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青子「……」有珠「……ひどい」草十郎「……ごめん」 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

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1 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/05(土) 01:13:45.39 ID:PwLoTL370



 排出物のにおいと、男の体臭がないまぜになったすさまじいほどの悪臭が、地下室に重く澱んでいた。
 眼を閉じたところで、その臭いを忘れることはできない。
 忘れることはできないが、いくらかでも耐え易くはなるようだった。



 しかし、彼――草十郎が、壁に背をもたせかけ、眼を閉じて座しているのは、決して悪臭に耐えるためではなかった。
 それは、山奥で育てられた彼の、一種の習性のようなものであった。
 実際、屎尿桶のアンモニア臭も、耐えなければならないというほどには気にならなかった。
 耐えるということを言うなら、草十郎は生まれてこの方それ以上は考えられないほどの峻烈な運命に耐えてきたし
 その運命はこれからも耐え続けていくことを彼に要求しているのだ。
 いまさら、地下室の饐えたの臭気ぐらいのことで、なにを耐えなければならないと言うのか。
 まあ、彼にはそんな自覚は露ほどもないのだが――――。



 ――運命、か……。
 草十郎のかさついた唇にフッと苦笑が浮かんだ。
 運命とは聞こえのいい言葉だ。
 なにか崇高で、悲劇的な響きさえ含んでいる。
 実際には、それは、運命というより、むしろ体質と呼んだ方が相応しいようなことなのだが。


 ――人間というやつは、自分を言葉で飾りたてずにはいられない動物らしい。
 草十郎の苦笑は、ますます皮肉な、歪んだものになった。



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ハルヒ「綱島アンカー」梓「2号線」【コンマ判定新鉄・関東】 @ 2024/04/22(月) 06:56:06.00 ID:hV886QI5O
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1713736565/

2 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:16:26.95 ID:PwLoTL370




 ふいに声がかかった。



「……なにか面白いことでもあったの……?」


 草十郎は眼を開けた。
 小柄な、憂鬱そうな表情をした年若い少女が眼の前に立っていた。
 草十郎の目に、どんな表情も浮かんでこないと知ると、


「耳がないの? ねえ? 返事ぐらいしたらどう?」


 少女は居丈高になった。
 最初から、因縁をつけるつもりで話しかけてきたのだろう。
 自分が、彼に立場を思い知らせようという腹らしかった。
 痩せ細った、いつでも憂鬱そうに黙りこんでいる草十郎は、デモンストレーションにはいかにも格好な相手に思えたに違いない。


「ねえ、なにか言ったらどうなの?」


 少女は腰を落として、草十郎の頬を掴もうとした。
 掴もうとはしたのだが、なにか電気に打たれでもしたかのように、その手を宙に止めた。


 少女は戸惑っていた。草十郎の自分を見る目に戸惑ったのである。
 彼女がなまじ手酷い仕打ちをしていたのがいけなかったのかもしれない。
 草十郎の表情が、たとえば怯えとか、怒りとか、闘志というような、彼にとって馴染みの深いものであったら、
 彼女も即座に次の対応に移ることができたろう。
 だが、草十郎の目には、彼女の思ってもいなかった表情
 ――悲哀、それも身体の芯まで凍らせてしまいそうな悲しみの色が浮かんでいたのである。

3 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(愛知県) :2012/05/05(土) 01:20:25.35 ID:fPNedwEQ0
いやん
4 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:21:13.74 ID:PwLoTL370





 ――――ピチチチチチッ




「まあ……いいわ」


 コマドリが堰を切ったように飛びまわる。
 両者の表情にすっかり意思を削がれてしまっていたらしく、その声に救われたかのように、
 少女は無言のまま帰っていった。



 草十郎は再び眼を閉じた。
 ――貴方を愛してるの……。
 なんの脈絡もなく、そんな言葉が彼の頭に浮かんだ。
 




 草十郎は嗤った。
 無意味な生を営々と送っている人間という生き物に対する憐憫。
 そして、それを痛いほどに感じながら、彼らと同様に日々の豊かで閉塞的な暮らしに埋没され慣れていく自分に対する無力感。
 ――その双方が彼をして嗤わせたのだ。むしろ、自嘲に近かった。
 その白けきった空気に迎合するように、鈴を鳴らすような唱が壁を通って聞こえてくる。




  High diddle diddle,
  The cat and the fiddle,




 この唱を聞くと、決まって草十郎の頭に一人の少女の顔が浮かんでくる。
 ――こんな事になる数日前から、少女はいつもこの歌を口ずさんでいた。
 草十郎は思う。あの子が小さな声でこの歌を歌っているのを聞いた時、
 

 この歌はあまりに恨みがましく、女々しくはなかったろうか。
 多分、この歌を歌っている彼女の姿など、見るべきではなかったのだろう。
 あの時から、俺は自分の立場に疑問を持ち始めたのだ。
5 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:28:36.76 ID:PwLoTL370



 本当に、……をする必要があるのだろうか、
 という疑問を……。



 ――だが、結局、俺は……
 草十郎の脳裏には、青酸カリを飲み、机の上につっぷしている鳶丸の姿が焼きつけられていた。
 机の上に残されていた彼の遺書――死体は焼却し、灰と骨は肥料として農家に売却すべし、そこから生えた木が、
 金の成る木か、金を吸う木なら結構である……そこには、そう書かれてあったという。


 三咲高校の理事長・槻司一義の五子、槻司 鳶丸(つきじ とびまる)を自殺に追いやったのは俺だ。
 あの心優しいな男が、ついに最後までその事実に気がつかず、自らの意志で死を選んだと信じ、青酸カリを飲んだのだ……。
 草十郎は唇を血の出るほど噛みしめていた。










「静希くん――さあ食事の時間よ」





 しばらくして鉄格子の向こうから少女の声がかかった。
 うっそりと立ち上がって、草十郎は地下室を出た。
 もちろん地下室に入れられているのが好きなわけではないが、だからといって、出られて嬉しいとも思わなかった。
 あちらから、こちらへ身を移した――草十郎にとっては、ただそれだけのことなのだ。
6 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東海・関東) [sage]:2012/05/05(土) 01:34:54.04 ID:iz/FYfBAO
なにげにクオリティが高いww
7 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:37:32.54 ID:PwLoTL370

 短い拘束期間ではあったが、やはり地下室の暗がりに慣れた眼には、五月の陽ざしは眩しすぎるようだった。
 緑がむせかえるように濃くなっていて、葉をそよがせる風が、ひどく爽やかだ。
 階段を上がりリビングに出た草十郎は、開けられた窓の所でしばらくその風に身をさらしていた。


「五月ももう終わりだな……」


 ボソリと独り言をつぶやくと、草十郎は頭を振った。



「静希くん……」



 少女の声が彼を呼び止めた。
 振り返った草十郎の眼に、銀杏(いちょう)の木陰から一人の少女が歩き寄ってくるのが映った。



「蒼崎か……」


 それだけを答えると、草十郎は再び外へ視線を向けた。
 彼の表情が陰りが差している。
 きらきらと眩い五月の窓の外の風景のなかで、彼一人だけがなにかうそ寒く見えた。



「ご挨拶ね」



 青子は彼の横をすり抜けて窓の中から入って来た。
 調子を合わせているようにも見えなかったが、草十郎に気兼ねしているようなこともなかった。
 淡い茶色の学生服に長い長髪を風に靡かせる姿が
 陽光にさらされているような背景に鮮やかに映えている。
 顔の線はどちらかというと鋭角的だが、その切れ長の目に匂うような色香があった。
8 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/05(土) 01:40:24.18 ID:aOX5uCcg0
マジで支援するっス
つーかマイ天使が出てくるだけで評価に値することは最早周知の事実っス
9 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:44:08.52 ID:PwLoTL370

「地下室はどうだった?」



 細い肩をいからせて振り返ろうともしない草十郎に、青子がからかっているような声で訊いた。


「…………」


 草十郎は返事をしようとしなかった。黒いYシャツの背中に、丸く汗が滲んでいた。
 草十郎が反応を示そうとしないのにかまわず、青子は言葉を続けた。



「律架がアンタに興味を持っているなんて初めて知ったわ……」



 草十郎がようやく口を聞いた。



「どういう意味だ?」


「どういう意味って……静希くん、悪徳販売に関係していたという時じゃないの?あれから仲良くなっただって?」


「蒼崎たちに謂れのない容疑をかけられただけだ。容疑が晴れたから、こうして外に出ている」


「本当にそう思っているの?」


 青子はフフッと含み笑いをした。草十郎が唐突に足をとめて、少女を振り返った。
 表情が歪んでいる。
10 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 01:51:30.87 ID:PwLoTL370



「蒼崎。やはりきみが手を回したのか」


「カーテンを少し閉めましょう、お陽さまが眩しいわ」



 蒼崎と呼ばれた少女は、草十郎の怒りを軽くいなした。
 むっとした表情をしながら、それでも草十郎は歩きだした。
 


「お茶でも入れましょうか? 咽喉が渇いたでしょう?」


「たくさんだよ」


 吐きすてるように草十郎は言った。



「寝物語のついでにでもきみは囁いた。
 俺を釈放してくれってね。おかげさまで俺は晴れて自由の身だ……
 そいつは感謝しているけど、このうえあの子の茶葉で紅茶なんか飲みたいとは思わない」



 青子はけろりとして、草十郎の言葉を聞いている。面白がってさえいるようだった。
11 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 02:00:14.73 ID:PwLoTL370

「私がなにか飲みたいのよ……ねえ、いいでしょ?」


 小さなテトレーの茶缶だ。もうお湯をやっているらしく、温かな湯気が立ち昇っている。
 草十郎の返事もきかないで、青子はさっさとテーブルに茶器を運んできた。
 渋々、草十郎もその後に従う。


