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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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651 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:03:44.81 ID:z5kRHM0CO
8.楽しかったよ、息子たちを見てるようで


「機械に体をはさまれたのです」と訪問者はやっとのことで、低い声で言った。
「機械に体をはさまれた」とホワイト氏は鸚鵡返しに言った。「そうですか」
         ──W・W・ジェイコブズ「猿の手」


 暗闇を亡霊の群れで満たしてしまう夜が恐かった。亡霊たちと顔をつきあわせるのが恐ろしかった。
         ──フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』


あの緊急な際に、僕がやりえたことといえば、ブレイクの《落ちる、落ちる、無限空間を、叫び声をあげ、怒り、絶望しながら》という一句を思い出していただけだから
         ──大江健三郎「落ちる、落ちる、叫びながら……」



 暗殺リストの九番目に記載されたNAKATOMI 医科工業の高木義信の都内にある一戸建ての自宅は最近改築をしたばかりで、警察の厳重な警備に守られていたが、自宅周辺に立っている警察官はひとりもいなかった。四台あるパトカーの回転灯は点けられていなかったので、このあたりに見える赤い色は、玄関の明かりと街灯に照らされて鈍く光を跳ね返している血溜まりだけしかなかった。つい先週までは湿気に寝苦しい蒸し暑さだったのに、いまでは夜になると一気に冷え込み肌寒さを感じるほどに気温が下がったのは、黒い陥没を連想させる血の跡が地下の奥深くまでつづいているように見えるのと、反射部分がどこまでも白く光っているせいだった、その不気味な照り返しはそう思わせた。極端な明暗の対立は、無化を呼び込む。ガレージに転がっていたり道路にはみ出ている死体からの出血は胸部と頭部から。胸には銃弾が二発、頭には一発、正面から撃ち込まれている。胸部の着弾箇所は位置がとても近く、犯人がとても精確な射撃技術を持っていることを物語っている。
652 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:05:31.77 ID:z5kRHM0CO

 血溜まりは家のなかにもある。カーペットや壁紙、ドアや家具などに血が飛び散っているのは、屋外の銃撃戦を聞きつけた護衛の警官が応戦のため動いているところを撃ったからだ。至近距離での銃撃戦によって、部屋のなかはものが散乱していた。家具はもとあった位置からおおきくずれ、ランプや椅子は倒れている。観葉植物の葉っぱはところどころ赤い。

 部屋の中央に帽子を被った男──佐藤が立っていた。撃ち殺したばかりの標的を見下ろしたのは一瞬だけ、首を左に動かすと、月の光が射し込んでいるキッチンのほうへ視線を向けた。りりりりり、という虫の音が聴こえた。

 佐藤はなにかを待っているかのように静かに立っていた。が、しばらくすると、もうなにも起きないことがわかった。佐藤は拳銃をホルスターにおさめると、何事もなかったように殺害現場をあとにした。

 リストに残っている名前は、残り七人となった。


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653 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:06:47.60 ID:z5kRHM0CO

 佐藤と戦うにあたってまずしなければならないこと。最低限の戦闘行動がとれるようになるための身体づくり。

 何年かまえに廃業した宿泊施設はトレーニングにもってこいの場所だった。ここは亜人管理委員会が所有している施設で、主に黒服たちが仕事や訓練をするときに使う場所だ(つい最近ここで行われた仕事はオグラを拷問したことだった)。屋内は作戦行動時を想定した訓練が可能だし、芝生におおわれた裏庭は開けていて、あらゆる基礎トレーニングにうってつけだ。それに加え、訪れる者がだれもいないような山奥の施設なので、秘密裏に人間を収容しておくのにもうってつけだった。

 永井にとって想定外だったのは、自分も基礎トレーニングに参加させられたことだった。


永井「なんで、僕が……こんなこと……」


 手を肩幅より広げた腕立て伏せは、腕が細く薄い胸板をしている永井にはつらい運動だった。プルプル震える腕で身体を持ち上げようとするが、肘の角度が九十度をちょっと越えたところで限界をむかえ、永井は両腕を前に投げ出しながら地面に倒れた。むわっとする草のにおいが鼻をついた。
654 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:07:46.21 ID:z5kRHM0CO

中野「二十回もやってねーぞ」


 隣の中野は順調に腕立て伏せを続けていた。始めてすぐにフォームを修正されたので、いまでは腕に相当の負荷がかかっているはずだが、ペースはいまだ落ちない。


永井「僕はホワイトカラーなの」

平沢「適材適所は認める」


 監督役の平沢が言った。


平沢「だが四十日前のデータより体重が四キロも増えてる。それだけは落とせ」


 永井の愚痴めいた言い訳に平沢の指摘がはいった。指導者然とした態度。トレーニングトップからのぞく上腕二頭筋は太く鋼のように固そうだった。胸元に「群」という字がちいさくあった。


永井「ブラック企業ってこんな感じかな」


 永井は伏せたまま、組んだ両腕にあごをのせながら不満をこぼしただけで、腕立て伏せを再開しようとしなかった。その様子を屋上から監視していた戸崎が注意した。


戸崎「永井圭! しっかりやれ」


 声に刺があるのは、永井が従順な態度を見せなかったからだ(そのかわり中野は素直だった)。とはいえ、永井がそういった態度をみせたとして、戸崎は企みがあるのだろうと警戒したにちがいなかった。
655 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:09:39.07 ID:z5kRHM0CO

永井「あーあ! 殺しときゃよかったなー!」

戸崎「ホルマリン漬けにするぞ」


 永井が大声で嫌みをいうと、戸崎も皮肉を返した。


永井「ひどいやつ……」


 時刻は午前十一時。九月の初旬、まだ夏日。日差しが強く、風のない日だった。気温が高く、蒸し蒸しする。すでに汗だくで、顔から出た汗が鼻の先や顎をつたって草の上に落ちていった。はるか上空では旅客機が白い尾を引いて、空に浮かぶ雲が引っ張られるかのように飛行機雲のところへ移動していた。

 永井は腕立て伏せを再開した。すぐに腕が震えだしたが、戸崎からの文句にうんざりしていたので、なんとかして肘を伸ばしきった。

 ノルマを終えた中野が無邪気に平沢と真鍋と談笑していた。打ち解けた雰囲気で、真鍋にいたっては笑いながら中野に受け答えしている。

 永井は腕立てをつづけながら、その様子を横眼で眺めていた。

 トレーニングを終え、昼食をとったあと、自販機の前で中野とたむろっていると下村に声をかけられた。

 永井は機械的に「なんですか?」と返事をした。横にいる中野は真剣な面持ちで下村をじっと見つめている。
656 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:10:59.69 ID:z5kRHM0CO

