ミュウツー『……これは、逆襲だ』 第三幕

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289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/03/12(月) 01:14:22.97 ID:+S8gatdJo
290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/03(火) 00:41:21.90 ID:kI9w4PSJo
291 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:29:22.15 ID:pdxvH6grO


重い羽毛布団のような暖気に、意識も飛びかける昼下がりのことだった。

昼食はすませたがまだ休憩は残っている、という中途半端な時間帯。

レンジャーの若者は、今にも眠気に負けそうになっていた。

どちらかというと気絶に近いかもしれない。

やや軋む椅子の背もたれに身体を預け、ぼうっとしていた。


すると、こつんこつん、と硬そうな音が聞こえた。

あともう少し意識が遠のいていたら聞き逃してしまいそうな、かすかな音だ。

レンジャーはぎくりと顔を上げ、息を潜めた。

誰かが扉か壁をノックしたことを理解したからだ。


息を呑み、次の音を待つ。

そうしている間にも、頭だけはどんどん覚醒していった。

いったい、こんな時分に誰がヤグルマの森のレンジャー詰所を訪れるというのだ。


こつん、と今度は少し弱々しい音がする。

反応がないから不安になっている、ということなのだろうか。


レンジャー「は、はーい……?」


音がやむ。

まだ動かずに様子を窺う。

緊張のせいか首の皮が痛い。


きゃきゃきゃ、と硬い床板を蹴る音が足元を通じて伝わってきた。

体重の軽い何者かが、忍び足で遠ざかっていく振動に聞こえる。

少し離れたところでごしょごしょと誰かが囁き合う声。


レンジャー(……??)


このまま出てこないと思われてしまうのも不本意だ。

爪先立ちでドアに近寄り、音をさせないようにノブを捻った。

だが努力も虚しく、年季の入った木製のドアはけたたましい鳴き声を発して開いた。
292 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:32:38.48 ID:pdxvH6grO

日光が視界を灼く。

風景が少し揺らめいている気すらした。

目が慣れるに従って、足元に小さな影が佇んでいることが認識できた。


レンジャー「わ、お前かぁ……びっくりさせるなよー」


安堵の溜息をつきながらレンジャーはドアの外へと這い出した。

見覚えのあるコマタナが大きな目を見開いて、自分を見上げている。


コマタナ「ゔ!」


小さなコマタナは、両手を振り上げて自身をアピールした。


レンジャー「うんわかったわかった」


手で自分の顔を拭い、深呼吸する。

レンジャーは屈み、コマタナの目の高さに視線を合わせた。

コマタナの顔を両手で包み込んで感触を確かめる。

保育士かなにかにでもなった気分だ。

コマタナはびっくりしたのか目を見開いたが、されるがままで立っている。


レンジャー「元気なのかあ?」

コマタナ「ゔ?」


警戒されていないことに安堵しながら、素早くコマタナを調べる。

相変わらず、後頭部の硬い部分には痛々しい凸凹がある。

これは、時間が経ってもきっとこのままなのだろう。

あわれな濁声に、紙切れ一枚も切れないなまくらの両手。


レンジャー「……栄養のあるもん、ちゃんと食べてるみたいだな、偉いぞ」

コマタナ「お゙、お゙……?」


見るも憐れな箇所はあるものの、ざっと調べた限りでは元気そうだ。

こうして顔を見せる気力があることにもほっとする。
293 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:35:38.27 ID:pdxvH6grO

ああ、うう、と少し耳障りな鳴き声を上げ、懸命に話しかけてきている。

当然、何を言っているのかさっぱりわからない。

今日までの『積もる話』を、懸命に教えてくれている気がした。


レンジャー「とりあえず元気みたいだなー、安心したよ」

レンジャー「……あれ、お前だけ?」


するとコマタナは喚きながら両手を振り払い、自分の後方を示した。

なまくらの指先を向け、『あっちを見ろ』と促している。


レンジャー「だよなあ、保護者同伴ってやつか」


立ち上がり、レンジャーは大きく手を振った。

数メートル離れた場所に見慣れたシルエットの持ち主がいる。

コマタナがその影に駆け寄り、彼の腰にしがみついた。


レンジャー「おーい、ダゲ……」


彼は強い日差しに目を細めることもせず、立っている。

いつものように、やはりコマタナはダゲキが連れて来たのだ。

どこか卑屈そうで表情の薄い、いつもの彼が――


レンジャー「おいなんだよ、その顔」


レンジャーはぎょっとして息を呑んだ。

ダゲキが少しだけにやにやしている。

まさかと思って瞬きしても、やはり不思議な表情を浮かべている。

笑いを噛み殺しているとか、いたずらでも目論んでいる顔だ。

もしくは、誕生日のサプライズを隠しきれない子供のような顔。


よく見ると、ダゲキのうしろにもうひとつ小振りな影がある。

もうひとり誰かがいるのだ。


ダゲキの脛のあたりから、緑色の揺れる何か――誰かがちらっと見えた。

それが何を意味するのかを理解して、レンジャーは急に浮き足立った。
294 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:37:44.07 ID:pdxvH6grO

ダゲキが身体を少し捻って、うしろの誰かを促している。

『ほら早く出てこい』と言わんばかりの動きだ。

その動作も、どことなく砕けた親しさを感じさせた。

彼がそんなふうに、表情豊かな所作を見せたことに驚く暇もない。


『誰か』が、ダゲキの背後からおそるおそる姿を見せた。

いつかのコマタナの姿が脳裏をかすめる。


レンジャー「うわあっ」


思いがけない客に、レンジャーは思わず声を上げていた。

その声に、コマタナと緑色の影がびくりと痙攣する。


自分の心臓が爆音で波打つのを感じる。

嬉しいと思うよりも前に、レンジャーの足は勝手に動き出した。


駆け寄ってしゃがむ。

背丈はダゲキの半分ほどしかない。

もっと身体は大きくてもいいはずだ、と頭の片隅で『知識』が言う。

最後に見かけたときよりだいぶ改善されているが、いまだにちびで痩せぎすだ。

いまさら食べても、遅れを取り戻すのは大変なのだろうな、と納得する。


観念したのか、ダゲキのうしろから小さな影がそろそろと進み出た。

現れたのは小さな小さなジュプトルだった。
295 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:39:12.08 ID:pdxvH6grO





やり方は知っている。

私になら、それがいとも簡単にできることも知っている。

いずれ、やらねばならないことだと理解もしている。

もっと早く、やっておかなくてはならなかったことだとわかっている。

だが、やらなかった。

チャンスはいくらでもあったのに。

だが、できなかった。


どうして、やらなければならないのだろうか。

それが必要なことだからだ。

それがとても大事なことだからだ。

彼らを守るために。

彼らの居場所を奪わないために。

せめて彼らのささやかな幸せを駄目にしないために。
296 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:42:12.22 ID:pdxvH6grO