「トッパンの会長って、先日自殺した土桔 由里彦(とつき ゆりひこ)って人でしょう?」


 ミルクをとかした紅茶を、スプーンでかき回しながら青子が言った。


「有珠が懇意にしていた人でしょう?……最近だいぶまいってたって話だったらしいのよ」


「それも、有珠から聞きだしたのか」


「そんなところね……ねえ、どうして唯架なんかの雑務を手伝う気になったの? 
 それがどんなことであれ、社会の動きに参画するようなことをしてはならない、という私たちの規律を忘れたの?」


「…………」


 草十郎は黙って紅茶を飲んでいる。
 その教えを忘れていないからこそ、俺は教会に潜り込んでいたんだ……
 そう返事をするのはたやすいことだったが、しかし、青子がなにも知らないでいるのなら、それに越したことはない。
12 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 02:06:52.56 ID:PwLoTL370

 青子は小さなため息をつくと、


「実はね。私、唯架からあなたを自由にしてくれ、と頼まれたの……」


 草十郎は顔を上げた。


「唯架さんから?……」


「そうよ、あの人から切実なお願いごとをされたの」


「……」


 と、草十郎が眉をひそめた時、ふいにテレビの音が大きくなった。
 ニュースの時間らしく、アナウンサーの無機的な声が聞こえてくる。
 話はそれからなんの言葉を紡ぐこともなくなった。
 ただ、甘く馨しい紅茶の香りが自分の鼻腔をゆっくりと溶かしていくのだ。


 まだ俺は気付いていなかった。
 そう、ほとんど気がついていなかったのだ。
 事の問題が手遅れになっているそれを知るのには、まだ一ヶ月の時を待たなければならなかったのである。
13 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 02:09:26.89 ID:PwLoTL370
今晩のところはこれでお終い。
あまり長くなるつもりはないので、気軽に病んでください。
いや読んでください。

続きはまた後日。
14 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大阪府) [sage]:2012/05/05(土) 02:15:15.72 ID:3Rq0dpTx0
病むのか
15 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大阪府) :2012/05/05(土) 07:17:33.15 ID:zm7ufHfo0
どういうことだってばよ・・・、この状況
16 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 15:32:24.42 ID:PwLoTL370
夜にまた更新します。
17 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:09:02.16 ID:PwLoTL370

 静希草十郎は丘の上の幽霊屋敷に住んでいる。
 当初は、アパートで一人暮らし。
 四畳半の部屋を借りて、一人で生活しているのである。

 だが蒼崎と自動人形の戦いを目撃してしまった為に抹殺されそうになり
 紆余曲折の末、魔術の秘匿の為、蒼崎と有珠に監視される形で、久遠寺邸で共同生活を送る事になった。


 自立しているとはいえ、草十郎はまだ私立三咲高等学校に籍を置く、れっきとした学生である。
 そのれっきとした学生である草十郎が住むには、やはり久遠寺邸は、あまり相応しくない環境であると言えたろう。
 が、草十郎に下宿を変わる気持ちはさらさらない。
 一つには、彼なりにこの場所を愛しているからであり、もう一つには、彼女たちの都合があったからである。


 自身に備わっている能力を利用して、草十郎はバイトに精を出して生活費を得ている。
 むろん、それなりに選んでいるのだが、それでもいいバイト先に巡りあえる比率が高い。
 戦災でも焼けなかった蕎麦屋の脇に、ひっそりと坐っている草十郎の姿は、一帯でもちょっとした名物のようになっているのである。
 懐の暖かい時には、手相見でおやつを買うこともある。
 むろん、贅沢が許されるほどに懐が暖かいことは滅多にない。
 食糧事情こそようやく緩和し始めたとはいえ、茶菓子はまだまだ贅沢品なのである。
18 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:15:43.12 ID:PwLoTL370

 そこで草十郎の遊興は、バイトをする傍らたまの間食がマイブームとなっている。
 草十郎には希望もなければ、身を託すべき理想もない。
 無頼の生活を送っていると言えたろう……だが、山奥の独覚として生を享けた草十郎には、他のどんな生を選ぶこともできなかったのだ。
 暗い眼、鋭く削げた頬、一直線に結ばれた生気のない唇――ある意味では、草十郎のいかにも虚無的な風貌は
 久遠寺邸にはよく似合っていたかもしれない。


 巣立ちを通過し、今、この街を歩かなければならないような青年には皆、多かれ少なかれ、
 草十郎と共通したにおいが漂っているからである。
 が、同じ独覚でも、土桔 由里彦だけはこの街には似合いそうもなかった。
 子供のように小さな老人……土桔 由里彦が、
 すりきれたコートを着こみ、どういうつもりなのか古いベレーをかぶっている姿は、
 キャバクラあたりの小金持ちな遊び人を、どうしても連想させてしまうのだ。



 有珠の話で、老人がアンティーク仲間として懇意にしてることは知っていたから、下宿している彼の姿を老人が見咎めても、
 草十郎はさほど驚きはしなかった。
 一礼して、黙然と注文を覗う草十郎に、


「面白いところに住んでいるんじゃってな……」


 老人が顔を皺だらけにして言った。自分も住みたそうな表情をしている。
19 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:25:29.25 ID:PwLoTL370

「まっどべあへは、どんなご用で来られたのですか」


 お茶を入れながら、草十郎が訊く。
 ちょうど休憩時間に入るとこだったので、老人の応対をすることにした。


「うむ……ちょっと会わなければならん人間がおってな」


「へえ、誰ですか」


「いずれ、おまえも会うことになる人間じゃよ。が、まあ、名前はまだええ……
 それより、有珠ちゃんに聞いたんじゃが、警察に捕まっておったそうだな」


「はあ、悪質な強姦魔ではないか、という容疑で……
 そう言えば、拘置所から自分が出られるようにと、手を回していただいたそうで、おかげで助かりました……」


「なに、もともとおまえさんに接近して、誘惑して追いこめ、と命令したのはわしじゃからな。
 それに、おまえにはまだやってもらうこともあるし……」


 ニタニタと笑いながら、平然と老人は言った。
20 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:44:48.37 ID:PwLoTL370

「…………」


 草十郎は沈黙した。
 俺にまだやってもらいたいことがある、だと……鳶丸の死に顔をまだ忘れてもいないこの俺に……。
 土桔 由里彦の草十郎を見る眼には、憎悪に近い光が浮かんでいる。





 組織において、里親の命令は絶対であった。
 彼らの両親は、いずれもなんらかの形で死んでいる。
 いや、死を好機とし、組織から齎される滅びの運命に殉じて、自ら死を選んでいったと言い換えた方が正しいかもしれない。
 

 ――その子供を組織の手に託して……そして、その子供たちもほとんど、長じると同時に親と同じ運命を選んだのだった。
 こうして、一族へ入っていった者らは程なく全滅していった――が、まだ草十郎は生きている。
 滅びの運命からは外れた行為であるかもしれない。


 が、時に、草十郎は山奥での暮らしを懐かしく想い出すことがある。
 総ては世間の眼をだますための方策でしかなかった……
 実際には、自分がいた山奥は組織の総本山であり、子供たちが身を寄せる、疎開先でもあったのだ
 ――草十郎が懐かしく想い出すのは、同郷の子供たちが山奥で集団生活を送っていた頃のことである。
 そう、あの頃はまだ仲間が多勢生き残っていて……




「なにを考えている?」


 土桔 由里彦が訊いてきた。
21 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:47:30.11 ID:PwLoTL370

「死んでいった人間のことを考えています」


 反射的に草十郎はそう答えていた。
 彼の思念はいまだ過去に囚われていて、意識しないままに言葉が口を出た感じだった。


「鳶丸のことじゃな」


 土桔 由里彦は草十郎の答えを誤解したようだった。


「そうではありません」


 草十郎は首を振った。
 槻司 鳶丸(つきじ とびまる)のことは努めて思い出さないようにしている。


「儂を酷い爺いだと思うか」


 土桔 由里彦が重ねて訊いてくる。
22 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:52:37.68 ID:PwLoTL370


「どうしてですか」


「おまえは、鳶丸が好きだったはずだ。儂は、その好きな男を自殺に追いこめ、と命じた……」


「そんなことは考えたこともなかった……第一、俺は鳶丸を好きだと思ったことはありません」


「ほう、それでは嫌いだったのか」


「実に、頭のいい男でした。少し良すぎた位だ……頭の良すぎる男を好きになるのは難しい。
 かと言って、嫌いになるには交際が短かすぎた……」


 草十郎は自分が必要以上に頑なになっているのを感じていた。
 頑なになって、守らねばならないものなど、なにもないのに。
 土桔 由里彦はしばらく草十郎の顔を見つめていたが、やがてホッとため息をつくと、


「田舎に閉じ込もっていると、世間のことを知るにはこんなものでも読むしかないんじゃが、な……」


 手近に置いてあった汚れた鞄を引き寄せて、その中から一冊の雑誌を取り出した。
 表紙はなかばちぎれかかっていたが、『世界評論』という誌名だけはなんとか読み取れる。
23 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 19:57:27.20 ID:PwLoTL370

「きみは有珠ちゃんのことをどう想っているのじゃろうかのぅ」


「良い友人です」


「懸想していると思っていたのだが、違ったろうか?」


「違います」


 草十郎はあくまでも頑なだった。


「そうか……それはそうじゃな」


「……」


「考えてみれば、槻司 鳶丸という青年も哀れなやつじゃった……
 資質を備えていたと言っても、祖父のお気に入りかなんかでポンと後継者候補にしたいなんて伝えられたもので、
 なんら取りとめのない善良な青少年だった。
 ……資質にしたところでな、問題にするほど濃く備わっていたわけではないらしい。
 普通だったら、あの程度の子が彼女と世間的に交わっているぐらいのことは、放っておくところじゃが……」


