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男「しかし、雨が降るんだろ?」 - オリジナル小説 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

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1 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:19:11.83 ID:Q3TbXfdh0
明けましておめでとうございます。

お正月特番で、過去作成したオリジナル小説の一つを
思い出したかのように淡々と貼っていきます。

全四話です。

怪奇モノのバトル小説です。

「人間なんて、そんなもんだ」
 ――寂しそうな声は、しかしそれでもはっきりと耳に残った。



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木曜の夜には誰もダイブせず @ 2024/04/17(水) 20:05:45.21 ID:iuZC4QbfO
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いろは「先輩、カフェがありますよ」【俺ガイル】 @ 2024/04/16(火) 23:54:11.88 ID:aOh6YfjJ0
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【MHW】古代樹の森で人間を拾ったんだが【SS】 @ 2024/04/16(火) 23:28:13.15 ID:dNS54ToO0
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こんな恋愛がしたい  安部菜々編 @ 2024/04/15(月) 21:12:49.25 ID:HdnryJIo0
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【安価・コンマ】力と魔法の支配する世界で【ファンタジー】Part2 @ 2024/04/14(日) 19:38:35.87 ID:kch9tJed0
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アテム「実践レベルのデッキ?」 @ 2024/04/14(日) 19:11:43.81 ID:Ix0pR4FB0
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2 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:21:07.52 ID:Q3TbXfdh0
 どこまでも続く荒涼とした世界だった。
 
 焼けた空気が舞い、焦げた空気が辺りを包む。
 
 動く者はいない。
 
 ゆらめき、瞳を焼き、髪を焦がす熱砂が風に巻き上がり、ゆらりゆらりとたゆたっている。
 
 男は体を内側から焦がすその空気の中、マントに隠した口元で細く、糸のように息をした。
 
 ぽたりぽたりと地面に落ちていく汗が、
 しかし赤茶けた砂に当たる直前で簡単に蒸散して掻き消えていく。
 
 空を見ようとして目を伏せる。
 
 光ではない、針だ。
 
 空から幾億本もの針が体の上に突き降ってくる。
 
 そこを男は、今日も一人で一歩一歩、噛み締めるように歩いていた。
3 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:22:44.20 ID:Q3TbXfdh0


 にぎやかな町並みを見回し、男はテントの影に力なく腰を下ろした。
 
 もう体中の水分が抜けてしまっていた。
 
 唇はカサカサで、今にもささくれ立って風に吹かれて剥がれそうだ。
 
 ……彼は異様な風体をしていた。
 
 このサンベルトに近い砂漠地帯では、普通人々は分厚いマントを着用する。
 
 砂煙が肺や目に飛び込まないように、顔全体を覆うマスクをしている者も多い。
 
 何故暑いのにそこまでして体を隠すのかというと、詰まる所、
 焼けた空気や砂により火傷をするのを防ぐためだった。
 
 外気に触れていない方が涼しいのだ。
4 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:23:55.95 ID:Q3TbXfdh0
 しかし男は、無造作にマントをはだけて、
 むき出しの皮膚を、天に輝く太陽に向けていた。
 
 上半身はタンクトップの伸びきった下着一枚。
 
 ぶかぶかで所々穴が空いたジーンズという、常識では考えられないような薄着だった。
 
 白く、まるでわたぼこりのような長髪を首の後ろで一つに結んでいる。
 
 腰には千切れそうなベルトと……そして銃のホルダーがついていた。
 
 しかし銃機の類は彼の周囲に見当たらなかった。
 
 代わりに、大雑把に突き刺さっていたものは刀だった。
 
 いや、剣と呼ぶにはあまりにお粗末な代物だ。
 
 東洋の片刃剣の形をした、ただの鉄の塊。
 
 所々刃こぼれし、ひび割れ、曲がり、
 およそ刀と呼ぶことが出来ないほど、荒廃しきったものだった。
5 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:25:11.18 ID:Q3TbXfdh0
 一振りしたら根元から折れてしまいそうなそれを右手で掴み、
 男は大きく足を広げてテントに寄りかかった。
 
 じりじりと皮膚を焼く外気と熱線。
 
 フライパンの上のような地獄の空間の中で、ただぼんやりと空を見上げる。
 
 身長は高い。
 
 ガッシリした体つきで、年のころは十八、九程だろうか。
 
 青年……いや、少年といっても差し支えないほどの砂まみれの童顔を軽く歪ませ、
 彼はベルトに繋いであった皮の水筒を掴んだ。
 
 そして口まで持っていき、握りつぶすように中身を空けようとする。
 
 しかし中から出てきたのは湯だった生臭い水蒸気、それだけだった。
 
 水筒を放り出して、にぎやかな街、砂漠のオアシスに作られたバザー通りに目をやる。
6 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:27:00.70 ID:Q3TbXfdh0
 熱で歪んだ視界に、少し離れたところで売られている
 樽入りの水が飛び込んでくる。
 
 百……二百、二百五十。
 
 コップ一杯でその値段。
 
 高い。高すぎる。
 
大きくため息をついて、ポケットに手を突っ込み、
あまりの暑さに油が染み出している干し肉を掴み出す。

手を油だらけにしながら口の中に入れると、パリッという乾いた音がした。

干し肉を何とか胃の中に収め、男が立ち上がろうとしたその時だった。

 「あなた、もしかしてアカスア鉄道の方ですか?」
 
 上の方から突然呼びかけられ、猫のようにビクッと体を震わせ青年が顔を上げる。
7 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:28:10.11 ID:Q3TbXfdh0
 砂が張り付いたみすぼらしい彼を見下ろしていたのは、
 黒くしっかりとしたマントに身を包んでいる、二人の男だった。
 
 顔は空気清浄のマスクに隠れていて、見えない。
 
 「そうだけど?」
 
 面倒くさそうに答えて、彼は立ち上がると大きく伸びをした。
 
 そして腰に下げたボロボロの刀がむき出しであったことに気づき、
 マントの中にそれを隠す。
 
 男たちは顔を見合わせると、次の瞬間同時に、深々と頭を下げた。
 
 「申し訳ありませんが、少しお話を聞いていただけないでしょうか?」
 
 彼は唐突の申し出に、一瞬目を白黒させた。
 
 そして答えようとし、口を開く。
8 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:29:51.84 ID:Q3TbXfdh0
 その拍子に唇の端が軽く割れ、慌てて手でそれを押さえた。
 
 血が出ていないことを確認し、口を開く。
 
 「話って?」
 
 「中央区役所にお出でくださりませんか?」
 
 「いや、俺はこれからバンズスタへの列車に……」
 
 「砂嵐の予報が出たため、
 列車の運航は今日、明日と見送りになっています。どうか、よしなに」
 
 二人の黒マントが間を詰めてくる。
 
 青年が周りを見回したとき、遠まわしに同じような服装の男が数人、
 人ごみにまぎれているのが目に映った。
 
 しばらくしてため息をつき、口を開く。
 
 「素性がわかんねぇ奴らについて行くほど、俺って阿呆に見えるかな?」
9 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:31:03.61 ID:Q3TbXfdh0
 「ついてきていただければ分かります」
 
 オウム返しにそう返され、青年はしばらく周りを見回した後、頷いた。
 
 「お心遣い、感謝します」
 
 また深々と頭を下げ、黒マントの二人が頭を下げる。
 
 そして歩き出した彼らの後ろから、彼はふらつきつつ足を踏み出した。
 
 連れて行かれたのは、このオアシス、サバルカンダの都市中心部だった。
 
 丁度街のセントラルゾーンに、まるでクレーターのように陥没している場所がある。
 
 そこに、地下に続く巨大なドーム型の施設が存在していた。
 
 大きさは直径一キロ程だろうか。
 
 ここのものは小さい。
10 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:32:11.12 ID:Q3TbXfdh0
 これはどこのオアシスにもある、
 中央都市と呼ばれているもの、いわゆる、上層だった。
 
いつの間にか四人に増えた黒マントの男に左右を固められ、
かけられた橋から外壁に近づく。

そして取り付けられているドアから中に入った。

すると外の熱気とは数十度も違う、ひんやりとした冷気が体を打った。

一瞬硬直し、立ち止まる。

 上層とは、詰まる所、機械で制御された生命維持機関だ。
 
 一般的には、どこでも上層と、そして下層にオアシスは区分されている。
 
 空調で制御されている上層に住むことが出来るのは、
 市民権を持った限られる者だけ。
 
 言ってしまえば先ほどのバザー市場のように、
 下層に住んでいる者の方がはるかに多い。
11 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:33:53.24 ID:Q3TbXfdh0
 下層の者が上層に入るための市民権は、一応得ることは可能だが、
 とんでもない額の金銭が必要となるのが常だった。
 
 それはそうだ。機械で整備された暮らしやすい空間だとして、
 その内部は無限ではない、有限だ。
 
 人が溢れかえればたちまちに都市は都市としての機能を果たさなくなる。
 
 人間が出す生活廃物、必要となる水の量。
 
 どれも、この世の中では際限なく処理できるものではないのだ。
 
 青年は、小奇麗に整備されたドームの中を見て、
 外とは逆にマントを目深に手繰り寄せた。
 
 その目が不機嫌そうに、狐のように細くなる。
12 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:34:48.46 ID:Q3TbXfdh0
 間近のエレベーターに乗り込み、数分。
 
 そして通されたのは、ひらけた部屋だった。
 
 やけに調度品が立ち並んでいる。
 
 空調が効きすぎていて、寒い。
 
 目深にマントを羽織り、入り口付近を固めた黒マントを一瞥し、
 彼は足を踏み出した。
 
 「市長様。アカスアの方をお連れいたしました」
 
 黒マントの一人が進み出て口を開く。
 
 すると、部屋の中央に設置されている、
 巨大なテーブル前の椅子に腰を降ろしていた小男がこちらを向いた。
 
 頭頂部の毛はすっかりなくなっているが、恰幅がいい。
 
 中年と思われる男は、立ち上がると小走りに駆け寄ってきた。
13 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:36:38.99 ID:Q3TbXfdh0
 「おお、見つかったか」
 
 自分のことを探されていたかのような口ぶりに、
 青年は軽く目じりを動かした。
 
 その視線を敏感に察知したのか、
 小男は慌てて彼にソファーを勧め、口を開いた。
 
 「失礼。メルヘド・ヘーンザックさんでありますな?」
 
 「何でまた俺の名前……」
 
 「アカスア本部からは特徴だけをお教えいただきまして。
 正直お会いできるかどうか不安でした。
 私が三日前に、アカスアに要請させていただきました、
 エンドク・シンアッケと申す者です」
 
 しかしそれを聞いて、ソファーに腰掛けた後、
 メルヘドはだらしなく口を半開きにしたまま彼の顔を見つめた。
 
 そして首をかしげる。
14 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:37:53.79 ID:Q3TbXfdh0
 「……どうゆうこと?」
 
 逆に聞き返すと、エンドクと名乗った小男は、
 自分も腰を下ろしながら意外そうに黒マントの一人と顔を見合わせ、
 伺うように口を開いた。

 「……あの……メルヘド・ヘーンザックさんですよね?」
 
 「そうだってさっき言ったけど?」
 
 「アカスア鉄道警備員、龍祓いの?」
 
 「そうだっつってんだろ」
 
 面倒くさそうに彼はため息をつくと、マントの内ポケットに手を突っ込んだ。
 
 そして中から干し肉を取り出し、エンドクに向けて突き出す。
 
 きょとんとした彼を見て、数秒後、慌ててメルヘドは干し肉を仕舞い、
 同じポケットから銀色に光る、半透明のカードを取り出した。
15 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:39:00.84 ID:Q3TbXfdh0
 それを先ほどのように市長に向けて突き出し、口を開く。
 
 「確認してみろよ」
 
 戸惑いがちにエンドクが黒マントの一人に目配せをすると、
 手近な男がカードを受け取り、テーブル上のカードリーダーに差し込んだ。
 
 数秒後、カードリーダーの投影装置部分から、
 空中に3Dのホログラム映像が浮かび上がる。
 
 メルヘドの写真と、身元照合を確認してエンドクは頷いた。
 
 「確かに……」
 
 「……で、何なのあんたら?」
 
 「いえ、私たちはアカスア本部に、警備の要請を出しまして。
 本部からは最寄の龍祓いを向かわせると連絡があった次第なのです。
 その最寄の龍祓いというのが、あなた様であるとお聞きしていたのですが……」
16 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:40:22.77 ID:Q3TbXfdh0
 段々と自身がなさげに市長の言葉が消えていく。
 
 メルヘドはしばらく考えた後、無造作にカードリーダーからカードを抜き取り、
 マントの別のポケットから小型の端末機械を取り出した。
 
 そしてそれに差し込み、軽く計器を操作する。
 
 すると先ほどのように空中にプレート型の映像が浮かび上がった。
 
 表示された画像を見て、何でもないことのように彼は頷いた。
 
 「あーホントだ。何だか分からんけど本部から要請が来てら。
 あんたらに呼び止めらんなかったら、気づかないところだった。
 ま、どっちにしろ見てもわかんねーけどさ……めんどいな」
 
 最後の方は隠す気がないのか、もしくは隠そうと考えるだけの品がないのか。
 
 はっきりと相手に聴こえる声量で口に出している。
17 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:41:30.53 ID:Q3TbXfdh0
 メルヘドには微妙な言葉の訛りがあった。
 
 舌足らずというのだろうか、早口なのであるが、呂律がうまく回っていない。
 
 彼の不遜な態度に、市長は数秒呆気に取られていたが
 やがて気を取り直して口を開いた。
 
 「そ、それで……受けていただけるんでしょうか?」
 
 「いいよ。めんどいけど」
 
 『面倒くさい』と言いたいのだろう。
 
 手を頭の上でひらひらさせ、メルヘドは大きく欠伸をした。
 
 エンドクは禿げかかった頭頂部に浮き上がってきた脂汗をハンカチで拭い、
 手近な黒マントの男と目配せをした。
18 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:42:23.97 ID:Q3TbXfdh0
 アイコンタクトを受けた男が、部屋の隅に歩いて行き、
 壁に埋め込まれるように設置されていた巨大金庫と思しきものの前に立つ。
 
 何桁かの暗証番号を入力して開くと、中から白い冷気がぼんやりと流れ出た。
 
 その中に手を突っ込み、
 男がガラスのように透明な液体……水が入ったボトルを掴み出す。
 
 その一連の動きを興味なさそうに一瞥し、メルヘドは低音な声を発した。
 
 「……で、俺に何をしろって?」
 
 「実は、今晩と明日の夕方まで、用心棒をしていただきたいのです」
 
 発せられた言葉を不思議そうに聞き、青年が大きく息を吐く。
 
 「……アンタさんの?」
 
 「いえいえ違います。龍祓い様は、この街で
 五年に一度執り行われている祭についてご存知ですか?」
19 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:43:26.15 ID:Q3TbXfdh0
 「興味ねぇからな。知らない」
 
 「そ、そう仰らずに。丁度今がその祭の最中なのですが、
 我々の信仰する神に捧げる供物を狙って、
 昨今盗賊が出没するようになったのです」
 
 「……へぇ」
 
 「それで、あまりにも付近エリアの略奪などが酷く、
 今回用心棒を要請したというわけなのですが……」
 
 そこで市長の言葉が途切れた。
 
 青年が、こちらを見ていない。
 
 いや……見ていないどころかその視線はぼんやりと、
 窓の外に向けられていた。
 
 窓といっても地下であるここに光は届かない。
20 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:44:30.80 ID:Q3TbXfdh0
 スクリーンが内蔵されたガラスであり、
 そこには濃緑色が広がる草原の様子が映し出されていた。
 
 メルヘドの視線を追って行き、エンドクの目も窓ガラスで止まる。
 
 「……いい趣味をお持ちで」
 
 ボソリ、と聴こえるか聴こえないかの声で青年が呟いた。
 
 その時、黒マントの男の一人が、
 彼の前のテーブルに水の入ったコップを一つ、おもむろに置いた。
 
 無表情でそれを見つめ、メルヘドがコップを手に取る。
 
 「あ、遠慮なさらずに召し上がってください。
 我が地下工場でさらに濾過し、純度を高めた高級水です」
 
 水面を黙って見つめている青年を見て、市長が慌てて口を開く。
 
 しかしメルヘドはそれに答えず、
 水に目を落としたまま数秒沈黙して、言った。
21 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:45:20.75 ID:Q3TbXfdh0
 「……これ、コップ一杯で何CC?」
 
 「……は?」
 
 「いや、何CC入るの? これ」
 
 繰り返し聞かれて、しばし戸惑った後エンドクは答えた。
 
 「そのコップは一杯で三百CC入ります。
 一般市場にはその量で五百カトンで販売しています」
 
 「三百……」
 
 呟いて、白髪の青年は黙って一気に、コップの中身を口にあけた。
 
そして情緒も何もなく大きな音を立ててうがいを始める。

 呆然としている周囲の視線をよそに、そのまま水を飲み込み、口を拭う。
 
 細く息を吐いてメルヘドはエンドクに問いかけた。
22 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:46:25.87 ID:Q3TbXfdh0
 「……アンタ、この水一日に何CC飲む?」
 
 「何CCとは?」
 
 「いや、どのくらい水飲むの? アンタさんは」
 
 「どのくらいと言われましても……千CCほどでしょうか? 
 水は貴重なものですからね」
 
 「千……ね」
 
 ため息ともつける息を吐いて、彼は続けた。
 
 「了解。よくは分からんけど、
 その盗賊から供物とやらを守ればいいわけだ」
 
 「う、受けていただけるんですか?」
 
 メルヘドは冷ややかな目で目を輝かせた小男を一瞥した。
 
 「いや、本部から要請受理が来てる段階で受けることは決まってるんだけど」
23 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:47:23.67 ID:Q3TbXfdh0
 「そ、そうですね。いや、ははは……」
 
 「……さっきから思ってたんだけどアンタさん。
 やけに暑そうだな。こんな寒いのに」
 
 乾いた愛想笑いを発したエンドクに、
 冷ややかな目のまま青年は呟くように言った。
 
 途端、男の愛想笑いがピタリと止む。
 
 困ったように周囲に視線を走らせ、
 またハンカチで頭頂部の汗を拭うと市長は取り繕うように言った。
 
 「水は、もう一杯いかがですか? 
 アカスアの方ですので、
 ご希望とあればいくらでもボトルをお空けしますが……」
 
 「いやこれだけでいい」
 
 今までやる気がなさそうにしていたメルヘドの様子が一変して、
 急に力強くその部分を否定する。
24 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:48:21.94 ID:Q3TbXfdh0
 気勢をそがれた市長が押し黙ったのを見て、彼は続けて口を開いた。
 
 「……盗賊はいいの? ほっといて」
 
 「いいの、とは?」
 
 「いや、供物狙われたり略奪されたりで困ってんでしょ? 
 皆殺しにしなくていいの?」
 
 さらりと口に出されたことの異常性を周りが理解するのに、
 実に数秒の時間を要した。
 
 「俺はそうじゃなくて、供物を守ればいいのな?」
 
 「い、いくらなんでも皆殺しは……それに貴方様お一人では……」
 
 「やろうと思えば出来るけど、アンタさんがやるなっつったらやらない。
 世界中に水をお届けする、アカスア鉄道の龍祓いは、
 市民を安全な生活にエスコートするのも役に入ってるからな」
25 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:49:16.43 ID:Q3TbXfdh0
 そこで市長は、何かに気づいたのか、ハッとして顔を上げた。
 
 その目に、メルヘドの腰に刺さっている、
 一見なまくらとも取れるボロボロの長剣が映る。
 
 やる気のなさそうな視線を真正面から受け、
 しばらく沈黙した後エンドクは言った。
 
 「いえ、供物を守ってくださるだけで結構です。
 それも、明日の夕方五時までお願いします。
 その時間が来ましたら必ず、供物を所定の場所に置いて
 戻ってきていただけるように契約していただけますか?」
 
 「何だ、信用してないの?」
 
 「そういうわけではありませんが……」
 
 言葉のどもり方とは違い、やけに俊敏な動作で
 彼は懐から契約書らしき紙を取り出すと、
 朱肉が入った小ケースと共にメルヘドの前に出した。
26 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:50:04.20 ID:Q3TbXfdh0
 「サインをしていただければ、契約金に五割、
 上乗せして前金を今お支払いさせていただきます」
 
 「金……ね」
 
 大きく欠伸をして、しかしメルヘドは軽く首の骨を鳴らした。
 
 まるで老人か寝起きのように、
 バキボキと小枝を折るような音があたりに反響する。
 
 「悪いけど俺ァ、文字読めないし書けない。
 数字の勘定もめんどいから出来ない。
 だから難しい話は興味がないし、どうでもいい。
 金は全部アカスアに送金してくれ」
 
 「え……あ、はい……」
 
 契約書を一瞥もされずに、所在投げにエンドクの視線が
 メルヘドの顔とテーブルとを行き来する。
 
 「……その代わり今から俺が聞くことに正直に答えてくれないか?」
27 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:50:58.30 ID:Q3TbXfdh0
 「聞くこと、ですか?」
 
 「ああ。質問は一つ。凄くシンプルなもんだ。
 ……アンタさん、『雪』って知ってるか?」
 
 その質問をした途端、市長の顔色が明らかに変わった。
 
 頬の辺りにサッと青みが指し、それに気づかれまいとして視線をそらす。
 
 メルヘドは数秒間エンドクの顔を凝視した後、息をついてソファーに背を預けた。
 
 「……知ってるわけねーか」
 
 その言葉を聞き、渡りに船とばかりに小男は愛想笑いを浮かべながら口を開いた。
 
 「は、はぁ。ユキ……ですか? 何かの専門用語でございましょうか?」
 
 「知らないならいいんだ。手間ァとらせたな。
 んじゃ、どこに行ったらいいかとか、詳しい依頼内容を聞こうか」
 
 打ち消すように言って、青年が懐から干し肉を取り出し、口に入れる。
 
 ガムのように音を立てて噛みながら、
 しかしその視線はまっすぐに、脂汗の浮いた市長の顔に注がれていた。
28 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:52:38.03 ID:Q3TbXfdh0


 オアシスを出て、円形に広がっている外街をぶらりと歩く。
 
 来た頃はあまり気に留めなかったが、
 どこの店も奇妙な形の印が入った看板を下げていた。
 
 テント型、地面に設置しているシート型。
 
 どれも看板や門にくっつけている。
 
 そして色とりどりの飾り紐が花火のように添えられているのが殆どだった。
 
 人が多く、出店が多いのはその祭の期間中だったかららしい。
 
 周囲を見回しながら、メルヘドは硬く閉じていたマントの前を開いた。
 
 服の中に滞留していた冷気が、白い煙となって外に溢れ出る。
 
 生熱い風を受け、火傷をしたかのような鋭い痛みが体の所々に走る。
29 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:53:46.43 ID:Q3TbXfdh0
 それはそうだ。
 
 あの市長がいた上層の管理区画、室温はおそらく十五度前後。
 
 外の気温はゆうに五十度を越えている。
 
 これから昼だ。
 
 太陽は中天。
 
 もっと上がっていくだろう。
 
 外と中の温度差はかなりある。
 
 皮膚が耐え切れないのだ。
 
 体をチクチクと刺す痛みに眉をしかめながら、
 メルヘドは休憩用に設置されていると思われる、
 巨大なテントの下に体を滑り込ませた。
 
 砂の上に合成エチルタンの化合物臭い板が渡してある。
30 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:54:50.53 ID:Q3TbXfdh0
 思い思い寝転がっている人々を一瞥し、青年は端の、
 人がいない場所に腰を下ろした。
 
 そしてマントのポケットから小さな携帯端末を取り出す。
 
 しばらくボタンを操作して耳に近づけると、
 唐突に悲鳴のような素っ頓狂な女の子の声が飛び出してきた。
 
 『師匠ですか? 今、どちらにいらっしゃるんですか! 』
 
 思わず携帯端末を耳から離し、メルヘドが大きなため息をつく。
 
 『心配していたんですよ? 
 キャラバンからまた勝手に抜け出して! 
 捜索隊まで出したんですよ、お分かりですか! 』
 
 相当怒っている端末の向こうの相手に、
 しばらく沈黙してから青年はうんざりしたようにくぐもった声を発した。
 
 「砂の影響受けても通信が出来んだから、お前のすぐ近くにいるよ」
31 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:55:57.97 ID:Q3TbXfdh0
 『すぐ近く、じゃ分かりませんよ。ちゃんと場所を教えてください』
 
 「サバルカンダだ。どうでもいいけどお前、早く水持って来い。
 そろそろ枯れて死にそうだ」
 
 『遠いじゃないですか、反対方向ですよ! 一体何キロ歩いたんです?』
 
 殆ど叫び詰めの相手は疲れたのか、
 しばらく荒く息をついた後深呼吸をしてから声を発した。
 
 『それと……師匠。アカスアから次の依頼が届いていますが、
 私のコードじゃ開封できないんです。今すぐそちらに向かいますから』
 
 「必要ない。その依頼ならさっき聞いたよ、本人さんから」
 
 『あ、丁度サバルカンダからの依頼だったんですか。偶然ですね』
 
 「……いや、どうやらそうでもなさそうだ。
 お前、アカスアに連絡して消毒班をこっちに向かわせろ」
32 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:56:49.45 ID:Q3TbXfdh0
 何でもないかのように淡白に言ったメルヘドの声に、
 しかし相対する声は一瞬息を詰まらせた後、激しく咳き込んだ。
 
 『……ど、どうしたんですか藪から棒に』
 
 「消毒班だ。この街の上層は多分駄目だ」
 
 呟くように繰り返して、メルヘドは周囲の砂漠の街並みを見回した。
 
 その目が抑揚なく、まるでガラス玉のように空を見上げる。
 
 ライトブルーの澄んだ目は、しかしどこにも感情を宿していなかった。
 
 どこか面倒くさそうな、考えることを放棄したような。
 
 無表情な瞳だった。
 
 そこでやっと青年の言葉の意味を察したのか、少女の声のトーンが低くなった。
 
 『……汚染ですか?』
33 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:57:39.72 ID:Q3TbXfdh0
 「ああ。しかもここの奴らは多分、雪を見たことがある。全員な」
 
 『……分かりました。直ちに手配します』
 
 「あと急いで水持って来い。そろそろ死ぬ」
 
 『ってゆうか師匠、キャラバンが到着するまで待ってくださいよ? 
 いくら師匠でも、お一人で疫神信仰を相手取るのは
 アカスアからも禁じられています。せめて弟子の私が向かうまで……』
 
 しかしすがるような少女の声を完全に無視して、
 メルヘドは携帯端末のボタンを押して、電源を完全に切った。
 
 そして面倒そうにマントのポケットに突っ込む。
 
 大きくため息をついて、青年は祭の街並みを見回した。
 
 おそらくドームの中……上層でも同様なイベントをやっているのだろう。
34 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:58:36.19 ID:Q3TbXfdh0
 下層に当たる外街も、住んでいるのは人間だ。
 
 考えていることも同じ、そしてとる行動も同じ。
 
 違うのは住んでいる環境だけだ。
 
 そう、人間が生きるためには絶対に必要になる要素。
 
 どこに住んでいても、人は必ず水を飲む。
 
 飲まなければ死ぬからだ。
 
 それは理性に制御された欲望ではなく、
 身体機能維持のための無意識の欲求に過ぎない。
 
 誰もそれを制御することは出来ないし、生き物である以上
 人間がそれを抑えることは、
 この世界では自らの命に関わる問題に直結する。
35 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 22:59:23.17 ID:Q3TbXfdh0
 だが、人間は生き物であるが、本能の動物ではない。
 
 人には理性がある。理性というのは詰まる所本能ではなく、
 自分を、社会の中で存在させるための考える力であり。
 
 欲望はそこから、人間が自分自身であるために、
 自分自身をより満足させようという意識から
 さらに木の枝のように派生する。
 
 人間と動物の違いは、それだ。
 
 だからこの世界では、動物は感染しない。
 
 自己の生命に必要最低限のものしか摂らないから。
 
 動物は、何ともない。
 
 しかし人間は違う。
 
 人は何かものを得ると、さらに、もっとさらにそれを得ようとする。
36 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:00:08.76 ID:Q3TbXfdh0
 理性があり『自分』がある人間では仕方のないことだ。
 
 ましてそれが食物……水であればなおさらだ。
 
 (千CC……ね)
 
 メルヘドは頭の中で、先ほどの市長が言っていた言葉を思い出した。
 
 あの男は一日に千CCもの水を飲むといっていた。
 
 アウトだ。
 
 おそらく他の上層に住む者は皆同様だろう。
 
 皮肉なものだ。
 
 物資が行き届いている者達の方が駄目になる確立が高く、
 物資が行き届いていない者達の方がむしろ安全。
 
 それがこの世界。歪んだ、世界。
37 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:01:21.18 ID:Q3TbXfdh0
 一つため息をついて、メルヘドは手で汗で額に張り付いた髪の毛を拭った。
 
 そしてサバルカンダの祭が執り行われている町並みに目をやる。
 
 上層ドームに近い場所に、成る程よく見れば祭壇のようなものが建っている。
 
 目を凝らして見てみると、民家と同じようなテントで構成された祭壇の中に、
 
 プラスチック素材だろうか、黒っぽいものを掘り込んで作られている一つの、
 人間大の人形があるのが見えた。
 
 どうやらアレがこの地方で祭っている『神様』らしい。
 
 ──その神様は、醜悪な姿をしていた。
 
 まるで蜘蛛のような寸胴な体から、いびつに数本の足が突き出している。
 
 腹ばいの姿勢で天を仰ぎ、機械仕掛けの時計を連想させる頭部の口は大きく開き、
 力が抜けてだらりとした人間が加えられていた。
 
 薄気味の悪い像だ。それが街の中心に頓挫している。
38 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:02:05.66 ID:Q3TbXfdh0
 しかし周りの人間は誰一人として、その異様さに疑念を抱く者はいないようだ。
 
 ……子供が走っている。親の手を引いて、屋台の間を縫うようにして嬉しそうに。
 
 その像の不気味な神の瞳が子供を見ている。
 
 人間を銜えた邪心は、無邪気な子供をただ見つめていた。
 
 子供は、顔は砂塵避けのマスクを被っている。
 
 体には分厚いマント。
 
 下層の人間でもそれくらいの配給はアカスアからある。
 
 下層にいる人間。
 
 あの子供も、親も、当然上層にも同様に住んでいる者達がいる。
 
 彼らはひょっとしたら、駄目な可能性がある。
 
 あくまで可能性だが、ゼロパーセントではない。
39 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:02:50.26 ID:Q3TbXfdh0
 何となくふとそう思って青年は目を伏せた。
 
 駄目? 何が駄目なんだろう。
 
 時々そう思う。
 
 人間と化け物の境目なんて、あってないようなものだ。
 
 事実メルヘドは、人間こそがこの地上に生きている化け物、
 それそのものだと思っていた。
 
 だってそうだろう。
 
 この地上のものを全て枯らして。
 
 水も、生き物も、何もかもを枯らして。
 
 それでも尚増えて、増えて。生き続けている。
 
 生き続け、生き続け、それでも尚欲しがる。
40 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:03:30.72 ID:Q3TbXfdh0
 まるで自分自身が特別な存在でもあるかのように、
 誰も彼もがもっと、もっとと欲しがる。
 
 そしてそれが結果的には自分自身を滅ぼすとも知らずに。
 
 それが罪、とは必ずしも言うことは出来ない。
 
 欲しがることは罪ではない。それは仕方のないことだ。
 
 人間が、人間として一個の個体で生きていくために仕方のないことだ。
 
 だが、だからこそメルヘドは自分達人間こそが
 化け物なんではないかとも時々ふと思うのだった。
41 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:04:43.76 ID:Q3TbXfdh0


 サバルカンダを出て、指示があったポイントに向かったのは
 太陽が地平線に沈む寸前のことだった。
 
 とてもではないが赤い球体が中天に差し掛かってから四時間は、
 単身で砂漠に乗り出すことは出来なかったのだ。
 
 文字通りその時間の砂漠は灼熱の地獄となる。
 
 特にサンベルトに近いこの地域では、異常な昼間の熱さのために、
 他の地域ではかろうじて細々と自生しているサボテンや熱帯植物なども
 影さえ見えない。
 
 食物とする植物が存在していないため、関連的に小動物や虫の姿もない。
 
 それほど、まるで油を引いたフライパンの上のように熱の世界となるのだ。
 
 メルヘドがここまで移動してこれたのは、一概に砂嵐のせいだった。
 
 大規模な砂嵐となると、それは当然人間なんかが出歩くことが出来ないほど、
 散弾銃のごとき勢いで砂が吹き荒れる。
42 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:05:48.66 ID:Q3TbXfdh0
 しかしそのような強いものとは違い、
 砂漠には一ヶ月ほどの周期で一日か二日、
 比較的弱く砂を巻き上げる風が吹く時期があるのだ。
 
 昨日までが、所謂その『凪』の時期だった。
 
 やはりちょっと皮膚には刺さるが、
 粉塵のように巻き上がった砂に直射日光が遮断され、
 かろうじて人間が歩けるような環境になる。
 
 今朝まではその状況だったが、あいにくと凪は過ぎてしまったらしく、
 メルヘドは太陽の猛攻が収まるのを待つ以外になかったというわけだった。
 
 昼間よりは三度度前後下がったのを携帯端末の温度計で確認し、
 街を出て今に至る。
 
 やる気のない瞳は地平線の向こうを炎のように
 燃やしている太陽の姿を見ていた。
43 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:06:38.13 ID:Q3TbXfdh0
 しばらく電子方向磁針を頼りに進むと、
 街から二キロほど離れた場所に荒廃した建物が建っているのが見えた。
 
 かなり大きな建物だ。半分崩れかかり、砂と同化している部分もある。
 
 熱と、砂嵐で建物を構成している
 素材が削り取られてこうなってしまったのだろう。
 
 人間大の柱が何十本も並んでいる。
 
 数百年前の遺跡によく見られる、神殿のような造りだった。
 
 外壁に手をつき、こびりついた砂を指の先で落とす。
 
 するとさらにその下から岩のように凝固した砂の塊が現れた。
 
 相当前から建っている様だ。
 
 指示された場所は、おそらくここだ。
 
 周りを見回してみるがそれらしい建物は一向に見えない。
44 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:07:46.24 ID:Q3TbXfdh0
 実のところ、メルヘドは何を守るのか、
 何のために守るのかを全く知らされていなかった。
 
 ……おそらく神様とやらに祭るための、上層で作った農作物などであろうか。
 
 栽培に多量の水を使用しなければならない野菜類は非常に高価で、
 一般庶民……詰まる所、下層に住むものたちに割り当てられることは極めて稀だ。
 
 水菜十グラムとダイヤモンド数カラットが同価値。
 
 おそらく、それを祭ってあるんだろうと勝手に推測をつけて
 メルヘドは足を踏み出した。
 
 そう考えると盗賊とやらが狙って出没するのも納得がいく。
 
 食うのではなく、野菜類を、あわよくばその種を採取して
 別の街に売りつければ、それだけで数年は暮らしに困らないほどの……
 いや、上層に入る市民権をどこからかあることが出来るほどの金が手に入る。
 
 まったく、人間という生き物は本当に愚かしい種族だ。
45 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:08:50.46 ID:Q3TbXfdh0
 そう考えてため息をつきつつ、神殿の中を覗き込む。
 
 意外なことに一角は屋根が完全に残っていて、
 日の光を遮断できるスペースがあった。
 
 ありがたい。
 
 あそこで今晩は過ごすかと思って足を踏み出したときだった。
 
 入り口と思しき倒壊した場所から、不意に鼠のような人影が飛び出した。
 
 それがそのままメルヘドの脇を僅かに躓きながら駆け抜けようとする。
 
 考えるより先に、殆ど条件反射で体が動いた。
 
 人影が自分の脇に位置するのを視線の端で感じた途端、
 
 メルヘドの右手が動き腰のなまくら刀を抜き放つ。
 
 抜刀と、人影の足を刀先が軽く叩くのはほぼ同時だった。
 
 しかしそれだけの動きで小さな人影はもんどりうって砂に転がると
 数メートルも地面を滑って止まった。
46 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:10:09.92 ID:Q3TbXfdh0
 しかしメルヘドの動きは止まらなかった。
 
 それが誰であるのか確認するより先に彼の足に力が入る。
 
 そして後方に向けて地面を蹴って、馬のように跳躍する。
 
 そのまま空中を軽く反転し、彼は刀の刃先を下に向けて、勢いよく着地した。
 
 砂煙がまるで爆弾が炸裂したかのように上に向かって吹き上がり、
 バラバラと降り落ちてくる。
 
 下に向かって突き出した刀は、地面に仰向けに倒れた人影の顔の脇に突き刺さっていた。
 
 一メートル半ほどもある刀の半ばまでが砂にめり込んでいる。
 
 しかしそこでやっと、メルヘドは自分が組み伏せている人影を見て
 意外そうに表情を緩めた。
 
 まるで鬼のように目を見開き、無表情を貼り付けていた青年の顔を見て、
 下の人間が喉の奥を甲高く鳴らす。
47 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:10:51.26 ID:Q3TbXfdh0
 悲鳴をあげようとして失敗したのだろう。
 
 続いて、くぐもった泣き声があたりに反響した。
 
 「あァ……その……なんだ……?」
 
 メルヘドは慌てて地面に突き刺さっていた刀を両手で抜いた。
 
 そして腰のホルスターに突き刺し、マントで隠す。
 
 立ち上がって、地面にうずくまって震えている人影を見つめ、
 彼は軽く額を押さえた。
 
 「……ずいぶんと可愛い盗賊だな」
 
 視線の先にいたのは、所々擦り切れて穴が開いた、
 赤茶けているワンピースを着た十五、六の少女だった。
48 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:12:01.62 ID:Q3TbXfdh0


 彼女が泣き止むまでには相当な時間を要した。
 
 あまりの衝撃だったのか、腰が抜けて動くことも出来ないらしく、
 ただ地面にうずくまって泣いている。
 
 最初はなだめようとしていたメルヘドも途中から面倒になってきたのか、
 砂の上に腰を下ろし、無造作に胡坐をかいていた。
 
 そして日が落ちて薄暗い紫色に変色した空を見上げる。
 
 その状態で少し時間を置き、
 少女のしゃっくりが収まったのを見計らってから青年はおずおずと口を開いた。
 
 「……だから、悪かったよ。
 アンタさんが女の子だって知ってたらあんなことしなかった。
 それにしても随分小さな盗賊だな? こんなところで何してた?」
49 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:13:08.91 ID:Q3TbXfdh0
 しかし顔を上げた少女は、メルヘドの顔を見てビクッと
 体を震わせると僅かに体を後ずらせた。
 
 それを見て、また青年が大きなため息をつく。
 
 「……困ったな。ガキのお守りはもう沢山だ……」
 
 「……ユージェンの仲間の人じゃ、ないの?」
 
 その時、消え入りそうな声で女の子が口を開いた。
 
 まるで鈴のような、吹けば消えるような声音を聞き取って
 メルヘドが怪訝そうに眉をひそめる。
 
 「ユージェン? 誰だそれ」
 
 「じゃ、じゃあサバルカンダから?」
 
 「そうだけど? 俺ぁ、アンタさんみたいな盗賊から供物を守るようにって
 依頼を受けてきた、アカスアの龍祓いだ。
 と、言うわけでガキはとっととお家に帰れ」
50 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:14:03.99 ID:Q3TbXfdh0
 「ほんとに、ユージェンの仲間の人じゃないの?」
 
 「だからユージェンって誰だよ?」
 
 逆に聞き返すと、少女は放心したように息を吐いて、
 浮かしかけていた腰をまた地面にへたり込ませた。
 
 「私を捕まえに来たんじゃないの?」
 
 「……何言ってんの?」
 
 どうも状況が理解できないメルヘドの前で、
 彼女は周りを見回すと抜けた腰のまま、
 這うようにして神殿の方に移動した。
 
 そして壁に背を預けて、両膝を手で引き寄せる。
 
 「……良かった。私てっきりユージェンが約束破って来たのかなって……」
 
 「……俺の名前はメルヘドだ。そんな奴じゃねーよ。
 いい加減にしろよな。ほら、俺は暇じゃねぇんだからさっさと帰れって」
51 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:15:04.11 ID:Q3TbXfdh0
 「帰れないよ。だって……」
 
 まだ僅かに震えながら、少女はメルヘドの方を向いて、言った。
 
 「貴方が守るっていう今回のお祭りの供物、私だから……」
 
 「……は?」
 
 聞いた言葉の意外性についていくことが出来ずに、
 地面に胡坐をかいたまま少女の方に体を向ける。
 
 彼女はおびえたように周りを見回すと、小さく呟いた。
 
 「用心棒なんていなくても、逃げないのに……」
 
 「待て。アンタさんが供物? 
 神様に捧げられる予定の?」
 
 しばらく沈黙した後、少女は小さく頷いた。
 
 メルヘドは少しの間呆気に取られていたが、
 やがて息をついて無造作に頭を掻いた。
52 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:15:51.43 ID:Q3TbXfdh0
 (疫神信仰か)
 
 心の中で小さく呟いて、青年は黙って少女を見つめた。
 
 体は小さい、そして乾いている。
 
 金色の髪に生気がなく、水を飲んでいないことの証拠だった。
 
 服はかなり前から着ているのか、マントになるくらいぶかぶかのワンピースを着る
 ……というよりは殆ど羽織っている。
 
 むき出しの裸足は、砂に焼けて所々腫れ上っているのが分かった。
 
 「今度のお祭りで捧げられるのは私だから、ここにいなきゃいけないの」
 
 「どういうことだ?」
 
 「雨が降るから」
 
 そこまで呟いて、少女は顔を伏せて黙り込んだ。
53 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:16:42.98 ID:Q3TbXfdh0
 メルヘドは心の中で僅かにため息をついていた。
 
 市長が契約書を書かせたのはこういう訳だったようだ。
 
 おそらくアカスアの本部には詳しくは伝えていない。
 
 龍祓いを頼んだということは、それほどこの娘を守る必要があるということ。
 
 ……誰のために?
 