大声を出したせいか、ジュプトルは緊張ぎみにこちらを見上げている。

このジュプトルと初めて顔を合わせたときのことは今も忘れていない。



たしか、今日のようにダゲキに引き摺られてやってきたのだ。

当時のジュプトルは今より更に痩せこけていた。

進化して間もないようだったが、それにしては状態が悪かった。


彼らは栄養状態の善し悪しが皮膚より葉に出るから、そこを診る。

頭や尾の葉は色褪せて艶がなく、絵に描いたような栄養失調だった。


体力はすっかり落ちているはずなのに、声を嗄らして威嚇する姿も印象的だった。

目は敵意にぎらぎら光り、人間への不信感や憎悪を隠そうともしない。

連れてきたダゲキに対しても態度はあまり変わらない。

擦れた声で喚き散らし、爪を振り回していたものだ。



ダゲキが顔に引っ掻き傷を作って姿を見せたこともある。

それもこのジュプトルにつけられた傷だったはずだ。


そのジュプトルが、今日は不思議なくらい穏やかにしている。

コマタナにしたようにそっと顔を掴んでも、今日は引っ掻いてこない。

本当は跳んで逃げ出したいのを我慢しているのかもしれないが。

ダゲキの足に爪を引っ掛け、かろうじて踏み止まっている。


相も変わらぬ貧相な姿は、何度見ても心が痛む。

それでも以前と比べればよほど肉付きもよく、色艶もいい。


レンジャー「……元気にしてたんだなあ」


そう声をかけると、返答に困ったのかダゲキを振り返った。

だがダゲキは何も言わず、黒く淡々とした目で見つめ返すだけだ。
297 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:44:10.29 ID:pdxvH6grO

助け船を得られないことがわかると、ジュプトルは諦めてこちらを見上げる。

肩を竦めるしぐさで肯定の意思を示した。

目には不安の色がまだ濃い。


レンジャー「ならいいんだけどさ」

レンジャー「それにしても、いったいどういう風の吹き回しだよ」

レンジャー「今まで、ぜんぜん来てくれなかったのに」

レンジャー「なあダゲキ」


ジュプトルの身体をあちこち調べながらダゲキに問いかける。

ダゲキは短く鳴いただけで、それ以上は何も言わなかった。

今日は黙って見守る兄貴分に徹する、といったところだろうか。


同種の個体を見たことはあるが、まるで遠近感を誤ったように小さく感じる。

この森で初めて姿を見た頃からずっとその印象のままだ。

根本的な体格の貧しさは、人間でいう欠食児童を連想させた。

一応、現時点で病気や怪我があるようには見えない。


レンジャー「何か困ってたりしないか」


改めてジュプトルの顔を見る。

ジュプトルは首を傾げ、慌てたように首を横に振った。


レンジャー「うん? そう、大丈夫なのか」

レンジャー「じゃあ……わざわざ顔を見せに来てくれたってこと?」


ジュプトルが頷く。

ダゲキを盗み見ても、特に否定する気配はなかった。


レンジャー「なんだよ、ほんとにどういう心境の変化だよ、おい」

レンジャー「ほんとにさ、びっくりしたんだから」


笑みを噛み殺しながら、レンジャーは手を掲げようとした。

ジュプトルが反射的に首を竦めて目を閉じる。
298 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:46:29.66 ID:pdxvH6grO

レンジャー「あっ、ごめん」

レンジャー「あっそうか、たしか、えっと頭、触られるのイヤだったよな」


おそるおそる首を伸ばし、ジュプトルはレンジャーを見た。

鼻柱を爪で引っ掻きながらかすかに唸っている。

ダゲキは動かない。

彼の横に立つコマタナが心配そうに鳴いた。


ジュプトルがレンジャーに視線を据えたまま俯いた。

これではまるで首を差し出しているようだ。


レンジャー「……それは」

レンジャー「え、本当にいいの?」


今度はレンジャーが困って、後方の保護者を見る。

ダゲキはやはり表情を変えない。

意を決して、レンジャーはジュプトルの頭にそっと手を乗せた。



 
299 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:49:03.20 ID:pdxvH6grO





『今日は、とても嬉しい日だった』。


ベッドに潜り込んでいたレンジャーは、この一日をそう思い返した。

神経が昂って、とても眠れそうにない。

えも言われぬ高揚感、浮ついた感じがいつまでも残っている。

気をつけないと、勝手に顔が笑い出してしまいそうだった。


ずっと音沙汰のなかったジュプトルが顔を見せてくれたのだ。

それが一向に眠れない主な理由だった。


あれからほどなくして、彼らは去っていった。

結果からいうと、ジュプトルの頭を撫でることは、ほとんどできなかった。

手が触れた瞬間、やはり跳んで擦り抜けてしまったのだ。

引っ掻かれなかっただけ御の字だとは思う。


跳躍したジュプトルは、そのままダゲキとコマタナの背後に舞い戻った。

ダゲキはそれを見て、かすかに残念そうな顔をしていた。

顔を見せに来たというよりは、それが目的だったのかもしれない。


レンジャー(どういう心境の変化なのかな)


天井を眺めて考える。

少なくとも、こちらが大きく変化したとは思えない。

彼らの方に何かしらの変化が起きた、ということなのだ。


レンジャー(……変化、ねえ……)


少しずつ記憶を辿り、遡る。

なにか、小さいかもしれないが決定的な変化があったはずなのだ。


レンジャー(最近、ダゲキが来ること自体、妙に増えてたけど)

レンジャー(関係あるのかな)
300 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:50:43.72 ID:pdxvH6grO

前回までの来訪を思い出す。

日誌にはもちろん書かないし書けないが、特筆すべき変化はあった。


レンジャー(今日はあいつがいなかったな)

レンジャー(……ああ、そうか、あいつか)


木の間からほんの少しだけ見えていた、あの姿を思い浮かべる。

鋭い木洩れ陽を受けて、白っぽい身体のごく一部がキラキラと光っていた。

全体像がしっかり見えたことはないし、無理に見てやろうという気もない。

『あいつ』自身が、あれでも身を隠そうとしていたからだ。

何かを羽織っていたような気がした。

コートや上着にしては生地の薄そうな、薄汚れた布地だったか。


レンジャー(ということは、やっぱり人間に捨てられたりしたんだろうな)

レンジャー(ああやって『上手くやれてる』ってことは)

レンジャー(気性が荒いとか、乱暴ってわけでもないんだろうけど)

レンジャー(ダゲキもあの白い奴のことは気に入ってるみたいだし)


脳裏に浮かぶ見知らぬポケモンは、頭からすっぽりローブを被っている。

その隙間から、こちらをじっと値踏みしている。


“この人間はどうだ”?