「それじゃ、どうして鳶丸を自殺に追いこめなどと、お命じになったんですか」


 さすがに草十郎は気色ばんでいた。
 一人の青年を自殺させろと命じておいて、事が終わった後で、あの措置は必要なかったと言うのか。
24 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 20:01:08.63 ID:PwLoTL370

「怖いな。そんな眼で儂を睨まんでくれよ」


 と、いっこうに怖くなさそうな表情で、土桔 由里彦は手を振って、


「人の話はよく聞くもんじゃよ。普通だったら、と儂はちゃんと断わったろうが」


「普通ではないんですか」


「ないのぅ……」


「どう普通じゃないんです?」


「不問律の掟が大きく破られようとしている……鳶丸程度の独行さえも放っておけないほど、事情が悪化しつつあるんじゃよ。
 儂には見える――今、とてつもなく巨大な……一人、事態を変えようと動き始めている。
 君とあの子に関わってはならぬ、という約束を無視してな……
 だから、そうなる前に、気の毒じゃがあの青年には死んでもろうた……
 鳶丸の死を悼むがええ。あの青年の死を悼めば悼むほど、儂らにそんな方法をとらせたそいつを、より憎むことができようからな」


「そいつ?……そいつとは誰のことなんですか? とてつもなく巨大な何かとは、一体なんのことです?」


 草十郎はそう訊かずにはいられなかった。
25 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 20:12:56.50 ID:PwLoTL370

「いや、それはまだ話さん方がええじゃろう」


 と、土桔 由里彦は返事を濁して、


「まだ、おまえはその理由を知らなくともええ。
 ただ、そう彼女によろしく伝えてくれ」


「分かりました」


 そう頷いた草十郎の眼は、しかし、暗かった。
 その草十郎の暗い眼を、土桔 由里彦はしばらく凝視していたが、


「儂の話はこれで終ったが、おまえの方になにか話があるのと違うかな」


 やがて、刺すような声でそう言った。


「ありません」


 草十郎は首を振ったが、その眼の瞬きが、彼の言葉を否定していた。
26 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 20:21:16.99 ID:PwLoTL370

「儂に隠すことはあるまい。なんじゃ? 言ってみなさい」


 土桔 由里彦は執拗だった。
 草十郎は躊躇った。躊躇って、窓の外に眼をやった。窓の外には、赤いネオンが点滅している。


「儂の言ったことが分らなかったようだの」


 と、土桔 由里彦がやれやれと頭を振る。


「だから、その寛容さが許されないような事情になった、と言ったろうが……」


「……しかし……」


「まあ、待ちなさい。その悪しき事件が、いかに儂たちに災厄をもたらす存在であるのか――
 はっきりしたことはなにも言えんが、あの事件に関係していた君にも責はあるのだよ」


「あの事件に……」


 草十郎は瞑目した。
 新学期が始まって間もなくの私立三咲高等学校にて
 男子高校生が生徒会室内で青酸化合物を飲んで、自殺するという事件が発生した。
 青酸カリを飲んだ男子学生は、生徒会副会長。2年A組在籍。槻司 鳶丸であり
 遺書も見つかったことから自殺と断定。
 ……いわゆる吊り下げ殿下事件という名で校内に知られているこの事件は、槻司家が警視庁の捜査に圧力を加えたという事実や、
 自殺の根拠や理由も不明のままであったことなどから、様々な疑惑を残すことになった。
 しかし、まさかその吊り下げ殿下事件に土桔 由里彦が関係していたなどと……。
27 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 20:26:37.59 ID:PwLoTL370

「信じられないかもしれないが、どうして儂が事件に関係していたと考えるようになったかは、
 いずれ説明することもあるじゃろうて……まあ、今となっては、あの事件の真相をつきとめることは誰にもできないし、
 儂にもそんなつもりはない――ただ、これだけは言える。
 このまま悪しき魔女を放っておけば、さらに大きな災厄が君に降りかかることになる、とな……」


 それだけを言うと、土桔 由里彦はユラリと立ち上がった。
 床の一点を険しい眼で睨みつけたまま、顔を上げようとさえしない草十郎を、哀れむような表情で見下ろしながら、


「やはり、おまえは鳶丸が好きだったようじゃな……ま、それもええじゃろう。
 儂はこれ以上詮索しようとは思わん……だが、これだけは憶えておくがええ。
 おまえが関わらなくとも、鳶丸はいずれはああいう死に方をせねばならなかったんじゃ。
 今が死に時だったんじゃよ。これ以上生き続けたところで、さらに激しい憤怒と絶望のなかで死ななければならない、
 という運命があの男を待っていただけなんじゃよ……嘆くがええ。悼むのもええじゃろう。
 だが、自分を責めるのは止すんじゃな。あの男よりも、儂やおまえの方が数倍も哀れな身上なんじゃから……
 槻司 鳶丸の名はひっそりと残る。だが、わしら真相の一端を知る者は、数年もたてば一人もいなくなるわ……
 それでは、有珠ちゃんのことはよろしくな」


 引き戸の開閉する音、床のきしむ音を、草十郎は確かに聞いてはいたが、しかし、土桔 由里彦を見送ろうという気にはなれなかった。
 深い虚脱感に身体の芯を抜かれ、見送る元気さえなかったのである。
 凝然とその場に立ち続ける草十郎の削いだような横顔を、ネオンの点滅が、繰り返し赤く染めていた――。



 その夜の草十郎は知るよしもなかったのだが、事態はまさしくゆっくりと軋んで動いていくことになる。
 土桔 由里彦――合意は拘束さるべし≠ニいう民法を自らの生活体系とし、
 全国に多くの工場を構える「土桔製パン株式会社(通称・トッパン)」の元経営者として、
 長く波乱に満ちた生を駆け抜けたこの老人は、その後、遺体となって発見されることになる。
 

 彼はどうして自殺を図ったのか……それらを誌す文書はまったく残っていない。
 一切、なにもない――。
28 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/05(土) 20:30:54.15 ID:PwLoTL370
今日はここまでです。
キャッキャッウフフを期待している方、悪いが帰ってくれないか?
なウジウジ話なので合わない方は回れ右お願いします。
29 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/05(土) 21:30:59.57 ID:aOX5uCcg0

全編サスペンスでも構わないぜ
ところでトリップ付けたらどうだ?
30 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) :2012/05/06(日) 02:44:56.16 ID:wmlgKC720
な、なんか鬱っぽい話だな
31 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(愛媛県) [sage]:2012/05/06(日) 11:02:50.69 ID:+g12Jkbg0
回れ左で360度回って帰ります
32 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東海・関東) [sage]:2012/05/06(日) 12:24:13.71 ID:jp42MV2AO
乙! 期待してるよ〜
33 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/06(日) 22:41:08.65 ID:FQuCgNpDO
最初草十郎がうんこ漏らす話かと思った
34 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/05/07(月) 02:16:42.15 ID:3QkNXWOg0
続きはよ
35 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/07(月) 22:12:17.10 ID:j/e2EX8W0
ええいそう急かすな
>>1の執筆意欲が失せてしまうだろう
36 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/05/10(木) 16:08:46.10 ID:a2ZgeJhQ0
ふえぇ
続きがこないよぅ
37 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 17:42:35.30 ID:YJemFYN90
ふえぇ

今晩ちょっとだけ更新するよぅ
38 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/05/10(木) 18:40:05.76 ID:RqsCoswX0
きたか!(ガタッ
39 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 19:34:15.05 ID:YJemFYN90

 三咲市三咲町――地の利さえよければ、ここも社木に匹敵するぐらいの名所になっていたかもしれない。
 戸時代から宿場町として盛んで、ここ十年高度成長と共に近代化が進んでいる。
 山沿いに住居が建ち並んでおり坂道が多いが、昔の風習で高い土地に住居を構えるのは良くないとされ、一定以上の高い所からの住居は久遠寺邸以外には見られず
 地の利がこれほど不便でなければ、山上から覗く街並みは、素朴ながらも広く全国に紹介されてしかるべき絶景と言えた。


 そして、三咲町白犬塚の丘の上にある屋敷。
 有珠の両親の形見でもある。とある経緯でイギリスから運ばれた由緒正しい洋館であり、
 そこでは、「2人の魔女が住んでいる」「幽霊屋敷」等と噂されているちょっとした名物屋敷がある。
 






 目が覚めると、なんだか妙にふかふかした布団に寝かされていた。
 満足に干していない、自宅の布団とは明らかに違う感触だ。


(……あれ?)


 人の声で目を覚ましたものの、静希 草十郎はまだ夢の中にいるのかと思った。
 目が覚めたのに自宅の寝室ではないという状況に違和感があった。

40 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/10(木) 19:36:00.46 ID:sM9IXjGGo
酷い自演を見た
41 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 19:37:47.48 ID:YJemFYN90

(えーと)


 俺はどこかに旅行でもしてたんだっけ、と草十郎は考えた。
 が、そんな記憶はない。では、昨日までの自分は何をしていたっけ? と考える。


(遊園地で、蒼崎と怖い魔女に追っかけられててた)


 あーそうだった、と草十郎はぽんと手を打とうとしたが、体中が痛くて簡単には動けなかった。
 目を開けることさえ苦痛なほどだ。
 でも耳だけははっきりと聞こえていて、なんだか怒っている感じがする少女の声がした。


 …………!………!!


 三咲町白犬塚の丘の上にある久遠寺邸は、丸ごと一族に買い占められていて、一般人の立ち入りは禁じられている。
 が、広い山のことだ。入ろうと思えば、どこからでも入れる。なのに地元の人間が久遠寺邸に入らないのにはわけがある。


(なんだっけ、呪われるとか、幽霊が出るとかそういう都市伝説的な?)


