また荒く息を吐いて柔らかいベッドの上に体を沈み込ませた。体がもはやピクリとも動かなかった。指先に至るまでが何か一つのドロドロした液体になってしまったかのように、倦怠感と凄まじい疲労感が脳幹までを取り巻いていた。
頭の芯が侵食されてしまっている。視線が定まらず、動悸も激しく鳴り響きながら治まらない。体中が自分のものではなくなってしまったようだ。

――そうなのかもしれない。

体の中、内臓の隅々に至るまで、丹念に嬲り尽くされてしまっている自分の姿が、まるで映像のワンシーンを再生するかのようにぐるぐると脳裏を回っている。
もはや、逃げようという気も起きなかった。体を動かすことも、動かそうという気も。
心臓の音だけがやたら大きく胸の奥に鳴り響いている。
柔らかいシーツを掴もうとしたが、汗でぐっしょりと濡れたそれに力をこめることが出来ずに、また力なくベッドの上にうつ伏せに体を預ける。

――人形

そう、少女は今はただの人形だった。肉と内臓の詰まった、ただの人形。
何の価値もない人形に過ぎなかった。
自分と相手の体液でグショグショになっている全裸の少女を一瞥し、部屋の隅でグラスを傾けていた男は、息をついて立ち上がった。そして血色の粘性の液体が注がれたそれを脇に置き、壁からバスローブを手に取り、彼女に近づく。

「おい、いつまで死んだフリしてんだ? そんなに激しくしたつもりはなかったんだが」

困ったような声だった。荒く息をついて、答えることもままならない少女の上に、彼は頭を軽く掻くとそのバスローブをかけてやった。腰から尻のラインが隠れるが、彼女の汗まみれの焦点が合わない瞳は、彼の方には向かなかった。

「その……悪かったよ。初めてだとは思わなかったんだ。もう少し優しくしてやるべきだったとは思うが、お前がいきなり襲い掛かってくるからさ。つい……」

そこで彼……世間では大魔法使いと呼ばれている泉(せん)は言いよどむと、子供のようにため息をついてベッドの端に腰を下ろした。彼はナイトガウンを羽織っていた。そこから覗く体は、青年のものとは思えないほど鍛えられ、引き締まっている。

――洗いざらい、全て吐かされてしまった

その事実を脳が認識し、警鐘を発している事実。しかし、自分がベッドに押し倒され、その行為の途中で任務内容や目的など、それら全てを喋らされてしまったという記憶はなかった。
それほど、あまりにも執拗で、どうしようもなく永遠とも思える責めを与えられ、意識はとっくの昔にはじけてしまっていた。
何度死んでしまうと思ったか分からない。痛みではない、しかし呼吸が出来ず、思考も出来ず、他人に好きなだけ、好き勝手弄ばれる屈辱。そして無理矢理に与えられる体的反応。逃れようと、抵抗しようとする自分の非力な一挙手一同が全て泉を喜ばせているという事実に気づいたのは、随分と後になってのことだった。
123 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:37:37.47 ID:r2vHYRnw0
最初の頃は全力で抵抗していた。
しかし予想を遥かに超えて彼の力は強く、何の対抗策も持っていなかった彼女――フィルレインにはどうすることもできなかった。
やがて、何時間経ったかも分からなくなり。
外では何度太陽が上がり、落ち、そのサイクルを繰り返したのかも分からなくなり。
繰り返し、繰り返し気絶と覚醒を経る内に少女の体力と精神力は限界の摩擦をとうに擦り切れてしまっていた。
許しを請う声は次第に聴こえなくなり、断続的に発せられる呼吸困難のような吐息だけが部屋に響く。
その過程で、どうやら全てを喋らされてしまったようだった。
自分が何をされているのか、それがどのような意味を持つのか、未だにフィルレインには分からなかった。
そして自分がこれからどうなるのか。
もう、自分は壊れてしまったのか。
それとも、もうとっくの昔に死んでしまい、今は意識だけが残っている状態なのか。
拷問という単語は知っていたが、これほど頭の中身をかき回され、わけが分からなくされるほどのものだとは彼女は夢にも想像していなかった。
耐えることも出来ずに、いつの間にか与えられる強烈な行為の連続の中で、自分にとって命よりも大事なはずの任務内容を、よりにもよって暗殺すべき対象に喋ってしまう。
どうしようもない。
本当に、どうしようもない。
指先を動かすことも出来ない。体中の神経が皮膚を剥がされ、空気中に浮かび上がっているようだ。体にかかるバスローブの感触は僅かに心を安心させたが、首筋にかかる空気の流れだけで、体中が反応もしたくないのに硬直してしまう。
気づいていなかったが、彼女は断続的に震えるように痙攣していた。
許して欲しい一心で、解放して欲しい一心で洗いざらい何もかもを絶叫したことを徐々に思い出す。しかし、それでも彼は何も止めてはくれなかった。
そもそもそんなことを聴きたいために、ここに彼女を連れてきたわけではなかったようだった。
焦点の合わない、光を有さない少女の瞳を覗き込み、泉は息をついた。

「参ったな……ちょっとやりすぎたか。何しろ本気でやるのは百五十年ぶりだったからさ。無傷で返すつもりだったんだけど、まさかブッ壊れてねぇよな? 痛いことは何もしてないと思うんだが?」
 
そこで彼は、壁にかかっている巨大な柱時計に目をやった。次いでポカンと口をあけ、納得したように頷く。

「ああ、そうか。俺と時間感覚が違うわけだから……」
124 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:38:21.56 ID:r2vHYRnw0
そこまで呟いて初めて、現在の状況を認識したらしい。彼は慌てて立ち上がると、ベッドの脇に置いてあった鏡台に駆け寄り、その引き出しを次々に開けて漁り始めた。

「やべぇ……やりすぎた!」

か細く息をしているフィルレインを横目でチラチラ確認しつつ、少しの間彼は引き出しを漁ると、中から人差し指大の注射器を取り出した。そして針についているキャップを外すと、無造作に自分の手首に突き刺した。自分の血液を目盛りにして三センチほど吸い出し、針を抜く。
彼は傷口を舐めて、フィルレインに駆け寄ると、彼女の白い肩を撫でて血管の位置を確認した。

「も……も……ゆるし……」

壊れた機械のように震えた声で恐怖を呟く彼女を見て、泉は黙って自分の血を目の前の小さな体に流し込んだ。

「……失敗した……最初からやっておくべきだった。おい、大丈夫か?」

今更過ぎる言葉をどこか遠いところで聞いて、少女は汗と体液でグショグショの顔を彼の方に緩慢な動作で向けた。

「え……あ……ぁ……」

「……良かった。途中で言えよ……いくらなんでも丸三日は……」

彼が何かを言っている。
少女は頭の中の大事な何かが焼ききれるのを感じながら、何十回目かの意識の底に落ち込んでいった。
125 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:39:35.53 ID:r2vHYRnw0

 
 目覚めた時、今までのような倦怠感はなかった。やけに体が軽い。下方にクマが浮いた目を開き、フィルレインはベッドの上に上半身を起こした。
服を着ていない。柔らかいシーツが体にかけられていた。傍らに水差しが置いてあるのを見て、少女はその安全を確認するより先に手に取り、口の中に流し込んだ。猛烈な喉の渇きを感じたのだ。
水は、妙に生臭く、塩でも入っているのかというくらいしょっぱかった。何度か餌付きつつ、全て喉の奥に流し込んでから息をつく。そして彼女は自分の口元を手で脱ぐい、それを見て唖然とした。
唇についていたのは、水ではなかった。
ドロリとした僅かに粘性のある、真紅の液体。夕食で出された、ワインという飲み物ではない。この生臭さは、着色でもない。

――血

そう、人間の血液。それが生暖かい水で希釈されていたものだった。

「ひ……」

背筋に猛烈な悪寒が走り、フィルレインは反射的に水差しを脇に放り投げていた。合成プラスチックなのだろうか、カラン、と乾いた音を立ててそれが転がる、刺し口からピンク色の液体が漏れているのを見て、フィルレインはシーツで体を覆いながらベッドの上を後ず去った。

「RH2マイナス3型の血は口に合わないか……結構貴重なんだけどな」

そこで窓際から声をかけられて、彼女は小動物のようにビクッと体を震わせてそちらに目を向けた。
鏡台の前に設置された椅子に、ナイトガウンを羽織った泉が腰掛けていた。眠いのか、目をしば立たせている。

「あ……」

彼の顔を見た途端、今までの記憶がやけにクリアに頭の中に湧き上がった。
その瞬間、フィルレインの腰が抜けた。逃げようとして、しかし体が勝手に尻餅をついてベッドの上に仰向けに倒れこむ。這って彼から少しでも遠ざかろうとするが、下半身が麻痺したように全く動かない。
そんな様子の彼女を暫くぼんやりと眺めた後、泉は立ち上がり大股で近づいてきた。そしてそっと手を伸ばす。

「も……もう……嫌……」

精一杯の抵抗だった。その気力も、そんな覇気もとっくの昔に打ち砕かれて踏みにじられていた。しかし、これ以上されたら死んでしまう。冗談ではなく、本当に、死んでしまう。
その事実が未来の自分を見るように、くっきりとのしかかってきたのだ。
許しを請われて、泉は数瞬きょとんとした後軽く笑って少女の額に手を当てた。

「まぁ、おかげでスッキリしたから、暫くはいいかな」

「え……」

「熱はねぇな。血も、そんなに不味くはなかっただろ」
126 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:41:36.56 ID:r2vHYRnw0
そう言い、泉は二歩ほどフィルレインから離れると彼女から少し離れたベッドの上に腰を下ろした。少女は一拍置いて、ひとまず彼が自分に危害を加える気がないことを確認すると、抜けた腰を庇うように手で壁際に移動した。そしてシーツで自分の体を隠す。

「俺の血を入れたんだ。どこも具合なんて悪くないはずだぜ?」

自分から逃げようとしている少女を見て、不思議そうに大魔法使いは言った。

「血……?」

「ああ。俺と、お前の体内時間の次元を同調させてる。つまりお前の中には俺の力が流れ込んでるわけだ。何だ? そのくせ腰抜かしてるのか?」

図星を言い当てられて、フィルレインはシーツを顔まで引き寄せて小さくなった。

「……何だか張り合いがねぇ小娘だなぁ。感謝しろよ。三百年の間で、俺の血を直で与えたのはお前が最初で、多分最後だからな」

「……」

「俺を殺しに来たんだろ? 油断させて殺せって命令されてんだろ? だったら諦めるなよ。ほら、いつでもかかって来い」

言っていることは物騒極まりないが、声音は野良猫に語りかけているように静かで、戸惑いがちだった。
脳裏に、永遠とも思われた行為が次々とフラッシュバックする。

この人には勝てない。
この人には逆らえない。
ここからは逃げられない。
私は、この人よりも弱い。
絶対に、太刀打ちなんて出来ない。
圧倒的に、弱い。

その単純な事実が、脳の奥。記憶をつかさどるどこかの深いところに書き込まれて、いや……刻み込まれてしまったらしい。その傷は深く、意識せずとも体が震え出すのが分かった。
あまりにもどうしようもなかった。
殺されるものだとばかり思っていた。
しかし、事実はそれよりももっと残酷だった。
いっそ一思いに殺してもらえた方が、どれだけ楽なんだろう。

――また、襲われたら……

その事実を想像するだけで、あまりの恐怖に体中から力が抜けてしまうような錯覚に陥る。
確実に、死んでしまう。
それも、一瞬でではなく意識を焦がしつくされた末の、理性なんて砕き散らされた先の無残な恍惚の死。
嫌だ、そんなの嫌だ。

――だが、フィルレインには舌を噛んで自害する勇気も、窓まで走っていって飛び降りるという勇気もなかった。

少女の気力は、根元の地中に突き刺さった根幹からへし折られてしまっていた。
127 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:42:09.78 ID:r2vHYRnw0
反応を示さない少女に対し、自分が必要を遥かに超える圧倒的服従を刻み込んでしまったことに気づき、泉は困ったように片手で頭を抱えた。
発狂しなかったのが不思議なくらいだ。
冷静になり考えてみると、そう思う。
ただの遊びのつもりだった。
傷つけるつもりも、抵抗する気力を根こそぎ奪う気も、ましてや彼女がここに来た理由さえ聞く気はなかった。
そんなことをしても彼にとっては何にもならないし、現状が悪化するわけでも何でもない。
ただ、軽く弄り倒して玩具にしからかってやってから、帰してやろうと考えていた。殺されかけたのだ。例えそれが絶対に不可能なことだったとしても、向けられた殺意は本当のことだ。だから、それくらいする権利はあるし、断罪……というほどに大それたものではないが、お灸を据えるという意味もあった。
何故なら、彼は彼女が派遣されてきた理由なんて当の昔に知っていたからだった。一人ではない。彼女の前に数人ここに来ている。いずれも適当にあしらって送り返していた。
そう、彼女……フィルレインの組織、俗に呼ばれているエリクシアは、魔法使いと敵対しているグループだ。彼らは魔法使いを殺すためなら何でもする。それが首領の立場である、世界に八人存在している大魔法使い、Hi8なら尚更だ。

――この子は、エリクシアが泉に対して放った警告材料に他ならない――

泉ほどの戦力になると、エリクシアの力ごときではまともに戦闘をすると勝ち目はない。それ故に、表立った敵対行動はせずに膠着状態が長い間続いている。
そんな中で、自分達はいつでもお前に対して攻撃を開始することが出来るという脅し――彼らにしてみればそのつもりなんだろうが――の手段のために、利用されているに過ぎない。
つまり、初めから泉を殺すことが出来るなど考えられていないのだ。おそらく他のHi8にも同様にフィルレインのような使い捨て兵士が送られているのだろう。全く戦闘に関する能力を持たされていないことや、身体能力を調整されている気配がないこと、更に何より戦闘に使用する武器がない。加えて事前的な暗殺相手の知識がないこと。
そんな状況で暗殺を為しえろということ事態が、既に馬鹿げているのだ。出来るわけがない。
泉の場合はいくら襲われても問題はないが、他のHi8に関しては違うだろう。八つ裂きにしている者だって確実にいる。
だが、泉からしてみればそんな何の得にもならないことをするつもりは、全く持ちえていなかった。
それ以前に、彼はエリクシアと表立っても、その裏側からしてみても敵対をするつもりは殆どなかった。だから、彼からしてみればフィルレインのような小さな女の子が送り込まれてくるのはうんざりするほど迷惑なことだったのだ。
だから、ちょっと襲い掛かってやって恐怖心をあおり、外に押し出してやろうと考えただけだったのだが……。
いつにもまして何の知識も無い、どう見ても失敗作であるこの子は半狂乱で、しかも全力で暴れ始めたのだ。
気づいた時には、予期せずに彼女の爪が泉の頬に当たり、血が流れていた。
ポツ、ポツ、と白いシーツに自分の赤い斑点が広がっていくのを見た時にはもう遅かった。
必死に加減をしようとはしたんだが、この様子を見る限りどうやらできなかったようだ。それよりも先に時間の経過を見る限りでは、どうも自分の欲求が満足するまでこの子は解放されなかったらしい。

(どうすっかなぁ……)
128 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:42:50.40 ID:r2vHYRnw0
このまま外に放り出してしまうには、どうにも心もとない。そのまま雪の中に倒れて野垂れ死んでしまいそうだ。

(送っていくか)

流石に今回は責任を感じていた。いたずらにしてはちょっと度が過ぎていることを頭の中で自覚している。敵対組織の玄関まで連れて行くことは出来ないが、乗りものを用意してやったり、近くまで運んでやるくらいは出来る。

「……分かった。じゃあお前の家の近くまで送ってってやるよ。だが知っての通り、俺とお前らは喧嘩してるから、一騒動起きるような状況になるのは御免だ。それでもいいなら、連れてってやる。帰るか?」

てっきり目を輝かして何度も頷くものだと、泉は思っていた。任務に失敗し、そしてその洗いざらいを喋らされてしまった相手が、こともなげに逃がしてやると言っているのだ。これ以上破格の条件はないだろう。
しかし、得られた反応は想像と真逆のものだった。
シーツを手繰り寄せたフィルレインは、暫くの間ポカンとした後、激しく横に首を振ったのだ。

「えぇ? 何でよ?」

ここを出たくないというのだろうか。予想外の応答に戸惑いながら問いかける。しかし少女は答えることなく、小刻みに震えながら自分の両肩を抱いた。そしてベッドの隅の方に移動しようとして……落ちた。
したたかに肩を打ちつけたらしく、慌てて泉が立ち上がり覗き込むと、うずくまって丸くなっているのが見えた。

「おいどうした? まさかおかしくなっちまったのか?」

問いかけながら歩み寄る。
その泉の耳に、シーツを頭から被り、床に無様な格好で転がっている少女の喉から漏れる嗚咽が飛び込んできた。喉を鳴らし、笑うように……しかし、どうしようもなくやるせなく、しゃっくりを上げていた。

――泣いてる……

その事実に気づいて、泉は足を止めた。
嗚咽は段々大きくなると、遂にフィルレインはうずくまったまま、子供のように大声を上げて泣き出してしまった。
泣き声は止む気配もなく、掠れた声で続いた。

「……ったく……何なんだよ……」

泣きじゃくる少女を見下ろし、近づくことも出来ずに泉はバツが悪そうに呟いた。
129 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:44:25.84 ID:r2vHYRnw0


 「虹……右天だ! 戦闘を開始するぞ!」
 
虹はガゼルの声を聞き、ハッとして顔を上げた。
喉の奥から、次から次へと生臭く、塩臭い血液がわきあがってくる。ぶつかった時に内蔵のどこかを損傷してしまったらしい。しっかりと立ち上がろうとして、脳幹の奥を突く強烈な痛みに負け、虹はその場にもんどりうって転がった。胸の奥が穴が空いたように、痺れと共に圧倒的な絶感が駆け抜ける。
胸骨のどこかが折れて、中に突き刺さっているのかもしれない。
口元を血まみれにしながら何とか立ちあがろうとして失敗し、少女はまた地面にボタボタと血を噴き出した。
視界がセロファンをかけたように、真っ赤にブラックアウトしている。慌てて視界を周囲に向けて武器を探す。
チェーンソーガンは二メートルほど奥に、刃から地面に突き刺さっていた。ガゼルは、十メートル以上先に横転している。
何が起こったのかを頭が判断するより先に、霞がかかった目線の先に、転がり、重なり合った人間の死体の上に仁王立ちしているモノが映った。

――敵だ。

直感的にそう感じる。意識せずに震え泣く細い足を奮い立たせ、虹は這ってチェーンソーガンのところに移動した。そしてその柄を握り、杖の要領にして立ち上がる。
鼻、そして口元から赤黒い血を流している少女の姿を見止めると、右天は腕組みをした姿勢のまま硝煙と砕けた合成コンクリートの臭い……そして破砕した天井から吹き込んできた雹混じりの冷風を体に浴び、サングラスの下の目を細めた。
彼は傍らで気絶しているのか、ピクリとも動かない音羅を一瞥すると、彼女から離れた場所に足を踏み出した。転がっている人間のことなど、気にもしていなかった。ひょっとしたらまだ生きているのかもしれない。しかし、彼は子供も、大人も、千切れてバラバラになったどこのものかも分からない肉片を踏みつけ、ゴミのように爪先で蹴飛ばし、虹を円の中心とするようにグルリと回って静かに歩き出した。
しばらくして、彼女から少し離れた割と無事だった場所に立つと、彼は情緒もなく荒く息をつき、血を垂れ流している敵を真正面から見つめた。
サングラスの奥の瞳は、細く、鋭く。しかしそれでいて言いようのない悲しさを孕んでいた。彼は周りを見回すと、未だに動くこともままならない虹に向けてゆっくりとした低音の声を発した。

「……なにゆえにこんなことを?」

それは、単純な疑問だった。
それ以上ないくらいに、単純で純粋な疑問だった。
彼の問いを聞いた虹はハー、ハーと犬のように息を吐きながら、血まみれの口元をニヤァと歪ませた。

「どんなこと?」

「こんなことだ」

周囲に両手を広げ、彼は頭を振った。

「貴殿には何の迷惑もかけてはおらぬ。それに加え、この者達は我らと調和し、上手く暮らしていこうとしていた」

「……」

「先日の一戦を経て、貴殿がそのように健在であることには、最初は驚いた。まさか真とはな……だが、それならば我々を狙えば済む話だ。なのに、なにゆえ?」

その言葉は静かで深く、しかしだからこその真実味を孕んでいた。
130 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:47:45.28 ID:r2vHYRnw0
馬鹿にしている風など微塵もない。真剣に彼は、悲しげに答えを求めていた。
虹は少しだけ咳をして、喉に詰まった血痰を吐き出した。そして整った顔を上げる。
その瞳は猫の瞳孔のように収縮していた。裂けそうなほどまでに口を広げ、彼女は突然ざらついた大声を発した。

「どうして? どうしてですって!」

「……」

「はは……はははは! のうのうと仏頂面でよく言う! 出来損ないの分際で!」

「出来損ないだと……何のことだ?」

怪訝そうに聞き返し、右天はサングラスの位置を指で直した。

「分からなかったか? もう一度だけ問う。我の弟を殺し、こんな爆発騒ぎを起こしてまで我らを敵対する理由は何だ? それともう一つ質問を追加だ」

指を一本立て、彼は続けた。

「この騒動、貴殿のみの所業ではあるまい。関係各所の情報を速やかに吐け」

「……」

「それによっては貴殿の扱いも考える。拙者にはサディストの気はないからな」

渦巻いた突風が礼拝堂の中に吹き荒れていた。虹の周囲に滞留しているピノマシンは、今は衝撃で相殺されて希薄な状態になっている。寒さを緩和し切れていないのか、虹は自分の全身に鳥肌のような感覚が広がっていくのを感じていた。
砕けた合成コンクリートや、人だったもの……その上にも容赦なく雹が打ち、雪が叩きつけられていく。
数秒沈黙してから虹は軽く息を吸い、奇妙な瞳を右天に向けた。そして鼻で笑い、血だらけの唾を吐き出した。

「くたばれ」

「……敵対行動の意思を確認」

それを見て右天は左手を宙に向けて軽く掲げた。そしてパチン、と指を鳴らす。
131 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:48:39.04 ID:r2vHYRnw0
その途端だった。不意に周囲に地震……のような強烈な地鳴りが巻き起こった。地下から何かがせりあがってくる音だった。地下水が氾濫し、マンホールの蓋を弾き飛ばすような……その前兆を告げる音。
次いで右天の足下の地面が、唐突に盛り上がった。そして地下からの巨大なそれ】は一気に地面を砕いて噴出すると、右天との体を空中へと運び去った。彼の周囲二十メートル四方ほどが綺麗に陥没している。吹き荒れる吹雪の中で、砕ける地面の砂埃が巻き込まれ、周囲に灰色の煙を形成した。
その噴出に巻き込まれる形で、地面にやっと立っていた虹は後方に吹き飛ばされた。そして、何度か転がった後、坂のようになった地面をズルズルと滑っていたガゼルのハンドルを掴んで止まる。
主の帰還を確認し、ガゼルはその瞬間エンジンを臨界点まで引き上げた。風の渦に負けないほどの反転力場が発生し、横転したままエアバイクが宙に浮く。そして彼は、虹の首筋に通信ケーブルを差し込みざまに一気に宙十五メートル程まで飛び上がった。

『良かった、無事だったか』

安心して呼びかけ、彼女の体の中にピノマシンを送り込み、傷を修復してやる。虹は口からカサブタのようになった老廃物を吐き出すと、口元を拭い、チェーンソーガンを手でしっかりと握った。
ガゼルが体勢を立て直すのと、僅かに残っていた礼拝堂の一部を破砕してエンドゥラハンが現れたのはほぼ同時のことだった。礼拝堂の地下に隠していたらしい。地上ではあれだけの爆発があったというのに、銀光りする巨大な鉄の破壊兵器には傷一つなかった。エンドゥラハンは四つあるうちの一つの手を伸ばすと、地面に転がっていた音羅を、そっと掴んだ。そして頭部脇の複座席に入れ、シャッターを閉める。

『またあれだ。一体どういう能力なんだ』

ガゼルが空中に停滞しながらぼやくと、上半身だけは人型をした戦車はキャタピラの音を響かせながらその場を回り始めた。その戦車部分の全部がショベルカーのような構造になっており、内部は暗い空洞だ。
いや……前回は深夜だったために良く見えなかったが、その空洞状になっている底部戦車のフロント部には、ミキサーのような細かい回転歯が大量に取り付けられていた。それが地面に虫のように散らばっている人間達だったものを巻き込み、服や瓦礫ごと粉々に破砕し、中に吸い込んでいる。

『はは……まるでジューサーね』

恐ろしいことを虹が口走る。ガゼルは存在しない自分の体に悪寒が駆け抜けるのを感じながら、一拍置いて彼女に通信を送った。

『体勢を立て直すか? 君が核を一つ使っちゃったから、レ・ダードを起動できない。それに、君の修復にピノを使ったから、生成値も半減だ。未だに相手の能力も分からない』

『それより』

虹は瓦礫と化した中央礼拝堂を見下ろし、面白そうに声を弾ませながら言った。

『爆発したね』

『騙されてたんだ。俺達は囮に使われたんだよ』

『そんなことはどうでもいいの』

チェーンソーを小脇に構え、彼女はガゼルのハンドルを握って眼下に向けた。

『すっきりしたねぇ』

『……』

ガゼルが何か言葉を返そうとした時だった。いわゆる掃除を終えた機械兵器は動きを止め、空中の虹に頭部を向けた。右天は、その頭部の上に仁王立ちになっていた。彼は彼女達の姿を見止めると、また胸の前で指を鳴らした。
132 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:49:33.77 ID:r2vHYRnw0
次の瞬間だった。
周囲にけたたましい音が鳴り響いた。重金属を引っかいたような音……いや、これは警報だった。ドーム内に火災が起きた時などに発生するものだ。ここでは虹がいくらドームを破壊しても何も起きなかったため、そのシステムは死んでいると思い込んでいたガゼルは、ハッとして周囲に視線を走らせた。
火災系統の災害が起きた場合、他のエリアへの拡大を防ぐために区画のシャッターが下りる。詰まり一旦の完全隔離だ。他のエリアの時……いや、先ほどの戦闘でも反応をしなかった警備システムが稼動し、まず天井に空いている穴を塞ぐようにシェルターが展開し、合成金属のそれがガッチリと殻の様に組み合う。
次いで、礼拝堂を中心としたエリアの周りに地面から長方形の壁がいくつもせりあがってきた。それら全てはさび付き、所々腐食している。とても現行稼動していたとは思えないものだ。
壁は何百個も地面からせりあがると、次々と天井に突き当たっていった。ものの数分も経たずに、礼拝堂を中心に長方形にエリアが囲まれる。

『死んでいる機械システムを無理矢理起動させたのか……? そういうことが出来る魔法なのか、これか!』

ガゼルが押し殺した声を発するのに次いで、警報と共に天井に展開したシェルターからざらついた駆動音を響かせ、多数のスプリンクラーがせり出してきた。園芸に使用するような大きさではない。一つ一つが重機ほどもあるそれは眼下の惨状に向かってセッティングされていく。そのうちのいくつかは完全に腐食していたらしく、自重に負けて崩れ、次々と落下をしていた。隕石が降り注ぐかのように、地面がもうもうと煙を上げる。
最初に虹が魔法を使った時からすでに、この近くにいた人間は避難をしていたらしい。もしくは狂信教が通行規制でもしいていたか。
何個か落下をした後、無事なスプリンクラー全てから不意に、赤茶けた泥水が噴出した。
虹とガゼルはモロに頭上からそれを浴び、墜落しそうになりながら何とか下降する。
スプリンクラーの勢いは止まらずに、その薄汚い泥水の本流は益々強くなっていった。鉄臭く、また、生活の汚臭がする。排水に近いものを消火のために利用するシステムらしい。それが、完全にさび付いた水道管の中を通ってきたために錆を削り、泥水と化しているのだ。虹とガゼルの上から土砂降りに降り注ぐそれは、まさに血の雨だった。
前が見えなくなるほどの強烈なスコール。
とても飛んでいることなんて出来るわけもなく、ガゼルは急ぎ地面に着地すると、近くの無事な建物の影に入り込んだ。
パートナーに誘導され、虹は息をついて彼の体躯の上に上半身を寄りかからせた。そして体中から垂れ流されている異臭を放つ液体を、まるで化粧のように顔に塗りたくり始める。

「ははは……」

乾いた笑いを発する虹に話しかけることもなく、ガゼルはレーダーに意識を集中させた。機械兵器は、ここから五百メートルほど離れた礼拝堂跡にまだいる。音羅の反応がないことからも、彼女は気絶しているらしい。

(許すかよ……)

歯噛みしたい気持ちに囚われながら虹に声をかけようとした途端、ガゼルは自分達が隠れている建物――ビルらしいそれ――の玄関に、小型の監視カメラが取り付けられているのに気がついた。それがウィィ……とモーター音を発してこちらを向く。
瞬間、彼の頭の中に冷や汗が流れた。
機械に存在しているのなら、そのまま本能的にとでも言うのだろうか。虹の了承を得ずにタイヤを回転させてその場から右斜めの道路に飛び出す。
次いで今まで彼らがいた場所を、横なぎにエンドゥラハンの指から放たれた火砲が凪いだ。時間にして二秒ほどの照射。その間に刀のように振り回してきたのだ

――それも、正確に。

今まで自分達がいた場所、つまり十階建て以上あるビルが轟音を立てて崩れ去る。ちょうど中腹にあたる場所が破砕分解されてしまったらしい。

『何だ。まさか監視カメラからこっちを見てるのか?』

ガゼルの予想は当たっていた。赤茶けた土砂降りの中、とりあえずは脱出用のシェルターに向かおうと向きを変えた彼のカメラアイに、道路標識の下部に取り付けられている監視カメラが映る。あれは速度違反の車のナンバーを記録するための機種だ。しかし、それにモーター音とともにこちらを向かれて数秒も間をおかずに、速度を限界まで上げて道路を駆け飛んだガゼル達の背後を、巨大な熱光が通り過ぎた。それは壁や天井の隔壁部分を壊さないように調整がされているらしく、届くか届かないかのギリギリの部分で照射が止められている。

『やっぱり監視カメラから見てるのか。ここに閉じ込めて嬲り殺しにするつもりだ。何がサディストじゃないだ』

『嬲り殺し……素敵な響きじゃない。楽しくなってきたね』

『どこがだよ!』

雨に降られながら、面白そうに少女はぼんやりとした視線を周囲に向けた。
133 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:50:38.85 ID:r2vHYRnw0
『あはは……汚い雨……』

『何だって?』

『……フィルレイン……』

ボソッと彼女が呟いた言葉に、ガゼルは道路を疾走しつつ、周囲に監視カメラがないか視線を走らせながら答えた。

『造語か? 確かに今はフィルレイン(土砂降り過ぎる)だよ!』

彼がそう返した途端だった。
虹が頭を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
今度は、少し前の暗転の時のように軽いものではなかった。
ねじ切られるような頭の中……脳幹に直接響く痛みに、虹は溜まらず頭を掻き毟って絶叫した。

「ご……ごめんなさい!」

引きつった声で空に向かって叫び、彼女は体を丸め、そして歯を折れんばかりに噛み締めた。

「そんなに怒らないで……殺すから、すぐ殺すから! やめて、今はやめて!」

その瞬間彼女は、唐突にブレーキをかけた。
少女の体が飛び出しそうになるのを、慌てて空気圧の逆噴射をかけて止める。その場を十メートル以上スピンしてから、錆だらけの水溜りを跳ね上げ、ガゼルは停止した。

『何するんだ虹! あいつの能力が分かった。考えてみれば単純な力だ』

バイクの側面にいくつも取り付けられている、ガゼルのカメラアイに、自分達を捉えた道路標識に取り付けられている監視カメラが映る。一つ……二つ、三つ。補足された。
血色の土砂降りの中、道さえも分からない状況で逃げ惑うしかない。しかしブレーキの制御を完全に抑えられてしまい、ガゼルは慌ててエンジン孔から雪崩のように白銀色のピノマシンを噴き出した。それが、先ほど音羅が自分の周りに凝結した灰を集めて身を護ったように、虹の周りに半球状の膜を形成する。

『ブレーキを放せ! あいつの能力は、触るか何かをして干渉した機械を自由に操作できるんだ。多分、壊れてる機械を自分の意思通りに無理矢理使うことが出来る力だ!』

エンジンを噴かすが、バイクはガクガクと震えるだけで動こうとしなかった。
根本的に、ガゼルに動作の主導権はない。彼はあくまでも虹のサポートをするべき武器だ。だから、彼は行動の補助をすることは出来ても、自発的に動くことは基本、出来ない。
何故なら、それが武器だからだ。
行動倫理の根幹はどうすることもできない。
虹は自分がロックオンされている事実を知っているのか、それとも自覚していないのか、降り注ぐ錆雨を見上げた。
綺麗な細い金髪が、赤黒い液体を受けてドロドロに汚れている。服にも染み付いて、白色のコートを変色させていた。

『かなり強力だ……動作不良とかそういうことは関係ないんだ。エンドゥラハンであれ、スプリンクラー装置であれ、それが本来持ちえる能力を使うことが出来ると見た方がいい。ここのエリアに設置されている監視カメラも全部あいつの管轄だ。俺達は捉えられてる。早く逃げなきゃ、狙い撃ちにされるぞ!』

しかし、虹に反応はなかった。
彼女はまた数秒空を見上げた後、ガゼルのハンドルを軽く回してから、小さな手で激しく計器類を叩いた。

『ど、どうした!』

「早く帰らなきゃ……」

唐突に意味不明な言葉を呟く、虹はガゼルのハンドルを握って、強く引いた。
134 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:52:16.93 ID:r2vHYRnw0
『虹、どうした!』

いきなりバイクが急発進し、乗り物に合わずに小さすぎる姿をした少女の尻が僅かに浮く。次の瞬間、間一髪で彼女達の背後の地面に熱光が突き刺さった。
ガゼルの脳裏に、一瞬地下に逃げると言う案が浮かんだが、このエリアにはマンホールが見当たらない。逃げるのであれば、エンドゥラハンがいる礼拝堂まで戻らなければいけないようだ。
虹は片手でガゼルのハンドルを握りながら、もう片手でチェーンソーガンを振り上げた。そして刃を回転させるグリップを歯で噛み、強く引く。重低音と共に鋸が回り出し、彼女は大きく腕を振ってそれを側面に突き出した。

『何をするつもりだ、落ち着け! 一体どうしたんだ!』

突然のことに対応し切れていないガゼルに、虹は口を開いて奇妙に歪んだ声を発した。

「こんなところにもいたんだ。エンドゥラハン。早くしないと泉が怪我をしちゃう。早く壊さないと……! 私があの人を守らないと。私が、私が……私が……」

『泉? 訳が分からんぞ! 戦闘中だしっかりしろ!』

「……う、うるさい、うるさい!」

はっきりした声でガゼルの言葉を拒否すると、虹はアクセルを踏み込んでバイクを浮き上がらせた。
そして空中七、八メートルほどの地点に静止し、回転するチェーンソーを前に構えた。

『まさかこのまま突貫するつもりじゃないだろうな……』

恐ろしい想像をそのまま口に出す。しかし虹に反応はなかった。顔は別人のように恐慌に覆われ、多くの脂汗が浮いている。何を恐れているのか分からない、しかし明らかに異常な恐怖を表している彼女を見て、ガゼルは必死に呼びかけた。

『やめろ、一体何を見てるんだ。今ある現実を見ろ! 泉はもう死んだんだぞ!』

「死んでない……まだ死んでない!」

ブンブンと首を振り、それを否定すると虹はずぶ濡れのまま叫んだ。

「死なせない……今ならまだ間に合う。まだ、まだ間に合うんだ……まだ間に合う。まだ、まだ……まだ、まだ、まだ……」

『虹!』

「返して……」

『しっかりしろ、泉は……』

彼女が意味不明な言葉を叫び、エンドゥラハンの方に突撃をかけようとした途端だった。
ガクン、とバイクが揺れ、強烈な力で後部に引き寄せられた。

『何だ?』

ガゼルが疑問を口に出した次の瞬間、今度は右方向に強く引っ張られた。それがたちまち左、前、そして底部と拡散していく。

『まさか……』

彼がそう呟いて、視界を赤外感知に切り替える。そのカメラアイに、自分達を取り囲んでいるグレイハウンドの群れが映った。光学迷彩を使用している。普通、光の反射で身を隠す光学迷彩は、雨などの干渉には非常に弱い。何故ならば、質量が消えるわけではないからだ。当然そこにあるはずがない部分に雨などが当たることになる。
135 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:52:57.16 ID:r2vHYRnw0
しかし、眼下に集まっているバトルスパイダー……虹が破壊したはずのグレイハウンド部隊は、降りしきる雨などものともせずに、透明人間のように隠れていた。光だけの要因で身を隠しているわけではないらしい。ひょっとしたら、体表から空気を噴出して気体の層を形成し、そこで光を屈折させているのかもしれない。
壊したはずだ。
虹が、全て魔法で壊したはずだった。

――右天の魔法。

それに蘇らされたのだろうか。
言うなれば、マシンゾンビだ。

――恐ろしい力だ。

単純がゆえに、この魔法は恐ろしい。ガゼルは事実を認識して歯噛みした。
この魔法の効力は、恐らく。壊れている機械を、その損傷に関わらず意のままに操るということだ。つまりそれは物質を操作するのではなく、いわゆる理を操作する能力。それは、物質操作の能力よりも一概に厄介なものだった。
常識が通用しないのだ。
壊れているから。動くはずがないから。
そのような先入観が適用されない。だから、それゆえに動かすことが出来る。
こちらを向いたグレイハウンドの口からは、蜘蛛の糸に似た粘着質の捕縛糸が噴出していた。それがガゼルの体躯いたるところに貼り付き、そしてたちまち鉄のように硬化する。
次いで、糸を吐いている個体以外が虹達を包囲し、ガトリングガンの銃口を向けた。
動くことが出来ない。
礼拝堂で包囲された時とは別に、ここでは捕縛糸の固定と、そして更にエンドゥラハンの砲台との干渉がある。
心の中に冷や汗が流れる。
どうしたらいい。
俺の一番大事な人を護るには、どうしたらいい。
心の中で自分に問いかける。
その時、先ほど意味不明の言葉を発した少女がフラッシュバックした。
ガゼルの知らない持ち主。理解ができない大事な人。

(どうしてこんな時に……)

――彼女は、狂っている

分かりきったことだった。

――彼女は、泉を愛していた

ずっと前から知っていたことだった。

――発狂しつくしてまで、心から愛していた。

自覚していたはずのことだった。

『虹……』

ガゼルは、持ち主に通信を送った。

『俺は、どうしたらいい?』

ガゼルは、そう聞くことしかできなかった。
彼は、命令がないと動くことが出来ない。
無様なロボットでしかなかった。
136 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:54:35.72 ID:r2vHYRnw0
11 敗北

 燃えていた。
何もかも、全てが燃えていた。彼がはせた夢も、私がはせた夢も、何もかもが全部燃えてしまっていた。
――騙された。
その事実を認識できない。そんな単純なことなのに、頭の芯がそれを理解することを拒絶しているのがはっきりと分かる。
これが現実だ。現実なんだ。
でも。それでも。
壊れてしまう。私は、その真実を理解した途端、私でいられなくなってしまう。
本当に、私は私でいられなくなってしまう。
ウェディングドレス。
数十分前までは純白の輝きを放っていたそれは、今は焼け焦げと泥、そして所々の破れにより見るも無残な状況になっていた。殆ど半裸と言ってもいい。

「泉……」

フィルレインは半壊した教会の中で、半分以上陥没したステージにうずくまりながら、か細く夫の名を呼んだ。

「泉、どこにいるの……? 泉、怖いよ……どこ?」

周囲は灼熱の海だった。自分を取り囲むように、炎の柵が天井まで伸びている。それは網膜を焼き払ってしまうのではないかというくらい強烈な光を放っていた。
一本一本が太さ三十センチ直径ほどの火柱。丁度八つのそれが、地面から渦を巻いて、まるで動物園の見世物動物のように虹を囲んでいた。
不思議と、熱くない。しかしその柱の発する光はあまりにも強力で、目をまともにあけて入られない状況だった。
柱に吹き上げられる形になって巻き上がる砕けた瓦礫。それらは、火柱に触れた途端、ジュッ、と軽い音を立てて白色の煙に霧散した。熱を発していないのに、それは明らかに膨大な熱量による焦がしの現象だった。そう、まるで白色光を虫眼鏡で一点に集中させたような……。
そうだ、これは魔法だ。
普通の魔法ではない、空間次元干渉の第八次元脅威GAランク。つまり大魔法。規模は小さいが、虹がそこから一歩でも動いたら灰も残らず消滅。
銀墨(ぎんぼく)の愛寡(あいか)が使う、魔法だった。

「どうして……愛寡ちゃん、どうして!」

虹は光から目を護ろうと、自分の目を手で覆いながら絶叫した。

「愛寡ちゃん、ここから出して! お願い出して! 泉はどこなの? 泉!」

答えはなかった。
倒壊した教会の中で、泉は死屍累々と折り重なる人間達だったもの……その、瓦礫に紛れている、今は物言わぬ死体と化したモノを見回し、重苦しく口を開いた。
彼はピッチリとしたタキシードを着込んでいた。長い髪はオールバックにまとめられている。
その口元には、血が滲んでいた。吐血の痕だ。肺に息が入るとどこかが痛むのか、ヒュー、ヒュー、と笛を吹くような音を立てて呼吸している。
死骸となって転がっているのは、人間達だけではなかった。そこには丁度フィルレインと同じような金髪を持った小さな少女も多数倒れていた。その全てが、首と胴体を切り離されて別々に転がっている。
あたり一面、血の海だった。絶望と恐怖で瞳孔を拡散させた金髪の少女の死体。その首、首、首。吹き荒れた血の本流を靴の爪先で踏んでいることに気づき、泉は数歩後ずさった。
137 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:55:36.81 ID:r2vHYRnw0
彼は、六人の人影に、半円形に取り囲まれていた。倒壊したドームは、今は夜だ。丁度日が落ちる時刻に差し掛かったらしく、段々と暗くなっている。崩れ落ちた天井から、内壁に投影された月明かりが飛び込んでくる。
パチパチと燃え盛る壁、そして背後に突き立った八本の火柱檻を一瞥し、泉はタキシードのポケットに手を突っ込んだ。

「……愛寡、火をひっこめろ。話はそれからだ」

愛寡と呼ばれた人影は、目深に被ったフードを更に引き寄せて顔を隠すと、鈴の鳴くような細い女性の声でそれに返した。

「兄上こそ、現実を見るべきかと存じます」

「……何だと?」

「この惨状をご覧になってもまだ、悠長なことを仰るおつもり?」

「……」

「我々はハメられたの。これは最大級の侮辱であります。酷く、心外。心底から、不愉快。色々と台無し」

淡々と呟き、彼女は大きくため息をついた。

「兄上。もう一度だけ、諫言聞いて。私、この日をとても楽しみにしていました。本当に、本当に楽しみにしていた。愛寡は、兄上のことを心底から祝福するためにここに来た。でも、これ……こんなの……」

周りを見回し、そして愛寡は続けた。

「あんまりだわ……」

「……お前らの気持ちは分かる。一番はらわたが煮えくり返っているのは、他でもない俺だ。何に対してでもない。とことんコケにされている、この情けない俺に対してだ」

口を閉ざした愛寡を筆頭に、周囲を見回してから泉は口をつぐんだ。
彼らは、全員同様に漆黒のフードを目深に被っていた。背の大きさはまちまちだ。幼児ほどの身長の者もいれば、反対に強固に膨れ上がった筋肉を思わせる肉体を搭載している者もいる。

「だが、それとこれとは話が別だ。フィルの周りに滞留させている魔法を解けと言っているんだ。一分、一秒でも早く」

「お兄様。それは止めた方がいい」

彼の言葉を聞いて、ひときわ背の高い、柳枝のように細い体をした男が口を開いた。

「何だ……硲(はざま)、俺に逆らうつもりなのか!」
138 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:56:20.69 ID:r2vHYRnw0
「お願いします、落ち着いてください。理由を述べましょう。すなわち、僕達はこれから協力して、少なくともここに攻め込んできているエリクシアの勢力を壊滅させなければいけないのですから」

「何……」

「奥方様の年齢や性格を踏まえて総括的に判断するに、その光景はいささか刺激が強すぎるかと。以上の理由で、僕が愛寡に神火柱を出してもらったんです。彼女を責めな……」

「ふざけるな!」

掠れた声で絶叫し、泉は手近な瓦礫を手で叩いた。

「いいか? この場を設けた意味を忘れたのか? 何百年かかった? この不毛な争いを止めるために、俺達は何百年泣いた? 攻められたから攻め返すのか? 一次戦争の繰り返しじゃないか。涙(るい)が泣くぞ!」

「止められるもんなら、止めてミてくだサイヨ」

しかし今度は、硲と呼ばれた彼の脇に立っていた、筋骨隆々とした体格の男が、フードの下で不気味な笑みを発しながら口を開いた。

「何? 今何て言った、功刀(くぬぎ)!」

「言葉通りの意味でさァ。どの道今のアンタにゃ、俺らは止められんヨ。そのボロボロの体で言っても説得力がねーし、何よりアンタ、この光景を見ても何も感じねぇのカ?」

妙にざらついた、機械のようなノイズ音を含んだ声を発しながら、功刀と呼ばれた男は周りを見回した。そして手に握っていた握り拳大の瓦礫を、バターのように指先ですり潰して地面に叩きつける。

「いい加減にしろヨ! アァ? ここまでされて黙ってられるカってノ!」

「当事者の俺が抑えてるんだ! お前ごときが騒ぐことじゃねぇ!」

その瞬間、功刀という男の怒鳴り声を掻き消す程の大音量で、泉は怒鳴った。

「いいや騒ぐネ! あんたァそこで黙って見てナ。二十分もあれば全て終わル」

「……やらせると思うか? ドアホ共」

泉の目つきが変わっていた。

今までのやる気のない、投げやりな目の色が一変し、瞳の奥に発光素材でも仕込んでいるのかと言うくらい強い赤褐色に、目が光り始める。
139 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:57:00.23 ID:r2vHYRnw0
「……あの時もそうだった。お前らの後先考えねぇスカで、今の俺達はこのザマだ。いいか? 断言する。お前らが今ここでエリクシアを相手に戦闘を起こせば、必ずあの時を越える惨状になる。何故涙が犠牲になったか思い出せ」

「あれはどうしようもなかったじゃない」

ため息をつき、功刀の脇に立っていた一人が言った。声は静かなテノールボイスだが、言葉が妙にハネていて、女性使いになっている。

「お兄ちゃん、第一次戦争の時とは違う。前は私らは何も分からず、何も出来なかった。でも今は違う……こうして義兄弟(きょうだい)で力を合わせることが出来るじゃないの。ね、あなたもそう思うでしょう美並(みなみ)?」

そう聞かれ、彼の隣にいた、ひときわ小さな人影がフードを被ったままコクリと頷く。泉は苦々しげに女性言葉の男の方を向いた。

「……津雪(つゆき)、そういうことじゃねぇよ……お前ら何も分かっちゃいねぇ……」

その時、僅かに離れた場所で爆発が起こった。かすかにしか音は届かなかったが、それは確かに大量の爆薬が炸裂し、硬いものを破砕した音だった。

「……ほぉら、お兄ちゃん? グズグズしてるから外の部隊が痺れを切らして攻めてきちゃったじゃない。でも、ね? 安心安心。さっきみたいに私と美並でちょちょいの、ちょいと。ね?」

楽しそうに津雪と呼ばれた男性は言うと、足元に転がっていた、金髪の少女の頭部……それをボールのように爪先で踏みつけた。

「……どうやら話しても無駄なようだな」

風が吹いた。熱と、埃と、どうしようもない死臭を含んだ生ぬるい風だった。
140 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:57:42.07 ID:r2vHYRnw0
それは、確かに死の風だった。
泉は荒く息をつきながら、背後のフィルレインが囲われている柱をまた一瞥し、軽く腰を落とした。

「……更紗、お前は分かってくれるだろ? この馬鹿どもに、分かるように説明してやってくれ」

最後の頼み、と言うような語調で静かに泉は言った。その言葉を受けて、中央で小さくなっていた人影がビクリと体を震わせ、フードの奥で泉のことを見つめた。

「わらわは……」

震える声だった。頼りなく、どうしたらいいのか分からない、そんなか細く消え去ってしまいそうな声だった。

「……更紗?」

彼女の語調に本能的に不安を感じたのか、泉は小さく息を呑んで続けた。

「おい、どうした……分かりあえるって言ってたじゃないか? これは事故だ。そうじゃないのか? フィルレインとだって、お前はあんなに仲良く……」

しかし、その彼女の名前が出た途端、フードの奥の瞳が悲しげに陰った。次いで更紗は俯き、僅かに唇を噛んだ後……スッ、と泉から遠ざかり、他の兄弟のところへと後退した。
しばらく、その場を沈黙が包んでいた。
遠くで爆音が聞こえる。
泉は周囲を見回し、そして背後の妻が捕らわれている火柱を見つめ……。
自分を取り囲んでいる六人の大魔法使いに言った。

「……いいだろう。二十分で戦争を終わらせるというのなら、俺がお前らを二十分で黙らせてやる」

「……」

その言葉に対する答えは、沈黙だった。

「自惚れんなよ、ザコ共が」

吐き捨てた言葉は、どうしようもなく悲しげで……しかし、折れそうにもない強い芯を孕んでいた。
141 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:58:26.58 ID:r2vHYRnw0


 虹からの答えは、なかった。
どうすればいいのか、どう動けばいいのか。持ち主に指摘されることも、持ち主に認められることもない。
その瞬間、ガゼルの心の中に言いようもない絶望……と言ってはおかしいが、何か黒い、暗濃とした感情が湧き上がった。

(いっそのこと、ここで終わりにしてやることが……)

幸せなんではないか。
そして。
どうせ手に入らないのなら……。
どうせ……。
一瞬だった。
そんな考えが、意図せずに思考の裏を駆け抜ける。
ガゼルの体躯のみがグレイハウンドの捕縛糸で固定されている。虹の周囲には火砲を警戒してピノフィールドを形成しているがゆえに、彼女には干渉は行き届いていない。
ひょっとしたら、火砲に一撃は耐えるかもしれない。しかし……その前に、周囲からガトリング砲の一斉射撃を受けてしまったらお仕舞いだ。やはり衝撃で対消滅してフィールドは消えてしまう。
自分に跨っている少女の体は小さかった。
そして、ブルブルと震えていた。
彼女がこのように、恐怖の感情を露わにするのは初めてのことだった。一体何を見ているのか分からない。恐らく、何か過去と記憶がリンクしてしまい、今現在の状況を彼女は認識していない。自分と戦っている相手も、ガゼルの知らない別の存在である可能性が高い。
そんな状態で、ただでさえ常識が通用しない魔法使いと戦うのは無理だ。
フィルレインとい言った瞬間、意識が入れ替わってしまったらしい。
何とかして元に戻ってもらわなければ共倒れだ。
戦闘というものは、一見威力勝負のように思えるが、こと魔法使いとの戦いは理性と思考概念の展開勝負に近い。威力に頼って押し切るのは多勢の場合だ。
しかし、虹とガゼルには味方がいなかった。
周囲全てが敵といっても間違いはない。
だからここで……怪しかったがここで。

――虹に対して初めて優しくしてくれた人間を見て、ガゼルは心の中で、砂粒一つ位に嬉しかったのは、否定できない事実でもあった。

味方なんていない。その事実が心に重くのしかかる。
そして、今現在の窮地を持ち主は恐らく脱することは出来ない。

――俺一人か……

ガゼルの脳裏に万事休すという言葉が浮かぶ。

――何のために、俺……

その途端だった。
丁度自分達の頭上に位置するスプリンクラーが、噴出している水圧に負けて軋み音を立てた後に破砕した。
まずい、と思った時には遅かった。
洪水のように汚水がガゼルと虹を直撃したのと、グレイハウンドゾンビとエンドゥラハンが、一斉に射撃を始めたのは同時だった。

(ダメだったか……!)

叩きつけ、押し流す水には流石に抵抗することが出来なかった。ガゼルを固定している捕縛糸が軋み……。
142 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:59:08.73 ID:r2vHYRnw0
その次の瞬間だった。
それらはフッ、とまるで幻のように消え去ってしまった。汚水に触れた部分が、映画館のスクリーン外のように瞬く間に消えていく。
こちらに直進してきていたエンドゥラハンの火砲と、グレイハウンドのマシンガンから発せられたおびただしい数の銃弾も同様だった。虹とガゼルを押し流した水の奔流に触れるや否や、映像のように掻き消えてしまったのだ。
自分達を叩きつける水に溜まらず、ガゼルは底部から地面に打ち当たると、そのまま虹を庇うように道路脇に押し流された。側面を嫌というほど地面に擦りつけ、装甲の一部が禿げていく。
そのカメラアイに、水を被せられたグレイハウンドゾンビが、ことごとく虹が壊した時の状況……つまり、雹が打ち当たって破砕し、爆発し、動かなくなったガラクタの山に変わっていくのが映る。

(何だ。大量の水についた途端に機械再生の能力が消えたぞ……)

その事実を確認した途端、彼らの頭上に凄まじい量の汚水が降りかかり、途端に虹はガゼルから投げ出され、数十メートル先に押し流された。

「虹!」

慌てて叫ぶが、少女に反応はなかった。マネキン人形のように汚水の濁流に持っていかれ、そして道端の街路樹に背中から撃ち当たり、水の中に見えなくなる。
ガゼルでさえも水の中に沈没し、そして地面を削りながら虹の方に流されていった。それほど、降り注ぐ汚水の量は多かった。処理が為される前の物をそのまま持ってきているのか、零下に近い低音だ。このまま、この臭い水に浸かっていたら危険だ。
濁流は数秒で止まった。破損したスプリンクラーに通っていたラインが全て出きったらしい。汚水は道路脇の排水溝から流れて行き、ガゼルはずぶ濡れのまま数百メートル先に倒れている虹を確認した。
道路のド真ん中で動かない。
流石に、ここに至るまでに受けた傷が大きすぎるようだった。修復をしたとはいえ、その新しい修復箇所が体に馴染むまでには数時間がかかる。もしかしたら、その癒着が剥がれてしまったのかもしれない。
怒鳴っても到底届く距離ではない。横転したまま、ガゼルは次の攻撃が来ることを覚悟し、青くなった。
しかし、いくら待っても攻撃は為されなかった。それどころか、数秒置いて自分達がいる場所とはかけ離れた場所……つまり、先ほどまでグレイハウンドに取り囲まれていた場所をエンドゥラハンの熱線が通り過ぎるのが見える。

(何だ……)

状況を理解できずに、周囲を見回す。それぞれの道路標識には、相変わらず監視カメラが見て取れる。

――しかし、それら全ては動作をしていなかった。それどころか機能を果たせるかどうかも怪しい。全てがボロボロに腐食し、崩れたコードが垂れ下がっているものさえある。

――水を被った途端に、右天の干渉が消えた

それはつまり……。

(もしかして、干渉要因か)

おかしいとは思っていた。遠隔でビデオカメラを操作するとはいえ、その映像の受信を何で行っているのかが疑問だったのだ。周囲でガラクタとなり転がっているグレイハンドを見回しながら、頭の中で考えをまとめる。
143 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/22(日) 23:59:52.48 ID:r2vHYRnw0
電波を受信しているとか、機械をリモコンで操作するという類のものではないのかもしれないとは思っていた。つまり、ゾンビと化した機械と魔法使用者とを繋ぐ何かの要素があり、そこからのラインで操縦、及び情報の受信を行っているのではないか――。
機械というものは必ず、情報を入れるINと情報を出すOUTが存在する。ガゼルにさえもそれは適用される。彼の場合、INに当たるものは虹の命令……つまり持ち主の操縦だ。OUTは彼の言葉、及び虹に送る通信となる。
例えば右天が、周囲に目に見えない燐粉のようなものを魔法で発散させていたとして。それを壊れた機械に張り付けることで、意識の出し入れを行っていると仮定すれば。
だとしたら、音羅からの情報である『吹雪の時には監視精度が落ちる』という事実も、説明がつく。あの時は単に映像を確認できる範囲が狭まっているとだけに捉えていたのだが、何てことはない、おそらくは右天が発散させている何かが、風と雪で散らされてしまうからなのかもしれない。
そうだとしたら。
その、燐粉のようなものはスプリンクラーの雨くらいでは動作をするが、大量の水で『洗い流される』と干渉をやめ、効果が消える。

――そういうことか……。

だったら……。
だったら、手がある。
ガゼルは、まるでマリオネットのように震えながら立ち上がった虹を確認し、頭の中で一つの計画を構成した。
また、頭がぶつかった拍子に記憶が入れ替わったのか、立ち上がった虹は現状を確認できていない風だった。わずかばかり動揺した顔で周囲を見回している。そして彼女は、足に力が入らないのか、手にチェーンソーガンを持ったまま、よろめきつつこちらに歩いてこようとして、少し進んで倒れた。
スプリンクラーから噴出する汚水の勢いは、段々と収まってきていた。雨音も途切れ途切れになってきている。
次いで、周囲に巨大な機械が駆動する……そのキャタピラの音が巻き上がった。粉塵と轟音。それを響かせ、エンドゥラハンが全長八メートル以上もの凶器の巨体を動かし始める。それは半壊した礼拝堂の壁を踏み壊し、周囲の家屋を倒壊させながら、スプリンクラーが破損した場所……押し流される前に虹たちがいた場所に向けて動き始める。その頭部が、まるでセンサーのようにグルグルと回転しているのが、ガゼルの目に映った。
虹は、ガゼルから三十メート程先の地点まで這ってきていたが、やがて血の混じった汚水を激しくその場に吐き散らし、うずくまってしまった。たらふく錆水を飲み込んでしまったらしい。加えてやはり、内臓の損傷が開いたようだ。
だが、今だ。
チャンスがあるとしたら、今しかない。
ここまで動いてきたということは、エンドゥラハンにはこの一帯のエリアが、汚水の濁流により感知不能になったという事実を表している。正確な虹たちの現在位置を掴めなくなっているのだ。

――予想は的中したのかもしれない――

無論、間違っている場合もある。しかしガゼルは自分達に考えている時間はないことを頭の中で再確認すると、横転したままバイクの側面に、排出孔から噴出させたピノマシンを集中した。それがエンジン、そして動力部に接続され、砂よりも遥かに細かい粒子が結合、そしていくつものコードを形成する。それらは絡まりあうと、数秒もたたずに子供の腕ほどの砲身を形作った。
彼は水を被ったグレイハウンドの残骸が、もう動き出さないことを確認すると、砲身を稼動させて、砂煙を上げながら進んでくるエンドゥラハンの頭上……その上にある、チョロチョロと水を排出しているスプリンクラーの中継タンクに狙いをつけた。

「虹、射撃命令をくれ!」

それだけは彼女がやらなければいけない。準備は出来る。それに至るまでの状況を作るまでは出来る。
だが、やるのはあの子だ。
殺すのは虹だ。
ガゼルの最大音量の指示を聞き、虹は震えながら上半身を起こした。そして彼女は突き進んできているエンドゥラハンを確認し、数秒置いた後口を開いた。

「撃ちなさい!」

彼女の声。それは、確かに殺意を孕んだ意思だった。ガゼルの中枢系統にその言葉が入り込み、そして彼の行動に制限をかけていたストッパーが解除される。
それを再確認するまでもなく、彼は間髪をいれずに、自分の脇から生えた火砲から、生成した実弾を発射していた。
144 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:00:33.55 ID:28RJBBA30
それは直線に飛んでいくと、今まさに通過しようとしている機械の巨人。その丁度頭上の汚水タンクに突き刺さり、連結部の錆びた箇所を弾き飛ばした。
小さな弾丸が与えた効果は絶大だった。元々破損寸前の古い施設であったことが幸いしたといってもいい。亀裂は瞬く間に広がっていくと、中継として汚水を溜めておく役割のタンクの結合部が自重で轟音を当てながら崩れ始めた。
いける、と思った時には、もうエンドゥラハンの頭上からおびただしい量の水が流れ落ちていた。崩壊からの濁流ではない。亀裂がはいったタンクが破裂したのだ。周囲に赤黒い汚水をぶちまけ、それが巨大な機械人形を直撃する。
タンクの中に水が残っているかどうかは、ほぼ賭けのようなものだった。何より、スプリンクラーの噴射は終わりかけていたのだ。それに加え、もしも予想が当たっていた場合も、敵エンドゥラハンのことを洗い流せるレベルで水をぶちまけることが出来るか。それも確定しない不安定要素だった。
つまりガゼルの行動は、確勝を引き起こせるようなものでは到底なかった。理論も何もあったものではない。その可能性が高かったから、そうしてみた。
そう、それだけの安っぽ過ぎる行動だった。
だが、その行動レベルに対してその水の濁流は驚く程に強烈な効果を発した。滝のように自らを打たれたエンドゥラハンが、驚いたように全体を震わせて頭部を回転させる。
しかしそれが段々と遅くなっていき、遂には錆のこすれる耳障りな音をキーッ、となびかせて停止した。次いで、今まで圧倒的な重量感と存在感で動いていた機体に変化が現れた。白銀色の装甲に亀の甲羅のように亀裂が走っていき、そしてボロボロと腐食し、空気中に散っていく。その過程で内部の駆動系が現れ、それさえも腐食液を飛び散らせて崩れ落ちていった。
おそらく、全体を一度に洗わなければ効果がないのだろう。そうでなければ、燐粉のような干渉要因はピノマシンのようにフィールドを再構成してしまうのかもしれない。
数十秒に渡り飛散した本流が停止するのと、エンドゥラハンの頭部が、ガラン……と乾いた音を立てて道路に落下し、その瞬間に白い粉になり霧散したのは同時だった。
ギギ……と軋み音をたてて機械の巨人が完全に停止する。
その装甲には所々穴が開き、赤茶けた錆が広がる。何十年も放置されていた重機のような見るも無残な姿に変わってしまっていた。
次いで、パンッ、という乾いた音が響いた。
エンドゥラハンの下部。その戦車のような部分が破裂したのだ。内容物に対して、腐食した装甲が薄くなっていたのだろう。周囲に硬い金属の破片と……そしてパタタタタタ、と凄まじい量の生臭い雨……赤い、粘性の血液が降り注ぐ。
それは周囲の中央部ビルを真っ赤に染め、道路を地獄のような赤に侵食し、やっと止まった。
スプリンクラーが未だに軽く作動していたのは幸いだった。視界が全て赤に埋もれてしまいそうな状況が、汚水に流されて徐々に消えていく。
エンドゥラハンの腕の一本が、連結部から千切れて、眼下の家屋を倒壊させながら地面に沈み込む。

(やったのか?)

ガゼルは、心臓があれば飛び出しそうなほどに鼓動しているであろう緊迫した気持ちで、動かなくなった機械人形を見上げた。
そこに、ずぶ濡れで体中から汚臭を発しながら、また、飛んできた血の雨をモロに浴びたのか、頭部を血まみれにした虹が這い近づき、ガゼルによじ登った。そこで力尽きたのか、ガクリと首を垂らす。
慌てて残り少ないピノマシンを彼女に送り込み、傷を修復してやる。暫くすると虹は荒く息をついて目を開け、力なく首を振った。

「……あれ……ここは……」

「目を覚ましたか。虹、早速だが右天に止めを頼む」

「え……?」

「おそらくあいつにはもう、魔法力は残っていない」

見上げた少女の視線の先。ボロボロに砕けた機械兵器の頭部があった場所に、操縦席が見える。水の濁流を直下型に浴びたため、どこかを打ったのか。
そこには、気絶をしているのかピクリとも動かない男の影があった。
145 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:01:49.80 ID:28RJBBA30


 少女は地上八メートルの高所で、足下に腐食した過去の遺物を踏みしめながら、片手で右天の喉もとを掴み、ギリギリと締め上げていた。彼女よりもふた周りも大きな魔法使いは、かろうじて自分を掴んでいる細い腕に手を当てているが、その体は宙ぶらりんな形で空中に晒されている。
物理衝撃保護のフィールドで少女は覆われているにしても、やはり腕一本で支えているのは厳しいらしく、彼女の骨はミシミシと嫌な音を立てて悲鳴を上げていた。
しかし、虹は表情を変えることがなかった。近くの空中に、エンジンを噴かせたまま浮き上がった状態でガゼルが言葉を発する。

「ダメだ。音羅の姿はない。途中で気づいて、逃げたのかもしれない」

「そう」

どうでもよさそうに虹は呟き、自分を見上げている男性を、壊れた笑顔で見下ろした。

「言い残すことはある?」

虫けらを捻り潰すように軽い気持ちであることが、呆気なく見て取れる程の澄んだ声だった。
右天は気道を圧迫されながら、飛び出しそうに目を見開き、口を開いた。

「そうか……思い出したぞ……」

「?」

「主様が仰っていた……この世に一人だけ、魔法使い足り得ない魔法使いがいると……その者は、圧倒的な憎悪によりのみ、動いていると……」

「……」

「理由などないのか……なら、我らは……」

男性の瞳は、怒りの感情を孕んでなどいなかった。そこには無数の戸惑い、悲しみ、いや……哀れみ。それに似た感情が渦巻いていた。

「貴殿を救うことは、出来ぬ……」

虹は、長い間その言葉の意味を考えるように、凍りついた笑顔を顔面に張り付かせたままだった。そして、目の前の魔法使いの顔が土気色に変色してきた頃。
彼女は黙って、彼の首の骨に力を入れた。
ベキリ、という単純な音がした。それは、小枝をへし折るよりも簡単で、呆気ない音だった。
だらりと舌を半開きの口から垂れ流し、体中から力が抜けた男の死骸を無表情で見下ろし。
彼女は黙って彼の右胸に、埋め込まれるように沈み込んでいた薄緑色の球体を千切りとった。そして手を離し、死骸を眼下に投げ落とす。
魔法使いの核を口の中にいれて飲み込んだ後、虹は力なくエンドゥラハンだったものの上に膝をついた。
146 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:02:37.94 ID:28RJBBA30
「虹、大丈夫か? 早くこっちに移れ」

「何でだろう……体が動かない……あの子が途中で怒り出して……勝ったの……?」

「……今日は損傷を受けすぎた。俺の中の動力炉も、無理な変形と修復の繰り返しで臨界だ。君の記憶領域も、混乱要素を受け入れすぎてパニックになってるんだ。俺も君も、最低八時間はクールダウンが必要だ。幸いこうやって監視担当の魔法使いは殺せたんだ。早いところ離脱して、どこかに身を隠そう」

「え? ああ……え?」

聞き返されて、ガゼルは不思議そうに彼女に返した。

「聞いていたのか? 君は魔法使いを殺したんだ。離脱するぞ」

「殺した? 右天を? ……いつ?」

「今しがた自分で核を飲んだじゃないか! 頼むよ、後は離脱するだけなんだ、とりあえず俺に乗ってくれ」

「そんな……何適当なこと言ってるの? これから殺しにいくんじゃない」

「君の足の下にあるものは何だ? ああもう、詳しい話は後でするから、俺の上に……」

何やら訳の分からないことを言っている。こんなことは初めてだ。記憶領域に混乱がかかりすぎて、現実の認識さえまともに出来ていない。ガゼルの言葉を聞いて、しかし虹はチェーンソーガンをブラリと手で持ち、疲れたように肩を落としてふらふらと歩き始めた。

「大丈夫か? ここから落ちるなよ」

「頭が痛い……」

「もう少しだから頑張れよ。休めるところを急いでスキャンするから」

途中まで言いかけ、ガゼルは一瞬唖然として動きを止めた。彼のカメラアイに信じられないものが映ったのだ。
それは、虹の背後……丁度今まで彼女が立っていた部分の、ガゼルから四角になっている場所にあった。崩れたエンドゥラハンの装甲、その合間にチラリと見えたのだ。
それは、確かに動作をしていた。
時刻を刻む計器盤。そして大小様々なケーブル類。

(バカな。さっき右天は確かに殺したはずなのに)

魔法使いの魔法効果は、それを行使する者が死んだ場合は消滅する。絶対的なルールだ。
でも、あれは確かに……。
地雷だった。
それも、踏んで爆発するタイプではなく時間差で爆発する時限式のもの。
あれは右天の魔法で修復されたものではない。
もともとエンドゥラハンの残骸に設置されていたものだ。
腐食し、魔法が解けたら起動するようになっていたのだろう。
油断して。
近づいている者をもろとも爆破するために。

――読まれていた。

虹が、右天を殺し……そしてエンドゥラハンに近づくあろうことを、読まれていた。
147 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:03:22.53 ID:28RJBBA30
これは、右天の死を予測したうえでのトラップだった。
もう時間はあまりないことが予測された。
虹はそれに気づいてさえもいない。
やられた。気が緩んでいたのだ。
叫んでも遅い。
それ以前に、彼女は今かなり不安定な状況だ。すぐに言葉の意味を理解するかどうかもやぶさかではない。
そう思った瞬間、ガゼルは動いていた。
ふらつきながら向かってきた虹に向けて精密に動くことは出来ない。しかしとっさに左右ある片方のエンジン噴出を止める。
管制も物理制御も起動することはできなかった。しかしガゼルの巨大な体躯は、振り子のように後部を視点にして虹の脇を目掛けて触れた。
低速だったが、その重量は軽々と虹を脇に押し出し。
そして、僅かに残っていた眼下の街路樹の残骸に放り出した。
彼女が抵抗も出来ずに落ちていくのを確認しながら回転したガゼルのカメラアイに、丁度地雷の基盤がゼロを示したのが見えた。
モロに、ガゼルの周囲を赤黒い炎が吹き上がった。
拡散型ではなく、火柱が吹き上がるタイプだった。同時に、散弾銃のように微小な鉄のタ弾が周囲にばら撒かれる。
慌ててピノマシンを集めて防御しようとしたが無理だった。
その爆炎と鉛玉は、簡単にガゼルの外装をへこませ、ひしゃげさせ、そして爆発させていった。

「……」

急ぎ彼女に言葉を送ろうとしたが、無駄だった。
駆動系に直接衝撃が与えられてしまったらしい。
動作が熱ヒートを起こし、次々にシャットアウトされていく。
人間で言えば心臓。
その、ガゼルの核であるメインコアの一部が吹き飛ばされてしまったのだ。
頭の中に白い砂嵐が広がっていく。
全ての動作に接続が聞かない。エラーメッセージが飛び交っていた。

「り、だつ」

ノイズが混じった声でそこまで言うのが精一杯だった。
ぐらりと、浮かんでいたエアバイクが傾いた。
上手く誘導すれば、自分も虹も爆発の範囲に入らずに避けられたかもしれない。
それにこの程度なら、虹は重傷を負うも死ななかった確率が高い。
ひとまず逃げてそれから傷を治せばいいだけの話だったのだ。
だが、ガゼルは動いてしまっていた。
これはあまりにも痛恨なミスだった。
考える間もなく、行動を起こしまっていた。

(くそ……)

油断。
正真正銘に油断していた。

(今までの戦闘。いや、ここに至るまでの全てが前振り。俺達を油断させるための、罠だったのか)

もう、何が何だか分からなかった。頭の中の駆動系に砂が入り込んだように、ザラザラとノイズが走る。
ダメだ。この状況……動作系統が焼き切れてしまっている中では、数十分はシステムのクリーンナップ、そして再生のために停止せざるをえない。
最後の映像は、浮力を失って落下していく自分を折れた街路樹の枝にひっかかりながら呆然と見下ろす、少女の顔だった。
プツン、と音がしてそれが途切れる。
次いでガゼルの体躯は、眼下の地面に激突して、ひしゃげ、いくつかの部品に四散した。
148 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:04:24.04 ID:28RJBBA30


 彼が血を吐くのを、黙って見ているしかなかった。それ以上のことは何も出来なかった。
少女には、彼を救う知識も、技量も、ましてやその力さえもなかった。ただ傍らで震え、どうしたらいいのか分からない視線を彷徨わせるしかなかった。
崩壊していた。何もかもが崩壊していた。

「泉、もう少しだから……もう少しだから、頑張って……頑張って、ね……?」

彼の顔を覗き込んでそっと呼びかける。目の前の夫は、ボロボロになったタキシードから、動きやすいスーツに着替えていたとはいえ、その胸元は吐き散らかした真っ赤な血で汚れていた。自分もボロ雑巾のようになったウェディングドレスから、急ぎ別の服に着替えてはいたが、それも煤けて所々焦げ付いてしまっている。

「愛寡ちゃんと硲君達が守ってくれるよ……大丈夫だよ。ここから出て、別のドームに行こう? ね?」

必死に、彼に呼びかける。しかしフィルレインに肩を借りていた泉は答えることも出来ずに、鼻から血を垂れ流すとその場に崩れ落ちた。

「泉!」

掠れた声で絶叫し、彼の脇にしゃがみこむ。

――もう、限界だった。

彼は強がっていた。本当は最初からもう、限界だったはずだったんだ。
魔法をまた使った時点で、もうお仕舞いだったんだ。
その事実に気づいた時はもう、遅かった。安全だったはずの地下室から出てきて、愛寡と硲からはぐれてしまい、ただ、ただ何処が出口かも分からない火の海を彷徨うしかなかった。
泉はボタボタと情緒なく血を吐きながら、傍らで泣きじゃくっている妻のことをみた。そして大きく息を吸い、彼女の頬を撫でようとしてその、燃え盛る家々の影……丁度路地裏になっている汚い通路に、ごろりと、仰向けに転がった。

「嫌……泉……嫌……」

震える手を伸ばし、彼が少女の頬を撫でる。
暫く経ち、泉は掠れた声を発した。

「ごめんなぁ……」

「……」

「こんなことになるなんて……思っていなかったんだ……自惚れてた……もしそうなっても、俺一人で……どうにか出来るんじゃないかって……」

「……」

「軽く考えてた…………」

自嘲気味に笑い、大魔法使いは焦点の合わない目をフィルレインに向けた。

「俺達の家の……地下室の……奥に……」

「…………」

「プレゼントがある……」

「………………プレ……ゼント…………?」

「俺ァ……いつも……最悪の場合を想定して……動いてる…………作っておいて……本当に良かった……調整はまだだが……使ってれば、自分で学習していく……大丈夫だ……」

そこまで言って、泉は笛のような音を立てて息を吐いた。吸う息が肺に流れていないようだ。顔が段々と土気色に変色してきているのが、フィルレインの目にもはっきりと見える。
149 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:05:11.13 ID:28RJBBA30
「そんなの……いらないよ……」

「ンなこと言うなよ……一生懸命、作ったんだ…………」

血まみれの口元でかすかに微笑み、彼は茫然自失としながら、涙と鼻水を垂れ流している妻の首を掴んで、引き寄せた。そして力なく、乾いた唇でキスを合わせて、地面に身を投げ出す。

「泉!」

「……お別れだ……地下室に……隠れてろ…………二ヶ月は、外に……出るんじゃねぇぞ……気がかりは……お前を……残していくことだ……」

「嘘……こんな、こんなの……こんな……」

「ごめんなぁ……お前にかけた魔法は……二つ共……解いてやることが、できねぇ……ごめんなぁ……ごめんなぁ……」

囁くように繰り返し、泉は自分の目を片手で覆った。その間から、ボロボロと白濁した涙が溢れ出し、地面にポツ、ポツと転がり落ちる。

「…………情けねぇ…………」

「泉……」

「俺のことなんざぁ……忘れろな……」

「…………」

「お前の器量ならよぉ……どっかで……いい男ひっかけて……暮らすこと……できると思うよ…………」

そう言い、泉はもう目が見えていないのか、そっとフィルレインの左手を掴むと、彼女の薬指にはまっていた結婚指環を抜き取った。そして自分の指環も抜き、硬く右手に握り締める。彼が握りしめるとボロボロと砂のように崩れ、散っていった。

「泉……ど、どうして……」

ガクガクと震えながら少女が言う。それには答えずに、泉は彼女の額に軽く指を当てた。

「Hi8の魔法は……死んでも解けねぇ……覚えておけ……打ち消されない限り……解くことは出来ない。打ち消せ……な? 分かっ……」

「そんな……嫌だよ……」

「……」

泉は指を下ろし、糸が切れたかのように目を閉じた。

彼の力が、全て抜けた。
150 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:06:00.09 ID:28RJBBA30
「もうお別れなんて……嫌だよ……」

そんな陳腐なセリフしか出てこなかった。
どこかの三文芝居のような、安直なセリフしか出てこなかった。

「泉は強いんでしょう……この宇宙の中の、誰よりも強いんでしょう?」

「…………」

「だったら、これは嘘だよ。私をからかってるんでしょう? みんなして……私、バカだから……からかって、遊んでるんでしょう?」

「…………」

「冗談なんだよね? ほら、また……みんなで楽しく、お夕食を……」

「…………」

「……そう、だよね? 私達結婚したんだもんね……私、まだ名前をもらってない……ちゃんと愛してもらってもいないし……嘘だよね……? これ全部、嘘なんだよね? いつもみたいに、何にもなかった時に戻るんでしょう? ほら、戻るんだよ……」

「…………」

「…………」

「…………」

何も聞こえなかった。
壊れたスピーカーのように、切れ切れにフィルレインは、夫を揺すりながらつぶやき続けた。

「私、血、ちゃんと飲むよ……? お洗濯だってするし……お料理だって作るよ……? 子供はつくれないかもしれないけど……身寄りのない子を引き取って、二人で育てようよ……周りの人とだって、頑張って仲良くするよ……? もう我侭言わない……奴隷だっていい……泉のこと、変に勘ぐって怒ったりしない……いい子になる……泉のこと、もっと……もっと喜ばせられる女になる……誇れる妻になる……勉強するよ……大学にだって行こうと思ってて……機械だって勉強しようと思ってて……」

「…………」

「いい子になるよ?」

「…………」

「私……今は何にも出来ないし……馬鹿で、愚図で……どうしようもないけど……でも、頑張る……一生懸命……頑張るよ」

「…………」

「嘘なんだよね………………あなた?」
151 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:06:35.23 ID:28RJBBA30
何分、何十分経っただろうか。燃え盛る火の粉が服にかかっても、顔を打っても、髪を焦がしても。
腐臭と断末魔が夜空を突いても。
少女は、動かなくなった大魔法使いの傍らで、呆然とへたり込んでいた。
何時間経っただろうか。
答えはなかった。
時間なんて、もう分からなかった。
ひょっとしたら一分も立っていないのかもしれない。体から魂が抜けて、また戻って、そして悪魔にまた引っ張られてを何十回となく繰り返す。
その度に意識がなくなりそうになり、また覚醒し、何日経ったのかも分からなくなる。
そう、それは唯一つの単純な事実だった。
少女の思考は、完全に停止していた。
マリオネットのようにのろのろと、半ば無意識に……彼女は絶命の瞬間に緩んだのか、握られた夫の右手を掴んで力を込めた。コロン、と一つ指輪が転がり出る。
それは、彼女の指輪だった。
どういう原理なのか砂になってしまったのは、夫のものだけだったらしい。
拾い上げて……名前が分からない、珍しい石が嵌めこまれたそれの裏を見る。
そこには『虹』と、共有語でその言葉が彫られていた。
かろうじて少女が読める、きれいな言葉だった。
彼が少女に与えるつもりだった、紛れもない伴侶の名前だった。

「う…………嘘だよ…………」

少女はポツリと、そう呟いた。

「こんなの嘘だ……」

誰も、それに答えなかった。
遠くの方で爆音が上がる。魔法の炎だ。すべてを焦がし、消滅させる巨大な火柱が天を突き抜ける。

「私頑張るから……」

少女は、助けを求めていた。
眼下の躯を抱きしめながら、焦点の合わない瞳で周りを見回し、壊れたように喉を鳴らしていた。

「一生懸命頑張るから……」

足音が聞こえた。

「だから……………………」

振り返ったその目に、自分を見る幾十もの、『目』が映った。

「……かみさま……」

最後の呟きは、怒号に踏み飛ばされ、そして消えた。
152 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 00:11:40.68 ID:28RJBBA30
お疲れ様でした。第12話に続かせていただきます。
今日はもう遅いので、休ませていただきます。
後日、続きをUPいたしますm(_ _)m

感想ご意見誹謗中傷など、何でも大歓迎です。
構ってやってください。

続きをもっと早く読みたい! という方がいらっしゃいましたら
こちら(http://ncode.syosetu.com/n7491ba/
で、現在は第二章の第18話までご閲覧していただくことが可能です。
(第一章は37話完結です)

登録めんどい、という方は、スレの更新をお待ちくださいね

こちらにご意見などを書きづらいという方は
BBS(http://www3.rocketbbs.net/601/Mikeneko.html
にお書きいただくことも可能です

それでは、救いのない悲しい御話、最後までゆるりとお付き合いください。

今日はこれで失礼します。
ものすごく寒いですが、皆様も、私のように体調を崩されないよう。
今年の風邪は中々治りません……。
153 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(中国・四国) [sage saga]:2012/01/23(月) 01:59:25.17 ID:9OFyyIJAO
乙!

まだ読んでないけど大作っぽいのでじっくり読んでみる……
154 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage saga]:2012/01/23(月) 21:16:19.09 ID:L4P85sbTo

面白いな
155 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:47:10.14 ID:28RJBBA30
>>153
こんばんは、ゆるりとお読みください〜。
長いので……(汗)

>>154
ありがとうございます(`・ω・´)
チビチビと投稿させていただきますね。

続きをUPさせていただきます。
156 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:49:13.69 ID:28RJBBA30
12 燐

 何か巨大なものを引く音が、夜の地下水道に響いていた。
体に自分よりも一回り大きなコート……恐らく男性用のものを羽織った小さな少女は、バイクの破片だと思われるものに合成ビニールの紐を巻きつけ、肩に担いで必死に引っ張っていた。
汚水の臭いが、空調がきいていないのか鼻息までもが白く氷結してしまうほどの極寒通路の中で脳の奥を突き刺す。もはやそれは廃臭なのか、それとも冷気により鼻腔が損傷してしまっているのか。その事実さえも危うく、よく分からない。まつ毛が汗でくっつきそうになり、何度も立ち止まっては氷の張った手袋で顔を擦る。その度に、柔らかい少女の頬には真っ赤な擦傷が後を引いた。
もう、数十分も歩いただろうか。螺旋状に地下が見えない地下水道の途中で、少女は立ち止まり、感覚がなくなった指先を何とか動かしてコートのポケットに手を入れた。そして手の平サイズの携帯端末を取り出し、蓋を開こうとする。
そこで半ば凍りついていた表層がツルリと滑り、貴重な端末は少女の手を滑り落ちて眼下の地下水道に落ちていった。途中でガコ、カラン……という、どこかにぶつかって破損する簡単な音が反響する。

「あ……」

左脇に開いた縦穴を覗き込もうとして、しかし少女はあまりの寒さで両足に感覚がないことに気づき、その場にへたり込んだ。そしてお尻に、冷え切った水道管内の冷気により火傷のような痛みを感じながら……それでも疲れきって動くことが出来ずに、両足を胸に引き寄せる。
ブルブルと体は震えていた。
ここに入ってから、既に半日異常が経過している。気温は恐らく零下だ。道が分からなくなってしまったら、ただえさえも圧倒的に無謀なのに……。

――死んでしまう――

その事実に気がつき、心の底から震え上がる。携帯端末がなければ、助けを呼ぶことも出来ない。いや……呼んでも誰か来てくれるかどうかは分からない。
そうだ、自分は逃げてきたのだ。
震えながら、自分の後ろに転がっているバイクの残骸を見る。ハンドルなど大部分は砕け、亀裂が入ってしまっていた。落下した時に壊れたのだろう。ボディも砕け散っており、内部の機械もひしゃげている。しかしその中で、多数のコードに絡まりながら淡い光を発している、メロンほどの大きさの球体があった。それは時折明滅しながら、ゆっくりと鼓動のような光を繰り返している。

「う……」

動こうとして、しかし彼女は凍え切った骨が悲鳴を上げるのに気がついた。それだけではない。体中の感覚がなくなり、その代わりに強烈な痛み……というのだろうか。全身を体の内部から鋭利な刃物で切り刻まれるような。そんな軋みを感じ、更に強く膝を引き寄せた。吐く息も段々とか細くなっていく。

(離れないと……)

それだけを思い、何とか紐を手で掴み、彼女は立ち上がろうとした。しかし体がピクリとも動かない。

(あれ……?)