“信用するに足る人間なのか”?

“今度は”?


そんな想像をする。

期待には応えることができているのだろうか。


レンジャー(……)

レンジャー(でも、やっぱり見たことないポケモンだった)


自分とて全てのポケモンを知っているわけではない。

机に齧りついていたのも、かなり昔のことだ。

記憶も今は遠い。

とはいえ、一通りの種類は座学や研修で見てきたはずだ。

他の地方のものも、そう一般的でないものも含めて。

それでも、似通った特徴を持つ種類すら思い浮かばなかった、と思う。
301 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:53:49.76 ID:pdxvH6grO

不思議なほど馴染みのない姿だ。


レンジャー(ううーん……)


何か、妙に引っかかる。

“あいつ” のことは、なにも知らないはずだ。

けれど、どこかで見たような気もする。

まったくそのものを、ではない。

見たか、聞いたか、思い描いたか。

図鑑の中ではないし、座学の教科書の中でもない。

映像記録のたぐいでもない。

その記憶に、学術的な匂いは付随しない。

勉強で触れたわけではない、ということか。


勉強でないとすれば、もっと荒唐無稽な子供向けの本だったかもしれない。

都市伝説や、伝承や、古い昔話を読んだ時のような。


子供の頃は、そういう本を積極的に読み漁ったものだ。

世界の誕生やそれに関わった存在だとか。

それぞれの地方の伝わる伝承だとか。

どこかにいるかもしれない、謎に包まれた存在について。


もっとも、ああやって対峙した以上、伝説ではなく実在しているはずだが。

もし図鑑に載っていなかったら、そんな記憶でも手掛かりにせざるを得ないだろう。

伝説の元ネタになった種くらいは存在しているかもしれない。
302 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:54:50.50 ID:pdxvH6grO

レンジャー(あそこの図書館なら、何かしらあるかなー)


少なくとも、近縁種を絞り込んでおくことは無意味ではないはずだ。

もちろんこちらから過度に干渉する気はない。

……ないのだが。

援助を求められたとき、適切に対処するために必要になる気がした。

いつか、もしも、万が一にも求められたら、の話だ。

怪我や病気ひとつとっても、特性がおおいに関係するかもしれない。

そのときになってから調べたのでは遅い場合もある。

どこに報告するわけでもないし、むしろ報告はしない方がいいはずだ。

これまで通り、日誌には彼の存在すら触れず適当に書けばいい。


レンジャー(よし、今度の休みに調べよう)


ベッドの中で身体を伸ばす。

次になにをすればいいかはっきりすると、気分がいい。

展望が開けたような気になれる。


打算的だが、彼らが信頼してくれれば幸いだ。

あの大きなポケモンもいつかは心を開いてくれるかもしれない。

いつの日か、人間のことを許してくれるかもしれない。


こちらが誠実に接していれば。

彼らのことを第一に考えて行動すれば。

彼らの役に立てば。





 
303 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 00:57:04.78 ID:pdxvH6grO
今日はここまで。

保守ありがとうございます
さっきちょっとSS速報VIPが不安定になってたのでビクビクしました

USはやっと4つ目の島に到着したところです
304 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/04/09(月) 01:15:25.04 ID:pdxvH6grO
あっ忘れてた

それではまた
305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 01:17:35.13 ID:JiKjS/h70
乙乙
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/04/09(月) 18:17:24.69 ID:+dUNnKnK0
おつ
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 21:47:16.12 ID:gpS6ql6To
待ってた
おつおつ
308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/10(火) 13:31:13.77 ID:X0mY1yuv0
いい雰囲気なのに毎度ドキドキするぜ
309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/05/08(火) 01:09:00.37 ID:763E0+6uo
310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/06/03(日) 04:23:52.97 ID:cmSrtH9co
311 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/03(日) 21:13:04.30 ID:H8QMEiW7O
312 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:27:42.80 ID:lH8SKUuEO

強い日差しが容赦なく注ぐ。

刺すような暑さは相変わらずで、風が吹いたくらいでは涼しくならなかった。

そんな街角をゴロゴロと重い音が進む。

シッポウシティの片隅に、痩身の男が旅行用キャリーを引く姿があった。


鼻歌を歌える程度には機嫌もいい。

だが汗は、まるで人体が発する警報のように流れつづける。

暑さには強いと自負する男だが、さすがに目は日陰を探していた。


男は被っていた白い帽子を脱ぎ、顔を扇ぐ。

その眩しさに通行人が目を細め、足早に過ぎていった。

当の本人は、周囲のそんな反応を気に留めてすらいない。

ただ景色を眺めては特徴的な街並みに感心しているだけだった。


禿頭の男(気温だけ見ればそう変わらん気もするが、カントーほど辛くないな)


ちらっ、と何かが視界の隅を駆け抜けた。

今のは何だっただろう、と男は何気なく思い返す。

何度目だろうか、どこか時代錯誤な衣装の人影だったように思う。

なにかイベントでもやっているのだろうか、とさほど気に留めなかった。


男は再び帽子を被り、ふう、と深く溜め息をつく。


禿頭の男(やはり、奴が来なかったのは少々残念だなあ)

禿頭の男(いい気分転換になると思ったんだが)


今度は丸いサングラスをずらして目を細める。

木々の遥か向こうに、今しがた渡ってきたばかりの長い長い橋があるはずだ。

それがこの地方に足を踏み入れて二つ目の橋だった。

一つ目は、下船した街にかかる赤く長い跳ね橋だった。

その跳ね橋を見るのも、この旅における目的のひとつだったのだ。


禿頭の男(あの橋、言うほどリザードンには似ていなかったな)

禿頭の男(赤いという意味では十分に赤かったが)

禿頭の男(……さて)
313 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:31:07.63 ID:lH8SKUuEO

