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海辺の町と赤く染められた国 - SS速報VIP 過去ログ倉庫

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:24:29.61 ID:1/zk8vPV0
色んな事に自信をなくしかけていた「僕」。
夏休みに大好きな幼馴染でそして親戚でもある奈緒の一家と共に祖母の家がある海辺の町へとやってきた。
僕は奈緒と共にその海辺の町で安らぎを得る三日間。

一方その頃、記憶をなくした「私」は赤く染められた国で、とある少女に拾われた。
しかしその国は今、正に滅亡の一途を進んでいる…
滅亡を食い止めんと敵対する人々…私はそれに知らず知らずに巻き込まれていく三日間。

これは一人の少年が喪失感を感じながらも成長する旅のお話…

長いけど、暇な人はみてくだされ

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1470540269
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ハルヒ「最近わたしのss見かけなくなったわね」 @ 2024/05/07(火) 15:04:17.64 ID:FJQjQ6ct0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1715061856/

孤独のエレナ Season3 @ 2024/05/06(月) 23:06:58.73 ID:mOA71iC60
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1715004418/

雑談はヒーローごっこじゃない @ 2024/05/06(月) 20:39:20.98 ID:e5NXmnk+0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1714995560/

朝顔 @ 2024/05/06(月) 00:25:05.84 ID:AB/bv7Jv0
  http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1714922705/

オゾン層依存症って3回 @ 2024/05/05(日) 18:17:43.14 ID:JwHCDSU70
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【安価スレ】あかるくたのしい傭兵生活 @ 2024/05/04(土) 01:17:50.63 ID:3fwRECJNO
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モバP「コンマ1桁が0でカオス・マジキチ化する安価SS?」 @ 2024/05/02(木) 12:55:16.10 ID:lZ9SQusw0
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酸 @ 2024/05/01(水) 23:00:19.57 ID:lK9RWrTc0
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2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:25:09.20 ID:1/zk8vPV0
プロローグ 部屋


3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:26:24.53 ID:1/zk8vPV0
「では、最初に思い出せる所からで良いから話してくれる?」

そう言われたのは僕がウトウトしかけていた時だった。
慌てて目を開いて目の前に居る男に答える。

「…寝てません」

その言葉に男は手に持っているシャーペンでコンコンと机を叩いた。

「…いや、別に聞いてないよ」
「あ、そーっすか…」

再び部屋に沈黙が訪れた。
部屋には彼が鳴らすシャーペンのコンコンと言う机を叩く音だけが響いている
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:27:07.94 ID:k0/bWBKq0
「…寝てたの?」
「え?何がですか?」

男の言葉に僕は慌てて男を見た。

「いや…今、寝てません、って言ったから…」
「ね、寝てないっすよ!寝てないから、寝てません、って言ったんすよ!寝てる奴が普通寝てませんって言います?」

僕は慌てて首を横に振りながらそう答えた。
机を挟んだ目の前に居る男をシャーペンを鳴らしながら僕をジッと見つめる。少し僕の心臓がドキドキしていた。

「…いや、まあ、別に良いんだけどね」

良いんかい。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:27:53.89 ID:k0/bWBKq0
「そんな事より、さっき言った様に思い出せる所からで良いから話をして欲しいんだ」

シャーペンのコンコンはまだ続いていた。
男はその作業をしながら机の上に無造作に置いてあるルーズリーフを自らの手元に持って来る。
何を書くんだろう…?
そんな下らない疑問が僕の頭に浮かぶ。

「…どこから話せば良いのかが…」

分からない。
その尻切れになった言葉を理解したかの様に男は頷き微かに笑いながら答えた。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:29:45.50 ID:k0/bWBKq0
「本当にどこからでも構わないんだ。何なら昨日の夕食のメニューからでも構わないよ」

何、そのアメリカンジョーク。
後、一々外人の言葉を和訳した様な話し方は何なの?
僕は彼の言葉をスルーして椅子の背もたれに体重を掛け少し腕組みをして今更ながらこの部屋を見回した。
小さな部屋。広さは四畳半位。
壁はクリーム色がかっていて特にカレンダーやポスターの類も見当たらない。
僕の正面に当たる場所に窓が一つあった。ブラインドカーテンが有る窓だ。
その隙間からオレンジ色の光が挿しこんでおり丁度目の前の男の顔を時折、曇らせていた。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:31:13.52 ID:k0/bWBKq0
部屋の観察を終えて今度は正面に座る男を見た。
年の頃は三十代中頃位で中肉中背。
白いワイシャツに濃い赤と青のストライプのネクタイをしている。スーツは着ていない。
彼の顔は特にこれと言った特徴が無かった。
多分僕に予備知識が無く街ですれ違えば彼と出会った事など一生思い出す事などないだろう。
だが…。
だが、僕の記憶の欠片の中に何かが引っ掛かりを見せている。
俳優の誰それに似ている…そう言った類の記憶の欠片だ。
誰だろう…?
雰囲気としてはドラマで主人公に「今日中にこれを終わらせて下さい」と無理難題を言うエリート上司と言った類だった。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:32:13.42 ID:k0/bWBKq0
「…あの」

僕の言葉にエリート風上司は「うん」と頷いた。

「…名前を…」
「え?」
「いや、名前を…まだ聞いてなかった様な…」

その言葉にエリートは一瞬何の事か理解出来ないようだったが、すぐに「…ああ」と呟いた。

「…ムラサキだ」

ムラサキ…。
色?色の名前を言ったのか?
「私は紫色の枕で寝るのが好きだ」みたいな感じ?
てか、紫の枕って何だよ。寝れねーよ。淫夢を見そうだわ。
そう僕が心の中で突っ込んでいるとムラサキは「エヘン」と咳払いをした。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:33:09.73 ID:k0/bWBKq0
「いや、色の名前じゃ無いよ…村崎と言う名前なんだ」

どうやらエリート風のムラサキは僕の心を見透かす事が出来るらしい。
いや、それとも僕が顔に出やすいタイプなのかも知れない。
…てか、どうでも良い。つーか、長い。
もうそろそろ本題へと進んでも良いんじゃないかな?
そう考えた僕は軽く深呼吸をして呟いた。

「…僕の名前は…速水達矢です…」
「…そこから…なんだ」
「いや、名前を聞いたから僕も答えないと…」
「まあ…そうだね…でもね、君の名前は私はリサーチ済みなんだ…」
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:34:16.98 ID:k0/bWBKq0
ムラサキのシャーペンのコンコンがやたらと激しくなってきた。どうやら彼も少しイライラし始めたらしい。
これ以上彼を怒らせてはいけないのかもしれないんだが…

「じゃあ…どこから…」
「いやだから、どこからでも良いんだよ…ただ君の住所とか電話番号とかはもう良いよ。本当に」

ムラサキに先を越されてしまった。その情報を伝えようとしたんだが…
そう、僕は少し人をイライラさせる事には何がしかの才能を感じさせる、と言われていた事を思い出した。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:35:08.13 ID:k0/bWBKq0
ただこれ以上は本当に不味そうだ。ムラサキのシャーペンが破壊されてしまうかもしれない。

「それじゃあ…かなり昔の話からでも…良いっすか?」
「もちろん構わない」
「じゃあ、千年位前からの話を…」

僕の言葉にムラサキは今日一番のシャーペンのコンコンの速度を記録した。
ヤバい。ガチで少し怒ってんじゃん。
ムラサキのシャーペンのコンコンの音をBGMに僕は腕組みをしたまま天井を見つめた。
そして自分の記憶の中の検索を掛ける。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:36:12.30 ID:k0/bWBKq0
コンコン…コンコン…コンコン。
ムラサキが奏でるそれは僕の記憶を呼び覚ます何某かの道標になったのかも知れない。
脳の片隅に海が広がる。それは太陽の陽射しをキラキラ反射している夏の海の風景だった。

「…夏休みに…」
「…うん」

僕の言葉にムラサキのシャーペンのコンコンが止まった。

「僕は修行に出かけました」
「…はい…?」

ムラサキの目が点になる。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:37:05.33 ID:1/zk8vPV0
「修行に行ったんです。お祖母ちゃんの家に」
「え…?何、君…忍者か何かなの?」
「は?違いますよ。何で忍者なんすか?」
「いや…修行って言うから…」
「は?!修行って言ったら必殺技の修行に決まってるでしょ!」

僕の言葉にムラサキは机に肘をついて自分の指をこめかみに当てた。
そうだ。僕は必殺技の修行にあの海に行ったんだった。

「…ちょっと分からないんだけど」
「はい」
「必殺技って…何?」

その言葉に待ってましたとばかりに僕は勢いよく答えた。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:38:28.51 ID:1/zk8vPV0
「スプラッシュトルネードです!」
「え?え?ス、スプラッシュ…?」
「スプラッシュトルネード…海をも切り裂くパンチですよ…ムラサキさん…!」
「…うわぁ…」

ムラサキがドン引きした表情を浮かべた。

「スプラッシュトルネードは凄い技っすよ!見たいっすか?」
「え?出来るの…?」
「あ、でもムラサキさんが死んじゃうかもしんないで辞めときます」
「…助かるよ…」

ムラサキはかなり疲れた表情を浮かべ始めていた。ここで疲れていてどうするんだ。
彼は少し気を取り直して再びシャーペンのコンコンを始める。

「…君は、祖母の家に修行をしに出掛けた…ここがスタート地点だね?」
「…多分…」
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:39:30.51 ID:1/zk8vPV0
「…君は本当にそれだけの為に、あの海に行ったのかい?」

ムラサキが尚も念を押す。
多分…問題無い筈だ。僕は修行に祖母の家に行った。
だが…。
だが、僕は何故修行をしていたんだろう?
僕は再び天井を見つめる。
薄暗い天井に影なのかシミなのか分からない模様が浮かんでいた。それが僕には女の子の顔に見えた。
女の子…。
僕は天井から顔を逸らしムラサキを見た。いや、正確にはムラサキのネクタイだ。
赤と青の色。
赤と青の色を纏った人…。
いや、詳しく言うと赤色のプロテクターに青のマスク…。
何かが繋がる。僕の中の何かを呼び覚まそうとしている。
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:40:48.94 ID:1/zk8vPV0
僕と同い年の女の子…。
青のマスクと赤いプロテクターを纏ったヒーロー。

「…奈緒…津村奈緒…」
「うん…?」

僕の言葉にムラサキは少し目を細めた。
その瞬間だった。
記憶の洪水が濁流の様に僕の頭に溢れ出していく。
まるで記憶の断片がパラパラ漫画の様に目の前に広がっていった。
目の奥が痛くなり僕は額を押さえる。しばらく僕はそのままの姿でいたんだ。
目の奥の痛みと記憶のパラパラ漫画が終わり少し落ち着いて来た僕はムラサキを見つめた。
ムラサキは黙って僕を観察している。
そう、正に何かの実験データを確認する様に僕を観察していた。
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:41:27.73 ID:1/zk8vPV0
ようやく完全に落ち着きを取り戻した僕は額から手を外すとムラサキに呟いた…。

「津村奈緒に…」

ムラサキはジッと僕を観察している。

「津村奈緒に…ドルフィンブルー…」

その言葉にムラサキはシャーペンを置いて顔の前で手を組み笑った。

「…話を聞こうか…!」


…………
…………
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:42:17.16 ID:1/zk8vPV0
誰も見てないんかな?


第一章 海辺の町  DAY1
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:44:18.56 ID:1/zk8vPV0
ようやく長い山合いの道を抜けると目の前には青い海が広がり僕は自転車を停めた。

「よっしゃあああああああ!」

汗だくの僕はそう雄叫びを上げて両手を空へと突き出す。
感動だ。ひたすら感動だった。
後は目の前の海が広がるT字路を右折する。
そして海沿いの道を走って行けば祖母の家がある小さな町へと到着だ…
よくもまあ、自宅からここまで自転車で来たもんだ。自分自身を誉めてやりたい。
とりあえず僕は目の前の海をバックに写メを撮ろうとして携帯を取り出す為にズボンのポケットに手を入れた。

その瞬間に今までの汗と違う汗が流れ始めた。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:46:02.77 ID:1/zk8vPV0
あれ…?
自転車を降りて立った状態でズボンを探しまくる。
勿論、ただの短パンなのでポケットの数なんて知れていた。
冷たい汗が止めどなく流れ始めていた。

大丈夫…。おちつけ。何て事は無い。
さっきのコンビニで携帯を弄った後に…ほら、あれだ。…そう、リュック!

僕は慌てて背負っているリュックを降ろし手を中に入れる。すると中に平べったい物が手に触れた。

フフッ…ほらね。良くある良くある。
さっきのコンビニでジュースを入れた時についでに携帯も入れたんだよ。なんて事はないぁ…

取り出したら十二色色鉛筆だった。
僕は黙ってその色鉛筆を地面に叩きつけるとリュックの中身を全てびっくり返した。
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:47:26.06 ID:k0/bWBKq0
ああ…もう、どこ…?
何なんだよ荷物、訳わからんもん入れ過ぎだろ…何でチクワなんか入れてんだよ…
真夏の喉渇きまくりの時に何でチクワを食べるのか昨日の俺にレポートを提出させろよ…。

僕の冷たい汗が暑さの汗を完全に上回った頃。
僕は道端に荷物を散らかし自転車を放り出してガードレールに手を置いて海を見つめていた…。

ああ…携帯失くした。
まあ、確かにスマホじゃないかなり古い機種だよ…。けど僕にとってはかなり大事な携帯だったのに…。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:48:33.18 ID:k0/bWBKq0
「ハァァァァァ…」

かなり深い溜息をついて僕は海を見た。
海は深い青色で水面にはタプタプと波打っており、その下で泳ぐ魚達の姿を映し出していた。
少し深い場所なので流石に海底までは見えないが、それでも透明度の高い海には違いない。

遠くには船が何隻か見え、その周りに夏の太陽が反射して全てをキラキラと光らせて眩しかった。
背中の山からは蝉の鳴き声が五月蝿い位に響き渡っている。
夏だ…。
何か予定調和の感じがする程の夏だ。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:49:28.47 ID:k0/bWBKq0
こんな素敵な夏なのに…僕は携帯を失くした。

「ハァァァァァァァァァァ…」

そう思い一際激しい溜息をついた時に後ろから「ビッビー」とクラクションの音がした。

うるせえな…チャリが邪魔なら少し避けて通れや。俺のスプラッシュトルネードを食らわすぞ。
そう思い僕が無視して海を見ていると「たつやぁー」と僕の名前を呼んでくる女の声がした。
この声の主を僕はわざわざ確認しなくても分かる。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:50:25.35 ID:k0/bWBKq0
「なーおー!」

僕はそう叫びながら振り向いた。
そこには一台の軽四の助手席の窓から顔を覗かせている女の子がいる。
僕は半分泣いて、半分笑顔でその軽四の側に駆け寄った。

「アンタ、ホントに自転車で来たんだ…」
「奈緒、携帯、さっきのコンビニ、ポケットにしまったのに、今、ずっと見てなかったんだけど、リュックにも、色鉛筆!…」

奈緒の言葉を遮る様に僕は矢継ぎ早にそう捲したてる。

「ちょ、な、情報量多い…」

奈緒が慌てながらそう呟く。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:51:10.40 ID:k0/bWBKq0
運転席に座っていた信一が「分かった」と呟いて僕を見た。

「…取り敢えず…あれだ。タイトルだけを話せ…な?」

信一の言葉に僕は頷いた。

「…第六話、携帯、色鉛筆」
「お前が何のアニメに影響を受けたのかは分からないが、何故六話目にその話を持って来たのかを聞きたい…」

信一の言葉に奈緒も頷く。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:51:51.03 ID:k0/bWBKq0
「だぁ〜!何で分かんないんだよ!分かるだろ!アレ、あれだよ!」
「いや、それはどうでも良いけど…何で六話目なん?」
「…てか、何のアニメでも何話でも良いよ…」

奈緒が心底どうでも良い顔をしていた。

「まあまあ、落ち着いて達矢ちゃん。どうしたの?」

そう一際優しい声が後部座席から聞こえた。

「あ、おばさーん…携帯が色鉛筆に変わったんだよ!」
「色鉛筆?」

僕の言葉に三人共キョトンとした表情を浮かべたのだった…。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:52:19.75 ID:k0/bWBKq0
「取り敢えずあれだ。早く携帯の停止の手続きした方が良いぞ」

僕がやっと携帯を無くした旨を伝えると信一がそう言った。

「ハァ〜最悪だわ…」
「まあ、この機会に携帯変えたら?あんなに古い機種だったし」

奈緒が自分のスマホをヒラヒラと僕に見せた。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:53:08.90 ID:k0/bWBKq0
僕はそのスマホをパクりと口に咥えた。

「キャアアアア!何すんのよ!」

奈緒が慌ててスマホを取り戻す。

「るせえ!目の前にヒラヒラされたら口に入れるだろうが!」
「ええー…アンタの何の野生の本能を刺激したのよ…」
「お前は俺の…エサなんだよ…!」
「おかあさーん!何か真顔でキモい事言ってる人がいるー!」

奈緒は後部座席を振り返りながらそう言うと、おばさんは笑った。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:54:18.45 ID:k0/bWBKq0
「あらあら、達矢ちゃんはホントに奈緒が好きなのねぇ。ずっと奈緒と仲良くね!」
「はい!必ず奈緒を幸せにします!」
「いやああああ!お母さん!達矢はタダのストーカーじゃない!」
「親、公認のストーカーだな」

信一がそう言って笑う。誰がストーカーじゃい。

「まあ、良いや。とりあえずっと…」

僕はそう言って信一の車のハッチを開けた。そして、自分の自転車を乗せようとする。

「うおおおおい!何してんだ!」
「え?自転車を乗っけるんだけど」

信一の叫びに僕は冷静に応える。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:55:20.23 ID:k0/bWBKq0
「辞めろおおお!乗る訳ねーだろうが!」
「大丈夫だって…何でそんなにスグに諦めるんだ?お前はいつもそうやって何でも諦めようとする…」
「そんな教師の体で言われても無理!」