 いや、丘だから都市じゃないなと、草十郎はどこまでも暢気に考えていた。
 三咲市は、まだ発展途上の街だ。なんらかの伝説が発生したとしても、
 その上に『都市』という修辞句をつけることを地元の人間が躊躇うくらいには田舎なのだ。
 その『伝説』の中に、久遠寺邸には幽霊が自生しているという話があったのだ。
42 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/05/10(木) 19:44:33.69 ID:YpT5jXO80
自演?って・・・?
43 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 19:46:35.06 ID:YJemFYN90

(そして俺は卵に負けた気がした……)


 草十郎は、自分が意識を失った理由をようやく思い出した。思い出した途端に落ちこんだ。


(卵捕まえて、転げ落ちた先で気を失うって俺はどんだけ……)


 間抜けだ。食い意地が張っている上に、ものすごく間抜けだと草十郎は唇を噛みしめた。
 正確には、その卵型の呪いにやられたのだが。


(なんだかお腹が空いたな、ハムと玉子焼きが食べたい)


 草十郎は十七年の人生で、今まで一度もハムを食べたことがなかった。
 両親はすでに亡く、決して裕福ではない山奥での生活化で、
「ハムが食べたい」と言えるほど草十郎は図々しくできていなかったのだ。


(あ〜でも、死ななくてよかったー)


 あの高さから落ちたら普通死ぬよなあと、草十郎は最後に見た景色を思い浮かべる。
 と同時に、頭の奥でキィンと嫌な音がした。


(あれ? でもその前に)


 崖から落ちる、その直前。
 何かすごく、怖いものを見た気がした。なのに、草十郎はそれを具体的には思い出せなかった。
44 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:06:41.66 ID:YJemFYN90


(まあいっか)


 どこまでも楽天的な草十郎の部屋の扉向こうでは、さっきからずっと少女たちが言い争いを続けている。
 正確には言い争いですらなく、少女のほうが青子に対して一方的に拒絶している様子だ。
 草十郎は薄目を開けて、まずは少女のほうを見る。
 途端に、血液が逆流しそうな興奮に襲われた。視線が彼女に釘付けになり、離せなくなる。


(うわ……)


 西洋人形のように美しい少女を、草十郎を初めて間近で見た。
 お人形さんのように可愛らしさ、そんなものは実在しないだろうとずっと信じていたのが覆された。
 それは透き通る黒色で、自然の造形物としては不自然なほど美しかった。
 女と呼ぶにはまだまだ若すぎる少女が、草十郎の視線にも気づかず青子に食ってかかっている。
 その眸は、黒曜石を少し薄くしたような黒色だ。


「あいつは事情を説明した後で、ここで監視する」


「ここである必要はないわ」


 青子の主張に、少女は肩を竦めた。


「昨夜の件は私の負けだったから、彼を処遇を青子に一任することは了承したわ
  でも、ここに住まわせることまでは約外よ。私は認めない」


 どれくらい言い争っていたのかは眠っていた草十郎には不明だが、どうやらちょうど今が少女の臨界点だったらしい。
 華奢な手のひらが振り上げられ、青子の頬を叩いた。
 青子と少女では十センチ以上の身長差があるため、少女は彼女の頬を打つのに仰ぐようにしなければならなかった。
 その打擲から逃れることもせず、青子は少女の後ろを指さした。
45 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:17:33.65 ID:YJemFYN90









「目を覚ましたみたいだけど」





 少女が肩口まで届く髪を揺らし、振り向いた。草十郎はまだどぎまぎしていた。
 草十郎が目覚めるのを見届けると、青子は部屋から出て行った。
 草十郎は改めて、扉の奥で目を細める少女と部屋の中を見回した。


(ここ、どこだ?)


 草十郎にとっては、舞台セットのように現実味のない光景だった。
 白い壁、金色の手摺りに飾られた窓、アンティークな家具、そしてベッド。すべてが草十郎にとって馴染みのない品物だ。
 その内装と、自分の昨日までの行動とをすりあわせて、草十郎はあることに思い至る。


(そういえば、山の奥には屋敷があるとかって聞いた)


 白犬塚を所有する金持ちの屋敷が、丘の奥深くにあるというのは有名な噂だったが、
 別荘を実際に直に近くで見た者は知り合いには一人もいなかった。
 奥へと続く一車線の細い道はあるものの、そこへ至るルートはすべて鉄門と高い塀に囲まれており、
 誰も侵入しようとは思わなかったからだ。
46 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:32:22.59 ID:YJemFYN90

(まさか、ここ、その屋敷?)



 そうだとしたら合点がいく。こんな派手な内装の部屋というのはちょっと思いつかないし、
 そんなことを取りとめもなく考えてたら、少女はベットの横にある椅子に静かに腰を下ろした。



「…………」

「…………」



 黒い、飾り気のない衣装。
 そのくせ質素な印象はなく、単色なのに言いようのない気品を感じる。
 高級な繊維で作られた、この少女の為の装飾――――
 


 そんな詩的な感想を、草十郎をして抱かせるほどの。


 少女は座ったままぴくりとも動かない。
 その在りようは純潔のまま成長した水仙の花のよう。
47 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:45:16.50 ID:YJemFYN90






「――――眠ってるみたいだ」


「…………え?」





 草十郎はベットに横になったまま、動かした首を戻す事もできず
 かといって気の利いた台詞も浮かばず、少女と無言で見つめあう。
 感情のない瞳が慮外の言葉で、驚きに揺れる。


 また草十郎も声をかけようともかけられなかった。
 思わず発して出てしまった言葉でいま少女に話しかけるのは躊躇われたからだ。


 それに、
 いかに暢気な草十郎でも、この少女が青子と同じ種類の爆弾である事は身に染みて知っていた。



 少女が何を考えているかは不明だが、草十郎にとっては辛い沈黙が続いていく。
 これも蒼崎の何らかの悪戯、罰則と言えなくもないかもしれない。
48 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:52:17.59 ID:YJemFYN90


「………。これが蒼崎の仕込みなら手がこみすぎる………」


 などと思いつつも、草十郎は少女から目を離せなかった。
 自分が首を戻したり目を閉じた瞬間、少女が隠し持ったナイフで自分の胸を刺すのでは………。
 なんて想像をかきたてられたからではない。


 たしかに重苦しい沈黙で、遊園地での事を思い返すと不安になるけれど―――
 

 それ以上に少女は魅力的だと、彼は思ったのだ。



 細い体と白い肌。
 人を寄せ付けない瞳の冷たさと、いまだ残った少女の面影の温かさ。
 その二つが混ざりあった姿は、魔的なものと言っていい。


「………?」


 そこまで少女と向き合って、草十郎は彼女とは以前会っているような気がした。
 遊園地の一件よりもう少し前。
 どこでだったかは思い出せないけど、たしかに以前見かけた気がする。
49 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:54:45.18 ID:YJemFYN90





「その、いまさらだけど」




 凍りついた部屋に、白々しく響く自分の声。
 その場違いさに申し訳ない気持ちになりながら、草十郎は少女に語りかけた。
 いつまでも見つめ合っている訳にもいかない。
 ……見つめ合っていると思っていたのは自分だけで、少女は睨み合っていたつもりかもしれないし。





「ここはどこで、君は誰だか分かるかな?」





 少女は黒い瞳をかすかに細める。
 
 麗らかな春の木漏れ日。
 暖かな午睡の日差しの中、青年と少女はゆっくりと話をし始めた。
 時計の針の音が、耳に心地よく響くゆるやかな時の中で―――。
50 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/10(木) 20:56:44.01 ID:YJemFYN90
本日はここまでです。
遅筆で申し訳ないです。

あと、このssは時系列がバラバラになりますのでご容赦ください。
51 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東海・関東) [sage]:2012/05/11(金) 01:28:15.53 ID:VOFbQNTAO
乙!
52 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/12(土) 15:25:41.15 ID:We0C6COn0
明日、更新するかもです。
53 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/13(日) 21:17:13.40 ID:NX7tk5v10
ごめんなさい
更新は後日になります。
54 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 20:53:23.61 ID:8eIhzJZJ0
更新しちゃうにゃん。
55 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 20:55:21.02 ID:8eIhzJZJ0

 三月も半ばを過ぎようとしている。
 その日の昼さがり、延ばし延ばしにしてきた有珠の依頼を果たすために、青子は駅に降り立った。
 夜ともなれば、ヤクザ、男娼、パンパンが群れ集う駅前マーケットも、三月の陽光の下では、
 いくらか猥雑で、底抜けに陽気なだけである。靴磨きの少年たちが喚声をあげて走り回り、
 音質の悪いスピーカーがブギをがなりたてる。脂ぎったモツのにおいと唐辛子のきいたカレーのにおい……。


 マーケットの雑踏にもまれ、あちこちで路を尋ねながら、青子はようやく目的の建物に行き着くことができた。
 建物そのものは、一般の下駄ばきアパートとなんら変わるところはないが、ただ門扉に有刺鉄線をからませ、
 塀の上にガラスの破片を埋めこんであるという物々しさが、ひどく異常なものに感じられた。


 コの字型の建物の、その狭い内庭には人の姿はなく、閉じられた門扉には呼び鈴さえついていない。
 二階の窓にはためいている洗濯物だけが、青子の視界のなかで唯一動いているものだった。
 

 ――どうやって入るのよ?