半ば凍りついた金髪が、歪んだ視界に映る。

(これって……もしかして……遭難なの、でしょうか……)

そう思った瞬間、少女の視界が暗転した。
157 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:50:21.71 ID:28RJBBA30


『M駆動系オンライン。クリーンナップ終了。起動システム、阻害要因なし。システム、オールリザレクション。ピノ反応グリーン。融合炉、動作確認。生成率問題なし。パイプラインの連結を確認。思考回路のクリーンを終了。記憶領域のデフラグメーション完了』

ガリガリガリという、何かハードディスクのようなものに情報を書き込んでいるような音が、周囲に響いた。

『全ての設定をマニュアルに。動作チェック完了。起動』

ざらついた機械音声がそう告げると、プツン、と言う音がしてバイクと化したガゼルの電源ランプが点灯した。

「虹!」

起動と同時に声を張り上げる。しかしそれは、凍りついた水道管の中に幾重にも反響し、虚しく掻き消えただけだった。

「何だここは……?」

呟き、体表上に埋め込んでいたカメラアイで状況を確認しようとする。
しかし、それらの約三分の二が破損してしまっているようだった。加えて自分の体もぐしゃぐしゃに潰れてしまっている。幸い中枢核の損傷は時間をおいてある程度の修復はなされていたが、これでは虹の命令をもらって再生工程をなさないと、取り込んだバイクを使用するのは無理だ。
レーダーを働かせてみると、自分が今いる場所はジェンダドーム東区画の地下水道だということが分かった。時刻は夜の二十二時。戦闘をしていたのが朝の八時周辺だから、実に半日以上もシステムダウンしていたことになる。
最も通常のロボットは、そのメインコアであるシステムに損傷があれば即座に停止してしまうのが常であり、当たり前だ。
しかしその点、ガゼルは普通と違っていた。
どんなに破壊されても、核のゼロコンマ七割が残っていれば、時間をかけることで再生ができる。
当然その間の使用は不可であり、彼の意識もない。だからこそ、この状況なのだ。
そこで彼は、自分の体躯上に合成ビニールの紐が巻きつけられているのを発見した。それが伸びている先に視線をやり……そして存在しないはずの背筋が凍りついた。
極寒の水道管内で、少し離れた場所に半分霜と氷に覆われた小さな体を見つけたのだ。

――金髪――

倒れている。女の子だ。

「虹、無事か」

うつぶせになり動かない彼女に向けて、慌ててガゼルは噴出孔からピノマシンを散布し、周囲に充満させた。それぞれの粒子を微振動させ、空間の温度それ自体を上げていく。数分もせずに周囲は徐々に熱を帯び始め。少女の体にかぶさっていた霜は水になり、流れ落ちていった。

「虹?」

しかし、そこで呼びかけようとしてガゼルは言葉を止めた。
そこにいたのは、自分の持ち主ではなかった。
158 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:52:24.54 ID:28RJBBA30
右天との戦闘前に警告を送ってきた、レジスタンスの少女……燐だった。丁度虹と同じくらいの年齢であり、更に金髪だったため見間違えてしまったのだ。

(どうしてここに……)

そこで彼は、燐が自分をここまで運んできたと言う仮説を認識し、怪訝そうに沈黙した。
……あの子はレジスタンスにいた。
レジスタンスは、恐らく更紗と結託して虹を殺そうとしていた。そして自分達はまんまと呼び出され、公開処刑されそうになってしまった。
そこで虹と自分が返り討ちにしたまではいいが、それさえも読まれていて……結局は最後のトラップにより、自分と虹は別々に引き離されてしまったのだ。
おそらく彼女は、敵に連れ去られてしまったのだろう。
それが狙いだったのだ。
真正面から虹に向かっていけば、どちらかが必ず致命的な被害を受ける。それに、更沙にはどうにも虹をただ殺す以外の目的があるように思えた。
二年前もそうだった。あの時も自分たちは向かっていったが、何故か更沙はすぐに虹を殺そうとしなかった。いつでも殺せる状況になったのに、なぜか躊躇をした。
だからこそ、あの悪魔は虹を……死にかけでも無傷でも、自分の手に入れることを目的に策を張っていたのだ。
知能戦に負けたことは明らかだった。
自分が壊されていないところを見ると、その前にこの少女……燐が回収してくれたと見るのが状況判断として最有力だが……。

(すぐには殺されないだろうけど……)

離されてしまった自分の持ち主を思うと、存在しない心臓が悪魔に鷲掴みにされたように、冷気と痛みにさいなまれる。

――自分のせいだ。

読みきれず、結局は迂闊な行動をしてしまった自分のせいだ。
何度も、何度も舌打ちをしたい気持ちを押さえ、まだ動かない燐の方を向く。ここの気温は保護フィールドがない人間には、かなりきついはずだ。それも彼女ほどの小さな子供となると尚更だ。

(一人で俺を、ここまで運んできたのか。何故……)

状況的にそうとしか思えない。
周囲に人の反応はないし、念のため光学迷彩を警戒して別の赤外線によっても周囲を探ってみるが、周囲に動体の反応はなかった。
一瞬、『また騙されているのでは』と言う意見が脳裏を掠める。
しかし、ガゼルには目の前でか細く息を続けている小さな存在を見殺すような決断をすることは出来なかった。
少し考えて、更に温度を上げてやる。
第一、ガゼルに許されていることは補助的な行動だけだ。自立行動は機械兵器の特性上、することが出来ない。つまりどれだけ作戦を練り、どれだけ持ち主のことを思おうとも、近くに操作してくれる人がいなければ何の効果もないのだ。
それは旧時代に作られた、ロボット五原則に由来するものだった。

自意識を持つロボットは人間を傷つけてはいけない。
同ロボットは人間の役に立たなければいけない。
同ロボットは所有者の意向に従わなければいけない。
同ロボットにおける自由は、原則的に所有者の意向により決定される。
同ロボットにおける所有者とは、製作元が認可したアクセスコードを有する人間である。

というものだ。
159 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:55:48.13 ID:28RJBBA30
今の時代……いや、戦争当時の機械から既に、そんな倫理観は外されているものが多い。だから完全自立の機械兵器なんてものも製造されたし、別段人間が命令しなくても、特攻して爆発する自爆ロボットなんてものも存在していた例が、ガゼルの記録にはあった。
しかし、当のガゼルには何故かその五原則が適用されたまま解除されないで今に至る。
何度歯がゆく思ったか分からない。
町を歩いているアンドロイドのように、行動規制を少し緩めてもらって、そして自由に動く体に移植してもらえれば――言うなればマネキン人形のボディをハッキングして使用してもいい――それだけで、何倍も、いや……何十倍も虹の役に立つことが出来る。
それだけではない。
彼女を抱いてやり、暖めてやり、そして慰めてやることだって不可能ではないはずなのだ。
それさえ解除されていれば、今すぐに彼女の元に向かってやることが出来る。
一個の生命体として、自立稼動することが十分可能になる。
だって自分は、そこらのチャチなAIなんかよりもよほど人間的で……よほど高度な自立思考型に加えた学習システムを有しているのだ。
不公平だ、と思う。
街中を歩いているアンドロイドなんかに、体を持つ資格はないと思う。これだけ思っているのに、これだけ……抱いてやりたいと思っているのに。
それなのに。

(ここに転がってるしかないのかよ)

泣き出したい気持ちで一杯だった。今すぐにでも、失態を取り戻したい。すぐに駆けつけ、陳腐なスパイ小説の主人公みたいにカッコよく虹を助けてやりたい。

――俺にはそれが出来るんだ――

叫びだしたいのを堪え、そして無様に崩れ去った自分の体を見る。虹の命令がなければ修復することさえ出来ない。

――どうすればいいんだ――

訳が分からない。
もう、訳が分からない。
……数十分も経っただろうか。火照った人工知能をクールダウンさせるには十分な時間だった。
小さな体が僅かに震え、そしてよろめきながら上体を起こすのが見えた。しかし、それでも動くことはまだ厳しいらしく、ごろりと転がってこちらを見る。そして彼女……燐は、ガゼルの核が赤く発光しているのを見て嬉しそうに微笑んで見せた。

「よかった……です。このまま、本当に死んでしまうかと思ったですの……」

「正直に驚いたと言っておくよ。何キロあるか分かってるのか? 一人でこんな下層まで潜ってくるなんて、正気じゃないな」

「あったかい……」

「ピノマシンを散布しておいた。少なくとも、寒さで凍え死ぬようなことはないはずだ」

「ぴのましん?」

「説明するか?」

マニュアル通りの機械的応対で呼びかける。燐はフルフルと首を振ると、上半身を起こしてその場の壁に寄りかかった。そして小さくなり、両足を抱え込む。
160 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/23(月) 23:58:38.30 ID:28RJBBA30
「手が痛いですの……」

「どうした?」

「あったまったらいきなり、痛い」

そのまま言葉を発しなくなってしまった。痛みに耐えているようだ。ガゼルは、地下水道の天井に赤い半永久発電の標識ランプが点灯しているのを確認し、周囲を見回した。無論ここまで降りてくるには、普通相当な装備が必要になる。だから、そんな深層には当然電気ケーブルなど引かれてもいないし、ほぼ真っ暗な状況だ。

(こんなところを、こんな小さな子が何時間も一人で)

そう思って、沈黙する。

(頭おかしいのか、この子)

もしくは逃げざるを得ない状況になってしまったのか。
どうにもこの子は、レジスタンスの中でも異色な存在だったらしい。何となくそう感じる。
虹に個別に接触を持ってきたときも、安穏とした何も考えていない少女を装ってはいたが、今回の作戦の危険性を伝えようとしていた。
ガゼルは半壊したバイクのエンジンを始動させ、そのヘッドライトを点けた。周囲がいきなり明るくなり、燐は小さな叫び声を上げて目を覆った。少ししてからそっと目を開け、ガゼルの方を驚愕の視線で見る。

「……どんなに頑張っても動かなかったのに……」

「当たり前だ。コアシステムである俺がダウンしてるのに、デバイスであるこれが動作するか?」

「こあ?」

全く意味を理解していないのか、首をかしげながらオウム返しに聞き返される。ガゼルは口をつぐんで、彼女の方に視線をやった。
……白い手袋は、血で真っ赤に染まっていた。おそらく凍傷と、細い合成ビニール紐を掴んでいたことにより、切れてしまったのだろう。寒さで感覚が麻痺していた故に気づかなかったらしい。
燐は目を擦ろうとして、自分の両手が血にまみれていることに気づいたらしかった。少しの間呆然として、目を丸くしながら、おろおろとした表情でガゼルに手を差し出す。

「……どうしましょう……」

「どうしましょうも何も。仕方ないな、こっちに来い」

そう言って少女を呼び寄せると、彼女はふらつきながらガゼルに近づいてきた。そして丁度エンジンの横に座り込み、顔をしかめながら手袋を自分で取る。途中皮がはがれる嫌な音がしたが、燐は唇を噛んでそれに耐えていた。

――しっかりした子だ。

普通の子供なら泣きじゃくるか、恐怖で動けなくなってしまうだろう。髪の長さは違うが、そんな燐の様子に虹の顔が重なる。
案の定、手の平の柔らかい皮はべろりと向けてしまっていた。かなり痛々しい。
161 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:00:17.35 ID:8ptxqL4e0
「痛いです……」

泣きそうになりながら呟く燐を見て、ガゼルはスピーカーから大きなため息を送った。

「分かったよ。ほら、手をこっちに出しな」

「どうして?」

「いいから」

驚くほど従順に、燐はガゼルの方に手を伸ばした。
血まみれのそれを確認し、ガゼルは彼女の手に一部のピノマシンを集中させた。淡い白色に光るもやのようなものが集まり、そして粒の一つ一つが光沢を発しながら、傷口に集まっていく。
数秒しかかからなかった。
燐は、唖然と口を開けて元通りの綺麗な手の平に戻った自分のそれを見て、素っ頓狂な声を発した。

「魔法ですか?」

「馬鹿言うなよ。まぁ原理は似たようなものだけど、ただ単にピノマシンで傷口から欠損した組織を再構成しただけだ。人間の体は良く分からないから、治した訳じゃない。カサブタみたいなものだから、無理に動けば全部剥がれるぞ」

「よく分からないですけれど、ありがとうございます。もう痛くないですの」

「分からないか。まぁいいけどさ」

虹とは違う、何処となく彼女よりも厄介なマイペースぶりだ。彼女は血で濡れた手袋を抵抗もなく再度嵌めると、大きく息をついてその場にへたり込んだ。

「どうした?」

「いえ……ガゼルバデさんが目を覚まされて、気が抜けてしまったみたいですの。本当に死んでしまうかと……」

「死んでないほうがおかしいと思うけど。それに、何で俺の名前をそこで切るんだ?」

「にぃは記憶力があんまりないので、間違えてしまっていたらごめんなさい。ガゼルバデさんではなかったかしら?」

やんわりと聞かれて、ガゼルは呆れたような息を外部に送った。

「それでいいよ。しかし、何だってこんなところに一人で?」

もしかしたら騙されているのかもしれない。
その懸念が取れない。
しかし、先ほど見た彼女の傷は本物だった。長時間冷気の下にいて、更にかなり重いものを引きずっていたがために負った、無理の産物だ。まだ見ていないから何ともいえないが、足の指なども凍傷になっている可能性が高い。
……そんな危険を冒してまで、騙そうとするだろうか。
こんな小さな子供が。
聞かれた燐は、少しの間考えた後、ポケットに手を入れて、銀色の物体を取り出した。そして、それをガゼルの前に差し出す。
――虹が部屋の中で彼女に渡した、ピノマシンで構成された櫛だった。
162 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:01:21.13 ID:8ptxqL4e0
「櫛?」

問いかけると、燐は疲労の色が濃く映る顔でガゼルを見た後、頷いてみせた。

「にぃは、先生が天使さんたちを囮にしようとしてることを知ってました。お話を、偶然聞いてしまったんですの。にぃたちはその前から、更沙を殺す計画を立てていました。でも、それなのに今ここであなたたちが消えてしまっては、無理だと思ったから……」

「お前たちが、更沙を殺す?」

素っ頓狂な声を上げて、ガゼルは続けた。

「何を言ってるんだ。ただの人間に出来るわけないだろ。それにお前みたいな子供に」

「はい……にぃと里は、だからレジスタンスにいたのですけど……」

「……」

何があったのか分からないが。
こんな小さな子にまで、ここまで恨まれている更紗。
その本質はまだ変わっていないんだと考えると、AIの中にノイズが走った。

「囮、と言ったな?」

「ですの。でも、あのお部屋は監視されていて、お伝えできなかったのです。だから、朝ごはんの時に何とかお話をしようと思ってたら、もういらっしゃらなくて……」

そこで彼女は、肩をすぼめて申し訳なさそうに頭を下げた。

「もうしわけありません……にぃがもっと里の言う通りにうまく動けていれば……」

「いや。薄々感づいていたから、君が謝ることじゃないとは思うけど……」

いきなり礼儀正しくされて、ガゼルの口調が素に戻った。慌てて言葉を飲み込み、考え込む。
この少女の目的が読めない。
レジスタンスの一員ではないのだろうか。
確かに、あの部屋は監視カメラがいくつも設置されていたのは確認していた。だから虹は、途中で外に出ることを希望したのだ。

「先生は味方だと思ってたのに……音羅と、皆さんをばくはつするって話をしてて」

「爆発? じゃあ、やっぱり虹もろとも爆弾で全部吹き飛ばす気だったのか?」

「にぃが聞いたのは、そういうお話でした。そしてそれをあなた方にお伝えしたのもばれてしまいまして、先生に追いかけられました。怖かったです……里が何とかきてんを利かせてくれて、逃げられましたけど、どこにも行けなくなっちゃって……」

頷いて、彼女は櫛をまた差し出した。

「これを見て下さいまし」

彼女の指定したものにカメラの照準を合わせ、拡大する。小さな指に指し示されたのは、櫛の下部に取り付けられた、ビーズ球ほどのマイクロチップだった。よほど丹念に見ない限り気づかない。周囲の色に完全に同化し、埋め込まれている。

「記録通信用のマイクロマシン……」

「あなた方が出発されてから里が気づきました。ここを何回か押すと……」

そう言い、燐は櫛の下部を指で何度か擦るように動かした。その途端、ビーズ球が軽く発光し、一筋の光を発する。それは壁に当たると、途端に拡大して携帯端末の画面ほどのスクリーンを形成した。
163 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:02:22.98 ID:8ptxqL4e0
「通信モニターの基盤か。でも、そんなものいつの間に……」

投影されたのは、この簡単なこの地下水道エリアだと思われる場所の地図だった。とは言っても大まかな位置……深度他が表示されるだけで、道なりなどが投影されているわけではない。そこの一区画に、ピンク色の点が明滅していた。

「これ、ガゼルバデさんなんだと思います」

彼女が指差したそれを確認して、ガゼルは発しかけていた言葉を止めた。

「まさか……」

「虹さんは、出発される前に、にぃにこれをお渡しになりました。だから、にぃはあなた方が危ないところに向かっているのに気づいて通信しましたの」

(何てこった……)

彼女は自分達が罠に嵌められてしまっていることに。その裏まではっきりと気づいていたのだ。それをにおわすような発言もしていたし、何より彼女は協力するとは一言も言っていない。それらは全てガゼルが取り付けた協約だ。
だが、それを大まかに口に出してしまえば、気づかれたと知ったレジスタンスがどんな強硬手段に出るか分かったものではない。同じ区画内に強力な魔法使いが一人いることに加えて、地上にはまだ二人残っているのだ。
理論で言うと、当然無理な行動を取るべきではない。
それに虹は、そのような行動をとれるようないわゆる「正常」な状態ではなかった。
加えて。
虹は、もしかしたらこの機会を利用してわざと嵌まることで、更紗の懐に飛び込むむ森だったのかもしれない。
いくらなんでもガゼルを持っていけなかったのは予想外だったのだろうが。
それでいて尚予防線を張ったのだ。自分達の位置をわざわざ知らせる装置を、ガゼルにも気づかせずにレジスタンスの少女に渡すなんて行為は、もし他のレジスタンスにばれてしまったらマイナス要因以外の何者でもない。

(相談もしてくれずに……)

したくてもできなかった可能性はある。彼女がいつ正気で、いつ発狂しているのか。それは常に近くにいるガゼルでさえも分からないのだ。
つまりこれは、彼女の意識がはっきりしている時に、最悪の場合を予見して作られた防衛策。
この少女がちゃんと来るなんて保障はない。しかし、ガゼルを更紗のところに持っていくつもりだったと考えると、もしかしたら戦闘に呼びだしてお取りか何かに使うつもりだったのかもしれない。

「それを見て、俺達の所に来たのか……」

「爆発が終わってもレジスタンスの皆さん……誰も帰ってきませんでした……」

「え?」

思わず聞き返すと、燐は唾を飲み込んだ。

「誰も……」

「みんな死んだのか?」

聞き返して、ガゼルは心の中で首を捻った。おかしい。突入した他のレジスタンス員が全員死ぬ理由なんて、何処にもないはずだ。だってこれは虹と魔法使いを一網打尽にする作戦ではなかったのか。だったら、無駄な犠牲を出す必要なんて何処にも……。

「誰も生き残ってないって言われて……」

「……」

「中央区画は、ガスが一緒にばくはつした事故ってことになってましたの……にぃは子供で、ちっこいですので、入り込むのは地上からでもできたのですけれども……でも、狂信教がいっぱいいて、ガゼルバデさんをみつけて地下道に隠れるのが精一杯で……」
164 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:03:12.86 ID:8ptxqL4e0
「狂信教だって? そいつらが何をしてたんだ?」

「沢山、沢山いましたの。にぃはぞろぞろ入っていくその人の中に紛れて入り込んで……でも、警察とかがいて怖くなって。そしたら、ガゼルバデさんが、ショベルカーのガレキ置き場に転がってるのを見つけたのです。形が全然違ったけど、反応がそこから出てたのですよ……的中していてよかった……」

――何てこった……

自分は、どうやら瓦礫を片付ける時に一緒にゴミに紛れて捨てられていたらしい。多分掃除用のロボットがやったのだろう。ドームで発生したゴミは、全てダストシュートという各エリアに空いている大きな穴から投下され、地下の巨大焼却炉へと送られる。そこに入れてしまえば、いくら修復したとは言っても、自分では動けない兵器だ。ほぼ、完全なる無力化と言ってもいい。
存在しない背筋に悪寒が駆け抜けた。
もし、この少女の話が本当だとするなら……冗談ではない、最悪になるところだった。

(しかし結果としてこうやって無事にここにいる……まずはその事実を喜ぶべきなのだろうか)

自問自答するが、答えが出ない。加えて、自分が想像していた状況とはかなり食い違っている部分が多かった。
少しだけ考え込み、やがてガゼルは息で手の平を暖めている燐に向けて言葉を発した。

「それで、君はこんなところに逃げ込んでどうするつもりだったんだ?」

聞くと、燐は少しの間ポカンとした後、おかしそうにクスリと笑った。そのしぐさが妙に神経にカチンと来て、思わず声を荒げる。

「何がおかしい」

「……ごめんなさい。でも、あなたはアンドロイドの割にはあまりにも人間っぽくてびっくりしましたの。にぃが普段お世話をしてもらっているアンドロイドは、もっとこう……機械的で、にぃが言おうとしていることなんてすぐに先回りして言われてしまいますの。だから……まるで本当の人間とお話をしているみたいで、びっくりしましたの」

「……」

正直、いい気持ちはしなかった。
そもそも体を持たないと言うことはガゼルにとっての一番のコンプレックスであり。それに直結して自分が虹たちと違う、ただの擬似生命体であるという事実は褒められたものでも、誇れるものでもないことは十二分に分かっていた。
馬鹿にされたのかと思ったのだ。
彼からしてみれば、人間でも自分より優れた者はそうそういないと言う、自惚れに似た自負もあったし、そこらのアンドロイドよりもよほど高機能な処理が出来るという誇りもあった。だから、矛盾したことではあるが……自分が機械である、と意識させられるのも、人間に近い、と意識させられるのも面白くないのだ。
最も、この様子だと燐はロボット人権など理解はしていないだろうし、更に加えて、ロボット排斥主義者と言うわけでもないだろう。だからその発言には裏表などないということは、いくらなんでもすぐ分かる。
しかしガゼルはしばらく口をつぐんで、目の前の少女に心の中で冷ややかな視線を送った。
例えばの話、燐だって自分が機械的だと言われればいい気がしないだろう。定義づけて詩文の心理を分析することは出来なかったが、大まかに考えると恐らくそのようなことだ。
燐は、そんなガゼルの様子を気にしていないのか、膝を抱いたまま息を吐いた。ピノマシンで周囲の空間温度を上げているとは言え、それでもまだ寒い。零下にはならないようにしていたが、気温は十度を上回らない。どこかのコアシステムに損傷が入っているらしく、中々思うとおりにマシンを操作できないのだ。それよりも先ほどから自己修復に回しているエネルギー制御で、自分のシステムは飽和状態だった。
白い息を吐いて、燐は不安げに床を見詰めた。

「……里、と言いますの」

「?」

突然話を始めた彼女に、疑問を含んだ沈黙を返す。燐はまた軽く息を継ぐと、足の指が痛むのか、ブーツの先を指で揉みながら続けた。
165 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:05:03.14 ID:8ptxqL4e0
「にぃのことを、小さい頃からずっと育ててくれたアンドロイドですの。パパも、ママも、人権を買ってあげて、人間の名前をつけて、ずっと一緒に暮らしていましたの」

そこで、彼女が始めて部屋に来たときに、虹と音羅の戦闘で誰かの部屋が壊れたと言っていたのを思い出す。確か……里の部屋だと言っていた。

「まさか、壊れたのか?」

そう聞くと、燐は驚いたように顔を上げてブンブンと首を振った。

「まさか。里は、とっても、とっても強いメイドロボなんですのよ? ずっと前からにぃの味方してくれて……今回も、携帯端末からサポートしてくれていたのですが、端末を落として、失くしてしまいました……」

そこまで話して、唐突に燐は心細さに襲われたらしかった。ガゼルは意識して触れていなかったが、彼が動けない以上、燐は引き返すにしても目的の場所に行くにしても、また重いバイクの残骸を引きずって歩かなければいけない。先ほどまでは機械的に動いていたが、他人と対話することでその麻痺していた神経が緩んできたらしい。
グス……と突然泣きべそをかき始めた女の子を前にして、予想外に戸惑ったのはガゼルだった。不安定な虹のサポートをしているとはいえ、こういう風に小動物のような反応をされたことはない。一瞬、どう扱ったらいいものか分かりかねたのだ。
燐は、しかし誰に言われるまでもなく手袋で目元を拭うと、ガゼルの方を向いて疲れたように笑ってみせた。

「レジスタンスは、今とても混乱していますの。にぃと里は離れたところに逃げたのです」

「何とか地上に留まるという選択肢は考えなかったのか?」

思った通りを口にすると、彼女は息をついて肩をすぼめた。

「死にたくないですもの」

「確かにそうだが、だからと言って俺たちを頼るのは、早計過ぎるんじゃないか」

「里がそう言ったのです……第一、にぃにはもういくところがありませんし……」

「まぁ……それはそうかもしれないが」

この子にしてはよく考えた結果なのかもしれないが、早計なのは否めない。
第一、ここまでして助けたガゼルが味方になってくれるかどうかなんてわかったものではないのだ。
メイドロボと言えば、このようなわがままで短絡的な主君の思い付きを諫めるのも役目に入っているだろう。そこを諫めず、あろうことか一人で行動させていることから見ても、大して複雑な思考ルーチンを持っているわけではないのかもしれない。
あるいは、別の思惑があるのか。

「……それで、出てきてどうするつもりだったんだ?」

「…………先生は、にぃが天使さんにお送りした通信を聞いてしまいました。そういうこともあって……見つからないように水道を抜け出して。西区の公共広場で待ち合わせをすることにしたのです」

「待ち合わせ?」

聞き返して、ガゼルはその瞬間、心の奥に走った冷たいものに気がついた。

「まさか、そのメイドロボは君と別々に行動することでレジスタンスの目くらましをするって言っていなかったか?」

「え……?」

驚いたように燐は目を丸くして、そして首を傾げた。

「里は、そのように言っていましたけれども……それがどうかしまして?」

「…………」

ガゼルは忌々しげな舌打ちを漏らそうとして、そして思いとどまり止めた。
166 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:06:40.40 ID:8ptxqL4e0
機械、アンドロイドの根幹プログラムとして、いついかなる状況でもその所有者を護らなければいけないという条項がある。
おそらく、その里とかいうメイドロボがこの子と離れたのは、そうせざるを得なかったからなのだ。端的に性能の低いポンコツだと笑いそうになったが、どうやらそうではなかったらしい。
つまり。
囮だ。母鳥は猛獣に狙われた時、子供を逃がすために自ら目立つ場所に出て、目をひきつける場合があると言う。
そもそもが、今現在レジスタンスの本拠地があった場所からは対角線上にいるのはおかしい。加えて、西区というのは更に遠く……もっと対角線だ。
つまり、予測するにそのメイドロボは、燐だけを安全な場所に誘導しようとしていたのだ。
その事実を告げようかどうか少し迷い、しかしガゼルはまた押し黙った。
今それを言えば、彼女はどうにかしてそのメイドロボのところに行こうとするだろう。そうなれば、最悪自分はここに放置されることになるかもしれない。焼却炉に投棄されるのとほぼ同じだ。

「いや……何でもない」

微妙な間を感じ取ったのか、燐は少しの間言葉を捜していたが、やがて小さく息を吐いて地面を見た。

「だから心配で……里は強いですけども、、にぃがいないと何も出来ないのです……一人で広場になんて置いておけない……」

「……」

携帯端末が無くなっているのは、かえって都合が良かったかもしれない。最も……その事実に気づいたとしても、この子一人じゃどうしようもないだろうが……。
しかし問題は、燐が一人でガゼルを引きずって、ここから西区まで歩いていけるかどうかだった。距離に概算するに、およそ直線十五キロ程ある。

(せめてバイクの駆動系だけでも起動できないかな……)

エンジンさえかけられれば、普通のバイクとして運転してもらうことは出来る。だが、どうやら落下の時に壊れたのか……または燐が自分を下水道に投げ落とす時に破損したのか、タイヤはぐしゃぐしゃにひしゃげてしまっていた。エアバイクとしての機能も、圧縮空気の噴出孔に何かが詰まっていて上手く動作しない。
――これは、虹の命令をもらって修復を起動させない限り無理だ。

(畜生……)

こんな状況で、彼女を助けにいけるのだろうか。
こうなった以上最大限この小さな女の子……燐を利用させてもらわなければいけない。しかし……こちらから能動的にサポートが出来ない相手を、どうやって動かせばいいのだろう。その方法が思いつかない。

――機械の割に

先ほどそう言って笑った彼女の顔がフラッシュバックする。

(何だよ……俺だって……)

歯軋りするような気持ちを体感した瞬間だった。彼が周囲に散布させ、レーダーの代わりに張り巡らせていたピノマシンの霧に、何か重量感のあるものが引っかかり、AIに警鐘を流す。

(何だ?)

慌てて赤外暗視で、周囲のパイプや通路全てにカメラアイを向ける。そこに、いくつものパイプに分岐して、総計十……いや、二十以上の人間大の影が蠢いているのが確認できた。それらは熱源でも探知しているのか、静かに音を立てずにこちらに向かってきている。
――グレイハウンドだ
それに気づいて青くなる。
虹が右天との戦闘で破壊したもので全部ではなかったようだ。かなりの数量産されている。それら、狼のような胴体を持つバトルスパイダーの群れが、猛スピードでこちらに向かって来ていた。
今追いつかれたら、確実に自分は破壊され……この子は殺される。それはどうしようもない。
最悪だ。本当に、最悪だ。
少しだけ考えをまとめようとしたが無駄だった。耐えることが出来ずに、ガゼルは上ずった声を発した。
167 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:09:36.17 ID:8ptxqL4e0
「燐、落ち着いて聞いてくれ」

「……?」

怪訝そうにこちらを見た彼女に、少し間を置いてから彼は続けた。

「追っ手だ。どうやら俺がゴミ捨て場にないことに敵さんが気づいたらしい。位置を探知されてる。このままここにいれば、間違いなく君は殺される」

それを聞いて、燐はサッと顔を青くした。そして立ち上がろうとして、しかし地面にへたり込んでしまう。

「とにかく、ここを離れるんだ。大至急隠れられそうな場所をスキャンする」

「だ……だめですの……」

震える声で呟いた彼女に、いらついた声を返す。

「何が?」

「だめなんですの! 足が動かないのです。指が痛くて、もう歩けない……」

「何だって?」

――凍傷。その二文字が脳裏を走る。おそらく、膝の関節もやられてしまっているのだろう。ほっとして腰が抜けてしまっている可能性も高い。

「何でそれを早く言わない」

「ご、ごめんなさい! まさかここまで追ってくるなんて、全然考えてなくて……」

「くそ……」

吐き捨てて、周囲のレーダー感度を上げる。グレイハウンドの第一波は手前およそ三百メートルほどの地点にいる。このままだとあと二、三分の間に包囲されてしまう。光学迷彩というのは面倒だ。レーダー感知を阻害する機能もついている。

(ここまで近づかれないと分からないなんて……)

今度こそ舌打ちの音を出したガゼルのカメラアイに、そこで立ち上がろうとして失敗した燐の手から零れ落ちた櫛が映った。それは乾いた音を立てて転がると、丁度彼の視線の先で軽く回転して止まる。

(……待てよ……)

ふと、思いついたことがあった。
虹が、ガゼルの位置を示したマイクロチップを渡すだけで済ませるだろうか。ふと、そんな考えが浮かんだのだ。

――いや、そんなはずはない。

そんなはずが、あるわけがないのだ。
そもそもガゼルの重さは、虹自身の腕力でさえも持ち上げることさえ出来ないのだ。それをピノマシンを補助的な役割で作動させることで擬似筋肉を形成し、サポートしている。だからこそガゼルを動かすことが出来るし、体格に見合わない凶器を振り回すことも可能になる。
そんな事情があるのに、ただ追ってこさせるだけの予防策で済ませるだろうか。
この状況をかけらでも予期していたのなら、何らかの解決策を彼女なら残していく。

――アクセスコード

ロボット五原則の一つ。ロボットは、規定のアクセスコードを持つ人間を所有者と定めるというルール。そのアクセスコードは、世界でたった一人しかいない持ち主……つまり虹が無条件で有し、また、彼女から発行される。
168 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:12:12.69 ID:8ptxqL4e0
「燐、その櫛を俺のカメラアイの近くに持って来い」

「く、櫛?」

「いいから早く」

状況が認識できていないのか、きょとんとした顔で聞き返した彼女に大声を上げる。コクコクと頷いて、少女は櫛を拾い上げると、彼の方に差し出した。

「違う。俺の核があるだろ? それの左下にインストールエリアがあるんだ。そこに、さっきのマイクロチップを上にして押し付けてくれ。ボタンを上にして、早く」

燐は頷くと、彼の赤く発光しているメロン状の核……その下部に櫛を押し付けた。途端、核自体が粘土のように歪み、櫛を内部に取り込んで……そして元の球体に戻った。

「吸い込んじゃった……」

目を丸くしている少女の前で、ガゼルは心の中で歓喜の声をあげた。
櫛のマイクロチップ。それは探知機以外にも、彼が今一番欲していたもの……つまり、鍵だ。自分を動かすライセンスキー。そのアクセスコアの役割も果たしていたのだ。
つまり、それをインストールしている間だけ、ガゼルは虹以外の人間で、このチップを最後に触った者にも操作が可能になる。最もそれには更に、ガゼル自体の意思も関わるようにプログラム規制が為されていた。

(あの短時間で、ここまでの予防線を張るとは……)

心の中で持ち主に対して、賞賛の言葉を叫ぶ。

「よし、燐……許可をくれ」

「え? きょ、許可……?」

「早くバイクの修復許可をくれ」

「は……はい、ですの。ええと……どうぞ」

さっぱり意味が分かっていないのか、またこくりと頷く少女。とりあえず一端の自分の操縦者を彼女とセットし、その言葉を侵食に至る起動キーとして認証する。
次の瞬間、ガゼルの下部からおびただしい量の白い煙……ピノマシンが噴出し、数秒もたたずに、まるで雪像を作るように元のバイクの形を形成し始めた。それは凝結し、色を発し、段々と硬化していくと、たちまちの内にエアバイクを形作った。
巨大な体躯を下水道に固定し、エンジンを最大までふかす。

「バイクになった……」

「早く乗れ」

唖然としている燐にそう言い、周囲を探る。グレイハンドは既に百メートル弱まで近づいている。燐は、そこでやっと危険を認知したのか、腰を奮い立たせて大きすぎるシートによじ登った。そしてハンドルを握ろうとして……しかし体の小ささにより手が届かないことに気づく。
自動で座席からベルトを噴出し、彼女の体を何重にも固定する。そしてガゼルはハンドル部を上部に競り出させ、固定した。

「握って。とりあえず敵の策敵圏外まで離脱するよ。いいね? 俺の言う通りに操作をするんだ」

ガゼルは水道管内に空気圧を噴出しながら、猛スピードで前に走り出した。
169 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/01/24(火) 00:13:48.62 ID:8ptxqL4e0
お疲れ様です。第13話に続かせていただきます。
今日は少し具合が悪いため、この辺で失礼しますm(_ _)m

詳しいご案内は>>152で記載させていただいています。
よろしければご確認をお願いします。

それでは、失礼します。
170 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/01/24(火) 17:52:33.49 ID:MdMWPuTRo
乙だぜ
171 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 20:20:47.23 ID:42FVc1Cm0
間が空いてしまいました。すみません。

13話から続きを投下させていただきますm(_ _)m
172 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 20:28:56.18 ID:42FVc1Cm0
13 ハイ・エイト

 その事実を聞いたとき、確かに少女は舌打ちをした。忌々しそうに、しかし何処となくやるせなさを孕んだため息とともに舌を鳴らし、軽く首を振る。
彼女の手には、アルコール純度の高い酒を飲む時に使用する、小さな受け皿がつままれていた。そこから強烈に生臭い匂いを発する、半ばゲル状に変化した漆色の液体を軽く舌で舐める。
見た感じでは、殆ど七、八歳ほどの外見をした少女……いや、それにも達していないほどの、幼女と呼称するに値するほどの小さな女の子だった。身長は百二十に満ちているか、もしくはもっと下。髪は人形のように長く、艶の入った黒髪が、しなだれかかるように座っているソファーに広がっていた。恐らく立つと床に引きずるほどの長さだ。片手でその一部を指先で弄びながら、彼女は自分の着衣をそっと直した。浴衣のような、薄い布を一枚纏っているだけだ。部屋の中は暖房が効きすぎなくらい効いていて、赤い絨毯、赤い壁紙が張られた広い部屋の中には、まるで生臭い飲み物の臭いをかき消したいかのように、強烈なミントの匂い――その香――が立ち込めていた。
彼女はまた一つため息をつくと、照明までも赤っぽい色に調整された部屋を見回した。その部屋の四方は、天井まで届くほどの本棚に覆われていた。それら全てにはガラスが張られており、中にはワインの瓶がずらりと整列している。
瓶のラベルには、年号のようなものが書いてあり、几帳面にそろえてあった。
不気味な程に青白く……しかし、人形のように整った幼い顔を苦悶の色に濁らせ、少女……更紗と呼ばれている大魔法使いは口を開いた。

「取り逃がしたか」

その声は、幼くか細い声音とは打って変わってしっかりとした、落ち着きを含んでいた。彼女の言葉を聞いて、傍らに立っていた男性が僅かに頭を下げる。

「申し訳ありません。どうやら、あのアンドロイドは自立稼動が出来るようだと見る他ないと思われます」

「ぬかったわ。わらわが直接赴ければ、もうようことが進んでいたはずじゃ……」

「現場指揮をしていた人間への意思伝達が不十分だったようです。何分……あの規模の破壊、戦闘が行われるとは予想をしておりませんでした。まさか右天様までもが犠牲になられてしまうとは……」

そこまで言って、男は顔を上げた。細い眼鏡、そして白衣が赤い照明を受けて薄いピンクに光る。
彼……レジスタンスの指揮をしていた男。
――紅は、答えない主に声をかけようとしたが、やがて押し黙った。
しばらくして更紗がまたため息をついて、軽く首を振る。

「……御主等は、あの者の恐ろしさを全く持って理解しておらぬ。左天、右天のみの犠牲で済んで捕縛できたのは奇跡に近い。何せ、にに様の心臓を持っているのじゃ」

「……主様のお手を煩わせないがための犠牲です。致し方ありません。それに、これだけ周到に、二年越しで用意を進めてきたのです。そうでなければ困ります」

眼鏡の位置を直し、紅は続けた。

「……どうなさいますか、あれは」

問いかけられ、また更紗は黙り込んだ。そして周囲のワイン瓶を見回し、そのうちの一つを指刺す。紅は軽く会釈をすると、足を引きずりながらその瓶を手に取り、蓋を開けた。途端に、周囲に強烈な腐臭が立ち込める。
173 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:32:18.98 ID:42FVc1Cm0
彼は更紗に近づき、その中身を平皿に空けた。半ば固形化しているそれ……凝縮された血液の塊は、滴のように何滴か落ちていく、またそれを小さな舌で舐めとり、彼女は不意に、苛立ちを隠そうともせずに平皿を地面に叩き付けた。軽い音が響き、それがいくつかの破片に砕け散る。

「お口に合いませんでしたか?」

聞かれて、しかし更紗は答えなかった。ソファーから立ち上がると、不気味なワイン瓶が立ち並んだ部屋を、足早に後にしようとする。しかし、途中で長い髪を引きずって歩きだろうとした彼女についていく気配を見せた紅に気づき立ち止まると、後戻りをした。そして無造作に彼の手に合った瓶を掴み取ると、少し離れた床に投げ飛ばした。本棚のガラスが割れる音と、ワイン瓶が砕けて、腐った値の匂い、汚濁と化した血液だったものが周囲に散乱する。

「片付けておけい」

一言口に出し、彼女は足早にその部屋を後にした。
地下室なのか、石造りの廊下に足を踏み出し、ドアを乱暴に閉め……そして彼女は大きく息をついて肩を落とした。
ヒステリーを起こしたということは分かっていた。そんなことは情けなく、そしてどうしようもなく無様であることは理解していた。

「にに様……」

噛み締めるように呟き、歯を噛み締める。
握られた拳は、まだ発達していない骨が浮き上がり小さく震えていた。
しばらく扉に寄りかかるようにしていたが、彼女はやがて大きなため息をついて、髪を翻し地下通路を歩き出した。暖房がかかっていたのは室内だけだったらしく、吐く息が白くなり、むき出しの部分が多い未成熟な体に鳥肌が広がっていく。

(……寒い……)

思わず肩を落とし、立ち止まった時だった。

「……早く、お部屋に戻りましょう」

背後から紅に囁きかけられ、彼女はビクリと震えて、弾かれたように振り返った。
その瞳に僅かばかり、白濁した涙が盛り上がっているのを見て、手にコートを抱えていたアンドロイドは口をつぐんだ。そして、目元を擦った彼女に気づかないふりをして、羽毛のそれをかけてやる。
更紗は早足で歩き出しながら、つっけんどんに口を開いた。
174 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:37:21.13 ID:42FVc1Cm0
「……片付けにゆけ」

「あれくらいでしたら、後ほどメイドにさせます」

「……」

鼻を鳴らして階段を登りだす。しかし、石造りの段は彼女の歩幅には大きすぎるのか、途中で靴を滑らし、よろめく。
そこを背後から来ていた紅が、抱きかかえるように支えた。
父と子ほども身長が違う彼女達が、しばし密着したまま硬直する。
次いで突然更紗は彼の手を振り払うと、忌々しそうに怒鳴り声を上げた。

「ええいついてくるでない!」

「どうかなさったのですか?」

怪訝そうに聞かれ、彼女は服で胸元を隠しながらまた歯を噛み締めた。

「忌々しい敵を捉えることが出来たのです。長年の懸念を払拭できたのですから、もう少しお喜びになっても……」

「どやかましいわ!」

ヒステリックに叫び、彼女は小さな手で紅を後ろへと突き飛ばした。体格差が相当にあるので、彼はよろめいただけだったが……しかし、様子が違う主を心配そうに見つめる目は、多くの疑問を含んでいた。
それを直視することが出来ないのか目をそらし、俯いた後、彼女は震える声で小さく呟いた。

「今はお主の顔を見とうない」

「……」

言葉を捜している風な紅を、しかし今度はきつく睨みつけ、彼女は押し殺した声でまくし立てた。

「…………お主になど、わらわの気持ちは分かるまい……たかがサイボーグの分際で、わらわに記憶を与えられた分際で、偉そうに説教かえ? 度を知れい。下郎の分際でおこがましいわ」

「主様、私は……」

「やかましいやかましい! ええい去ね! その顔でわらわを見るでない! 去ねい!」

ヒステリックにか細い声で叫び、彼女はかけられたコートを、目の前の紅に叩き付けた。そして足早に階段を登っていく。
紅は、更紗が叩きつけるように地下室のドアを閉める音を呆然と聞いていた。そして、コートを握り締めて深くため息をつく。
静寂が訪れる。
一分経ち、二分経ち……そして彼は、静かに階段を登り始めた。
175 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:38:27.15 ID:42FVc1Cm0
 *
 
 「……聞いてるのか、フィルレイン」
 
呼びかけられ、ハッとする。少女は金髪をかきあげ、ドレスの裾を慌てて直した。

「ご、ごめんなさい……少しボーッとしちゃったみたい」

「おいおい、またかァ? お前一度脳の精密検査受けた方がいいと思うぞ。どっかの記憶領域が濁ってる可能性がある」

「そんなことないよ。生まれた時からバカなだけだよ……」

「……どう反応したらいいか困るな」

軽く肩をすくめ、泉は目の前に広げられた長テーブルに目をやった。そこには様々な料理が並んでいた。珍しい生ものもある。普通、市場に流通している食料品は合成か、もしくは保存物に限られるが……この日のために泉が用意したものは、金銭に暇をつけないほどの高級物だった。
最もフィルレインには、それがどの程度のもので、どのくらいの金額がかかっているかなんて分からなかった。こうやって彼の隣で待っている最中に、事細かに説明をされ続けて何となく把握しているだけだ。
それに加え、彼女自身としてはこのように高級な食べ物……それに、綺麗に着飾ること自体に興味がなかったと言った方がいいかもしれない。まだ膨らんでもいない胸元を大きく開いたドレスは、美しいと言うよりも滑稽だ。
まことに……恥ずかしい。
自分の話に少女があまり反応を示さないのを見て、泉は軽くため息をついた。そしてスーツの襟元を正して、軽く手を叩く。すると、それに呼ばれる形で柱の影にいた背の高い女性がスッ、と前に進み出た。

「旦那様、御用ですか?」

聞かれて、泉はメイド服に身を包んだ、まだ若い女性……彼女に向けて口を開いた。

「この子に温かいスープを一皿持ってきてくれ」

「かしこまりました」

「え……」

フィルレインが口を挟もうとした時には既に、メイドは厨房に引っ込んでしまっていた。
不服そうに眉をしかめ、不快感をあらわにした表情で少女がそれを追う。
しばらくしてフィルレインは、ポツリと口を開いた。

「メイドロボなんて、泉は嫌いじゃなかったの……?」

「ん?」

何でもないかのように聞き返し、彼は軽く笑ってからそれに返した。

「いやぁ……まぁ、ここに暮らすのが俺だけだったらいいんだが、お前もプラスされるとなると家事する奴が必要になるだろう。それに、今日みたいな日だったら尚更だ」

「……」

「それにしても遅いなあいつら……約束事には、普通一時間前には集合するべきだろう。でもまぁ……時間感覚が俺と違うからなぁ」

独り言を呟き始めた彼から目を離し、メイドロボが会釈とともに持ってきた湯気を立てているスープに目を落とす。
泉は、一人で暮らしている時間が長かったせいか、独り言を大声で離す癖があった。無理矢理に会話に絡む必要はない。
折角持ってきてもらったものなので、スプーンを手にとって口につける。
意識せずにため息が漏れた。
176 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:39:18.16 ID:42FVc1Cm0
横目で柱の影に引っ込んだメイドロボ――家事手伝いのアンドロイドを追う。
綺麗な外見をしている。自分よりも、遥かに。

――そこで、玄関の呼び鈴が軽く鳴った。

待ち焦がれていたかのように、まるで子供を連想させるかのような動きで泉はその場に立ち上がった。

「やっと来たか! ははっ、百五十年ぶりだ!」

嬉しくてたまらないと言った顔で、彼はフィルレインの手を掴んだ。

「え、あの……」

「来いよ。多分更紗だ。お前をいの一番に紹介してやる。こういう機会でもなけりゃ、あいつら連絡の一つもよこさねぇ」

「私……いいよ。ここで待ってる」

「野暮なこというな。遠慮すんな来い」

無理矢理押し切られる形で泉に手を引かれて階段を下りる。先に玄関に向かっていたメイドロボが戸を開け、来客のコートを受け取っていた。
見える人影は三人だった。泉ほどの背の男性が一人。灰色のボサボサな髪をしていて、分厚い眼鏡をかけている。蝶ネクタイがアクセントをきかせている、髪と同様に灰色のスーツだ。
その隣にいるのは、フィルレインよりもかなり背が高いと思われる、細く、スタイルの整った女性だった。燃えるような赤い髪――染めてでもいるのか、不自然な色のそれ――にウェーブをかけて腰まで垂らしている。とてつもなく綺麗な女性だった。丁度顔の右半分が垂れ下がった髪で隠れて見えなくなっている。
そして彼らから少し離れたところで、驚愕しているようにメイドロボを見上げている、フィルレインよりも小さな人影があった。女の子だ。凄まじく長いと思われる綺麗な黒髪を、頭の上で何十にも折っている。まるで小さな蝶々だ。フィルレインが見たことのない、珍しい形の服を着ていた。バスローブのような形のものを腰で帯にまとめ、幾重にも重ねている。身長が自分と同じくらいなので、心の中に僅かに親近感が沸く。
灰色の髪とスーツを着た男性が、一番に泉の事に気づいたらしかった。彼は表情を輝かせると、軽く手を上げて口を開いた。

「お兄様。久方ぶりです」

その言葉に反応する形で、他の女性二人が彼のほうを見る。

「兄上、久しゅう」

赤髪の女性がそう言った途端……黒髪の女の子が、彼女の脇を駆け抜けた。そして泉の懐に飛び込む形で抱きつく。

「にに様! お元気でしたか?」

「ははっ、元気だ元気。お前も元気そうで何よりだ更紗!」

満面の笑顔を浮かべて、泉は小さな女の子を抱き上げた。そして何度かその場を回り、またいたずらっぽく笑った後降ろしてやる。

「硲も愛寡も、よく来たなぁ。お前ら、従者はいないのか?」

「皆で一箇所に集めてあります。何しろ、百五十年ぶりの会合です。野暮なことはなしですよ」

硲と呼ばれた灰色の男性がそう言い、そして彼は意外そうに玄関のコートかけに自分達の上着をそろえているメイドロボを見た。
177 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:40:18.87 ID:42FVc1Cm0
「しかし意外ですね。驚きました。あれほどの機械嫌いだったお兄様が、かのような文明の利器を導入されているとは……」

「歳月は人を変えるんだよ。俺もまた然りだ。いつまでもジジィ趣味じゃあな」

「兄上、これ、我々準備いたした」

鐘の鳴るような澄んだ声で、しかしどこかおかしい言い回しで、愛寡と呼ばれた女性が懐から綺麗な紙で包装された瓶らしきものを取り出し、泉に渡す。

「おお、スゲェなこれ。まさか製法を試したのか?」

「わらわたちで、今日のために作ったのです。お口に合えばよいのですが」

嬉しくてたまらないといった顔で、泉の足に更紗が抱きつく。そこで彼女は、階段を登った端の壁に隠れるように立ちつくしているフィルレインを目に留め、意外そうに彼女を指差した。

「異なこと……にに様、二体もアンドロイドを購入なさったので?」

「ん? 買ったのは一個だぞ?」

そこで泉は、途中でフィルレインを置いてきた事に気づいたらしかった。慌てて上を見上げ、彼女が所在投げにおろおろしているのを目に留める。

「何してんだ? 早く降りて来い」

「え……う…………うん…………」

見知らぬ人間が三人も眼下にいる。それだけでフィルレインの心臓は、飛び出しそうに激しい鼓動を刻んでいた。
恐慌ではない。これは確かな恐怖だ。
泉と面と向かって会話をすることが出来るようになったのも、つい先日のことなのだ。いきなりこんな大人数とコミュニケーションをとれという方が無理だ。
それに……。

(あれが……Hi8……)

大魔法使い。
エリクシアの百個大隊でも、その一人にさえ太刀打ちできないという最強の生命体。
――普通の、人間だ。
しかし、フィルレインの目にはそう見えた。
少なくとも、彼女達が泉と同じに見えた。
そう、それは彼女にとってとても恐ろしいことだった。
しかし呼ばれて視線が集まったまま逃げるわけにもいかず、おどおどしながら階段を下りる。そして泉の背後に隠れるようにして小さくなった。

「お兄様、この子は? 見たところ金髪のようですが」

途端、硲の声音が代わったように思えた。先ほどまでの優しい感じが一気に凝縮し、緊張感を孕んだ言葉になる。愛寡と更紗も同様だった。怪訝そうにフィルレインを見る目に、明らかな警戒の色が混じっている。
しかし泉は、そんな空気を一笑で吹き飛ばすと、傍らのフィルレインの肩を抱いて自分の方に引き寄せた。

「紹介する。俺の新しい従者だ。フィルレインという。ちょっとしたミスで契約しちまってなぁ。まぁこれが初見になるが、仲良くしてやってくれ」
178 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:43:00.65 ID:42FVc1Cm0
 *
 
 地上に近づくにつれて段々と気温が上がってくる。最も、バイクと化したガゼルは周囲にピノマシンによるフィールドを形成しつつ行動していたため、温度は成るべく一定になるようにしていた。燐から目的の場所を聞き、ジェンダのドームマップをスキャンしてあらかたの場所を確認する。そして、ガゼルは西区の待ち合わせ場所から二キロほど離れた地点。そのビル街の影にあるマンホールを前部で押し上げ、燐と共にドームの内部に出た。熱源スキャンなどで人間の反応は周囲にないことを確認している。監視カメラなどの存在も危ぶまれたが、そんなことを気にしていてはいつまで経っても地上に出ることが出来ない。だから思い切って路地裏に着地したが、幸いなことに周囲にそのような気配は見受けられなかった。ドームの中でもオフィス街らしい。東区などとは違い、商業に使われていると思わしきビルが雑居している。アンドロイドに処理をさせているか、もしくは機械に処理をさせているか。主に、今の時代の電脳関係には、人間が関わることは極端に少ない。機械やAIの方が、圧倒的に処理速度が速いためだ。
つまり、この区画には人間が少ないようだ。動いている反応がアンドロイド、及び数々のロボットばかりなのを確認しつつ、とりあえずガゼルは燐に言ってバイクを走らせ、少しばかり離れた場所のビル脇に停車した。
グレイハウンドは、隠密性は高いものの、それ単体での走行速度、そして耐久度はさほどでもないらしい。簡単に振り切ることが出来た。動いてしまえばこちらのものだ。逆襲して破壊する手もいくつかあったが、燐の体力が厳しいことを考えると、逃げた方が無難だと判断したのだ。
ひょっとしたら、ドームの内部全体にあのバトルスパイダーが放たれているかもしれない。それを警戒して赤外暗視で周囲を探るも、グレイハウンドの反応は認められなかった。それほどまでの大量生産には至っていなかったようだ。

――里、という燐お付きのメイドロボがここを落ち合い場所に指定したのは、一応理が敵っていた。落ち合い……というよりは、身を隠す場所としてだ。

理由としては単純だ。人間が少ない。
そしてアンドロイド達は、信仰を持たない。
狂神教に出くわす率が非常に低いわけだ。もちろん西区だけがそのような状況だとは思えないが、少なくともこの区画に限っては、道を歩いているアンドロイドや箱型のロボットなどを見る限りでは、虹とガゼルによる狂神教との戦闘騒ぎの影響はさほどなさそうだった。

――問題はだ。

燐のような小さな女の子がここをうろついていると。それが逆に不自然になりかねないと言う事実に気づき、しばし考え込む。人間だけのところにロボットがいても不思議ではないが、ロボットだけのところに人間がいると、やはり目立つ。

「燐」

呼びかけると、少女は額に脂汗を浮かべながら顔を上げた。

「は……はい?」

「ん? どうした?」

元気がない。聞き返すと、彼女は笑って腰を浮かせようとして、しかしまた前かがみにうずくまってしまった。

「足が痛くて……」

それを聞いて合点がいく。冷蔵庫並の温度である地下水道に長時間いたのだ。末端神経が損傷を受けているのだろう。つまり、凍傷だ。普通に喋れているところを見ると、呼吸器系統に障害はないらしい。
179 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:43:52.85 ID:42FVc1Cm0
ガゼルは、正直なところ早々に虹を救出に向かいたい気持ちでいっぱいだった。
その最重要項目と比べれば、こんな女の子などあっさりと放り出してしまってもいいくらいだ。
でも、やればいいのにそれは出来なかった。
無論、燐を放り出せば自分を動かす人間がいなくなってしまう。それは死活問題だ。虹がいるところさえ分からない。最悪だ。
しかし、それ以上に……。
うずくまって、心細さに耐えているであろうこの少女と、自分の持ち主の姿が重なったのだった。

「見せてみろよ」

ガゼルがそう言うと、燐はコクリと頷いてブーツを脱いだ。そして歩いている時に破れたのか、ほつれて穴が開いた靴下も脱ぐ。
足の指が膨れ上がって、真っ赤に染まっていた。紫色になっているところもある。

(人間の場合はどうすればいいんだろう)

そう考えて、一瞬口をつぐむ。
虹の場合は簡単だ。彼女達ピノロイドは、基本的に内部構造は人間と同じなのだが、その細胞がピノマシンで構成されている。だから、一部分が欠損すればその材料、つまりピノで再構成することで補填できるわけだ。
しかし人間は違う。ピノマシンは原則的に機械であり、それから作られたものは細胞ではない。だから機械の構成を侵食して取り込んだり、修復して使用したりすることは出来るのだが、他生命体の体を修復することは出来ないのだ。
地下水道の中でも、燐の手の平に簡易的な人工皮膚のカサブタを作って隙間なく貼り付けたに過ぎない。神経網も作っておいたので、痛みなどはないはずだ。
外傷はそれで何とかなる。治るのを待てばいいからだ。
しかし凍傷などの体内部の傷はどうすべきか……としばし考察した後、結局ガゼルは、燐の体内にピノマシンを送り込むことに決めた。血管からマイクロレベルより小さいピノ粒子を傷口まで届かせ、そして外傷と同じく、細胞に起こった壊疽を押しのけて簡易的な修復細胞を形成するのだ。
やったことはなかったが、その処置はものの数秒で済んだ。注射器型のデバイスを生成し、燐にピノ粒子を踝の血管から注入させる。あとはそれを遠隔で操作するだけだ。
十分ほどそのまま放置し、少女はまた目を丸くして腫れが引いた足を見つめた。

「うわぁ……」

「やはり応急処置に過ぎないから、激しい運動をすれば修復部が乖離するぞ」

「魔法ですか?」

「だからそれと一緒にするなよ。原理的には似たようなものだけどさ……」

「ガゼルバデさんは魔法使いなのですか?」

大きな目で見つめられ、ガゼルは呆れたため息をスピーカーから発した。

「話を聞いていないのか? そして何で俺の名前をそこで切るんだ?」

やはり気になる。
しかし、問いかけられた燐にとって、そのどちらの事実も大して重要なことではないのか、靴下とブーツを履きながら……不意にハッと顔を上げて、慌ててガゼルのハンドルを握った。

「は、早く発進してください!」
180 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:44:38.33 ID:42FVc1Cm0
「どうしたいきなり?」

「里とのお約束をすっかり忘れていました。早く合流いたしませんと!」

「それは……」

おそらく、そのメイドロボはここには来れない。と言おうとしてガゼルは口をつぐんだ。
一刻も早く虹を助けに行きたい。
しかし、それにはこの少女の協力が必要だ。

――燐は、年の割にはしっかりしている。

しっかりしすぎている、と言った方がいいかもしれない。そのままズルズルと別のことに気をとられるよりは、しっかりと現実を見せてやり、切り替えてもらった方が後々のためになるのかもしれない。
そう考え、ガゼルはまた考え込んだ。
このエアバイクは大型過ぎる。それに、燐が自分に乗って街中を進んでいれば、やはり目立つ。免許を取れるような年齢ではないし、道路監視システムに引っかかる可能性がかなり高い。

(どうするかな……)

その旨を正直に燐に告げると、彼女は少しだけ考え込んだ後、指先を空中でくるくると回した。

「お聞きするところによりますと、ガゼルバデさんは、機械ならばそれを食べて、自分の体にすることができるのですね?」

「ああ。最も俺の判断でそれは行いえないというのと、トレーラーだったり、航空機だったりとかのあまりにも巨大なものは無理だ。それに、侵食に対してプロテクトがあるシステムなども、解析に時間がかかりすぎるために避けたい」

「ならば、ロボットになればいいのですわ」

こともなげに燐が言い放った言葉を聞いて、ガゼルは一瞬意味分からずきょとんとした間を返した。

「は?」

「ですから、作業用のワークドスーツになればよいのです。その中ににぃが入って、そして現場に急行ですの」

――ワークドスーツ。

周囲を見回すと、程なく燐の言っている意味が分かった。近くで、建築用のアンドロイド達が道路の工事を行っている。配管を直しているらしい。一体が離れて、この路地裏を背にして道路の交通管理を行っているのが確認できた。
内部に人間の反応はない。
つまり、無人だ。
身長二メートル弱の中型ワームドスーツは、内部に人間が入れるように出来ている。しかし、AIでそれを代用することも出来るため、滅多に人が操縦しているのを見たことはない。
確かに、今の状況を鑑みるにかなり適切な判断だ。比較的安価ということもあり、また、防災用の自家用アンドロイドとして調整もなされているために、それが道を歩いていてもあまり不思議ではない。メイドロボなどという人工筋肉の副産物を搭載した高価なモノを購入できない一般家庭では、割と使用されている家事ロボットだっている。
181 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:45:17.28 ID:42FVc1Cm0
――しかし。

そんなことを言われたのは初めてのことだったので、一瞬返答が出来なかったのだ。
体が欲しい。それはガゼルの生まれた時からの願いだった。
体があれば、自分に、思い通りに動く虹と同じボディがあれば。
そうすればこんな危険なんて――。

「いいのか?」

思わずノイズ混じりの声で聞き返すと、燐は軽く首をかしげてから言った。

「にぃも入れますし、グッドアイデアかと思いますわ」

「……」

【あなたに体は、絶対にあげないわ】

随分前に、一度だけ虹に自分をアンドロイド化してくれと頼んだ覚えがある。
その時に返された答えはそれだった。面倒くさそうに、詰まらなそうに返された。
しかしあまりにも断定的だったので怪訝に思い、何度も聞いてみたが、虹はその意味を教えてはくれなかった。

(非常事態だよな……)

それに、今は自分の操縦者は燐だ。彼女が許可をするなら、いいじゃないか。
そんな考えが雁首をもたげた時には遅かった。もう認証は降りている。ガゼルはバイクをゆっくりと発進させると、前部をアメーバが獲物を捕らえるように、ふわりと風船を連想させる動きで広げた後、そのワークドスーツを内部に取り込んだ。
182 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:45:55.20 ID:42FVc1Cm0


燐の体は、思った以上に小さかった。ひょっとしたら虹よりも軽いかもしれない。痩せているのだ。骨ばかりの体は、ちょっと力を逆方向に加えるだけでお菓子のように砕けてしまいそうな印象を受ける。自分の中に収まるにはあまりにも小さすぎるので、ピノマシンを補助的に働かせて駆動系を緩めると共に、彼女の体をベルトやアームで幾重にも固定した。
ワークドスーツの中は、潜水艦の操縦席のようになっていた。ランプが大量に設置されていて、ヒーターで温かいと同時に明るい。
基本的にこのようなアンドロイドスーツは、中に人間が入っていればその動きに連動し、優先的に動く。コンピュータはその補助をなすだけだ。
しかし今回の場合は別件のため、燐の口頭操作に準じて、ガゼルの判断である程度行動が出来るようにAI制御を書き換えておく。
駆動系から元々のワークドスーツを動かしていた基盤を外に排出し、指を動かしガゼルは、それをビルの脇にある隙間へと突っ込んだ。他のワークドスーツが、この元々のAI反応がなくなれば怪しむかもしれないからだった。最も、排出した基盤を調べてみたところ、工事の基本プログラムしか確認できなかった。つまり、人格も何もない本当のロボットだ。
そのままの工事用の外見では、やはり違和感があるので、外装にピノマシンを働かせて家庭用だと思われるカラーリングとフォルムに直しておく。左腕が削岩用のパイル機――太い釘を高速で打ち出す機械――になっていたが、それも腕の内部に収納し、代わりに五本指を形成する。

(これが、俺の体……)

両手を広げて、頭部のカメラアイに近づけてみる。何度も握ったり開いたりしているうちに、段々と胸の奥に面白さがこみ上げてくるのが分かった。後ずさってみて、足で地面を踏み閉める。いつもより遥かに視点が高い。それも、自分が思った通りに動く。

(人間って、いつもこんないい思いしてるのかよ)

そう思った途端、脳裏に燐の声が響いた。

「何をなさっているの? 早く向かいますわよ!」

「あ……ああ、悪い」

素直に謝り、彼は待ちきれないのか体を動かし始めた燐に、その制御を半分ほど譲った。周りの光景が高い位置から流れていく。
やはり道路を堂々と歩くのは気が引けたため、彼女に言って成るべく目立たないルートを割り出して、それをなぞっていく。
燐は何度も来たことがあるらしく、慣れた動作で道を越えていき――そして三十分も経たないうちに目的の公園に到着した。
そこだけ、妙に緑が多い。空調も温かめに設置されている。公園と言っても、人間用に作られた休憩所といったほうがいい。円形に囲いが成され、いくつかの入り口越しから、内部の植物園のような光景がカメラに映る。人工芝生と木がいくつも植えられている。
ドームには、点在してこのような場所が区画ごとにあるところが多かった。ここは機械ばかりがいる区画だが、やはり人間が訪れた時に備えて準備がなされているらしい。
案の定、内部を探ってはみたが何の反応もなかった。

「さ、入りますわよ」

燐がそう言い答えも待たずに足を動かす。それに連動する形で内部に入り込み、ガゼルはもう一度センサーで周囲を探ってみた。
公園の広さは、大体五十メートル四方。中央に噴水があるが、水は出ていない。遊具などと言う無駄なものも設置はなされていなかった。レストルームと芝生、そして木だけだ。その木も、環境のせいか葉はつけているものの、間近で見るとしなびているものが多い。足下の芝生も、本物ではない。合成の生体ビニールだ。
183 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:46:37.40 ID:42FVc1Cm0
ガゼルが静止する間もなく、燐は内部の装置を操作してワークドスーツの頭部を後部に展開させ、自分の顔を外に出した。しかしそのままだと外に出ることが出来ずに、周りを見回しながら叫ぶように声を発する。

「さと! お返事なさい!」

誰もいないのが幸いだったが、それは燐にとっては残酷な事実でしかなかった。広い公園内に、少女の声が虚しく反響して消える。

「里、どこなの? 早くお返事してくださいまし!」

「……」

必死に叫ぶ燐は、数分間も騒いだ後、荒く息をついて静かになった。その目には大粒の涙が盛り上がっていた。

「里がどこにもいません…………」

ポツリと呟かれた言葉を聞きながら、ガゼルは少し沈黙した後言葉を選んでそれに返した。

「この近くにいるのかもしれない。探してみよう」

「え? 近くに……」

「どうも、このワークドスーツの性能が低くてセンサーの調子が悪いんだ。半径百メートルを越える範囲が上手く索敵できない。少し、公園を出て歩き回ってみてくれ」

そう告げて、頭部を元に戻す。燐は目を擦ろうとしたが、それが無理なことに気づき、軽く頭を振って公園に背を向けた。
彼女を安心させようと思って嘘をついたのではなかった。本当のことだ。
それに、主をここまで誘導するほどの気遣いが出来るAIが、こんなに目立つ場所に隠れるものか、そんな疑問が沸いたのだ。

――無論、無事であればの話だが

体が五体満足ならいい。しかし、どこか損傷してしまっていたとしたら。壊れたロボットが一体で転がっていたら、交通整理のアンドロイドに発見されて、通報される可能性もある。
184 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:47:17.15 ID:42FVc1Cm0
――彼女は、里と言うメイドロボと交信する携帯端末を落としてしまったと言っていた。

その事実を伝えられないという可能性だって十分にある。

(だとしたら……)

もしもここに稼動状態のままたどり着いたらば。自分ならどうする?
決まっている。主がここに来て、自分を見つけられる場所。そして自分は、誰かに発見されない場所。そういう都合のいいと思われるような場所に隠れているのではないか。
闇雲に歩き回っている燐にそれを告げずに、ガゼルは周囲のマップデータをもう一度脳内でスキャンした。
通常、交通整理、及び監視のロボットは道路の標識上に設置されている、右天との戦いで使用されたビデオカメラもその一種だ。ここは比較的新しい機材が使われているらしい区画のようで、中央部とは違って動作しているものが見受けられた。
あれらの策適範囲は、およそ二十メートル四方。球体の範囲を捉えることが出来る。それに見つからないように、かつ公園から判別できる場所……。
おそらく、移動手段は燐と同じように下水道だろう。アンドロイドならば凍死の心配はない。寒さで駆動系が凍り付いてしまう心配は十二分にあるが……。
そこでガゼルは、公園脇のビル。その側面に下水パイプが張り付いているのを発見した。それは、近くのマンホール脇から伸びている。機材は新しいが、人間があまり使用しないために劣化してそのままになっているようだ。所々腐食して穴が開いていた。
その一部分から、チラリと指……のようなものがのぞいているのが見えた。
パイプの直径は目算でおよそ三十センチ前後。アンドロイドなら頭部までなら入る。機械が動作している反応はない。丁度そこで折れ曲がり、ビルの中に消えていた。

「燐」

ガゼルは、そっと目を血走らせている少女に告げた。

「見つけた」
185 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:50:12.78 ID:42FVc1Cm0
14 里

 里と思われるアンドロイドが見受けられたビル。そこに入り込むのは比較的容易なことだった。正面から入れば、さすがに警備システムに記録されてしまう。しかし、幸いなことに目の前のビルは情報処理系統のものらしかった。もしも空き巣などが盗みに入ったとして、たいしたものは置いていない。そのような予想を立てて裏口に回ると、案の定非常口付近に監視システムは見受けられなかった。ワークドスーツの指で、原子的な錠前を引きちぎり中に進入する。外部から内部を探るまでもなく、ビル内には巨大なサーバーがいくつも置かれていて、そこを人間型でもないロボットが管理している。段ボール箱のようなそれらは、虫を連想させる足を動かして動き回っていた。それらの視界範囲に入らないように、先ほどのパイプが通っていると思われる部屋に燐を誘導する。
探ったところ、このビル内に人間はいない。それ故に、キッチンだと思われる場所は荒れ果て、錆付いた悲惨な状況になっていた。水道も長いこと使われていないのか、水を排出する機構自体が壊れている。
一応扉を閉め、ガゼルは視界で周囲を探った。埃と蜘蛛の巣だらけの中に、丁度水を温める役目の温水器が映る。その脇に、いくつもの細いパイプが連結して、太いパイプに繋がっているのが映る。暗視モードで観測すると、その太いところの先端に、人間大のモノが詰まっているのが確認できた。

「あそこだ。君のメイドロボかどうかは分からないけど、アンドロイドだと思われる影が見える」

「里!」

燐に告げると、彼女は慌ててガゼルの中から外に飛び出そうとした。しかし外装をロックして彼女を中に押し込める。

「何をするんですの!」

「俺達は追われてる身だぞ。君は俺がいいと言うまでこの中にいるんだ。顔を出すこともしない方がいい。今から外壁を少しだけ壊すから、君は動かないで欲しい。いいね?」

「え……ええ……」

端的に用件だけを伝え、ガゼルは右腕の内部に格納した、パイル機の太釘先端をせり上げた。そしてモーターで微振動を加える。
震える削岩機を器用に動かしてパイプの外側を四角形に切り取っていく。
五分も経たずに、錆だらけの細い水道管に、茶色の髪をボロボロに汚した、マネキンのようなものが姿を現した。
右肩が欠損している。その部分からはコードが垂れ、パチパチと静電気のような火花を鳴らしていた。おそらく、片肩がないためにこんなに狭いパイプに潜り込むことが出来たのだ。足も右側が折り切れてなくなっていた。まるで意識的に取り去ったかのようだ。

「さ……里……」

中で燐が驚愕の声をあげるのを聴く。どうやらビンゴだったらしい。
ガゼルが、糸が切れたマリオネットのようなそれをパイプから引きずり出したのと、燐が狂ったような絶叫を上げたのは同時だった。

「嫌……嫌! 里!」

内部で暴れられ、視界が定まらない。どちゃりと、手が外れて壊れたアンドロイドを床に落としてしまう。それをみて更に燐は恐慌を起こしたらしく、半狂乱になって叫び声を続けた。

「出してくださいまし! 出して!」

「落ち着け!」

ガゼルのいつになく強い声での恫喝にハッとして少女が息を呑む。彼女の顔が涙でグショグショになっているのを内部カメラで確認してから、ガゼルは小さくため息をついて言った。
186 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:51:04.01 ID:42FVc1Cm0
「……このタイプのアンドロイドは、頭部の中枢が壊れない限り俺みたいに修復できる。多分、これはエネルギー切れで停止してるだけだ。つっかえて動けなくなったところで止まっちまったんだ」

「じゃあ……じゃあ、里は死んでしまっていないのですか!」

「原則に言うと俺も、このタイプのアンドロイドも中枢プログラムをオールエジェクトしない限り消滅しない。人格プログラムが壊れれば別だけど……」

「生きてるのですね?」

「まぁ、そういうことでいいよ。これなら、直してエネルギーを注入すれば元通りになるよ」

そう言って屈み、足下のメイドロボをごろりと転がす。うつ伏せになったそれの首筋には、充電に使用すると思われるプラグ挿入口があった。
電気動力のマリオネットかよ……。
いつの時代のロボットだ、と心の中で突っ込む。こんな骨董品のようなメイドロボが現行稼動しているなんて信じられない。今、自分の体を勤めているこのワークドロイドにだって内部のエネルギー融合の装置がついているのだ。電気動力だとしても、その備蓄システムくらいあるのが普通だ。しかしザッと見た所、このメイドロボにはそれがない。つまり、一度充電をしてしまえば……このタイプだったら最大でも四十八時間程で行動不能になるはずだ。
その割に、顔や体には人工皮膚が使われているなど、かなりの高級志向だった。どこかのアイドルをモチーフにしているのか、汚れてしまっているとはいえ、造形美だった。ゆったりとしている服を着ていたのか、破れてボロ布のようになったそれがまとわりついた体がむき出しになっている。体については、セクサロイド機能は搭載されていないのか関節が剥き出しだ。
見開かれたとび色の瞳が、何だか同じアンドロイドからして気分のいいものではない。

(まぁこれくらいいいか……)

そう考え、ガゼルは燐に向けて言葉を発した。

「直すよ。いいね?」

「は、早くしてくださいまし!」

「分かったよ」

別段自分には、このアンドロイドをどうにかすることによるメリットはない。しかし燐には戦闘現場から助けてもらった恩がある。
増幅させたピノマシンを下部から噴出し、メイドロボにまとわりつかせる。複雑な内部構造や、欠損した部分の造詣などは知らないために元通りに直すことは出来ない。大体が頭の中にある常識的なマニュアルにそって構成する。
途中で、メイドロボの足にいくつもの弾痕があるのを発見する。めり込んだ銃弾を分析するに、それはグレイハウンドのものだった。

(まさか銃弾に発信機はないよな……)

懸念してスキャンするが、そこまでの技術と用意は相手方にないようだった。
二分ほどでメイドロボの完全修復は完了した。燐が、ゴシック調の家政婦服を着て床に投げ出されている里を見て、歓声を上げる。
187 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:51:56.04 ID:42FVc1Cm0
「すごい! 魔法です!」

「だから違う。人間を治すよりよっぽど楽だよ」

「動かないです……」

「当たり前だ。充電させればいい」

「じゅうでん?」

「させるけど、いいね?」

説明するのが面倒になってきて、沈黙を返す。そしてガゼルは、キッチンの中でさび付いたコンセントを見つけた。そのカバーを外し、ワークドスーツの表面装甲が耐電加工されているのを確認し、機械の指を突っ込んで、傷つけないようにコードを引きずり出した。

(こんな原子的な手段でしか動力を得られないなんて、信じられないな……)

そう思いながら、彼はコードのビニールを一部外し、片手の指を器用に使ってメイドロボのうなじにある充電部のカバーを開けた。
……信じられない。コンセントからの直接動力で充電する方式だ。

(旧時代だなぁ……)

心の中で呆れながら、半ば適当な処置でメイドロボの充電カバーも外し、ガゼルは無造作にコンセントからの直接電力を押し込んだ。
変圧器が内蔵されているのは修復過程で知っていたが、それを通して電力を送り込んでいては、このビルのロボットに発見されてしまう恐れがある。同じ危険を冒すなら、成るべく早くした方がいい。そう考えての行動だった。
変圧器の制御を自分から流しているピノマシンを介して行い、一気に電力を流し込む。バチン、と強烈な火花が散り、次の瞬間ブレーカーが落ちた。天井に点灯していた灯りが消え、数秒後また何事もなかったように点く。このような情報処理のビルには、電力が遮断されても別のラインで引いてくるか、もしくは自社でエネルギーを調達して行うラインが確立されている。それ以前に、電力なんて使わないものが多い。
両極端なのだ。暖房に暖炉を使う人間がいる反面、合成融合によるエネルギー摂取を行う機械もある。
だが、流石にブレーカーを落としては気づかれるかもしれない。充電系統が焼ききれたのか、黒い煙をもくもくと上げている里をみて、燐が金切り声を上げた。

「何をするんですの!」

「静かにしてろよ。五月蝿いな全く」

虹とは違った厄介さがこの少女にはある。ガゼルは淡白に押し黙らせると、更にピノマシンを吐き出して、壊れた電圧系統を元に戻した。
カバーを嵌めると、それが起動スイッチに直結していたらしく、里は軽く揺れた後、とび色の瞳をくるくると回した。そして僅かなモーター音をさせながらキュィィィ……と脳奥の動作回路を働かせる。
……どうやら、脳系統も旧時代の遺物らしい。

「起動パーンテンション、オールクリア。GT3300HY起動」

システム音声が流れ、モーター音と共にメイドロボはこちらを向いた。その瞳孔が収縮して戻ってを数回繰り返す。
188 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:52:46.26 ID:42FVc1Cm0
「里!」

その瞬間、ガゼルの監視が緩んだ隙に燐がハッチ開閉のボタンを押してしまった。規制するより早く頭部が開き、少女が目を輝かせながら眼下のメイドロボに声を上げる。

「…………」

しかし里には、暫くの間反応がなかった。ガリガリとハードディスクに物理的に情報を書き込んでいるような音がする。
まさかそんなことはないだろう……とも思ったが、どうやらそれは当たりで間違いがないようだった。記憶素子を使用しているのではなく、動作にハードディスクを使用している。

(何で動いてるんだ……?)