運転席から降りて来た信一に僕の自転車はポイッとされた。

「ヒドい!何でそんな事するの??」
「っるせえ!このストーカー野郎!新車が傷ついたらどうすんだ!」

信一はハッチの部分を確認する様に触った。僕はその隣に立って指で示す。

「多分、ここタイヤの跡ついたよー」
「ぬあああああああああ!テメエ何すんだあああああ!」
「大丈夫だって、あと百万年もしたら金属もゴムも同じ様になるらしいよー」
「るせええええ!人類滅亡規模で語るんじゃねええええ!」

信一は頭を抱えていた。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:56:00.92 ID:k0/bWBKq0
「てかさ、何でワザワザ自転車で来たのぉ?お兄ちゃんの車に一緒に乗ってきたら良かったのに」

奈緒が窓に頬杖を付きながら尋ねた。

「ふ…男はな、甘えちゃいけねーんだよ…」
「え?」

僕は海を見つめた。

「この海の様にな…デカくならねーといけねえ…だから俺はワザワザ…」

ブロロロー…。エンジン音が響き車が走り出した。

「うおおおおい!まだ話の途中だろう!信一!」

僕は慌てて自転車に飛び乗る。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:56:52.85 ID:k0/bWBKq0
「頑張ってねー!」

窓から奈緒が笑いながら手を振っていた。

「待てえ!この野郎!」
「ハハハハ!さらばだ!」

信一が笑いながら叫ぶ。僕は全力で自転車を漕いでいた。

「誰かああああ!その車を止めてえええ!」

その叫びも虚しく信一の車は遥か向こうの海沿いの道のカーブを曲がって行ったのだった…。

「チキショウ!覚えてろよ!」

僕は夏のキラキラ光る海に向かって叫んでいた…。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:58:11.16 ID:k0/bWBKq0
……。
奈緒と僕は共に現在同じ高校に通う高校二年生だった。
勿論、二人は親公認の仲でラブラブだ。

…まあ、奈緒は僕の事を『親公認ストーカー』と呼んでいるが…。

「中々、素直じゃねーな…」

僕は海沿いの道を走らせながら独り言を言う。
夏の太陽は少し西に傾きかけながらも僕の顔を照りつけていた。
勿論。
ラブラブかストーカーかはさて置いても、同級生が同じ田舎に行くのは理由がある。

僕と奈緒は互いの父親同士が再従兄弟だった。
つまり、僕の祖父と奈緒の祖父が従兄弟同士で家が近所…
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 12:59:19.53 ID:k0/bWBKq0
「簡単に言うと、遠い親戚ってやつか…」

遠い海を見ながら僕は呟いた。海は凪いで穏やかだ。
そう。遠い親戚では有るが距離は近かった。
何しろ家が同じ団地内と言う距離だ。

小さい頃から一緒で同じ幼稚園、小学校、中学、高校と…俗に言う幼馴染であった。
親戚で幼馴染。
だから小学校まではいつも一緒に田舎に帰るのが夏の恒例行事だったんだ。

左手に見えていた海はいつしか無くなり民家に変わっていた。これが僕の祖母の小さな海沿いの町だ。

やっと着いた…。
僕は流れる汗をタオルで拭いて、もう一踏ん張り自転車を漕ぐ。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:00:52.95 ID:k0/bWBKq0
…運転席に座っていた信一は、タダのバカ。
…まあ、バカでも一応名前が有って津村信一。
二十歳で現在大学に通っている。奈緒の兄だ。

小さい頃からバカで、アイツには鼻クソを食べさせられた事を今でも覚えている。
そんな鼻クソ馬鹿だったが、成長するに連れて身長が高くなり、今は180cmを越す高身長で顔も何故かイケメン。
しかも大学も国立と来たら何かの間違いかって程の高スペックになってしまった。

ただ、僕からしたら今でもただの鼻クソ馬鹿なんだけどね
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:02:40.91 ID:k0/bWBKq0
奈緒も背が高い。170cmは有るんじゃないかな?
本人は断じて160cm台だと言い張るが絶対、大台に乗っている。

小さい頃から目が大きく色白の女の子だった。
それが成長するに連れて背が高くホッソリとし始めると、皆から美少女と呼ばれる様になるのは必然的だったと思う。

『津村さん所のご兄弟は素敵よねぇ』
『二人共、顔が良くてスタイル抜群で頭も良いらしいわよ』
『両方共、バスケが得意で運動神経も抜群なのよ』
『どちらも挨拶もしっかりハキハキした良い子よねぇ』

以上、ご近所さんのインタビューでした。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:03:14.02 ID:k0/bWBKq0
ちなみに僕のインタビューです。

『何か…あれよねぇ…』
『うん…ねえ…』
『あ、何か…その…挨拶は出来るわね…』
『うん、そう!元気!元気だわ、アレ』

…まあ、そんな感じ。でも一応生きてる。うん。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:04:01.28 ID:k0/bWBKq0
キキーッ!
自転車のブレーキ音が響き僕は自転車を停めた。
そして飛び降りると玄関の扉を開けた。

「しんいちー!」

玄関でそう叫ぶと信一と奈緒が居間から顔を出した。

「結構、遅かったな。既に茶を飲んでるぞ」
「当たり前じゃあ!チャリの速度舐めんなよ!」
「ありゃ、ホントに自転車で来たのかい?達矢ちゃん」

そう言って奈緒達の祖母が顔を出した。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:05:04.77 ID:k0/bWBKq0
「ああ!小百合ばあちゃーん!こんちわ!久しぶりー!」

そう言って奈緒達の祖母に挨拶する。
昔から僕は自分の祖母と区別する為に奈緒の祖母を小百合ばあちゃんと呼んでいた。

「そうなのよ、しかも通学用のママチャリよ?」

奈緒が呆れた様にそう言う。

「カッコ良いだろう!…、よっこいしょっと」

そう言って僕も居間の大きなテーブルの前に座った。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:05:52.59 ID:k0/bWBKq0
「何してんだ?」
「いや、俺も茶を貰おうかと」

信一の言葉に僕は彼の麦茶の入ったグラスを指差す。

「いや、先にヤスエばあちゃんの所に行けよ!」
「喉カラカラなんだよ!お前も一回チャリで来てみろ!スンゲェ喉渇くから!」
「いや、お前が勝手に来たんじゃん…」
「まあまあ、飲んでたっらエエ。達矢ちゃんにも麦茶を淹れてあげようね」

小百合ばあちゃんが笑いながらそう言った。
ちなみにヤスエばあちゃんとは僕の祖母の事だった。

「ありがとう〜小百合ばあちゃーん!愛してる!」
「人ん家のお婆ちゃんに気軽に愛を囁くのは辞めてくれない?」
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:07:05.53 ID:1/zk8vPV0
「お、何だ嫉妬か奈緒?大丈夫、世界一愛してるのはお前だから」

僕の言葉に奈緒が僕の肩を殴って来る。
それを見て小百合ばあちゃんと、おばさんが楽しそうにケタケタと笑う。

「ホントに達矢ちゃんは奈緒が好きなんだねぇ」
「そうなんですよ、お義母さんホントに二人は仲が良くて」
「奈緒の事は責任持って幸せにします」
「はあああああ?だから辞めてよ!お母さんもお婆ちゃんも!」
「照れるなって」
「アンタ絶対に一度[ピーーー]からね!」
「因みに俺は世界で何番目?」
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:08:11.52 ID:1/zk8vPV0
信一が口を挟む。

「お前は俺の中では体育館の上に挟まっているボールと同列だ」
「何番目だよそれ…」

僕らの会話を聞きながら、おばさんはいつも楽しそうに笑う。
おばさんはホワンとした感じの人だ。いつも笑顔で優しい。
僕の母親がワチャワチャした人なので逆に気が合うんだろうと思う。

勿論。
僕はいつも信一に憎まれ口を叩いているが信一とはホントに気が合う。
小さい頃から僕はこの良い人達と楽しく過ごしていたんだ…。

……。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:09:11.60 ID:1/zk8vPV0
「ばあちゃーん!来たぞー!」

僕の叫び声に奥から祖母が現れた。

「ああ、よう来たね〜!元気だね相変わらず」

祖母が目を細めて僕を見た。

「見てよ、婆ちゃん!ちゃんとチャリで来たんだぜい!」
「アンタは凄いねぇホントに。頑張ったねえ」

祖母がまるで小さい子に対しての様に僕を褒める。
まあ、僕も子供っぽいが祖母に取ってはいつまでも子供なんだろうな。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:10:16.89 ID:1/zk8vPV0
「とりあえず、中に入って荷物を置きなさい」
「うあー疲れたー。あれ叔父さん達は?」
「今、海に行ってるよ」
「ふーん…俺も行こうかな…」

僕はリュックを広い客間に置いて縁側に立った。

祖母の家は少し高台に有るので縁側から左手には海が見えた。
その手前には奈緒の…津村家の実家が見える。
百メートル程の距離だ。

まあ…ボルトなら十秒切るんだろうが…僕は五十秒以上掛かるんだ…。
そんな事を思いながら反対側の山の方を見た。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:10:51.24 ID:1/zk8vPV0
山は青々と木々が葉を茂らせ時折の風で、そこに波を起こさせている。
五月蝿い位の蝉の声で、その木々の騒めきはかき消されていた。

婆ちゃん家に…来たな…。
そんなノスタルジックな気持ちが湧き上がっていた。

「…アンタは海に行く前にやる事があるでしょ」

そう言って祖母が麦茶を持って現れた。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:11:46.62 ID:1/zk8vPV0
「だよね」

僕も頷く。

「ほら、麦茶を飲んで爺ちゃんの墓参りもついでに行ってきなさい」

麦茶の置かれた大きなテーブルの前に座ると僕は一気にそれを飲んだ。

「プハーッ!んじゃ行ってくるよ!修行に!」
「行ってきなさい。強いヒーローに成って奈緒ちゃんを守るんでしょ」
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:12:21.25 ID:1/zk8vPV0
祖母が笑いながらそう言う。祖母は僕が小さい頃からいつもヒーローになる事を応援してくれていたんだ。

「うん!じゃあ!」
「今日は皆、ウチに集まって宴会だからね、一杯料理作っとくからお腹空かせてなさい」

もう既に空いてるんだけど、と思いながらも僕は家を出た…。

……。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:14:44.16 ID:1/zk8vPV0
家を出て途中で墓に寄り爺ちゃんの墓参りを済ませた。
そして僕はそのまま山の中に入っていく。
しばらく山道を歩くと高い木々に囲まれた少し開けた場所に出て来た。

「よし…じゃあやるか…」

そこには木の枝から紐でぶら下げられている幾つかの薪が有った。
それは丁度僕の上半身の位置に当たる様に設置されている。

「先ずは、打ち込み百本!」

そう言って僕はそれを古いボクシンググローブで殴って行く。
殴ると薪は反動で僕に向かってくるので今度はそれらを避けながら他の薪を殴って行くのだ。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:16:13.00 ID:1/zk8vPV0
これを僕は昔から行っていた。
この修行はスプラッシュトルネードを繰り出す為のものなんだ。

まあ…どれ程の効果が有るかは分からないんだが…。
だけど、祖母の家に来る度に夏、冬、春休みや、大型連休等、毎回行っていた。

「ハァハァハァ…来た…!今回は一度も薪に当たらなかった…」

僕は少し興奮する。
すげえ…あ、そうだ。

「ふ…お前の弱さで海が甘くなっちまうぜ…!」

僕は自分の台詞にニヤニヤしていた。


「今日こそイケるかもしれん…ダークネス…スプラッシュトルネード…」

ダークネススプラッシュトルネードとは…まあ、目を閉じて殴っていくだけなんだけどね。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:17:00.55 ID:k0/bWBKq0
僕は目を閉じて深呼吸をする。
よし…。いける!

「ダアアアアアクネス…スプラッシュトルネードオオオオオオ!」

三回目の薪が頭に当たり僕はその場でうずくまってしまった…。

ああ〜…まだ無理かあ…。
いや、ダメだ。こんな事でへこたれてては。
僕は立ち上がるそして構えた。

もっと心の眼で見ろよ…。イケるさ…。速水達矢。お前は出来る…!

「心眼開眼!ダアアアアアクネス…スプラッシュトルネードオオオオオオ!」

今度は二回目で失敗した。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:17:36.85 ID:k0/bWBKq0
「…それ、出来るの…?」

僕がうずくまっている後ろから声が聞こえた。
奈緒が立っていた。

「な、な、奈緒!お前、どっから見てた!」
「一回目のダアアアアアクネス…スプラッシュトルネードオオオオオオ!…の下りから、心眼開眼!とかも」

そうか。そんな忠実な再現は要らないんだが…。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:18:28.15 ID:k0/bWBKq0
「どうだった…?俺、惜しかったかな?」
「う〜ん…何て言うか…目を閉じてブンブン腕を振り回してるだけ、みたいな…」

うわ、かっこ悪!

「所で、お前は何でここへ?…は!ひょっとして俺への気持ちを受け入れる準備が出来て、それで…」
「ヤスエお婆ちゃんに挨拶に行ったら、ここに居るから水筒持って行ってくれって、はい」

僕の言葉を遮り奈緒は僕にアンパンマンの水筒を渡して来た。
婆ちゃん、いつの頃の水筒だよこれ。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:19:31.49 ID:k0/bWBKq0
「よいしょっと…」

奈緒は僕のうずくまっている隣に腰掛けた。
僕も体勢を変えて奈緒と同じ向きに座った。

奈緒はチラッと僕を見たが再び前を向き眼下に広がる海を見つめる。
僕も婆ちゃんが渡してくれた水筒を開けて水筒のコップに冷えた麦茶を注いだ。
蝉の声が少しおさまり風が心地よい。

「ねえ」
「うん?」

不意に奈緒が声を掛けた。

「達矢は…飽きないね」
「え?」

奈緒を顎で示す様に顔を上げて吊るされている薪を見る
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:20:28.08 ID:k0/bWBKq0
「…結局、最後まで修行をしてたのは達矢だけでしたね…」
「…って、言うかお前らが飽きるのが早過ぎね?」
「そうかな?」
「そうだわ!信一は三日で辞めるし、お前に至っては薪にキティちゃんのシールを貼って見てただけじゃねーか!」
「あはっ、だっけ?」

奈緒がクスクスと笑う。

「そうだよ…せっかくおっちゃんが…作ってくれたのに」
「…うん…そうだった。お父さんが作ってくれたんだよね…」

僕らの間に海からの風が通り過ぎる。
奈緒も僕もその後の言葉を続けずに黙っていた。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:21:35.23 ID:k0/bWBKq0
「…五年経ったんだな…」

しばらくの沈黙の後に僕が口を開いた。

「うん…」

奈緒が正面を見ながら返事をする。

「早いもんだな…」
「…そうだね」

夏の太陽が海をオレンジ色に染め始めていた。
それと同時に町への光を山が遮り始めている。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:26:48.97 ID:k0/bWBKq0
五年前の夏、この海で奈緒の父親…津村秀樹は亡くなった。

それは激しい夕立が降り注ぐ中での出来事だ。
目の前にあの時の情景が浮かぶ…。
遠くで響くサイレンの音。そして雄叫びの様な声を上げる奈緒の母親…。

僕の父親や何人もの大人達が海岸で必死に蘇生措置を行う姿…。
それが僕にはいつまで経っても目の前から消えない。

雨の音、サイレンの音。そして消え行く命を嫌がる叫び声。
そんな悲しみの中での小さな幸いは…奈緒がその情景を見る事がなかった事だった。
奈緒は先に病院へ緊急搬送されていたのだ。
津村秀樹だけが後から発見され、その時には既に息がなかったのであった。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:27:50.59 ID:1/zk8vPV0
…津村秀樹は泳ぎが苦手ではない。いや、どちらかと言うと得意だったんだ。

だって彼は…全日本の百メートル自由形の優勝者だったから。

でも彼は水死した。
それは、奈緒を救う為だった。
ほんの一瞬の出来事だった。
奈緒が崖から足を滑らせて落下し…それを遠くの浜から発見した彼は急いで荒れた海へと救出に向かった…。

どこをどう流れ、そしてどの様に奈緒を助けたのかは分からない。
一時間後に奈緒は近くの岩場で発見されたが津村秀樹の姿はなかった。
更に二時間後に彼はかなり離れた浜辺で…発見されたのだった。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:28:47.15 ID:1/zk8vPV0
僕はあの時、津村秀樹と一緒にいた。
彼の最後の言葉は「すぐに誰かを呼んでくれ!」であった。
僕はあのどす黒い荒れた海へ飛び込む事は勿論出来なかった。
だが彼は何の躊躇もせずに飛び込んでいった。
奈緒を…救う為に…。





「…お父さんは、達矢の事を凄く可愛がってたもんね…」

そう言った奈緒の髪を風が揺らした。
僕は黙って頷く。
山のBGMは蝉の声からカラスの声へとバトンタッチされていた。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:29:58.15 ID:1/zk8vPV0
「…奈緒のお婿さんになってくれって」
「…それはない」

僕ら二人は顔を見合わせ微かに笑った。

そう僕は津村秀雄に可愛がられていた…僕も彼に懐いていた。
僕に取って彼は最も尊敬する人物の一人だったんだ。
いや、言い方が悪い。
今でもそれは変わらないし…そして彼への呪縛を僕は解けていなかった。

あの日、あの夕立が降る前に、僕は今居る修行の場所に居た。
この修行の場所を彼が作ってくれて僕はいつも彼とここで修行をしていたんだ。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:31:29.29 ID:1/zk8vPV0
「達矢!強くなれ…そして自分を信じろ」