 青子はしばらく門の前に佇んでいた。
 誰も出てくる気配はなかったし、窓から覗く顔もなかった。
 どうやら、大きな声をあげるしかないようだった。
56 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:05:50.72 ID:8eIhzJZJ0

「誰かいませんかー」


 青子は声を張り上げた。
 しかしその声は、昼さがりの気だるいような空気に、いささかの反響を呼ぶこともなく虚しく消えていった。
 青子は二度と声をあげる気がしなくなった。
 まさか、昼間から門を乗り越えるわけにもいかなかったからだ。
 しばらく公園でもぶらついて、時間を潰してから、出直してくるか……そう考えて、青子が踵を返しかけた時、


「面会か?」


 横手から声がかかった。
 痩せこけた、若い男だった。
 黒いアロハを着て、黒いズボンを穿いているが、それでもまだ地におちている自分の影より、稀薄な感じがするような男だった。
 胸を患っているのかもしれない。その目が異常にぎらつき過ぎているように見えた。
 髪を長く伸ばし、首に航空兵の白い絹スカーフを巻いている。


「どうだ? 面会か?」


 男は繰り返した。


「そうだけど……」


 青子の声は確信に欠けていた。どうしてか、聖堂教会の人間である、とは思えなかった。
57 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:10:11.74 ID:8eIhzJZJ0


「誰に会う?」

「唯架によ」


 男の顔色が変わった。


「彼女とは知り合いか」

「まあ少し」

「じゃあ、どうして彼女と会う?」

「話があるからに決まってるでしょ」

「どんな話だ?」

「それは、彼女に直接話すわ」

「俺には言えないような話か」

「言えるような話でも、あんたには言わない」

「なぜだ?」

「あんたが気にくわない」


 本音だった。男の無礼さは常軌を逸している。
58 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:12:31.40 ID:8eIhzJZJ0

「…………」


 男の視線が険しくなった。内心の苛立ちを隠すように、親指の爪を噛み始める。
 それが癖になっているらしく、爪が変形していた。


「どうしたのよ? なにをそう神経質になっているのよ。私はただ唯架と会いたいと言ってるだけよ?」


 青子は口調を変えて言った。
 だって幼児性の抜けていない男と喧嘩をしてみても始まらなかったから。


「彼女と会いたがっているやつは多勢いる。
 右翼は彼女を殺したがっているし、ここらのヤクザは彼女を強姦すれば、勲章になるぐらいに考えている」


「私が右翼やヤクザに見えるかっての」


「そうは見えない右翼やヤクザがいちばん怖い……この前も、とてもそうは見えない子供のような右翼が、
 ダイナマイトを投げこんでいった」


 このままではとても拉致があきそうになかった。
 できるだけ避けたいと考えていたのだが、自分の名を出すしかないようだった。
59 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:16:16.31 ID:8eIhzJZJ0


「それじゃあ、取次ぎを頼める?」


 と、青子は言った。


「蒼崎青子が、久遠寺 有珠の使いでやって来た。ぜひ会って話したいことがあるってさ」


「蒼ざ……なんだって?」


 男は面喰らったようだった。青子は辛抱強く繰り返した。



「そう伝えれば分かるのか」

「分かるわ」

「おれにはなんのことだか分らない」

「確認をとれば分かるはずよ」



 男はなおも猜疑心の強そうな眼で青子を睨みつけていたが、
 やがて諦めたように鍵の輪をポケットから取りだし、門の閂(かんぬき)を外した。


「ここで待っていてくれ」

60 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:18:08.07 ID:8eIhzJZJ0

 青子を門の外に立たせたまま、閂をかけ直し、男は建物のなかに消えていった。
 塀になかば破れかかったリバイバル上映の映画ポスターが貼ってある――黒沢明の監督した映画で、〈野良犬〉という題名だった。
 三船敏郎とかいう若い男優がポスターのなかで、眼を剥いていた。
 そしてしばらく三船敏郎と睨み合っているうちに、男が帰ってきた。


「どうぞ」


 男は閂を外し、青子を招き入れた。
 口調は丁寧になっていたが、どことなく不満げな響きが残っていた。
 建物の中には人の姿はまったく見られなかった。
 その人けのない建物のなかを、鴉のように陰気な男に案内されて歩いていると、なにか悪夢のなかに迷い込んでいくような気がした。


「昼間はみんな働きに出ているんです」


 弁解しているような口調で、男は青子にそう言った。
 青子は頷いただけだった。
 どうでもいいことだったからだ。誰がいなかろうが、目的の人物さえいればそれでいいのだから。


 二階の応接室に通された。
 ニスのはげかかった机と、詰物のちぎれてしまっているソファ――置かれてある備品はいずれも粗末なものだったが、
 掃除がきちんと行き届いていて、それだけは気持ちがよかった。


「唯架さんはすぐに来ます」


 そう言い残すと、男は応接室を出ていった。
61 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:20:09.41 ID:8eIhzJZJ0

「お待たせしました」


 ドアが開かれて、遠い物想いに誘われかけていた青子を、現実に引き戻した。


「こんにちは。唯架です」


 と、戸口に立ったその少女は挨拶した。
 細面の閉じられた目、ふっくらとした唇、肌理のこまやかな頬に、健康そうな艶があった。
 改めて見ても、確かに美人だった。
 だが、成熟した女の美しさではない。どちらかというとまだ産毛の似合いそうな、少女の美しさだ。


「お久しぶりね、唯架。
 巡回の最中だってのに悪いわね」


 席を立って、青子も挨拶を返した。
 そして両人は向かい合って坐った。


「実は……」


 と、青子は口を開きかけて、戸口にあの鴉のような男が佇んでいるのに気がついた。
 人に聞かせられるような話ではない。


「すみませんけど、席を外してもらえない?」


 青子の視線の意味に気がついて、唯架が男を振り返って言った。
62 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:23:21.11 ID:8eIhzJZJ0

「しかし……」


 呼ばれた男は、まだ青子を疑っているようだった。


「私なら大丈夫です。話はすぐに終りますから、少しの間だけ――ね」


 唯架の声は優しかった。
 その優しさに押しきられたかのように、男は黙って部屋を出ていった。
 ドアを閉める時に振り返った彼の眼は、主人にかまってもらえない犬の眼を連想させた。


「ふーん……? 随分懐かれてるみたいね」


 意外な気がして、青子はそう訊いた。
 これまでの彼の様子から、てっきり同様に禄でもない人間とばかり思っていたのだ。


「ええ、彼はああ見えて敬虔な神教徒なんです
 ……俗世の利害とは外れ、常に我々の良き隣人となっていてくれます」


「へーえ……」


 そう頷きはしたものの、青子は内心苦笑していた。
 あの男のしぐさを少し注意深い眼で見れば、彼が唯架に惹かれている事はすぐに分かる。
 むろん、唯架もそうと気づいているに違いない。
 気づいていながら、それを神に対する信仰である、と巧妙にすりかえて、男の好意だけ受け取っているわけだ。
 女が長い間に備えてきた保身の智恵だ。彼女も女である以上、その例外ではないらしい。
 が、青子にはいずれ関係のないことだ。有珠の言付けを伝えれば、それで青子の用は済む。
63 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:26:27.87 ID:8eIhzJZJ0


「単刀直入に話すけど……」


 と、きりだした青子の言葉を、


「お話になる必要はありません」


 唯架が遮った。



「……」

「お話は分かっています。不問律の掟に従って、彼から身を引け……そうじゃありませんか?」

「ええ、そのとおりよ……それで、身を引いていただけますか唯架?」

「引きません」

「ふーん、それでは、黙ってあの子と全面戦争する、ということを承知でアイツ側につくのね?」

「黙秘します」

「…………」

「だって、あの子が敷いた口約束に過ぎませんもの」



 そう言いきった時の唯架の表情は、羨ましくなるぐらい晴れやかだった。
 自身に荷せられている重い呪縛を世迷信だと考えるだけで、唯架でさえもこれほど明るくなれるものなのか。しかし……
64 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:33:39.30 ID:8eIhzJZJ0


「残念ながら、今日この日をもって私は協定から外れさせていただきます。
 構わないでしょう?いずれ唾棄されゆく一時的な妥協だったんですから」


 そう口にしていた時の彼女に対して、青子の胸には、暗くて酷い衝動が芽ばえていた。
 唯架の明るさに対する羨望が、いつしかどす黒い嫉妬に変わっていた――唯架のくせに、唯架のくせに……。


「そうね。でも、……本当にいいの?」


 青子の感情の動きを敏感に察したらしく、唯架の表情も険しくなっている。


「この世の悲惨に喘いでいる人たちは数えきれないほどいる。
 そして、私たち主の信徒には彼らを救ける義務があるのです……
 それでいて、彼らを救けてはならないなんて、そんな掟なんか意味があるはずないわ」


「…………」


 青子は沈黙した。
 たしかに彼女の言うとおり、こんなのはとりもとめない茶番だ。
 行き過ぎた私たちの感情によって起きた、くだらない犠牲によって設けられた一時的な防波堤。
 あいつに嫌われたくないという、自分勝手で利己的な形ばかり取り繕った醜い良識によって
 巻き込まれた鳶丸たちにとっては、残酷でさえあるだろう。

 それだけに、なぜ救けてはならないのか、という唯架の言葉は強い説得力を持っていた。
 なぜ救けてはならないのか……これまで何人の彼を慕う女たちがそう自問し、そして、掟を破るのを決意したことだろう
 ――が、彼女の決意は、いずれもさらに大きな悲惨を招く結果に終わるのだ。
 青子は、唯架の挑戦に応じなければならなかった。
65 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:36:44.55 ID:8eIhzJZJ0



「お話はよく分かりまし……」


 ひどく冷たい声で、唯架が青子の言葉を遮った。


「どうぞ、お引き取りください」


 帰るわけにはいかなかった。











 青子は顔を背けた。窓の外はいつの間にか仄暗くなっていた。
 ――あのときも、なぜ助けてはならないのか、と食って掛かる私に、その理由を鳶丸は諄々と説いてくれた。
 今度は彼女の番だ。今度は彼女が、この少女に説いてきかせる番なのだ……。
 ゆっくりと立ち上がる青子を、唯架があっけにとられたような表情で見上げている。