下村「会わせたい人がいるの。ついてきて」

永井「はい」

中野「ハイ……」


 普通に返事をする永井にたいして、中野の声は消え入るような静かな声だった。真面目くさった表情で下村の背中を見つめつづけている中野は、緊張がやどった足取りであとをついていく。


永井「なんだ、どうした?」


 永井が怪訝そうに訊いた。


中野「あのひと……」


 中野はそこで言葉をきり、息をのんで永井のほうに顔を向けた。


中野「すげぇきれい」


 うすうす予感していたことだが、やはり中野はしょうもないことしか考えていなかった。


中野「戸崎さんとデキてんのかな」

永井「それはないと思うぞ」


 永井は即座に否定の言葉を口にした。
657 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:13:25.06 ID:z5kRHM0CO

永井「だってあのひと、亜人だろ。病院であの人だけ耳栓してなかったからな」

中野「彼氏いんのかなあ」

永井「……ていうか、おまえ、あのアナスタシアってやつにはそんな反応しなかっただろ」


 さすがの永井もアナスタシアや下村の容姿が秀でていることは認めていた。永井にとって、彼女らの容姿は客観的事実にとどまり、感情に作用することはなかったので、中野がなぜ下村にだけ魅力を感じているのかわからなかった。


中野「だって、アーニャちゃんはまだ子どもだし。それにアイドルって恋愛禁止だろ?」

永井「バカのくせにものわかりはいいんだな」

下村「なにしてるの? はやく来て」


 案内されたのは壁紙もまともに貼られていない空っぽの部屋で、四隅から柱が直角に突き出していた。ここまで殺風景だと、不快なちいさな生き物の姿を見る心配はなさそうだ。中央にソファとサイドテーブルがひとつ、その前にプラスチック製の丸椅子が二脚あり、その安っぽい丸椅子は永井と中野のためのものだった。サイドテーブルにはタバコとライターと灰皿と資料が置いてあった。それらはソファに腰かける男のものだった。男はサイドテーブルに手をのばした。資料を取った手は包帯に巻かれていた。薬指と小指のあたりがきつく何重にも巻かれていて、その二本の指が失われていることは一目でわかった。


オグラ「永井圭……公式では国内三例目の亜人」


 オグラは資料をめくりながら言った。
658 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:14:37.68 ID:z5kRHM0CO

永井「オグライクヤ……」

中野「おれは中野です」

オグラ「亜人はおもしろい。無意味な人の一生にも価値はあるのだとほのめかしてくれる」

中野「あの、中野……」

オグラ「吸っていいかな?」


 そう尋ねたときすでにオグラはタバコを口に咥えライターを手に取っていた。


永井「すみません、苦手なんで」


 オグラはタバコに火を点けた。


オグラ「永井くん、人はなぜ死ななければならないと思う?」


 戸惑いと不快な眼差しで喫煙を見つめる永井をまったく無視して、オグラは質問を口にした。そして、永井が答えるまえにすぐに自分で答えを口にした。


オグラ「宇宙がそう決めたからだ」


 永井は顔をひきつらせた。宇宙とか言い出しやがった、という困惑の表情を隠そうともしなかった。亜人になって以来、おそらくもっとも困り果て、途方にくれていた。
659 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:17:29.50 ID:z5kRHM0CO

『オグラさん、御託はいい』


 対面するオグラと永井を真横に捉える位置に三脚にすえられたHDカメラが置かれていて、戸崎の声はそこから聞こえた。


オグラ「カメラの向こうの田崎くんがいうには、きみのIBMはすこし変らしいな」

『トザ……トサキです』

オグラ「出してみろ」


 オグラの指示に永井も中野も驚いた。


永井「死ぬかもしれませんよ?」

オグラ「煙草のパッケージか、おまえは」

下村「いいんですか?」


 様子を監視している下村が戸崎に尋ねた。戸崎は無言で事態を静観することに決めているようだ。


中野「ダメだって!」

オグラ「黙れ! 患者を診ずにカルテが書けるか」

永井「どうせ見えないでしょ?」

オグラ「殺す気でこい」
660 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:18:41.57 ID:z5kRHM0CO

一瞬の間もおかず永井はIBMを発現した。


オグラ「形状はプレーン。くっきり見えるな」


 殺意が実体となって目の前に現れても、オグラは平然とタバコを吸っていた。タバコの先が赤くなった。永井のIBMは頭をオグラのほうへ突きだし、赤い点を注視しながらぶつぶつと要領の得ないことを呟いている。


オグラ「命令してみろ!」

永井「なにを?」

オグラ「動物飼ったこともないのか?」

永井「おすわり?」


 IBMがぐるんと腰をひねった。腕が伸び、中野の胸元に黒い手が槍のように突き刺さった。


中野「なんでおれ……」


 貫通した指が壁にも突き刺さり、中野は磔にされ、足が浮いた状態になっていた。


オグラ「自走……しかも命令を完全無視か」


 オグラはタバコの灰を落としながらいった。永井も同じところを見ながら、自身のIBMの性格というものがだんだんわかってきたと感じていた。
661 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:20:16.24 ID:z5kRHM0CO

オグラ「アイオワの農家の亜人が似たような事例だった」


 オグラが話し出し、永井はそちらに向き直った。中野は磔にされたままだったが、二人ともそちらを気にもせず、会話に意識をむけていた。


オグラ「最初のうちはIBMに草むしりなどの単純作業をやらせていた。だが数年後のある朝、自発的にコーンの刈り入れをしていたそうだ。トラクターを操縦してな。きみの場合、長いことほっときすぎたことが原因だな」

永井「一ヶ月くらいまえですよ? はじめて出したのは」

オグラ「いや、きみはもっと昔からだ。多分、幼少期」


 オグラの指摘は永井の無防備だったところを衝いた。幼少期という言葉が、その頃に体験した死についての記憶を呼び起こした。

 飼い始めてすぐに死んだ子犬。父と姉と別れて暮らし始めたときに飼い始めてすぐに死んだ子犬。 

 その亡骸を段ボール箱のなかにそっと入れ、妹といっしょに川辺まで歩いていってそこに埋葬したのだ。妹は泣いていた。永井も悲しくはあったが、死という現象、その存在について疑問に思う気持ちのほうが強かった。


 別、に……死な……なく、ても……。


 永井は考えていたことを声に出したのかと思ったが、そうだとしてもたどたどしい発声になるはずなく、だとしたらこの声はなんだと思い、背後の土手のほうを振り返った。

 そこに黒い幽霊がいたことを永井ははっきり思い出した。

 永井はふと、自分は、産まれたときにはすでに死んでいたのだろうかと思った。
662 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:22:46.95 ID:z5kRHM0CO

中野「あっ、やばい!」


 見ると、IBMがオグラに襲いかかろうとしていた。振りかぶる腕を部屋に飛び込んできた下村のIBMがとめた。三角頭のIBMは左腕をバットのスイングのように振って永井のIBMの頭を砕き散らした。