そう言って彼は僕が修行するのを笑顔で見ていた。
あの日最後に彼は僕にこう言ったんだ…。

「自分を信じ続けておっちゃんの代わりに…奈緒を守ってくれ…!」

…今思うと、彼は知っていたのかもしれない。
…いや、はっきりとは分からないかも知れないが何かを感じ取っていたのかもしれない。
あの日彼に起きる悲劇を…。
だから僕は守り続ける。津村秀樹の代わりに奈緒を守る。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:32:17.68 ID:1/zk8vPV0
そう僕は思っていた。
だからおっちゃんを超えたかった。
あの日、あの時、あの瞬間。彼が黒い海に飛び込んだ背中を…僕は今でも追い続けていたのだった…。




「…ありがとうね」

奈緒がそう言って僕を見た。

「え?」

カラスの鳴き声が少しうるさい。

「…今年、無理言って来てくれて」
「…ああ。いや、別にお前は何も言ってねーじゃん」

僕は苦笑いを浮かべた。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:33:15.34 ID:1/zk8vPV0
「でも…怒ってたんじゃないの?先生」
「奴はいつでも怒ってる…それに、今年の夏は去年と違って何もないしね」
「…そっか」
「そうそう。部活より修行の方が大事だし!」

僕は笑って立ち上がった。

「あと、ちょっとだと思うんだよ」
「え?」

奈緒が僕を見上げる。

「もう少しで…ダークネススプラッシュトルネードが完成すると思うんだよ」
「…て、言うかその前にスプラッシュ…なんちゃらが出来るのか、って言う話だよね?」
「はああああ?!出来るし!出来てるし!」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:33:54.98 ID:1/zk8vPV0
「いや、アンタの出来てるってのがわかんない」
「じゃあ、見せてやるよ!ちょっと立ってみろ」
「ええ?!面倒くさいなぁ」
「良いから、良いから」

無理矢理に奈緒を立たせると僕は奈緒の前に立ち構えた。

「良いか…今からお前は生き証人となるんだ…!」
「はいはい」

奈緒は欠伸をする。

「おい!気をつけろ!気を抜いたら巻き添えを食うぞ!」
「何かすんごい、うざぁい」

少しイラっと来る僕。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:34:23.14 ID:1/zk8vPV0
「両腕を空に突き出せ!」
「え?」

奈緒は言われるままに両腕を上に上げた。

「スプラッシュトルネエエエエエドオオオオ!」

僕はそう言って奈緒の胸を右手で触った。

「はああああああああああああ?!」
「あはっ!やらかあい!」
「ただのセクハラじゃない!」
「ごちそう様でした」
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:35:11.09 ID:1/zk8vPV0
「最悪ぅううう![ピーーー]![ピーーー]![ピーーー]!」

奈緒は落ちている枝とかを僕に投げ始めた。

「ハッハッハッハ!当たらんよ!いつも修行をしている俺にはそんなの当たらんよ!」

僕はひょいひょいと枝を避ける。

「お前の弱さで海が甘くなっちまうぜえええ!」
「[ピーーー]!」

枝の後に水筒が飛んできて、僕の目の前にアンパンマンの顔がアップになった。
…そして数秒後には僕はうずくまっていた。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:36:18.78 ID:1/zk8vPV0
「うわああああん!奈緒が水筒投げたあああ!」
「うるさい!じゃあね!」

奈緒は怒って一人立ち去って行ったのだった…。
取り残された僕は顔を押さえながら一人空を見上げる。
遠くの空に浮かぶ入道雲はオレンジに光り、その周りは少し群青色になり始めていた。

「はあ…いてえ」

独り言を言った後に再び座った。
小さい頃から練習してるんだけどなあ…全然出来ねえわ。
スプラッシュトルネード。
小さい頃は絶対に出来ると信じていた。だけど段々その思いは希薄になっていく。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:37:00.49 ID:1/zk8vPV0
「…無理…なのかな…」

そう呟いた後にドン!と言ういつもの耳鳴りが響く。
又だ。
最近たまに鳴る耳鳴り。
何だこれ?俺、脳梗塞にでもなんのかな?
そう軽く思ったが気にせずに立ち上がりズボンに付いた小枝を払った。

「さて…。俺も帰るか」

そう言って僕は修行の場所に一礼をすると山を下りて行った…。

……。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:37:54.48 ID:1/zk8vPV0
津村秀樹が亡くなった後。中学二年までは毎年僕は家族でこの海に来ていた。
勿論奈緒達の家族も一緒だ。
だけど、中三の時は僕は来る事が出来なかった。
そして去年も。
今年は急に行こうと思い立った。
それを家族に話すと両親は仕事の都合で時期をずらして来る事になったのだが僕は奈緒と一緒に来たかったので一人この海に来たのだった。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:38:34.30 ID:1/zk8vPV0
「てか、何でチャリなのかが分からないっしょ!」

そう信一が笑いながら酒を飲む。

「うるせえ!ムシャ、修行の一環に決まってんだろうが!ムシャ」

僕は唐翌揚げを頬張りながら叫んでいた。

「ちょ、汚い!もう口に入れながら叫ぶの辞めてよ!」

奈緒が僕を避けながら箸を伸ばす。

「ごめんなさい…ムシャ」
「だから口に有るものを先に飲み込みなさいって」

奈緒が溜息をついた。

「ハッハッハッハ!相変わらず達矢は奈緒ちゃんの尻に敷かれてるなあ!」

叔父さんが酒を呷っていた。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:39:20.33 ID:1/zk8vPV0
「そうなんだよ、ウチはカカア天下な家庭になりそうで」
「アンタと結婚する気はないから!」

その言葉に親戚の大人達が笑っていた。

親戚が大勢集まり僕の祖母の家で宴会をしていた。
大体僕らが行くと連日宴会が続く。まあ、何らかの理由をつけて飲みたいだけなんだろうけど。

「修行って…まだ達矢はヒーローを目指してるのか…?何ちゃらって言う…」
「ドルフィンブルーだ!」

僕の言葉に又もや親戚が湧く。
何なんだよ。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:40:12.95 ID:1/zk8vPV0
「こいつは、いつかそれに成れるって思って…あれ幾つの時だっけ?ずっと変身ポーズをしてたの」
「小四だ」

信一の言葉に僕は魚を突きながら答える。

「そう!小四の時にコイツ、ずっと三日間飯とトイレ以外部屋で変身ポーズをし続けたんすよ!」
「…もう辞めろよお!あれは俺の黒歴史だよお!」
「いや、アンタの場合、現在進行形で黒歴史じゃない…」
「進行形って言うな!…お代わり!」

奈緒に突っ込みながら茶碗を奈緒に差し出す。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:40:50.69 ID:1/zk8vPV0
「自分で行きなさいよお…」

奈緒はそう言いながらも立ち上がりご飯を入れに行ってくれた。

「ああ、奈緒ちゃんは良い嫁さんになるわねえ達矢ちゃん」

親戚のおばさんが笑う。

「でしょ?良い嫁グランプリで世界三位には入るよ!」
「だから辞めてって!」

奈緒が戻りながら叫ぶ。

「もう、達矢のせいで私全然彼氏が出来ないんだから!」
「彼氏は俺だろうが!」
「そうか、学校も一緒だもんね」

叔母さんは興味津々に目を輝かせていた。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:42:25.47 ID:1/zk8vPV0
「毎日、毎時間やってくるし…昼休みも私の教室に来てお弁当食べて行くの…お陰で皆にからかわれまくって…ハァ…」
「学校公認の仲なんです」
「アンタは自他共に認めるストーカー!」

皆が笑っていた。

「でも…良いじゃない…?昔はねえ…ちょっとあれだったけども…」

叔母さんが笑う。

「そうそう、なんったて今はなあ」

そう言って叔父さんが壁に貼ってある一枚の大きな写真のポスターを見た。
その写真には僕が水泳キャップを被りプールから顔を出しているのが写っている。
ちなみに目は死んでいてボーっとしている写真だった。
ポスターには『速水達矢!大会新記録!』と書かれている。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:43:33.11 ID:1/zk8vPV0
「なんたって…インターハイで百メートル自由形の大会記録を作って日本一に成ったんだからなあ」

叔父さんはビールを飲みながらシミジミそう言った。

「あの…達矢ちゃんがねえ…おばちゃん感動だわ」

叔母さんが少し涙ぐんでいた。

…そう。僕は去年高校一年でインターハイで優勝した。
大会記録『50.08秒』と言う記録だった。
この写真は新聞社の人が僕が決勝で一位になってタイムを見た瞬間を撮った物を引き伸ばしてポスターにしてくれたのだ。
僕の親が嬉しそうに祖母や各親戚に配っていたのを覚えている。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:44:14.30 ID:1/zk8vPV0
だが…。
僕はこの写真が嫌いだった。完全に目が死んでるんだ。
何かプールで潜っていて水面に浮かんだら誰もいませんでしたって顔に見える。
僕は何も言わずに黙ってご飯を口に入れた。

「あの時は俺も泣いたわ…ホントに」

そう言って信一までシミジミする。

「うん…見に行った人全員が泣いてたよ」

奈緒も嬉しそうに呟いた。
知ってる。奈緒も泣きながら僕に手を振っていた。

「達矢ちゃん頑張ったもんね…」

奈緒の母親は涙ぐみ始めた。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:44:47.42 ID:1/zk8vPV0
「おい、何を黙ってんだよ、ほら飲め!」

信一が僕にビールを差し出してきた。

「お前、高校生に酒を勧めてんじゃねーよ!…泡立てんなよあんまり」
「飲むんかい!」

信一が笑いながら僕にビールを注いだ。
そこから全員が僕のインターハイの話で盛り上がり始めたのだった。
僕は黙ってビールを飲みながら写真を見た。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:45:39.71 ID:1/zk8vPV0
…正直、僕は目立ちたがり屋だ。
いつも自分を中心に話をして欲しい位の目立ちたがり屋だ。

だけど…この話は嫌なんだ。
もう一度写真を見る。
僕の目は電光掲示板のタイムを確認した瞬間の目だった。
自分で分かる。うん。嬉しくないんだ。
あのタイムを取った時に…がっかりしたんだ。
結局…僕は越える事が出来なかったんだ…



『50秒』の壁を…。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:46:17.22 ID:1/zk8vPV0
あの日僕は最高に調子が良かった。朝起きた瞬間に感じれた。
今日なら越える事が出来るって。
絶対に50秒の壁を越えれるって思っていた。
実際に泳いでいる時も感じれた。一番速いって。
いつも失敗するスタートも上手く出来た。そして得意のターン後もいつもよりスピードが乗っていた。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:47:17.38 ID:k0/bWBKq0
だからゴールした瞬間にすぐに確認したんだ。順位なんかどうだって良かった。
そんな事よりもタイムだった。
だけど…掲示板に映った表示は『50.08』の文字だった。

大歓声が上がっていたと思う。だけど僕の耳には全く届かなかった。
ただ申し訳ない気持ちで観客席にいる奈緒を見つけた。
そこしか覚えていない。

インタビューも何を言ったかを覚えてないし、その後それらを自分で見るのも嫌だった。
あんなに最高の状態は二度とないと思う。
だけど僕は届かなかった…越える事が出来なかった。

50秒の壁を…津村秀樹の壁を…。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:48:28.04 ID:k0/bWBKq0
そう、津村秀樹は非公式で50秒の壁を越えたんだ。

現在の日本記録は40秒台だ。だけど当時は皆50秒の壁を越える事に必死だった。
彼は一度だけ越えた事があるらしい。
その時は水の色が変わる…そう彼は言っていた。

僕の目標はずっと彼だった。
彼を越えるため…彼の代わりに奈緒を守る為…僕は絶対に50秒の壁を越えなければならなかったんだ…。
なのに…。

試合後、顧問達は「次は越えれる!」と言っていた。
だけど自分で分かる。あの日が僕のマックスだった。

案の定、その後僕は50秒の壁所か自分の記録にも追いつけず、今年はインターハイにも出る事が出来なかった。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:49:24.52 ID:k0/bWBKq0
僕の中に「諦め」と言う言葉が出てしまった。
だからかもしれない。
今年この海に来たのは。部活を休んでこの海に来た。

顧問達は怒っていたが。
僕が「じゃあ辞めます」って言うと「お前脅迫だぞ」って言いながら許可してくれた。
まあ、自分でも何故にママチャリで来たのかは謎だ。
何か冒険気分を出そうと思ったんだろう。
来る途中は完全に失敗したと思ったよ。
だってよく考えたら奈緒とのドライブを楽しんだ方が絶対に良いもん!
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:50:21.11 ID:k0/bWBKq0
「色々…難しいよね…ヒーローに成るって」

皆が騒いでいる中、僕はそう独り言をポツリと呟く。
ドン!
また、あの耳鳴りがした。




…そうヒーローに成るのは難しい。
そもそも僕が水泳を始めたのもヒーローに成る為だった。
僕の小さい頃からのヒーロー…『ドルフィンブルー』。

最初にそれを観せてくれたのはおっちゃん…津村秀樹だ。
あれは五歳位だったと思う。
僕が奈緒と遊んでいると偶然、彼の部屋に入ってしまった。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:51:35.87 ID:k0/bWBKq0
そこに、そのドルフィンブルーのDVDがあり、思わずそれを観てしまったんだ。
そこからだった…僕がそれにハマッたのは。
気がつくと津村秀樹に頼んでそれを毎日観るのが僕の日常になっていた。
内容は…まあ、海の面積が広がり、それに伴い巨大海洋生物が増えたのでそれを退治する為にドルフィンブルーが生まれた…。

「ストーリーは…イマイチだったかな」

僕はビールを置いて再び唐翌揚げをつまむ。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:52:28.16 ID:k0/bWBKq0
まあ…ストーリーはさておき僕は変身ポーズや必殺技、そして決め台詞が大好きだった。

彼こそが僕が極めたいと思っているスプラッシュトルネードを使って敵を倒して、その後に『お前の弱さで海が甘くなっちまう』の決め台詞。
しびれるねぇ。

だから僕は毎日その必殺技を練習していた。
よく津村秀樹は僕に付き合ってドルフィンブルーごっこをしてくれていた。
まあ、奈緒と信一はかなり冷めた目で見ていたが…。

クラスの友達とドルフィンブルーごっこをしようとしても一向に見向きもしてくれなかった。
そう超マイナーなヒーローだったんだ。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:53:23.29 ID:k0/bWBKq0
だから僕は津村秀樹としかドルフィンブルーの話が出来なくて益々彼に懐いていった…。

そんな僕にある日彼はプレゼントをくれた。丁度五年前の誕生日だった。
その日僕が彼の部屋でドルフィンブルーDVDを観ていると彼が僕にある物を渡して来た。

「達矢に誕生日プレゼントだ」

そう言って渡して来たのは黒い携帯電話だった。
表面にイルカのエンブレムが彫られている。
その瞬間に僕はこれが何であるかすぐに理解が出来た。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:54:00.27 ID:k0/bWBKq0
「おっちゃん…これって…」
「そう、ドルフィンフォン!」
「マジで!マジで!マジで俺にくれるの!」
「探したんだぞー、中々売ってないからなぁ」

僕は飛び上がらんばかりの喜びを見せたと思う。
これはドルフィンブルーが変身する時に使う携帯電話たった。
それだけでは無くこれがドルフィンソードに変形するんだ。

「ソードは?ソード出る?」
「あー、流石にソードは出ないな…でもちゃんと携帯電話として使えるぞ」
「そうかぁ…ソード出ないんかあ」
「出る訳ないだろ!」

彼はそう言って笑っていた。

「でもソードは出ないけど…」
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:55:23.90 ID:k0/bWBKq0
彼はそう言って僕に携帯電話の画面を見せる。
パスワードを入れる画面だった。

「これでパスワードを入れたらお前専用だぞ」

まあ、単純にただの携帯のパスワードなんだが、子供心に自分専用と言うのが嬉しかったんだ。
僕は親に頼み込んでこれを僕の携帯電話にしてもらった。
あのせいで僕はその後誕生日、クリスマスと五回程、何も貰えない生活が続いたよ。
でも僕は嬉しかった。

ドルフィンブルーにいつか変身出来るかもしれない、そう思って毎日その携帯電話で変身ポーズをとって遊んでいたんだ…。

でも、それが津村秀樹の遺品となったのは…そのすぐ後だった…。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:56:04.28 ID:k0/bWBKq0
「あ…携帯…」

僕は急に思い出して憂鬱になる。
そう…その僕の宝物だった携帯電話を今日無くしたんだ…。
あれから五年…ずっと大切に使ってたのに…。

「なあなあ…」
「うん?」

サラダを食べる奈緒が僕を見た。

「悪いけど俺の携帯鳴らしてくんね?」
「携帯?え、まだ停止してないの?」
「いや、だって落としてなかってらやだし」
「もう、面倒臭いなぁ」

そう言いながらも奈緒は携帯を取り出した。 そして僕のアドレスを呼び出して電話をかける。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:56:45.76 ID:k0/bWBKq0
「一応呼び出してるけど…鳴ってない?」
「うん…鳴ってない…」
「ふ〜ん…あ、留守電に落ちた。はい残念」

そう言って奈緒は携帯を切った。

「早く停止の手続きしたら?」
「うん…まあ、それは良いんだけど…あのさ」
「うん?」
「お前の携帯さあ」
「うん」
「何で俺のアドレスの名前が『バカ』になってんの?」
「あ、見ちゃった?」
「嫌々嫌々、お前俺の名前『た』から始まんのにいつも『バ』で検索してんの?」

僕の言葉に奈緒は口許に人差し指を立てた。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:57:21.78 ID:k0/bWBKq0
「それは…乙女の…ひ・み・つ」
「乙女が彼氏の名前『バカ』って入れてんじゃねーよ!」
「彼氏じゃないでしょうが!」
「何だとー!お前のサラダを食べてやる!」
「辞めてよー!じゃあ私はアンタの唐翌揚げ食べる!」
「間接キスだね」
「ヤダァー…ちょーキモいんですけど…」