男は立ち止まり、あたりを見回す。

美しい煉瓦造りで統一された古めかしい建造物が並んでいる。


一見したところでは、年季が入っただけの倉庫街にしか見えない。

もっとも、古さのわりにどれも整備は行き届いている。


その中のひとつに目を向ける。

出入口横には、木枠をつけた黒板が立てかけられている。

その黒板に、店名らしき文字が洒落た書体で書かれていた。

しばらく眺める。

若い女性ばかりが頻繁に出入りしている。

とても倉庫として機能しているようには見えない。

意を決して覗き込むとなんのことはない、外側は倉庫のままだが中は古着屋なのだった。


また別の『倉庫』に目を向ける。

そちらはすぐ横に広々としたウッドデッキが設置されている。

店員の格好から、どうやら喫茶店のたぐいらしい、と男は唸った。


同じように、倉庫を画廊や住宅として使っているものもあるようだ。

無骨だが洒落っ気が漂っている。

それがこの街独自の様式と化して、不思議と均衡を保っていた。


男は荷物を引きずりながら、悠々と観光を楽しんでいる。

そのうち、男は気づいた。


禿頭の男(ここからも森が見えるな)


よく考えてみれば街のほとんどの場所から鬱蒼とした木々が見えている。

広い街を、より広い森が大きく囲んでいるのだから当然かもしれない。

それを差し引いても、妙に森の存在が気にかかるのだった。


禿頭の男(かすめる程度にしか見ていないが、やはりずいぶん広いようだ)

禿頭の男(あれほど規模の大きな森なら……まあ、人間に見つからんよう棲むことも難しくはないかもしれん)

禿頭の男(本当にあの森に……なんて、まさかな)
314 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:43:50.33 ID:lH8SKUuEO

男は想像する。

森の奥深く、人間の目の届かない場所がきっとあるはずだ。

友人が『我が子』と呼んだ存在が、そこで静かに潜み暮らしているのだろうか。

自分が知っているのは、巨大なシリンダー状の装置越しに見た姿だけだ。

身体を丸め、目を閉じ、たくさんのケーブルを繋がれている。

今ではどんなふうに成長しているだろうか。


日々の食糧を手に入れることはできているだろうか。

『父親』に言わせると、そういう知恵はなにも持たなかったはずだ。

だが不思議と、飢え苦しんでいる気はしない。


寂しい思いをしてはいないだろうか。

賢い子だから、誤解さえ受けなければきっと大丈夫だ。

広い世界のどこかに、あの子を受け止めてくれる場所がきっとある。


所詮は希望的観測だ、と男はかぶりを振って足元を見た。

地面には使われなくなって久しい線路が埋もれている。

かつての活躍は想像に難くないが、すっかり街を彩る装飾の一部と化していた。

線路の末端も雑草に覆われてよく見えない。


禿頭の男(奴にはああ言ったが、別に確証があったわけではないからな)

禿頭の男(観光がてら、それらしい話が拾えれば奇跡だ、が、まずは……)


男は立ち止まり、がちゃんと音をさせてカートを止めた。

腰に手を当て、目の前に聳える大きな建物を見上げる。


禿頭の男(……さて、ジムある街に来たならば)

禿頭の男(ここはやはり、ジムリーダーらしいやりかたで挨拶をしておかねばな)

禿頭の男(改めて考えれば、まったく難儀なものだなあ、トレーナーという人種は)


男はサングラスの奥で目を細めた。

白く輝く博物館は、沈んだ色合いの街にひときわ目立つ。

そのさらに目立つ正面に、ジムであることを示すエンブレムが堂々と佇んでいるのだった。
315 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:48:16.82 ID:lH8SKUuEO






手元のノートにペンを走らせる。

ぼんやりと苛立ちながら線を引く。

何度も線を重ね、色を濃くしていく。


静かな室内ではその音も少し耳障りだ。

他の利用者は、もっと意味のある音をさせている。

たとえば文字を書くとか、ページを捲るとか。


レンジャーは不意に顔を上げた。

誰かの視線を感じたように思ったのだ。

周囲を見回しても、それらしい顔見知りもいないようだ。


レンジャーの肩書きこそあるものの、たかが下っ端に大した力はない。

一般人も同然だ。

今はユニフォームですらなく、地味な私服に身を包んでいる。

誰かにことさら視線を向けられる理由は思い浮かばなかった。

気にしすぎだろう、と自分を納得させる他ない。


そうするうち、白いノートには、特徴的なシルエットが描き出された。


レンジャー(こんな感じだったかなあ)

レンジャー(いや、もうちょっと、こう……ローブみたいに被ってたかな)

レンジャー(木の間からはよく見えなかったけど)

レンジャー(屋根の上にいたときは、少しだけ見えたよね)


ペンを投げ出し、改めて自分の描いた絵を見る。
316 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:53:11.97 ID:lH8SKUuEO

身長からの割合でいえば小さめの頭部。

その下に直立した胴体が恐らく続いている。

足がどのあたりから生えているかわからないが、二足歩行に違いない。

あんなふうに背筋を伸ばして歩行する種類はあまり多くない。

ちらっと見えただけだが、体長と同じくらいの長い尾があったように思う。

外套のように大きな布を身につけているようだ。

頭からすっぽりと被り、顔つきはわからない。

姿を人間に見られたくないのだろう。

角か耳か、頭部の左右にかすかな盛り上がりがあったような気がする。


レンジャー(よし、あんまり似てないけどそれっぽく描けたかな)

レンジャー(……はあ)


溜め息とともにノートを押し退ける。

『恐らく』、『違いない』、『思う』、『だろう』、『気がする』。

要は“なにもわからない”。

迂遠さを垣間見て、うんざりしたのだ。

何も知らないことを改めて突きつけられるのは面白くない。

もとより、手元に大した情報はないのだが。


本を抱えた誰かが、机の横を通り過ぎていった。

自分の落書きを無意識に手で隠す。

見られて困る理由は特になかったが、なんとなく憚られた。


レンジャー(ここまでわからないとは思わなかった)

レンジャー(困ったな)


彼らが助けを欲したとき、自分は何かしてやれると思っていた。

少しは何かしてやれていると思っていた。

実際にはこのざまだ。

何かしてやるための手掛かりさえ掴めない。
317 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:54:53.68 ID:lH8SKUuEO

机の上には、既に目を通し終えた図鑑が山と積まれている。

イッシュ地方は“いの一番”に調べたが、当然のように空振りだ。

有り体に言えば、ここに積まれた本のどれもが外れだった。

どの地方の図鑑にも載っていない。

似通った部分のある種類さえいない。


そうして考えていくほどに、また別の疑問が明確になっていく。

あのポケモンは、つまるところいったい何者なのだろう。

まず、もちろん人間ではない。

ではどこから来た、どういう素性のポケモンなのだろうか。

これまで深く考えることは敢えて避けてきた疑問だった。

自分と彼らの関係において、そこに踏み込むのは無用な詮索でしかないからだ。

だが今は、それこそが鍵になるような気がしていた。


少なくとも人間には未知のポケモン、ということにはなる。

ならば、なぜ人間の物を持っている。

なぜ汚れた布を頭から被り、姿を包み隠そうとする。

人間を嫌い、憎み、遠巻きに友人たちを見守るのか。

その姿勢こそ、過去に人間の介在があったことを意味するのではないのか。


……ならばなぜ?