 当然、自分たち自身のためだ。
 
 そして盗賊はこの少女を狙っているらしい。
 
 動機は分からないが、供物であるこの子をさらおうとしていることは、
 おびえようを見て何となく分かった。
 
 契約では明後日の夕方、五時まで『供物』を守ることになっている。
 
 その時間が過ぎたら何がおきようと速やかに街に戻り、
 契約金を受け取って別の街に渡ることを規約されていた。
54 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:17:34.43 ID:Q3TbXfdh0
 「……生贄か?」
 
 メルヘドは淡白に、なんでもないかのように呟いた。
 
 その単語を聞いた少女の肩がビクリと震える。
 
 「大層なことだな」
 
 そう続けて、メルヘドは立ち上がると少女に近づいた。
 
 そしてまだ警戒している彼女の頭に軽く手を置いて、ぐりぐりと撫で回す。
 
意外そうに目を見開いた女の子に向けて軽く笑いかけ、メルヘドは言った。

 「そんじゃ俺はアンタさんを明日の五時まで、
 ユージェンとやらから守ってやるよ」
 
 言葉の意味をはっきり理解するために数秒かかったらしく、
 ポカンとした後、少女はメルヘドの腰に下がっているなまくら刀に目を止めた。
55 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:18:27.33 ID:Q3TbXfdh0
 そして先ほどの恐怖を思い出したらしく、後ず去ろうとする。
 
 メルヘドはそれを見て慌ててマントで刀を隠した。
 
 「……ったく。どーして女って奴はこうめんどくさいんだ」
 
 完全に非は自分にあるに関わらず、隠そうともせずに悪態をつくと、
 メルヘドはマントのポケットから干し肉の塊を取り出して
 少女の目の前にちらつかせた。
 
 「食うか? コレくらいしかないけど」
 
 彼女は干し肉とメルヘドの顔を交互に見て、
 しばらく迷った後に硬く唇を噛んだ。
 
 そして首を振ろうとしたとき、
 口の端から無意識だったのだろうが涎が垂れる。
 
 慌ててそれを拭って下を向いた少女を見て、
 メルヘドはもう一度ため息をついた。
56 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:19:25.25 ID:Q3TbXfdh0


 少女の名前は、リマと言うらしかった。
 
 姓は教えてもらえなかった。
 
 もしかしたらないのかもしれない。
 
 持ってきたライターと燃料用具で火を起こし、
 メルヘドとリマは神殿内の砂風を防げる場所に座っていた。
 
 目の前でパチパチと合成素材が燃える音を立てている。
 
 もうすっかりあたりの日は落ちて、薄ぼんやりとした深緑の空が
 頭上に広がっている。
 
 遮るものがないために幾万もの小さな星屑が明滅しているのが
 はっきりと見える。
 
 屋根に開いた穴からそれを見上げ、メルヘドは火にかけた
 小型のフライパンを一瞥した。
57 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:20:11.67 ID:Q3TbXfdh0
 そして干し肉を薄く切って鉄板の上に乗せる。
 
 水分が完全に消えている調理対象はかすかに油の音をさせたが
 それっきり何の反応も示さなくなった。
 
 「女の子にぁ硬くて噛み切れないからな」
 
 誰にともなく呟いて、メルヘドは腰に下げていた水筒から
 少量の水をフライパンにあけた。
 
 一応予備として買ってきたものだ。
 
 水蒸気のはねる音と白い煙があたりに立ち込める。
 
 間髪を入れずにフライパンの蓋を閉め、
 メルヘドはそこでリマの視線に気づいた。
 
 小さな少女の目はメルヘドの水筒に注がれている。
 
 しかしすぐに見られていることに気がついたのか、
 彼女はさりげなく視線を地面に落とした。
58 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:21:17.51 ID:Q3TbXfdh0
 青年は頭を掻いて、不思議そうに口を開いた。
 
 「……街からは何ももらってないのか? 
 供物が野たれ死んだら意味ねぇだろうに」
 
 情緒も気遣いも何もない野蛮な言葉を受けて、リマが乾いた唇を噛む。
 
 そしてしばらく沈黙した後、
 黙って片隅に置いてあったみすぼらしい袋を手に取った。
 
 中に手を入れて乾いてボロボロに崩れかけたパンの塊を取り出す。
 
 「これだけ」
 
 「はぁ?」
 
 いくらなんでもそりゃないだろ、と続けようとして
 メルヘドはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
 
 何となくこの少女の存在意義が分かったからだった。
59 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:22:00.81 ID:Q3TbXfdh0
 ようは、死んでいても、生きていても関係ないのだ。
 
 生贄、と先ほど言ったが、別に生きていなくても贄であればことはたりる。
 
 「何日前からここにいるんだ?」
 
 「三日」
 
 「水は?」
 
 「一日目はユージェンが持って来てくれたけど……
 あとは防衛隊に邪魔されて来れなくなって、それから飲んでない」
 
 段々消え入るような声になってくる。
 
 メルヘドはそれが誰であるのか聞こうと口を開いたが、
 少女が思いのほか憔悴しているのを見て口を閉じた。
 
 おそらく、盗賊というのがそのユージェンという者なんだろう。
 
 どういう関係なのかは分からないが、
 なにやら面倒なことになっているのは間違いがなかった。
60 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:22:54.86 ID:Q3TbXfdh0
 まぁ、人間一人の命を捧げようとしているのだ。
 
 面倒なことが起きるのは当然のことだ。
 
 メルヘドは黙って、持ってきた荷物からコップを取り出すと、
 分量を量るように慎重に水を入れて差し出した。
 
 「ほら」
 
 「……いいの?」
 
 「俺の任務はアンタさんを明日の五時まで守ることだからな。
 先に死なれたんじゃこっちとしては意味がねーし」
 
 ぶっきらぼうな言葉をうつむいて受け、
 伺うようにリマはコップを受け取った。
 
 そして唾を飲み込むと同時に一気にそれを飲み干す。
 
 次の瞬間、舞い上がっている砂で喉に火傷を負っていたのか、
 彼女は激しく咳き込んだ。
 
 喉を押さえてしばらく餌付いた後、小さな体がぐったりと弛緩する。
61 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:23:40.12 ID:Q3TbXfdh0
 「大丈夫か?」
 
 呆気にとらえていたメルヘドが口を開くと、
 リマはまだ小さく咳をしながらコップを返した。
 
 そして体を丸めて喉を押さえる。
 
 「マスクとかはないのか?」
 
 「……うん」
 
 「俺の使い古しだけどコレつけろ。
 空気清浄機能ついてるから、多少なりとも楽になると思う」
 
 マントのポケットを漁って、耳にかけるタイプのマスクを取り出し、
 メルヘドは差し出した。それを受け取って、力なくリマが口を覆う。
 
 何度か息をして、喉の痛みが緩和されたらしく、
 彼女は軽く肩にかかっていた力を抜いた。
 
 「…………ありがとう」
62 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:24:26.35 ID:Q3TbXfdh0
 パチパチと爆ぜる合成燃料を見ていたメルヘドの耳に、
 大分経ってマスクの奥でくぐもった、小さな声が聴こえた。
 
 振り返って、彼は意外そうにリマを見た。
 
 そして腰に下げた皮の水筒を持って波打たせる。
 
 「もっと欲しくないのか?」
 
 「……さぁ……」
 
 不思議なほどはっきりと彼女は呟いて、水筒から目をそらした。
 
 「水は貴重品だから……」
 
 その言葉を聞いてメルヘドは一瞬目を見開いた。
 
 ひねくれているのでも、同情を買おうとしていうのでもどちらでもなかった。
 
 本当に諦めた、どこか達観した言葉だった。
 
 膝を抱えたこの小さな少女が口に出したと思えないほど、
 その言葉は重かった。
63 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:25:14.50 ID:Q3TbXfdh0
 しばらくリマのことを見つめ、
 メルヘドは火にかけているフライパンを見た。
 
 その手が水筒の袋を地面に下ろす。
 
 「そうだなぁ」
 
 短く答えて、フライパンの蓋を開ける。
 
 ぐつぐつと沸騰した水が干し肉から染み出した油が
 混ざってスープになっている。
 
 少量だがそれを皿にあけ、比較的柔らかくなった干し肉を
 ナイフで切り分けたあと、
 メルヘドは油まみれの手でそれを差し出した。
 
 「ほら」
 
 黙ってそれを受け取り、リマはしばらく見つめた後マスクを外して、
 スープ状になった僅かなお湯を少しずつ口に入れた。
64 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:25:55.46 ID:Q3TbXfdh0
 また軽くえづいた後、手で干し肉を千切って噛み始める。
 
 メルヘドもそれを見ながら柔らかい肉を口に放り込んだ。
 
 「……アンタさんくらいの年頃の女の子が、さ」
 
 肉を口に入れたまま、メルヘドが唐突に言葉を発した。
 
 顔を見上げられて青年は軽く頷いて続けた。
 
 「うん、ちょっとアンタさんより小さいかな。
 砂漠で野垂れ死にそうになってるのを助けたことがあってさ」
 
 まだ火にかかったままのフライパンに新しく
 取り出した干し肉を放り込んで、彼は続けた。
 
 「その時にも同じもん出してやったことがあるんだけど、
 どうしたと思う?」
 
 きょとんとしたリマに正面を向いて、メルヘドは肩をすくめてみせた。
65 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:27:00.59 ID:Q3TbXfdh0
 「吐き出して、『こんな不味いもの食べさせるな』ってな。
 何か逆に怒鳴られたよ」
 
 彼なりにジョークを言ったつもりだったらしく、
 ポカンとして反応がないリマを見て、
 メルヘドは所在なさげに視線をずらした。
 
 そのまま火を見つめる。
 
 しばらくしてリマが、またマスクをつけながら口を開いた。
 
 「……おいしかった」
 
 メルヘドは彼女の方を向いて、軽く目を細めた。
 
 そして小さく笑う。
 
 「そっか」
 
 「メルヘドさんは、どこから来たの?」
 
 唐突に、少女がかすれた声でそう言った。
66 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:27:44.31 ID:Q3TbXfdh0
 青年はしばらくきょとんとしていたが、
 やがて無造作に手を上げると、丁度彼女と反対の地平線を指差した。
 
 「あっちからだな」
 
 「そうじゃなくて……何だか、サバルカンダの人じゃないみたいだから」
 
 「ああ、俺はアカスアから来た。龍祓いだ」
 
 「りゅうばらい?」
 
 怪訝そうに聞き返してきたリマを見返し、
 彼は困ったように鼻の頭についた砂を指の先で落とした。
 
 「アカスア、知らねぇの?」
 
 「うん」
 
 頷いた彼女に、メルヘドは少し考えて、
 フライパンの上から干し肉を取り出しながら答えた。
 
 「この世界中全体に張り巡らされてる鉄道、それは知ってるだろ?」
67 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:28:58.84 ID:Q3TbXfdh0
 「列車のこと?」
 
 「そうだ。全ての街にはその鉄道から水が送られてくる。
 俺たち龍祓いは、水を送ってくるオアシス、アカスアから鉄道護衛と、
 それから『龍』を破壊するために派遣される」
 
 「りゅう……?」
 
 いまだきょとんとした顔のまま、リマが首をかしげる。
 
 メルヘドはそれを見て、苦笑してから干し肉を噛み千切った。
 
 「知らんなら知らんほうがいい。
 今の時代、その言葉の意味を知ってる奴の方が少ないからな」
 
 「水って、さっき言ってたそのアカスアにはいっぱいあるの?」
 
 「どうして?」
 
 「だって、全部そこから運ばれてくるんでしょ?」
 
 無邪気な目が一対、こちらを見ている。
68 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:29:38.40 ID:Q3TbXfdh0
 本当に知らないらしい。
 
 それはそうか……とメルヘドは心の中でため息をついた。
 
 オアシス上層の人間ならいざ知らず、ネットワークやコンピュータとは
 無縁の下層の人間には外部の情報を知る手段が殆どない。
 
 自分が生きているオアシスが世界の全てだし、
 その外の世界なんて考えたこともないのだろう。
 
 それ以前に自分自身が生きるのに必死。
 
 何となく、分かる。
 
 青年は白髪を油まみれの手でわしわしと掻くと、軽く肩をすくめて見せた。
 
 「さぁな」
 
 「教えてくれないの?」
 
 「教えるも何も、俺も良くは知らん。
 ただ、何故かアカスアには水がある。それだけだ」
69 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:30:21.32 ID:Q3TbXfdh0
 ぶっきらぼうに突き放して、メルヘドは火を見つめた。
 
 その目に映った無機質な炎の色を見てリマは軽く目を伏せた。
 
 「……行ってみたいな……」
 
 「オススメはしねぇけどな」
 
 打ち消すように呟いた彼を見上げて、少女が首をかしげる。
 
 「水が、いっぱいあるのに?」
 
 「薬品漬けの液体を飲むんなら、
 どこでどれだけ飲んだって同じさ。
 結局飲める量は変わんねぇ」
 
 「でも……喉が渇いて死んじゃうことはないんだよね?」
 
 淡々とそう聞かれて青年は言葉を止めた。
 そして何かを言いかけてそれを飲み込む。
70 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:31:05.97 ID:Q3TbXfdh0
 「喉が渇いて仕方ないから、神様にお願いすることもないんだよね?」
 
 その声は寂しそうだった。無邪気な、乾いた瞳が遠くで
 祭の火をあげているサバルカンダの街を凝視する。
 
 「雨が降るのか?」
 
 しばらくして、メルヘドはぽつりと呟くように聞いた。
 
 弾かれたように振り返って、リマがすぐ視線をそらす。
 
 「五年に一度、神様に供物を捧げれば……」
 
 消え入りそうな声で彼女が言う。
 
 メルヘドはしばらくの間、黙って火を見つめていたが、
 そのままの姿勢で口を開いた。
 
 「詳しくは知らねぇが、もしそれが本当なら、どれだけいいだろうな」
 
 それきり青年は口をつぐんだ。
 
 ただ火と、それにかざした自分の手に視線を落としている。
71 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:31:56.39 ID:Q3TbXfdh0
 小さな少女は膝を引き寄せると、
 マスクをつけた顔をそこにうずめた。
 
 風が強くなってきていた。
 
 砂嵐が来るはずだという情報を思い出してメルヘドは
 マントのポケットから小さなランタン型のライトを取り出した。
 
 そしてそれをつけるのと入れ替わりに、
 フライパンをどけがてら、靴で火を踏んで消す。
 
 リマの視線の中で、彼はまたマントのポケットに
 手を突っ込んでしばらく探った。
 
 そしてマジックペンほどの太さをしている銀色の円柱を取り出す。
 
 「びっくりするなよ」
 
 一言断って、彼は円柱を勢いよく上から下へと振り下ろした。
 
 途端、先端部分から砂滝のように何か銀色の物体が噴出した。
72 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:33:36.33 ID:Q3TbXfdh0
 それは風船を見ているかのように大きく膨らむと、
 神殿の内壁に張り付いた。
 
 そして直径二メートルほどの球体に膨らんで止まる。
 
 まるで巨大なゴム風船が壁にくっついているかのような錯覚を覚えて、
 リマは呆気にとられ口をポカンと空けた。
 
 数秒ほどして、メルヘドがナイフを取り出し、一部を扉状に切り取る。
 
中の球体状の空間を確認し、彼はリマに向けて手招きをした。

 「よし、さっさと入れ。今晩は俺と一緒に泊めてやる」
 
 しかし立ち上がり、少女は不思議そうに壁にくっついたそれを見つめた。
 
 「何……コレ?」
 
 「携帯用の簡易テントだ。
 一応風と熱には強いから、砂嵐くらいは耐えられるだろ。
 使用回数が切れてたけど、成る程後一回くらいは使えるもんだな」
73 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:34:26.25 ID:Q3TbXfdh0
 さりげなくアバウト極まりないことを口走って、
 メルヘドは地面に放り出してあった荷物を、
 球体に覆われた空間の中に投げ入れ始めた。
 
 どうやらコレは、風船の要領で何かの強化素材を
 膨らませて作るタイプのテントらしい。
 
 強くなってきた風と、周囲が砂で灰色に染まってきたのを見回し、
 リマは慌てて立ち上がるとメルヘドの後についてそのテントに入った。
 
 途端にツンとした合成シンナーの臭いが鼻に突き刺さる。
 
 喉に刺激がきて小さくえづきはじめた少女を一瞥し、
 メルヘドは床に大の字に寝転んだ。
 
 そして自分のマントを彼女に投げてよこす。
 
 「結構夜は冷えるだろ。着てな」
 
 咳をしながら頷き、リマは彼のマントを羽織って隅の方にうずくまった。
74 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:35:09.61 ID:Q3TbXfdh0
 そこで初めて気がついたが、テントを構成している素材は、
 ほぼ半透明で周りの景色が透けて見えていた。
 
 触ってみるとぶよぶよと肉質な感触が指に伝わってくる。
 
 通気性は悪いようだが、
 入ってきた穴から時折強い風が吹き込んできていた。
 
 「ねぇ」
 
 大分経って、静かに息を吐き続けるメルヘドに、唐突にリマが呼びかけた。
 
 「どうした?」
 
 青年の声が聴こえると、
 安心したように息をついて、膝を抱き、引き寄せる。
 
 「……何でもない」
 
 「心配しないでも明日の夕方五時まではどこにも行かねぇよ。
 そういう契約だからな」
 
 「うん」
75 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:35:53.03 ID:Q3TbXfdh0
 「一つ聞いていいか?」
 
 寝転がったままメルヘドは続けた。
 
 「何?」
 
 「アンタさん、家族は?」
 
 聞かれて、少女はしばらく地面を見つめたあとポツリと言った。
 
 「五年前にママが供物になって、他に知り合いはいないよ」
 
 「五年前に?」
 
 「そう。あの時も、凄い砂嵐が近づいてきてて。
 でも、ママは雨を降らせるために供物になったの」
 
 淡々とリマが言う。
 
 メルヘドはしばらく口をつぐんでいたが、やがて静かに声を発した。
 
 「雨、降ったのか?」
76 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:36:48.36 ID:Q3TbXfdh0
 「降ったよ。
 一日中ずっと、真っ白な……ふわふわした水が空から降ってきた。
 地面に落ちても、染み込まないでずっと、ずっとそこに残ってる冷たい水。
 不思議だったけど、口に入れたら水の味だった。
 私産まれてからあの時、初めて雨っていうの見たんだ」
 
 白髪の青年は、砂が吹き荒れる空を見上げながらぼんやりと目を擦った。
 
 そして大きく息をつく。
 
 彼が答えないのを疑問に思ったのか、リマが近づいてきて顔を覗き込んできた。
 
 それを見てメルヘドは、無骨な手を伸ばして軽く少女の頭に乗せた。
 
 そして口を開く。
 
 「それは雨じゃない。雪、ってんだ」
 
 「ゆ、き?」
 
 「ああ。五年前の、アンタさんの母ちゃんが供物になったって日、
 この一帯に降り注いだのは、雪だ。俺はそれを追って旅をしてる」
77 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:37:35.33 ID:Q3TbXfdh0
 「雪って、水じゃないの?」
 
 「……さぁな。水って言えば水だが、
 人間が定義するところの飲み物と言えばそうじゃない。
 似て、非なるものだ」
 
 「よく……分かんない」
 
 不思議そうにリマは首をかしげ、また自分の膝を抱えて地面を見つめた。
 
 「でもママが供物になったおかげで、沢山の人が救われた。
 この地域は水が少ないし高いし、下層の人も、上層の人も凄く苦労してる。
 だから五年前のあの日は、みんなにとても感謝されたの。
 そして、今年は私がママになる。皆を、救うために」
 
 メルヘドはその言葉にも答えなかった。
 
 少女の頭から手を下ろし、ただ砂で覆い隠されていく星空を見ていた。
 
 青年の反応がないのを横目で伺い、やがてリマが膝に顔をうずめる。
78 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:38:21.67 ID:Q3TbXfdh0
 そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。
 
 少女が僅かな寝息を立て始めたのを確認して、
 メルヘドは起き上がると簡易テントの外に出た。
 
 その途端、地面から巻き上がる砂が顔面を直撃し、軽くむせる。
 
 もう一度テントの中を覗き込み、リマが寝ているのを確認後、
 彼は崩れた神殿の裏側に回った。
 
 そして懐から携帯端末を取り出し、スイッチを入れる。
 
 しかし耳に当てたそれから最初に聴こえたのは、
 僅かなノイズの音だった。
 
 巻き起こる砂の影響で、通信に使用している電波に障害が発生しているのだ。
 
 無理やりつまみを滅茶苦茶に回し、周波数を調整する。
 
 しばらくそのまま悪戦苦闘していると、
 やがて通信の向こうからヒステリックな女の子の叫び声が飛び出してきた。
79 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:39:16.10 ID:Q3TbXfdh0
 『――匠、師匠。今何時だと思ってるんですか……! 』
 
 「聴こえてるよ。大きな声出すな。寝起きか?」
 
 『起きてましたよ。師匠の勝手な行動のせいで、
 アカスアから状況を報告せよって催促文書が、
 山のようにキャラバンに送りつけられて来てるんです。
 その対処をしてたんです』
 
 「ああそうか、ご苦労。それで、本題に入るが……」
 
 しかしそこまで言ったメルヘドの言葉を
 、通信機の向こうの声が静かな怒りの声で掻き消した。
 
 『勝手に本題に入んないで下さい。私のこの苦労はスルー?』
 
 「弟子のくせにピーチクうるせぇな。
 黙って俺のイイところを学び、
 吸収するっていう謙虚な心はないのか?」
 
 『師匠のいいところは戦闘能力だけです。
 いいですか? 今回だって勝手な行動のせいで、
 私たち断の里のキャラバンは……』
80 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:40:09.88 ID:Q3TbXfdh0
 即座に打ち消され、少女の沸騰したお湯のような
 ストレスの深さを感じたのか、
 メルヘドは少し声の調子を落とし、続けた。
 
 「そんな怒るなよ……」
 
 『私が言葉を止めるのは一言ごめんなさいって聞いた時です。
 いいですか、今回ばかりはしっかり聞いて頂きます。
 砂嵐のおかげで、どうしても明日の夜まで移動がかかってしまうんです。
 これというのもですね! 』
 
 メルヘドは耳から一メートル近く携帯端末を離して、
 いい加減イラついてきたのか通信端末向こうの
 少女に負けず劣らずの早口で怒鳴り返した。
 
 「あーもう分かった分かった。
 分かったよ俺が悪かった。
 頼むから機嫌を直してくれ。
 仕事終わったら……その、何だ? 
 欲しいもん何でも買ってやるからまずは落ち着け。
 キャンディか? ガムか? 何でも買ってやるから」
81 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:41:26.24 ID:Q3TbXfdh0
 『釈然としませんがもういいです……それで師匠、本題とは何ですか?』
 
 弟子、と言う割にはやけにぶっきらぼうにアラリスと呼ばれた少女が答える。
 
 メルヘドは聴こえないように深いため息をつき、そして言った。
 
 「……言っていいのか?」
 
 『どうぞ』
 
 「今はまだ俺の憶測だが、ここには汚染だけではなく龍がいる」
 
 そう言った途端、通信機の向こうの少女の呼吸が僅かに引き締まった。
 
 彼女が口を挟もうとしたのを飲み込んだのを聞き取り、
 メルヘドはそのまま続けた。
 
 「それもカテゴリーA以上の上物だ。
 お前、催促状なんて俺の権限使って全部燃やして構わねぇから、
 代わりに大至急、執行免状を本部に申請しろ。
 それからキャラバンがサバルカンダに到着次第、
 上層部の拿捕に移行。分かったな?」
82 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:42:16.17 ID:Q3TbXfdh0
 『師匠。ですから疫神信仰エリアに手を出すのは、
 最低でもアカスアから審査が通過しないと……
 それに前調査もなく執行免状なんて、司令部の許可が下りませんよ?』
 
 「司令部じゃない。
 バルバロンに直接伝達しろ。
 すぐに返事が返ってくるはずだ。
 バイオランクGと俺が言っていたと言えば、許可なんてすぐに下りる」
 
 『ランクG?』
 
 そこで初めて、とめどなく喋り続けていたアラリスの言葉が止まった。
 
 息を呑んで黙り込んだ通信機の向こうに、メルヘドは面倒そうに続けた。
 
 「分かったな、アラリス? 切るぞ」
 
 『あ、ちょっと、師匠! 』
 
 最後まで聞かずにまた携帯端末のボタンを切る。
 
 間髪をおかずに、着信を告げる音をそれは発したが、
 無視して電源を切り、彼はその機械をズボンのポケットにねじ込んだ。
83 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:43:21.07 ID:Q3TbXfdh0
 「……駄目だ。やかましくてかなわん……」
 
 そのまま、砂が吹き荒れる周囲に目を走らせる。
 
 「……本当に、うるせぇくらい元気だから困る」
 
 口に出してそう呟き、メルヘドは腰に下げたなまくら刀に手を置いた。
 
 そのまま彼は周りを見回していたが、
 やがて神殿の一角に目を留めると足を踏み出した。
 
 明かりをつけるためにペンライトを取り出そうとするが、
 
 マントをリマに渡していたのを思い出して断念する。
 
 今彼はノースリーブのシャツにズボンという、
 砂漠ではありえないほどの軽装だった。
 
 日が完全に落ちたこのあたりの砂漠は、温度が急激に下がる。
 
 昼間の地獄の熱中に比べ、四十度近く落ち込むのだ。
 
 寒い、と言うよりは肌に刺さるような違和感を覚える。
84 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:44:21.08 ID:Q3TbXfdh0
 加えて砂が剥き出しの肌にパチパチと当たる。
 
 ズボンのポケットから汚れたタオルを取り出し、
 彼は左手で口と鼻に当てた。
 
 そして月の光を頼りに、崩れた神殿の更に裏側に回る。
 
 (墓か?)
 
 目に留まっていたものは、壁沿いに膨れ上がった土の塊だった。
 
 半壊して、砂とほぼ同化している十字架のようなものが立っている。
 
 盛り上がっている部分を手で払うと、
 そこからは石で作られた楕円形の墓石と思われる物体が姿を現した。
 
 それが一……二、三。三つ並んでいる。
 
 十字架には文字が刻まれているようだったが、風化して読めない。
 
メルヘドは横目でテント内のリマが動かないのを確認して、
手近な墓石の一つに手をかけた。
85 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:45:48.34 ID:Q3TbXfdh0
そして軽く力を入れて動かそうとする。

だが、砂で接合部が塞がっているのか、ビクともしない。

 しばらくして青年は、腰の刀を抜き放った。
 
 そして刃先を接合部に差し入れ、軽く力を込める。
 
 するとバクンッと鈍い音を立てて墓石が横から二つに割れた。
 
 「ちょっと失礼するぞ」
 
 くぐもった声でそう呟き、刀を腰に戻して中を覗き込む。
 
 しかしそこでメルヘドは眉をしかめ、困ったように頭を掻いた。
 
 中にあったのは、生き物の死骸ではなかった。
 
 それどころか、底がなかった。
 
 まるで時々朽ちたオアシスで見るような、枯れ果てた井戸のように、
 底の見えない直立した深い穴が開いている。
86 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:46:33.41 ID:Q3TbXfdh0
 墓石の底が綺麗にくりぬかれていて、砂漠に穴が開いているのだ。
 
 (やっぱし龍の巣になってるのか。
 ってことはこの神殿の地下にいるみたいだな……)
 
 顎に手を当ててしばらく考え、メルヘドはやがて墓石を元に戻した。
 
 そしてふと思い立って隣の墓石も同じようにして開いてみる。
 
 すると、今度は僅かにひんやりとした風が、
 眼下に開いた穴から飛び出してきた。
 
 慌てて飛び退り、しばらく様子を見る。
 
 十秒ほど間を確認して、メルヘドは中を覗き込んだ。
 
 同様に、隣のものと変わらない深い穴が開いている。
 
 しかしその中はやけに冷たく、穴の奥深くから冷気が漂ってきていた。
 
 「……こっちが巣に近いのか」
87 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:47:48.53 ID:Q3TbXfdh0
 小さく呟いて、テントの方を見る。
 
 まだ、リマは動いていない。
 
 メルヘドは息をついて、その中に足を突っ込もうと体を前に出した。
 その時だった。
 
 不意に、少し離れた場所で火薬の炸裂する、
 微妙に鋭く砂を振動させる音が彼の耳に届いた。
 
 慌てて顔を上げ、周りを見回す。
 
 濃くなってきた砂嵐により、視界が悪いが、
 数キロ離れた場所から火柱が立ち上るのが見えた。
 
 「何だァ? どこの馬鹿だ」
 
 半ば呆れながら、急いでテントの中に戻る。
 
 そこでまた、今度は少し近づいてきているところで火薬の爆発音が轟いた。
 
 リマを確認すると、彼女も気づいたらしく、
 寝ぼけ眼を開けて周りを見回していた。
88 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:48:26.65 ID:Q3TbXfdh0
 何食わぬ顔で隣に戻り、口を開く。
 
 「アンタさんの友達が来てるみたいだぜ?」
 
 それを聞くと、たちまち少女は青ざめてメルヘドの方を向いた。
 
 そしてマントを目深に被る。
 
 「に、逃げなきゃ」
 
 「待てよ。そう焦ることはねぇ」
 
 返して、青年は灰色の膜がかかった地平線の向こうに目をやった。
 
 「多分、サバルカンダの上層部が防衛隊を配置してるんだろ。
 おっさんが戦車を何台か出すって言ってた。
 心配しなくてもここまでは来ねぇよ」
 
 「戦車……」
 
 繰り返し、リマの顔が更に青ざめる。
 
 「どうしよう。ユージェンが死んじゃう」
89 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:49:18.66 ID:Q3TbXfdh0
 「会った時から思ってたんだが、そのユージェンって野郎は誰だ? 
 確か、俺のことをそいつと勘違いしたとか言ってたな」
 
 しかしメルヘドの問いには答えずに、
 リマは慌ててテントから飛び出そうとした。
 
 その手をすんでのところで掴んで青年が止める。
 
 勢いで地面に頭から倒れた少女を見て、彼は困ったように繰り返した。
 
 「だから、逃げる必要はないっての。分からん奴だな。
 ここまで来たとしても俺が守ってやんよ」
 
 「違うの。私、彼にちゃんと説明しなきゃ。
 供物になるから、助けてくれなくていいって言わなきゃ。
 じゃなきゃ殺されちゃう! 」
 
 「どういうことだ?」
 
 地面に打ち付けた額を押さえ、
 涙の浮いてきた目でリマはメルヘドを見上げた。
90 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:50:17.10 ID:Q3TbXfdh0
 「ユージェンは、五年前からずっと私の友達で……
 ママが死んでから、供物になるのが決まってて、
 地下牢にいたときから、時々会いに来てくれて。
 あの人、盗賊だけど悪い人じゃなくて、水だって、
 上層から盗んで下層の人にタダで配ってるって言ってた。
 だから、私なんかの為にユージェンが死んだら……」
 
 言っていることが支離滅裂だが、少女の目は必死だった。
 
 メルヘドが困ったように頭を掻く。
 
 つまり、推測するにその盗賊であるユージェンという男は、
 この少女が供物になり、死んでしまうのを阻止しようとしているのだろう。
 
 どこでどうやって知り合ったのかは分からないが、
 盗みに入った先で幽閉されていたリマを見つけたと考えるのが自然だ。
 
 しかし、この少女自身は、母親のように供物になり、
 街の者達を救うことを望んでいる。
 
 (それでこんなややこしいことになってたわけか)
 
 心の中で納得して、メルヘドは息をついた。
91 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:51:30.78 ID:Q3TbXfdh0
 「だからって、女の子一人で盗賊と防衛軍の戦闘に飛び込んでも、
 どうなるもんでもねぇだろ?」
 
 「でも、戦車が来てるなんて今日初めて知ったし。早くしないと」
 
 「あーもうめんどいなァ」
 
 吐き捨てるように呟いて、メルヘドはいらついたように頭を強く掻いた。
 
 ボロボロとからみついた砂がテントの床に落ちる。
 
 しばらくそのまま考え込み、彼は気乗りのしない顔を上げて、言った。
 
 「分かった。俺がそのユージェンとやらをとっ捕まえて、
 安全なところまで投げ飛ばしてくるよ。
 それでいいだろ? 俺ァあんまし頭が良くないから、
 それ以上の解決策があったら言ってくれ」
 
 「一緒に来てくれるの?」
92 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:53:14.33 ID:Q3TbXfdh0
 「駄目だ。アンタさんはここに残るんだ。
 今からこのテントに迷彩かけるから、じっとしてろ。
 外からは砂の塊みたいに見えるようになる」
 
 短く言って、メルヘドは彼女からマントを引き剥がした。
 
 そしてポケットに手を突っ込み、小さなスプレーを取り出す。
 
 彼がそれをテントの内壁に吹き付けると、
 燃えたアルミのようなとんでもない異臭が辺りに充満した。
 
 「マスクつけろ」
 
 命令されて、リマがすぐさまマスクを顔に当てる。
 
 スプレーを吹き付けられたところは半透明の茶色の膜が
 覆っているような色に変化していった。
 
 全ての面をそれで隠すと、メルヘドはスプレーをしまって入り口から体を出した。
 
 「じゃあ、絶対にそこ動くなよ。約束破ったら守ってやんねーからな」
93 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:54:33.43 ID:Q3TbXfdh0
 子供のように吐き捨てて、マントを羽織がてら砂漠に足を踏み出す。
 
 先ほどよりも砂嵐は強くなっていた。
 
 マントの前を閉じ、口元を隠して青年が足を踏み出す。
 
 戦闘の音が近づいてきていた。
 
 既に、目視では十メートルほど先のものが見えなくなっている。
 
 これだけの砂が舞っているのだ、おそらく戦車のレーダーも使えていないだろう。
 
 それに、おそらく田舎軍隊のここでは知っている者がいなかったのだろうが……
 
 このように砂が吹き荒れる場所では、火薬を使う武器の使用は非常に難しかった。
 
 砲弾や銃弾など、弾丸を使用するものについては、
 動作部に砂が入り込んでジャミングを起こす可能性が高い。
 
 暴発すれば攻撃対象ではなく、自分自身に衝撃が返ってきてしまう危険性もある。
 
 爆弾なんて論外だ。
94 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:55:16.68 ID:Q3TbXfdh0
 地面に埋めれば、埋めた端から砂が積もっていき、
 味方でさえどこに設置したのか分からなくなる。
 
 砂嵐の最中は、空気中に飛び散った砂鉄により電子でも、
 アナログでも方向磁針が狂う。
 
 よって、このような砂の強い日は、
 兵器に乗って戦うことは必ずしも有利とは限らない。
 
 (盗賊とやらは一体何人だ……?)
 
 神経を集中させながら、メルヘドはゆっくりと火薬の炸裂音がする
 箇所へ足を近づけていった。
 
 しかし、少し離れた場所に巨大な影が蠢いたのを見て足を止める。
 
 「うわ、ゴーレムじゃねぇか」
 
 呆れたように呟いて、彼は腰のなまくら刀を抜き放った。
 
 少し離れた場所に聳え立っていたのは、戦車でも人間の姿でもなかった。
95 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:56:02.17 ID:Q3TbXfdh0
 いびつな、ゴリラのようなシルエットだった。
 
 上層でよく使われる建築用ロボットに酷似しているその外見は、
 しかし無骨な歯車や鉄板でゴツゴツと構成されていた。
 
 人間なら頭があるべき場所に、外気に剥き出しのシートと
 操縦計器が取り付けられている。
 
 ここからでは顔は確認できないが、座っている人の姿も見えた。
 
 メルヘド達がゴーレムと呼んでいる、作業用人型機械だ。
 
 
 時々、先ほどまでいた神殿のような場所で掘り起こされ、
 修復、起動させられることの出来るものは、このように人間が使う場合もある。
 
 「それにしても、随分ロートルなゴーレムだな……何百年前の奴だよ」
 
 ぼやきながら、その機械人形に向けて歩き出す。
96 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:57:23.83 ID:Q3TbXfdh0
 彼がゴーレムと呼んだそれは、眼下の戦車を手のようなマニュピレーターで
 押さえつけているところだった。
 
 空回りしているキャタピラが巻き上げる砂で、
 周囲が霧がかかったようになっている。
 
 しばらく見ていると、やがてゴーレムは左腕を振り上げた。
 
 手の甲に当たる部分に、杭のようなものがついている。
 
 建設などの工作業に使用する、巨大なビス(釘)撃ちだ。
 
 ネイルガンと言えば一番近いだろうか。
 
 それを戦車の前部に当てると、引き金を引いたのかビスが撃ち出され、
 簡単に鉄の兵器が砂漠に磔にされた。
 
 ゴーレム側は破壊するつもりはないらしく、
 動力部以外のところをわざわざ狙っている。
97 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:58:09.58 ID:Q3TbXfdh0
 しかし、きっちりと脱出部は塞いでいる。
 
 素人ではない。
 
 砂によりノイズがかかった視界でそこまでもを確認して、
 メルヘドは刀を肩に担いだ。
 
 もしアレがユージェンという男なのであれば、
 盗賊というだけでは説明がつかない。
 
 あんな少女一人に価値があるわけでもないし、
 この一帯は人身売買の取締りが厳しい。
 
 たとえ正規の市民登録をして生きている者ではないにしても、
 そんな犯罪行為を進んで行っているとは思いがたかった。
 
 それに、もし売り飛ばすつもりなら、
 ロートルなゴーレム一台を持ち出してまで戦車と格闘しようと思うだろうか。
 
 心の中で疑問を反芻し、メルヘドはゴーレムに向かって走り出した。
 
 砂に足が取られるが、そのたびに強く地面を蹴って体を前に進ませる。
98 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:59:00.25 ID:Q3TbXfdh0
 レーダーも何も使えないのであれば、
 自分の目での直接視認するしかない。
 
 戦車から離れた機械人形は、体を直立させると、
 駆け寄ってくる人影を確認して動きを止めた。
 
 『止まれ! 今日俺はお前らと戦うつもりはない! 』
 
 唐突に拡声器で増幅された少年の声が響く。
 
 その声を無視してメルヘドはゴーレムの真下まで瞬く間に移動すると、
 まるで猿のようにその足を蹴って、一飛びに機械人形の腕に駆け上がった。
 
 操縦席に座っていたのは、やけに派手な服に身を包んだ大柄な少年だった。
 
 年はリマと大して変わらないだろうか。
 
 しかしこちらは彼女のようにやせ細っていると言うわけではなく、
 至って普通の体形だ。
 
 顔は確認できない。
 
 砂漠でも問題なく動けるのは、
 顔面全体を覆うマスクをつけていたからだった。
99 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/02(水) 23:59:48.21 ID:Q3TbXfdh0
 一瞬でそこまでを確認し、メルヘドがゴーレムの肩の上に立ち上がる。
 
 「てめぇがユージェンか」
 
 ボソリ、とそう聞くと、少年は低い声で叫んだ。
 
 「何だ……お前? 
 もしかして今日上層の奴らに雇われたって言う、龍祓いか! 」
 
 「ああ。リマの身柄は俺が預かってる。
 明日の夕方五時まで、アレは俺のもんだ。
 アンタさんに渡すわけにはいかねぇなぁ」
 
 「何だと! 」
 
 「今日のところは初見ってことで多めに見て、見逃してやるから。
 ガキはとっととお家に帰ってメシ食って寝ろ。
 あんな小娘一人の為に、一体何個の戦車ぶっ壊したんだよ? 
 幾らすると思ってんだ、全部で」
 
 「お前に言われる筋合いはない! 」
 
 くぐもった叫び声と共にゴーレムの腕が動いた。
100 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:00:56.17 ID:9DIDK4U20
 乗っていた場所が激しく振れ、
 メルヘドの体が弾丸のように投げ飛ばされる。
 
 「よそ者はそこでおとなしくしてろ! 」
 
 空中に放り出されたメルヘドの腹部に、次の瞬間鈍い衝撃が走った。
 
 振り子のように薙ぎ払ったゴーレムの腕が、彼の体を凪いだのだ。
 
 そのまま野球のボールのように勢いよく、眼下の地面に突き刺さる。
 
 彼のことを確認するでもなく、ユージュンの乗るゴーレムは
 そのまま歩みを進め始めた。
 
 しかし数歩歩いたところで、その三メートル近い巨体がガクン、
 と震えて停止する。
 
 「どこ行くんだよ? 渡さないって言ってるだろ」
 
 その瞬間、機械人形上にいる少年の背に戦慄が走った。
 
 とぼけたような声が、砂と風が吹き荒れる中を奇妙に突き抜けてくる。
101 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:01:55.32 ID:9DIDK4U20
 ゴーレムの足元、そこに、片手で無造作に
 巨人の足を押さえたメルヘドの姿があった。
 
 ただ寄りかかっているのではない。
 
 進もうとしているものを、力づくで押さえ込んでいるのだ。
 
 全く力んでいる様子など見せない青年は、飄々と地面に立っていた。
 
 しかし足元は僅かずつ、ゴーレムに引っ張られてスライドしている。
 
 もう片方の手でなまくら刀を構えた龍祓いを見て、
 ユージェンはくぐもった叫び声をあげた。
 
 『は、離せ……化け物! 』
 
 ゴーレムが上半身を百八十度回転させ、
 ビス撃ちがついている方の腕を、眼下の人間に向ける。
 
 「おーおー、血気盛んなこって」
 
 『離さんと撃つぞ! 俺はただ、リマをもらいに来ただけだ! 
 別に戦うために来たんじゃない』
 
 「だから渡さないって。さてはわかんねぇ奴だな、お前」
102 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:02:51.16 ID:9DIDK4U20
 うんざりしたように繰り返し、
 メルヘドはゴーレムを掴んでいる手に力を込めた。
 
 途端、彼と比べて三倍近い鉄の塊が、ふわりと地面から浮いた。
 
 そのままゴーレムを片手で持ち上げ、発泡スチロールのように軽々と、
 メルヘドは少し離れた場所に投げ飛ばした。
 
 次いで轟音と砂を巻き上げて、それが背中から地面に叩きつけられる。
 
 その瞬間だった。衝撃で誤動作でもしたのか、
 不意に機械人形の腕についているビス撃ちが作動し、
 照準でもセットしていたのか腕が自動的にメルヘドの方を向いた。
 
 砲弾のように長さ一メートル半はあるビスが射出された。
 
 それがまっすぐメルヘドのほうに飛んで行き……。
 
 青年は、確認するまでもなくやすやすと空いている方の手でそれを掴み取った。
 
 そのまま体ごと、数メートル後ろにスライドする。
 
 ビスは、尖った先端がメルヘドの顔面に突き刺さる寸前で止まっていた。
103 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:03:32.39 ID:9DIDK4U20
 簡単に手に持ったそれを投げ飛ばし、
 メルヘドはゴーレムに向かって足を踏み出した。
 
 「危ねぇなぁ……刃物や危険物を人に向けちゃいけませんって、
 小さいころかーちゃんに習わなかったのか?」
 
 そして、地面に腰を抜かしたようにへたり込んでいるマスク姿の少年の前に立つ。
 
 彼は黙って、なまくら刀の刃を目の前の対象に向けた。
 
 「……化け物か……?」
 
 「さぁなぁ?」
 
 「……生憎俺は孤児だったもんでな……
 そういうお前も、かーちゃんの愛情が足りなかったんじゃねぇのか。
 何食ったらそう育つんだ?」
 
 気丈に言い返してくる声を聞き、メルヘドは意外そうに眉を上げた。
 
 「奇遇だな。俺も孤児だ」
 
 そして彼は、刀を大上段に構え、振り下ろした。
104 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:10:34.22 ID:9DIDK4U20


 派手な服の少年の首ねっこを捕まえ、
 無造作に引きずりながらテントに戻った時、
 メルヘドが見たのは外の地面に膝を抱えて座っているリマの姿だった。
 
 あまりにも砂の勢いが強いため、
 頭を膝にうずめてマスクの中で細く息をしているのが分かる。
 
 メルヘドは右手に持っていたなまくら刀を腰に戻し、
 気絶している少年を無造作に投げ飛ばした。
 
 何回か地面をバウンドした彼が、小さくえづいて目を開ける。
 
 音に気づいたリマが顔をあげ、まずユージェンの姿を見て目を丸くした。
 
 しかし逃げ出そうとしたところを、メルヘドに頭を軽く叩かれてハッとする。
 
 「おい、とりあえずそこのバカ二人。砂嵐が酷いからとっととテントに入れ」
 
 そう言ってメルヘドは一人、さっさと簡易空間の中に体を潜り込ませた。
105 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:11:28.13 ID:9DIDK4U20


 「どうしてユージェンがここに?」
 
 大分長い沈黙を控えめに破ったのは、リマだった。
 
 三人が入っているために気密度が高いテント内で、
 メルヘドは背中を丸めて髪についた砂を落としているところだった。
 
 その正面には、ふてくされたように胡坐をかいた少年の姿がある。
 
 メルヘドは息をついてから口を開いた。
 
 「いや、遠巻きに警備隊の戦車、第二陣が近づいてくるのが見えた。
 アンタさんと約束したのは、ユージェンとやらを安全な場所に
 投げ飛ばしてくることだったからな。
 こいつの乗ってきたゴーレムはブッ壊したし、
 まさか砂嵐の中に置いてくるわけにもいかねぇから連れてきたんだ」
 
 「あのね、連れて来ちゃ意味がないよメルヘドさん……」
 
 小さな少女が疲れたように額を抑える。
 
 そこでやっと、黙り込んでいたユージェンがマスクを外した。
106 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:12:33.26 ID:9DIDK4U20
 中から現れたのは、整った顔ではなかった。
 
 粗野……というのだろうか。
 
 顔の右目から鼻にかけて、大きな切り傷が走っている。
 
 おそらく傷が出来る前までは相当な美男子だったのだろう。
 
 髪は綺麗に短髪にカットされていて、
 残った左目は快活そうな光を宿していた。
 
 彼は首筋を何回かさすると、思い切り警戒した目でメルヘドを見た。
 
 「……いきなり殴りやがって……」
 
 「アンタさんこそ、俺に向けてネイルガン発射しただろ。お相子だ」
 
 「えっ?」
 
 その時素っ頓狂な声を上げてリマが割り込んだ。
 
 そして悲しそうな顔でユージェンを一瞥し、膝を抱える。
107 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:13:15.92 ID:9DIDK4U20
 「あんなに、暴力はいけないって言ったのに」
 
 「違う! 
 あれは、こいつが俺のゴーレムを投げ飛ばしたから誤作動が
 
 「人がゴーレムを投げ飛ばせるわけがないでしょ?」
 
 怪訝そうな顔で向き直ったリマを見て、
 ユージェンはハッとしてメルヘドの方から後ず去った。
 
 「そうだよ……一体何なんだお前?」
 
 「龍祓いだ」
 
 即答して、メルヘドは大きく欠伸を一つした。
 
 「名前はメルヘド。世界に十二個ある龍祓いの里、
 十番目の『断』の長をやっている。
 世界に十二人しか龍祓いはいないんだ。
 それくらい出来て当然だろ」
 
 きょとんとしている二人を完全に取り残して、メルヘドは顔を上げた。
108 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:14:41.53 ID:9DIDK4U20
 「砂嵐は明日の昼まで止まないからな。
 リマを連れて逃げようって言ったって、そうはいかねぇよ。
 この外に出たら、いろんな意味で死ぬぞ」
 
 リマの手を握り、引き寄せようとしていたユージェンの動きがピタリと止まる。
 
 少女はそれに気づいて、静かに手を離した。
 
 「どうしてだ! 
 ここにいたら、お前化け物に食われちまうんだ。
 砂嵐が止むまでに逃げないと」
 
 「おいちょっと待て」
 
 感極まったのか大声を上げた盗賊の少年に、
 メルヘドは言葉を遮って聞いた。
 
 「アンタさん、龍を見たのか?」
 
 「龍? よく分かんないけど、この地域は呪われてる。
 雨まがいが降ったのだって、ここの奴らは喜んでたけど、
 いいわけがないんだ。だから仲間の反対押し切って、
 ゴーレムまで出してきたのに……お前が壊したんだ! 」
109 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:15:24.97 ID:9DIDK4U20
 噛み付かんばかりのユージェンの剣幕に、
 しかし白髪の青年はゆるく、顎に手を当てて考え込んだ後答えた。
 
 「安心しろ。どっちにしろあんなロートルゴーレムじゃ龍は殺せない。
 アンタさんも取り込まれるのがオチだ。俺に会えて、運が良かったな」
 
 「さっきから聞いてればお前、やけに偉そうだな? 
 一体あの化け物の何を知ってるっていうんだ?」
 
 不信感丸出しの、眉が落ち込んだ表情のままユージェンが声を落とす。
 
 彼は左手を服の懐に突っ込んでいた。
 
 銃だった場合にはグリップを握っているべき親指が立っている。
 
 おそらく、ナイフか何かの刃物が忍ばせてあるのだろう。
 
 メルヘドはそれを見て、黙ってマントの中のなまくら刀に手を置いた。
 
 そして地面と刃先をこすり、ジャリッと乾いた音を立てる。
 
 それだけで、彼の先ほどの異常な戦闘能力を見てきた
 少年は黙って唾を飲み込んだ。
110 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:16:13.57 ID:9DIDK4U20
 「そんなに警戒すんなよ。
 俺ァ、どっちかというとユージェン、アンタさんの味方だ」
 
 「オレの?」
 
 意外そうな顔をした彼に、静かに頷いて続ける。
 
 「その化け物とやらを見たのは、五年前の祭の日か? 
 あー……確かにぶん殴ったが、俺ァ別にアンタさんたちに
 危害を加えるために来たんじゃない。
 力になれるかも知れないから、良ければ話してもらえるか?」
 
 「何で俺がお前に……」
 
 「でも、この人悪い人じゃないよ? 
 ユージェンの話が全部嘘だって、証明してくれるかも」
 
 恐る恐るリマが口を開く。
 
 「おいリマ……まだそんなこと言ってんのか。
 それにこいつ、俺のゴーレムを」
 
 「私は別に来なくていいって、あんなに言ったのに……」
111 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:17:04.54 ID:9DIDK4U20
 少女の声でユージェンが言葉を飲み込む。
 
 「かいつまんででいいから、見たものを喋ってくれ」
 
 聞くと、ユージェンはしばらく迷ったあとリマに目を落とした。
 そこで少女が目をそらしてボソリと呟く。
 
 「……言いたいように言ったらいいんじゃない? 
 いつもみたいに嘘ばっかり」
 
 それを聞いて、少年がムッとした顔になり、渋々といった具合で口を開く。
 
 「ああ。オレは……」
 
 そこで数瞬戸惑い、俯いたリマをもう一度一瞥してから意を決したように喋り出す。
 
 「あの夜、リマの母さんが生贄にされてる祭壇に、
 何か役に立つもんがないかと進入したんだ。
 仲間と一緒にな。供え物があるって聞いてたんで、中身も知らなかったし……
 やけに静かで、日が落ちるまでにいた見張りも警備隊も誰もいなかった。
 おかしいとは思ったんだ」
 
 「ほぅ、それで?」
112 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:18:04.99 ID:9DIDK4U20
 「……ああ。神殿に近づいた、俺の仲間の一人がいきなりいなくなった。
 訳がわかんなかった。周りを見回したんだけど、どこにもいない。
 気づくと、隣にいたもう一人が、砂の中に段々飲み込まれていくのが見えた。
 急いで助けようとしたが、凄い力で小さな蟻地獄のようなものに吸い込まれていて、
 もう手は出せなかった」
 
 淡々と喋っているが、少年の瞳には確かな怒りの感情が燃えていた。
 
 リマに向けている反対側の手を強く握り締め、押し殺した声で続ける。
 
 「四人、仲間がいたけど全員同じように消えてった。
 俺の背筋は凍ったよ。慌てて神殿から反対方向に逃げた。
 後ろから、蟻地獄のようなものが追ってきたが、
 大分走ったところで何とか振り切った。
 そして、砂嵐が晴れた向こうに見たんだ」
 
 「何を?」
 
 「神殿を覆い隠すくらいでっかい、蜘蛛みてぇな化け物の姿をだよ。
 アレは、まんまこの一体で信仰されてるアージェデータの姿だった。
 雨の神様って言われてて、街の中央広場に銅像がある、アレだ。
 蜘蛛の怪物は、神殿を昇ると煙突みたいになってる背中を空に突き出した。
 そこから、暗くてよく見えなかったが紫色がかった煙が出た……
 そして、雨まがいが降ってきたんだ」
113 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:18:48.86 ID:9DIDK4U20
 そこまで言って、ユージェンは一拍置いて唇を噛んだ。
 
 「あの時いなくなった仲間は帰ってこなかった。
 その後、他の奴らと色々探したけど、死体さえ見つかんない。
 多分、リマの母さんもアレに食われたんだと、俺は」
 
 「……そのくらいでいいでしょ、もういい加減にして、ユージェン」
 
 しかし唐突にリマは上げると、自分の膝を強く抱きしめた。
 そしてかすれた声を無理やり続ける。
 
 「ママは食べられてなんかいない。
 ユージェンの友達を食べたりもしない。
 ママは、雨を降らせるために神様になるって言ってた。
 そんな嘘ついたって、私、騙されない。
 ママを休ませてあげて、今度は私が代わりに神様にならなきゃいけないの。
 どうして分かってくれないの?」
 
 「嘘じゃない! 信じてくれリマ。俺は」
 
 「だって私が雨降らせなきゃ、ユージェンだって、
 街の人たちだって枯れて死んじゃうでしょ! 」
 
 割り込んだユージェンの声を掻き消して、リマが怒鳴る。
114 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:19:41.11 ID:9DIDK4U20
 おそらく、もう何回、何十回と繰り返してきた会話だったのだろう。
 それっきりため息をついて少年は対話を切り上げると、
 疲れたようにメルヘドを見上げた。
 