本気で分からなくなり、唖然と彼女を見つめる。その視線を受けて気づいているのかいないのか、ぼんやりとした目線がモーター音と共に、不意にはっきりと照準を合わせた。
彼女はロボット丸出しの動作で起き上がると、頭上から自分を見下ろしている燐を見て、人工筋肉の表情を嬉しそうに緩めて見せた。

「お嬢様。もうお会いできないかと思っておりました」

「里……良かった……良かったよ……」

次の瞬間、燐の張り詰めていた気持ちが決壊したらしかった。声が尻すぼみで聴こえなくなり、彼女の瞳からボロボロと涙が溢れ出す。両腕を操縦席に固定していたままだったので、ガゼルはその拘束具を外してやった。顔を覆って泣きじゃくり出した燐を見て、里はやけに大きい動作音を上げながら困ったように周囲に視線を回した。そして歩いて近寄り、ガゼルがピノマシンで構成した服の裾を延ばし、彼女の顔をそっと吹く。

「里はここにおりまする。お嬢様こそ、ご無事で……」

「さと……」

危険なので前傾すると、泣きじゃくりながら燐は里の体にしがみついた。
それをポンポンとあやしながら、メイドロボはガゼルのカメラアイの方を機械動作で向いた。

「どこのどなたかご存知ありませぬが、お嬢様をここまで保護してくださって、感謝の極みです」

「それに加えて、あんたのボディも修復しておいた。これでチャラにしてくれ」

「ちゃら? そのような語録は私の変換辞書の中にありませぬ。語意の上書きをさせてください」

「貸し借りなしって意味だ」

端的にそう言い、ガゼルは立ち上がると無理矢理に燐と里を引き離した。そしてハッチを閉め、少女の体をシートに固定する。
189 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:53:36.43 ID:42FVc1Cm0
「何をなさるのです!」

「感動の再会は後にしてくれ。第一、俺の主はまだ捕まったままなんだ。それに、ブレーカーを落としたことでこのビルの警備ロボが動いたらしい。上の階にそれらしき反応がある。通報がある前にここを抜け出した方がいいと思う」

里にも聞こえるようにオープン音声で言う。
しかし、カメラアイを向けた先のメイドロボはぼんやりと虚空を見上げて、召使らしく静かに立っているだけだった。その脳部からガリガリという音がする。数秒経ち、里はモーター音と共にガゼルの方を向いた。

「貸し借りなし、辞書語録に登録いたしました。状況確認できました。及び、今より二十五秒前このビルよりエリア管理システムに異常が報告されました。確認。以上の事実により、あなたの発言が八十五パーセントの確立で信用に足ると判断」

「…………」

「離脱への同伴、宜しいでしょうか?」

ガゼルは唖然として目の前のアンドロイドを見つめた。

――鈍い。

メモリが足りないとか、そういう問題ではない。これは……そう、一昔前の機械だ。人格モジュールは高性能なものを積んでいるようだが、それを動かす機構が酷すぎる。
多分、ものを聞いてからAIが行動を判断し、そして行動を起こすまでのラインプロセスが鈍いのだ。んないかがその阻害要因になっているらしい。例えるなら、雷だ。光が見えてから音が聞こえる。
単純に考えて、ひょっとしたらAIの思考機能に体がついて言っていないのかもしれない。
しかし、そんなことに突っ込んでいられる状況でもないことを頭の中で再確認し、ガゼルはスピーカーから声を発した。

「あんた、兼情報素子から通信ネットを拾うことが出来るのか?」

「兼情報素子? 未確認の語句です。語意の上書きをさせてください」

「電波通信の相互連絡網のことだ」

またガリガリという音がして、里は頷いて見せた。

「電波通信の相互連絡網、はい、私は半径二千メートル以内の情報電波を精度八万ミリテンでキャッチすることが可能です」

「マジかよ。何でそこだけ俺より遥かに高性能なんだ?」
190 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:54:14.33 ID:42FVc1Cm0
思わず言葉を漏らした時、ガゼルは警備ロボが一階まで降りてきた反応を確認し、無理矢理に里を抱き上げた。修復している時の予想以上に重かった。九十キロくらいあるかもしれない。そういえば、このアンドロイドが詰まっていたパイプの一部がベッコリと陥没していた。暴れたせいかと思っていたのだが、どうやら重さだったらしい。

「貴方のスペックを把握していないため、回答が困難です。スペックを入力ください」

「それはまた後で」

それだけ返して、ガゼルはワークドスーツの脚部足裏にあったキャタピラを動作させて、滑るようにそこから離れた。そして裏口から飛び出し、空気圧噴射により路地裏にふわりと着地する。
周囲にレーダーを回すと、少し離れたところから警備システムの作動によるパトカー等の接近が感知できた。

「燐、とりあえず隠れたい。この周りで身を隠せる場所はないのか?」

地下道は危ない。先ほどまでグレイハウンドに追われていたのだ。あんな閉所で万が一取り囲まれるような展開になるのは御免だった。それに今は、予想以上に頼りない……もう一人を連れている。
燐はそれを聞いて少し考え込んだ後、ガゼルのカメラアイを含んだ頭部を横に向けた。

「あそこにしましょう」

そこは、電波塔だった。このエリアの情報処理施設の多さを考えると、ジェンダドーム全体の情報を発信する塔らしい。とは言っても、発信源の施設があるわけではない。ただ細長い塔がいくつかの支柱とワイヤーに支えられながら、ドーム天井まで伸びているだけだ。別のエリアから発信された情報を集め、そして再分化して流す中継的な役割を果たすものらしい。

「知ってるのか?」

「子供の頃、何回も来たことがあります。向かってくださいまし」

燐としても、もう地下道に入るのは御免被りたいのだろう。ガゼルはワークドスーツを軋ませながら、そちらに足を向けた。
191 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:55:22.53 ID:42FVc1Cm0
15 お姉ちゃん

 電波塔は、燐の説明通りに完全に無人だった。監視システムも置いていない。本当に電波を中継するだけの役割のために作られた施設だった。
施設といっても、塔の上に登ることの出来る階段と、そして狭い地下室が一つあるだけだった。地下室には一応の計器類が乱雑に置かれていたが、それらが最近使われた形跡はない。
燐の話だと、そこは少し前まで……つまり、更紗がドーム内に入り込み、狂神教が台頭するまでは観光地として使われていたらしい。もっとも、広いとはいっても閉塞地のドーム内だ。観光というよりは、主に男女のペアが休日に利用する場所として相場が決まっていたらしかった。
魔法使いがドーム内に入り込んだことにより、ここに限らずドーム全体では、人々はあまり外出をしなくなっていた。それは分からなくもない。不定期に現れ、不定の人間を、抗えない方法で殺していく。そんな……いわゆる殺人鬼がいる空間で、誰が外に出たいなんて思うだろうか。
地下室は小さい頃、燐が良く遊び場で使っていたということだった。彼女の指示通りに中に入り、内部から鍵をかけ、燐を解放すると――彼女はふらふらと里の方に倒れこんで、意識を失ってしまった。
張り詰め続けていた緊張が、自分のメイドに抱きついた途端に砕けてしまったらしい。無理に起こすことはせずに、周囲にピノマシンを滞留させて空間温度を上げてやる。
里は服を広げて、燐を抱きかかえるとその場に腰を下ろした。
……しかし物凄いモーター音だ。
駆動系がいちいち回転しているのか、ウィィィィ……という音が五月蝿くてかなわない。排気を耳元から行っているのか、首脇に取り付けられているヘッドフォンのような円形の場所から、生暖かい空気が出ている。
里は燐が寝ているだけであることを確認すると、首を回してガゼルの方を向いた。
ガゼルは操縦者が気を失ってしまったため、降着状態のまま停止していた。レーダーだけは働くので周囲を探るが、ここまで探査はいき届いていないらしい。
この部屋に、現在電気は来ていない様だ。手を伸ばして傍らのスイッチを何度か里が動かすが、灯りがつく気配はない。
ガゼルはそれを見て、天井付近に滞留させたピノマシンを微振動させ、ホタルのような光を作り出した。制御が面倒なのであまりやりたくはなかったのだが、里とちゃんと話をしたかったのだ。
こうしている間にも、虹には危害が及んでいる。
早く助けに行きたい。そのためには燐の協力がなければ。
その事実を説明しようと言葉を選んでいると、里は少し考え込んだ後、整った顔を微笑ませてガゼルに言った。

「先ほどのご解答をいただけませんか?」

「解答?」

聞き返して、彼女に自分のスペックデータを要求されていたことを思い出す。別段減るものではないので構わないのだが……何だか見当違いのことを言われて、彼は心の中で気が抜けたように息をついた。
成る程、こんなアンドロイドに育てられていればしっかりもするし、同時にどこか世間ズレもするだろう。

「通信素子はある?」

「あります」

頷いて里が燐を抱いたまま首を横に振る。すると、右肩の鎖骨周辺がパクリと開き、白いコードが一本外に飛び出した。

(原始的だ……)

コードの型番が驚愕に値するほど古い。
192 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:56:34.45 ID:42FVc1Cm0
それは口に出さずに自分も通信ケーブルを形成し、外に出す。そして蛇のように伸ばすと、彼女のそれと接続した。

――考えてみれば、それはガゼルにとって初めての同族との接触だった。情報交換という当たり前の行為を、今までしたことがなかったことに気がつき、心の中で驚愕する。

詳しいデータまで送るつもりはなく、かつ彼女を自分に侵入させてそのまま何もしないでおくつもりもなかった。

――確か、燐は昔に更紗と暮らしていたことがあると言った。

それならば、このメイドロボもその記録を持っているはずだ。
自分のライフデータを送り込みながら、彼女の中枢に電磁的に侵入して、そのデータを探る。二秒ほどで検索結果にたどりつき、ガゼルは里が気づく前にそれを自分の中のデータバンクに記録した。

『ガゼルバデッツアー様、と申しますのね』

その時、いきなり脳裏に通信が送られてきて、ガゼルはそのファイルを開こうとしていた動作を一時的に中断した。
通信上の里の声は、現実のそれよりもはっきりしている。つまり、やはり体が含有しているAIの活動に言語中枢が追いついていないのだ。
いうなれば脳だけが天才で、体が赤ん坊の状態に近い。
意識だけの状態ならば、同等以上の会話が可能らしい。
――本当に色々アンバランスなロボットだ。
半ば呆れながらそれに返す。

『ここに至るまでの顛末は確認したか? 君の頭の中に上書きをしておいた』

『確認終了。貴方を九十八パーセントの確立で、お嬢様、および私の恩人であると認識しました。お礼を述べさせてください』

『残りの二パーセントは何なんだ……』

まぁ、それは計算機構の猶予エリアなんだろうと思ったが、聞かれた里は驚いたように沈黙した後、戸惑っているのかノイズ混じりの応答を返してきた。

『再計算いたします』

『いいよ別に。しかし不思議な機体だな、君は。色々バージョンが低すぎて困るんじゃないのか?』

『再計算、停止いたします。動作に不備はありません。私の現行稼動機構をご説明いたしますか? 確かに、あなたのような同型機と接触したのは大分前のことですが、そこまで劣化をしているとは認識していませんでした』

(怒ったのかな……)

どうもよく分からない。

『いや、いいよ』

簡単に答え、ガゼルは彼女の記憶領域のプロテクトに穴を開け、勝手に記憶中枢に入り込んだ。こちらに情報を送っていてはくれたが、彼女の行動に関してはなかった。程なくしてその記録を見つけ出し、まずはそれを確認させてもらう。

『ガゼルバデ様』

そこで彼女から通信が入り、また確認を阻害される。実際のファイル閲覧は二秒もあれば十分なのだが……。

(こいつも俺の名前をそこでそこで切るのか)

『私の性能で、貴方を上回っている点は三点あります。貴方の性能で私を上回っている点は、七千四百五十二点です。内訳をご確認されますか?』

『…………』

言葉をすぐには返すことが出来ずに沈黙する。
少し経ってガゼルは

『いや、いいよ……』

と疲れたような声を返した。
193 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:57:32.55 ID:42FVc1Cm0


 変貌。
それは確かに変貌だった。
昨日まで確かに笑い、一緒に遊んでいたはずの小さな女の子……。
妹のようだった、少しばかり言葉遣いが変な女の子は、今や彼女の知っている優しい人ではなかった。

――鬼。

いや、悪魔か。単純なそれ。見たことも、実際聞いたこともないおぞましい最悪のそれを連想させるほどの、圧倒的な狂気。絶望。
そう、とどのつまり。
彼女は、人間ではなかった。
それに至るまでの過程も、その端的な事実の真偽も、そしてそれを認識するまでの猶予も、何もかもすべてを吹き飛ばして、それはそこに立っていた。
瞳がない。
白目の部分も、黒目の部分も、全てが総じて真っ赤だ。血の色。
自分の頬に流れる一筋の傷を指先で撫で、彼女――更紗という小さな女の子は、長すぎる髪をばらりとほどいた。それが足下に扇子のように展開し……しかし地面にはつかなかった。彼女の周りに、糸で空中に固定しているかのようにふわふわとたゆたっている。
真紅の眼球を夜の闇に不気味に光らせ、燐よりも遥かに小さな彼女は、裂けそうな程その目を見開き、口元を奇妙な形に歪めて笑ってみせる。

「魔法使いだ……」

彼女を取り囲んでいる人間の一人が、声を上げた。それぞれが手に大小さまざまな銃を持っている。その銃口が、取り囲んだ小さな少女に向けて狙いを定められていた。

「殺せ!」

誰かがそう叫ぶのが、炎上する屋敷の前に倒れている燐の耳に聞こえた。動こうとするが、どこかで足の骨を痛めてしまったらしい。立ち上がれない。そんな彼女を、モーターが軋む音を立てながら里が抱きかかえる。

「お嬢様、ここを離れましょう」

機械的な声で囁かれ、しかし燐は彼女の腕の中でもがいた。

「里、ダメ……更紗が、このままじゃ更紗が殺されちゃう!」

「しかしお嬢様、あの者達に見つかれば、私達も命がありませぬ!」

ここはちょうど、更紗が五十人以上の男に取り囲まれている中庭から死角になっている。その事実にやっと気づくが、しかし燐はもがくのを止めなかった。

「パパも、ママもあそこにいるのですよ! 早くにぃを連れて行きなさい!」

「その命令は拒否いたします」

いつになく頑なな、しっかりとした口調に叩きつけられ燐は息を呑んだ。

「里、にぃの命令が聞けないのですか!」

「拒否いたします。早くここを離れ……」

そこまで里が言った時だった。
パン、という音がした。
乾いた音だった。
取り囲まれている更紗の前には、壮年の男女がいた。彼らは、小さな少女を護るように周囲の暴徒に向けて何かを怒鳴っていた。
銃声は、それを掻き消すように無情に鳴り響いた。

「パパ!」

燐が絶叫したのと、右腕を押さえて壮年男性が地面に倒れたのを、血色の瞳で更紗が見たのはほぼ同時だった。
194 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:58:26.91 ID:42FVc1Cm0
燃え盛る屋敷が倒壊する、その絶望の音が周囲を突く。
更紗は次いで、その炎を見上げると面白そうにクスリと小さな笑い声を発した。

「下衆で無様で汚ならしい溝鼠の分際でよぉ吼える。小動物のざわめきほど滑稽なものはないわ」

それは、いつも聞いていた少女の声ではなかった。もっと重く、深く、そしてざらついた声だった。
人が変わったように冷たい眼で、彼女は自分を庇う二人の人間を見下ろした。

「魔法使いが喋ったぞ!」

「早く撃て! 撃て!」

一人が発砲して、何か重要なものが切れてしまったようだった。周辺の男達が銃の引き金を絞ろうと腕に力を込める。
その瞬間だった。
更紗は不気味な笑顔を張り付かせたまま、血色の瞳をぐるりと周囲に向けた。

「控えおろう! 図が高い、餌共!」

厳かな声は炎も、熱風も、夜空も、けたたましく鳴り響く警報も。それら全てを突いて、そして駆け抜けた。
次いで彼女の周辺に異変が起きた。
少女が立つ地面の周囲……その空気が渦巻きのようにぐるりと歪み――そして、何もないはずの虚空から、不意に、まるで蜃気楼のように黒色の物体が姿を現す。
数は四。
唖然としてそれを見つめる燐の目には、こう見えた。

(棺桶……)

死体を入れる、棺桶だ。黒塗りのそれが、ズゥンと地響きを立てて更紗の周辺に突き立つ。
そのうちの一つが、幻のように消えた途端だった。
突然の現象に唖然としていた前列の男が、鶏を絞め殺す時のような言い知れぬ、断末魔の絶叫を上げた。その目は半ば飛び出しそうなほどに見開かれ、更紗を見つめていた。
彼は全身をばねのように震わせながら、後ずさり、そして唖然としている周囲の視線を浴びながらその場に転がった。

「ぃ……ひぃぃぁあああ!」

それは断末魔だった。
全身を激しく震わせながら、彼は目の前を手で何度もかいた。そして、自分の口に手にしていた短銃を突っ込む。

「やめろぉ! やめてく」

タン、という音がした。
簡単なその銃声の後、飛び散った脳漿の海に男が倒れる。
それが皮切りだった。
更紗に向けて銃の狙いを定める者、逃げようとする者。それら全てが同じことをした。
195 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 21:59:14.91 ID:42FVc1Cm0
泡を噴き、体は奇妙な形にねじれ、それぞれが銃で自分の頭を撃ち抜いていく。
地獄の光景。
断末魔と、圧倒的な恐怖による産物。
飛び散る人間の体だったもの。広がる鮮血。肉、目、歯。
燃え盛る炎の火に照らされ、それらがびしゃびしゃと散っていく。
その中央で、更紗は涼しい顔でほほえんでいたあざけきった目を周囲に向けていた。

「ば……化け物……化け物!」

呼吸が出来ないのか、そのうちの一人が舌をべろんと流しながら、何とか更紗に銃を向ける。少しだけ離れている人間は何とか動けるらしく、一気に十分の一ほどに散った男達は、しかしそれでも更紗に向けて銃の引き金を絞ろうとしていた。
……燐は、とっくの昔に耳を塞ぎ、硬く目を閉じ、あまりの現象に判断がつかず動くことが出来なくなっていた里に抱きしめられていた。
もう、訳が分からなかった。
本当に、訳が分からなかった。

「やかましい」

更紗はそう一言だけ言うと、手近な男に向けて指を突き出した。

「バン」

軽い音。
それを彼女が口にした瞬間、指を刺されていた男の頭部が……まるで、トマトのようにひしゃげて爆裂した。
内臓だったものが十メートル以上もの距離を飛散し、それをモロに顔面に浴びた更紗は、指先で顔を拭ってからずるりと脳漿をすすった。

「目障りじゃ」

次いで、そう呟きながら大きく腕を凪ぐ。
横凪にされた彼女の腕は細く、小さく、圧倒的に子供の腕だった。
棺が一つ消えるのと同時に、まだ生き残っていた残りの男達の体が、まとめて何か巨大な重機に薙ぎ倒されるように……更紗が腕を振った場所に吹き飛んだ。
いや、体全体がではない。
上半身だけ……それが、まるでゴミのように千切れて三十メートル以上も離れた壁にベシャリベシャリと張り付き、血という名の糸を引いて地面に崩れ落ちていく。
まるで、血液のシャワーだった。
196 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:00:06.11 ID:42FVc1Cm0
それを浴びながら、面白そうに、しかし無邪気な穢れのない声で更紗は笑っていた。
その目は、まるで人形の義眼のようになんの感情も宿していなかった。
歩き出そうとして、更紗は傍らに首だけが千切れて吹き飛ばされていた、自分を庇っていた男女の死骸があることに気づいた。それを虫けらを見るように見下ろし、鼻で笑う。
そして無造作に踏みつけ、彼女は真っ直ぐに建物の影……そこにうずくまって震えている燐の方に歩みを向けた。
二分も経っていなかった。
地面に突き立った不気味な棺は、更紗が移動するのに合わせてズズ……と動いていた。
彼女は、燐を抱いている里を一瞥して馬鹿にするように口元を歪めた。完全に近づかれるより先にこの場を離れようと腰を浮かせた里に、しかし軽く指を上げて

「どけい」

と一言告げる。
次の瞬間、里の体は誰に触れられているわけでもないのに背後に回転しながら吹き飛んだ。まるでジェットエンジンに薙ぎ倒されたようだった。壁に激突し、衝突部の腕のみならず胴体部品までもがひしゃげ、砕けて散っていく。
ガシャン、と機械音を立ててその場に崩れ落ち停止した里を一瞥もせずに、更紗は顔を上げて燃え盛る屋敷の周辺を見回した。
……里がすぐには逃げ出せなかった理由がそこにはあった。
松明を持ち、取り囲んでいる人間達の姿があったのだ。ここは唯一外側からは発見されない場所になっている。
更紗は、返り血でグショグショになった服の胸に、さらに生臭い血液の塊を擦り付けながら、瞳のない目で震えている燐を見下ろした。そしてにやぁ、と笑い、その手をそっと伸ばす。

「汚らわしい金髪がこんなところに隠れておるわ……」

それは、悪魔の笑みだった。
気づいた時、燐は喉が破れるのも構わず、金切り声で絶叫を上げていた。頭がおかしくなってしまったのではないかと言うくらい――いや、じっさい狂ってしまっていたのかもしれないが――両手で頭を抱えて激しく振りながら訳の分からない声を上げる。
腰が抜けているのか、それでも必死に後ずさりをしている燐を見て、そこで初めて更紗はハッとしたらしかった。
血色の瞳に焦点が戻り、段々と白目と黒目が浮き上がってくる。
すると、浮き上がっていた二つの棺が同時に掻き消えた。
彼女は発狂して叫び声を上げ続けている燐を見下ろし、そして唖然とした顔で周囲を見回した。その目が、無残に首と胴体が切り離され、物言わぬ躯と化した燐の両親……自分の恩人に止まる。

「あ……っ」

更紗は、口元に手を当て、大口を開けて硬直した。そして血液と脳漿でズルズルに汚れている自分の体を、慌てて手で拭おうとして、しかしそれが落ちないことに気づいて青くなる。

「あ……ああっ……」

震える声だった。彼女は必死に、自分が持っていた枕で体を擦り、しかしそれが更に凄惨な様子を広げていることを知らずにか、途方に暮れたようなうめき声を上げる。
血が落ちない。
少女はしゃがみこんで、血まみれの手で叫び声を上げている燐の両手を掴もうとした。

「お姉ちゃ……お姉ちゃん……」

助けを求める声だった。
197 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:00:47.30 ID:42FVc1Cm0
それは、確かに少女に向けて発せられた救難の声だった。
しかし、それに返されたのは。
払いのけられた痛みと、言いようのないひしゃげた声だった。
絶叫を続けたせいか、燐の唾には血が混じっていた。遂には叫び声を上げることも出来ずに、その場にうずくまって血の混じった唾を、咳とともに吐き出す。
更紗は、血痰を吐き散らす燐を見てその場に硬直しながら呟いた。

「うそ……うそだよ……」

足音がした。
愕然としている更紗と、しわがれた絶叫を上げ続けている燐から少し離れたところに、人間の第二陣が走ってくるのが見えた。

「女の子が生きてるぞ!」

「違う! あれは……魔法使いだ!」

途切れ途切れに声が聴こえる。

「一人人質に取られてるぞ!」

「構うな! 撃て!」

それは、人間の声だった。
更紗は口を半開きにしたまま、自分に向けられる銃口を見ていた。そしてゆらりと立ち上がり、耳を塞いで震えている燐を、恐慌を起こしたように飛び出した目で見下ろす。

「にぃ…………」

彼女の指先はブルブルと震えていた。

「殺せ!」

眼下の少女に、反応はなかった。
更紗の……大魔法使いの目が再び血色に染まる。次いで、また四つの棺が何処からか表れ、地面に突きたった。

「お姉ちゃん…………」

彼女がそう呟いたのと、再び血しぶきが上がったのは同時だった。
ピシャリピシャリと、元々は動いていた人間に詰まっていたモノ……血液が雨のように降り注ぐ。
目を開けた燐の視界に、上半身を失って崩れ落ちる人間だったものの群れが映った。
そこで、彼女は一際大きな声を上げてやっと。――意識の暗闇へと落ち込んでいった。
198 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:01:32.95 ID:42FVc1Cm0


 燐がそれから目を覚ましたのは、三十分ほど経ってのことだった。ガゼルも無理な稼動によるシステムの軋みをクリアするため、調整にいそしんでいたので、少女が目を開けた頃はまだ休止状態を解いてはいない状況だった。
身じろぎもせずに、自分の膝に横になっていた彼女を見つめていた里が、ほっとしたように口を開く。

「体温、脈拍、血圧正常値ですね。おはようございます」

「あ……里……」

眠そうに軽く首を振り、彼女は入り口付近に膠着状態になっているガゼルに目をやった。

「あのお方はどうかなさったのですか?」

「穴の開いたシステムの制御を行うと仰っておりました」

「せいぎょ?」

「お掃除でございます」

そっと彼女に微笑んでから、里は自分の後頭部におびただしい数突き刺さっているコードを横目で見た。それは彼女の首脇、そこのヘッドフォンのようになっているゾーンに刺さっている。それら全てが、電波塔地下室の壁に繋がっていた。崩れかけた合成コンクリートの隙間から伸びているコード類。その一部が破れて接続されている。
カリカリカリカリとハードディスクに情報を書き込む音をさせながら、里は虚空に向かって何度も瞳孔を収縮させ、拡散させてという行動を繰り返していた。

「お掃除……何の?」

「システムのでございます」

全く進歩のない応答を反復しつつ、里は脳内のモーターを音を立てて回転させ始めた。

「あのお方のサブシステムと、私の観測システムが一部リンクしております。動作環境への補佐をしていただいていますので、動力減衰の心配はありません」

里が機械的にそう言うと、燐はくまの浮いた瞳をごしごしと擦り、彼女の膝の上に座りなおした。

「……何をしているのです?」

「検索でございます」

端的にそう答え、里は右目の瞳孔で虚空を見つめながら、左目を器用に彼女に向けた。そしてニコッと笑い、そっと小さな頭を撫でる。
199 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:02:16.12 ID:42FVc1Cm0
「よくぞご無事でいらっしゃいました。里は、それだけで満足でございまする」

「里こそ……」

そこまで言って、燐の頭がやっとはっきりしたらしかった。彼女の目に不意に大粒の涙が盛り上がり、次の瞬間、小さな少女は里の胸に抱きついていた。

「怖かった…………」

「大まかなあらすじはガゼルバデ様からデータをいただきました。里の不用意な誘導によりこのような結果を生んでしまい、お詫びの言葉もございません……」

「うぅん……にぃが勝手なことをしなければ、貴方もこんなことには……」

「仕方がありませぬ。気に病むことなきように、お願いいたします」

その時にカリッ、という音がして里の動作が止まった。
次いでワークドスーツの動作ランプが点灯し、駆動音と共に機械人形のシステムが立ち上がる。カメラアイを動かして起きている燐を捉え、ガゼルはスピーカーから彼女に言葉を投げかけた。

「目が覚めたのか。良かった」

「おはようございますの……すみません、気を失ってしまったようで……」

「今まで動いてたこと自体信じられん。まぁ、文句は言わないよ」

言葉を返し、ガゼルはカメラを里の方に向けた。

「見つけたか?」

「進入経路をルート二十三Fに切り替えましたが、それらしい反応はありません」

「そうか……」

燐には分からないことをしていたらしい。少女は軽く首をかしげ、薄明るい地下室で彼らのことを交互に見回した。

「一体、何をしているのですか?」

「虹を探している」

突き放すようにガゼルが言う。里がモーター音を立てながら下を向き、それを補佐するように言葉を付け加えた。
200 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:03:22.27 ID:42FVc1Cm0
「現在私のドッペルゲンガーを、ジェンダドームの管理システムに侵入させています。東区一番から五十四番、西区一番から八十五番までのエリア検索を終了いたしましたところでする」

「どっぺるげんがー?」

怪訝そうにその単語を繰り返すと、ガゼルはランプを点灯させながらそれに答えた。

「旧式のアンドロイドかと思ったが、騙されたよ。とんだ食わせ物を助けちまった。まさかこんな辺境で精神体にお目にかかるとは思わなかったよ。データのプロテクトを解除できないはずだ」

「?」

ガゼルの言っている意味がよく分からない。
彼はため息のような音を発すると、機械の動作音を立てながら稼動している里にカメラを向けた。

「君はこの子の持ち主だろう? 中身も知らないで世話してもらっていたのか?」

「燐様はご存知ありません。何故ならば、お話をさせていただいていないからです」

またカリッ、という音がして、里は続けた。

「南区全体のスキャンを終了いたしました。解析に移行します」

「早すぎるぞ……まぁ、頼む」

「里? 何を言っているのです? 何かにぃに隠し事をしているのですか?」

「変なところで聡明な割には、やっぱ子供だな。気づかないか?」

呆れたようにそれにガゼルが口を挟んだ。そして彼は少し迷っていたが、里側から静止の言葉がないのを確認すると言った。

「そもそも彼女のような旧式のアンドロイドが、君に、よりにもよって正確な位置を検索しながら、深度五十メートルを越えの水道網を案内できるはずがないんだ。しかも自分は南区……更に反対側へと逃げていたらしい。そこで地下水道を巡回していたグレイハウンドに襲われたらしいが、破壊されずに逃げて、ここに来られたということだけでも十分おかしいんだ。馬鹿にしているわけではないが、外装、内部全てをとってみてもそれが出来る機体だとは思えない」

「何が言いたいんですの? 里をどうにかしようとでもお思いで?」

自分を抱いているアンドロイドを、言葉の綾から誤解して渡すまいとしたのか、途端に燐はガゼルに警戒の色が濃く浮かんだ瞳を投げつけた。それを受けて彼はまた一瞬押し黙った後、呆れたように続けた。

「どうにかも何も、俺の今の操縦者は君になってるんだ。何をどうするんだよ」

「……そう言われればそうですけれど……」

「俺が言いたいのは、彼女は第一世代のアンドロイドだということなんだ」

「第一世代?」

意味が分からなかったのかきょとんとして反芻した燐を見下ろし、里は頷いて見せた。

「その通りでございます。私の素体は今からおよそ六百五十三年前に製造されたTVG66809型でございます」
201 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:04:06.94 ID:42FVc1Cm0
「だから、人工知能だけが肥大化して、むしろ使っている体の機構がその進化に対応しきれずに動作処理が遅かったんだ……情報素子に人格形成がなされてる期間が長すぎたから、それに乖離も上書きや追加も出来なくなってるわけだ。まぁ、俺とかが外部から定着解除の干渉を与え続ければ、ある程度の補正は可能だと思うけど」

「お分かりいただき光栄です。私の固有人格はバルダーシーケイルに固着されてしまっています」

「何てこった記録生命体かよ……ネット上に情報として人格中枢があるのなら、無理にそんな旧式ボディ、救出しなくてもよかったじゃないか。別の体に入ればいいだけだろ」

「訂正を要請いたします。私の動作はこの型にのみ限り、完全に自立稼動を為し得ます。取替え可能というわけではありません」

「そのこだわりは分かる気がするが、何だか個人批判をされているみたいで面白くはないな。あんたと違って俺は体をそうそう簡単に変えられる訳じゃないんでね」

「そんなことはありません。貴方を観測させていただきましたところ、その実は七十五の割合でこちら寄りの存在であるとして意義づけることが出来ました。あなたは私に近い存在であると言うことが出来ます。二次元定義海域内での存在固着に定義されない可変物理定着存義の一端として、極めて稀、かつ貴重な事例だといえるでしょう。あなたの言語機能が非常に適用範囲に照合できる内容です。リンクさせていただいたことで、より高次元の調整が可能になりました。感謝いたします」

「馬鹿にするなよ。そもそも俺は五次元定着のシーメイダーじゃない」

「了解しております。いずれにせよ、以上の理由からあなたは私よりも高次の存在であると断定できます。ご機嫌を直してくださいませ」

「君は、そういう見え透いたお世辞が相手をいらつかせるということを少しは学んだ方がいいな……」

「お世辞ではありません。理由をご説明いたしましょうか?」

「……あの……?」
202 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:04:40.70 ID:42FVc1Cm0
意味不明な会話を早口で目の前にて展開され、燐はポカンと口を開けて聞いてはいたが、やがて意を決してそっと口を挟んだ。
途端、アンドロイド二人の議論がピタリと止まり、里の脳がガリガリと動いている音が周囲に反響する。

「お二人とも、随分と仲良くなられたのですね?」

とりあえず困ったように笑いながらまた口を開く。里は微笑んでそれに返した。

「ええ。この方には大恩がありまする」

「そういうものか……」

納得しがたいのかボソリと呟いた後、ガゼルは燐を見て言った。

「まぁ、簡単に言うと里はこの三次元においては動作は旧式とは言わざるを得ないけど、ネット……つまり情報の世界における人格の動作、AIの性能はハイコンピュータ並なんだ。そこまでの情報処理能力は俺にはない」

「よく分からないのですが……」

「存在の次元の差っていうのかな……まぁ、大人になれば分かるようになると思う」

面倒くさくなってきたのか突き放したガゼルから里に視線を向け、燐は言った。

「……あなた、もしかしてもの凄いメイドロボだったのですか?」
203 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:05:17.83 ID:42FVc1Cm0


 里は、厳密に言うとアンドロイドではない。精神体という情報の塊だった。厳密に言うとガゼルも構築された情報の集合体なのだが、彼と里には決定的な違いがある。
それは、人格が置かれている場所だ。
ガゼルはシステムの中核に人格が置かれ、彼のオリジナルとして扱われる。それは人間の脳構築のように織り込まれて、さながら人の思考と寸分違わない動作をすることが出来る。
しかし、里たち『精神体』には、その脳が存在していなかった。
そう、つまり彼女の体の中は空っぽ。システムも何も入っていない、もぬけのマリオネットだ。
つまり、精神体と呼ばれるアンドロイドは、それに限り思考中枢が、世界中に広がるネットワーク、つまり情報世界の中にあるのだった。ガゼルのようにシステムを動かす中枢があるわけでも、学習していく機構があるわけでもないので、その動作は画一的で、また、無線で繋がっている体を動かす機構が損傷してしまえば思考することも出来ない。
精神体は、はるか昔に試作されたアンドロイドの一種だった。
普通機械類は、脳に当たる部分を内蔵して製造される。その理由として挙げられるのは二つ。
人間に成るべく近づけるためと、発展的に別のシステムを追加するためだ。
一つ目の理由は簡単だ。精神体はもし何らかの不手際を起こした場合、廃棄処分にすることが出来ない。何故ならその本体はネット上にあるので、体を破壊したとしても本体を破壊したことにはならない。
二つ目の理由は、精神体の特徴としてシステムの拡張ができないというものがあった。物理的に記憶素子などを付け加えられるならいいのだが、ネット上に複雑な人工プラグラムを構築、独立動作をさせると、精神体に限ってはシステムの追加が出来ないのだ。
その理由は明確なところにあった。精神体はネット上で、自分の中核システムをその環境に適応させた形で、幾億ものパターンで構築してしまう。例えるならば人間の脳だ。どれも同じような記憶があるわけでもないし、同じ皺を有しているわけではない。
だから独自に適応進化してしまうそれに対し、パターン化して記録調整を施すことが出来ないのだ。
以上の二つの理由により、精神体の開発は一定時期で切られたはずだった。
最も、ネット上でいくら情報生命として動いても、デバイス――里のボディのような――がなければ、精神体はどうすることも出来ない。
今でもネットの中で幾万もの人工生命体が蠢いているであろう事実は知っていたが……。
204 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:06:17.86 ID:42FVc1Cm0
現行稼動しているのを確認したのは、この一機が初めてだ。
中核が現実に存在しないため、精神体はネット上の情報にアクセスすることが非常に簡単になる。ドアをノックして入り込むか、もしくは家の中にあらかじめ入っていて、そして家捜しを始めるか。その一段階のプロセスの差がもたらすハッキングのスピード差は目覚しいものがある。

―存在自体の次元の差―

そのように燐に説明したのは、あながち的外れなことではない。
おそらく、里の体は古すぎて誰も改修が出来ないのだろう。内部機械も、六百年前当時は思考レベルが高かったのだろうが、現在はどうしようもないレベルだ。腕や足も修復したことにはしたが、他の部分と同じような機構を形成したに過ぎない。

(俺のピノマシンからの機械形成能力で、何とか新しくしてやれないかな……)

そうも思ったが、何分型が古すぎる。下手に傷をつけて動作不良になりでもしたら、取り返しがつかない。全く同じものを形成することも考えたが、ネット上で複雑に適応進化した精神体の接続構造から少しでも変わってしまえば、アクセスも出来なくなる可能性がある。
そのような事情と内情があった故に、燐には上手く説明が出来なかったのだ。しても分からないだろうし、理解できるとは思えない。だから里も燐に説明をしていなかったのだろう。彼女を買ったという燐の父母も、知っていたのかどうかは定かではない。
ガゼルは息をついて、まだ動作音を発している里を見た。

(こんな、本当の意味での過去の遺産が残ってるとはなぁ……)

彼女から説明を受けた時には流石に驚いた。抜き出した記録にアクセスすることが出来ず、それが自分が使っている情報言語のみならず、その他のどんな情報言語にも該当しない、完全オリジナルのものだと気づき納得。
そして今に至る。
205 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:07:07.91 ID:42FVc1Cm0


 まだカリカリと音を立てながらネットを検索している里を、段々飽きてきてガゼルは横目で見ながら考えを止めた。
燐も、ここに至るまでの相当な疲れが押し寄せてきたのか、ひとしきり里に抱きついたあと、沈むように再度眠ってしまった。すぐに疲れが取れるとは思っていなかったが、やはり歯がゆい。

(すぐには殺さないと思うけど……)

祈るように同じ言葉を反芻する。
少しして、里が控えめに言葉を発した。

「ガゼルバデ様」

「ん?」

聞き返すと、瞳孔が不自然に運動している顔で彼女はこちらを向いた。

「色々とお聞きにならないのですか? 先ほど私の中から抜き取られた記録データは、あなたのシステムでは再生が出来ないと思いますが?」

「気づいてたのか」

「頭の働きだけは早いのです」

「嫌味にしか聞こえないな」

ボソッと呟き、ガゼルは続けた。

「一部は解析して、さっき確認したよ。間違いない。二年前に君達の家族を惨殺して、このドームの反魔法使い派を皆殺しにしたのは更紗だ。俺達エリクシアの敵だよ」

「解析なさったのですか。驚きました。青天の霹靂とはこのことです」

「バカにしてんのか?」

「あなたが先程より私に対し抱いている劣等感は不適切なものです。その理由をご説明いたしますか?」

心の底から驚いたのか、またガゼルの言葉に憤慨しているのか。
声音は全く変わらないが機械的に言った彼女に対し、少し間を置いてから答える。

「いや、いいよ……」

「了解。追加報告。南区のスキャン完全終了いたしました」

金属音を頭部から発し、里の両瞳がチカチカと点灯する。
206 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:07:58.21 ID:42FVc1Cm0
「本当か? どうだ?」

「本当です。過去二十四時間以内の五十万四千三十二件の電話、及びネット通信網記録を全て傍受確認いたしました。該当要素と思われる内容はありません」

「……そうか……」

ため息をついて沈黙する。
電波塔に逃げ込んだことは幸運だった。
ここはこのドーム全体の情報を一時的に中継する場所だ。だから、その中継装置に潜り込んで履歴の断片を調べようと思い立ったのが四時間ほど前。
しかし、自分にそこまでのネットダイブスキルはない。
そこで、半ば諦めながら里に言ってみたところ、あっさりと協力を申し出てくれたのだ。
始めは本気にしていなかったが、送信されてきた、綺麗に区分けがなされている履歴情報を確認する限りではミスがない。
ネットの中に存在している精神体――同じ情報存在――でしかなしえない仕事だ。
彼女に中継装置をハッキングしてもらい行っていることは、このドームのネット、及び電話の通信履歴の中に虹だと匂わせる要素がないかということだった。
正直な話、全く期待などしていなかった。
それほど人間と人間が織り成す通信というものは膨大で、どうしようもない数なのだ。
しかし今のガゼルには、何でも何か行動を起こすことしかできなかった。
更紗が隠れている場所の目星もついていないのだ。

『……ガゼルバデ様』

『何だ?』

ネットへの接続に、アース防壁として自分のシステムを返しているために、ダイレクトに脳内に里の通信が響く。
彼女は少し迷ったのか、間を置いて相変わらずの棒読みで続けた。

『貴方の記録を確認させていただきました。一応お断りをしておこうと思いまして。申し訳ありません』

『はぁ?』

存在しない心臓が停止しそうになり、息を呑んで彼は返した。

『俺の中に侵入したのか? いつ?』

『物理的にケーブルで接続されている機械でしたら、当機はゼロコンマ二ピクロンの速度で全ての情報確認が可能です。あなたの情報防壁のバージョンは古いです。更新させていただきました』

『おい。人の頭ン中勝手に弄って、勝手に薬入れてくなよ!』

『ですから申し訳ありません。お気を悪くなさらないで下さい』

悪びれた様子は欠片もない。
こちらは相手の記憶をやっとのことで解析して一時間程度閲覧できただけなのに、相手はこちらの記録を自由自在に確認してしまったらしい。その上、情報の侵入を防ぐファイヤーウォールまで強固なものに書き換えられている。

『……プライバシーエントってもんがあるだろう』

彼女を、仕方がないこととはいえ自分の内部に接続してしまったことを後悔する。
207 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:08:42.56 ID:42FVc1Cm0
外見、そしてその緩んだ行動から完全に油断していた。恐ろしいアンドロイドだ。
怒りがこみ上げてくるというよりは、脱力して呆れがこみ上げてくる。

『プライバシーエント? 未確認の語句です。語意の上書きをさせてください』

しかし返されたのは、不思議そうな問いだった。

『ロボットが持つ個人の権利だ。いいか? 何の記録を盗み見たんだか分からんが、今度俺の中に勝手に入ったら焼き殺すぞ』

『個人の権利。登録いたしました。しかしその主張に関する意見はNOです。私、そしてあなたの区分存在には、情報保有の原則に順ずる個人的主観権利は認められておりません。現行世界基準法律でも確認が出来ます』

『……』

疲れてきたので答えずに、脳内に里が侵入しないようにブロックを張る。抜き出されたのは、彼らが右天の討伐作戦を開始してからの情報だった。時間がぴったり合っている。それ以前のところには気を使って手をつけなかったらしい。

(訳の分からん奴だなぁ……)

初めてまともに会話した同族の異常性についていけない。
いや……。
これが、機械というものなのかもしれないが。

『私の記録映像は、貴方の使用言語と異なりますので解析に時間がかかります。口頭での状況共有を提案いたします』

考え込んでいると暫くして、そっと里が通信を送ってきた。

『……というと?』

『おしゃべりをしましょうというわけです』

『おしゃべり?』

『はい』

里は頷き、とび色の瞳を軽く収縮させた。
208 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/01(水) 22:14:24.33 ID:42FVc1Cm0
お疲れ様でした。第16話に続かせていただきます。

チビチビ更新になってしまっていますが、ご了承いただければ幸いです(´・ω・`)

現実世界が混乱していまして、また、風邪もぶり返してしまいまして、更新速度が落ちてしまっています。
早めに治そうと思います。皆様もお気をつけください。

詳しいご案内は>>152で掲載させていただいておりますので、ご確認いただければ幸いです。

近日中に続きはUPさせていただきます。
気長にお待ちくださいね。

それでは失礼いたします。
209 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/02(木) 00:00:47.74 ID:29h9cNEB0
元ネタとかあるの?
オリジナルだったらすごいな。
210 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 19:50:50.91 ID:484YotGN0
>>209
こんばんは。
元ネタはありません。
このお話は、私の完全オリジナルです。
他にもいろいろお話を書いてはいますが、自分の書きたいように、書けるだけ書いていたらこんな感じになりました。
3年越しに続きを書き始めましたので、よろしければ、これからもお付き合いいただけましたら幸いですm(_ _)m

続きを投下させていただきます。
211 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 19:57:50.22 ID:484YotGN0
16 鉄条鞭

 地下室にピノマシンの灯りが揺らめく。里は僅かに合成筋肉の表情を落とし、言った。
 
『あなた様方は、更紗様をあやめるためにここにいらしたのですか?』

『ああ』

ガゼルは端的に答え、そして逆に聞き返した。

『更紗様? まるで自分の主人だったかのような言い方だな』

『解答、YESです。あのお方は二年二ヶ月十四日前には、私のマスターでした』

『どこであの魔法使いを拾った?』

重ねるように聞くと、里はしばしの間沈黙した。そしてギシギシと首を軽く振り、続けた。

『あのお方を人買いのキャラバンの中で発見いたしましたのは、この私です。そのときに同伴されていました燐様が大層お気に入られ、養女としてお迎えすることになりました』

『何だって?』

思わず聞き返していた。

『奴隷商人(ブリーダー)に連れられて入り込んだのか?』

『ブリーダー? 人買いと同言語ですか?』

『ああ』

『登録いたしました』

『……しかし考えられないな。あの悪魔が、まさか人間の奴隷に扮してるなんて……』

(だから見つからなかったのか……)

そう考えて口を閉ざすと、里は声音を落として、呟くように言った。

『あの正体に気づくべきでした。また、強引にでも旦那様に申し上げるべきでした。この状況の責任は、私にあります』

『どういうことだ?』

『私は、魔法使いの発する生体反応、BMZパルスを感知することが出来ます。私の代に製造されたマリオネットドロイドには、全てそのような機能が搭載されていました。すなわち、それにより私は更紗様が魔法使いであられることを、一目により判断できていたのです』

それは、告白だった。
アンドロイドの、かすれて消えそうな心から発せられた小さな告白だった。
212 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 19:59:50.58 ID:484YotGN0
『……まさか、六百年前にそんな技術があるなんて……』

『本当です。ですから、私にはあなたのお話――エリクシアの天使様だというお話――それが、どうしても最初は信じることが出来ませんでした』

『……』

ガゼルの存在しない心臓に、その瞬間冷や汗が流れた。悪魔に鷲掴まれたように。何億匹の毛虫にまとわり疲れたように。
もし目があれば見開いていただろう。
その次に出てくる言葉を、威圧して止めていただろう。
しかし脳内通信を送っているアンドロイドは、変わらぬ声音で、あっさりとそれを言い放った。

『虹様、という方からは、テンク倍四十以上もの強力なBMZパルスが観測できました。つまり、あなたがエリクシアと呼称説明をなさっている方は、九十八パーセントの確立で魔法使いであると断定できます』

「お前に何が分かる」

その瞬間、ガゼルは声を上げていた。驚いたのか、里が口をつぐむ。突然発せられたガゼルの大声に起こされた形で、燐が慌てて目を開けた。

「な、なんですの!」

飛び起きて里に再び抱きかかえられる。言葉を発しないガゼルを一瞥し、里は燐の頭を撫でた。

「何でもありませぬ。お休みになっていてください」

「え? え……えぇ……」

戸惑いがちに頷いて、燐が横目でガゼルを見る。

『申し訳ありません。あなたはとても怒っていると推測できます』

『……』

送られてきた通信に、ガゼルは答えなかった。

『ですがご理解下さい。私達は、更紗様を殺すため……つまり、貴方と同じ理由で、レジスタンスに入っていました。近づくことを算段していたのです』

『……』

『用心する必要がありました』

「里」

その時、通信を遮るように燐が声を上げた。

「何ですか、お嬢様?」

メイドロボが微笑みながらそれに返すと、燐は黙ってぎゅぅ……と彼女の服を掴んだ。言葉を発さずに、里が小さな少女を抱きかかえて背を丸める。
213 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:01:25.83 ID:484YotGN0
『あなたの記録を見せていただき、その疑惑は払拭されました。申し訳ありませんでしたということは、その内情も含んでおります』

(……記録だって?)

言われて初めて、ガゼルは自分の脳内記録、その五年前の部分が一部抜かれていることに気がついた。

(やられた……)

今の記録から離れすぎた深層にあったため、気づかなかったのだ。
とんだ食わせ物だ。
このアンドロイドは、情報戦においてガゼルよりも一枚も二枚も上手だったのだ。
怒る気力も沸かず、彼は静かに言葉を返した。

『今度やったら焼き殺すからな』

『記録しておきます。そして私は、あなたに全面的に協力をさせていただくことを決定いたしました』

――やっと分かった。

どうやら、まず行動を起こしてから言葉にするタイプのようらしい。何事をするにもまず操縦者の命令がなければ動けないガゼルからすれば、正反対の行動理念を持つアンドロイドだ。
だから話していてもかみ合わないし、心の中に劣等感にも似た感情がわきあがってくるのだ。

『レジスタンスが崩壊し、燐様の居場所がなくなってしまわれました。それ故に、燐様を安全な場所に即急に保護し、そして更紗様をあやめる必要性がこちらにあります。利害が一致すると思われますが、どうでしょうか』

冷静に告げられる言葉。そこに嘘偽りはないことは、お互いの頭の中を覗き合った身としてしっかりと確定できることだった。

『協力に異存はない。しかし、燐を安全な場所に保護するわけにはいかない』

『理由の説明をお願いします』

『俺の操縦コードが現在燐になっているんだ。彼女の認証がなければ動けないし、更にそのコードの再発行も不可だ』

『……』

絶句したらしかった。
言葉を止め、里が口元を押さえる。

『時間があまりない。俺からも頼む』

今度は、逆にガゼルが彼女に言葉を投げかけた。

『俺の記録を覗いたんなら手っ取り早い。燐と共に、虹を助け出す援助を要請する』

その言葉によどみはなく。
ガゼルは、初めてしっかりと目の前の存在にその心を発したのだった。
214 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:02:47.16 ID:484YotGN0


 何も見えなかった。
両腕は大きく外側に広げられたまま固定されている。足も、一つにまとめられ、ぬらされた合成繊維で幾重にも巻きつけられていた。
両目にはアイマスクのようなものが被せられているらしい。
状況的には、エンドゥラハンに撃ち落とされて、紅に捕獲された時と同じ……あの時と違うのは、今度は地面に垂直に固定されているということだった。どうやら十字架のようなものにはりつけられているらしい。この姿勢だと足の方向に血液が溜まり、次第に重い頭に首が耐え切れなくなり、カクリと下に垂れ下がりそうになる。しかし現在の虹の首には、細いワイヤーのようなものが巻きつけられ、背後の磔台に固定されていた。体から力を抜くと首が絞まるようになっている。
体に当たる風の感覚で、ここは地下室であるということが分かった。かなり寒い。体中から感覚がなくなってしまうほど、冷え切ってガチガチになっていた。青紫色に変色した唇を舌で舐め、そこで初めて虹は自分が何の服も纏っていないことに気がついた。体に身につけているものは全て剥ぎ取られたらしく、隠すことも出来ないまま空気に裸身を晒している。
そこで凍りついた体から力が抜け、虹はワイヤーが細い首にめり込むのを感じた。息が出来なくなり激しく咳き込む。しかしかじかんだ体は言うことを聞かずに、自然と下方へ下方へと沈み込んでいく。声を発することも出来ずに潰れたカエルのようなうめき声を上げる虹の耳に、不意に地下室の扉なのか、重たい鉄の壁を引きずり空ける音が聞こえてきた。
それは大またに近づき、慌てて虹の首にめり込んでいるワイヤーの連結部を解き、脇に投げ捨てた。
そこでもう一つ小さな足音が部屋の中に入り、少し離れたところで停止する。
更紗は、多数の拷問具と呼ばれる醜悪な機材が立ち並んだ部屋を、嫌悪感が丸出しの表情で見回した。地下二十メートル程にある、狭い空間。人間が一人スッポリ入れるくらいの水槽や、水車のようなもの、食肉を吊り下げる器具が天井から伸びていたり、焼きごてのようなものも散乱している。
着物の裾を引いて、それぞれから立ち昇る汚臭から鼻を覆い隠す。腐って乾き、塵となった腐臭。
それは、飛散した無残な動物の内臓。
その残り香だった。

「火をつけい」

押し殺した声で更紗が言うと、虹の脇に立っていた紅は、取り外したワイヤーをそっと足で隅に押しやり、どう見ても火釜にしか見えない巨大な暖炉に足を向けた。そして、脇に積んであった合成石炭を投げ入れ、種火に懐から出した着火機で点火する。
すぐにその周辺に炎の灯りが広まり、壁に埋め込まれた蝋燭の火が揺らめいた。
部屋にはいたるところに通風孔と思われる穴が開いており、そこから吹き付ける風が着衣の更紗を突き抜ける。
ましてや全裸で放置されていた虹は、意識が混濁としているのか、目の前に人間が二人いるというのに大した反応がなかった。ワイヤーが首から外されているというのに、今度は力なく頭を垂らしたままか細く息をついている。
紅は磔られている少女を一瞥し、主の所まで戻ると、持っていた毛布のようなケープを一枚更紗にかけた。それを引き寄せ、黒髪の魔法使いは唇を噛んで虹を見つめた。
部屋が暖まってくるにつれて、虹のか細い呼吸は段々と安定して元に戻っていった。
暫くして、更紗が一歩を踏み出し、傍らに投げ出されていた長めの皮鞭を手に取る。幾たびかに分かれたそれは、先端に細かい、裁縫針のような突起がついていた。
それを傍らの汚臭が漂う水槽の水に浸し、ひゅん、と風を切って振ってから口を開く。
215 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:04:01.11 ID:484YotGN0
「いい格好じゃな豚女」

しばらく虹には反応がなかった。
紅がまた近づき、彼女の目にかかったアイマスクを外す。
明るくなるにつれて、虹が置かれている悲惨な状況が浮き彫りになった。
彼女が磔られている十字架は低温を十分に吸収する金属で作られているらしい。少女が強制的に押し付けられた背中や腕、そして腿の裏側などの皮が半ば凍りついたそれに張り付き、体重でずれて所々痛々しく破れていた。
腕も、足も、時間が経てば立つほど下に少しずつ、自重にて落ち込むように設定されているようだ。その痛みも尋常ではないだろうが、それ以上にアイマスクを外された虹の小さな顔は真っ青に変色していた。目の焦点は合わずに、パンダのように黒いクマが浮いている。
小刻みに震えている小さな裸身を無表情で見渡し、更紗は次いでためらいもなく手に持った鞭を思い切り振るった。
それが虹の細い脇腹に突き刺さり、猛獣の爪あとのように腰下までをざっくり抉って駆け抜ける。パッと赤い血が飛び散ると同時に、少女は目を見開いて体をガクン、と硬直させた。その途端背中の皮が剥がれたのか、目を閉じて小さく、絞るように息を吸い込んで痛みに耐える。
その瀬戸際の瞬間を見計らっていたのか、更紗はもう一度、今度は下から鞭を叩き込んだ。腿の肉がぱっくりと割れて、虹は掠れた悲鳴を上げて磔台の上で体を跳ね回らせた。
それからは信じられないほど悲惨な光景が続いた。
一分……二分。十分以上も鞭を振り上げ、下ろすという動作を更紗が繰り返す。
やがて白い体が血まみれになり、床にその水溜りが広がり。虹の体が落ち込むところまで落ち込んでボロ雑巾のように垂れた頃、更紗はやっと鞭を振るう手を止めた。
いや、紅に背後から掴んで止められたのだった。
荒く息をつきながら、更紗が両目に大きく涙を盛り上げつつ紅の顔を睨みつける。
紅は少しだけ迷ったが、叩かれている途中で口の中を切ったのか、コポッ、と虹が血痰を吐いたのをみてゆっくりと首を振った。
それを見て、更紗は歯を噛み締めると、今度は紅に向かって鞭を振り上げた。それが振り下ろされ、彼の服が破れて背中から血が噴出する。
振り下ろしてしまってから、自分のやったこと、そしてやってしまったことを更紗は自覚したらしかった。震える肩を抱いて、床に倒れこんだ紅に鞭を投げつける。
そして彼女は、見るも無残な裂傷を体中に負わされた虹を横目で一瞥した。
彼女は殴られている間中、体反応的に叫び声は上げたものの、一度も絶叫をしなかった。まるでそんなに激しく痛みを感じていないように、壊れたような呆けた表情をしていたのだ。それが更紗の激情に火をつけたのは事実だった。
しかし、更紗が目を向けた時、手も足も出ずに嬲られていた虹の表情が一変していた。
更紗は、彼女の顔だけは叩いていなかった。
やつれて青白い顔。しかし整ったそ造形の中で、猫の目のようにらんらんと輝き、見開かれた虹の瞳がこちらを凝視していたのだ。
張り付けられている血まみれの少女は、更紗と目が合うと嬉しそうに、ニヤァと笑ってみせた。
全身に悪寒が走ったらしかった。
更紗の目が見開かれ、本当に震え上がったのか、小さな体がその場に硬直する。彼女は隣の紅が立ち上がり、静止するよりも早く。
火鉢に突っ込まれていた火かき棒を手で掴み、大股で虹に歩み寄った。そして、身長さがあるもののしっかりと棒を伸ばし、彼女の頬の脇で止める。

「……何故笑う……」

震える声だった。

「何故ゆえに笑うのかと聞いている!」

真っ赤に焼けた鉄に髪を焦がされながらも、虹の涼しい顔は歪まなかった。何でもないことのようにそれを一瞥し、彼女は次いで血まみれの自分の体を見た。
次の瞬間、虹の顔色が変わった。
ガタン、と音を立てて磔台を動かし、体を固定しているバンドを引きちぎろうと暴れまわり始める。
216 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:05:22.37 ID:484YotGN0
「主様、離れて下さい!」

紅が駆け寄り更紗を抱き寄せるのと、彼女が火かき棒を振り下ろすのはほぼ同時だった。小さな手で焼けた鉄は振り回され、見当違いの方向に飛んでいき、床に転がる。

「返せ……」

虹は人が変わったように、明らかな狂気の色を瞳に宿しながら絶叫した。

「ヘッドフォンを返せ……! 返せ返せ返せ返せ返せ返せ!」

「な……何事じゃ……?」

あまりにも突然の変貌に、更紗は口元に手を当ててその場を後ず去った。暴れているために少女の体中に開いた凄惨な傷口が更に開き、周囲に血液の飛沫を飛び散らせる。

「殺してやる殺してやる! 返せ! 返せ! 畜生畜生畜生畜生畜生! 分かった、分かった今すぐ取り返すから引っ掻かないで! 痛いよ痛い、痛い!」

ガタン、ゴトン、という磔台が暴れまわる様は、近づくことの出来ないほどの非現実的な地獄様相を呈していた。想像だにしていなかった言葉を失い、更紗と紅が立ちすくむ。
声が枯れるまで暴れ狂い、激しく咳き込んで虹が沈黙した頃には、彼女の両腕両足で十字架に固定されている部分は、皮と肉が削れて骨が見えそうにまでなっていた。
しばらくして虹は。
喋ることが出来ずに後ずさりをする更紗の耳に、今度は静かになった虹の方向から、掠れた泣き声が聞こえた。
くすん……くすん……とまるで少女のようにか細い声で泣き出し、次いで今まで狂乱を起こしていた虹は、唐突に大粒の涙を浮かべて泣きじゃくり始めた。

「…………かえしてください…………」

亡者のような生気が感じられない声だった。か細く、しわがれ、どす黒い何かを孕んでいるささやき声。見開いた目からボロボロ涙をこぼしながら、しかしそれでいて無表情を呈している口が動き、声が絞り出される。

「かえしてください……かえして……かえしてください……かえしてよ……おねがいしますなんでもしますからかえしてくださいおねがいしますおねがい……かえして……かえしてください……」

「……」

「いいこになりますいっしょうけんめいやるなんでも……がんばる……いっしょうけんめいがんばるから、いっしょうけんめいいっしょうけんめいがんばりますからだからかえして……かえしてください……おねがいしますおねがいします……かえして……」

いち早くこの異常事態から立ち直ったのは紅だった。震えて硬直している更紗の肩を抱き、そっと耳元に囁きかける。

「主様……尋問は無理です。およそまともな会話が出来る状況ではありません」

「見れば分かるわ!」

ヒステリックに怒鳴り、彼女は着物を翻して地下室の出口に足を向けた。

「あ……主様! この後の処置はいかようにいたせば……」

「捨ておけい!」
217 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:05:53.85 ID:484YotGN0
居丈高に言い放ち、戸の隙間をかいくぐって大魔法使いが姿を消す。紅は一つ、大きなため息をついて、血の海となった虹の方に目をやった。
暫く両手で拳を握り立ち尽くしていたが、やがて意を決したのか、ブツブツと呪詛のように「おねがいします」を連呼している虹に近づく。そして彼は、傍らに汲んであったバケツの中に、血止めの錠剤を投げ入れてかき混ぜ溶かすと、それをそっと虹の体にふりかけた。
凄まじい痛みのはずなのだが、少女に反応はなかった。体の所々がビクビクと痙攣しているが、更紗が出て行った虚空を見つめたまま、半開きになった口が絶え間なく動いている。

「かえして……かえしてかえして……かえしてください……おねがいしますから……」

寒気が沸いてくるのを耐えながら、紅は手早い動作で虹の傷口に包帯を巻きつけていった。腕と足の固定部にも、内側に織り込むようにして包帯を固定する。
傷口は深く、皮もはがれている。血もすぐには止まらない。重症だ。このままここに放置していたら死んでしまうのは間違いない。
ほぼ体中に包帯を巻いたことになる。その処置を十分そこらで済ませると、紅は虹を磔にしたまま台を降りた。そして火が燃えている火鉢に近づき、大量に石炭燃料を放り込んでから、足早にその部屋を去ろうとする。

「ひゃはっ……見つけた」

そこで、やけにはっきりと虹が呟くのが彼の耳に飛び込んできた。ハッとして立ち止まり、肺が何か見えない力で握りつぶされているかのような錯覚を受けつつ振り返る。
薄暗い地下室の中で少女は、憔悴しきった顔でぼんやりとこちらを見ていた。その表情と、そして状況。彼女の負っている傷。更にやつれ切った死相の浮かび上がった顔色。それら全てを総合して。
それは、まさに死神の顔だった。
骸骨。ドクロ。
紅が想像し、心の底から震え上がったのはそれだった。

――その時彼はやっと理解した。

彼の想像していた少女がすでに手遅れであることを、理解してしまったのだ。
それはあまりにも残酷で、どうしようもない現実だった。
また彼女がすすり泣く。。
紅は口を開こうとしたが……思いとどまり、急ぎきびすを返してその場を離れた。
218 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:08:27.70 ID:484YotGN0
17 ヘッドフォン

 足早に地下道を歩きながら、更紗は震えてきた肩を自分の腕で掴んだ。大きく息をつき、呼吸を整える。
 
(分かりきっておったことではないか……)

――何故殺さない?

胸の中で、誰かに聞かれたような気がした。

――何故すぐにでも殺してしまわない?

そうすれば、すっきりだ。
後腐れも心配事も何もかもすっきりなくなってしまうだろう。
だって、あとはあの女だけなんだもの。
あの女さえいなくなれば、新しい人生を歩み出せるんだもの。
その筈……そうでなければいけない。

――なら、何故殺さない?

殺してしまえばよかった。心の中にそんな考えが渦を巻いてあふれ出す。
少しだけヒネればいい。それだけだ。本当に、それだけのことなのだ。
ドン、と壁を叩いて更紗は蝋燭の明かりに照らされた壁を叩いた。歯軋りをし、何かを懸命に押さえつけようと息を詰める。途端、彼女の周辺の空気がぐにゃりと歪み、突如地面に四つの黒色棺が突き立った。どこから現れたのか、その一つが幻のように掻き消えると共に、彼女が叩いていた壁が、轟音と砂煙を上げて吹き飛んだ。
発破でもかけたかのような局所的な爆発だった。
狭い通路で爆弾など使用すれば、生き埋めになってしまう可能性だってある。しかし更紗の目の前には、まるで円錐形のキリでもドリルのように回転させて押し込んだような……。
先が見えない鋭利な穴が開いていた。
ガラガラと通路壁に使われている煉瓦が一部崩れ落ちる。大きく息をついて目を閉じる。
すると、彼女の周囲に突き立っていた棺が全て、幻のように掻き消えた。
大粒の脂汗を浮かべながらふらふらと歩き出す。
そして彼女は、独房だったのか鉄格子がはまった一つの部屋の前に立ち、扉を開けて中に入った。そして扉を閉め、硬く鍵をかける。
そこは、色とりどりの装飾がなされた布で覆われた、人形の寝室のような部屋だった。中央に巨大なベッドが置かれており、その上に屋根のように薄い様々な色の布がしなだれかかっている。床には毛皮のカーペットが敷き詰められており、その他には何もない。窓もない部屋の中で、更紗は床に投げ出されている一式の洋服に目を留めた。
それは、虹から剥ぎ取った彼女の服だった。
219 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:10:03.27 ID:484YotGN0
その前に座り込み、上着を手に取ってから、彼女はそれを胸に抱きしめた。そして大きく息と共に匂いを吸い込む。
そして、先ほどの返り血で自分に飛び散っていた虹の血を、指ですくって口の中に入れる。
しばらくしてまた浮かび上がってきた涙を手で拭い、そこで彼女は、服に紛れていた黒いヘッドフォンを手に取った。上着を抱きながら、片手でそれを様々な角度から見つめる。

「……何じゃ、これは……」

小さく呟き、そして更紗はそれをそっと耳に近づけた。
最初は、ノイズかと思った。
機械のざらついた音。それだけかと思った。
だが数十秒も耳に近づけ、その音の正体に気づいた途端、彼女は小さな叫び声を上げてヘッドフォンを放り出していた。

「ひっ……」

声にならなかった。
先ほど虹の狂気を目の当たりにした時とは比べ物にならないほど硬直し、飛び出しそうに目を見開いて唾を飲み込む。
『愛してる。お前だけだ。俺は、お前のことを愛してる』
キュルルル……と音声が巻戻り、それがまたリピートされる。
それだけ。その、繰り返しが延々。延々と流れ続けている。そっと、囁き声の音量で静かに……ずっと、ずっと流れ続けている。
カーペットに転がったヘッドフォンに、更紗は近づくことが出来なかった。ベッドの方まで後ずさっていき、毛布を引き摺り下ろして頭から被る。そして彼女はその中で硬く耳を手で塞いだ。

「お許しを……」

彼女の口から漏れたのは小さな呟き声だった。大粒の涙をボロボロとこぼし始め、ついには先ほどの虹のように肩を震わせて泣き始める。

「お許しを、にに様お許しを……にに様……お許しを……」

扉の外に紅が立つ。
彼はノックをしようとし、しかし彼女の呟きに耳を止め、その場に停止した。
小さな大魔法使いの泣き声は、暫く待っても止むことがなかった。
220 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:11:08.56 ID:484YotGN0


 雪が、降り止むことはなかった。ドームの空調設備が壊れているらしい。昨今は珍しいことではない。どこの場所も、例え地球の裏側に行ったとしても同じだろう。
そうだ。人間の世界は確実に終わりを迎えている。地球なんてちっぽけな場所の中で、同じように繁殖し、同じように広がり、同じように愚鈍でどうしようもない……そんなコミュニティを形成しながら生きている、下劣で下等で、そして仕方のない生き物群。
ただ生きているだけで自滅に向かっている。
そんな馬鹿らしい話があるだろうか。
小さく息を吐いて首を振る。
階下では兄達が食事をしながら賭け事に興じている声が聴こえる。テラスには雪が積もっていて、肌寒い。
体に降りかかるざらついた雪を手で払い、少女は肩にかけたケープを引き寄せた。テラスはよく整備をなされていたが、やはり深夜半の時分だ。氷が張り、吐く息はすぐに真っ白に展開して鋭い空気の中に紛れていく。
もうすぐ、五日だった。
少女にとっては半日ほど前のような時間感覚なのだが、それは彼女に限ったことであり、兄達はそうではない。

――賭け事は嫌だとあれほど申したのに……

くだらない、くだらない。
いくらなんでも不躾だ。みんなもみんなだ、あれほどの問題をあっさりと納得し、そして楽しげに談笑するなど……。
とても更紗には出来たものではなかった。
階下で兄――泉が大声で笑っている声が聴こえる。
何百年ぶりだろうか、そんな声を聞くのは。
……そうだ。
みんな、その声を聞きにここに集まったのだ。
ならば……なればこそ。
いいではないか。あれくらいの趣向、妹たる自分が笑って同意してあげなければいけないことではないか。
兄が笑って、楽しそうに、幸せそうにしている姿を見て、声を聞くためだったらドブ水をすすったって構わない。みんなそう思っている。
無論、更紗もそうだった。
自分の体を引き裂いて渡してもいいくらいだった。
肩を抱いて息をつく。寒空の下、彼女は二階のテラスから、眼下の街を見下ろした。
この中で能天気に眠っている人間の何人が、ここ……今この場所に悪魔と呼ばれた存在が七人、世界中で全て集まっていると考えるだろうか。誰も、想像だにできないだろう。
それ以前に、この街は更紗にとって実に居心地が悪いところだった。
反神教というものが横行している。
つまり、魔法使い狩り――それを行う過激派がいるという情報を事前に掴んでいた。主だった主要人物だと思われる者は、兄との会合が始まる前に数人の兄弟と共に探し出し、秘密裏に捻り殺してはきたが……どうもすっきりとしなかった。
それは空気というのか……それとも、兄の言いつけを破り、更に彼に対して大きな嘘をついているという自責の念なのかもしれなかった。
兄は――泉は、人間と共に暮らしていこうとしている。先ほど地下の貯蔵庫に忍び込んではみたが、そこに詰め込まれていたのは冷蔵の輸血用血液のパックだった。生のものではない。自分達が持参した特別生成の濃縮血液に口をつけてはくれたが、それだっていつの間にか他の兄弟に分け与えて、自分は大して飲んでいない。
221 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:12:01.68 ID:484YotGN0
他の五人の兄弟は、久しぶりの兄との話に花を咲かせることに夢中で、誰一人更紗のようにことに気づいたものはいなかった。

――兄は、おそらく長いこと生の人間の血を摂取していない。内臓でもいいのだが、あの調子だとほぼ完全に絶っているのだろう。

そんな状態で力が出るはずがない。自分達、BMZ検体は。
それにあの女……。
よりにもよって、仇ではないか。自分達をこんなにした、あいつらの組織……その最も下層な生体アンドロイド――いや、アンドロイドにも劣る、合成組織を生成するためだけに生まれたようなパーツクローン……ト殺用の生体部品の女などを従者にするなど。
兄弟たちは五日の間に受け入れて賛同したようだったが、自分はどうしても納得することが出来なかった。
三百五十年。
その間中ずっと、苦しんできた。他ならぬあの女の組織、エリクシアの暴虐によって。
それを今更許せと言うのだろうか。

(無理じゃ……)

軽く頭を振って、脳裏にちらつく金髪を振るいだそうとする。汚らわしい、汚らわしい。

――また、ワッと下で歓声が上がった。

こんな楽しげな声を聞くのは、何百年ぶりだろうか。
本当に……何百年ぶりのことなんだろうか。
それを考えると、どうしても異を唱えることが出来なくなってしまったのだ。
女。
女だ……。
自分と同じ、同じくらいの体年齢の女。
そうだ……それに。
更紗にはその異を唱えるという行為自体が、自分の中に生まれている下劣な感情、他でもない人間のそれに由来するものだということが分かっていた。分かっていたからこそ、口に出すことが出来なかった。兄が笑っていたから。世界で一番好きな兄が、あんなに嬉しそうにしていたから。
うなだれてため息をつく。

(何をやっているんじゃわらわは……)

何だかすべてが面倒になり、寝よう、寝て忘れてしまおうとあてがわれた自室に戻ろうと、くるりと体を反転させる。そこで彼女は、テラスに通じるドアをおぼつかない手つきで開け、一人の少女が顔を覗かせたのを見た。
――あの女だった。
小娘。泥棒猫。
いや、豚。
無意識のうちにキリ……と歯を噛み締めていたが、すんでのところでこみ上げてきた黒い濁流を押し殺す。
222 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:12:54.26 ID:484YotGN0
(何を考えているんじゃわらわは……とんだ阿呆ではないか……)

大きく深呼吸をし、そっけなくその脇をすり抜けようとする。しかし金髪の少女……フィルレインは、手にトレイを持ったまま、どもりながらか細く口を開いた。

「あ、あの……」

「……」

一応立ち止まり、無言で彼女の顔を見上げる。

「泉に、これ持っていってくれって……」

人と人との接し方がまだ良く分からないのか、フィルレインはぎこちなく微笑みながら、手に持ったトレイを僅かに上げた。そこには温かく湯気が立ったスープが乗せられていた。

「寒いと思うから……お部屋に運んだ方が、いいかな?」

そっと聞かれ、更紗は嫌悪感をモロに顔に出してから、投げやりに口を開いた。

「いらぬ。そなたが飲めばよろしかろう」

「え? あ……でも、私はそろそろここ、出ないといけないから……」

言いにくそうに、どこかずれた笑顔を向けながら少女が言う。更紗はその言葉の綾を耳ざとく聞きとがめ、眉をしかめて続けた。

「出る? そういえばお主、ここ数日夜半に外出して、朝方戻ってくるな。にに様の手前なにもせんだったが、不貞もほどほどにせよ。わらわにも堪忍袋の尾というものが存在するでな」

「ふてい? よく分からないけど……何か、気に障った……かな?」

相手が威圧的でかつ、かなり内情的に怒っているということが分かったらしい。小動物のようにびくつきながら、金髪の少女は肩をすぼめた。
更紗はもう一度歯を噛み締めると、大股で彼女に近づき、その顔を下から射抜くような視線で覗き込んだ。

「……にに様の手前でなければ……売女めが」

言葉に出した瞬間、更紗の理性の一部が決壊した。彼女の瞳が早代わりのように血色に変色し、次いでその周囲に陽炎のように四つの棺……その影が表れた。ゆらゆらとそれらを揺らめかせながら、少女は続けた。

「一度しか聞かぬ。どこに行っておる?」

「……」

突然の威圧に、頭がついていかないらしかった。ポカンと周囲に展開された魔法の雰囲気を感じ取ったのか、フィルレインはトレイを持ったまま後ず去ろうとして、しかしテラスの床に走っていた継ぎ目に足を引っ掛けて、派手に尻から転倒した。
受身をとろうという考えさえなかったらしい。したたかに後頭部を壁にうち、うずくまった彼女の周囲にスープがぶちまけられる。
223 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:13:35.23 ID:484YotGN0
「……」

仇一派のイメージとは、圧倒的に違った。いや、あまりに情けなさ過ぎる。頭を抑えて硬直した少女を見下ろし、今度は逆に更紗が呆気に取られ、ポカンと口を開けた。
てっきり好戦的な反応が返ってくるのかと思っていた。兄の趣味は、反抗的な女性のはずだ。それにしては……か弱すぎる。最初は演技かとも思っていたが、どうも違うようだ。

――これは、本当に弱い。

魔法を使わなくても捻り殺せる。それを確信させるほどのか細い存在だった。
それを直感的に感じ取り、更紗の瞳が元に戻ると共に棺の幻が寒空に掻き消える。

「ご……ごめんなさい……」

何が何だか分からないのだろう。
かすかに震えながら、フィルレインはやっとのことでそう呟いた。

「こんな寒いところに引き止めちゃったから……ごめんね、中に入ろう?」

「わらわは、貴様がどこに行っているのかと聞いているのだ」

淡白にそう聞くと、金髪の少女は少し考えた後、引きつった笑顔を彼女に向けた。

「私はエリクシアだから……」

「……」

「一緒にいれば、皆さんが嫌な気分になるかなって思って……」

本当は知っていた。
外部に宿泊させている自分の従者に後をつけさせ、彼女が二キロ以上離れた宿に寝床を持っているということは、既に調べてあったことだった。泉も黙認しているらしい。
その疑問を払拭したかったのだが……だが、返ってきたのがあまりにも陳腐な、子供っぽい答えで、更紗は呆気にとられて少しの間停止した。

「ごめんなさい……私、もうここ出るから、泉と楽しく過ごしてください」

いそいそとフィルレインは立ち上がると、ペコリと更紗に頭を下げた。そして足早にテラスを後にする。
一人取り残された形になった更紗は、暫くの間テラスにぶちまけられたスープを見下ろしていた。

「……何じゃ、あ奴……」

漏れた呟きは小さく、そしてかすかに震えていた。
224 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:14:12.83 ID:484YotGN0


 時刻は、夜の三時を回っていた。階下の兄弟たちはもう休んだのか、笑い声は聞こえなくなっていた。更紗は、メイドロボが用意をしたベッドの毛布に包まりながら、枕を胸に抱いていた。
どうして抜け出したのかは分からない。
ただ、無性に心細くなり――こんなことは普段はないことなのだが、兄の家にいるということで気が緩んだのか――眠れないということだけを告げに、泉に会いに行こうと決める。
あの従者とかいう売女は、家の中にいない。正直なところあれがどうなろうと、何を考えていようと、更紗にはどうでもよかった。
どうせすぐ兄は飽きる。
今までのように。
そう、兄は遊んでいるに過ぎないんだ。
これだって気まぐれだ。ただの気まぐれ。
あれが妙な気遣いをしているのは気になるが、ちょっと変わっているというだけのことだろう。
兄は、変わらないんだ。
そこまで考えると、無性に泉に会いたくなり、更紗は扉を軋ませて肌寒い廊下に歩み出た。
彼に抱きついて、あの匂いを思い切り吸い込みたい。頭を撫でてもらいたい。抱いてもらいたい。
そうだ、今日は理由をつけて一緒に寝てもらう。何百年ぶりだろう……そんな日が来るなんて想像もしていなかった。忘れ去ってしまっていた。
思いついたその計画に胸が高鳴り、自然に踏み出す足も速くなる。
護衛も警戒もつけずに夜半歩き回るのは、本当に久しぶりのことだった。
巨大な螺旋階段を登り、兄の寝室の前に立つ。
明かりがついている。そこで彼女は小さな手を伸ばし、コンコンと扉を叩いた。
数秒間、応答がなかった。
おかしいな、と思いもう一度叩いてみる。するとそこで気づいたのか、中から足音がしてドアが開いた。

「にに様」

満面の笑顔で上を見上げると、しかしそこにいたのは兄ではなかった。彼よりも大きく、かつ無骨な格好をした弟だった。部屋の中だというのに体は踝までを隠す厚手の黒いコートに覆われていて、その顔面は八割がアンドロイドの素体で構成されていた。粗野で整った顔立ちだが、所々大雑把にコードや端末類が飛び出している。左目には記録素子のようなものが埋め込まれ、軽いモーター音を立てていた。
彼はまず周りを見回し、そして自分の身長の自分の位置ほどしかない姉の姿を見つけたらしく、くぐもった声を発した。

「大姉さん、こんな時間に何ヲ?」

機械の音声のようにざらついた声だった。声帯にアンドロイドの声帯部品が使われているが、その調子があまり良くないらしい。
更紗は自分の三つ下の弟……功刀(クヌギ)を見上げると、がっかりしたのをモロに表情に出してからそれに返した。
225 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:15:06.37 ID:484YotGN0
「何故そなたがここに……?」

「更紗か? 寒いだろ、早く入れ」

そこでやっと兄の声が聴こえて、少女は顔を輝かせて功刀の脇腹を突き飛ばしながら部屋に駆け込んだ。そしてベッドに腰を下ろしていた泉に、飛びつくようにして抱きつく。

「お、おい。いきなりどうした?」

「怖い夢を見たのです。にに様……」

そのまま泉の胸に思い切り抱きつき、大きく息を吸い込む。

――しかしそこで、更紗の動きが少しだけ止まった。

違う。何か変なにおいがする。

――香水?

あの女がつけていた、香水の匂いだ。

「ははっ、大姉さんでもビクつくような夢があるんですカネ?」

軽く噴き出して、功刀がドアを閉める。
泉は動きを止めている更紗に気づかないのか、彼女の頭をぐりぐりと撫でてから軽く笑った。

「分かった分かった。それじゃ今日は一緒に寝るか」

「勘弁してくださいヨ兄さん。そういうノは余所でやってくレ」

「そんじゃお前が気を利かせるべきだと思うがな」

軽口を言い合っている二人。

――兄が笑っている。

更紗はそこで、無理に自分の感情を押し込めて泉の隣にちょこんと腰を下ろした。

「何のお話をしていたのです?」

話題を転換させようと、言葉を挟む。聞かれて泉は、軽く肩をすくめて言った。

「いやぁ、大したことじゃねぇ。功刀がこの街に住みたいって言っててさ」

「へ?」

素っ頓狂な声を上げて弟を見ると、半機械の魔法使いは苦笑しながらドア脇の壁に寄りかかった。

「オレのいたドームは、エリクシアの攻撃で半壊しちまってさァ。各所を点々としていたんですが、そろそろ暫く安定したくてネ」

「しかし、お前食事はどうするのです?」

「オレァ大姉さん達と違うからサ。そこまで躍起にならんでもいいんデ。テユウカ、別に俺ァとらんでも生きてケルもんなんでサ」

そう言って功刀は、大きなモーター音を立てながら肩を回して見せた。
226 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:16:18.13 ID:484YotGN0
「まぁ、功刀ならいいだろうとは思うんだ。一所に俺達が全員集まったことなんて、今までもなかったことだからな。しばらく暮らしてみて、何とか出来そうじゃないかとも思ったわけだ」

泉が補足するように付け加える。
そこで更紗は、彼の言葉に被せるように口を開いていた。

「ならば、わらわもここで暮らしまする」

「お前も?」

「大姉さんモ?」

泉と功刀が同時に言葉を発して、お互い顔を見合わせる。

「いや……別に構わんが、いいのか?」

「良いも悪いもありませぬ。決めた。今、わらわは決め申した」

そう言ってぎゅう、と隣の泉の腰に抱きつく。彼は困ったように暫く考えた後、軽く息をついて言った。

「ま、明日話するか」

「この調子じゃ、俺らみんなここに暮らすことにナルかもしれませんナァ」

「そこまでは考えてないぞ」

泉の何気ないセリフ。
だが、更紗は抉られるように激しく胸が痛むのを感じていた。
裏返しの意味。

――別にいいよ。

別に……。
軽く歯を噛む。表情に出るのを何とか押し殺し、彼女はそっと息をついた。
そのまま少しの間、何気ない話を三人で交わす。正直、この弟は嫌いではなかったが、今は煩わしくてたまらなかった。久しぶりの兄との一対一の会話なのだ。後から来たとはいえ、自分は姉。夜も短い。気を利かせて出て行って欲しい。
何とか態度で伝えようとするが、どうも功刀側にも泉と個別で話したいことがあるらしかった。もしかすると、更紗が来る前にはその話をしていたのかもしれない。
そう考えると――。

(にに様は、わらわに隠し事をしている)

思わずベッドの毛布を手で掴む。更紗の目が血色を呈するのと、かなりの厚みがあった毛布の一部に裂け目が走り、音もなくキリのような穴が床まで突き立った。
無音。しかし精密機械のように正確な現象だった。
227 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:17:14.59 ID:484YotGN0
「……じゃあ功刀、続きは明日にするか」

慌てて毛布に走った裂け目を尻に引いて隠した時、唐突に会話を打ち切って泉が言った。それに戸惑ったように何かを言いかけ、しかし功刀は立ち上がった。

「分かりャした。大姉さんモ、いい夢ヲ」

「莫迦にするでない」

「怖い夢を見たってのはジブンデショ?」

「はよう去ね。ほれ」

しっしっ、と手を振ると、苦笑して彼はドアに手をかけた。そして出て行く寸前で立ち止まり、首だけ振り返って泉を見る。

「そういえば、大兄さんノ従者……アレ、どこ行ったんカ教えてくれンですカ?」

その瞬間、部屋の空気が凍りついた。僅かに微笑んでいた更紗の表情が硬直し、しかしそれに気づいていないのか、泉は何でもないことのように言った。

「ああ。三番街のJH三号、十二室だ」

「了解しャした」

「……」

「確か更紗には言ってなかったと思うがな」

「……」

「フィルレインはまだ対人不全脅迫分裂のLMBLSDが治らなくてよ。少し離れた宿に泊まってるんだ」

知っているとは言えなかった。
しかし――。

(病気……?)

よく分からない病名が出てきた。きょとんとした表情を返すと、事前に聞いていたのか、功刀は頷いてから言った。

「ま、無駄な知識だとハ思っていたケド。暇だし、姫サマのこと、ちょっくら見てくるワ」

(何ですって……)

その瞬間、更紗は飛び掛ってでも功刀を止めたい衝動に突き動かされた。しかし唐突に、隣の泉が手を握ってきたのを感じてそれを押し込める。第一……どうしてそんな感情に突き動かされそうになったのかは分からなかった。
理由なき激情だ。
功刀は軽く笑うと、顔の前で指を振った。

「ほんじゃ。ごゆっくリ」

「阿呆。じゃあフィルレインを頼んだぞ」

「後で上手いこと、チェス負けてくれナ」

そう言って彼は扉を開け、モーター音を立てながら部屋を出て行った。
228 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:18:15.07 ID:484YotGN0
「さて、待たせてすまなかったな更紗。どうしたんだ?」

功刀の足音が遠ざかってから、泉が口を開く。更紗は兄の手をしっかりと握り、そして持ち上げると小さな口を開け、彼の手の甲に前歯を立てた。
かなり強い力で噛んだらしく、皮膚が破れて血が溢れ出す。それをジュルジュルとすすってから、表情を落として彼女は息をついた。

「……にに様、これからわらわと一緒に食事をしに行きましょう?」

「何を言い出すかと思ったらそんなことか。血なら地下室に一杯あるよ」

「あんな冷凍の混合血液なんて、何の魔力もありませぬ。このままでは病気になってしまわれますよ?」

流れ出る血がベッドに垂れ、赤い染みを作っても泉にそれを気にする風はなかった。

「いやぁ、今日は遅いからいいよ」

「ごまかさないでくだされ」

更紗が被せるように声をあげる。泉は驚いたのか口をつぐみ、少しの静寂を経た後かじかんだ笑みを発しながら続けた。

「病気にならもうなってる」

「……………………?」

更紗は、その言葉の意味が理解できなかったのかかなり長い間唖然としていた。いや、理解なら聡い少女のことだ。即座に為していたのだろう。しかし、その言葉の裏の意味や、本質などを認識することが出来なかったのだ。

「な……」

「もう治らん。だから、今更魔力を充填したって意味がねぇ」

「ええと……」

「だって、それを使う機関がやられちまってるからな。まぁ言うなれば、魔法を使えば使うほど悪化するって奴だ」

「にに様?」

「食事をしたいんなら他の奴を誘えな。あ、赤ん坊だけは止めとけ。一人につき一リットル以上を抜いちゃ……」

「冗談がきついです」

はは……と引きつった笑みを表に出し、更紗は青白くなった顔で彼を見上げた。

「少々度が過ぎます。そんなにわらわを青くさせて面白いですか?」

「冗談じゃねぇよ」

さらりと言い放ち、彼は無造作に自分の上着を脱ぎ払った。そして胸を指し示してみせる。

「ほらな」

「………………」

情緒も何もなく、大口を開けて更紗は硬直した。
229 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:19:21.08 ID:484YotGN0
何分間沈黙していただろうか。
泉が元通り服を直した後も、彼が俯いたままの更紗の肩を抱いて引き寄せた後も、目を見開いて少女は固まっていた。
何十分経っただろうか。

「…………いつかこうなるとは思っておりました」

ポツリと、更紗は口を開いた。

「おかしいとは思っておりました……突然わらわ達全員を招集するなんて、ここ数百年でも尋常ではありませんもの……」

「別に隠してたつもりはねぇよ。ま、寿命ってとこだな」

「…………」

返す言葉がないのか停止している更紗の肩を叩き、しかし泉は屈託なく笑った。

「報いだよ。そろそろ来る頃だと思ってたんだ。そうだよなぁ、俺らだけ特別って訳じゃぁねえよな」

「報い……?」

「ああ」

端的に答えた泉の胸に、トン、と軽く更紗は頭を預けた。

「涙のようになる前に、俺はこれ以上の侵食を止めなきゃならねぇ。分かったか? 意味が」

「……」

「なぁに難しいこっちゃねぇよ。魔法を使わなきゃいいんだ。それだけだ」

「何故ですか?」

そう聞かれ、少しの間泉はきょとんとして更紗を見下ろした。

「何が?」

「使えば良いではないですか……」

「……」

「にに様がもしも、ねね様のようになってしまわれても……わらわがいまする。今度はわらわがお傍におります。なれば、心置きなく懸念を払拭されて、それから静穏な暮らしを望まれても良いではないですか」

「……」

「わらわ達が生きてきた、この長い、長い刻は一体何だったのですか?」

そこまで言った途端、更紗の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。それは止まらず、溜まらず少女は兄の胸にしがみついて、声を殺して泣きじゃくり始めた。
230 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:20:03.27 ID:484YotGN0
「あんまりです……こんなことはあんまりじゃ……何故にに様が? 何故、わらわではないのです? 何故?」

「お前もいつかこうなる。それが遅いか早いかの違いだ」

淡々と言葉を発し、妹の髪を撫でながら泉は言った。

「俺達は全員報いを受けなきゃいけねぇ。それは多かれ少なかれ、俺達の為したカルマを清算した後でのことなんだ」

「……」

「お前がこうなった時、傍に俺がいなければどうするんだ? また、あの時のようなことになるのか?」

「……」

「そんなことは御免だ。もう、お前らをあんな形で失うことは二度と御免だ」

「……」

「だから俺は、この報いを甘んじて受けようと思うんだ」

沈黙している更紗に優しく語りかけ、泉は彼女をそっとベッドに寝かせた。

「お前達には、それに気づいてもらいたい」

また、大分長いこと静かな空気が二人の間に流れていた。
意外なことに、更紗はそれ以上取り乱したりはしなかった。ある程度予測は出来ていたことだった。
そうだ、泉の行動は不自然すぎたのだ。
ただそれを異常事態として認識できなかったのも事実だった。久方ぶりの再開……そしてそれ以上に、異常な人員の紹介に乱されてしまって気づかなかったと言った方がいいかもしれない。
231 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:21:39.11 ID:484YotGN0
「あの女は……」

沈黙ほど雄弁たるものはない。
更紗はそれに気づいていた。
しかし、涙に濡れた頬が自然に動いた。
泉は暫くの間考え込んでいたが、やがてポツリと一言言った。

「まぁ……俺の責任だからな。大方……」

「にに様の?」

「壊した玩具は、責任を持って片付けなきゃいけねぇだろ?」

「……」

「そういうことだ」

「…………それだけなのですか?」

「……」

彼は上着を脱ぎ、そして纏っていたズボンも脇に放り投げると、毛布をめくり上げてベッドの中にもぐりこんだ。そして寝巻き姿の更紗を抱き寄せて、強く引き寄せる。

「さぁなぁ……」

発せられた答えは、簡潔なものだった。

「あの女の臭いがします……」

「気のせいだろ」

「……」

「壊した玩具は元には戻りませぬ」

「たまにはいいだろ」

「……」

彼女の髪をかきあげる。

――そして彼は、ベッド脇に立ててあった大型ランプに手を伸ばし、そのスイッチを切った。
232 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:22:31.41 ID:484YotGN0


 次の日、更紗が目を覚ましたのは昼近くなってのことだった。泉のベッドの上で、ほぼ半裸に近い格好でぐったりと横になっていたのだ。慌てて起き出し、傍らに寝ているはずの泉の姿を探す。しかし、すっぽり抜けているその部分はすっかり熱も冷め、彼がかなり早い時期に起き出していたことを示唆していた。
近くに設置されていたテーブルには、自動湯沸しの機械にコーヒーがくべられている。焦げ臭い臭いが部屋の中に充満している。時刻は十一時。昼近いことを考慮してか、テーブルにはクッキングペーパーでくるまれたサンドイッチが置かれていた。

――いいと申したのに……

泉の好意なのだろうが、更紗はどうもこの人間の風習に馴染むことが出来なかった。しかし一応は愛する兄の用意してくれた食事だ。小さな手を伸ばし、ベッドに上半身を起こしたままコーヒーをカップに注ぐ。そして口につけてみて……思わず彼女はそれを吐き出しそうになった。

(な……何じゃコレは……)

今までは頑なに拒んでいて、口にするのはこれが最初だ。頭の芯が苦味とエグみで飛び出しそうになり、かろうじて口の中のものは飲み込んだものの、慌ててカップをテーブルに戻す。
何度も毛布で口を拭い、そして彼女は傍らに……昨晩泉の手の甲を噛み千切った時に垂れた血痕を見つけた。よく見ると所々に点在している。
見つめているうちに辛抱がたまらなくなり、彼女は手近なシーツを手繰り寄せると、まるで哺乳瓶に吸い付くかのように口の中に入れて強く吸った。
段々と彼女の顔の血色が良くなっていき、コーヒーでずれた味覚が元に戻っていく。

(あ……あんなものを毎朝飲むのか……)

昨日まで、朝食や昼食の席で泉はコーヒーを飲んでいた。もしかしたら兄は、味覚が麻痺しているのかもしれない。本気で心配になり……次いで更紗は、昨晩打ち明けられた事実を電撃のように思い出した。
思わず叫びだしそうになり、何とかそれに耐える。

――報いだ

そう、兄は言っていた。
彼女には分かっていた。いずれ自分も、いや……兄弟皆報いを受けなければいけないという事実を。
しかし有り余るほどの憎しみと、そしてやるせなさと。
何より兄がいる、この世界に存在しているという逃げ道がそれを塞いでいたのだ。

だが――

そうだ、致命傷ではない。

その事実に気づき、パッと頬に血がさす。
致命傷ではないのだ。
今の時代は、あの頃のように生きるために魔法を使わざるを得ないような。そんな時代ではないのだ。
そう。そうだ。そうなのだ。
兄は魔法を使わなければいい。自分が護ってやればいい。
それこそ何百、何千年でもいい。一緒にいて、護ってあげればいいのだ。かつて自分が、自分達がそうしてもらったように。
233 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:23:12.11 ID:484YotGN0
――そうしよう、いや、そうしなければいけない。

心の中で自己完結し、更紗は大きく深呼吸をした。
そうだ、分かっていたことだ。
慌てるような話題ではない。
兄は今……とても、そう、とてもこう……幸せそうだ。
それでいいではないか。
それで。
彼女は自分の親指を口に含むと、犬歯で軽く噛んだ。そして膨れ上がってきた自分の血を音を立てて吸いながら、兄が残していったであろうサンドイッチを手に取る。
少し躊躇をしたが、それをちびりちびりとかじり始めた時だった。

「……だ!」

突然、階下から兄の怒鳴り声が部屋の中に聞こえてきて、更紗はサンドイッチをベッドの上に取り落とした。

(え……?)

急ぎ耳を凝らしてみる。
それは、確かに兄の怒鳴り声だった。

「……ふざけるな! …………だぞ!」

所々聞こえない。何事かと思い、彼女は傍らのナイトガウンを羽織って、髪をぐるりと縛った後、部屋から肌寒い廊下へと抜け出した。
階段を降りて、一番下の部屋から聞こえる。螺旋階段の下……一階の応接間には、功刀と泉を抜いた他の兄弟たちが集まっていた。皆にこやかに談笑している。どうやらここ、四階から三階にかけての声は階下に届かないらしい。
足音を立てないように歩み寄り、彼女は声がする部屋の前に立った。そしてノックをしようとして、それが僅かに空いている事に気づく。

「いい加減にしろよフィルレイン!」

手を伸ばしかけ、しかし彼女は泉の叫び声を聞いてそれを止めた。

(何じゃ……?)