読み終えた本の、その隣の山に目を移す。

まだほとんど手をつけていない、毛色の違う本ばかりが残されていた。

信憑性の極めて低い都市伝説や伝承、噂ばかりが載った本だ。

図鑑といえば間違いではないが、情報としての意味はあまりない。

子供向けの本もある。
318 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2018/06/09(土) 23:56:38.34 ID:lH8SKUuEO

正直なところ、息抜きとしては優秀だった。

たとえば、さきほど目を通した本には、遺伝子改造の末、生み出されたポケモンの与太話が載っていた。


そのポケモンは極めて強いかわり、とてつもなく凶暴だとか。

ゆえに自身を生み出した研究者たちを皆殺しにして逃げたとか、なんとか。

まるで醜悪な化け物かのように挿絵が描かれている。

不気味でおどろおどろしい挿絵。

オカルト雑誌のような外連味に溢れた文章。

これでは都市伝説どころか安物のホラー映画だ。

子供を対象にした本とはいえ、いくらなんでも荒唐無稽にすぎる。


レンジャー(って言っても、もうこんなのしかないんだよな)

レンジャー(こんなのに載ってたら、それこそ幻のポケモンだし)

レンジャー(さっきのホラーっぽいのも、ちょっとあり得ないからなあ)


しかし、もう他に調べるものもない。

いい加減、頭も焦げついてきたところだ。

休憩のつもりで、山の一番上にある本へと手を伸ばす。


その瞬間。


すっかり脱力していたレンジャーの肩を、誰かが力いっぱい掴んだ。
319 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2018/06/10(日) 00:06:48.38 ID:Gswb9wreO
今日はここまで

感想・保守ありがとうございます
USはやっとネクロズマと1回戦闘して帰還したところで、
ゲーチスが出てくるらしいんだけどまだリーグすら辿り着けてないのである

ではおやすみなさい
320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/06/10(日) 00:44:27.23 ID:epfoB6RR0

だんだんと各陣営の動きが見え始めたのか?
321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/06/10(日) 01:45:34.68 ID:X5D9Hslwo
乙乙
わくわくしてきた
USゲーチス出るんか、リーグでやめてた
322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/06/10(日) 12:24:53.34 ID:vsY5uC43O
更新乙です
役者が揃ってきたな
323 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2018/07/12(木) 21:36:28.50 ID:7E2zPDnRO
保守
324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/01(水) 00:33:16.82 ID:sljz0+Kro
来年の映画はミュウツーだな
保守
325 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2018/08/01(水) 22:19:38.20 ID:iteeJLV7O
保守ありがとございます
またミュウツーで映画やるのか…
326 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2018/08/22(水) 00:49:40.37 ID:1i+T9FplO
327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage ]:2018/08/24(金) 18:23:57.48 ID:Uz+I2XWm0
保守
328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage ]:2018/09/02(日) 05:11:26.30 ID:WYuJ8SBD0
あれ?書き込みは出来るけど専ブラからこのスレ消えてるお?
ちなスマホのBB2C
どこかに移転したのか?
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/10/15(月) 09:48:03.47 ID:2Nsz2ui1o
復活したか
330 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2018/10/15(月) 21:19:39.73 ID:YHvciYdxO
>>329
復活だやったー!
ゴブスレ見ながら書いてるぜヒャッハー!!
331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/10/17(水) 22:53:06.11 ID:BfDJqL3do
復活して良かった……
332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/27(火) 10:54:25.64 ID:AQQj2Ckg0
ほっしゅる
333 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2018/12/17(月) 21:13:55.76 ID:9Ij23kJZo
保守
334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage ]:2019/01/18(金) 19:15:17.87 ID:sDkDgmtsO
保守
335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/22(火) 01:35:10.08 ID:kXHxljrhO
完結するまでずっと待ってる
336 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/01/27(日) 07:38:45.42 ID:k3XqMKHg0
保守…私生活含め色々滞っております…
337 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/27(日) 14:04:39.69 ID:xc0/IQka0
余裕のあるときでええんやで
気長に待っとる
338 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/24(日) 00:45:29.69 ID:7zShFztv0
保守
339 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/03/20(水) 00:52:05.63 ID:pcdh9weg0
保守
340 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/05/01(水) 01:33:25.89 ID:l7yKtqHoo
341 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/05/09(木) 10:02:22.55 ID:Z/NrV6QPO
hoshu
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/07(金) 21:36:08.19 ID:mXAGn1BS0
保守
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage ]:2019/07/03(水) 01:58:19.16 ID:KX06cS8LO
保守
344 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/07/29(月) 21:09:29.37 ID:RlLGkKQOO
保守
345 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage ]:2019/08/26(月) 19:11:19.02 ID:BvaOEQIn0
保守
346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/09/17(火) 21:56:41.24 ID:nkF1S3nQo
保守
347 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/09/29(日) 23:24:48.33 ID:pMyju1DIO
hoshu
348 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2019/12/17(火) 17:55:44.36 ID:g/iHm7M1O
hoshu
349 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/12/18(水) 00:18:35.34 ID:mczKMWpto
待ってるぞ
350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/12/19(木) 10:21:18.44 ID:aQeWhtx+0
351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/01/29(水) 23:35:26.41 ID:z3B0neLKo
352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/02/21(金) 13:49:30.47 ID:LGfpG6R8O
しゅ
353 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/06(金) 01:33:16.28 ID:+4Xs685FO
hoshu
354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/20(月) 20:45:54.86 ID:stiHiszVo
355 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/05/08(金) 00:04:25.26 ID:K9Plvakg0
保守
356 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/08(水) 23:33:15.16 ID:/1HlWhNTo
ほしゅ
357 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/17(金) 18:13:16.74 ID:LKcBCdkc0
チュリネが辛い思いしない、せずに済むことをひたすら祈り続ける
叶いそうにないけど
358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/30(日) 01:40:43.08 ID:+jF6WUTKo
ほし
359 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/11(金) 22:36:45.75 ID:hkVQQJx+0
保守
360 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/10/27(火) 19:34:46.55 ID:rYRDQExXo
ほしゅ
361 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/12/11(金) 17:53:06.31 ID:jgT7ZlOdO
ほしゅ。みなさん、お身体にお気をつけくださいね
362 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/01/21(木) 10:53:14.49 ID:8pVUUksNO
ほしゅ
363 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/02/16(火) 16:00:20.92 ID:mDuVj6MPo
保守
364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/04/30(金) 00:07:12.80 ID:SX0GdWbq0
保守
365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/08/17(火) 13:02:48.45 ID:DGUvRi3j0
保守
366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/11(土) 18:45:42.25 ID:HDiDt1Tvo
保守
367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2022/04/08(金) 19:28:37.90 ID:wqChY9Cq0
ho
368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2023/02/02(木) 21:22:08.62 ID:0drDqm2Mo
保守
369 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2023/03/14(火) 23:07:44.76 ID:FwgsQAaB0
はい
370 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:21:34.91 ID:9Ps6NfVqo