僕らの声は周りの喧騒にかき消される。
田舎の真っ暗な夜に宴会の騒ぎ声が響いていた…。




……………
……………
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:58:05.49 ID:k0/bWBKq0
「…それが一日目の…記憶です」

僕がそう言うとムラサキはシャーペンを止めて僕を見た。

「うん…その日はそれで終わり…?」

そう言われ僕は天井を見上げる。
多分…それ以上は…。
天井の影を見つめる。白と黒のコントラストが見えた。
白と黒のコントラスト…
僕は顔を下げてムラサキを見つめた。
ムラサキも僕を見る。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:58:49.20 ID:k0/bWBKq0
「…パンダ」
「うん…」

僕は曲げた指を口元に持って行き続けた…。

「その日の…深夜に…パンダが…現れました…」

その言葉にムラサキは再びシャーペンをコンコンとし始めた。

「…続けてくれないかな…?」

ムラサキは僕にそう促したのであった…。







………………
………………
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2016/08/07(日) 13:59:39.26 ID:k0/bWBKq0
第一章は以上なんですが、誰か見ている人居るのかなぁ?
ちょっと疲れたんで休憩します
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/08/07(日) 18:41:35.37 ID:VcDOGOxtO
見てるで
投下中はレスしないのがマナーだからレスなくても見てる人はいるよ
後メ欄にsagaって入れると規制解除できるで
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/08/07(日) 21:48:07.90 ID:RI607fIH0
乙です。
「赤く染められた国」とは…ひょっとして冷戦末期の話なのでしょうか?
96 :1 :2016/08/08(月) 21:38:47.38 ID:16FIZzaDO
ダメだPCが書き込め無い…
見てくれた人、ありがとうございます
また、明日にでも試してみます
97 : :2016/08/09(火) 19:14:34.25 ID:Hr1jCc1H0
>>94>>95
ありがとうございます。
>>95
そう言った意味の赤ではないですww
98 : ◆SQ2Wyjdi7M :2016/08/09(火) 19:15:18.71 ID:Hr1jCc1H0
トリップテスト
99 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:15:51.99 ID:Hr1jCc1H0
では続きを投下させてもらいます
100 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:17:33.14 ID:Hr1jCc1H0
第二章
赤く染められた国 DAY1
101 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:18:42.85 ID:Hr1jCc1H0
赤色の光が大きなガラス窓から入り込み議堂に赤と漆黒のコントラストを描いていた。
御前閣僚会議はその御前を意味する人物が居ないまま、かなりの長引きを見せている。
ウォルフはある意味皮肉に近いこの会議名と議題の矛盾を思いながらも結論の出ない会議を苛々半分、諦め半分の気持ちで挑んでいた。

「…かなりの時間を要しておりますが、閣下はこのままの状態で良しとお考えでしょうか?」

右派に座る副首相のアビルが少し苛立ちを含んだ声を出す。
そう問われた左派で首相であるインカはさっきから目を閉じたまま動きを見せてはいなかった。
102 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:19:58.82 ID:Hr1jCc1H0
「…黙っておられては何も進みませんぞ」

再び言葉を発したアビルのそれには怒気が含まれていた。

「…私は、卿が何をそんなに慌てておられるのかが分からぬがな」

やっと言葉を発したインカはそれでもまだ目を閉じたままであった。
その言葉にアビルの拳がテーブルを叩いた。

「閣下の目には何も映っておられるのですか!今のこの惨状を!閣下が就任されてかれこれ五年!物事は悪い方向にしか進んでしかおらぬのですぞ!」
「悪い方向とは何事だ!アビル副首相!言葉が過ぎるぞ!」

左派の首相の隣に座するエヴァン大臣がアビルの言葉に反応をする。

103 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:21:05.44 ID:Hr1jCc1H0
「実際に悪い方向ではないか!逆に何が進んでおるのだ?!エヴァン!」
「そう言う事ではない!首相閣下に向かってのお言葉が過ぎるのだ!」
「言葉狩りは辞めてもらいたい!今はそんな事を論じておる場合では無いことが分からぬのか!」

二人の意味の無い論戦にウォルフは辟易としていた。
この意味の無い議論はいつまで続くのであろうか?
自身が所属する右派の長であるアビル副首相の言い分にウォルフも賛同をしている。
実際に世界は悪くなる一方だ。
104 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:21:49.26 ID:Hr1jCc1H0
彼は窓を見上げた。眩い赤い光が彼を射す。

…ずっと太陽の光は赤色だ。
あのキラキラした黄色い太陽、抜けるような青空は今は見る事が出来ない。
そして気温の変化が殆ど見る事がない。

寒い地域ではずっと零下の気温を保ち全ての物が凍てついている。
逆に温暖地域では気温上昇が激しく四十度を下回る事がないのだ。
105 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:22:48.99 ID:Hr1jCc1H0
作物は採れず、家畜は死に絶える。
水分の補給もままならない。一日一回の配給があるだけだ。
こんな状況で人が暮らしてはいけない。
毎月数千人規模の死者が出ている惨状であったのだ…。

だが…。ウォルフは思う。
これを首相のインカだけの責任として推し進めるのもどうかとは思う。
彼一人に責任を押し付けていても世界が変わるとは思えないからだ。
ウォルフは議場の一番の上座席を見つめた。
一段高くなっている席。その隣には侍従の姿がある。だがその彼が世話すべき人物がそこには居ない。

王不在の御前会議。何とも滑稽でそして矛盾を感じざるを得なかった。
106 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:23:37.92 ID:Hr1jCc1H0
「…私自身も、閣下一人に責任を押し付けている訳ではない…」

アビルが絞り出すように声を上げる。
その言葉にインカが閉じていた目を少し薄める。

「私は…とにかく逸早く民を…国民の生活を何とかしなければ、と思うだけです」

アビルはインカを真っ直ぐに見つめた。

「その為にも…私の提案を聞き入れてもらいたいのです…」
「…ふむ」

インカは目を開けてアビルを見ていた。
107 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:24:34.87 ID:Hr1jCc1H0
「開門の…許可を…頂きたい!」

その言葉にインカは軽く笑った様に見えた。

「閣下…やはり現状は異常なのです…ですから…」
「開門して物事が好転するとは思えぬ」

アビルの言葉を遮る様にインカが答えた。

「それは何度も議論した事である…開門すれば物事が更に悪くなる可能性もある」
「ですから!科学庁も何度も考査してあらゆる可能性を考えました!ですが現状よりは悪くなる事はございません!」
「時空歪の問題はどうなる!」
「それは僅かな事であります!」
「本当にそう言い切れるのか?」
108 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:25:30.27 ID:Hr1jCc1H0
まただ…この議論では結局この堂々巡りに過ぎない。

自分がこの席に座る様になってからずっとこの議論だ。
この議論の結論は出ないんだ。
ウォルフは溜息が出そうになる。
言い分は相容れない…ならば最終結論を決定して貰わなくてはならない…その為にも…。

再び彼は王座を見た。
そこにおられなければならない御人を…探さなければならないんだ…。
結局、現在の右派、左派に分かれているのはこの開門問題だ。この結論をここ何年も議論しつくしている。
109 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:26:27.20 ID:kqsr3JY+0
結局は…。
彼は再び窓の外を見つめる。赤色の光り。終末を感じさせる空。
どちらが先に自分の論調に有利な…王を擁するか…。
それに尽きてしまう。
その為に…両派の間諜達が暗躍していた。
この御前閣僚会議もただのお飾り。いや、相手の情報を仕入れる為の腹の探り合いに違いなかった。
ウォルフの溜息が再び出る。
それは終わりの無い劇を観る客の気持ちなのかもしれない。
そして、終わりの来ない暗闇の中で日々を暮らさなければならない国民の気持ちなのかもしれない。
何にしても…。
このどちらにしても絶望しか残らない、この世界を…


この『海』の消えた世界を決めるのは…次期、王なのだ…。




……………
……………
110 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:27:42.19 ID:kqsr3JY+0
自分の目に光りが当たっているのが分かった。
ゆっくりと目を開けると窓の外からの強い朝日が差し込んで来ていた。
私は一旦寝返りを打ち再び目を閉じたが思い返して目を開ける。
そしてベッドに身を起こすと差し込んで来る光りを見つめた。
眩しい赤色の光りが暗い部屋の中を照らしている。
ベッドから降りて小屋の出口へと向かった。
…向かった、と言ってもベッドから三歩程の距離でしか無い。それ位この木造の小屋は小さい。

ドアを開くと朝の冷んやりとした空気が小屋の中に流れ込んできた。思い切り深呼吸した後に私は小屋の外へ出て行く。
小鳥達の囀りが心地良く響き、赤い太陽が私を照らしていた。
ゆっくりと歩み私は崖の先端部分まで来ると辺りを見回してみた。
111 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:29:02.72 ID:kqsr3JY+0
足元の岩で出来ている崖は赤い太陽に照らされて赤く染まっているので世界が赤く見える。
唯一、小屋の後ろ側へと広がっている森だけが黒々と見えていた。

崖は私の両側へと広がり遥か彼方にある稜線と繋がっており、向こう側は少し低い山へと変化していた。
崖の下には広大な森が広がっており、向こう側にある山と合わせると、崖の下は盆地になっているのだ。
再び私が深呼吸をすると同時に彼方より地面を微かに揺らす様にドドド…と言う音が響いて来た。

来るか…。
そう思うと同時に崖の下の森から鳥達が一斉に鳴き声を上げながら飛び立ち始めた。
112 : ◆sfGsB21laoBG :2016/08/09(火) 19:30:11.91 ID:kqsr3JY+0
私の視線は遥か向こう側の山の稜線へと向けられ、その一瞬を見逃すまいと思っていた。
轟音が更に大きくなった瞬間に山の稜線の先に大きな波が飛沫を上げて高く舞い上がる。
と、同時にその波は一気に山の麓へと流れて行った。
その大量の水は山を下り一気に盆地の森を飲み込んでいく。その後に続いてザーッ!と言う轟音が私の耳へと届いて来た。
音のズレがその光景を更に神秘的に魅せるのだ。

水は白いモヤの様な飛沫と共に私が立つ崖の下へとあっという間に流れ込んできた。
そして崖にぶつかり更に轟音を響かせて水かさを増して行く。
山の稜線から流れ込む水の中には黒い筋の様な物が幾つも見えた。
あれは巨大な生物達が一緒にこの盆地の中に流れ込んでいるらしい。
ほんの五分程の時間だろうか、気がつくと稜線の向こう側から流れ込む水は無くなっていた。
113 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:33:43.86 ID:kqsr3JY+0
だが、盆地の中では幾つもの渦を作り水がぶつかり合いこの広大な桶に水を溜め込んで行っていた。
泡立つ水の勢いが収まり、波が穏やかになると、この壮大なイベントも終了だ。
水は私の五メートル程の距離で穏やかな畝りを見せている。

「…おはようございます…」

固唾を飲んでこのイベントを見ていた私の後ろから声が掛けられた。

「あ、おはよう…また見ていたよ」

私は少し照れた様に彼女にそう言った。

「中々…珍しいみたいですね、この『水溜め』は」
「うん、こんな光景はここでしか見た事が無いよ」

そう言った後に気が付いて私は笑った。
114 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:35:44.60 ID:kqsr3JY+0
「あ、いや…見た事有るかも知れないけど…覚えてないな…」

その言葉に彼女も笑う。

「ゆっくり…思い出して下さい…慌てないで大丈夫ですよ…」

私も笑った後に再び目の前の大きな湖を見た。微かに黒い大きな筋が泳いでいるのが分かった。

「あれって…食べれるんだろうか…?」
「さあ…私は食べた事が無いですけど…釣ってみます?」

そこ言葉に私は笑いながら首を横に振る。

「逆に食べられてしまいそうだから良いよ」

彼女も軽く笑いながら私の隣に立った。
束ねられた髪が丁度私の肩の位置にある。その栗色の綺麗な髪は彼女の白い肌によく合っていた。
彼女の大きな瞳と端整なその横顔は私に何か懐かしさを感じさせる。それが何かは分からないが嫌な気分では無かった。
115 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:36:49.59 ID:kqsr3JY+0
「さあ…じゃ、朝食の支度をしますね」

彼女はそう言うと母屋の方へと歩き出した。母屋は私が寝泊まりしている離れの隣にあった。
大きさ的には余り変わらないが少し奥行きがある。

「…じゃあ、俺は薪でも拾ってくるか」
「助かります!」

私の言葉に彼女は笑顔でそう言ったのだった…。


……。
116 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:37:43.90 ID:Hr1jCc1H0
私がこの場所に辿り着いたのは一週間前の事だったらしい。
らしい、と言うのは私にその時の記憶が無い。
私は彼女の小屋があるこの崖の麓近くで倒れていた様だ。
勿論、水が溜まった盆地の下では無く小屋の後ろにある森の方だ。
私は丸二日寝ていて目が覚めたのは五日前。彼女はその間ずっと私を看病してくれていた。
だから、その間の記憶がない。
まあ、もっとも…更に言うならば私はその前の記憶も無かった。
117 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:39:44.66 ID:Hr1jCc1H0
何故、彼女の小屋の近くで倒れていたのか…そして、私自身の名前すら分からない。
そう、私は記憶を失っていた。
だから『水溜め』が珍しいのかどうなのかも分からない。ここが何処なのかも分からない。
そして、何故太陽が赤いのかも…分からなかった。
今現在、私が分かっているのは言葉と、数の数え方…

そして、彼女の名前が『ナオ』と言う事だけだった…。

「何で太陽が赤いんだろう…?」

朝食の最中に私がそう尋ねるとナオは大きな瞳を私に向けた。

「…そっか、その記憶も無いんですよね…」
「…まあ、自分の名前が分からない位だから」

私の言葉にナオは微笑む。

「…原因は分からないんですけど、一年前からですね。あんなに目に見えて赤くなってしまったのは…」
「原因は分からないんだ…」
「いえ、私が勉強不足なだけで、ホントは分かっているのかも知れないです…」
118 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:41:43.11 ID:Hr1jCc1H0
私はカボチャのスープを啜った。
そう言えば…。
私はナオの住む小屋を見回した。
確かにこんな人里離れた場所に一人で住んでいたら何の情報も入って来ないかもしれない。
そもそも何故、彼女はこんな人里離れた場所に一人で居るんだろう?
私はナオを見る。
年の頃は十代中頃かな?正直美しい顔と言える。

「…ねえ」
「はい…」

ナオはパンを千切りながら私を見た。

「君は何で、一人でこんな所に暮らしているの?」

私の質問にナオは少し困った表情を浮かべた。

「あ、いや無理に答えなくてもいいんだけど…」
「…昔は、お爺ちゃんと暮らしていました」
「うん…」
「でも、三年前に亡くなってからは一人です」
「そっか…」

私はカボチャの実をほぐし、それをスプーンに乗っけてスープと一緒に口に入れた
119 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:42:23.77 ID:Hr1jCc1H0
「…街の人が言うには」
「うん?」

ナオは手に付いたパン屑を手を叩いて払った。

「あ、いえ、さっきの太陽の件ですけど…」
「…ああ」
「世界が…崩壊しているって」
「世界が崩壊してる?」

私はパンを喉に詰まらせそうになった。

「…ええ。数年前から世界がおかしくなり始めて…一年前からそれが顕著になったって…言ってました」
「世界が崩壊してる…ねえ」

私はパンを葡萄ジュースで流し込む。
120 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:43:25.01 ID:Hr1jCc1H0
世界が崩壊してるって…。何かの陰謀論的な響きに聞こえる。

「ナオは…街の人との交流があるんだ」
「はい。まあ交流と言う程じゃないんですが…二週間に一度買い出しに街に出かけるんです」
「それ以外は…?」
「家畜の世話と二日に一回、水門を明けに行きます。それが元々お爺ちゃんの仕事だったんで」
「水門…?あ、ご馳走様でした」

私はナオにそう告げると彼女は小さく「はい」と答えた。

「水門は水溜めに欠かせないんです」
「朝の、あの水溜めの事かな?」
「はい。二日に一回水溜めが有ると水門を明けに行くんです。そうしないと水が消えないんです」
「へえー…そもそもなんだけど」

ナオが片付けの為に席を立った。私も食器を持ちそれに倣う。
121 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:44:27.42 ID:Hr1jCc1H0
「あの水は…何なの?」
「山の向こうに有る海です」
「海?」
「はい、あの山の向こうに海が有って満潮になると、ああやって山を越えて、ここに水を溜めるんです」
「で、その水を…水門を開けて流し出す…と。そう言えば二日前にも君は出掛けたね」
「はい、私の仕事なんです…」
「そうか…それでその水はどこに行くの?」
「…すみません。それが分からないんです」

分からないんだ。

「明日水門を開けに行くんで一緒に行きますか?」
「あ、良いの?行ってみたいね」
「はい、じゃあ明日に…」

少し楽しみだ。

「あ、傷の具合はどうですか?」
「うん、全く問題ないよ。どうやら元々頑丈らしい」
「良かった」
「何か手伝うよ。世話になってばかりじゃ気が引けるし」
「あ、じゃあ…お願いが有るんですけど…」

ナオは少し照れた様に笑っていた…。




……………
……………
122 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:45:07.15 ID:Hr1jCc1H0
「インカは、どうやらオーウェンを王に据えようと考えている様だ」

そうアビルが告げたのはウォルフの杯が空いた時だった。

「オーウェン…卿をですか?」

少し驚きウォルフはアビルを見た。

「ああ…インカがエヴァンと共に奴の屋敷に出入りしているとの情報だ」
「バカな…オーウェン卿は王位の序列で行けば八番目ですよ。それを王位に…無理が有り過ぎるでしょう」

ウォルフの言葉にアビルが頷きながら杯を口に付ける。
123 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:46:07.98 ID:Hr1jCc1H0
「だが…現段階では一番ではある」