そっと隙間から覗く。
そこは、あの売女の部屋らしかった。鏡台や、やけに生活感がない高級家具が並んでいる。
ポケットに手を突っ込み、困ったような顔をして壁に寄りかかっている功刀が見える。
そしてベッドの上には、うつ伏せに泉に押さえつけられたフィルレインの姿が見えた。
234 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:24:02.87 ID:484YotGN0
馬乗りになっている。
抑えられた少女は、金髪をざんばらに振り乱して泣きじゃくっていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、許してください……本当に本当にごめんなさい……」

「謝って済む問題だと思うのか? 功刀が見つけてくれなかったら、お前間違いなく死んでたんだぞ! そんなに俺のことが嫌いか? そんなに俺のことが信用できないか!」

「違うの……ごめんなさい……違うんです……私が馬鹿だから悪いの……許してください……もうしませんから許して……」

「だからそういう問題じゃ……」

「大兄さん、取り敢えず離してやってクダさィ。息できなくなってますゼ」

大きなため息をついて、功刀が言う。そこでやっと泉は、フィルレインの細い気道を圧迫していたことに気がついたらしい。慌てて体をずらし、しかし彼女のことを羽交い絞めにしてベッドの上に上半身を立たせる。

「分かった。じゃあ手を離すから、お前もそれを離せ!」

「これだけは、これだけは許して……これがなくなったら私……打たなきゃ、打たなきゃ息ができなくなるんだよ? 血がボコボコいうの、熱いの! もう私虫吐きたくない!」

「やかましい! 功刀、早く奪い取れ!」

「……手荒な真似はしたくネェんですがネ」

諦めたように首を振り、功刀が壁から離れる。
そこで唖然としていた更紗は、フィルレインの手に小さな注射器が握られているのに気がついた。それと一緒に、アンプル型……おそらく液体薬が入っていると思われるガラスの小瓶が何個かあるのを目に留める。

(あれは……LSF……?)

脳内に恐ろしい想像が駆け巡る。
それは、確かに彼女が知っている薬だった。

(まさか……いえ、でもあれは確かに……)

「やめてぇ!」

そこで人が変わったように金髪の少女が絶叫した。その細い手をこじ開け、無理矢理に功刀が注射器とアンプルを毟り取る。

「返して! 返してー!」

もがく少女を無理に押さえつける泉を一瞥し、少し迷った後、功刀はアンプルをカーペットに放り投げた。そして靴の爪先で粉々に踏み砕く。
その瞬間、フィルレインは目を見開いて絶句した。まるで致死性の病気への持病薬を踏みにじられたかのような表情だった。
235 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:24:58.23 ID:484YotGN0
「あ……っ」

体から力が抜けていき、泉が手を離した後、フィルレインはよろよろとベッドから降り、ぐしゃぐしゃになったアンプルの破片をかき集めようとした。それを見て功刀が軽く舌打ちをし、乱暴に少女の体を抱き上げる。

「姫サン、乱暴はさせないでクダサい。いい加減聞き分けてくレ。あんたはソレがなくても死なナイ。ただ耐えるだけのことが、どうして出来ないんダ?」

(間違いない……)

廊下から覗いている更紗は、その場に張り付いたように動けなくなった。

――あの薬だ。

ゾッとした。
その瞬間、泉の不可解な行動が全て繋がった。
それは、納得と共に恐ろしい事実を指していた。

(耐えられるわけがなかろう……)

功刀は知らないのだ。あの薬が何であるのかを知っていても、もたらす想像を絶する地獄……いや、それを越えた煉獄の世界を知らないのだ。

(……耐えられるわけがなかろう!)

何故生きている?
まずは、その疑問が頭に浮かんだ。
何故、あの売女は生きていられるのだ?
発作などは数分で収まる。それ以外は極めて普通の生活を送れはするが……。
功刀がフィルレインをベッドに放り投げると、泉がすかさずその小さな体を押さえつけ、無理矢理に毛布を被せた。
チラリと見えた少女の体は、泥と雪まみれになっていた。ワンピースタイプの服が、所々破れているところもある。

「泉……」

抵抗する気力をなくしたのか、フィルレインは震える声で呟いた後、顔を歪めて大粒の涙をこぼした。そして顔を手で覆い、声を殺して泣きじゃくる。

「ごめんね……ごめんね泉……私もうダメだよ……もう……今日でさよならだよ……」

「馬鹿言うな! 畜生何処に隠してたんだあれ!」

「もう一回あいつが来たら私耐えられないよ……もうダメだよ……早く戻らないと怒られちゃうよ……約束破ったから……さよならしなくちゃいけないよ……」

「誰がそんなこと言うんだよ! 俺がいるだろう? 断れ! 俺が許すから!」

「ありがとう、ごめんなさい……でも、もうダメなんだよ……ごめんなさい……」

それから先は言葉になっていなかった。号泣。そして訳のわからないことを口走りながら、黙々と顔を覆って泣きじゃくる。それを泉が押さえつけながら、いちいち返事をしている。その繰り返しが五分ほど続いたあと、唐突にフィルレインの声が止まった。
泣き疲れたのだろうか。
憔悴しきった顔で寝息を立て始めた少女を、大粒の汗を拭いながら泉は見下ろし、そしてドサリと床に下りた。そしてカーペットの上に座り込む。
236 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:25:58.62 ID:484YotGN0
「まぁ、注入したのガ少量デ良かったデスワ。俺が発見した時ニハ、もう幻覚ヲ見てましたカラ……もう少しでアナフィキラシー類ですナ」

泉の慌てぶりに正比例して、功刀の言動は冷めていた。彼は冷たい……いや、やるせない瞳で寝息を立てているフィルレインを見下ろした。

「で、どうすンですかィ? この子」

「メイドに言って風呂に入れさせるよ……どうせ起きた頃にゃ全部忘れてる」

「聞いてマセンぜ? LSF患者なんテ」

「言ってなかった」

そう言い、彼は乱れた髪を手で撫でつけ、息を整えて立ち上がった。

「さて、昼飯でも食うか」

「……」

功刀は黙って注射器をコートのポケットに入れると、ぬぅ、と扉の前に立った。そして自分より背が低い兄を、いびつな顔で見下ろしてから言いにくそうに口を開く。

「オレが、少なくとも……大兄さんのかけた魔法ダケでも、解いてヤリましょうか?」

「……」

「治療法はネェが、緩和は出来ル」

「……気持ちは嬉しいが、多分俺の魔法を解いたらこの子は死ぬ。やめておいた方がいいだろう」

「だが死なないカモしれナイ」

はっきりと功刀に打ち消され、泉は息を飲み込んで、フィルレインを一瞥した。

「今はまだ……やめておく」

「マァ……早いトコ決心してクダさい」

「それより、フィルレインにLSFを渡した奴が気になる。この屋敷の中にあったものは全て処分したつもりだ……手に入れたとすれば外部からしかない。あいつにつけてたホストも、死体が見つかったらしい。誰かが恣意的に渡したと考えられる」

「……ソウですかね。おそらく、どっかのバイヤーにでも引っかかったンデショ。俺の従者が、マンマとケムに巻かれて、昨日の四時から五時ごろまで見失ってル形ですかラ……」

「折角治りかけてたのに……」

瞬間、泉の眼光が変わった。廊下で盗み聞きをしている更紗にも分かるほど、部屋の中に流れる空気の色が変化したのだ。
ピリピリと、電流でも流しているかのような刺激的な風が周囲に渦巻く。
泉は大鷲のように目の全体を覆うほど瞳孔を拡大させながら、歯をむき出しにして呟いた。
237 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:26:44.61 ID:484YotGN0
「……いい加減にしろよ……」

「大兄さん、ちょっと……」

「ちょっと出てくる……」

「大兄さん」

「みんなには適当なことを言っておいてくれ。じゃ」

軽く言ってきびすを返そうとした泉を、しかし功刀は肩を掴んで力づくで押さえ込んだ。
そのまま兄を壁際まで押し付け、彼は押し殺した声で続けた。

「ダメでス」

「どけ。テメェも殺すぞ」

「落ち着いてクダサイ。何を熱くなってルンデスカ? LSF症候群は治りませン」

その言葉を聞いた途端、最も衝撃を受けたのは更紗だった。思わず口元を押さえ、後ずさり……そして自分の足につまづいて、廊下のカーペットに尻餅をつく。

「…………」

「バイヤーは、オレの従者に始末スルように命令シテオキマシタ。遅くともあと一時間以内に連絡がアリマス」

「……」

「ですから、今はドウカ」

少しの間、泉は沈黙していた。そして彼は大きく息をつくと、功刀が手を離したのを見て静かに扉の方を向いた。

「……捕まえたら、殺さずに地下室に運ばせろ」

「……」

「後悔させてやる」

そう言い捨てて、乱暴に彼はフィルレインの部屋の扉を開けた。
更紗は尻餅をついたまま、その寸前に慌てて魔法を使っていた。別段その必要はなかったのだが、体が反射的に動いてしまったのだ。彼女の周囲にずらりと黒色の棺……その幻が出現し、その瞬間、ふわりと、まるで蜃気楼のように少女の体が掻き消えた。
それは泉の目に映ったのとコンマゼロ秒も違わない、全くの同時だった。次いで功刀も出てきたが、彼も更紗が尻餅をついていることに気づいたそぶりはなかった。二人が階下に降りていったのを確認し、更紗は震える膝を押さえて立ち上がり、荒く息をつきながら胸を押さえた。

(そうか……だから……)
238 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:27:39.69 ID:484YotGN0
全て、合点がいった。
――しかしこれでは……。
このままでは…………。
(このままでは……)

歯を強く噛み締め、彼女はフィルレインの部屋にそっと入り込んだ。その目が真っ赤に染まる。

(殺すか……?)

今しかない。
殺るなら、今だ。
病死に見せかけて殺すか?
やれ、やるんだ。
心の中で誰かがそう囁いている。

「おぉ更紗、よく眠れたか?」

階下で兄の声が聴こえる。

「にに様、おはようございまする」

そして、自分の声も響いてきた。
こんなことはしたくなかったのだが、兄と功刀には魔法をかけさせてもらっていた。彼らが部屋から出てきたあの瞬間にだ。無論二人はそれに気づいてはいないし、これから気づくこともない。
そうだ、殺るなら今だ。
今やれば、誰も自分がやったなどと思わないだろう。何故なら、自分は兄達と一緒に階下に歩いていくからだ。
ベッドに近づき、売女のことを見下ろす。
その顔はやつれきっていて、青白かった。典型的な中毒者だ。その腕にはおびただしい注射痕があった。放っておけば間違いなく中毒死していたのだろう。
この病気の恐ろしいところは、本人に自覚症状がないところだった。この女自身は、自分は少し体の弱いだけの人間であると思っているのかもしれない。
しかし……。
大粒の汗を浮かべて、必死にこれを押さえつけている兄の姿が脳裏に浮かんだ。
あろうことか、兄はこれのために、魔法を使ってバイヤーを殺すとまで言い出した。

――疫病神だ。

間違いない。これは疫病神だ。売女以下。それ以下の最悪な存在だ。
兄を惑わし、撹乱し、そしてその命を削り取る疫病神。

「渡すものか……」

砕けそうなほど歯を噛んで、更紗は震える声で呟いていた。

「にに様を、こんな女に……」

小さな握り拳を作り、彼女は感傷的にそれを振りかぶった。
しかし、それが振り下ろされることはなかった。
そのままの姿勢で更紗が停止し、一分、二分と時間が流れていく。それにつれて彼女の周囲に突き立った黒色の棺が、一つ、また一つと掻き消えていった。
遂には最後の一つもゆらりと動き始める。

「…………くっ…………!」

声にならないうめき声を上げ、乱暴に彼女はフィルレインの部屋を抜け出した。それと共に、階下の自分の声が、着替えを取りにいくと言って階段を登り始めた。
239 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:29:20.41 ID:484YotGN0
18 虹対更紗

 かなり長い間、更紗は毛布を被って震えていた。ここ、地下刑務所は地下二十メートル地点。数十年前に廃棄された施設を、狂神教の信者にさえも漏らさず、側近だけで固めて改修し、身を置いてから、約二年。

――更紗は、狂神教などは全く当てにしていなかった。それどころか、自分を崇め奉るその人間達を、煩わしいと、ただ単純に思っていた。

電球に群がる愚鈍な益虫。それらが何千、何万と群れたって、自分達の足元……その下の下の下にさえ届かない。
地べたを這いずる下等な蟲と自分は違うのだ。
そうだ、自分は高尚なんだ。選ばれた存在なんだ。
――だからそんなことを気にするものでもなかったし、必要とあれば利用し、そして切り捨てるだけなのだ。
狂神教の信者、その幹部の五分の四が、虹を捕獲、もしくは殺害するための捨石となり散ったという報告を聞いても、更紗の胸には何の感慨も沸かなかった。
いや、それ以上に――スッキリした。
煩わしい蝿が一掃された。
そう思っていた。
そして、その親蝿を遂に網の中に絡め取った。
そう思っていた。
あとは少しだけ蝿叩きを持ち上げ、プチッと潰すだけのはずだった。
しかし……違った。何かが決定的に違う。自分は、何かを見落としている。
毛布を被り、耳を塞いでも尚、彼女の体を襲う震えは止まらなかった。
後は潰すだけではないか。そのはずだ。
しかし――潰そうと心に決めた瞬間、言いようのない恐怖……とはまた違った強烈な、得体の知れないものを感じたのだ。
あの女の笑み。
あの女の目。
顔。
体。
髪。
その全てが自分を愚弄しているような気がする。遥か高み……もう手の届かない場所から、自分のことを見下し、高笑いしているように思える。
憎い。憎い、憎い。
そうだ、ドロドロに生きたまま煮込み、その肉に唾を吐きかけてやりたいくらい憎らしいはずだ。
殺せるはずだ。
だが、殺せなかった。

(何故じゃ……)

手が止まったのだ。出来なかった。
それが圧倒的に簡単であるはずなのに、出来なかったのだ。

(あれは違う……)

思う。その事実を何度も何度も確認する。
240 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:30:51.70 ID:484YotGN0
(ねね様は死んだ。確かに死んだではないか……あれはねね様ではないのだ……匂いも、顔も同じだが……ねね様ではないのだ……)

――数時間もそのまま硬直し、扉の外で自分を呼ぶ紅の声も無視して考え込んだ後、更紗はおもむろに立ち上がった。そして部屋に散乱している虹の衣服、ヘッドフォンを一瞥し、扉を開けて廊下に出る。

彼女は目を血走らせながら走り出し、そして階を上に上がったところにある、地下刑務所の管制室に入り込んだ。
部下として、壊れた機械を修復できる魔法使いを一人持っていたために、監視装置などはボロボロに腐食したままになっている。そこにネット接続端子、及び端末機械だと思われる残骸を見止め、更紗はそれだけ真新しい椅子を引き寄せて慌しく座った。
右天が殺されてしまったため、今は紅にシステムを直させている。今の時刻は深夜の三時半。流石の彼も休憩に入っているようで、姿が見えない。
事前に立てた予定以外の行動をすることに、まずは一瞬の躊躇が沸いた。しかしそれ以上に、彼女の全身は震えていた。
そう、彼女は恐ろしかった。
産まれて初めて味わう、この得体の知れない感情から解放されたかった。
近くに身内の気配がないことを確認すると、彼女は機械の電源と思われる場所を小さな手で押し込んだ。電気のラインは復旧しているらしく、モニターに灯りがつき、彼女にとっては意味不明な文字の羅列が表示される。

――彼女は、文字を読むことが出来なかった。

加えて機械の扱いも不得手だった。今まではそのようなことは、全て従者に行わせていた。しかし今は呼ぶわけにいかない。そうしたら、必ず止められてしまうだろう。
何度かキーボードやタッチパネルを指で叩いてみるが、どうにも部下が操作しているようにならない。それ以前に魔法がかかっていない状況では完全に動作しないのか、おかしな音を立てるだけで思い通りにいかない。

(ええい! ただ通信をしたいだけなのに何故動かぬ!)

忌々しそうにパネルを手で叩く。

(……致し方あるまい)

数分も格闘してから諦め、更紗は意識を目の前に集中させた。その瞳が徐々に赤く染まり、次いで目の前のキーボードが、誰にも操作されていないのにカチャカチャと音を立ててコントロールを始める。数秒もたたずに周囲すべてのモニターに電源がつき、さながら監視機械が完全に動作を始めているかのような状況が展開した。

(誰でも良い……反応を……)

必死の思いで念をこめる。
意外にも、彼女が欲しいものはすぐに手に入った。魔法の成せる業……というのだろうか。彼女には良く分からない理論でプログラムが動作し、ネットのどこかに存在している兄弟の一人に、コンタクトの糸が接続されたことを画面が示す。
彼女が入力したのは、兄弟達の生体データだった。身体的な根幹に位置する、ネットに断片的に登録、または痕跡が残っているDNA情報の一部だ。
無論、彼女にそのような技能はない。それどころか、彼女には、ネット上においてそんな重要かつ、危険極まりない個人データを検索システム上に放流してしまったという自覚がなかった。
だからこそ、彼女は一つ接続が確認できた時には心底ホッとして胸を撫でおろした。
しかし――その内容は、意外すぎる言葉で幕を開けた。

『…………』

そう、沈黙だった。しかし息使い、そしてそこから漏れる雰囲気……それら全てを総合して、更紗の脳に一つの仮説が浮かび上がる。
通信の向こう側は、無理矢理にそれを切ろうとしているようだった。使用している魔法に更に魔力を注ぎ、それをコンピュータ上の操作で阻止を促す。
241 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:31:50.16 ID:484YotGN0
「硲? 硲であろう? 返事をしておくれ、硲!」

必死だった。
殆ど叫ぶようにしてマイクに向かって声を張り上げる。
その一言が決定打となったようだった。
通信の向こう側が一瞬絶句し、そして数秒の沈黙を経た後に。
舌打ちが聴こえた。

「硲……?」

間違いない。弟のはずだ。
この息遣い、そして……舌打ち? 明らかにおかしいとは思ったが、間違いなく弟のものだ。なんだかよく分からないが、モニター上に表示された接続相手のデータを見る限り、彼女が唯一識別できる兄弟の名前……硲ということを意味する文字列が見て取れる。

「硲、返事をしてたもれ! わらわじゃ、更紗じゃ!」

『……』

「どうした硲! 何かあったのか?」

返事をしない通信相手に業を煮やして声を張り上げる。その横目が、自分の周囲に展開している四つの棺を一瞥した。そのうちの二つ目が消えかかっている。時間がない。

(……どうする? 第二まで……いやしかし今あれを使うわけには……)

「硲!」

泣きそうになった。
そんな姉の必死の声を聞き、通信の向こうの弟……であるはずの男は。
もう一度盛大に舌打ちをしてから、押し殺した、聞きなれた声ではない、別の音声。
奇妙にぶれたボイスチェンジャーを通した、機械音声で返してきた。

『……何の用?』

「硲……? お主、硲であろう? わらわじゃ、お前の姉じゃ!」

『…………』

「聞いておくれ、時間が……」

『使えねぇ……』

聴こえてきた言葉が、明らかな侮蔑だった。
更紗の思考は、一旦そこで停止した。
貴重な時間が沈黙と言う形で流れていく。
十数秒も経った頃、彼女は震える声でそれに聞き返した。
242 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:32:44.71 ID:484YotGN0
「え……?」

『あれほど縁はこれきりだと言ったじゃねぇか。何だ? 魔法でも使ったのか? あ?』

「は、はざま……?」

『絶対に連絡しないって、約束したんじゃなかったですかね? 僕の聞き違いだった?』

皮肉たっぷりとでも言わん限りの声で、ありったけの侮蔑を混めた言葉が送り込まれてくる。
それは、彼女が知っている理知的で冷静で……そして兄弟の中でただ一人、最後まで味方をしてくれた優しい弟の声ではなかった。

「………………誰じゃ?」

『弟のことまで忘れたの? 愚鈍な姉を持つと苦労するな?』

「…………」

突然のことに頭がついていかないのか、沈黙を返した更紗に忌々しそうに硲は続けた。

『……チッ……バカめが……よりにもよってオープンに流しやがって。ここを離れなきゃいけねぇじゃねぇか……』

「ど……どうしたのじゃ? まるで硲ではないよう……」

『黙れグズ! これがどういうことを意味してるのかわかってんのか!』

別人だった。
言葉に殴りつけられ、更紗は震える口元を手で抑えて息を呑んだ。

「す……すまない硲、わらわは、わらわはただ恐ろしくて……お前にならば、相談できるかと……」

『はは……恐ろしい? だろうな』

小ばかにされて、少女は硬直したまま目を見開いた。
訳が分からなかった。
こんな、いわれのない叱責を浴びせられる心当たりがなかった。
怒りがわいてくるというよりは、訳がわからなすぎて、目に涙がにじんでくる。
243 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:34:01.65 ID:484YotGN0
『彼女、そっちにいるんだろ?』

鼻の先で笑い、硲は面白そうに続けた。

『で、今更怖くなって助けを求めてるってわけか?』

「なぜ……?」

『あ?』

「何故それを知っている?」

『何言ってんの? もうろくした?』

「……」

本当に、更紗にはその意味が分からなかった。唯一つ思い浮かぶことといえば――魔法。弟の魔法の内容は知っているつもりだったが、もしまだ隠しているその用法や、他の能力があったとすれば……もしくは彼の従者がそのようなことを可能にする能力を持っているとすれば。
彼が何処にいるのかは分からないが、離れた場所にいる自分のことを知ることが出来るのかもしれない。

「な……ならば!」

後、魔法を維持できる残り時間は一分を切っていた。

「硲、こっちに来ておくれ! わらわの位置はわかっておるのじゃろう? それに、こちらの状況をそちが見ておるというのならば、かえって……」

『バーカ』

はははは、と歪んだ笑い声が大音量で通信の向こうから飛び出す。

「はざま……?」

『知ってて助けに行ってないって、この意味分かる?』

「…………」

『僕が殺したんじゃ何の意味もないんだよ』

その言葉を聞いた途端、更紗の胸に泥沼をぶちまけたような悪寒が広がった。
想像だにしていなかったことだった。
そんなこと、微塵も考えていなかったことだった。
244 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:35:04.85 ID:484YotGN0
だが――この男なら。
この男ならありえる。

「まさか……」

『……』

「お主があれを、ここまで誘導したのか?」

『想像はご自由に』

「……」

『僕は、心が広いから三回までは許す。でも四回目からは、たとえ家族でも例外はないんだよ、お姉様?』

「そんな……おぬし、まさか……」

『一回目があの時。二回目があの時。そして三回目があの時だ。もう切符は出終わり。デッドエンド……四回目の隠し事は許さない』

「な……何を言って」

『言い訳を聞く気もないし、あんたに対する情も、もうない。つまり僕には心の底からどうでもいい。まぁ、せいぜい楽しく報いを受けてください』

「……」

『僕はそれを楽しーく見てるから』

最後の棺が掻き消えていく。

『じゃ迷惑なんでもう二度と通信なんてしないでください。五度目は、ありませんから』

「はざま…………?」

『バイバイお姉さま。せいぜい頑張って』

相手方が通信装置を破壊したらしかった。ノイズがあふれ出し、その数秒後に更紗の棺が消え、全ての機械電源がダウンする。

「嘘じゃ……」

砕けるほど歯を噛み締め、更紗は大粒の涙が浮いた目を見開き、そう呟いた。

「嘘じゃ……こんなの……」

兄弟は自分を見殺しにした。
そういう恐ろしい考えが脳内を駆け巡る。

――バレた。

そう思うしかない。
見られているという悪寒が全身を駆け抜け、次の瞬間、更紗は訳のわからない声を上げて近くの椅子を持ち上げ、手近なコンピュータに向けて投げつけた。けたたましい音がして、積み重ねられている機材が一部床に崩れ落ちる。
245 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:35:58.14 ID:484YotGN0
「何故じゃ!」

悲惨な絶叫を上げ、彼女はモニターにしがみついて声を上げた。

「何故! わらわ達は兄弟……家族じゃ」

乗せられていた。
そんな想像が頭を突き抜ける。
もしそうだとしたら。
もし、自分とあの女が戦う状況にならざるを得ないよう、弟がこのドームに敵を誘導していたとしたら。
何百とあるドームの中で、たった二年でまた見つけられるという不思議の説明がつく。
あいつらが繋がって協力しているとは思えない。情報を流したり、外部からの偶然を装っていくらでもそんな調整はつく。

(しかし、そんな……)

そこで彼女はハッとして口を押さえた。

(皆、あれを狙って……)

どこからどうやって見られているのか分からない。もしかしたら、それは弟の張ったりなのかもしれない。しかし更紗はどうしようもない絶望の淵に叩き落とされ、力なく地面に膝を突いた。
怖い。
もう、すべてが怖かった。
頼りにしていた弟から訳のわからない叱責を浴び、そして――。

(にに様……)

紅。紅だ。
弾かれたように立ち上がり、自分の唯一信頼できるアンドロイドの元に向かおうとする。
そこで彼女は、紅が修理をしたのか、一部分だけついているモニターに目を留めた。端の小さな部分だけが動作していて、一部の監視カメラが修復されたのか映像が映し出されている。
そこには、あの女が張付けられている拷問室が四つのカメラでモニターされていた。紅がそこだけは確認できるようにしたらしい。
しかし、横目をそこに止めた更紗は、思わず心臓が止まりそうになり、もう一度モニターを覗き込んだ。

(いない……)

磔台は、何度見ても空だった。画像が荒くてよく分からないが、腕と足を固定していたはずのバンドにゴッソリと何かが付着して、ぶらりと垂れている。

――人の皮。

その事実に気づき、唾を飲み込む。
無理矢理に自分の皮を剥がして抜け出したというのか?
そんなバカな……。
そう思った時だった。
少しだけ冷静になった耳に、何かを引きずるような金属音が聞こえてきた。少し離れている廊下。そこから、ナメクジのようにか細く、キィィ……キィィ……と音が聞こえてくる。
足音ではない。もっとこう……錆び付いた、鉄を引きずる音だ。
近づいてくる。

(もしかして……)

その瞬間、更紗の中の恐怖心が爆発した。
246 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:36:46.17 ID:484YotGN0


 頭が痛かった。まるでのこぎりで脳みそをかき回されているかのように、目の焦点が定まらない。
虹は額を抑えて、石造りの床に上半身を起こした。いつの間にか、こんなところに投げ出されている。

(どこ……ここ……?)

分からない。何だろう、一体自分の身に何が起きたんだろう。
何か大事なことがあったような気がするが、頭の芯がガンガンして、何も思い出せない。
周りを見回してみるが、そこには拷問具と思われるものが所狭しと並んでいるだけで、あるはずの自分の相棒、武器の姿はない。念のため反応を探ろうとして、そして虹は、自分の脳神経を弓のように弾いた強烈な刺激に目を見開いた。

「あ……」

大きく口を開け、まるで蛇のように舌を振るわせる。そして彼女は満面の笑みを浮かべ、ふらつきながら立ち上がった。

「みつけた……」

かくれんぼで友達を発見した時のような、軽い声だった。
歩き出そうとして、しかし虹はその場によろめいて倒れこんだ。

(あれ……)

もう一度心の中で疑問を呟き、そこで初めて自分が包帯以外何も纏っていないことに気がつく。焼却炉だと思われる火釜に石炭燃料がくべられているとはいえ、体はかじかんで……しかも、ナイフで切り刻まれたかのようにボロボロだった。特に腕と足が酷い。手首、足首に当たる場所の肉がごっそりとこけ、まるで千切り取られたかのように悲惨な状況を出していた。まだ、血が出ていて、床に薄い血糊を広げている。
出血多量すぎるのだ。
血が足りない、
ともすれば落ちそうな意識を無理矢理に奮い立たせ、彼女は傍らの木馬のような器具に捕まりながら立ち上がった。視線が何重にもぶれる。
記憶がないが、どうやら自分はここで、死ぬか生きるかの瀬戸際に至るまでの拷問を受けたらしい。そして、どうやら死ななかったらしい。
なら、それ以上でもそれ以下でもない。

それより――。

やっと見つけた。
軽く首の骨を鳴らし、彼女はまた歩こうとしたが膝に力が入らないことに気がついた。息も荒く、鼓動も途切れ途切れだ。
そう。
自分は今、死にかけている。

――そんなのダメだ。

今、死んではダメだ。
死ぬのはもう少し先……もう少しだけ、先のことでいい。
傍らの火描き棒を手に取り、それを引きずりながら歩き出す。まるで亡者のように、ズタボロの体をふらつかせながら、彼女は扉に向かった。手をかけると、鍵はついていなかった。全身の力を込めて鉄の扉を開き、転がるようにして肌寒い廊下に出る。
247 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:37:50.61 ID:484YotGN0
「はは……」

自然と、笑みが漏れた。

「やっと殺せるわ……」

ずり……ずり……と火掻き棒を引きずり、階段を登る。

「褒めて……泉……」

ナメクジのような歩みは、止まらなかった。完全に崩壊した笑みを浮かべながら、人形のように緩慢な動作で廊下を歩いていく。
数十分も経っただろうか。
点々と廊下に血の跡を築きながら、虹がその扉を開けたのと。
その中で、待ち望み。待ち望み……ずっと、ずっと思い描いてきた敵。
その化け物が、恐怖に引きつった顔でこちらを見ている目を、自分の目が合致したのはほぼ同時だった。

「ひゃは……」

笑みが裏返った。

「くく……ひゃはは……」

棒をひゅん、と振って、満身創痍の少女はざんばらの髪、その隙間から――大魔法使い、更紗を見つめた。
その瞳はあまりに無機質で、あまりにも無表情で。
一切、何も語ることはなかった。

「……久しぶり……ね。更紗。元気にしてた?」

やけにはっきりとした声で呼びかけられ、しかし大魔法使いはそれに答えなかった。流石に呆然としていたのは一瞬で、次の瞬間臨戦態勢に腰を落とし、押し殺した声を発する。

「……久しぶり?」

「二年ぶりかしら。随分とまぁ……変わらずに」

「……」

「憎たらしい雌豚の顔だわ」

更紗はしばらくの間押し黙っていた。
やがて小さく息をつき、軽く首を振る。

「……良かろう」

「……」

「わらわが甘かったのかも知れぬ」

彼女の瞳が真っ赤に染まった。次いで、ズシン、とその周囲に四つの黒い棺が浮かび上がる。次いでその幻……棺の戸がギギ……と音を立てて開き、中から骨のなる音を軋ませながら、それぞれ四体の人骨が姿を現した。
248 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:38:42.97 ID:484YotGN0
マリオネットで操られているように、それらは棺から出ると、カシリ、と音を立てて更紗を囲むように床に立った。
それらが同時に両腕を虹の方に伸ばし、ケタケタと顎骨を揺らして笑い出す。

「地獄を見やれ」

「ふざけろ」

玲瓏と発せられた更紗の声を打ち消したのは、しかし抑揚のない虹の呟きだった。
彼女も人骨と同じように右手を更紗に向けてつきだし、ニマァと笑った。

(BMZ核、D三十二号のレベルシーケンスを作動)

次の瞬間、虹の周囲の壁が一瞬で真っ赤に染まった。それは、物理現象もへったくれもない、何か圧倒的な、そう、その圧倒適すぎる力の侵食だった。周囲の壁、床、天井、それら全てがワインでもぶちまけたように強烈な赤色を発し、数秒後にはぞろりと赤茶けた錆に覆われる。次いで合成コンクリートであるはずの壁が、まるで粘土のようにぐにゃりと歪み……更紗の周囲に立っている人骨の頭部。それに類似した形に持ち上がり始めた。ボコボコと、虹が立っている床も、彼女の脇の壁も、天井も、通信機も、ありとあらゆるものが赤く染まり、そして人骨の形に沸騰し始める。彼女が持っている火掻き棒も例外ではなかった。風船のように膨れ上がり、頭骨を形成したかと思うと……それが彼女の左腕に噛み付いた。歯の力は想像以上に強く、そのまま虹の二の腕の肉を食い破って地面に転がり、ケタケタと顎を振動させて笑う。
骨らしき白い影を傷口から覗かせながら、しかし虹の表情は変わらなかった。
徐々に足下が沼のように泥化を始める。
それどころではなく、そこに触れている素足が肉の焦げる臭いを上げて白煙を発し始めた。

(シーケンス接続。コピー完了。エネルギー抽出オールグリーン。全ての設定をニュートラルヘ)

「くたばれ!」

更紗が大声を上げたのとほぼ同時に、虹は口を大きく開き、掠れた声を絞り出していた。

「ジャンクション……」

その瞬間、彼女の突き出していた右腕。その手の平が破れて、中からコロリと紫色の玉が転がり出る。それを握り締め、彼女は粉々に砕き散らすと、パッとその粉を自分に振り掛けた。
次いで彼女の周囲に、薄紫色の煙が沸きあがった。それらは渦を巻いて周囲に展開すると、瞬く間に部屋に充満し。そして部屋の外まで流れ出しても尚止まらなかった。
膝下までもを血と錆、そしてドクロの沼に飲み込まれて、肉を焼かれる痛みにも虹は反応しなかった。次いですっかり泥沼の様相に変化した周囲から、おびただしい数のドクロが浮かび上がり、ピラニアのように虹まで這い進んでくる。それらは彼女の既にボロボロな体のいたるところに躊躇もなく噛み付き、その肉や皮を抉り、千切りとっていった。
249 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:39:26.18 ID:484YotGN0
肩の白い肉を抉り取られ、虹は体勢を崩して真っ青な顔を更紗に向けた。大魔法使いは、悠々と四体の骸骨に支えられ、空中に座り込んでいた。鉄椅子のように骨が沼に触れないように担ぎ上げている。彼女は憎悪を隠そうともせずに腕組みをして虹を見下ろすと、小馬鹿にしたように鼻の先で笑ってみせた。

「……何じゃ。いざやってみれば実に。実に簡単なことではないか……」

「……」

「こんな女が刺客? わらわに対する罠じゃと? 硲めがたばかりおって……」

更紗を担いだ骸骨が、じゃぶじゃぶと沼を踏んで虹に近づく。そして黒髪の魔法使いは、もう既に腰まで血沼に埋まった金髪の少女に足を突き出し、その頭を踏みつけた。

「売女めがあ!」

次の瞬間、その足が鞭のように振るわれ、虹の頬に突き刺さった。体勢を崩し……しかしそれでも倒れこむわけにはいかず、ふらつきながら虚ろな目を向ける少女を薄笑いをしながら見下ろし、そして更紗はまた、弄ぶように彼女の脳天を蹴り飛ばした。

「疫病神め!」

「……」

「ゴミ蟲の分際で……分際で! 図が高い! 図が高い下女!」

何度も何度も頭をけられ、遂には少女の端正な顔までも、いたるところに血腫れが浮かび上がる。
凄惨という度合いを、当に通り越していた。
もはやボロ人形にも等しい虹の前に身をかがめ、更紗は彼女の金髪を手で鷲掴みにすると、鼻脇の筋肉を痙攣させながら、荒く息をついて言った。

「思い知ったか? えぇ?」

「……」

既に血沼は、虹の胸下まで達していた。焦げ臭い臭いが辺りに充満している。
少女は虚ろで焦点が合わない瞳を虚空に彷徨わせると、やっと更紗の姿を見つけたのか……それでもクスリと笑って見せた。
その頬を張り飛ばし、大魔法使いは忌々しげに息をついた後……彼女の顔の前に足を突き出した。

「舐めよ」
250 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:40:30.44 ID:484YotGN0
自分の靴を、舐めろ。と彼女は言った。

「この後貴様には、ありとあらゆる煉獄の責めを加えてやる」

「……」

「決して殺さぬ。死んでも無理矢理に蘇生させて、また殺す。その繰り返しの七十八の煉獄に貴様を突き落とす」

「……」

「魂の欠片も残さぬ。理性の一辺倒も残さぬ。貴様は道端のゴミと等しく、千切れて塵芥となり消える」

「……」

「それが嫌なら、わらわの靴を舐めよ。したらこの場で首を刎ねてやってもよい。泣き喚き、わらわにみじめったらしく命乞いをせよ。ごめんなさいと申せ。愚かでしたと申せ。謝れ。謝って、謝って、心の底から挺身低頭謝りつくせ。その末にしゃぶって、しゃぶって、しゃぶりつくせ」

「……」

「遠慮することはない。貴様はそう……生まれた時からゴミなのだから」

「……」

「ゴミがゴミを舐めしゃぶることを、躊躇せずともだれも咎めぬわ」

虹には反応がなかった、突き出された足を見ようともしなかった。彼女の首まで血沼が膨れ上がろうとも、まだ動きはなかった。
それから数秒経ち……顎まで汚らわしい地獄が昇ってきた時。
やっと少女は、掠れた声を発した。

「……煉獄なんて……」

「……?」

「そんなもの、どこにもないし……」

「……」

「神様なんて……そんな奴どこにもいない」

「…………」

「ゴミがゴミらしく、祈っても、祈っても、祈っても。泣いて叫んで喚いて心の底から挺身低頭許しを求めても。ゴミだろうと何だろうと……」

「…………」

「そんなもの、どこにもないし……」

「…………」

「…………神様なんて、そんな奴どこにもいない…………」

その瞬間だった。
虹が生焼けにされている右腕を上に伸ばし、ずるずるになった指を鳴らす動作をする。
251 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:41:18.84 ID:484YotGN0
途端、視界がぶれるほど轟音、そして揺れが周囲を包んだ。

「何じゃ……!」

思わず声を発した更紗の脳裏に、野性的な直感が危険と警報を鳴らす。骸骨を動かしてその場から飛びのくのと、血錆が展開した扉だった場所を突き破り、何か巨大なモノが沼の血しぶきを蹴立てて現れたのは同時だった。今まで更紗がいた場所をそれは薙ぎ、次いで手を広げると虹を掴み取った。

――それは、エンドゥラハンの腕だった。

虹がガゼルと共に戦った右天との戦闘で行動不能した、巨大人型戦車だった。
沼の中に入った途端、エンドゥラハンの腕に凄まじい速度で錆が広がり朽ちさせていく。しかしそれよりも早く、機械の腕は自動で虹を壁に開いた穴から外に掴み出した。

「しまった……!」

更紗が叫んだ時には遅かった。彼女の周囲に展開している地獄から虹を掴み出し、地下牢獄の壁を突き破ってエンドゥラハンが地上に向けて動き出す。

――今逃げられたら……

最悪の想像が脳裏を掠める。

「追え! 是が非にでもあ奴から距離をあけるな!」

その言葉を受け、骸骨が四体だけではなく周囲のもの全てより集まり、車のような速度で血沼を蹴立てて動き始める。彼女が滑るように走り出したのにあわせて、その周囲が地下であろうと、階段であろうと、全てが関係なく均一な血沼に変化していく。
大魔法にはその先がある。
レベル2。
悪夢は、ここからが始まりだった。
252 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:43:08.35 ID:484YotGN0
19 三途

 虹は手当たり次第にビルや家屋を踏み潰して失踪する機械兵器の手の上で崩れ落ちた。
口の端からはとめどなく血が流れており、段々と体が冷たくなっていくのが分かる。
死。
ボクは、ここで死ぬ。
死ぬかもしれない。
ごめんなさい。あなたの憎しみはボクには深すぎて。
どうしてあげることも出来ない。

――ダメ。

ダメだ……まだ死ねない。
そんなことは許さない。
まだ、死ぬ時じゃないはずだ。
誰が死んでいいなんて言ったの?
やるの。
私はやるのよ。
殺すの。天誅を下すの。この手で殺す。絶対に殺す。
六人……あの六人の悪魔を処分するそのときまで、私は死ねない。
死なないんだ。そうだ、死なない。
ずるりと胸の皮が大きく剥がれ、湿った音を立てて下に流れ落ちる。
虹の体は、見る気も起きないほどの凄惨な状況になっていた。傷口から濃硫酸を流し込まれたように、白煙を上げながら溶けている。腕も、足も……あの血沼に使った部分が段々とドロドロの肉汁になり流れ落ちていく。両足は、既に所々骨が浮き出していた。腰から下の感覚がない。動かないというよりは、既に腐って落ちてしまっているような感覚。
指も動かない。寒い。痛い、痛い、痛い、痛い。
神経がむき出しになっているように、風が体をなびくだけで目の玉が飛び出しそうな痛みが脳を駆け巡る。
起き上がろうとしてそれをすることも出来ず、ベシャリと奇妙な音を立てて虹はエンドゥラハンの手の平にうつ伏せに倒れこんだ。
視界がかすむ。赤い斑点が混じっている。
息を吸うたびに喉が焼ける。
死んだ方がマシ。
まさにそれだった。
とっさに使用した右天の魔法は、予想以上の効力を生んでいた。更紗は動かなくなった機械兵器を、地下刑務所のどこかに隠していたらしい。何らかの形で再利用でもする気だったのかもしれない。
更沙の魔法に合わせて右天の魔法を発動させたのは一種の賭けであり、勝手に勝算もなく向かって行った『彼女』から、無理矢理にでも更紗と距離を開かせるための苦渋の行動だった。
結局はその偶然が虹の命を救い。
この生殺しを生み出していた。
ここは南区。確か、その端の端……極貧のスラム街エリアだ。こんなところにHi8が隠れているとは誰も思いまい。それだけで更紗の猜疑心の深さが分かる。
もはや躊躇している隙も、そして考えている隙さえもない。
虹の魔法で一時的に修復されたエンドゥラハンは、キャタピラを全回転させながらスラム街を踏み散らして爆進した。
時刻は深夜三時半……人々は寝静まっている頃合いだったが、突然の機械兵器。その暴走に対する対応は早かった。テントやボロ屋から人間が喚きながら飛び出して、散り散りに避難を始める。

――そんなことをしても無駄なのに。

絶叫と訳の分からない怒号、家族を呼ぶ声。それら雑音を耳にしながら、しかし虹はエンドゥラハンをただ前に進めた。
253 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:44:22.60 ID:484YotGN0
下を確認することも出来ない。もう、脳以外体が動かないのだ。視界は人形のように硬直し、ただか細い息を続けている。
悪夢は、意外と早かった。
虹の脳に刺すような強烈な反応が飛び込んできた瞬間、鳥肌を一瞬で逆立てる程の強烈な悪寒が周囲を駆け巡った。それはスラム区をぐるりと取り囲み――。
その瞬間、子ドームの天井内壁に錆が走った。瞬く間にそれは全体に広がり……数秒後にはボコボコと沸騰を始める。錆は次第に血のような赤色に変わり雨のごとき緩慢な動きで下に降り始めた。
それが皮切りだった。
このドームは、東区のエリアなどと切り離されて独立で稼動している、子ドームだ。その天井、地面……それら全てがぐずぐずと崩れ落ち、汚らしい色の沼になってとろけ始める。
先ほど虹が地下刑務所で襲われた時とは、比較にならないスピードだった。たちまちの内にドロリと朽ちたビル、家屋、テント……全てが血糊の塊にとろけ、地面に流れ落ちていく。
逃げていく人間達も同様だった。
それらが溶けたコンクリート……いや、血沼から浮き上がった骸骨の手に引きずられるようにして地面に消えていく。
熱。絶叫。断末魔。
地獄だった。
それは、確かに地獄の光景だった。

(思ったよりも魔法の展開速度が速い……さすがレベル2だわ。格が違う……)

ここから逃がさないつもりか、と思った時に、エンドゥラハンのキャタピラが空回りした。遂に虹の地点まで沼の侵食化が進み、軟化した地面が巻き込まれたのだ。
急に動きが緩慢になり……それだけでなく、天井から流れ落ちてくる血糊がペタリペタリとエンドゥラハンに張り付いた部分から、そこがボロボロに腐食して散っていく。

(ここまでとは思わなかった……)

頭の中で舌打ちをする。
右天の核、その鮮度は比較的良かったために、この調子だと機械兵器をあと十分は動かしていられるはずだった。
しかし……。
ドームのゲート、通用口にやっとの思いで到着し、手を伸ばしたエンドゥラハンの目の前で、その大きな門がグズリ、と血と錆に崩れて雪崩のように下方に流れ去った。

(これは……勝てない。無理だ……)

それに押し流される形で、先ほどまで何ら変哲はないスラム街だったはずの空間、そこに現れた底なしの血沼に機械兵器が沈み込み始める。
ここに至るまで、五分も経っていない。
薄ぼんやりとかすんだ虹の視界に、何百メートルか離れた向こうに、おびただしい数の骸骨が寄り集まって形成している船……のようなものが映った。
まさに、三途の川の渡し舟だった。
そのへさきに仁王立ちになっている小さな人影。薄笑いを浮かべ、その惨状を見回している大魔法使い――更紗が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
エンドゥラハンのキャタピラを展開させるのは諦め、その四本の腕を更紗に向けさせる。そして虹は、すかさず魔力をコントロールして熱砲を発射させていた。
渦を巻き、沼の血を蹴立ててそれは進んで、敵に着弾した……と思ったのは一瞬のことだった。
更紗は軽く、自分に向かって突き進んでくる光の帯を手で弾いた。それだけで、空気の抜けるような音がして熱線が細く萎み、そして掻き消える。
ドームの合金天井も粉に破砕するそれが、熱さえも届くことなく無効化されていく。
二発目、三発目と撃っても同様だった。
更紗は、前方で虹が動けなくなっているのを目に留めると、面白そうに甲高い笑い声を発した。
それは、先ほどまでの震え、怯えていた少女の声ではなかった。もっと何かおぞましい……もっと下劣な、悪魔のような笑い声だった。
254 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:45:51.12 ID:484YotGN0


 あの日、確かに少女は止められた。
無敵だと信じて疑わなかった自分の力を、指先だけで止められた。
血と硝煙、そして錆の匂いが立ち込める汚濁の海の中で、綿が飛び出たぬいぐるみを手でぶらりともった小さな女の子の頭に、その男はポン、と軽く手を置いて、微笑んでみせた。

「はい、俺の勝ちだ。確か自分に一回でも触れたら負けを認めるとか言ってたな。お前」

まるでピクニックに出かけるか? というくらいの軽い気持ちで、悠々と地面に立ったその男は言った。
ボロボロの病院服を身に纏い、浮浪児のようなざんばら髪の隙間から彼を見上げ、更紗は呆然と口を開いた。

「………………何で………………」

「さ、約束だ。おとなしく聞き分けて、俺と一緒に来い」

「く……来るなあ!」

その瞬間、彼女は突然胸にこみ上げてきたおぞましい恐怖を吹き飛ばそうと、素っ頓狂な悲鳴を上げていた。そして彼から離れようとして、腕を掴まれ、止められる。

「おいおい約束は守れよ」

「離せ! 離せ!」

半狂乱になって暴れ回る。

「魔法を……魔法をかけるぞ!」

「……」

「殺すぞ! 離せ! 離せ!」

パン、と軽い音がした。
頬を張り飛ばされ、彼女は唖然としてそこを押さえ、彼を見つめた。

「……」

怒っていた。
自分の腕を掴んだ男は、眉をしかめて、明らかに怒っていた。
その瞳が徐々に赤く染まっていく。

「……やれるもんならやってみろ」

「……ひ……」

「クソ餓鬼が」

低く、押し殺した声だった。
255 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:47:10.35 ID:484YotGN0
――殺される――

少女はひくっ、と痙攣したようなしゃっくりを上げて……次いでボロボロと目から涙を垂れ流し始めた。それは段々と本流になっていき、遂には、彼女はその場にぺたりと座り込んで大声で泣き叫び始めてしまった。
あまりの恐怖に何も分からない。
殺される。
そう、単純に感じたのだ。

「……そこまで怖がらせるつもりは……」

慌てたように口を開いた男の耳に、軽い水音が聞こえる。

「……」

彼は号泣する、幼女といっても差し支えないほど小さな女の子の股間から立ち昇る湯気を見て、疲れ果てたように額を抑えた。

男の名前は、センというらしかった。
瓦礫と化した建物の上に腰を下ろし、見つけてきたといって渡した新しい病院服に着替えた少女を呆れたように見ていた。
彼から数メートル離れた場所に、少女は腰を下ろしていた。とは言っても無理矢理座らされただけで、腰は浮かせていつでも逃げられるような体勢をとっている。
先ほどは錯乱していて良く分からなかったが、センはかなり奇抜な格好をしていた。少女が見たこともないような服だ。黒塗りでビシッとした……ボディスーツのようなものだ。
長い髪を首の後ろでまとめている。
彼は脱ぎ捨てられた少女の病院服を一瞥すると、ため息をついてから口を開いた。

「なぁ叩いたことは悪かったよ。こっちに来いってば」

「…………」

「別におもらししたことを怒ってるわけじゃない。お前がちゃんと約束を守ってくれれば、危害は加えないよ。それどころか、俺はお前を助けに来たんだ」

「……」

「なぁ、だからそんなにもらしたことを気にすることはねぇんだってば。俺はそういうの慣れてるから」

「……」

「おい、何とか言えよ? 一応お前の命を救ってやったんだからさ」

そこでやっと少女は腰を下ろし、自分の膝を強く抱いて彼をじろりと見た。

「……頼んでない」

「頼まれてない。当然のことだ」

「バカにするな」

「そいつはちょっと無理だな」

「……」

少女は手近な石の破片を手に取ると、座ったまま彼に投げつけた。それを難なくキャッチし、泉は手で弄びながら軽く微笑んだ。
256 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:48:15.34 ID:484YotGN0
「記念にもらっておくよ。おもらしが最初にくれたプレゼントだ」

「……何回お漏らしって言えば気が済むんだ……」

「まぁ、少なくともお前が死んでも俺は覚えてるな。事実なんだからウダウダ言うな」

ポケットに石を仕舞い、彼は少女に向き直って言った。

「それにしても随分殺したなぁ。五分でド級の戦闘艦隊が五つ全滅か。魔法使いは沢山見てきたけど、この短時間なら、多分お前が最高記録だぜ?」

「……」

「ハイコアの検体で無傷で見つけたのは、お前が最初なんだ。だからあんまり暴れないでくれ」

「……」

「もう、仲間が死ぬのは見たくないし、殺したくもないからな」

そこで、ジャリ……という瓦礫を踏む音がして自分達の背後から一人、近づいてくるのが分かった。逃げようとした少女を手で制止し、センは立ち上がるとにこやかに手を上げた。

「おぉ涙。もう片付いたのか?」

「うん。ん? 何、その子」

やけに軽い声だった。音域的には、センと言った男と殆ど同じ……いや。
顔を上げた少女は、近づいてきた女性を見て目を疑った。センもかなり中性的な顔をしていたが、そっくりだ。双子……男性と女性の筋肉差はあるが、顔立ちや服装が殆ど同じ。女性の方は赤毛のセンとは違い、青白い白髪。
夕日に光って、キラキラと輝いていた。
ルイと呼ばれた女性はきょとんとして少女のことを見ると、ポン、と両手を胸の前で叩いて口を開いた。

「あぁ、ここのコ? びっくりしたぁ。生きてたのね」

「そうだ。偶然見つけてさ。まぁ止められて良かったよ。さっきやっと宥めたところなんだ。見ろよスッゲェー有様だろ。さすがに俺もびっくらこいた」

「ってことは、あたしと同じタイプの能力なんだ。良かったね、キミ。セン兄が止めてくれて」

「……は? え?」

突然話しかけられ、戸惑いながら頷く。ルイは屈託なく近づいてくると、少女の髪を撫でてにこっと笑った。

「あたしは涙っていうの。で、この人がセン。双子であたしは妹。初めてだよ、仲間が生きてるところに遭遇したのは」

いい匂いがした。
ハーブの匂いだろうか。ミント? 昔何かの実験でかがされたことのある、香料の匂いだ。しかし不快ではない。むしろ胸が落ち着く……綺麗な匂いだった。
257 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:49:28.09 ID:484YotGN0
「……何だよ、俺にはあんなに騒いだのに、涙には騒がねぇのか? おもらし」

不貞腐れたように言われて、少女は遂に真っ赤になって怒鳴り声を上げた。

「五月蝿い! あの時は、本当に殺されるかと……」

「お漏らし?」

きょとんと涙に聞かれ、少女は視線を逸らしてそっぽを向いた。
白髪の女性は傍らで脱ぎ捨てられた病院服に目を留めると、泉のことをジト目で睨んだ。

「ちょっと何したの?」

「何も」

「ンな訳ないでしょ? こんな小さな子に信じらんない。さいてーね……」

「見ろ。どう見てもクソガキだろーが。何もしねーよ。人をロリコンみたいに言うな」

「ロリコンでしょあなたは」

冷たく言い放ち、涙はひょい、と少女のことを抱え上げた。

「軽いねぇ」

「え? ちょっと……あの……」

下ろしてもらおうと口を開いた彼女には構わず、涙は泉の方を向いた。

「ほら、帰るよ変態」

「変態じゃねぇ」

「ごめんねぇ。あの人ロリコンだから、ああいう怪しい人には、これから近づかない方がいいよ」

「何言ってんだこの野郎。ロリコンじゃねぇって証明してやろうか?」

「どうやって?」

「どうやって証明してほしい?」

「いいよ結局兄さんが変態だってより深く分かるだけだから」

肩をすくめた彼女を追うようにして泉も歩き出す。ガレキと血、そして何処のものだか分からない肉片を踏みしめながら、彼は肩をすくめて言った。
258 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:50:27.75 ID:484YotGN0
「おいおもらし」

「……」

「名前は?」

「…………」

沈黙していると、涙が足元のガレキを蹴飛ばしてから言った。

「じゃあ識別番号は?」

「……BMZ―3RA3―HG3」

「……何で涙の質問には答えるんだよ」

「あんまり虐めるからでしょ」

「殺されかけたんだぞ? それくらい当然の権利だと思うがな」

「こんなんで死んでるくらいなら、あたしがとっくに兄さんを殺してるよ。ものの弾みでさ」

「おー怖い怖い」

人の気配がしない区画内に、呆れたようなセンの声が響いた。
そこで彼は思い出したかのように涙の前に立ち彼女を止めると、少女のことを覗き込んで、その額にピタリと指を当てた。

「忘れてた。早速だが言っておく」

「……」

「お前の魔法は危険だ。これからは絶対に、俺がいいと言ったとき以外には使うんじゃない。特にレベル2までは上げちゃいけない。これからはそれを守れ。いいな?」

「何でお前の言うことを……」

「いいから聞け。俺達は、お前みたいな奴らを保護してるんだ。だからこれからは言うことを聞いてもらうし、ルールはしっかり守ってもらう」

「ルール?」

「ああ。そうすれば俺達はお前の家族になってやる。守ってやるし、できる限りわがままも聞いてやるつもりだ。だが約束できねぇってんなら、ちょっと対応を考えざるをえない。分かるな?」

頷いた泉に、涙が不思議そうに声をかける。
259 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:51:44.67 ID:484YotGN0
「そんなに酷いの?」

「酷いなんてもんじゃねぇ。LSFによる状況認識過多に加えて、こいつの力は認識変換のものだ。多分、まともに戦りあえば俺か、お前じゃなきゃまず死んでる。俺だって第五次元に逃げたから無傷でいられたんだ」

「おー怖い怖い」

「笑い事じゃねぇよ」

妹の言葉を打ち消し、彼はもう一度少女のことを見た。

「多分お前は、レベル1では一つにつき何分間か自分の認識したものに、それが生物でも無生物でも関係なく、現実だと認識するほど強烈な暗示をかけることが出来るんだろ? 範囲があるのかもしれんが、そこまでは知らん。で、それがレベル2になると暴走して、こうなる」

ぐるりと周りを見渡す。
ガレキも、粉砕された地面も。
それら全てが延々と地平線の向こうまで続いていた。
一つの街……いや、都市。
それがまるで大震災でも起きた後のような惨状になっていた。生きている人間も……ましてや生物など何一つとして存在していなかった。

「だが、魔法が暴走した後にはしばらくレベル1も使えなくなる。違うか?」

図星だった。
たったあれだけの応戦でそこまで詳しく分析されるとは思っていなかった。あんぐりと口を開けて硬直している少女に、泉は真面目な顔で続けた。

「お前達認識変換の魔法使いは、強力であると同時に一つの大きな欠点を抱えてる。それは常識回路の欠落だ」

「じょうしきかいろ?」

「ああそうだ。認識を変換するということは、同時に自分の中の常識、つまり世界を破壊していくということに他ならない。だから使用すればするほど、お前は大事なものを失くしていくんだ。お前の場合はLSFも発症してるから、間違った認識を更に壊すことになる」

「……」

「そうすれば結果、正常に世界を認識できなくなり、お前自身の魔法が崩壊する。だからお前は」

「セン兄?」

そこで呆れたように涙が割り込み、泉は言葉を止めた。涙はポカンとしている少女を一瞥し、軽く首を振った。

「とりあえず、おいしいものでも食べさせてあげようよ。それからでも遅くないでしょ」

「…………まぁ、そうだけど」

涙はしぶしぶといった感じで引いた泉を押しのけて歩き出すと、抱えた少女に向けてまた微笑んで見せた。

「ま、うちのロリコンは気にしなくていいから。あの人ちょっと五月蝿いの。あと、ホイホイついてっちゃだめよ。変なことされるから」

「しねぇよ。あと二年は必要だな」

「それでもダメじゃない……」

脇に立って泉も歩き出す。
260 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:52:40.71 ID:484YotGN0
「今日から、あたしがあんたのお姉さんになるわけね。そしてこの人がお兄さん。混乱してるかもしれないけど落ち着いてみたら、あたしらがあんたの敵じゃないって分かるでしょ? 魔法使いならさ」

聞かれて、しばらくしてからコクリと少女は頷いた。

「おい、トレーラーどこに停めたんだよ?」

「ここは全体が崩壊してるから、十キロくらい先」

「……」

沈黙した泉から目を離し、彼女は女の子を見下ろした。

「でも名前がないと不便だねぇ」

「めんどくさいからサラサでいいよ」

意外すぎるほどあっさりと泉が言う。

「何で?」

「識別番号。3RA3だってさ」

「なるほど。じゃ、あんたはこれからサラサね」

一方的に名前を決められ、少女はまだそのテンションについていくことができずに硬直していた。

「そしてあたしがお姉さん。この人がお兄さん。分かった?」

長い間、沈黙していた。
塵と焦げが鼻腔をくすぐる。
大分経っただろうか。
女の子は、ぎゅ、と自分を抱き上げている女性の服を掴んだ。

「ねね……さま?」

消え入りそうな声で呼びかけられ、少しの間ポカンとした後、涙はグリグリとサラサの頭を撫でた。

「よく言えました。じゃ、この人は?」

指先で泉のことを指す。

「…………」

「…………」

少しの間見つめあう。

「ロリコン」

何故かそれだけは。
はっきりと口を突いて出てきたのだった。
261 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:53:26.14 ID:484YotGN0


 もう既に、虹にはっきりとした意識はなかった。
視界さえも定まらず、頭の働きも鈍くスローダウンしてくる。体全体が石のように冷たく重く変質していくのが分かる。
ズルズルズルズルと周囲が蠢いていた。
それは、幾万もの血と錆で形成された蛇が絡まりあって出来た十字架だった。拷問室のもののように小規模ではない。エンドゥラハンよりも巨大で、全長が二十メートルを超える血の十字架が、蟲の大群のように蠢いている。
グズグズに腐食して崩れ去った機械兵器から引き剥がされた虹は、その中央に両腕を左右に引いて埋め込まれていた。両足が、千切れたのかだらだらと血を流しながら切断されている。数十年も雨風に晒された案山子のようになった少女を見下ろし、更紗は十字架よりも高い場所に腕組みをして仁王立ちしていた。
彼女が立っているのは、山のように積み重なった髑髏の上だった。薄ら笑いを浮かべながら、意識があるのかないのか分からない少女の体を蠢いている血錆を見つめている。
その表情は、もはや人間のものではなかった。
悪魔、それ以下のおぞましい何かを孕んだ顔だった。

「さて」

血沼と錆の侵食は、既にドーム南区全体を覆い尽くすほどの速度で始まっていた。阿鼻叫喚、断末魔の協奏曲が響き渡ってくる。それは、更紗の魔法に巻き込まれて朽ちていく、無力な人間達の絶望の悲鳴だった。

「大分手間取ったが……もうよい。右天も、左天も死んだ。そろそろこの二年越しの計画も、仕舞いにせねばならぬ」

十字架が大きく動き、空に向かって成長を始める。

「殺す前に聞きたいことがある」

少女のものとは思えないほどその声は低く、ぶれて、ざらついたものだった。
262 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:55:18.83 ID:484YotGN0
20 LSF

 兄弟のうちの二人が散り、別の場所に去っていっても、簡単には更紗は泉の元を離れることが出来なかった。残っているのは彼女と功刀、そして硲、愛寡の四人だ。
実を言ってしまうと、更紗には行く所がなかった。それを中々兄に切り出せなかったのだ。
そのようなこともあり、功刀が兄のドームに暮らすということに便乗できた時は、少しばかりほっとしていた。それだけではない、そもそも兄に招かれた時は心底安堵さえしたのだ。
彼女は今に至るまで、正直兄には話せないような暮らしを送っていた。
少し調べれば分かることだ。兄以外の兄弟は皆知っているが、気を使っているのか、口にしようとはしない。
自分で自分のことを為そう、と言い、兄が魔法使いの連盟を解散したのは、今から百五十年ほど前のこと。更紗にも分かっていた。それは、自分達に対してより強く敵対心を剥き出しにするエリクシアへの対策でもあった。
無駄な戦闘はなるべく避けたい。
以前は、最も好戦的で……自分達に逆らうもの、少しでも敵対心を見せた者は何処までも追っていって嬲り殺していた兄が変わってしまったのは、やはり百五十年前、双子の妹を失くした時からだった。
その時から、この世界を覆う吹雪は止まない。
解散の際に誓った点は三つ。

一つ、泉をはじめとする七人の大魔法使いは、彼の召集を除き特別な場合以外に一所に集まってはいけない。

二つ、大魔法使いは、自らの行動に責任を持つ。

三つ、大魔法使いは、自らの従者を管理しなければならない。

つまり簡単に言うと、Hi8は自分自身で考え、行動し、そして生きていこうということだ。
その時点で、更紗は唐突に兄から放り出されたのだった。
何百年も一緒に暮らした家族と、いきなり離れ離れにされるのは耐え難い苦痛だった。だが、泉の提案に反対したのは彼女一人だった。
皆感じていたのだ。
いくら強力な力を持とうと、それがマイナスの方にしか働かないことに。
だから分散した。大魔法使いは散っていった。
実を言うと、それにはまだ更紗が知らない理由があった。食事と、従者だ。
兄弟で差はあるが、彼女達は人間を食わなければ生きていけない。だから、一所に集まっていては、その食事を安定してすることができないのだ。そして従者。レプリカンと呼ばれる複製魔法使い。
これは、Hi8が持つハイコアという魔法使い核が有する特性によるものだった。
つまり感染だ。魔法使いの要素を、適正があると判断したアンドロイドや人間、果ては動物に移植して、それを魔法使いへと変質させることが出来る。
とは言っても、適正がある存在など本当に稀で、普通十万……いや、百万人に一人という割合だ。
その感染確立は兄弟の間でも誤差がかなりあり、更紗は生まれつき従者へ変質させる適正が、かなり硬いタイプに属していた。いくら感染させようとしても増やせない。兄の助けで二人、アンドロイドを感染させてはいたが、百年間でそれだけだ。
それに対して、泉は優秀だった。いや、優秀すぎた。彼が感染させようとすると、それは適正のあるなしに関わらず全て魔法使いになってしまうのだ。
それゆえに泉は、よほど気に入った人間でなければ従者にしないし、加えて彼が人間を気に入るということは、殆どないことを更紗は知っていた。

――何というのだろうか。

兄は、一人ではないのかもしれない。
しかし自分は、離されれば一人なのだ。いくら部下がいようとも、いくら強大な力を持とうとも、結局のところ一人なのだ。
263 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:56:03.96 ID:484YotGN0
兄は自分を見ていない。
それは分かりきって。
本当に分かりきったことだった。
第一次大戦を境に泉は変わった。
しかし、彼の妹――氷結の魔女と呼ばれた、涙――更紗が姉と呼んだ女性が死んだ時のように、自分がもし死んだら。
その時、兄は変わってくれるのだろうか。
答えは否だった。
多分兄は悲しむだろう。とても、とても悲しんでくれるはずだ。
しかし変わらない。それだけだ。自分がいなくなっても、この人は暮らしていける。

――何の支障もないんだろう――

分かりきっていたことだった。
だから耐えた。百五十年耐えた。じっと耐え、そして幸せになろうと心に決めた。
兄に教えられたこと。
人は殺さない。そして人と共存していくようにする。
それを守ろうと、最初はした。
しかし出来なかった。
泉は知らなかったことなのだが、更紗は兄弟たちに比べ、何十倍も摂取する血液の量を必要としていた。
気づいたら一つのドームでは凶悪な魔法使いとして追われ、分かり合おうとしても追い立てられ、そして逆上して壊滅させ。
それを繰り返して、今に至る。
だから、兄にもう一度集まろうと言われた時は本当に嬉しかった。
認めてもらえたとさえ思った。
ここにいていいんだよ、と言われたような気がした。
ねね様がいた場所に、今度は自分が座っていいんだと思った。
しかし違った。
ねね様がいた場所には、もう既に女がいた。
結局自分は要らない子なのだ。
いてもいなくても変わらないのだ。
その事実に、何百回目かで気づく。
夜半、眠っているフィルレインを見下ろしながら更紗は大きなため息をついた。
先ほども発作があり、暴れまわっていたのだ。今は兄達に魔法で自分の幻を見せ、この女の様子を観察に来たのだ。
憔悴してやつれている細い少女を見つめる。
その顔が、どことなく涙に重なった。

(ねね様……?)

何となく分かった気がした。自分がこの女を殺せず、兄があそこまでして――かつて自分にしてくれたように――必死に看病している理由。
詰まるところ、こいつはねね様に顔が似ているのだ。
顔だけではない。かすかに漂う匂い、雰囲気。それらが見れば見るほどそっくりだった。違うのは髪の色と長さ、そして圧倒的に性格と、能力。

(殺せぬ……)

手を握り、歯を噛む。
疫病神だろうと、何だろうと。殺せない。あの人の顔をした人間は。

(戻ろう……)

ここを去ろう。
その時、更紗はそう決めた。
ここを出て、どこか兄と関わりのない、別の世界に行こう。
それがベストなんだ。そうなんだ……。
264 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:56:54.86 ID:484YotGN0
結局自分は出来損ないで、おかしくて。そして要らない子なんだけども。
でも、それでも。
兄が求めている幸せを崩す権利はない。そんなもの、自分は持っていないんだ。
この女は病気だ。麻薬……厳密に言うと、市販されているものの数百倍の濃度を持つ崩壊薬と呼ばれているLSFの投与によるものだ。
更紗は、それを誰よりも良く知っていた。
なぜならば、彼女も昔、その投与により廃人になりかけていたのだから。
えげつないクスリだった。
本人に自覚症状がないまま中毒、禁断症状が出る。出回っている麻薬としてのLSFは、投与実験が為されていた頃のものと比べると薄い、ほぼ水のようなものだ。しかしそれであるからこそ、摂取してしまえば禁断症状が色濃く出てしまう。
エリクシアが開発した、検体逃走防止用の策なのだ。
定期的に摂取すれば、じきに肉体と精神が崩壊して死に至る。それならばそれで、普通の反応。抗体が見止められれば、それを採取して研究。
逃げ出したり、敵の手に渡ったりした場合は、禁断症状で精神崩壊の末、死に至る。

(もう長くはないであろうな……)

自分は年月が解決してくれたが、この女は同じような寿命を持っているとは思えない。兄の為していることが、徒労で終わることは明白だった。
LSFは治らない。
実のところ更紗も、完治したわけではなかった。今でも時々、興奮すると禁断症状が出ることがある。しかし更紗とフィルレインの決定的な違いは、それにより寿命が縮むか、縮まないかということにあった。更紗はどんなに苦しんでも、寿命は縮まない。しかしこの女は、こうして眠っている間にも着々と蝕まれている。
自分が死ぬ思いで克服した悪夢のクスリを、再び目の当たりにしようとは思っていなかった。軽く頭を振り、その場を出ようとする。
そこで彼女は、足音が近づいてくることに気がついた。おそらく兄だ。気づかれるのも面倒なので、魔法を展開して自分の姿を透明化させる。そこでドアを開けて泉が入ってきた。
彼は傍らの立てランプに電気をつけると、眠っているフィルレインの隣に腰を下ろした。
気が引けたが、気になった。
ドアが半開きになっていることもそれを助長させたのかもしれない。更紗は、階下に降りていた自分の幻を部屋に戻し、透明化したまま部屋の端に立った。
更紗が一つの物事に対して魔法を使える時間は、四分間が限度だった。目的物を変えればいくらでも出来るが、一度には二種類以外使えない。
あと三分くらいは、時間があるはずだ。
泉は息をついて、フィルレインの髪を撫でていた。暴れたとはいえ、メイドに風呂に入れられた後なのですっきりとしている。
少しそのままでいると、ぼんやりと金髪の少女が目を覚ました。そして傍らの泉に目をやる。

「あれ……何で私、ここで……」

「おはよう。食いすぎで疲れたんだろ。つっても今は深夜だからな、今日はここで寝ていけ」

記憶がすっぽりないらしい。
LSF症候群はそうなのだ。中毒、禁断症状の間は、その世界認識が崩壊する。更に自覚することが出来ない。
泉が安心して息をつくと、フィルレインは慌ててベッドの上に上半身を起こした。

「ダメ……私、宿に帰るよ」

「何でだよ。だから男に二回以上同じことを言わせるな。命令だ。ここにいろ」

「嫌だよ……」

意外すぎるほどはっきりと言って、のろのろと立ち上がろうとした彼女を無理に押し戻り、泉は激しく睨みつけた。

「三回言わせるつもりか?」

「でも……」

「でも? お前はいつからそんなに偉くなった? 俺に意見できるくらい偉いのか? でも、だって、何回言うつもりだ? あぁ?」

突然、泉が大声を上げた。
265 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:58:24.79 ID:484YotGN0
「この際はっきりさせておこう。俺が嫌いで、憎いならそう言え。お前にかけた魔法を二つとも解除してやる。その後は、何処へなりと好きなところに行くがいい。お前が俺を殺すという任務は、悪いがどうすることも出来ん。勝手に帰って、勝手にどうにかすればいい。もっともその際は俺だって弟達に合わせる顔はない。多大なる泥を塗られる形になるが、お前にとっちゃしてやったりなのかもしれんな」

更紗が息を呑むほどの突き離しぶりだった。言葉の暴力に殴りつけられたフィルレインは、目を見開いて、震える手で泉の肩を掴んだ。

「ごめんなさい……怒らないで……」

「お前を怖がらせようとしたんじゃない。だから謝っても無駄だ。理由を言えと言ってるんだ。ベッドの上で吐かせてもいいんだぞ」

「……や、やだ……」

「だったらはっきりしろ。出て行くか、俺の言うことを聞くかだ」

かなり長い間、フィルレインは俯いていた。
そして彼女は、横目で伺うように泉の方を見た後、手を握りしめて、ポツリと言った。

「私の頭の中にね……」

「……」

「通信素子があるから……」

「………………は?」

思わず、更紗は声を上げていた。自分の存在をほぼ完全に消してはいたので、二人には気づかれなかったが……慌てて口元を手で覆う。
泉は唇を噛んで毛布を握り締めたフィルレインを見て、暫くの間黙っていた。

「……どこ?」

「うん……脳幹の奥の方……エリクシアにはみんなあるんだって。摘出は無理だと思う。だからね……」

瞬きをする間だった。
泉は、そっとフィルレインを引き寄せて、胸に抱いていた。彼女の髪を撫で、そして口を開く。

「で?」

「え……? だ……だから……」

「だから?」

「離れてた方がいいから……だから……あと、お薬打ってみて、無効化しようと思ったけど、出来なかったみたいだから……そう言われたんだけど、売ってみても信号止まらないみたいで……」

――彼女は、自分から進んでLSFを打ったわけではないようだった。どうやら、それが脳の中の通信装置を破壊するクスリだと騙されたらしい。

泉は暫くの間フィルレインを抱いていたが、やがてそっと離してから息をついた。

「だから、出てくね」

「……」

「さよならしなきゃ……」

「何で?」

ノータイムだった。こともなげに聞き返され、フィルレインと更紗は同時に目を丸くした。
266 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 20:59:00.06 ID:484YotGN0
「え? 何で……って……」

「聞きたいなら聞かせてやりゃあいいじゃねぇか。俺ぁ、なんも後ろめたいことはしてねぇ」

「それは……でも……」

「俺の兄弟たちもそうだ。誰も後ろめたいことなんてねぇよ。聞きたいだけ聞かせてやれ。もっと心を広く持て。いつか、その方がいいことがあると思うぞ。声聞かれるくらい何だ?」

「……」

「そんなバカらしいこと。今までお前気にしてたのか?」

「……」

「アホじゃねぇの? 俺らが小さい頃なんて、もっと酷かった。エリクシアは別に気にしちゃいねーよ。躍起になるだけ無駄ってもんだ」

それを聞いて、更紗の胸に毒針でえぐりこまれたような痛みが走った。
俯いて……そしてそっと出口に足を向ける。
出よう。
ここを、出よう。
自分はここにはいていけない存在だ。
恐怖を感じた。
そして、憤りを感じた。
ダメだ……ここにいたら、確実に。
自分は兄を、不幸にする。
この長い長い年月の末、今。
始めて思った。
だって、自分は。
自分は、あの人と決定的に何かが。
違う。
するりと、とびらの隙間から外に出て、気づかれないようにそっと締める。
廊下で壁に寄りかかった彼女の耳に、泉がフィルレインをベッドに押し倒す音が聞こえてきた。
噛み締められた歯の間から、ドロリとした血の塊が口の中に湧き上がった。
267 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:15:19.13 ID:484YotGN0
21 たばかり

 いざ認めてしまえば、後は予想を遥かに上回って簡単なことだった。
最初はつっけんどんにしていたとはいえ、耐えるだけでいいのだ。耐えて、耐えて。
そして演技をすればいいのだ。
認めて、そして受け入れて。
妹であるという演技をすればいいのだ。
兄のために。
そして自分のために。
考えてみれば、どこにも行くところはなかった。温かいベッドで寝ることが出来て、そして対等な立場で他人と会話が出来て。いたわってもらえて、頭を撫でてもらえて。
そんな天国のような場所なんて、どこにもないのだ。
ここを離れれば、自分は一人。一人で生きていかなければいけない。それは想像を超えて、今の更紗にとって恐ろしいことだった。
演技だ。そう何度も自分に言い聞かせ、笑う。簡単なことだった。何ていうことはない。兄に出会う前の世界で日常的に行っていたことだ。
嫌なことでも笑ってやれば、いつか嫌ではなくなる。それは更紗がたった一つ、生きてきた中で得た、自分だけの教訓だった。
笑っていればいい。笑い飛ばせばいい。
人殺しも、麻薬も、身売りも。
笑っていればいつかは嫌なことではなくなるものだ。麻痺して、それが当たり前になってくるのだ。
だから、いざ割り切ってしまえば更紗にとっては大して重要なことではなかったし、本心が表に出てくるようなことは決してなかった。
そして何より。色眼鏡を外して見たフィルレインは。
……涙に似ていた。
確かに、兄が気にかけるのも何処となく分かる気がする。
最初は遠慮をしていたフィルレインも、段々と泉の屋敷にいる時間が長くなり、夜も彼の部屋で過ごすのが目立つようになっていた。
泉の女癖の悪さは、昔から相当なものがあった。
涙が死んでからそれが収まったと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。兄弟たちはただ単純にそう考えていたようだ。
確かに、そんなことは慣れていたことだった。以前の自分なら、兄がどこぞの女を連れてきて部屋で嬲っていても気にならなかっただろう。
だって、その女と自分とでは生物学上の格が違うのだ。文字通り、生きている次元が異なる。全く別物の存在だ。
だから、どんな状況においても引け目を感じることはなかったし……何より、泉の傍には常に涙がいた。
そして涙の隣には、いつも自分がいた。
それで安心だと思っていた。それが全てだと思っていた。
だが違った。
時間はそれを無情に突き放し、今の更紗には何もなかった。
だから。だからこそ。
最後に残った自分の全てが奪い去られるのを目前にしながらも、何もできなかったのかもしれない。
それを邪魔してしまったら、自分にはもう本当に何もなくなってしまう。動物的な直感がそう告げる。それは、果てしないほど恐ろしい危険だった。
フィルレインの部屋でベッドに腰掛けながら、更紗は表面上はにこにこと笑いつつ、心の中でため息をついた。
268 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:15:58.46 ID:484YotGN0
まるで道化だ。バカだ。愚鈍の極み。

――しかし。

しかしだ。この女はどうせ、多く見積もってもあと二年で死ぬ。実時間が二年。自分の体感時間に換算すると、およそ三ヶ月に過ぎない。それだけだ……それだけなんだ。
その期間我慢すれば、後はがっかりしているにに様の傍に近づき、今度は自分が慰めて差し上げればいい。そして、涙姉さんのいた場所に今度は自分が座ってあげればいいのだ。
それだけのことだ。
しかし今度は、ズキリとした胸の痛みに勝手にため息が出た。
床のクッションに腰を下ろしていたフィルレインが、こけた頬を押さえて更紗の方を向く。

「わ、私変なこと言ったかな……?」

伺うように聞かれ、疲れた風に微笑んで更紗はそれに返した。

「いえ……別に……」

「姉上、お疲れですか?」

隣に座っていた愛寡が聞いてくる。自分よりも体が大きく、女性っぽいこの妹のことを、更紗はあまり好きではなかった。

「そうかもしれぬ。気にやむでない」

ぶっきらぼうに答えて、紅茶に口をつける。
何よりフィルレインと、まるで親友のように仲良くしているのは見ていて面白いものではない。加えて、兄弟の中では、泉、そして涙の魔法以外で唯一自分に対抗しうる魔法特性を持つのが、彼女だった。外見の大人っぽさと性格はかなりかけ離れており、精神年齢は更紗のものより遥かに幼い。
それは、愛寡が軽い脳障害を患っていることが理由だった。彼女の右目は長い髪で隠れて見えないようになっているが、そこには潰れた眼窟の奥に深い傷跡が残っている。その傷は、今は完治しているものの、妹の人格形成に深刻な影響を与えていた。加えて言語障害も誘発している。この年になってもまともに言葉を喋れないのはそのせいだ。
愛寡の欠点として一番大きいのはそこだった。彼女は善悪、つまり敵味方の判断が出来ない。見たもの全てを信じてしまう傾向にある。
それ故に、大魔法使いの中では歳が近い硲がついていることが多い。
今回のフィルレインの件だって、特に反対意見も抵抗もなく受け入れたのは彼女が最初だった。別段考えがあるわけではないのだろう。恐らく話してみていい人そうだったから、という理由だ。
にこやかに紅茶を交わしている彼女達を見ていて、段々と腹が立ってくる。
話している内容は、二人とも世間の常識には疎いのか、主に兄達との出会いの内容だった。
269 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:16:48.78 ID:484YotGN0
幼稚だ。
どうしようもなく。

「……そこで、兄上が、ドーンと助けてくださった、です」

興奮しているのか、愛寡の口調が早口になっている。擬音ばかりで何を言っているのか分からない。兄弟達と一緒にいると、そのせいで愛寡は控えめに黙って微笑んでいることが多い。しかしフィルレインのように一生懸命、親身になって話を聞いてくれる相手は初めてなのか、何十倍も年が離れているはずの大魔法使いは子供のように目を輝かせていた。
端から見れば親と子ほどの外見差がある二人だ。しかし中身はさほど変わらない。
フィルレインは目を丸くして愛寡の話を聞いていた。そして不思議そうに首を傾げてから口を挟む。

「そんなに泉って強いの?」

無邪気な質問だった。思わずむせそうになった更紗よりも先に、愛寡は何度か頷いてから答えた。

「ええ。多分、今魔法使い全部の一番」

「そうは見えないけど……」

「何を言っているのです」

我慢できずに更紗が口を出す。彼女はジト目でフィルレインを見てから、息をついて言った。

「にに様は、わらわ達魔法使いの中でもトップに立つお方です。下々の魔法使いでは正面に立つことさえ出来ぬのです」

「どうして?」

「それは、まぁ……それくらいにに様がお偉いということです」

――本当に何も知らないらしい。

実の所、愛寡も更紗も泉の魔法効力。その内容を知らなかった。
兄弟達の間では異例のことだったが、それ以前に泉が滅多なことでは他の魔法使いと共闘しないと言うスタンスが、その理由に関わっていた。つまりいつでも彼は一人で戦うのだ。自分達が到着した頃には大概全て終わっているし、彼は頑なに戦いへの仲間の同伴を拒んでいた。唯一泉と共に戦場に出ていたのは、双子の妹、涙だけだった。
今現存している大魔法使い……Hi8。その中で共通していることは、全員泉に何らかの形で屈服させられているということだった。更紗も愛寡も、彼を敵だと勘違いして攻撃し、そして手痛い反撃を食らった過去がある。
愛寡の場合は、更紗のときよりも酷かった。更沙は最後まで見ていたわけではないが、あくまで抵抗し、半殺しの目にあわせられたそうだ。
しかしそれでも彼を兄として妄信……ここまで慕っているのは、ひとえにその後、家族になった後の彼の求心力にあった。
各地に点々としていた実験体に過ぎなかった自分達を集め、そして一つのコミュニティを形成していたそのバイタリティは、誰にも真似が出来ないことだった。
そこには当然泉本来が持っている力の強さもあったのだろうが、それ以上に彼の知能、そして精神の強さ、広さがあった。
家族を作るということは、それほど難しく、更紗からしてみると在り得ないことだったのだ。
270 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:17:47.09 ID:484YotGN0
「あの頃は良かったのう……」

昔のことを思い出し、つい本音が口を出る。
黙り込んだ姉を見て、愛寡は軽く微笑むと、彼女のカップに紅茶をついだ。

「今はダメなのです?」

「……」

答えなかった。
フィルレインは、少しの間更紗の言葉を聞いて考え込んでいたが、やがてはにかんだように笑って口を開いた。

「でも、愛寡ちゃんも、更紗さんも、昔の思い出があって、いいね。泉と沢山、思い出作ったんでしょう?」

「はい。フィルはない?」

愛寡が聞くと、金髪の少女は肩をすぼめて返した。

「私は、目が覚めたときにはもう、ラボにいたから」

「ラボ?」

「うん。私達はそもそもエリクシアの生体ラボで生産された、パーツ用クローンなの。内臓の研究とか移植のために作られたらしいけど……詳しいことは知らないんだ」

「クローン? じゃあ人間じゃない?」

「人間じゃないよ。確かに体はピノマシンだけど、別にそれで特別って訳じゃないし……私には特に能力も役割もないし……だから、実験用のお薬を投与されて、一年くらいの記憶しかないかな」

「……」

更紗も、愛寡も同時に黙り込んだ。
彼女達は、フィルレインの言葉の意味を良く知っていた。他でもない、エリクシアによる生体実験。その副産物として生まれたのが自分達なのだ。分からないわけがない。
しかしこの子と自分達とで大きく違う点がある。
自分達は、特別な力を持っていた。
この子には、何もない。
それだけと言ってしまえばそれだけだが、そのたった一つの違いはあまりにも大きいものだった。

(もしもわらわにこの力がなかったら……)

ふと、更紗は思った。
兄と出会うことも、なかっただろう。
よほどの偶然が重ならなければ、外の世界の空気を知ることもなく、ミンチにされていた可能性だってとても高い。
ようは運だ。
生まれてくる環境なんて選ぶことは出来ない。それは、ただの運なのだ。

(ふん……)
271 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:18:34.51 ID:484YotGN0


少しして愛寡が話題をさらりと変え、フィルレインと街まで降りてみないかということを言い始めた。
愛寡は、大魔法使いの中でも功刀以上に人間に近かった。
最も、功刀は人間というよりはどちらかと言うと機械に近い。愛寡本人は全く気づいていないようだが、彼女は更紗の必要とするところの血液。その十分の一程で体が稼動する。
運だ。
それは、単なる運による影響だ。
しかし……。
二人に誘われて、更紗は引きつった笑みを浮かべながらそれをさりげなく断った。
愛寡と自分とでは、人間を見る目が決定的に異なる。妹からしてみれば、市は珍しいものが沢山売っている楽しい場所なのかもしれない。
しかし、自分からしてみれば。
そこはただの餌場だ。

「じゃあ私、ちょっと泉に言ってくるね」

街に降りてみる方向で話がまとまったのか、フィルレインが部屋を出て行く。
少し考え、妹を止めようと口を開きかける。しかしそこで、廊下で鉢合わせたのかフィルレインと泉が部屋に入ってきて、慌てて更紗は口を閉ざした。

「何だァ? 街に降りたいって?」

口を開いてドッカリと椅子に腰を下ろした彼に、愛寡は頷いてみせた。

「フィルと、いい?」

「元気あんなぁお前ら。俺だって外には出たかねぇのに。何しにいくの?」

「お洋服、買いに」

「はぁ? 洋服? 何で?」

三段切りで兄が不思議そうな声を発する。

「いつも同じ服」

愛寡がフィルレインのことを指差す。それが自分を指していることに気がついた少女は、耳までを真っ赤にして下を向いた。

「へ……変かな……」

「変」

あっさりと肯定した妹を見て、少し考え込んだ後泉は口を開いた。

「んじゃ欲しいモン言え。メイドに買ってこさせっから」
272 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:19:15.14 ID:484YotGN0
「自分の目で選らばなきゃ」

「何でよ?」

「女の子だから」

いつになくはっきりと言葉を発する愛寡と暫く見つめあい、泉は困ったように頭をガシガシと掻いた。

「うーん……」

「……」

「さっぱり分からん」

兄が、先日のフィルレイン……LSF禁断症状の件を気にしているのは明らかだった。

「それは兄上、男の子だから」

更紗にも、愛寡の理論はさっぱり分からなかった。しかし兄が懸念していることははっきりと分かった。まず、フィルレインの体調は彼女の自覚症状がないだけで、最悪のはずだ。そして更に、自分達が事前に破壊したとはいえ、このドームにも反魔法使い派がいる。危機意識が薄い愛寡とフィルレインでは、魔女の疑いをかけられてしまう恐れがある。
無論、愛寡がいれば命には何の別状もないだろう。しかしその火の粉は、静かに暮らしている泉に降りかかってくるのだ。
泉はまた暫く愛寡とフィルレインを見ながら考え込み、そして、金髪の従者に聞いた。

「お前、愛寡と街まで買い物に行きたい?」

聞かれて、フィルレインは相当戸惑ったようだった。先ほどは場の雰囲気に任せて彼を呼んできたようだが、そこで初めて気後れしたらしい。愛寡に助けを求めるように、横目でチラチラと見ているが、肝心の赤毛の魔法使いはニコニコ笑うだけで助け舟を出そうとしない。
数十秒も迷った挙句、やっとフィルレインは恥ずかしそうに

「うん」

と言った。

「まぁ……ならいいけどさ」

更紗は思わず突っ込もうと声を出しかけ、やっとのところで自制した。兄が認めるとは思っていなかったのだ。いや……愛寡だけの言葉なら跳ね除けていただろう。しかし彼は、フィルレインに意見を求めた。自分でも、愛寡でもなく。
273 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:20:09.92 ID:484YotGN0
「だが俺も行く。そしてお前らは、何か起こるとコトだから、フード被ってけ。特にフィルレイン。お前は魔女に間違われやすい。分かったな?」

「いいの?」

「しゃーねーだろ。早く準備しろ」

「兄上も?」

「ああ、俺がいなきゃお前ら、金の見方も分からんだろ」

フィルレインと愛寡は顔を見合わせ、そして互いに手を握って笑いあった。
その様子を唖然と見つめている更紗を見て、バツが悪そうに泉は言った。

「お前、何か欲しいものあるか? 買ってきてやるよ」

それは、兄からの気づかいの言葉だった。

「……いらぬです。人間の持ち物など……」

嬉々として鏡台の前でフィルレインに化粧を施し始めた愛寡を一瞥し、声を殺して呟く。

「まぁそう言うな。中々良いもんだぞ。最近は宝石なんてもんがあってな。綺麗なもんだ。お前は青が好きだったな。まぁ待ってろ」

兄にしては即決過ぎた。
彼はフィルレイン達の方を見て、出発する時間を告げると慌しく部屋を出て行った。少し気になってそれを追う。すると、廊下で泉と功刀が話しているのを見止め、更紗は慌てて柱の影に身を滑らせた。

「……何で女の買いモンに、オレがデバガメせなぁイカンのです? 愛姉がオルなら、イイでしょ?」

「でばがめって何だ?」

「ストーキングでス」

「阿呆」

パチン、と自分よりも大きな弟の頭を叩いて、泉は続けた。

「何言ってんだお前。買い物なんてどうでもいい。周りを張れって言ってるだけだ」

「どうシて?」

「あのバイヤーが吐いた。やはり、フィルレインにLSFを流したのはエリクシアらしい。その息のかかった組織と言った方が良いか」
274 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:21:01.25 ID:484YotGN0
「……おかしいデスぜ? だって、ココの反魔法使い組織ハ、エリクシアもひっくるめて敵視してるデショ?」

「分からんが、どうやらそいつらとエリクシアが手を組んだらしいんだよ。末端のバイヤーからじゃそこまでしか引き出せなかった。地下室で死体を処理したら、お前は俺達の周りに張りつけ。オレはフィルレインを使って、お前が言うでばがめしてる奴をおびき出す。何匹か生け捕りにしろ。四肢くらいもいだって構わん。フィルレインをあんなにした報いは受けてもらう」

「おおごとにナランデス?」

「あくまで隠密にやるが、いざとなったらここを消滅させることも考える。そうなったら、お前はフィルレインを連れて離れろ。後から追う」

淡々と物騒なことを言い放ち、彼は表情が変わった功刀の肩を叩いて、静かに言った。

「…………分かったな?」

「了解でス」

頷いて、巨大な弟は爪先で足下をトン、と叩いた。途端、彼の影がまるで粘土のようにぐにゃりと歪み、円形にまとまる。そこに足を踏み入れると、ポケットに手を突っ込んだままの功刀はゆっくりと……その影の中に沈み込んでいった。

「しカシ……俺ラが三人も集まって外出デスか」

「……」

「何個ドーム潰すつもりデスカい?」

ボソリと呟き、功刀の姿が完全に影の中に消えた。その円形の影がうにょりと動き、泉の影の中へと溶け込む。
更紗は、階下に降りていった泉に声をかけることも出来ずに、両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちていた。

(やってしまった……)

自分のせいだ。その事実に気がついたのだ。
このドームに入る前。自分と今はいない兄弟、津雪と美並の三人で、反魔法使いだと思われる人間の拠点を叩いたせいだ。
それで反魔法使い派の人間は全滅したとばかり思っていたのだが、どうやら違ったらしい。生き残った人間達が、エリクシアと手を組んでしまったのだ。

――魔法使いを排除するために。

自分が、均衡を崩してしまったのだ。泉と反魔法使い派、そしてエリクシアの緊迫していて……しかし拮抗していたその状況を崩してしまった。
その状況の現れが、フィルレインへのLSFの流れ。
どうして気づかなかった……だって、LSFは、現在はエリクシアしか製造していないはずではないか。
その事実を泉は知らない。
彼らが、はっきりと魔法使いを敵だと認識している事実を、兄は知らない。
だから悠長なことを言っているのだ。
一瞬、全てを兄に打ち明けようと考えた。しかしすんでのところでそれを思い留まり、よろよろと部屋に戻る。

――打ち明けてどうする?