かすかな足音、ページを捲る音、筆記用具の摩擦音。

本を探す人の声、答える職員の声。

空調の静かな唸り。

アロエには、いつもと変わらない光景にしか見えない。

いつも通りの図書館だ。


ただなんとなく、いつもより空気が落ち着かない。

少なくともアロエにはそう感じられた。


アロエ「……ふうん」


静かに息を吐き出し、アロエは腰に手を当てた。

目の前の書架に、ぽっかりと不自然な空白がある。

ひと抱えほど、蔵書が持ち出されている。

周囲の書架から見るに、図鑑らしい。

誰だか知らないが、アロエと同じような調べ物をしていた人物がいたようだ。


371 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:25:08.86 ID:9Ps6NfVqo


アロエ(根こそぎ持ってってる奴がいる、ってことか)

アロエ(システム上は貸し出しになってない本も結構あるから、まだ館内にいる?)

アロエ(“あの子”の手掛かりでもあればと思ったけど)


おおまかな身長や体格は、何度か会って――顔は見ていないが――から知っている。

薄暗い中とはいえ、白っぽい色合いだったことはわかる。

趾行性の二足歩行であることも、身の丈のわりに長くがっしりと太い尾があることも。

おそらく、人間のところから逃げてきたことも。

それも悪意か害意か、そうした感情で“あの子”に対峙していたに違いない。


だがそれだけだ。

それ以外の情報はない。

あとは、実際に顔を合わせた――もちろん、顔は見ていないが――印象だけだ。


???「あ、館長」

372 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:28:22.90 ID:9Ps6NfVqo

不意に背後から声をかけられた。

首を回すと、キダチが返却図書を何冊か抱えて立っている。

書架に戻すところだったようだ。


アロエは妙な後ろめたさを覚えた。

些細な隠しごとが露見しそうなときの、あの居心地の悪さに似ている。

実際には、書架の前に立っているところを夫に見られただけなのだが。


キダチ「……今、忙しいかな。あとでも大丈夫なんだけど」

アロエ「別に忙しかないけど、なんだい」


かろうじて笑顔を作る。

なぜこんなにやましい気持ちを覚えるのか、自分でも不思議だ。


キダチ「備品管理の人が、椅子一脚足りないって」

キダチ「背もたれがなくて座面が丸いやつ」


アロエは心臓が飛び出そうになった。

椅子。

いや違う。

正確には、スツールだ。

373 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:30:48.82 ID:9Ps6NfVqo


――キミは尻尾があるみたいだから


背もたれのないスツール。

心当たりがある。

いや心当たりどころの話ではない。

あの夜のまま、書斎に置きっぱなしだ。


アロエ「ああ、それ……えーと」

キダチ「どこかで見かけたら教えてくださいって言ってた」

アロエ「わ、わかった」


話を終えると、キダチは少し不思議そうな顔をして去っていった。

これでは、思い当たるところがあると言っているも同然だ。


アロエ(……やっちゃった)

アロエ(図鑑は閉館したあとにまた来ればいいか)

アロエ(ああそれに、椅子もこっそり戻しとかないと)

アロエ(……それもそれで不自然かねえ)


アロエはちらちらと周辺の書架に目を配りながら、身体の向きを変えた。

心ない利用者が、図鑑を適当な書架に本を戻した可能性もあったからだ。


アロエ(なにか言い訳を用意して、うっかりしてたことにしとくか……)

374 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:33:13.57 ID:9Ps6NfVqo

ふと、館内のどこかで、雑音に紛れて声が聞こえることに気づいた。

それも独り言ではない。

明らかに二人が『話し合う』声だ。

場に相応しい小声というには、もう少し騒々しい。

やや距離があるのか、話している内容まではわからない。


アロエ(……今日は変な利用者も少ないと思ったのに)

アロエ(あんまり騒ぐようなら、ちょっと声かけなきゃいけないか)


靴音を潜め、アロエは書架と書架の間から歩み出た。

林立する書架コーナーの隣には閲覧スペースがある。

一人用サイズの机と椅子が並び、ちらほらと利用者が腰かけていた。

声はまだほそぼそと響いている。

話し合っているというより、どちらかといえば揉めているような印象を受けた。

やはり、見に行った方がよさそうだ。

アロエはあたりを見回し、声の出所を探す。


すると、閲覧スペースの片隅に目が吸い寄せられた。

男が二人、言い合いをしている。

あれが出所で間違いないようだ。

片方は着席しており、本の山を前にして机上の何かを押さえている。

特に目を引く服装でも、変わった様子でもない。

375 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:35:45.25 ID:9Ps6NfVqo

もう片方は旅行者か何かだろうか。

キャリーカートをそばに置き、相手の肩と机の上の何かに手を伸ばしている。


アロエ(……あの男、たしか)


男の風貌は特徴的だ。

細身の禿頭で、年格好は老人に見えなくもない。

だが洒落た身なりで背筋は伸びており、足腰にも危うさは見えない。


アロエ(間違いない)

アロエ(でも、なんでこんなところに)


どうやら、禿頭の男が座っている青年からノートをもぎ取ろうとしているらしい。

双方とも一応は声を潜めており、喧嘩というほどではなかった。

周辺の利用者はかすかに眉を顰め、遠巻きにしているだけだ。

アロエの姿を認め、ちらちらと見てくる利用者もいる。


しかたなく、アロエはつかつかと近寄った。


アロエ「アンタたち」

アロエ「悪いんだけど、騒ぐなら外でやんなさい」


アロエの声に、二人が顔を上げて彼女を見る。

一瞬怪訝そうな目をしてから、着席している方が『あっ』と小さく叫んだ。

アロエの顔を知っているようだ。

目を見開いてこちらを見上げている。

376 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:38:41.86 ID:9Ps6NfVqo

アロエもまた、なぜか若者の方にも見覚えがあった。

にわかには思い出せないが、たしかにどこかで見た顔だと思う。

そのわりに名前はなかなか浮かんでこない。


見たところ、青年は私服で、いかにもプライベートらしい。

制服で一度か二度会っただけだとすれば、もうわからない。

必死に思い出そうと努力しながら、アロエは続けた。


アロエ「なにがあったか知らないけど、どっちもいい大人なん……」


ちょうどそのとき、彼らの奪い合っているノートに目が行く。


アロエ(……この絵は)