下村「ふぅ」


 下村が安堵の息をもらした。オグラが永井にIBMの発現を命令したとき、下村はすぐに部屋の前までやってきて、待機していたのだ。


オグラ「ほっとけ! 五分十分で消える」


 間一髪で命を助けてもらったにもかかわらず、オグラの表情はうまくもなく不味くもないタバコを吸っているときとまったく変わらなかった。オグラは吸いおわったタバコを灰皿にひねり消し、あたらしい一本を取り出した。

 その平然とした態度に、下村は戸惑いとわずかに得体のしれなさを覚えざるをえなかった。たとえ亜人でも、命にたいしてここまで無意味に振る舞える者はそういないだろう。

 オグラは醒めきったニヒリストだった。命に対する虚無的な視線は生まれ備わったものであるかのようで、人間も白蟻も生きているという点では同じ命で、その生命のメカニズムに差異があるだけ。

 しかも複雑単純といったと差別化は願望であって本質をまったくついていない、オグラは態度で示しているようにみえた。

 理解しがたいのは、その無意味さの範疇に自分の命も含めていることだった。

 永井はそんなことも露知らず──というより関心を示さず──オグラの発言に驚きを示した。


永井「え?」

オグラ「あぁ?」

永井「いや……森のなかでいろいろ調べたときは、三十分もったこともありましたよ」


 オグラが眼をみはった。この男にも感情があることがはじめてわかった。その証拠は動作にも現れていた。火を点けようと持ち上げたライターを持つ手を途中でとめ、タバコを口に咥えたまま、オグラは永井に質問した。
663 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:26:44.42 ID:z5kRHM0CO

オグラ「連続で何体出せた?」

永井「五体。調子がよくて九体だったかな」

オグラ「ハハッ。異常だ」


 あっさり言ってのける永井に対して、オグラの表情にさっきよりもおおきな驚愕がはっきり浮んだ。好奇心に輝いている。


オグラ「異常なくらい、IBMが濃い」


 オグラは内心で高揚しながら言った。


永井「幽霊が、濃い?」

オグラ「“Invisible Black Matter”。もとは亜人の放出する黒い粒子を指す」

永井「佐藤さんもそんなこと言ってたな」


 永井は研究所で初めてIBMの発現を視認したときのことを思い出していった。そのとき佐藤は永井が放出していた黒い粒子の量にあきらかに戸惑っていた。黒い粒子は天井のほとんどを覆いつくさんばかりだった。

 眼の前で繰り広げれる会話に中野はついていけなかった。永井がひとりごち、会話が中断したところで、中野は自分の胸元を見やった。Tシャツが大きく破れて血だらけになっている。


中野「おい永井! 汚れたぞ!」

永井「ブルーカラーは慣れっこだろ」

中野「赤だろ!」


 真面目な抗議と不真面目な回答は漫才みたいだった。二人の受け答えを無気力に眺めながら、オグラはようやく二本目のタバコに火を点けた。


オグラ (五年十年でその濃度はあり得ない。いや、期間だけが問題じゃない。人間の自我・心の発育段階によっても変わってくる)


オグラ「きみはいつから亜人なんだ?」


 オグラは紫煙とともにぽつりとひとりごちだ。
664 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:27:58.81 ID:z5kRHM0CO

 オグラとの面会を終え、すこしのあいだスケジュールに暇ができた。とくにやることもなく、永井は用意された自室で身体を休めていた。

 永井は寝つきがいいほうだった。頭を枕にあずけ、意識を後頭部に向け、それから枕、ベッド、床へ、意識は地面を突き抜けて地下を掘って、やがて水脈へと辿り着く、そういう垂直に沈みこんでいくイメージを眼を閉じて想像すると、すやすやと寝入る。

 三十分の仮眠から眼覚め、永井は更衣室へとむかった。歩きながら、オグラから言われたことを思い返す。


永井「僕は佐藤さんたちより多くのIBMを出せるのか。作戦に組み込めるかな」


 永井はアナスタシアのことに考えを移した。

 アナスタシアは日に二回、IBMを発現できた。そのときは比較対象が自分しかなかったから、アナスタシアの発現回数が平均的なのか少ないほうなのかわからなかった。いまでは、通常IBMは日に一〜二回しか発現できないとわかっている。

 永井はアナスタシアは戦力として充分機能すると考えた。とはいえ、いつ実行されるともわからない作戦へどうやって参加させるか……。

 永井は更衣室のドアを開けた。
665 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:28:52.54 ID:z5kRHM0CO

 正面に真鍋がいた。手に麻酔銃を持っている。いままさにまっすぐまえに構えようとしている。


永井『止まれ!』


 とっさに亜人の声をつかった。

 更衣室にいた黒服たちはまるで雷に打たれでもしたかのように動きを止めてしまった。黒服たちの表情は驚愕に固まっていて、唯一動ける中野の顔にも同じ驚愕が浮かんでいる。


永井「ん?」


 永井は訝った。もしかたしら、自分は早とちりをしたのかもしれない……


中野「おい永井!」


 中野は憤慨しながら永井を男子トイレまで引っ張っていくと、肩を掴んでいた右手をぶんと振り回し、永井を壁に投げつけ叫んだ。


中野「ちょっとおかしいんじゃねーのか!? 撃ち方教わってただけだろ!」


 タイルが貼られた壁に勢いよくぶつけた肩はかなり痛むはずだが、永井はかばうそぶりもみせず、鋭い射るような視線で中野を睨み付け、怒鳴り声を返した。


永井「おかしいのはおまえだ! 黒服と友達ごっこしてんじゃねえ!」

中野「はぁ!?」

永井「戦いになったとき邪魔だけはするなよ」
666 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:31:37.19 ID:z5kRHM0CO

 永井は声を低めたが、刺すような視線は相変わらずだった。永井はどうせ理解しがたいだろうがと思いながら、黒服と組むことのメリットについて説明をはじめた。


永井「あいつらのスキルのひとつは『ちゃんと死ねる』ってとこだ。これは僕らにあって佐藤にない。捨て駒として作戦に組み込めるかもしれないんだ」

中野「ふざけんな!」


 捨て駒という言葉を聞いた途端、中野は激昂した。瞬間的な怒りはすぐに悔しさにも似た感情に変わり、中野はすがるような声を絞りだし永井に問いかけていた。


中野「おまえ、人を大切に思ったりはしねーのかよ……」

永井「ない」


 永井は冷酷に言い捨てた。

 中野は顔をあげ、きっと睨み付けると、さっきよりはるかに強い口調で問い詰めた。


中野「じゃあニュースでいってたあの人は!? おまえの逃走を手伝ってくれた友達はどうなんだよ!」


 永井は言葉につまった。海斗のことを訊かれるとは思っていなかった。友達のことは胸の奥にしまいこんでいたから、だれにも、とりわけ中野にそのことを衝かれるとは考えてなかったのだ。