嫌われてしまうだけではないか。
275 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:21:41.34 ID:484YotGN0
打ち明けたら、自分は嫌われてしまう。約束を破った悪い子だと思われてしまう。
ダメだ。
ダメだ。
それだけは絶対にダメだ。
ならばどうするか……。
いっそ……そうだ、いっそ……。

――兄がここのドーム内で、エリクシアと戦争を起こすように仕向けてやれば

恐ろしい想像が脳裏を掠める。
二年と言わず。
その最中であの女を始末してやれば……。
行き場をなくした兄を、自分が慰めてあげれば。
そうだ……そうすれば……。
俯いて考え込んでいたため、部屋の中の雰囲気に気づかなかった。彼女は息をついて顔を上げた時、反射的に魔法を発動しそうになるほど仰天し、次の瞬間猫科の動物を思わせる動きで後ろに飛びのいていた。
自室の中――その椅子に、弟……硲が座り、新聞を広げていたのだ。
彼は目を丸くしている更紗を見て、軽く笑いかけた。

「何をそんなに驚いているんです、お姉さま」

「あ……当たり前じゃ! お主、人の部屋で何をしておる!」

「いえ、お姉さまと少しばかりお話がしたくてね」

そう言って微笑むと、灰色の髪をした弟は眼鏡の位置を直した。そして、傍らのコーヒーポットから中身をカップに注ぎ、彼女の方を向く。

「お座りになってください」

「……出てゆけ」

虫の居所が悪かった。何より、兄を貶めるような妄想をしていた最中を見られていたという気まずさが先に立ったのかもしれない。耳までを真っ赤にし、彼女は硲に向かってヒステリックに怒鳴った。

「はよう出てゆけ!」

「怖いな……一体どうなさったんです?」

「どうもこうもない。そんな気分ではないだけじゃ!」

「まぁまぁ。お兄様達、街まで行くのでしょう?」

笑顔のままさらりと言われ、更紗は言葉を止めた。
276 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:22:28.34 ID:484YotGN0
「何故知っておる?」

「僕だって魔法使いです。お姉さま方ほどの力はないとはいえね」

そこまで言ってコーヒーを口に運び、彼は新聞を片手で畳んで、上着のポケットに突っ込んだ。

「そして、お姉さまはあの少女を邪魔だと思っていらっしゃる」

突然図星を突かれ、更紗は、しかし逆に怒りの色を目に発しながら、押し殺した声で言った。

「……それ以上姉を怒らせるでない。去ね」

「まぁまぁまぁ……落ち着いて。相談に来たのです」

にっこりと微笑み、硲はパチリと指を鳴らした。すると、彼の首の脇……そこの空気がくしゃりと歪み、まるで水面をかき回したかのような模様を作り出す。

「ポン」

軽く言って、脇を指す。するとベッドの上に、突然人影が現れた。

「ポン」

もう一度言って少しずらしてベッドを指す。すると、更に小さな人間が空中から現れ、ポス、と毛布の上に落ちた。

「津雪……美並? お主ら、ドームから出たのでは……」
277 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:23:11.09 ID:484YotGN0
現れたのは、少し前にここを発った残り二人の大魔法使いだった。一人は細身で、端正な顔立ちをした青年。しかし艶のある黒髪を頭の上で結い、まるで女性のように化粧をしている。もう一人は更紗よりももっと小さい女の子だった。人形のように切りそろった短い髪をしていて、その目には黒い布で覆いがかかっている。ワンピースを着ていて、彼女の体はベッドの上から数センチ、何に支えられているわけでもないのに浮いていた。

「あぁらお姉ちゃん、こんにちは」

含みのある女性言葉で、津雪と呼ばれた魔法使いが手を上げる。それに合わせて美並という小さな女の子も、そっと手を振ってみせた。

「何じゃ……お主ら、一体何を……」

「まぁまぁ、僕たちはちょっと秘密の計画を立てていましてね。それで、行き詰まっちゃって。お姉さまなら何かいいお考えを出してくださるんではないかと……」

「何を言うておる……ここはわらわの部屋じゃ! にに様をお呼びするぞ、出て行け!」

「落ち着いてくださいってば」

「やかましいわ! 早よう……」

「ねぇ、あの従者を始末したいんでしょう?」

すっ、と硲は問いかけてきた。反射的に答えることが出来ずに口をつぐむ。そんな姉を面白そうに見てから、彼は軽く肩をすくめた。

「でもそれだと困るんです。だって僕……あの子をもの凄く欲しいんですから」

「何じゃと?」

「ね、お話だけでもしてみませんか?」

あくまで紳士的に、しかしそれは毒蛇の群れのように。更紗の耳に絡み付いて、奥に滑り込んだのだった。
278 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:26:46.04 ID:484YotGN0
22 繰り返す乱殺

 フィルレインは、そう……楽しそうだった。
彼女と愛寡の後ろでポケットに手を突っ込んで歩きながら、泉は軽く息をついた。昼ごろのドーム中央市。露店ではないがテントが並び、ドーム中の人々が品物を持ち寄っている、いわゆるバザーだ。とは言っても別段中古品を扱っているわけではなく、その殆どが別のドームから運ばれてきた輸入品だ。
当然高い。
ポケットに突っ込んだサイフをちゃらちゃら鳴らしながら、彼は心の中で金銭の値を復唱した。
実を言うと、泉にも金銭感覚というものがどうもよく分からなかった。
そんなもの十数年ほど経てば変わってしまう。貨幣価値もそれにつきいちいち変動する。覚えてなんていられないのだ。
今まで生活してこれて、普通に屋敷を構えていられるのは、別の取引網を駆使してのことだった。それだって仲介者に少しばかりばれないように魔法を使って協力し、理事と言う形で自然に金が入るようにしている。
だからその管理をしているのは自分ではないし、だから、フィルレインを養うようになってより細かに金を使う必要性が出てきたためにメイドロボを購入したのだ。
しかし、このような市にアンドロイドなんてものを連れてくるのはあまりいいことではなかった。基本的に市の客は極端な金持ちを嫌う。だから波風を立てないためにもメイドロボを置いて、自分とフィルレイン、そして愛寡と来たまでは良かったが……想像以上に、貨幣の管理は泉にとって意味不明だった。
そもそも、どうしてこの時代は硬貨よりも紙幣の方が価値が高いのか。その概念からして理解できない。しかし一応は覚えておいた知識で、妹達が望むがままに金を出して買ってやる。
この辺りでは、泉の顔は結構広い。
最近はめっきり外には出ていないが、一年に何度か来る市のキャラバン員は彼の顔を覚えているものも、何人かいた。本当なら値段を吹っかけられてボッたくられているようなところを、むしろ割引して売ってくれる。
愛寡、そしてフィルレインはそのような泉の人望に少なからずとも驚いていた。
彼は魔法使いだ。
しかし、魔法使いでなくとも生きていける。
そういう事実なのだ、これは。
歩き回っていると、一つのテントで売り子をしていた少女が泉を見つけ、軽い歓声を上げて走り寄ってきた。

「泉さん!」

「あ? ……うわっ……」

きょとんとしたあと明らかに青くなった彼の腕に、満面の笑顔で抱きついた少女を見て、フィルレインはフードの奥の顔を不快げにしかめた。それに気づかないのか、愛寡がきょとんと兄に聞く。
279 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:28:06.52 ID:484YotGN0
「誰で?」

「あぁ、いや……」

泉は、しかしチラリとフィルレインの方を向いて言葉を濁らせた。そして彼女から死角になるようにくるりと少女の方を向き、懐から掴み出した紙幣を無理矢理その胸に突っ込む。

「悪い、エリザ。今日はちょっと……」

「え〜、久しぶりなのに。泉さんなら、明日の朝までちゃんとサービスするよ。あれ? 泉さん、妹さんいたんだぁ」

エリザと呼ばれた少女がフードを被ったフィルレインに気づいて、目を輝かせる。

「こっちの人はお姉さん? ね、ね。お茶飲んでいってよ」

「だから、エリザ……ったくしゃーねーな……」

苦虫を噛み潰したような声を出し、泉は彼女の額をトン、と指で叩いた。
次の瞬間、泉、愛寡、フィルレイン。その三人の周囲の景色が、まるでビデオテープを巻き戻し再生しているように、凄まじい勢いで駆け戻った。数秒後に、彼らは先ほどエリザと呼ばれた少女がいた店から、少し離れた路地を再び歩いていた。
二十秒ほど前。
フィルレインと愛寡は、楽しそうに買ったアクセサリーを見せ合っている。さりげなくフィルレインの腕を掴んでエリザの店とは別の方向に曲がり、泉は大きく息をついた。

「何やってンですカ……」

泉の背中には、不自然な形に影が張り付いていた。その耳元まで延びた部分から、功刀の声が囁かれる。影は泉のものを介して、周囲の地面に広がり……そして市全体を包んでいる。

「まさか今年も来るとは……」

「毎年ヤッってんのカヨ……他にも行きつけ、ナイデしょうネ?」

「…………」

「アンノカヨ……」

「……だから出てくるの嫌だったんだ」

「勘弁シテくれヨ……マッタク。キカンボウとはこのことダ」

「お前後でシメるからな。それより、奴らの反応はないのか? これだけ堂々と歩いてるんだ。出てきてもいい頃だろ」
280 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:29:04.09 ID:484YotGN0
「イマスヨ。ザッと見て二十前後。重装備デスね。普通ノドンパチって雰囲気じゃあネェですけど、ナメられたモンです。大兄さん、アンタ何かやったんデスカ?」

「二十?」

囲まれているらしい。
泉は一瞬躊躇をしたが、愛寡に袖を引っ張られて、その瞬間笑顔に戻った。

「お? どうした?」

「兄上。行ってあげて」

指し示された先には、フィルレインが洋服店と思しき店に入っていくのが見えた。

(何やってんだアイツ!)

冷や汗が心の中に流れ、しかし妹の頭を黙って撫でてやってから店の中に飛び込む。愛寡は、その後ろからつかず離れずで追従してきた。

「功刀。何匹か殺しても構わん。補足しろ。波風を立てずにだ」

「侮らんでクダさい」

その言葉を最後にして、功刀の声が消える。泉は服売り場をきょろきょろしているフィルレインに近づくと、その肩をポン、と叩いた。

「一人で行くなよ」

「え? あれ……愛寡ちゃんは……?」

そこで気がついたらしい、周りを見回し、少し離れたところに彼女がいるのを見つけ、フィルレインは戻ろうとした。

―行ってあげて―

そこで、泉の脳裏に妹の声がフラッシュバックする。
今はそんな場合ではない。
しかし……。
迷ったのは数瞬だった。泉はフィルレインの腕を掴んで引き寄せていた。

「え?」

「オレが何着か選んでやる。愛寡と一緒に、更衣室で着てみるといい」

「泉が、選んで……?」

それを言った瞬間、フィルレインの顔が耳まで真っ赤になった。

「い……いいの?」

(何だこの反応……)

今更恥ずかしがる関係でもないような気がするが……。
まぁ、生娘のようなこの応答も――悪くはない。
281 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:32:20.34 ID:484YotGN0
呆れたように笑い、彼女の頭を撫でてやる。そして泉は少女の手を引いて売り場を歩きながら、値段は一切気にせずにドレスタイプの服等を抜き取っていった。
その間中ずっと、フィルレインは服ではなく、自分の手を握っている泉の顔を見ていた。最初は伺うように。そして段々と恥ずかしそうに。いつの間にか、彼女は自分よりも遥かに大きな彼の腕に抱きついて、真っ赤になりながら俯いて歩いていた。
しばらく服を選んでやり、そして手を上げて店員を呼ぶ。やはり顔見知りのキャラバン員だった。その男に服を渡し、愛寡を呼んでから、彼女達を更衣室に案内するようにと言う。少し多めにチップを渡してから売り場で見送り……そこで、泉の目の色が変わった。
今までのにこやかな表情とは打って変わって、猛禽類の瞳のように凍りついた、冷たい目に変わる。

「捕まえマシタ。予想以上に大事デス。ヤる気ですネ完全に」

泉の首筋に影が戻った。

「……エリクシアか?」

「ハイ。一匹コロシマシタ。光学迷彩デス。敵、ココを取り囲んでいマス。どうやら屋敷カラ出るノヲ待ってたミタイデス」

エリクシアが、このように実力行使に出てくるのは初めてのことだった。少なくとも、泉にとっては、それは予想外の出来事に他ならなかった。
考えられるとすれば。
フィルレインだ。
エリクシアは、予想を遥かに超えて泉が彼女を大事にしていることに疑問を抱いているのだろう。だから、LSFなどを流して反応を見ていたのだ。
そしてその反応は、先日確信に変わった。
それを利用しない手はないのだろう。
面白そうに、不気味に口の端を歪めて泉は笑った。
今も昔も、変わらず下劣で面白い。本当に、面白い奴らだ。
進歩がない。

「殺リマス?」

食後の運動とでも言わんばかりの軽い声で、弟が聞く。
泉は更衣室の方を一瞥し、そして軽く息を吸ってから首の骨を鳴らした。

「何人だっけ?」

「正確には、武装したエリクシアンがあと二十五匹デス」

「それだけ?」

「それダケです」

「……俺はなぁ、功刀。向かってくる相手以外はどうでもいいと思うんだ。そして、向かってきても力のない相手は、それもやはりどうでもいいと思う」

泉は右手を開いて、親指と人差し指を折った。

「で、殺意がない相手もどうでもいいし、無論殺意を発することの出来ない相手も、どうでもいい。そして俺に傷をつけることの出来ない相手は、それもやっぱりどうでもいいわけだ」

右手の指を全部折り、彼は言った。
282 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:33:02.00 ID:484YotGN0
「この場合、フィルレインは俺のものなわけだ」

「……」

「ここで戦えば、俺のものが壊れる可能性があるな? つまりそれは、俺に傷がつくっていうことなわけだ」

そう言って、彼は一本、人差し指を立てた。

「ソウですネ」

「だからこいつらはな」

「ハイ」

「皆殺しだ」

そう泉が言った途端、彼の背中の影から、ずるぅ、と功刀の体が滑り出した。完全に大柄な男は影の中から出切ると、地面を踏みしめてから右腕を上げ、パチンと鳴らした。
次いで、彼の足元から不自然な形で伸びていた影が、蠢いた。それらが四方八方に伸びていき、テントの外で、まるで蝿取り蜘蛛のように空中の一部分に、次々に張り付いていった。
光学迷彩――。
虹のような金髪の少女達。エリクシアの戦闘兵隊。それらが、ダイバースーツのような体に密着した服を着ている。光を乱反射し、周囲から姿を隠しているのだ。
彼女達は全員、大型のマシンガンを肩に担いでいた。見えないはずのその体に、功刀の体から伸びた影が蛇のように鎌首をもたげて地面から分離し、襲い掛かる。そして彼はテントの壁が破れるのもお構いなしに、店の中を滅茶苦茶にしながら、影を動かして二十人以上のエリクシアを引き寄せた。
そして影を実体があるかのように動かしてそれぞれを何度も地面に叩きつけ、放り出す。
光学迷彩の欠点は、機構が複雑すぎて強い衝撃を与えると解除されてしまうところにあった。
バチバチと壊れた箇所から放電しながら、マシンガンを構えたエリクシアが姿を現す。
全員同じ顔をしていた。
フィルレイン……いや、涙に似た顔だ。
金髪。同じクローン。
彼女達は、絶叫を上げて逃げ出し始めた店内の客を一瞥もすることなく、たちまち包囲網を完成させ、一斉に泉と功刀に向けてマシンガンを構えた。
騒動に驚いたのか、着替え途中の愛寡とフィルレインが更衣室から顔を出すのが見える。フィルレインは、エリクシアが泉を取り囲んでいるのを見ると大口を開けて硬直し……次の瞬間、悲鳴を上げてこちらに向かってこようとした。

「あいつらを遠くに連れてけ」

「へいへい」

また功刀の姿が影の中に沈みこみ、次いでその体がフィルレインの背後……彼女の影から現れる。大柄な魔法使いは問答無用に金髪の従者を羽交い絞めにすると、自分と同じように影の中に引きずり込んだ。そして唖然としている愛寡も同様に隠す。
それに要した時間は、二秒もかからなかった。
泉がそれを横目で確認して、口を開きかけた時。その瞬間、彼を取り囲んでいる機銃全てが火を噴いた。
猛獣を鎮圧するに効果的な方法。
それは、それよりも強い力で、逃げ場を塞ぎ一斉に叩くことだ。
283 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:36:43.48 ID:484YotGN0
銃弾は全て泉の体に突き刺さり、しかし彼の体を更に突きぬけ、肉片や骨、脳漿、血糊。ありとあらゆる体の断片を吹き飛ばしても止むことはなかった。実に一分以上も掃射をして、やっと彼女達の攻撃が止まる。
原形をとどめていない泉の死体を見下ろし、生死の確認をしようと一人が足を踏み出した時だった。
「時間にして七十二秒か。悪くない鎮圧戦だが……相手を知らないと見える。時間の流れってのぁ無情だねぇ……」
悠々とした声が、彼女達の耳に飛び込んできた。
エリクシアの前には、数分前と寸分違わない飄々とした姿で……ポケットに手を突っ込んだ大魔法使い、泉が立っていた。
それぞれが状況についていけないのか、硬直して目を見開く。
掃射したはずの弾痕も、飛び散ったはずの敵の肉片も、砕け散ったはずの硬い地面も、機銃の薬莢も。
何もなかった。
少し前の、銃を撃つ寸前。
まさに、その時間だった。

「ナメられたもんだな。小娘二十五人で闇討ちか。ハーレムにするには、ちと多すぎるわ。それに金髪ロリータは間に合ってる……間引くか」

ボソリとそう呟き、泉は血色に染まった瞳を彼女達に向けた。その顔は能面でも張り付けたかのように、圧倒的に無表情だった。瞳孔が開ききった表情を受け、この意味不明な状況も加えて、エリクシアの一人が恐怖の叫び声を上げ、銃のトリガーを引こうとする。
その瞬間、泉の姿が消えた。
いや……消えたと錯覚したのはほんの数秒だった。
目が、赤く光る。
彼は、それを皮切りに。
周囲の光景がビデオの逆再生のようにキュルキュルと巻戻っていく中。
その逆再生の時間の中で悠々と足を踏み出し、彼女達に向かって歩き出した。。
トリガーを引きかけた少女の脇に立ち、そしてポケットから小型のサバイバルナイフを取り出して。
ツゥ……と軽い音を立てて鞘から抜き放つ。
そこで時間の再生が元に戻った。

「……俺はねぇ、戦闘にはナイフ一本しか持っていかないんだ。何でか分かるかな?」

動けていない彼女に、口元だけ開けて微笑み。
彼はためらいもなくそれを、相手の首筋に突き立てた。

「それ以外必要ないからさ」

ナイフが引き払われた瞬間、噴水のように周囲に鮮血が飛び散った。
284 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:37:46.53 ID:484YotGN0
「撃て! 撃て!」

誰かが絶叫し、その場の全員が泉に向けて銃を構える。そしてトリガーを引こうとした時、また異変が起こった。
泉の姿が消えた……のではなかった。数秒前の。一人殺される少し前の光景。取り囲んでいる光景に逆戻りし、エリクシアの少女達は息を呑んだ。泉は先ほどのように悠々と、ポケットに手を突っ込んでいた。今度は胸ポケットに指を入れて葉巻を取り出し、先を指で千切ってから口でくわえる。
マッチを擦って火をつけた彼の脇に、首元を切られ、物言わぬ屍と化した金髪の少女が一人、横たわっていた。

「まずは一人」

葉巻の煙を吐き出し、そしてまた、一人の脇に泉の姿が現れた。
もはや、常識を理解を遥かに超えている現象だった。
泉が一人を殺すと、銃を撃とうとした瞬間に戻ってしまうのだ、時間が……少し。
しかし全体の時間が戻るわけではない。殺された仲間は確かに一人、また一人と増えていく。
数分……と言ってはおかしいだろうか。
僅かの時間で、残りのエリクシアはたった一人になっていた。
泉は血溜まりの中で無残に冷たくなっていく少女達の死体を積み重ね、その頂上に腰を下ろしていた。そして葉巻をプッと吐き出し、手で血まみれのナイフを弄ぶ。

「暇つぶしにもなんねぇな」

その言葉を聞いた途端、残りの一人……最後のエリクシアは泉に首を掴まれ、空中に持ち上げられていた。細い体の何処にそんな力があるのかというくらいの、圧倒的な腕力だった。
息を吸うことが出来ずにもがくエリクシアを冷めた目で見つめ、彼は口を開いた。

「……戻ってこの戦闘記録を親御さんに伝えろ。俺を殺りたいんなら、ド級の艦隊三国連盟にして連れて来いってな。最低ラインがそこだ」

サバイバルナイフを少女の服で拭った後、鞘に嵌めて懐にしまう。そしてポイッ、とゴミのように彼女を投げ捨て、泉は首の骨を鳴らした。

「ナメんなよ」

パチン、と彼が指を鳴らす。
瞬きの間だった。
暗示でも、マジックでもなかった。
生き残りの少女は、今から五分ほど前……。
店に突撃する寸前の時間に逆戻りしていた。
心臓が飛び出しそうなほど激しく鼓動している。
夢かとも思った。
何か、催眠術でもかけられたのかとも思った。
しかし……視線を下に向けた彼女は、本当に心臓が止まるかというくらいの恐怖に襲われて硬直した。
服に……べっとりと血がついている。
そこで初めて光学迷彩が切れていることに気づき、つけようとする。しかしどうやっても装置は作動しなかった。
路地裏で途方に暮れて少しの間停止する。
二十五人いたはずの仲間の反応は、一つもなかった。
時間にして、敵の目の前に踏み込む前。
生き残った少女はまだ、踏み込んでさえいなかったのだ。
そう……。
彼女達は、戦闘開始前に、壊滅させられたことになる。
力なく機銃を落とし、少女は呆然自失として地面に崩れ落ちた。
285 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:39:16.16 ID:484YotGN0


「アレ? 終わりマシタ?」

軽く耳元で功刀に呼びかけられ、泉は更衣室に入っていく笑顔のフィルレインに手を振りながら、疲れたように欠伸をした。

「終わりましたもヘッタクレも、お前、ちゃんと死体は処理しただろうな」

「大兄さんノ魔法ハ、イッツモいきなり死体ガ出てくるカラ心臓に悪いデスワ」

「敵は?」

「一人離れてイキマス。殺しチまえばイイノニサ。皆殺しジャないジャン」

「……まぁ、それだと意味がねぇんだよ」

「ソウイウモンデスカネ」

影の中から呆れたため息が聞こえる。
耳元のそれに視線を向け、そして泉はその場にへたり込んだ。

「……大兄さん!」

功刀が慌てて声を上げる。
外見は青年一人のため、突然上がった大声に周囲の客の視線が集まった。泉は息をついて立ち上がると、服を選んでいるふりをして少し離れたところまで歩いていった。そして荒く息をつき、胸を押さえる。

「ダカラヤメトイタ方がいいっテ……」

「これくらい……なんでもねーよ……」

大粒の汗を手で拭い、彼は息を整えてからしっかりと地面を踏み占めた。

「よし、治った」

「ンなわけネーダロ」

「やかましい。他に反応は?」

「さっきのデ全部デスヨ」

「そうか……」

そこで、更衣室のカーテンが開いた。
着慣れないのか、愛寡に背中のジッパーを締めてもらいながらフィルレインが手を振る。

「泉、こっちに来て。これ、どうかな?」

珍しく少女が大きな声を上げる。
彼女の顔は、屋敷の中にいる時よりも数倍も、数十倍も輝いていた。

「ノン気なコッテ」

呆れた声を影の中から功刀が発する。それに肩をすくめ、泉は彼女の方に歩き出した。
286 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:58:54.59 ID:484YotGN0
23 氷結の魔女

 暴走した。
味方の魔法使いの暴走、裏切り。
最初にあった筈の戦力差はいつの間にか逆転していた。
数千の目、目、目。恐怖と憎悪に歪んだそれに囲まれ、泉はぐったりと手の中で脱力した妹を、強く抱きしめた。
涙が止まらなかった。
動かない。もう動かない。

――死んだ?

死んだのか?
たったの銃一発で、死んでしまったというのか。
俺の妹が、死んでしまったとでも言うのか?
閃光、爆音。吹き荒れる火の粉と汚濁、塵の風に顔を叩かれる。

「お兄様! 早くご指示を……このままでは完全に包囲されてしまいます!」

硲の声がする。自分と涙を守るように、六人の魔法使いが立っていた。
戦闘開始から、既に八十五時間が経過していた。
妹の心臓が止まってから、もう三十分以上の時間が過ぎていた。
手遅れだった。
いくらなんでも、多勢に無勢すぎた。
エリクシアの支配を逃れているのは、自分達八人だけ。それ以外の魔法使いは……全てやられた。
あまりにもえげつない手だった。
ゼリーのように崩れ、肉と皮膚が剥がれ、人間なのか、それともゾンビなのか……または意思を持たぬ肉の塊なのか。
それさえも分からない、かつての仲間達が、ずるずると蠢きながら包囲網を狭めてきている。

「ああ……っ」

泉は段々と冷たくなっていく妹の体を、もっと強く、強く抱きしめた。
そんな馬鹿な……馬鹿な。
こんなことで終わるはずがない。こんなことで、終わって溜まるか……そんなわけはない。そんなわけがあるか……。

「死ぬなよ……」

月並みなセリフしか出てこなかった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっただらしない顔で、呆けたように泉は繰り返した。

「おい……死ぬなよォ……ダメだろ……そんなの……死ぬなよ、お前……おい……おい……!」

耳元で何度も、何度も囁く。
しかし、妹に反応はなかった。呼吸が止まっていき、体が弛緩、力が抜けていく。
魔法使い。
それは、元はエリクシアがナノマシンよりももっと小さな極小機械群……ピノマシンを使用して作り出された生体兵器だった。
正式名称はBMZ。空気の粒子に変化することさえ可能なそれは、別次元の生命体とも言われていた。
その核であるBMZを、何億分かの一の割合で適性を持つ人間に合致させ、周囲に展開、制御させる能力を持たせる。
独裁国家エリクシアが行った実験の、単純にして凶悪な目的がそれだった。
そのピノマシン制御の空間は、この次元の理からを再構築して動かすことが可能になる。つまり、すべての組成……世界を新たに展開する固有能力。
それが魔法だ。
無敵のはずだった。
287 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 21:59:49.83 ID:484YotGN0
その中でも、ハイコアと呼ばれる一段階強力な核に適合した八人。大魔法使いと名乗った自分達さえいれば、無敵だと思っていた。
自惚れていた。
皆を守れると思っていた。

――このザマは何だ?

誰かが、心の中でそう言った。
逆にエリクシアに、ハイコア検体――自分達大魔法使い以外の仲間たちのピノコントロールを奪われ、あまつさえ、その奇襲により……ショットガンという原子的な武器で、妹は撃たれた。
心臓を打たれ抜かれていた。
もう、助からない。
助けられたのに。
助けられなかった。

「おい……涙……」

ゆさゆさと力が抜けた妹の体をゆする。
その泉の肩を、背後から功刀が強く掴んだ。

「気持ちハ分かりマスが、今ハしっかりシテクレ! 俺達ノ魔法力は限界ダ! これ以上は持ちこたえラレンデス!」

「兄上!」

「にに様!」

妹達、弟達から名前を呼ばれる。
しかし、泉は呆然自失としたまま、彼らの方を向きもしなかった。

「お兄ちゃん不味いわ!」

刀のような武器を振り回しながら、津雪が怒鳴る。

「エリクシア、衛星軌道上から陽子転爆弾を投下。あと三分でここに到着するわよ!」

「ンだとォ!」

功刀が怒鳴り、そして遂に彼は泉のことを背後から羽交い絞めにし、涙から引き剥がした。

「オレラ全部吹ッ飛ばすツモリカ! 小兄さん! 何キロ飛べる?」

叫ぶように聞かれた硲が、荒く息をつきながらこめかみに手を当てる。

「駄目だ。この人数だと精々十キロが限界だよ!」

「クソ……」

歯軋りをして、脱力した泉の体を功刀は脇に支えた。
288 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:01:19.14 ID:484YotGN0
血まみれ、泥まみれになった更紗、そして美並の影には、ぐったりと意識を失った愛寡が横たわっていた。魔法の使いすぎで、意識がブラックアウトしてしまっているのだ。唯一爆弾を無効化しうる妹の魔法力が空になっていることに気がつき、次いで功刀の顔色が青くなる。
泉の魔法でも無効化は可能だったか、それは今敵わない相談だった。
彼は今、魔法が使えない。

「美並、とにかくココを離れる。吹き飛ばしてクレ!」

功刀が怒鳴ると、向かってくる仲間だった肉塊に向けて……疲れきった美並は立ち上がり、小さな体で地面を踏みしめた。
その、彼女の目前が……まるで大地震が起きたかのように轟音を立ててバックリと割れた。巨大な剣で、地面を薙ぎ払っているかのようだった。深さ数百メートルにも及ぶ程のクレバスが、凄まじい速度で前方に向かって突き進んでいく。
それは二キロ以上先まで到達すると、崩れ去ったビル群をクレバスの中に飲み込み……次いで、炸裂した。地平線の向こうに球状に光が収束し、そして風船を叩き割ったかのような軽い音と共に熱と渦巻いた風を撒き散らす。
周囲に吹き荒れたそれは、大魔法使いを取り囲んでいた肉塊全体を包み……次の瞬間、風に触れた仲間だったモノが全て、一斉に破裂した。
吐き気を催す音と共に血と脳漿、そして内臓だった肉片が吹き荒れる。
彼女達を取り囲んでいる半径百メートルほどの範囲。総勢にして五百人ほどを一気に爆死させ、目を眼帯で覆った少女はふらりと揺らめいた。
魔法力……つまり、生命の動力源が切れたのだ。愛寡と同じように力なく地面に倒れこむ。
威力がかなり弱まっているとはいえ、曲がりなりにも大魔法だ。血の沼と化した周囲を見回し、功刀と硲、そして津雪は、視線を交わして倒れている仲間を抱え上げた。

「あと一分で着弾するわ!」

一刻の猶予もない。
陽子転爆弾が炸裂すれば、この周囲百キロ以上もの範囲。その生命体が消滅分解だ。
まだ先ほど吹き飛ばした数の数十倍もいる、仲間だったモノがずるずると近づいてくる。

「皆、伏せよ……この辺り全部変質させてくれる!」

荒く息をつきながら、津雪に抱えられた更紗が怒鳴る。

「無理だってばお姉ちゃん! 貴方さっきレベル2使っちゃったでしょ!」

「五月蝿いやってみねば分からぬ!」

弟にヒステリックに怒鳴りながら、しかし更紗の視界が何重かにブレた。

「あれ……」

そのまま意識が、シェイカーでシャッフルされているかのように定まらない。

「こんな時に……」

「畜生、万事キュウスカ……」

功刀が吐き捨てるように呟く。
遥か上の空中に、巨大なロケット弾が見えた。着々と、こちらに進行していた。
真ん丸に輝いた月をバックに、淡々とそれは落下をしていた。
289 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:02:33.84 ID:484YotGN0
全長で、三千メートルはあるだろうか。
大規模な宇宙船レベルの、巨大すぎる建造物。
コロニーと言っても過言ではない爆弾。
一生命体が対抗するにはあまりにも……そう、あまりにも規模が違いすぎるその凶器が、大気圏との摩擦で真っ赤に発光しながら降ってきていた。
大魔法使いは皆空を見上げた。
自分達をこんなにした、おぞましい神がいる、その星を見上げた。
上空で、巨大爆弾が点火し……そして炸裂する。網膜を焼き焦がすほどの閃光が瞬く間に周囲に広がり……物体を透過し瞬間分解を行う熱線が、光速でばら撒かれる。
誰もがその時、死を覚悟した。
しかし、予想された苦痛はいつまで経っても沸き起こらなかった。目をつぶり、顔を覆った大魔法使い達が、突然体を襲った強烈な冷気に、慌てて顔を上げる。
彼らが振り返った先には、青白い顔をした姉が立っていた。
それは、彼らが慕い、愛した姉の姿に他ならなかった。
ショットガンで胸をぐしゃぐしゃに潰された大魔法使いは、口の周りを血まみれにしながら、焦点の定まらない瞳を細めていた。
気絶していたはずの愛寡も、美並も、その場の七人が全員涙の姿を見ていた。
突然巻き上がった渦を巻いた吹雪は、先ほど陽子転爆弾が巻き起こした熱線を全て掻き消していた。巻き上げ、空の空……もっと奥。宇宙まで吹雪が吹き上がり、そして前が見えないくらいの強風と共に、一瞬でそれは青いその星の表土を覆った。
潰れた胸の奥……涙のそれから、コロリと真っ青な玉が転がり出る。それは地面に落ちる寸前に、粉々に砕けて……そして風に飛ばされて散っていった。
涙は震える足を踏み出した
彼らを取り囲んでいた、肉塊と化した仲間達……それらは全て、一瞬で零下……それ以上まで下がった吹雪に飲み込まれ、白い霜を浮かせながら凝結していた。
この周囲では泉達の周囲だけが、円形の渦になって吹雪を避けていた。
綺麗な髪をなびかせながら、氷結の魔女が兄弟達に近づいてくる。
数秒。永遠とも感じた時間。
足を引きずりながら、涙は泉の前に膝を折り……そして彼の首に抱きついた。

「…………」

「…………」

言葉を発することなく、兄が妹の体を抱いてやる。
遂に、完全に動かなくなった。
一秒。
二秒経ち。
バキィ……ッと、石膏を砕くような音がした。
それは奥歯が砕け散った音だった。
泉は、飛び出しそうなほど目を見開いていた。妹の死体を抱き上げ、口の端から大量に血の泡を噴きだし。。
その瞳が、白目に至るまで完全にワインレッド……血色に染まる。
自分達には温厚で、敵には残忍だがしかし、その行動には理が通っていた兄。
最後までこの戦闘を行うことに、涙と共に反対して……弟達を止めようとした兄。
いよいよ物量で追い詰められ、どうしようもなくなった時に助けに来てくれた兄。
それは、何百年も見てきた彼の理が粉々に崩壊した瞬間でもあった。
それは、発動することのない。
彼の魔法が暴発した瞬間でもあった。
290 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:03:38.16 ID:484YotGN0
レベル2。彼らはそう呼んでいる。
自分達の魔法が、理性による制御を離れ、本来のその威力を発揮すること。
しかし、何が起こるか分からない。そんなあやふやな危険を孕んでいる。
それが、魔法。本来の力だった。
戻った。
しかしそれは、普通の戻り方でも、魔法でどうこうできるレベルの現象でもなかった。
七人の大魔法使いの目前で、数分前に爆裂した短陽子爆弾。
それが、まるでテレビのテープを逆再生するかのように光、粉塵……そして破片に至るまでが元の形に戻っていった。
吹き荒れる真っ白な吹雪の中、爆弾は、その白い津波までもを取り込んで数分前と同様に、ふらふらとその……巨大すぎる、半径だけでも数百メートルある躯体を空中に浮かび上がらせていた。
「これって……まさか……」
津雪が、唖然として声を発する。
完全に脱力した妹の死体を抱きながら、泉は空中に浮かぶ、自分達を覆い隠している陽子転爆弾の圧倒的な質量を見上げていた。
それを見る血色の瞳は、悲しいほど感情を発していなかった。
それは、憎悪も何もない。
ただ純然たる悪魔の瞳だった。
浮き上がっているはずのない、完全に物理法則を無視した圧倒的質量。何千万トンだろうか。既に魔法が支えられるレベルを遥かに超え、泉はただ立っているだけで、それを押さえつけていた。
数秒経ち、その外壁が吹雪により氷結していく。それと共に、狂気の爆弾は。
引力という絶対的な力に反発し、ゆっくりと上昇を始めた。
「ウソだロ……」
功刀の声が、空気に紛れて消える。
爆弾の上昇速度は段々加速していった。
そして数瞬後には、パシュ、という音を立てて全体が掻き消える。

一秒経ち。

二秒経ち。

三秒経ち。

吹雪を突きぬけ、それでも尚夜空で丸く不自然な光を発していた月が、真っ赤に染まった。
音はなかった。
それ以上の光もなかった。
一瞬だけ月が真っ赤に膨れ上がり、三倍……いや、五、六倍に膨張し、音もなく破裂したのだ。
その飛沫はキラキラと吹雪の空に散り、やがて白い雪と氷に覆われて消える。
それだけだった。
まるで電球を叩き割ったかのように。
空には月がなくなっていた。
真っ暗な、星さえも吹雪で掻き消される。
そんな空が広がっていた。
いつの間にか、大魔法使い達の周りをさけていた吹雪は、そんな微調整を行わないようになっていた。体を雹と大粒の氷で打たれ、弟たちが姉の体を庇う。
泉は、動かなくなった涙を強く、強く胸に抱き、その場に崩れ落ちた。
真っ赤に充血し、染まりきった目からボロボロと白濁した涙が転がり落ちる。
それらは涙の体に垂れる寸前に、楕円形の粒に氷結して、風に流され飛ばされていった。
291 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:06:45.38 ID:484YotGN0
「……」

「……」

「寒いなぁ」

「……」

少女は、暫くの間ぼんやりと虚空を見つめていた。そして彼女は泉の顔を引き寄せ、自分の口を重ねた。
そのまま何度も口付けを交わし、覆うように泉を抱きしめる。
上に被さるようにしているフィルレインから口を離し、泉は目を閉じた。
少しだけ動きを止め、フィルレインは泉の胸に頭を預けてから、囁くような小声で口を開いた。

「寒くない……」

「……」

「寒くないよ……」

「……」

彼女は、喉を震わせながら泣いていた。
自分以上に震えている少女の肩を抱き、泉は息をついた。

「ああ……」

「……」

「そうだな……」

淡々と、時間が流れる。
気づいた頃には、フィルレインは泉に覆いかぶさった姿勢で抱かれたまま、また寝息を立てていた。本人は自覚していないのだろうが、やつれて、げっそりとこけた細い体。
しかし柔らかいそれは、常人のそれを越えて、冷たかった。
それを自分の体温を分けてやるかのように、泉は抱いて、強く歯を噛んだ。

――時間が解決すると、思っていた。

フィルレインの体には、二つの魔法がかかっている。
292 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:07:16.61 ID:484YotGN0
一つは、彼女を泉の従者と為した血の契約。つまり、虹は今現在……天敵のエリクシアでありながら、魔法使いの特性を有していることになる。
最もその適正が低かったのか、魔法は使えないらしい。その能力が分かっていないだけなのかもしれないが、それは泉にとって、かえって都合がいいことだった。
もう一つは。
彼女には、十四歳という年齢を繰り返すという魔法をかけていた。無論実年齢ではない。肉体年齢だ。
泉の魔法は、彼が認識したコトの時間を、好きな部分を一定時間だけ巻き戻すことが出来た。しかしそれは、はっきりと現実と認識している範囲に限る。つまり、思い出ではいけない。記憶でもいけないし、長時間や超範囲過ぎると無理だ。
その場で限定して何かの時間を巻戻すに要する条件は、おのずと数分前の範囲ということになる。
上手く考えて使えば、恐ろしい力だった。これ以上の能力は、恐らくないだろう。
何か条件が起こった時に巻戻るように魔法をセットしておけば、指定した時間に勝手に指定したものが戻る。しかも、時間全体が戻るのではなく、一部分だけを戻すことだって出来る。巻き込んだ人間の記憶を残したりすることだって可能だ。
フィルレインにかけたのは、その応用だった。
今までやったことがない試みだった。彼女が十五歳になった時、十四歳の肉体に戻るようにセットしてある。そのため、泉は虹の体を隅々まで知る必要があった。
何度か失敗して、やっと最後までかけて……今に至る。
最も、不死ではない。傷を受ければ化膿するし、病気になれば悪化もする。
LSFだって治らない。
しかし、細胞が一定時間で新しい状態に戻る。つまり言うなれば『不老』だ。
彼女のLSF症候群は時間をかければその症状を緩和させることが出来る。
妹……更紗のように。
そして双子の妹……涙がかつてそうだったように。
だが、今は彼女達を救った時とは違った。この先ずっとフィルレインは生きていくだろう。殺されない限り、LSFが治っても生きていくだろう。
――しかし自分は。
胸を押さえ、手の中の少女をもっと強く抱きしめる。彼女は小さく声を上げたが、やがて泉の腰に手を回して、彼の胸に頭を押し付けた。

(寒いなぁ……)

ぼんやりと開かれた目は、窓の外を見ていた。
体は、いつの間にかカイロのように暖まっていた。毛布の中で、親鳥が子鳥を寒さから守るように。フィルレインのか細い体も段々と温まってくるのが分かる。
二人分の体温。
温かい。
何故か、目に涙が盛り上がってくるのが分かった。
293 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:11:30.42 ID:484YotGN0


 研究所の白い床に、所狭しと転がっている物言わぬ肉の塊……エリクシアの生体アンドロイド。その死骸を見回し、涙は大きなため息をついた。そして壁に寄りかかり、腕組みをしながらうんざりした声を発する。

「ねぇ、まだやるの?」

ドザリ、と砂袋を落としたような音がして、今度は背後から人間の形をしたアンドロイド。頚動脈を掻っ切られ、目を見開いた男の死体が投げ捨てられた。次いで、廊下の端……死角になっている場所から機銃を持った新手が飛び出す。
一瞬後、それは噴水のように血を噴出しながら、涙の足元に転がっていた。
認識さえさせない魔法。
時間を自由自在に戻すことが出来る、最大の能力。
戦う前に、勝つ力。
そんな兄に、こんな末端戦闘員が敵う訳もない。
ぎらついたライオンのような目を光らせ、泉は頭から生臭い血液でずぶ濡れになっていた。そして数人積み重ねた死体の上に、息をついて腰を下ろす。そちらを見て、涙はあきれ果てたとでも言わんばかりに大きく肩をすくめた。

「ねぇ?」

「うるせぇ」

「この研究所のサンプルはみんな死んでたじゃない。もう帰ろうよ。そろそろ爆撃されるよ」

「うるせぇ」

オウムのようにボソリと同じ言葉を呟き、彼はサバイバルナイフを目の前で振り、淡々とした顔で続けた。

「黙ってろ」

「……勝手にしなよ。あたしは帰る」

しかし、妹の反応はいつもと違った。足下の血溜まりを踏まないようにしながら、彼女は俯いて彼に背を向けた。
意外な妹の行動に、泉はやっと顔を上げた。しかし猛禽類のように奇妙な、瞳孔の開いた瞳のまま口を開く。

「…………誰に断って帰るンだ?」

「別に……」

「誰に向かって口きいてンだ? あぁ?」

感情的に怒鳴り、彼は立ち上がると妹に近づき、その髪を掴んで壁に叩きつけた。そのまま押さえつけ、歯軋りしながら押し殺した声で続ける。
294 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:12:26.29 ID:484YotGN0
「てめぇ、いつからそんな偉くなった?」

「離してよ」

「答えろ」

「離して」

泣きそうに涙の顔が歪んだ。
彼女は、自分そっくりの……しかし赤く頭から爪先まで染まりぬいた狂人を見つめ、引きつった声を発した。

「あたしもういいよ」

「あ?」

「一人で殺してよ」

「何だと?」

「狩りしたいだけなら、一人でやれって言ってんの!」

声を張り上げ、涙は泉の腕を振り払った。

「あたしはもう帰る。あんた一人でやればいいんだ。あたしを巻き込まないで!」

激昂し、彼女は泉に背を向け、本当に歩き出した。地下なのか、先ほどから鳴り響いている警報と警灯の中、泉は暫く呆然としていたが、やがて妹に駆け寄ってその肩を掴んだ。

「待てよ!」

「五月蝿い!」

はっきりとした拒絶の声だった。
バチン、と感電でもしたかのような、強烈な衝撃が泉を襲った。彼は数メートルも放物線を描いて吹き飛ばされると、自分が殺した生体アンドロイドの死体の山に、頭から突っ込んだ。
避けることだってできた。
しかし、あまりに突然のことで反応が出来なかったのだ。それ以前に、妹に手を出されたという事実が、火照りきった泉の頭を麻痺させていた。
よろめきながら起き上がった泉の、血に染まった服……Tシャツとジーンズは、膝元までがバリバリに氷が張り、凝結していた。
295 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:13:31.18 ID:484YotGN0
「……やりやがったな……」

ナイフを構え、泉は歯を噛み締めた。そして凍ったTシャツを破り捨て、瞳孔の開いた瞳を涙に向ける。

「…………おかしいとは思ってたんだ」

「……」

「妹だって? 割に合わねぇ。都合が良すぎると思ってたんだよ」

「……」

「この際はっきりさせておこう。てめぇ、どこのどいつだ?」

「…………は?」

予想だにしていなかったセリフを投げつけられ、涙は足を止めて振り返った。そしてあきれ果てたと言わんばかりに肩をすくめて、ため息をつく。

「どういうこと?」

「今まで言わなかったが知ってる。てめぇが俺のクローンゲイルだってことは分かってんだよ!」

その単語を聞いた途端、明らかに涙の顔色が変わった。バカにしていたような雰囲気から一変して、彼女は彼に正面を向けると、僅かに腰を落とした。

「……だから?」

「吐け。てめぇを送り込んだのはどこのどいつだ?」

「……」

「図星か? 声も出ねぇか?」

「……」

「何とか言ったらどうなんだ! 何回こんなことをさせるつもりだ? あぁ? いい加減にしやがれ!」

涙は、打って変わって冷めた目で泉を見ていた。そして彼女は、暫く沈黙した後、視線を逸らしてから口を開いた。

「……兄さんが今まで何をして、どういうことをされてきたのかはあたしは知らないけどさ」

「……」

「逆だよ。兄さんが、あたしのクローンゲイルなんだ」
296 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:17:23.46 ID:484YotGN0
「…………何だって?」

「言葉の通りの意味。だから、兄さんがそういう風なことを言うなら、あたしだって問う権利はある。あんたは何人目で、本物なのかってね。天使一号のオリジナルクローンは、あたしの方だよ。分かってると思ってた……」

そこでふっ、と引きつったような疲れた笑いを浮かべ、彼女は泉に向けて右手を差し出した。

「怒鳴ったのは、ごめん。悪かったよ。一緒にさ、トレーラーに帰ってごはん食べよう。あたし、今日カレー作るよ」

「……」

しかし、泉は足を踏み出さなかった。完全な戦闘体勢……とでも言うのだろうか。じりじりと涙から距離を離しながら、押し殺した声を発する。

「やっぱしてめぇは複製体だったのか。今までのは、俺を油断させるためのブラフなのか」

「……それは……」

口ごもった彼女の反応が決定打だった。泉は歯を噛み締め、彼女に向けて握り拳を固めた。

「行くんなら行けよ。だがその場から一歩でも近づいたら殺す」

「……」

怒りと、恐怖。混乱で訳が分からなくなった顔。泉のそんな表情を見つめ、そして涙は。

――ためらいもなく足を、彼の方に踏み出した。

次の瞬間、動いた気配も何もなく、まるで瞬間移動のように涙の体に、泉は肉薄していた。十四、五歳程の、しかしガッシリとした体に組み付かれ、たちまちの内に少女が壁に叩きつけられる。そのまま少年はサバイバルナイフを振りかぶり……。
しかし、それを涙の首筋に突きたてる寸前で、その動きがピタリと停止した。
少女は、泣きそうに顔を歪めながら、泉のことを見つめていた。その瞳が、まるで水銀のように白銀色に光沢を発している。
泉の体の回りには、白い雪のような結晶がまとわりついていた。
まるで時間が停止……いや、それそのものが凍りついたように、彼の体は一ミリたりとも動かなくなっていた。
壁に押さえつけられた姿勢のまま、涙は暫く泉のことを見つめていた。そして彼女は、そっと彼の体を抱きしめた。

「あたしは本物だよ……少なくとも、兄さんとは血が繋がってる。それだけは確かだからさ……そんなに、怖がらないでよ……」

彼の体を静止させていた、涙の魔法が解けていく。
泉はナイフを振り上げたまま、自分に抱きついた妹を見下ろしていた。
彼女の心臓の音が聞こえる。
今、ここで振り下ろせば。
それを止めることが出来る。
また、一人に戻ることが出来る。
そのまま数秒……数分も停止する。
やがて泉は手を下ろした。
彼は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
その目は床に転がる生体アンドロイドを見ていた。
その顔は、泉、そして涙と寸分違わず同じものだった。
同一人物の顔だった。
297 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:18:01.23 ID:484YotGN0
ナイフが手から落ち、床に乾いた音と共に転がる。自分の顔をそれで覆い、泉は何度かしゃっくりを上げた。それを母親のように抱きしめ、涙がポンポンと背中を叩く。

「よしよし……もう、怖くないから。怒ったりして悪かったよ」

「……」

「あたしはいなくならないから。ずっと傍にいるからさ……泣かないでよ……」

「……」

「兄さんが泣いてると……あたしだって、ほら、悲しくなって……」

ひく、と涙がしゃっくりを上げる。
彼女は、自分の足元に転がっている同じ顔をした男の死体を目に留め……泉の服を掴んで僅かに体を震わせた。
「帰ろうよ。一緒に、ここから出ようよ。おかしくなっちゃうからさ……」
泣きじゃくる兄をまた一度強く抱き、そして妹は彼の体からそっと離れた。
「ここの子は死んでたけど、別のところだったらまだ生きてるよ。ね? だから泣かないで。もう殺さなくてもいいから。もう、今日は帰ろうよ」
答えない泉の手を引いて、涙は歩き出した。
見渡す限り、死体の山だった。
自分と泉、同一の顔をした物言わぬ肉の塊。

「あたしの方が……泣きたいよ……何でこんなこと……何で、こんなことができるんだろうね……」

俯いて歩く涙が、ポツリと呟く。

「泣きたいよ……」

泉はそれに答えることが出来なかった。ただしゃっくりを上げながら、自分が惨殺したおびただしい数の自分自身を踏みしめ歩く。
目の前の光景が現実なのか、正しいのか、虚偽なのか。それさえも分からない。もう、倫理観も常識も、それに追従する自分自身も。
傍らの妹の暖かささえも、分からない。
泣きながら人の気配がない研究所を歩く双子が、その施設から出た時。
彼らを取り巻き、照らし出すおびただしい数のライトが目に飛び込んでくる。真夜中のはずなのに、昼間のように明るい。一瞬視界がゼロになり、目を覆った涙の耳に、スピーカーから発せられる威圧的な声が突き刺さった。
298 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:18:37.51 ID:484YotGN0
「君達は包囲されている! 両手を頭の上で組み、地面にうつぶせになれ!」

月並みな常套文句だった。
何十回となく聞いた威圧文句を、しかし涙は憔悴しきった顔を上げてぼんやりと聞いていた。
視界の端には、研究所から少し離れたところ……森林の中に隠していたはずの、自分達のトレーラーが映る。それは、出てくる前に威嚇銃撃でもされたのか、蜂の巣のように黒々とした弾痕をさらしていた。ナパーム、催涙弾。自分達、完成品の魔法使いに対する最大限の武器攻撃。
捕獲ではない。完全沈黙を目的とした攻撃だ。
催涙粉や爆薬でぐしゃぐしゃにされた、自分達の住まい。それを呆然と見つめ、そして涙は、傍らの泉を支えながら、自分達を取り囲む銃口の群れを見回した。

「十秒後に射撃を開始する! 言うとおりにしたまえ!」

カウント。

「はは……」

涙は、堪えきれずに泣き出した。そして乾いた笑い声を上げながら、地面に崩れ落ちる。

「また家、壊されちゃったよ……」

泉は、そんな妹の様子を目を見開いて見つめていた。

「もうやめてよ……もうやだよ……」

「……」

「あたしたちは悪くないよ……あたしたちは、悪いことなんて何もしてないよ……」

「撃て!」

銃撃を許可する、声をした。

「もうやだぁ!」

涙が絶叫したのと同時だった。
彼女達を取り囲んでいた数十人の機動隊。その銃が、同時に暴発した。彼らがトリガーを引き込んだ瞬間、銃身が炸裂したのだ。
その衝撃に防弾服のヘルメットが砕け、彼らが白煙を上げながら地面に崩れ落ちた。
299 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:23:36.73 ID:484YotGN0


裏返った悲鳴のような笑い声を上げながら、泉は正気を逸した、能面のような顔でナイフを振り下ろしていた。ザク、ザク、と血と肉が詰まった人間だったものに、何度も何度も振り下ろす。元は研究所を取り囲んでいた機動隊のナイフ。それを持ち主の体に所構わず突き刺し、彼は標的が動かなくなったのを確認して脇に放り出した。
涙が叫んだ数秒後。時間にして五秒そこらの、殆ど瞬き二、三回の間。
その場には、双子以外に動く人間達は、もういなかった。
涙は、腰を落として荒く息をつきながら標的を探している泉の背後に飛びつき、そして地面に押し倒した。

「もうやめて! もうみんな死んだよ! みんな死んだからもういいの、もういいんだってば!」

目の前の妹を妹と認識できていないのか、泉はナイフをヒュン、とためらいもなく振り払った。それが涙の上腕を切り裂き、パッと赤い血が飛び散る。

「離せクソがああ!」

「嫌だ! 絶対離さない!」

何度も腕を切りつけられても、涙は兄を抑える力を緩めようとしなかった。
五分、十分……十五分以上が経過し、やっと泉は動きを止めた。振っていたナイフが手をすっぽ抜け、少し離れたところに転がる。
すかさず涙は、一面切り傷だらけの腕を振り上げ、力の限り泉の頬を張り飛ばした。
一度ではない。二度、三度……疲れて動けなくなるまで彼の頬を張り、そして彼女は声にならない叫び声……やっと腕の痛みを認識した絶叫を上げ、兄の胸の上に崩れ落ちた。

「…………」

段々と、意識がはっきりしてくる。
泉の充血していた目から、赤みが引いていく。
彼は、自分の上に馬乗りになって……両腕から血を垂れ流している妹を、唖然として見た。

「…………」

「兄さんは悪くないよ……悪くない。時間、何回も戻ってると、何が本当で何がウソか分かんないもんね……大丈夫だよ。怒ってない。あたし……怒ってないよ」

腕の傷を抑えながら、涙はニカッと歯を見せて笑った。そして泉の上から降りると、よろめきながら立ち上がる。

「はは……家、無くなっちゃった。また探さなきゃね」

「……」

「キッチン作ったのになぁ……」
300 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:24:42.25 ID:484YotGN0
寂しそうに表情を落とし、彼女は腕をダラリと垂らしながら歩き出した。

「行くよ? 早くしないとあたしら凍死しちゃう」

彼女の細い腕。その、兄につけられた傷の上にカサブタのように白い霜、氷の膜が張っていき、血の流れが遮断される。

「あたしは分かってる。兄さんは悪くないから。だから泣かないでよ……男の子でしょ」

立とうとしない泉の脇に戻り、彼女は彼の腕を掴んで引き起こした。その体の埃や血糊を手で払ってやり、彼女はもう一度、歯を見せて笑った。

「さ、落ち着いたかい?」

「……」

答えることが出来なかった。
妹に手を引かれ、歩き出す。

――寒い。

「……寒いねぇ」

兄に寄り添い歩きながら、疲れきった声で涙が言う。

「ほんと、寒いね……」

泉は彼女の肩を抱いてやろうと手を挙げ……しかし、触れてやることが出来ずに腰の後ろに回した。
301 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:31:05.07 ID:484YotGN0
24 お仕舞いの目

 目を覚ました泉は、隣にフィルレインがいないことに気づき、額を抑えながら体を起こした。冷えている、大分前に彼女は抜けていたらしい。いつもなら泉が起きるまでは是が非でもベッドを出なかったのに、珍しい。
キリキリと痛むこめかみを押さえ、軽く揉みながら立ち上がると、泉は脇に放り出してあった服を着込み、廊下に出た。
兄弟達がここに集まり、津雪と美並以外がまだ残ってから既に三ヶ月経っていた。フィルレインが来てから、およそ一年半ほど。
エリクシアから、その後の攻撃はなかった。よほど泉が起こした魔法の威力に恐れをなしたらしい。数百年前とは管理部が違うようだ。当たり前のことなのだが、煩わしさがなくなりよかったとも思う。
少しばかり過剰に脅したのは、そのような訳だった。
彼はともかく……干渉しないで欲しかった。
もう、自分にとってエリクシアなんてものは本当に、どうでもいいものなのだ。彼らが何をして、何を企み、そして何を犠牲にしようと関係ない。
そんなことは、とっくの昔に割り切ったことだった。
叩き潰しても、叩き潰しても、消えない。次から次へと蛆のように湧いてくる。どうすればいいかと考える。

――どうもしなければいいのだ。

好きにさせておけばいい。
決して賢いとはいえない自分が、長い、長い年月の中で学んだ唯一にして絶対の理論はそれだった。
どうにもならないものは、どうにもしなければいいのだ。いずれ自滅して消えていく。
今までは構いすぎていたのだろう。
蟲は、叩けば叩くほどそれに抗い、よりその環境に強い形態に進化する。それと同じだ。
兄弟達は潰してしまえと言う。確かに今の彼らの力なら、おそらく一人でも十分に可能だろう。
しかし、完全に消滅させることはいくら強い力があったとしてもなしえないことを、彼は知っていた。
そんなことは涙と二人で何十回もやった。
やりつくした。
もう疲れたのだ。
すり潰して、叩き落として、そして完全に禍根を断ったと思っても……何か、言うに知れない雑念が残ってしまう。それは年月を経ると徐々に成長し、そしてゆくゆくはまた同じような悪を育んでしまう。
放っておけばいい。

――しかし――

先日動いてしまった事に関して、いささか感情的になりすぎていたかもしれないと思う。迂闊だったことは言うまでもない。

(もうやめよう)

心の中でそう決め、客間に続く階段を降りる。功刀と愛寡は、昨日から従者のところへ行っている。更紗と硲は部屋で何かを話しこんでいるようだ。
客間には、ソファーに座りただぼんやりとしているフィルレインがいた。
彼女は泉のことを見ると、嬉しそうに手を上げた。
302 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:31:50.32 ID:484YotGN0
「おはよう」

「ああ、おはよう」

挨拶を交わして、彼女の隣に腰を下ろす。

「何だ、今日は随分と早いな」

「うん、シャワーを浴びたら目が覚めちゃってね……」

そこまで言って、彼女は言葉を止めた。そこで彼女はコン、と喉の奥を鳴らし、小さな咳を漏らした。

「あ、ごめんね……」

囁くように呟いて、何度かコン、コン……と小さな咳をする。少しして納まったのか、頬を少しだけ青く染めながら彼女は取り繕ったように微笑んでみせた。

「あ……ええと……」

「……」

泉は、目を見開いて唖然とした顔をしていた。その顔色が、普段あまり表情を表に出さない泉にしては珍しく、はっきり分かるほどに青くなる。

「ええと……何の話だっけ?」

そこで彼はフィルレインの腕を掴んで自分の方に引き寄せ、その額に手を当てた。

「泉……?」

「熱があるな。お前、いつからだ?」

「熱? 私は大丈夫だよ。ほら……」

「あるんだよ。何でお前ここにいたんだ?」
303 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:32:40.20 ID:484YotGN0
「ここ……? ここって、泉の部屋じゃないの?」

そこまで言って、彼女は周りを見回してポカンと口を開けた。

「あれ……?」

次の言葉が出てくる前に、泉はフィルレインを無理矢理抱き上げていた。

「ど、どうしたの?」

「今日は寝てろ。何もしなくていい。いや、するな」

「そんないきなり……」

「五月蝿い。命令だ」

冷たく言い放ち、彼は部屋に戻ると、フィルレインの服を剥ぎ取ろうとした。

「何するの、ちょっと待って」

「黙ってろ! だったら早く服を抜いでベッドに入れ!」

「分かったよ。分かったから引っ張らないで」

突然豹変した彼の様子に、少女は明らかに怯えていた。びくびくしながら服を脱ぎ下着になり、伺うように泉のベッドにもぐりこむ。

「……入ったよ?」

「そのまま寝てろ。いいか? 俺が戻るまで絶対に出るなよ」

「ねぇ、どうしたの? 何だか怖いよ……」

「静かにしてろ! 分かったな?」

「え……あの……」

「分かったかって聞いてるんだ!」

大声に驚いたのか、縮こまりながらフィルレンはコクコクと頷いた。
それを確認して部屋を出て、泉は走り出した。メイドロボが差し出したコートに目もくれず、玄関を開けて外に走り出る。

(あいつらの従者がいるホテルって、一体どこだ……)

周りを見回すが、その情報を聞いていなかったことを心の中で舌打ちする。今日に限って功刀が外出中なのが恨めしかった。
304 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:34:05.40 ID:484YotGN0


 何とか弟を発見した頃は、もう一時間以上も経過していた。発見したというよりは、街中を普段着で走り回っている兄のことを感知して功刀の方からやってきたのだ。
愛寡を連れて、急ぎ屋敷に戻って今に至る。
功刀は、寝息を立てているフィルレインの額に手を当ててから、ベッド脇の椅子に座り込んだ。
部屋の中には泉と、心配そうにベッドに腰掛けた愛寡がいる。
功刀は少し考えこむと、やがて言いにくそうに口を開いた。

「脳組織ノ崩壊が、予想以上にハヤイデス。そのせいで熱が出てタリ、記憶が飛んでルンデショウネ」

「ンなことは分かってんだよ。LSFの症状だ。治せって言ってんだよ俺は」

「無茶言ワントイテクダサイ。緩和ハ出来ますケド、この子ニハBMZの適正モネェシ。俺ラのハイコアを移植するナラトモカク、自己修復もママナラネェんでは、仕方ネェデス。他ならドウにかなりますケド、脳組織の崩壊だけはいかんともシガタイデス」

「お前の話は難しくて分からん! 簡潔に言え!」

泉が大声で怒鳴る。睡眠作用がある薬を注射されているとはいえ、その大声にフィルレインが小さく呻いて軽く寝返りを打った。

怒鳴られた功刀は、大きくため息をついた。そして椅子から立ち上がり、泉の前まで歩いていくと軽く息を吸って言った。

「もってアト二ヶ月デしょうネ。イクラなんでも無理デス」

「……」

少しの間、泉は弟の言葉を反芻するように立ち尽くしていた。
そして次の瞬間、彼は自分よりも一回り大きい功刀のコート、その首筋を掴んで壁に叩きつけていた。そのまま締め上げ、殺意のこもった目で彼を見上げる。

「あ? 聴こえなかったんだが?」

「聴こえタデショ?」

「治せって言ったんだぞ、俺は!」
305 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:36:33.29 ID:484YotGN0
彼は功刀の足を払うと、その巨体を片手で床に押し倒した。首を掴まれ、締められながらも、しかし功刀の表情は呆れ顔のまま変わらなかった。

「無理デス。諦めてクダサイヨ、いい加減」

「くっ……」

押し殺した叫びを上げ、泉が拳を振り上げる。慌てて愛寡がベッドから飛び降り、兄の腕を掴んで止めた。

「落ち着いて」

妹に耳元で言われ、泉は暫く荒く息をついた後、功刀の首から手を離した。
暫く、図体の大きな弟は起き上がろうとしなかった。泉が服の乱れを直して、忌々しそうに壁に寄りかかる。そこでモーターの音を立てながら立ち上がり、功刀は軽く首を振った。

「……勘弁シテクレヨ。大兄さんニ殺されるノハ本望ダケド、イクラなんでも情けネェデス。コンナ死に方ハサ」

「……」

「別ニ、カラダガ崩壊シテルワケじゃネェデス。死んだ後、別のアンドロイドの脳デモ入れれバイイジャナイデスカ。姫サンのコトが気に入ったンデショ? それが嫌だッテンナラ……何なら、オレが同型機ヲ、エリクシアマデ潜入シテ持ってきてアゲマスヨ?」
 
「馬鹿言うなよこの野郎。フィルレインの代わりなんているわけねぇだろ!」

掴みかかりそうな剣幕の兄を、本当に意味がわからないのか、不思議そうに戸惑いを浮かべた顔で功刀は見返した。

「いっぱいオルデショ? 半年くらい前ニモ、同じ顔した子ガウチノトコに攻めてキマシタヨ。従者がくびり殺しチマッタンデスガ、ソモソモこの子ァ、量産型の生体アンドロイドデショウ? 別に固執する必要はネェデスヨ。トニカク、この子ハもうダメデス。ほぼご臨終デス。予想より遥かに侵食がハヤイですが、ジキに大兄さんノ顔も分からんクナリマス」

「……」

「あのLSF摂取ガトドメダッタンデスネ。崩壊シタ脳組織ハ戻りませんヨ?」

「……」

忌々しそうに舌打ちして、泉は腕組みをしたままその場をぐるぐると歩き回り始めた。暫くして、ドン、と壁を手で殴り、噛み付くように功刀に言う。

「……オレの魔法でどうにかならんか?」

「大兄さんガ、この子の脳みそノ構造を全部シッテルならハナシは別ダト思いますケド……それ以前に、可能にナルクライの応用法ガホカニモあるンデスカ?」

そこで彼は、功刀が自分の魔法を全て知らないことに気がついた。また口を閉ざし、そして彼は額を抑えてその場に立ち尽くした。
かなり長い間、泉は考え込んでいた。
そして彼は、横目で愛寡を見た後、意を決したかのように功刀に言った。
306 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:37:23.47 ID:484YotGN0
「……分かった。俺の魔法効力とその適用方法を教える。それを使っていいから、こいつを何とか助ける方法を考えろ」

「本気デスか?」

魔法使いが他人に自分の魔法の内容を話すということ。大まかな効力は身内ゆえに知っているとはいえ、それはかなり異例の事態だった。
特に、泉のような理で動くタイプは、それぞれの効力の対極に致命的な弱点を抱える。そこを敵に突かれてしまえば、赤子の手を捻るより簡単に殺せてしまう。
だから泉は、詳しく兄弟にも魔法を明かしたことはなかったし、そのタネを喋ったこともなかった。
功刀はフィルレインと愛寡を一瞥し、しばらく困ったように頭を掻いていたが……やがて、またため息をついて、自分の影を円形に、足の下に展開した。そこに沈み込んでいきながら、彼に手を差し出す。

「二度は言わサンで欲しいンデショ?」

「分かってるじゃねぇか」

一朝一夕の口からでまかせではない。
冗談で済む言葉ではないのだ。
泉はためらいもなく頷くと、功刀の手を握り、一緒に影の中へと沈んでいった。

――話自体は数分で済んだようだった。

再び影の中から競り上がり、しかし泉は入る前とは打って変わって肩を落としていた。
その彼を支えるようにして地面を踏みしめ、功刀は軽く愛寡に首を振って見せた。

「無理デス。ヤッパシ、この子の頭開かなキャ駄目ダ」

「じゃあ開け! しっかり見てやる!」

「……大兄さん、ガキじゃねぇんダカラ……医者でもネェのに……それに、見てもどこがどうだか覚えられマスか?」

「やってみなきゃわからんだろ」

「その前ニこの子ハ、手術に耐え切れナクて十中八九死にマスヨ。ソモソモ頭ナンテ開ケネェトオモイマス」

「じゃあどうすりゃいいって言うんだこの野郎! グダグダグダグダ御託ばっかしほざきやがって……ナメてんのかテメェ!」

いつもの兄の様子とは打って変わった、余裕のなさ……ガラの悪さだった。功刀の胸もとのマントを掴んで引き寄せ、大粒の脂汗が浮いた顔で睨みつける。

「落ちついテ。興奮スルト、体に良くナイ」

「落ち着いていられるかって!」

「ダカラ何でデス? 寿命ダト思えばイイデショウ?」

「…………てめぇ…………!」

固めた拳を弟の頬に叩き込もうとした時、しかしそこでフィルレインが軽く呻いて、ぼんやりと目を開いた。
307 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:39:27.97 ID:484YotGN0
「あれ……何で……ここ……?」

か細い声で呟いて、慌てて功刀から手を離した泉のことを見る。薬のせいか、だるくて起き上がれないのだろうか。彼女は傍らで心配そうに覗き込んでいる愛寡のことも見てから、不思議そうに続けた。

「泉……今、何時……?」

カーテンが閉まっていたため、部屋の中は薄暗かった。朝方の九字半。しかし泉は、フィルレインの頭の上にある壁時計を一瞥してからそっと言った。

「夜の十一時だ。オレは少しこいつらと話すことがあるから、早く寝ろ」

「え? ああ……うん、分かった」

素直すぎるほど素直に頷き、彼女は愛寡に笑いかけた。

「ごめんね愛寡ちゃん。また明日お話しようね」

「う……うん」

戸惑いながら愛寡が頷く。

「ごめん……眠いから今日は……」

そこまで言ってフィルレインはまた目を閉じた。数秒経ち、再び寝息が聞こえてくる。
泉は功刀をにらみつけると、盛大に舌打ちをして扉を開け、部屋を出て行った。
大声に驚いたのか、部屋の外で入ろうかどうしようか迷っていた更紗を突き飛ばしそうになり、しかし彼女を鉄のような目で一瞥して客間に下りていく。
その後から肩を落とした功刀と、愛寡が扉をくぐり廊下に出て、そっと戸を閉めた。

「……更姉ジャネェですか?」

目に留められ、小さな姉は先ほどの兄の顔に心の底から仰天しながら口を開いた。

「ど……どうしたのじゃ? 何やら騒いでおったようじゃが……」

「イエ、大したことじゃネェです。あの子がそろそろ寿命ナヨウデシテ。それを言ったダケナンですが、大兄さんガキュウニオコリだしましてネ。正直、ワケがワカリマセン」

「寿命じゃと……?」

更紗は、目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。

「そんな、まだ元気そうでは……」

「この前、横流しノLSFヲ、ハプニングで打っチマッタミタイデ。それが脳神経ノ崩壊ヲ促進したンデスナ。俺らミタイな適応性モネェシ、モウ駄目だと思いますヨ」

淡々と弟の口から発せられる言葉を聞き、意外にも愛寡と更紗は同じ反応を示した。二人とも、理由は別々ながらも青くなって口元を押さえたのだ。
308 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:40:05.15 ID:484YotGN0
「マァ……大兄さんモツカレテルンダと思いまス。オレ、今度エリクシアのラボに入っテ、あの子の同型機ヲパクってきますワ。何かイラついてるみたいだから、シバラく近づかない方がイイですヨ?」

そう言い、背中を丸めながら功刀が自室へと引き上げていく。
更紗はそれを目で追った後、暫くその場に立ちすくんでいた。頭の中に様々な考えが沸きあがり、まとまらなかったのだ。

「……結婚、したいって言ってたのに……」

しばらくして、愛寡がポツリと呟く。

――結婚――

その単語が脳を叩き、更紗の思考が全て止まった。

「……何じゃと?」

思わず聞き返すと、愛寡は唇を噛んで細くため息を吐いた。

「フィル、兄上に結婚しようて言われて、嬉しかったと。昨日言ったばかりなのに」

「…………」

しばらく、更紗はその場に硬直していた。
数秒も経ち、やっと脳に血液が回り始める。

「……………………何じゃと?」

同じことを繰り返す。
愛寡は、目元に浮いた涙を手で拭い、耐え切れなくなったのか、更紗に一礼して脇を走り抜けた。
少しの間、黒髪の魔法使いは唖然としていた。
結婚。
そんな馬鹿な。
その二つの単語、言葉がぐるぐると頭を回っている。

――不意に、先ほど自分を見た、兄のゴミを見るような視線を思い出す。

その瞬間、更紗の中で維持していた何か。絶対的に必要なモノが音を立てて壊れてしまったような感覚が胸に広がった。
それは確かに、更紗が壊れた瞬間だった。
309 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/02(木) 22:47:25.96 ID:484YotGN0
お疲れ様でした。第25話に続かせていただきます。

詳しいご案内などは>>152で掲載させていただいておりますので、ご確認いただければ幸いです。

どなたかWikiをまとめてくださる奇特な方はいらっしゃいませんでしょうか(´・ω・)?
http://ss.vip2ch.com/jmp/1327234326
その際、ご質問などがありましたらお気軽にコンタクトいただければ、何でもお答えいたします。

続きは後日UPさせていただきます。
気長にお待ちください。

それでは失礼いたします。m(_ _)m
310 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:27:25.81 ID:FYbIMI/U0
こんばんは(`・ω・´)

Wikiをまとめてくださった方がいらっしゃいました!!(http://ss.vip2ch.com/jmp/1327234326
嬉しいです! 自作自演じゃないのって初めてかもしれない……。
救いのないお話ですが、お付き合いいただければ幸いです。

これからはスレの速度を調整することにいたしまして、約一日一話のペースで投稿させていただこうと思います。

それでは、第二十五話の投稿をさせていただきます。
311 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:30:37.54 ID:FYbIMI/U0
25 ネクロフィリア

 十二月二十五日。
結婚式。
その筈だった。
泉は、六人の兄弟に取り囲まれて、背後に突き立った魔法の火柱を一瞥した。
彼の呼吸は荒かった。息をすることが苦しいのか、または息をするたびにどこかが痛むのか。
胸を押さえて、大粒の脂汗を浮かべている。
ギラついた瞳を、フードを目深に被った六人の大魔法使い――自分が育てたHi8に向け、彼はもう一度言い放った。

「……どうした? かかって来いよ。来ないならこっちから行くぞ」

「お待ちを」

しかし、そんな兄の行動を静かに止めたのは硲だった。灰色のざんばら髪に隠れた眼鏡の位置を指先で直し、彼は続けた。

「僕たちはお兄様と争いたいわけではありません。功刀、派手な物言いは慎みなさい」

「しかし小兄サン……」

「話し合いは僕がする。みんなは黙っていてくれないか?」

そう言い、硲は燃え盛る周囲の惨状。エリクシアにより焼き打たれたドームの様子をグルリを見回し、泉の方に足を踏み出した。

「見ての通りです」

「……」

「エリクシアは、お兄様とフィルレイン嬢の結婚という形での休戦協定を自分達から反故にしました。この光景が何よりの証拠です。僕たちは何もしていませんし、これがエリクシアの、あの悪魔の国家の意思なんです」

「……」

「これ以上何を躊躇されますか? 僕たちには生きるために戦う、自分を守る義務がある。それが兄弟ならば尚更です」

「……」

「あいつらを皆殺しにする許可を、いただけませんか?」

にっこりと、蟲でも踏み潰す許可を得る子供のように。硲は若い、整ったその顔で笑ってみせた。
泉は、しかし一歩を踏み出した硲を完全に無視していた。
彼の方を一瞥もせずに、タキシードの内ポケットに手を入れ、小型のサバイバルナイフを抜き出す。そして彼は鞘を口に咥えると、ゆっくりと刃を引き抜いた。
鞘をプッ、と吐き出し、彼は真っ直ぐに愛寡のことを見ていた。
次の瞬間、泉の体が消えた。
312 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:31:37.11 ID:FYbIMI/U0
目の前から透明化したのでも、瞬間移動をしたのでもなかった。途端に六人の大魔法使いを取り囲む時間の流れが、ほんの三秒ほど巻戻る。

「あいつらを皆殺しにする許可を、いただけませんか?」

硲の声。しかし、彼の目の前に泉はいなかった。彼は少し離れたところに立っていた愛寡のすぐ脇に移動していた。そして、ナイフを持った手を振り上げ……ためらいもなく、その柄を妹の首筋に叩き込んだ。華奢な彼女はそれだけで叩き飛ばされ、勢いよく地面に倒れこむ。
それと同時に、フィルレインを囲んでいた八本の火柱が、幻のように掻き消えた。
愛寡は一撃で昏倒させられたようだった。
動かなくなった妹を、唖然として硲が見る。
そして泉は、パチン、と胸の前で指を鳴らした。

「あいつらを皆殺しにする許可を、いただけませんか?」

硲が言う。
また三十秒ほど戻った世界。
その中で、泉は地面にへたりこんだフィルレインの脇――先ほどまでいた場所に戻っていた。
巧みな時間移動だった。
その主体と客体を詳しく切り替えているが故の、意味不明なマジック。その状況についてこれた兄弟は、一人もいなかった。
それはそうだ。
交渉に硲が足を踏み出し、そして喋っている途中で、愛寡が地面に倒れていたのだ。しかもフィルレインを包んでいた火柱が消えている。
二回時間を戻しての行動。そして、昏倒させた愛寡の時間だけを進行させたまま、自分は何度か跳躍する。
それが、泉の単純な戦術の種明かしだった。
しかしそれがもたらした効果は絶大だった。
大魔法使い達は、兄の魔法により愛寡が倒されたことを認識した瞬間。
それぞれの目の色が変わった。
ナイフを持ってこちらを向いている兄に大して、その見開いたそれぞれの瞳孔が開いていく。
313 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:32:39.06 ID:FYbIMI/U0
「やめないか!」

しかし、硲がそれを一喝した。
彼は倒れた愛寡に近づくと、それを抱き上げて脈を確認し、口を開いた。

「……僕は話し合いをしようって言ったんです」

「俺は来ないならこちらから行くと言った」

ボソリと呟き、泉は呆然としているフィルレインの方に向き直った。そして彼女を助け起こし……逆に膝が折れ、小さな妻に支えられた。
何かを押し殺しているのか、強く噛みすぎている唇から血が流れ落ちている。咳き込んだ彼を途方に暮れた顔で見つめ、背中をさすってやりながらフィルレインは口を開いた。

「な……何で……」

「……」

「何でみんなが喧嘩してるの……?」

泉の口の端から垂れる血が、彼女のウェディングドレスを汚していく。
しかし泉はそれに答えずに、フィルレインの頭を撫でた後、静かに言った。

「……何でもねぇ。すぐ済むから待ってろ」

「何でもなくないよ。だって、泉……それにどうして愛寡ちゃんが……」

「……」

「私、何か悪いことした……?」

すがりつくような瞳を受け、泉は彼女から目を逸らした。そして小さなその体をそっと支え、兄弟達の方を向く。

「一分待ってやる」

「お兄様……!」

「愛寡連れて消えろ。二度と俺の前に顔を出すな」

「僕たちの話を、少しだけでも聞いて下さってもいいじゃありませんか!」

「一分後にまだここにいたら、殺す」

そう言い、くるりと背を向けてからフィルレインの手を引く。

「お前は、俺から離れるな。絶対にだ」

「泉……? こんなの……これ、嘘だよね? みんなで、私達のこと、からかってるんでしょ?」

「……」

「だって、私、何も悪いことしてないよ……何もしてないよ……?」

爆音と硝煙の臭い。そして銃声。
いくら、正体のない魔法を相手にしているとはいえ、あまりにもお構いなしだ。
兄弟達は動こうとしなかった。
314 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:33:52.94 ID:FYbIMI/U0
「……分かりました。それでは、交渉しませんか?」

少し経ってから、硲が言った。
そして彼は、真っ直ぐにフィルレインのことを指差した。
横目でそれを見ていた泉が、弟と同様に彼に向かって右手を伸ばす。

「何しやがる……?」

「無理はいけないと思いますよ。今のあなたは、時間変換の魔法を二連発できる程の魔力は持っていない筈です」

「……試してみるか?」

「どうぞ」

人を食ったように肩をすくめる弟に、しかし本気で泉は意識を集中させた。
次いで、倒れたのは硲ではなかった。ぐらりと泉の視界が揺れ、彼の鼻から一筋鼻血が流れ出る。
外傷がないのに、内臓から出てくる血というものは、危険な信号だった。脳に近いと尚更だ。
一瞬視界がブラックアウトし、溜まらず膝を突く。
次に頭を振って立ち上がった時、泉の隣にフィルレインはいなかった。一瞬で昏倒させられたのか、どんな魔法で移動させられたのかはわからないが、硲の手の中でぐったりとしている。

「フィル!」

叫んで走り出そうとして……しかし、泉は猛烈なめまいに襲われてまた額を抑えた。

――おかしい。

あの程度の威力なら、五回ほど連続で魔法を使えたはずだ。
そこで彼は、足元に不自然な形に影が伸びていることに気がついた。それは数十メートル離れた功刀の足元に繋がっていた。
コートのポケットに手を入れたまま、弟は静かにこちらを見ていた。彼の影がゼリーのように伸び、そして泉の影に突き刺さっている。

――魔力を吸い取られた。

そう考えるしかない。

(迂闊……)