 「ってことだ。どうしてもリマは信じてくれないが、コレが俺が見た全てだ」
 
 「……カテゴリーAの、自立思考タイプで休眠機能保持システムに
 加えて生成ラボを持ってるのか。ちょいと厄介な代物だな……」
 
 しかしメルヘドは、少年の言葉には答えず顎に手を当ててなにやら
 ブツブツと考え込んでいた。
 
 それを見て、ユージェンの瞳が険しくなる。
 
 「何だ? お前が話せって言うからわざわざ話してやったんだぞ。
 それとも、お前も俺の話が嘘だって言うのか?」
 
 「俺ァあんまし頭が良くないもんでな。
 考え事と会話を一度に出来ないんだ。
 まぁ嘘だっては言わねぇよ。
 アンタさんが見たって言うのは、多分俺の言うとおりに龍だな。
 それに間違いない」
 
 断言した青年の言葉に、リマが驚いたように顔を上げる。
115 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:22:05.32 ID:9DIDK4U20
 「何言ってるのメルヘドさん。
 ママはアージェデータになって、今は雨を降らす神様なのよ。
 貴方まで出任せを言わないでよ」
 
 「出任せ言ってるわけじゃないが、
 あながちリマが言ってることも間違いじゃない。
 ようは、アンタさんたち二人が言ってることは
 どっちも当たってるってことだな」
 
 「どういうことだ、龍祓い? お前の話してることはさっぱり分からんぞ」
 
 そろそろメルヘドのゆったりとした喋りに苛立ってきたのか、
 ユージェンが語気を強める。
 
 それに気づかないのか、青年は白髪をボリボリと掻きながら続けた。
 
 「リマが神様って言ってるそいつは、
 確かに雨のようなものを降らすが、神様ではない。
 俺たちが『龍』って呼んでる、水を精製する八次元生命体だ。
 俺たちはそれを破壊するために各地を回っている。
 今回の龍は、話を聞いただけで判断すると『蠍蜘蛛』と言われてる個体だな。
 滅多に見ないんだが、珍しいな」
 
 「何ですって?」
116 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:23:01.12 ID:9DIDK4U20
 意味が分からないのか、唖然と口を開けたリマの顔を見て、
 メルヘドはハッとした表情になった。そして慌てて口元を抑える。
 
 「……あぁ……いや、何でもない。
 信仰者に言っちゃいけないことだったんだ。やっぱ忘れてくれ」
 
 「あなた、ママを殺すために来たの?」
 
 リマが顔面を蒼白にさせながらメルヘドから体を離す。
 
 青年は困ったように息をついて、口を開いた。
 
 「いや、まぁ、俺は他の龍祓いとは違うから、
 むやみやたらに龍を破壊することはしない。
 壊すか、壊さないかは実物を見た上で決める」
 
 「言ってる意味が分からないよ! ママは神様なんだよ? 
 雨を降らせる神様なんだよ。それをどうして壊さなきゃいけないの? 
 どうして、よそ者のあなたがいきなり来て、
 知ったようなことを言うのよ! 」
 
 突然リマが激昂した。目を白黒させて、
 メルヘドは困ったようにユージェンの方を見た。
117 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:23:54.39 ID:9DIDK4U20
 しかし少年も事情をよく飲み込めていないらしく、
 僅かに戸惑った視線が返ってきただけだった。
 
 少し前に通信機の向こうで少女、
 アラリスが言ったのはこういうことだった。
 
 この広い世界には、時々人間の判断の範疇を越えた事象が起こることがある。
 何もないところに突然オアシスが沸いたり、
 砂嵐が意思を持ったように街を襲ったり。
 
 メルヘドが『雪』と呼んでいるものが降ってくるのも、その一つだった。
 
 彼ら龍祓いはそのような不可思議な現象を起こす要因を、総じて龍と呼ぶ。
 
 形、大きさ、色。何もかもが不確定なそれは、
 ただ一つだけ共通している事項があった。
 
 それは、水を排出すると行為を行うこと。
 
 どんな大きさの龍であれ、必ずそれは水を出す。
 
 その量はランク分けされているそれぞれの龍のレベルによって決まり、
 高ランクのモノは、ここでの一件のように一日中排出し続けることもある。
118 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:24:48.42 ID:9DIDK4U20
 メルヘド達龍祓いは、その異形の怪物を狩ることを生業としていた。
 
 最も、龍の存在を知っている者はごく僅かで、
 多くの人々は龍祓いをただ単に、アカスアから引かれている
 水運搬用の鉄道護衛官だと思っている。
 
 疫神信仰、とはそのような世界の中で時折発生しうる、
 集団ヒステリーにも似た物事のことだった。
 
 ありえない超常を引き起こすものは、
 無知な者にとっては神格化して見えることが殆どだ。
 
 それがどんなモノであれ、人間は自分自身が
 理解できないものを特別視したがる傾向にある。
 
 つまり人間にとって利を成す、
 つまり水を排出する龍が神として祭り上げられることも、
 そう少なくはなかった。
 
 そこに住んでいるものにとっては、それがどんな危険なモノであれ、
 神であり、理であり、正義となる。
 
 目の前にあるものを信じる、それが人間だからだ。
119 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:25:36.87 ID:9DIDK4U20
 そのためにはどんな犠牲を払っても、信じ続けようとする。
 
 自分自身を確立するために。
 
 その土地に生きる信仰者にとって、
 常識がどれだけ間違っていると言ってもそれは正義で真実なのだ。
 
 龍祓いが不用意に疫神信仰に手を出してはいけない、
 そういう決まりがあるのはそのためだった。
 
 リマのような信仰者にとって、メルヘドの破壊対象は神であり、
 そしてなくてはならない存在なのだ。
 
 「すまないな。龍は壊さなきゃいかん。
 一応規定上ではそう決められてるんだ」
 
 短くメルヘドは言って、息をついた。
 
 そして手を伸ばし、リマの頭を優しく撫でる。
 
 「落ち着け。何もアンタさんのかーちゃんを殺そうとしてるわけじゃない。
 俺も説明が足りなかったが、そんなに怒るな。
 女の子に怒鳴られるのは性に合わないんだ」
120 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:26:25.72 ID:9DIDK4U20
 「言ってる意味が分からないよ」
 
 大きく息をついて、リマはメルヘドとユージェンを交互に睨みつけた。
 
 そして押し殺した声で続ける。
 
 「私は産まれた時から、アージェデータになって
 雨を降らせる巫女として決められてるの。
 ママはそうやって五年前に雨を降らした。
 だから私も私の役割を果たさなきゃいけないの。
 いきなり私の前に現れて、勝手なこと言わないで。
 ユージェンも、メルヘドさんも。誰に何を言われても、私は……」
 
 そこまで一気に話した時、不意にリマは大きく息を吐き出した。
 そして焼けた喉に唾が詰まったのか、激しくえづき、
 やがて強い咳を発し始める。
 
 「おい、リマ? リマ! 」
 
 盗賊の青年はこのような状況には慣れていないのか、
 うずくまった少女のことを抱えて耳元で何度も大声をあげた。
 
 しかし答える余裕がないらしく、リマの咳が段々と強くなる。
121 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:27:11.65 ID:9DIDK4U20
 「どいてろ」
 
 そこでメルヘドは呆れたようにユージェンを押しのけると、
 ポケットから取り出した小指サイズの小さな注射器を、
 無造作にリマの首筋に突き刺した。
 
 そして間髪をいれずに、中に入っていた液体を彼女の体に一気に押し込む。
 
 注射器の針を抜くのと、リマが細く、かすれた息を吐いて
 テントの床に倒れたのはほぼ同時だった。
 
 針にカバーを被せ、ポケットにしまったメルヘドと倒れたリマを見比べて、
 やっと状況を理解したらしくユージェンが青くなって声を上げる。
 
 「おい! 」
 
 次の瞬間、白髪の青年が襟首をつかまれ、床に組み倒される。
 
 「何しやがるんだ! 今注射したのは何だ! 」
 
 「落ち着け。即効性の睡眠弛緩剤だ。うるせぇから眠らせただけだ」
122 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:27:53.59 ID:9DIDK4U20
 「そんなこと……お前女の子にいきなり何すんだ! 」
 
 「いいからどけよ。
 アンタさんにばっかし構ってる暇はないんだよ俺は」
 
 そう言ってメルヘドは少年を軽々と押しのけると、マントの埃を払った。
 
 そして不思議そうにユージェンのことを見る。
 
 「喉の様子も酷いみたいだし、俺ァ頭悪いから、
 うまく状況も説明できんしてで寝てもらっただけだ。
 アンタさんは一体この娘の何だ? 
 帰ってくれとか、さっきから聞いてる限りでは
 嫌がってるようにしか見えんが」
 
 彼がそう言うと、少年は黙ってリマに自分の上着を
 被せながら横目でメルヘドを睨んだ。
123 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:28:39.05 ID:9DIDK4U20
 「……おいこれ、本当に寝てるだけなんだろうな?」
 
 「息してりゃ寝てるってことだ」
 
 完結に答えると、ユージェンがリマの口元に耳を近づけて、息を吐く。
 
 彼女の首筋の注射痕からにじんだ血を手で拭ってやり、
 彼は押し殺した声で答えた。
 
 「俺がリマの何であるかとか、そんなことはどうでもいい。
 俺はただこの子に死んで欲しくないだけだ」
 
 その台詞を聞いて、メルヘドは意外なことに小さく噴き出すと、
 隠す様子もなく口元に飛んだ唾を手で拭った。
 
 「馬鹿にしてんのか?」
 
 「……いや悪い。そんな恥ずい口上を臆面もなく言えるってのは、
 やっぱアンタさんらは若いな。羨ましいぜ」
 
 「何言ってんだ。お前だって俺と大して変わらないだろ」
 
 「そう見えんならそれでいいよ」
124 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:29:26.43 ID:9DIDK4U20
 肩をすくめると、ユージェンはリマを彼から庇うように
 間に割り込んで座ってから言った。
 
 「なぁ、リマを寝かせたってことは、
 あの化け物を退治するの、もしかして手伝ってくれんのか?」
 
 「あ? 何言ってんだ?」
 
 しかし、僅かな期待を込めて発せられた声を
 簡単に打ち返してメルヘドはきょとんと目の前の盗賊を見つめた。
 
 「俺の話を聞いた上で、それでもまだやりたいってんなら
 アンタさん一人で勝手にやれ。
 俺は明日……いや深夜は過ぎたからもう今日か。
 その夕方五時までは依頼だからこの子を守る。
 それ以降俺がどうしようと、それは俺の勝手だがな」
 
 「……訳の分からん奴だな。化け物退治にここに来たんだろ?」
 
 「俺の生業は確かにそれだが、無作為に破壊することはしない。
 まずは対象を目で見て、確認してから壊すか封印するかを決める。
 それに、龍の破壊とこの子を守ることは別枠の依頼でな。
 今はこっちを優先させてるんだ」
125 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:30:14.53 ID:9DIDK4U20
 「俺が、もしここでリマを連れて外に出ようとしたらどうする?」
 
 「阻止する。その際の被害は気にしない」
 
 即答だった。
 
 感情の読めない、まるで熱があるかのようなかったるい瞳を向けながら、
 メルヘドの応答は、一種のパターン化された機械の受け答えのようだった。
 
 そこには感情の迷いはなく、プログラムに従って自分の行動を
 決めているかのような、どこか、人間味の薄さを
 そこに感じてユージェンが口を閉ざす。
 
 「……それよりもさっきの問いに答えてもらってなかったな。
 アンタさん、どうしてこの子をあそこまでして守ろうとする?」
 
 黙り込んだ彼にメルヘドが問いかけると、
 しばらく迷った後で、ユージェンは口を開いた。
 
 「……別に、特別な理由はない」
 
 「理由もなしに戦車と格闘するか?」
 
 しばらく沈黙し、その後に彼はボソリと言った。
126 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:31:02.95 ID:9DIDK4U20
 「ホントに、理由はない。
 ただ……俺も、ガキの頃穴倉に閉じ込められたことがあってな。
 それだけだ」
 
 「穴倉に?」
 
 「ああ。最も、俺の場合は土牢だがな。
 三歳から六歳頃までそん中にいた。
 罪状は簡単だ。水を盗んだ。二十リットルほどな」
 
 それを聞いてメルヘドがまた苦笑する。
 
 「成る程。それは重罪人だ」
 
 「まぁ砂漠の外れに作られてた廃棄寸前の施設でな。
 砂嵐でブッ壊れた時にとっとと外に出ちまったが。
 あそにいれば砂は入ってこねぇし、
 生きてくのに問題ないくらいの水と食い物は最低限もらえる。
 苦にはならなかったが」
 
 息をついて彼は足元のリマを見た。
 
 「だが、太陽の光も来ない穴倉に一人で押し込められてるのは、
 寂しいからな」
127 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:31:54.14 ID:9DIDK4U20
 しばらくそれを聞いて、
 メルヘドは顎に手を当てたまま何かを考え込んでいた。
 
 しばらくして小さく頷いて相槌を打つ。
 
 「……確かに、な」
 
 「この子は、俺が三年いただけで色々麻痺しちまった暗闇に、
 五年間閉じ込められてた。
 何でも、神様に捧げるために体の中の不浄なものを時間かけて
 取り除くんだと……全く、狂ってるぜ」
 
 吐き捨てるように呟いた少年をまた不思議そうに見返し、
 白髪の龍祓いが口を開く。
 
 「しかし雨が降るんだろ?」
 
 「……何だと?」
 
 「この子が犠牲になれば、雨が降るって、
 この子自身が言ってるじゃないか。
 アンタさんは、今よりももっと水を飲みたくないのか? 
 街中のあの値段を見ると、下層に住んでる者は
 大体一日に二百cc飲めれば限度ってとこだ」
128 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:32:39.37 ID:9DIDK4U20
 言われて、ユージェンは視線を落として繰り返した。
 
 「……俺は別に、この子に死んで欲しくないってだけだ」
 
 「他の奴ならいいのか?」
 
 淡白にメルヘドが聞く。
 
 ユージェンはすぐには答えなかった。
 
 何度か口を開いて、そして閉じる。
 
 やがて何秒か経った後、ボソリと彼は返した。
 
 「分からん。しかし、少なくとも俺は。
 神なんていないと思うから」
 
 「面白いこと言うな、アンタ」
 
 「神さんがいれば、人間なんて食わなくても水を出すよ」
 
 それだけを言って、ユージェンは半透明のテントの外目をやった。
129 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:33:49.17 ID:9DIDK4U20
砂が吹き荒れていた。

入り口代わりの亀裂からも、時折茶色に濁った空気が入り込んでくる。

換気の必要もあり閉じることが出来ないため、
テントの床には徐々に砂が薄く積もり始めているほどだった。

 「で、アンタさんはどうする? 
 明日の朝方になれば砂嵐は収まると思うけど」
 
 しばらく沈黙してから、メルヘドが声をかけると
 ユージェンはしばらく考え込んでから返した。
 
 「お前がリマを、夕方五時まで守るって言うなら。
 俺は夕方五時になったらお前からリマを受け取って逃げる。
 今、こいつを連れてっても外には出られそうにないからな」
 
 「賢明な判断だ。まぁ、取って食ったりはしないから、
 狭いが勝手にゆっくりしてろ」
 
 そう言って青年は床に大の字に横になった。
 そして、大きく欠伸をする。
 
 「寝るわけにはいかんが、俺も少し休むよ」
130 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:34:44.77 ID:9DIDK4U20
 そのまま黙り込んだ彼を黙って見つめ、
 ユージェンは静かにリマを自分の方に引き寄せた。
 
 そしてしっかりと床に腰を下ろす。
 
 強い、砂嵐の風がテントの強化素材がたわむほどの勢いで凪ぐ。
 
 リマはここに既に三日いた、と言った。
 
 先ほど咳き込んだのも、
 おそらく肺にいくらか砂が入り込んでしまっているためだろう。
 
 今の医療技術だったらそのような砂に関する疾患は、
 簡単に取り除くことが可能だが、それにはまず医者に診せなければいけない。
 
 ここでは完全な治療は無理だ。
 
 メルヘドが先ほど彼女に投与した薬は、単なる鎮痛剤と睡眠薬だった。
 
 (水、飲ませるんじゃなかったか)
 
 心の中で軽く息をついて、目を瞑る。
 
 ずっと水を飲んでいなくて、灼熱の中喉の粘膜が焼けたか、
 所々張り付いてしまっているのだろう。
131 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:36:11.87 ID:9DIDK4U20
 乾燥し過ぎると起きる典型的な症状だ。
 そんな状態のところに不意に水を含ませたら、かえって傷にしみてしまうか、
 ふやけて脆くなったところが裂けてしまうか、どちらかになる可能性もある。
 
 とりあえず鎮痛剤を与えてしばらく空気が綺麗なところで安静にさせておけば
 ある程度は収まるはずだ。
 
 そこまでを頭の中で確認して、息をつく。
 
 このユージェンという男が危険性がある人間であれば、
 多少手荒なことをしてででも黙らせるつもりだった。
 
 しかしどうやら、本当にただリマを助けにきたつもりらしい。
 
 彼が言っていることの大部分にも、
 メルヘドは知識として覚えがある部分が含まれていた。
 
 完全に信用するわけにはいかないが、嘘を言っていると言うわけでもない。
 
 寝転がりながらポケットの通信端末を手で転がす。
 
 この砂嵐では、電波が乱れて当分通信は無理だ。
 
 全く、普段は近くにいられると窮屈でたまらないのに、
 いざ援助が必要な時にはえてして接触が難しいものだ。
132 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:37:33.08 ID:9DIDK4U20
 メルヘドは先ほどのユージェンとリマの話を思い出し、
 聴こえないように小さく息をついた。
 
 彼らは、体の不浄を取り除くために供物になる者は五年間、
 地下に隔離されると言っていた。
 
 どのようにその対象が選ばれるかは分からないが、
 おそらく数年前に始まった儀式ではない。
 
 相当前から行われていたものだと考えられる。
 
 まさに、枯渇から脱しようとした人間が考え付いた、
 藁にもすがる典型的な疫神信仰だ。
 
 それが正しいとか、間違っているとか。
 
 それをメルヘドが言うことは出来なかった。
 
 無論一般的な人間社会の常識からすれば、
 そのような人一人の命を犠牲にするのは倒錯した行為だと、
 大部分の人間は言うだろう。
 
 しかしそう言えるのは、当事者ではない、ただ単なる『傍観者』に限定される。
133 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:38:50.31 ID:9DIDK4U20
 自分だけ安全なところで、影響を受けないところに存在する
 自称・識者だけがそのような意見を言うことが出来る。
 
 だが実際に、灼熱に住む者たちにとっては、違う。
 
 何にもまして、まず水が飲みたいのだ。
 
 飲まなければ死んでしまう。
 
 それは生存欲求であるし、
 生物が生きるうえで必ずもっている魂の本能だ。
 
 主観者として考えると、それを傍観者が非難することは出来ない。
 
 いや、元よりその環境における常識が違うために、
 非難することなど、そもそも許されていないのだ。
 
 人間とはそのような生き物で、その時、
 その場で構成されるそれぞれの主観的欲求が重なり合うことで構成されている。
 
 その意思はやがて一つになり、社会になり。
 
 内部では絶対的な一つの暗黙の正義を作り出す。
 
 それぞれが生きるために。
134 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:39:33.22 ID:9DIDK4U20
 この土地、サバルカンダでは、
 その理が五年に一度、巫女を生贄に捧げることだったのだろう。
 
 そこまで考えた時だった。大分時間が経っただろうか。
 
 薄ぼんやりとしてきた視界に、変わり映えのない砂の空間が映っている。
 
そんな中、静寂を控えめに破り、かすれたユージェンの声が彼の耳に届いた。

 「なぁ、龍祓いさんよ」
 
 「あ?」
 
 「一つ聞きたいことがあるんだけど」
 
 一拍置いて、メルヘドが答えないことを確認した後に、少年は続けた。
 
 「何でお前らは、水を出す、その龍って化け物を壊そうとしてるんだ?」
 
 聞かれて、寝転んだままメルヘドは言った。
 
 「何でそんなこと聞くの?」
135 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:40:22.50 ID:9DIDK4U20
 「水、お前だって腹いっぱい飲みたいんじゃないのか? 
 アカスアでも不足してるんだろ。
 利用しようとか、普通なら考えるぜ」
 
 少しの間、メルヘドは空を見上げていた。
 
 砂で覆われ、星が見えなくなった赤茶色の空間。
 
 汚れた空気を見つめて、やがて彼は淡々と口に出した。
 
 「簡単なことだ。龍が出した水は、安心して飲めないからな」
 
 「安心って……水は水だろ? 
 ここで降った雨まがいは、確かに変な形で冷たかったけど、
 溶かせばただの水だった。俺たちも上層で濾過されたそれを……」
 
 メルヘドは軽く息をついた。それは、諦めでも蔑みでも、
 どちらのため息でもなかった。
 
 ただ疲れたような、薄ぼんやりとした息を発した後彼は言った。
 
 「龍が出した水を飲んだ者は、龍になるんだよ」
136 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:41:11.12 ID:9DIDK4U20
 その何気ない言葉をすぐには理解することが出来ずに、
 ユージェンが一瞬ぽかんとする。
 
 そして彼は、慌てて言葉を続けた。
 
 「な、何だって?」
 
 「最も、それには分量があってな。
 二十四時間に一リットル、つまり千cc以上を三ヶ月を越えて
 摂取し続けると、七日後に発症する。
 発症する人間はそのうちの二割と、割かし稀だが、
 発症しなかった者も結構厄介でな。
 段々水をもっと、もっとと欲するようになる。
 それも龍が出した水……龍水をだ。
 これは摂取すればするほど、発症確率が高くなっていくものでな。
 抜けられない強制的な常用効果があるんだ。
 まぁ、それ以外は水と変わらんが」
 
 何でもないことのように、メルヘドは言っていた。
 しかし数瞬後、その言葉の意味を理解したユージェンが
 慌てて自分の口に手を当てる。
 
 「おい、吐くなよ。狭いんだからさ」
137 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:42:07.90 ID:9DIDK4U20
 「だってそんな話を聞かされたら気分が悪くなるのは当たり前だろ! 」
 
 「安心しろよ。千cc一日に飲まなきゃ普通の水と一切変わんねぇ」
 
 そこまで言って、メルヘドは再び上半身を起き上がらせると彼に向かって続けた。
 
 「だからアカスアは、全世界に鉄道を張って水を送ってる。
 世界で唯一、龍の干渉を受けていない水をだ。
 だがこっちはこっちで龍水の真逆の成分を持ってるものでな。
 どっちにしろ、一日二千cc以上は飲めないんだが、常用性はない。
 そして俺たちは、龍水を発する龍を、破壊して回ってるわけだ」
 
 「じゃあ一刻も早くここにいる龍をぶっ壊さなきゃいけないんじゃないか? 
 何のんびりしてんだよ! 」
 
 蒼白になった少年を見返して、青年は大きく欠伸をすると、
 背伸びをして背中の骨を何回か鳴らした。そしてまた大の字に寝転がる。
 
 「別に。そんな目くじら立てんでも、水みたいな貴重品を、
 人間側が配慮して節約すればいいだけの話だ。
 俺はそうも思うから、問答無用に破壊したりすることはしない」
 
 「何言ってんだ? 人間が危険にさらされてるんだろ。
 何で教えてやらないんだ?」
138 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:43:16.35 ID:9DIDK4U20
 「教える必要なんてない。どうせ教えても人間は水を飲む」
 
 淡白に彼の言葉を打ち消して、しばらく沈黙した後メルヘドは言った。
 
 「人が生きるうえで一番必要なものは、水だからな。
 水は、アカスア以外では精製できない。
 だから普通に考えると、世界中どこでも、
 アカスアから出荷されたもの以外を飲んでるわけはないんだ」
 
 「だが、知らずに飲んでる奴らだって大勢いるんじゃ」
 
 「盗賊のアンタさんは知らないだろうがな」
 
 そこまで言って、メルヘドは、マントの襟で自分の口元を覆った。
 
 「世界基準法っていう法律が、国際政府から出されててな。
 アカスア産以外の水を飲んではいけないことになってるんだよ」
 
 「……いや、それは、俺でも知ってるけど」
 
 段々と口ごもって、少年は寝転んだメルヘドを見た。
 
 「でも、買った水がアカスア産かどうかなんて分かるほうがおかしいだろ」
139 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:46:29.96 ID:9DIDK4U20
 「ああ。だから、言っても無駄なんだ。
 そもそも禁止されてる水を販売してる上層の法律違反者は、
 あくまでそれを隠そうとするし、
 俺たち龍祓いは表面見てるだけじゃ判断なんて出来ない。
 だから、俺がやってるみたいに一つのところに潜入して、
 判断するって訳だ。そこが危険か、危険じゃないかをな」
 
 そこで一旦言葉を止めて、最後にボソリと、メルヘドは言葉を付け足した。
 
 「第一、言ったところでどうなる? 
 水を飲むのをやめるか? 
 それとも、水を切り詰めて、もっと飲みたいからってアカスアを襲うか? 
 どっちかと聞かれたら、人間は絶対に節約したり、
 やめたりすることが出来ない生き物だ。
 悪いことじゃない。そもそもが欲で構成されてるのが人間だ。
 だから俺たちは公表をしない。
 こちらで迅速に発見し、こちらの判断で殲滅する。
 これが、龍祓いの仕事だよ」
 
 大分長いこと、テントの中には静寂が降ってきていた。
 
 外の風は段々と弱まってきたらしく、粉粒のように砂が舞い落ちてきている。
 
 上空何十メートルかに吹き上げられた埃が、風にあおられて舞っているのだ。
140 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:47:30.53 ID:9DIDK4U20
 「どうしてそんな話を俺に?」
 
 「隠してる訳じゃない。聞かれたから答えただけだ」
 
 ぶっきらぼうにそう返し、メルヘドは体を横に向かせた。
 
 「リマに言いたいんなら言いな。他の誰かに言いたいんなら、
 自由にしな。でも言ったところで何も変わらん。
 事実、アンタさんは明日も水を飲まなければ死んじまうわけだからな」
 
 「…………」
 
 「もうガキは安心して寝ろ。動きっぱなしだったから少し休ませてくれ」
 
 一言だけ言って、メルヘドは再び目を閉じた。
 
 風と、砂の音しか聞こえない空間。
 
 ユージェンは黙って足元のリマの頭を撫でた。
 
 その顔が僅かに悔しそうに歪み、そして彼女から目を離す。
 
 空を見上げて、少年は一つ、大きなため息をついた。
141 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:48:32.93 ID:9DIDK4U20


 少女が目を覚ましたのは、砂嵐が止んで大分経ってからのことだった。
 
 もう午後も過ぎた頃らしく日はほぼ傾き、
 日陰だった神殿の影にも太陽の突き刺さるような熱光が飛び込んできている。
 
 目を擦ってぼんやりとした焦点をあわせる。
 
 そこで彼女は、テントの中に誰もいないことに気づいて首をかしげた。
 
 そのまま上半身だけ起き上がり、
 僅かな喉の痛みに顔をしかめながら周りを見回す。
 
 ユージェンの荷物も、メルヘドのそれもない。
 
 テントの床には絨毯のようにうっすらと、
 入り口から入ってきたらしい砂が積もっていた。
 
 体についたそれを払いのけて、昨日のことを思い出そうとする。
 
 (確かメルヘドさんと喧嘩してて、途中で……)
142 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:49:15.41 ID:9DIDK4U20
 何だか脳の奥がぼんやりとしていて、上手く思い出せない。
 
 軽く頭を振って、
 リマは寝ている間に外れていたらしいマスクを元通りにかけなおした。
 
 そしてふらつきながらテントの外に這い出る。
 
 途端にフライパンの上のような熱気が体を襲い、一瞬彼女は硬直した。
 
 「おー、起きたか」
 
 そこでとぼけたような声をかけられて彼女は顔を上げた。
 
 日陰に、メルヘドがかったるそうに座っているのが見える。
 
 「早くこっちに来いよ。そこだと日差しが微妙に当たるぞ」
 
 言われて頷いて近づき、リマはメルヘドの隣に腰を下ろした。
 
 「具合はどうだ?」
 
 「ユージェンは?」
 
 問いに答えずに開口一番に聴くと、メルヘドは肩をすくめてそれに答えた。
143 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:49:57.29 ID:9DIDK4U20
 「あぁ、包囲網を突破する穴を見つけに行くんだと。
 夕方五時に、俺の警護時間が終わったらアンタさんを連れて
 ここを逃げるって粋がってたぞ。
 しかし、さすが盗賊だな。褒められた商売じゃねぇが、
 気配を消す術は達人級だ。うちの諜報員に欲しいくらいだ」
 
 しかし少女は僅かに表情を落とし、膝を抱えた。そして小さく呟く。
 
 「……私なんかに構わないで欲しいのに」
 
 「うざったいか?」
 
 何気ない風にメルヘドが聞くと、彼女は少し考え込んだ後に言った。
 
 「うん」
 
 「でも、構われないのはもっと辛いだろう」
 
 同じような調子でメルヘドは続けた。
 
 彼の言葉に返すことが出来ずに、リマが更に強く膝を抱える。
144 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:50:42.79 ID:9DIDK4U20
 青年は日陰から、地上のありとあらゆるものを
 焼き尽くそうとしている太陽を見つめていた。
 
 そんなに凝視したら瞳が焼けてしまうのではないかと言うくらい、
 彼は太陽を見ていた。
 
 「アンタさんたちを見てて、何故だか何となく思い出したんだけどな」
 
 「……何を?」
 
 「俺が生まれた頃にはなぁ、戦争しててな」
 
 ボソリ、とメルヘドは彼女の方を見ずに喋り出した。
 
 「戦争?」
 
 「ああ。戦争だ。見たことねぇだろ。
 水と、水の取り合いだ。取り合って騒ぎ立てるから、
 更に水が飲みたくなって理性がなくなってく。
 女も、子供も。勿論男だって、老若男女皆問わずに獣みたいになってな。
 ドロ水に何十万って値段がついた時代だ」
 
 「私……そんなこと知らない」
145 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:51:26.49 ID:9DIDK4U20
 「だろうな。ここからずっと、ずっと遠い場所でのことだ」
 
 端的に答えて、メルヘドは息をついた。
 
 「あん時、毎日思ってた。
 水なんてこの世からなくなっちまえばいいのにってな」
 
 「水が……?」
 
 「そうだ。水なんてなくなっちまえば、人間は取り合うこともなくなるし、
 獣みたいに騒ぐこともなくなるんじゃないかって。子供ながらに思ってたんだ」
 
 そこまで言って、メルヘドは乾いた顔でリマの方を向き、少しだけ笑った。
 
 「ま、実際は水がなくなっても人間ってのぁ喧嘩するんだけどな。
 色んな理由でさ。みんな自分が一番大事なんだ」
 
 熱い、風が吹いていた。前夜の砂嵐なんてなかったことのように、
 空気にはそよ風程度の動きしかなく、十メートル先には陽炎が揺らめいている。
 焼けて崩れた砂のパウダーが時折パッ、パッと舞い上がる。
 
 どこか現実ではないような、地獄の底の様な……
 しかしそれでいて、不思議と神秘的な光景だった。
146 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:52:00.49 ID:9DIDK4U20
 「でもアンタさんたちは幸せだな。あの頃の俺と、比べるとさ」
 
 「幸せ……?」
 
 「自分のことじゃなくて、他人のことを考えることができる。
 アンタさん、あの小僧に水をたらふく飲ませてやりてぇから、
 供物になろうとしてるんだろ?」
 
 淡々と聞かれて、リマは言葉に詰まったのか小さく唾を飲み込んだ。
 
 「水、飲みてぇもんな。この世界、誰でも」
 
 「…………」
 
 「あの小僧はでも、そんな水いらんと言うんだ。
 水なんて飲めなくていいから、アンタさんに死んでほしくないってさ」
 
 そこまで聞いて、リマは膝に顔をうずめて首を振って見せた。
 
 メルヘドが視線を向けると、地面を見つめながら口を開く。
 
 「でも、水飲まなかったら皆死ぬ」
 
 「……そうだなぁ」
147 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:52:44.01 ID:9DIDK4U20
 「上層が、ママが降らせた水に凄い値段つけてるから……
 ユージェンが盗んでも、盗んでも、全然足りないって言ってた。
 水をコップ一杯でも飲めれば、何十人も助かるって言ってた。
 私、何にも知らないし、バカだし。体だって弱いし。
 普通の女の子みたいに男の人喜ばせることも出来ない。
 でも、どんなに憎まれたっていいから喜んでもらいたいの」
 
 「誰に?」
 
 「それは……分かんない」
 
 またふるふると首を振り、彼女は囁くように続けた。
 まるでその言葉は、誰にも……周りの砂にも、太陽にも。
 
 そして神にも聞かせまいとしているかのような、かすれた囁きだった。
 
 「でも、私が死ぬことで喜んでくれる人が沢山いるなら、
 それが一番いいんだよ。きっと」
 
 「そっか」
 
 端的にメルヘドはそう返した。
 
 そしてしばらく沈黙して足元の砂を手で掴む。
148 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:53:21.48 ID:9DIDK4U20
 彼はしばらくサラサラと流れるそれを手で弄んでいたが、
 やがて自嘲気味に軽く笑って言った。
 
 「だがアンタさんが死んだら、あの小僧は死ぬほど悲しむと思うがな」
 
 「……悲しいのなんてすぐ消えるよ」
 
 ポツリとリマがそれに返す。
 
 メルヘドは呆れたようにため息をついて、
 手に持った砂を少し離れたところに放り投げた。
 
 放物線を描いて微小な飛沫が煙となって宙に散る。
 
 「悲しいのは一生消えないぞ」
 
 何気なく発せられた否定の言葉だった。
 
 やんわりと、相手の言葉を受け流すかはぐらかすかしていたメルヘドの、
 初めて真っ向から弾く言葉だった。
 
 「……え?」
149 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:54:03.29 ID:9DIDK4U20
「悲しみは、心に刻まれたら一生消えない。
消そうと思っても、フライパンの焦げ目みてぇに奥まで入り込んで消えやしねぇ。
だがその反面喜びなんてすぐ消える。
三秒で人はそんなもん忘れる。
だから、人を心から悲しませることは簡単だが、
心の底から喜ばせることは凄く……凄く難しいことなんだ」

 「そうなの?」
 
 「ああ……そして死ぬってことは、その悲しみとか喜びとか。
 そういう全てが、ない世界に行くことだ」
 
 小さく息を切って、彼はもう一度足元の砂を掴んだ。
 
 「人の思いってのは、相手があって初めて存在するもんだ。
 死んじまって全てがなくなったら、誰がどう喜ぼうが、関係ないと俺は思うがね。
 アンタさんの好きなユージェン君が喜んでるかどうかも、
 確認なんて出来ないんだ。多分な」
150 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:54:57.07 ID:9DIDK4U20
 そこまで言ってメルヘドは言葉を止めてもう一度砂を前の方に投げた。
 
 光がそれぞれの飛沫に当たってキラキラと光る。
 
 リマはしばらくその煙を黙って見つめていたが、
 やがて自分も砂を掴んで前の方に放った。
 
 「……ねぇ、一つ教えてよ」
 
 「何だ?」
 
 「メルヘドさんは、ママを殺すの? 
 五時になって、私を守る依頼が終わったら」
 
 囁くように少女が聞く。
 
 メルヘドは少し考え込むと、腰に下げたなまくら刀を軋ませて答えた。
 
 「龍に喰われるってことがどういうことか、知ってるか?」
 
 黙って首を振った彼女を見て、
 少し迷った後メルヘドはしかしはっきりとした調子で続けた。
151 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:55:45.71 ID:9DIDK4U20
 「龍そのものになるんじゃない。
 確かに龍になることはなるが、それは一部分としてだ。
 喰われた人間は、水の原料にされる」
 
 弾かれたように顔を上げて、リマが目を見開く。
 
 「原料……?」
 
 「人間を喰うことで、龍は一定期間水を出す。
 ここに住む者たちが日ごろ飲んでたのは、
 リマ、アンタさんの母ちゃんなんだよ」
 
 淡々と聞かせられた言葉が、しかし少女に与えた衝撃は大きかった。
 座ったままの彼女の体の力が抜け、そのまま地面にへたり込む。
 
 「ママのことを……」
 
 「だから、ある意味ではリマの言葉は間違いじゃないと俺は言った。
 アンタさんの母ちゃんは神にはなれなかったが、
 アンタさんたち全員を今日まで生かしてきたんだ。
 どうせアカスアからの配給水は全部上層に持っていかれて、下
 層になんて僅かしか回ってこねぇからな……
 値段が高いと言え、下層で普通に販売されてるのは、そのおかげに他ならない」
152 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:56:36.88 ID:9DIDK4U20
 言葉を失っている少女を見ずに、メルヘドは軽く首の骨を鳴らした。
 
 「だから、俺ぁアンタさんの母ちゃんは殺せない。
 現実、もう死んじまってる」
 
 淡白な言葉だった。まるで、死体から発せられているかのような
 抑揚のないフレーズ。
 
 俯いた少女を一瞥し、彼は息をついてから言った。
 
 「知ってたんだろ?」
 
 風が吹く音がする。
 
 遠くで、戦車がキャタピラを回す音も、聞こえる。
 
 砂漠では空気の揺らめきが少ない故に、遠くの音が良く聞こえるのだ。
 
 おそらく、昨日のユージェンの襲撃により、警備を強化したのだろう。
 
 不安なのだ。
 
 自分達を富ませ、潤わせる要素が奪われてしまうことが。
153 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:57:46.17 ID:9DIDK4U20
誰だってそうだ。自分の命と他人の命だったら、
普通は自分の命をとるだろう。

 だがそれは満足している人間に限ったこと。
 
 人間は、満足すればするほど、もっと満足を求める。
 
 そういう終わりのないスパイラルを作り出す矛盾した、愚かな生き物。
 
 それこそが人間。だから……それが本質だから、メルヘドには目の前で
 起こっていることが間違いだとか、非人道的だとか。
 
 そういうことを言うことが出来なかった。
 
 大分経って、キャタピラの錆びた動作音を聞きながらリマがポツリと言った。
 
 「……うん。うっすらとは思ってたけど。そう思わないようにしてた」
 
 「そうか。まぁ、そもそも人間は神になんてなれない。
 神になれないから、人間なんだ。
 そして神さんは、あの小僧が言うとおりに人間なんて
 喰わなくても雨を降らせる。見たことはないけど、多分な」
 
 「……そうだね」
154 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:58:32.37 ID:9DIDK4U20
 寂しそうに呟いて、
 彼女は日差しから目をそむけるように更に深く俯いた。
 
 「ママがいなくなって、一番最初に飲んだ水から、ママの匂いがした」
 
 その言葉を聞いて、初めてメルヘドが言葉を止めた。
 
 「だから、うっすらとはそう思ってたんだ。でも……」
 
 最後の声は掠れて消えた。力の抜けた両手を目に当て、
 少女がやつれたしゃっくりを挙げる。
 
 乾いた顔を抑えた手は乾燥して僅かに骨が浮き出ていた。
 
 「やっぱり他の人に何回も言われると、辛いなぁ」
 
 手で押さえた少女の目から、薄く、透明な水の筋が垂れる。
 
 「カラカラでも、涙って出るんだねぇ」
 
 寂しそうにリマが呟く。
 
 メルヘドは彼女から視線をそらすと、息をついて答えた。
 
 「人間だからな」
155 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 00:59:25.12 ID:9DIDK4U20
 「これからどうすればいいの?」
 
 「さぁな? どっちにしろ、三ヶ月以上、一日千cc以上の龍が出した水を
 飲み続けなきゃ龍になる確率はないし。
 アンタさんが神さまにはなれんよ。でも」
 
 言葉を止め、青年が少女を見下ろす。
 
 「悲しいの無視しても、水になってあの小僧を喜ばせたいんだったら、止めないよ。
 俺ぁ、龍が雪を降らせ止むまで待つ」
 
 「どうして?」
 
 「アンタさん達みたいな人間は、嫌いじゃないからな。
 どうするかは、リマが決めればいい。俺はどっちだって構わない」
 
 そう言ってメルヘドは黙って空を見上げた。
 
 それっきり、彼は口をつぐんだ。言葉を発することもなく、
 空気を揺らめかせて光を降り注がせる太陽を見つめる。
 
リマは息をついて、また自分の膝を抱えた。

 「……分かんない」
156 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:00:23.85 ID:9DIDK4U20
 「そっか」
 
短く答えて、メルヘドは何気なく少し離れた場所に目をやった。

 戦車が、確認できるだけで十数台も配置されていた。
 
 しかも今度は、遠目に見てはっきり分かるほどの接近戦使用だった。
 
 前部に突貫用の鉄柵が取り付けてあり、長距離砲台の代わりに銃座には
 小型の機関銃が設置されている。
 
 おそらく、スコープもある程度の砂塵を透過するタイプのものなのだろう。
 
 (もうゴーレムは壊れてるのにご苦労なこった)
 
 心の中でそう思いながら、メルヘドは内心少々戸惑っていた。
 
 疫神信仰を相手にするのはコレが初めてではない。
 
 しかし、ここまで厳重な警備でこの少女を捧げようとする精神を
 目の当たりにしたのは、体験したことがないことだった。
 
 言うなれば全員で必死になって一人の幼い子供を殺そうとしている。
 
 それも、自分たち自身のためにだ。
157 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:01:09.43 ID:9DIDK4U20
 そして捧げられる対象は、自身でそれを望んでしまっている。
 
 それが正しいか、間違っているか。そんなことは分からないが。
 
 メルヘドはその世界からは完全に隔離されていた。
 
 自分自身の知らない世界、知らない法律、知らない常識。
 
 全て人間が生きるために、生かすために。
 
 自分達で再構築していく社会基盤。
 
 疫神信仰の対象を壊すというのは、
 それそのものを破壊することに他ならない。
 
 無論、今のリマへのように事情を知っている者が
 こと細かく説明すればいいのだろう。
 
 しかし、それで何人の人間が納得するだろうか。
 
 何人が信じるだろうか。
 
 自分達が生きるために利用している対象を破壊すると言う
 余所者のことを、誰が支持するだろうか。
158 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:01:58.73 ID:9DIDK4U20
 現に今、リマは相当な不信感をメルヘドに抱いているはずだった。
 
 今まで一途に信じてきたものが簡単に言葉によって覆されようとしているのだ。
 
 信じていいか、信じて悪いかなんて一個の人間には
 判断はつけられない事象なのかもしれない。
 
 でもだからと言って集団に判断を任せると、
 自分たちの保存をまず優先する。
 
 それが人間だ。
 
 何となく動き回っている戦車を見ながら、メルヘドはそう考えた。
 
 リマが何と言おうが、龍は破壊するつもりだった。
 
 元々キャラバンから外れて行動していたのもその方が
 目立たずに破壊対象に接近できるからだ。
 
 その破壊対象を祭っている者から依頼が入ったのは想定して
 いなかったことだが、結果的に狙い通りの配置につくことが出来ている。
 
 いつも通りなら、雨を降らせる前にその龍を破壊して、
 アカスアに帰還。それだけだ。
159 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:03:02.84 ID:9DIDK4U20
 それだけなのだが……。
 
 どことなく、メルヘドは行動を起こす気になれなかった。
 
 人間と化け物の境目なんて、本当にあってないようなものだ。
 
 そして、人間は人間であることそれ自体が、必ずしも幸せであるとは限らない。
 
 龍になれば、水に枯渇することはない。
 
 熱に狂わされることもない。
 
 焼かれて、乾燥した皮膚がはがれることも、足の裏に水ぶくれが出来ることもない。
 
 おおよその人間が争いを起こす、全ての要素が龍には存在しない。
 
 一個の個体として、群れなくても単一で生存していける生命体だからだ。
 
 水だって同じだ。
 
 それに命があるとするなら、水にされた人間は枯れることも、腹を空かせることさえもなくなる。
 
 それどころか生きているときには不可能な、他人を潤わせるということも可能になる。
 
 死んでいようが、生きていようが、それは残念ながら事実だった。
160 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:03:46.54 ID:9DIDK4U20
 だから、メルヘドは自分自身の主観的な常識だけで
 行動を起こすことが何となく出来なかった。
 
 息を吸って、自分の腰に下げたなまくら刀の柄に手をかける。
 
 それをまさぐりつつ、考え込んだ時だった。
 
 「メルヘドさん、あれ……」
 
 不意にリマが声を上げた。
 
 釣られて顔を上げて、口を開く。
 
 「どうした?」
 
 「あそこ。何か、変だよ?」
 
 言われて砂漠の一角に目をやる。
 
 戦車に囲まれている円形エリアの内側部分、
 丁度数十メートル離れた場所の砂漠がゆっくりと、
 流動的に動いているのが見えた。
161 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:04:40.65 ID:9DIDK4U20
 風に吹かれて流れているかのような、何気ない動き。
 
 だがメルヘドは唾で指先を湿らせると、黙ってそれを頭の上にかざした。
 
 指に当たる風の向きを確認し、その流れが真逆に進んでいることを目に留める。
 
 「何だァ、ありゃ」
 
 思わずそう呟いていた。
 
 その流れは段々と渦のように形を変えていっていた。
 
 ゆっくり、ゆっくりと、良く見ていなければ分からないくらいの速度で、
 砂鉄が磁石にひきつけられるような感覚で動いている。
 
 立ち上がって、リマを背後にして腰を落とす。
 
 座っていたときには分からなかったが、彼の目に映ったのは異様な光景だった、
 
 浅く、すり鉢上の紋様が砂漠に広がっている。
 
 大きさは直径でおよそ三十メートル近くはあるだろうか。
 
 それがじりじりと回転しながら、拡大しているのだ。
162 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:05:23.42 ID:9DIDK4U20
 ポケットから通信端末を取り出し、スイッチを入れようとする。
 
 しかし機械は僅かに電子音をさせただけで動作することはなかった。
 
 軽く舌打ちをし、乱暴にリマの腕をつかむ。
 
 「ここを離れるぞ」
 
 短く言って無理やり彼女を立たせる。
 
 「ど、どうしたの?」
 
 「龍だ。ご丁寧に電子機器の動作を狂わせる電波まで放出してやがる」
 
 息を呑んだ彼女の手を引いて、崩れかけた神殿の奥に入っていく。
 
 空を見上げると、太陽は既に中天に差し掛かっているところだった。
 
 まだ、夕方五時までは半日程度残っている。
 
 「あのタヌキ親父、騙しやがった」
 
 奥歯を噛み締めてメルヘドは口に出して呟いていた。
163 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:06:13.64 ID:9DIDK4U20
 あの戦車は、ユージェン達盗賊団を警戒して
 配置されているものではなかった。
 
 おそらく……リマ、そしてメルヘドを逃がさないために囲っている、包囲網。
 
 そして、おそらく龍が生贄と、そしてそこにいる者を喰らいに地上に出てくるのは
 夕方五時よりもっと、もっと早い時間。
 
 そうだ、おそらく全てを知った上でサバルカンダ政府は、
 アカスアの派遣員であるメルヘドをもろとも生贄に捧げようとしている。
 
 神の正体を見られて返すわけにはいかないと、そういうことなのだろう。
 
 本部には盗賊に殺されたとか何とか、適当な言い訳をしておけばいい。
 
 置かれている状況とは裏腹に、メルヘドは心の中で不気味に歪んだ笑みを発した。
 
 むしろ、こういう風にことが進むと、やりやすい。
 
 この少女みたいに無抵抗なのが一番厄介だ。
 
 そうだ、向かって来い。
 
 自分自身を保持するために、なりふり構わず向かって来い。
164 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:07:06.11 ID:9DIDK4U20
 それが人間だ。
 