 永井は一瞬眼を伏せ、そして視線をもとに戻し、いった。


永井「いらないよ、もう」


 その声は感情の混じりがないフラットな響きだった。
667 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:32:52.66 ID:z5kRHM0CO

永井「平時なら別。だがこんな状況になっちゃあ、何の役にもたたない。何かするメリットもない」


 永井は自分の声がだんだん冷え込んであくのを感じた。話を聞く中野も永井の声と同様に感情が冷え込み、無表情になっていた。


永井「どんどんクッキリしてく。余分な感情は状況を悪化させる。情にすがったって窮地は好転しない。ほんとうは、昔からわかってたさ」


 永井はこれまでずっと必要であればそうしてきたように、感情を切り分けて、言った。


永井「心に流されれば身を滅ぼす」


 中野はもう無表情ではなかった。眉を寄せ、永井を怒りを込めて睨んでいた。はっきりと嫌悪の表情を浮かべていた。そしてそれは永井も同様だった。


中野「クズが」

永井「バカが」


 永井も中野も互いにを軽蔑し、罵りあった。

 トイレの中は灯りがついていて明るかった。縦に長い四角いドアのない入口から薄暗い廊下に黄色い光がはみ出している。光のすぐ側に平沢が立っていた。ジャケットの前を開け、片手をズボンのポケットに突っ込んだ姿勢で、平沢は二人の対立を耳にしていた。

 平沢は止めにはいるでもなく、なにかを考えているかのように佇みながら、光に淡く照らされていた。


ーー
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668 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:40:34.67 ID:z5kRHM0CO

 一夜が明け、今日もオグラはマイルドセブンFKを吸っていた。

 昨夜は大雨が降り、あたり一面をすっかり湿らせ、屋外の喫煙スペースの庇に覆われていないコンクリートの部分は日差しに照らされているいまも黒いままだった。

 雲が多く風が強い、太陽の光も弱い。太平洋側の高気圧が南に去り、北から寒気が南下してくるので、天気予報では明日もまた雨になると言っていた。台風の季節だ。

 オグラは雨に匂いがする大気にタバコの煙を吐き出した。白い煙が漂い、溶けていくようになくなった。


永井「オグラさん、ちょっといいですか?」


 永井がベンチに座って火を点けたばかりのFKを吸っているオグラに呼びかけた。オグラは永井に振り向きもせず、言った。


オグラ「タバコはやらんぞ」

永井「いりませんよ」

オグラ「こいつはおれのテロメアだ」

永井「ああそうですか」


 灰皿をあいだに挟むかたちで永井はもうひとつのベンチに腰かけた。
669 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:42:01.66 ID:z5kRHM0CO

永井「昨日いってた僕のIBMの話」


 まだ警戒を解いていないのか、そっぽを向いてタバコを吸い続けているオグラに永井は話を切り出した。


永井「あれは自走する理由であって、むやみに暴力を振るう理由の説明にはなってません。暴れるのをどうにかしないと、たくさん出せても役に立たない。なにが原因ですか?」

オグラ「男の子が向かいのおばさんにデブと言った」


 またも突拍子ない返答。永井は呆れ顔になった。が、次の言葉を聞き、真面目な顔つきを示した。


オグラ「だが悪い子じゃない。母親のよく言う陰口を真似してたんだ。農家の亜人の例でわかる通り、自律したIBMの挙動は飼い主の性質に起因する。たとえばきみが人間嫌いだったとしよう。そういったことがIBMを暴力行動に走らせる」


 オグラがタバコの灰を落とすあいだ、話が中断した。指で挟んだタバコを灰皿の縁でとんとん叩くと、オグラは口許にタバコを持っていき、結論を言った。


オグラ「IBMを変えたければ、きみ自身を変えることだ」
670 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:43:25.01 ID:z5kRHM0CO

 タバコの煙が白く上昇する様子が喫煙所の影になっているところでははっきり見えたが、白く漂う流れは光のなかに広がるとまったく見えなくなってしまった。

 永井は明るい場所から眼をそらし、自分がやってきたほうへ首を向け、オグラからそっぽを向くようなかたちで言った。


永井「人は変わらない」

オグラ「まあな」


 喫煙所に真鍋とひとりの黒服が連れだってやって来た。真鍋は永井と眼が合うと、立ち止まり、呼びかけた。


真鍋「永井、戸崎さんが呼んでる」

永井「あ、はい」


 真鍋はそこにとどまり、永井から眼を逸らさなかった。すれ違うとき、真鍋が耳栓をしていることを永井は見てとった。おそらくもうひとりのほうも同様だろう。


永井「ハッ」


 永井はかすかに自嘲の滲んだ声を洩らした。真鍋たちはすぐに動かず、距離を保ちながら永井の後を追った。
671 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:44:52.41 ID:z5kRHM0CO


 作戦会議に使われる休憩室のドアを開けると、そこには永井たち四人を除く全員がすでに集合していた。

 部屋はそれほど広くなく、四角いテーブルが二列になって等間隔に三台並べられていて、テーブルにつき椅子がおおよそ四脚あったが、入口から見て右側の壁、戸崎が立っているほうの壁に近いテーブルには二脚と一脚しかなかった。

 戸崎の右手にある二脚のテーブルには中野と下村がいて、雑談している。

 真鍋たちが部屋に入ってきた。二人は先にいた平沢たちのほうへ歩いていく。

 平沢と最も年が若いであろう黒服の男は、戸崎と向かい合うかたちで壁に背をつけ立ったままでいて、合流した真鍋たちも同様の姿勢をとり、黒服たちは部屋全体を見渡せる位置についた。

 永井は何も言わず、前列の椅子が一脚しかないテーブルについた。中野を伺ってみる。あきらかに弛んでいる。何も分かっていない様子だったが、永井は苛立たなかった。ただ、気楽でいいなと思っただけだった。

 全員が位置についたことを認めると、戸崎が資料を配った。
672 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:46:39.89 ID:z5kRHM0CO

戸崎「暗殺リストの残りは七名、敵はこのどこかに必ず現れる」


 全員が資料をぱらぱらとめくっているのを確認すると、戸崎は一同を見渡して、言った。


戸崎「つまり待ち伏せが得策だ。誰のところでするかだが……」

中野「戸崎さんでいいじゃん」

永井「そうだな。死んでくれればすっきりするし」

戸崎「だまれ永井」


 戸崎は壁に張り付けていた資料から永井に視線を移し、これ以上たわ言を言わないようにぴしゃりと言った。永井は気にもとめず、ペンからキャップを外した。


戸崎「残念だが、私はベストじゃない」


 気を取り直し、戸崎は話を続けた。


戸崎「違法な作戦を展開するんだ。警察やマスコミの目の届かないフィールドが必要になる。適したフィールドをでっち上げ、私を囮にしてもいいが、不自然だ。敵に動きを悟られたくない」