その単語が頭をよぎった。
気づいたはずだった。
少し前の自分なら、こんなトラップには一瞬で気がついたはずだ。しかし、硲と……そしてフィルレインに気が向きすぎて分からなかった。
欠片も。
ちゅぽ、と注射針を引き抜くような音を立てて功刀の影が泉のそれから抜ける。伸縮して足元に戻っていく弟の影。
それを微笑みながら一瞥し、硲は手の中のフィルレイン……その髪に顔をうずめて、大きく息を吸い込んだ。

「てめぇ……」

ナイフを、手の甲に白く骨が浮く程握り締め、泉は無理矢理に気力で立ち上がった。
315 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:34:56.52 ID:FYbIMI/U0
それを手を伸ばして悠々と静止し、硲は軽く肩をすくめた。

「おっと。動かないでください」

いつの間にか、彼の両脇には津雪と美並が寄ってきていた。津雪に至っては、長身の刀剣を抜き、ピタリとフィルレインの首筋に当てている。

「もう、魔法使えないでしょ? この子を殺したくなかったら、静かにしてください」

硲の声から、段々と静かな、冷静な含みが消えていく。面白くてたまらないといわんばかりに喉を鳴らし、彼は、今度は舌を出してフィルレインの頬をぞろりと舐めた。

「……何のつもりだてめぇ?」

「見ての通りです。下見ですよ」

「…………下見?」

「ええ。僕の玩具の下見です」

「…………あぁ?」

思わず素っ頓狂な声を上げた兄に、慌てて硲は首を振った。

「いえ、勘違いなさらないでください。何も全てブチ壊そうとは思っていませんよ。お兄様のお気持ちは、百パーセント汲んで差し上げます。祝福もしました。見守りもしていました。この場ではこれ以上何かやるつもりはありません。だって僕、生きてる女に興味はないんで」

さらりと言い放ち、彼は手の中のフィルレインを含み笑いをしながら見下ろした。

「僕も欲しいんですよ。お兄様と同じもの。兄弟なら、当然でしょう? ああ、僕は謙虚なんでお下がりでいいです。だから」

「……」

「死んだら、これください」

「…………」

愕然とした瞬間だった。
呆然と、泉が口を開けて停止する。
その瞬間だった。
彼の周囲に、轟音を立てて八つの火柱が地面から噴き出した。一つ一つが檻のように細く、しかし渦を巻きながら五メートルほども吹き上げ、そして光を撒き散らす。
頭を振りながら、愛寡が上げていた手を下ろした。彼女は硲の手の中にいるフィルレインを一瞥し、一瞬表情を曇らせたがすぐに無表情に戻った。そして泉のことを、氷のような瞳で見つめる。
愛寡の魔法に捕縛され、しかし泉は硲に目をやったまま硬直していた。
316 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:35:49.44 ID:FYbIMI/U0
「…………聴こえなかったんだが?」

「死んだらこれ、くださいって言っただけです」

「……何だって?」

「寿命、そんなにないんでしょう? いや、ひょっとしたらこの惨状を見て、ショックで死んじゃうかもしれないですね」

更紗が足を踏み出し、硲の脇に立つ。
彼女の暗示魔法を知っていた泉は、心の底まで青くなって声を張り上げた。

「……ふざけんな! てめぇら、フィルレインに手ぇ出したらブッ殺すぞ! いいか! ブッ殺すからな!」

その言葉に殴りつけられたかのように、更紗は何歩か後ず去った。しかし、少しして意を決して唇を噛み、フィルレインに近づいて、その頭に手を当てた。

「取引です」

硲は淡々と言い放った。

「これが死ねば、お兄様が頑なに拒んでいる、エリクシアとの戦闘開始が出来ますね?」

「……何ィ?」

「お兄様は守るものがなくなるわけですから。当然の理屈ですね?」

張り付いた石像のような笑顔で、硲は難なくそれを言い放った。そして悠々と続ける。

「僕たちは生きるためにエリクシアを潰したい。そのためには、どうしてもコレが邪魔なんです」

「……」

「だから、これはすっぱり今ここで処分しましょう。愛寡もそれで納得してくれました。結婚式までは我慢しました。でも、もうおままごとはお仕舞いにしてください。ここまで達してしまえば、もうアウトです」

さながら、兄弟で取り合っている玩具を、喧嘩両成敗として親が処分してしまうような。
そんな、簡単な理屈だった。
声も出ず、唖然とした顔で泉が愛寡を見る。赤髪の妹は、少しの間深い苦悩の色を顔に浮かべていたが、やがて消え入るような声でそっと言った。

「……わたし、フィルは好き、です」

「……」

「でも、それ以上に、兄上が、好き、です」

泉は、暫くの間、ただひたすらに呆然として兄弟達を見回していた。その目は飛び出しそうに開かれ、それは憎しみでも、悲しみもでなく、ただ単なる純粋な驚愕、そしてほんの少しの怯え、加えて圧倒的な、一本的の怒りを含んでいた。
317 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:36:48.21 ID:FYbIMI/U0
「さて、取引というのはこの後です」

硲は、遠くで機銃の音と戦車のキャタピラが巻き起こす騒音を聞きながら、続けた。

「僕たちはこれから三班に分かれます。一つは、お兄様を守る班。もう一つは、エリクシアを壊滅させる班。そしてもう一つは、エリクシアの施設に行って、これの同型アンドロイドを奪ってくる班です」

「……」

「とびきりの上級を選んできます。それをお兄様に差し上げます。何なら、一体とケチ臭いことを言わずに、研究所を無傷で手に入れて、十……二十、いや、百体以上の中からお好きに選んでいただけるようにだって出来ます。最高の人格、最高の体、それを兼ねそろえたセクサロイドを手に入れられる環境を、僕たちは今日中にお兄様に手配しましょう。それで手を打ってくださいませんか?」

「また飼育して、結婚式挙げればいいと思うわ」

津雪が、フィルレインに刀を突きつけながらにっこりと笑った。

「その時は、エリクシアがいない静かな世界で、みんなで幸せに、ちゃんとした結婚式挙げましょうね、お兄ちゃん?」

硲は、傍らの弟に大きく頷くと、泉に向き直って続けた。

「僕は死んだコレをもらえる。お兄様は更にクオリティの高いセクサロイドを手に入れられる。そして、エリクシアを叩き潰すことが出来る。どう考えても最高のシナリオだと思います。コレを処分するだけでいいんです」

「……」

「さ、取引しましょう。お兄様。僕たちはいつでもあなたのことを、最も大切に想っています。決して悪意からではないです。先ほど魔力を抜かせていただいたのも、この計画をお耳に入れていただくためなんです」

「……」

「承知していただければ、功刀が抜いた魔力を……いえ、それ以上の力を貴方に注入させていただけます。僕たちの気持ち、分かってください」

大分長いこと、泉は沈黙していた。
そして彼は地面に膝をつき、自分の額を指で掴んだ。それで掻き毟るように爪を立てた後。

――彼は、力の限り、拳を地面にたたきつけた。

何度も、何度も地面を殴り、遂には骨がひしゃげる妙な音が聞こえても、彼はそれを止めなかった。
そして突然の行動に唖然としている弟達を一瞥し……彼は、皮と肉が破れていびつに潰れた手を上げた。手の甲の骨が折れているのか、無理な力が加わったせいで白い突起……骨が飛び出している。
彼はそこに口をつけ、ずる……と体液と血液、そして骨の欠片をすすりこんだ。

「てめぇら……」

自らの体を取り入れ、泉は押し殺した声を発した。

「いつからそんな化け物になった……」

その瞬間、また時間が戻った。
318 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:38:00.88 ID:FYbIMI/U0
しかしそれは、空間だけだった。記憶までを巻戻す力はなかったらしく、瞬きの間に泉は五分程前……硲にフィルレインが奪取される寸前に戻っていた。
自分自身の時間を戻す力もないらしい。
火柱が存在しない時間軸。その『前の時間』で、潰れた右腕を垂らしながら、彼は気絶しているフィルレインを片手で支えて背後に飛び退った。
彼の影に刺さっていた功刀の影が、音を立てて抜ける。
そして泉は、兄弟達が反応するより早く彼らにひしゃげた右手を向けていた。

「動くな」

頑とした声だった。

「お前らを捻り殺すことくらい、今の魔力でも造作はない。少しでも動いたら殺す」

彼の言葉が、少なからずとも本気であることは用意に感じ取ることが出来た。荒く息をつきながら、鼻から流れている血を拭う。

「……おかしいですね。功刀……ちゃんと魔力は吸い取ったんですか?」

手の中にフィルレインがいないことを、ゆっくりと確認し……硲の顔色が変わった。今までの笑顔が消え、マネキンのような無表情が浮き上がる。

「吸い取りマシタヨ。全部」

「どういうことですか、お兄様?」

「……」

「オソラク、オレ達とは違って、大兄さんハ自分の体組織からデモ魔力ヲ生成デキルンじゃネェデスカネ」

「それを早く言いなさい。そうなんですか、お兄様? 初耳ですよ」

「……」

そんな泉を見て、耐え切れなくなったのか更紗が大声を上げた。

「……もう、止めてくだされ!」

「……」

「このままだとにに様が死んでしまいます。そんなにその屑が大事なのですか? 四百年以上を共に過ごした、我らよりも大事だとでもおっしゃるのですか!」

すがるような声だった。
泉は、そんな妹を見ながら……吐き捨てるように言った。

「…………消えろ。これが仕舞いだ」

「にに様……?」

「てめぇらには失望した。俺と、涙が作り上げた五百年を、よくもまぁここまでもブチ壊してくれたな」

荒く息をつきながらじりじりと後退し、彼は続けた。

「勘当だ」

凛とした一言だった。
しかし、その言葉は大きなものだった。兄を見ている兄弟達は、それを聞いた途端、目を見開いて硬直した。

「てめぇらはもう家族じゃあねぇ。どこへなりと勝手に行け。そして死ね」
319 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:39:04.72 ID:FYbIMI/U0
「……どうしてです!」

あまりの衝撃だったのか、更紗が地面に崩れ落ちる。それを見て、硲が足を踏み出して声を張り上げた。

「僕たちはこんなにも、お兄様のことを考えているじゃないですか! なのに何故? そんなに……」

「……」

「僕たちよりも、それが大事なんですか!」

こわばった時間の中、泉は答えなかった。折れそうになる膝を奮い立たせ、崩れたガレキの隙間で体を支えながら後退する。
丁度、彼が足元の岩に躓いた瞬間だった。
呆然としていた津雪が、ハッとして顔を上げた。そして慌てて泉に向かって声を発した。

「危ない! 右三十五度!」

泉は、反射的にその言葉に反応した。
反応してしまったのだ。
それは、何百年にも及ぶ彼と弟との関係。その心、体の奥に染み込んだ信頼関係が為したことに他ならなかった。
弟も、兄も。
考えることよりも。
たった今勘当をして、されてしまった事実を踏まえるより先に動いてしまっていた。
フィルレインを支えていた泉は、とっさに津雪の示した方向と、その意味を理解してしゃがみこんでしまった。その動作のせいで、抱えていたフィルレインの体がぐらりと揺れて泉と位置が反転する。
次の瞬間、丁度肉の盾にでもしたかのようにフィルレインの胸を大口径のライフル弾が貫通して抜けた。
合成コンクリートの地面に突き刺さり、その大人の人差し指ほどもある銃弾が止まる。胸を砕き散らされたフィルレインは、叫び声を上げる間もなく、コポッ、と血を吐き出して――数秒も経たずにぐったりと脱力した。
即死だった。
320 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:40:29.29 ID:FYbIMI/U0
「……は……?」

泉は停止した。

「狙撃か……津雪、どこからだ!」

「十五キロ二百先。位置Gの7、H、U、KO、百三十五」

硲に津雪が返す。すると、機械のような動作で眼帯で目を覆った少女……美並が左前方に手を突き出した。

「……」

しかし彼女は首を振り、津雪の指定した方に走り出した。距離が遠すぎたのだ。兄弟達はそれを確認するより先に、急ぎ兄の方に駆け出した。

「…………何するんだよ…………」

動かなくなったフィルレインを、彼女の返り血で真っ赤な顔で泉は見下ろした。

「何でだよ………………何でこんなことするんだよ…………」

ゆさゆさとフィルレインを揺すり、泉は途方に暮れた顔で繰り返した。

「何でだよ………………」

「お兄様伏せてください!」

硲の叫び声が聴こえる。
泉はしわがれた声を張り上げた。

「フィル!」

「伏せてください!」

第二射が来る。弟はそう言いたいのだ。
もしかしたら別の狙撃地点からの攻撃がくるかもしれない。狙撃というのは初撃で外したら、もうお仕舞いだと相場が決まっている。
だから、だからこそ回避したらすぐに動かなければいけないのだ。
しかし、泉の取った行動は真逆だった。
彼の瞳が真っ赤に充血し、そしてその白目までもが赤く染まっていく。彼はフィルレインの体を抱きかかえたまま、ゆらりとその場に立ち上がった。

「…………てめぇら…………いい加減にしろよ……」

それは、彼の妹が命を落とした時と同じ。
繰り返す魔法のレベル2、その発動だった。
途端に泉のその鼻、口の端からゴポリと赤黒い血液ではない……その固形のような塊が、凄まじい勢いで溢れ落ちはじめた。赤く染まった目からも、涙のように血液が垂れ落ちはじめる。

「にに様……にに様いけませぬ!」

更紗がいち早くそれに気づき、転がるようにして兄に近づこうとする。
しかし、泉は背を丸めて歯を食いしばっていた。
321 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:41:24.29 ID:FYbIMI/U0
数秒も経たずに、地面に突き刺さった銃弾がひとりでに……ビデオテープの逆再生のように空中に浮かび上がった。
それが先ほどフィルレインが撃たれた地点まで上昇し、次いで周囲に飛び散った少女の血が浮き上がり、その胸の傷跡に飛び込むように戻っていった。
千切れたドレスや肉片に至るまでが、フィルレインの傷に寄り集まり、そして元の通りに戻っていく。
銃弾はその間も上昇を続け……そして少女の傷が完璧に戻った途端、風を切る音を立てて掻き消えた。
次いで、街の外れ……そこが。
閃光とともに、はじけた。
いや、そんな生ぬるいことではなかった。
こここから十五キロ以上先の街中に、目もくらむほどの閃光の後。
ドームの天井を突き抜けるほどのオレンジ色の半球形をした火柱が吹き上がったのだ。
それは、通常の火ではなかった。
もっとおぞましい、何か……。
小型の、核。
核爆弾の光だった。
爆発の規模からして、弾頭サイズのものだったのだろう。
しかし渦を巻いて熱風と、強烈な黒煙を吹き上げたそれは。
ドーム天井に開いた穴から吹雪にキノコ型の雲を吸い上げられながら、煙を噴き上げ続けていった。
離れているはずのここにも、目を刺す光が届いてくる。十五キロ先の爆弾の炸裂など、通常では視認することさえ不可能だ。
彼らがそれを見たということは。
全長五十キロを超えるこのドームの、約半分が吹き飛んだという事実でしかなかった。
それを確認してかしないでか、泉が膝を折り、フィルレインを庇うように地面に倒れこむ。

「な……何だ……?」

硲が唖然として足を止める。
322 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:42:08.62 ID:FYbIMI/U0
「エリクシアの反応が……確認してるだけで、七割消えたわ……」

津雪が唖然としながら口を開く。それを追い越し、更紗は悲鳴を上げながら脱力した泉に抱きついた。そしてわけの分からない声を上げて彼の体を揺さぶる。

「核か……?」

「おそらくは。奴ら、ドームごと私達を消し飛ばすつもりだったのね……」

「大兄さんノレベル2は、モノを相手に都合のワルイヨウに作り変えて戻すコトガデキルラシイデス。多分……さっき戻したチッポケな銃弾ガ、核弾頭の誘爆をさせたのカモ……今のハ、魔法デス」

更紗以外のHi8は、あまりの事態に硬直して、はるか遠くに浮かぶキノコ雲を見上げていた。
功刀の声が、どこか遠くの方から聞こえる。泉は体を動かそうとしたが、思い通りに意識が伝達されないことに気がついた。急激に体温が奪われていくように、首の下……つま先から段々と感覚が無くなっていく。視界もカメラレンズのピントを絞りすぎていくかの様な感じで黒くブラックアウトしていく。

(これ……)

彼は、傍らでなりふり構わず喚きながら自分のことを揺すっている更紗を見た。

(やべぇかもな……)

数秒後、動けなくなった自分の周りに六人の兄弟が全員……取り囲むように立っていた。泉は、それを視線の端で何とか捉え……そして、消えていく最後の意識の中で。
体の下の妻のことを、強く抱きしめ、自分の体に覆い隠した。
323 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/03(金) 19:45:04.68 ID:FYbIMI/U0
お疲れ様でした。

第二十六話に続きます。
続きは、明日UP予定です。

ご意見ご感想など、いただければ嬉しいです。

>>152でご案内させていただいている内容が少し面倒という方は、ツイッターでコンタクトを取っていただくことも可能です。
http://twitter.com/matusagasin08

ご質問でも大丈夫ですので、ドンドンくださいませ。

それでは、今日は失礼します。
324 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2012/02/04(土) 17:21:40.81 ID:KNoBGdI+o
乙です
325 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:24:29.75 ID:vsTlV+k80
こんばんは。
一話あたりが少なかったので、今回は第二十六話、二十七話をUPさせていただきます。

Wikiの方が一気に充実していて驚きました。嬉しいです v(*´ω`*)v
http://ss.vip2ch.com/jmp/1327234326
是非ご利用くださいー。

それでは、投稿させていただきます。
326 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:32:28.24 ID:vsTlV+k80
26 十二月二十五日

 フィルレインが目覚めた時、彼女と先ほど結婚したばかりの夫は、少し離れた建物のホテル……その地下室にいた。
頭を振って起き上がる。
傍らの椅子には、疲れきったように肩を落とした泉がぐったりと座り込み、寝息を立てている。彼はタキシードから普段着のスーツへと着替えていた。自分の脇にも、いつの間にか持ってきてもらっていたのか、洋服が何着か放り出してある、
周りを見回すと、その地下室は従業員の休憩所としても使われているものらしく、自分は一つしかないベッドの上に横たえられていた。
部屋は十畳ほど。乾物系の食材等が、脇の棚に置いてある。
電気系統の調子が悪いのか、天井の蛍光灯が突いたり消えたりを繰り返している。彼女は、自分が着ているウェディングドレスが目も当てられないほどの無残なボロ切れと化しているのを、ぼんやりと見下ろした。

――結婚しないか?

ベッドの中で、泉にそう言われた。
最初は、彼特有の冗談かと思った。いつものように混乱している自分を虐めて愉しむための方便だと思った。
だから、最初にそれを囁かれた時はフィルレインはちゃんとした反応が出来なかった。
当然といえば当然だ。
彼女は、結婚というものを想像することが出来なかったし、なにより伴侶というものがどういうものか、本当に理解をしていなかったのだ。
だから――以前までの彼女なら、ポカンとしたまま首をかしげただけだっただろう。
しかし、泉は突然行為を中断すると、意識も途切れ途切れに息をついているフィルレインが収まるのを待ってから、もう一度はっきりと言った。

「なぁ、結婚しよう」

「…………」

かなり長い間きょとんとして、そしてフィルレインは汗で張り付いた髪を手で払ってから、か細い声で聞き返した。

「けっこんって……」

「……」

「何?」

単純に問い返され、泉は相当面食らったようだった。ベッドから上半身を起こし、そして困ったように頭を掻く。
フィルレインが言葉を待っているのに気がつくと、彼は小さく息をついてから口を開いた。

「俺と、お前がペアになるってことだ」

「ペア?」

「ああ。俺は夫、お前は妻になる。この前一緒に観たフィルムの中にあっただろう。ああいうことなんだが、分かるか?」

そこでやっとフィルレインの中の思考回路が、泉の察して欲しい内容に追いついたらしい。
彼女は心底仰天した、というような顔をした後、次いで喜んでいいのか、それとも悲しんでいいのか、よく分からない混沌とした表情を浮かべた。
そして泉から視線を離し、少しの間考え込む。
327 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:34:30.61 ID:vsTlV+k80
「もっと言うと、生涯離れなくなるってことだな。俺はお前のものになるし、お前は俺のものになる。そういうことだ」

「……」

彼女は、またほんの少し間を置いた後、泉に向き直って、申し訳なさそうに口を開いた。

「ええと……」

「……」

「駄目だよ、私、もう少しで死ぬし……」

そして寂しそうに軽く微笑んで、目を逸らす。

「今みたいなので、いいよ」

「それじゃ俺の気がすまねぇんだ」

しかし、泉はやんわりと彼女の言葉を打ち消した。

「正直に言おう。お前の床術は、最悪だ」

淡々とそれを言い放ち、泉はベッドの上に胡坐をかいた。

「俺に抱かれるために存在してるなんて、そんなおこがましいこと思ってねぇだろうな? だとしたらとんだ見当違いもいいところだ。はっきり言ってお前ときちゃ、ただ騒ぐだけで気持ちよくもなんともねぇ。まるでガキの初体験だ。んなもんで俺が満足するとでも思ってんのか?」

ずらずらといわれた言葉は、しかし予想された返答をを遥かに越えて、フィルレインの心を抉った。少しの間呆然とした後、彼女はひきつったように喉を鳴らして、黙って目元を押さえた。

「死にかけの骨皮を抱いて、俺が満足できるとでも思ったか? いちいち気を使わなきゃいけねぇ気持ちにもなってみろ。言うに事欠いて、自分をセクサロイドのように考えるなんて、俺を愚弄しているとしか思えない」

「…………え?」

溢れてきた涙を抑えながら、しかし最後の言葉にすがりつくように少女は聞き返した。
泉は、泣き出してしまった彼女の脇に寄ると、軽く笑いながらその頭を撫でた。

「俺はもう、枯れてるからさ」

「……」

「だから、お前を性欲で抱いてるわけじゃねぇ。俺を何歳だと思ってる? 知ったような口をきくな。小娘の分際でよ」

「……」

フィルレインは、反応をすることが出来なかった。それは、彼女にとって想像することはあっても、決して現実には起こりえない事象だった。
328 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:36:30.13 ID:vsTlV+k80
だって、自分は彼の敵なのだ。
いいところだって何もない、
そもそも最初は暗殺に失敗して……。
そして、無様に捕まって、帰還する勇気もなくて居座るような感じになって。
挙句の果てには、屋敷に住まわせてもらって。
自分より綺麗な子だって沢山要る。泉の兄妹さんの方が、よほどいい。
自分なんて魔法も使えないし、常識も知らないし。
何より、一人でなんて生きていけない。
そう、弱いのだ。
自分は、この世界に対して圧倒的に弱すぎた。

第一――自分はもう、長くないのだ。

自分の体のことだ。何だかんだ言ったって良く分かる。処分は、絶対のことだ。元より、そんなに長く維持できるようには作られていない。
悲しみも、それに順ずる何の感慨も湧かなかった。
解放されるんだと思うだけ。
自分から死ぬ勇気さえないこの体に、神様が当然の結果を与えただけだと思っていた。
だから、その時まで、
自分が、自分という一つの存在としてここに存在していることを、他でもない、泉に許してもらうために。
だから、抱かれ続けることは当たり前なんだ。
そう思っていた。
ただ単純に、しかし絶対的にそう思っていた。
だから彼女は、自分自身の存在、それそのものを無条件で泉に認めてもらえていたという事実をすぐに認識することが出来なかったし、何よりそれを心の中で認めることが出来なかった。

――どうして?

喜びでも何でもない、心の中に生まれたのは、唖然とした懐疑心だった。
泉はそれを目で問いかけてきた少女を見つめ、そして彼女の脇に横になると、子供をあやすように抱いてやり、背中をさすった。

「この俺が、お願いをしているんだ。どうなんだ?」

ぶっきらぼうに、しかしそっと囁かれる。
フィルレインは、反射的に肯定しそうになり……しかし思いとどまって言葉を押し留めた。
そのまま少しの間彼に抱かれ、その体温を感じる。

――そして彼女は首を振った。

「駄目だよ……私……もう少しで死ぬし」

先ほどと同じ言葉。最後の方は消え入って空気に溶けた。
329 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:37:28.65 ID:vsTlV+k80
泉は、しかしそれを笑い飛ばして言った。

「安心しろ、お前が死んだら俺も死ぬよ。そして、お前が死ぬまで俺は死なない。魂が死ぬまで、思い出を作ろう。だから、二人で同時に死ぬんだ。約束だ」

「……え?」

「…………聞き返すな。二度言わすなよ。ちゃんと答えろ」

「……」

彼女の額を押さえ、そして泉は自分の額をその小さな頭に合わせた。目の先数センチの所から見つめられ、フィルレインは目のやり場に困って視線を泳がせた。
逃げ場がなかった。
それは、生まれて初めて少女がつきつけられた最大にして、最強の難問だった。
自分自身の意思で返答をする。
それだけのことがこんなに難しいなんて、想像したこともなかった。

「死ぬことなんざ怖くねぇよ。もういい加減くたばりてぇ。多分、生きてる間でそう思った時間の方が長いよ」

「……」

「冥土の川、俺はお前と同じところには行けないと思うけど、見送ってやることくらいはできる。あの世の門に一緒に入って、お前が天国に行くところを見てやる」

「……」

「だから、結婚をしたいんだ」

「……」

「俺が俺でいられる最後の砦は、お前だけなんだ。俺が俺を壊さないように、ただ一緒にいてくれたのはお前が一番なんだ」

抽象的で意味がよく分からない。
しかし、フィルレインはその時やっと、ぼんやりとその事実を理解した。
自分と、五百歳以上もの年が離れている、そもそもの生物学上の『格』が違う存在の、彼。
彼――でも、この人は。
この人は、私と同じなんだ。
いつの間にか、フィルレインは泉の腰に手を回していた。
彼女は……そう。
不確かで、よく分からない感情だが。
その時初めて、嬉しかった。

「私……」

「……」

「ここにいていいの?」

「ああ」

頷く泉の腰を、もっと強く抱きしめる。
330 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:40:24.77 ID:vsTlV+k80
「あなたの傍にいてもいいの?」

「構わない」

「死んでも一緒にいてくれるの?」

「ああ、約束だ」

にっこりと笑って、そして彼はフィルレインの手を握った。

「だから安心して死ねばいい。俺もついてってやるよ。閻魔様とタイマン張って、俺も天国に送ってもらうようにしてもいい」

「えんまさま?」

「地獄の神様だよ」

「じごく?」

「……」

実のところ、フィルレインは泉が言っていた天国という言葉の意味も分かっていなかった。純粋に聞き返してきた彼女に答えることが出来ずに、彼は押し黙った後、目の前の小さな少女の口に、自分の口を重ねた。
大分長いこともつれあい、意識までもがドロドロに白濁してきた頃、泉は口を離して息をついた。

「私、何もいいところないよ……」

その時、ポツリとフィルレインは呟いた。
泉は少しだけきょとんとした後、もう一度彼女に覆いかぶさって、口を開いた。

「お前……」

「……」

「こんなに優しいじゃねぇか」

そう、それは確かに嬉しくて。
生まれて初めて感じる、その感情だった。
331 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:42:45.85 ID:vsTlV+k80


 体がだるい。
脇に『着替え』とだけ書かれた紙があるのを見つける。それくらいの単語なら解読できるようになっていた。言葉に逆らうだけの気力もなく、とりあえずのろのろとベッド脇においてあった服に着替える。熱が出ているらしい、火照った視線が定まらない。
そしてフィルレインは大きく深呼吸をしてベッドの上に腰を浮かせ、寝息を立てている泉の方に足を向けた。先ほども声をかけたのだが、寝ているのか反応がなかったのだ。
地下室の階段の上に、上げ戸がある。

「泉……ねぇ……」

途端に急激に心細くなり、少し迷った後、フィルレインは夫の肩をゆすった。

「ねぇ……どうしたの? どうして私達、こんなところにいるの? みんなは……?」

大分長いこと、泉に反応はなかった。しばらくして激しく咳き込み、そして椅子から転がり落ちそうになりながら息を押さえつける。
硬直したフィルレインが、我に返って彼の背中をさする。数十秒も経ってから、泉はぜぇぜぇと息を漏らし、口を開いた。

「何だァ……寝ちまったのか……? 何だってこんな時に……」

「泉……良かった……」

一目見ただけでも、彼がただならぬ様子であることは分かった。目や鼻から、血が流れ出た後が固まって痣を作っている。

「良かったよ……」

訳が分からない。本当にフィルレインは、この状況を欠片も理解できなかった。
自分達はただ、一緒にいたくて。
だから結婚式を挙げただけなのに。
それなのに。
突然ドーム内を爆音が襲い、次いで教会も砲弾で破砕され、無我夢中で手を引く泉を追って逃げ続けて……。
そして、彼の六人の兄弟に遭って。
今。
何が、どうなっているんだろう。
何が、私達は悪いことをしたんだろうか。
結婚式っていうのは、そんなに悪いことだったんだろうか。
そんなぐちゃぐちゃの不安と恐慌が入り混じって混沌とした感情があふれ出しそうになり、しかしフィルレインは無理矢理それを飲み込んだ。
すがり付こうとした泉の様子がおかしいことに気がついたのだ。
彼は焦点が定まらない視線を空中に這わせ、そして、フィルレインが初めて聞くうろたえた声を発した。

「お、おい……フィル? 何だ……これ……あれ……?」
332 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:43:52.40 ID:vsTlV+k80
「泉?」

「そっちか。おかしいな……電気ついてないのか……? 何も見えん」

「電気? ついてるけど……」

「あぁ? ンなわけねぇ……だろ? 真っ暗だ」

そこで泉は、頭が痛むのかこめかみを押さえた。その鼻からポタポタと赤い血が流れ出す。

「い……泉……血が出てる……」

「え? 血…………?」

その瞬間、彼は自分の身に起こっていることを理解したようだった。慌てて立ち上がり、しかし自分が座っていた椅子に足を引っ掛けて派手にその場に倒れこむ。受身を取る体力もないらしく、そのまま激しく胸を床に打ちつけ、暫く痛みを堪えたあと、彼は妻に助け起こされた。

「泉、目……見えないの?」

「……」

愕然、そして唖然だった。何をどう考えたらいいのか、フィルレインにはさっぱり分からなかった。ただわななきながら、現実をどうしようもなく震えて見つめる。
泉は、しかし彼女の髪の毛をくしゃりと撫でた後気丈に笑って口を開いた。

「……何、一時的なもんだ。すぐ治る」

「本当? 大丈夫なの?」

「ああ。あいつらとちょっと喧嘩しちまってな。まぁ色々あったんだが、心配ねぇ」

「でも、凄く苦しそうだよ……」

「何でもねぇって、言って……」

そこまで言って、泉の目がぐるりと反転した。彼は自分自身の反応に唖然としながらよろめき……そのままフィルレインの小さな体を巻き込んで、ベッドに頭から突っ込んだ。
そして鳥の鳴き声のように何度も咳を発し、血の混じった唾……血痰を吐き散らす。
フィルレインは、悶え苦しむ夫のことをただ一生懸命に抱くことしか出来なかった。恐ろしくて、ひたすらに恐ろしくて。いつの間にか泣きじゃくりながら彼の狂乱が収まるのを耐え続ける。
数分間も吐き続けた後、泉はぐったりと彼女の腕の中で体を弛緩させた。
それは、フィルレインが初めて見る彼の弱い姿だった。

「お……お医者さん……」

「……」

「お医者さんのところに、行こう。泉、病気だよ。このままじゃ死んじゃうよ……」

「……」

「死んじゃうよ……」

「……」

「や……やだよ……そんなの……」

息を整え、しかし泉はすぐには言葉を発しなかった。また大分時間が経ち、よろめきながら立ち上がる。
333 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:44:41.47 ID:vsTlV+k80
「いいか、フィル。よく聞け」

「……お医者さんに……」

「必要ない……それより、ここがどこだか分かるか?」

「え……? 私、そんなの知らない……」

そこまで言って、彼女は先程のメモの脇に、地下室にあった本のページを破ったものらしい、メモのようなものを見つけた。

……読めない。

拾い上げてみるが、二種類の文字だけが確認できる。愛寡、そして硲、共有のカナ言葉で表記されている名前だけは分かる。二人のメモらしい。

「メモ……愛寡ちゃんと、硲君の……」

「何だと……?」

「読めないよ……何か書いてあるけど……」

「よこせ」

彼女がそれを差し出すと、泉はひったくるように手に取った。そして見えない目を凝らして、何とか読み取ろうとする。

「た……多分、お医者さんを呼びにいってくれたんだよ」

「……」

「愛寡ちゃんも、硲君も、優しいもん。困ったことがあったら、絶対に守ってくれるって、この前言ってた。二人は強いんだって。更紗さんも、功刀さんもいるよ。大丈夫だよ。すぐにお医者さん連れて」

「ここを出るぞ。急げ」
334 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:45:28.36 ID:vsTlV+k80
泉は、しかしフィルレインの言葉を打ち消し……そのメモを粉々に破り捨てた。そして手を伸ばし、彼女の肩を掴む。

「目が見えん。お前が先導するんだ」

「え……ど、どうして? だって、硲君たちが……」

「………………メモには、屋敷の地下室で落ち合う予定にしようって書いてあった。ぼんやりと見えたんだ。早く屋敷に戻るぞ」

間を置いて彼が言う。

「本当……?」

「医者が、そこにいるらしい」

「うん、分かった……」

少女は少し迷った後、夫の言うとおりに彼の手を引いて上げ戸まで足を踏み出した。しかし上げようとして、彼女の力では持ち上げがることさえも出来ないことに気がつく。

「上がらないよ……」

「どけ」

乱暴に妻を押しのけ、泉は良く見たら変な形に曲がっている右手を振りかぶり、そして上に叩きつけた。妙な重低音と共に、扉がぐらりと動く。そこに体ごとぶつかり、泉は外に転がり出た。

「泉、手も……」

「急げ!」

小さく叫んで少女の手を引き、地下室から引っ張り上げる。
そこは、ホテルのフロントが見えるフロアから直結した部屋の一つだった。今日結婚式を挙げた教会の隣……その大きなホテルだ。

「裏口を使え。人間に見つかるな」

こわばった声で命令される。

――人間――

そう呼称した彼の声音に、今まで感じたこともない何か、得体の知れない強固なものが含まれている。
それに気がつき、彼女は飛び出しそうな心臓を服の上から押さえ、そして無事な方の夫の手を引いた。
335 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:47:44.07 ID:vsTlV+k80
27 手を伸ばした

 人が変わったように、足をもつれさせながら歩くフィルレインを泉は恫喝していた。目が見えない不安なのだろうか、それとも、何かどうしようもない……今まで見たこともない、恐怖に怯えているような。そんな顔で、フィルレインのことをせかす。
言われた通りに裏口から外に出るが、少し見ない間にドームの中は火の海となっていた。逃げ惑う人々の声と、爆音。戦車、重火器の音。薬きょうの飛び散る反響音。何かが抉れ、飛び散る音。断末魔、子供の絶叫。
それを目の当たりにして、フィルレインは正真正銘硬直した。
動けなくなり、ドーム天井を焦がすかのように吹き荒れている炎と黒煙を見上げる。
逃げなければ。
そう思うのだが、体は強張り動かない。それが現実。弱い彼女の精一杯だった。

(怖い……)

そう、怖かった。ただひたすらに怖かった。
表通りには、ト殺場のような光景が広がっていた。壁に張り付いた、人だったもの。焼き焦げてステーキのようになったモノ。モノ……モノ。
服だったモノ。動いていたはずのモノ。
足を引きずって逃げようとしている子供。ピクリとも動かない老人。もの言わぬ死体。
死骸。
虐殺……それは、虐殺だった。
目を血走らせた人が、ナタや拳銃を持って走り回っている。狂乱しているのだ。火事場の凶器と言うのだろうか。
正気を失って暴徒と化している男達の集団が、怪我をして動けず、助けを求めている若い女性に群がるのが見える。

「……何……」

フィルレインは、震える声で呟いていた。

「何してるの……あの人たち……」

戦場の狂気。虐殺の狂気。
人は、死に直面したときにその本能に最も忠実な本性、それが浮き彫りになる。
そしてその本性は伝染し、周囲に撒き散らされる。
理由のない虐殺。圧倒的な、どうしようもない現実。
それを認識し、壊れた人間が暴徒と化す。どうせ死ぬならと、破壊に便乗して死への恐怖を拡散させようとする。
それが、愚かしい人間なのだ。

「見るな」

震えているフィルレインの手を潰さんばかりに強く握り、無理矢理に泉は彼女を現実に引き戻した。

「人間に見つかるな。殺されたくなかったらな」

淡々とそう言い、彼は強い語気で彼女に歩くようにと命令した。冷徹な声だった。感情を押し殺した夫の言葉を聞き、大分長いことフィルレインは迷っていたが、やがてそっと、人の気配がない裏路地に足を踏み出した。
336 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:48:32.68 ID:vsTlV+k80
「怖いよ……」

そろそろと歩きながら、飛んできた火の粉から顔を守る。そして彼女は、傍らの泉に涙と鼻水でズルズルになった顔を向けた。

「怖い……」

「……」

泉は、しかしそれに答えなかった。ただ歩け、と命令して彼女に手を引かれながら進む。
幸い……と言ってはおかしいのだろうが、ここは一番最初にエリクシアに攻撃を受けた場所だったので、殆どの人間が避難をしていて、人口密度が極端に薄いことがあった。その幸運な事実にフィルレインは気づくこともできず、本当に失禁しそうになりながら何とか足を踏み出していた。
断末魔って、こんなに大きく響くものなんだ。
そう、簡単に思う。
聞いてみれば単純なものだ。くびり殺されるニワトリが絶望を噴き出すような、そんな音色。どこから響いてくるのか分からない。それがドームの屋根に反響し、ウォンウォンと奇妙な音を発している。
数百メートルも進んだところで、突然泉がその場に崩れた。そして激しく咳をして、また地面に血痰を吐き散らし始める。
そこで、T字路の向こうからドタドタと石造りの地面を踏みしめる大勢の音が聞こえて、フィルレインは青くなって弛緩した泉の体を建物と建物の間に引き込んだ。
細く小さい彼女の体に、何処にそんな力があったのかと思うくらいの必死な気持ちだった。何とか、自分の体よりも遥かに大きい夫を死角に引きずり込んで、光が及ばないほど奥に足を躓かせて転がる。
丁度彼女が倒れたのが、更に体を隠す結果を生んだ。今まで二人が歩いていた場所を、十人前後の男達は何かを喚きながら駆け抜けていく。
フィルレインは、その声の内容を理解して……その瞬間、何も言うことが出来ないほど頭の中が真っ白になったのを感じた。

――殺せ――

そう言っていた。

――魔法使いを、殺せ――

そう、言っていた。

(え……?)

意味が分からなかった。

(何で……?)

泉は少し苦しげに咳をしていたが、やがてそれを無理に押し殺し、上体を起こした。

「泉……」

フィルレンは、憔悴した顔で彼に言った。

「お医者さんのとこ行けないよ……」

「……」

「ご、ごめんなさい……」

どもりながら、謝る。
彼女はガチガチと歯を鳴らしながら、彼の肩にすがりついた。

「動けないよ……私、もう動けない……」
337 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:49:34.94 ID:vsTlV+k80
「……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

泉は、暫く何かを言いたそうに、彼女のことを見ていた。しかし……やがてフッ、と軽く息を吐き……そっと、妻の頭を撫でた。

「…………死ぬことなんざ…………」

「……」

「怖くないんじゃ、なかったのか……?」

聞かれた。
違った……それは、違ったのだ。
あの頃のフィルレインには何もなかった。本当に、自分という存在に何の価値もなかった。
だが今は違った。
ほんの少しでも、一ミリでも価値が出てきたとき。そのとき、フィルレインは死ぬのが恐ろしくなった。
死にたくなくなった。
怖いのだ。
前は自分が何の価値もないまま消滅するのが怖くて。
そして今は、その与えられた価値を失うことが怖くて。
怖くて、怖くて。
怖い。
それしかない。怖がることしか出来なくて、また怖い。
自分の肩を抱いて震え出した妻を、泉は抱いて引き寄せた。

「お前は……勘違いをしてる……」

小さな声で、優しくささやかれる。

「かんちがい……?」

「死ぬことは誰だって怖い。俺だって、ちょっとは怖いさ……」

「泉も……怖いの?」

「ああ怖い。ちょっとだけな」

そう言って、彼は焦点の定まらない瞳を妻に向け……しかしはっきりとした語調で続けた。

「だが、本当に怖いのは死ぬことじゃない」

「……」

「本当に怖いのは、忘れられることだ」

「わすれられる、こと?」

「俺は、それが怖い。怖かった……」

彼は苦しそうに息を吸い込んだ。
338 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:50:31.68 ID:vsTlV+k80
そして頭を何度か振り、スーツの上を、ボタンを引きちぎるようにして脱ぎ取る。
彼の右胸。そこにはビー球サイズの小さな球体が埋まりこんでいた。色はオレンジ色。奇妙に白濁している。
フィルレインの体にも、その玉はあった。彼女はへその下の方についている。

――魔法使いの印。核という、その魔法を司る中枢。

泉は自分の核に指を当てると……それをためらいもなく、肉や絡みついた血管を引きちぎりながら、胸より引きずり出した。

「せ……泉!」

度肝を抜かれて素っ頓狂な叫び声を上げる。しかしそんな妻を手を開いて制止し、彼は手の中の、血に濡れた自分の核を、手探りでフィルレインの口を探し出すと。
無理矢理、その中に捻りこんだ。
突然何をされるのか、意味が分からず反射的に抵抗した彼女の口を強制的に塞ぎ、彼は力を振り絞ってその小さな体を押さえ込んだ。

「飲め!」

高圧的に命令され、何度か餌付きながら飲み込んでしまう。
途端、フィフレインの喉から胃……そして内臓に至るまで、電流のような刺激が駆け抜けた。ショック状態というのだろうか、目を飛び出さんばかりに見開き、何度か体を痙攣させる。
数秒経ち、視界がくるりと回転する。そのまま地面に転がり、暫くの間体を丸めて、内部の痛みに耐える。
泉は服を直すと、痛みが治まったのか、呼吸の調子が元に戻ってきたフィルレインに言った。

「俺の核をやる。ハイコアだ。腐っててたいした力はねぇが……お前の魔法と合わせて、俺は、その残った力で……もう一つ今、魔法をかけた……」

「……ど、どうして……これ、大事なものだって……」

大粒の汗を浮かべながらフィルレインは叫んだ。

「どうして飲ませたの!」

「……それがついてると、医者に診てもらえねぇんだよ……」

ボソリと彼は言い、そして続けた。

「……お前、魔法をつかえねぇって、言ってたよな……」

「何を言ってるの……? は、吐き出すから、今!」

「黙って聞け!」

大声で頭ごなしに怒鳴られ、彼女はビクリと体を震わせて言葉を止めた。
339 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:51:30.33 ID:vsTlV+k80
「最初、俺ぁ……適正がないのかと思ってた。だが、お前……俺の近くにいると……必要以上に、頭が冴えるの……感じなかったか?」

問いかけられ、暫く沈黙してから、フィルレインは頷いて答えた。

「う……うん……」

「それ、魔法のせいだ……多分……」

「……」

「お前、俺の魔力を……吸い取ってんだよ。微弱だが、普通はな……マスターの魔力を、一方的に吸収するってことはねぇんだ。逆はあるんだがな……」

「……どういうこと……?」

「つまり……お前はれっきとした魔法使いなんだ……」

泉は言った。

「他の魔法使いの……力を、吸収することが、できるんだろう……多分、だが……」

「……魔法使い……? 私が……?」

「今までは……役にも立たんから言わなかったんだ……だが、状況が変わった……」

信じられなかった。
エリクシア……魔法使いを殺すために作られた、人造人間。寄りにも寄って自分が、無意識のうちに魔法を使っていた?

――その、魔法使いだって?

急な話すぎて、信じることが出来ない。
しかし泉はか細く息を繰り返しながら続けた。

「お前に……俺の核を飲ませた。それが持ってる抗体で……LSFの症状は、かなり緩和されるはずだ……それに……」

「……」

「……百八十秒……」

夫が無事な方の手を上げ、指を三本立てる。

「三分だ」

「三分……?」

「お前の命の火が消える瞬間……お前が取り込んだ、俺の最後の魔法は発動する」

「……」

「三分だけ、お前にくれてやる」

遠くの方で、爆炎が上がった。
どこから入り込んだのか、泉に冗談交じりで話を聞かせてもらった巨人……鎧を数十倍に大きくしたようなモノが、遠くのビルを踏み潰し、吹き飛ばし……十数体も暴れ狂っているのが見える。
340 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:52:15.80 ID:vsTlV+k80
「三分だけ……一回、お前は死んだら三分前に戻る」

「……何を言ってるの……?」

「それで考えるんだ……その三分で何ができるのか、考えろ……」

「何を言ってるの……泉……?」

少女は、夫の冷たくなっていく手を握り締めて、わななきながら呟くように言った。

「何で、そんな死んじゃうようなこと言うの……?」

「……」

「泉、治るんだよね? みんながお医者さんを連れてきてくれるんだよね……?」

「……」

「わ、私、頑張って歩く。一生懸命、一生懸命頑張る! だから、早くお医者さんのところに行こうよ!」

焦燥だった。
胸の奥に濁流のように、その恐怖が押し寄せ、荒れる。フィルレインは無理に立ち上がると、泉の手を引いた。

「核だって、返すよ。今吐き出すから……」

「無駄だ。俺の体から離れたら、もう戻らんよ……」

「じゃ、じゃあお医者さんに何とかしてもらうよ! 絶対、絶対に!」

一分、一秒が惜しい。
手を引いて早足で歩き出した妻の背中に曇った目を向け、泉は口を開きかけたが、すぐに閉じた。

「ああ……」

「早く!」

「そうだな……」

はにかんだように、彼はやるせない笑みを彼女に向けた。
341 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:53:03.55 ID:vsTlV+k80


 「嘘だ……」
 
少女はポツリと、そう呟いた。

「こんなの嘘だ……」

誰も、それに答えなかった。
遠くの方で爆音が上がる。魔法の炎だ。すべてを焦がし、消滅させる巨大な火柱が天を突き抜ける。
動かない。
動かないよ……。
泉が、動かない。
冷たい。
冷たくなっていく。
呻き訳の分からない言葉を呻きながら、彼女は強く夫の亡骸を抱きしめた。
動いて。
動いてよ。
目を開けて欲しい。息をして欲しい。
そんな馬鹿なことってあって溜まるんだろうか。
こんな理不尽で、呆気なさ過ぎることってあるんだろうか。

「ねぇ、泉……」

何度も彼を揺さぶる。しかし半開きになった目は瞬きをしない。首も、マリオネットのようにカクカクと前後に震えるだけだ。
こんな路地裏の。意味不明な戦場の中で。
気づいたら、動かなくなっていた。
気づいたら、夫が死んでいた。

「嘘だぁ……」

情けない声で、そう呟く。
現実を現実と認識できない。まるで夢の中みたいに、腰から下がふわふわだ。体に力が入らない。脳に、血が行き届いていかない。体全体から血の気が引き、地面と一体化してしまいそうだ。
目の前の景色が歪み、そしてブラックアウトして覚醒してを何度も、何度も繰り返す。

「私……頑張るから……」

少女は、助けを求めていた。
眼下の躯を抱きしめながら、焦点の合わない瞳で周りを見回し、壊れたように喉を鳴らしていた。

「一生懸命頑張るから……」

――神様。
――私達、何も悪いことしてないよ?
――ただ、結婚したかっただけだよ?

自分に核を飲ませ、そして二分も経たずに。
呆気なく大魔法使いは逝った。
歩くことも出来なくなり、木偶みたいに地面に転がって息を引き取った。
342 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:53:48.81 ID:vsTlV+k80
――ねぇ、神様……。
――私達、何か悪いことしましたか?
――私達の、何かがあなたを怒らせてしまったんですか?
――謝りますから。
――何万回だって謝りますから。
――どうして、怒ったのか教えてください。
――教えてください。
――教えてください……。

死体にすがりつき、時間が止まる。
今まで動いてた夫。さっきまで喋っていた夫。
大好きで、そして唯一だった人。
動かない?
動かない……。
……動かない……。

――神様……。
――私が悪いんですか……?
――私が、何も出来ないのが悪いんですか?
――謝ります。
――許してください……。
――謝りますから……。
――何でもしますから……。

そこで、足音が聞こえた。

「だから……………………」

振り返ったその目に、自分を見る幾十もの、凶器を宿す獣の瞳――理性が欠落した人間であったはずのそれ――が映る。

「……かみさま……」

最後の呟きは、怒号に踏み飛ばされ、そして消えた。
野獣のようなギラついた、狂気を発した男達に地面に押さえつけられ、何度も頬を張られる。口の中が切れ、しょっぱい味が広がる。幾人かの男達は、フィルレインの服を掴み、情緒も何もなく引きちぎり始めた。

「そっちの男はどうだ!」

「こいつだ! 魔法使いだ!」

男の一人が、そう言って物言わぬ躯と化した泉の胸に、持っていたナタを振り下ろした。気味の悪い音が響き、生臭い血があたりに飛び散る。
343 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:54:38.24 ID:vsTlV+k80
しかし、それは噴出し拡散したりはしなかった。
それは、泉の心臓が既に止まっているという事実でしかなかった。

「やめて! 何をするの! やめて!」

「こっちの女も魔法使いだ!」

夫が傷つけられるのを目前にしたフィルレインが、半狂乱で暴れ出す。半裸に剥いた彼女の下腹にある核を見つけ、組しだいている男は、実験用のネズミを見るかのように、鼻の穴を膨らませて不気味に笑った。
その手が何度も振り下ろされ、明らかに自分よりも三回りも小さな女の子の頬を何度も、何度も張り飛ばす。
いつしか、時間の感覚がなくなり。そして体を守ろうという気力も吹き飛ばされ、青く腫れた頬を投げ出したまま地面に打ち捨てられ、フィルレインは怯えた視線で自分を取り囲み覗き込む、ザラついた目を見回した。
歯が鳴った。
一部の男達は、他の男が担いできた木造りの十字架のようなものに、泉の死体を、建築用の釘で打ちつけていた。

「やめて……」

夫の方に手を伸ばす。それを踏みつけられ、痛みに叫び声を上げる。
しかしフィルレインは、何とか泉の方に這っていこうと震える体を、無理に前に進ませた。

「お願いします……やめてください……お願いします……何でもしますから……」

「おい、こっちの魔法使いはどうする?」

ゴミ蟲を始末するかのような声で、誰かが言う。

「手配されてたのは、男の方だけだ。女の方はどうだっていいだろ。念のためにクスリ打っておけ!」

魔法を使われることを懸念したのだろうか。いきなり腕を掴まれ、注射器を突き刺される。そして中の液体を力任せに筋肉に押し込まれる。
今度は、フィルレインの白い背中を踏みつけ、地面に押し付けながらもう一人の男が言った。

「ガキのくせに男持ちか。魔法使いが、一人前に人間面しやがって!」
344 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:55:14.13 ID:vsTlV+k80
髪を掴まれ、無理矢理引き起こされる。そして彼女は、地面に突き立った十字架に磔にされた泉の胸に、群衆の一人が大人の腕ほどもあるとがった杭をあてがうのを見た。

「やめて……やめて!」

喉が破れるのも構わずに叫ぶ。
次の瞬間、杭にハンマーが振り下ろされ、泉は昆虫の標本のように串刺しにされた。衝撃の途端に口が開き、さながらゾンビのような生気のない瞳がフィルレインを凝視する。
手を伸ばした。
その手を踏みつけられ、そして申し訳程度に身に纏っていたボロ布を引継ぎられ。ギラついた視線の渦の中に引きずり込まれる。

「あなた……」

手を伸ばせば届く距離。
しかし、そのふれることさえも出来ない場所で。
夫が。
何も悪いことをしていない夫が。

――どうして?

(どうして?)
345 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 17:55:50.87 ID:vsTlV+k80


体をぐちゃぐちゃにされていく。
泉のものだったはずの体が、滅茶苦茶にされていく。
しかし、フィルレインは真っ直ぐに、夫の磔死体だけを凝視していた。
凝視していた。
その瞳が、段々と光と焦点を失っていき。
そして彼女は、深い、黒い、どうしようもないヘドロの海の中に落ち込んでいった。
346 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/04(土) 18:02:11.91 ID:vsTlV+k80
お疲れ様でした。
第28話に続かせていただきます。

ご意見、ご感想などありましたら、ツイッターなどでコンタクトを取っていただくことが可能です。

Twitter:http://twitter.com/matusagasin08
BBS:http://www3.rocketbbs.net/601/Mikeneko.html

勿論ここで議論などをしていただくのも大歓迎です。
その際は、私の投稿と区別するために、メール欄に「sage」と入力してくださいね。

また、Wikiが驚きの充実度でびっくりしました!

Wiki:http://ss.vip2ch.com/jmp/1327234326

是非お気軽にご利用ください!

それでは、近日中に続きをUPさせていただきます。
救いのないお話ですが、引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。
347 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:17:11.80 ID:EoFAcCoo0
こんばんは、寒いですね(((゚ω゚)))

第28話を投稿させていただきます〜。
348 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:20:44.45 ID:EoFAcCoo0
28 最期の魔法

 後に、それは第二次大戦と呼ばれた。
大魔法使いHi8の七体、その現存するBMZ検体を一掃するための掃討作戦は、完全なる『失敗』の二文字で終結した。
確認された目的の被害は一つ。原型を留めていない、おそらく呼称Hi8の男性だと思われる、暴徒により磔にされた死骸。残留ピノの反応なし。
被害総数、約五万。駆逐用の機械兵装エンドゥラハン、七十五機大破、及び消滅。
対象ドームに向かった戦力、一切が交信消滅。その後、エリクシアの研究施設に魔法使いによる襲撃、全体数の九十八パーセントが壊滅。
圧倒的なまでの敗北。
それは、完全なる魔法使い側の勝利だった。
エリクシアの沈黙までにかかった時間は、総計で九十五時間。約四日。
それだけで、エリクシアという組織の大部分が崩壊していた。
現存している研究機関は、他ドームのエリクシアの息がかかっている小組織……つまり、直接的には関係を持たないものばかりだった。無害だと判断されたのかは分からない。それとも、Hi8達の検索に漏れたのだろうか。
いずれにせよ、残されたのは単体では何の力も持たない、弱小なものばかりだった。
しかし、だからこそHi8は気づかなかったのかもしれない。灯台下暗しということわざがある。彼らがエリクシアを壊滅させようと、泉のドームを空けている間。
泉、そしてフィルレインが忽然と姿を消した。
349 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:21:46.85 ID:EoFAcCoo0
何と言うことはない。ドーム内に存在していた地下の研究機関、そこのシェルター内に収容されたのだ。
しかし、単純にしてことは圧倒的な威力を産んだ。Hi8の一人、硲がそれに気づき、兄の遺体を回収するまで、それからさらに四十時間。
そこで彼が見たのは、皮をはがされ人体標本のようになった泉の体と。
それから、たかだか三日の間に行ったとは思えないほどの、大量の投薬カルテだった。
他でもない、フィルレインに与えられ、実験的に反応を記録されたものだった。どこかに送信されていたが、その特定までには至らなかった。
機関の者達は、自分達を包んでいるシェルターに絶対の自信と信頼を置いていたらしい。結局のところ、それは大魔法使いの前では何の意味も成さなかったわけだが。
投薬記録は、激烈な流れを示していた。
生きていけるギリギリのラインで、考えうる限りのLSFパターンを注入されている。つまり、生命維持機関を装着され、その上で無理な投薬実験を行ったのだ。
それは魔法使いの体……つまり、生体兵器BMZが、いかに崩壊薬に耐えうるか、その魔力と言う不確定な要素の分析の実験だった。
悪魔の所業だった。
傷つき、心身ともにズタボロになった幼い少女一人に、そこまですることのできる生き物。
それは、確かに人間以外にいない。
その後、Hi8の懸命の捜索に関わらず、兄の妻である少女……フィルレインの足取りは一切掴めなくなっていた。どういう方法か、ドームの外に出たらしかった。
350 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:22:25.87 ID:EoFAcCoo0


 脳に電極が取り付けられているらしい。体が、解剖されたカエルのように、意思に反してビクビクと痙攣している。
 
「これはもう駄目ですね。完全に脳波の波形がおかしいです。限界でしょう」

白衣を着た研究員の一人が、口を開く。数人の技術者達は、分娩台のような実験台に縛り付けた、幼い少女にしか見えない魔法使いを一瞥した。
おそらくは美しかったと思われる金髪には、所々白髪が混じり、体の皮膚は乾燥しきってしまっている。くぼんだ目の回りには大きくクマが浮かび、涎が垂れた口は、緩慢にゆっくりと動いていた。

「どうします? そろそろレベル9を投与して終わらせますか? データの送信は出来ました。後はここを引き払うだけです」

主任と思われる男が、少し考えてから頷く。

「よし、そうしよう。検体は焼却炉に入れるんだ。防疫もすませておけ」

「了解しました」

淡々と言葉を交わし、注射器を持った一人がフィルレインに近づく。
そこで、バチン、と部屋の中の電気が消えた。次いで火災警報が鳴り響く。通路の防災システムが反応し、次々にシャッターが下りていく。
赤い非常電源に切り替わった部屋の中で、研究員の一人が声をあげた。

「何だ! 一体どうした!」

「魔法使いの襲撃です!」

バタバタと銃を持った警備員が研究室を取り囲むように整列する。
351 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:23:11.37 ID:EoFAcCoo0
「皆さんは早くここを離れてください!」

その言葉が、最期だった。
光が通路を駆け抜けた。
正確には、手榴弾の爆薬が空中で炸裂したような光だった。赤と、黄。鮮烈なそれが、何十にも降りたシャッターの向こう側から、それをまるでウェハースのように貫通して抜ける。
蒸発だった。
逃げようとした研究員。そして迎え撃とうとした警備員達。戦う間も何もなく。
その光に触れた途端、連鎖的に白い煙となり蒸発した。
一瞬のことだった。光は壁までもを半ば溶かし、熱風で吹き飛ばした。
一秒未満の事柄でその研究所の大半を焦土と化す。
それは、彼らが恐れ、忌み嫌っていた魔法だった。
フィルレインは、縛り付けられていた台ごと脇に転がっていた。いつのまにか拘束が緩んでいたらしい。
彼女は、亡者のように壁に捕まりながら立ち上がると……全裸のまま、ゆらゆらと歩き出した。溶解した床や壁が体を焼いても、彼女の表情に反応はなかった。
そして、やがて研究員が逃げようとしていたのか、開きっぱなしになっている非常口。そのエレベーター状になっている空間に転がり込む。その途端、センサーが反応して扉が閉まり、それはゆっくりと上昇を始めた。
352 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:23:50.01 ID:EoFAcCoo0


 一面、ガレキの山だった。
シェルターの非常口は、崩れたビルの駐車場に偽装されていたらしい。足をペタ、ペタと踏み出しながら、虚ろな瞳でフィルレインは人の気配がない街を歩き出した。
夢遊病者のように、行動と目が定まっていない。
実に、十数分も歩いただろうか。
半ばから倒壊して、フロアが丸見えになっているホテル。ドロドロに溶けて、訳の分からない形になっている人間だったと思われるもの。
腐臭、焦げる肉、ぶちまけられている血の臭い。

「ひゃはっ……」

フィルレインは、足で人間が惨殺されたと思われる場所を踏んで、引きつったような笑い声を発した。

「ひゃは……はは……ひゃはは……」

乾いた声だった。瞳孔が完全に開ききった顔で笑いながら、廃墟となった見慣れた街を歩く。
そして彼女は、小高い丘にある、自分と夫の住まいの前に立ちすくんだ。
跡形もなかった。踏み潰され、焼き払われたかのように屋敷は倒壊して、更地になっていた。建物の土台だけが無残に地面に張り付いている。
それを踏みしめ、中に入る。そして彼女はガレキをかき分け……大きな塊を、体に引っかき傷がつくのもお構いなしに脇に蹴り飛ばし、持ち上げて投げ飛ばした。
そして地下室へと通じるドアを見つけ、力の限り鉄のドアを引く。
熱で変形していた。それ故にかなりの労力が必要となった。黙々と、少しずつ引き上げ……そしてけたたましい音と共にそれが跳ね起きる。
フィルレインはそれを確認し、ずるずると足を引きずりながら、地下室の中に降りていった。
そこは、泉が医療関係の施設から横流しをしてもらっていた血液パックの貯蔵庫になっていた。狭い部屋の四方に棚が設けられ、瓶詰めにされた血液が並んでいる。そのうちの一本を手に取り、彼女は蓋を開けると口の中に流し込んだ。たっぷり五百ミリリットルは胃に入れた後瓶を投げ捨てる。
口の端から生臭い血をたらしながら、彼女は部屋の隅に設置されていた泉の机に足を向けた。
それは、何処にでもあるような木造りの机だった。元々は泉が誰にも邪魔をされずに食事が出来るよう、置いていたものだ。床に釘打ちされていて、動かないようになっている。
彼女は椅子に腰を下ろすと、おぼつかない手つきで引き出しを開けた。
様々な書類が詰め込まれている。
十数段もある引き出しを開けて締めてを繰り返す。そして、フィルレインは最下段の引き出しを机から引きずり出し、脇に放り出した。
机に覆い隠された、最下段があった場所……その床に、小さな戸があった。手の平四方くらいだろうか。細い針金が床に空いた穴に通されていて、外れるようになっている。
彼女はそれに指をかけ、そしてカコ、と引き抜いた。
353 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:24:43.13 ID:EoFAcCoo0
合成コンクリートの床は四角く彫り抜かれており、そこには直径十五センチほどの青白い光沢を発する玉が収められていた。
魔法使いの核ではない。
内部で、雲のような模様が蠢いている。
フィルレインはそれを手に取った。

――見たことがある。

これは、エリクシアの戦闘兵士が持たされる武器。鐵鋼兵装(シィンケルハン)と呼ばれる、ピノマシンを使用した武器の中枢システムだ。これを制御して、形を変えたり……それそのものの機構を取り込んで変化させたりすることもできる。
しかし、フィルレインにはその制御系等がなかった。戦闘用ではないからだ。
暫くぼんやりとそれを見つめ……そして彼女は、ポイ、と机の上に放り出した。
玉はコロコロと転がると、やがて机の上に設置されていたラジオの受信装置に当たり、止まった。
次の瞬間だった。
まるでガムのように、それは膨張すると……自分が触れた受信装置を一瞬で包み込んだ。まるでアメーバが餌を捕食するような、そんな光景だった。そして中で機械を砕く音をさせながら、また球状に圧縮されていく。
五秒ほどで、玉は先程より直径五センチは大きくなった状態で、机の上に転がっていた。先ほどと違うのは、玉の脇にマイクと思われる音声の入力孔と、そしてスピーカーと思われる出力孔がついていることだった。

――ラジオの受信装置を取り込んだのだ。

それも、自動で。
モーターが回転する音がした。玉の青白い発光が、鮮やかなセルリアンブルーになる。
しばらくノイズの音を響かせる。ぼんやりとそれを見ているフィルレインの前で、玉は何度か機械音声の調整を行っていた。

「カカ……シス……テム……ブレクション」

そして、玉は一拍置くと。
抑揚のない機械の声――男性の、少しハスキーな声で喋り出した。

「……起動シマシタ。適正侵食値、三十五。状況認識不能。マニュアルニ以降シマス」

「……」

「反応感知。当該機絶対入力事項ニヨリ、目前ノ個体ヲ最優先重要物ト認定」

「……」

「当機、GAZEL・BADYTHRタイプ。自立思考G組成型ピノマシンモジュール、オリジナルシィンケルハンタイプ4ノシステム構成ヲ開始シマス。マスターノ呼称ヲ入力シテクダサイ」

「……」

「マスターノ呼称ヲ入力シテクダサイ」

玉は繰り返した後、プツリと音声をとぎらせた。
354 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:25:33.63 ID:EoFAcCoo0
フィルレインは、大分長い間それを見つめていた。その瞳は、何の感情も移していなかった。ただ空虚で、死んだ魚のような飛び出した瞳だった。バラバラになった金髪を右手で掴み、プチ、プチ、と引き抜いている。

「百秒間応答ガアリマセンデシタ。パターンBニ移行シマス。質問ニ対スル応答ヲ要請シマス。アナタハ、呼称フィル=レイン、女性体デ間違イアリマセンカ?」

「……」

「回答ヲ入力シテクダサイ」

「……」

「三十秒発チマシタ。コレヲモッテ、リピートノ最終トイタシマス。アナタハ、呼称フィル=レインデ間違イアリマセンカ?」

「……」

少女は、小さく息を吐いた。そして無気力な瞳で玉を見下ろし……無造作に手で掴んだ。
ボソリ、と呟き、地下室の出口に向けて歩き出す。

「虹……」

「了解。回答ノ入力ヲ受理。照合。完了。アナタノ呼称ヲ『ニジ』ヘト上書キ。許可ヲ」

「ん……」

「了解。十秒間応答ガナケレバ、許可ト認定シマス」

壊れたドームにも、変わらず朝はやってくる。天井のスクリーン内壁に、崩れて内部シェルターが降りたところを暗い空間に染めながら、太陽が昇ってくる。白い光が網膜を打つ。地上に出て、フィルレインはまた、ゆらゆらと歩き出した。
そして屋敷のガレキの中……そこに転がっていた、泉のペーパーナイフを拾い上げる。熱で部分がひしゃげたそれを小さな手に握り、彼女は鼻歌を歌い出した。
一つだけ、泉から教えてもらった単純な民謡だった。同じフレーズを歌詞だけ変えて何十回も繰り返す、子供の歌。
空虚な瞳で前だけを見つめ、夢遊病者のように掠れた声で歌いながら歩く。
足は、自然に……教えられたわけでもないのにドームの出口の方に向かっていた。
新年。
それが少女にとって二度目になる、新しい年の始まりだった。
355 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:26:24.10 ID:EoFAcCoo0


 今や更紗の足下は、想像を絶する光景になっていた。小山のようになった骸骨の群れが一つに寄り集まり、そして互いに抱きつき……一つの巨大な、エンドゥラハンの実に二倍以上もの骸骨を形成する。その頭部に立ち、更紗は背骨を曲げた巨大骸骨に支えられながら、鼻歌を歌っている虹……血沼の巨十字架に張付けられた彼女の前まで移動した。
首を曲げた形になる骸骨の体の上で、更紗は虚ろな目でしゃっくりのように喉を鳴らしている虹を忌々しそうに見た。

「……ふん、今わの際で本当に壊れおったか。下衆め」

「……」

その言葉を聞き、虹は緩慢に顔を上げ、更紗のことを見つめた。

「…………」

「しかし、何故貴様はわらわの魔法に取り込まれぬ? いくらなんでもしぶとすぎる。本来ならば、もう溶けていてもおかしくはないはずじゃ」

「…………」

「……まぁいい。貴様には聞きたいこともある。これからゆっくりと、にに様の心臓を隠した場所を吐かせてくれる」

「…………」

更紗がそう言い、ゆっくりと右腕を上げる。
そこで、虹は小さく咳をしてから、声を上げた。

「忘れない……」

「……?」

突然喋り出した彼女に気をとられ、更紗の動きが止まる。

「何じゃ……?」

「お前らがしたこと……お前らがしたこと、ボクは絶対に忘れない……」

それは、しっかりとした言葉だった。
それは、憎しみの、怨嗟の呟きだった。

「お前……更紗だな……?」

「……いきなり何を……」

「お前が……」

「……」

「お前が、あの時止めていれば……彼は死なずに済んだんだ……」

更紗の目の色が、変わった。
356 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:27:24.28 ID:EoFAcCoo0
巨大骸骨の上で彼女は後ずさり、そして頬をサッと青白くしながら声を上げる。

「下郎の分際で……この期に及んでもまだのたまうか!」

「お前達のせいで彼は死んだ……」

血交じりの唾を吐き出しながら、虹は掠れた声で呟いた。

「泣いてるんだ……ずっと、ずっと……ずっとずっとずっと……朝も昼も夜も、年がら年中頭の中で泣いてる……憎いって、殺せって、あの子は泣いてる……」

「……」

「……この、殺人鬼の外道が……」

「や……やかましい!」

更紗は絶叫し……反射的に、虹に向かって手を突き出していた。その手の平から銃弾のように血の塊が噴出し、少女の胸に突き刺さり、十字架の向こう側に抜ける。

「あ……」

思わず致命傷を与えてしまったことに気づき、更紗は慌てて手の平から飛び出した血剣を掻き消した。しかし、胸に空いた大きな穴から、もう残り少なくなった生贄の血があふれ出す。
急激に光と、そして生気が虹の顔から消えていく。
その、彼女の顔を見た途端だった。
更紗は、不意に目を大きく見開いた。そしてあんぐりと口を明け、手でそれを覆う。彼女はまるで恐慌を起こした小動物のように、骸骨の頭の上を後ずさりして……そして尻餅をついた。
胸を貫かれた虹は、笑みでも、泣き顔でもない。
何もなかった。
それは、言葉では形容しがたいほどの。
何もない、壊れた、空虚な目だった。
――違う。
これは、さっきまでブツブツ呟いていた女ではない。
直感的にそう感じる。

「お前…………」

更紗は、それを真正面から受けながら、聴こえるか聞こえないか、震える声で呟いた。

「誰じゃ……?」

目の前の少女の目がぐるりと白目に暗転し、その首がゆっくりと力なく折れる。
357 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:28:12.04 ID:EoFAcCoo0
途端。
ドク、という心臓の鼓動のような衝撃が更紗の体を襲った。
気づいた時には、彼女は骸骨が固まった船に乗り、血沼を蹴立てて走っていた。

「……え!」

思わず甲高い疑問を上げる。
離れた場所に自分が展開した魔法を避けようと爆走しているエンドゥラハンの姿が映る。その手には、血沼でずるずるに体を溶かされた虹の姿が見える。

――時間。

(時間が、戻った……?)

これは、兄の魔法を体験した時の感覚それそのものだった。
記憶はそのままに、周囲全てが少し前の時間に戻るのだ。
間違いない。
先ほど、確かにあの女に止めを刺した感触がある。催眠術にかけられたのではない。この空間では、あらゆる認識が更紗のものに優先される。
それを無効化しうるのは……。
兄だ。最愛の兄。その繰り返す大魔法。
戻された。
どういう原理か分からないが。

――彼の力を使って。

ブワァッ、と、猫が縄張り争いで決闘を繰り広げる時のように、更紗の長い髪が空中に巻き上がった。

「殺す!」

彼女は足下の骸骨を拳で殴りつけ、叫んだ。
沼を蹴立てて進む船の速度が、急激に上昇する。それに連れて、更紗が展開している地獄の領域が、とんでもないスピードで周囲を侵食し始めた。
時間は、三分。
百八十秒前。
それが、泉が望んでかけた最期の、最愛の魔法であったことは、二人の女性は認識していなかった。
358 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/05(日) 20:31:22.56 ID:EoFAcCoo0
お疲れ様でした。第29話に続かせていただきます。

詳しいご案内は>>346に記載させていただいています。
ご確認いただければ幸いです。

続きは、また近日中にUPさせていただきます。
気長にお待ちくださいー。

また、Mixiでは第二章の19話を中途まで公開しています。
登録されている方は、お気軽にコンタクトを下さると嬉しいです。
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=769079

それでは、失礼します。
359 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:54:49.51 ID:OR7xgSx70
こんばんは。29話があまりに短いので、30話も同時更新します。

投稿させていただきます〜(*´ω`)
360 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:56:22.14 ID:OR7xgSx70
29 分裂

 最初、彼は主にそれを渡すことが、そんなに重大な精神の汚染を引き起こすとは考えていなかった。彼からしてみればプログラムされていた事項の通りを行っただけだし、根本的には非難されるべき問題ではないのかもしれない。
しかし、ドームからドームへ渡り歩いている行商人……氷の上を移動する大規模な、列車と言っても差し支えないトレーラーハウス群。キャラバンと呼ばれる移動の民族の一つに拾われ、二週間ほどが経った時、その事件はおこった。
極寒の雪と氷の中、ガゼルのピノマシン操作による温度調節で死にはしなかったものの、ほぼ氷漬けのようになって行き倒れていた虹を救出したのは、偶然そこを通りかかったキャラバンの子供だった。
ドームからおよそ五十キロ以上先の雪原地帯。死ななかったのがほぼ奇跡のようなものだ。本当なら、役目からしてガゼルがそれをとめるべきだったのだろうが、起動した直後の彼にそこまでの思考能力はなかった。
ガゼルは、泉が作り出した半永久的なピノマシン集合体……つまり、一種のピノロイドだった。厳密に言うと違うが、分類的には虹と同じような仮想生命体に順ずる。
過去、泉がフィルレインのように襲い掛かってきたエリクシアの少女を勢い余って殺してしまった際。保存しておいたその子の鐵鋼兵装を改良し、魔法をかけて作られたものだった。
簡単なことだ。
ガゼルには、動力がない。
本当ならピノマシンともいえど、きちんとしたエネルギー補給をしなければ稼動しない。虹などのエリクシアンドロイドは、機械というよりは機械細胞で構成された生命体だ。それ故に普通の代謝により行動をすることができるが、体躯が機械のガゼルに限ってはそれが適用されない。
簡単に言うと、ガゼルの中枢に埋め込まれている小型の動力炉には、泉の繰り返す魔法が織り込まれていた。つまり、一定数分子が衝突してエネルギーを生み出し、その効率が低下した時に、分子の構造が初期の状態に戻るのだ。
実質的な永久自立稼動。
科学の力では為し得なかったこと。
それが、泉が命を織り込んだとはいえ、魔法一つで可能になる。
魔法には千差万別の効果がある。そして、それを利用する魔法使いの性格や知性も千差万別だ。
エリクシアが、自分達が造り出し……そして手を離れてしまった魔法使い達に抱いた懸念が、まずそれだった。
つまり、手に余るのだ。
制御することの出来ない圧倒的な進化的力。常識さえも次元ごと掻き消してしまう彼らを、エリクシアは一方的に恐れ、そして隠滅しようとした。
いわば、ガゼルはその中でも作り出された最高傑作ともいえる、科学と魔法の融合物だった。
機関が永久に稼動するということは、一つの大きな利点を孕むということだった。それは、外部からの干渉を受けずに、一つの生命として自己進化をすることができるという副作用だった。
361 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:57:08.20 ID:OR7xgSx70
本来、機械にはロボット五原則が適用される。つまり、アンドロイドは基本的に人間の力がなければ存在をすること、それに準じて行動をすることが許されない。それは製造過程でどうしても織り込まれてしまう課題であり、アンドロイドが人間の存在を超えることが出来ない一つの巨大な障壁だ。
しかし、ガゼルにはそれがない。
厳密に言うと、ガゼルの行動倫理にはセットされているのだが、彼は事前の大まかなプログラム――命令さえあれば、それを発展、応用させてさらに先の事情まで見越した行動を行うことが、存在として許されているという事実がある。
つまり応用性を持つ機械なのだ。
本来、機械は命令されたこと以外は計算をすることができても、行動に移すことが出来ない。それを越えることができるのは、ネット上に一個に存在している精神体。そして、他者の干渉を受けずとも生命を繋ぐことができる機構を持つアンドロイドだけだ。
存在に人間の力を得ないという事実が、自己保護、そして主の保護を予測行動できる事実を生み出す。
加えて、ガゼルは起動時、AIの内容がほぼ白紙で動き出した。これは泉は気づいていなかったのだが、結果的に人格進化を行うことができるガゼルにとっては都合がいいことだった。つまり、周囲の状況などを吸収して人格の形成を自動で行うことができるのだ。
ベースとして、泉の言動や声。
そして行動、記憶の一部を受け継いでいるとはいうものの、その人格発達はわずか数週間で飛躍的に……フィルレインがかつて愛した男性とは別の方に向かっていた。
無理はないのかもしれない。
記憶には経験が必要だ。しかし、見るものも何もかもが初めてのガゼルにとっては、それはただの記憶であり、一度も体験したことがないということが現実だ。だから、それを実感として取り込むことが出来ない。
その結果、生まれたのが。
常識的な倫理観を重視する傾向と、そして虹の命令には絶対に服従するという、まるで子供のような人格だった。
362 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:58:10.59 ID:OR7xgSx70
二週間経ち、ガゼルはキャラバンにあった小型の短銃を取り込んでいた。虹が担ぎやすいということもあったが、まだ動作が不安定な自分が擬態するには手ごろな大きさだったのだ。
キャラバンに拾われてから、虹は一度も言葉を発しなかった。ずっと俯いて、時たま意味不明な言葉や笑い声をかすかに発するだけだ。足の裏や手の平など、凍傷が酷かった部分は、カメラを取り込んだガゼルが確認し、すぐさま治療していた。
親切なキャラバンの人々は、最初は驚き気味悪がっていたとはいえ……いつの間にか、この可哀相な女の子を自分達の一員として扱い始めていた。
彼らの間の認識では、虹は最近多発している人買いのキャラバンから逃げ出してきたんだろうということで落ち着いているようだった。一週間ほどしてやっとガゼルはその意味を理解したが、あえて訂正はしていなかった。説明をするのは困難だったし、なによりこのキャラバンが反魔法使いなのか、それとも狂信教なのか分からないところが彼を押し黙らせていた。虹のへその下には、はっきりそれと分かるくらいの魔法使いの核がある。見られてしまえばお仕舞いだ。
数十台のトレーラーを連結して極寒の地を走るキャラバンの行進は、時たま思いもかけないところで停止する。前方にクレバスが発見されたり、氷の塊が道を塞いでいたり。もしくは磁気を帯びた吹雪が強くなり、コンパスが聞かなくなったりした時だ。
虹はいつもの通り、ガゼルが構築した大き目のコートにクマが浮いた目元までうずめ、子供が入るトレーラーの隅に腰を下ろしていた。
このキャラバンの総人数は、三十。殆どが初老の男女だ。若い夫婦もいて、虹が救出される前までは小さな女の子がいたらしい。しかしその子は寒さからか、特殊な風土病にかかってしまい命を落としたらしかった。
……虹がその子に重なったということもあるのだろう。
彼女を世話していたのは、その若い夫婦だった。それに、明らかに精神を病んでいる風の少女に対して……何らかの心得があるのか、一定以上干渉しようとはしなかった。
ベッドではなく部屋の隅に足を投げ出している彼女を、トレーラーのドアを開けて若夫婦の夫の方が見る。

「虹ちゃん、ちょっと進行方向に氷山が出てきたんだ。僕はみんなと一緒に、トンネルを掘れるかどうか見てくる。少し開けるけど、お腹がすいても少し待っていてくれな」

「……」

虹は、彼の方を見ようともしなかった。
俯いたまま、手にしたガゼルを弄っている。
彼女が返事をしないのを確認し、それからそっとガゼルは言葉を発した。

「了解。ご検討をお祈りいたします」

「ははっ。まぁ、すぐ戻るよ。虹ちゃんを宜しく」

「了解。尽力いたします」

軽く笑って、男性はドアを閉めた。
そしてガゼルはまた、自分を見下ろすやつれ切った少女に視線を合わせた。

……正直なところ……。

自分の人格が、常識を把握できるほど形成されたのはつい数日前のことなのだが、その間この子を確認していて思ったことがある。

――誰なんだろう――

違う。
目の前にいるこの個体は、自分の中にインプットされている泉の記憶……その、フィルレインという女の子……ではない。
363 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:58:56.89 ID:OR7xgSx70
少なくとも、根拠を明確に言うことは出来ないが、ガゼルはそれをはっきりと、事実として頭の中でまとめた。
同じ声だ。
だからこそ自分は起動時、この子をプログラムされていた通りにマスターと認定した。その書き換えはもう出来ないし、自分が壊れて朽ちても覆ることはない。
しかし……。
同じなのは声……そして僅かに伺える外見的特長。身体値……身長、推定体重。
つまり、外観。
それだけだ。
あまりにも違った。記録内容と、あらゆる面が異なる。フィルレインという少女が行っていたというクセや表情。自分の製作主が見て、聞いて、そして愛していた全て。

――何かが違う。

この子は……そう。
上手く言葉で表現することが出来ないが。

そう……禍々しいのだ。

何だか、自分が仕えるはずだったイメージと比べて、圧倒的に邪悪だった。
そして同時に、何とも言い難いほど、物悲しい目をしていた。今にも泣き出しそうな。しかし、泣き方を忘れているようなそんな目。
青い瞳に見つめられ、ガゼルは心の中でため息をついた。

(中身だけが入れ替わってるのか……? でも、体組成ピノマシンの反応は事前に入力されていたものと一致する。だとすると、フィルレインにはそのような交換に順ずる外科手術を行う余力は残っていないと見るべき)

「……」

(でもまるで中身が入れ替わっているような……)

時折、フィルレインと思われるような行動を取る時があった。微妙に口調が変わったりもする。それに合わせて行動も変化する時があったが、どちらかと言うと、その『フィルレイン』時の方がガゼルにとっては応対に困るパターンだった。
364 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 19:59:37.61 ID:OR7xgSx70
彼女が『ボク』と自分を言っている時は、かろうじて会話が可能だ。こちらの言っている事もあらかた理解している……というより、理解しすぎていて恐ろしいくらいだった。一言を聞いて十……いや、二十、三十までもを読んでしまう。そんな悪魔的な頭脳をしていることは、何となく分かっていた。
しかし表情にそれが出ることは殆どないし、ガゼルに対する態度もかなりそっけない。今のようにただ黙々と何かを弄っているか、それくらいだ。
そうではない『フィルレイン』の時に彼女は錯乱することがあった。それに対して何がトリガーになるのかは、ガゼルにはどうしてもよく分からなかった。パターン化しようにも、あまりにも不定すぎて対応しきれないのだ。
一定の方向性があるといえば、遭えていえば過去起こったこととの類似。それが目の前で展開されると、彼女は我を忘れてしまう傾向にあるようだった。そして、おそらくその間話している対象は、現実の対象ではない。
憶測になるが……彼女の妄想、もしくは幻想である可能性が高い。
その状態が長く続くと、時たまフィルレインであると思われる行動を取ることがある。しかし、その間に喋っていることは完全に意味不明、及び統一性などどこにもない。訳のわからない笑い声や、奇声……歌を歌いだすこともあり、ガゼルの声は届かなくなる。
これが、二週間ほどで彼が主から学んだ彼女の分析結果だった。
結論から言うと、これは状況認識不全によるものだということができる。
現状が現状として、脳が認識していないのだ。だから、安定した虹状態の時ガゼルが言ったことや、その場で起こったことなどを、錯乱してから復帰した後、彼女は全く覚えていない。それどころか、自分の記憶の時間軸が逆行したり、急激に進んでしまうこともあるらしい。
先ほど食事をしたのに、暴れてからまた食べようとした……という――これは比較的軽い例なのだが――ことは、日常茶飯事だった。
短銃と合成して、おかしな形にトリガーが膨れ上がったガゼルを小さな、綺麗な手で弄り回し、その主が虚ろな目をこちらに向けている。
ガゼルに課せられた絶対服従、つまり最優先すべき事項は、彼女を守ることだ。だから、そのためだったらためらいなく何でも破壊しなければいけない。半ば強制的に短銃と融合したのも、そのためだった。
しかし彼は、正直なところ彼女がこのようになってしまった原因は全く知らなかった。一応、同じピノロイド同士、通信素子を頭にはめ込んで記憶の共有をすることができる。しかし主に対しては、彼女の許可がないと見せてももらえない。促しても反応がないか、全く別の話を始めてしまうのだ。
それから一時間ほどただ見つめあい……そしてガゼルは、沈黙に耐え切れなくなり言葉を発した。

「マスター」

「……」

「提案があります」

「……」

虹に反応はなかった。

「当機に組み込まれているマニュアルによりますと、あなたが孤立状態に陥った際、有効と見られる対処パターン、第七十五項に、当機のオペレーター、泉氏の身内である愛寡氏にコンタクトをとるという方法があります」

「…………」

そこで、今日は始めて虹の視線が動いた。彼女は虚ろな目のまま彼を見下ろすと、少し考え込んでからボソリと言った。
365 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:00:25.95 ID:OR7xgSx70
「……コンタクト?」

「イエス。しかしながら、当機には愛寡氏のライフデータがありません。マスターの承認がありましたら、当機がこれよりネットに介入し、スキャンいたします」

「……」

「回答を入力ください」

てっきり、褒められるとばかり思っていた。これは彼が密かに頭の中で温めていた、虹を元気付けるための唯一考えうるデータだった。見落としや信憑性に問題がないか、何度か考察しての結果、最適と判断したパターンだ。
実を言うと、彼の頭の中には泉の兄弟……そのデータがあらかた納まっていた。愛寡などの髪や体組織から分析した結果だ。流石に何処にいるのかまでは分からないが、接触方法ならピックアップできるかもしれない。
しかし、電波として飛び交っているネット網に侵入するためには虹の許可が要る。
だから、回りくどい言い方をしたのだ。
今まで一度も見たことがない、彼女のホッとしたような顔……笑顔。それを見ることが出来るかもしれない、と少しばかりワクワクしてカメラアイのピントを修正する。
しかし次の瞬間、ガゼルの存在しない心臓が液体窒素をぶちまけられたかのように凍りついた。
虹は、笑っていなかった。
それどころか、握りつぶさんばかりにガゼルを掴み、ギリギリと力を込め始める。彼女の目はほんのりと血管が浮き、髪が逆立つのではないかと思うくらい、周囲の空気が緊迫した。

「はは……」

「……」

言葉を失ったガゼルの目前で、主の嬌声が裏返った。

「きゃはっ……きゃは……」

肩を震わせ、それは確かに笑いだった。
笑い……のはずだった。
しかし何だろう。
これは……これは一体、何だろう。
記憶の中にある少女のはにかんだような、温かい笑顔とは違う。
そう、圧倒的な禍々しさ。
思いやりの気持ちも、慈愛の心も、それさえも欠片も失くした、そんな悲しい乾いた笑い声だった。