 神殿の崩れかけた壁裏にリマを連れて行くと、
 メルヘドは引きずるように彼女を壁脇に押し付けた。
 
 小さな叫び声をあげて少女が抗議の声を出す。
 
 「何するの! 龍が……龍が来てるんでしょう?」
 
 「ああ」
 
 短く答えて、青年は黙って砂漠の向こうに目をやった。
 
 こう空気が熱をはらんでいては、蜃気楼での歪みを除いて
 一キロ先まで丸見えだ。
 
 視線を遮る障害物も、夜になってくれば巻き上がる砂嵐も今はない。
 
 むやみに出て行っては、戦車に補足されるのがオチだ。
 
 だが……戦車の包囲網が近すぎる。
 
 「あれじゃあ、あいつらまで引きずり込まれるぞ」
165 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:07:46.06 ID:9DIDK4U20
 小さく呟くと、リマが一拍置いて顔面を蒼白にさせて
 メルヘドのマントに取りすがった。
 
 「ユージェンは? ユージェンはどこにいるの?」
 
 「うざったいんじゃなかったのか?」
 
 怪訝そうに聞き返すと、彼女は少しだけ息を飲んだが、
 もう一度強く繰り返した。
 
 「戦車の包囲網を抜ける道を探すって言ってたよね? 
 このままじゃ、龍の方にも、戦車のほうにもあの人、挟み撃ちにされちゃう」
 
 「大丈夫だ。あいつは一時間以上前に包囲網を抜けてる。
 多分街まで仲間かなんかを呼びに言ったんだな。問題なのはこっちだ」
 
 聞くと、少女が少し置いて理解し、大きく息をつく。
 
 そしてリマはメルヘドの顔を見上げた。
 
 「メルヘドさん、聞いて」

 「何だよ後にしろよ」
166 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:08:35.90 ID:9DIDK4U20
 「今じゃなきゃ駄目なの」
 
 打ち消されて、気おされる形で青年が口をつぐむ。
 
 「私決めた」
 
 「…………?」
 
 「私、水になる。考えたけど、ママが死んじゃってても。
 神様がただの化け物だったとしても、
 私が水になれることは間違いないことだから。だから、なる」
 
 「そっか」
 
 どうでもよさそうに軽く返事をして、
 メルヘドは腰の刀をガンブラスターから抜き放った。
 
 そして背中を猫のように丸めながら、ゆるりと砂漠に向けて構える。
 
 「大層なことだな」
 
 「私が水になれば済むんでしょ? 
 ユージェンがいないなら、邪魔する人もいないし……
 それに、メルヘドさんまでこんなことされる必要もなくなるし……」
167 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:09:23.03 ID:9DIDK4U20
 「折角一生懸命言ってもらった言葉だってのは分かるが、
 俺に関しては完全にノープロブレムだ。
 こういう状況は、慣れまくってる」
 
 そこまで言って、メルヘドは、
 しかしリマの方を振り向いて軽く乾いた笑みを発した。
 
 「まぁそう決めたんならそうすればいいさ。
 だが、今はアンタさんを水にするわけにはいかんな」
 
 「え?」
 
 投げかけられた言葉にすぐに反応することも出来ず、
 少女が一旦停止する。そして彼女は唾を飲み込んで続けた。
 
 「どうして? だって、さっき私の好きなようにすればいいって」
 
 「ああ。夕方五時を過ぎたら好きにすればいい。
 俺はリマ、アンタさんを守るようにって命令されてるんだよ。
 だから、それまでは何が何でも生き延びてもらう」
 
 「そんな……」
 
 「悪いが、俺ァバカだから、命令だけは絶対に守るんだ」
168 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:10:09.61 ID:9DIDK4U20
 その言葉には、彼の強い意思が込められていた。
 
 淡々とした喋り口調の端に滲む、意見を寄せ付けない機械的な冷たさ。
 
 それを感じて、リマが口をつぐむ。
 
 「依頼時間が終わって、その上で死にたいなら勝手に死んでくれ。
 だが時間が終わっていないのに俺の仕事の邪魔をすることは、許さない」
 
 短く言い放って、彼はボロボロに欠けているなまくら刀をもう一度握りなおした。
 
 そして周りを見回す。
 
 蟻地獄のような砂の渦は、先ほどよりも大きくなっていた。
 
 神殿に段々と縁が近づいてきている。
 
 音もなく、巻き上がる砂もなく、目に留めなければ気づかないほどの
 僅かな動きで着々と広がっている渦。
 
 それは異様な光景だった。
 
 「下がってろ」
169 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:11:00.67 ID:9DIDK4U20
 一言言って、青年は足を踏み出した。
 
 そして神殿から姿を現す。
 
 ゆっくりと渦に向かって歩みを進め始めた彼を確認したのか、
 前方の戦車から拡声器で増幅された声が辺りに響き渡った。
 
 『龍祓いに告ぐ。即刻神殿に戻り、そのまま待機せよ。
 命令が聞き届けられなかった場合、こちらは実力行使に移させていただく』
 
 しかしメルヘドは歩みを止めなかった。
 
 生ぬるい風を受けて彼のマントが大きくはためく。
 
 灼熱の太陽を浴びながら、青年の白髪がパサついた音を立てた。
 
 右手に持った刀を静かに握り締め、彼はそれを逆手に持ち替えた。
 
 『警告はもう一度しかしない。
 下がれ。命令が聞き届けられなかった場合、実力行使に移る! 』
 
 しかし、止まらない。どこか歩みを続ける彼の姿は、
 熱気で歪む砂漠の上で、まるで亡霊のようにくっきりと浮かび上がっていた。
170 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:11:48.78 ID:9DIDK4U20
 その次の瞬間、声を発していた戦車の機関砲が唐突に発砲した。
 
 乾いた空気をつんざく音が鳴り響き、反響する。
 
 一秒間に十数発の弾丸をためらいもなく、目の前の人影に発射した戦車は、
 さすがに僅かに戸惑ったのかキャタピラを回転させ、後退した。
 
 しかし、銃弾が突き刺さり、砂煙が舞い上がった地点のそれが
 ゆっくり晴れていくと、周りの者達は目を疑った。
 
 そこにいたのは、機関銃に蜂の巣にされた人間の亡骸ではなかった。
 
 血の痕も、飛び散った肉片もそこには存在していなかった。
 
 ただ先ほどと同じ、猫背の姿勢でゆるりとメルヘドは立っていた。
 
 煙が吹き上がる先ほどと唯一つ違ったのは、
 彼が右手に持つなまくら刀が片手で正面に構えられていたことだった。
 
 その青年の体の脇。
 
 数メートルほど後ろの砂に、
 今だ僅かに回転している黒色の塊が何十個も突き刺さっている。
171 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:12:34.52 ID:9DIDK4U20
 銃弾。誰もが、その事実に気づくのには数秒の時間を要した。
 
 「断る。俺の頭ん中に予約は二つしか入らねぇんでな」
 
 淡々と彼が口を開く。
 
 そして砂を踏みしめ、また歩き出した人影を見て、
 周囲の人間の恐怖が爆発した。
 
 元々、龍祓いとは一般に対して何を行っているのかわからない不確定な集団だった。
 
 ただ用心棒的なことをしているという噂があれば、
 また地方警察的な動きをしていたという話もある。
 
 しかし、そのいずれにも共通していること。
 
 それは、龍祓いは全員、人間にはありえない力を持っているといった噂だった。
 
 『と、止まれ! 』
 
 震える声で目の前の戦車が叫ぶ。
172 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:13:24.64 ID:9DIDK4U20
 彼らにしてみれば、どうせ龍に吸収される予定の人間が一人増えても、
 大したことではない。
 
 だからここでメルヘドを射殺してもなんら問題はない……ずだった。
 
 「断る」
 
 もう一度繰り返して、青年が前方の戦車を、
 まるで小動物を威嚇するかのように睨みつける。
 
 その矢のような視線が突き刺さった途端、
 戦車内の人間が恐怖の叫び声を上げて機関銃の引き金を引いた。
 
 だが、視認することも出来ない速度で飛来した銃弾に対し、
 メルヘドは如何なる回避行動もとらなかった。
 
 頭で考えるより早く右手が動き、
 なまくら刀を顔の前で上段から地面に振り下ろす。
 
 それは刀圧だった。彼が振り上げてから振り下ろすまで、
 およそ一秒未満。
 
 人間ではありえない反射速度で振りぬかれた刀は、
 勢いよく砂漠の砂に突き刺さると爆発したかのように砂を周囲に吹き上げた。
173 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:14:12.33 ID:9DIDK4U20
 そして刀が起こした風に薙ぎ払われる形で、
 機関銃の銃弾がそれて彼の脇に着弾する。
 
 噴き上がる砂しぶきの中から、亡者のようにゆらゆらとメルヘドが姿を現す。
 
 そして彼は、やる気のない瞳を一瞬だけ鈍く輝かせると、
 強く足元の砂漠を蹴った。
 
 次の瞬間、全く無傷の青年が空中に踊りあがった。
 
 人間の跳躍力ではなかった。三メートル、五メートル。
 
 軽々と人三人分くらいの高さに飛び上がり、
 彼は眼下の蟻地獄を踏み越えと、自分に向かって発砲した
 戦車の真正面に降り立った。
 
 柔らかくではない、重低音をたて、また砂を巻き上げながら、
 猫のように両手両足をついて着地する。
 
 そして彼は、その場の誰もが反応するより先に、
 右手に握り締めたなまくら刀を力いっぱい振りぬいた。
 
 それは鋼鉄の兵器に打ち当たると……次の瞬間、あっさりと、
 まるで発砲スチロールのように突撃柵を砕きぬいた。
174 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:15:02.08 ID:9DIDK4U20
 今にも崩れて折れ曲がりそうな刀。
 
 しかし震えるでもなく、ただ黒光りしているそれが
 地面に突き刺さると同時に、二十トン以上ある戦車が
 数メートルも後ろに弾き飛ばされる。
 
 「俺に二回も発射しやがったからな」
 
 短く呟き、青年は軽く飛び上がり、戦車の上部に乗り移った。
 
 そして取り付けられた機関砲に近づくと、
 何のためらいもなく刀をそれに叩きつける。
 
 間髪をおいている時間はなかった。
 
 青年の乱暴すぎる行動は、機関銃の弾丸に使用されている火薬に引火し、
 機械内での暴発を巻き起こした。
 
 火柱を上げて機関砲が吹き飛んだのに続いて、メルヘドの姿が宙を舞う。
 
 そのまま砂漠を何度か転がり、彼は砲門が完全に
 欠落して動きを止めた戦車に目をやった。
175 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:15:39.97 ID:9DIDK4U20
 周囲の戦車は全て、予想外すぎる彼の行動に反応できていなかった。
 
 おそらくメルヘドが叩いたものが隊長機だったのだろう。
 
 爆発の衝撃でパイロットが気絶でもしたのか、
 拡声器で拡張された声も響いてこない。
 
 『抵抗とみなし、射殺する! 』
 
 何拍か置いて、少し離れた場所にいた戦車砲から声が響いた。
 
 「随分と身勝手な連中だな」
 
 吐き捨てるように呟き、メルヘドが刀を持ち直した瞬間だった。
 
 突然、彼らの足元に広がる蟻地獄が空気がうなる音を
 立てて急激に展開を始めた。
 
 周囲の砂が漏斗状になった中心部に次々と吸い込まれていき、
 渦巻きのように回転を始める。
 
 後方に飛び上がり、足元まで広がった円の淵を
 避けてからメルヘドは大声を発した。
176 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:16:28.92 ID:9DIDK4U20
 「……んなことしてる場合じゃねぇ! 
 アンタさんら、とっととここから離れろ。引きずり込まれるぞ! 」
 
 しかし間髪を置かずに返ってきたのは銃声だった。
 
 メルヘドを取り囲む戦車の三台が、一斉に機関砲を発射する。
 
 何度か砂漠を跳ねるように後転し、
 彼は銃弾を軽々と避けつつ目の前の光景を見つめた。
 
 (でかい)
 
 心の中でふと、そう思う。
 
 そして地面に着地すると同時に、右手の刀を脇から脇へ、
 白い気流の唸りを上げて振り抜いた。
 
 何も分からない者が見た場合、一瞬で刀の持ち手が逆になったと言う
 錯覚を受けるほどの速度。
 
 空気を切る小さな白い衝撃音を残して、
 彼の前方に盛り上がった空気の渦が発生する。
 
 それに薙ぎ払われる形で、飛来していた銃弾が脇に逸れ、
 虚しく砂漠に着弾する。
177 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:17:16.50 ID:9DIDK4U20
 「分かんねぇ奴らだな……離れろ! 」
 
 しかしそれでも尚怒鳴ったメルヘドの目の前で、
 先ほど動きを止めた戦車が砂の中に飲み込まれた。
 
 巨大な鉄の塊が、ズブズブと眼下の砂漠に沈没していく
 有様を見て、やっと周囲の戦車群が動きを止める。
 
 『……な、何だ……砂、砂が! 』
 
 その時、引きずり込まれている戦車から乗組員の絶叫が響いた。
 
 『砂がぁ! ひぃぃ! 』
 
 ボヅッ、という不気味な音を立てて、それきり声が途絶える。
 
 おそらく拡声器に砂が入り込んで壊れたのだろう。
 
 次いで、最も蟻地獄に近い戦車が二台、
 小さな揺れと共に漏斗の底へと滑り込んだ。
 
 「だから離れろって言ってんだろ! 」
178 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:18:07.91 ID:9DIDK4U20
 メルヘドの怒鳴り声を受けて、
 包囲網を形作っていた戦車達がやっと後退を始める。
 
 目の前の蟻地獄は、音も何も発していなかった。
 
 ただ、ゆっくり着実に広がっていく。
 
 砂を飲み込み、三台の戦車にその砂が絡みついていく。
 
 そして次の瞬間、それらは唐突に漏斗の底に消えた。
 
 「これだけやりゃそろそろ起きてくるとは思ってたけど。でけぇなコレ」
 
 淡々とメルヘドが呟く。
 
 今や蟻地獄の直径は七十メートル近く広がっていた。
 
 深さはおよそ十メートルにものぼるだろうか。
 
 その回転の渦の中心、漏斗の底に、白い牙のようなものが見える。
 
 それは、この砂漠の真下に、何か巨大な異形が潜んでいることを
 少なからずとも暗示させていた。
179 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:18:57.48 ID:9DIDK4U20
 軽く舌打ちをして、また足元に迫ってきた穴の淵から数歩離れる。
 
 これくらいの大きさの蟻地獄を作り出す個体。
 
 生半可なサイズではない。
 
 メルヘドが知っている『蠍蜘蛛』というタイプの龍は、こ
 のようにして砂に引きずり込み、人間を吸収しようとする。
 
 そこまでの知識はあった。
 
 蠍蜘蛛の特性は、罠を貼ることと、何かに擬態すること。
 
 この場合、この龍は土地の神に擬態している。
 
 罠は、この蟻地獄。しかし彼の知っている蠍蜘蛛は、
 せいぜい自分の大きさの二分の一程度しか蟻地獄を作れないはずだ。
 
 ……と、考えるとこの下に埋まっている本体は
 およそほぼ百五十メートルに達する巨大なもの……ということになる。
 
 百五十メートル。想像もつかない巨体だ。
 
 大きさで言うと、上層にある五階建てのビルよりも大きい。
180 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:19:52.36 ID:9DIDK4U20
 この神殿の墓石から地下の巣に続いている通路があったが、
 降りていかなくて正解だった。
 
 いくらなんでもそこまで巨大な龍が潜んでいるとは考えていなかったからだ。
 
 神殿の方に後退していくと、蟻地獄の中心から、
 ゆっくりと人間の頭蓋骨のようなものが競りあがってきた。
 
 三メートル以上の大きさをした、巨大な頭骨。
 
 頂点に剣のような角を一本天に向かって突き立てている。
 
 それの根元に、まるで縄のように絡み合った筋がくっついていた。
 
 紐の先端に頭蓋骨がついているような感覚。
 
 その頭部を地上に露出させると、
 
 蠍蜘蛛は強烈な太陽の光を浴びて褐色の口腔を裂けんばかりに開いた。
 
 次いで耳に飛び込んできたのは、声ではなかった。
 
 音。それも、貴金属を擦り合わせるような耳障りな高音。
181 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:20:34.89 ID:9DIDK4U20
 脳核を揺らすそれを受け、眉をしかめたメルヘドの目の前で、
 今までの静寂が嘘であるかのように、
 唐突に蟻地獄が天に向かって吹き上がった。
 
 それは、砂の滝だった。地上から天に向かって
 撃ち上げられるありえない本流。
 
 一瞬視界が真っ黒くなるほどに渦を巻いた砂が周囲に飛散する。
 
 散弾のようなそれから顔面を守った彼の目に、
 その砂滝の中から何かが飛び出してきたのが見えた。
 
 反応するのが少し遅れて、瞬く間にそれに胴をからめとられる。
 
 そのまま重機のような力で空中に持ち上げられ、
 彼は頭を振って目に入り込んだ砂を無理やり外に排出した。
 
 メルヘドの胴体をからみ取っていたのは、真っ白い綱のようなものだった。
 
 いや、コードと言った方がいいだろうか。
 
 電子機器を繋ぐ役割をする、それがぐるぐる巻きになっている。
182 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:21:17.68 ID:9DIDK4U20
 先端部分には鳥の爪のようなものが三つついていて、
 しっかりとマントの上から彼の肩を掴んでいた。
 
 それが蠍蜘蛛の触手だと気づくより前に、
 青年は上空十メートル以上の高さから勢いよく眼下の砂漠に投げ飛ばされていた。
 
 弾丸のように小さな人影が吹き飛んで、砂漠を抉って砂煙を上げる。
 
 しかし、地面に叩きつけられたはずのメルヘドはまるで
 何も起こらなかったかのように平然と立ち上がった。
 
 落下の際に地面と生じた摩擦熱で、所々のマントが赤茶けて破れている。
 
 しかしむき出しになった彼の肌は傷一つ負っていない。
 
 むしろ盛り上がる筋肉の肉感は、どこか狂気を感じさせる迫力を含有していた。
 
 バラバラと降り落ちる砂の塊の中から、蟻地獄の中に隠れていたモノが姿を現す。
 
 それの外見は、蠍だった。
 
 いびつな形をした、真っ白い蠍。
 
 端から端が、見えない。小山のようだ。
183 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:22:08.35 ID:9DIDK4U20
 何千何億という砂の粒を下に垂れ流しながら、
 異形の怪物が地面から体をせり上げる。
 
 頭蓋骨のようなものがついている部分は、
 丁度蠍の尻尾に当たる部分だった。
 
 鞭のようにそれをしならせながら、暗い眼窟がメルヘドを捉える。
 
 龍が姿を現しているのは、おそらく全体の三分の一に過ぎない。
 
 メルヘドの足元……いや、おそらくリマがいる神殿の地下までもに及ぶ本体があるのだろう。
 
 地上に出てきたのは捕食、そして外敵の駆除に当たるための機関だ。
 
 蠍の背部にあたる部分から、毛のように先ほど伸ばしてきたコード型触手を
 揺らめかせながら、蠍蜘蛛が動きを止める。
 
 周囲の戦車は、皆動きがなかった。
 
 おそらく自分達の目でこの怪物を見るのは初めてのことなのだろう。
 
 驚愕と、そして恐れから動きが止まっているのだろう……と、メルヘドは解釈した。
 
 しかし、その考えは間違っていることに彼はすぐに気づいた。
184 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:22:52.39 ID:9DIDK4U20
 戦車に乗っている者の一人がハッチを空けて外に出てきたのだ。
 
 そこから蠍蜘蛛までは十メートルも離れていない。
 
 「バカ野郎何やってんだコラ! 」
 
 青年の叫びなど聞こえていないかのように、
 パイロットの男は戦車の上に膝を折ると、深々と龍に対して頭を下げた。
 
 その異常な行動は次々と伝染していくかのように広がっていった。
 
 次々と戦車が動きを止め、中の者達が上部に登り、頭を深く下げる。
 
 化け物に土下座している。
 
 メルヘドには、そう見える。
 
 しかし彼らにとっては違うのだ。
 
 小さいころから……そう、産まれる前から言い伝えられているその土地の
 『雨を降らす神』が、言い伝えられている通りの姿で目の前に現れたのだ。
 
 彼らは、ただ信仰しているだけに過ぎない。
185 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:23:30.41 ID:9DIDK4U20
 狂っているのではない。
 
 それが、彼らの常識であり、信じてきたものなのだ。
 
 「狂ってる……」
 
 どうしようもない怒りを吐き捨て、
 メルヘドはなまくら刀を逆手に構えた。その時だった。
 
 (……アブソバル、ノ、キバ……)
 
 唐突にメルヘドの耳の奥……鼓膜よりも更に奥の、
 脳の中枢に近い部分に鉄版を爪で引っかくような声が響いた。
 
 それは微かな音だったが、全身を悪寒が駆け巡り、彼が唇を強く噛む。
 
 (オマエ……アブソ、バル……?)
 
 蠍蜘蛛の眼窟は、まっすぐにメルヘドが持った刀を凝視していた。
 
 そして、次いで彼の顔に視線を移動させる。
 
 (オマエ……チガウ、デモ……ナカマ、
 ドウホウ……アブソバルアラージー……?)
 
 「だったらどうする?」
186 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:24:17.42 ID:9DIDK4U20
 短く、一言だけメルヘドは脳内に響く雑音に向かって声を発した。
 
 そしてまた強く地面を蹴る。
 
 砂塵を吹き上げて、マントをはためかせ、青年の体が宙を飛ぶ。
 
 彼は蠍蜘蛛の背中に飛び移ると、手近な触手を無造作に掴み取った。
 
 (バルバロン……レレンスヒァ……)
 
 しかし異形の者の問いかけにも答えることがなく、
 メルヘドはそのまま手に持った触手を引きちぎった。
 
 次いで龍の頭蓋から鉄と鉄を擦り合わせるような絶叫が響き渡り、
 引きちぎった痕から、物凄い勢いで透明な液体が噴出する。
 
 それは水だった。
 
 噴水のような本流を頭から浴びながら、青年は拳を固めると
 全体重を乗せて眼下の化け物に叩きつけた。
 
 ゲゴッ、という鉱石が砕ける音がして、簡単にメルヘドの手が肘まで
 蠍蜘蛛の背中にめり込む。
187 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:25:15.89 ID:9DIDK4U20
 引き抜くと同時に先ほどよりも凄まじい勢いで水が噴出した。
 
 そこまでした時、青年の両足におびただしい数の触手が巻きつき、
 先ほどと同じように地上十メートル近くも振り上げる。
 
 そのまま玩具の人形のように激しく振り回し、メルヘドの体は離された。
 
 衝撃に抵抗することも出来ずに、
 砲弾を連想させる勢いで彼の体は神殿の上部に突き刺さった。
 
 そのまま倒壊した屋根を砕きぬいて、神殿の床に突き刺さる。
 
 もくもくと舞い上がった煙に、
 自分達の神を見て唖然としていたリマは我に返って駆け寄った。
 
 「メルヘドさん……メルヘドさん! 」
 
 砂埃を掻き分けると、地面が放射状に抉れて、
 その中央に仰向けに青年が倒れているのが見えた。
 
 一瞬少女の脳裏に最悪な図がちらつき、心根の底から青くなる。
 
 しかしそんな心配など全く関係なく、メルヘドはあっさりと起き上がると、
 何事もなかったかのようにマントの埃を払った。
188 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:25:57.11 ID:9DIDK4U20
 その姿を見て、リマが地面にへたり込む。
 
 「メ、メルヘドさん……?」
 
 「あ?」
 
 しかしまた怪物に向かって歩き出そうとしたメルヘドは、
 彼女の目を見て動きを止めた。
 
 リマの顔は、恐怖の顔だった。
 
 蠍蜘蛛に対してではない、目の前に立っている、
 埃だらけの青年に対しての、言いようのない恐れの顔だった。
 
 自分に向けられるその感情を真正面から感じ取り、メルヘドは上を見上げた。
 
 そこには、自分がぶつかって抉り取った神殿の屋根があった。
 
 まだバラバラと風化したレンガ素材が落ちてきている。
 
 天井から床までの高さは七、八メートルはあるだろう。
 
 普通の人間だったら、当然原形をとどめずに死んでいる。
 
 「大丈夫、なんですか?」
189 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:26:36.24 ID:9DIDK4U20
 恐る恐るだった。
 
 今まで寂しげに、しかし人間に対しての言葉を発していた少女の言葉ではなかった。
 
 「人間……なんですか?」
 
 一歩、少女は下がった。
 
 メルヘドはそれには答えなかった。
 
 ただ刀をまた逆手に構え、目の前の龍を見つめる。
 
 その彼の目に、自分に銃を向ける多数の人間の姿が映った。
 
 今や龍本体が姿を見せたことで蟻地獄は消えている。
 
 その周りで、戦車の上に立った乗組員全員が、自動小銃をこちらに向けていたのだ。
 
 蠍蜘蛛は彼らのことを捕食しなかった。
 
 ただ触手を揺らめかせながら、尾の先についた頭蓋でメルヘドのことを凝視していた。
 
 「さぁなぁ」
 
 彼は、呟くように言った。
190 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:27:20.60 ID:9DIDK4U20
 「リマ、アンタさんにもアレが神様に見えるか?」
 
 少女が更に彼から体を離しながら、小さく沈黙する。
 
 そして彼女は言った。
 
 「分からない。分からないけど……」
 
 「…………」
 
 「……あなたと……同じに見える」
 
 「そっか」
 
 端的に答えて、メルヘドは振り返り、そして笑った。
 
 それはどこか疲れた、乾いた笑みだった。
 
 喜びではない。悲しみでもない。空虚な黒い笑みだった。
 
 「まぁあらかた的を射ている」
 
 そう言った途端、彼の足がまるで風船のように膨らんだ。
 
 二倍以上に膨張し、履いていたゆったりしたズボンが膝下から弾け飛ぶ。
191 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:28:18.60 ID:9DIDK4U20
 布の下から現れたのは、人間の足ではなかった。
 
 まるでバイクのタイヤのようなものがふくらはぎから伸びた部分に固定されている。
 
 それがまるで植物の成長を早送りするかのようにパキパキと音を立てて伸びていくと、
 かかとに当たる部分に固定された。
 
 そしてふくらはぎの脇から、ブースターエンジンの噴出孔のようなものがせりあがる。
 
 彼の足は、純白の色をしていた。
 
 目の前に聳え立つ『神』と同じ色だった。
 
 黒光りするタイヤをエンジン孔がせり上がり終わると
 彼はまっすぐそれで地面を踏みしめた。
 
 次いで、今度は左腕が肩部から膨れ上がった。
 
 マントごと服を弾け飛ばし、内部から植物の根のように分裂したものが吹き出る。
 
 それは際限なく次々にあふれ出すと、たちまちのうちにむき出しになった左腕に巻きつき、
 結合し、そして長さ二メートルを越える砲身を作り出した。
192 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:29:00.94 ID:9DIDK4U20
 それは大砲のように見えた。
 
 肘部から長大な砲身が生えている。
 
 僅かな動作音を立てるそれを動かすと、
 メルヘドは右手でなまくら刀を構えて、口を開いた。
 
 「執行規約三十五条。二十四の六。第三部に違反した個体と認識。
 これより、独自判断による龍祓いに移行する」
 
 それは、機械的な声だった。
 
 感情も何も感じさせないただ単なる義務のみの声。
 
 そしてその言葉を発した途端、乾いた炸裂音と共にメルヘドの姿が消えた。
 
 いや、消えたのではない。移動したのだった。
 
 脚部に空いたまるでエンジン孔のような部分から勢い良く火柱を噴出させ、
 
 そしてローラースケートをしているかの如く、
 かかとのタイヤで滑るように砂漠を移動したのだ。

 (ヤハリ……バルバロン……クローチャー……テキ……)
193 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:29:48.14 ID:9DIDK4U20
 異形の姿と化した青年が聞いた怪物の声は、
 今度は否定の語気を帯びていた。
 
 背部の傷口から水を勢い良く噴出しながら、触手が勢い良く動く。
 
 突撃してくるメルヘドを確認して、
 今度は迷いなく全ての戦車乗組員が自動小銃を発砲した。
 
 しかし砂漠を滑るように移動していた彼の姿が蜃気楼のように揺らめいて消える。
 
 いや、消えたのではなかった。
 
 僅かに空気が爆ぜる音がして、
 
 一瞬で数十メートル離れた場所に移動したメルヘドが地面を、
 今や足と呼ぶにはあまりにも異形となった物体で凪ぐ。
 
 しかし蠍蜘蛛の反応は早かった。
 
 背中の一部分が盛り上がり、メルヘドの左腕のような大砲を構成する。
 
 それがゆっくりと向きを変え、宙に飛び上がった彼に向いたと同時だった。
194 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:30:34.39 ID:9DIDK4U20
 噴出したのは糸のような水だった。
 
 しかしそれは鉄線のようにメルヘドの腹部を貫通し、向こう側に抜ける。
 
 彼は衝撃で更に上空に弾き飛ばされたが、
 空中で反転して左手の砲口を眼下の化け物に向けた。
 
 次の瞬間、サッカーボール大の透明な球体が勢い良くそこから撃ちだされた。
 
 水。圧縮された水のボールは楕円形に形を変えながら急降下し、
 そして砲弾のように蠍蜘蛛の尾先にあった頭部の一部を正確に弾き飛ばした。
 
 途端、周囲の砂漠が激しく振動を始めた。
 
 砂下に潜んでいた本体が鳴動しているのだ。
 
 次いで尾の先から勢い良く透明な水を噴出させながら、
 触手が動き……そして怪物の周囲を守る人間たちを一人残らず掴み取った。
 
 メルヘドが地面に降り立つよりも早かった。
 
 蠍蜘蛛の背中がパクリと、花のように開く。
 
 そこの中は透明な液体で満ちた空間になっていた。
195 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:31:14.84 ID:9DIDK4U20
 底は見えない。
 
 光を反射して白濁したその水は、
 時折ボコボコと空気のような気体を発していた。
 
 そこでやっと、捕縛された者達が絶叫をあげた。
 
 断末魔の声、恐怖の叫び。
 
 死の瞬間、初めて我に返った者達の声。
 
 だが触手は無情に全ての人間をその空間に放り込むと、
 あっさりと裂け目を閉じた。
 
 「逃げろって言ったじゃないか……」
 
 歯を噛み締めてメルヘドが地面に降り立つ。
 
 しかし腹部を押さえて彼は膝をついた。
 
 蠍蜘蛛の水砲で腹には直径一センチ以上の穴が開いていた。
 
 そこから粘ついた赤い血が溢れ出している。
196 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:31:53.65 ID:9DIDK4U20
 その彼の目の前で、人間を捕食した龍に異変が起こった。
 
 彼に破壊された頭部、背中の穴などがまるで
 映像を逆再生するかのように修復を始めたのだ。
 
 (バルバロン……テキ……オナジ、デモ……テキ……)
 
 低く呻いて歯を噛み締める。
 
 そして彼は右手の刀を構えると、ゆっくりと立ち上がった。
 
 「水飲んでねぇからもう残弾がねぇや……」
 
 小さく毒づいて左腕の砲身を勢い良く振る。
 
 すると形作られた時と同じように絡み合っていた植物の根のようなものが
 腕の中に引っ込んでいき、数秒も経たないうちに元の人間の腕に戻っていた。
 
 両手で刀を構え、メルヘドは腰を落とした。
 
 「随分とでっかく成長したもんだな。親御さんもさぞ苦労しただろ」
 
 (テキ……)
 
 「安心しろ。俺にとってもテメェは敵だ」
197 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:32:36.96 ID:9DIDK4U20
 端的に言葉をやり取りし、メルヘドは脚部に膨らんだ
 エンジン孔から勢い良く火柱を噴出させた。
 
 その勢いで再生した蠍蜘蛛に向かって弾丸のように突撃する。
 
 彼の突貫を受けて異形の怪物は僅かに体を揺らすと、
 大きく競りあがった。
 
 そして周囲に砂を撒き散らしながら、砂の中から百五十メートルを越える巨体を現す。
 
 メルヘドが走っている眼下の部分も、怪物の体だった。
 
 おびただしい数の蠍のような節足を蠢かせながら龍が体を脈動させる。
 
 それに弾き飛ばされる形で青年の体が宙に振り飛ばされる。
 
 上空のメルヘドの目に、蠍のような、蜘蛛のような。いびつな物体が映った。
 
 それはどこか物悲しく、『異形』としか形容が出来ない姿だった。
 
神でもない、悪魔でもない。善とも、不幸とも判断がつけられない。

いびつにデッサンが狂った姿だった。
198 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:33:16.70 ID:9DIDK4U20
 腹部が異常に肥大している。
 
 おそらく、あそこで人間を溶解し、分解。そして水を生成している。
 
 今ならまだ、飲み込まれた者達は助かるかもしれない。
 
 だが落下しながら刀を握るメルヘドの脳裏に、
 先ほど自分に向けて発砲してきた人間たちの姿がフラッシュバックした。
 
 その目が、頭の裏に浮かび上がった。
 
 それは恐怖の目だった。
 
 生存を脅かされる恐怖。
 
 敵を見る恐怖。
 
 それが、自分を見ていた。
199 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:33:51.48 ID:9DIDK4U20
 ふと、横目で神殿の方を見る。
 
 体を乗り出して、そこにはリマがいた。
 
 彼女は、目を見開いてメルヘドを見ていた。
 
 その目は、理解できない恐怖に彩られていた。
 
 ……刀を握りなおす。腹部の傷なんて気にしない。
 
 蠍蜘蛛は落下してくるメルヘドを確認すると、
 背部の触手を一斉に彼に向けて噴出させた。
 
 しかし捕まる寸前に脚部のブースター孔から火柱を噴出させ、
 落下の方向を勢い良く変え、触手の突撃をそらす。
 
 そして彼は空中で体を反転させると大上段になまくら刀を振り上げた。
 
 そして青年は落下と同時に刀を振り下ろした。
 
 刀圧が、砂漠の砂を揺るがす。
 
 放射状に煙を巻き上げ……そして蠍蜘蛛の動きが止まった。
 
 次の瞬間、砂煙を上げて着地したメルヘドの目の前で、
 異形の龍は腹部を両断されて地面に崩れていた。
200 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:34:35.60 ID:9DIDK4U20
 明らかに刀の長さよりも切られた尺の方が長い。
 
 二十メートル近い怪物の横腹を両断し、青年が砂漠に膝をつく。
 
 次いで、断たれた蠍蜘蛛の傷口から砂嵐のように水が噴き出した。
 
 それがメルヘドのことを飲み込み、神殿の方に押し流す。
 
 何トン……何十トンあっただろうか。
 
 腹部に溜められていた水は焼けた砂漠の上にぶちまけられると
 簡単に砂に染み込んで消えていった。
 
 (ドウシテ?)
 
 荒く息をついて立ち上がったメルヘドの頭に、
 目の前に崩れた怪物の声が反響した。
 
 それは掠れて、所々ノイズが混じった不気味な音だった。
 
 それに答えずに、マントで彼は自分の足を隠した。
 
 その膨らんでいた部分が見る見るうちに元の人間の形に戻っていく。
201 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:35:07.72 ID:9DIDK4U20
 (テキ、ケド……ナカマ)
 
 「そうだな」
 
 一言だけだった。それだけを言って、
 メルヘドは空を仰いで大きくため息をついた。
 
 「でも、仕事だからさ」
 
 返ってくる言葉はなかった。
 
 大きく頭を振って、メルヘドは額を押さえた。
202 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:36:10.76 ID:9DIDK4U20


 太陽は既に傾きかけていた。
 
 携帯端末を取り出し、ボタンを入れるとホログラムが浮き出て時間を知らせる。
 
 現在が夕方の四時半。まだ時間はある。
 
 息をついて腹の傷を押さえた時だった。
 
 「どうして……」
 
 龍の言葉と同じ台詞を聞いて、メルヘドは顔を上げた。
 
 いつの間に来ていたのか、リマがすぐ近くに立っていた。
 
 ぼろきれのような服の裾を握り締め、唇を噛んで呟く。
 
 「何で、殺しちゃったの……」
 
 「殺しちゃいねぇさ」
 
 疲れたように青年はそれに返した。
 
 そしてため息をつき、続ける。
203 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:36:50.22 ID:9DIDK4U20
 「腹ぶった斬っただけだ。ほっとけば直に再生する」
 
 「メルヘドさんも、お腹斬られたら放っておくと治るの……?」
 
 少女の目を見ないようにしながら、青年は地面に胡坐をかいて息をついた。
 
 そしてマントの端を乱暴に手で破り、
 砂を払ってから腹の傷口に無造作に巻きつける。
 
 「そうだったらいいんだがな。人生そう都合よくは出来てないらしい」
 
 腹に巻きつけたマントの切れ端がたちまち赤黒く変色する。
 
 しかし気にする風もなく、メルヘドは崩れた怪物の頭部に腰を下ろした。
 
 そして親指を立て、横の蠍蜘蛛を指差す。
 
 「ほら」
 
 「……え?」
 
 「まだ生きてる。水になりたいんだろ? 
 あと三十分経ったらコイツの腹に入ればいい。その頃には再生してるだろ」
 
 「…………」
204 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:37:27.39 ID:9DIDK4U20
 息を呑んでリマは後ずさりをした。
 
 それは、目の前で倒れている彼女達の神の姿をしたものを
 恐れての行動ではなかった。
 
 「あなた……何なの?」
 
 押し殺した声で問いかけられ、メルヘドが軽く肩をすくめる。
 
 「さぁな。俺にも俺がなんなのか、よく分からん」
 
 「とぼけないで。
 メルヘドさん、まるで……その、人間じゃないみたい……」
 
 「ああ」
 
 しかしその言葉をにべもなく肯定して、青年は立ち上がった。
 
 「少なくとも人間じゃないな。俺の体の八割は、
 こいつらと同じ八次元生命体……つまり龍だ。腕も、足もな」
 
 そう言ってメルヘドはズボンが破れてむき出しになった
 自分の足に目をやった。
 
 「体が……龍?」
205 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:38:15.67 ID:9DIDK4U20
 「昔の事故でな。最も俺のこいつは自律してはいないから、
 人間を食って水を出すようなことはしない。
 あくまで俺の体の延長線として機能してる。
 だが、戦闘能力はそっくりそのままだ」
 
 自嘲気味に笑い、メルヘドが自分の腹を押さえる。
 
 「人間でもねぇし、化けもんでもねぇし。何やってんだろうと時たま思うよ」
 
 そこまで言って、歩き出そうとした青年は失敗して地面に膝をついた。
 
 反射的だったのだろうか、慌ててそれにリマが駆け寄り、彼に手を貸す。
 
 「大丈夫……?」
 
 「ちっとばかし疲れた」
 
 荒く息をついてメルヘドが言った時だった。
 
 唐突に周囲に小銃を構える重低な機械音が鳴り響いた。
 
 座り込んだままのメルヘドの隣で、慌てて顔を上げたリマの目に、
 自分達を取り囲む人間達の姿が映った。
 
 先ほど、蠍蜘蛛に飲み込まれた戦車の操縦者達だった。
206 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:38:59.47 ID:9DIDK4U20
 周囲の熱気に簡単に蒸散し、龍水でズブ濡れだったはずの彼らの体からは
 白い煙が立ち昇っている。
 
 十……二十人以上の彼らに囲まれ、
 メルヘドはしかし黙って胡坐をかき、前を見つめていただけだった。
 
 「何てことしてくれたんだ、アンタ」
 
 大分経って兵士の一人が口を開いた。
 
 背後に自分達が信じていた神の倒れた姿を背負い、歯を噛み締める。
 
 「俺ぁアンタさん達を無償で助けてやっただけだ」
 
 「余計なことしやがって! 誰がそんなことを頼んだ! 」
 
 「雨が降らなくなっちまっただろう。どうしてくれるんだ! 」
 
 自分達が死にかけていた人々の言葉ではなかった。
 
 それは、ただメルヘドに向けられた怒りだった。
 
 「……アンタが、アンタが俺たちの家族を守ってくれるっていうのか! 」
 
 兵士の一人が口から飲み込んだ水を吐きながらくぐもった声を上げた。
207 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:39:43.21 ID:9DIDK4U20
 メルヘドはそれに対して答えなかった。
 ただゆっくりと立ち上がり、刀を構えて周りを見回す。
 
 「知るかよ」
 
 しばらくして一言だけ呟いて、前方の砂漠に目をやる。
 
 砂煙を上げて近づいてくる物体があった。
 
 それは、銀色にコーティングされた戦車だった。
 
 実戦向きのものではない。
 
 上層階級が砂漠間移動に使用する、砂上戦車だった。
 
 だが刀を構えたメルヘドの耳に、
 そこから聴こえてきたのは威嚇の声ではなくユージェンの怒鳴り声だった。
 
 『全員銃を降ろせ! 警告は一回しかしないからな! 』
 
 その光景に唖然とし、周りの兵士達が動きを止める。
 
 メルヘドは黙って息をつき、そして砂漠に乱暴に腰を降ろした。
 
 「……言ってることはこいつらと変わらんな、あの男は」
 
 聞こえない様に呟き、青年は大きくため息をついた。
208 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:40:26.00 ID:9DIDK4U20
戦車で兵士たちを威嚇しながら銀色の戦車がメルヘドたちの脇に止まる。

そこからユージェンが、肩に小銃を担いで飛び降りてきた。

 「何だ……もう来たのか」
 
 疲れたようにメルヘドが言うと、
 少年はまず目の前に崩れている龍を一瞥し、黙ってリマの手を引いた。
 
 「行くぞ」
 
 「ちょっと待って……」
 
 「うるさい! 上層からコレをパクって来る途中で警備に
 見つかっちまった。直に追っ手が来る。早く俺と別の街に逃げるんだ! 」
 
 無理やりに少年が少女の手を引く。やせ細った彼女の力では適うはずもなく、
 引きずられてリマの体が動く。
 
 しかし彼らを止めたのは、他ならぬメルヘドだった。
 
 いつの間に立ち上がっていたのか、
 ユージェンの手を掴んで引きずり戻す。
 
 そして彼は淡々と言った。
209 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:41:47.71 ID:9DIDK4U20
 「何勝手に連れてこうとしてんだよ」
 
 「いくらお前でも、ここは譲れない。
 手を離せよ。俺はリマを連れてここを出て行く」
 
 「断る。どうしても連れて行きたいなら俺を殺してから行け」
 
 静かな圧迫感のある言葉を発して、
 青年がゆっくりと右手に持った刀を振り上げる。
 
 その異様な雰囲気を感じてユージェンがリマを突き飛ばし、
 飛び退ったのと、砂煙を間欠泉のように吹き上げながら
 メルヘドが刀を砂漠に叩きつけたのはほぼ同時だった。
 
間一髪で地面を転がり、少年が怒鳴り声を上げる。

 「何でだ! リマを守ってくれてたんじゃなかったのか! 」
 
 「まだ、勤務時間内だからな。渡すわけにはいかねぇ。
 それにあいつは、水になるって決めたんだと。
 どっちにしろ無駄足だったな」
 
 「そんな……! 」
210 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:42:27.81 ID:9DIDK4U20
 叫んで駆け出そうとした少年の前に、メルヘドが立ちふさがる。
 
 彼はゆるりと刀を下段に構えた。
 
 「わかんねぇ奴だな」
 
 その時だった。
 
 不意に、倒れていた蠍蜘蛛が体を大きく波打たせると、
 断たれた箇所から勢いよく水を噴出させつつ体を起こした。
 
 前と後ろ、それぞれに別れて蠍のような足を動かして地響きをたて動き始める。
 
 「もう再生しやがったか」
 
 メルヘドが毒づいた声を聞いたかのように、
 周囲に金型を擦り合わせるかのような絶叫が響き渡った。
 
 二体に分裂した蠍蜘蛛の背部から、
 それぞれおびただしい数の触手が噴出してメルヘドの足に絡みつく。
 
 そのままそれは、青年の体を砲丸投げのように投げ飛ばした。
 
 反応するのが僅かに遅れて、少し離れた砂漠に彼が突き刺さる。
 
 次の瞬間、頭部がついている方の個体が節足を唸らせて走り出した。
211 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:43:09.07 ID:9DIDK4U20
 その場にいる兵士を無視して、真っ直ぐに脇を駆け抜ける。
 
 全長七、八十メートルを越えるその姿は、
 まるで虫のように地面に水平に移動していた。
 
 小山のような巨体が、リマの方に迫る。
 
 その巨大すぎる圧迫感を受けてへたり込んだ少女を
 押しつぶさんばかりの勢いで、異形の怪物が突撃してくる。
 
 「リマ! 」
 
 突然のことに対応できたのはユージェンだけだった。
 慌てて少女と怪物の前に飛び出し、彼女を守ろうと手を伸ばす。
 
 その途端だった。
 
 突然、周囲に赤い爆音が轟き渡った。
 熱を含んだ火薬臭い爆風が周囲を波打たせる。
 
 渦巻きのように周囲の砂を巻き上げ、たまらずリマを抱きかかえた
 ユージェンは砂漠に転がった。
 
 顔を上げたリマの目に、自分達に覆いかぶさるように
 動きを止めている蠍蜘蛛の姿が映った。
212 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:43:48.33 ID:9DIDK4U20
 その背部から尾部にかけてが、
 何か強力な爆薬で破裂させられたかのように綺麗さっぱりなくなっていた。
 
 ブスブスと焦げ臭い、何か生き物の焼ける嫌な臭いを発しながら
 龍がグラリと巨体を揺らめかせる。
 
 そして重低音をたて、大地を揺るがせながらそれは砂漠に横倒しに倒れた。
 
 唖然としながら視線を横にスライドさせる。
 
 飛んできたのは、砲弾だった。
 
 少し離れた場所に、ユージェンが盗んできたものと
 同じような銀色の砂上戦車が留まっている。
 
 その砲身から熱を持った白い煙が吹き上がっていた。
 
 砲弾が炸裂した場所。
 
 今まで、自分やメルヘドさんががいた場所だ。
 
 それに気づいて、数秒遅れて蒼くなる。
 
 「え……」
 
 まだ、状況が分からないまま小さく呟く。
213 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:44:33.15 ID:9DIDK4U20
 その彼女の目の前に、ヘビのような首を伸ばした
 蠍蜘蛛の頭蓋がゆっくりと移動してきた。
 
 その暗い、何も映していない眼窟を見つめる。
 
 数秒経って、頭蓋はカタカタと乾いた音を立て、そして崩れた。
 
 それを皮切りに、蠍蜘蛛の巨大な体から白い煙が上がる。
 
 分離したもう一つの方も同じだった。
 
 炭が焦げるように、不気味な生ぬるい煙を上げ、
 段々とそれが崩れて、水のような透明な液体になっていく。
 
 十秒も経たなかった。
 
 雨を降らせる神は、簡単に水に崩れ……
 そして焼けた砂の中に染み込んでいった。
 
 リマを強く抱きしめたユージェンの目に、
 崩れた蠍蜘蛛を踏みしめて歩いてくるメルヘドの姿が映る。
 
 少年は手の中の少女を引き寄せ、小銃を彼に向けた。
 
 メルヘドも刀を構えて、ゆっくりと歩みを進める。
214 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:45:08.08 ID:9DIDK4U20
 ユージェンが引き金にかけた指に力を込める。
 
 しかし急にメルヘドは刀を下ろすと、大きく体を伸ばした。
 
 「時間だ」
 
 短く言って首の骨をコキコキと、老人のように鳴らす。
 
 「やっと到着したみたいだな」
 
 彼が振り向いた先。
 
 砂漠の少し離れた線路もない場所を、汽笛を上げながら走ってくる
 褐色の列車が見えた。
 
 最初はゴマ粒ほどだったそれが、瞬く間に接近してくる。
 
 今だ状況がつかめていないユージェンが、
 自分の腕にかけられた時計に目をやる。
 
 それは、たった今、丁度五時を指して夕方の時間を刻み始めた。
215 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:46:02.51 ID:9DIDK4U20