永井「なるほどね」


 この理屈に永井は納得した。ほかの者も戸崎に同意している空気を出した。
673 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/10/15(月) 20:47:34.14 ID:z5kRHM0CO

戸崎「条件にあうターゲットは選んである」


 戸崎は壁にピン止めしてある写真に眼を移して言った。二枚の写真は証明写真に使われるような肩から上を写した顔写真で、男性と女性のものだった。

 男性の方は三十代なかば、濃くて艶のある黒髪を後ろに撫で付けている、自信に溢れた微笑み、自分を生まれながらの上等な人間だと思っている、上向く唇の弧が目についた。

 女性のほうはいくらか年が若いように見え、おそらく二十代後半、シュッとした柳眉、美人だが規律を順守する厳めしい印象を与える顔つき、天然の薄い色の茶髪をシニョンでまとめている。


戸崎「フォージ安全社長甲斐敬一、社長秘書李奈緒美。この二名だ」



 配られた資料はフォージ安全のホームページをプリントアウトしたもので、社の概要や屋内の経路の様子がわかった。

 戸崎が部屋にいる全員が資料に眼を落とすのを眺めながら言った。


戸崎「フォージ安全ビル、頑丈な壁、五階より上は全窓ミラーガラス。悪さするにはうってつけだ。またこの会社は一般的には保護具メーカーとして知られるが、セキュリティサービス業者としての側面も持ち人員の増加も期待できる」 

中野「また飛行機落とされたら?」

戸崎「全国的な警備強化であんな派手なことはもうできない」

永井「ああそれに佐藤は“戦いたがり”だからな」


 永井はペンを動かしながら言った。中野はいまいち永井の発言の要領をつかめないようだったが、他の者たちはどういう意味か理解していた。
674 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:48:46.10 ID:z5kRHM0CO

 あのテロでの佐藤の真の目的はグラント製薬の壊滅ではなく、SATとの戦闘だったということ。旅客機の墜落はメッセージであり、二度繰り返す必要はないということ。

 戸崎の胸中に疑惑が生まれた。SATの配備は極秘だった。だが、佐藤はそのことを知っていた。どこからか情報が漏れたのだ。警察からか、それとも亜人管理委員会からか。


戸崎「時間はない。フォージ安全とは早急かつ個人的にアポをとっておく」


 戸崎はひとまず疑惑を封印することにした。


戸崎「フィールドは決まった。あとはどう戦うかだ」

永井「亜人は三人、数では敵に劣るけど地の利はこっちにあるわけか」


 永井は見取り図に眼を落としながらぼそっと言った。


中野「三人? 泉さんなんか使えねーだろ」


 永井のつぶやきを聞きつけた中野が強い口調で異議を唱えた。下村がむっとした表情をつくった。言われた永井は不思議そうに問題はなんなのか聞いてみた。
675 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:50:12.62 ID:z5kRHM0CO

永井「どんな不備が?」

中野「こんな危ないこと女性にさせられるかよ!」

永井「運動会やってんじゃねーんだぞ! 子供だろうが老人だろうが、使えるものは使う!」

下村「中野くん、うれしいけど迷惑だよ。わたしは仕事をサボる気なんてない」

中野「……んー」

永井「当然だろ」


 永井は見取り図に眼を戻し、ペンの動きを再開した。戸崎は頭を抱え、ため息をついた。中野はすこしふてくされていたが、反省した態度を見せた。下村は中野に微笑みかけ、ふたたび穏やかな雰囲気の会話をした。

 平沢は永井がふたりに一瞬視線を向けたのに気がついた。


戸崎「とりあえず十分休憩だ。私は返さなければならない仕事のメールがある」


 そう告げたとき、戸崎はペンが机に置かれる耳にした。音がしたほうに視線を向けると、そこに眼が引き付けられた。

 永井は人差し指でペンを転がしながら、考え深そうに見取り図を見つめていた。

 数多くの書き込み、部屋や通路を表す直線の上にも文字が書き付けられ、敵の侵入脱出経路の予想、各階の設備がどのように利用可能か、こちらの要員をどのように配置すれば優位になるか、検討と思考の重ねたペンの運動の跡がそこにあった。

 戸崎は数秒間そこに眼をとめ、それからドアを抜け部屋から出ていった。


ーー
ーー
ーー
676 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:01:55.63 ID:z5kRHM0CO

オグラ「これが、両手に花ってやつだ」


 まだ夏を引きずっている白く輝く太陽から降り注ぐ陽光を浴びながらオグラは言った。背後では下村のIBMが影のように左右に立ち、あやとりの紐を指に通している。


オグラ「だが、二股はしんどい。どちらかとのセックスは淡白になる」

永井「つまり?」


 永井はうんざりしながら訊いた。下村も同様にうんざりし、中野はそりゃそうだとひとり納得している。


オグラ「IBMは同時に出せる。だが司令塔はひとつしかない」


 下村のIBMが二体同時にあやとりをはじめた。永井から見て右のIBMは器用に二段はしごを作ったが、左のほうはぜんぜん上手くなく、不器用に紐を絡ませている。


オグラ「一体ずつ使ったほうが有意義ってことだ」
677 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:02:52.83 ID:z5kRHM0CO

 言ってから、オグラは永井に視線を向けた。


オグラ「しかし、きみの場合は事情が異なる」

永井「自走するから?」

オグラ「そうだ。しかも発現限度数は最大で九体。フラッド現象にも匹敵する」


 “氾濫”を意味するその現象に聞き覚えはなかった。


オグラ「異常な感情の高まりと復活が重なったとき、“ごくごく稀”に起こる現象だ。このふたつが重なり相乗効果を生み、特別な精神状態に到達することがある。そのとき、文字通り“氾濫”するんだ」

永井「氾濫って、IBMがですか?」


 オグラは永井に応えず、タバコを咥えるとゆっくり味わってから煙を吐き出した。光と煙がいっしょになるまでオグラは何も言わなかったから、永井には時間がひどく緩慢に過ぎているように思えた。


オグラ「あるオランダ人金メダリストの話をしよう」
678 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:03:42.29 ID:z5kRHM0CO

 やっとのことでオグラが口を開いたが、切断された話は全然関係ないところに繋げられた、中野は何の話だというような顔で永井を見たし、下村も困っている、永井は諦めを感じつつも口を挟まずにはいられない。