ノートには、黒っぽい絵が書かれている。

ペンでぐりぐりと描かれただけの落書きだ。

だがよく見れば、どこかで見たようなシルエットに思える。


二足歩行の何者かがマントを羽織ったような形。

妙に長い尾。

何が描かれているのか、正確なところはわからない。

だがアロエは、その絵が示すもの、描こうとしたものを理解してしまった。

377 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:42:04.28 ID:9Ps6NfVqo

アロエ(……まさか、あの子のことを)


頭が凄まじい速度で回転し始めた。

思い当たる記憶が一瞬にして眼前に甦る。


アロエ(そういえばたしか、あの子も自分で……ヤグルマの森に棲んでる、って)

アロエ(ヤグルマ……あ、この子)


まさしく、この青年を見たことがあった。

もっとも、見覚えがあったのは暗いオレンジ色の制服姿だったが。

レンジャーのユニフォームに身を包み、会議に出席していた。


アロエ(でも……あの子をどこで知ったっていうんだ)

アロエ(森で?)

アロエ(たしかに、それが順当だけど)

アロエ(あの子が存在を知られるような真似をそうそうするとも思えないし)

アロエ(それに……)


レンジャー「ごっ、ごめんなさい、アロエさん」

禿頭の男「アロエ? あんたが?」


禿頭の男は、青年の肩に置いていた手で自分の髭を撫でた。

もう一方の手はぬかりなくノートを掴んでいる。

378 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:43:43.23 ID:9Ps6NfVqo

禿頭の男「ということは、あんたがここのジムリーダーか」

アロエ「……え? ああ、そういうことだね」

アロエ「それがなに?」

アロエ「ここで騒いだら、他の利用者に迷惑になることくらい……」

禿頭の男「なァに! 騒ぐ気があったわけじゃあない」

禿頭の男「ちょっと、この若造に話を聞きたくてな」

レンジャー「こッ……こっちは話すことなんかないです!」


若者が慌てて首を振った。

その間にも、水面下でノートの奪い合いは続いている。


アロエ「……二人とも、ちょっと来てもらおうかな」

レンジャー「いえ、あの、そろそろ帰りま」

禿頭の男「わしも、長居するつもりは」

アロエ「図書館は騒ぐ場所じゃあないだろ!」


突然、アロエが声を荒げた。

レンジャーが肩を震わせ、驚いている。

禿頭の男もさすがに面喰らったのか、少し身構えた。

周囲の視線が一気に集まる。

そして、騒ぐ人間が館長に叱られていると見るや、みな安堵して目を逸らすのだった。


その隙にアロエは問題のノートをひったくり、急いで閉じた。

覗き込まない限り見えないし、見えたところで誰にも絵の意味は理解できまい。

だが一刻も早く、あの絵が他人の目に触れないようにしたかった。

379 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:45:10.25 ID:9Ps6NfVqo

レンジャーは何か言いたげに口を開こうとした。

それを手で遮り、アロエはレンジャーを睨みつける。


アロエ「図書館は、静かに本を読むところだよね」

アロエ「そんなことくらいわかってるだろうけど」

レンジャー「……ごめんなさい」

アロエ「アンタもアンタだよ」


次にアロエは禿頭の男を睨む。

多少は気圧されたのか、男もキャリーカートを引き寄せて黙っていた。


アロエ「まったく、“他人が読んでる本”を取り上げようとするんじゃないよ」


彼女の口ぶりに、レンジャーが不思議そうに眉を顰めた。

アロエは、そんな彼を敢えて無視した。


アロエ「いい年した大人なら、順番くらい待ちなさい」

アロエ「どうしても読みたいっていうなら、予約でも取り置きでもすりゃあいい」


男がこれみよがしに片方の眉を跳ね上げる。

鼻を鳴らし、何かを合点した顔で軽く頷いた。

レンジャーは不安そうにアロエと男を見比べている。


禿頭の男「……なるほど、それもそうだな」

禿頭の男「“たかが本一冊のために”騒いだことについては、弁解の余地もない」

レンジャー「いや、あの、本じゃなく……」

アロエ「いいから、二人とも」

アロエ「説教の続きは、裏の事務室でするから」

380 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:46:55.63 ID:9Ps6NfVqo

レンジャーはみるみる青ざめていく。

子供のように身を縮めて黙り込んでしまった。


アロエ「ここじゃあ他の利用者に迷惑になるからね」

禿頭の男「おいおい、わしもか」


大袈裟な身振りで男がわざとらしく異を唱えた。

アロエは眉を顰め、子供を叱りつけるように小声で返す。


アロエ「そうだよ。アンタにも話がある」


男は自分の禿げ上がった頭をつるっと撫でた。

小振りなサングラスの奥から、アロエは彼の鋭い視線を感じる。


禿頭の男「……ふーむ」

アロエ「キミ、他の本はそのままにしておいていいから」

アロエ「自分の荷物だけまとめて、ついて来なさい」

レンジャー「……は、はい……」

禿頭の男「それは、わしがどこの誰か、わかった上で言っとるんだな」

アロエ「……ああ、もちろん」


肩を竦め、男は渋々という身振りを見せて了承した。


禿頭の男「なるほど、それならば仕方ない」

381 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:48:45.47 ID:9Ps6NfVqo

レンジャーもばたばたと荷物をサックに詰めている。

アロエは『ふう』と息を吐く。

ずっと息を止めたままだったような気すらした。


アロエはさりげなく周囲に目を配る。

やはり、もう誰も注目していない。

館長が介入したことで、言い争いも収まるものと判断されたのだろう。

騒いだ利用者二人が館長に叱りつけられただけだ。

少なくとも、他の利用者にはそう見えたはずだ。

『そう見える』ことがなによりも肝心なのだった。


アロエ「じゃあ、ついて来なさい」


若者は怯えている。

かわいそうなことをしてしまったかもしれない。

ひとりだけ、状況がよくわかっていないに違いない。

だが、もう少しだけ我慢してもらうしかなかった。


アロエは書架の間を縫って、バックヤードに向かった。

背後からは、硬い床を踏む二人の足音が聞こえている。


すたすたとカウンターを回り込み、躊躇する二人を手招きする。

二人がカウンターの内側に入ったのを確認すると、アロエは奥の扉を開けた。

382 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:54:16.22 ID:9Ps6NfVqo