確かに。現段階の王位継承権を探すと一番かもしれないが…。

「…で、こちら側はどうなっているのだ?」

アビルの言葉にウォルフは頷く。

「…今はまだ連絡が有りません」
「何をしている。何故連絡が無いのだ」
「下手に連絡を取るとこちら側の情報が漏れてしまいますので」
「分かっておる…分かっておるが」

アビルが少し憎々しげに呟いた。

「大丈夫です、閣下。ブライトは必ずやる男です」

ウォルフの言葉にアビルは頷く。

「…まあ、伝説の男だからな」
「ええ。必ずカレン皇女のご落胤を見つけ出します」




……………
……………
124 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:48:11.08 ID:Hr1jCc1H0
風が心地よく感じられた。
私はエアバイクに接続された荷台の上に座り通り過ぎる風景を眺めていた。
太陽の光りは日が高くなるに連れて赤色から少しオレンジ色に変化をしている。
それでもこの世界を灯す色には何かしらの異常が感じられるのは間違いが無かった。
道は森林が開け草原の中のそれになり、山道に比べると幾分か走りやすい様子がエアバイクを運転するナオの後ろ姿で感じられる。
振り返るとナオが住む小屋が有る山が見える。
そこは森林に囲まれ小屋へと続く道を隠すかの様に思えた。
その山は横へと広がっており彼方の場所で消えるまで続いている。それが、あの水溜めの盆地の広さを感じれる事が出来た。

「街は結構遠いんだねー!」

風にかき消されない様に大声でナオに尋ねた。

「はい…でもあと少しで街の入口に着きますよ!」
125 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:49:28.89 ID:Hr1jCc1H0
その言葉に私は少し体を伸ばして進行方向を見る。すると、草原の向こうに微かに街並みが見えるのが分かった。
それでも、結構かかりそうだな…。
私はそう思うと空を見ながら時間を潰す事にしたのであった…。


…街に到着するとナオはエアバイクを街の入口に停めた。

「ここからはバイクで入れないんです」
「そうか…じゃあ、荷物をここまで運ぶのは大変だね」
「はい、だからお手伝いをお願いしたくて…」
「なるほど…じゃあお手伝いをしましょ!」

そう私達は笑いながら街に入って行った。
石造りの家が街には立ち並んでいる。かなりの数が立ち並んでおり、この街の人口の多さを感じさせていた。
126 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:50:07.51 ID:Hr1jCc1H0
メインストリートと呼べる場所にはその石造りの軒先に布でテントを作り商品を並べる店舗が数多くあった。
ただ…そこまでの活気を感じる事が出来ない。どちらかと言うと暗い、街並みに感じられた。

「最初に野菜を買いに行きます」
「了解」

私達はメインストリートを歩き様々な買い物をする。

「大丈夫ですか?持てますか?」

ナオが心配そうに私を見た。

「大丈夫みたいだね、意外に」

私はそう笑って答えた。

「助かります。いつもは何往復もしないといけないので」
「お役に立てて何よりだよ」

私がそう言うとナオは少し笑った。
127 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:51:27.43 ID:Hr1jCc1H0
「何?」
「あ、いえ…何か楽しいです」
「え?」
「いつも一人で買い物をしているので…誰かと一緒なんて新鮮で」

そう照れた様に笑うナオの横顔を見た。
確かに…。私もそう思う。
誰かと買い物に出掛ける…単純だが何故か心が安らぐ。それに…。
再びナオの横顔を見る。
まあ、こんな可愛い子なら尚更かもしれないな…。

そう思いながら辺りを見回した時だった。私の脳裏に何かしらの違和感を覚えた。
何だろうか?
それが何の違和感なのかが分からない。だが、確実な違和感を覚えたのは確かだった。

「高楼に登ってみませんか?」

私が違和感の元を探しているとナオがそう声を掛けて来た。

「え…ゴメン」
「あ、展望台になっている高楼が有るんですけど…登ってみます?街を一望出来るんです」
「へえ。登ってみたいな」
「あ、じゃあ行きましょう」

そう言ってナオが嬉しそうに先に歩いていく。
128 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:52:17.12 ID:Hr1jCc1H0
私は違和感の元を探す事を諦めてナオについて行った。
メインストリートを抜けると大きな広場があり、その中心に高い建物がそびえ立っている。

「ここです。階段を上がるんですけど…あ、失敗しましたね」
「え?」
「いえ、先に荷物を置いてこれば良かった…」
「ああ…俺は構わないけど、ナオは大丈夫かな?」
「私は大丈夫ですよ。いつもより荷物が少ないし」
「じゃあ、行こう」

私はそう笑顔でナオを促した。
高楼には人が殆ど居なかった。地元の人達は腐る程見て飽きているのだろうか?
私達は薄暗い螺旋階段を上がって行く。結構な段数を上がって行った。
しばらく登るとやっと天井が無くなりオレンジ色がかった赤い太陽光が私達を照らし出す。

「着きました」
「へえ…」
129 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:54:07.91 ID:Hr1jCc1H0
そこはかなり高い展望台であった。正に街を一望出来る。

「凄いね!絶景だよ」
「私はたまに一人で来るんですよ。人も少なくて気持ちが良いんです」

確かに。景色も良いし風も心地よい。
こうして見ると街はかなり広かった。

「あそこが私が住む山です」

ナオの指差す方向に山がそびえ立っている。そしてそれは連山の様に見えた。
しばらく私は黙ってその景色を見つめる。彼女も同じ様に景色を見ていた。
ナオの栗色の髪が風になびき、彼女がそれを手で押さえる。
私はその姿を目を細めて見つめていると彼女が私に気が付きこちらを見た。
私は軽く微笑んで再び景色へと目を反らす。彼女もそれに倣い景色を再び見ていた。
ふと、彼女の山を見ていると何かに気が付いた。

「…あれ?」
「はい?」

私は目をこらす様に山を…いや、山の向こう側を見る。
連山の端は山が勿論途切れている。だが、その本当に遥か彼方に微かに何かの壁の様な物が見えた。
130 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:54:55.76 ID:Hr1jCc1H0
「ねえ…あの山の端の向こうに…何かあるの?」
「ええ、あります」
「あれ、そう言えば山の向こうには…海が有るって…」
「はい…あれが海です」
「え?」

私は更に目を凝らした。
よく見ると壁の様な物はずっと横に広がっている。壁は山よりも高い位置にあった。
そして、その壁の端は全く見る事が出来ずにそのまま地平線へと繋がっていたのであった…。

「あれが…海?」
「はい。あの壁が…海を囲っているんです…」

私は再び壁を見る。どういう事だ?

「海は…あの二百キロ四方に囲まれた場所にしか…」

私はナオを見つめる。ナオは少し悲しそうな表情で私を見つめた。

「…存在しません」






……………
……………
131 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:55:42.86 ID:Hr1jCc1H0
ドン!
その音共にガタガタと床が揺れ始めた。

「閣下!地震です!」

ウォルフは急いでアビルのもとに走り彼をテーブルの下に押し込めた。

「大きいぞ!」
「議事堂は大丈夫です!…うわっ!」

ガシャン!と言う音共に天井に取り付けられていたシャンデリアが落下してきた。
グラグラと激しい揺れは棚等をなぎ倒したが幾ばくかの時間の後に揺れは収まり始める。

「…収まったか?」
「…の様ですね」

彼等はテーブルの下から這い出した。

「…大丈夫か?ウォルフ」
「私は問題有りません。閣下は?」

132 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:56:27.16 ID:Hr1jCc1H0
「大丈夫だ…」

その時、執務室の扉が開き衛兵が飛び込んできた。

「副首相!大丈夫ですか??」
「ああ、問題ない…それより被害は?」

アビルは服に付いたガラス破片を払いながら衛兵に尋ねる。

「議事堂は大丈夫です!現在、王都周辺へと兵が確認に行っております!」
「王都だけでなく、周辺地域全てを確認してまいれ!怪我人等の運搬を最優先に!」
「はっ!」

衛兵は敬礼をするとすぐに外へと飛び出して行った。

「…最近、少し多すぎますね」

ウォルフが倒れた棚を確認する。

「ああ…これも、海を閉じ込めてしまったかもしれないと科学庁の見解だがな」
「一見、そう見えますね」

ウォルフの言葉にアビルが少し首をすくめていた…。




………………
………………
133 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:57:30.51 ID:Hr1jCc1H0
高楼を降りた私達は広場を離れ再びメインストリートに入った。

「あ、こっちが近道なんです」

そう言ってナオが脇道を指し示す。その道は少し寂れており商店も疎らであった。
私は黙ってナオの後ろに歩いていく。
少し先程の海があの山の向こうにしか存在しない、と言う言葉が気になっていた。

「…何で海は他に存在しないんだろう?」

私の言葉にナオは少し困った表情を浮かべる。

「私も、お爺ちゃんに 聞いただけなんですけど…」

そう断りナオが前を見ながら歩いていた。

「…私が生まれる前に海をあの一箇所に集めたらしいんです」
「海を一箇所に集める…?」
「ええ。昔は海は凄く大きくて、だけど大き過ぎてそれによって様々な被害が出ていたんです」
「例えば…どんな事だろう?」

私はナオの横顔を見る。
134 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:58:30.24 ID:Hr1jCc1H0
「洪水があったり…あと巨大生物に襲われたり」
「巨大生物…?ああ、あの水溜めの時に入ってきた生物か」
「はい。あれよりもっと大きな生物が沢山いたそうなんです」

あれよりも大きいって…それは凄く大きいな。

「で、海を一箇所に集めて災害を起こらない様にした…と、言う事らしいんですけど」
「なるほど…」

何ともスケールの大きい話だね。
だが、少し気になるのは…その海の水、よくあの中に全て入ったな。
誰が入れたんだろう?
私は何故か大きなタライを持った巨人が海の水をあの中に入れて行くのを想像してしまった。

「…少しお待ちください…」

その声が耳に入ったのは私が巨人の三杯目の水入れを想像していた時だった。
135 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 19:59:28.75 ID:Hr1jCc1H0
その声の方を見ると濃い紫色のローブを頭まで被った人間が私を見て声を掛けた様だ。
私は自分を指差し、自分を呼び止めたのかを確認すると、その人間はゆっくり頷いた。
…人間、と記したのはその人物が男か女かが分からなかったからだ。
スッポリと被られたローブで顔も確認出来ないし、呼び止められた声もそれが男か女かがはっきりしない声質であった。

「…何故貴方が…この場所で…」

そうローブの人物が言う。
人を呼び止めて、その言葉は何か変だ。

「…時読みです」
「時読み?」

ナオが小声で私に囁いた。

「色んな予知やその人間の特性を言い当てる…言わば占い師…です」
「へえ」

私は少し興味が湧き時読みの方へと歩んだ。
面白い。自分が誰かも分からない人間をこの時読みはどう判断するんだろう?
136 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:00:19.92 ID:Hr1jCc1H0
「どう言う意味だ?」

私は少しニヤニヤして尋ねた。

「ダメですよ…時読みはそうやって客寄せをしてるんです」
「大丈夫だよ、お金を払いさえしなければ良いんだから」

私達が小声で話していると時読みが突然言った。

「お代は結構です…それよりも…」

そう言うと時読みのローブの隙間から見える左目が私を捕らえた。そしてチラリとナオを見る。

「貴方の力が感じられない…」

え?

「貴方は現在…自分の居るべき処、又は自分のやるべき事を失っている」

それはどう捉えるべきなんだろう?
私の記憶を失っている事への隠喩なんだろうか?
その時、時読みが顔を少ししかめた。
137 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:01:15.04 ID:Hr1jCc1H0
「…なるほど、そう言う事ですか…」

彼は一人で納得した様な言葉を吐いた。
時読みは左目で私をジッと見つめる。その眼差しは私に向けられていたが私を見る様なそれでは無かった。
どちらかと言うと私の後ろに居る人物を見る目。そう私自身を透して後ろの人物を見ていた。

「…ふむ」

時読みはそう告げるとローブで左目自体も覆った。

「どうやら…貴方は『繋げる』人物となったらしい…」
「繋げる?」
「貴方は空間と空間を繋げる人物…」
「…意味が分からない」

私の言葉に時読みの唇が笑った様に思えた。

「…『開門者』を繋げるんですよ…」

それだけ呟くと時読みは踵を返し路地へと立ち去る。私はその後姿をただ見つめていたのだった…。
138 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:02:07.93 ID:Hr1jCc1H0
「時読みは、ああ言った物言いをします」

ナオが歩きながら私に言う。

「そうなんだ」
「はい。少し伝わりにくい言葉で言うんです。それによって自分の神秘性を感じさせるみたいなんです」
「確かに分かりにくかった」

少し私は笑った。

「政府の科学庁には、ちゃんとした時読みが居るみたいなんですが、街にはお金目当ての時読みが溢れているみたいなんです」

そう言ってナオが私を見て照れた様に笑った。

「…だって私も以前別の時読みに『貴女は高貴な運命を感じる』って言われましたから」
「…ちなみにその時、ナオは何て返したの?」
「高貴な運命の人が荷物を一杯手に持って買い物しますか?って返しました」
「確かに」

私とナオは笑い合った。
139 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:03:30.79 ID:Hr1jCc1H0
「まあ、あれも商売なんだろうな」
「ですね」

そう二人で笑い合っていると、又もや頭の中に何かの違和感を感じる。
私は違和感の元を探ろうともう一度景色の記憶を目を閉じて巻き戻してみた。
時読みの姿…歩き出した街の風景…ナオとの会話…道行く人々…。
その瞬間、私は目を開けた。そしてユックリとなるべく自然に振り返った。
私の二十メートル後方に一人の男が私達と同じ方向を歩いていた。
…四回目だ。
あの男の顔を見るのは、この街に入って四回目だった。違和感の元はこの男だ。
こんな広い街で同じ人間を四回も見るのは不自然だ。
先程、三回目の時に、どうやら私は違和感を覚えていたらしい。

「…どうしたんですか?」

ナオが私の異変を感じて少し怯えた様に尋ねた。
私はナオに軽く微笑むと果物が入った袋を顎で指し示す。

「…悪いけど、ちょっとリンゴを粗末に扱っても良いかな?」
「え?」
「あ、いや、言葉を誤魔化したな…スマン、ちょっとこの果物を俺にくれ…」
140 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:04:29.54 ID:Hr1jCc1H0
そう言うと私はナオを左側に在る小さな路地へと押し込める様に曲がった。

「どうしたんですか…?」

ナオが少し驚く。
私は唇に人差し指を立てて声を出さない様に伝えた。

「俺の合図で走れ…」

私はリンゴを右手に持った。
案の定、後ろにいた男は慌てた様に私達の居る路地へと入って来る…!
私は手に持っていたリンゴを思いっ切り、その男の顔にぶつけた…!
男はうずくまり顔を押さえる…!
141 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:05:11.27 ID:Hr1jCc1H0
「走れ!」

私の声で弾かれた様にナオは先頭に立ち走り出した。私もその後に続き走り出す…!

「…ぐ、くそっ!」

男は顔を押さえながら立って私達の後を追いかけて来た。

「曲がれ!」

私の言葉にナオは路地を曲がる。
曲がった瞬間に私は果物を道に散らばした。
しばらく走ると男が同じ様に角を曲がる ー!
が、彼は私が散らばした果物に足を取られて見事に横転して勢い余り、角地の露店へと突っ込んで行ったのであった…。





………………
………………
142 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:06:23.10 ID:Hr1jCc1H0
「地震による被害は家屋の倒壊と火災が発生した様です」

ウォルフはそうアビルに告げると彼は倒れた書棚を直しながら溜息をつく。

「…死者の数は」
「まだ、確定では有りませんが…何百人レベルに達すると思われます」
「なるほど…怪我人の救護を最優先にと伝えてくれ」
「はい」

アビルはその報告を聞き疲れたのか書棚の整理を取り止め執務椅子に座った。

「インカに…首相に報告は…?」
「エヴァンの方がしているかと」
「こういう時に首相と副首相が違う派閥だと連携が上手くいかんな」
「…まことに」

アビルは肘をテーブルに着いてこめかみを指で押さえた。

「…その首相の方ですが」
「…うん?」

ウォルフは手に持っていた報告書を下げてアビルを見る。

「…どうやら、オーウェン卿を王座に据えるべく…他の候補を始末する様、動き始めた様です」
143 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:08:00.20 ID:kqsr3JY+0
「…どう言う事だ?」
「まだ、見つかっていないオーウェン卿よりも王位継承権が上位に居る方々を探し出している様なんです」
「…なるほど、そう来たか…と、言う事は」
「はい。我々が探しているカレン皇女のご落胤を探しております」

その報告を聞きアビルは苦々しい表情を浮かべた。

「だが…我々もブライトを派遣している…彼が居れば問題なかろう?」
「はい…大抵の相手が来ても彼なら問題有りません。皇女のご落胤を守りきれるでしょう…が」
「うん?」

ウォルフの言い淀んだ姿をアビルが見た。

「首相は…国王直轄騎士団…二番隊を出動させました…」
「何だと…?」

アビルが目を見開く。

「あの…二番隊」
「ええ…」

ウォルフは下唇を噛む様にアビルに言った。

「隊長モーレイ率いる…『ウツボ隊』です…!」



………………
………………

144 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:09:17.13 ID:kqsr3JY+0
太陽が沈む…。
王都より西に位置する砦の城壁に立っていたエヴァンはそう思った。
首相派のエヴァンは権謀に長けている。だから首相のインカは彼をこの砦に派遣させたのだった。
そう、目の前の男を懐柔するために…。

その男は砦の城壁に立ち下を眺めていた。何かを待っている様に。
彼はカーキ色に黒い渦の様な模様を付けたプロテクターを身に付けている。
その顔貌はスキンヘッドで顔には眉毛も髭も無い。ただ爛々と光る瞳に長い睫毛だけが印象的だった。
薄い唇にはウツボを象った小さなピアスを付けており、その唇を少し歪ませ一見するとニヤついている表情に見える。