66 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:39:36.12 ID:8eIhzJZJ0


「ちょっと、つきあってもらえませんか」

「?、…………」

「少し公園を歩くだけですよ。あんたに見せたいものがある……」

「なんでしょう?」

「来れば分かるわよ。それとも、怖いのあんた?」

「怖いものなんか一つもないわ」

「だったら、つきあってくれてもいいでしょう……」



 いつになく青子は強引だった。
 信仰にとり憑かれ、今、私たちが拠り所としているもの――人間愛というやつがたまらなく憎かった。
 人間愛は浮気な恋人に似ている。
 離れなければ不幸になっていくだけであり、離れれば惨めになる。
 かといって足蹴にすれば、傷つくのは自分の方なのである……。


「いいでしょう」


 と、唯架が頷いた。



「少し待っていただけますか? すぐに支度をしますので……」


「支度なんかいらない。一時間もすれば、ここに戻ってこれる」



 青子のその言葉に、唯架の頬がわずかに強張った。青子の悪意をはっきりと感じとったようだった。
 付いていってはならない。
 彼女はそう判断し、備に準備してあった仕掛けを使おうと手を伸ばした。

67 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:43:08.86 ID:8eIhzJZJ0























 二〇分後、二人の姿は公園にむかう路上にあった。


「……どこへ……行くんです?」

「だから、公園をぶらつくだけですって」


 唯架はさすがに緊張しているようだ。
 さもありなん、無理やり首根っこを掴み引きずるような形で連れられては警戒しないほうがおかしいだろう。
68 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:47:40.13 ID:8eIhzJZJ0


 現在の夜の三咲町は近隣でも最も治安の悪い地区だと言われている。
 こんな時刻に、若い女が三咲町を歩くのは、襲ってくれと頼んでいるようなものだった。
 青子が駅に降り立った時、マーケットにうるさいほど群れ集っていた人混みは、あれから三時間とはたっていないのに、
 潮が引いたようにもうすっかり消えてしまっていた。
 その活気に満ちた昼間の群集と入れ替わりのように、素姓も、職業も、性別さえもはっきりとしない人間が、
 闇のなかに蠢き始めている。
 最近では、いずれの盛り場にも、やくざ、パンパン、男娼と娼婦が跳梁し、
 このあたりでは、独りで泥酔でもしようものなら、介抱窃盗に身ぐるみはがれるのが、常識のようになっている。
 つい先日までは夜間通行禁止措置がとられるほど治安が悪化してはいなかったのが、今ではこの有様だ。


 にもかかわらず治安の悪さが分かっていながら、夜の公園に迷い込むアベックは後を絶たず
 必然的に、恐喝、強姦事件なども後を絶つことはない。
 今また一組のアベックが公園の入口に近づいていく。
 公園の入口には一〇〇人ぐらいの人が群れていた。いずれも男娼か娼婦、浮浪者ばかり。


「イョッ、お楽しみ」
「ねえちゃん、幾らや」
「シスターさん、もう濡れてるのとちゃうか……」


 近づいてくるアベックの姿を見て、彼らはてんでに野卑な野次をあびせかけた。
 その海鳴りのような野次に、唯架が身体を縮めているのを、意地悪く観察しながら、


「まだまだこんなのは序の口よ」


 青子は楽しそうに言った。


「あなたがどんなつもりで私を誘ったのか分かってきたわ……」


 唯架がそう答える。表情に怒りの色が浮かんでいた。
69 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:50:56.53 ID:8eIhzJZJ0


 公園に入る。
 暗い。街灯はほとんど例外なく割られてしまっているのだ。
 そんな足元さえ定かに見えない闇のなかで、なにか獣の蠢いているような気配だけが感じられた。


「転ばないように気をつけてね……」


 青子が注意した。


「ご親切ですのね」


 唯架の声には痛烈な皮肉がこめられていた。


「とても、私を誰かに襲わせようと考える人の言葉とは思えないわ……
 どうかご心配なく。なにも見えないからといって、転ぶような不様なことはしません」


 唯架はそっぽを向いた。
 二人は歩き続けた。
 いつからかサラサラという蛇の這うような音が聞こえ始めていた。
 その音は二人の進行に従って、どこまでもついてくるのだ。クスクス笑いと、なにか囁き合う声……。
70 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:55:32.05 ID:8eIhzJZJ0


「彼らは5人や10人ではないようですね」


 唯架はあくまでも楽しそうに言う。


「その5人や10人でない奴らが、全員あんたを狙っているの……」


 別に怯えたような様子も見せず、唯架が尋ねる。


「どうしてこんなことをなさるんですか?」


「あなたはあいつの悲惨を救いたいと言った。
 そのためなら、私たちの協定を破るのも辞さないと……でもさ、人間ってやつはしょせん毒虫か、そうでなければ滓にしか過ぎないの。
 いずれにしろ救いに価するような上等な代物ではないでしょう?」


「それを、身をもって私に体験させようというわけね?」


 青子はそれには答えようとはしないで、やおら足を停めると



 パチーン



 指を鳴らした。
71 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 21:58:44.57 ID:8eIhzJZJ0


 目の前の公衆便所から、男たちが数人飛び出してきた。
 慌てふためいて、闇のなかに逃げこんでいく中の二、三人は、下着しか身に着けていないようだった。
 青子は弾けるように笑いだした。笑いながら、言う。


「あいつらはかき屋といってね。500円払えば、マスターベーションをかかせてくれるんだってさ。男が男に、ね……」


 その笑い声をはねのけるように、


「毒虫はあなただわ」


 低い声で唯架が言った。青子の笑い声はピタリと止んだ。
 そのまま二人は睨み合った。
 あちらこちらに散らばっている夥しい紙屑が、カサコソと地を這い始める。
 男と女の、あるいは男と男の情事の残骸だ。胸のむかつくような、甘いにおいが漂ってくる。
 そんな淫風に吹かれながら、青子は胸にわき起こってくる凶暴な衝動を圧さえきれないでいた。


 ――この聖女(ジヤンヌ・ダルク)を地に這いつくばらせてやる……。


 青子は下腹部が熱くなっているのを感じていた。
 裸にむいて、泣き喚かせてやる。薄汚い男たちに、輪姦されればいいんだ……。
 唯架を公園に誘った時には、そんなつもりはなかったけど。
 ぎりぎりのところで、助けだしてやる気ではいたんだ。

 が、唯架の一言が、青子の理性を完全に喪失させたのだった。
 
72 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 22:02:11.89 ID:8eIhzJZJ0





 毒虫はあなただわ……。


 この私が毒虫か。いいわ。私がどれほどの毒虫であるか、あんたに見せてやろうじゃない
 ――青子は胸のなかで咆哮していた。
 暗闇に向かって、彼女は叫んだ。







「出てきなさい、この淫売をあんたたちの好きにさせてあげる!」


 














 が、闇はしんと静まり返ったまま、青子の声に反応しようとはしなかった。
 いや、誰もいないのだ。ついさっきまで五月蝿いほどに群らがっていた人影が、もう何処にも見えないのだ――。
 愕然としている青子に、唯架が静かな声で言った。
73 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 22:04:27.97 ID:8eIhzJZJ0


「あの人たちなら私が追い払いました……」


「唯架が?……いつのまに……」


「ええ」


「…………」


 青子は戦慄した。
 唯架が自分ではまだ及ばぬ領域である手練で男たちを遠ざけたことを、ようやく悟ったのだ。
 唯架は言葉を続けた。



「あなたは、人間はしょせん毒虫か、そうでなければ滓にしか過ぎない、と言いましたね
 ……でも、そのことなら、あなたに教えてもらうまでもないわ。
 教会で、信徒であるということがどんなに苛酷な体験であるか……
 しかも若い女であるということがどんなに……私は知ってるのですよ?
 一二の時に両親を虐め殺されてから、人間が滓だなんてこと、ずっと知っていたわ」



「それじゃ、なぜあいつを?」


 青子の声は掠れていた。

74 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 22:06:16.33 ID:8eIhzJZJ0






「だから、救いたいのですよ」




 静かにそれだけを答えると、唯架は踵を返した。
 唯架の姿が闇に呑まれてからも、青子はなおその闇を凝視していた。
 不思議に敗北感はなかった。敗北感ではなく、


 ――もしかしたら、あの娘なら……


 という昂揚感に満たされていた。あの娘なら私たちの悲惨を無くすことができるかもしれない……。
 有珠のもう一つの伝言を彼女に伝えなかったことに、青子が気がついたのは、かなり時間が過ぎてからだった。
 





 そして、そのことを彼女に伝える機会は、ついにやってこなかった。
 その翌朝を境に唯架は行方不明になってしまったからである。

75 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/14(月) 22:12:19.29 ID:8eIhzJZJ0
今回の更新はここまでです。

わかりにくいので捕捉すると、時系列は基本的に原作番外編のスイーツハーツ前ぐらいだと思ってください。
また道筋もIFなのでところどころ違っています。
76 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/19(土) 12:06:23.19 ID:XRh0imnN0
続きは今晩か明日にでも投下するかもです。

そういえば4Gamerでまほよの解説や今後について語っていましたね。
青子がどうして“最新の”魔法使いなのか,その答えも第五の中にあります、とありましたが
やはり魔法とは時代の根幹にある“文明”に密接に根ざすものなのだと再認識しました。


2〜5までが既に公開されて(第五は詳細不明)残るは『無の否定』と『純粋な空間転移』となりますが
早く全部出てこないかなー


ちなみにDDDはまほよ3部作の後に書けるといいな!だそうです。きのこェ・・・。
77 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/19(土) 22:10:43.18 ID:XRh0imnN0
今晩無理でしたごめんなさい。
あと上の公開された魔法は2・3・5の間違いでした。