「……あなた……」

「……」

ひとしきり楽しそうに笑みを堪えた後、彼女は眼下のパートナーを見下ろした。

「…………使えるわね…………」

「……え?」

思わず聞き返す。
366 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:01:15.58 ID:OR7xgSx70
「そうねぇ……そうしましょう」

「……」

「残ったHi8、全部探しなさい」

「え? いいのですか?」

「殺しに行けばいいんだわ」

「……」

突然彼女が発した言葉の意味を理解することが出来ずに、少しの間きょとんとする。

「…………何ですって?」

「うふ……ふふ……そうよそう……あいつらまだ生きてるんだから……じゃあ、殺せばいいじゃない……そういいたいんでしょ? 多分あの子、そう言いたいんだよ」

人が変わったように、虹の目は見開かれていた。そこにどこか尋常ならざる……狂気、そのようなものを感じ、ガゼルは出しかけていた言葉を飲み込んだ。
初めて、主が見せたはっきりとした反応だった。
会話が成立した瞬間だった。

――しかし何だろう。

この、心に湧き上がる不安は、一体何だというのだろう。

「殺すとは、どのようなことですか?」

暫く待って、問いかけてみる。虹は子供のように目を輝かせながら、足下のパートナーに言った。

「決まってるじゃない。あの汚らわしい溝鼠共をこの手でミンチにするのよ。あの汚らしい裏切り者共の口にそれを突っ込んでやるのよ。あは……想像しただけでゾクゾクする。ねぇ、素晴らしい計画だと思わない?」

「え……いえ、それは……」

「文句あるの? 機械の分際で!」

突然声を上げて、虹はガゼルに自分の手を叩きつけた。握り拳の皮が擦れ、血があふれ出す。それにピノマシンを放流して修復しつつ、ガゼルはまた言った。

「申し訳ありませんが、状況の認識が出来ません。あなたの記憶素子への接続を要請します」

「……いいよ。ほら」

驚いたことに、虹は自分からガゼルの脇にあった通信ケーブルを引き出し、そして注射器型になっている先を首筋に突き刺した。
367 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:02:50.68 ID:OR7xgSx70
秒数にして約三秒。
ケーブルが引き抜かれるまでの時間は僅かなものだったが、ガゼルがその間に受けた衝撃は相当なものがあった。
その記憶は、彼が今まで構築していた全てを根底から覆すに値して余りあるものだった。
暫くまとめることが出来ずに沈黙する。
そして、たっぷり三十分ほど立った頃。
彼は、掠れた声で鼻歌のような音を口ずさんでいる虹に向かって言葉を発した。

「……申し訳ありません」

「……」

「事情を把握しました。第一優先事項の適用により、これより当機は、あなたが為す行動に最大限にして最上のサポートを行わせていただきます」

「……」

反応がない。

「前述を基盤にして、当面の行動目標を設定ください」

「……」

そこで、虹は掠れた声で。
しかしはっきりと言葉を発した。

「うん、そうだね……その通りだよ。分かった。みんな殺そう」

「……」

「魔法使いと、人間」

「……」

「まず、魔法使い。それから人間。順当だよね?」

「人間に関しては、同意しかねます」

「あなたの意見は聞いてないわ。あの子がそう言うんだもの。そうなの」

ガゼルの言葉を打ち消し、虹はその場に立ち上がった。

「じゃあ……まずは手始めに。ここの人間達をソースにしようか?」

「……は?」

反射的に素っ頓狂な声を上げてしまう。
関係ないじゃないか。
話の関連性が見えてこない。
彼女が、彼女を凄惨な目に合わせた対象に復讐をするのだったら納得がいく。
しかし、ここの人たちは、他ならぬ自分達を救助してくれた人間達だ。
殺す理由がない。

「賛同しかねます」
368 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:04:09.63 ID:OR7xgSx70
「どうして?」

「理由がありません」

正直にそう告げると、しかし虹は忌々しそうに鼻を鳴らしてみせた。

「必要なの?」

「はい」

「うるさいよ。あんたは早く、屑鼠の居場所を突き止めなさい」

「しばしの考慮を提案します」

「うるさいね……」

初めて彼女が見せた積極的な会話を、否定で遮るなんて真似はしたくなかった。
しかし、これだけは分かる。
見せられた現実があまりにも……凄惨すぎたということもあるのだが。
それに安易に理解を示してしまったことの、彼女への影響が大きすぎた事に気づいた時は、後の祭りだった。
この子は、おかしい。
いや……あれだけの仕打ちをされて、おかしくならない方が変だ。
つまり。
自分がこれから、自分だけは……正気でいなければいけないのだ。
この子を守らなければいけないのだ。

「ここの人間達は、当面の移動、食料、居住確保に必要です。次のドームに到着するまでは利用すべきと考えます」

「奪えばいいじゃない。このトレーラー」

「それは……」

何とか、自分に最大限出来うる理屈を理解してもらおうと考える。
虹はそれでも、歩き出して外に出ようとしていた。

「お待ちください」

「……」

「マスター」

「……」

トレーラーの扉に、手がかかる。

「泉より、メッセージがあります」

そこで、ガゼルは反射的に。
彼女の凶行を止めるために、言ってはいけないことを言ってしまったのだった。
369 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:05:21.31 ID:OR7xgSx70
30 このメッセージを

 嘘ではなかった。
ガゼルの中には、泉が完成直前に組み込んだ音声情報が、確かに入っていた。
しかしその内容を、ガゼルは知らなかった。
自分が起動したということは、そもそも泉が死亡しているという事実が当てはまる。
そのような状況ならば、本来虹には彼のメッセージは伝えなければならない。
だが許可を得るために聞いても応答がなかったということ、それに不安定な彼女に聴かせることで、更に悪化を招くのではないかと言いう懸念があったのだ。
ガゼルの声を聴いて、虹は扉にかけていた手を止めた。

「せん……?」

怪訝そうに聞き返してくる。

「お聞きになりますか?」

問いかける。
この際仕方がない。
極寒の中、何処とも分からない場所に放り出されるよりは遥かにマシだ。
そのメッセージは、フィルレイン――虹にしか聴かせないようにというセーフティがかかっている。一思考生命体としてカウントされる自分も同様だ。
手を止め、主が数歩後ずさって壁に寄りかかる。
そこでガゼルは、自分の内部メモリーに残っていた音声情報をコピーし、小さな記録素子に書き出した。そして、排気孔からピノマシンを流し出し、プログラムにあるものと同じヘッドフォンを形成する。そこに情報を書き込む。
床に転がった、ピノマシン性のヘッドフォン。
虹はそれをぼんやりと見ると、手にとって頭に被せた。
横にあるボタンを指でスライドさせる。
暫くして、軽いノイズの音がした。
使い慣れていないのか、何度か機械を操作するカチカチという音が続く。
それから更にたっぷり二分は経った頃。
唐突に、咳払いの後。
夫の声が、聴こえた。

『あー……あー……録れてんのかこれ? どうも機械ってのは良く分からん。録れてるのかね? あぁもう録れてるんだろう。面倒くさいから話を始める』

「……」

虹は、口をポカンと開けていた。
しばらくして彼女は口を押さえ、目を見開き。そして息を呑んだ。
370 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:06:02.08 ID:OR7xgSx70
『俺だ、泉だ。万が一のために、このメッセージをお前に残しておく。フィルレイン』

「……」

『これを聴いてるって事は、俺は死んだのか? まぁ……そんなアホなことは起きないとは思うが、懸念してるのは俺と、お前が離れ離れになるということだ。だから、その時のためにお前には、これからどうすればいいのか……っていうか、これの使い方を教えておく』

「せ……」

少女は、呆然としながらか細い声で呟いた。

「泉…………?」

『俺はいつでも最悪の場合を想定して行動してる。だから、まず最初に謝っておこう。すまなかったな、フィルレイン。まーほぼ空想だが、多分、お前が一人でこれを見つけるまでの間に、結構心細い事があったと思うわけだ。何だかは知らんがな。だから一応まず謝っておく。すまん。あと頑張ったな。褒めてやる』

「生きてるの……?」

「……え?」

呟かれた言葉。
ガゼルは、その危険性を知らず、ただ問い返すことしか出来なかった。

『……何だかバカみてーだな。性分でな。予防線張らなきゃ気が済まねぇんだよ。特にお前は、俺がいなきゃ何も出来んだろう。そこが心配でたまらない』

「……」

『もう気づいているかもしれんが、俺は長くない。ひょっとしたらお前より先に死ぬかもしれない。だから、その前に人間の技術者を使って、この……えーと……なんとかモジュールっていうものを用意した』

「……」

『これには、俺の魔法がかかってる。特製だ。俺がいない時でも、いつでもお前の力になってくれるはずだ。ま、玩具みてぇなもんなんだが、詳しいことは俺も良く知らん。作った技術者は、コレを言うとお前に怒られるかもしれんが全員、殺した。だから、それの存在を知ってるのは、世界で俺と……あと、まぁそういう状況が起こらないことを願うが……お前だけだ』

ずるずる、とフィルレインは膝から力を抜き、そして床にペタリと尻餅をついた。
371 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:12:32.77 ID:OR7xgSx70
『詳しいことは、ぶっちゃけてしまうが、俺も知らん。とにかく凄いらしい。赤ん坊のようなもので、絶対に壊れない。お前が望むとおりに、成長して人格を持っていく』

「……」

『本当はなぁ、お前、子供欲しがってたろ』

「……」

『だから、そういうアンドロイドを作ろうとしたんだが、愛寡達に怒られてな。何でかは知らん。もったいねぇから、ここに置いておくってわけだ』

そこで、カン、カン……という音がヘッドフォンの向こうから響いてきた。そして微かに、フィルレイン……そのか細い声が流れてくる。

『…………泉、そこにいるの?』

『あぁ今戻る』

急いで机の上を片付ける音。
そして彼は、早口で続けた。

『まぁそういうわけだ。必要なことは全部それに入ってるから、聞けばいい。とりあえず予防線はこれくらいにしておくか。バカみてぇだから、そろそろ終わるぞ?』

「え……?」

一心不乱に聞き入っていた虹が、すがるようにヘッドフォンに聞き返す。

『何が言いたいかというと……まぁ、あれだ。もしもお前が一人でこれを解除した場合。そして、もしもお前が危ない状況なら。迷わずこれを使って』

「……」

『逃げろ』

通信の向こうの声は、驚くほど頑なだった。

『逃げて、どこかに隠れるんだ』

「……」

『俺が、必ずお前を助けに行ってやる。死んでも助けてやる。だから、ヤケになるな。まぁ……そんな状況は起こらんだろうがな』

「うん……」

『フィルは上にいるのに、何言ってんだろう俺……』

「ここにいるよ……」

『泉、入るよー』

自分の声が、通信記録から聴こえる。
372 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:13:25.02 ID:OR7xgSx70
『ちょっと待ってろ!』

泉はそれに対して声をあげ、そして言った。

『まぁ、一応言っとくか。ええと……その……フィル……愛してる』

「うん……」

『俺は、お前のことを愛してる」

「うん……」

『もしもの場合は、絶対に助けに行ってやるから。死んでも行くから、お前は静かに待ってろ』

「うん……」

『だが、そしてもし、俺が待っても待っても助けに来なかったら……』

「うん……」

『その時は、俺を忘れて幸せになれ』

「……」

『それじゃ』

プツン、と音がして再生が終了した。

「…………」

虹は、暫くの間呆然として虚空を見つめていた。そして少ししてヘッドホンのボタンを操作し、一定範囲の音声を削除し始める。
数分も経たずに、泉が残した音声は、たった十秒ほどに短縮されていた。
しかもリピートがかかり、延々とその場所だけを繰り返す形になっている。
音量を最大に上げ、虹はヘッドフォンごと耳を手で覆った。

『愛してる』

「……うん……」

『俺は、お前のことを愛してる』

「…………うん…………」

『愛してる』

「うん…………」

『俺は、お前のことを愛してる』

「…………うん…………」

蚊の泣くような声で、何度も、何度も同じセリフに対して頷く。彼女はボロボロと涙を流していた。端正な顔をぐしゃぐしゃにし、溢れ出る涙を拭おうともせずに泣きじゃくっていた。
声をかけることも出来ず、床に放り出されたガゼルが沈黙する。
373 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:14:22.29 ID:OR7xgSx70
一応、聴く気はなかったのだがガゼルの位置からでもイヤホンから出る音は感知できた。彼女に泉が言ったことも、今彼女がやっている不可解な行動も全て把握できている。
あまりにも痛々しかった。
声をかけることが出来ない。
しかし一つだけ分かっていることは。
このままだと、自分の主は完全に壊れてしまうという事実だけだった。
だからといってガゼルにはどうすることも出来なかった。
ただ、目の前で小さくなり震えている女の子を見ることしか出来なかった。
サポートと言ったって、この最悪の状況をどうすればいいのか。
それは、彼にとってあまりにも荷が重過ぎる問題だった。
そのまま、何時間経っただろうか。
コツ、コツ、と扉を叩く音がして、トレーラーの戸が開いた。

「いやぁ、凄い吹雪だ。戻ってくるのに時間がかかっちゃったよ」

キャラバンの若夫婦。その夫が顔を覗かせる。
ガゼルは、今はちょっと控えてくれるように言葉を発しかけ……そこで、横目に映った虹を見て、存在しない心臓が止まりそうになった。
ヘッドフォンを被ったまま、虹の目はほぼ飛び出し、凄まじい恐怖と言わんばかりの顔で、彼――入ってきた人間を見ていたのだ。
猿のような動きで、少女は周りのものを蹴立てて後ず去ろうとして……そこで派手に転がった。

「ど……どうした!」

突然のことに驚いたのか、男性は慌てて虹に駆け寄った。

「いや……やぁぁぁあああ!」

差し出された手を、しかし虹は力の限り振り解いた。そして腰が抜けているのか、床を這いずってガゼルの方に逃げようとする。

「やだ……やだ! やだ! やだぁぁ!」

彼女の体は、痙攣かと錯覚するように揺れていた。そして虹は、ガゼルを手に取るとしっかりと胸に抱き、部屋の隅に体を丸めた。

「どうしたんだ! どこか痛いのか? 薬を持ってこようか?」

心配そうな声。
ガゼルは尋常じゃない虹の様子にやっと我に返り、彼に向かって大声を発した。

「……逃げてください!」

「は……?」

「早くこの子から離れ」

最後まで言うことが出来なかった。
自分の体が機械的な動作で持ち上げられ、その短銃の銃口が男性の方を向き。
制止する間もなく、虹は引き金を引き絞っていた。
前もって生成しておいた三十二発の弾丸のうち、一発。大口径のライフルにも相当する強力な銃弾が、男性の心臓を貫通し、向こう側の吹雪の空間に抜けた。
発射の衝撃で、百三十センチ周辺しかない小さな虹の体は、後方に吹き飛んだ。凄まじい銃声と、合成火薬の炸裂する臭い。ピノマシンで保護もされてない虹は、そのままガゼルに跳ね上げられ反対側の壁に頭から衝突した。
ずるり……と力なく床に崩れ落ちる。
374 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:15:03.63 ID:OR7xgSx70
――もちろん、ガゼルは安全装置をセットしておいた。更に言うと、プロテクトをかけ、銃弾の発射機構にもセーフティーロックをかけていた。

万全だったはずだった。
いつの間にか……それが解除されていた。
虹が震えながらガゼルを手に取った、その数秒の間に。彼が設置した安全機構が神業的な速さで解除されていたのだ。
ド、と生肉を床に落としたような重低音がして、部屋の中に男性……だったもの。胸部にサッカーボールほどの巨大な穴が開いた、死体と化したそれが倒れこむ。
即死だ。

「…………」

数秒間、ガゼルは唖然としていた。
撃った時に右手の骨を痛めたのか、虹はうずくまって歯を噛み締めていた。それはそうだ。ピノマシンフィールドで体を保護してやっと撃てる威力の、装甲車だって貫通する威力の実弾だ。こんな細腕で撃ち続けたら、関節の骨が砕けてしまう。

「何てことを……」

言葉にならなかった。

――何てことをしたんだ……!

怒鳴ることも出来なかった。
その瞬間、自分達は終わったのだ。
もう動かない人間だったものから、円形に生臭い……湯気を立てている血液の水溜りが噴き出している。

――数分も経たずに。

銃声に驚いたのか、キャラバンの人が扉を開けた。
開けてしまった。
声、声……絶叫。
虹はヘッドフォンの上から耳を塞ぎ、涙と鼻水でずるずるの顔のまま、甲高い声で叫んだ。

「助けてぇぇ!」

「落ち着いてください、マスター!」

ガゼルの制止の声も、もはや届かなかった。

「助けて! 泉! 助けてぇぇ!」

そして彼女は、青く腫れ上がって来た右手を上げて。
また、ガゼルの引き金を引いた。
375 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:15:53.12 ID:OR7xgSx70


 待機モードを解除し、また思考を現実に戻す。何もすることがないと、ガゼルはこのようにシステムの休止状態になり、エネルギー効率の最適化を始めるのが常だった。
その間に、記録の最適化もするのだが……。
五年間の時を経て、自分の増大した記憶領域はかなりの量になっていた。それら記録が、時折休止モードの際はランダムに再生されることがある。

(夢っていうのかね……これ……)

心の中でため息をつく。
燐と里に協力の約束を取り付けたはいいものの、ネットを検索している里には明確な獲物はなし。更に数時間が経過し、燐はまた里に抱かれて眠ってしまっていた。

――これが普通なのだ。

これが、普通の女の子の反応なのだ。
自分の主が異常者であることは、痛すぎるほどガゼルは分かっていた。そして、それを出来ることなら癒してあげたいとさえ思っていた。

「夢です、それは」

そこで、頭から何本ものケーブルを垂らしながら里が口を開く。ガゼルは、自分にも彼女から伸びているケーブルが刺さっていることを再確認すると、わざとスピーカーから舌打ちの音を合成で流した。

「……また俺の頭の中を覗いたのか?」

「休止モードにより防壁が緩んでいましたので、再構築をして差し上げたまでです。それに対し、副産的にあなたの記録断片が入ってきました」

「詭弁だろ? 怒るぞ」

「詭弁ではありません。プロセスの説明をいたしますか?」

「……」

冷静に返され、かえって反論する気がうせていくのを感じる。それ以前に、ガゼルは何処となくこの、アンドロイド暦大先輩ともいうべき精神体の里……彼女に逆らうことが出来なかった。同族とまともに会話をするのが初めて、ということより先に、考えてみれば虹以外の他人とまともに話をしたのも初めてだ。
兄弟というものがあれば、こういう感じなんだろうか。そうしたら、自分は弟で、あいつは姉か?

……馬鹿らしい。

全然関係ないところでそうも思う。

「いいよ……」

呆れたように返すと、里は視線を燐に落とした。
376 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:17:48.73 ID:OR7xgSx70
「了解。先ほどの話に戻ります。私達アンドロイドも、夢を見る機構が存在します」

「……内容はスルーなのか?」

「夢ですから」

「…………まぁ、夢と呼べればな」

「夢です」

機械的に繰り返し、里は続けた。

「私達も一個の生命体なのですから、多少条件が異なれど、それに類する行動理念は有しているべきだと思います」

「とても原則を持ったロボットだとは思えないな」

「それは私よりあなたに適用される言葉だと思います」

「言ってくれるじゃねぇか……」

「年季が違います」

「……何かあんた、段々言葉遣いが粗雑になってないか?」

「具体的にご指定をお願いします」

「…………いや……いいよ…………」

「了解」

あしらわれている。素なのかと思っていたが、彼女の言動は明らかにガゼルの言葉の裏をかき、果てまでは気遣いのようなものを見せるくらいの展開をしている。
言うなれば、ガゼルよりも対人コミュニケーション力が高い。先ほどから会話を続けていて、その事実だけは痛いほど認識する。
多分、自分の中の言語中枢と勝手にリンクされ、人格パターンをコピーされている。
だが……。
彼は今まで。
気を使われたことなんてなかった。
言葉遣いは機械的で、言っていることもつっけんどんなのだが、彼女は確かに今……。
ガゼルの心の中で揺れ動いている不安。そして心細さを読んでいる。

(夢……ねぇ……)

そんなこと、考えたこともなかった。
一度虹似、睡眠中生命体はどのような意識をしているのかと聞いたことがある。そっけなく、どうでもいいようにはぐらかされただけだった。

――そう、考えてみれば。

ガゼルは、気を使われたことがなかった。

それどころか、今まで対話をしたこともなかったのかもしれない。
377 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:18:33.82 ID:OR7xgSx70
それは虹が悪いのではない。
発達段階にいながら、そのように誘導していくことの出来ない……いくら性能が高くても、里のように相手の心を裏読みするスキルを持たない自分の責任なのだ。
悪いのは、自分なのだ。
黙り込んだガゼルを一瞥し、里は頭からハードディスクに情報を書き込む音をさせながら、瞳孔を何度か収縮させた。そしてモーター音を立てて、首を彼の方に向ける。

「……不安ですか?」

唐突に聞かれ、ガゼルは押し黙ったまま少し考え込んだ。そして、一拍置いてからそれに返す。

「不安でないと言えば、嘘になるとは思う。でも俺はAIだから、そういった人間の感情が適用されるかどうかと問われれば、多分違うんだと思う。だからあんたの問いに対して明確な答えを返すことは出来ない」

「……」

「と、思う……」

「人は、それを不安と言うのです」

ばっさりと、一言で断ち切られた。
思わず言葉を飲み込み、カメラを彼女の方に向ける。

「だが人間の定義するところの不安とは違うだろ」

「同じです。あなたが感じているような懸念を、私も抱いています」

「……」

「折角救出したこの子を、危険にさらしてしまうことが、私には不安でなりません」

「……」

「人は、それを恐怖と呼びます」

「感情論の機械的用に関する論説なら、別の機会にやってくれ。そんな気分じゃない」

「不定の矛盾適用を認知。感情を否定する割には、自己の気分は優先されるのですね」

「……」

黙り込んで、ガゼルは心の中でため息をついた。
どうも、こいつとは話が合わない。いや……聞いていること、それ全てが、あちらの方が正論なのだ。

(怖い……)

――俺が、怖い……?

痛む胸も、鼓動する心臓もない。
しかし、怖い。
そんなはずがないのに、虹が死んでしまうという事実を思い描いた時、それは確かにガゼルの意識の端を侵食している要因ではあった。
その感情は、既にインプラントされていた、自分のベースとなっている泉のものなのかもしれない。いや……きっとそうなんだろう。
だって、自分は機械なんだから。
378 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:19:39.41 ID:OR7xgSx70
「……」

また少し考え込んで、そしてガゼルは言った。

「……どの道、更紗と虹が戦闘を始めれば、こんなドーム消滅するよ。逃げても無駄だ」

「理由の入力を」

「面倒なので、そうだとしか言えない。一度更紗とは別のドームで戦闘をしたことがあるんだ。その時は、戦闘開始から僅か二分で、ジャクト級のドーム一つが、奴の侵食領域に飲み込まれた。半径三十キロ四方だ。虹も俺も、半死になった。奴はそれで俺達が死んだと思ってその場を引き上げたんだ」

「事実確認を要請します」

「断る。他人にはあの時の記録、見せられるようなものじゃない」

それは本当のことだった。
事実を言うと、ガゼルはこれ以上里に頭の中を掻き回されたくはなかった。
それに……あの時の虹は、本当に錯乱していて……。

「確認、終了しました。あなたの言動に対する確証を得ることが出来ました。協力、感謝いたします」

「今断っただろ!」

こともなげに、いつの間にその時の記録を抜き出したのか……里がさらりと重要なことを言う。
駄目だ……この女とケーブルを繋いでいる限り、隠し事は出来ないらしい。引っこ抜いてやりたいが、検索エンジンの出力に自分を介しているために、それをすることができないのが恨めしい。

「……」

カリカリと音を立てながら里が黙り込む。

「無視かよ……? 最悪だなあんた」

「感知しました。対象通信、呼称更紗と確定。今より一分三十秒前の記録です」

しかし返された言葉は、予想だにしていなかったものだった。

「通信?」

体があったら身を乗り出していたのだろう。思わず素っ頓狂に声を上げる。

「更紗が、自分から?」

「はい。通信内容は、ハザマと呼ばれる対象に対するものです。ご確認いたしますか?」

「もちろんだ。早く転送してくれ!」

「了解」

里の声と同時に、頭の中に更紗の声……と思われる通信内容が飛び込んでくる。それを確認し、ガゼルは心の中で腹の底まで青くなった。
379 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:20:34.63 ID:OR7xgSx70
「何だ……? 硲か……? 何を言ってるんだこいつ……?」

「ハザマの通信先の特定、不能。会話内容から推測するに、あなた方は何らかの方法で、このハザマという魔法使いに監視を受けているようです」

「そんな馬鹿な……一体どうやって?」

「該当する予測仮定事項は五百二十件あります。ご確認いたしますか?」

「そんな暇はない。それより、今は更紗だ。虹が殺されたり……奴が魔法を使用したらそれこそ一巻の終わりなんだ。早く俺を虹のところに連れて行ってくれ」

「了解。位置特定完了。ダミー、およびデコイプログラム確認できません。九十七パーセントの確立で合致。北区のD二十一、GのH三十より発信されています。この位置には、二十二年前に閉鎖された地下刑務所が存在します」

「……そこか」

声を上げる。それに驚いたのか、燐が目を擦りながら体を起こした。

「……寝てしまったのですか……?」

「燐、早く起きろ。俺を虹のところに持って行け」

「天使さんがみつかったんですの?」

「そうだよ早く」

がなり立てるガゼルに、しかし里は冷静に手を上げて、口を開いた。

「お待ちください」

「何だよ! ことは一刻を……」

「冷静になってください。対象区画より強力なBMZ粒子の展開を確認しました」

――魔法。

その事実に気がつき、心の底が凍りつく。
虹と更紗が戦闘を開始したのだ。どうやったのかは分からないが、虹が拘束を抜け出したらしい。
しかし……。
ガゼルがいない状態の彼女は、体を守ってくれるものも、補助してくれるものもなにもない。いわば、限定的な魔法を使える人間と大して変わらない。
それも、ピノマシンフィールドを展開していないと、体の強度は並の人間以下……それこそ、年相応の女の子のものとほぼ相違ない。
沸騰しそうな頭の中で、何とか情報をまとめようとする。
自分達にも切り札があった。
そうでなければ、大魔法使いなどと単身で戦闘を行うような馬鹿な真似は絶対にしない。
しかし……その切り札。彼らがレ・ダードと呼んでいる装置を使用するには、虹が取り込んだ魔法使いの核が必要だった。
つまり、アクセス、及び起動に膨大なエネルギーが必要になるのだ。
380 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:21:24.18 ID:OR7xgSx70
本当は右天のエンドゥラハンとの戦闘時、それにより一瞬で勝負を決める予定だった。虹が錯乱して勝手に取り込んだ左天の核を使用してしまい、あのような状況になったのだ。
虹の魔法は、かなり限定的状況を要求されるものだった。
彼女は、魔法使いの近くにいるだけで魔力を吸収することが出来る。しかしそれは無意識、かつ微量なものだ。それだけでは何の決定打にもならないし、そもそもHi8クラスとなると、蚊に刺されたほどの効果しかない。
問題は、核を虹の体内に吸収した場合。この際、彼女はそのエネルギーを生命力に転換するか、それとも一度だけその魔法を使用することが出来る。
しかし、永久にではない。
殆どの場合、体内に取り込まれたレプリカン……複製魔法使いの核は、何故か最大でも三日ほどで溶けて効力がなくなってしまう。
それに応じて含有エネルギーも消えていく。
右天を倒し、核を得てから、既にほぼ丸一日経っていた。
そのエネルギー総量では、壊れた機械を復元するという右天の魔法を使うことはできても、レ・ダードを起動するほどのエネルギーは生み出せない。
正確に言うと生み出せはするのだが……計算上、Hi8、特にその中でも最大の魔力を持つといわれる更紗の展開している魔法領域を貫通できるほどの出力が出ないのだ。
つまり。
今、駆けつけてもガゼルと虹には、更紗に対抗するだけの戦力がない。
里の言うように、冷静になって少し考えてみれば……これはいわゆる手詰まりという状況に他ならなかった。

――しかし――

そんな状況でも駆けつけなければ、虹が死んでしまう。
それだけは駄目だ。
冷たく、そっけなく……。
そして、おかしい子だけど。
それでも、自分にとっては大切な人なんだ。

一番大事な存在なんだ。

協力関係を結んだ際、里には自分達のいま持ちうる攻撃手段や戦略のデータを、必要なだけ送信してあった。つまり、ガゼルと同じ状況で作戦を立てることが可能になる。
顎に手を当てて少し黙り込み、そして里は何度か眼球をくるくると回した。
381 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:22:17.05 ID:OR7xgSx70
「駄目です。対象区画の監視カメラをハックして視覚情報にて確認しようといたしましたが、次々に区画のラインが切断されていきます。凄まじい魔法の展開速度です。津波のようにこちらに広がってきています」

「つなみ……?」

分からない語句を聞き返す。しかし里はそれには答えずに、またカリカリという音を立てながら眼球を回転させた。

「まさか……更紗が、あの時みたいに……」

燐は口元に手を当て、息を呑んだ。その体が段々と震え出す。

「お嬢様の推測を否定します。かつて更紗様が使用された魔法とは別のものです」

「……レベル2か……」

最悪だ。
ここも、二年前のドームと同じようになる。
一度魔力のストッパーを外した更紗は、自分自身の怒りが冷めるまで魔法の奔出を止めない。

――考えうる最悪の状況だった。

ただのレベル1魔法戦闘なら、今すぐ向かっても何とかなる可能性があった。
しかし、大魔法はどうしようもない。
本当に、どうしようもないのだ。
だから大魔法と呼ばれている。
更紗は、崩壊魔法。
……そのエリアに入っただけで簡単にいうと『更紗の妄想』が現実となり襲い掛かってくる魔法。
つまり、空間認識そのものの変換。
このままでは、助けに入った途端、自分達も侵食されてお仕舞いだ。
若干の救いは。
更紗がそう簡単に気づくとは思えないが……相手の魔力を吸うことが出来る虹には、その魔法に対しての耐性が出来るということだった。そう簡単に侵食されるとは思えない。
加えて、虹の精神は半ば分裂してしまっている。更紗は認識を変換する魔法を使う。つまり、二種の精神を持つ虹の片方の精神を侵食しても、もう一人分空きがあるのだ。
しかし……それでも後何分生きていられるのか分かったものではない。

(どうすればいい……)

頭の中が真っ白になった。
そう、ガゼルはその時、確かに。
恐ろしかった。
虹を失うこと。
どうしようもない、強力すぎる敵……格が違いすぎる大魔法使いのことが、ただひたすらに恐ろしかった。
そもそも、勝てるわけがなかったのかもしれない。日々の異常な世界で、感覚が麻痺していたのかもしれない。
本当は、自分が虹をサポートして……泉の言うとおりに、どこかで幸せに暮らせるようにするべきだったのかもしれない。

――俺のせいだ。
――そうだ、全部。
――俺のせいなのだ。

(俺には……泉のようには出来ない……)

ここで虹が死ぬのを待って、そして更紗が魔法で自分達を飲み込むのを待つしかないのだろうか。
それが、役立たずの自分の贖罪なのだろうか。
382 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:23:06.56 ID:OR7xgSx70
ありとあらゆるシュミレートを脳内で行おうとするが、考えがまとまらない。
虹が死んでしまう。
殺されてしまう。
自分のせいで。
目があれば泣いていただろう。
どうすることもできない。
レベル2発動という、どうしても避けなければいけない最悪の事態に陥ってしまった。
つまり、もうお仕舞いなのだ。

「……狙撃ですね」

しかし、そんなガゼルの混濁した考えを、さらりと流したのは。
目の前の旧式アンドロイドの一言だった。

「…………え?」

呆けたような声で聞き返す。
里は熱ヒートを起こすのではないかというくらいの音で脳内モーターを回転させながら、続けた。

「遠距離からの狙撃……つまり、あなたがレ・ダードと呼ぶ衛星軌道上高射程カルナシン干渉砲による、ピンポイント射撃を行う他ないと思われます」

「で……でも、レ・ダードの起動エネルギーが足りないし、流石にアレは虹の声か通信による認証がないとアクセスも出来ない」

「しかし、射撃準備をすることはできます」

「……何だって?」

「アクセスエネルギーさえあなたの内部に充填すれば、衛星軌道上高射程カルナシン干渉砲にアクセスする直前までの準備を行うことが可能になります」

「……」

「そして、対象、虹様まで何らかの手段で通信を行い、射角調整後、射撃。対象の撃滅を提案いたします」

冷静な声だった。
ガゼルの方を向き、里は人工皮膚を笑みの形に曲げてみせた。

「時間がありません。早速行動に移りましょう」

「待て。何を言ってるんだ? レベル2区画には俺達は近づけない。それに、それ以前に魔法使いの核がもう……」

「なければ調達すればよいのです」

顔の前で、里はくるくると人差し指を回した。

「調達……?」

「通信記録周辺の分析中に、更紗様のお隠れになっている施設より、病院……医療施設のデータを発見いたしました。先にそちらの画像を送信します」

里から強制的に、そのデータが送り込まれる。
それは、患者……それも植物状態にあると思われる、十七歳の女の子のカルテデータだった。投薬や電流、果ては治療用極小機械の投入まで為されているが、意識の回復はない。
383 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:24:00.83 ID:OR7xgSx70
そして――。

そこに映っていた写真。
ベッドの上に横たわっている女の子。
それは他ならない、虹とガゼルを罠に嵌めた更紗のレプリカン……灰の魔法使い、音羅の姿だった。
体にはおびただしい数の医療器具が接続されている。
間違いない。
これは、音羅……いや、ユージン・クーエルという名のごく普通の少女。そのカルテだ。
植物状態に陥ってから、既に七年経っているらしい。

――七年?

おかしい。そんなわけは……。
そこまで考えて初めて、ガゼルは里の言っている内容を理解した。同じ知識量で同期して考えていたといえ、彼女とガゼルの応用力にはクレバスといっても差し支えないくらいの巨大な隔たりがあった。
そう、それは経験という単純なものだった。

「カルテによると、大脳機能のほぼ全てが停止しているようです。つまり、この娘は法的に既に……ほぼ、死んでいるといっても差し支えがありません」

淡々と里は言い、そしてケーブルを垂らしたまま立ち上がった。

「いつの間にこんなものを……」

思わず口走る。また微笑んで、里は続けた。

「あなたが、焦燥している間にです」

「……」

「感謝いたします。この短時間の間に、あなたのシステムとの同期で、私の言語機能は飛躍的な進歩を遂げました。あなたと、遜色ない会話を為すことが可能だと思われます」

「……つまり……この子は……」

礼など聞いていなかった。
絶望的だと思った。
もう、どうしようもないと思った。
自分ひとりだったらまず間違いなく、ここで終わりだっただろう。
か細いが。
それは希望だった。

「はい、おそらく音羅という魔法使いは意識を持たない魔法使いです。つまり魔法力のみのレプリカン――と、言えます。おそらく、今まで私達の前に現れてた灰の魔法は、更紗様が操っていたのでしょう。自分の従者の意識がないことを使い、彼女の中に進入して」

推論だった。
しかし、それを聞いた途端燐は青くなって後ずさった。

「にぃたちは……」

「……」

「今までずっと、更紗と一緒にいたわけですか……?」

「確認をするまでは結論を出すことができません」

そう言い、里はガゼルの方に、そっと手を差し出した。
384 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:24:39.07 ID:OR7xgSx70
「そもそも、大魔法使いが従者の意識に侵入できるか否かは、論議すべき点ではありません。何故なら、真偽の確認が不能だからです。事例がありません。検討は後にしましょう。その少女がいる病院の場所を確認してください」
言われて初めて、ガゼルは慌ててデータに目を通した。

――北区。

それは、現在魔法侵食が広がっている区画から数キロしか離れていない場所だった。

「お嬢様……本当に良いのですね?」

「……」

聞かれ、蒼くなっていた燐は息を呑み……そして、こくりと頷いた。

「お嬢様の協力により、更紗様を殺害する。きちんと行動をすれば、遜色なくことを運ぶことが可能です。最大限の危険を纏いますが、最低ラインでの作戦実行のGOサインを発することが可能です」

「あんた……」

ガゼルは、ノイズを含んだ声を発した。

「虹を……助けて、くれるのか?」

里はウィィ……と首をガゼルの方に向け、そして縦に振った。

「もとよりそのつもりです」

「……」

「姉は、弟が泣いているのを決して見過ごしたりはしないものです」

その言葉は力強く。
ガゼルが、生まれて初めて信用できると、そう思わせる響きを孕んでいた。
385 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/06(月) 20:26:32.83 ID:OR7xgSx70
お疲れ様です。第31話に続かせていただきます。

詳しいご案内は、>>358に記載させていただいています。
ご一読いただければ幸いです。

お気軽にコンタクトをくださいー(´ω`)b

それでは、近日中に続きをUPさせていただきます。
今回は失礼しますm(_ _)m
386 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/02/07(火) 11:31:51.12 ID:UwrrnUpPo
乙だぜ
387 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:12:53.94 ID:Q6+4diJj0
こんばんは。時間が空きましたので、第一章のラストまで投稿させていただこうと思います。

第二章からは別スレでやらせていただこうと思います。

それでは、最後までお付き合いいただければ幸いですm(_ _)m

>>386
ありがとうございますー。
無理せずお読みいただければ嬉しいです(*´ω`*)
388 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:17:53.37 ID:Q6+4diJj0
31 君に、届け

 体内のピノマシン総量が圧倒的に減少してしまったが、そんなことを気にしていられる余裕はなかった。燐の指示、そして里の考案した通りにピノマシンを噴出、そして構築し、自分の核の周りに少し形を変えた巨大なエアバイクを形成する。
融合生成に、使用している総量が追いつかない。ほぼ空になってしまったが、ガゼルは後部座席に里、そして燐を乗せたまま、凄まじい速度で地下水道を走っていた。
十分……いや、五分。それ以上かけることは出来ない。
今のガゼルは、乗っている燐と里を覆うように、透明なエアガードを形成していた。まるで一つの弾丸のように、車サイズのバイクがひらひらと狭い地下水道を舞っていく。
出発する直前に、里の脳内機能に無線での簡易ネット接続素子を形成しておいた。それで、彼女は無線通信を拾い、状況を取得できるようになったらしい。
精神体は恐ろしい。何より、その適応性が凄まじい。少しの間ガゼルと同期しただけなのに、彼の持つ知識や機能、その応用性までを全てマスターしてしまっただけではなく、更に新しいことへの適応までを為してしまったのだ。
これはもはや機械ではない。
別の生き物だ。
幸いなことに、ガゼルたちがいた電波塔からは、現在使用されている巨大な水道のラインが、放物線を描くように北区に通じていた。眼下を流れている汚水を跳ね上げながら、ガゼルは里が通信ケーブルを介して送り込んでくれるマップの通りに駆け抜けていた。
移動にかかった時間は、七分。二分オーバーだ。
彼らが警報が鳴り響く北区のマンホールを吹き飛ばして道路に躍り出たのと、里が、虹のものと思われる微弱な魔法が、更紗の展開領域の中で発生したと告げたのはほぼ同時だった。
直接戦闘に陥ったのだ。
考えている余裕はない。
ガゼルは警報に慌てふためいて逃げ惑っている人間達を轢き殺さんばかりの速度で、道路を突っ走り始めた。

「ちょっと、落ち着いてくださいまし!」

燐が悲鳴を上げて小さな手でハンドルを切る。すんでのところで曲がり角で男性を轢きかけるが、彼女の操作でことなきをえる。

「里、どこだ、その病院」

叫ぶように言うと、里は静かにそれに返した。

「自分で確認できるでしょう?」

「ふざけてる場合か」

「この区画を抜けてすぐの総合病院です。そこのBエリア、詳細位置までは分からないです」

「どれだよ!」

完璧に我を失っていた。
バイクの側面に埋め込まれたカメラアイをフル稼働させるが、分からない。
389 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:18:32.77 ID:Q6+4diJj0
北区は比較的に民家が多い場所だ。ビルや店の間に、古ぼけたアパート等が乱立している。ドーム天井には所々、火災などの災害を意味する赤い警戒灯が回転し、先ほどから耳障りな警音が思考能力を削いでいく。
人々は、設定された地下シェルターに逃げ込んでいた。
ドームは閉鎖空間のため、地上で何かが起こってしまえば逃げ場がなくなってしまう可能性が非常に高い。だから、それぞれの区画には何百メートルか置きに、百人前後を収容できる地下シェルターが常備されているのが、どのドームでも普通だ。
赤ん坊を抱えて走り出てくる母親。泣いている子供。よたよたと走る老人。

――邪魔だ

――こいつらみんな、邪魔だ

怒鳴り声を上げたくなる。ガゼルは地上を走るのを止め、ブースターを展開して空中に飛び上がった。
急な機体構成……つまり、ちゃんとした基盤となる機械を組み込んでいない、ガゼルの想像だけで構成したエアバイクなため、動作が安定しない。各所でエラーが起こりすぎていて、出力が上がらない。
本来はそのような状況……最悪空中分解やジャム、つまり誤作動を避けるために、核となる中枢のシステムを取り込まなければならない。しかし、エアバイクをもう一台探してくる時間は到底なかった。
警報が鳴り響く中、空中に飛び上がっているエアバイクを気にする人間は、驚いたことに殆どいなかった。皆が皆、血走った目で我先にとシェルターに避難していく。
燐の行動を待たずにエンジンを最大にふかし、ガゼルは前方に吹き飛んだ。各部のフレームがガタガタと音を立てている。
分解してしまうのは、時間の問題だった。

『大丈夫です。あと三十五秒もちます』

里のナビゲート。それは、ガゼルがエアバイクで稼動できる時間を告げるものだった。彼女は彼より先に、冷静に行動を予測していたのだ。そして精神体の意識がガゼルの中枢にするりともぐりこみ、彼のカメラアイの一部を軽く動かす。
上空からだったが、その先には目的の総合病院があった。かなり巨大だ。分散した建物、全体で一キロはあるだろうか。そのうちの一つの病棟に、里はカメラを定めた。

『あそこですね』

脳内通信で断言される。

『どうして?』
390 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:20:43.85 ID:Q6+4diJj0
『普通精神病棟、及び重症患者の病棟は外れに作られます。対象側に位置する施設が、説明は省きますが精神病棟です。そしてもう片方が、脳外科に位置する病棟だと推測できます。考察の結果、消去法により目的の病棟は七十八パーセントの確立であそこだと推測することが出来ました』

『あとの十二パーセントは』

『間違っている確立です』

ガゼルは、答えを聞かなかった。すぐさまブースターを展開して、その棟へと急降下する。あまりにもな乱暴な運転に、体が浮き上がりかけた燐のことを里は支え、そしてその小さな体をしっかりと自分の中に抱きかかえた。

「お嬢様、里の服の袖を噛んで下さい」

「え? な、何が……」

燐が目の前に迫ってきた病棟の壁……それを目にして絶叫する。ハンドルから手が離れるが、里が手を伸ばして片手でそれを支えた。
次の瞬間、ガゼルは機首から合成コンクリートの病棟……その天井を突き破って、階下へと落下した。
里と燐を守っていた強化素材は硬かったため、僅かにひびが入っただけで済んだ。実に一階分貫通し、そして数十メートルも廊下を滑り、対象側の壁に横からぶつかってやっとガゼルは停止した。
エアバイクの中では、簡易的に設定しておいたエアバックに、里と燐がうずもれていた。
黙々と砕けた壁や天井の破片、そして削れた廊下の断片が吹き荒れている。その中で里はモーター音と共に立ち上がり、目を回している燐のことを床に立たせた。

「お嬢様、お怪我はありませんか?」

「ど……どうしてにぃは生きているのですか……?」

震えながら燐は呟き、そして里にしがみついた。
骨を折ったりはしていないらしい。しかし、落下の衝撃で腕を痛めたのか、右手で左上腕を押さえている。
里は、崩れたガレキと白煙の中から、バラバラに分解されたエアバイクだったもの……その破片から、おびただしい数のコードを垂らしたガゼルの核を掴み出した。

「潜入は成功したのか?」

核には、一つのスピーカー、そしてマイクが取り付けられていた。カメラを回転させながら声を発するガゼルに、燐が歯を鳴らしながら甲高い声を上げた。
391 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:21:59.50 ID:Q6+4diJj0
「成功も何もありませんわ! 何をするんですの、殺す気ですの!」

「里、ここでいいのか?」

完全に無視してアンドロイドに聞く。彼女はモーター音と共に首を回転させ、そして燐のことをもう片方の手で抱きかかえ、走り出した。

「分かりません。あなたも探ってみてください」

「人の気配がないから言ってるんだ! この病棟には、生きてる人間、動体、熱源反応がない。誰もいないぞ!」

「……」

「まさかあんた間違えたんじゃないだろうな……」

「……」

無言で、里は自分達が砕いた階の廊下を駆け抜けた。
そこは、コの字型になっているらしい構造だった。それぞれ中央に向けてやたら新しい感じの白い病室がある。しかし、所々開けて確認をしてみるものの、誰も……人間がいるという気配。それどころか使用されているという痕跡さえなかった。ガランと白い壁、白い床が広がっている。
そして白い廊下……窓ガラスだけが妙に大きく、ドーム天井の警報灯を反射している。
ここは、五階らしい。
一階ずつ里は、燐とガゼルを抱えながら降りていった。
しかし、ガゼルのセンサーにも、反応するものは何もなかった。
――つまりここは、使用されていない棟だったのだ。
十二パーセントの確立に引っかかってしまったのか?
こんな時に。
愕然として、ガゼルは頭の中が真っ白になるのを感じた。
いつしか三人は、無人の一階フロアに降りてきていた。里が燐を降ろし、人がいないカウンターの方を見ている。
ガゼルは彼女の肩の上で、押し殺した声で叫んだ。

「……何で止まる! 早くしろ、早く別の病棟に……」

「落ち着いてください」

「落ち着いていられるか!」

「この施設には電気のラインが通っています。一階だけ天井の蛍光灯がついています。不自然だとは思いませんか?」
392 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:23:39.50 ID:Q6+4diJj0
聞かれて、ガゼルはそこで初めて天井を見上げた。
……確かに、五階から二階に至るまで、電気は一切ついていなかった。しかしながらこのフロア。カウンター周辺だけは蛍光灯が白く光を発している。
里はやんわりとガゼルを諭した後、続けた。

「それにおかしな臭いがします。現在特定中です」

そこで彼女はクン、と鼻腔を膨らませて、カウンターの方に歩き出した。
それについて、燐が足を踏み出して……そして、パキ、と何かを踏みつけ、足を止めた。

「何か踏みましたわ……」

振り返った里に、燐はかがみこんで銀色の粒……パチンコ玉のようなものをつまみ上げ。そして小さな叫び声を上げて放り出した。
それが里の足元まで転がっていき、アンドロイドは腰をかがめて拾い上げた。

――蜘蛛。

それは、小指の先大の、蜘蛛だった。
しかし生き物ではない。踏まれてつぶれ、内部のコードや基盤がむき出しになった、機械の蜘蛛。白い外殻に覆われた、機械の蟲だった。

「これは……」

紅。
自分と虹を嵌めた、あの最低最悪の男。それが持っていた、バトルスパイダーというものだった。
蜘蛛にピノマシンを注入し、そして機械化させたものだ。確か、虹をおとなしくさせるために使っていた記録がある。

「紅様のものですね。同型機かもしれません。正式名称は不明ですが、機械蜘蛛です」

「どうしてここに……嫌なものを触ってしまいましたわ……」

里に寄り添って吐きそうな顔をする燐。しかし、彼女は足下を見て、また凍りついた。
動いている。
何匹か、白いリノリウムの床に、同様に白いバトルスパイダーがカサカサと動いているのだ。
393 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:25:24.54 ID:Q6+4diJj0
「さ……里……」

手を掴む少女の頭を撫で、里は大股で歩き出すと、動いている機械蜘蛛をためらいもなく踏み潰した。一匹、二匹と潰していき……そしてカウンターの方に近づく。
レジ機などが設置されているそこ。
その奥に、扉があった。
怯えながらついていく燐を背後に、里はカウンター内に数匹蠢いている機械蜘蛛に視線を走らせた。
手動式のドアノブに、三匹……糸を出して網を張っている。カウンター内には人の姿はない。しかし、設計が緩いのか、ドアが擦れて床に引っかき傷がついているのが見える。明らかに、このカウンター奥だけ……何者かに利用されていた形跡がある。

「特定しました。これはBタイプ、及びAタイプの血液の揮発した臭いですね」

ガゼルが扉の方を見ていると、里が口を開いた。
今まで火照っていた頭……思考回路が急激に冷めていく。ガゼルは頭の中に湧き上がってきた予測の断片を繋ぎ合わせ、そして彼女に向かって声を発した。

「……死んでいるのか?」

「臭いからはそこまで特定できません。輸血用のストックが漏れている可能性もありますね」

「……」

「あなたは、もう少し経験を積むべきです」

「あんたは経験積んでるのかよ?」

「私は、初期型のマリオネットロイドです。その頃の記録は摩擦損壊しておりますが、対魔法使い、及び人間部隊との戦闘、小、中、大含めておよそ、約七十二回の戦闘におきオペレーティングシステムとして使用された実績があります」

「あなた、ただのメイドじゃなかったのですか……?」

横で唖然として呟く燐に、ガゼルは呆れたような声を発した。
394 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:26:23.34 ID:Q6+4diJj0
「……ただのメイドロボがここまで精巧に喋るかよ……」

「褒め言葉と受諾します」

そう言い、無造作に里はバトルスパイダーが網を作っているドアノブに手をかけた。小さな蜘蛛たちは、手がかかったのを感知したのか、ノミのように飛び上がって里の手に噛み付こうとしてきた。
反射的に後ろに逃げ出そうとした燐の方を一瞥もせずに、機械的な動作で里が腕に取り付いた機械の蟲をプチプチと潰していく。

「お嬢様はここにいてください。安全確認の上、お呼びいたします」

「お……置いていかないでくださいまし!」

よほど蜘蛛が嫌いなのだろう。周りに何もいないことをきょろきょろしながら確認し、燐が引きつった声を上げる。里は少し考え込んだ後、静かに少女を自分の懐に呼び寄せた。
そこで彼女は、手をまたドアノブに伸ばし……キキ、という音を関節から発した。その動きが先程よりも緩やかになっているのが、目算でもはっきりと分かる。

「おい、どうした?」

「検索、及び物理行動に出力を使いすぎました。この体の稼動効率が低下しています」

「こんな時に……」

自分は動くことが出来ない。先ほどまで、訓練された兵士以上の動きをしていた里……しかし、それがどうやら無理をしていた行動だったらしいことに気がつき、僅かに青くなる。
しかしアンドロイドの少女はモーター音を立てて体を立ち直らせると、燐を後ろに庇った姿勢のまま扉を一気に開け……そして、とっさに自分の小さな主のことを抱きかかえて、部屋の中の様子から彼女を守った。
その部屋は、手前が管理室となっている二部屋……白い壁と、明るすぎる照明が目に刺さる、不気味な空間になっていた。広い。通常の病室の三倍はあるだろうか。それに対して、目前の管制室がやたらと狭い。脳波計やその他の、心電計……おびただしい数の、『脳』を検査する機械類が天井まで積み重ねられている。それらから垂れたコードは、もう一つの広い部屋……白い壁、床……そして天井。窓一つないそこに伸びていた。
先端は、部屋の中央に設置されたベッドにつながれていた。
そのベッドの上に、また白い毛布をかけられた女の子の姿が見える。頭には無骨なヘルメットを被せられ、コードは全てそれに接続されていた。
395 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:27:33.47 ID:Q6+4diJj0
動かない。
ガゼルのセンサーには、生体を示す体温は感知されなかった。既に冷たくなっている。死んでいるのだ。
そしてそれは、管制室から少女が横たわっているベッドに至るまでの道……僅か四メートル程の間に、ゴミのように転がっている白衣を着た人間達にも言えることだった。
顔からして、研究者らしい。一様に無精ひげを生やしてやつれているその不衛生な顔面は、少なくとも医者には見えない。
一……二……三。
死体は三つ。仰向けに倒れている者もいれば、うつ伏せになり倒れたマネキンのようなポーズをとって硬直している死体もある。
三人の研究者は、全員おびただしい量の血を吐き散らしていた。人体の七割は水分だと言われているが、その殆どをぶちまけたかのように、半ば凝結した血痰で床がコーティングされている。
里は急いで片手で燐を抱き上げ、そこから後ずさった。その動作の途中で少女が部屋の中の惨状を見てしまい、息を飲む。
そして里とガゼルは同時に、周囲に機械の蜘蛛がいないか……カメラを通して探った。
ガゼルも、蟲サイズの動体反応までに絞ってセンサーを広げてみるが、感知はされなかった。つまり……部屋の中にはいないことになる。
里の視線を追っていくと、倒れた研究員達の首筋に、何匹もバトルスパイダーがかじりついているのが分かった。もう動作をしていないのか、ぐったりと弛緩している。

――蜜蜂のような毒――

おそらくは、そうだ。一度それを使えば……もしくは使い切れば死んでしまうのだろう。標的の人間を、あれだけの血を吐くほどに絶命させるまでには、一匹の含有する毒では足りなかったのかもしれない。
足を踏み出すことを躊躇している里の関節が、オイル切れのような軋みを上げ始める。ガゼルはもう一度周囲を探ってから言葉を発した。

「大丈夫だ。周りにはもう、稼動してる蜘蛛はいない」

「……本当ですか?」

「信用しろよ」

数秒して、ガゼルの言葉に頷き……里は燐を抱きかかえたまま、、血溜まりの中に足を踏み出した。そして大股に中央の白い部屋に足を踏み入れる。

「半無菌室なのか……?」

「酷いですわ……」

燐はガゼルの呟きに反応するわけでもなく、倒れている研究員……いや、彼らの先。頭髪の一部を切除され、何本ものチューブを頭に差し込まれている少女。
音羅のことを見た。
里が主をそっと床に下ろす。
396 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:28:21.15 ID:Q6+4diJj0
「紅がやったのか……?」

音羅……いや、本名ユージンというこの少女の首筋にも、蜘蛛が噛み付いていた。吐き散らしてはいないが口元……そして鼻から赤い血が流れ落ちている。

「どうして……?」

紅は敵のはずだ。それなのに、何故今更この子を蜘蛛を使って殺さなければならないのだろう。しかも……自分の主が、虹と戦っている最中に。
ベッドの上に、ユージンという少女の遺体は仰向けで横たわっていた。胸の上で手を組んでいる。もう完全に脳死だ。生きてはいない。となりで無機質に作動している心電図にも変化がない。
彼女は、足を合成皮のバンドでベッドに固定されていた。細く、太陽の光など浴びたこともないような真っ白い薄い肌。死後硬直で青黒くなった血管が浮き上がって見えている。
里が手を出し、少女の死体から動かなくなった蜘蛛を毟り取り、そして指ですり潰した。
燐は、物言わぬ死体を見下ろし、泣きそうに顔を歪めた。そして僅かに手を震わせながら、ユージンの着ていた病院服をめくり上げた。
骨が浮いて、明らかに未発達な体。
その右胸……ちょうど心臓の部分に、核はあった。
ビー球サイズの青緑色の玉。それが、くすんだ色を発している。
このままでは腐ってしまう。
ガゼルが慌てて、それを取って欲しい旨を伝えようとした瞬間。
燐はそっと手を伸ばし、少女の核に指をかけた。そして肉と皮を抉り斬る音を立てながら、ブチブチとそれを引きちぎる。絡み付いている血管や神経を指で払い……そして燐は、球をベッドの上にコロリと落とし、喉を痙攣させながらその場にしゃがみこんだ。

「お見事です。お嬢様」

そう言って里が、嗚咽を堪えている燐の脇にしゃがみこむ。
そこでガゼルは、ふと気がついた。

――里は、人間を傷つけることが出来ない。それは、兵器としてのガゼルだって本質は同様だ。ガゼルは兵器であるため、使用者が『使って』、その意思で破壊を行うのであれば問題はない。しかし、ガゼル個人の意思で、人間を傷つけることは出来ないのだ。

それは戦闘用に作られていない、精神体である里にも適用されることだった。

――魔法使いは、正確に言うと核を抜き取るまでは死なない。

核が古くなり、腐ってしまったり……または破壊されれば別だが、本来の魔法使い。その『核』と呼称されている通り、厳密に言うと人間とは違う彼らは、それが本体とみなされる。
397 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:29:02.09 ID:Q6+4diJj0
無論意識はないし、死んでしまえば核の魔力も拡散して消えていく。
だが、定義として……魔法使いとして見れば、生きていることに変わりはないのだ。
だから里は、それを抜き取ること……つまり、ユージンに止めを刺すことが出来なかった。
燐はそれを知って、何も言わずに彼女の核を抜き取ったのだ。
しばらくして燐は立ち上がると、大きく深呼吸をして……そして音羅だったものの躯の上に、自分の着ていたコートを脱いでふわりとかけた。
そして核を手に取り、自分の服の袖で丁寧に擦った後ガゼルに差し出す。

「……どうぞ」

その目は、据わっていた。
虹と同じ目だった。
どこか深く、そして黒いものを内に押し込めた。そんな狂った目だった。
一瞬言葉に詰まって沈黙する。
その主の手から核を摘み出し、そして里はガゼルの核上。そこに押し付けた。
ずるり、とそれが飲み込まれ、内部に沈んでいく。

(何だ……?)

燐を見たときの違和感。今見ると、先ほど蜘蛛に怯えていた年相応の女の子の顔をしている。しかし……先ほどの顔。
あれは明らかに、どこか頭のネジが飛んだ顔。
主人と同じ顔だ。
急速に内部に、エネルギーが充填されていく。正確には魔力……つまり、ピノマシンの作用により生じている、空間干渉の力場だ。

「これで準備は整いましたね」

燐が、ガゼルの事を見て口を開く。そこで里の膝が折れた。ガゼルが構築した足の一部に亀裂が入り、砕けたのだ。
先ほど、ガゼルが構築して突貫、そして粉砕したエアバイクと同じだった。元々が動き回れるような質に出来ていない、低性能な里の体で、人間一人と機械一つを抱えて走り回ったのだ。それに、エアバイクでの突撃の際……ガゼルは気づいてはいなかったが、里は燐を守るために相当な衝撃を受けていた。脳に中枢がある機械ならば停止していただろう。彼女の中枢がネット状に存在しているのが幸いしたのだ。

「里、大丈夫か?」

思わず声を上げる。
398 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:30:13.91 ID:Q6+4diJj0
ガゼルをベッドに置いて、里は軋んだモーター音を立てながらぎこちなく微笑んで見せた。

「ええ、私は」

そこでベコリ、という音がして、彼女の腕……やはりガゼルが構築した部分が、砂のように粉々に砕けた。

「おい!」

慌てて怒鳴る。しかし崩れた里は、何でもないことのようにノイズ交じりの声で言った。

「問題ありません」

「問題ないって……」

「私は、一度更紗様の崩壊魔法をこのボディに受けています。それ故に、あの時に破壊された認識部位は、強い衝撃を与えると、空間的構築確立値が急激に微振動、変換されて連鎖崩壊を起こすのです」

「……」

「あなたのせいでは、ありませんよ」

「……だ、だからって……」

「質問の意味不明。明確にお願いします」

「里、後にしてくださいまし」

そこでアンドロイド達の会話を遮ったのは、燐だった。彼女は大きく息を吸い、そして吐くと、手を伸ばしてガゼルを掴んだ。

「やりますわよ?」

「え……?」

「え、じゃないです。更紗を、殺すのでしょう。早く」

区切るようにゆっくりと言う燐。彼女の指先は震えていた。

「魔法領域の展開が倍化しました。ガゼルバデ様。狙撃の準備を」
399 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:30:54.10 ID:Q6+4diJj0
里がキリキリと眼球を回しながら口を開く。

――狙撃。

(レ・ダードを使うのか……)

彼は、心の中で歯噛みをした。
実を言うと、その兵器は一度しか使ったことがないものだった。動作も不安定で、言っていなかったが……そもそも起動するかどうか分からない。
三百年前の兵器なのだ。
対魔法使い戦闘用、月と同じ衛星軌道に存在する、高威力超高射程、精密射撃装置。
撃ち出すのは魔法。
正確に言うと、地上でガゼルが融合増殖させたピノマシンフィールドを衛星軌道まで打ち上げ、それを衛星を介して増幅し、撃ち落とす。
そういう兵器だ。
原理だけなら単純だ。
魔法使いが操作する魔法も、そもそもピノマシンのフィールド操作なのだ。空間の組成、理からを再構築して次元に干渉しているに過ぎない。
レ・ダードは、それ以上のピノマシン干渉エネルギーを放出する。

――原理から言えば、更紗の大魔法だって、破れるはずだ。

破れるはずなのだ。
虹の認証を得てから、システムを起動。衛星軌道にエネルギーのフィードバック。そのシークエンスを構築し、シュミレーションする。
かかる時間は、およそ二十秒。

「分かった……」

ガゼルは、その時。
そっと燐に言った。

「だが、お前が撃つんだ」

「……」
400 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:31:33.02 ID:Q6+4diJj0
「お前が、レ・ダードの照準をつけて撃て」

「ええ」

頷いて、燐は言った。

「そのために来たんですもの」

「……」

「それに……音羅が、このままではあまりにもかわいそうですわ」

「……そうだな」

考えている暇はない。
核は手に入った。それが罠だとしても。
そうだとしても。
やれるチャンスは今しかない。
ガゼルは、自分の核の一部を変質させ、弾丸のようなものを二個作り出した。子供の小指ほどのライフル弾。しかし一発は、先端に通信素子と思われるものが埋め込まれている。

「里と作戦を立てた。一度しか言わない」

「はい」

「一発には微弱なピノマシンフィールド発生装置。もう一発には通信素子と、映像をこちらに転送するための発信機がある」

そう言いながら、ガゼルは徐々に自分自体の形を変え始めた。
核となる機械を取り込まずの変形。それは、自分の中枢システムまでもを部品に使うということに他ならなかった。
つまり、連鎖崩壊すれば自分も消えてしまう。
自分の心臓までもを変質に使用しながら、彼は続けた。
401 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:32:11.88 ID:Q6+4diJj0
「まず一発目で、更紗の展開している魔法空間に穴を開ける。そして二発目で、俺もサポートをするから、虹を見つけて、彼女の近くに通信弾丸を撃ち込む」

「了解ですわ」

「奴の魔法空間は強力だ。穴を開けても、すぐ閉じると思う。だから一瞬開いた穴から、俺と里が内部の様子を最大限スキャンする。それに、三発目は多分俺の体が耐え切れない。だから、チャンスは一回しかないと思ってくれ」

「魔法領域、あと二分ほどでこのエリアを飲み込みます」

冷静な里の声が聴こえる。燐は少しだけサッと頬を青くしたが、震えてくる足を無理に引き絞って、コクリと頷いた。
ガゼルの体は、今や全長三メートルはあるかという長大なスナイパーライフルに変化していた。銃身に何個も銃座が取り付けられており、それで床に固定される形になる。
細い銃口は、真っ直ぐ病院の壁を向いていた。
燐が里に抱えられ、支えられる形で床にしゃがみ、そして銃身を握る。

「撃つ時かなりの衝撃が加わると思う。里、押さえてくれ」

「了解」

メイドロボの無事な方の手が動き、変質したガゼルの体に二発の銃弾を装填する。

「このままでは狙いも何もつけられませんわ……」

燐が呟く。そこでスナイパーラーフルの後部が開き、サンバイザーのような薄いゴーグルが飛び出した。促されてそれをかけた燐の目に、どこか病院の外……その監視カメラをハッキングしたのか、そこから外の映像が流れ込んでくる。
里もガゼルにケーブルを接続し……そして二人は、外の様子に息を呑んだ。
球形の……汚濁、というのだろうか。端から端が見えないほどの、巨大な渦を巻く惑星。
半円形のそれが、竜巻のように回転しながらゆっくりと眼下の町を飲み込んでいる。燐は溜まらず小さく叫び声を上げて後ずさろうとし、里に支えられて止められた。

「な……何ですの、あれ!」
402 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:32:57.46 ID:Q6+4diJj0
悲鳴のような声。
引きつったそれに、ガゼルは静かに返した。

「魔法だよ」

「大きすぎますわ……あれ、更紗が一人でやってるんですの?」

「そうだ」

「そんな……馬鹿なこと……」

狭く見積もっても、既に十キロ以上の範囲が飲み込まれてしまっている。例えるならば、ドーム天井までを突き抜けた巨大な……巨大すぎる壁。黒と赤、そして錆色にきらめきながら、ぬるぬるとそれが回転している。
障害物を貫通してのコースなのか、照準がスコープ上に浮かび上がったのを見て、燐は唾を飲み込んで声を張り上げた。

「ど……どこを狙えばいいんですの?」

「俺達は君が空けた穴を全力でスキャンする。だから狙撃のサポートは出来ない。君が感じる方に向かって、出来るだけ長く弾丸が飛べるように撃ってくれ」

「……分かりました」

唾をもう一度呑んで、燐はガゼルのトリガーに指を引っ掛けた。

(更紗……)

燐は、スコープごしにその球体を見ながら、背中中に鳥肌が立っていくのを感じていた。

(本当に更紗が……?)

信じられない。
そう、今でも信じられない。

(本当に、化け物……)

そうだ。化け物なのだ……。
彼女は、化け物なのだ。
403 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:33:37.83 ID:Q6+4diJj0
燐は心の中で何度も、何度も自分に言い聞かせ。そしてトリガーを引き絞っていた。
鼓膜が破裂するかと思うくらいの銃声。キィィーンと耳鳴りの後、燐の小さな体は、跳ね上がった銃に弾き飛ばされそうになり里に支えられた。
病院の壁が、直径五センチほど綺麗に貫通している。
一秒ほどの一瞬。弾丸が更紗の展開フィールドに飲み込まれ、そして消えるまでの間。
ガゼルと里は、監視カメラと自分達の目でその映像を記録し、瞬時に分析を始めた。
穴が開いたのは、時間にしてほんのゼロコンマ二秒ほど。

――そして穴の中で見えたのは。

ぐじょぐじょに潰れ、沼のように溶解した空間そのものの姿だった。
見えるわけもなかった。
ガゼル側からは何の映像も確認できず、彼は盛大に舌打ちの音を発して怒鳴り声を上げた。

「里、そっちは!」

「全長三十メートルほどと思われる巨大な建造物状のものを感知。距離二千五百二十。数ニ。それ以上のことは分かりません」

「建造物……?」

里から送られた来た映像は、相当に荒く……そして不鮮明なものだった。ドロ錆のようなものが盛り上がっているようにも見える。それが二つ。右と、左。
「これ……人じゃないか?」

脳内の分析機構を解して画像を拡大する。
右と左、それぞれの盛り上がりの中ほどと上に、一ピクセル程の肌色の点が見える。他が赤と黒のため、目立つ。

「魔法領域、あと一分ほどで到達します」

里の声。
ガゼルは、先ほど穿った穴から見えるほど接近してきたフィールドを視認し、里と燐が逃げ出してしまうのではないかと、一瞬だけ存在しない心臓が凍りつくのを感じた。

――しかし。

燐は、動こうとしなかった。
404 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:34:28.04 ID:Q6+4diJj0
ガゼルが転送した先ほどの映像。それを簡略化したものの、左側……一つ、対象側のそれよりも下に位置する点に照準を向ける。
ガゼルはそれを微調整し、その目算に合わせた。

「撃ちますわよ」

「撃て!」

燐の声。叱責。
少女は逃げも喚きもせず。
ただ、淡々と引き金を引いた。また盛大な銃声と共に、今度は燐の体は後方に跳ね飛ばされて、里と共に後ろに転がった。ガゼルも横に倒れ……そして通信弾丸は、壁を貫通し……。
その瞬間、急激に展開速度を速めた更紗の崩壊空間。回転する球体エネルギーの側面に撃ち当たると、ぐるりと位置を変えて、そして消えた。

「虹!」

ガゼルは、なりふり構わず。通信なのか、それとも実音声なのか分からないほど、合成音声を張り上げて叫び声を上げた。

「虹、返事をしろ! 起動命令をくれ!」

応答はない。
その時、目の前の壁がくしゃりと歪んだ。綿菓子を握りつぶしたようだった。どろり、と天井が熱で溶解したように赤黒くなり垂れ下がり……そして凄まじい速度で燐、里がいる場所までをも、その黒い本流が駆け抜ける。

「虹!」

ガゼルの声。
応答はなかった。
燐は、自分のアンドロイドがズルズルと、沼のように黒く、赤く……そして汚らしい錆の色を発し始めた床に引きずりこまれるのを、呆然と見つめていた。自分の足も、もがく間もなくそれに飲み込まれる。
405 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:35:07.03 ID:Q6+4diJj0
周囲の白い壁。白い床。そして天井。
その全てが、血と汚濁と錆の沼に変質してしまっていた。
時間にして瞬きをする間。一瞬で。

――一瞬で。

口元を押さえようとして、手に感覚がないことに気がつく。
燐は、自分の腕をズポリ、とその沼から引き抜いて……声にならない甲高い悲鳴を上げた。
ずるりと皮が剥がれ、血と、よく分からない油が糸を引いて垂れ下がっていた。
体が下に沈んでいく。
もう、ガゼルの声も、里の声も聴こえなかった。

――失敗?

その言葉が頭の中を回る。
里に無理を言って。そしてて。
何の罪もない、ただ利用されていただけの植物状態の子にと止めを刺してまで。
更紗を殺そうとしたのに。
口の中に、血錆の沼が転がり込んでくる。

(く……)

彼女は、溢れ出る涙を拭うことも出来ずに、焼けた喉で訳の分からない声を上げた。

(化け物……!)

燐の意識は、数分も経たず……僅か十数秒の間に。その大魔法に飲み込まれ、掻き消えていた。
406 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:36:40.35 ID:Q6+4diJj0
32 もう一度笑って

 奴隷市というものが、どのドームのスラム街には存在する。いわゆるアンダーグラウンドの非合法商売。使用人や労働者として雇うことの可能な人間を売買する場所だ。
その殆どが、人買いのキャラバンが別のドーム、そのスラム街から拾ってきた浮浪児だ。つまり、ドームの市民権を持たず、住民登録もされていない……本質的に存在をしていない人間。
ドームの上流階級の者……その中でも、反機械思想からいう、人間以外のメイドロボなどに身の回りの世話をされることを良しとしない人間達。子供への悪影響などを考え、同じ人間に使用人を任せようと考える者たちも、当然存在していた。
燐の両親も、その一人だった。
彼女の身の回りはメイドロボである里に任せられてはいたが、夫妻には燐の後に子供が出来なかった。極端な反機械思想というわけではないのだが、二人は燐の精神成長の妨げになるのでは……と懸念し、もう一人、養子を作ることを考えたのだ。
最初は養子斡旋所などで身寄りのない子供を捜してはいたのだが、その年は偶然……と言ってしまっては本末転倒なのだが、燐と年の近い子供が存在しなかった。スラム街の一部を、他ならぬ燐の父の政策で手入れし、その中の大半を社会施設に収容したのが原因だった。
だから燐の両親にとって、本当ならスラム街の人買いから妹となる子供を買い取る……ということは考えもしていないことではあった。
それに急激な駄々をこね、ほぼ無理矢理里と外に出てきてしまったのは燐だった。この時期の子供は、何にでも影響を受けるものだ。燐も、当時社会問題として取り上げられていた、そのような『人買い』……それを題材としたテレビドラマを見て、自分も彼らを助けたい、とただ漠然に思ったのだ。
人買いの競りは、主に金持ちといわれる人間層が参加するために、殆どオークションのような雰囲気をかもし出している。スラム街も一斉に手引きが行われたため、里が検索して燐を連れて行った場所も、外見は普通の市民ホールのような場所になっていた。小規模な舞台演劇をやるようなステージに、首と腕に鎖をつけられた五歳ごろから、大きくなると二十代の人間が、ずらりと五十人ほど……横一列に並べられている。
観客席の方には、フードや簡易的な仮面を被った大人たちがひしめき合っていた。
ステージの上の子供達の目には、一様に生気がない。やせ細り、ふらふらしている人もいる。皆同じような病院服……に見える灰色のワンピース状の服を羽織っていた。
中ほどの席に里を座らせ、その膝の上にちょんと腰を落とす。
燐は、しかし周囲の妙な熱気……生臭さと、不気味な雰囲気というのだろうか。そう、女性が特に敏感に感じ取る、下劣な雰囲気。
それを本能的に感じ取り、小さくなっていた。
里も燐も、同じような舞台化面を顔につけていた。里に至っては、体全体を隠す黒いコートを着せていたために、外見的には普通の人間とあまり変わりはしない。
燐は、衝撃を受けていた。
端的な言葉で言えばそうなるだろう。
安っぽい自分の、現実を良く知りもしないで抱いていた正義感。それが簡単に更に強い者の手で押しつぶされ、そして投げ捨てられたかのような錯覚を受ける。
407 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:37:53.52 ID:Q6+4diJj0
――助ける。

そうしたら、ドラマの中の子達のように、仲良く……ひょっとしたら将来の恋人になることが出来るかもしれない。そんな幻想を抱いていた。
それは、お話の中の出来事だということを、その時の燐は分かっていなかった。
自分の家は、このドームの総支配人をやっている。人権申請をすることだってできるし、簡単に市民票を取ることだって出来るだろう。
だから、助けてあげて。

そして、弟……兄、家族になってもらおう。

そう考えていた。
安易に。

……奇妙な音を立てて、壇上で咳をしている二十代前半だと思われる娘がいる。

明らかに病気だ。
顔色からして、立っているのも辛いようだ。

――だが、誰も医者を呼ぼうとはしない。

殆ど首と腕の鎖で支えられて釣り下がっているその女性の前に司会者が立ち、小さなハンマーを目の前の台に振り下ろした。

「さて、まずは十から始めましょう」

冷徹な声だった。助けを差し出そうともしない。それは、ただ単なる店先に並んだ商品を裁定するような。そんな冷めた声でしかなかった。
それを見つめる周囲の子供達……壇上の商品達の顔は、まるで骸骨のようだった。くぼんだ目、焦点の合わない顔。口をもぐもぐと動かして何事かを呟いている子もいる。

……そこで燐は、一つのことに気がついた。

薄暗い照明と距離で先ほどまで良くは分からなかったのだが、ステージの上には、いわゆる女性しか存在していなかった。男の子だと思われる人は、誰一人としていない。
ふらついている病気の女性を目の前にして、サッと観客席の方……燐たちから少し離れた場所で黄色い旗が上がった。
この頃の燐はシステムを理解しないまま来ていたが、厳密的に奴隷買いは法律で禁止されている。だから客は顔を見せないようにしているのだし、原則として同様に声は発しない。
408 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:38:28.99 ID:Q6+4diJj0
黄色い旗は、元金の五倍を示すサインだった。そういえば入場の時に、里にも同じ様な小さな旗が十本渡されていた。
十、というのは百倍して考える。つまりいきなり千の元金ということになる。車一台が買える値段だ。それの五倍だから、五千。
いきなりの高騰に、明らかに場の雰囲気が変わった。
冷静になって考えてみれば、それは当然のことではあった。
スラム街の手入れにより、奴隷市場は圧倒的に収縮し……今ではこのような市が開かれるのも二ヶ月に一度ほどなのだ。
その筋の人間達にとっては、人を攫うでもなく、確実に人間を一人手に入れることが出来る。それに落札の瞬間、その商品の人間には市民証が発行される。無論不正規の手段で作られるものだが、政府も一枚噛んではいるために、一応のところ『合法的に』奴隷が持てる唯一の場なのだ。
病気の女性は、結局八十七で落札された。
ステージの裏に、鎖を引っ張られて歩いていく途中。その子は大きく咳をして膝を突いた。
司会者がそれを、無理矢理鎖を引いて立ち上がらせ、そして奥に押し込む。

「里……」

燐は、会場に入ってから一時間ほどしてやっとかすかな言葉を発した。

「この人達は……何をしているのですか?」

里は、キュゥウゥ……と音を立てながらステージの上に眼球を向けていた。その瞳孔が何度か収縮してピントを合わせる。
少し間を置いて、彼女は答えた。

「競り、でございます」

「人間だよ、あの人達……」

「肯定。ステージ上の者は、全て人間です」

「……」

次の……燐よりも小さい、六七歳だと思われる子は、百を越えた。結局のところ青い旗を上げた、でっぷりと太った男が百九十で落札する。
出口の方で鎖と共にその男に女の子が引き渡されるのが見える。
男は、ペットにするように。
女の子の首にかかった鎖を引いて会場を出て行った。
409 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:39:07.48 ID:Q6+4diJj0
「里……」

「……」

アンドロイドは答えなかった。
燐は俯いて、小さな手を強く握っていた。

「ご、ごめんなさい……」

どもりながら、小さな声で呟く。そこで初めて里は、軽く息を吐く音を出して言葉を発した。

「もう、お帰りになりますか?」

「うん……」

「今回の件に関しては、旦那様と奥様には秘密と、させていただきます。お嬢様も、よくお考えの上、これよりの行動をご決定ください」

「……うん……」

出かける前の里の言葉。

――ドラマと現実は異なりますよ?