「…こちら側としては急いでいるのだが…?」

エヴァンがそう告げると彼はそれに答えずにただ城壁の下を眺めている。

「モーレイ…何度も言っている…」
「もう、終わる」

エヴァンの言葉にモーレイは短くそう告げた。

「だから、そう慌てなさんな…大臣閣下」

モーレイは少しエヴァンを見ながらニヤついた表情を浮かべている。
145 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:10:51.26 ID:kqsr3JY+0
不躾…礼儀知らず…
それが国王直轄騎士団二番隊隊長、通称『ウツボ隊』のモーレイの評価だ。
実力はある。だが、彼はいつまでも一番隊に昇格出来ない。
勿論、一番隊隊長の実力もあるがモーレイのこう言った所が昇格の邪魔をしているのは確かだった。
だが、彼が昇格出来ない最もの理由は…。

「来ました」

望遠鏡を覗いていたウツボ隊の副官がそう言う。
その言葉にモーレイは顔を上げて副官が指差す方向を見た。
彼が見つめる方角には砂煙がもうもうと上がり大人数がこちらに向かっているのが分かった。

「野良犬共が来やがったか…」

モーレイはそう笑うとプロテクターと同じ模様のマスクを被る。
それは砂煙を上げて向かって来る者達に対して舌舐めずりをする様な笑みだった。
砂煙を上げて向かって来る者達は反乱軍だ。
…軍と言えば大仰ではあるが、実質は只の民衆の蜂起だった。
武器もろくに扱った事もない烏合の衆。

農作物も採れず食うに困った人間達が、この砦の中に在る農作物を奪う為に蜂起した人々だ。
エヴァンはそれに一定の同情を感じるが、だからと言って勿論、それを肯定する事は無い。

「数、およそ五百!」

副官が叫ぶ。
146 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:11:53.26 ID:kqsr3JY+0
五百…。
エヴァンは少し慄く。いくら烏合の衆と言えども五百人。こちらのウツボ隊は二十名だ。

「…モーレイ、大丈夫なのか?人数が余りに…」
「おい!」

エヴァンの言葉を遮る様にモーレイか叫んだ。

「あれは俺の獲物だ!お前らは後方だけを見とけ!」

そう叫ぶと同時にモーレイは城壁より飛び降りた。

「な!バカな!この人数を…?」
「大丈夫です大臣閣下。余りに近づくと危険ですからお下がりください」

副官はそう言いエヴァンを押し留める。

「しかし…」

尚もエヴァンが反論しようとするが副官は無視して部下に伝令した。

「全員後方に回れ!…閣下はここで御観覧を…」

副官はニヤリと笑うと全員を引き連れて後方へと向かった。
バカな…何を考えているんだ…。

「敵は一人だあああ!かかれええええ!」

反乱軍のリーダーがそう言ってモーレイを指差した。
147 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:14:04.71 ID:kqsr3JY+0
彼等全員がモーレイに向かって走って行く。
モーレイはそんな中、一人立って敵達を見据えていた。
五百人の男達が┣¨┣¨┣¨┣¨!と言う地響きに似た音とウオオオオオと言う咆哮を立てて剣を構えながら凄い勢いで走り寄り砂煙がもうもうと立ち込めた…その時だった。

モーレイはやっと剣を抜くと、その一瞬で眼前に迫った敵を一閃した…!
一気に四つの何かが宙を舞う…それが人間の首だと言う事を理解するのにエヴァンは幾ばくかの時間を要した。

そのままモーレイは敵の真ん中に円を描く様に凄い速さで動いて行く…。
彼が動く場所に色んな物体が巻き上がり、同時にどす黒い液体も巻き上がっていった。
それは首や腕等の身体の一部、そして血液…!
エヴァンはその姿を見つめる。

…冷静にそれを見れば…正に阿鼻叫喚の図、そのものだった。
身体の一部を失い叫びながら逃げ惑う者…また、首を刎ねられ一瞬で死に行く者…。
そして何とも言えない血の匂いが辺り一面に広がり、そこに赤黒い血と人間の身体が宙に舞っている…。
正に地獄そのものの図であるが…エヴァンはそれをただジッと見つめていた。

彼には…その殺戮が…ある種のショーに見えたのだ。
現実感が無く、モーレイの素早い動きがまるでダンスを踊っている様だ…
飛び散る血飛沫と身体の一部は彼の演舞に必要な小道具…
そして、死に行く者達の断末魔の叫びは彼への歓声…そう思えたのだった。

148 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:15:22.96 ID:kqsr3JY+0
…どれ位の時が経ったのだろうか?
エヴァンは口を開けてその演舞に見惚れて時間の経過を忘れていた。
気が付けば城壁の下には無数の屍の山が築かれている。
ここに居る殆どの者達は死に絶え、その他の人間も虫の息、若しくは戦闘不能状態に陥っている。
そして半数の者達はモーレイに恐れ慄き逃げ去ってしまったのだった。
モーレイは右腕を失って苦しんでいるリーダーの元へと歩いて行き、その前にたった。
リーダーの男はモーレイの姿に気がつき彼を見上げる。

「あ…ああ…た、た、助けて…助けて…」

そうリーダーの男が顔をグシャグシャにして涙と鼻水で濡らしながら呟いた。
モーレイはその姿を見ると返り血に染まっているマスクを外す。彼のピアスが付いた薄い唇はニヤついていた。

「た、助けて…お、お願いします…助けて」

リーダーの男はそう言って懇願する。

「助けて…欲しいんだ?」

モーレイは益々ニヤつきながら彼に尋ねたのでリーダーの男はカクカクと素早く首を上下に振った。
それを見てモーレイは益々笑いながら剣を肩で担ぐとその場でしゃがみ込んだ。
149 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:16:37.47 ID:Hr1jCc1H0
「…では、問題です」
「え?」

リーダーの男は少し慌てる。

「世界を平和にする為に、お前の一番大切な物と引き換えにしなければいけません…その為にはお前は何を…差し出す?」

モーレイの言葉にリーダーの男は困惑していた。

「ほれ、早く答えろよ…その答えによっては助けるぞ?カッチ、カッチ、カッチ…」

リーダーの男の表情に少し明るみがさした。それは助かるかも知れない希望が湧き出てきたからだろう。
そして彼は思惑をする。モーレイの表情を見ながら助かる為の思惑をしているのが分かった。

「カッチ、カッチ、カッチ…」

モーレイがニヤニヤしながら自ら時の刻みを発している。
リーダーの男は一旦、俯いた後に再びモーレイの顔を見つめた。
その表情は媚びる様で、そして自らを助ける為に、モーレイが望む答えを必死で探す表情だった。

「チン!…時間です。それでは答えをどうぞ」

その言葉にリーダーの男は一瞬の間を開けて、そして少し芝居掛かった様な苦渋の表情を浮かべ答えた…。

「…俺の…俺の命だ…!」

そう言った瞬間にモーレイは今までで一番の笑みを浮かべた。
150 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:17:36.41 ID:Hr1jCc1H0
「なら、[ピーーー]」

そう言うとモーレイはリーダーの男を足蹴にして仰向けた。そして、彼の胸を足で踏み締める。

「え?え、え、いや、いやだ!いやだ!死にたくない!答えたじゃないか!答えた!俺は答えた!」

踏み倒されたリーダーの男はそう叫びながら涙と鼻水をまき散らせ失禁した。

「…お前が答えたじゃないか。自分の命と…!」
「違う!それは違うんだ!違う!」
「薄っぺらいねぇ…ホントに」

そう言ってモーレイは彼の首に剣先を押し当て少し力を入れる。剣先は彼の首に少しめり込み、それと同時にそこから血がプツプツと吹き出る。

「助けて!助けて!痛い!痛い!」
「まだまだ〜これからだから楽しもうよ」

モーレイの笑みは止まらない。
彼の剣先はリーダーの男の首へ何箇所も少し傷を付けては抜き、少し血を流させる。
リーダーの男が泣き叫びながら手足を動かし逃れようとするがモーレイの足で頑丈に抑えられビクともしない。
151 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:18:57.90 ID:Hr1jCc1H0
「何箇所までいけるかなあ?今日は最高記録を作るんだよ」

モーレイの目は笑っていない。笑っているのは口許だけだ。リーダーの泣き声だけが戦場にはひびいていた。
いや、最早そこは戦場では無かった。ただモーレイの嗜虐性を楽しむ場でしか無かったのだ。
やがて、リーダーの男の泣き声と手足の暴れが収まった。それは彼の絶命を意味していた。

「ちっ。結局新記録更新せずかよ…根性ねえな」

モーレイは剣を鞘に戻すとどす黒く返り血に染まった口の周りの血に気付く。
そして、それを舌で舐めた。
その行為は口の周りだけではなく、腕のプロテクター、手の平と様々に血が付着している部分を舐めていった。
エヴァンは気がつくと失禁していた。そして足をガタガタと震えさせていた。

これだ…。これが彼が一番隊に昇格出来ない最大の理由だ。
この残虐性。
152 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:19:39.96 ID:Hr1jCc1H0
「大臣閣下さんよお!」

突然のモーレイの叫びにエヴァンは我に返る。

「アンタも知ってるんだろう?ご落胤の正体を?!」

その言葉にエヴァンはやっと自分の体面を保とうと精一杯の大声を出した。

「ああ…知っている!そして前回のお前の事件もな!」

エヴァンの言葉にモーレイはニヤリと笑いながら振り返った。
153 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:20:29.28 ID:Hr1jCc1H0
「なら話が早え…」

そう言ってモーレイは舌舐めずりをしながら笑った。

「おそらく…既にお前の獲物も到着している…そのご落胤の場所に」

エヴァンの言葉にモーレイは笑みが消え片眉を少し上げる。

「ほう…奴が居るってのか…そこに」
「ああ、一番隊隊長…ブライトがそこに居る筈だ…!」

それだけ聞くとモーレイは高笑いをし始めた。そして死んでいるリーダーの体に剣を刺しこむ。
死後の筋肉痙攣なのか死体はビクッと体を動かした。
そのままモーレイは高笑いをしながら何度も何度もその死体に剣を刺しこむ。
エヴァンの耳に彼の笑い声がこびりついていた…




………………
………………
154 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:21:33.73 ID:Hr1jCc1H0
太陽の光が山の端に消え去ると辺りは群青色と赤紫のコントラストを描き始めた。

「…何だったんでしょうか?あの人…」

そうナオが呟いたのは私達が尾行を巻いて小屋のある山に戻ってきた時の事だった。

「分からない…君には見覚えが無いんだな?あの男の」
「はい…」

ふむ。なら私なのかな?
私を尾行していたのだろうか。

「…慣れてるんですか?」

私が思案しているとナオがそう尋ねた。

「うん?」
「あ、いえ…何か対処の仕方とかが手慣れてて…」
「…だね。自分でも少し驚いたよ。まあ、慣れているかも知れない…」

その辺は自分でも分からない。だが、もしも私を尾行していて、私がああ言う事に慣れているならば…。

「俺は…ここを離れた方が良いのかもしれないな」

その言葉にナオが顔を上げる。
155 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:22:58.17 ID:Hr1jCc1H0
「君に危険が及ぶかもしれない…」
「いえ、そう言うつもりで聞いたんじゃ無い…」
「いや、しかし」
「大丈夫です!私の心配は…」
「だが…」
「行かないで下さい!」

ナオの言葉に私が顔を上げた。
ナオはそう言った後に少し恥ずかしくなったのか俯いた。
私は彼女のその姿を見て笑ってしまう。そして…

「…ありがとう」

私はそう彼女に告げた。

「…いえ、なんか…すみません」

彼女もそう言うと笑い出した。私はその笑顔を見ると何か心の中にフワフワした気持ちを感じる事が出来る。
この感情は一体何なのだろうか?

「…そろそろ、ご飯にしますか?」

ひとしきり笑った後のナオの言葉に私も頷く。

「うん、そうだね。じゃあ私は水を汲んでくるよ」
「お願いします」

私はそう言って小屋の外に出た。


156 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:23:59.47 ID:Hr1jCc1H0
外はすっかり夕闇が顔を出していた。
仄かに西の空が赤紫の色に染まっているだけで後は星空が見えている。
昼間のオレンジ、若しくは赤い世界に関わらず星空は出るらしい。
私は水溜めの大きな湖を見ながらそれに沿って東側に歩いて行く。
そこには井戸がある。
私は桶を下に置いてポンプに手を伸ばした時に何かの微かな光りが目に入った。
うん…?
光りと言ってもほんの僅かな物…その光源を見ると何かの黒い物体に微かな光りを私へと反射させていたのだった。
何だ…これ?
私はその黒い物体を手に取る。
それは二つに折りたたまれた軽くて薄い物体。
それをよく見る。
157 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:25:09.68 ID:Hr1jCc1H0
その表面には何かの紋章が付いているのが分かった。
イルカの紋章だ。

イルカ…?

そう思った瞬間に私の頭が疼いた。
そして、目眩を覚える。その目眩に一瞬耐える事が出来なくなり跪いた。

何だ…?何なんだ…?何故いきなり頭痛がしたんだ…。
その頭痛が徐々に治り行く時に私はその黒い物体を再び見る。
これを見た瞬間に頭痛が来た…。何なんだよ…。
頭痛が治り再度、黒い物体をジッと見る。
そして、何かが脳から信号を出し、私の全身を駆け回りそれは私の口から発せられた…。


「…携帯…電話…?」








………………
………………
158 : ◆sfGsB21laoBG [sage]:2016/08/09(火) 20:26:33.70 ID:Hr1jCc1H0
とりあえず第二章は終わりです
少し疲れたので一旦ここできります
乙です
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/08/10(水) 01:47:18.25 ID:Ze0QKhQr0
160 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:47:26.75 ID:Yv50vCTj0
続きを書き込みます
161 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:48:25.36 ID:Yv50vCTj0
第三章
海沿いの町 DAY2
162 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:50:40.25 ID:Yv50vCTj0
僕が奇妙な夢から目を覚ましたのは真夜中だった。

客間の布団で眠っていた僕は周りを見回す。
縁側には網戸だけが閉められており、外からリーン、リーンと鳴く虫の鳴き声が聞こえて来た。
布団から起き上がり縁側に立つと外からの月光が降り注いでいる。
そっと網戸を開けて外を見る。月が煌々と海を照らしていて神秘的な何かを僕に覚えさせていた。
しばらくその月光の煌きと虫の鳴き声を受け入れていると自分がトイレをしたくて起きた事を思い出した。
それを思い出すと猛烈な膀胱の訴えが僕に降りかかる。僕は急いでトイレに向かい用を足した。
すっきりした僕に今度は眠気が襲い掛かる。
面倒くせえな…自分でそう思いながらトイレを後にして客間に到着した、その時だった。

布団の横にパンダが座っていたのは…。

僕はその光景を見て一瞬動きを止めた。
だけど思い直すとそのまま布団に寝そべりタオルケットを自分に掛けて目を閉じ様とする。

「…いやいや」

そうパンダに声を掛けられ僕は凄く迷った。
多分凄く迷っていたと思うんだよ。金が無い時に牛丼に卵を付けるかどうかを迷う程迷っていたと思う。
163 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:51:45.04 ID:Yv50vCTj0
「…ねえ、ちょっと起きてくれないかな?」

尚もパンダが僕に話しかけてきた。
僕はかなりの迷いの後に、仕方なく卵を乗っける事に決めたんだ。

「…何?」

僕の迷惑そうな声にパンダが少し申し訳ない表情を浮かべたのが分かった。

「いや、ごめんよ驚かせて」
「…いや、それは良いんだけど…眠いんだよ」
「驚かないんだ…」

パンダは少しがっかりした表情を浮かべる。
僕は仕方なく起き上がった。

「…夢だよね?さっきの夢の続き…で良いんだよね?」

僕の問いにパンダは「…ああ」と納得した表情で呟いた。

「いや、結構これって現実なんだよね…うん」
164 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:52:32.09 ID:Yv50vCTj0
彼の言葉に僕は頭を掻く。
マジか…参ったな…夢じゃねえんだ…。

「…じゃあ、いくよ」
「何が?」

僕の言葉にパンダが理解できずに尋ねた。
いや、そりゃ決まってるっしょ。

「う…」
「う?」

「うわあああああああああああああああああああああああああ!」

僕の叫び声に祖母の家中がガタガタと音を立て始めた。
うん。我ながら中々の声量だったと思うよ。
165 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:53:18.22 ID:Yv50vCTj0
「どうしたあ!?」

別の客間に寝ていた叔父さんと叔母さんが慌てた様に僕の居る客間に入ってきた。僕も慌てて電気を付ける。

「パンダアアアアアアア!」
「は?」

叔父さんがキョトンとした表情を浮かべていた。

「パンダ!ここにパンダが居る!動物園に電話して!」

僕はパンダが居る方向を指差し叫んだ。

「どこに…何が…?」

叔父さんがキョロキョロ辺りを見回しながら僕に尋ねた。

「いやここに!パンダ居るじゃん!」

僕が振り返ると…パンダはおらずただ何もない畳があるだけだ。

「…寝ぼけてたのぉ?大丈夫達矢ちゃん?」
166 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:54:18.73 ID:Yv50vCTj0
叔母さんが欠伸をしながら僕に言った。
あれ…?消えた…?
僕が辺りを見回す。だが、パンダの痕跡は一切見当たらない。何もない。そこには空気があるのみ。