そういえば月姫2の物語の主核となる-第六魔法-もありましたね
あれ、ズェピアは世界を救うために求めてましたが、教授や姫はあれ発現すると世界破滅するみたいなことも言ってました。
気になるから早く発売しろしー!
78 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/23(水) 19:19:08.56 ID:gECjb0Bto
マダー?
79 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:41:37.36 ID:l6lpwwcP0
遅くなってすまんです

最初に少しだけ更新します
80 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:44:30.76 ID:l6lpwwcP0

 藍が雪洞(ぼんぼり)に火を入れたジーッという揮発音とともに、植物油の匂いが庫裡に漂い始める。
 今、その淡い明りにボンヤリと浮かびあがっている人影は、二人。


「分からねえな……」


 陰りを含んだ面持ちで鳶丸が呻いた。


「説明していただけるんでしょうね」


 小柄な老人を渋い面で、咎めるような視線を向けている若い青年。


「怖いな……そんな表情で儂を見んどいてくれよ」


 老人の剽軽(ひょうきん)な口調は変わらない。


「俺たちに、あいつ等に関わるなと命じたのはご自身ですよ。
 お忘れですか。口を閉ざしたまま、眼を閉じたまま、ただ関わるなと俺たちに教えたのはあなたなんだ。
 そのあなたが、どうして彼女の正体を明かすような真似を……?」


 鳶丸が訊いた。
 重い、感情を極力圧さえた声だったが、やはり、そこには詰るような響きが含まれていた。
81 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:45:52.98 ID:l6lpwwcP0

「別に、正体を明かしなぞはせん……ちょっと彼女を本性の一端を見せてやって、
 悩める青年の問いに答えてやっただけじゃ。
 ――まあ、顛末を知った彼と彼女がどんな顔をしているのかも掴めなかったが……
 ……儂の言葉を一も二もなく信じおったのは幸いであった」


「天眼ですね」

 と、鳶丸が涼しい声で言う。
 一様に興奮しているようで、その実、落ち着いている。


「そうじゃ……」


 土桔 由里彦はククッと笑った。


「あの草十郎という小僧、あんな体格をしておって、女を抱けんらしい。
 ……そいつを言ってやったら、顔を青くして震えおったわ」


「どうしてなんです?」


 鳶丸がふいに声をかける。
 そう、土桔 由里彦が僅かに顔を渋面にしたのを見逃さなかったからだ。
82 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:49:01.94 ID:l6lpwwcP0

「そう、どうして草十郎のことをそんなに気になさるんですか」


「儂が気にしておるのは、小僧のことではない……」


 土桔 由里彦の表情から初めて笑いが消えた。


「小僧ごときがなにをどう動こうとたいしたことではない……
 あ奴に関わってはならないはずのその掟を破れば、結局は、火に群がる蛾のように彼奴に懸想する小娘どもも滅んでいくだけのこと。
 小僧一人のことじゃったら、なにもおまえたちが手を出すまでのことはない……
 だが、儂には、あやつの後ろの影が見えるのじゃよ」


「影って……なんのことですか?」


「……儂には坊主の後ろにいる弥勒が観える。
 放っておけば、その弥勒がこの界隈に数々の疫災をもたらすであろうことが分かるのじゃよ。
 今頃になって、馬鹿げたことではあるがな……」


 本来の弥勒、救済仏という一般の通念とは異なり、なにかとてつもなく悪しき存在という意味合いを持って
 土桔 由里彦は震えながら語った。
 ……だが、そこにはどんな現実感も見いだすことができなかった。
 今の彼にとって、唯一現実感を伴うものは、自身の思考だけであった。
 でも彼女が真に草十郎の悲惨を救うことができるのだとしたら……
 鳶丸は低い声で言った。
83 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:50:51.50 ID:l6lpwwcP0

「俺はもう彼女たちの敷いた掟を忘れようと思っています……」


 土桔 由里彦が息を呑むのが分かった。
 が、土桔 由里彦の眼には驚きの色は見えず、怒りすら浮かんでいなかった。
 鳶丸の言葉をあらかじめ予想していたかのように、身じろぐことさえしなかった。ただ、


「できればの……」


 と、独り言のようにつぶやいた彼の声には、深い悲しみが刻みつけられているようだった。


「それが、できればの……」


 鳶丸は無言のまま席を立つと、土桔 由里彦に一礼して、庫裡を出ていった。
 

「掟を忘れることにしたよ……」
 

 鳶丸が再度小さな声で言った。
 土桔 由里彦は返事をしようとしなかった。
 そう、彼は今ひとりの老人と愛に狂う少女たちを裏切ったのだった。
 黙々と足を運ぶ彼に、強い風が吹きつけていた。草木の匂いを濃く含んだ春の風だった。
84 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 13:52:38.27 ID:l6lpwwcP0
とりあえず前半部分はここまで
続きは今晩か明日・・・に投下できたらいいなぁ
85 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2012/05/26(土) 13:56:27.26 ID:oKstA4z6o
早く続きが読みたいな
86 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 21:52:06.03 ID:l6lpwwcP0
どこまで更新できるかわかんないけど書きながら続き更新します。
では最初は書きためから投下します
87 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 21:53:17.03 ID:l6lpwwcP0

 大乗仏教の思想の核をなすものに、〈偉大な乗物(マハ・ヤーナ)〉という教えがある。
 衆生を迷いの世界から〈彼岸〉に渡してくれる乗物という意味である。
 これに対して、小乗仏教は、〈劣悪な乗物(ヒーナ・ヤーナ)〉と呼ばれている。


 この二つの言葉ほど、大乗と小乗との関係を的確に表現しているものはないだろう。
 大乗が、この世に存在する総てのものの完全な〈さとり〉をその究極に目的とするのに比して、
 小乗の目的はあくまでも自身だけの〈さとり〉だからである。
〈自利と他利〉のために教誡(きょうかい)に努める者を菩薩と呼び、
〈自利〉だけのために教誡に努める者を〈独覚〉または〈声聞(しようもん)〉と呼ぶ。


〈独覚〉は独りで覚り、人を救ったりはしようとしない聖者、〈声聞〉にいたっては、単に仏の声を聞いた者ということでしかない
 ――むろん、両者とも〈菩薩〉の下位に位し、大乗の立場からいえば外道でさえある。
 一般には、大乗仏教は原始宗教の一種にすぎなかった小乗仏教を補充・拡大し、より完成させたものであると考えられている。
 現実に、小乗仏教は東南アジアの数ヶ国で信奉されているに過ぎず、
 確として世界宗教の位置を占めている大乗仏教の勢力とは比べ得べくもない。


 が、大乗仏教は、その教義のなかに大きな矛盾を抱えている。
 つまり、ブッダが実在した生身の人間だった、ということをついに容認しきれなかったのだ。
 ……ブッダが解脱ではなく、生物としての死を遂げたという事実を、その教義では説明しきれてはいないという矛盾である。
 ブッダの生物的死を、大乗仏教の教義で説明しようというのは、本末転倒であるかもしれない。
〈さとり〉を得たはずのブッダが、生物的な死を遂げたという事実に直面し、
 その事実を受け入れることのどうしてもできなかった弟子たちが、大乗の道を模索し始めたといえるからである。
88 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 21:57:31.00 ID:l6lpwwcP0


 弟子たちは、応身仏、報身仏、未来仏、過去仏というように、ブッダを抽象的な存在にすることで、
 ブッダは過去から未来にわたって繰り返し現世に現われ衆生を救うと考え、その生物的死を無視して忘れようとした。
 己一人の〈さとり〉が無意味であると考えられるようになったのも、
 多分、ブッダの生物的死が弟子たちに与えたショックが、その原因だったのだろう。


 弟子たちが、これほどブッダの教義を自由に解釈できたのも故のないことではない。
 ブッダは生前自分の教えを文字に残そうとはしなかったし、晩年には教えを説くことさえほとんどしなかったという。
 彼の死後、弟子たちは手がかりらしい手がかりも与えられずに、自力でその教えを理解しなければならなかったのである……。
 ブッダのこの沈黙が、仏界にひとつの翳(かげ)を落とすことになる。


 ――ブッダは独力で〈さとり〉を得、そして、晩年にはほとんど沈黙したまま死んでいる……
 それでは、ブッダ自身が、小乗でいう独覚であったということになりはしないか、というのがその翳である。
 小乗を異端視する大乗の立場からすれば、ブッダが独覚ではなかったか、と考えるのは彼に対する冒涜でさえあるだろう。


『無嘆法経典』が決して人の眼にふれることがないのもそのためである。
『無嘆法経典』……ブッダの従弟であり弟子でもあった調達(デーブア・ダツタ)が書き残した経典である。
 調達(デーブア・ダツタ)自身に関しては、ブッダに反逆した人物としてのみ知られているだけだが、
 彼の残した『無嘆法経典』は、ブッダは独覚であった、と断じていることで、広く仏界にその存在を知られている。
 むろん、存在が知られているだけで、実物を見た者はほんの数名を数えるだけであろう――。
『無嘆法経典』が、これほど大乗の徒に忌み嫌われているのには、実はもうひとつ理由がある。
 そこには、ブッダ入滅後五六億七〇〇〇万年を経て現世に現われる弥勒さえも独覚である、と著されているのだ。
 しかも、弥勒こそ悪しき独覚で、ぜひとも滅ぼさなければならないのだ、と……。
89 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:01:02.80 ID:l6lpwwcP0







 弥勒。



 梵語のマーイトレーヤのことで、中国では慈氏と訳されている。
 この兜率天(とそつてん)で修行を重ねているという菩薩の名が、文字となって残されたのは、
『弥勒成仏経』が最初であるというのが一般通念になっている。
 しかし、実は、それより古く、『無嘆法経典』にその名がすでに著されているのである。