永井「要点だけ言ってくれません?」

オグラ「彼はスピードスケートの選手で、そして亜人だ」


 思わぬ軌道を描いて話は本筋に戻ったようだが、オグラの話し方は永井の要望が聞き届けられたようには全然聞こえなかった。


オグラ「ゴール直後、彼は転倒し死亡した。周りは気づかなかったがね。そのときだ、勝利の喜びと復活が重なり、フラッドが発現した」

オグラ「リンク上に十〜十五体のIBMが出現し、消失するまでの約五分間、歓喜し続けた。焦った当人がIBMたちに退場するよう命じたにもかかわらずだ」

オグラ「これが何を意味するか。フラッドで作り出されたIBMは、発現の発端となったシンプルな感情に従い行動し続ける。まさに氾濫状態、コントロール不能」

中野「いまとそんな変わんねえじゃん」

永井「だまれ中野」
679 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:04:48.32 ID:z5kRHM0CO

 中野が口を挟んだおかげで閑話休題となり、今度はIBMを使った実戦形式の訓練となった。

 IBMを発現できる永井と下村が撃ち合いをするみたいに距離をとって向き合い、同時にIBMを発現する。

 永井のIBMは生まれ持った敵意と凶暴性を全身にみなぎらせ下村へ突進していった。待ち構えていた下村のIBMが鋭い手刀を瓜を叩き割る鉈の一撃のように頭部に叩き込んだ。

 頭を失ったIBMは膝をストンと地面に落としたが、それでもまだ最期のあがきを残しているような気がしてその身体が完全に消失するまで下村は気が抜けなかった。

 永井のほうは、まったくもって衝動的な自分の分身に嫌気がさしていた。分身であるだけに、中野の頭の悪さとはまた違った憎々しさを感じている。

 もっと狡猾であればいいのに、と永井は思った。ジャック・ロンドンの小説に出てくる狼と犬との私生児、悪魔のような合いの子みたいに。


オグラ「IBMを消失させる手段はふたつある。収束を待つか、頭部へのIBMによる打撃だ」


 草の上にタバコの灰を落としながらオグラが言った。
680 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:05:28.67 ID:z5kRHM0CO

オグラ「人間が三十七兆個の細胞の寄せ集めなようにこいつらも粒子の集合体にすぎない。隣り合うIBM粒子同士が特殊な化学結合で結びつき、肉体を形作っている。
 これは分断程度の別離では断ち切れない。お互いを引っ張りあい再結合する。だが、IBM同士が強く衝突した場合、異なる情報を持つ粒子が混ざりあってしまう。
 混線状態だ。再結合するべき粒子と連絡がとれなくなり、結果、お互い散り散りに。よって相殺する」


 下村のIBMが消失し発現できる限度を迎えたので、オグラの講座は終了となった。オグラは新しいタバコに火を点けながら、“なりかけ”のことを言い忘れていた、まあいい、また今度だ、などとぶつくさ言いながら去っていった。

 永井と中野にはまた別の訓練が待っていた。

 今度の講師は黒服のふたりで、永井はこのふたりの名前を知らなかったし、黒服のほうも名乗らなかった。

 九月とはいえまだ暑さも残っているのに、ふたりともスーツ姿だった。年の若いほう(おそらく三十代、戸崎と同年代)は黒いジャケットの下にワイシャツを着ていて一番上のボタンを外していた。ネクタイはしておらず、そのおかげかわりと涼しげで汗ひとつかいていない。

 もうひとり、艶のある黒髪をオールバックにした四十代とみられる男は同じジャケットの下に深い赤茶色のTシャツをのぞかせていて、襟のところをを黒く湿らせていた。
681 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:06:17.52 ID:z5kRHM0CO

 草の上にボックス型のガンケースがふたつ置かれていて、波形の表面が鈍い銀色の光を反射させている。

 彼らはケースから拳銃を取り出し、弾倉を装填してからスライドを引いた。ホテルの裏口からタイルを敷いた散歩用の小道が延びていて、小道の向こうに的になる看板があった。

 若い黒服が拳銃を構え、引き金を引いた。パン、パン、パン、と小気味良いリズムで看板に穴が空いていく。


黒服1「敵は武装している。これくらいの銃器の使い方は覚えておいて損はないだろう」


 若い黒服が弾痕がある箇所を確認しながら言った。弾は撃ち尽くしていて、すべて急所があるところを貫通していた。


黒服1「まず持ってみろ。次に……」


 黒服がレクチャーするまえに永井はヘッドホン型のイヤーマフをつけ、さっき黒服が行った動作をそっくり模倣した。パン、パン、パン、と引き金を引く速さも同じだった。

 ただ手に伝わる反動と慣れないために片眼を瞑ってしまったことによって、──北さんを撃ったときは暗闇だったし、顎の下に銃口を当てていたので眼を瞑っていても問題はなかった──発砲音より弾痕の数は少なくなってしまった。
682 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:07:04.76 ID:z5kRHM0CO

永井「一発はずした」


 永井は左手の人差し指をフレームの上に置くと、銃口をすこし下げ地面に向けた。すでに手慣れた手つきでマガジンをリリースする。その様子を驚きながら見ていた黒服がみじかく笑った。


中野「え!? 連射ボタンねえの?」


 森から聴こえるツクツクボウシの鳴き声を割るように中野が声をあげた。中野を指導している黒服は半分呆れ、もう半分は笑いながら


黒服2「うるせえ! いいからまず見てろ」


 と言った。

 永井は黒服が替えのマガジンを持って声をかけるまでそのやりとりを眼を向けて見ていた。

 引き金を引く前に、黒服からフォームについて指導された。右腕をまっすぐ伸ばし、左腕をすこしだけ曲げる。足の開きかたや重心の置き方なども指摘され、永井は黙ってそれに従った。

 冷静に引き金を引き続ける永井の横で、おそるおそる拳銃を持ち、おっかなびっくり引き金を引く中野に黒服が仕方のないやつだとでもいうような視線を注いでいる。

 トレーニングは二時間ほどつづき、きわめてシステマティックな指導を受け的確に反応する永井とは対照的に、中野は黒服と掛け合い、逐一指摘されながら面倒を見られていた。

 日が傾いてきたころにトレーニングが終わった。手が痺れてあかくなっているところを親指で押さえながら黒服たちに訴える中野をよそに、手をぐっぐっと明け閉めしながら永井はひとりホテルへと戻っていった。


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683 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:08:10.50 ID:z5kRHM0CO

 夜食を摂り、食後の作戦会議も終わった。戸崎はフォージ安全での作戦展開の許可をとったことを告げ、より詳しい施設の情報を開示した。それによって実行可能なプランが絞られ、それぞれのプランの具体的な検討に入っていった。

 永井はそれらを聞きながら、ビルの十階にある、とある設備にひとり注目していた。

 会議が終わり、就寝するまで各々が必要なルーティンをこなす時間ができた。戸崎と下村は厚労省の仕事をしていた。オグラは煙草を吸い、中野はテレビを見て笑っていた。

 装備の点検を終えたあと、若い黒服はフェルナンド・ペソアを読み、年嵩の黒服はシャワーを浴びたあと、国外の治安情勢をネットニュースで調べていた。平沢と真鍋は缶ビールを開け、てきとうにおしゃべりしていた。