 連日のように巻き起こっていた砂嵐は、もう去ったようだった。
 
 太陽が落ち、真っ白な月が中天に輝いている。
 
 昼間の殺人的な熱光も収まり、
 逆に急激な気温変化により肌に突き刺すような寒気までが発生していた。
 
 空気の揺らめきが少ないので、
 月の光だけで砂漠の端までもを見通すことが出来る。
 
 空には、光を遮る砂埃も、ゴミ屑のような雲さえも浮いていない。
 
 時刻は、夜の九時を回っていた。
 
 青年は大きく息をつき、窓から見える黒青色の空に輝く星から目をそらした。
 
 雪も、雨も降っていなかった。
 
 サバルカンダ、祭最後の夜。
 
 五年に一度その土地に降り注ぐという汚染された雨は、なかった。
216 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:46:40.80 ID:9DIDK4U20
 「……それで師匠、あなたは蠍蜘蛛を倒したという
 執行証明になるものも何も持たずに帰って来てしまった訳ですか?」
 
 メルヘドは無造作にベッドに横になりながら、
 大欠伸でその少女の言葉に対して返した。
 
 「だから溶けちまったって言ってるだろ」
 
 「にわかには信じがたいですね。
 蠍蜘蛛のような龍が人間を助けるなど」
 
 彼の腹に、応急用テープでガーゼを
 貼り付けながら金髪を腰まで伸ばした少女が言う。
 
 年のころは十二、三だろうか。
 
 所々髪にはウェーブがかかり、まるで人形のように整った顔には
 透き通ったエメラルドの瞳がくっついている。
 
 小奇麗にまとまった、西洋人形のようなゴシック調の服を着た
 彼女は乱暴にメルヘドの腹を叩くと言った。
 
 「どうせまた完膚なきまでに破壊しちゃって、それを隠してるんでしょ?」
217 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:47:21.26 ID:9DIDK4U20
 「痛……ぇなこの野郎! 
 師匠のことをなんだと思ってやがるアラリス! 」
 
 「ふがいないと思ってますけど何か?」
 
 冷たく返して、アラリスと呼ばれた人形のような少女は、
 手近にあった窓から外を覗いた。
 
 彼らがいたのは、いわゆる『砂上列車』と呼ばれる、
 砂漠上を走る列車の上だった。
 
 線路という目に付くものは砂漠に引かれていない。
 
 引く端から砂に埋もれてしまうからだ。
 
 その代わり、砂上列車の進行経路には、一定距離を開けて地下に
 強力な磁石が埋め込まれていた。
 
 その磁力を頼りに、方向を確認して動くと言うわけだ。
 
 メルヘドたちの砂上列車は、
 現在サバルカンダの丁度脇に停車していた。
218 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:48:54.28 ID:9DIDK4U20
 同乗していたアカスアの作業員が、
 下層、上層を問わずにありとあらゆる水を
 回収しているのが窓から見える。
 
 最後に龍に対して砲弾を撃ち込んだのは、
 ユージェンを追ってきたエンドクだった。
 
 サバルカンダ市長の彼は、自分達の神を守るために
 メルヘドに対して砲撃をしてきたのだ。
 
 軽く息を吐いて、列車の天井を見上げる。
 
 不正な水を販売していたエンドクの拘束は済み、
 もうアカスア本部に護送する分の列車は出発している。
 
 彼と共に、龍水の飲みすぎで感染の可能性がある上層市民は
 老若男女問わず全て、強制的にアカスアへ強制送還されていた。
 
 名目では治療ということになっている。
219 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:49:43.05 ID:9DIDK4U20
 メルヘド達が龍と格闘している間、
 アラリスから連絡がいったアカスアの調査班が、
 既にサバルカンダ内で感染調査を終えていたらしい。
 
 現在は、感染の可能性がない下層市民に対して、
 龍水の恐れがある水の回収と、安全な水の配給を行っているところだった。
 
 無料で全市民に当分の間充分な量の水を提供するのだ。
 
 文句を言う者がいるはずもない。
 
 彼らにとっては、空から降ってこようが、
 人間が持ってこようが。
 
 それが飲めるのであれば神が降らせた雨と変わらないのだ。
 
 「全く。冷や汗ものですよ。
 この人たちに、実際に『神様』を破壊してきたって言ったら私たち袋叩きですよ? 
 今は何とか、水に有害な化学薬品が混入されている恐れがあるって説明してますけど
 ……師匠?」
 
 メルヘドはそれに答えなかった。
220 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:50:23.83 ID:9DIDK4U20
 横になったまま、列車内のベッドで寄り添うように眠っている
 ユージェンとリマのことを見ていた。
 
 龍に近づきすぎて感染が懸念されたため、
 睡眠作用を持つ薬を飲まされた後に検査を行ったのだ。
 
 二人とも、感染はしていなかった。
 
 「どうするんですか、この人達?」
 
 呆れたようにアラリスが続ける。
 
 「どの道ここにはいられねぇだろ。適当な街に降ろしてく」
 
 「そこまでする義理があるのかないのか……
 この子ですか? 生贄の子っていうのは」
 
 「ああ」
 
 頷いて、青年はベッドに上半身を起こした。
 
 「信じられませんね。どうして龍は、爆風からこの子を守ったんでしょう?」
 
 不思議そうに呟く少女から目を離し、メルヘドはしばらく考え込んだ。
221 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:51:05.52 ID:9DIDK4U20
 『食われた人間は龍ではなく水になる』
 
 と、自分はこの子に言った。本当にそう思っていた。
 
 しかし、どこともなく、人間とは肉体だけの生き物ではないんだよなとも思う。
 
 「……多分、本当に好きな者がその存在じゃなくなったら、
 誰だって嬉しくないってことなんだろうな」
 
 「……え?」
 
 「水に何かがまだ沈殿してたんだろ。
 多分、あの龍はこいつを飲み込んでも、水にはしなかったんだろうな」
 
 面倒くさそうに言って、もう一度メルヘドはベッドに横になった。
 
 「しかし遅いぞアラリス。
 お前の執行免状がちゃんと届かなかったら、
 俺の方が単独潜行の執行規定違反受けてたんだぞ、分かってるのか?」
 
 「そうです、忘れてました。師匠。
 自分が勝手に出歩いたことを棚に上げて何を言っているんですか?」
222 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:51:44.49 ID:9DIDK4U20
 青年は何回か瞬きをして、
 そこでやっと自分が言葉の地雷を踏んでしまったことに気づき、
 少女から目をそらした。
 
 「師匠、今度と言う今度は逃がしませんよ。
 今回の勝手な行動に対しての始末書も全部、ご自分の手で書いていただきます」
 
 「いや俺、字は書けないから……」
 
 「私が一からじっくり教えて差し上げます」
 
 にっこり笑って、人形のような少女は壁脇のデスクを指差した。
 
 まるで札束のように束ねられた、
 上質紙……書類の山が何個かに区分けされて置いてある。
 
 「……勘弁してくれよ」
 
 メルヘドは腰のなまくら刀を脇に放り出して、そう呟いた。
223 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 01:53:42.44 ID:9DIDK4U20


第一話 雨が降る雪が降る 結



明日以降2話からも投稿します。

ご意見やご感想などがありましたら
気軽に書き込みをいただけますと嬉しいです。

今日はお休みさせて頂きます。
224 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/03(木) 08:20:48.74 ID:j4DBHPhMo
面白い 投下量も多い
でも神の視点が少し淡白な気がする
狙ってるのかもしれないが
225 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:05:15.09 ID:9DIDK4U20
こんばんは。
第二話を投稿させて頂きます。

>>224
淡々とした世界を目安に書いています。
意図したとおりにお伝えできているかどうかは推し量れませんが
淡白さを少し感じていただけたなら嬉しいです。



第二話 夕焼け小焼けの霞雲 前編

226 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:06:19.35 ID:9DIDK4U20
あの日、俺は水を手に入れた。

小瓶に二本の水を手に入れて、砂が舞う地面を走っていた。

もう何キロ走っただろうか。

いや、本当に走っているのだろうか。

足を動かしているが、地面それそのものが段々と後ろに
移動していっているかのように、周囲の景色が変わらないようにも見える。

まるで夢の中のように足が動かない。

体が、動いているのか動いていないのか分からない。

でも多分走っているんだろう。

そう思う。
227 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:07:03.26 ID:9DIDK4U20
走っていなければ俺はとっくに死んでいるはずだった。

死んでいないということは、多分俺はまだ生きている。

生きて、そして走っているんだ。

──多分、だけど。

針のように吸い込めば突き刺さる熱を帯びた空気を吸って、吐く。

笛のように俺の喉は鳴っていた。

水……水を飲みたい。

生きているのか、死んでいるのか。

もうさっぱり分からない。

だが、水を飲みたかった。

そしてこれを、俺の母さんにも、飲ませたかった。
228 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:07:43.38 ID:9DIDK4U20
だから、俺は産まれて初めて盗みを働いた。

迷い込んだ市場で、偶然停車していた上層に入る
砂上トレーナーに忍び込んで、二本だけ水の瓶を抜き取った。

元よりあまり敏捷ではない俺のことだ。

そんな大それた真似が出来るとはまさか思っていなかった。

でも、体が勝手に動いたのだった。

気づいた時には、そのトレーラーの持ち主数人に取り囲まれ、
蹴り倒されていた。

──それから後の記憶はない。

気づいたら、俺はここにいた。

心臓が破れそうなくらい鼓動している。

脳の奥にその音が聞こえるくらいだ。
229 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:08:43.07 ID:9DIDK4U20
ふと、頭から汗ではなく赤黒い、
粘性の液体が頬を伝って流れてきているのに気づく。

ほんの少しだけ先ほどよりは落ち着いて左腕を見ると、
肩口から肘までが大きく擦りむけていた。

皮がめくれて血が溢れ出している。

だが不思議と、痛みは感じなかった。

恐怖と、倒錯した高揚感というのだろうか。

その時の俺は、死んでいるのか、
生きているのかも多分分からなかったんだと思う。

水を飲みたい。

死にたくない。

だから、この水を持って帰る。

どんなになっても、俺と母さんを生かすために。

どんなになっても、俺はこれを持って帰る。
230 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:09:33.56 ID:9DIDK4U20
本当にその時にそう思っていたのかはよく分からない。

今思い返すと多分そう思っていたんだろうなと言うだけの話だ。

何しろ五歳のガキの頃の話だから、鮮明には覚えていない。

だが追い込まれた動物というのは、誰しもが理性を捨て去り、
無意識に本能に堕ちてゆくものだ。

動物的にただ、それだけを考えていたんだと思う。

その頃の俺は、自分がどういう存在で、どこに住んでいて、
そして何故、熱砂の中枯れそうになって暮らしているのかを知らなかった。

だからその日は、絶対動くなというその人の言いつけを破って
見張りの仕事をサボり、集落から出てオアシスまで忍び込んだのだ。

この水を持って行けば、母さんはもう一度笑ってくれるだろう。

俺も、もう一度笑うことが出来るだろう。

血だらけで何となく、そう思う。
231 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:10:41.80 ID:9DIDK4U20
……だが、笑うというのはとても難しいことだということに、
その当時の俺は気づいていなかった。

何故笑うのか、どうして笑えないのか、それを知らなかったのだ。

後で分かったのだが、俺たちの住んでいた集落は、オアシスと戦争をしていた。

一方的な税の搾取を強要するオアシスから独立しようと、
反政府組織として集落を形成していたのだ。

しかしこの灼熱の大地で、生命維持機関があるドームから
離れて何日も生きられるはずもなく。

レジスタンスは俺のような子供を見張りに使おうとするほど、
憔悴……つまり徐々に照りつける太陽の下自滅していた。

……そして、その日が反政府軍最後の日だった。

たった二本の水が入ったボトルを手に入れて戻るまでおよそ半日。

足を引きずりながら集落に戻った俺の目に見えたのは。

見知った家ではなく。戦車のキャタピラに踏み荒らされて砕き散らされて。

今やただの、黒い煙と化していた、俺が母さんと呼んでいた人の姿だけだった。
232 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:12:43.42 ID:9DIDK4U20


 目を開けてメルヘドはぼんやりと部屋の天井を見上げた。
 
 もやがかかった視界に、段々と窓から差し込む月明かりに
 照らされた室内が映りこんでくる。
 
ゴゥン、ゴゥン、と耳元で部屋全体が振動している音が鳴る。

列車が砂漠不覚に埋め込まれた磁石の線路を頼りに、
機関を駆動させて走っている音だ。

ここは砂上を走る列車、アカスア鉄道十一号の中だった。

メルヘドの部屋は最後尾に設置されている。

カーテンがかかっていない窓に目を移すと、
果てしなく広がる肌色と褐色の砂漠が、
微風に吹かれて波打っているのが見えた。

空は満面の星。月は地平線の向こうに落ちかかっている。

ベッドから上半身を起こし、白髪の青年はジーンズに
タンクトップの姿で大きく欠伸をした。
233 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:13:48.98 ID:9DIDK4U20
そして目を擦り、首の骨を鳴らす。

二十代前半に見える彼の行動にはどこか中年臭さを感じさせるような節があった。

今度は指の骨も鳴らし、腰を大きく捻る。

列車の室内は、暑い。空調はきかせているがドーム内のように
冷房が入っているわけでもない。

蒸し器の中に入れられたかのように、じめじめしてはいないが
肌をゆっくり焼かれるような、そんな暑さだ。

彼はぼんやりとした目で周囲を見回した。

メルヘドの部屋には極端にモノがなかった。

仮に何か置いたとしても、弟子がすぐ片付けてしまうのだ。

だから今現在、列車の中でも一番広い部屋の中に存在しているのは
シーツを敷いただけのベッド、そして洋服掛けと部屋の三分の一を
閉めている巨大な机、それに付属している木作りの椅子二脚だけだ。

机は部屋の丁度中央に鎮座している。
234 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:14:50.92 ID:9DIDK4U20
そしてその上を見た途端、
彼は一気に現実に引き戻されて大きなため息をついた。

寝ている間に置かれたのだろう。

もう、ところ狭しと紙書類の山が詰まれている。

赤、青、緑。色も盛りだくさんだ。

そしてベッドの前、丁度体を起こせば見える位置に、

白い紙が乱暴に長ピンで留めてあった。

それをはがして、目を細めて月明かりにかざす。

『はんこ』

端的な、何の情緒も気遣いも感じられない弟子からのメッセージ。

無礼すぎる。

しかしその単純な作業の指示を受けてメルヘドは
イラだったようにクセッ毛の浮いた頭を掻いた。
235 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:15:41.41 ID:9DIDK4U20
(判子……どこやったな……)

周りを黙って見回す。

いっそ判子なんてなくなってしまえばいい。

なくなってしまえば、いくらなんでも押せないだろう。

自分自身の仕事そのものを証明する貴重なモノに対して、
心の中でどうしようもない悪態をつきながら、
しかし自分が失くしていることを期待してまた周囲を見回す。

だが、紙がピンで留めてあった横に。

丁寧にその忌まわしき判子が入った小箱が備えてあった。

メルヘドはしばらく考えた後。

軽く頭を振って……
そしてもう一度、体を弛緩させ、ベッドに横になった。
236 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:17:28.89 ID:9DIDK4U20


砂上列車、という砂の上を走る列車が存在する。

とは言っても、実際は『走る』のではなく殆ど磁力で『滑って』いるのに近い。

砂漠の地下十数メートルの地点に、本来ならレールが敷かれているべきラインに
沿って磁石が埋め込まれている。

地表まで届くその強力な磁力に強烈な反作用を持つ合成ランテンという金属で、
列車は先頭から後尾までが構成されていた。

それゆえに全長で五十メートルを超える長大な列車は、
その全てが何ミリか砂漠から浮き上がって進んでいる。

進行方向やスピードはランテンの反作用を機械で制御して行っていた。

別段、今での時たまドーム内の街中で見かけるような
ロートルの蒸気機関を搭載しているわけではない。

とりあえず、列車とは言っても極めて異質な、
おそらく砂漠間を自由に移動できるこの地上で唯一の交通機関であることは確かだ。

原理は列車ではないのだが、外見がそれに酷似しているために人々はそう呼ぶ。
237 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:18:16.07 ID:9DIDK4U20
そしてわずかばかり地面から浮き上がって進んでいるため、
列車は少しの段差を敏感に感じても大きく揺れる。

最も、車体自体が巨大かつ何十トンもの重さを持つために、
そんなに激しく揺れるわけではない。

しかし乗っているとわずかに体が跳ね上がる感触が飛び込んでくるのは、
本当に何分間かに一度、必ず訪れる、
地面の上にたっていたら感じることのない異様なものだった。

メルヘドはその揺れを背中全体に感じて目を開けた。

そして大きく欠伸をして列車の天井を見つめる。

横目で窓の外に目をやると。

すでに太陽は中天に差し掛かっているところだった。

日光をある程度遮断する擦りガラスになっているが、
焼けるような熱線が眼球に飛び込んでくる。

そのまま上体を起こし、大きく伸びをする。
238 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:19:05.41 ID:9DIDK4U20
そこで青年は部屋に設置されているテーブルの上に目を留めた。

綺麗に整理された書類が区分けされて置いてある。

そして夜半に見たメモがピンで留められていた場所に、
違う内容の文が書かれた紙が乱暴に貼り付けてあった。

……読めない。

メルヘドは何度か上品に書かれたその文字を日に
透かしたり目を細めたりしてみたが、
やがて頭をガシガシと乱暴に掻いた。

ここ最近列車の移動時間が長いために、
半ば強制的な書類整理をやらされたことで、
簡単な単語くらいは判別できるようにはなっていた。

しかし細かい字でびっしりと書かれた紙面を見る限りは……
『はんこ』『かなしい』という言葉だけはわかったが、
後は理解できない。

(……っていうか口で言えばいいだろ……)

心の中でため息をついてメルヘドは額を押さえた。
239 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:19:55.17 ID:9DIDK4U20
夜半に起きてそのまま寝てしまったが、
どうやらこの書類整理は早急にやらなければいけないものだったらしい。

おそらく弟子のアラリスが仕方なく代わりにやったのだろう。

彼女は、妙なところで礼儀正しい。

どんなに頭にきてもメルヘドに対して手を上げたり投げだしたりすることは
絶対にしないし、炊事、洗濯や書類整理など。

師であるメルヘドが負担する雑務のほぼ九割を
何も言わなくても勝手にやってくれる。

しかしその反面、非常に口うるさかった。

結局は今のように、全部自分でやってしまうが、
何をやるにしてもまずは文句。

字でも言葉でも押さえつけた感情をとりあえず
何かにぶつけなければ気がすまないらしい。

そのくせ責任感は強い。困った人種だ。
240 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:21:36.37 ID:9DIDK4U20
アラリスの怒りがにじみ出ているメモを
くしゃくしゃに丸めて脇に放り投げると、
メルヘドはテーブル上の書類を一枚とった。

そして目に近づける。

鉄道全てを管轄するアカスア本部からの依頼書だった。

それが何十枚か積まれている。

まぁ、とりあえずはここに乗っているものは
あまり重要度が高くない案件だ。

行動の是非は自分で決めて差し支えないもののはずだった。

急行しなければならないものや、重要度が高いと
本部が判断したものについては直接メルヘドと
列車の携帯端末に指令通知が来る。

と、いうことは本部から送信されてきたこの書類に
目を通しましたよという判子がおそらく必要だったのだろう。

……どっちにしろメルヘドは已然字が読めないので、
アラリスに訳してもらうことになるのだが。
241 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:22:21.74 ID:9DIDK4U20
(いい加減覚えないとな……)

心の中で愚痴りながら、精一杯頑張って書類をにらみつけてみる。

――蛇がくねったようなものがいっぱいあった。

(あー……駄目だ)

二秒であきらめて書類を放り投げる。

そこで部屋のドアが出し抜けに開いた。

「あ、師匠! やっと起きられましたか」

高圧的に頭の上から声を投げつけられて、
無意識ながらも体を硬くする。

部屋に入ってきたのは、
古代中世風のゴシック調洋服を着た十二、三ほどの少女だった。

まるで人形のようだと形容すればいいのだろうか。

今はドームの中でも上層、それもメディアに利用される
立場の者くらいしか着飾ったり、そういうことはしない。
242 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:23:14.99 ID:9DIDK4U20
いや、この殺人的な環境の中、
自分の体を守るために着飾ることができないのだ。

しかしアラリス、というこの少女は周囲の環境など全て、
まるで意に介していないかのようにこげ茶色を基調とした
洋服に身を包んでいた。

わずかに癖っ毛がかかった髪にはウェーブが広がり、お尻まで伸びている。

透き通って光を反射しているエメラルドブルーの瞳は
まっすぐにメルヘドを睨みつけていた。

……この少女が外見とは異なり、事実上、物騒な仕事も行う
龍祓いである今のメルヘドの『弟子』であるというんだから
……世の中は良かれ悪かれどう動くかわかったものじゃない。

疲れたように軽く息をついた師を見て、
少女は床に引きずりそうなほど長いスカートを翻し、大股で近づいてきた。

身長はベッドに腰掛けたメルヘドより頭半分ほど高いくらいだろうか。

ますますもって人形のように見える。

「投げないでくださいよ。大事な書類なんですから」
243 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:24:00.37 ID:9DIDK4U20
床に放り出されていた紙を拾い上げてアラリスが言うと、
メルヘドは大きく肩をすくめて口を開いた。

「いーんだよこんなのはどうでも。
どうせ俺以外の龍祓いが片付けてくれるさぁ」

しかしその言葉に帰ってきたのは如何なる言葉でもなく、
ただ疲れたため息一つだけだった。

横目で小さな少女の軽蔑したようなまなざしを受けて、青年が目をそらす。

「あー……何だ。俺が寝てる間にご苦労」

「はい。お礼は言って減るものじゃないんですから
その都度言ってくださいね、師匠。
それでは判子を押すこともできないふがいないわが師に、
本部から郵送されました考慮案件の説明を始めさせていただきます」

事務的に淡々と返し、アラリスがちょこんと椅子に腰掛ける。

列車の揺れに耐えられるように、椅子の足は相当短くなっているはずなのだが、
彼女のつま先がやっとつく程度だ。

「えー……いきなりかよ。その前になんか食わせろ」
244 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:27:21.30 ID:9DIDK4U20
「昼食の時間は一時間三十分前に終了いたしましたよ? 
五時間後のお夕食まで師匠は我慢です」

「……マジで?」

「マジです。ただでさえ最近は走りっぱなしで
物資が補給できていないんです。
この暑さでは料理なんて置いておいたらすぐ腐っちゃいますので。
皆さんが責任を持って師匠の分をおなかの中に蓄積してくださいました。
それにご飯が欲しい人は、十分前着席って決めたじゃないですか?」

彼女が言う『皆さん』とはこの列車に乗っている、
メルヘド管轄の職員達のことだった。

二人を抜かしておよそ三十二人の人間が列車には乗り込んでいる。

その一切の炊事を担当しているのは、この当のアラリスだった。

「あいつら……あとで絶対しばいてやる」

喉の奥で呟いて目頭を押さえる。

起きたばかりだというのに何だろう、この全身を駆け巡る疲労感は。

何だか肩とふくらはぎが重い。
245 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:28:16.49 ID:9DIDK4U20
メンタルが肉体的なものにも影響を与えると提唱する学者もいるが、
あながちそれは間違っていないとなんとなく考える。

「それでですね、アーンガットさんと先ほど話し合った結果、
補給をかねて最寄のオアシスに寄らせていただこうと結論付け
ました。よろしいでしょうか?」

「ん? ああ、それなら別に俺に言わんでもいい。
好きにやれよ。このサンベルトエリアを抜けなきゃどこ行っても、
今の所はかまわねぇよ。本部からの連絡もないしな」

「はい、そうおっしゃるだろうと思いまして、
実は一時間前から進路を変更して、もう向かっておりまして」

頷いて、少女はメルヘドが先ほど放り投げた書類をテーブルの上に広げた。

「私の方で一つ、そこに向かう理由付けの案件をピックアップしました。
依頼消化がてら補給のため、このオアシスに寄るという名目でよろしいかなと
思って許可をいただこうと来たんです」

「……早いな。どこだ?」

有無を言わさず弟子に話を進められている。
246 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:28:56.67 ID:9DIDK4U20
アーンガットというのはこの列車の副管理長なのだが、
自分が何だか蚊帳の外にいるような疎外感を感じ、
メルヘドはベッドの上で膝を抱えた。

「メルチュアです。ブンクトンからの分譲エリアとして機能している
小さなオアシスなんですが、大都市からの生産ラインが開通していますので、
物資の補給は必要数の三十パーセントほど可能かと」

「聞いたことのねぇドームだな」

「ですね。まぁ私も良くは知らないのですが、
アーンガットさんがご存知のようですよ。
ちょうど気になる案件依頼もそのメルチュアから来ていましたので」

「案件? それか」

「はい。お読みになりました?」

大きな瞳に見つめられ、メルヘドは困ったように視線をそらした。
それを見てアラリスがあきれたような声を発する。

「……この前一晩中、共有ゼラバラ語の特訓をさせていただいたじゃないですか」

「一晩で読めるようになるんだったら今までの人生で
当に読めるようになってるっつの」
247 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:29:46.71 ID:9DIDK4U20
「それもそうですね。じゃあ読み上げます」

ものすごくすんなりと納得して、彼女は手元の書類に目を落とした。

メルヘドはいい加減、彼女は意識をしていないのだろうが……
その『挑発的な』態度に向けるやり場のない虚脱感を抱えて、
床に立ち上がった。

そして首の骨を鳴らしながら机の上に腰掛ける。

アラリスはしばらく目を走らせた後、紙面に印刷されている写真画像が
彼に見えるように紙を渡すと、何も見ていない状態――空で口を開いた。

「依頼の差出主はありません。しかし電磁ネットワークの国際中央施設を介して
直接送信されているものですので、少なくともドーム上層の人間であることは
間違いがありませんね」

「珍しいな……匿名か」

そう受け答え、彼は先ほども目を通していた写真部分に視線をずらした。
248 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:31:25.57 ID:9DIDK4U20
「コレも珍しいな。普通龍石ってもんは八次元空間湾曲数値が
高いところにしか出現しないんだが。
これ、そのメルチュアってところで見つかったのか?」

写真には涙のような形をした石が映し出されていた。
それが砂漠に、まるで石つぶてのようにびっしりと落ちている。
写真は二枚あって、一枚はその敷き詰められた石の様子。
そしてもう一枚は拡大された石の全景。

その石は、美しかった。

しかし、実物ではない印刷されたものを見ても、
どこか異常な、自然物ではないことがなんとなく分かる……
そんな感覚的に歪んだ物体だった。

具体的にどこかといわれると、答えに詰まる者が殆どだろう。

しかし注意深く、針の穴に糸を通すような気分で見てみると、
意外すぎるほどはっきりと分かる。

涙型の石は、白色に透き通っている。

そしてその中にわずかな気泡が確認できた。
249 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:32:25.44 ID:9DIDK4U20
その気泡の形。普通液体の中に浮いた気体は球状になるが……
それも、石と同じ涙型をしていた。

写真ではこれ以上分からないが、現物の気泡は出たり消えたり、
石の中で微生物のように動いたりもする。

この物体はメルヘドたち龍祓いが言うところの『龍石』というものだった。

いわゆる、龍の卵……のようなものだ。

どこからともなく出現する龍は、やはりどこへとともなく
これを生み出して去っていく。

しかし産卵とは名ばかりで、実際には龍石から龍の幼生が出てきたという
事例は確認されていない。

ただの一度もだ。

砂漠に産卵されたその卵たちは、大体が一時間ほどで水になって消える。

何のために龍石を排出し、それが何の意味があるのかはまだ解明されていない。

だから動物の『産卵』に似たその現象に例えているだけの話だ。
250 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:33:29.39 ID:9DIDK4U20
アラリスはメルヘドの顔を見上げてからコクリと頷き、言葉を続けた。

「写真は三年前。メルチュアから三キロ地点で発見された龍石の密集地帯ですね。
その際に『裂(れつ)の里』のアルヴァロッタ様が
サンプルの回収にあたられております」

「何だよ、あいつが担当なら別に俺らが出ることもないだろ」

「確かにおっしゃられる通りなのですが、裂のキャラバンは現在ここから
千五百キロ程離れた地点におりますし、最寄にいた私たち、
断に回ってくるのは当然のことかと」

しばらくそれを聞いたメルヘドは納得がいかなそうに顔をしかめていたが、
やがて息をついて肩をすくめた。

「で、いくら龍石が大量に出たって言ったってほっとけば消えるようなもんだ。
しかも三年前なんだろ。何が問題なんだ、その匿名さんは?」

「はい。そこなんですが……」

「ん?」

わずかに恥ずかしそうにどもったアラリスに聞き返す。
251 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:34:20.94 ID:9DIDK4U20
彼女の顔は、よく人が、ありえないことについて
大真面目に話している時にする微妙に恥ずかしそうな表情になっていた。

「文書によりますと、『消えない』龍石が上層に保管されているということです。
これが本当であればおそらく政府関係者のタレ込みである可能性が
少なからずあります。が、最も、ガセネタである確立の方が
圧倒的に高いんですが……」

「……?」

しばらくメルヘドは言われている意味が分からないようだった。
そして数秒後、唐突に理解して口を開く。

「消えない龍石?」

「はい。そんなことはありえないと思うのですが、
『メルチュアは神の石を隠している。あれは悪魔だ』と
いったような内容の文章らしいです。どう思われますか?」

「……どうもこうも、それだけじゃ判断のしようがないな。
むしろイタズラじゃないのか、それ」

「そうですね。本部も師匠と同様な意見のようです」

頷いて、アラリスは続けた。
252 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:35:53.16 ID:9DIDK4U20
「しかし、最近メルチュアから出荷された食物から
龍水反応が検出された事例が報告されているんです。
ここ一ヶ月で三回。
いずれも微弱なものですが、ゼロコンマ三十の割合で龍組織が混入されていました。
今回はむしろ、そちらの方面を査察することが、主に重要として指令されていますね。
まぁ、裂の里の皆さんが半ば済ませて下さっていますし、
補給をすればすぐに出立できることとも思われます」

そこでメルヘドは気がついた。

先ほどまではアラリスの剣幕に押されて分からなかったが、
コレは彼女なりに一生懸命考えた、
『なるべく楽をして補給だけにこぎつける方法』だったらしい。

メルヘドは知らなかったが、話を聞いている感じだと、
どうも物資がかなり不足しているようだ。

言葉をとめた少女の顔が少しだけ、
編み物をやり遂げたときのように満足そうになっていた。

一般的にメルヘド達アカスアの龍祓いは、
ドームから物資援助を無料で受けることができる。

しかしそれは無償ではない。
253 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:37:22.41 ID:9DIDK4U20
当然アカスアからの支援依頼が必要になるし、
その依頼を要請するためには案件処理……
つまり仕事をこなすことが交換的前提条件として存在していた。

メルヘドとしても、もしイタズラだったらそもそも
調査の必要はないわけだし、既に案件の調査が半ば終了している事柄については
対処は楽だし、特に反対する理由もない。

彼は軽く顔の前で手を回して答えた。

「ようしよくやったぞアラリス。
少し時間をとってそのドームの上層エリアに買い物につれてってやるよ」

この娘は、もしかしたら物資に加えて休みが欲しいのかもしれない。

そういえばもう一ヶ月近く外に出していない。

何となく先読みして言ってやる。そして顔の前の手を彼女の頭に乗せて、
ぐりぐりと撫で付けた。

思いもかけず素直に褒められたことが嬉しかったのか、
少女は視線をわずかに下にそらし、小さく肩をすぼめた。

そして軽くどもりながら口を開く。
254 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:38:01.50 ID:9DIDK4U20
「は、はい、師匠が新しいお洋服を買ってくださると
いうのはすごく嬉しいです」

「言ってねぇよそこまでは」

しかしメルヘドは彼女がさりげなく発した言葉を端的に打ち消した。

……性格は違えど、弟子は師に似るものだと言う。

アラリスがこのように、なるべく負担を減らそうとするのは、
怠け癖が伝染ったせいなのかもしれないとふと思う。

しかし……彼は目の前の小さな女の子を見下ろして少しだけ思った。

子供だ。外見上は。

毎回じかに触れるたびに思う。

見ているだけでは分からない、
触れて初めて感じる予想をはるかに超えた小さな感触。

びっくりするくらい、小さな子供だ。
255 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:38:33.16 ID:9DIDK4U20
物言いや責めてくる口調だけをとると、
メルヘドよりも何倍も生きているかのような印象を受けるが、
実際は半分も生きていない、本当の子供。

どんな裏があるにしても、とりあえず素直に褒めてやると喜ぶのが、
何よりの証拠だった。

(龍石……ねぇ)

この子はおそらくデマだろうと言ったが……
火のないところに無作為に火はたたないという。

軽く息をついて、そしてメルヘドは手元の写真に目を落とし、
まるで年寄りのように首の骨を鳴らした。
256 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:40:02.70 ID:9DIDK4U20


彼らのキャラバンがメルチュア近辺に到着したのはそれから
三日たった夜半のことだった。

列車の外の砂漠には中天に上るまでうっすらと、靄がかかっている。

それも茶色い薄汚いものだ。

この地方はサンベルトに近いが他の地域に比べて若干湿気が多い。

そしてそれに対応して砂漠にはぽつぽつと、
大人の人間二人分くらいの大きさをした細長いサボテンが点在していた。

子供の腕くらいの太さをしている。

風が吹けばすぐ倒れそうな外見をしている割に、
そのサボテンの外皮は意外なほど丈夫にできているのをメルヘドは知っていた。

「あの植物……」

小さく呟いて、彼は靄の中それを見つめた。
257 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:40:53.22 ID:9DIDK4U20
白髪の青年は数キロ先にうっすらと見えるメルチュアに
進んでいる列車の屋根に無造作に腰掛けていた。

ジーンズにタンクトップ。外気は夜で冷えているとはいえ、
どことなく蒸し暑い。

進んでいる方向ではなく、列車が砂を巻き上げている後部を
向いてメルヘドはただ空に浮かぶ月を見上げた。

しばらくしてまた点在するサボテンを目で追う。

「……こんなところにもあったなんてな」

「フォルチェントォが、どうかなさりましたかな、坊ちゃま」

そこで唐突に名前を呼ばれ、彼はかったるそうに後ろを振り向いた。

列車の屋根に、薄暗がりに溶けそうな黒色が月の光に
反射して浮き上がっていた。

「何だ、アーンガット。まだ寝てなかったの。
ってゆうか坊ちゃまはやめろ、頼むから」

「ははは。いやいや私からすれば師は
何歳になられても坊ちゃまであります」
258 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:41:42.52 ID:9DIDK4U20
朗らかに笑う、壮年男性の声。列車の稼動音にかき消されることもない、
澄んで安定した声音だった。

そして軽い足音が青年の隣に移動する。

しかし、軽い。四つの軽快な音。

そう――メルヘドの脇に立っていたのは人間ではなかった。

犬……今ではめっきり見かけることもなくなった動物、
四本足の獣が埃っぽい風が吹き付ける列車の屋根に立っていた。

黒光りしたなめし皮のような体、そして爛々と賢壮に輝いた瞳は
暗闇で映えるワインレッドだった。

頭頂部と眉に当たる部分だけ僅かに毛が長くなっており、
そこは灰色に変色している。

少しだけ舌を出して息をし、アーンガットと呼ばれた犬は口を開いた。

「先刻やっとお嬢様が熟睡されましたので、
久々に夜風にでも当たろうかと思いまして」
259 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:42:38.82 ID:9DIDK4U20
「あの不良娘、段々寝るのが遅くなってるぞ。
俺には健康管理に気をつけろとか言ってるくせによ」

小さく毒づいて、メルヘドは隣に気をかけることもなく、
ただ流れていく景色を見つめていた。

壮年男性の声は黒色の犬から発せられていた。

澄んだ言葉がつむぎだされるたびに、
飄々としたその体が僅かに波打つのが分かる。

「元気なのは良いことであります。
アラリス嬢様は、知識も体も、今が育ち盛りでありますからな。
私めが毎晩、眠られる前に講釈をさせていただいているのです」

「知ってるよ。そのせいであいつが最近生意気になってきてな。
この前なんて『師匠はご存じないでしょうけど』って
冠詞までつけるようになりやがった。
一度放り出して身の程を思い知らせてやろうかとも思うんだが」

「はっはは。そんなことをしたら坊ちゃま、
誰がこのキャラバンの経理と指揮をするのですかな。
暖かい食事にも預かれなくなりますなぁ。
それにあの年頃の子は、皆自分が一番強いと思っているものです」
260 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:45:04.25 ID:9DIDK4U20
朗らかに体を震わせて彼が笑う。

犬から人の声が発せられているのはどこか異様な光景だったが、
アーンガットの表情は犬のそれではなく、人間のように目を細めたり、
口元を僅かに上げたりと多彩なものだった。

そのまま上品に青年の脇に腰をかけ、黒色の獣は続けた。

「しかしその反面、自分自身がどう見られているか、
どう存在しているかをもっとも多感に感じる時期でもあります。
あの子も必死なのですよ。
目を離したらあなた様がいらっしゃらないんではないかと、
常に強迫観念にとらわれている。
やはり子供のころに受けた強烈な記憶と言うのは、
どんな逆行記憶操作を行ったとしても、
たやすく消せるものではありませんな」

「……そういえば、そうだな。ああ……そうだ」

言われてはじめて気がついたかのように曖昧にうなずいて、
白髪の青年は言った。

「何だ、まだ忘れてないのか、あいつ」
261 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:45:45.81 ID:9DIDK4U20
「坊ちゃまは忘れることがお出来で?」

逆に聞き返されてメルヘドが一旦口を閉ざす。

「……さぁなぁ」

そしてまた曖昧に頷いて、列車が巻き上げる砂塵を見つめた。

「だが、忘れることができたらどれだけ楽だろうなぁ」

「……」

「後悔して、後悔して。ありとあらゆるものを後悔してもまだ救われない。
所詮この世界はどこにも救いなんてないことに気づいて、見るのをやめる。
思い出すことを止めた。
だから目をそむけることを忘れると言うんであれば、多分忘れてるんだろう」

呟くように言ってからメルヘドが大きな口をあけて欠伸をする。
そして彼は屋根の上に大の字に横になった。

「まぁでも、あいつの場合はたいしことじゃねぇだろ。俺とは違って」

「私は存じあげないことですが……
あの子はまだ十二歳であると言うことを、くれぐれもお忘れなきよう」
262 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:46:27.93 ID:9DIDK4U20
「ああ……そうだったな」

「あなた様にも同じような時期があったんですよ。小さい子供なんです」

柔らかく、どことなく優しい瞳でアーンガットが言うとメルヘドは肩をすくめた。

「だったら十二歳なりの教育をしてくれ。
あいつの言動は日に日に子供のもんじゃなくて……
何と言うか、年満女のそれになってる」

「はっは。結構なことではないですか。
徐々に明らかに逞しく育たれていると言うのでしたら、教育係冥利に尽きます」

「……お前分かって俺のことからかってるだろ」

くぐもった声で呆れたように返し、青年は彼と反対の方向に寝返った。

「……珍しいですな。坊ちゃまが苛立たれるとは。何か悩み事でも?」

一拍おいて静かに問いかけられ少し沈黙した後、口を開く。

「あれ……」

しかし、言葉を止める。
263 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:47:20.79 ID:9DIDK4U20
それとなく黒色の獣は彼の視線を察すると、その先にある、
砂漠に群生しているフォルチェントォに視線を流した。

青年の目は、どことなく空虚だった。

まるで十年先の未来を見ているかのような、
静かで無考慮な視線。

そこには何も映されていない。


その表情を読み取ることができない視線をしばらく見つめた後、
アーンガットは淡々と口を開いた。

「サボテンがどうかされましたかな?」

「……いや…………何でも。別に……どうってことはねぇよ」

途中まで言いかけたのだろうが自分でそれを打ち消し、
メルヘドが口をつぐむ。

また少しの間彼の様子を見ていたが、
やがて黒光りした体躯を光らせ、壮年の獣は言った。
264 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:48:44.99 ID:9DIDK4U20
「……フォルチェントォの霞がかかっておりますな。
珍しいものです。お嬢様にもお見せしたいですが、
そういうわけにもいかないのが残念です」

「……」

「通常の植物より数十倍の水分含有量を持つサボテン、
フォルチェントォが夜半数時間だけ靄のような微小な水分を発する。
それが巻き上がった砂に絡まり、まるで泥色の霞が発したように見える。
私も数度しか見たことがない現象です」

「ああ」

短く答えて青年が上半身を起こす。

「……だがあのサボテンは人体に有害な毒をもっていて、
その毒は気体になって空気中に出ると霧散するが、
直接液体を経口摂取すると成人男性でも十ミリ程度で即死。
役にたたねぇ植物だ」

「そうですな……」
265 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:49:43.88 ID:9DIDK4U20
「何百回となく聞かされたからな。
バカでも繰り返し言われたことは何故か忘れることができねぇんだよ」

端的に返して息をつく。そこで、唐突に列車が減速した。

振り返ると、もうメルチュアがすぐそこまで迫ってきていた。

とは言っても、そのオアシスからは、
僅かに天上に昇る光と人家の明かりが見えるだけだった。

円形になっている街の中心部に五メートルほどの高さの円筒が建っていて、
その上部から光が昇っているのだ。

オアシスには必ず存在している上層ドームが必ず設置しなければならない、
砂上を移動する者に場所を知らせるための目視灯。

しかし、それに照らされたメルチュアのドームは他のオアシスと
比べてやけに小さいものだった。

一般的な上層区間は数キロ四方あるものもざらだ。

しかしメルチュアのそれは僅かに箱型をしているだけで、
とても人が住めそうなスペースはない。
266 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:50:33.87 ID:9DIDK4U20
代わりにドーム周辺の下層区域が異常に広かった。

家屋もテントではなく、簡易的な合成素材で作られているものが多い。

聞いたことのないオアシスだった原因がなんとなく分かった。

ここの『ドーム』……つまり本来ならば食料などを生産するための生命維持機関は、
他のところと違って僅かなものしかないのだ。

街、と言うよりは下層のみで構築されたスラム街といったほうが近いかもしれない。

どうして食料生産も水の管理もできないのに、
人間が集合するコミュニティとして成り立っているのか。

それは事前にアラリスが調べてくれていたが、
どうもこの街はメルヘド達が今乗っているような砂上列車を通じての
貿易によって成り立っているらしかった。

ようは他のオアシスから商品を仕入れ、それを高額で買い取れるアオシスに仲介する。

その中継地点というわけだ。

面白いことに人間は環境が過酷であればあるほど、
生きていくための環境を上手く整える。
267 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:51:33.93 ID:9DIDK4U20
生産するための施設が存在しないなら外部から輸入すればいい。
そういう思考の転換をここの者はしたのだろう。

ぼんやりと近づいてくるメルチュアを見ながら、
メルヘドは凝り固まった首と背中の骨を鳴らした。

「思ったより、早くついたな」

「そうですな。しかし坊ちゃま。今回はお一人で行かれないので?」

何気ない風に聞かれて、メルヘドは口元に手を当て、
黙って人家の明かりが点在するスラムオアシスに目をやった。
そしてしばらくしてから声を上げる。

「……アラリスと買い物に行く約束してるからなぁ」

「ほっほっほ。それは良いですな。
遅れた青春を満喫されておられるようで、
爺もレディを教育しがいがあります」

「茶化すな。俺に幼女趣味はねぇよ」

疲れたように返して、息を吐く。
268 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:52:40.73 ID:9DIDK4U20
「だが……どうやら行く予定だった上層には寄れそうにないが、な」

青年の呟き。砂色の靄の中、その時大きく揺れて列車が止まった。

オアシスからはまだ数百メートル離れているが、
まだ入街の許可をもらっていないために、
キャラバン単体として列車を乗り入れることはできない。

どちらにしても夜が明けたら街に入る予定だったので、
ここで停車したというわけだ。

「さて、色々どうしたもんかね……」

くぐもった声で囁くように言い、メルヘドは腰に挿した
なまくら刀の柄を、黙って手で弄んだ。
269 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:54:58.75 ID:9DIDK4U20


アラリスは、夢を見ていた。

何時間経ったのだろうか。

それとも何日?

真っ白だ。

何もかもが、真っ白だ。

――目を開けた。

ゴトン、ゴトンと電車が鳴る。

突き刺さるような太陽の光を瞳に受けて、慌てて目を閉じた。

体中が重い。そして……びしょびしょに濡れていた。

いつの間にか、喉の奥まで水が入り込んでいた。

小さく咳をして吐き出しながら、もう一度目を開ける。
270 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:55:50.43 ID:9DIDK4U20
何てことはない、中天まで昇った太陽が光を撒き散らしていただけだった。

それが列車の窓から見える。

ところどころぼやける視界をスクロールさせると、
着ているボロ切れみたいになった白いワンピースが目に映った。

「……ここ、どこ?」

何となくそう思って口を開く。

どこだろう、ここ……。

周りを見回す。

一面びしょびしょだ。

この熱い砂漠の中を走る列車。

壁も、床も。透明な水でぐしょぐしょに濡れている。

体も水浸しだった。

指先から垂れる水滴を払い、髪を絞る。
271 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 21:58:13.75 ID:9DIDK4U20
ふと胸を見ると、滲んだ赤い色がワンピースに広がっているのが飛び込んできた。

それだけではない。ところどころ焼け焦げた小指大の穴が点々と空いている。

「何……これ?」

軽く触ってみる……焦げている。何だろう、良く分からない。

手の平を広げて、じっと見る。

……私の手?

私……私?

「あれ……? 私って」

名前……名前。

思い出せないことに気づくのに、数秒かかる。

私は……誰?

分からない。
272 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:00:53.54 ID:9DIDK4U20
……分からない。

…………何だっけ?

頭の中が白墨で塗りつぶされたみたいに、真っ白だ。

何もない。

何も覚えてない。

また周りを見回すと。そこは列車の運転席のようだった。

ぐしょぐしょに水滴をたらしているシート、操縦機器。

名前は分からないし、どうしてここにいるのかも分からないけど、
それが何なのかは知っている。

そして……シート、及び床には何着もの水を含んで投げ出された洋服があった。

持ち主はいない。

下着から、ズボン、上着にいたるまで。

身に着ける者、その中身を全部どこかに取り去ったように。

服だけが放置されている。
273 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:01:55.84 ID:9DIDK4U20
(何で……?)

ぐちゃぐちゃになったそれを見ていると――自然と、足が震えだした。

「あれ……あれ……?」

囁くように呟きながら、いつの間にか震えている自分に困惑する。

私は知っている。

その意味を。

でも、思い出してはいけないような気がする。

思い出したら、私は今度こそ完全に壊れてしまいそうな気がする。

……今度こそ?

………………今度こそ……?