扉の先は広い事務室になっている。

普段は職員が諸々の仕事をしたり、あるいは待機しているだけだ。

今は事務仕事をしている職員が一人。

それから、何も載っていないトレーを抱えて妙に困り果てた様子の職員が一人。

部外者を二人も引き連れて館長が事務室に戻ってきたのだから、当然といえば当然だ。


アロエはまっすぐ奥に視線を向けた。

事務室を抜け職員用の廊下を進めば、その奥に小さめの保管室がある。

目指しているのはその保管室だ。


???「おお!」


アロエは突然、大声で横っ面をはたかれた。

一瞬ののち、はっとして足を止める。

聞き覚えのある声だ。

誰の声だっけ、とアロエは思う。


知り合いの声だ。

それも、自分に向けられている。

キイ、という椅子の軋む音がした。

アロエは慌てて声の方を向く。


???「久しいな、アロエ」


誰も使っていない席の椅子に、だらしなく座る男がいた。

暖色のポンチョに、大雑把な頭、裸足にサンダル。

首にも腰にもボールを下げ、リーグ規定以上の数を持ち歩いている。

机の上には、水滴のついた空のグラスが見えた。

383 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:56:36.17 ID:9Ps6NfVqo

アロエ「ア……アデク……」


アロエが名前を口にすると、男は嬉しそうに頷いた。


自分の後ろで、レンジャーが何か言おうとしている。

手と目でそれを制し、アロエは話を続けた。


アロエ「生きてたんだねえ、アンタ」

アデク「そう驚くこともないだろ」


そう言いながら、アデクと呼ばれた男は椅子を少し回転させる。

アロエたちに正対し、背もたれから身体を離した。


アデク「見ての通り、幽霊じゃあないぞ」

アロエ「たしかに、向こう側は透けて見えないし、足もあるね」


アデクは声をあげて笑い、自分の膝を叩いた。

孫がいるほどの年齢にもかかわらず、まるで少年のようだ。


アロエ「……“放浪の旅”に出てたと思ったけど」

アデク「ま、その通りなんだが、ちと用があってな」

アデク「自分で本を探すか、さもなくばお前さんに聞きゃあいいと思って寄った」

アデク「まあ自分で探そうにも、タンマツとかいう機械の使い方がわからんかったのだが」

アロエ「そんなこったろうと思ったよ」

384 : ◆/D3JAdPz6s [sage saga]:2023/08/01(火) 23:58:57.28 ID:9Ps6NfVqo

アロエは肩を竦めた。

なにか引っ掛かる部分があるのに、自分でも正体がよくわからない。


アデク「お前さんに声をかけようにも、取り込み中のようだったしな」

アデク「しかたないから職員を捕まえようとしたんだが」

アデク「わしの顔を見るなり、『コチラヘドウゾ!』などと慌て始めてな」

アデク「いつの間にか、こうして冷えた茶までご馳走になっているというわけだ」


なるほど、トレーを抱えた職員が困っていた原因はこの男だったわけだ。


ぎしぎしと彼の椅子が鳴る。

アデクがすっと立ち上がり、さりげなく自分の荷物に手を伸ばした。

『よっこいしょ』と言わないところが彼らしい、とアロエは思う。


アデク「とはいえ、調べ物は後回しにせにゃならんようだ」

アデク「……と、いうより、もはやその必要もなくなったというか」

アロエ「へえ……そうかい」

アデク「わしも混ぜてもらってかまわんかね」


ぎくりと背筋が冷えた。

アロエは彼の顔を改めて見る。

口元は微笑んでいても、目が笑っていない。


アロエ「……なんのこと」

アデク「お前さんが今からやろうとしとる、その『説教』にだ」



385 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2023/08/02(水) 00:00:14.56 ID:kR8bLL1Xo
今回はここまでです。
保守してきてくださったみなさん、本当にありがとうございます。
ちゃんと完結させたいです!

それでは。
386 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2023/08/02(水) 00:52:45.46 ID:D/Nlj8Cr0
戻って来てくださってありがとうございます。
387 : ◆/D3JAdPz6s [saga]:2023/08/29(火) 22:54:13.09 ID:Bxagxrqso


今日は妙な日だ。

そわそわして、理由はわからないが落ち着かない。

日課の走り込みも珍しくあまり身が入らなかった。

だから、普段の六割ほどでトレーニングを切り上げて戻ったのだ。

ポケモンたちも少し――いやだいぶ不満そうだったが、仕方ない。


誰の姿もない道場の中央に腰を下ろし、努めて静かに呼吸する。

窓も出入口も開け放っているのに、そよとも風は吹かない。

板張りの床は磨き上げられ、昼前の切り詰めた強い日差しが落ちている。

今いる位置も日陰なのにサウナのように蒸し暑い。

空気がまるごと熱いゼラチンの塊になっているような気がした。


いつもならば、こうしていれば精神のざわめきもいずれ鎮まるはずだった。

それは、こんなふうに暑苦しい日も、寒い冬の日も変わらない。


だが今日に限って、一向に平静を取り戻せる気配はない。

それどころか、神経を逆撫でする厄介な記憶が次から次へと思い出される。

どれも行方知れずな師匠に関連する記憶ばかりだ。


彼と出会ったときのこと。

勢いよく勝負を挑み、あっけなく負けたときのこと。

理由は忘れたが褒められて、思いの外、むず痒い思いをしたときのこと。

初めて勝ちをもぎ取ったときのこと。

これでは落ち着くものも落ち着かない。

388 : ◆/D3JAdPz6s [saga sage]:2023/08/29(火) 22:55:48.32 ID:Bxagxrqso

ふうう、と意識して息を長く吐き出す。

足が痺れている気もするが、きっと気のせいだろう。


記憶の中の彼は、おおむねいつも豪快に笑っている。

たいていのことは明るく笑い飛ばせる男だったことは確かだ。

怒鳴ったり、激しく怒ることはまずない。

勝負に負けても、いい戦いができたのなら、手を叩いて喜ぶことさえある。

勝ち負けと機嫌の善し悪しは、彼にとって別の話なのだ。

当時の自分には、とても理解しにくい感覚だった。

そもそも彼の負け自体、そう滅多にあることではなかったが。


そんな師匠が、珍しく難しい顔をした日があった。



――私は記憶の中でも膝をつき、正面の硬い地面を睨みつけていた。



サンダルを履いた彼の足が、視界の奥の方に見える。

私たちは、そうだ、私たちは立って向かい合っていたのだ。

最初は。

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