「…何、騒いでんだよ」

信一が欠伸をしながら入ってきた。こいつ酔っ払ってここで寝てやがったな。

「いや…パンダが居たんだよ…だから…動物園に連絡してほしくて…」
「いろいろ突っ込み所が満載過ぎて何から言って良いかは分からんが…」

信一は僕の肩に手を置く。

「取り合えず…動物園に迷惑だから…今電話はするな…な?」

その言葉に僕は頷いた。確かに。

「ああ…寝ぼけてんじゃねーよ…お休みぃ」

そう言って信一が再び居間に向かった。てか、自分の実家で寝ろ。

「達矢、まあ取り合えず疲れてるみたいだから…ゆっくり寝なさい」
167 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:55:13.53 ID:Yv50vCTj0
叔父さんと叔母さんもそう言って客間へと戻って行ったのだった…。
僕は誰も居なくなった客間で一人佇み、そして思案する。
これは…あのパターンか…。どうしようか…?
僕の思案は再び牛丼を思い浮かべる。味噌汁も…付けてみるか…。
そう決断すると客間の電気の紐を引っ張り電気を消した。そして布団の上に座り込んだ。
客間に暗闇が広がり月光の明かりだけが部屋に差し込んでいる。
すると案の定目の前に…現れた。

「…困るよ…叫ばれたら…」

パンダのその言葉に僕は急いで電気を付けた。
一瞬のフラッシュが広がり部屋が明るくなるとパンダは居ない。
ふむ。
僕は電気を消す。すると月光が広がりパンダが現れた。

「…いや、何…」

パンダの言葉の途中で電気をつける。彼は消える。
168 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:56:37.94 ID:VLnMOMfy0
そしてもう一度電気を消した。彼が現れる。

「ちょ、ちょっと…」

僕は笑いながら電気をつけ、そして消す。それを三度繰り返した時にフェイントを一回入れたらパンダは間違えた。
しかし、四回目に電気を消した時にパンダはついに切れた。

「何してんの!!ちょっと辞めてくんないかな!!」
「…いや、ちょっと面白くて」
「駄目でしょ!電気で遊んだら!古い電気だし接触悪くなったらどうすんの!?しかも一回間違えたしね!」

パンダに説教を食らった。

「…まあ、良いや…確かに突然現れた僕も悪いけど…まあ、ちょっと座ろうよ」

パンダはそう言って自分を落ち着かせる為に僕にも座る様に促した。
やっぱり僕しか見えないパターンの奴だな。よくある。
パンダはしばらくイライラした表情をしていたが軽く深呼吸をして自分を落ち着かせていた。
ようやく落ち着いたのかパンダは懐からタバコを取り出した。
それどうなってんの?
169 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:57:47.51 ID:VLnMOMfy0
「…ちょっとタバコ吸って良い?」
「煙いからヤダ」
「君、凄い断るの早いね…てか、馴染むのも早いし…」

そう言ってパンダはタバコに火をつける。
嫌だって言ってんだろコイツ。
それを感じたパンダは少し笑いながら煙を吐く。

「いや、大丈夫だよ。実際に君の目の前で吸ってる訳じゃないから煙くはないよ」

何言ってんだコイツ。

「じゃあ、聞くなよって思うかもしれないけどさ、一応これってマナーじゃん?」

パンダは笑って煙を燻らせていた。
…田舎の客間でパンダが目の前でタバコを吸っている。何、このシュールな光景。
確かにパンダが言う様にタバコの煙は匂いがしなかった。

「…さて」

パンダは灰を器用に落とすと僕に向き直った。

「君から質問した方が早いと思うんだ…だから聞きたい事を全部聞いてくれないかな?」

そう言われても困る。何から聞けば良いのかも僕も分からない。
170 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:58:23.58 ID:VLnMOMfy0
「何でも良いよ…タバコの銘柄は何?とか」

そう言ってパンダが笑った。
何そのパンダジョーク。ちっとも面白くないし少しイラってきたわ。
僕は少し思案する。パンダはジッと僕を見つめていた。

「あ」
「うん?」

僕の一言にパンダが期待を込めた目で見つめてきた。

「…笹って美味いの?」
「笹?!」

パンダがビックリして僕を見た。

「笹って…何で?何で笹が出て来たの?」

いや、逆に何でだわ。お前のイメージ笹じゃん。
171 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 17:59:21.26 ID:VLnMOMfy0
「いや…パンダって笹食べるっしょ…」
「パンダ?!」

僕の言葉に彼が心底驚いていた。
そして少し宙を見上げて何かを考えて「…ああ」と言う言葉を発した。

「…ひょっとして、君には僕がパンダに見えてるって事かな?」
「いや、それ以外見えねえし」

そう答えるとパンダは笑い出しながらタバコを器用にゴツイ手で消す。

「そうか…いや、あのね。君には僕がパンダに映っているかもしれないけどさ。僕はパンダじゃないんだ」

じゃあ、何だよ。

「僕は君の目の前に映ってはいるけどね…実際はこの場には居ないんだよ…分かり易く言うとね…映像を君の前に投射しているだけなんだ」

そう言われ僕はパンダに触れようと手をかざすとパンダを透けて空を切った。

「ね?だからその…映像を投射する際に君には僕がパンダに映った、て言う事なんだよ」
「…なんでパンダなんだろ?」

僕の質問にパンダは少し首を傾げる。
172 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:00:06.52 ID:VLnMOMfy0
「う〜ん…何でだろうか?ひょっとして君はパンダにその…何らかのアレがあるかもしれない…そのトラウマ的な何か…」

パンダにトラウマって何だよ。どんな仕打ちをパンダにされたんだよ。

「んじゃ…実際にはどこに居るの?」
「うん?良い質問だ…!」

パンダはニンマリと笑った。

「それには…答える事ができないんだ」

…今、良い質問って言ったよな?確か。
僕は溜息をつくと布団に寝そべりタオルケットを掛けた。

「いや、何してんの?」
「寝る」
「ちょ、何で寝るの?!意味わかんないよ!」
「話が進まないし、どうでも良いわもう。」
「駄目だよ!」

うっさいなあ。僕がそう思うとパンダは叫んだ。
173 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:00:48.79 ID:VLnMOMfy0
「君は世界を救わなくちゃいけないんだ!」

その言葉に閉じかけた目を開けた。そして起き上がりパンダを見る。

「…世界を…救う?」

僕の鼓動が少し早くなる。
その言葉にパンダは深く頷いた。

「そう…君は世界を救わなくちゃいけない…だから僕が現れた」

僕の鼓動は益々早くなっていた。
世界を救う…。

「君に明日から…何らかの事が起きる…君はそれをちゃんと拾わなくちゃいけない…」

彼の言葉で更に僕の鼓動が増して行く。ドックン、ドックン…そう言って血液を体全部に送っていた。
174 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:01:44.89 ID:VLnMOMfy0
「君はね…選ばれた人間なんだよ…!」

選ばれた人間…。
その言葉に僕は布団から跳ね上がる様に立ち上がった。

「来たああああああああああ!ついに来たあああああああ!待ってましたよ!ええもうこの時を俺はずっと待ってましたよ!」
「え、いや、急にテンション高いな…」

パンダが少し引く。

「ヒーロー?!ヒーローなの?!俺、ヒーロー?!」
「ああ、うん…まあそうなるかな…多分」
「やったあああああああ!俺ヒーローだ!」
「まあ、その何だ、ちょっと…ね。落ち着こう。うん。一旦落ち着こう。ね?」
「変身は!?変身どうやってするの??ねえ変身」
「いや、もうちょっと静かにしてくれないかな…落ち着いてくれない?」
「俺ね、ええっと…このポーズが良いと思うんだ!こう、えっと、いやこうだったかな?」
「黙れってえええええ!」

パンダが再び切れた。彼がハアハアと肩で息をしている。僕もパンダに切れられて少しテンションが下がった。
175 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:03:02.60 ID:VLnMOMfy0
すぐにテンションが上がって話を聞かないのは僕の悪い癖だと小学校時代の山川先生に通知表に書かれていた事を思い出した。

「…良いかい?僕の言う事をよく聞いて欲しいんだ…」

パンダの少し怒りを抑えた声に僕は黙って頷く。

「明日…て言うかもう今日か…君に起こる何かをよく見定めて欲しい…」
「…何か…って何?」
「それは僕にも分からない…ただ必ず何かが起きる…だから…それを…え?」

パンダが急に後ろを振り返った。

「え?マジ?もう?そうなんだ…え?いやまあ…」

そう言ってパンダは後ろを向きながら呟くと僕に向き直った。

「悪いけどさ…もう時間みたいなんだ」
「はあ?」
「君が最初のオープニングに時間掛けるからさぁ…」
「俺のせいかよ」

そう言うとパンダは段々と色が薄くなっていく。

「頼むよ…だから、今日の出来事…しっかり把握しておくんだよ…良いね…あ、後それから…」

その言葉の途中でパンダは消えてしまった。
そして辺りは再び虫の鳴き声だけが響く月光の綺麗な夜へと変化したのだった。
僕はパンダが居た場所を見つめながら思っていた…。
てか…すんげえ中途半端なんだけど…。


………………
176 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:09:06.40 ID:VLnMOMfy0
朝、目が覚めると勿論僕の前にはパンダは居なかった。
まあそれは分かっていた。あれが夢かどうかは置いといて、こう言う場合のパターンでは決まって『え?あれって夢だったの』的な感じにする為に朝にはその存在が消えている。
それは知ってる。
僕は時計の針を確認した。時計は朝の五時を少し過ぎた時間だった。
いつも通り自分の体内時計には感心を覚える。
手早く布団をたたみ洗面所に向かい歯を磨く。

そして修行に出ようと玄関まで行った時にふと思い立ち居間に戻った。
そこには座布団を枕にして信一が眠っていた。僕は周りを見回し油性マジックを見つけると彼の額に住所を書いた。
ちゃんと迷っても家に帰れるね。
僕は笑いを堪えながらそのまま修行へと出かけた。

外に出ると少しひんやりとした空気が僕を迎えてくれた。そして朝の名物鳥の囀り。
外は既に明るく空は群青色をしている。もうすぐ太陽が完全に昇ってくる。
それを修行の場所で見ようと駆け足でそこへと向かった。
まだセミ達のBGMは始まっていなかった。代わりにカラス達がその役割を担ってくれている。
山道を抜けて修行の場所へと到着すると僕は海を見つめた。
東の海にはより一層その明るみを増した空が見える。やがてその明るみは真っ赤な太陽が頭を出す事によって更に明るみを増した。
僕はその光景を見つめながら修行を始めたのだった…。


177 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:10:15.24 ID:VLnMOMfy0


「おう、起きたか」

居間で目覚めた信一を見ながら僕は漬物をパリパリとする。

「…え?今、何時…?」
「もう八時だぞ。既にお前の為の朝飯も俺が食ってる」
「おい!辞めろよ!」
「嘘よ、ちゃんと信一ちゃんの分の朝ご飯あるからお食べ」

そう祖母が僕の頭を叩きながら言った。

「あ、おはようございます…じゃあご相伴に」
「その前に顔を洗ってきたら?達矢ちゃんの悪戯を消さないと」

叔母さんの一言に信一が慌てて洗面所に行くと叫び声が聞こえる。

「ぬああああ!やめろおおお!…て、消えねえし!」
「そりゃまあ油性だからね」
「お前油性は辞めろよ!せめて水性にしろよおおおお!」
「だって目の前に油性しかなかったし…あ、最後のウインナー貰うぞ」
「辞めろって!俺のウインナーだろうが!」

僕らが騒いでいるとドタバタと言う音がして階下に親戚のチビ共が現れた。
178 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:11:15.69 ID:VLnMOMfy0
「達矢にいちゃあん!」

そう言って僕の名前を呼ぶ。

「おう、チビ共おはよう!」
「おはよお。ねえねえ海行こう、海」

そう言って既にチビ達は水着を着て浮き輪を持っていた。

「おう!じゃあ行くか!…おおい!信一、海行くぞ!」
「いや、俺まだ朝飯食べてねーし…額の文字も消えてねえし!」

そう言って洗面所から額をゴシゴシしながら出て来た。

「んなもん泳いだら消えるよ…叔母さあん、連れて行くよお!」
「はいはい、日本一の高校生に見てもらったら安心だね…あ、」

そう言って叔母さんが信一を見て口を塞ぐ。
津村秀樹の事を思い出して信一に気を使いそうしたんだろう。

「…そうだな。日本一の高校生と…日本一速かった人の息子とで海に連れてってやるか…」

信一は叔母さんに気を使い敢えて笑いながらそう言った。
179 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:12:17.34 ID:VLnMOMfy0
「…ごめんなさい」
「いやいや、もう五年じゃないっすか」

叔母さんの謝罪を信一は笑って受け流す。コイツのこう言う所が…僕は好きだ。

僕は客間で水着に着替え、信一は一旦自分の祖母の家に着替えに行った。
水着に着替えた僕とチビ達は信一の祖母の家に行く。

「おっはよおおございまあああす!」

僕とチビ達が玄関で元気に挨拶をすると中から、奈緒と奈緒の母親が顔を出した。

「おはよお!朝から元気だね!」

奈緒がチビ達に笑顔で挨拶をする。

「奈緒…おはようの…チュウ」

僕が口を尖らすと奈緒は僕の口に熊の置物をくっつけた。

「アンタは無駄に元気だわ」
「無駄って何じゃい!」

僕は置物を外し玄関に置く。
180 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:13:07.68 ID:VLnMOMfy0
「ねえねえ、奈緒ちゃんも行こう?海ー」

チビ達が奈緒に言うと一瞬、彼女の目が泳いだ。

「…奈緒は良いじゃん、達矢兄ちゃんと信一のバカで連れてってやるよ」
「えー!奈緒ちゃんも行こうよお」

僕の言葉にチビ達は意見を変えない。強情だね。ガキは。
僕は奈緒をチラリと見るが奈緒は困っていた。

「奈緒は…あれだ。あのお、シミがな。うん出来やすいから嫌みたいなんだよ」
「シミ?」

チビの一人が不思議そうに尋ねる。

「シミはな、太陽の光りで出来るんだ。それを歳いった女は気にしだす。それが出来るともう二度と若返る事が出来ないんだ。そして…」
「もう良い!行きます!」

奈緒が慌てて俺の説明を止めた。何故だ。
181 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:13:52.66 ID:VLnMOMfy0
「奈緒ちゃん、行くのぉ!やったあ!」

チビ達が口々に喜びだした。
俺は奈緒を見る。奈緒は困った表情で笑っている。

「…おい、大丈夫か?」

僕の言葉に奈緒はまだ困った表情で笑いながら頷いた。

「まあ、浅瀬で足を付ける位なら大丈夫だし…」
「でも…」
「あんまり心配しなくても大丈夫だよ」

奈緒はそう笑う。

「けど…」
「大丈夫だって」
「いや…シミ出来ない?」
「…熊の置物で殴るよ」

奈緒は後で行くと言って僕らは信一と合流して砂浜に向かった。
182 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:15:03.64 ID:VLnMOMfy0
「あんまり心配し過ぎるなって…」

砂浜に向かう途中で信一がそう言う。

「…いや、でもさ」
「お前今までそんなに心配して無かったじゃねーか。どうした今日は」

信一の言葉に僕は何も言えなかった…。

…奈緒は水恐怖症とまでは行かないが、それに近い状態だった。
水に入れないのだ。正確に言うと腰から上を水につける事が出来ない。

一度学校のプールで浸かった時に顔面蒼白となり気を失ってしまったのだ。
勿論…これは生まれた時からではない。小学生の頃は僕より泳ぎが上手かった。
原因はあの津村秀樹が亡くなった事件だった。
海で溺れた事がトラウマになったのか、彼女の父親が海で亡くなった事がトラウマになったのかは定かではない。
しかし奈緒は強かった。
いつも「別に泳げなくても困んないし」と明るく言い放っていたんだ。
僕もそれにはいつも乗っかっていた。だから中学の時はいつも奈緒と浅瀬で遊んでいた。あの時は自信がまだ有ったんだ。
いつでも奈緒を助ける事が出来る自信がね。
だけど…。
183 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:15:44.63 ID:VLnMOMfy0
「達矢にいちゃーん、浮翌輪膨らませてえ」

チビ達の言葉に僕は笑う。

「よっしゃ!兄ちゃんはスゲえ膨らませるぞぉ。膨らませ過ぎて浮翌輪が宇宙まで行っちゃうぜ」
「そうなったらどうなるの?」
「まあ、宇宙飛行士が宇宙遊泳で使うんじゃね?」
「マジでえ!すげえ!」
「適当な事、言うなよ…」

信一が少し焦った顔をした。

「ぷはあっ!ダメだ、スンゲェしんどい…信一、シュコシュコ持ってない?」
「シュコシュコ?…ああ空気入れね。持ってねえよ」
「マジかぁ…信一、バトンタッチ」
「いや、お前水泳選手の癖に情けねえな」
「お前、二個もいっぺんに膨らませてみろ!チアノーゼ出るわ!」
「しゃーねーな…うわ、唾付いてる…」

184 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:16:47.83 ID:Yv50vCTj0
信一が膨らませ口を拭いて膨らませていた。
膨らんだ一個の浮翌輪を持ってチビが海に入って行くのを僕は砂浜で見つめる。
海からの風が心地よい。

…結局は。僕の中で何かが変わってしまったんだろうか?
僕は去年のインターハイを思い出す。あの日から何かが無くなっているのが分かった。
それが何かは分かっている。
自信だった。
信一が必死に浮翌輪を膨らませている。僕はそれを見ていた。
…何かが無くなって、別の物が膨らみ始めているのが自分で分かる。
それは不安だった。だから奈緒に対しても必要以上に心配してしまうんだ…。

「あ、奈緒ちゃーん!」

海に入っているチビが手を振って叫んだ。

「お待たせー」

振り返ると奈緒が水着の上にパーカーを羽織り、ホットパンツ姿で手を振っている。

「…嫌々」
「うん?」

僕の言葉に奈緒が首を傾げた。
185 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:17:52.72 ID:Yv50vCTj0
「何でパーカーを羽織ってんのよ…そんで何でホットパンツ履いてんの…」
「え?だって日焼けしちゃうし」
「脱げ」
「は?」
「大丈夫。日焼けしない様に俺が抱きつくから脱げ」
「おにいちゃーん!変態がいるー!」