足を踏み出す。水溜りの中に裸足を踏み入れると、
生ぬるく蒸散した水分が足裏に当たる。

――何だか、ぬめっている。

気持ち悪い。
274 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:03:40.83 ID:9DIDK4U20
どこか水がない場所……水がない場所に。

足の裏に残る不気味な感触から逃れたい。

不意に頭の中にそんな考えが割り込んできて、出口に向かって歩き出す。

どこもかしこも床はびしょびしょだ。

歩くたびに滑る。水じゃないみたい。

……油。

それも、動物の……体に染み付く、油みたいだ。

振り返ると、操縦席の窓から、誰も動かしていないのに
走り続ける風景が見えた。

どこまでも続く砂漠を、列車は自動操縦で走り続けていた。

視線を前に戻して、僅かにドアを開けて隣の車両に移る。

……そこも、操縦車両と同じ光景だった。

ぐしょぐしょの床と、散乱した服。

誰も……誰もいない。
275 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:04:22.02 ID:9DIDK4U20
「……誰か」

自然と、言葉が口をついていた。

むせ返るような生臭い、腐ったような水の臭いの中、口を開く。

「誰か、いませんか?」

飛び散っている服を踏みしめながら、裸足で歩く。

誰もいない、走り続ける列車の中を……。

「誰か……いませんか?」

次も、次の車両も。

その次も、次も。

同じ光景。その繰り返し。

答える声は、どこにもなかった。
276 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:05:05.58 ID:9DIDK4U20


アラリスは目を開けると、ぼんやりと天井を見上げた。

(あ……)

覚醒から意識が戻ってくるまでに、実に数秒間かかった。

ぼんやりとレースがかかった脳の中を無理やりにはっきりさせ、
ただ列車の天井を見つめる。

(また夢……だ)

定期的に見る夢。

いつも、同じ夢。

最近は見ないと思っていたが、やっぱり一ヶ月に三回は見るみたいだ。

心臓が破れそうに早鐘を打っている。

息が苦しい。

いつも、いつも。

同じところで目が覚める。
277 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:06:14.46 ID:9DIDK4U20
時間は決まって、朝方の午前三時三十分。

ベッド脇の時計を見ると、アナログな分針はやはりその時間を指していた。

「だれ、か……」

口に出して呟いてみて、言葉を止める。

ベッドの脇に巨大な影がうずくまっているのが目に入ったからだった。

それはカーテン向こうの星明りの空から漏れてきた光に映し出された、
黒色の毛皮をした獣の姿だった。

アラリスの体と殆ど同じくらいの巨体をした犬……
アーンガットが丸くなって眠っている。

息をついて、またベッドに仰向けに体を預ける。

パジャマの上から胸を押さえると、
心臓の鼓動は大分遅くなっているようだった。

手を広げると、ぐっしょりと汗をかいている。

――怖い
278 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:07:08.97 ID:9DIDK4U20
どことなく自分の体が震えていることに気がついて、
アラリスは唾を飲み込んだ。

何を……何を怖がっているんだろう、私は。

顔の前に両手を持ってきて、強く握る。

この夢を見続けて、もう二年も経つ。

毎回同じものを見る。

もううんざりだ。

いつまでこんなことが続くんだろうとうっすら思うけど、
どんな睡眠薬を飲んでも、寝る前にどんな幸せなことがあっても、
この夢を見ると必ず気分が台無しにされて、同じ光景が浮かんでくる。

また胸を押さえて、息をつく。

(誰にも、言えないよね……)

心の中でため息をついて唾を飲み込む。
279 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:07:51.64 ID:9DIDK4U20
アーンガットにも、師であるメルヘドにも言っていない。

彼らを信用していないわけではない。

だが……言ってしまうと、何だか上手く言葉に出来ないが。

その方が、自分にとって怖いことが起こるような漠然とした不安が沸いてくるのだ。

「ぅ……」

毎回夢を見た後にやっているように、眠気をこらえてうつぶせになる。

そして枕に顔をうずめて小さく呻く。

どうしようもないぐちゃぐちゃな気分で目覚めると、一日が最悪だ。

だから小さくても呻いて、少しでも気分が晴れればいい。

大声で喚くわけにはいかない。

私はこのキャラバンを所有しているボスの弟子なんだ。
280 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:09:28.74 ID:9DIDK4U20
毎朝していること。

毎朝、同じことの繰り返し。

胸を振るわせる。

……何なんだろう、あの光景。

誰もいない列車。

ガタン、ゴトンと鳴る音。

揺れる車両。

びしょびしょの体。

よく、分からない。

二年間見続けても尚、慣れない。

(誰か……いませんか……)

頭の中で小さく、アラリスはもう一度呟いた。
281 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:11:18.39 ID:9DIDK4U20


メルヘド達のキャラバンがメルチュアの入り口まで到達したのは、
夜が明けて連絡員がメルチュアの中央役場に入場許可をもらいに
行ってからのことだった。

既に殺人的な暑さになっている砂漠の中、
巨大な砂上列車がエンジン音を立てながら停止している。

メルヘドは自分のベッドに腰をかけて、
椅子に座り込んでうつらうつらとしているアラリスを黙って見つめた。

……今朝からずっとこの調子だ。

さっきから眠りそうになった時は声をかけて起こしているが、
このまま放っておけば本当に寝てしまうんじゃないかと言うくらい、眠そうだ。

目の下には青白くクマが浮いている。

実のところ、この子がこのような状態に陥ることは、珍しいことではなかった。

十日にいっぺんくらいの割合で一日中眠そうにしていることがある。
282 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:12:10.56 ID:9DIDK4U20
睡眠不足……というよりは、
睡眠中に何か体力を消耗しているようなそんな感じだ。

しかし、別段やらなければならない仕事をしているとき以外は、
居眠りなんかしていてもメルヘドは注意をしない性格だった。

それは重々言っているし、この子も理解はしている。

だが、眠ることをどことなく嫌がっているような、
そんな感覚を時々受けることもある。

そういう風に不安定そうな、どこか戸惑っているような
雰囲気を漂わせている時に。

メルヘドが列車の中にいると、必ず彼女は素直に眠らずに師の部屋に来る。

そしてお菓子をかじりながら、
眠りそうになったら起こしてくださいと頼むのだ。

お菓子といっても、今ねだられて渡せたのは大分前に寄った
オアシスで買った棒つきの飴一本だけだった。
283 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:12:47.10 ID:9DIDK4U20
あまり年相応に甘えてくることがないために、
ねだられたら何かを渡すようにはしているが……何分今は蓄えがない。

しかしそれでも彼女はもらったときは嬉しそうに頬張っていたが、
それも今や舐めていない。

ぼんやりと棒飴を手に持って、焦点の合わない目を宙に彷徨わせている。

(……全く。俺は召使いじゃねぇーぞ)

心の中で毒づき、しかしメルヘドは黙って少女の額を小突いてやった。

「おい、起きろ。そんなに辛いなら俺のベッド使っていから、
少し横になって休んでろ。椅子よりかぁ楽だろ。
入場手続きに三時間くらいかかるから、その間はやることねぇだろうし」

「……ぇ? あ、ええと……はい?」

「大丈夫かお前?」

「え? あ、はい…………はい?」

「大丈夫じゃないな」
284 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:13:35.77 ID:9DIDK4U20
ぼんやりとした視線で聞き返してくる少女に適当に頷き、
メルヘドは立ち上がると、アラリスの小さい体を軽々と抱えあげた。

そして自分のベッドに横にさせる。

「ちょっと水持ってきてやるからそこで静かにしてろ。
あとアーンガット呼んできてやるから」

「……はい? あの……バターが…………」

「……あ? ああ分かった……もういい喋るな」

半分寝ぼけているらしい。

適当に受け答えてから乱暴にドアを閉めて、メルヘドは隣の車両に出た。

と、そこで扉の前に詰めるようにしてたむろしていた数人の職員に
突っかかりそうになり、慌てて立ち止まる。

キャラバンの構成員の若者達だった。

全員、メルヘドの部屋を覗き込んでいたらしく、
取り繕うように背筋を伸ばして一斉に敬礼する。
285 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:16:35.05 ID:9DIDK4U20
「お、おはようございます、メルヘド師!」

やけにかしこまった挨拶をされて、
メルヘドは目を白黒させながら体勢を立て直し、彼らを見回した。

「どうしたお前ら?」

「い、いえ、我々はポーカーの勝負を……特に他意はございません!」

「ポーカー? あぁそうか。そういうのは食堂でやれな」

「し、失礼しました!」

もう一方の若者が口を開き、彼らが全員、
やけに素直にきびすを返してドカドカと車両を出て行く。

メルヘドの部屋の隣は後部車両のため倉庫になっているのだが、
ここでポーカーをやっているなんて聞いたことがない。

まぁ……どうせ、おおかた定期的に様子がおかしくなる
アラリスのことを心配してたむろしていたんだろう。

メルヘドの部屋に入れるのは、副長のアーンガットと弟子のアラリスだけだ。

その他の構成員は全員、許していない。
286 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:17:31.53 ID:9DIDK4U20
というか……毎回アラリスがこういう状態になってメルヘドの部屋に来ると、
ローテーションでも決まっているのか別の団員が扉の前にいる。

毎回毎回違う言い訳を考えてくる。

そして怒られると分かっていてすぐさま退散するが……
まぁそれ程アラリスが大事に思われていると、彼は解釈することにしていた。

「……ほっほ。お人が悪い。
お嬢様の顔を見せて差し上げるくらいのことは問題ないでしょうに」

そこで倉庫の脇から壮年の声を投げかけられ、
メルヘドは視線をそこにスライドさせた。

いつからいたのか、暗がりから闇色の毛皮を光らせながら
アーンガットが歩いてくるのが見えた。

「バカ言え。何で俺がロリコン共にそこまでの配慮をしてならなきゃならんのよ。
それに男にとって幻想は幻想のままの方がいいんだよ。
あの状態のアラリスは見苦しくてかなわねぇ」
287 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:18:12.11 ID:9DIDK4U20
「それは言い過ぎというものでしょう。
久しぶりに不安定な時に坊ちゃまがいらっしゃるので、頼っているだけですよ。
それに今朝の朝食も全部お嬢様が作られているのです。
心配なのですよ、皆。我がキャラバンでたった一人の女性ですからな」

ハッハッ、と、暑いのか舌を出して息をしながらアーンガットが言う。
メルヘドは肩をすくめて足を踏み出した。

「どうでもいいよ、んなことは。それよりアラリスの様子がいつもと違う。
俺は水を持ってくるから、お前、少し見ててやってくれないか。
寝そうになったらさりげなく起こせ」

「御意に」

頭を垂れて、彼は器用に前足で扉を開けてメルヘドの部屋に入っていった。

扉が閉まるのを確認して、歩きながら少し考え込む。

(バター……? 何のことだ?)

先ほどのアラリスの言葉が妙に気になった。

バターなんて高価なもの、このキャラバンでは勿体無いので買っていない。
288 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:18:51.81 ID:9DIDK4U20
乳製品系統は生産されているという声を聞くのも稀だし、
事実メルヘドも見たことが殆どない品だった。

名前を知っていたのは、少し前に行ったオアシスの上層市場で初めて、
偶然見かけたからに他ならない。

(何であいつがバターのこと知ってんだ?)

少し頭を捻ってみて……青年はどことなく胸の奥に冷たいものを感じ、
考えるのをやめた。

どちらにせよ早く水を飲ませてやった方がいいだろう。

食堂の方に足を進める。

「おい、水残ってないか?」

食堂車両に入るなり声を上げると、休憩中だったらしい団員達が、
手に持っていたトランプカードを急いでテーブルに置いて立ちあがった。

そして全員敬礼をする。

「お疲れ様です、メルヘド師」
289 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:19:35.53 ID:9DIDK4U20
「おぅお疲れ。休んでていいぞ。えーと……どいつか水持ってたら出せ。
アラリスがまた曖昧になってる。体も乾いてるし、何か飲ませたいんだが」

丁寧な挨拶をかったるそうに打ち消した師の子の言葉を受け、
団員達はお互いに顔を見合わせた。

そして言いにくそうにそのうちの一人の青年が口を開く。

「……申し訳ありません。さっき貯蔵庫を確認したばっかりなんですが、
ストックは今日の朝飯で全部なくなったみたいなんです。
お嬢ちゃんが、メルチュアで補給できるから使っちゃいましょうって……」

「何? じゃあ列車ん中には一本もねぇのか、今は」

「ちょっとお待ちください。もう一回見てきます」

出口付近に座っていた青年が立ち上がり、慌しく食堂車両を出て行く。

程なくして駆け戻ってきたが、彼は肩をすくめてから言った。

「駄目です。すっからかんです」

「あー……今日の朝飯が珍しくスープだと思ったらそういうわけだったのか……」
290 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:20:21.23 ID:9DIDK4U20
軽く呟いて額を押さえる。

朝は平気そうに見えていたが、
どうやらアラリスは朝食の準備時点で寝ぼけていたらしい。

いくらメルチュアで水を補給できるといっても、
もろもろの入場手続きを終えて、本部の要請を受けたメルチュア政府が
キャラバンに行動許可証を発行してから、
初めて外に出れるのだ。

それまではメルチュア内部に停泊したとはいえど外に出ることは出来ない。

息をついたメルヘドを見て、しかし団員の一人がにこやかに口を開いた。

「あ、でも心配はご無用です。
今メルチュア上層に入場許可をもらいに行ってる奴が、
こっそり飲み物を買ってくる予定になってますから」

「おおそうか。気が利くな」

その言葉をきいて愁眉を開く。行動許可証がなければ、
本当は部外者がオアシス内での買い物をしてはいけないのだが、
まぁバレなければ問題はない。
291 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:21:33.07 ID:9DIDK4U20
元々団長であるメルヘド自体が適当な人間なので、
不正行為を口にしている団員たちもどことなく気楽なものだった。

まぁ、本当は怒らなければいけないのだろうが。

「じゃあ飲み物が届いたら俺の部屋まで持って来い。
それまでは自由行動でいいからな。
入場許可もらいに行ってる奴はどいつだ?」

「クレイスですよ……でもあいつ、やけに遅くないか?」

メルヘドの近くに座っていた団員が他の者に問いかけると、
彼らは今はじめて気づいたとばかりに壁にかけられたアナログ時計を見上げた。

「そういや。一時間ありゃ戻るとか言ってた割に、もう二時間経つな」

「おおかたどっかで女でも引っ掛けてるんじゃねぇか?」

「ははっ、違いねぇ。あいつスケベだもんなぁ。
このあたりには美女が多いって聞くし」

「マジでか? おい上陸したらちょっとパプでも探さねぇ?」

会話だけを聞いていたらどこかのガラの悪い山賊と変わらない。
292 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:22:18.76 ID:9DIDK4U20
そんな雰囲気にはもう慣れっこになっているので、
メルヘドは一つ息をついてから口を開いた。

「一時間も油売ってやがるのか。こりゃ、帰ったらトイレ掃除一週間だな」

「うひゃー、惨い惨い」

「あいつの携帯端末に連絡入れてみたか? 
とっとと帰ってこいって伝えろ」

しかしそう言ったメルヘドに帰ってきたのはきょとんとした返事だった。

「あれ? 師はご存じないんですか?」

「何をだ?」

「このあたりの土地は磁力が強い砂鉄を多く含んでまして、
電波通信は波長が乱れて使い物にならねぇんですよ。
全く、面倒くさい土地です」

そういえばそんな情報を前日にアラリスから聞いたような気もする。
磁場の影響で電波通信機器が全部起動しない特殊な土地。

思い出して頷き、それに答える。
293 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:23:01.09 ID:9DIDK4U20
「そうか。そういやそうだったな……
まぁ、じゃあクレイスが戻ってきたら持ってこさせろな」

「了解しました」

片手を挙げて食堂車両を出る。

そしてメルヘドは、その足で列車の非常口を開けた。

おおかた適当なここのキャラバン団員のことだ。

先ほども話があったとおりにどこかで油を売っているのだろう。

いつ戻ってくるか知らない者を黙って待っているつもりもなく、
メルヘドはマントのポケットに突っ込んである紙幣の束を手でまさぐった。

「……しゃーねーなあの小娘は」

小さく毒づいて、砂漠の砂に飛び降りる。

途端、直射日光が脳天に突き刺さり、彼は僅かに顔をしかめた。

空調が多少なりとも利いていた列車内とは全く違って、
揺らめく空気の層が体全体に飛びかかってくる。
294 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:23:43.07 ID:9DIDK4U20
深い茶色に焦げた砂漠に立ち、
彼はすぐ近くに乱立しているメルチュアの建物に目をやった。

ここから一キロも離れていない。

忍び込んで水を買って帰るのに、三十分……いや、十五分もかからないだろう。

とにかく、アラリスのあの状態……。

本人は気づかれていないと思っているのだろうが、
メルヘドはその理由を誰よりも詳しく知っていた。

明確な治療法も、薬も存在していない。

あるとすれば水分を摂らせてリラックスさせるくらいだ。

マントのポケットに手を突っ込み、腰のなまくら刀を鳴らしながら歩き始める。

そろそろ昼に差し掛かるゆえ、太陽が真上に来ていた。

流れてきた汗を手でぬぐい、前を見つめる。

目の先にそびえるメルチュアの都市は、他では見ない異様な形をしていた。
295 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:24:39.52 ID:9DIDK4U20
前夜に見たときは暗がりでよく分からなかったが、
オアシス全体を囲むように四メートル近い、
こげ茶色の壁が円形に覆っている。

程なくしてそれに近づき、メルヘドは壁に手をついた。

焼けそうなほど、熱を持っている。

どうやら合成素材でも金属素材でもなく、
漆喰と土を粘着剤で硬化させたもののようだ。

周りを見回してみたが、普通のオアシスにはある見張り用の監視カメラなど、
それに類するものはない。

とにかく機械制御は一切されていないらしい。

メルヘドの身長は約一メートル七十センチ。

大体二倍くらいの壁を見つめ、彼はゆっくりと自分の両足に力を込めた。

万力で胡桃を締め付けるように、徐々にふくらはぎに意識を集中させていく。

そして彼は、何の予備動作もなく足下の地面を強く蹴った。

まるで銃声のような乾いた音がする。
296 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:26:21.37 ID:9DIDK4U20
次いで細身の青年が軽々と宙に飛び上がり、
あっさり壁を跳び越して向こう側に着地した。

そこで不意に、メルヘドは、メルチュアの壁の中に降り立つ直前に。

言いようのない寒気を感じて息を呑んだ。そのまま柔らかく腰を落とし、
体を固定してから立ち上がる。

寒気……冷気、というよりは壁に隔てられたこちら側に、
どこか生臭いような……腐った肉のような腐臭と違和感を感じたのだ。

(な、何だ……?)

すぐには動き出さずに周りを見回し、その場の状況を観察する。

メルヘドが降り立ったのは、丁度目の前に設置されていた簡易家屋の裏側だった。

普通のオアシス下層ではテントが立ち並んでいるところだが、
ここでは合成素材できちんと建物が建設されている。

それもこの壁で砂嵐から守られているからできることなのだろう。

左手を伸ばし、背後の土で出来た防砂壁に触れる。

こびりついた砂の塊を指先で掻き落とし、そして彼はもう一度顔を上げた。
297 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:27:05.67 ID:9DIDK4U20
……生臭い。

何かが腐った臭いがする。

どこかから漂ってくるのではない、この空間全体に充満しているのだ。

例えるなら、そう。生肉を密閉容器に入れて砂漠に
一日放置した時の言いようのない悪臭……
それが鼻に飛び込んできている。

先ほどはその、予測もしていないところに突然鼻に飛び込んできた怖気で、
体に寒気が走ったのだ。

どことなく警戒しながら、家屋の裏より表に顔をのぞかせる。

そこでメルヘドは息を呑んだ。

(何だ……こりゃ)

唖然として一瞬停止する。

……目に映ったものを瞬時に理解することが出来なかったのだ。

しばらく呆然と口をあけて目の前に展開されている光景を見つめる。
298 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:27:45.31 ID:9DIDK4U20
そこは、メルチュアの一般市場だった。

住民の居住区がそのまま市場になっているのだろうか。

家屋の前にシートが広げられ、保存食やら、瓶詰めの水などが販売されている。

視線をスクロールさせると古着、マスクやマントまで売られているのが確認できた。

しかし、理解できる光景はそこまでだった。

普通ならそこには人間がいるはずだった。

商品を売る者、買う者。そしてその区域に住まって生活をしている者。

子供から大人、老人まで。さまざまな人間が確認できるはずだった。

しかしメルヘドが見ることが出来たのは、奇妙な半透明の物体だけだった。

それが何十となくひしめき合っている。

いや……その半透明に白濁した物体は見覚えのある形をしていた。

人型……マネキン人形のように、目も、口も何もない物体。

それが服を着て歩き回っていた。
299 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:28:29.57 ID:9DIDK4U20
マスクやマントをつけている個体も数多くいた。

――人間の形をした半透明のマネキン人形。

表情も何も確認できないそれが、先ほどまでいた場所と
壁一つ隔てたメルチュアの街中を大量に闊歩していたのだ。

(……な……何だ、こりゃ……)

もう一度考えを整理しようと、頭の中で小さく呟く。

すぐにでも飛び出していきたい衝動にかられたがそれを
無理やり抑えつけ、家屋の影から市場の様子を見つめる。

よく見ると白濁したマネキン人形たちは普通の人形のように、
それぞれが入用なものを購入しているのが分かった。

また、その品物を売るマネキンもいて、
ちゃんと金を受け取って商品を渡している。

(に、人間なのか……? これ……)

歩き回る、マネキン。

子供大のマスクをつけたそれが一人、二人と走り回っているのも確認できた。
300 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:30:44.31 ID:9DIDK4U20
老人のように背中が曲がって杖を突いているものもいる。

男女らしいペアで腕を組んで歩いている者。

具合が悪いのか、固形アルコールでも食らって酔っているのか、
ふらついた人影も見える。

何だ……これは。

まだ理解することが出来ない。

先ほどまで、この光景のすぐ外にいたのだ。

メルチュア内部と連絡を取ったわけではないが、
都市としてきちんと機能していることを前提に停泊していた。

それが、薄壁一枚隔てた向こうが……これだ。

すぐさま理解できる方がどうかしている。

あまりの光景に思考が停止したまま数秒が過ぎる。

しかしメルヘドは、そのマネキンたちが人間のように
足音を立てるのを聞いてハッと我に帰った。
301 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:31:30.81 ID:9DIDK4U20
しばらくして、意を決して彼は市場に足を踏み出した。

動くマネキン人形の中に入り込む非現実の違和感を
体全体で感じながら、手近な一体に近づく。

マントの中の刀を手で握りながら、彼は口を開いた。

「ちょっと……俺の声が、聴こえるか?」

応答はなかった。おそらく女なのだろう。

長いスカートと全身を覆うマントを羽織ったマネキン人形は
滑らかな動作でメルヘドの脇にしゃがみこむと、
隣のシートに広げられていた乾パンの包みを手に取った。

そしてマントの中から財布を取り出し、
同じく地面に座り込んでいたマネキンに
中から摘み出した硬貨を渡す。

「お、おい……」

あまりのことにどもりながら、自分のことを無視した
マネキンの肩を掴む。

すると、そこでやっと対象が振り向いた。
302 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:32:30.28 ID:9DIDK4U20
しかしこちらを向いた顔面を見返して、
そこでメルヘドは戦慄を覚えた。

それは、何もない。ただのっぺりとした滑らかな球面だった。

思わず手を離して後ずさると、意外なことにそのマネキンの口に
あたる部分が波紋のようにざわめいた。
そして口のような形に窪み、次いでそこから人間の……
女の声が飛び出してきた。

「……あら? そこにいたの? 駄目じゃない、
日が昇ったら外に出ちゃいけませんって言ったでしょう。
あなたは体が弱いんだからね。お日様の光は目に毒よ」

「…………はァ?」

普通の女性の声だった。

女マネキンはこちらに向かって一歩を踏み出すと……
メルヘドの脇にしゃがみこんだ。

そして何もない空間を、まるで子供の頭を撫でるように撫で付ける。

「ほら、母さんと一緒に家に帰ろう? 
父さん、今日は早く帰ってきてくれるって言ってたよ」
303 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:33:16.12 ID:9DIDK4U20
「な、何を……言ってる?」

「うんうん、分かった分かった。じゃあそれを買ってから帰ろうかね」

メルヘドと話しているんではなかった。

空虚な空間に、まるで子供がいるかのように声は優しく、
愛しそうに語りかけていた。

マネキン人形にしか見えない物体から声が出てきたというだけでも異常なのに、
そのますます不気味な行動を見てメルヘドは判断をつけることが出来ずに、
更に後方へと後ずさった。

慌てて周りを見回すと、その他のマネキン人形も、
目の前の個体と同様なことをしていた。

何もない虚空に向かって語りかけているのだ。

口のような窪みから出てきている音は、ちゃんと人間の声。

しかし、メルヘドの姿は確認できていないらしい。

「何だこの生き物は……」

しばらくどうしたらいいのか分からずに呆然とする。
304 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:34:18.53 ID:9DIDK4U20
そしてメルヘドは、試しに目の前のシートに並べられていた水の瓶を手に取った。

本来なら貨幣が違うので、レートがいい両替屋に代えてもらい、
そこから払わなければならない。

この量の水だと相当高いはずだ。

しかし店番と思われるマネキンはこちらを見もしない。

少し考えて、メルヘドはその前で無造作に水の栓を開けてみた。

やはり……反応はない。

二、三度目の前で栓が開いた瓶をちらつかせてみても同様だった。

ふと思いつき、青年は次の瞬間……無造作に手に持った水をそのマネキンにぶちまけた。

放射線を描いて座り込んでいる個体に降りかかる透明な水。

しかしそれは、白濁した対象の体に触れると、
途端にジュッ、と焼けた鉄板に触れたような音を立てて蒸散した。

それを見て、唾を飲み込む。

「やべぇな……何が安全な仕事だよ!」
305 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:35:08.26 ID:9DIDK4U20
流石に背筋が寒くなり、彼はマネキンがひしめく市場を、
元から来た壁に向かって走り出した。

とりあえずここを出よう、そう本能的に思ったのだ。

しかし……見覚えのある家屋の裏手に回ったところで、彼の足は止まった。

そこに壁はなかった。

ただ、目の前の家屋と同じような建物が並んでいた。

周りを見回してみたが、どこにもメルチュアを囲む壁は見えなかった。

確かに通ってきた道のはずなのに、逆方向に進んだような錯覚を受け、
メルヘドは息を詰めて、足に力を込めた。

そして壁を飛び越えた要領で大きく跳躍し、手近な建物の屋根に着地する。

そこから周りを見回したが……そこで彼は再び自分の目を疑った。

道を間違っただけなら、本来ならばすぐ近くに壁が見えるはずだ。

しかし目的のメルチュア防砂壁は遥か遠く。

そう、五、六キロ以上先にうっすらと見えるだけだった。
306 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:36:15.83 ID:9DIDK4U20
自分は今メルチュアの中心街に近い部分にいたのだ。

軽く舌打ちをして息をつく。そしてメルヘドはマントのポケットに手を入れて、
携帯端末を取り出した。

アラリスの端末に何とか接続しようと計器を操作するも、
やはり機械自体がここ一帯の磁力のせいで立ち上がらない。

端末をポケットに放り込み、彼はもう一度強く舌打ちをした。

……不味い。

こんなこと、全く予想もしていなかった故に、気が抜けていた。

よもや緊急の依頼も何も来ていない、偶然立ち寄っただけに過ぎない場所で
この危険度の事象に遭遇するとは、不覚ながら考えてもいなかったのだ。

「汚染レベル……Aってとこじゃねえな」

小さく呟いて唇を噛む。

立っている建物の足下に広がる世界。

そこは中央の広場らしく、おびただしい数の人影が確認できる。

しかしそれらは全て……半透明の『怪物』の様相を呈していた。
307 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:37:00.29 ID:9DIDK4U20
もう一度息を吸って、状況を整理する。

自分は壁を乗り越えて、水を得るためにこのオアシスに入った。

そして中に入ってみると人間型のマネキンのようなものが大量に確認できた。

更に、移動した覚えのない距離をいつの間にか移動している。

(……新種か……?)

その三点に同時に影響を与えられる龍は、メルヘドの記憶にはなかった。

しかしこれは紛れもなく龍が起こした汚染事項だ。

先ほどマネキンの一体に水をかけたところ、焼けるように蒸散した。

あれは拒絶反応で、龍それ自体、または龍に汚染された生物が、
アカスアでろ過された水に触れた場合に起こる。

つまりこのマネキン達は、龍によって汚染された元人間……ということになる。

人間を水以外の別の物体に変質させてしまう龍なら、数多く確認されていた。

ただ単に体内に食することで人を溶かすだけではなく、
たとえば身動きが取れないように何らかの手段で拘束してからゆっくり溶かす、
という蜘蛛のような個体もいる。
308 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:38:01.90 ID:9DIDK4U20
そして……龍とは必ずしも目に見えるものではないことを
メルヘドはもう一度思い出していた。

人間を三次元生命体とすると、龍は八次元生命体、
いわゆる多次元に位置する物体だ。

それゆえに三次元で適応される時間、空間など全ての物事が
常識どおりには適応されない。

それそのものの形も既成概念には縛られない。

人間がこのような形に変えられて、そしてもしこの空間の中に
『囚われて』いると仮定したら。

目的は一つだ。

人間を吸収して、水にすること、それだけ。

その手段は分からないが、この現象を龍が起こしていることが
前提なら目的がそれである可能性は非常に高い。

(正気を奪われてるのか? いずれにせよ、
とにかくキャラバンに戻って何とか本部と連絡をとらなければ……)
309 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:39:31.82 ID:9DIDK4U20
完全に未知のケースだ。

想定もしていなかったこと故に、すぐに対処する方法を見つけられず、
メルヘドは建物の屋根から飛び降りると先ほど見えていた
壁の方に向かって走り出した。

と、そこで彼の体に紙とぶつかったような軽い感触が響いてきた。

前をよく見ていなかったので慌てて立ち止まる。

その目に、ゆっくりと後方に倒れていく一体のマネキンが映った。

目の前にふらふらと歩いてきた個体と正面から衝突したのだ。

途端だった。

パシャ、と水風船を破裂させたような音を響かせて……
ぶつかったマネキンの頭が周囲に吹き飛んだ。

大して抵抗もなかったためにただ立ち止まっただけのメルヘドの目の前で、
大げさにそれは地面を転がった。

そして頭部がなくなって何度か痙攣する。

唖然として見ていると……地面に投げ出された手、足が
徐々にゲル状に溶けて地面に染み込んでいった。
310 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:40:22.02 ID:9DIDK4U20
そして十数秒も経たずに、服だけを残して完全に消える。

思わず息を呑んで口元を押さえる。

「もしかして、この街全体がもう龍と同化してるのか……?」

周りを見回す。

ふらふらと歩いているマネキンの中で、定期的に何体か頭が
吹き飛んで地面に崩れ落ちるのが見えた。

それらも同じように体がグズグズに崩れて地面に染み込んでいく。

「冗談じゃねぇ……早いとこ出ねぇと」

毒づいて彼は腰を落とした。

龍は多次元生命体。次元というものは多く重なれば重なるほど時間、
そして距離の流れが曖昧になっていく。

先ほど壁の方に向かっていたのに中央に来てしまったのは、
おそらく今現在八次元生命体である龍の『体内』に位置しているからなんだろう。

時間はどうか分からないが、距離が異様に曖昧になっているらしい。
311 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:41:02.38 ID:9DIDK4U20
(だから帰ってこれなかったのか……)

二時間前にここに来た団員のことを思い浮かべる。

楽観視しすぎていた。早く救助したいのは山々だが、
それはまずここを出てからの話だ。

(……一気に突破してやる)

心の中で呟き、意識を両足に集中する。

いくら距離が曖昧になっていたとしても、
突破できる点がランダムにあるかもしれない。

とにかく、止まっているだけではどうにもならない。

「……メル?」

その時だった。

丁度足に集中していた意識を解き放とうとした瞬間のことだった。

(な、何だ?)

背後から唐突に声をかけられ、メルヘドは思考を一気に崩されて、
弾かれたように振り返った。
312 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:41:48.45 ID:9DIDK4U20
(え……?)

その目が、まるで幽霊でも見たかのように
驚愕と同様の入り混じった色に見開かれる。

その耳に、はっきりと若い女性の声が飛び込んできた。

快活そうな、カツゼツのいい声だった。

「どうかした? そんな怖い顔をして。
今日の午後は一緒に本部で実技研修をする予定でしょう。
そろそろ準備しなくて大丈夫?」

笑顔。

……聞き覚えのある、声。

「メル? あらあらこの子は……また居眠りしてたのね」

長い、髪。

首の後ろで一つに結ばれた褐色の髪が、
彼女の膝裏まで伸びてひらひらと揺れている。
313 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:42:44.19 ID:9DIDK4U20
ゆったりとした上着。

愛用していた、体よりも数倍大きな皮のジャケットでお尻までを隠し、
そしてぴっしりとしたパンツを履いた特徴的なスタイル。

快活そうな瞳をいたずらっぽく光らせ、その女性は笑った。

「ほら、起きなさい。あなたは正式な『断』の弟子になったんですから。
しっかりしないと、置いていきますよ?」

彼女が近づいてくる。

そして、ペチリと軽い音を立てて頬を叩かれた。

乾いた感触。

痛くはない。

しかしそれで意識が、目の前の人に引き寄せられた。

いつの間にここまで接近されたのか、とかそういったことを考える余裕はなかった。

全く近づかれる気配を感じなかった。
314 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:43:16.23 ID:9DIDK4U20
ただ、目に映ったもの。

それは不気味なのっぺりとしたマネキンの顔ではなく、
確かな人間の表情だった。

それも、よく見知った顔だった。

「せ……」

乾燥した喉からは、すぐに声が出てこなかった。

「ん? どうしたの?

「……せ、先生……?」

呆然と、メルヘドはかすれた声で呟く。

目の前に立った女性は、マネキン人間がひしめく広場の中。

少しきょとんとした後、にっこりと、屈託なく笑って見せた。
315 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:45:15.27 ID:9DIDK4U20


「ほら、しっかりしなされ、お嬢様」

軽い声と共に獣臭い肉球で鼻の下をくすぐられ、
アラリスはハッと目を覚ました。

頭がガンガンと痛む。目の奥に押し付けられているように鈍痛が響いている。

「……」

大きな欠伸をして、彼女は強く目をこすった。

駄目だ、眠い。

「お嬢様、お嬢様? いけません、はしたないですぞ、
レディーが大あくびなど……」

また肉球で鼻の下をくすぐられ、たまらず少女は一つくしゃみをした。

それと共に、鼻から奇妙な……柑橘系の匂いを感じて目を開ける。

不思議とそれを嗅いでいると目が覚めるような、
どこか頭痛が取り去られていくかのような感覚に襲われた。

ぼんやりとした視線の脇に、ベッドに横になっている自分の胸に、
手をついているアーンガットの姿を見る。
316 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:45:58.39 ID:9DIDK4U20
そして彼女はむくりと起き上がった。

「……爺や?」

「おお、やっとお気づきになられましたか。
正直あのままお目覚めにならなかったらどうしたものかと思っておりました」

「何だか……変な匂いがしたから」

上半身を起こした姿勢で強く頭を振る。

アーンガットは暑さを紛らわすように、舌を出して激しく息をついていた。

視線をスクロールさせると、部屋の窓が全開に開いている。

そしてアラリスの周辺に五、六台。列車の車両からかき集めてきたのか
扇風機が置いてあった。

「これ……」

「ああ、皆が持ってきてくれたのですよ。
列車の設備点検のために、空調が五分ほど前から止まっているのです。
申し訳ありません」

「そう……なんだ。今何時? 私寝ちゃってたの?」
317 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:46:56.98 ID:9DIDK4U20
「完全な寝不足でありますな。昨日、ちゃんと睡眠をとらなかったでしょう」

「え? ……う、うん。まぁ……」

ふらつきながらベッドから抜け出し、息をつく。

脇に腰掛けたまま彼女はくしゃくしゃになった髪を手ですいた。

アーンガットの声の調子からだと、自分は何分か寝てしまっていたらしい。

夢を見ていなかったのが救いだ。

よほど寝ぼけていたらしく、それ以前のことをぼんやりした頭が思い出してくれない。

しかし僅かでも熟睡したせいか、ちゃんと会話が出来るくらいには回復している。

時々、自分はこうなることをまた自覚する。

定期的に見るあの変な夢の後、不安定な精神のまま朝を迎えるとこのように
曖昧になってしまう。

また、多分迷惑をかけたんだろう。

ため息をついて顔を上げると、窓の外に、手を伸ばせばすぐ届く位置に乱立している
背の高いサボテンの姿が見えた。
318 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:47:37.96 ID:9DIDK4U20
柑橘系の、草臭いその匂いはそこから発せられているらしい。

「多分、あの匂い」

そう言うとアーンガットは意外そうに振り返ってから答えた。

「フォルチェントォの匂いがお分かりになるのですか」

「あのサボテンのこと? うん……酸っぱいような変な匂い。
あれ嗅いだら急に目が覚めたの」

「お嬢様は敏感であられますからな。
しかしあのサボテンが出す匂いは毒であります。
液体でなければたいした害はないはずですが、
あまり進んで体には取り込まぬよう」

「そう、なんだ……」

呟いて頭を抑える。

「あー……頭痛い」

「水でも飲ませて差し上げれればよいのですが、
団員の話ですと朝食で全てなくなってしまったらしく、もうしばしお待ちを」
319 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:48:17.46 ID:9DIDK4U20
「え? 朝食で?」

そこまで言って、彼女は朝自分が何をしていたのかを唐突に思い出した。
そういえば……確か、残りの水を全部鍋に入れてしまったような気もする。

それも、弾みで。

僅かに引きつった笑みを浮かべながら、少女は顔を上げた。

「そ、そうだったかな……」

「いえいえ。メルヘド師の姿が三十分ほど前から見えないので、
おそらくメルチュアに水を購入しに向かったことかと。
心配なさらなくても、オアシスに入る前に持ってきていただけますよ」

「師匠、水を買いに行ってくれたの?」

「このあたりの土地は電波通信機器が使えませんゆえ、
確認は取れませんがおそらく。
ああ見えても人一倍心配性であられますから」

黒色の獣は、そう言うと口の端を僅かに開いて上げた。

人間で言うと微笑んでいるその表情。
320 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:49:04.22 ID:9DIDK4U20
しかし子供が見たら威嚇されているようにしか見えないそれを見て、
アラリスは一瞬きょとんとした後、窓の外に目をやった。

「……こうしちゃいられない。私も行く」

「それはいけませんお嬢様。あなた様の脳神経は常人の状態ではないことを、
ご理解ください。脳血圧の状態を安定させてからでないと、
この暑さで外に出ることは危険です。師のことはお気になさらないで」

「でも、ほっとくと師匠またどこかに行っちゃうかも……」

「そんなことはありません。あの人は、必ず帰ってきますよ」

優しく打ち消されて、息をつく。

そしてアラリスは師のベッドに腰を下ろした姿勢で額を押さえた。

まだ目尻が暑い。

そして眠い。

でも、寝たくなかった。

そればっかりが変わらずに頭の中をグルグルと回っている。
321 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:49:47.24 ID:9DIDK4U20
寝たら、またあの怖い夢を見るかもしれない。

誰もいない列車の中を、一人で、ぬめった水を踏みしめて歩く夢。

不気味で……そしてどこかで見た覚えがある、夢。

小さくため息をつくと、アーンガットが足下に寄って、
そして上体を起こした姿勢で座り込んだ。

彼のふさふさした尻尾がくすぐるように素足を撫で、
また意識が現実に引き戻される。

「……あのサボテンはですな」

しばらくして沈黙を感じて、彼女の意識を保たせようとしたのか、
唐突にアーンガットが口を開いた。

「メルヘド師にとっては忌まわしいものでしてな」

言葉に反応して顔を上げると、安心したように彼は息をついた。

「……師匠にとって?」
322 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:51:01.61 ID:9DIDK4U20
「ええ。フォルチェントォという植物は、
サンベルト地帯でも特に磁界が強いところにしか生息しないもので、
かなり特殊な植物であります。
水分含有量は多いですが、そこから抽出した水は神経性の毒薬となります。
かつて多くの人がこのサボテンを飲料に役立てようと苦心しましたが、
いずれも失敗に終わっております」

そこまで話すと、彼は息をついて窓の外を見上げた。

「神経性の、毒……?」

「はい。それは五感を徐々に麻痺させ、摂取した対象に幻覚を見せるのです」

幻覚を見せる植物、というのは話に聞いたことはあるが、
アラリスにとって目で見るには初めてだった。

手にとって触ってみたい衝動にかられるが、すんでのところでそれを抑える。

「だから、私の頭痛とか眠気も治まったのかな?」

「わたくしは犬でありますので常に感じておりますが、
昼間にフォルチェントォが出す水分は本当に微弱なものです。
お嬢様でなければ分かりませんよ。
しかし仮に鎮静作用があったというならば、少しばかり驚くべき発見ではありますが
……毒ということに代わりはありません」
323 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:51:47.29 ID:9DIDK4U20
「そう……なんだ。ねぇ、どんな幻覚を見せられるの?」

年相応の好奇心を示して少女が体を乗り出す。

何とか彼女の眠気から意識をそらすことに成功した、と感じて、
アーンガットは舌を出して何回か呼吸をした後に言った。

「その者が最も幸せだった頃の幻覚を見ると言われております」

「幸せ?」

「ええ。最も、私は摂取したことがないので効果のほどは存じませんが。
そのように伝えられております。
大の大人でも五ミリ摂取すれば効果が現れ、十ミリほどで全身が弛緩して即死です。
しかし、いわゆるこのサボテンの毒で『中毒死』した者は皆、
死亡時には安らかな顔をしていると聞きます」

言葉を止めてアーンガットはアラリスの顔を見上げた。

少女はいつの間にか、ぼんやりとただ窓の外のサボテンを見つめていた。

「ですから、科学者達の間では、一部これを『笑いサボテン』と呼ぶ者もいるのです」

「笑い……サボテン」
324 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:52:30.49 ID:9DIDK4U20
呆けたように繰り返して、彼女はアーンガットのことを見下ろした。

「……面白そう。少しだけなら大丈夫?」

「な……な、何を仰いますか!」

いきなり発せられた何気ない一言に、
過剰に反応して彼は窓をふさぐように立ち上がった。

その剣幕を見て、アラリスは予想もしていなかったのかしばらくぽかんとした後、
慌ててぎこちない笑いを浮かべ、顔の前で激しく両手を振った。

「ええと……ご、ごめん爺や、冗談」

「……お嬢様、レディとしてそのようなことを、
冗談でも口にするべきではありません。
師はこのサボテンに関することで一度、大量虐殺の現場に立ち入っているんです」

咎めるように言って黒色の獣は窓枠近くに腰を下ろした。

それは少女の目から危険なサボテンを隠すようなさりげない行動だった。

虐殺という不穏な言葉にただならない意味を感じ取り、
口をつぐんだ少女を見つめてまた言葉を続ける。
325 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:53:29.47 ID:9DIDK4U20
「お嬢様がここに来られる二年ほど前、
ここと同じようなサンベルトの地帯でのことです。
悪徳な水業者がよりにもよってこのサボテンの水をろ過して製品に混ぜ、
販売をしている現場に遭遇したことがあります」

「ろ過……どうして? だってこれは毒なんでしょう?」

「奴らにとっては金さえ得ることができれば、後はどうでも良かったのです。
フォルチェントォが含有している水分量は多い。
ですから、それらを混ぜて水増しすれば相当な稼ぎになります。
最も、専門的な知識があるわけでもない者たちでした。
自分たちがやっていることの恐ろしさを、
理解することができていなかったと言った方が正しいと思われます」

淡々と言い、空調が止まったことで熱気が渦巻いている車両の中、
アーンガットは舌を出してまた、二度、三度と息をした。

「私と師が、その悪徳業者共を拿捕してから、
水を売りつけられた小さなオアシスに到着した時の光景は忘れられません。
水を口にしたオアシスの七割の人間が地面に静かに横になって、
事切れておりました。
それは、それは……心根が心底寒くなるくらいに、全員が幸せそうで、
安らかな逝き顔でございました」
326 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:54:23.05 ID:9DIDK4U20
「……」

少女が息を呑んで、窓の外に群生しているサボテンから目をそらす。

彼は少し沈黙した後に静かに付け加えた。

「最も、水を口にした者達のうち三割は、
丁度フォルチェントォの毒素に対する処方をご存知でした師の対策によって、
一命を取り留めました。
しかしそれでも、体の痺れや言語障害などの後遺症は残りますし、
第一、おおよそに考えて、合計でもそのオアシスの半分の人間……
五百人ほどの命が、バカ共の愚かな行為のせいで失われているのです」

「そ……そんなに、そんなに危険な植物なら、どうして全部伐採しないの?」

伺うように聞いてきたアラリスに微笑みかけ、アーンガットは言った。

「このサボテンは伐採しようとして刃を入れると、周囲に毒霧を吐くのです。
その時の悪徳業者たちも、数日後に眠るように死んでしまいました。それに……」

「それに?」

「伐採したいと思うのは我々の都合でありまして、
このような危険な植物であるということを知っていれば済む話であります。
第一、このサボテンの棘は細かくて長い。
心配せずとも、普通の人間は近づこうとも思わないものです」
327 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:55:06.16 ID:9DIDK4U20
――我々の都合

その単語を聞いて、アラリスは僅かに表情を曇らせた。

「本当に恐ろしいのは、龍でも毒でもなく、我々の方なのですよ。
お嬢様、レディたるものそれをお忘れなく」

ゆっくりと言葉を結び、アーンガットは上を見上げた。

数秒してガゴン、という鉄板のなる重低音と共に列車の空調が再起動する。

「そろそろかと思っていましたが、復旧したようですな」

短く言って、彼は器用に後ろ足で立ち上がると前足を伸ばして
引き戸になっている窓を閉めた。

しばらくしてから部屋の中に滞留していた
熱気がゆっくりと引いていくのが分かった。

「あ……扇風機」

沈黙を控えめに破ってアラリスが呟く。

するとアーンガットが軽く尻尾を振ってから口を開いた。
328 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:56:04.60 ID:9DIDK4U20
「いいですよ。お嬢様は少し休まれていてください。
団員を呼んでまいります……と、その前に、体調はどうですか? 
ずいぶんと顔色が良くなってまいりましたが、
念のために脳血圧の測定もしておきましょう」

「うん、大分すっきりしてきた」

「それは何よりです。では少し私は席をはずさせていただきます。
列車の再起動を行いましたので、副官以上の認証パスが必要になることでしょうから。
もうじき師がお戻りになると思われます。そうしたら、水を飲んで一息つきましょうね」

「うん、そうだね」

「では」

一礼して、また後ろ足で立ち上がり器用に前足でドアを開けてアーンガットが出て行く。

アラリスは糸が切れた人形のようにベッドに横になると、
先ほどまで黒色の毛皮がふさいでいた窓の方に目をやった。

信憑性がない話だが、アーンガットは嘘をつかない。

それは長い付き合いで何となく分かっていることだった。

それに、メルヘドは普段はああだが、一方で妙な知識に関しては特化している。
329 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:56:44.95 ID:9DIDK4U20
文字も、数字も読めない割にはアラリスの知らない
専門用語をすらすらと並べて喋ることも多かった。

(中和法があるんなら、教えてもらおう)

サボテンを見ながらそう思うが、数秒後自分でその考えを打ち消す。

人が死んでるんだ。

あのサボテンで。

そう考える。

しかし、上手く実感はわかなかった。

手の届く位置にあるこの植物がそんなに危険なものという自覚も、よく分からない。

だが……真剣な『爺や』の目を思い出して、触ってみたいという誘惑を押しつぶす。

(師匠、私のために水買いに行ってくれてるんだ)

しばらく空調の音が響く車内に吐息を響かせ、脳裏で微かに思う。

昨日、書類整理だからと、やりたくなさそうなのに無理やり随分内容の説明をした。
330 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:57:51.92 ID:9DIDK4U20
起きるのが遅かったからといって昼食を残しておかなかった。

今日の朝も、良くは覚えていないが多分色々無茶なことを言って
部屋に上げてもらったんだろう。

師が使っている枕を手に取ると、合成素材で作られているそれは
ふにゃりと手のひらの形にへこんだ。

自分の胴体くらいの大きさがあるそれを軽く抱きしめてみる。

……どこか干し肉臭い香りがした。

枕を抱いたままベッドの上を何回か転がり、
そこで初めて自分が寝巻きのままであったことに気づく。

男性しかいないこの列車の中で、
自分のことを着替えさせられる人間がいるとは考えづらい。

それくらいのモラルは皆持っていることを、少女は知っていた。

アーンガットならありえるかもしれないが、彼の手には肉球がついている。

しばらくして、寝巻きのまま食事の用意などをしていたことを確信して、
誰もいないながらも耳まで赤くなる。
331 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:58:44.24 ID:9DIDK4U20
何というか……自分で、自分が屈辱的だ。