 数缶開け、就寝のためそれぞれの部屋に戻る前に、真鍋はトイレに立ち寄った。消灯された廊下はすっかり暗い。


永井「あの」


 トイレから出てきた瞬間、背後から声をかけられた。真鍋は素早く身を翻すと、腰のホルスターた差してあった麻酔銃を手に取った。

 永井が驚いた表情のまま固まっていた。
684 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:09:21.87 ID:z5kRHM0CO

真鍋「……永井、なんか用か?」


 永井は応えず、真鍋が背中に隠している右手があるところに視線を向けた。ふたりとも黙ったまま何秒か過ぎた。


永井「別に、あとでいいです」


 そう言うと、永井は背中を向け去っていった。一歩進むごとに身体の線は暗闇にのまれ、見えにくくなっていった。
 
 真鍋は永井が廊下の角を曲がり、その姿が完全に見えなくなるまでその場に立ち、麻酔銃を握ったまま、その後ろ姿を見送った。


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685 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:10:49.24 ID:z5kRHM0CO

 気温は二十度をすこし上回るくらいで、昼時に比べるとずいぶん涼しくなっていた。おまけに夜風がおだやかに森を吹き抜けていたので、木々の心地よいざわめきが起こり、秋虫の鳴き声と重なって調べをつくっていた。

 永井は低い石垣に腰掛け、ひとり考えにふけっている。

 月の光は葉の上側だけを照らしていたから、永井のいるところには細い光線が幾条か射し込んでいるだけだったが、樹木から吊るしたLEDランタンが蜂蜜のように黄色く透明な灯りで明るい場所をつくり、座った目線にちょうどいい位置にピンで木に留められた資料の細かい文字まで読めるよう照らしだしていた。

 皮膚や眼や鼓膜にやわらかく触れる、包み込むかのようなこの環境を永井も感じていたが思考に追われ、風と光に身を任せるほど意識にのぼってきてはいなかった。
686 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:12:11.09 ID:z5kRHM0CO

 佐藤要撃のためのプランは詰めの段階まできていた。戸崎がより詳細な現地設備の情報を持ってきたことから、亜人に対して有効な要撃プランを作ることができた。あとは実際の現場を見て、細かい点を修正していけばいい。永井はそう考えていた。

 要撃のメインとなるのは黒服たち、やつらをどのようにして動かせばいいか、戦闘経験を積んでいるから簡単には僕の指示に従わないだろう、いや、プランの有効性を示せば動くか?
 
 すくなくともやつらはプロだから感情で判断しない、だが内部の感情をすべて殺しきることはできない、問題はその度合いだ、心理の問題、問題はいつだってそれだ。


平沢「永井」


 呼び掛けれ、永井は顔をあげた。平沢が永井を見下ろしていた。いつものようにスーツの前を開けて、立っていた。照らされているところと夜のところのあわいのところだった。


永井「えーと……平沢さん、でしたっけ?」

平沢「真鍋から聞いたが、なにか用でもあったのか」


 永井はすぐに応えず、視線を平沢から正面に戻し、自分ひとりで考え事をしているといいたげな態度で言った。


永井「いや別に。体重や身長のデータとかもあったほうがいいかもと思っただけです。でもなくても全然大丈夫なんで」


 平沢は眼を合わさない永井の横顔を見つめながら、訊いた。
687 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:13:13.22 ID:z5kRHM0CO

平沢「おまえ、寂しいのか?」

永井「はあ!?」


 思ってもみなかったことをいきなり聞かれ、永井は素っ頓狂を声をあげた。平沢はとくに反応を示さず、永井から人ひとり分ほど距離をとって石垣に腰を下ろした。平沢は上半身を永井のほうに傾けると、話を続けた。


平沢「他人の心を一切汲まない自分の言動を本当に正しいのかと迷ってる、かわるべきなんじゃ、と」

永井「それはないね」


 永井はまたも正面を向いた姿勢のまま即答した。


永井「僕はめちゃくちゃなことなんかひとつも言ってない。合理的に判断を下すだけだ。変わる必要性がどこにあるんだよ」


 喋っているうちに口調が強くなっていき、最後にはほとんど叩きつけるようになっていた。

 食ってかかる響きのこもった永井の言葉を聞いても平沢は態度を変えなかった。平沢はともすれば興味がないと思えるほどあっさりと永井に応えを返した。


平沢「ああ、その通りだ」


 永井の眼と口が開いた。
688 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:14:14.31 ID:z5kRHM0CO

平沢「中野ってやつは、他人の信頼を得るのがうまい。同じ教室にいたらあいつはヒーローで、おまえはただの嫌なやつだろう」

平沢「だが、ここは学校じゃない。ここじゃあ、倫理や感情を断ち切る圧倒的な決断が必ず必要になる。本当だ。おまえはそれができる」

平沢「信頼関係を築くことももちろん役に立つが、それはおまえの仕事じゃない」

平沢「おまえはそれでいい」

永井「……だから、わかってるって」


 永井は、自分でもなぜかわからないがそっぽを向いてしまった。


平沢「そうか。なら、おれの勘違いだ」


 平沢が腰をあげ、立ち去ろうとした。拡大された影が回り込むように揺らめいた。鈴虫のいる草を踏む足音、蛾がランタンにぶつかる音、蛾は光源の発光ダイオードを求めて何度もぶつかった、コッコッ、リリリ、カサカサ。


永井「父は優秀な外科医だった。どんな患者にも親身なれて、退院した人から毎年手紙が届くくらいだ」

永井「それこそが、最大の欠点」


 永井は不意に語り始めた。平沢は立ち止まった。永井の語り口は燠火の前で語られる独白のようだ、

 平沢は振り向かず話を聴いた。助かる術のない患者、ドナーはいない、臓器売買に手を出し、結果すべてをうしなう。感情を優先させた結果。他人の死を受け入れなかった結果。
689 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:15:34.54 ID:z5kRHM0CO

永井「同じ失敗はしない。僕はバカじゃないから」


 力のこもった、決然とした口調だった。


平沢「頭の出来は年功序列じゃない。好き勝手ふるまえ。おれはプラン通り動くだけだ」


 それだけ言い残し平沢は去っていった。永井は視線だけで平沢の背中を見送ると、正面の茫洋とした黒い闇に眼をもどした。

 見るかぎり、そこに永井の内面をざわつかせるものはなにもなかった。

 永井は背中をまるめふたたび思案をめぐらした。

 今度ははっきりと佐藤の顔を思い浮かべながら。

ーー
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690 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:16:28.33 ID:z5kRHM0CO