奈緒が信一を呼ぶが信一は未だ真っ赤な顔をして浮翌輪を膨らませていた。

「いや、違うんだ奈緒」
「はあ?何が」
「そう言う意味じゃないんだ…脱げってのは」
「え?じゃあどう言う…意味?」
「エロい意味だ」
「その通りじゃない!」

奈緒の蹴りが僕の太ももに炸裂した。

「いったーい…奈緒が蹴ったよぉ」

うずくまる僕にチビ達が集まって来る。
186 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:18:39.16 ID:Yv50vCTj0
「達矢兄ちゃん、何で倒れてるの?」
「達矢兄ちゃんはね、悪い悪魔に取り憑かれてるの。エロと言う悪魔にね」
「うわあ、じゃあ倒さないと」

奈緒の言葉にチビ達が一斉に僕に砂をかけ始めた。
この裏切り者達め。浮翌輪を膨らませた恩を忘れたか。
ある程度砂をかけられた僕は起き上がり叫んだ。

「うおおおおお!仕返しだああああ!」

その叫び声に奈緒とチビ達がキャッキャッ言いながら海の浅瀬を逃げ回る。
なるべく深い場所に行かない様に僕が深い場所に入り追いかけ回した。

「プハー!おーい!膨らんだぞお!」

今頃、膨らませ終えた信一がドヤ顔でそう叫んだのでその表情にムカついた僕は信一の元へと走った。


187 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:19:43.86 ID:Yv50vCTj0
「タッチ!」
「いてっ!」

僕は信一の背中に思い切り手の平で紅葉模様を作る。

「何だよ!」
「次、お前が悪魔な!」

僕はそう言って海に逃げた。

「悪魔って何の悪魔だよ」
「エロと言う悪魔!」
「おい!ちびっ子と妹の前でヤメロ!」
「次は信一が悪魔だぞー!しかも大魔王だ!」
「うわあ!大魔王がくるー!」

僕の言葉にチビ達が逃げる。

「おい!そう言う意味の大魔王じゃないぞ!」

信一が叫びながら追ってきた。

「奈緒、君の兄上はエロの大魔王だ」
「おい!ヤメロ!大魔王じゃない!小悪魔位だ!」
「なんか…どっちもヤダ…」

奈緒が耳を塞ぎながら笑って逃げている。
どうやら、足までの水なら大丈夫そうだな…僕はそう思い水辺を走っていた…。

…………
188 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:21:16.10 ID:Yv50vCTj0
水中が好きだ。
特に海の中は最高だと思う。

僕は水深二メートル位の場所に肺に入った空気を全て吐き出し海底の砂の上に座り込む。
ゴーグル越しに見る海中の世界は海上の世界とは全てが違って見えた。
仄暗い海底にキラキラと地上から太陽の光が射し込んでくる。微かにザザザ…と言う音だけが耳に響いていた。
海底の砂に触るとサラサラと海中に散らばり、それも静かに再び海底へと戻っていった。
僕はそのまま海底に寝そべってみた。

息が不思議と苦しくないのは何故なんだろうか?
海面と言う空がキラキラ光、それが僕を不思議と落ち着かせる。
古代、生物全てがこの海からやって来た、と言う事が納得がいく。
地上に居る時よりも今、こうやって呼吸を止めて海底に寝そべっている時の方が自分らしくいられる感じがするからだ。
ポコッと言う音が時折耳に入る。何かの空気の音だろうか?
189 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:22:05.02 ID:Yv50vCTj0
とにかく全てが心地よい。
耳からの音。
海面からの光。
仄暗い海の色。
目の前にある鼻からワカメを出した信一…。
僕は思わず口を開けてしまい僅かな空気が出てしまう。急いで海面へと駆け上がる様に手と足を動かした。

「ブハアアア!」

海面に顔を出すと蝉と海水浴客達の声と風の音が一気に僕の耳に入る。先程までの静けさが嘘の様だった。
信一も目の前に上がってきた…ワカメを鼻に挿したまま…。

「おい!てめえ体を張って笑かすんじゃねええ!」
「いや、ちゃんと生きてるかな?って思って」
「危うく死に掛けたわ!」
190 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:23:04.83 ID:Yv50vCTj0
僕は海から上がると奈緒がいるパラソルの下に入った。

「ああ〜疲れた〜」

携帯を弄っている奈緒が黙ってコーラの入ったペットボトルを渡してきた。

「サンキュ…ってあっつう!」

僕はコーラを噴出す。
奈緒がクスクス笑った。

「ずっと太陽に当てときました」
「てめえ、やめろよ!ホットコーラじゃねーか!」

奈緒は僕のその姿を笑いながら携帯で撮影していたので取り合えず海パンをずらしてみたら奈緒がペットボトルを投げつけてきた。

「海に来てまで携帯かよ」
「だって、ラインが来るもん」
「やだねえ、現代っ子は」
「アンタは携帯がしょぼいからでしょ」

奈緒の言葉に僕は何も言わずに黙って寝そべる。
191 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:24:39.81 ID:Yv50vCTj0
奈緒は僕をチラッと見ると携帯を弄るのを辞めそれを置いた。
海からの風が心地よい。
ここは余り海水浴客がいない。入り江になっていて波も穏やかで透明度も高く砂浜も綺麗だから超穴場スポットだ。
だが、やはり夏休みなのでそこそこに海水浴客がいた。

奈緒は…僕の携帯が自分の父親の遺品だという事を知らない。僕も敢えて言う必要が無いと思っていた。
だけど、それを馬鹿にされると少し気分が悪い。例え遺品をくれた人の娘だとしてもだ。

「…ちょっと怒ってる…?」
「何が?」

奈緒の言葉に僕は海を見たまま答えた。

「…それ位分かるから」
「流石は…幼馴染」

俺の彼女…と言おうとしたが少しばかりむくれていた僕は言葉を変えた。

「…う〜ん…夏だねえ」

奈緒が伸びをしながらそう言う。

「八月だぞ、今が冬だったらキュウリ農家の人が困るだろうが」
「…もう…いつまで怒ってんのよぉ」
「怒ってねえよ」
「怒ってんじゃん…」
192 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:25:31.15 ID:Yv50vCTj0
「はあ?!怒ってねえよ!俺が怒ったらアメリカ人女性ばりに唾を吐いて話も聞かずに海の水飲むわ!」
「…何それ?」
「…何か雰囲気だ」

そう言って手元のコーラを飲んだ。そして吐き出した。

「ブハッ!あつううううい!」

それを見て奈緒が噴出す。
僕も釣られて笑ってしまう。

「何か達矢は変わんないね…ホントに」
「え?」
「昔っから…変わらずに馬鹿だね」
「ほっとけ!」
「いや、褒めてんの」
「…お前、万人が聞いても今の褒め言葉じゃねーぞ…」

奈緒が立て膝に頬をつき僕を見てクスクス笑っている。彼女のセミロングの髪が頬に張り付いていた。
その姿に僕はいつもドキドキする。

「いっつも喧嘩しても達矢が馬鹿やって…それを忘れて笑っちゃうもん」
193 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:26:18.04 ID:Yv50vCTj0
「…うるせえよ」

僕は何故かその奈緒の姿から目を逸らしてしまった。

「でも…変わった…かな?」
「え?」

僕は再び奈緒を見た。彼女の頬にある小さなホクロが目に入る。僕の一番好きな奈緒の部分だ。

「小学生の頃はさ…私より背が小さくて、泳げなくて、勉強も出来なくて一人でいつもヒーローごっこばっかりしてたのに…」
「だから黒歴史を紐解くのはやめろ」

僕の言葉に奈緒がクスッと笑う。

「でも…いつの間にか私より背が高くなって…泳げる様になってもんね」

僕は軽く頷いた。

「ねえ覚えてる」
「うん?」

奈緒が体勢を変えて僕に向き直った。
194 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:27:17.16 ID:Yv50vCTj0
「中学入学した時にさ、クラスで中学生活の目標とか言わされたじゃない?」
「ああ…なんかあったな」
「あの時皆は『部活をがんばる』とか『勉強をがんばる』とか言ってたのに達矢一人だけ『水泳で日本一になります!』って言って皆が笑ったじゃん」
「マジで?俺そんなん言った?」
「言ったよ…皆があの瞬間にアンタの事を馬鹿って認識したらしいよ」
「うおおおおい!」

奈緒の体勢が上半身を捻って僕を見ているのでパーカーの隙間から彼女水着が見える。
これはこれで良いかも、僕はそう思う。

「…でも、中三の時に、全国大会まで行っちゃったからさ…皆ビックリしてた」
「まあ、日本一には成れなかったけどな」
「私が一番ビックリしたけどね…」

奈緒がそう言いながらも少し嬉しそうに語るのが僕も嬉しかった。

「高校もさ…水泳の強豪校に行くのかと思ったら…私らと同じ公立高校だからビックリ…」

確かに奈緒はビックリしていた。一応ウチの学校は県下でも有数の進学校だ。
195 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:28:03.82 ID:Yv50vCTj0
「達矢の成績じゃ絶対に無理って言われてたもんね」
「合格発表の時の先生達の顔が面白かったわ」
「おばさんとおじさんが泣いてたよ」
「ウチの母ちゃんがアレで一瞬宗教に嵌り掛けたのがやばかった」
「奇跡って騒いでたもんね」

奈緒が手を叩いて笑う。

「…で、高校一年でインターハイ優勝…か」

奈緒が体勢を変えて再び海を見つめた。
僕は奈緒の水着が見れなくなって残念に思う。

「…達矢の人生って凄いね。なんか」
「彼女として鼻が高いだろ」
「幼馴染として」

奈緒が訂正する。そこは素直に頷いとけ。
196 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:29:56.67 ID:Yv50vCTj0
「でも、凄いよホントに」

奈緒の言葉に僕は口を閉ざした。
凄い…か。
お前の父親の方が凄い…僕はそう言いかけていた。

そもそも、僕が水泳を始めたのは奈緒の父親…津村秀樹に言われたのが始まりだった。
小四の時にどうしてもドルフィンブルーになりたかった僕が彼に相談すると「じゃあ、水泳を習え。彼は誰よりも泳ぐのが速いんだ」そう言われたからだ。
だが、泳げない僕は苦労した。小四なのに幼稚園以下の子供達と一緒のクラスのスタートだったからだ。
でも、泳ぎたい一心で…いやドルフィンブルーになりたい一心で頑張った。津村秀樹にもよく教えて貰った。
そのお陰で僕は少しずつ水泳教室のクラスを上げていったんだ。

そして、ある日僕は津村秀樹に言った。
「誰よりも速くなりたい」、と。
彼はその時に言ったんだ。
「じゃあ、いつか五十秒の壁を超えろ」ってね。
でも、正直あの時は、そう成れたら良いな、って感じにしか思っていなかった。
だけど、彼の死と彼が最後に僕に託した、彼の代わりに奈緒を守る、そして自分を信じろ…そう言われてから僕は変わったと思う。
本気で日本一を…そして五十秒の壁を破る…そう決めたんだ。
津村秀樹を越えないと僕は彼の代わりに奈緒を守る事が出来ない…そう思ったからだ。
だけど…去年、僕のそれは打ち砕かれた…そう思う。
197 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:31:20.07 ID:Yv50vCTj0
あの日から全てが遠い世界に行ってしまった気がする。
あの日までは、もう少し…あと少しで届くと思っていた。
でも、それは違ったんだ。
『限界』
その文字が頭に浮かんでしまっていた。

それは水泳だけじゃない。ヒーローに…ドルフィンブルーになる事もそうだ。
勿論、僕も高校生だ。だから物事をリアルに考えて、ドルフィンブルーに成れない事は理解している。
だけど心の奥底には信じていた。自分がドルフィンブルーじゃなくてもヒーローになる、と言う事を。
でも去年からはそれすらも何か靄が掛かっている様に感じていたんだ…。
だから、昨晩…いや、今朝か。パンダが現れた時には興奮したんだが…。

「夢だったんかな…やっぱり」
「え?」

僕の独り言に奈緒が反応した。
僕は少し笑いながら首を横に振る。

「…ねえ」
「うん?」

奈緒が再び声を掛けた。
198 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:32:12.73 ID:Yv50vCTj0
「…辞めちゃうの?」
「…うん?」

奈緒が僕を見つめる。

「…水泳」
「え?何で?」
「何となく…」

僕は奈緒が見つめる視線を逸らした。

「…どうなんだろうな」

僕はそれだけ言うと口を閉ざした。奈緒もそれ以上聞かずに黙って視線を海へと向ける。
海では浮翌輪に浮かんでた信一がチビ達にひっくり返されて笑われていた。
何やってんだアイツは。

「…結構、人気あるよ。水泳やってる達矢は」

奈緒が沈黙を破った。

「…私が知ってる限り四人に告られたでしょ?」

奈緒は悪戯っぽく笑う。
手紙を貰ったのを入れると十人はいたね。

「…去年は俺の株価がストップ高だったみたいだわ」

僕も笑いながらそう答えた。
199 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:33:06.20 ID:Yv50vCTj0
「…それでも…辞めちゃうの…?」
「別にその為に泳いでる訳じゃねーしな」

そう言った後に、これじゃあ辞めるって言ってるのと同じだと思った。
奈緒は軽く「ふーん」と呟くが僕は海を見ていたので彼女がどんな表情をしているのか分からなかった。

「…じゃあ女子から告られて…嬉しくないの…?」

僕は奈緒を見る。彼女は膝を抱えて顎をそこに置いて僕を見つめていた。

「…決まってんだろ」
「…え?」

そう言って僕は奈緒を見つめ軽く笑う。奈緒も目を逸らさずに僕を見つめ返していた。

「俺はお前以外に『好き』って言われても嬉しくないよ」

その言葉に奈緒の頬が少し赤く染まるのが分かった。そして抱えた膝に顔を埋める。
僕はそのまま奈緒を見つめていた。
200 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:33:52.19 ID:Yv50vCTj0
「なあ」
「んー…」

僕の言葉に奈緒は顔を埋めたまま返事をする。

「…今のさ…グッと来たよね?絶対」
「はあ?」

奈緒が顔を上げる。

「今、お前あれだろ?『何で達矢ってこんなに私をドキドキさせるの?』って思ってるだろ?」
「はあ??思ってないし!」
「いや、今の絶対思ってたじゃん!」
「私は、達矢ってホントにストーカーでキモいって思っただけです!」
「嫌々嫌々!今のは絶対キュンって来てたじゃん!顔を埋めてたじゃん!」
「思ってない!思ってない!…て、言うかそう言うデリカシーが無い所がアンタの馬鹿な所なの!」

奈緒が僕にタオルを投げ付けて来た。

「ったく…照れ屋なんだから」
「…ホントに…バカ」

奈緒はむくれて携帯を弄りだした。
どんだけ携帯好きなんだよ。
201 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:34:36.30 ID:Yv50vCTj0
「お前、携帯弄り過ぎだろ」
「うるさいなぁ、普通でしょ」
「お前の本体かよそれ」
「はあ?」
「いや、それでお前の行動を操ってるのかと」
「つまんない」

うるせえ。

「おーい、達矢ー奈緒ー」

そう言ってフラフラしながら信一がパラソルに来た。

「ちょ、交代」

信一はそのままビニールシートに寝転がる。

「おいおい体力ねーな」
「お前、俺もう二十歳のおっさんだぞ。お前らみたいな体力有り余ってる高校生と違うんだよ〜」
「仕方ないなぁ、お兄ちゃんは…じゃあ行こう達矢」

そう言って奈緒が立ち上がった。

「良いよ、俺だけ行くから。お前は携帯で自分の操作確認しとけよ」

奈緒が僕の背中に手の平の紅葉を作った。
202 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:35:54.15 ID:Yv50vCTj0
「良いから!はい立って!」

僕の腕を掴んで立たせた奈緒は僕の左手を握った。
僕の鼓動が少し音を立てる。

「じゃあ行こう!」

奈緒が笑顔でそう言うと僕の手を引き砂浜を駆け出した。僕は奈緒と手を繋いだまま砂浜に足を付ける。

「アチッ!」
「ホント、メチャクチャ熱い!」

砂の熱が僕らの足の裏をジリジリと焼き付ける。

「よし、奈緒!ダッシュだー!」

僕は奈緒の手を握り締めたまま砂浜を走った。
奈緒も笑顔で走る。
波打ち際まで来ると一気に海水に足を付けた。温まった海水が僕らの足を包み、足の裏の火照りを緩やかに溶かしていく。
そのままの勢いで二人で笑いながらバシャバシャと浅瀬を走った。

「奈緒ー!」

水が太もも辺りに来た時に僕は振り返って走って来る奈緒を…抱きしめた。

「ちょ、達矢…」

奈緒は一瞬抗ったが、そのまま僕に委ねる様に自分のアゴを僕の肩に乗せる。
203 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:36:37.30 ID:Yv50vCTj0
「…なーに、これ?」

奈緒の囁きが僕の耳をくすぐった。

「ちょっと…抱き締めたかったから」
「…バカ」

そう言いながらも奈緒は嫌がらない。

「…奈緒の」
「…うん?」
「奈緒の胸が…柔らかい」

そう言った瞬間に奈緒は僕から離れ、僕を突き飛ばした。そのまま僕は仰向けに海に倒れる。

「ブハアアア!いきなり押すんじゃねえええ!」
「また、エロの悪魔に取り憑かれてたから」

海から立ち上がり僕が叫ぶと奈緒はクスクス笑った。

「男は皆、エロの大魔王だよ」
「え…何で真顔でそんなキモい事言うの?」



僕らの頭上には抜ける様な夏の青空が広がっていた…。
204 :1 ◆sfGsB21laoBG :2016/08/11(木) 18:37:53.29 ID:Yv50vCTj0
第三章の途中ですが一旦切ります。
読んで下さっている方々ありがとうございます。
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