『無嘆法経典』に弥勒の名が著されているという事実が、仏教学者たちに、ひとつのジレンマを与えている。
 西遊記の主人公として有名な、唐の玄奘三蔵の記した『大唐西域記』に、
「無着菩薩は、夜になると天宮に昇り、慈氏(弥勒)菩薩のおられるところで、『瑜伽師地論』などを学んだ」
 という一節がある。


 つまり、三世紀の後半から四世紀の前半にかけて、慈氏という名の人物が実在していたのである。
 このことから、弥勒信仰は、兜率天上の未来仏と実在の僧侶の名とが混同されることで始まった、と仏教学者たちは考えている。
 はるかに古い『無嘆法経典』に弥勒の名が残され、しかも悪仏と著されているという事実は、
 仏教学者たちにとっては、断じて受け入れ難いことになるのである。


 むろん、この慈氏という名の僧侶が独覚ではなかったか、と疑う仏教学者は一人としていない。
 玄奘三蔵の記述を信じて、この僧侶がふしぎな能力を持っていた、と考える者もいないし、
 彼がどうやら誰かに殺されたらしい、ということを気に止める者もいない。
 まして、中国史において弥勒教匪と呼ばれた反乱の指導者たち――沙門法慶とか、宗子賢といった連中が、
 それぞれに弥勒を自称し、幻術を操るのにたくみであった、ということと、
 この僧侶との間に共通点を見いだす者など一人もいるはずがなかった。
90 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:01:39.92 ID:l6lpwwcP0

 
 五六億七〇〇〇万年。
 この数字は、弥勒をなにか忌むべき存在と知っていた人たちが、彼の出現を遥か未来に置くことで、
 その関わりを断とうと考えたことからくる数字ではなかったろうか。
 そうでなければ、衆生を救ってくれるはずの未来仏の出現を、どうしてこれほど先に延ばしたりする必要があったのか。
『無嘆法経典』には、ブッダが、弥勒が、そして、独覚がなんであるかがつぶさに著されているという。
 そうではあるのだが、いや、多分、それだからこそ、『無嘆法経典』が人眼にふれることはまずないだろう。
『無嘆法経典』は、朝鮮半島、板門店の南方にある一寺院に隠匿されているというのだから。











 そう、これは衆生の隠匿。
 救世の御仏である彼の存在が、もし忌まわしき存在へと迦葉されえた一つ道を踏み違えた物語。





91 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:07:38.00 ID:l6lpwwcP0

 雨が降っている。
 鳶丸は学校を休んで、三咲町の居酒屋で昼酒を飲んでいる。
 コンクリートの三和土(たたき)に、カウンターだけという安直な居酒屋で、客の大半は学生である。
 コップ一杯の焼酎が130円、つまみは塩辛を盛ったどんぶりが幾つか置いてあるから、各自勝手につまめばいい。
 鳶丸は酔い始めていた。まだ二杯とは飲んでいないのだが、昼間に飲む焼酎は、ことさら胃にしみるようだった。



「親父、こんな話を知ってるか」



 鳶丸は、カウンターの内側で肌ぬぎになって、しきりにウチワを使っている居酒屋の親父に、声をかけた。
 この不良め、というような表情で見返すだけで、ろくに返事をしようともしない親父を気にもかけないで、



「こんな話だ。いいか――ああ、やっぱりいいや、わるいな」



 言いかけた言葉を飲み込んで鳶丸は黙って焼酎を口に運んでいくことにした。
 だが、鳶丸は草十郎の周りで起きている戦争には興味がなかった。
 俺がより一層に巻き込まれて、面倒なことに駆りだされるようなことになったとしても、
 それならそれで、滅びの運命が全うされるだけの話だ。掟を忘れると宣言してみても、
 鳶丸が独覚であることに、なんの変わりもあるはずがなかった。
92 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:16:08.47 ID:l6lpwwcP0



 鳶丸は有珠のことを考えていた。
 考えてもどうにもならないと分かっているのに、いや、多分それだからこそ、その有珠のことを考えないではいられなかった。
 その女――久遠寺有珠の貌が酒に濁った鳶丸の脳裡に白く浮かんでいた。
 


 ――惚れたのか……。



 鳶丸は自嗤した。
 滅びの運命を荷せられているはずの独覚が、もうひとりの独覚に惚れる……
 これが笑劇(ファルス)でなくてなんだろう。
 毒虫呼ばわりした男が自分に惚れたと知ったら、有珠もやはり嗤うだろうか……。




 ――午後から降り始めた驟雨に、焼酎をあおっている。
 女のことを考えながら……。



93 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:23:44.39 ID:l6lpwwcP0






 あれは高校1年のことだった。
 恋をした。
 胸の内は相手にはもちろん、友達にさえ語ることのできない、鬱屈した思いに閉じこめられた苦しい恋だった。
 その青年は凄烈だった。
 彼の傍に近づくために金鹿は、必要もない生徒会室へと何度も足しげく通った。
 後ろ姿を痛切な思いでみつめるだけがすべての、切ない恋だったのだ。


 彼に熱っぽい視線を注ぐのは、金鹿だけではなかった。
 年代が近いこともあって、彼は女生徒達の人気を集めていた。
 進路指導やら人生相談やらの名目で、彼女達は生徒会長を差し置いて、何かとその彼の元を訪れた。


 放課後の生徒会室はもとより、彼が勉強のために訪れた図書室や、自宅にまで押しかけ、
 彼の消しゴムを貸してもらったとか、生徒会室室でインスタントコーヒーをごちそうになったとか、
 他愛のないことが女子生徒たちの自慢の種になっていた。


 そのうち、ごく親しくしていた友人の一人が、私に打ち明けた。
 生徒会室に行って、部活費の相談をしているうちに、恋人になってくれないか、と言われた。
 あたふたしている間、熱い視線を注がれ、やがてそれが終わると「ありがとう」と抱き締められた、と。
 取り巻きの一人として、女生徒達の一番外からひっそりあこがれの視線を向けていた金鹿が、
 生徒会室に行ったのは、その週の土曜日だった。
94 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:29:44.59 ID:l6lpwwcP0

 何をするつもりだったのか、自分でもわからない。少なくとも、何かを期待した、ということはなかった。
 友人の言葉の中で、いきなり一人の男性として生々しい実像を結んだ人への複雑で行き場のない思い、
 果たして友人の語った内容は真実なのかという疑問。それらの感情を解消するために、数日間悩んだ末の行動だった。
 仮に期待していることがあったとすれば、友人の言葉をはっきりと否定するものを、そこに発見することだったかもしれない。


 金鹿が生徒会室に入ったとき、鳶丸は、Tシャツの袖を肩までまくり上げて、デスクワークをしていた。
 金鹿の顔を見て「どうした?」と尋ねたきり、手を休めることもなかった。
 

 筆先が止まるのを待って金鹿は再び話しかけた。
 内容は真面目な高校生にふさわしい進路相談だった。
 二日間考えてみつけた当たりさわりのない相談項目だった。
 彼は金鹿の方を一瞥もしなかった。


 ことさら金鹿から目を背けるように書類と対峙しながら、「先生とは相談したのか?」とクラス担任の名前を口にした。
 そのとき何と答えたかは忘れた。しかしその教師が言ったことは、はっきりと覚えている。


「それは最終的には、おまえ自身が判断することじゃねえの?」


 すこぶるまっとうな意見だった。
 そのあいだも彼は書類に筆を走らせ続けていた。
 汗でぬれた背中が、「休日までわずらわせないでくれ」と叫んでいるように見えた。
95 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:35:58.69 ID:l6lpwwcP0

「あ、あのさ……」


 勇気を出して、それでも彼にことの真意を聞いてみた。
 心臓は削岩機のようにガタンガタンがなり鳴らし、顔から火が吹き出ているのではないかと思うくらい
 熱く昇っている。
 

 結論から言えば、彼は疑惑の噂話を呆れ半分に否定した。
 嫌疑が晴れたところで緊張は緩み、気が付けば青子たちと話をするときのような
 くだけた感じで話をしていた。
 秘密めいた話が繰り返されるうちに、その内容は誰とどこまで関係ができたことがある、というところまでエスカレートしていった。
 実際、そこまで生々しい話をしたのかどうか、今となっては定かではない。


 ただ、あの噂話はそれはあくまで思春期を迎えた生徒の間の根拠のない噂話の一つで、そんな事実はないことだという。
 きっといつものようにやんわり回避され、その屈辱感をはらすためについた小さな嘘の結果がそれだったのだろう。
 ああ、よかった。
 ていうか、まあそりゃそうだよね。
 でもやっぱり、こんな小学生でもわかるような嘘でも確かめずにいられないようになってしまうのは
 結局のところ、私は鳶丸にどうしようもなく好きになっちゃってるからなのだ。







 そういえば、いつだったかな?
 私が鳶丸に恋心を抱いたのは。




96 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [saga]:2012/05/26(土) 22:38:47.54 ID:l6lpwwcP0
短いですが、中篇はここまでです。
次の更新はまた少し日を跨ぎます。
97 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) [sage]:2012/06/04(月) 06:53:09.70 ID:zDUym0vR0
続きこないなー
98 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(三重県) :2012/06/17(日) 21:21:42.68 ID:RR2RkEez0
まだかな
99 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2012/06/22(金) 18:44:04.34 ID:9Eb3nCvK0
日を空けて申し訳ないです
もうしばらくかかりそうです
100 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) :2012/07/23(月) 15:00:53.79 ID:U1L3JPEn0
縺薙↑縺縺ェ
101 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) :2012/08/12(日) 06:45:03.90 ID:VXKv5gyG0
age
102 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) :2012/08/12(日) 06:45:57.50 ID:VXKv5gyG0
age
103 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2012/08/23(木) 19:35:38.73 ID:ttgaAN6z0
夏だねぇ
104 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2012/09/02(日) 21:24:26.01 ID:G5FqpOR50
あげ
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