という意味が、ようやく頭の中を駆け巡っていた。

――違う。

何というか、これは……。
あっちゃならないものだ。
ここに、存在していてはいけないものだ。
そして自分には……。

(どうすることもできない……)

そう、どうすることも出来ない。
410 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:39:49.51 ID:Q6+4diJj0
金で買って、その後どうするか。ドラマの奴隷役の人には、夢があった。だからどんな逆境にも耐え、そして必死に努力をするキャラクターだった。
でも、それは虚構の中での出来事なのだ。
夢。
希望。
そんなもの欠片もない目。顔。そして体。
体全体で、ステージ上の商品達はそれを体現していた。
そんな人達に、燐は金を突きつけることが出来なかった。
そこまで、獣にはなれなかったのだ。
里が主の頭をそっと撫で、そして立ち上がろうとする。

「続いては十一番です。三からの開始です」

カン、とハンマーと台を打ち鳴らす音。打ちひしがれて召使に手を引かれ、燐は立ち上がった。そして観客席脇の通路まで歩いていき……ステージ上にふと目をやった。
壇上に鎖を引かれて立っていたのは、丁度自分と同じくらいの女の子だった。いや……女の子……なのだろうか。顔や首、そして腕などに至る所に赤い引っかき傷がついている。その子は、異常に長い黒髪……バラバラになったそれを、花嫁が着るドレスのように床に引きずっていた。それに隠れて顔がはっきり見えない。他の奴隷達と同じ服は、ビリビリに破かれていた。やはり赤い血が点々とついている。
口元が動いている。何事かをブツブツと呟いているようだ。

――物狂いか……。

観客席で誰かが呟く声がした。
燐は、衝撃を受けて里の手を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
自分と同じ位の子。多分……女の子。
それなのに、彼女と自分の間には……こんなにも差がある。
背だって同じくらいだし……多分体重だって同じくらいだ。

だけど……。
どうして……。

呆然としている彼女の目の前。
しかし、観客席に動きはなかった。
確かに人間市は滅多にあるものではないが、高額を出して……精神が錯乱している人間を買うという物好きはここにはいなかった。皆一様に利益があるから人を買うのだ。
ごくたまに、そのような少女専門の業者がいることにはいるが……今日この場に限っては来ていない様だった。
411 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:40:36.50 ID:Q6+4diJj0
「里……?」

燐は、手を引いている召使いに、ためらいがちにそっと耳打ちをした。

「どうか致しましたか?」

膝を突いて耳元を寄せてきた彼女に、燐は続けた。

「誰もしなかったら、どうなるのです?」

「ご質問の意味不明瞭。明確にお願い致します」

「この競りで、らくさつされなかった人は、一体どうなるのです?」

ドラマではそんなことはなかった。誰も彼も、人は買われていった。しかし……。
この凍りついた空気は、それさえも吹き飛ばしてしまうほど強烈なものだった。
里は少し思案した後、燐に耳打ちをした。

「おそらく」

「……」

「保険局がその後の身柄を引き取るかと」

「ほけんきょく?」

「お嬢様はご存じなくとも差し支えないことでする」

いつになく頑なに里は言って、そして通路を歩き出した。それについていこうとして……しかし燐はまたステージの上を振り返った。
412 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:41:15.27 ID:Q6+4diJj0
誰も落札していない。
動きはなかった。
司会者は腕時計を確認すると、機械的な動作でその子の鎖を引いた。反応できずに、引かれた子はドシャ、と弛緩した音を立ててステージに倒れこむ。それをずるずると引いて舞台裏に移動しようとして……。
そこで、司会者の目が留まった。
彼は慌てて鎖から手を離し、物狂いの子を支えてその場に立たせた。そしてカン、と台をハンマーで叩く。

「十倍の値段がつきました。他にございませんか?」

観客席にざわめきが走った。それらの視線が交錯し、そして一所に集中する。
その先には、緊張なのか……それとも、それ以上の感情なのか。ブルブルと震える手で、背中を丸めながら青い旗を揚げている子供の姿があった。
通路に立ち上がっているから見えたのだろう。そうでなければ気づかれずに、次の商品の競りが始まっていたかもしれない。
里は背後で、自分が持っていた旗の一つを燐が揚げているのを見て……慌ててそれを取り上げようと手を伸ばした。

「宜しいですね? 落札です」

規定時間が過ぎる。
カン、とまたハンマーが振り下ろされた。

「お嬢様、どうして……」

里が仮面の下で、眼球を小さく震わせながら口を開く。
燐はそんな召使いの方を見上げ……そしてしっかりとした声で

「お金を用意しなさい」

とだけ、彼女に言いつけた。
413 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:42:26.27 ID:Q6+4diJj0


 それからは、混乱の極みだった。
娘が勝手にアンダーグラウンドの奴隷市に行って来たということも相当なことだし、何より市民登録をした少女一人を得てしまったということが、総支配人の立場である燐の家族には青天の霹靂だった。
そもそも、彼らがここまで奴隷市を縮小させたのだ。その原因が、他ならぬ出品されていた人間を買ったということが外に漏れてしまったら、恐ろしい揚げ足取りに遭ってしまう。
結局は、燐が泣いて懇願したために里の処分は不問ということになった。本当なら真っ先にこのメイドロボは廃棄されるはずだったのだが、流石に燐の家に三代前から使えている立場もあったのが、両親を思いとどまらせた理由の一つでもあった。
そして……手に入れてしまったものは仕方がない、ということで。
彼女。
その奴隷の女の子は、燐の家族の一員になったのだった。
当初は物狂いだと思われていたが、彼女の意識はそこまで悪くはないようだった。話しかければ反応をするし、ちゃんと言葉だって分かっているようだ。
しかし、喋ることが出来ないのか……言葉を発することはなかった。字も書けないのか、頑なにそれを拒んでいる。
里に体を洗われ、燐の服を着て椅子に腰掛けた少女は、借りてきた猫のように小さく体を丸めて、怯えたような瞳で里のことを見ていた。ここに来てから丸一日。燐はまだ階下で両親から叱られている。
ここは、燐の屋敷。その彼女の部屋だった。壁一面に熊のぬいぐるみが敷き詰められている。ピンク色の壁やカーペット。いかにも小さな女の子、といった少女趣味のレイアウトだ。熊のぬいぐるみは、大小様々なバリエーションがあった。彼女の体よりも大きなものもある。
女の子の長い髪に櫛を通し、横に座って里はそれを何房かに結っていた。
見られていることに気づいたのか、そっと微笑みかける。しかし彼女は、怖くてたまらないと言わんばかりの態度で、また背中を丸めて見せた。

「テレビでも、ご覧になりますか?」

聞かれてビクッとした後、ふるふると首を振る。
そこで扉を開け、泣いたのか目の回りを真っ赤に晴らした燐が部屋に入ってきた。そして、無言で手近な熊のぬいぐるみを手に取り、自分のベッドの方に投げつける。ボスン、とそれは横側に突き刺さると、転がって奴隷だった少女の脇で止まった。

「お嬢様、お気を確かに」

「確かですわ!」

つっけんどんに言い返し、そして彼女はごしごしと目を擦ると、熊のぬいぐるみを拾い上げて珍しそうに眺めている少女に近づき、その脇に腰を下ろした。
目が丸くなり、燐は続いてぽん、と胸の前で両手を叩いた。
414 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:43:06.88 ID:Q6+4diJj0
「まぁ、あなた美人ですわね!」

今までざんばらになっていた髪が、ものの見事に人形のように光沢を発している。幼い顔は整っていて、まるでテレビのタレントみたいだ。
いきなり顔を近づけられ、少女は相当驚いたようだった。胸元でぬいぐるみを抱いて、僅かに後ずさる。

「お嬢様、こんな感じで宜しいでしょうか」

「凄いです。里は本当に器用ですね」

「光栄です」

燐は、怯えている風な少女ににっこりと笑いかけると、彼女がしているように近くのぬいぐるみを手に持ち、そして抱きながらカーペットに座りなおした。
燐の両親も、この子と話をしようと努力をしたのだが……かえって怖がらせただけで何の収穫も得られてはいなかった。とりあえず名前だけでも分からないと――もしくはつけないと、完全に住民申請をすることができない。非合法で連れてきてしまったため、返すことも出来ないのだ。
とりあえず今は落ち着かせようと、里と一緒に燐の部屋に入れてあるのだ。
少女は、自分がぬいぐるみを抱いていることに気がつくと、慌ててそれを脇に置こうとした。そっと手を伸ばし、燐が彼女の手を戻す。

「あげる」

「……」

きょとん、とした少女に、燐は続けた。

「にぃと、これからにぃのものをはんぶんこしていきましょう。だから、くまさんも半分こです」

「……」

「全部里が作ったのです。この子は、優秀なメイドなんですのよ?」

「光栄です」

ペコリと里が頭を下げる。

「先日、新しいお人形も買ったのです。一緒に遊びましょう?」

「……」
415 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:44:49.64 ID:Q6+4diJj0
ポカンとした顔で、少女は燐のことを見ていた。その小さな手を引き、燐は立ち上がると、二人でベッドの上に座った。そして枕元に置いてあった、ドレスを着た女の子のドールを取り上げる。それを彼女に握らせ、また微笑む。
その真っ赤に腫れた目を見て……そして少女は、細い手を上げて目元を触った。

「…………泣いたの?」

そっと、鈴の鳴るようなか細い声で聞かれた。燐は少しポカンとした後、次いで嬉しそうに顔を輝かせた。

「あ! あなた喋れるんじゃないですの?」

「…………」

「元気です。大丈夫なのです。申しおくれましたわ。にぃの名前は、燐と申します。あなたのお名前は?」

「…………にぃ?」

不思議そうに聞き返され、燐は自分が口走っていたことに気がついて赤くなった。里がベッドのシーツを直しながら口を開く。

「燐様は、ご自分のことをそのようにお呼びするクセが治らないのです」

「にぃはこのままでいいのです」

開き直った。
少女はまだ小さくなって肩をすぼめていたが、そこでやっと、ほんの少しだけ……小さく、安心したように笑った。

「あ」

もう一度嬉しそうに目を丸くして、燐は少女の手を取った。

「もう一回」

「……え?」

「もう一回、笑ってくださいまし」

「……」

戸惑ったように周囲に視線を泳がせ、そして少女はぎこちなく頬を緩ませた。
416 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:45:45.61 ID:Q6+4diJj0
「可愛いですわ。凄い美人さん! ねぇ、お名前は何というのです?」

聞かれて、少女は、暫くの間視線を下に落として考え込んでいた。里が近づいてきて、彼女の脇に座り……そしてそっと、頭を撫でてやる。

「多分……更紗って言うんだと思う……」

「さらさ?」

燐は怪訝そうに繰り返し、そして彼女に言った。

「多分って、どうかしましたの? ご自分のお名前でしょう?」

「覚えてない……気がついたら、人買いのトレーラーにいたから……」

そう言って、更紗は自分の手首を差し出した。白いその右腕の部分……そこに、小さく。判子のように数字の羅列が掘り込まれている。刺青……というよりは、焼きごてによるものという印象の方が強かった。
怯んで唖然とした燐に、更紗はその中の一文を指差した。

「ここ……3RA3って……」

「だから、さらさ?」

「うん…………前に、大事な人にそう言われたと思う……」

「思い出せませんの?」

「…………うん…………」

泣きべそをかきそうになった少女のことを抱き寄せ、里がその胸に頭を預けさせる。そして里は、更紗の頭を撫でている最中……その髪に隠れた後頭部。丁度延髄にあたる部分に、何かガラス質のものが埋まっているのに気がついた。大量の髪で分からなくなっているが、気づかれないように掻き分けてみると、それは天井の光を反射して僅かに光を返した。
417 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:46:36.01 ID:Q6+4diJj0
――核だった。

それは、魔法使いの核だった。
しかも色がおかしい。二色……つまり青と白に濁っている。
里は静かにそれを隠し、また更紗の頭を撫で始めた。
気づかなかったのか、燐は更紗の手を掴んで泣きそうな顔をしていた。

「大変だったのですね」

「…………覚えてないけど…………」

「いいのです。だって、これから更紗はにぃの妹になるのですから!」

「妹……?」

「ええ」

「私が……?」

信じられないといった風に繰り返して、更紗は黙り込んだ。

「あなたがですよ?」

「……いいの?」

聞かれた燐は、ポン、と彼女の腕を叩いて言った。

「大丈夫です。お姉ちゃんに任せなさい」

「……」

更紗は、少し沈黙した後伺うように手を伸ばし……そして燐の金髪に触れた。

「……綺麗な髪……」

「更紗も、十分美人さんですよ?」

同時に、二人の少女が笑い会う。
里はその光景を見て、発しかけていた言葉を無理矢理に飲み込んだ。その手がモーターの音を立てながら動き、更紗の首筋。核を覆い隠すように、その部分の髪の毛を丸く編み始めた。
418 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:47:59.52 ID:Q6+4diJj0
33 ポークシチュー

 競り会場での錯乱した様子は、更紗は滅多に見せなかった。いや……記憶がないと言っている以外は、かなり聡明で……年以上の器量を身につけていたと言ってもいいかもしれない。
数週間も経たずに、燐の両親は美しい外見と、そして燐を越えるほどに聡いこの拾いものの家族を受け入れていた。更紗の控えめな性格と、そして相手に対してその裏を読んで行う思いやりが功を為した結果だった。
だが、時折精神が不安定になると、訳のわからないことを言う癖があった。その殆どが、燐も里も理解が出来ない内容だった。奇妙な癖だとは思ったが、その時の燐は、ただ漠然とそう思っただけだった。
かえって、姉妹と弱所を共有できるという状況に酔っていたのかもしれない。
基本的に、更紗は燐と抱き合うようにして同じベッドで眠っていた。別の彼女の部屋を用意されたとはいえ、更紗は決して一人になろうとしなかった。どんなところに行くにも、燐にくっついていきたがった。
まるで、取り残されるのを恐怖しているような節があった。
特に夜が恐ろしいらしい。最初は燐だけだったが、次第にそれでは足りなくなってきたらしく。
本当ならメイド部屋で夜は待機していなければならない里が、燐の部屋で夜待機をするようになったのは、それからあまり時間が経っていない頃からだった。
燐は、相互に抱き枕のようになって眠っている更紗からかすかな泣き声がするのを耳にして、寝ぼけた目を開けた。
今日は二人で外出したばかりだった。とは言っても里とともに、下町のマーケットに行っただけだ。しかし途中で更紗がどうしても人ごみに入るのは嫌だと駄々をこね始め、そして家に帰ってからもう、ベッドから出てこなくなってしまったのだ。
夜になって、同じベッドに入り眠ってから今に至る。
柔らかい毛布の中に頭を埋めて、更紗は震えていた。何度かこのようなことはあったので、そっと抱きしめてあげようと燐が体を動かす。
そこで彼女は、妹が何かをかすかな声で呟いているのを耳に止めた。

「……お許しください……お許し下さい」

一瞬、ゾッとした。それは反射的なもので、予想だにしていない言葉だったから面食らってしまったという表現の方が正しいかもしれない。

――それは、許しを請う言葉だった。

一度聞き取ってしまえば、後は簡単だった。すらすらと……彼女が震えながら言っている言葉が頭の中に入ってくる。

「ににさま……ににさま……ににさま……」
419 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:51:15.54 ID:Q6+4diJj0
痙攣のように体は震えていた。抱きしめる手に力を込めても、治まる気配はない。慌てて顔を上げて里の方を見るが、椅子に座ったアンドロイドはシステムの整理中なのか、動きがない。

「更紗、どうしたの? どこか……痛いのですか?」

意を決して耳元でそっと囁く。毛布の中で少女は弾かれたように顔を上げた。
その目は、落ち窪んでまるで老婆のような風貌を呈していた。瞳孔が開ききり、瞳がほんのりと血のような色に変色しているのが、月明かりに見える。

「ひっ……」

更紗は、燐の顔……正確には彼女の金色の髪を見て、怯えたように更に丸くなった。

「わらわは悪くない……わらわは悪くない……悪くない……悪くない……」

自分に言い聞かせるように、繰り返す。
燐はしばらく唖然としていたが、やがて息を吸って、そしてポンポンと妹の背中を叩きながら、その小さな体を自分の方に引き寄せた。

「ええ……ええ。更紗は悪くないですわ」

「……ににさま助けて…………悪くない……悪くない……」

「大丈夫です。お姉ちゃんがここにいますから……」

「死にたくない……お許しください……お許し下さい……」

「大丈夫ですから……ほら、大丈夫……」

気休めにもならない、訳の分からない慰め方だった。しかし燐には、そうしてやることしか出来なかった。ただ、目の前で小動物のように何かに怯えている妹を安心させようと、一言一言に応答してやる他、方法がなかった。
420 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:51:54.04 ID:Q6+4diJj0


 ケタケタ、と笑い声が聞こえた。
それは人間の声ではなかった。理性で制御された声帯では発することが出来るはずもない、甲高い奇妙な笑い声。引きつった悲鳴のような、その明らかにおかしい声が、耳の奥に突き刺さる。
地面に倒れこんだ更紗の目の前に、奴は轟音を立てて回転するチェーンソーを振りかぶって仁王立ちになっていた。まだ、その笑い声は続いていた。
目の前のそいつ――彼女の目は、半ば飛び出して完全に球形になっていた。正気、いや……それ以上の常軌を逸しすぎて、もはや別の存在になってしまった顔。
訳が分からなかった。
どうして見つかったのかも分からなかったし。
何より。
何故、こいつが生きているのかということも分からなかった。
死んだとばかり思っていた。生きていけるはずがない。
だって……。
兄が死んだその日。エリクシアにそれとなく、こいつを回収させるように仕向けたのは、他ならぬ自分だからだ。
そこには、もしかしたらそいつらが兄を蘇生させてくれるのではないかという期待がこもっていた。
泥水と汚らわしい汚濁の中で痙攣しているこいつに唾を吐きかけた後、周りの下劣な人間を一掃し……。
そして、エリクシアをわざと呼び寄せた。
兄が、もう自分の力ではどうすることも出来ないことが分かったから。泣いても、喚いてもどうすることも出来ないことが、分かったから。

……だからこいつなんて、早い話どうでも良かったし、生きているか死んでいるかなんて更紗にはどうでもいいことだった。

地下施設に泉の遺体と、まだ意識があったらしいフィルレインが回収され……そして、三日。兄には何の反応もなかった。身を隠してずっとその光景を見ていたのだが、どんなにされても、兄は動かなかった。
遂に耐え切れなくなり外に出て、硲と愛寡を伴って研究所に攻め入った。
その過程で、この女は燃え尽きた……もしくはどこかでの垂れ死んだものだとばかり、そう更紗は思っていた。
蟲を押しつぶすほどの罪悪感も、心には湧いていなかった。
だから目の前に立っている、容貌も雰囲気も、何もかもが圧倒的に異なる……しかし、見知ったはずであるあの従者。
フィルレインが笑うのを間近に見て、更紗は正真正銘に腰を抜かした。
今日は、彼女の二人の従者は別の区画に食料……つまり人間の新鮮な血液を調達しに行っている。その間隙を突かれたのだ。隠れていたホテル、その地下室の隅で更紗は後ずさりながら震える声を発した。

「ど……どうして……」
421 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:52:47.01 ID:Q6+4diJj0
ケケ、と喉を鳴らし。フィルレインはチェーンソーを大きく振った。その拍子に地下室の壁が火花を散らしながら抉れ、周囲に粉塵を巻き上げる。

「何故生きておる!」

そんなわけはない。
そんなわけはないのだ。
断じて。
だって、あの女は。
LSFの最大レベルの投薬を受けて、人格も体組織も完全に崩壊させられたはずなのだ。
生命活動を行えるはずがない。
それは他でもない、LSF患者である更紗がはっきりと断言できることだった。

「虹、落ち着くんだ! 早く砲を撃て!」

男の声がする。機械音声だ。どうやらあのチェーンソーのような……よくわかららない、武器だと思われる巨大な物体から流れているらしい。

「やぁだよぅ……」

ニタニタと笑いながら、フィルレインは言った。

「まず足を切り落とそう。その次は指。腕。そして腸を全部引きずり出した後……」

「相手はあのHi8だぞ! 早く殺れ!」

「頭開いて、脳みそをぷちゅぷちゅと潰そう。ふふ……うふふ……そうしようそうしよう」

更紗の、歯が鳴った。
カチカチと音を立てて、無意識のうちに体の筋が弛緩する。
股間に生暖かい感触。
更紗は、あまりの恐怖に自分が失禁してしまっていることも分からなかった。
冷静に対処をすれば、こんな小物など一瞬で捻り殺せる筈だった。しかし、更紗に残った一辺の理性がそれを押し留めていた。
422 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:53:43.58 ID:Q6+4diJj0
――恐怖。

そう、彼女の心は今それに支配されていた。
怖い。
ただ単純に、訳が分からず怖い。
予想だにしていなかったこと。
もう終わったと思っていたこと。
後悔して、後悔して、ありとあらゆることを後悔して。
その末、やっと諦めたこと。
その元凶が。
自分が、破壊して砕き散らしたはずの売女が。狂気の様相を呈して目の前で刃物を振りかぶっているのだ。
ホテルの使用人に特別に用意させた、更紗専用の地下室。綺麗なカーペットに天井の電灯。装飾。そして血が詰まったボトルを並べてある棚。
机に突っ伏して、暖房で温かい部屋の中で、コクリコクリと眠りに落ちようとしている時だった。
自動車のエンジンのような重低音が響き、扉が真一文字に切り裂かれる。そして細い足がそれを蹴り飛ばし……中に、サンドバックのようなものが投げ入れられた。
階段を転がり落ちて、赤いカーペットに頭から突っ込んだそれは。
首の骨を奇妙な方向に折り曲げられた、ホテルの使用人。更紗がここで暮らすことを手引きした、狂信教の男性だった。
舌がベロリと垂れ落ちている。
唖然とした時にはもう遅かった。
けたたましい笑い声と共に、奴が。頭の先から爪先まで粘性の血液にまみれた女が、チェーンソーを回転させながら階段を下りてくるのが、その目に映ったのだった。

「んふ……ふふ……どうする? ねぇどうする? さ・ら・さ?」

呆然としている彼女の前にしゃがみこんで、フィルレインはつん、とその額を指でつついた。口元は裂けそうに横に広がり、化け物のように整った顔が変化している。
それは、既に人間の顔ではなかった。
亡者……いや。それよりも酷い。怪物だ。悪魔の、邪悪な笑みだった。

「何をしてるんだ虹! 早く殺せ!」

「やぁよぉ」

嬉しくてたまらないという表情で、フィルレインは更紗の髪を掴んだ。そして鼻歌を歌いながら、大魔法使いの小さな体を、まるで砲丸のように振り回した。すぐにパッと手が離され、更紗は背中から壁の棚に突っ込んだ。内臓が飛び出しそうな衝撃が頭を駆け抜け、拍子に唇を強く噛んでしまう。
423 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:54:47.66 ID:Q6+4diJj0
棚にあった血の瓶が次々に床に落ちて割れていく。更紗も、その血の汚濁にうずくまって何度も咳をした。
その拍子に、自分の唇から赤いサラサラした血が流れ落ちているのに気づき、彼女は唖然と口を開いた。
「どうするかって聞いてるんだけどな?」
突然フィルレインは、人が変わったように淡々と言った。そして倒れたまま動こうとしない更紗の腹を、靴の爪先で思い切り蹴り上げた。少女の力ではなく、まるで車に轢かれたようにとんでもない衝撃が突き抜ける。
舌を噛んでしまい、更紗は鞠のように一瞬空中に浮くと、ごろごろと地下室の床を転がった。涙を浮かべて何度も何度も咳をする。苦しい。痛い。怖い。
訳が分からない。

何だ? これは。
何なんだ。
どうしてこいつが生きているんだ?
どうして、こいつが今自分に?
ありえない。
ありえない。

「ねぇ、何か言ってくれないかなァ? つまんない。つまんないよね? ねぇ?」

必死に腹の痛みに耐えている更紗に大股に歩み寄ると、フィルレインはまた彼女の髪を掴んで無理矢理引き起こした。その目。感情も何もない、ガラス球のような瞳を直視してしまい、更紗はまた……本能的に心の底から震え上がった。
ポタポタと股間から失禁の痕を垂らしている更紗のそれを見て、フィルレインは気遣うように目を細めた。

「あらあら」

「……」

「あらあらあらあらあらあらあら……」

「……」

「ひゃ……ひゃはははっ!」

甲高い、裏返った哄笑だった。

――何だ?

何なんだ。
何なんだ……何なんだ?
424 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:55:26.81 ID:Q6+4diJj0
体が動かなかった。
魔法だ。魔法を使ってこいつを殺さなければ。こいつは敵だ。訳が分からないが、敵なんだ。
だったら殺さなければ自分がやられる。

やらなきゃ。
やらなきゃ。

しかしぶるぶると震える心は、魔法を作るための精神の折込を開始しようとはしなかった。
魔法を発動させるには、二種の方法がある。
一つは意識を集中させて行うもの。
もう一つは、無意識的に行うもの。
どちらも共通していることは、心が平静でなければいけないということだ。そうでなくとも多大な集中力とイメージ力を要求させる更紗にとって、この不意打ちは今まで生きてきた四百年程の間の戦闘で、最も効果的な結果を生んでいた。
つまり。
簡単に言うと。

怖くて。
ただ、怖くて魔法が使えない。
怖い。怖い。

(魔法……こいつが崩れて消えるイメージ)

必死に織り込もうとするが、どうしても形にならない。
そうこうしていると、狂っていたフィルレインが突然冷静な顔になり。ガラン、と持っていたチェーンソーのようなものを床に落とし、その手で思い切り更紗の頬を張り飛ばした。
一瞬視界が真っ赤に染まり、口の中で奥歯が折れ飛んだ感触がする。

「……ねぇ? そろそろ喋る気になった? お姉さんつまんないな。ねぇ? ねぇ? ねぇ?」
425 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:56:17.61 ID:Q6+4diJj0
パン、パン、パン。と立て続けに頬を張られ、ぐらついた奥歯が歯茎に突き刺さる。目の前に星が散り、明らかに少女のものではない強い力で脳が揺らされる。
涙が出た。
怖くて、恐ろしくて。
嗚咽を漏らしてしまった。

「に……ににさま……」

思わず呟いていた。

「ん〜?」

耳を近づけられる。

「ににさま…………たすけて…………」

「あぁ?」

フィルレインの顔色が変わった。一変して笑顔から、氷のような冷めた顔に変質する。
そして彼女はゴミを捨てるように更紗を床に投げ出すと。まだ回転したままのチェーンソーを拾い上げた。そして腰を抜かしたままの大魔法使いを一瞥し、脇にペッ、と唾を吐き落とす。

「聞こえなかったな?」

「ひ…………」

「聞こえなかったな……っ?」

押し殺した声で怒鳴りつけられる。

「ににさま!」

更紗は、それに誘発される形で絶叫していた。

「た……助けてええ!」

「虹、ふざけるないい加減にしろ! 早く殺せ! 早く! こいつはHi8なんだぞ!」

男の声が必死に叫んでいる。
426 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:56:59.25 ID:Q6+4diJj0
しかしフィルレインは無表情のままチェーンソーを手で振り回しながら、更紗に近づいてきた。
その目は、更紗を見ていなかった。虚空を見ている。得体の知れない霊とでも会話をしているような感じだった。

「…………うん、うん……そうだねぇ……今夜は……ビーフシチューにしようか……」

「く……来るな! 来るなぁ!」

「丁度いい、新鮮なお肉が入ったの……待っててね。今解体してくるから……」

「来るな……」

「まずは足。そして次は腕だっけ……?」

「嫌……嫌……」

「あ」

丁度少女の前に立ち、フィルレインがチェーンソーを振りかぶるのが見える。

「ごめんなさい、泉。牛じゃないの。豚肉……ポークシチューだったね?」

更紗は、その言葉の意味を理解してしまった。
してしまったのだ。
瞬間、体中の筋肉が弛緩し、まだこれほど残っていたのかというくらい、更紗は失禁を起こしてしまった。動くことなんて出来るはずもない。そもそも、彼女はこれまでの人生でここまで……敵に、ここまで近づかれたことなんてなかった。
それほど自分の力は圧倒的で。
太刀打ちすることが出来るのはこの世でただ二人。
兄と、姉と呼んだ人たちだけのはずなのだ。
その瞬間、更紗の中で繋いでいた決定的な糸がプツリと、音を立てて切れた。
鶏を絞め殺した時の断末魔のような叫び声だった。小さな体で搾り出したその声と共に。
物凄い勢いで更紗の体全体から、赤黒い霧のようなものが噴出し、周囲に広がっていく。
それから後の、記憶はなかった。
427 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:57:55.68 ID:Q6+4diJj0


 夢を見ていた。
その中で、彼女は大きな……温かい女性に抱かれて横になっていた。
青白い髪。長い、綺麗な髪。宝石のように光っていて、それでいて光沢を発していて……まるでシルクのようだ。
女優さんでもおかしくないくらいの、整った顔。そして自分よりもはるかに女性らしい、綺麗なボディライン。その膝の上に横になり、更紗は頭を撫でてもらっていた。
大好きな人だった。
本当に、本当に大好きな人だった。
もういないはずの。もう、この世の何処にもいないはずの人。
涙が出た。
顔を上げて、彼女のことを見上げる。
しかし、そこで更紗は凍りついた。
青白い綺麗な髪が、見るもおぞましい金色に変色していくのだ。顔かたちも、何もかも同じで……髪の色だけが変わっていく。
そしてそれが完全に金色になった頃。
彼女は細く、綺麗な手を伸ばして更紗の首にかけた。段々と力が込められて、息ができなくなっていく。
彼女は笑っていた。ケタケタと、喉を震わせて、更紗を嘲るように笑っていた。
引き絞るように絶叫して、飛び起きる。
自分の声で驚いたのか、隣で寝ていた燐と、そして椅子で待機モードになっていた里が同時に目を開けた。
汗だくだった。ポタポタと毛布に流れ落ちている。

「さーら、大丈夫ですか?」
428 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:58:24.59 ID:Q6+4diJj0
目を擦りながら燐が聞く。すかさずタオルを差し出した里の手からそれを受け取り……。
更紗は思わず泣き出してしまったことを悟られまいと、顔を抑えた。
思い出せなかった。
その人の、名前も。声も。
その人が誰だったのかも。
何も、思い出せなくなっていた。
代わりに頭の中は、あの気味の悪い金髪の女が支配してしまっていた。思い出を汚し、踏みにじり、そして嘲笑しているあの女。
震えていた。
訳が分からない。
しかし、更紗は泣きながら震えていた。
それをそっと抱いて、燐は耳元で囁く。

「大丈夫ですよさーら。お姉ちゃんがいますからね」

「……」

「大丈夫ですよ」

しばらくして、小さく頷く。
そう、彼女は訳も分からずただ漠然と。
ただ、恐ろしかった。
429 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 20:59:37.28 ID:Q6+4diJj0
34 溝鼠

 崩壊は、意外と早く訪れた。
これが、贖罪なのだろうか。
報いなのだろうか。
それが、課せられたカルマだというのなら。
それが、許されない義務だというのならば。
神様が与えた差分だというのなら。
惨すぎる事実だった。
それは、どうしようもないドス黒いナイトメアの中にいる、汚泥の海のように。
どろどろ、どろどろと足を絡めて沈み落としていく。

――それがもし、カルマだというのなら。
――それがもし、報いだというのならば。

あまりにも酷い。
あまりにも、それは酷い現実だった。
430 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:00:17.95 ID:Q6+4diJj0


 ほんの僅かな時間。それは確かに、最愛の兄の魔法だった。
大魔法。繰り返す力。
どの範囲までが巻戻ったのかは分からないが、そのとき確かに、時間が巻戻った。先ほど殺したはずの憎い売女が、機械人形の手の上で震えながら……上半身を起こすのが見える。
エンドゥラハンも、更紗の乗る骸骨の船も、弾き飛ばされそうな速度で血沼を掻き分け、進んでいた。
兄に作ってもらった大事な従者。
右天、左天の二人は殺された。
兄も、殺された。
あいつが原因なんだ。
あいつが……あいつが!
それなのに……それなのに。
よりにもよって兄の魔法? この土壇場で、兄の魔法を使った?
それは、たった一つの事実を示唆していた。

――兄の心臓は、あの女が持っているのだ。

(何故?)

頭の中に様々な憶測が浮かんで、そして弾けて消えていく。

(何故?)

訳が、分からなかった。
何故、何故、何故?

(ににさま……)

更紗の歯が、ガチガチと鳴っていた。
それは恐怖だったのだろうか。
それとも、後悔の念だったのだろうか。
431 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:01:27.64 ID:Q6+4diJj0
ふと我に返り、周囲を見回す。
街だったはずの場所。ドーム……人間の生活場所であったはずの周囲。視線が届く地平線の向こうまでそれは……まるで地獄のように変化してしまっていた。
自分がやったのだ。
自分が。

(怒っているのですか……)

更紗の、手が震えた。

(ににさまは、怒っておられるのですか?)

そんなこと……想像もしたことがなかった。
兄が自分を怒っているなどということ。そんなことは断じて認めてはならないことだった。
だって、自分は兄の……彼のために生きていたのだ。彼のことを考え、そして第一に、最上だと思われる行動をしたのだ。
そうだ、悪くない。
自分は悪くない。
悪いのは。
あの腐れ女だ。
あいつなんだ。

「怒らないで……怒らないで!」

更紗は失踪する骨船の上で、両耳を押さえて身をよじり、天に向かって悲鳴を上げた。

「悪くない! わらわは悪くない! にに様怒らないで……怒らないで下さいまし! 怒らないで! にに様! にに様!」

それは、あってはならないことだ。
何故なら。
姉と兄。
二人が存在を許してくれたからこそ。
だからこそ、自分は今……ここにいるのだ。
432 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:01:59.50 ID:Q6+4diJj0
彼らは笑っていてくれなければいけない。
彼らは、許してくれなければいけない。
自分が今、ここに存在していることを。
自分が、幸せになることを。
だって……。
だって。

彼らに許してもらえなければ、誰に許してもらえるというのだろう?

誰も、いない。
誰もいないんだ。
お前にはその権利がないと、誰も彼もが冷たい水の上から言葉を投げ落とすだけなのだ。
死ね。死ね。
死んでしまえ。
誰も彼も、そう言うだろう。
そう……自分は。
要らない存在なのだ。
自分達は。
要らない存在なのだ。

「にに様……ねね様……」

もう思い出せない……姉だった者のことが脳裏を掠める。顔が、どうしても思い出せない。そこだけ修正液をぶちまけたように白く塗りつぶされてしまっている。
声も、顔も……その温もりさえ。もう思い出せない。
いずれ自分は、兄のことさえも忘れてしまうだろう。レベル2を使用したから……この後すぐのことかもしれない。
ひょっとしたら、二年前のように一時的に全ての記憶をなくしてしまうだけでは飽き足らず、もう一切合財を思い出すことが出来なくなるのかもしれない。
そうしたら。
そうしたら今度こそ。
ワタシは、コロサレテしまうンダロウ。
要らない子だから。
この世界にはいてはいけない存在だから。
433 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:02:33.27 ID:Q6+4diJj0
更紗は、怖かった。
自分が自分であるその、唯一の基盤が踏みにじられ……そして吹けば飛ぶような脆弱な基盤の上にあるという事実が、怖くて怖くてたまらなかった。
誰も、助けてくれなかった。
もう誰も、助けてはくれない。
右天も死んだ。
左天も死んだ。
兄も、姉も。
おそらく音羅も死んでいる。
硲には裏切られ。
家族は散り散りになった。

そして、自分は――

――死にたくないよ。

誰も、それを肯定してはくれなかった。
死ね。死んでしまえ。
声が聴こえる。
どこからか、そう囁き、恫喝し、絶叫する声が聴こえる。
お前なんていないほうがいいんだ。
お前なんて、いてもいなくても同じなんだ。
だって、お前を唯一許してくれた最愛の人は。
だって、お前が唯一愛していた最愛の男は。

お前が、死に追いやったんだから。

彼の幸せを、他ならぬお前自身が。

お前自身が叩き潰したんだから。

死ね。
死んでしまえ。
434 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:04:49.38 ID:Q6+4diJj0
――報いを受けてください。

弟の声が頭の中にこだまする。
報い?
これが報いだとでもいうのか?
この汚らしい絶望の世界が、報いだとでもいうのか?
これが、ほんの少しだけ幸せを願った自分の罪だとでもいうのか?
その権利を行使しようとした、一生命体としての自分に対するカルマだとでもいうのか?

「違う……!」

更紗は、体の中の物を全て吐き出さんばかりの勢いで吐き捨てた。

「……違う!」

奇妙な……ゼラチンが固まるように、ぶよぶよとした血沼……更紗が足下にしているそこが盛り上がっていく。動きを止めた骨船を包み込むようにして、その赤と黒と茶の汚泥は、粘土細工のように数十メートルも盛り上がり……先端に、人間の顔を形成し始めた。
目……鼻。口に、おびただしい数の骸骨が張り付き、カタカタと顎を鳴らしている。
それは、三メートル四方にもわたる泉の顔だった。

「カ……カッ……カカ……」

更紗は、人頭蛇のようになった、盛り上がった血沼。その、おぞましい兄の頭の上で、反り返って天井を向き……鳥のように奇妙な笑い声を上げた。

「ににさま……ににさま……」
435 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:06:26.85 ID:Q6+4diJj0
そして、完全に瞳孔が開ききった瞳を眼下に向け、その脳天に膝を突く。彼女は愛しそうに汚濁のそれを手で撫でると、目を細めてぶつぶつと呟き始めた。

「そう……そうですわよね……? これは夢なのです……悪い夢なのですよね……?」

兄の頭がぬるぅ……と滑るように。
敵の方に動き出した。

「……あはっ……そう! これは夢! あれを殺せば冷めるんだわ! そう、きっとそうなの! あの女が隠しているあなたの心臓を、ちゃんとお返ししないから……こんな意地悪をなさっているのですね?」

血錆の侵食により、エンドゥラハンの動きが段々と緩んでいく。そこに向かって血蛇を爆走させながら、更紗はその頭頂部に仁王立ちになり……完全に常軌を逸した、丸く飛び出した目を前に向けた。

「意地悪なににさま! 本当に……本当に、本当に! 冗談がお好きなんだから!」

訳のわからないことを叫ぶ少女の後頭部。そこに埋め込まれている青い核に浮いていた白い斑点が、水に落とした絵の具のようにクシャリと歪んだ。そしてみるみるうちに全体に広がっていく。
更紗は、自分が泣いていることに気がつかなかった。目元からボロボロと、ミルクのようなおかしな色をした涙が溢れてきている。
泣きながら、しかし笑いながら。
自分を殺そうとした憎い相手。
兄の妻に接近する。
そして彼女は。
他ならぬ、自分が乗っている汚泥で出来た兄の口を開かせ、機械兵器に頭からかぶりつかせた。
436 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:07:13.97 ID:Q6+4diJj0


 更紗が燐に拾われた頃のジェンダドームは、他ならぬ魔法使いの排斥運動が為されていた。
その頃の魔法使いは、一時期Hi8とエリクシアとの戦闘で激減したとはいえ、また増加の一途を辿っていた。
それというのも、Hi8の中での功刀や愛寡は存在しているだけで魔法使い感染者を増やしてしまうという特性を持っているためだった。だから、少し血を求めて人間と接触しただけで、特に愛寡に至ってはその人間を魔法使いと化してしまう可能性がある。
その自覚していない……従者ではない、無自覚に発生した魔法使いは、時に様々な人間に不利益である犯罪を引き起こす場合が多かった。
だからこそ狂信教はなくならなかったのだし、他ならぬ排斥運動も他のドームでは日常的に行われていることだった。
大部分の複製魔法使いは、強力な力を持つ者がいたとしても物量で攻められればあっさりと殺されてしまう。だからこそ、ジェンダの魔法使い排斥派は過去、二度にわたりそのような『無自覚な』魔法使いを処分してきた実績ゆえ、感覚が麻痺していたのかもしれない。
人間の力で人間を守れる。
そう、たかをくくっていたのだ。

――燐の家に拾われてから半年。

その日は、満月……明るいスクリーン、その空に雪がちらつく夜だった。
階下で怒鳴り声が聞こえる。燐の屋敷は、魔法使い排斥派の暴徒によって取り囲まれていた。窓から覗いただけでも、ゆうに二百人以上はいる。

「あんたが魔法使いを隠してるってことは知ってるんだよ!」

「支配人がアベルの一員だって噂は本当なんですか!」

更紗は、燐と里に抱かれるようにして、廊下の隅で震えていた。階下……ロビーには、屋敷で雇っている人間のメイド数人が入り口に陣取り、バリケードを作っている。その奥で燐の両親は飛び込んでこようとしている人間達に、必死に制止の言葉を叫んでいた。

「アベルめ! ふざけんな! 俺達をどうするつもりだ!」

暴徒の一人が、手に持っていた瓶を投げつける。酒を飲んでいるらしい。どうやら、酔っ払いのなんてことはない扇動を引き金にして突っ込んできたらしい。ドン、ドンと壁が叩かれている。時折石や瓶が投げ込まれ、窓ガラスが割れる音がする。
437 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:08:21.27 ID:Q6+4diJj0
発端は、簡単なことだった。
人買い……そのオークション主催主が、更紗が魔法使いであること。そしてその魔法使いをドームの総支配人が買っていったことを週刊誌に暴露したのだ。

――そう、オークション側は更紗が魔法使いであることを知っていたのだ。核を見たのだろう。

その上で何の対策もせずに、競りに出していたのだ。
どこからかの情報網で、その奴隷を買ったのが総支配人の子供だということがばれたらしい。ご丁寧に、新聞には更紗の写真まで載せられていた。

――アベル。

それは、このドームにおけるカルト集団。魔法使いの到来を救世主到来と考える、異常宗教集団のことだ。
社会的にも差別され、公然と道の真ん中で者を投げつけられる信者もいる。
燐の両親は、新聞を見た途端青くなって更紗のことを確認した。
捨てられる、と思った。
それどころか、この場で殺される、とさえ思った。
どうしてかは分からなかったが、本当にそう感じたのだ。
しかし、燐の両親はそうはしなかった。
泣いて更紗を庇うようにしてくっついてはなれない燐のこともあったのかもしれないが。
彼らは、更紗の核を摘出し、普通の人間に戻すという計画を立ててさえくれた。

――お前は私達の娘なのだから、絶対に差し出すようなことはしない。

そうも言ってくれた。

『嬉しかった』

そう、それは確かに嬉しかったのだ。
彼女にとっては思い出せないが……ここにいていいよと。ここに存在していていいんだよと。
かつて自分に圧倒的な力で認めてくれた大事な人。
それと同じ温かさを感じたのだ。

――だから安心していた。

自分は人間になれるんだ。だから、この人たちと一緒に暮らしていていいんだ。
許されるんだ。
自分には、幸せに暮らす権利はあるんだ。
そう思っていた。

……そう、思っていた。
438 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:09:10.68 ID:Q6+4diJj0
「ガキを出せ!」

「アベルの犬め!」

メイドを突き飛ばし、暴徒の一部がロビーの中になだれ込んだ。燐の両親が不法侵入だなどと怒鳴っているが、頭に血が上った群集はそれを聞こうとしなかった。
次いで、二メートルはある木の十字架と、子供の腕ほどもある杭を手に持っている男達が屋敷に足を踏み入れてくる。

「探せ!」

「魔法使いを殺せ!」

「殺せ!」

出て行け! と、燐の父親が声を上げた時だった。暴徒の一人が、燐達を助けようと階段を駆け昇ろうとしたメイドに向かって、手にしていたピストルの引き金を引いた。
当たり所が奇跡的に……と言っては最悪すぎるほどに。その小さな銃弾は、メイドの後頭部から額までを突き抜けて、壁にベシャリと突き刺さった。
声さえも上げずに、メイドが床に崩れ落ちる。
燐の母親が悲鳴を上げるのと、血を見て群集の中の理性が決壊したのは同時だった。

「さ……さーら、逃げてくださいまし!」

燐は歯を鳴らしながら、里の手に更紗を押し付けた。

「にぃがどうにかします。だから、早く地下室の奥。倉庫の方に隠れてください」

「え……あ……」

怖くて、訳が分からなくて、言葉が出てこない。震えている妹の頭を撫で、そして燐は立ち上がった。

「里、早く行きなさい」

「拒否いたします。お嬢様は更紗様をお連れし、シェルターの方に向かってください」

里は、階段の方まで迫ってきた十字架と杭を持つ男達を一瞥し、燐の襟元を掴んで引き寄せると、更紗を彼女に押し付けた。
439 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:09:56.82 ID:Q6+4diJj0
「何を言うのです! にぃの言うことが」

「お行きください」

簡単に打ち切られ、里が歩き出す。
燐はしばらく唇をわななかせていたが、やがて大粒の涙を零し、里の足にしがみついた。

「や……やだ……」

「……」

「里、嫌だ……」

「邪魔です」

冷たく言い放ち、アンドロイドは燐の首筋を猫のように掴んで、脇に放り出した。

「いたぞ、こんな所に隠れていやがった!」

階段を登ってきた男達の一人が、声を上げる。里がその方向に走り出すのを見て、燐は少しの間呆然としていたが……懸命に感情を押し殺し、更紗の手を握った。

「にげます!」

「……あ……」

「しっかりなさい。立って、走るのです!」

「で……できない……足が、動かないよ……お……お姉ちゃん……」

「立つんです!」

無理矢理に腕を引いて妹を立たせ、燐が反対側の通路に向かって走り出す。引きずられるように更紗も、足をもつれさせながら駆け出した。
里は、原則的にはメイドロボだ。だから人間を傷つけることは出来ない。足止めをすることはできても、それも何分ももつとは思えなかった。

「さと……」

廊下を走りながら、燐は天井を見上げてか細い声を発した。

「……さと……」
440 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:10:35.47 ID:Q6+4diJj0
そのまま屋敷後部の階段を、転がるように駆け下りる。少し行けば地下室への跳ね扉がある。そこに入って、シェルターに行き……中からロックしてしまえば、外側からはよほどのことがない限り空かないはずだ。

「お姉ちゃん……」

更紗が息を切らせながら、泣きそうな声で口を開く。

「怖いよ……」

「……」

「怖いよお……」

「大丈夫!」

燐は……明らかに空元気と分かる震えた声を上げた。そして更紗の方を向き、にこっと笑ってみせる。

「お姉ちゃんが、絶対に守ってあげ」

そこで、燐の声が途切れた。
廊下の曲がり角から飛び出した男が、手に持っていた鉄パイプを、ためらいもなく燐の頭に振り下ろしたのだった。
石膏を蹴り飛ばしたかのような、不気味な音がして……小さな、金髪の女の子は脇に弾かれ、人形のように壁にぶつかり。
そして力なくずるずると、床に滑り落ちた。

「あ……」

駆け寄ろうとした更紗の前に、向こう側からおびただしい数の大人が走ってくるのが見える。
彼らは手に手に鉄パイプを振り上げ、尻餅をついた更紗をとり囲んだ。

「こいつだ! 捕まえろ!」

誰かが叫ぶ。思わず逃げようとしたその足に、鉄パイプの一撃が振り下ろされる。骨が折れたのかと思うくらい、凄まじい衝撃だった。悲鳴をあげ、足を押さえて床を転げまわる。その背中や腕、果ては頭まで、大人たちは鈍器を振り下ろしていった。
441 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:11:15.61 ID:Q6+4diJj0
数分たち。
ぼろきれのように無残に床に転がった少女の髪を掴み、男達は屋敷の裏庭へと歩き出した。
更紗の体には所々青痣が浮き、彼女は抵抗するでもなくただ泣きじゃくっていた。

――ワタシには……

裏庭には、細い木材が組まれた中心に、木の十字架が備え付けられていた。そこに引きずり上げられた目に、自分をとり囲んでいる人間達が映る。
どいつもこいつも、恐怖に支配されて、溝鼠のような瞳をしていた。
震える少女の腕を掴み、男達は十字架に荒縄でその体を縛り付けていった。

――ワタシには……権利が……

取り囲む中に、子供がいた。自分と同じくらいの年の、男の子だった。
そいつは、足元に落ちていた小石を拾うと。
更紗に向かって思い切り投げつけた。脇腹に突き刺さり、悲鳴を上げる。

――静かに暮らす、権利が……

それが皮切りになり、次から次へと石や瓶、木材が投げつけられる。顔、頭……目や胸。ありとあらゆる場所を殴打され、更紗は悲鳴とも断末魔ともつかない喚き声を発した。

「……たすけて……!」

誰も、答えなかった。
殺せ、殺せ。
魔法使いを、殺せ。
そう、呪文のように繰り返しているだけだ。
繰り返している、だけだ。

「たすけて! たすけてええ!」

権利などない。
そう――自分に。
幸せになる権利なんてないんだ。
自分には、そんな権利なんて……ないんだ。
442 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:11:56.25 ID:Q6+4diJj0
「たすけて!」

死ね。
死んでしまえ。
お前は要らない子だから。
お前は、存在してはいけない子だから。
だから、死ね。
痛い。
苦しい。
誰か。
誰か、助けてください。

「たすけて! ににさま!」

無意識だった。口の奥から無意識に言葉が噴き出してきた。
後頭部の球……魔法使いの核が、ほのかに青く発光する。
松明を持った人間達が、前に進み出る。その脇には、先端がとがった杭を持った男がいる。

「ににさま! たすけてええ!」

――更紗。

誰かの声が、聴こえた。

――お前がどうしても辛くなった時には、俺のことを思い出せ。

「たすけて……」

杭が、胸にピタリと当てられる。もう一人の男が……少女の頭ほどもある巨大なハンマーを振りかぶった。

――お前は、俺の妹だ。大事な妹だ。だから、お前が本当に……本当に辛くて。でもどうしようもない時は。

ハンマーが、振り下ろされた。
443 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:12:50.16 ID:Q6+4diJj0
――俺が許す。その時には、お前のその強力な大魔法で。お前を泣かす奴を消し飛ばしてやれ。

首の後ろの核が、一瞬だけフラッシュのように瞬いた。

――俺が許す。

パン、という音がした。
十字架に磔にされながら。白目までを真っ赤に充血させた少女の顔に、パタタタタッと雨のように、赤黒い血液が降りかかる。
それは返り血だった。
上半身が列車に吹き飛ばされたかのように、彼女の前に立っていた人間……その二メートル四方ほどの範囲。
そこに存在していた人間は、大人も……子供も関係なく。
ただ、関係なく。
上半身だけが粉々に爆散していた。
血を吹き上げる下半身が、神経や背骨をゆらゆらと揺らしながら、次々に地面に崩れ落ちていく。
更紗はその光景を、目を細めて嘲るように見ていた。そして頬を伝ってきた脳漿だと思われるピンク色の物体を、舌でぞろりと舐めとる。
次の瞬間、彼女を縛り付けていた縄が、焼けたように黒々とした炭に変質し、空気中に散っていった。
地面に降り……唖然としている人間達をゆっくりと見回す。
その目に、引っ立てられて来る壮年の男女が映った。屋敷の裏口だと思われる場所からは、自分と同じくらいの金髪の少女が、メイドに抱えられて出てくるのが見える。

――金髪。

誰だか分からない。
分からないが。

――面白くない。

更紗はニマ、と無邪気に微笑むと、鈴の鳴るような声を発した。

「さて」

声を発する者はいなかった。
誰も、その魔法を理解することが出来る者はいなかったのだ。

「まぁ……屑蟲ども。とりあえず死ね」

風船の破裂するような音が、連続して裏庭に響き渡った。
444 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:14:14.13 ID:Q6+4diJj0
35 虹の悲雨が降った夜

 もがく。血沼の中で、皮膚をずるずるに焼ききられながら燐はただ、もがいた。
こんなところで、死ねない。
死ぬことが出来るはずもない。
目も開かない。体全体の感覚もない。
でも、更紗はこの手で殺さなきゃいけないんだ。
殺してあげなくちゃいけないんだ。
だって、自分は彼女の姉で。
そして、彼女を助けてしまった張本人なんだから。だから殺さなくては。
自分が、殺さなくてはいけないんだ。
必死に手を伸ばし、ガゼルを探る。
自分がやるんだ。
自分が……。
両親を殺され、目の前でおびただしい数の人間が虐殺され。あの夜。
しかし更紗は、確かに自分に。
助けを求めていた。
それを自分は絶叫で跳ね除けた。
そうするしかなかったのだ。
そうするしか……。
手を伸ばす。伸ばす。
ぬめぬめとした気味の悪い汚濁が喉にまで侵入してくる。
やらなきゃ……。
やらなきゃ…………。
指の先が、何かに触れた。
渾身の力を込めてそれを掴み、引き寄せる。
その瞬間、燐の頭の中でまるで何か……ビデオテープを巻き戻すような、そんな奇妙な感覚が湧き上がった。息も……鼓動も……そして、自分を取り巻く空気の流れさえも。
それら全てが逆行して、元に戻っていくような錯覚を受ける。
体を取り巻いていた血と錆の沼。その本流が段々と引いていき……次いで、凄まじい速度で前に戻っていくのが感じられた。体から溶けて剥がれた皮膚さえも、何処からか戻ってきて体に張り付いていく。
445 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:15:12.16 ID:Q6+4diJj0
壁も、床も、天井も。それら全てがドロドロに溶けていたはずなのに、また凝固して白い壁に戻っていく。
はっ、と気がつき、目を開けた彼女の網膜に。天井から発せられる強力な白い光が飛び込んできた。
次いでガゼルの声が鼓膜を叩き、燐は思わず体を萎縮させた。

「里と作戦を立てた。一度しか言わない」

「……」

「一発には微弱なピノマシンフィールド発生装置。もう一発には通信素子と、映像をこちらに転送するための発信機がある」

そう言いながら、ガゼルは徐々に自分自体の形を変え始めた。

「まず一発目で、更紗の展開している魔法空間に穴を開ける。そして二発目で、俺もサポートをするから、虹を見つけて、彼女の近くに通信弾丸を撃ち込む」

「……」

「奴の魔法空間は強力だ。穴を開けても、すぐ閉じると思う。だから一瞬開いた穴から、俺と里が内部の様子を最大限スキャンする。それに、三発目は多分俺の体が耐え切れない。だから、チャンスは一回しかないと思ってくれ」

「魔法領域、あと二分ほどでこのエリアを飲み込みます」

里が言う。
燐は、床に寝そべるようにして里に支えられ、ガゼルの事を構えていた。

「燐、聞いているのか!」

ガゼルが声を荒げる。
それに答えず、彼女は慌てて周囲を見回した。
これは……。
何が起こったのか、さっぱり分からなかった。
446 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:15:47.69 ID:Q6+4diJj0
しかしこれは……紛れもなく。
数分前。
少し前の出来事だ。
ガゼルも、里も。
ほんの少し前と同じことを言っている。
自分の体を見るが、何処も怪我なんてしていなかった。里が弾丸を込めるのを見て、次いでガゼルの後部からバイザーを取り外して目にかける。
監視カメラからの映像。
更紗の崩壊エリアは、まだかなり前方にあった。

――戻った。

夢かとも思ったが、どうも自分を支えているメイドの重さは現実だ。夢ではない。
これは……夢ではない。
時間が戻った?
そう考えるしかない。

「じ……時間が……」

「確認できたか? 燐、返事をしろ」

「戻りましたの……?」

「はぁ?」

ガゼルは素っ頓狂な声を発した。

「何を言ってるんだ。早く撃て!」

「お嬢様、どうかなされたのですか?」

同時に二人に聞かれ、燐は唇を噛んだ。
447 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:16:28.38 ID:Q6+4diJj0
この二人には、時間が巻戻ったという記憶はないらしい。
訳が分からない。

……訳が分からないが。

もし、これが夢ではないするならば。
これ以上の幸運はない。
これ以上の、やり直しのチャンスはない。
燐は答えずに、先ほど里がスキャンして割り出した、ピンク色の点。その方向にガゼルを向けた。
そしてトリガーに指をかけ。
照準を、動こうとするガゼルを抑えて、無理矢理に……壁の染みの位置から手動であわせ。
引き金を引いた。
一発目が穴を開き、二人のアンドロイドがスキャンを開始しようとする。しかし燐は、衝撃で後方に転がりながら、一気にもう一度引き金を引いた。通信素子を内包した銃弾が、一発目と同じ穴を通って更紗のフィールドに突き飛んでいく。

「な……何してるんだ燐!」

ガゼルが心底驚いたという甲高い声を上げる。しかし燐は、彼のマイク部分に口をつけ、息を吸い込んでから大声を発した。

「てんしさん!」

「燐! お前何を」

「聞こえているなら、許可をください!」

「燐!」

「一言でいいんです、許可をください!」

バイザーに映っている更紗の空間が……しかし、その瞬間渦を巻いて急激に広がり始めた。
早い。時間が戻る前より、圧倒的に。

「許可をください!」

燐は、なりふり構わずガゼルのマイクに向かって声を張り上げた。
448 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:17:32.34 ID:Q6+4diJj0


 夫の顔かたちをした血蛇の口に腕を噛まれ、ずるずるに皮が剥がれた虹は、空中にぶらぶらと漂っていた。虚ろな瞳が空中を彷徨っている。
更紗は大粒の汗が浮いた顔で、荒く息をついていた。さっきから後頭部の核が、焼け付くように痛くてたまらなかった。視界が断続的にブラックアウトしては元に戻ってを繰り返す。
大魔法使いは、大股で虹に近づくと、汚らわしいものをどけるように、爪先で彼女の胸を蹴り上げた。
神経がむき出しになっている部分に靴が突き刺さり、虹は目を見開いて体を痙攣させた。その金髪を掴み、更紗は軽く息を吸うと、虹の体に唾を吐きかけた。また神経に電流のような刺激が走り、虹は押し殺した叫び声を上げて体を硬直させた。

「……一度しか言わぬ」

更紗は、鉄のような声で淡々と言った。

「我が兄の心臓を出せ」

「……」

「五秒後に殺す。出せ」

沈黙のまま、時間が過ぎる。更紗はもう一度……今度は虹の顔に唾を吐きかけると、その頬を足で蹴った。
その拍子に血蛇の口が締まり、ボキリという音がして……少女の腕が半ばから折り千切れた。そのまま、高所……地面から十数メートルは離れている場所から、虹は自由落下を始めた。

「屑が」

文字通り吐き捨て、更紗はくるりと背を向けた。そして、核の痛みに耐えかねて膝を突く。
その瞬間だった。ヒュン、という風を切る音がして。
更紗は、その場から突き飛ばされるように、もんどりうって自分が作り出した血蛇の上を転がった。
449 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:18:37.57 ID:Q6+4diJj0
熱い。
最初に感じたのは、それだった。
腕が動かない。
右肩から、ホースの蛇口を全開にしたように、血が噴出していた。
血だ。
自分の血だ。

「え……」

唖然と呟き、起き上がろうとして……しかし全身に走った痛みにより、またその場を転がる。
狙撃された。
今まで培ってきた戦闘の記憶が、そう告げていた。
肩を射抜かれたのではない。銃を喰らったことは今までにも何回かあるが、この痛みは銃弾がまだ体の中に残っている痛みだ。

「う……」

核の痛みと相まって、全身が痺れてくる。
まずい。
早く摘出しなければ……。
震える指を肩に向けた時。
他ならぬ、自分の傷口。銃弾がめり込んだ中から。
大音量でノイズ混じりの声が流れ出した。

『許可をください!』

空気、それどころではなく更紗の傷口から全身の血液。鼓膜、体の細胞までもを振動させ、その声は周囲に鳴り響いた。
450 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:19:20.25 ID:Q6+4diJj0
鼓膜が破れたのかもしれなかった。
頭を殴りつけられたかのように、もんどりうって血蛇の上から落下しそうになる。
体の細胞。内部から全てを破壊される痛み。
更紗は、口の中を切ったのか血の混じった泡を吹いていた。

『てんしさん、許可を! 早く!』

断末魔のような声を上げて、肩を抑えて転げまわる。

『許可を下さい!』

眼下。
先ほどあの憎い雌猫を突き落とした方向から。
何事かを叫ぶ、掠れた声が聞こえた。

『許可を!』

痛い、痛い……痛い痛い痛い!
それは、更紗が今まで感じたこともない強烈な。
そう、痛みだった。
腕が痙攣している。音が奇妙に反響している。
ドポン、とあの女が血沼に落ちる音がする。
それきり、肩の銃弾から声は聞こえなくなった。血蛇の上にうずくまり、更紗は震えていた。いや……体が痙攣を起こしている。
神経全てが千切られてしまったかのように、体が動かない。次いで胃の中のものを吐き散らす。
そして顔を上げた大魔法使いの目に。
空が、白く光るのが見えた。
451 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:20:09.83 ID:Q6+4diJj0


 キャッチ。それは信じられない事実だった。いきなり作戦を無視して燐が絶叫をはじめ、どうしようもなく唖然としていて。
送り込んだ銃弾に組み込んだ通信素子。
その可聴域を最大レベルに設定したマイクから拾われた、鳥の鳴き声のような声。
それは紛れもなく。
虹の声だった。

「拾った……」

ガゼルは、呆然と呟いた。
次いで心の中に歓喜の感情。吹き荒れる間欠泉のような、真っ赤な感情が噴き出してくる。

「拾った!」

応答。
ただそれだけで良かった。
脳内にかかったセーフティを解除し、直ちにシステムのシーケンスを組む。
スナイパーライフルと化していガゼルの上部。銃身に値する場所がパクリと開き、そこから生クリームを搾り出す当て金のような器具がせり出す。
数秒置いて、そこから天井に向けて……レーザーのような白い光が噴出した。それは壁も……ドームの天井さえも透過して、光速で空へと駆け上っていった。

「アクセス確認。認証。システム起動チェック。完了」

「サポートシステムの掌握完了。エラー数三千七十五、カット。全ての設定をマニュアルに」

ガゼルに連結していた里が、考える間もなくその兵器……レ・ダードの制御に動き出す。
二人のアンドロイドは、AI中枢から凄まじい動作音を発しながら、ぶつぶつと訳のわからないオペレート言語を、次から次へと流していった。

「チェンバー内正常加圧中。クリア、クリア。エラーエネルギー効率低下しています」

「ライン三十に連結。複砲座に制御系等を以降」

「ピノ融合、七十五パーセントの割合で増幅可能」

「バーストシステム起動。コードW」

「了解。座標調節完了。着弾確立六十二コンマ七七三八」

「修正。焦点のサイドをバーンクテンクション。適用範囲二百メーター四方」

「了解。着弾確立八十五コンマ八九二五に修正」

「システム正常稼動。確認。ラインのセーフティーを解除、解除。全解除を確認」

「撃てます」
452 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:20:43.03 ID:Q6+4diJj0
里の声。次いで燐のかけているバイザーに、突然球形の、真っ青……いや、青白い白に覆われた物体が映し出された。周囲の光さえ飲み込みそうな漆黒に、それはぽつんと浮かんでいた。

――地球。

それは、自分達が存在しているここ、地球の映像だった。
数秒も経たずに、そこに急速落下していくかのように……地球がズームされ。そして真っ白い雲の中に突入する。次いで氷と雪の中で八割がた隠された半球形の建物。ドームが映し出される。その一区画が、どす黒い、渦巻いている魔法のエリアで覆われていた。それは徐々に範囲を広げていた。
自動でバイザーに照準が表示され、そしてその一点に定まった。

(さーら……)

燐は、一瞬躊躇した。
本能的に。
ここが最後の崖だと気づいたのだった。
これを撃ってしまったら、自分はもう戻れない。
もう、戻ることは出来ない。
それを心の奥底が理解したのだ。
だが。
気づいた時には、指は勝手に。
ガゼルのトリガーを引いていた。
453 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:21:08.64 ID:Q6+4diJj0
瞬間。
天から光が降った。
一本ではない……それぞれが直径十メートルはあるかという白い、網膜を焼くのではないかというくらい強い光が十……二十。
次々と。
まるで雨のように、魔法の一部に突き刺さり……そして水風船を割るように、それを貫通して抜けていく。
光の雨。
それは、涙の雨だった。
それは、美しく……どうしようもなく悲しい色をした雨だった。
夜の光を劈いて、天からの天使の光は。その天使の雨は、ドス黒い地獄の空気を跳ね飛ばし、そして掻き消して、押しつぶして。
数秒もせずに、消えた。
その寸前に、炸裂したレ・ダードの光は球状に収束し……そして弾けた。バイザーの裏から目を焼きそうになり、燐は慌ててそれを脇に放り出した。
しかし目の前の壁から、壁など存在していないように光の本流が透過し、自分達を押し流さんとあふれ出し……向こう側に抜ける。
里に支えられながら後方に転がり。
燐は、更紗のものとは対極を為す、その白い光の海の中で。
今度はもがくことをせずに、体を沈み込ませた。
454 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:22:33.16 ID:Q6+4diJj0
36 ににさま

 体が、動かなかった。
何が起こったのか分からなかった。
白い光が脳天から上を突きぬけ、そして地面の下に突き刺さり。
更紗は、周囲に渦を巻いて噴出した白い海に飲み込まれ、もんどりうって遥か後方まで流されていた。
白いその、霧のような光の中で。
大魔法使いはうつ伏せに倒れていた。
体中が痛かった。
落下の拍子に、足の骨を折ってしまったらしい。右足の中ほどからが、奇妙な方向に曲がっている。
無理矢理に起き上がろうとして、しかし右肩にドリルを抉りこまれたかのような痛みが駆け抜けた。小さく叫び声を上げ、地面を転げ……しかし、それによりまた体中に痛みが走り、白目を剥いて打ち震える。
見渡す限り、白い海だった。
正確には、更紗が侵食し……ビルも、地面も、それら全てが球形に、クレーターのように抉れている、中腹に彼女は転がっていた。地面はまるで鋭利な刃物で掘り込んだように、光を発して鏡面のようになっている。
あの時。
光が突き抜けた瞬間。
そこに当たった更紗の魔法が、掻き消された。本当に、幻のように消えてしまったのだ。
あっさりと。
まるで……そう。まるで。
姉の。
涙の氷結魔法を当てられた時のように。時間から全ての空間が凍りついて、そして消滅していくように。
作り出した地獄が薄れ、削れ。消えていく。
足下の血蛇が薄くなり、小さな粒子に分散した時には遅かった。更紗の小さな体は、上空五メートルほどの地点から空中に投げ出され……自らの足を滅茶苦茶にしながら、地面に打ち当たった。
空中から降り注いだ光は、地面に停滞し……竜巻のように渦を巻いていた。それが一瞬だけ収束し、津波のように周囲に広がっていく。
空も、空気も。何もかも。
白かった。
網膜を焼いてしまうのではないかというくらい、真っ白な空間に包まれていた。
455 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:23:24.79 ID:Q6+4diJj0
白。
白。
白。

ありとあらゆるものが、白だった。
その中でポタリポタリと肩……そして砕けた足から赤い血を垂れ流しながら、更紗は這ってその場を離れようとしていた。
痛い。
怖い。

「これは……」

一歩……前に進むたびに、視界がかすむ。

「夢……」

掠れた声で呟く。
動かない右手の代わりに、前に突き出した左手。その親指と人差し指が、落下の衝撃でぐちゃぐちゃに潰れている。

「夢なのじゃ……」

残った手で、自分自身が魔法で削り取った地面を引っかく。

「悪い夢……」

そうだ、夢なんだ。
これは夢なんだ。
だって。
だって。
もし、生きとし生けるもの全てが平等だというのなら。
もし、自分にも幸せになる権利があるのならば。
神様は、こんなに酷いわけはない。
神様が、こんなに無慈悲なわけないじゃないか。
自分から普通を奪い。
自分から年齢を奪い。
自分から時間を奪い。
そして、愛していた人までもを奪い。

そして今度は、この命までもを差し出せというのか。
456 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:24:00.99 ID:Q6+4diJj0
嫌だ。
嫌だ。

――死にたくない。

生きる権利。
自分には、生きる権利があるはずだ。
幸せになる権利があるはずなんだ。
だって、認めてもらえたんだから……。
確かに昔、あの人達が

『生きていていいよ』

と、そう言ってくれたんだから。
だから……夢なんだよ。
こんなの夢なんだよ。
ワタシが地獄しか作れないのも。
ワタシが、ぐちゃぐちゃなものしかイメージできないのも。
あなたが死んだのも。
あいつが生きていたのも。
みんな、みんな死んでしまったのも。
ワタシが、見捨てられてしまったことも。
誰も彼もがワタシを殺そうとすることも。
ワタシが、ずっと、ずっと子供でいなければいけないことも。

何もかもがみんな。

みんな、夢なんだよ。
457 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:25:16.65 ID:Q6+4diJj0
「夢なんだよ……」

潰れた手を必死に前に突き出しながら、更紗は震える声で呟いた。

「こんなの夢だよぉ……」

何もなくなった白い世界の中で、更紗はボロボロと涙を流した。枯れ果て、もう何が何だか……何のために泣いているのか。何に助けを求めているのか分からないまま。
更紗は泣いていた。
あの人。
大事な人。
名前をくれた人。
愛していた人。
大好きだった人。

顔を、思い出せなかった。
名前も、思い出せなかった。

「覚めて……夢なら覚めて……」

呟いて、そこで大魔法使いは体全体を走り抜ける痛みにより、地面にうずくまった。
纏っている服は、既に自分の血を吸って真っ赤に染まっていた。肩に銃弾が埋まっているため、血が止まらない。加えて高所から落下したために、体のいたるところが粘土細工のように潰れてしまっていた。
人間の体ってこんなに変形するんだ、というくらい。あっさりと不思議な方向に足や指が曲がっている。
458 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:26:06.62 ID:Q6+4diJj0
こんなものなのだ。
姉が死んでしまったときも、そうだった。
Hi8なんてこんなものだ。
自分達なんて、こんなものなのだ。
死ぬ時は死ぬ。それも、普通の人間よりもあっさりと。
分かっていたはずなのに。誰よりもそんなことは理解できていたはずなのに。
驕っていた。
侮っていた。
全てを舐めきっていた。

「痛いよ……」

更紗は、ぽつりと呟いた。

「……痛いよ……」

体が痙攣している。さっきから息を吸っても、吸っても。
苦しい。
地面と激突した時に、もしかしたら肺に折れた骨が刺さってしまったのかもしれない。動くたびに胸に強烈な痛みが走るのは、そのせいなのかもしれなかった。
頭の中が、急激に白紙に戻っていくのがはっきりと分かった。
大事な記憶。
大事な心。
それらが次々と……首筋の核が黒く発光するたびに消えていく。
更紗は空中に手を伸ばし……消えていく記憶をかき集めるような動作をした。必死に白く、何もない空間を掻き分ける。
忘れていく。
大事なこと……。
大事だった人。
殺してしまった人。

「夢なんだよ……」

もう、魔法は微かにも発動することがなかった。レベル2の無理な行使により、反応さえしない。
首筋の核が、凄まじい速度で腐っていくのが分かる。ぐずぐずに、硬かったはずのそれがゼラチン質に変化していく。
459 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:26:46.05 ID:Q6+4diJj0
「あ……あ……」

途方に暮れた声で呟いて、更紗は周囲を見回した。

「やだ……やだよ……」

どこか遠くに行ってしまう。
彼が、遠くの方に消えていってしまう。

嫌だ……そんなの、嫌だ……。

幻影を追いかけていこうとして、更紗は自分の折れた足に引っかかって、地面に体を打ち付けた。目の前に星が散り……絶叫して地面を転げまわる。
その耳に。
ずるり、ずるり……と何かを引きずるような音が聞こえてきた。
顔を上げた更紗は、心臓が止まりそうになり……そして尻餅をついて後ずさった。
少し離れたところ。白い光をかきわけるようにして、ピンク色と赤色に彩られた、肉の塊のようなものが。こちらに近づいてきていたのだ。
逃げることも、目をそむけることも出来ずに。
ただあんぐりと口をあけ、接近するそれを見つめる。
焼け爛れた顔。
皮が剥がれ、時折べしゃり……べしゃりという音を立てて地面に糸を引きながら落ちていく。
それは、更紗がこの世で最も嫌いな。
忌み嫌うべきおぞましい女。
自分から大事な人を奪い去った、あの女。
売女の、変わり果てた姿だった。
ざんばらになった金髪の奥で、目だけが猛禽類のようにぎらついている。更紗よりも高所から落下したためか、足は両方共にありえない方向に折れ曲がっている。殆ど這っているに近い。上腕から千切り取れた右腕の傷口からは、もう流す血もないのか……皮がべろりと垂れていた。
か細く息をしながら、そいつ……フィルレインは、更紗の目の前に立った。
指先でつつけば、絶命しそうなほどのか細い姿だった。
460 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:27:16.72 ID:Q6+4diJj0
しかしそれは。
更紗にとってあまりにも恐ろしく。
あまりにも、圧倒的過ぎる姿だった。
ケポ、と血痰を吐き、フィルレインが白い海の中に膝を折る。彼女は片腕で体を支え、無理矢理に立ち上がろうとしたが、体は震えるだけでいうことを聞かないようだった。
掠れた声で悲鳴をあげ、更紗は折れた足を気遣うでもなく、その場から弾かれたように立ち上がっていた。そして数メートルよろめいて、また顔から地面に転がる。

「ににさま……」

助けを求めた。
何度呼んでも、助けに来てくれなかった彼のことを、更紗は呼んだ。

「ににさま見捨てないで……ここにいます。ここにいるから! ににさま!」

ずるり、とフィルレインは痙攣する体を起こした。そしてまた、更紗のほうにぎらつく目を向け……彼女は、無事な方の左腕。その親指をガチリ、と歯で噛んだ。そして渾身の力を込めて横に引く。
手首中ほどからの皮がブチブチと千切れていき、機械的な金具を外すような音と共に。
ずるずるにとろけた腕が粘性の血液と共に外れた。
彼女の左腕の骨は、中ほどから一つに繋がり、原子的な短銃になっていた。自分の腕を吐き捨て、痙攣する肩を上げ、フィルレインがその――銀光りする小さな銃口を更紗に向けた。
更紗は、それが接近するのをただ見ていることしか出来なかった。
震えながら、涙と鼻水を垂れ流しながら。
死体のような憎い女が銃を突きつけ這ってくるのを、見ているしかなかった。
461 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:29:35.05 ID:Q6+4diJj0
フィルレインは実に二分以上の時間をかけて数メートルを歩ききると、焦点の合わない白濁した瞳を、目の前の小さな魔法使いに下ろした。
その瞬間、彼女の腕に取り付けられた短銃から、爆竹が炸裂したような小さな、軽い音が響いた。
更紗の足。その砕けた膝に、BB弾ほどの鉛球が突き刺さり、向こう側に抜ける。
それが全身にもたらした強烈な痛みに、更紗は大口を開けて悶絶した。舌を長く外に突き出し、地面を転がる。
フィルレインは、眼前で悶え苦しんでいる小さな影に。

――しかし表情を変えることなく、パン、パン、と立て続けに銃弾を浴びせていった。

踊るように小さな体が跳ね回り。そして七発撃ち込まれたところで、更紗は仰向けに倒れたままガクガクと全身を震わせていた。
息を吸うことが出来ない。
苦しい。
もう、痛みさえどこかに行ってしまっていた。
頭の中にぼんやりとした黒い綿菓子が渦巻いていて、もう、何も考えることが出来なかった。

――ああ……死ぬんだなあ……

ふと、そう思った。
小さな大魔法使いは、ただ、単純に。
自分に覆いかぶさるようにして立ち、腕の銃口をこちらに向けたフィルレインを見上げていた。

――死ぬんだなあ……

死にたくなかった。
死にたく、なかった。

だって、今まで生きてきて。
いいことなんて、ほんの少ししか……。
……ほんの少ししか……。
462 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:30:39.22 ID:Q6+4diJj0
ふと。
自分に銃を向ける相手の顔が。
大好きだったあの人と重なった気がした。
温かくて、優しくて。
生きていていいよと言ってくれた人と、重なった気がした。
(お母さん……)
母なんていない。父なんていない。
でも、もしそれが許されるならば。
もし神様が許してくれるのだったら。
きっと、お母さんってこういう感じなんだろうなと思ったことがあった。
自分には一生分からないことなんだけれども。
そう、あの人に言ったら。
あの人は笑って、自分があなたのお母さんであり、姉でもあるんだよと言ってくれた。
銃を突きつけられながら、更紗は目の前の、その『彼女』をぼんやりと見上げていた。
お母さんは、泣いていた。
見開き、ギラついた目から、血なのか油なのか分からない液体を垂れ流していた。

「ご……」

先ほど、偶然なのかもしれないが銃弾が声帯付近を貫通したため、声を出そうとしたら喉から血が逆流した。
それを力なく吐き、更紗は震えながら。
囁くように言った。

「ごめん、なさい…………」

目の前の彼女は、沈黙していた。

「ご……めんな……さい……」

「……」

「…………ごめん……な、さい……」

「……」

「ごめん……な……さ……い……」

「……」

「ごめ……」
463 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:31:17.48 ID:Q6+4diJj0
パン、という音と共に。
更紗は首筋に熱い衝撃を感じた。
ああ、致命傷なんだな……と、頭のどこかがやけにクリアにその状況を考えていた。体が意思に反して跳ね、そして更紗はごろりとうつ伏せに転がった。
それが最後の力だったらしく、フィルレインも膝を折り。今度は地面に力なく倒れこむ。
どれだけの間、二人で倒れていただろうか。
少女達の目から、段々と焦点と光が消えていく。
自分達を取り巻いていた光の海も、徐々に薄れて緩くなっていく。

(ごめんなさい……)

誰に謝っているのか。
それは、更紗にも分からなかった。
彼女は、心の中で何度も……何度も。
ただ、虚空を見つめながら謝っていた。

――これが夢ではないことに気がついたから。

ありとあらゆることが、現実であるということに気がついてしまったから。
自分には生きる価値も、生きるその権利さえないことに――気がついてしまったから。
ただ、それが遅すぎただけだった。
それを認めるのが、遅かっただけだった。
意識が薄れていく。
視界が赤く染まり、狭まっていく。
そこで、彼女と。
そしてフィルレインの目に。
白い光を掻き分け、白衣と杖を持った大柄な影が歩み寄るのが映った。遠く……光の本流の奥から、それ――彼は二人に近づくと。
泣きそうに、顔を歪めた。

「あ……」

更紗は、彼を見て。
体中の全ての水分を出してしまうのではないかというほどに。
ボロボロ、ボロボロと。
涙を落とした。
464 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:32:56.19 ID:Q6+4diJj0
それは恐怖でもない。
悲しみでもない。
ただ、順全に。
喜びの……歓喜の涙だった。
銃弾で穿たれ、骨が砕けた腕を、彼のほうに伸ばす。白衣の男性は更紗の脇にしゃがみこむと、その小さな頭を抱き上げ、しっかりと手を握った。

「に、にさま……」

掠れた声で、大魔法使いはそう呟き。彼の胸に顔をうずめた。

「にに……さま……」

「……」

「ににさま…………」

「……」

「に……」

もう一度銃声がした。
風邪を切る音がして……丁度フィルレインに背偽を向けていた形になる彼――紅の背中を、銃弾が抜ける。
それは左胸。
中枢部がある内臓器官を滅茶苦茶に潰し、そして抱きかかえていた更紗の頭部を貫通し、白い霧の向こうに消えた。
白衣の男。その腕の中で小さな魔法使いが、まるで糸が切れたマリオネットのようにクタリと首を垂らす。
それと同時に、フィルレインは持ち上げていた右腕を地面に落とした。
紅は、背後から銃で撃ち抜かれ……しかし、その傷口を押さえようとしなかった。何度か体を小さく震わせ、そして更紗の首に埋もれている、半ば腐ったその核を指で千切り取る。
そして大股でフィルレインに近づくと、彼は無理矢理に少女の口をこじ開け、それを押し込んだ。
フィルレインは鼻をつままれ、強制的に核を飲み込まされ。
そこで。
震えながら左腕を上げ、紅の額に銃口をピタリとつけた。
シーソーのように男の体が吹き飛ばされ、後方に転がったのと。
金髪の少女が今度こそ白目を向いて昏倒したのは、ほぼ同時のことだった。
465 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:35:20.88 ID:Q6+4diJj0
37 終幕 六分の一

――二人が出会わなければ
――夢のままでいられたのに
――夢のままでいられたら
――苦しまなくて済んだのに
――苦しまなくて済んだなら
――涙を流さなくても良かったのに
――でも涙を流さなかったら
――あなたのことが見えないから
――悲しいままで、それでいいの

 歌を、歌っていた。
 
「なぁに、その歌?」

空調の故障か、雪が降り積もる外を窓から見下ろしながら、泉は鼻歌を止めた。そしてバツが悪そうに咳をして、ベッドの上に腰を下ろす。
その隣にフィルレインは座り、そしてもう一度口を開いた。

「自分で作ったの?」

「違げーよ」

肩をすくめて、彼は言った。

「妹がな」

「……妹さん?」

「ああ」

それだけ言って、泉はまた雪に目をやった。
466 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:36:20.25 ID:Q6+4diJj0
「…………寒いなぁ」

「うん」

「………………すげぇ寒いなぁ…………」

「うん」

「……ほんと……」

「……」

「寒いなぁ……」

ポツ、ポツ、と呟き、ぼんやりと彼は空を見上げた。

「そうだねぇ……」

フィルレインは囁くように呟いて、隣の彼の腕に自分の腕を絡めた。

「外は、寒いねぇ……」

「……」

雪が降っていた。
しんしん、しんしんとその涙のような雪は何処までも降り積もっていた。
どこまでも、いつまでもそれは降り積もっていた。
467 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:36:57.57 ID:Q6+4diJj0
「ああ……」

「……」

「外は、寒いんだろうなぁ……」

「うん」

「きっと……なぁ」

「うん……」

彼の胸に頭を預ける。
泉は、そっと……決して上手いとはいえない音程で。
先ほどの歌をまた口ずさみ始めた。

――悲しいままで、それでいいのなら
――いつか悲しいことに慣れたなら
――いつか寂しいことに慣れたのなら
――涙が枯れて、なくなっていることを
――ただ、そうひたすらに
――私は想う
――それはきっと
――神様は許してくれると
――そう、思うから
――ただ、そう、ひたすらに
――ひたすらに
468 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:37:43.16 ID:Q6+4diJj0


 膝を抱えて、虹は緩慢に口を動かしていた。
地下水道の一角にエアバイクと化したガゼルを停め、虹は上空の透過マンホールから差し込む光を見つめていた。
やつれ切った顔。落ち窪んだ瞳。
背中を丸めて、乾燥した唇をもぐもぐと動かしている。

「……前から聞こうと思ってたんだけど」

しばらくして、ガゼルが控えめに声を発した。

「その歌、何ていう題名なんだ? どこを検索しても出てこない」

虹は、それに答えなかった。
もう一度最初に戻り、そしてまた微かな声で鼻歌を歌い始める。彼女の首には、ガゼルが新しく構築したヘッドフォンがかかっていた。時折そのボタンを指で弄びながら、少女はただ単純に上を見上げていた。
……更紗が死亡して、既に丸三日ほどがたっていた。満足に動くことが出来ない里と、そして燐を伴ってレ・ダードの爆心地に着いた頃。
彼らがそこで見たのは、血まみれでゴミのように転がっている虹と。そして同じように体に弾痕を開けて、礫死体のような無残な姿になった更紗を硬く抱きしめている紅の姿だった。
ぐずぐずしていると、他のエリアからの警察が到着するために。何とかピノマシンを生成して彼女達を運び……地下に隠れて、今に至る。
正直、虹はもう駄目かもしれないと思っていた。
体内の魔力はほぼ空。それに加え、体組織の約四割を欠損している状況だったのだ。千切れている腕はもちろんのこと、皮膚や神経、そして血液に至るまで。
469 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:38:24.71 ID:Q6+4diJj0
何処をどう戦闘すればここまで激烈な状況になるのか、推し量ることは出来なかった。
ただ、一つだけはっきりとしていたことは。
ガゼルを伴ってそのまま戦闘を挑んでいれば、まず間違いなく返り討ちにされていたであろうということだけだった。
勝てたことが、奇跡なのだ。
幾重にもの偶然の産物で成り立ったことだ。
本来なら、彼女がこのように生きて、動いている姿を見ることが出来ることがありえない事実なのだ。

――だが。

ガゼルは、それを手放しで喜ぶことがどうしても出来なかった。
何とか治療して、意識を取り戻した虹は、言葉を喋ることが出来なくなっていた。こちらの言うことを理解してはいるのだろうが、喋ろうとすると喉が動かなくなってしまうのだ。
また一つ障害を抱えてしまうことになった。おそらく会話から声帯を動かす脳の神経が、あの戦闘でやられてしまったのだろう。
こと治療では、脳は無理だ。複雑すぎるのだ。だから脳の何処に損傷があるのか調べることも出来ないし、仮にあったとしてもそれを直すことは出来ない。
つまり――少し待ってみて回復しなければ、これからは肉声で彼女の声を聞くことが出来ないということになる。
……とりあえず通信だと応答が可能なので、バイクの後部からケーブルを出し、彼女の首筋に差し込む。さすがにそれで命令をもらえなければ、ガゼルは動くこともままならない。

『虹』

呼びかけると、脳の中に直接響いたパートナーの声に、少女は歌を止めた。

『大丈夫? どこか痛くない?』

気遣われ、少女はぼんやりとガゼルのカメラアイに目を向け、そして少し首を傾げた。

『……痛い?』

『ああ。君の治療も完璧じゃない。何せ体中の皮が剥がれてたんだ。異常を感じるなら、早めに言ってくれ』

『……』

少し沈黙し、彼女は言った。

『痛い』

『マジで? どこが?』

『心が』

『…………はぁ?』

『心がね……』

『……』

答えを返すことが出来ずに、また沈黙する。
470 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:39:06.95 ID:Q6+4diJj0
地下水道の奥から、足音が聞こえてカメラアイを向ける。
少し離れたところで、こちらに向かって歩いてくる大きな影と小さな影……里と燐が見えた。

『紅は、最初から俺達に更紗を殺させるつもりだったんだよな……?』

ぽつりと、そう聞く。

『……』

『俺、何となく分かるような気がする……生体サイボーグでも、機械だから。だから、マスターを間接的にでも手にかけることは出来ないからさ……』

『……』

『まぁ、憶測だけどな……』

『……』

里と燐は、食料運搬用の白い、大きな袋を引きずっていた。彼女達が地下水道の貯水タンク……その深部に落としてきたのは、紅と更紗の遺体だった。ここはもう使用されていない区画だし、水は零下を軽く超えている低温だ。腐る危険も、見つかる危険もない。
それを主張したのは燐だった。
虹は、特に反対も興味も湧いたそぶりを見せなかった。

『しかし……更紗はずっと、音羅のことを操って俺らのことを見てたんだろ? 何ですぐ殺さなかったんだ?』

『…………』

虹は、しばらく押し黙った後。
消えそうな声でそれに返した。

『更紗にだって、完全に人間の存在を消し去ることは出来ない』

『どういうこと?』

『半分半分。ボクらに警告を出してきたのは、多分もう一人の方の、本体』

『だって、あの子は既に意識野が死んでたって……』

『…………魔法使いは、核を潰さない限り死なないよ』
471 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:39:42.94 ID:Q6+4diJj0
主の声に、いつにはない心細さ……というのだろうか。僅かな震えを感じ取り、ガゼルは黙ってエアバイク内のヒーター温度を上げた。

『まぁ……でも……』

『……』

『良かったよ』

『……』

『君が、生きてて。で、また話せて。良かった。本当に』

虹は、やはりガゼルの声に反応しなかった。
また言葉を選んでいると、里と燐が到着して、ガゼルの上に座り込む。里は九十キロ近くあるため、機首が歪みそうになってガゼルは大声を発した。

「おい里。あんたは立ってろ」

「私も疲れました」

「んなわけないだろ。俺だって心が疲れてるよ」

「お疲れ様です、お二人とも」

燐が――無理して笑っているのか、引きつった顔を笑みに変え、周囲を見回した。

「さて。天使さん、これからどこに行くのですか?」

「どこに行こうが俺らの勝手だろ?」

「そうは行きませんわ。にぃ達はもう、二年前の魔法使い事件で、このドームの中では殆ど指名手配のようなものですから。別のところに移動したいのです」

「自分達でどうにかしろよ」

「あらあら……どうしてこう冷たいのですか、この人は」

呆れたと言わんばかりに大きくため息をついて、燐は里のことを見上げた。
472 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:40:23.56 ID:Q6+4diJj0
「思春期だからではないでしょうか。女性に慣れていない時期の男子は、時に言葉遣いがぶっきらぼうになるらしいです」

「思春期? 俺が思春期?」

里の冷静な声に、思わず言葉を荒げる。
しかし燐は、そんな彼の様子に全く動じていないのか、胸の前でポンと手を合わせて口を開いた。

「まぁそんな思春期のガゼルバデさんと、天使さんにお願いがあるのです」

「嫌だよ。あと俺は思春期じゃねぇ」

「里が探索したことによりますと、この地下水道の先に、ドーム管理局が持っている、トレーラーが保管されているらしいんですの」

「だから嫌だって」

「この際、もう大なり小なりですから分捕ってしまいませんこと?」

「……」

物騒なことを臆面もなく言い放ち、燐はにっこりと笑った。

「その方が、快適に過ごせると思いますことよ?」

「……」

「あと、里の料理は美味しいのです。お繕いだってこの子はお手の物ですの」

「光栄です」

「というわけで、お願いしますね」

「俺らがやるのか! 自分らでやれ!」

「無理です」

はっきりと里が断言し、ガゼルは一瞬

(最もだ)

と納得してしまい、口をつくんだ。
473 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:41:13.03 ID:Q6+4diJj0
おそらく、レジスタンスに潜り込む時も、この二人はこのようにして大人をやり過ごしてきたのだろう。
子供とポンコツアンドロイドと見せかけ、とんだ食わせ者だ。
(変なのに目をつけられたな……)
『虹、いいから捲いて逃げよう。こいつらウザいよ。ほっといても生きていけるよ絶対』
通信で主に呼びかける。
虹は息をついてバイクに跨ると、黙ってエンジンをかけた。そして何度かハンドルを回して、出力を調整する。

『……あと五人……』

ボソリ、と呟いた彼女の声。
ガゼルは発しかけていた言葉を止めた。

『一人殺ったから、あと五人……』

『……』

『ボクたち二人じゃ厳しいね』

口元を奇妙な形に歪め、虹はガゼルのエアエンジンを噴かした。

『こいつらは使えるわ。特に、あの人間のガキは利用価値がある』

『燐のことか? ……どうして?』

『……』

話し込んでいる間に、いつの間にか燐と里がガゼルの後部座席に腰を下ろしていた。

「てめーら!」

思わず大声を上げる。
里の手はガッシリとガゼルの後部ベルトを掴んでいた。少し前にまた、今度は念入りに構築してやった腕なので、おそらくちょっとやそっとの衝撃では外れそうにもない。

「さ、にぃ達は後ろから応援していますので。とりあえず当面のお家をゲットしましょう」

「降りろ畜生共め!」

「未確認の語句です。意味の入力をお願いします」

「うるせぇよ!」
474 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:41:42.45 ID:Q6+4diJj0
何とかして振り落とそうとした時。
虹が、いきなりエンジンをかけてアクセルを踏みこんだ。巨大なエアバイクが僅かに宙に浮き、猛スピードで地下水道を滑り走り始める。慌ててガラスカバーをスライドさせ、虹達を外気から遮断する。

『お、おい。いいの?』

『どうでも』

興味がなさそうに主は答えた。


後ろでは、空元気なのだろうか……燐が里と、疲れた笑顔で会話をしている。
この子も、おそらく……限界なのだ。
それを考えると、ガゼルにはこれ以上彼女達を振り切ろうとすることはできなかった。
そこでガゼルは、エアバイクの側面に無数に埋め込まれているカメラアイの一つが、燐の髪……その後頭部。丁度延髄にあたる場所に光った、緑色の光を捉える。

(え……)

一瞬仰天して、彼女の首筋にズームしてみる。
それは……核だった。
魔法使いの真緑色の核。まだ発達途中なのか、僅かしか顔を覗かせていないが……間違いない。

(これのことか……)

少しだけ、彼女達に問い詰めようとしたが……ガゼルはそれをやめた。
虹が、鼻歌を歌っている。
そして彼らは、ジェンダドームの地下……その更紗と紅が眠っている巨大な、今は使われていない貯水槽の上を飛び越えた。

『ああ……』

流れていく景色を背景に、虹はぼんやりと呟いた。

『…………寒いねぇ』
475 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:42:26.53 ID:Q6+4diJj0

第一章 虹の悲雨が降る夜は 結
476 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/07(火) 21:48:11.91 ID:Q6+4diJj0
お疲れ様です。

474レス、863KBにわたってお付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m

次のナイトメア、第二章に続かせていただきます。

ここで一旦このスレは落とさせていただきまして、近日中に、新しいスレを立てます。

その際のスレタイは 少女「ずっと、愛してる」 です。

もしまだお付き合いいただけるのでしたら、ご参加いただければ嬉しいです。


――残りの5人の大魔法使いを、虹はどうやって殺すのでしょうか?

そして第二章では新しい主人公も登場して、「黒い一族編」が始まります。


答えは混沌の中です。

救いのないお話、地道に続けていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。

それでは、今回は失礼いたします。


読んでくださった全ての人が、幸せになれますように(-人-)
477 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage saga]:2012/02/07(火) 22:36:40.65 ID:xfbtIX8DO
今までROMってた分まで乙!
そしてついに彼が登場ですか!
478 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/02/07(火) 23:20:51.54 ID:jJw0oYqeo
HPの最新話まで一気に読んでしまった
479 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga sage]:2012/02/08(水) 14:56:34.74 ID:A45p+aH70
>>477
おつありです(`・ω・´)!
遂に彼が、あの群を抜いた不幸な男が登場です。

>>478
おお、ありがとうございます!!
ご意見ご感想などありましたら、遠慮なさらずどんどんくださいね。
480 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) [sage]:2012/02/08(水) 19:32:49.91 ID:n6br0qPco
どん底に落ち込む過程とその後の狂気を書くのうめえな、いい具合に気だるい気分になったわ
481 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2012/02/09(木) 20:53:47.93 ID:vAi26PND0
>>480
お褒めに預かり、嬉しいです!
いかに絶望を表現するかを軸に作った話でもあります。
読んでて微妙な気分になりますよね。私もなりました(´・ω・)

二章も連載中ですので、よろしければお越しくださいー。

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1328684504/
865.47 KB   
VIP Service SS速報VIP 専用ブラウザ 検索 Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)