それにフォルチェントォの香りで意識が覚醒したとはいえ、
まだ起きてからのことをおぼろげにしか思い出せない。

厳密には違うが、一種の夢遊病のようなものと考えると近いかもしれない。

だから意識が曖昧な時、どんな恥ずかしいことをメルヘドに
言っていたかもさだかではなかった。

さっきから師の枕を勝手に抱いているということもあり、妙に心臓が早く打っている。

まだ少し残っている眠気もあいまって混乱してきた頭の中、
彼女はまた窓の外に目をやった。

フォルチェントォというサボテン郡の向こう、五百メートルも離れていない地点に
メルチュアの壁が見える。

そういえば、起きた時に三十分くらい前に出たとアーンガットが言っていた。

時計を見ると、逆算してメルヘドがここを出たと思われる時間から、
かれこれ五十分近く経っている。

(道に迷ったのかな……)
332 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 22:59:15.17 ID:9DIDK4U20
心臓が、トクンと軽い音を立てた。

もしかしたら道に迷ったのかもしれない。

もしかしたらいつもみたいに、
一人で案件に当たろうとしているのかもしれない。

まだ僅かにガンガンと痛む頭の中、起き上がって入り口のドアを見つめる。

アーンガットが入ってくる気配はない。

自分の額に手を当ててみると、眠かった時のほてりは大分収まっていた。

息をついてもう一度窓の外を見る。

そしてアラリスは、手に持った枕を脇に置き、ゆっくりと立ち上がった。
333 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/03(木) 23:04:25.03 ID:9DIDK4U20


明日の更新に続かせて頂きます。
明日、第二話の続きから更新を再開します。
気長にお付き合いいただけましたら幸いです。

ご意見やご感想がございましたら、
気軽に書き込みをいただけますと幸いです。

それでは、今日はお休みさせて頂きます。
334 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 20:57:14.45 ID:GnKCc8vG0
こんばんは。

再開します。

今日は2話の最後まで投稿します。
335 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 20:58:26.51 ID:GnKCc8vG0




――もう、三十年以上前のことだった。
 
焼け焦げたレジスタンスの廃墟の中で、少年はただ二本の、
水が入った瓶を持ったまま、裸足で立ち尽くしていた。

日差しを遮るテントも石の防壁もそこにはなかった。

焼夷弾で焼き尽くされ、地面に散らばった砂と、
合成エンテレンが焼け焦げてブスブスと焦げる酸っぱい刺激臭。

そして、生肉を汚泥に放り込んだような、鈍い、生暖かい匂いもした。

あたり一面瓦礫と砂の山だった。

巨大な鉄の戦車のキャタピラに踏み固められて、踏み荒らされて、
不気味に整地された元レジスタンスの野営地が、
少年の目の前に広がっていた。

彼は頭では考えなかったが、心で理解していた。

ここで虐殺が行われたことを、少年はどことなく理解していた。
336 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 20:59:23.38 ID:GnKCc8vG0
水を盗み、その持ち主から逃げる途中でマントが脱げてしまったのか、
剥き出しの体を中天の太陽がじりじりと焼く。

周囲の温度は四十度を超えようとしている。

大気が揺らめいていた。

ボロきれのようなシャツから除く地肌が、白い煙を上げている。

熱はまるでフライパンの上の卵のように、
ただ立ち尽くす少年の体を焦がしていた。

どれくらい経っただろうか。

口の中が、粘膜乾燥のためにくっついてしまっていた。

喉もガラガラだ。

額から流れ落ちる血は、いつの間にか止まっていた。

その代わり、いつの間にか少年は、
その人がいるであろう瓦礫の山に手をついて、膝を折っていた。
337 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:00:03.65 ID:GnKCc8vG0
声も出なかった。

涙も出なかった。

相当に長い時間が経っていたのだろう。

いつの間にか体中に水ぶくれが出来ていた。

シャツも、熱を吸収しすぎて破裂した水疱の体液でべっしょりと汚れている。

しかし不思議と痛みは感じなかった。

もう、太陽は地平線の向こうに流れるように落ちていっていた。

「……何してるの?」

大分経ったころ。

ぼんやりとした、白濁している意識の脇で少年はその声を聞いた。

すぐには気づかなかった。

しばらくしてふと、声をかけられたことを自覚して……
まるで水のような声だ、と。

彼は思った。
338 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:00:51.88 ID:GnKCc8vG0
鈴が鳴るような、しかしまっすぐと耳の奥に通る声だった。

乾燥してかさついた鼓膜をその声は揺らした。

ゆっくりと振り返る。

気づかない間に焦げた合成素材に手をついていたらしく、
体を起こすと手の平の皮が嫌な音を立ててめくれた。

ぶくぶくと水死体のように膨らんだ子供の顔を見て、
近づいてきた人影は足を止めた。

そしてしばらく二人の奇異なものを見るような視線が見詰め合う。

少年の前に立っていたのは、若い女性だった。

年のころは二十代前半だろうか。

長い黒髪を、頭部を守っているターバン型の帽子からはみ出させている。

お尻までを隠す大きなジャンパーをマント代わりにしているのか、
下半身はタイツのようなパンツ姿だった。

そしてその女性は、腰に二本の刀を挿していた。

見やすい位置に、それに目を留めた人間を威嚇するように鞘つきのそれを挿している。
339 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:01:39.81 ID:GnKCc8vG0
彼女は腕組みをすると腰の刀を鳴らし、少年のことをもう一度見下ろした。

「そこで何をしているのか、と聞いてるんです」

優しい声音ではなかった。

冷たい声だった。

まるで焼けた鉄板のように触れたもの全てを拒絶するかのような声、
そして瞳の色。

燃えるようなワインレッドのそれを薄暗がりに小さく光らせて、
女性は僅かに首を傾げて見せた。

「……喋れる?」

数秒置いて怪訝そうに聞かれる。

そこでやっと少年は、自分に対して問いかけられていることに
気づいて霞がかった脳裏でその質問を理解した。

それと同時に、彼はもう一つのことも理解していた。

直感というのだろうか、本能というのだろうか。
340 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:02:43.03 ID:GnKCc8vG0
この大惨事を引き起こした敵。

母を殺した、自分たちの家を壊した張本人。

それが、この『人間』だとどこか心の奥で感じたのだ。

目だろうか。

声だろうか。

――いや、女性の雰囲気だった。

人間の形をしているが人ではないような、不気味な獣じみた空気。

それを幼い心が感じ取ったのだった。

何故か、怒りも何もわかなかった。

体に力も沸かなかった。

十二歳の少年は、呆けた顔で問いかけに対して向き直ると、
唇が陶器のように割れる悲惨な音を立てながら口を開いた。

そしてかすれて聞き取れないほどの声を出す。
341 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:03:14.85 ID:GnKCc8vG0
「がえっで、きたら、みんな、じんでた」

『帰ってきたら、みんな死んでいた』

それだけを言うのが精一杯だった。

女性は無表情のまま彼をしばらく見下ろしていた。

そしてしばらく経って無造作に歩み寄ると、その悲惨な体の前にしゃがみこんだ。

「そう」

淡々と発せられた言葉は空気のように、耳から耳へと抜けていった。

「それをやったのは、私」

「……」

「正確には命令を出したのが、私。
まさか生き残りがいるとは思わなかったけど……驚いたわ」

侘びの気持ちでも、同情の気持ちでもなかった。

まるで機械のような、感情を抑えて、抑えて。

極限まで絞り込んだような、無機質な声だった。
342 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:03:55.64 ID:GnKCc8vG0
そして彼女は立ち上がるでもなく、
腰の鞘からゆっくりと……右手で片方の刀を抜き放った。

それは、砂漠の月に照らされて不気味なほどに鋭利に輝いた、見事な長刀だった。

一メートル半はある刀を軽々と片手で持ち上げ、
次の瞬間、彼女は腕を鞭のようにしならせて振り払った。

風が、首に当たる音がした。

動かない少年の首の皮一枚に、その刀の切っ先がめり込んでいた。

血は出ない。

しかしぶくぶくと膨らんだ水ぶくれの水疱がつぶれて、
白濁した体液が流れ出す。

「悪いけど、このレジスタンスは汚染されてたの。だから君にも死んでもらうよ」

機械のように彼女は言った。

少年はただ、ぼんやりと首に向けられた刀を一瞥すると、静かに空を見上げた。

膨らんだまぶたの間から、空が見えた。
343 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:04:36.94 ID:GnKCc8vG0
濃紫色に染まった砂漠の空。いつも見ていた、空だった。

月が昇っている。頭の上に。

先ほどまでに焼き焦がそうとしていた太陽は、もういない。

柔らかい光を放った月が、空に君臨していた。

「何か言い残すことはない?」

また数秒経って女性が言った。

彼は答えなかった。

そして、空っぽの瞳で彼女を見返した。

何も考えていなかった。

何も思うことが出来なかった。

それほど強く、それほど強烈なものだった。

何もかもが崩れて消えて、それが目の前で起こっているなんて、
脳のどこかが理解するのを拒んでいる。

そして一方では同じくらい理解していて、だから何も考えることが出来なかった。
344 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:05:18.22 ID:GnKCc8vG0
空っぽで、真っ白だった。

しばらくして、口が小さく動いた。

何を言ったのかは、覚えていない。

しかし、意味のある単語を言ったんではないのだろう。

真っ白な頭の中で。真っ白な空間の中で。

一言だけ呟く。

その言葉は目の前の女性を耳に入り、
焼け焦げた空気に掻き消えて、あっさりと飛び散った。

女性は少しの間、少年に対して刀を突きつけていた。

(早く斬れよ)

心のどこかが、そう言った。

何故止まっているのか、彼にはわからなかった。

早く。その刀を振りぬけばいい。
345 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:06:08.46 ID:GnKCc8vG0
みんなにやったと同じように。

俺も殺せばいい。

何故殺さない。

何故、早く殺してくれない。

どうして。

やっと、頭の中に疑問が生まれる。

次いで段々と体に力がなくなっていくのが分かった。

(ああ、そうか)

ふと、彼は思った。
346 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:06:37.93 ID:GnKCc8vG0
斬らなくても、直に俺は死ぬから。

どっちでも同じなんだ。

口の中に生臭い鉄の味……血が広がる。

熱砂で焼けた体中は、まるで腐敗したかのように幼い少年の体を崩壊させていた。

(だから、斬らないんだ)

納得した。

次の瞬間、彼の意識はぬめった泥水の中に落ち込んでいった。
347 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:07:35.65 ID:GnKCc8vG0


次に少年が目を覚ましたのは――後から知ったことだが、
実に一週間後のことだった。

焼つ付くような喉の渇きを感じて目を開ける。

いや、実際焼けついていた。

咳をした途端に、喉の奥から血痰が飛び出して
体を覆っていた白いシーツに染みを作る。

額に浮いた大粒の汗をぬぐい、少年は呆けた目で周りを見回した。

「……ぬ?」

その耳に、不意に壮年の男声が飛び込んできた。

地面の下から響いてくるような、
くぐもった……それでいて空気に通る、不思議な声だった。

「目が覚めましたな。気分はどうですかな」

上半身を起こそうとして、体中に針で引っかいたような激痛が走る。
348 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:08:25.52 ID:GnKCc8vG0
そのまま少年は声にならない叫び声をあげて、柔らかいベッドの上を転がった。

その途端、シーツについた腕、背中、鼻の先まで焼かれる激感が飛び散り、
目の前に星が散る。

悶絶することも出来ずに仰向けにベッドに倒れ、荒く息をついた彼の脇に、
突然ぬっ、と獣臭い息が飛び込んできた。

目だけを脇にそらすと、ベッドに前足を乗せて彼の顔と同じくらいの大きさの頭をした、
巨大な『犬』の目がこちらを覗きこんでいた。

しばらく呆然と、自分のことを見つめている墨のような滑らかな毛をはやした
体躯にくっついている瞳を凝視する。

それから何秒か経ち、犬は口を開けると器用に舌を動かした。

「あまり動かない方がいいですな。無風状態の砂漠、
ド真ん中に一日中突っ立っておられたのだ。
体全体が重度八の火傷を負っているのです、あなたは。
全く生きているのが不思議極まりない」

「……」

声はどこから聴こえてくるんだろう。

周りに急いで視線を走らせるが、その部屋の中に人影はなかった。
349 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:09:15.03 ID:GnKCc8vG0
そこは、異様に広い、整った部屋の中だった。

小さい頃に一度だけ忍び込んだことがある、ドームの上層区画に似ている。

あそこのイメージがこんな感じだった。

砂も、焼けるような日差しもない。

周囲は真っ白い壁で覆われていて、ところかしこに少年の背丈と同じくらいの
大きさをした絵画がかけてあった。

それら全てには油絵の具なのだろうか、
妙に立体感がある素材で目の前の黒色犬が描かれている。

彼が横たわっているのは、人が五人寝ても足りないくらいに巨大なベッドだった。

母に話してもらった御伽話の、王様やお姫様が寝ているもののようだ。

ベッドのくせにテントみたいに柱が伸びて、天井がついている。

見える限りだと部屋の中には沢山のテーブルが並べられ、
その上にはおびただしい数の紙が散らばっていた。

床には赤い絨毯が引いてある。

(天……国?)
350 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:09:54.03 ID:GnKCc8vG0
理解が出来ない状況に目を白黒させる。

そしてもっとよく周りを見ようとして腰に力を混め、次には痛みで悶絶した。

「だから動かない方が良いでしょうと言っているのです。
使い物にならない皮膚は切り取って移植したといえ、
今無茶な運動をすれば剥がれますぞ」

また、声が聴こえて少年は息を呑んだ。

どこから? どこから喋りかけてきてるんだ。

「……しかし師が仰っていた通りに、中々鋭い感性をしたお子さんですな。
この歳で目を覚ましてから一瞬で、視界情報だけでの状況の把握に移行できるとは。
驚きましたな」

そこで少年の心臓は凍りついた。

視線が一点に集中する。

それは自分の上に覆いかぶさらんとしている勢いでベッドに
身を乗り出した犬の顔に注がれていた。

目と目が合って、その獣は僅かに口の端を上に曲げてみせた。
351 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:10:51.44 ID:GnKCc8vG0
「……む? あぁいや、失礼。私の名はアーンガット・トラレス。
会称十龍祓い『断』の執行顧問をしております。
ここはあなたの命を助けてくださいました、
『断』の師、サナ・ヘーンザック様所有の、
アカスア本部地下自宅でございます」

(……犬?)

その事実を理解するのにまた少しの時間を有する。

――犬が喋っている。

唖然として口を開ける。

しかしそう考えるしかなかった。

声は確かに黒色の獣から聴こえてきていたし、声が出るたびにその口が、
人間のように生々しく動いているのだ。

自分を見つめられていることに気づいて、アーンガットと
名乗った犬は小さく喉を鳴らして続けた。
352 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:11:43.06 ID:GnKCc8vG0
「はっはっは。そこまで驚かれると逆に新鮮ですなぁ。
何、怖がることはありませぬ。私は『龍憑き』でありまして、れっきとした犬です。
まぁ知能は人間並み、いやそれ以上と自負しておりますですがな。
化け物ではありませぬ」

言われている意味が良く分からない。

とにかくこの正体不明の生き物から体を離そうとして、また激痛に阻まれて失敗する。

「おやおや。外れておりますな。そこを動かないでくださいまし」

明らかに恐怖と疑念の目で見られていることに気がついていないのか、
軽やかに犬はベッドに飛び上がると、少年の足元に転がっていた布切れを口に加えた。

そしてベッドをミシミシ言わせながら頭の方に歩いてくる。

(な……何だ何だ何だ?)

逃げられない、顔を向けることが出来ない。

その恐怖に心臓が早鐘のように打つ。

しかし彼を襲った衝撃は、巨大な牙に咬まれたものでも、
がっしりとした鉄のような体躯に弾き飛ばされたものでもなかった。

ただ、静かに額に濡れた布が置かれる。
353 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:12:25.39 ID:GnKCc8vG0
途端にまるで滞留していた熱気が一気に蒸散していくように、
頭の中に冷気が飛び込んできた。

ただの湿った布ではない。

それよりもずっと、ずっと……今まで生きてきた中で
感じたこともないくらい、それは冷たかった。

話だけで聞いたことがある、何千万もするという
『保冷材』というものであるかもしれない。

そう思って心の端が驚愕する。

犬はまたベッドの足元に移動すると、
くしゃくしゃになったシーツを丁寧に加えて少年の体にかけた。

そしてどういうリアクションを取ったらいいか分かっていない
彼の枕元に丸くなってハッ、ハッと息を吐く。

「喉が渇いていることでしょうが、まだ水は飲まない方がいいですな。
今飲んだら焼け焦げた声帯の傷が開いて、多分一生喋れなくなりますしのぉ」

声を聞きながら、少年はそこで始めて自分の体が包帯で
ところかしこをぐるぐる巻きにされていることに気がついた。
354 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:13:15.11 ID:GnKCc8vG0
はっきり言って痛みが酷く、皮膚の感覚どころではないが
顔にも巻かれているらしい。

口を動かそうとして本当に微かな布の感触を感じたのだ。

良くは分からない。

どうなっているのかも、ここがどこなのかも先ほどの
説明では分からなかったが、とにかく自分は生きているらしい。

死んだのかもしれないとも思ったが、この痛みは、多分生きていることの証拠だ。

視線を移動させる。

……脇に丸くなった犬。

『りゅうつき』と言った。

意味がさっぱりだが、それはつまり喋る犬って言うことなのだろうか。

化け物ではないと言ったが、それってつまり化け物なんじゃないだろうか。

だが、いくら考えても体を動かそうという気が起きなかった。

それほど全身を包む痛みが大きかったのだ。
355 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:14:05.59 ID:GnKCc8vG0
それに目の前のこの……化け物は今は危害を加えるつもりがないらしい。

だったらわざわざ神経を逆なですることもない。

とりあえず声を出そうとして、しかし少年はそこで喉を絞っても
痛みばかりで音が出てこないことに気がついた。

また激しく咳き込んだ彼を見て、犬が口を開く。

「あぁ、喋らない方が良いというに。
どうしても言いたいことがありましたら声は出さずに口だけを動かしてみれば良い。
最近は、とんと使っておりませぬが、私は読唇術も心得ていますからな。はっは」

朗らかに笑いながら『彼』が言う。

少年は戸惑いながら、言われたとおりに小さく唇を動かした。

『おれ、どうしたの?』

その言葉を少しして理解したらしく、アーンガットは頭を何回か垂れた後に言った。

「我らが師が、あなたのいた組織を破壊いたしまして、
その後に生き残ったあなたを救出した、と聞いていますな」

別段何とも思っていないような、軽い声だった。
356 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:14:45.54 ID:GnKCc8vG0
しかし少年にとって、それは痛みに隠れていた記憶を
全て呼び起こすに値して余りある言葉だった。

砂雪崩のようにあの日の光景が脳裏にフラッシュバックする。
しばらく沈黙して、彼はゆっくりと口を動かした。

『あんたたち、てき?』

言葉を理解して、犬は一瞬ぽかんと口を開けた後、
喉を鳴らして面白そうに笑い始めた。

どうしたのだろうとあっけに取られていると、
しばらくして彼の静かで優しい声が耳に入った。

「そう思うならそれでよろしいですな。
しかし、気が強いお子様ですなあ。少々驚きました。
まぁ、今現在大切なのは、
私があなたの治療に当たっていると言う事実だけであります。
あなたは私の指示に従ってそこで静かにしていれば、
また自由に、自分の意思で何でもできるようになりますよ」

少し考えた後、質問をはぐらかされたことに気づく。

どう返したらいいか分からない状態の少年を見て、アーンガットは続けた。
357 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:15:43.47 ID:GnKCc8vG0
「そういえば、名前を聞いておりませんでしたな。
ゆっくりと一文字ずつ口をその形にしてみてもらえますかな?」

抗議しようとしたが、目の前の犬の瞳に
自分の顔が映っているのがふと見えて、言葉を止める。

そこにあった顔はまるでミイラのように包帯でぐるぐるに巻かれて
……まるで原形をとどめていないものだった。

まさに、化け物の姿だった。

目の前の犬を見る。

喋る犬――化け物だ。

でも、自分の今の姿の方がよっぽど醜悪で、
気持ちが悪いものであると言うことを、
その瞳に映った姿を何秒も凝視して、どことなく自覚する。

そんな自分に対して、この存在は笑いかけている。

危害を加えるでもなく静かに声をかけている。

「……」

少し考える。
358 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:16:30.39 ID:GnKCc8vG0
『……メ、ル、ヘ、ド……』

しばらくして少年は与えられたその短い単語を
『彼』に伝えていた。数秒して理解したのか、
大きくアーンガットが頷いた。

「メルヘド、というのですかな?」

僅かに頭を下げて肯定の意思を示すと、
彼は大きく口を曲げて笑顔のような顔を作った。

「いい名前でありますな。苗字はありますかな?」

聞かれた意味が分からずにポカンとすると、
黒色の犬は喉を小さく鳴らして丸くなった。

「いや結構。まぁ、私はあなたが完治するまで世話をするようにと
言いつかっております。いつでも傍にいますので、
入用の時は身じろぎして呼んでくだされ」

頷こうとして痛みで失敗する。もう脇に目を向けている気力もなく、
少年……メルヘドは焼けるような鈍痛が走るまぶたを閉じた。

「あなたが自由に動けるようになるのが、サナ師の望みでもありますからな」

ぐちゃぐちゃの頭の中にぼんやりと彼の言葉が響く。

メルヘドは自分を取り巻く痛みのもやの中、とりあえず一つ、深く息をついた。
359 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:17:29.24 ID:GnKCc8vG0


アーンガットは、優秀な存在だった。
 
傍目から見ても人間ではない。
 
四足で歩き回るし、メルヘドの体を冷やしている
保冷剤を取り替えるのだって彼の口でくわえて行っている。
 
しかし、少年の体よりも大きな黒色の獣は、
目の前の怪我人に対して、決して声を荒げたり、
ましてや危害を加えたりすることはなかった。

日の光も何もない、広い部屋の中。

天井に輝く白色蛍光灯を見つめる日々が続く。

その間、アーンガットは常にメルヘドの傍にいた。

たまにいなくなるときがあっても、
きちんと帰ってくる時間を言ってからいなくなる。

枕元に置かれた時計を見ていると、必ずその時間に彼は帰ってきた。

その口をきく獣は、メルヘドに対して一言も、彼が何をしていたのかなど。

過去の事を聞かなかった。
360 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:18:13.46 ID:GnKCc8vG0
そしてそれに伴い、自分たちが何をしたのかと言うことを口にしようとはしなかった。

一週間ほどしてやっと声が出せるようになり、口に出して聞いてみても同じだった。

いつも別の話ではぐらかされてしまうのだ。

更に二週間が経った頃。やっと錠剤ではなく口から食物を入れることが
許可されるようになり。

メルヘドはアーンガットの言うとおりにゆっくりと水差しから口に、中身を運んでいた。

もう顔と腕の包帯は取れている。

酷いのは背中の火傷だったらしく、そこはまだ包帯が巻きつけられているが、
後は自力で立てるくらいまで回復していた。

喉に落ちていく水分と、体全体にいきわたるその存在を感じて大きく息をつく。

しかし弱っている嚥下能力では五十ミリも飲むことが出来ずに、
荒く息を吐きながら水差しをベッド脇に置く。

正直、今までの薬はアーンガットの口移しで飲まされていたために、
獣臭い唾から離れらられただけでも相当ホッとしていた。

これからは自分で薬を飲むことが出来る。
361 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:19:20.90 ID:GnKCc8vG0
一ヶ月近い治療の第一段階が終了した瞬間、
メルヘドが頭の中に思い浮かべたのは。

何てことはない、生きている実感でも目の前の『男性』に感謝する心でもなく
それだけの感想だった。

そしてしばらくして、やっと感謝の気持ちと自分の体を動かせる驚きが追いついてくる。

赤黒く変色した手の平を見つめて、何度かゆっくり握ってみる。

まだ少し痛みは残るが、動かせる。

脇を見るとベッドに座り込んだアーンガットは興味がなさそうに毛づくろいをしていた。

「ね、ねぇアーンガット。腕が動くよ」

しばらくしてやっと口に出せた言葉がそれだった。

少年の言葉を聴いて、彼は頭を上げると大きく頷いて見せた。

「そうでしょうな。治療をしたのですから、動かねばおかしい。
それよりもくれぐれも気をつけるように。
あなたは三週間と二日も寝たきりだったのです。
当然体中の筋肉は弛緩し、普通の人間のように、しばらくは生活できませんでしょう」

「分かってるよ。まぁ……今は普通に起き上がって話せるだけでも嬉しいけど……」
362 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:19:57.06 ID:GnKCc8vG0
僅かに口ごもって、まだ少し動きづらい、
包帯が巻かれた足を動かして毛皮をなめている獣の方を向く。

「アーンガット。感謝してる。あんたがいなかったらここまで良くなれなかった」

「はっはっは。改めてどうしたのですかな。
まだ完治と言うわけではないでしょうに」

「うん。でも、本当に感謝してるんだ」

そこまで言って、少年は息をついて下を向いた。

急激に、動けることの喜びがしぼんでいくような感覚を受けたのだ。

寝ている間、アーンガットは様々なことを教えてくれた。

ここがアカスアという、世界で唯一水を生産できる場所であること。

そして自分たちは、別次元に存在している怪物『龍』を破壊する役目を持つ、
十二個の団体のうちの一つであると言うこと。

彼の主人、サナという女性は今は別の場所に任務に出ていていないこと。

その他にも、この地域で共有されている言語や習慣なども、
話のネタに詰まった時には教えてもらっていた。
363 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:20:37.18 ID:GnKCc8vG0
行ったことはないが、まるでその話をしている時の目の前の犬は、
『学校』と言う場所にいるという『教師』のようだった。

しかしそれと同時に、メルヘドは彼ら『断』の龍祓いが、
自分たちに何をしたのかも、うっすらと理解していた。

龍祓いは、龍そのもの、もしくは龍に感染した者を破壊する。

例え人間の形をしていても、感染者は人とはみなされないのだ。

つまりメルヘドたちのいたレジスタンスは、龍に汚染されていたと言うことになる。

沢山あった時間の中、心当たりを思い出すのはそう難しいことではなかった。

レジスタンスは一人の女の子を守っていた。

メルヘドも一度だけ見たことがある。

いつもテントの奥深くにいて、眠り続ける女の子だった。

人間ではなく人形のように真っ白で、透き通った体をしている女の子。

髪も、目も。何もかもが透けていて、向こう側が見える女の子だった。

その子を周りの大人たちは『粋神さま』と呼んでいた。
364 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:21:42.20 ID:GnKCc8vG0
眠り続ける女の子に触れると、どういう原理になっているのか、
不思議とすっかり喉の渇きが収まるからだった。

しかしその子に触れた者は皆、例外なく徐々にやつれていった。

メルヘドが母と呼んでいた人もその一人だった。

喉が渇かない代わりに、段々と具合が悪くなる。

本能的にそう感じて、近づくのは危ないと、どことなくは思っていた。

今となっては良く分からないことだが、
レジスタンスの大人たちはその『粋神』さえいればオアシスに税を納める必要もなく、
独立して生活を出来ると踏んだのかもしれない。

しかしレジスタンスが焼き払われる一ヶ月ほど前、
その女の子はついに目覚めぬまま、唐突に水のように溶けて消えてしまった。

話に聞いただけだったが、あの時は部落中が大パニックになった。

『母』も半狂乱になり、家中のものに当り散らしていた。

――感染。

その一言が頭の中に重く刺さる。
365 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:23:12.61 ID:GnKCc8vG0
おそらく、あの女の子が龍だったんだ。

そしてアーンガット達は触れた者全てを殺すために、侵攻をしてきた。

「……感謝、してるんだ」

もう一度小さく呟いて、膝を抱える。

バサバサに伸びた髪が少年の微妙な表情を覆い隠していたが、
いち早く気づいたらしいアーンガットの声が気遣うように響いた。

「まだ具合が悪いですかな?」

「ううん。前に比べると相当良くなった。
動けるしさ。でも俺……この後どうなるの?」

何気なく口に出した言葉だったが、
目の前の獣はそれを聞いて僅かに戸惑ったように視線を宙に彷徨わせた。

「さて……どうしたものですかな」

「ちょっと、はぐらかさないで聞いてくれよ。俺真剣なんだぜ?」

「まぁ、どうするもこうするも。
一度拾った命は最後まで面倒を見ることになるでしょうな。
サナ様はそういうお方です」
366 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:24:12.13 ID:GnKCc8vG0
ハッハッ、と息を吐きながらアーンガットは器用に肩をすくめて見せた。

どうやら彼も詳しくは知らされてないらしい。

それをどことなく感じ取って、息をつく。

そして少年は質問を変えて問いかけてみた。

「そのサナって人はまだ帰ってこないの?」

「いえ実は六日ほど前から、このアカスア上層にお帰りになっておられます。
雑務を片付けるとのことでしたので、直にお会いできることかと思われますが」

いきなりそう言われて、メルヘドは目を白黒させた。

「え? これから?」

「はい。ですからあなたが起床する時間を今方に設定いたしました。
サナ様はメルヘド坊ちゃまが動けるようになるのを、
楽しみに待っておいででしたなぁ」

そう言いつつも、アーンガットはメルヘドと目をあわせようとしなかった。

どことなくどう接したらいいか分からない……そういう感じがおぼろげに分かる。
367 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:24:56.24 ID:GnKCc8vG0
三週間以上も付きっ切りで看病されて、メルヘドはこの存在は、
外見からは想像もつかないほど、優しく実直な性格をしていることを見抜いていた。

――どこか、後ろめたいことがあるときに彼は目をそらす。そういう癖があるらしい。

十二歳の少年にも何となく分かるほど、アーンガットは嘘をつくことが出来ない。

そういう性格なんだろう。

多大なる恩があるためにそれ以上は突っ込まずに黙り込む。

しばらくすると、伺うように黒色の獣が脇に寄ってきた。

そして下から顔を覗き込んでくる。

「サナ様は、確かに本部にいらっしゃいますが、
ここに出向かれるわけではありません。
坊ちゃまが立てるようになったら植物園にお連れするようにと言われております」

「……植物園?」

聞き返すと、今度は打って変わってまっすぐに瞳を見返し、彼は頷いた。

「ええ。しかしながら、まだ完治と言うわけではありません。
更に精神的にも休養が必要かと爺は思います。
ご所望とあらば、明日以降でも十分構いませぬが、いかがいたしましょうか?」
368 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:25:48.34 ID:GnKCc8vG0
唐突な申し出にきょとんとしながら考えをまとめてみようとする。

自分を助けてくれた女性、うっすらと記憶に残っている黒い髪の人。

サナという彼女は、どういうところだか分からないが植物園と言う場所にいるらしい。

……自分の家族を殺した、人。

でも命を助けてくれた人。

その人が、動けるようになったら来い、と言っているらしい。

「行くよ、俺」

即答してメルヘドはゆっくりとベッドを降りた。

足の裏にも包帯が巻かれていたが、事前にアーンガットが用意してくれていたらしい
裏地がふわふわしたスリッパに足を通すと殆ど不快感はなくなった。

「案内してよ。俺も話したいことがあるんだ。その人と」

「……左様でございますか。まぁ、そう仰るだろうとは思っておりましたが」

しばらくして頷き、黒色の獣が床に降り立つ。
369 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:26:27.88 ID:GnKCc8vG0
そして彼は自分と同じくらいの身長の子供の脇に立つと、
鼻で壁に立てかけてある松葉杖を指した。

メルヘドの火傷は右側によっているらしく、
まだ完治していない部位は右足に集中している。

おそらく寝ている間に準備してくれていたんだろう。

軽く受け答えてそれを手に取る。

今まで松葉杖なんて触ったこともないが、意外なほど軽かった。

合成の硬化ゴム素材で出来ているらしい。

しなるそれの広がっている部分を右腕の脇下に挟む。

アーンガットの言った事は本当だった。

歩き出そうとして、いかに自分の体に力がないかを自覚し愕然とする。

まるで足の関節に油を差しすぎて緩々になってしまったかのようだ。

いや、足だけではない。

腰、首、肩。全ての関節に力が入らない。
370 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:27:35.67 ID:GnKCc8vG0
立ち上がった時には想像していた通りにひょいひょいと
歩けるものと思っていたが、現実には思っていた十分の一の力も出ていない。

やっぱり寝ていればよかったかな……
と少し思うが、息を吸って何とか体を引きずるように歩き出す。

部屋の外をはじめて出ると、四角形の通路がずっと先まで続いていた。

床には部屋の中と同じように絨毯が敷いてある。

生まれてこの方、砂とテントの床しか見たことがないメルヘドにとっては
どこか異質な光景だった。

確かにザラザラした感触が足の裏にはなく、とてつもなく歩きやすいが……それだけだ。

一体どうしてこんなに床に柔いものが敷いてあるんだろうと心の端で不思議に思う。

視力は元通りに回復していたために、目を凝らすと廊下の突き当たりが
扉になっているのが分かった。

大分時間をかけて歩いていくと、突き当りのドアが自動で開いた。

上層ドームについているものを遠巻きにしか見たことがなかったが、
それは知識で知っている『エレベーター』に似たものになっている。
371 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:28:40.02 ID:GnKCc8vG0
二人が乗り込むと壁に開いたスピーカーから、奇妙にブレた機械音声が聴こえてきた。

『どちらに行かれますか?』

「地下十七階。植物園に」

アーンガットが端的に答えるとガコン、という音がして彼らがいる空間が
そっくりそのまま下に向かって下降を始める。

産まれて初めての体験に目を丸くしているメルヘドを見て、
初老の獣は少しだけ微笑んだ後、気づかれないようにため息をついた。
372 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:29:28.54 ID:GnKCc8vG0


植物園というのは、メルヘドの想像を更に超えている場所だった。
 
そもそも植物と言うものは、少年は砂漠に群生している
『食べられない』サボテンであるフォルチェントォしか見たことがない。
 
植物にやる水があるくらいなら自分で飲む、という風潮が当然の社会だ。
 
実のところペットたる犬や猫もそれに順じて話だけの知識であり、
見たのは足元のアーンガットが初めてだと言うことは、喋らずに黙っていた。

どことなく彼を犬と呼ぶのは憚られたし、事実少年よりも遥かに様々な知識を蓄えている。

少なくともペットという粋を遥かに逸脱した存在である、と認識していた。

その植物園、と言う場所にエレベーターを降りて入り込んだ瞬間、
ひんやりとした冷気が体を包む。

ゆったりしている病院服一枚のメルヘドは今まで感じたことがない
『寒い』という感覚に目を白黒させながら肩をすぼめた。

「直慣れまする。ほれ、行きますぞ」

それを見てアーンガットがなんでもないかのように言い、歩き出す。
373 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:30:14.19 ID:GnKCc8vG0
彼の後についていこうとするが、
正直周りのものに目を取られすぎて上手く歩くことが出来なかった。

そこはまるで天国……いや、少年の理解を超えた地獄のような
様相を呈している空間だった。

目に映るものは全て輝いている。

綺麗だった。

しかしそれが何なのかがよく分からない。

とにかく緑色のオンパレードだ。

全長で三メートルを超える、サボテンではない緑色の植物。

そして床には絨毯ではなく、茶色く濁った砂……いや、『土』が敷きつめられていた。

天井を見上げると、ここが地下だと言うことが信じられないくらいに明るいわけが分かった。

おびただしい数の蛍光灯が取り付けられているのだ。

それが、少年が知っているレベルよりも何十倍も強い光で周囲を照らしている。
374 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:31:08.85 ID:GnKCc8vG0
また視線を移動させて、手近な『植物』に目を近づける。

手を伸ばして触ると……生ぬるい感触がした。

回りを見回してみると、植えられている植物はそれぞれが全部違う種類であるようだった。

天井に向かって、何十本もある手を伸ばしているような形のものがあると思えば、
今度は手の平を何百個も合わせて広げたような形のものもある。

見とれているとアーンガットの尾で左の脛を叩かれてハッとする。

そして彼は歩き出した。

しばらくその奇妙な空間を、湿った土を踏みしめつつ歩いていくと、
少しだけ開けた場所に、先ほどまでいた部屋と同じような絨毯が敷いてあるのが見えた。

そこだけ硬い素材の床になっているらしく、テーブルと椅子が配置されている。

土に絡み取られそうになりながら松葉杖を固定した少年の目に映ったのは、
そのテーブルに突っ伏して寝息を立てている女性の姿だった。

一瞬どういう反応をしたらいいのか分からずに立ちすくむ。

その隣で、同様に女性を視認したアーンガットは、息を呑むと、急いで彼女に駆け寄った。
375 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:31:51.44 ID:GnKCc8vG0
「サナ様、そんな格好で眠られて。また体を壊してしまいますぞ?」

咎めるようにいいながら、器用にテーブルに飛び上がると、
彼は急いで女性の顔をべろんと舐めた。

「……ひ……っ!」

何を言ったのかはよく聞き取れなかったが、
言葉にならない悲鳴を上げて彼女の体がビクンと震える。

そして次の瞬間、目の前の女性は今まで寝ていたと思えないほどの俊敏な動きで、
腰に挿していた刀の片方に手をかけた。

「……アーンガット!」

メルヘドは考える間もなく叫んでいた。そして松葉杖を泥の中から引き抜いて、
殆ど反射的に地面を蹴る。

二、三メートルの距離を文字通り転倒しながら仰向けに転がると、
少年は右手に持った松葉杖をその勢いで下から上に振り上げた。

――考えてやった行動ではなかった。

自分がどうしたかったのかも分からない。
376 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:32:34.11 ID:GnKCc8vG0
ただ、直感的に。

そう、直感的にだ。

あの人は刀を抜く。そう確信したのだ。

その瞬間は思い浮かばなかったが、メルヘドは自分が行動を起こした後に、
三週間前に同じように刀を突きつけられたことを思い出した。

――どういう風に思ったんだろうか。

アーンガットが危ないと思ったんだろうか。

それとも、大切な人を殺した女が目の前にいたことで、
抑え込もうとしていた感情が爆発したのだろうか。

分からない。

分からないが。

メルヘドは女性が刀を抜刀後振り下ろすよりも早く、
地面に転がりながら松葉杖を振り上げていた。

自分がその行動をしたと言うことに気づくまでに、
体が静止してから実に二十秒以上の時間がかかった。
377 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:33:23.42 ID:GnKCc8vG0
頭の中が瞬時に真っ白になっていた。

段々と靄が晴れていくように視界がクリアになっていく。

そこで彼は、地面に尻餅をついた姿勢で松葉杖を上に伸ばしている
間抜けな格好であることに気がついた。

そして、偶然なのだろうか。

テーブルの上のアーンガットと女性の丁度真ん中に
松葉杖の先端が突き出しているのが見えた。

ゆっくりと視線をスライドさせる。

その目がまず唖然としたアーンガットの褐色の瞳に合致する。

次いでぽかんとした女性の顔。

意外すぎるほど童顔だ、と思う間もなく、メルヘドの視線は
松葉杖を両断する寸前で機械のように停止している刀の切っ先を見た。

更に十秒くらい経って自分が何をしたのかを完全に理解する。

間をおかず手から松葉杖が外れて床に転がった。
378 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:34:11.51 ID:GnKCc8vG0
一気に無茶な行動をしたせいで尻餅をついた臀部と右足首に
激痛が走って声にならない叫びを上げる。

うずくまった彼の脇に慌ててアーンガットが駆け寄った。

「ぼ、坊ちゃま!」

「あ……あら……あら?」

とぼけたような、鈴の鳴るようなか細い小さな呟きが聴こえてくる。

女性……サナ・ヘーンザックは抜刀した刀を一瞥もせずに機械的な動作で鞘に戻して、
怪訝そうな顔で丸くなったメルヘドを覗き込んだ。

「……ど、どうしたの?」

(……『どうしたの』?)

そのあまりにも場違いな第一声を聞いて、瞬間、メルヘドの胸に
ドス黒いもやもやが一気に噴出した。

心配そうに脇に寄ったアーンガットを押しのけて、目を見開き。

そして彼は喉から声を絞り出していた。

「何すんだバカ野郎!」
379 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:34:52.17 ID:GnKCc8vG0
その声がだたっ広い植物園の中に何重にもこだまする。

土に汚れた包帯が巻かれた手を握り締め、
怒りに歪む目で少年はサナを真っ直ぐ睨みつけた。

「……助けてくれたし、アーンガットの上司だって言うから我慢しようと思ってた。
でも、いくらなんでもコレはないだろ。頭おかしいんじゃないのか!」

こいつが。

こいつが、今やったと同じように。

寝起きで焼いたトーストを引き裂くように。

刀で。

みんなを殺したんだ。

今、この瞬間に確信する。

そしてアーンガットまでもを殺そうとした。起こそうとしただけなのに。

こいつが……こいつが!

湧き上がる怒りを抑えようともせずに体に巻かれている包帯をむしりとる。
380 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:35:44.67 ID:GnKCc8vG0
それを地面に叩きつけ、メルヘドは怒鳴った。

「ここから出せ! この人殺し!」

しかしそう言った途端、左頬に激しい衝撃を感じてメルヘドは地面に転がった。

「……言い過ぎでありましょう。坊ちゃま、落ち着きなされ」

アーンガットが駆け寄りざまに長い尻尾で頬を張ったのだった。

思いもかけていなかった痛みに唖然として彼を見つめる。

「師の断龍刀はそれ自体で独立した意思を持つが故、
師自身の心が空なる場合は制御が出来んのです。
それに、『彼奴ら』は、命ならば八次元に
位置している龍しか斬ることは出来ませぬ」

「……八次元? 制御? 意味が分からないよ! だって現に今!」

「唯一ついえることは、師がその気でしたらあなたなぞ、
この植物園に足を踏み入れた瞬間に細切れになっていたという事実であります。
それは爺にも言えることでございます」

静かにアーンガットが返す。
381 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:36:40.18 ID:GnKCc8vG0
今まで激昂したところを見たことがなかったために、
かえってその姿は恐怖だった。

自分の唯一の味方が向こう側に行ってしまったのを理解して、心の底から寒くなる。

そして溜まらずに叫んだ言葉を砂嵐のように急激に後悔した。

サナ、と言った女性は黙って尻餅をついたままのメルヘドを見下ろしていた。

その目は無表情とも、怒りとも違う顔だった。

むしろ戸惑いと疑問の表情だった。

顔だけを見ると少年と大して変わらない程の驚くべき童顔の女性だった。

しかし体は大きい。

長い髪を腰の辺りで尻尾のように何個にも分け、上半身にはマントのように巨大なジャンパー。

体にフィットしたパンツが下半身には見えていた。

彼女は自分が腰に戻した刀を一瞥すると、全てを理解したように口元を押さえた。

そして戸惑ったようにこちらを睨みつけている少年のことをまた見る。

その慌てぶりがまた癪に障って拳を握る。

……こんな女にみんなは殺されたと言うのか。そんなことが許されるのか……?
382 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:37:23.91 ID:GnKCc8vG0
否、許されるはずがない。

許しちゃいけないことだったんだ。

助けてもらった。動けるようになった。

看病してもらった。

だから、忘れようと思った。

目をそむけようと思った。

でも……こいつは。こいつは。

……母さんは死んで、こいつはここでのんびりと昼寝してたじゃないか!

そんなの……そんなの!

後悔と失望と絶望が入り混じったぐちゃぐちゃの心でアーンガットとサナを見る。

少年の視線に耐え切れなくなったのか、
黒色の老犬はしばらくすると視線をそらした。

しかし刀を下げた女性の方は真逆だった。

まだ僅かに戸惑いを残しているも、はっきりと分かる笑顔を顔に浮かべる。
383 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:38:12.33 ID:GnKCc8vG0
それはドス黒い憎しみを明らかな勢いで発散している少年に向けたものだった。

普通の神経では頬の筋肉を緩ませることも出来ない緊迫した空気の中、
彼女はただ微笑んで見せた。

そして痛みで動けないメルヘドの方に無造作に近づいてくると、
地面に投げ捨てられた包帯を手に取った。

火傷の膿で汚れたそれについた土を、丁寧に手で払う。

何をしているんだ、理解が出来ないという顔を向ける。

すると彼女はまた笑顔で包帯を差し出した。

無言だった。

受け取ろうともせずに、かがみこんだサナの鼻に額をつけんばかりの
勢いで憎しみの光を送る。

しばらくして彼女はハッとすると、腰に下げていた二本の刀に手をかけた。

一瞬斬り殺されるのかと思い、憎しみの思いを込めて睨みつけていた瞳に恐怖の色が宿る。

しかし彼女は抜刀するでもなく、鞘ごとそれをゴミのようにかなり離れた場所に向けて放り投げた。
384 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:39:04.25 ID:GnKCc8vG0
ポカンとした少年の目に、二本の刀が放物線を描いて後方に飛んでいき、
植物の一つに当たってバラバラに地面に転がるのが見えた。

――大事な武器じゃないのか? 大切なものじゃないのか?

その謎の行動により。睨みつけることを継続していいものか
悪いものか分からなくなったメルヘドの耳に、
次の瞬間アーンガットの慌てふためく声が飛び込んできた。

「な、なな何をしておられるのですか! アレを手放したら師は……!」

最後まで言い切らずに、彼が刀が落ちた方向に猛突進で駆け去る。

サナはそちらを一瞥して軽く肩をすくめると、
静かにメルヘドの前にしゃがんで、にこっ、と疲れたように微笑んだ。

「ごめんね。アレが手元にないと私、呼吸が出来ないの。
だから寝てる時に手元に置いて置いたんだけど、
勝手に動いてしまったみたいですね。
龍以外にたいした害はないはずですが、驚かせました」

さらりと発せられた言葉が脳に浸透するまでに相当な時間がかかった。

「……でも、君は怖かったよね。ごめんね。
そんなつもりじゃなかったんだけど、こうしないと喋ってくれそうになかったから」
385 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:39:38.04 ID:GnKCc8vG0
「……嘘だ」

しかし、すぐさま打ち消すように彼は呟いた。

「息が出来ないなんて、嘘だ」

「どうして?」

「だって……だって、俺ァ、アンタを殺すかもしれない」

その言葉を口に出した時、しかしメルヘドの心の奥に発生したのは、
それまで火のように燃え盛っていた粘ついた怒りではなかった。

もちろんその感情はまだ爆発的に残っていた。

だが矢で射抜かれるように感じたのは、どうしようもない虚無感だった。

三週間前に太陽を見上げた時に感じた感情だった。

それと全く類似した真っ白い、何もない寂しい空間が心にぽっかりと穴を開ける。

思考が停止した空間が、胸の中に開いている。

微笑んだままの童顔を見つめ、メルヘドは泣きそうに顔を歪めて続けた。

「アーンガットもいなくて、アンタ、俺の手の届くところにいる」
386 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:40:45.36 ID:GnKCc8vG0
「ええ、そうね」

何でもないかのようにサラリと頷いて、サナは手を伸ばした。

そしてボサボサに伸びた少年の頭に軽く触れる。

そのまま子供をあやすように頭を撫でられ、メルヘドは握っていた拳の気勢が
一枚ずつはがされていくような、どうしようもないやるせなさを感じた。

「そうなるように、君が治るまで待ってたんですよ」

息ができていない、というのはどうやら本当のことらしかった。

彼女の表情は変わらないが、段々と唇の色が鈍い濃色へと変化していく。

「さ、好きにしなさい」

そう言ってサナはメルヘドの腰に手を回すと、か細い女性の力とは思えないほど
しっかり彼を持ち上げて地面に立たせた。

そして手に包帯を握らせる。

「どうしたの? アーンガットが帰ってきてしまうわ。
そうすれば君が私を殺せるチャンスは、もうないかもしれないですよ……?」

メルヘドは空っぽの心のまま、サナから目をそらして地面を見つめた。
387 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:41:31.43 ID:GnKCc8vG0
そしてこの異常な事態に対応することが出来ずに、
思考が滅茶苦茶になった脳の中、自然に震えだしてきた足を見つめる。

どうして震え始めたのかは分からない。

だが、ガクガクと意思に反して膝が鳴っていた。

心臓が早鐘のように打つ。

その状況をどうにかしたいと思い、息を吐いたと同時に彼は呟いた。

「…………どうやって殺したらいいか、分からない……」

「人なんて簡単に死ぬわ。好きにすればいいでしょう?」

目の前の人は、無抵抗だった。

しかしメルヘドは動くことが出来なかった。

目の前で唇を紫色に変色させた小さな女性がふらつきながら
立っているのが目の端に映る。

だが、彼女と目を合わせることが出来なかった。

「首を絞めるとか……殴り続けるとか?」
388 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:42:20.84 ID:GnKCc8vG0
しばらくして、サナは囁くように言った。

「気が済むまで。その拳は偽者ですか?
今、あなたの目の前にいるのは、息を止めた丸腰の女一人ですよ」

メルヘドは答えなかった。

「……意気地なしなんですね」

罵られる。しかし、メルヘドはピクリとも動くことが出来なかった。

息が出来ない、顔が薄紅をさしたかのように赤くなってきている女性。

その人のほうが遥かにしっかりと大地を踏んで、しっかりと喋っていた。

自分の喉に手を当てて、強く握る。

開いている方の手を強く、強く固める。

血が出るほどに爪を食い込ませて、メルヘドはやっと、
まるで壊れたブリキ人形のように振りかぶった。

しかし、振り下ろせなかった。

そのまま十数秒も停止して、不意にアーンガットが駆け寄ってくる足音が聞こえる。
389 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:43:24.82 ID:GnKCc8vG0
急いで振り返ると、巨大な老犬は二本の刀を口にくわえていた。

そして首を捻った反動でサナの方に両方共を投げてよこす。

彼女はあっさりと刀を手で掴むと、次の瞬間胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。

そして腕を振り上げたまま唇が破れるほど噛んでいるメルヘドの前で何度か深呼吸をする。

小さく咳き込んだサナに向かって、荒く息をつきながらアーンガットが声を荒げた。

「一体何をなさるんですか! 
まだ体調も万全ではありませんのに、本当に死んでしまわれますぞ!」

「そんなに怒らなくてもいいじゃない、現に私は無事ですよ、爺。この子、優しいから」

軽く首を傾げて疲れた顔でサナは笑った。

そしてメルヘドの方に近づいて、振り上げたままの手をそっと掴む。

彼女はしばらく考えると、反応がないメルヘドのことを……そのまま胸に抱きしめた。

そこでハッとして人間の肌の感触で我に返る。

「殴ればよかったのに」

端的に呟きが聴こえる。
390 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:44:18.55 ID:GnKCc8vG0
しかし少年は、もう拳を握る気力もわかずに力の抜けた首を振った。

頭を撫でられる感触。

彼女は一言も、
メルヘドに対して家族を殺したことに対する侘びの言葉を述べなかった。

触れようともしなかった。

でも。

「……じゃあ、もう一回殺せる機会が来るまで、
私の弟子として傍で働きませんか?」

問いかけられる。

少年は息をついて、目の前の女性の顔を見上げた。

その顔は微笑んでいた。自分を殺せ、と言っていることと大して変わらないセリフを
述べながら、微笑を発していた。

常人の神経ではないのか。もしくは本当にそれを望んでいるのか。

もう、訳が分からなかった。
391 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:45:17.50 ID:GnKCc8vG0


弟子になる、とは一言も言っていなかったが、
メルヘドはその日からサナの後をついて歩くようになった。
 
彼の立ち位置について彼女が何か意見を言うことはなかったし、
アーンガットが常に脇にいたから、生活は全く不自由がなかった。
 
不思議と、彼女に対する怒りは最初のあの時に起こったものだけだった。

それから後は何も感じなかった。

何となく思ったのだ。

無抵抗になって殺せ、と言われた時。

彼女には罪に対して『償う』気持ちは欠片もないことに気づいたのだった。

償いの気持ちではない、多分……責任。

あの時にメルヘドを殺していればこんなことにはならなかった。

抵抗もしない、感染しているかもしれない子供一人の命を助けなければ、
自分の命を危険にさらすこともなかった。
392 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:46:12.55 ID:GnKCc8vG0
でも多分、助けた者の気持ち、過去、全てを考慮して自分が起こしたことへの
責任を全うするために、自分の身を投げ出したのだ、と少年は思った。

……でも、だからと言ってメルヘドにサナを殺す権利はあるのだろうか?

考えても、それは分からなかった。

分からなすぎて、頭の中が真っ白になった。

だから、目の前の仇に何もする気も起きず、何も出来なかった。

そう、メルヘドにはサナを殺した後に一切を背負う義務に耐え切る覚悟も、
責任も、何もなかった。

考えてみる。

彼が母と呼ぶ人間は、本当の母親ではなかった。

元々は孤児を拾って育てていた教会のシスターだ。

それが龍により汚染され、レジスタンスに入った。

後で知ったことだが、その頃にはもう人間には戻れないほど侵食をされていたらしい。

誰が悪いわけでもない。

その事実を心の底から、彼は無抵抗のサナに手を振り上げた瞬間に、どことなく理解をした。

だから多分、彼女からは謝罪も、侘びの言葉もなかった。

その単純な事実のために、彼女はただ責任を全うしようとしたんだ、
と子供の心でそう思うことにした。
393 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:47:00.52 ID:GnKCc8vG0


それから二週間ほどしてほぼ完全に包帯が取れ、
少年はサナに付いてアカスアの外に初めて出た。

砂漠に一日だけ出ていたと言うのに、まともに動けるようになるまで
約一ヵ月半。

サナに手を引かれて地下のエレベーターから外に出る。

その間の二週間、彼女はこちらに対して一言も語りかけようとしなかった。

まるで本当にメルヘドが殺しに来るのを待っているかのような。

本当はこちらが気を使わなければならないはずなのに、
むしろ気にしすぎて近寄れないでいる。

そんな印象を受けた。

いや、本当に殺しに来るのを待っていたのかもしれない。

そんな異常な憶測がまかり通りかねないほど、
どこかサナという女性は不思議な感覚がある存在だった。

見た目からでははっきりとした年齢は分からない。
394 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:47:48.70 ID:GnKCc8vG0
アーンガットの語調を聞く限りは成人して半ばのようにも思えるし、
実際目視しているとメルヘドと大して変わらないようにも見える。

彼女は、後でアーンガットから聞いた話だと体があまり良くないらしく、
アカスアにいる時は殆どを涼しい植物園で過ごすらしかった。

当分は静養ということで留まる、と聞かされ、メルヘドは、
元いた部屋に帰る羽目になった。

そこで寝たり、起きたり。

アーンガットに言葉を習ったりしながら何となく二週間を過ごす。

その間サナは時たま部屋に入ってきてぼんやりと少年と犬を見ているだけだった。

弟子になって仕事をしませんかと聞かれはしたものの、何も言ってこない。

正直まだ、どう対応したらいいか分からないメルヘドからも声をかけあぐねていたところ。

不意に、ここに来てから三つ目の言語を学んでいる最中のメルヘドに、
部屋の隅の壁に寄りかかって虚空を見上げていたサナが、初めて自分から口を開いた。

「……メル、そろそろ出かけましょうか」

不意の言葉に反応することも出来ずに、ポカンとした顔を老犬と見合わす。
395 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:48:55.48 ID:GnKCc8vG0
「ど、どこへですかな?」

メルヘドの言葉をアーンガットが代弁すると、
サナは壁から体を離してお尻付近の埃を払うと、疲れたような、
やる気のない瞳を彼らに向けた。

そして小さく咳をしてから答える。

「バルバロンに会いに行くの。
ここで生きていくなら、どうしても必要でしょう?」

穏やかな彼女の言葉を聴いて、その瞬間アーンガットの顔色が変わった。

「お待ちください。それなら、それ相応の準備がございまする。
確かに坊ちゃまの傷は完治したとはいえ、時期が早すぎるのでは」

「バルバロンにとっては時間なんて関係ないわ。
駄目な者は駄目だし、いくら待っても同じよ。
それに……みんなにも紹介しなきゃ、これから面倒なことになっちゃうかも。
昨日、ユルドスルドからそう言われてね」

どうでもいいかのような、冷たい声だった。

そして一つ息をつき、彼女は無造作に座っているメルヘドに歩み寄ると、
彼の手を取って床に立たせた。
396 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:49:35.85 ID:GnKCc8vG0
「準備はいい、メル?」

聞かれて、初めて面と向かって語りかけられたことよりも
自分のことを表すその単語に驚く。

「……メル?」

聞き返すと、にっこりと笑ってサナは続けた。

「あなたのことよ。これからはそう呼ぶね。
私のことは、『先生』と呼びなさいね。
別に呼び捨てでもいいけど、そうしたら周りに示しがつかないから」

笑顔で当たり前のように会話をされて、何故か気恥ずかしくなり目をそらす。

そんな少年の手を、彼のものよりも少し小さい手で握って、サナは軽く引っ張った。

小さくて、変な感じがする手だった。

しかしところどころゴツゴツと、たこのようなものが感じられる。

少なくとも、若い女性の手の感触ではない。

まるで数十年も重労働をしてきたような、そんな柔軟さを持つ手。

引っ張られて、慌てて足を踏み出す。
397 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:50:15.43 ID:GnKCc8vG0
「ちょ、ちょっと待ってよ。俺、まだ寝巻きだ」

「そのままでいいですよ。バルバロンは目が見えませんから」

さらりと流されて、手を掴まれているだけなのに
逃れられないような圧迫感を感じ、素直に後について歩く。

(――バル、バロン?)

言葉の意味が分からない。

それを聞こうと口をあけて、
彼女のことをどう呼んだらいいか、瞬時に判断できなくて口をつぐむ。

バル・バロンとは。

アーンガットにここ二週間で教えてもらった古代ビリアト語という、
千五百年以上前に滅亡したという文明が使っていた言葉だ、
というのは何となく分かった。

今まで、何故か老犬はメルヘドにその言葉を集中的に教えたのだ。

発音が綺麗だし、言葉のイントネーションがどことなく格好よいので
娯楽程度に覚えていたが……。
398 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:50:53.74 ID:GnKCc8vG0
バル・バロンとは、そのままの意味で訳すと多分『最上級の龍』という内容になる。

だから怪訝に思ったのだった。

「爺はそこで待っててくださいね」

歩きながら振り返り、サナが笑顔で言う。

アーンガットは何かを言いかけたが口をつぐみ、頭を下げた。

「坊ちゃまを、宜しくお願いいたしまする」

サナが軽く手を振ってそれに答える。

そしてそのまま部屋を出て、エレベーターに共に乗り込んだ。

これに入るのは二回目だ。

いまだ手を握ったままのサナの顔を見上げて、
メルヘドは何回か息を吸った後に口を開いた。

「あの、あんた……」

「『先生』、と呼んでほしいな」

やんわりと訂正されて、額をつつかれる。
399 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:51:31.13 ID:GnKCc8vG0
その行動に驚きながら、少年は少し前に自分を殺せ、
と言っていた女性の目を見た。

澄んだコバルトブルーが広がっている。彼女は自動音声に『地上一階』と言うと、
軽く息をついて額を抑えた。そして何回か、苦しそうに息を吐く。

しばらくしてまた目尻を抑えて頭を振る。

「………………せ、先生?」

少しどもりながら、また口を開く。

大きく深呼吸して腰の刀を左手で握り、『先生』は下を見下ろしてそれに答えた。

「なぁに?」

「だ……大丈夫、か?」

その瞬間、口から出たのは。

――どんなに時間がかかってもあんたを殺す、という。

何度も思い描いた言葉でもなく。

ここから出て行くから、忘れてくれと言う譲歩の言葉でもなく。

ただ、目の前の女性を気遣う一言だった。
400 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:51:58.43 ID:GnKCc8vG0
声をかけられて、正真正銘にサナがきょとんとする。

そのまま上昇を続けるエレベーターの中で、二人は何十秒か見詰め合った。

そして不意に、彼女は息を細く吐き、ただメルヘドの頭をゴシゴシと撫でた。

「うん、平気」

微かな声は、機械の駆動音にまぎれてすぐ消えた。
401 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:52:47.91 ID:GnKCc8vG0


しばらくして地上一階のエレベーターが停止し、手を引かれて外に出る。

その時、何の準備もしていなかったメルヘドの脳天を
植物園を見たとき以来……いや、それを遥かに超える衝撃が襲った。

思わずサナの手を離してその場に呆然と立ち尽くす。

そして彼は、数秒間もあんぐりと口をあけた後、床に膝をついた。

あまりの光景に腰が抜けたのだ、と気づいたのはそれから
たっぷり一分半も経った頃だった。

「ふふ、凄いでしょう?」

パシャ、という音が『先生』の鈴のようなか細い声に被さる。

産まれてこの方、こんなに大きな音を聞いたことがなかった。

光だ。

光が広がっている。

広がりまくっている。目の玉が焼けるくらいに、キラキラ、キラキラと煌いている。
402 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:53:40.21 ID:GnKCc8vG0
ビー玉を何千何億とぶちまけたみたいに、透明な空間が目の前に広がっていた。

――それは水だった。

そうとしか。メルヘドには形容できなかった。

端が見えないほど広い空間だった、アカスアの地上一階とは。

何百メートル……いや、何キロもあるのだろうか。

円形の空間がどこまでも続いている。

見回しても、見回しても端が見えない。

エレベーターはその空間の丁度中央付近にあったらしく、
階段状の床を降りると……また、サナはパシャッと音を当てて『水』を踏み、
気持ちよさそうに撒き散らした。

太ももまでを、今までの人生で二日に一本も飲めなかった水が……水が、広がっている。

その下は白色の床になっている。

上を見ると、ドーム型に刷りガラスのような素材で半透明の屋根がずっと遠くまで伸びていた。

薄ぼんやりと見える外は、こげ茶色をしている。
403 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:54:32.54 ID:GnKCc8vG0
天中には真っ赤な円が一つ。太陽だ。

しかし直射日光を浴びる角度なのに、何故だかここは全然暑くなかった。

むしろ植物園よりも格段に涼しい。

天国に来たのかと、メルヘドはその時。本当にそう思った。

腰が抜けている少年の手を引いて、水に濡れた彼女が光る太陽の飛まつを浴びながら微笑む。

その手に引かれてよろよろと立ち上がり、歩き出そうとする。

しかしそこで彼は自分の足に引っかかり、頭から眼下の水の砂漠に飛び込んだ。

え……と思う暇もなかった。いきなり視界が暗転し、音が聞こえなくなる。

手を突こうとしたが、それがもったりとしたものに阻まれて上手く動かない。

パニックになりかけたところで、サナの手に助け起こされる。

水の中に手をついた姿勢で、呆然自失としながら、少年はまた周りを見回した。

しばらくして手で、体の周りに広がるものをすくってみる。

それはダイヤのような輝きを発しながら、波紋を広げて下に落ちた。
404 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:55:06.83 ID:GnKCc8vG0
「綺麗だよね。残酷なほど」

サナが囁くように言う。

少年は息を詰まらせながらゆっくりと上を見上げ、口を開いた。

「………………水?」

「ええ」

即答だった。

「これ…………全部、水か?」

「ええ、そうよ」

彼女が同じ答えを繰り返す。

少年は手で水面を叩いた。

軽い音と共に、それが周囲に散った。

そして半狂乱になったかのように、何度も、何度も叩く。

その度に飛沫が上がり、微笑んでいるサナの顔、
そして自分の体中にそれが降りかかる。

冷たかった。

それは、狂おしいほどに水だった。
405 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:55:40.31 ID:GnKCc8vG0
「これも、これも、これも、これも! これも水なのか!」

「そう、水よ」

「これも!」

波を蹴立てて少し離れたところに走っていく。

そこでまたメルヘドは足をもつれさせて後ろ向きに転んだ。

しかしすぐに立ち上がり、目を血走らせてサナを見つめる。

「ここも水なのか!」

「見えるもの、全部水ですよ」

落ち着いた答えだった。

「……な」

言葉にならなかった。

まるで鴛になってしまったかのように、言葉が出てこない。

次の瞬間、自然と歯がギチギチと鳴った。
406 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:56:18.03 ID:GnKCc8vG0
知らないうちに、歯を噛み締めていた。

砕けるほど、削れるほど噛んでいた。

手の下の水を握り締めて、また腕を叩きつける。

大分たって、メルヘドの激情が収まるのをサナは黙って見ていた。

そしてうなだれるように膝をついた彼に近づき、そっと頭に手を置く。

「でも、これは飲めないわ」

目の前の光景に衝撃を受けすぎた存在を沈静化させるに、
その言葉はまさに薬のような効果を発した。

目を見開いたままのメルヘドがゆっくりと顔を上げて、彼女の服につかまる。

「…………なんで?」

物凄い沢山の質問を込めた言葉だった。

「飲めないの。綺麗だけど、毒なんだよ」

ゆっくりと染み込むようにサナは少年に言い聞かせた。
407 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:57:01.27 ID:GnKCc8vG0
「触ってもいいし、少し口に含むくらいなら全然問題はないけど。
でも、この純龍水をそのまま、一リットル以上飲んだら即死するわ。
私も、メルもね」

自分の体を包む透明な液体。それを手ですくって見つめる。

「だから。君が今、思ってることは。思ってて、絶望して、
私のことを憎んでる原因のことは、私はしてあげることが出来なかった。
謝りたいわけじゃないけど。知ってて欲しかった……」

そっと腰に手を回され、地面に立たされる。

何度か軽く頬を張られ、やっとメルヘドは少しだけ我に返ることが出来た。

「死にたくなったら、ここに来て沢山水を飲むといいわ。私は止めません」

突き放されるように、しかし優しく声をかけられて。

そこでやっと脳裏に浮かんできた自分を取り戻す。

そして彼は目の前で微笑んでいる女性の顔をまた、見上げた。

その顔は微笑んでいた。

ただ、感情の見えない笑顔だった。
408 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:57:47.26 ID:GnKCc8vG0
しかし植物園にいた時よりも明らかに、僅かに頬に血色がある。

息も苦しそうではなく、荒くない。

「…………これは、なに?」

目をそらしてそう呟く。

サナは少し考えた後、鈴のような声で答えた。

「水よ」

「嘘だ……さっきは違うことを言った」

「うぅん。水なの。でも、私たちが生きているこの三次元に定義される水じゃない。
八次元空間からの定理的強制介入型位相抽出で、
変質的物理形状、定質の構成をされた物質存在における第二次定理ラインの許容定理上、
空間認識に対しての必然的な副産物。
だから、私たちが飲み物と称するところのそれとは違うの」

一瞬沈黙した後、目をむいて少年は声を荒げた。

「意味がわかんねぇよ」
409 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:58:41.53 ID:GnKCc8vG0
「でしょうね。でも、私も、私の先生に。
初めてここに来た時にそう教えられたわ……
あの時も、メルと同じように、私はそこらへんを走り回って、転げまわった。
まぁ、時間が経てば理解できるようになりますよ。
それに……この次元の言葉では、それ以上簡単に表すことは出来ないから。
私たちはただ、純龍水と呼ぶの」

「純……龍水?」

「ええ、そうよ。そしてこの水を排出する存在、全ての龍の中で唯一人間に最も近い存在。
『バルバロン』がここにいるわ。
彼女は純龍水を出し、私たちはそれに薬品を加え、濃度を数百倍まで希釈してから世界中に送り出す。
それが、アカスアの正体。秘密の箱も、開けてみれば何てことはないわ……」

そう言ってサナは息をつき、少し間をおいた後にそっとメルへドを脇に引き寄せた。

そして小声とも取れるような控えめな声で口を開く。

「聞いてるんでしょう。バルバロン、出てきてくれないかしら?」

一瞬誰に向かって言ったのかと、きょとんとして周りを見回す。

目に入る場所には誰もいない。

ただ、毒の水が光を反射して、宝石のように煌いているだけだ。
410 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 21:59:26.45 ID:GnKCc8vG0
しばらく待ってみるが何の音もしない。

しかしサナは、不意にこめかみを押さえると苦しそうに咳き込んだ。

そして歯を噛み締めて、言う。

「……この子は私の家族です。あなたに害を成すことはないわ」

今まで聞いたこともないくらいにしっかりと、はっきりした声だった。

――『家族』

そう呼ばれてメルヘドは、瞬時に反応できずにサナの顔を見上げた。

こめかみを押さえた彼女の目は、はっきりと前を見据えていた。

そして腰の刀に手をかけ、噛み潰すように繰り返す。

「出てきなさい。いい加減にしないと怒るわよ」

綺麗な、鈴の鳴るような声。

しかしか細いが故に口から出てきたその言葉は、妙な威圧感を帯びていた。

数秒、間が開く。
411 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:00:18.23 ID:GnKCc8vG0
そして不意に、彼らの目の前。

三メートルほど離れた地点の水面が円形にざわついた。

波紋だった。

眼下から何かが競りあがってくるように、円を描いた軌跡がこちらまで弾けて散る。

次の瞬間、水の中から……
否、先ほどまでは何もなかった空間から不気味な『影』が姿を現した。

波紋の内部より、別の空間から出てきているかのような勢いで、次々とそれが突き出てくる。

――それは、まるで粘土だった。

白い、粘ついた粘土。

水の中から出てきたのは、高さ一メートルほどの、いびつな人型をした粘土だった。

どこから出てきたのかは分からない。

しかし、あまりにも当たり前のようにそれは水面から姿を現した。

一応頭と体、腕はある。だが腰から下が水に浸かっていて、ここからは見えない。

「……これが……?」
412 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:01:08.42 ID:GnKCc8vG0
あまりにも予想を裏切って貧弱な、その化け物じみた『モノ』を見て、
驚きと言うよりも当惑を感じてメルヘドは口を開いた。

しかしサナはそれに答えず、少年を更に強く自分の方に引き寄せる。

白い粘土は左手に当たるものをこちらに伸ばすと、
水面をさざなみ立たせて、滑るように移動をしてきた。

そして前方一メートルくらいの、手を伸ばせば届く位置に止まる。

そのまま顔のない頭部に見つめられ、
どういう行動をとったらいいか分からずに、傍らのサナの服を強く掴む。

手を伸ばした粘土は、メルヘドの方にゆっくりと進もうとしたが……
途中でその手でサナの足に触れた。

そのままべちゃり、べちゃりと音を立てて何度か撫で回し、引っ込める。

「せ、先生……?」

異常な目の前の光景に唖然としながら、何らかの救いを求めて口を開く。

すると粘土はいきなりメルヘドの方を向き、小首を傾げる動作をした。
413 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:01:53.99 ID:GnKCc8vG0
次の瞬間、まるで砂の彫刻を作るのを早送り再生するかのごとく勢いで、
その物体が形を変え始めた。

つるつるだった顔面に窪みが出来、細かい節が出来、細い糸のような髪が次々にせり出す。

腕の方も、まず関節が出来、指先が五つに割れ。

数秒もたたずに、その粘土状の物体は、何もまとっていない幼い少女の体に変質した。

しかしそれは、全身が石灰で出来ているかのごとく真っ白だった。

肌にも生気がなく、水を含んでテカテカと光っている。

目に当たる部分は開いていず、閉じている。

腰から下は水に沈んでいるが、ここから見える水面下にそれは確認できなかった。

上半身だけが水面に浮いている状態になっているらしい。

人間の形はしているが……彫刻と言うか、銅像と言うか。

そう形容した方が近いような気がする。

白色の女の子は、メルヘドの方を目をつぶりながら向いて、もう一度小首をかしげた。
414 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:02:44.54 ID:GnKCc8vG0
肩口でそろった髪の毛が、まるで本物であるかのようにふわりと揺れる。

途端、今まで嗅いだこともないような、
砂糖の焦げたような甘ったるい匂いがあたりに充満した。

「先生……? 先生……!」

その匂いをかいだ途端、メルヘドの胸の奥に唐突に『危険だ』という感情が噴出した。

何の理論も、知識もあるはずがない。

しかし生物としての本能がそう告げたのだ。隣に立っているサナに殆ど
無意識に助けを求め、彼女の後ろに隠れる。

格好悪いとか、情けないとか、そんなことを考えている余裕なんてなかった。

恐怖を感じたわけでもない。ただ、一つだけ。

『危険だ』

と思ったのだ。

避けられてバルバロンと呼ばれた異形の人形が不思議そうに何回か首を回す。

そして次は、サナの方に顔を向けると、実に流れるような動きで口を開いた。

「……ヘーンザック、お姉ちゃん? 中々カンの良い子を手に入れたみたい、ね?」
415 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:03:41.71 ID:GnKCc8vG0
からかうような調子の声だった。

しかし、メルヘドはバルバロンから発せられたその音を聞いて、
強烈な違和感を感じて顔をしかめた。

子供の声ではない。

子供から……大人。十人以上もの年齢が違う女性が喋っているような。

そんな多数の複声音が響きあう音だったのだ。

彼女の問いかけに対して、サナはメルヘドを守るように体の後ろに彼を回し、
大きく息をついてから言った。

「私の時と同じですね。もし今ので死んでしまったら、どうするつもりだったのです?」

「そのときは、そのとき。また、新しいの連れてくればいいじゃ、ない? 
人間なんて、次から、次へと沸いてくる、でしょ?」

ところどころを途切れさせるように、
そしてまるで鳥が囀るようなテンポで軽々と
目の前の化け物はそのような言葉をつむぎだした。

意味は良く分からない……分からないが。

本当に、危なかったんだと気づいて青くなる。

そこで彼はサナが自分を守るように少しずつ後ろに下がっていることに気がついた。
416 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:04:29.21 ID:GnKCc8vG0
「で、なに? お姉ちゃん、私の子、まだこわれてない、でしょ?」

可笑しそうに肩を軽く震わせてバルバロンが言うと、
サナは腰の刀を鳴らしてから言った。

「見たとおり、まだソドムとゴモラは大丈夫。
そんなことはどうでもいいの。分かっているでしょう、
あなたに、ここでこの子が暮らして私の跡を継ぐことを了承してもらいたいんです」

その言葉を聴くと、不思議そうに龍は胸の前で手を合わせ、体を前後にぶらした。

「その子、お姉ちゃんのこと殺す、よ?」

何気なく発せられた言葉だった。

しかしそれが持つ重さ、重要性全てがメルヘドとサナを同時に撃ちつけた。

特に少年よりも遥かに、比べ物にならないくらいの衝撃を受けていたのはサナの方だった。

僅かによろめくと、メルヘドを背後にした姿勢のままこめかみを押さえる。

ケタケタと、耳障りな音が聞こえる。

何かと思うと……それはバルバロンが笑っている音だった。
417 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:05:17.00 ID:GnKCc8vG0
「今、手放せば。殺されないかも、しれないよ。
あなたが、アンクチュールを殺したみたいに、ザックリやられないかも、しれないよ。
どうする? どうするのかな? 刺されると痛い、痛いよ? 
斬られると人間、血、出るよ。痛い、痛い……あはは」

――予言。

こんなふざけた予言があるだろうか。

しかし目の前の先生はただ唇を噛んで俯いた。

そこでメルヘドは、まだ衝撃を受けた頭の中で、後退している自分たちを
バルバロンが追ってこないことに気がついた。

いまだに耳障りに笑ってはいるものの、どことなく腰が引けているような感じを受ける。

まるで虚勢を張っているかのような……。

そこまで考えた時、サナが大きく息を吸って口を開いた。

「分かっています。覚悟して臨んだことですから」

「覚悟? 人間て、汚される覚悟はするのに、手放す覚悟ができない、の? 
いいからどっかにやっちゃいなさ、いよ? 面倒ごと、は、もうご、めんだよ」

「……私を怒らせたいのですか?」
418 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:06:15.33 ID:GnKCc8vG0
そのとき、静かにサナが呟いた。

――怒った。

明確にそういう印を表したわけではない。

ただ、ふわりと空気が変わったのだ。

今までの甘ったるい匂いがまるで嘘のように、生々しく、緊迫した肉の匂いに変化していく。

鼻から匂ってくるのではない。体全体でそう感じる。

彼女はメルヘドから離れると、ゆっくりと腰の刀に手をかけ、それぞれの手で引き抜いた。

一メートル半はある、銀光りした片刃が天井からの太陽光線を受け、猛獣の牙のようにぎらついた。

それをだらりと体の脇に垂らし、サナはまた大きく息を吸ってから言った。

「私が本気で怒れば、どうなるかくらい知っているでしょう。
御託はいいから、早く認証印をこの子にあげて。
そこまで言われて黙っていられるほど、私はお人よしではないわ」

「力、技? ふふ……ははは! 全然進歩が、ないね? 
ここに来た時から、ずっと同じ。単細胞。
人間の子は、人間ってことかな? お姉ちゃん? だからアンクチュールは」
419 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:07:03.40 ID:GnKCc8vG0
バカにするように言われる。その瞬間、彼女の言葉をブツ切りにするように、
サナの前方空間に矢のような光が走った。

一拍も二拍も遅れて、彼女が両腕の刀を振りぬいたということに気づく。
それくらい斬撃が早かった。光が煌いて散ったようにしか見えなかった。

水を蹴立てるでもなく、腰を沈めた姿勢のサナが、両方の刀を水に突き立てている。

次いで、数秒の間と共に目の前のバルバロンの頭部が……パンッと嫌な音を立てて破裂した。

そして小さな銅像状の上半身が、まるで巨大な重機に殴りつけられたかのように、
物凄い勢いで後方に吹き飛ばされる。

水を刃のように割りながら、それは何回か水面をバウンドして
……遥か遠くに豆粒のようになって消えた。

「…………認証、印欲しい?」

しかしメルヘドは、唐突に背後から響いてきた声に体を硬直させた。

耳元で不気味に反響した複声音が鳴り響く。

一瞬何が起きたのか分からなかった。

吹き飛ばされた筈のバルバロンが、何の予兆もなく自分の背後に出現していた。

甘ったるい匂いと、湿った粘土のような感触に首筋を触られて唖然として動けなくなる。
420 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:07:53.14 ID:GnKCc8vG0
「……メル!」

小さく叫んでサナが慌てて振り返る。

しかし彼女は、少年がバルバロンの手に、
背後から絡み取られているのを見て動きを止めた。

目を瞑ったままの龍は可笑しそうに笑いながら、メルヘドの肩を抱いていた。

「こうしたら、人間って、手出せない、よね。
ほら、ほら。早く斬ってみなさい、よ?」

――遊んでいる。

彼女の語調から何となくそう感じる。

これは、この龍は……遊んでいるつもりだ。

まるで小さな子供のように。

善悪が分からない頃の幼児のように、しかし不気味な知恵と共にサナをからかっている。

それと共にメルヘドは、この彫刻のような異形の怪物がその気になれば、
自分なんて簡単に消しされれてしまうことを本能で理解していた。

それゆえに振りほどいて逃げることが出来ない。

体が、そうさせてくれない。
421 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:08:33.31 ID:GnKCc8vG0
サナは額に汗を浮かべながら唇を噛んだ。

そして二本の刀を両脇に構えて腰を落とす。

「……どうして? 私の時はあっさりと認証印をくれたじゃないですか!」

「最近誰も来ないから、暇、だし」

何でもないことのようにさらりと言うと、
首筋にまとわりついていたバルバロンが小さな口をパクリとあけた。

そしてメルヘドの首筋に小さく噛み付く。

言いようのないぬめった感触と、背筋を突き抜ける不快感にさらに体を硬直させる。

ツルツルした舌で嘗め回されているかのような、嫌なものだった。

しばらくして口を離し、バルバロンは肩をすくめて見せた。

「おなかすいたし」

「……待ちなさい。その子を食べることは私が許さないわ」

「許さない、ってどうする、の? また斬るの? あは、は。バカじゃない?」

「あなたをじゃないわ」
422 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:09:15.85 ID:GnKCc8vG0
体の脇に刀を置いた姿勢のまま、サナは静かに腕を伸ばした。

そして逆手に刀を持ち替える。

「その子に手を出した瞬間、私はこのドームを切り刻む。
それでもいいなら、好きにしなさい」

頑なな口調だった。今自分がどんな危機的状況に置かれているのかをまだ理解できずに、
メルヘドはただ呆然と突っ立っていた。

サナの言葉を聴いたバルバロンは、多少なりとも衝撃を受けたようだった。

父親に殴られた子供のようにメルヘドから手を離し、二人から距離をとる。

「……やれるもの、ならやってみなさいよ」

小声で、囁くようなバルバロンの挑発が聞こえる。

サナは無表情のまま両腕を振り上げた。

そのまま、腕を静止させた彼女と異形の怪物が睨みあう。

メルヘドはまだ首筋に残る違和感を手でぬぐい、二人を見つめた。

そして大きく息を吸い、口を開こうと努力する。
423 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:09:52.76 ID:GnKCc8vG0
数秒間、何とか声を出そうとした挙句。

出てきたのは消え入るようなかすれた声だった。

「よ……よく分かんないけど……」

彼の言葉に最も過剰な反応を示したのはバルバロンだった。

ビクリと体を震わせて、サナから視線をそらしこちらに顔を向ける。

「オレぁ、アンタには何もしないから、喧嘩やめてくれよ……」

今発せられる言葉は、それが限界だった。

ただ、ここでこの二人を止めなければ大変なことになる。

それだけを感じたのだ。

口をつぐんだメルヘドを横目で見て、サナが構えた刀の姿勢のままバルバロンを見る。

異形の少女はしばらく戸惑ったように目を閉じたままの視線を泳がせていたが、
やがてため息をついてから言葉を発した。

「変な、子連れてきた、ね」

「……ええ」
424 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:10:39.54 ID:GnKCc8vG0
短く受け答えをして、サナは大きく深呼吸をしたあと、刀を鞘に戻した。

「何か飽きた……もう、いいや。お姉ちゃん、これ狙ってたんだ。
それ言われたら、手、出せない。凄いね、教えてないのに、この子言ったよ
……ちょっと君、こっちに、来て」

今までの態度とは変わってバルバロンに手招きをされて、
メルヘドは困惑した視線のままサナの方を見た。

刀から手を下ろした彼女が、もう安全だと言う風に頷いてみせる。

何故か力が入らない足を動かして自ら白い少女に近づくと、
それは手を伸ばしてメルヘドの顔に触れた。

今度は不気味な悪寒はなかった。

むしろ生暖かい、人肌のような感触が伝わってくる。

「認証、してあげても、いいけど。約束、確認させて、欲しい」

問いかけられて、唾を飲み込んでから口を開く。

「……な、何を?」

「さっき言ったこと、を破ったら、死ぬって。誓いなさい。
そしたら、君はこれから、次元と、次元の位相に、干渉できる存在になる」
425 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:11:26.38 ID:GnKCc8vG0
「誓い……?」

「生きている限り、私にはなにもしないん、でしょ?」

今や、いつの間にかバルバロンの声は少女の音一つに絞られていた。

かすれ消えるような、蚊の羽音のごとく声を聞いて数瞬だけ目を白黒させる。

そしてメルヘドは頷いた。

「わ、分かった。誓うよ。生きている限り、君に危害は加えない」

「はい、契約、成立」

まるで外に出かけるとでも言わんばかりの軽い調子で龍は言った。

そして閉じていた目をゆっくりと開く。

そこに眼球はなかった。ただ暗く落ち込んだ、
真っ青な空間が奥へ……ずっと奥へと広がっている。

唖然としてそれを見つめていると、バルバロンは右手を伸ばし、
チョン、とメルヘドの額に触れた。

途端焼けた針で突き刺されたような痛みを脳の奥に感じて、
後頭部を押さえて小さく叫び声を上げる。
426 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:12:02.29 ID:GnKCc8vG0
水に膝をついたメルヘドを見下ろしてから目を閉じ、
バルバロンは興味を失ったように肩をすくめた。

「これで、お姉ちゃんはもう、私を斬れない、ね。あは……あはは!」

また耳障りな声に戻ってそれは哄笑すると、
波紋を上げて水にもぐって消えていった。

完全に龍が姿を消すのを見届けて、サナがメルヘドに駆け寄る。

「メル、大丈夫?」

聞かれて、大分治まってきた頭痛を堪えながらメルヘドは口を開いた。

「な、何なんだよ……あれ……」

「良かった。バルバロンに認証させるには、
君の掛け値なしの言葉が必要だったから……
ごめんね。怖い思いをさせましたね……」

「掛け値なしの、言葉?」

先生のセリフを反芻して、自分が半強制的に誓わされたことを思い出す。

「あいつ、自分に危害を加えたら俺は死ぬって……」
427 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:12:47.16 ID:GnKCc8vG0
「……それは冗談ではないわ。決して、忘れないようにしなさい」

それだけを早口で呟いて、サナはメルヘドの手を握り、引き起こした。

「さぁ、早くここから出て帰りましょう。
これからあなたは、外に出ることが出来ますから。
一緒に列車に乗ることも出来るようになりましたしね」

疲れた顔でサナが微笑む。

まだ腰に力が入らないまま、少年はもう一度周りを見回してから言った。

「外に……出れるの?」

「ええ。でもアカスアは聖域ですから。
生身の、バルバロンに認証を受けていない人間は入れても出ることが出来ない。
だから、あなたをアカスアの人間だと認めさせる必要があったの」

手を引かれてエレベーターの方に歩き出す。

毒の水が飛沫を上げて体にかかる。

どこにも、もうバルバロンの姿はなかった。
428 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:13:13.71 ID:GnKCc8vG0
「いずれにせよ、これで私とメルは名実共に家族になったわけです。
これから……よろしくね」

振り返らずにサナが言う。

メルヘドはしばらくポカンとしたあと、
自分の手を握っている節くれだった小さな手を見つめた。

それは、まだ……かすかに震えていた。

強く握り返して息を吸う。

そして彼は一言。

「うん」

とだけ答えた。
429 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:14:17.73 ID:GnKCc8vG0


(……うわ、暑っ……)
 
マントを二枚も着込み、ちょっと大きすぎるマスクを頭から被り、
長い髪の毛を結んで服の中に入れる。

その作業をしてからブーツを履いて外に出た……までは良かったのだが、
アラリスは列車の窓から砂漠に転がり落ちた瞬間、
あまりの温度差に体を強張らせた。

マスクがなかったら多分呼吸器官がおかしくなっていたところだ。

太陽は中天。

もうじき一日で一番暑い時間に差し掛かる。

手袋の中身が急激に汗ばんでくるのを感じながら、
少女は少し離れたところにそびえているメルチュアの防砂壁を見つめた。

視線の端、空気が揺らめいているところに城砦門のようなものが見える。

多分あそこが入り口だ。

待っていてもメルヘドはもうじき帰ってくるだろうが
、アラリスの性格としてそれをそのまま鵜呑みにして待機していることは出来なかった。
430 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:15:05.64 ID:GnKCc8vG0
アーンガットがいなくなってから十分ほど待ってみたが、何も起きなかった。

もしかしたら自分のためにメルチュアに行った師が、道に迷っているのかもしれない。

そう考える。

他の団員ならばいかがわしい店とかに立ち寄ってしまい帰還する時間が遅くなることは、
若年ながらも少女は理解していた。

だが、メルヘドに限ってそれはないような気がする。

自分の師を美化しすぎかもしれないと時々思うのだが、彼は何故か、
そういう俗物趣味にはあまり興味を示さない。

いや……考えてみればアラリスには、メルヘドの趣味が何なのかも分かっていなかった。

とりあえず、色々と遅れている原因は考えられるわけだが。

入り口は一つ。そこの付近にいれば絶対に合流は出来るはずだ。

それにもし待っても来なかった場合には、地図を持ってきた自分が探しにいけばいい。

(……師匠、買い物に連れてってくれるって約束してたし)

滅多にこういう命令違反はしないのだが、色々と考えて自分のことを正当化する。
431 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:15:59.85 ID:GnKCc8vG0
そしてアラリスは、踏みなれない砂の感触を足裏に感じながら前進を始めた。

途中でフォルチェントォのサボテン群に遭遇する。

触ろうかとも思ったが、間近で見るとアーンガットの言葉どおりに相当細くて
細かい針がびっしりとついていて、伸ばした手を引っ込める。

まだ少し頭痛がするが、大分気は楽になっていた。

ポケットに入れている、自分の小遣い……先月メルヘドにもらったものを手でまさぐる。

実のところ、アラリスが列車の中から外に出るのは三ヶ月ぶりのことだった。

加えて直射日光の下を歩くのは半年程もなかったことかもしれない。

いつもは空調が聞いている列車の中か、メルヘドに守られてそのままオアシスの
上層ドームに直行するかのどちらかだ。

下層エリア、それにオアシスの外を歩くのは本当に久しぶりのことだった。

考えてみればメルヘドがいない時にはアーンガットが、
アーンガットがいないときにはメルヘドが。

必ず自分の傍にいたような気がする。

二人とも席を外しても団員の人が守ってくれる。

そんな状況から数メートルでも離れてみて、どことなく心細くなる。
432 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:16:41.82 ID:GnKCc8vG0
不思議と揺らめく空気の中早足になり、砂漠に足跡を残しながら、
ぶくぶくに着ぶくれした少女はメルチュアの城砦門に近づいていった。

出てきたときは簡単なように思えたが、
いざ歩いてみると体が自由に動かないことに気がついた。

暑さのせいもあるが、寝不足から完全に抜け切っていないのだ。

アラリスは、常人では考えられない程脳血圧が高い、異常な体質をしていた。

そのせいで少し興奮したり怒ったりしただけで頭が痛くなることも多い。

ましてや今は殆ど寝ていないことに加えて熱中さなかの砂漠に出ているのだ。

血圧がまともな状態である方がおかしい。

頭を振って、十分以上もかけて五百メートル足らずを歩く。

そして彼女は、やっと防砂壁に手を突いて、日陰に腰を下ろした。

荒く息をついてマスクを脱ぐ。

白い湯気が上がり、ボタボタと乾いた砂に汗が落ちていくのが見えた。

(わ、私これだけ歩いただけで死にそうになってる……)
433 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:17:36.23 ID:GnKCc8vG0
自分の体力のなさと情けない体質に、改めて呆然とする。

早く動かなければ……と思ったとき、案の定停車している列車の窓から
黒色の物体が飛び出してくるのが見えた。

それは砲弾のような勢いで砂漠を駆けると、すぐにしゃがみこんでいるアラリスを見つけたのか、
こちらに突進してくる。

砂漠に足を取られるでもなく、四足で砂煙を上げて駆け寄ってくる老犬……アーンガットだった。

やはり空調の聞いたところからいきなり外に出たのか体に障ったのか、
長い舌をだらりと垂らして彼が防砂壁の影に滑り込む。

五百メートルほどを歩くのに十分以上かけたアラリスに比べて、彼は二分もかかっていない。

その事実に驚愕していると、しばらく荒く息をついた後に、彼は重い声を発した。

「……一体、何をしているのです! ちゃんと待つって約束したでしょう!」

「あ、あはは……ごめん、爺……」

「御免ではありませんぞ……もう年なんですから、無理をさせないで頂きたい……」

人間なら両手を地面について呼吸を整えているような姿勢で
しばらく深呼吸を繰り返した後、アーンガットは顔を上げた。

「さ、爺の背に乗ってください。列車に帰りますぞ」
434 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:18:20.53 ID:GnKCc8vG0
「ここまで来たんだから、入り口の近くで師匠を待とうよ?」

慌てて彼の言葉を打ち消すと、老犬は一瞬停止した後、
少女の考えを理解したのか後足で額を掻いた。

「し……しかし……」

「もうすぐ師匠、戻ってくると思うし……いいでしょう?」

畳み掛けるように早口で言うと、アーンガットはため息をついてから答えた。

「……仕方ないですな。ですがどちらにせよ、私の背に乗ってくださらないと。
それに、師がお戻りになられ次第、列車に帰りますぞ」

「……う、うん。分かった」

意外にあっさりと許しをもらえて、アラリスはきょとんとしながら立ち上がると
アーンガットの背にまたがった。

尻尾までを伸ばすと彼女の体よりも大きい老犬の背中は、
妙に硬くて列車のシートのようにガチガチになっている。

「首の毛を離すんじゃありませんぞ」

そう言って彼が地面を蹴ると、僅かな衝撃と共に二人が砂漠の移動を始めた。
435 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:19:29.05 ID:GnKCc8vG0
そして数分も経たずに城砦門の目の前につく。

老犬の背中を降りて、アラリスは胸ポケットをまさぐり
アカスア鉄道の認可証を取り出した。

アカスアの幹部が持つことを許されているそれは、
見せれば入り口付近エリアくらいなら入れるはずだ。

しかし……二人は目の前にそびえている巨大な石の門を見上げてから、
顔を見合わせた。

関所の役割をしているらしいそれの、受付に当たるスペースには人の影がない。

歩いて近づいてみるが、どこにも人間の気配は感じられなかった。

「……おかしいな。みんなお昼の休憩かも」

そこまで言って、アラリスは受付スペースの奥を覗き込んだ。

合成素材のドアが開きっぱなしになっていて、うっすらと街の中が見える。

しかし振り返ってアーンガットを見た彼女は、一瞬言葉を留めて息を飲み込んだ。

老犬が眉をしかめて、牙を剥き出しにしていたのだ。
436 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:20:36.56 ID:GnKCc8vG0
「ど、どうしたの?」

聞くと、彼は少し息を吸い込んでからそれに答えた。

「……まずいですな」

「まずい?」

「ええ。ここまで接近して初めて、微かですが臭いました。
勘違いかとも思われましたが……
あの町の空気を見て確信いたしました。この感覚は、龍ですな」

「…………え?」

唐突に発せられた言葉にきょとんとして、次の瞬間青くなる。

「この中に?」

「かなり巨大な龍の空気を感じます。
成る程……この大きさでも兆候さえ見せていないと言うレベルならば、
相当接近しないと分からないわけですな……」

「まさか、本当に龍汚染されてた領域だったの……」

唖然としながら呟いて、ハッと気がつく。
437 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:21:19.89 ID:GnKCc8vG0
「っていうことは、師匠は……」

「中で戦闘中か、もしくはとらわれているかだと思われまする」

端的に聞かされたことを数秒で理解し、アラリスは息を詰めた。

そしてアーンガットのことを心細げに見下ろす。

「……ど、どうしよう」

どもりながら問いかけられたことに、
しかし老犬は答えずに口の中に沸いた唾を、小さく飲み込んだ。

「どう……しましょうな」

しばらくして発せられた言葉は、少女と同様に困惑した声だった。
438 :三毛猫 ◆E9ISW1p5PY [saga]:2013/01/05(土) 22:22:38.65 ID:GnKCc8vG0


第三話に続かせていただきます。

三話からは明日以降投稿させていただきます。

今回は、失礼します。
439 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/05(土) 23:51:33.33 ID:FYWkSmCao
440 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/05(土) 23:53:02.76 ID:hauBEGxDO
おお、龍祓いですか。
懐かしい。完結が楽しみです。

しかし、こうもスレを掛け持ちして大丈夫でしょうか。
441 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/07(月) 22:42:11.71 ID:m4Y27EMKo
おつ
442 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/11(金) 00:56:40.50 ID:ss3ojWBeo
乙乙!
ずっとまってました!!
443 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/11(金) 21:57:14.31 ID:9fxo1D90o
前にもコレ書いたのか?

とにかく乙
444 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/01/13(日) 11:23:27.07 ID:KOrWn/KRo
>>443
>>1の作った作品まとめてあるサイトにあったやつ
445 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/02/11(月) 01:42:35.24 ID:EXkjbEX8o
こういう作品すごく好きだ。続きまたせてもらいます。
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