戸崎「これが意見をまとめ作成した対佐藤の作戦要項だ。全員がしっかり頭に入れておくこと」


 戸崎がクリップで留められた資料を人数分配って言った。資料を捲る面々の様子を視線で見回ると、中野が中学生が背伸びして晦渋な文章を読むときのようにページを睨んでいる。


戸崎「中野、きみは特にだ」

中野「ここなんて読むの?」

下村「ん? 進攻」


 自分の力で読み進めることをあっさり諦めた中野は、隣に座る下村に単語の読み方を聞いた。

 戸崎は自分の名前に使われている漢字が読めない中野に絶句していた。

 永井は作戦要項の内容にどれだけ自分の意見が採用されたか確認しようと資料をするどく注視していたが、黒服たちがページをめくり、紙が擦れる音がかすかに耳に届いた。

 真鍋が眼を留め、固定されたかのように頭の位置が動かなくなった。


真鍋「三ページ目……こんなことおれらにやれってのか」


 真鍋はぼそりと、部屋全体に行き渡る声で言った。


真鍋「ここおまえの案だろ、永井」

永井「だから?」


 永井は無感情な声で問い返した。

 真鍋はふっと気の抜けたようにちいさく笑った。


真鍋「おもしれえじゃねえか」


 永井は眼でそれに応じた。眼にはかすかに自信をのぞいていた。


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691 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:17:39.02 ID:z5kRHM0CO

 メールを送信しスマートフォンをポケットにしまうと、永井は掌を上に向けた。掌に意識を向けると黒い粒子が立ち昇ってきた。粒子は一条の狼煙となって夜の空の星たちのあいだを通過して、宇宙の一部になっていくように見えた。

 黒い粒子は一定の間隔で上昇していた。粒子は夜の暗さから独立していて、永井の視力が許すかぎりその上昇はどこまでも確認することができた。


中野「おい!」


 突然、中野が呼び掛けてきた。


永井「なんだよ」


 永井は忌々しそうな視線を中野に投げかけて、いった。


中野「おまえさあ……」


 中野はそこでまばたきして、真剣そうに細めていた眼をもとに戻した。


中野「いい感じの死に方知らない?」


 永井は眼をみはった。だが、すぐに中野が言いたかったことに気づいた。


永井「ああ、オグラさんが言ってたやつか」
692 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:18:36.62 ID:z5kRHM0CO

 永井がオグラにIBMを披露した際、中野は自身の問題について──IBMの発現ができない──オグラに質問していた。


オグラ「IBMを出せるようになる方法? ないな、おれの知るかぎり」

中野「そこをなんとか」

オグラ「値引きの交渉じゃねえんだぞ」


 オグラはタバコのパッケージを指でトントン叩いた。


オグラ「IBM発現は、いわば運だ。亜人のIBM粒子は復活時最も濃度が高くなる。そのとき、なにか特別な作用が起こることがある。トンネル効果と言ってもいい。そうすると、IBMが出せるようになる」


 タバコを咥え、ライターを探しながらオグラはとりあえずの結論を口にした。


オグラ「方法があるとすれば、とにかく死にまくることだな」

中野「えー? 結構死んでるけどな」

オグラ「何十回何百回引かなきゃあ、ハワイ旅行は当たらんよ」


 オグラの仮説を踏まえ、永井は中野が“死にまくる”道具を用意した。
693 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:19:38.30 ID:z5kRHM0CO

 ロープの端を結んで輪を作り、首に掛けられる大きさまで広げると、輪になった方とは反対の端を太い幹から伸びた腕三本分はある頭上の枝に掛けた。永井はぎゅっと引きロープを固定した。

 これで、縛り首の準備が整った。


永井「これなら低コストでかつオートマチックに何度も死ねる。寝てても大丈夫だ」


 ロープを見上げながら永井が平然とした調子で言った。中野はざらつきがある輪っかがランプに照らされ夜のなかに浮かんでいる様子を不吉そうに眺めている。

 永井は中野を横目でちらっと見ると、怯えて躊躇していると感じられた。永井はさっきと同じ調子で、こんどは中野を見ながら気づかうように言った。


永井「なにより苦痛がない。バランスよく二本の動脈が絞められすぐに意識を失う」


 永井の言葉を聞いた中野は、唇を噛んで深く息を吸うとふぅーっと息を吐き、前に進んだ。


中野「やるか……!」

永井「怖がることないだろ」


 椅子に足をのせ輪に両手をかけたまま、中野はまだ躊躇していた。永井はその様子を見上げながら、ふと思ったことを口にした。


永井「そういやおまえって、最初なにで死んだの?」

中野「んー……孤独死?」

永井「それは死因じゃねーよ」


 永井は心のなかでツッコんだ。
694 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:20:32.07 ID:z5kRHM0CO

中野「なあ、永井」


 中野はちらっと永井のほうを向いて言った。


中野「おまえ、よくあんな躊躇なく何度も死ねるよな」

永井「おまえもやってるだろ」

中野「おれはいつだって怖い。だって、もしかしたらだぜ? 次は生き返んねーかもしんねーじゃん」


 中野が自嘲ぎみにそう言うと、永井は記憶の片隅にあったとある情報を伝えた。


永井「うわさ程度のソースだけど、中国の亜人で二千回死んだって記録があるらしいぞ、いまも更新中だとか」

中野「よくやるなあ」

永井「なんだってやるさ」


 中野が数字の大きさに呆れぎみになっていると、永井は即座にこう応えた。


永井「じゃなきゃ先には進めないんだ。怖がる必要性がない」

中野「おまえ凄えな」


 永井は何だかばつが悪くなったような顔をして言葉につまった。中野がまた深呼吸し、輪を握る両手に力を込めた。


永井「いいから、早く死ねよ」


 永井はなにかを誤魔化すようにそう言い捨てた。中野は小さな声で「よし」と呟き、椅子を蹴った。


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695 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:21:25.93 ID:z5kRHM0CO

 ロシア語のメールを見たとき、アナスタシアは奇妙に思った。考えてみたらロシアにいたときは携帯電話やパソコンは持ってなかったので、こうしてキリル文字の文面を読むのはずいぶん久しぶりだった。

 文章は簡潔だったが、そのぶん明瞭で文法上の謝りはなかった。

 アナスタシアははじめは流し読みした。それから、なかば信じられない気持ちでメールを声に出しながら熟読した。

 メールは永井から送られたものだった。

 佐藤要撃について。役割は正体を気づかれることなく要撃地点に進入し、待機要員として不測の事態に備えること。IBMの使用が前提となる。と、メールには書かれていた。

 ロシア語の文章の下にリンクが貼ってあり、タッチするとページが表示された。このページもロシア語だ。

 リンク先のページではモールス信号の解説がわかりやすく書かれていた。アナスタシアは念入りに頭から終わりまで三回通して読み、これなら大丈夫だという確信を得てから返信した。
696 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:22:14.45 ID:z5kRHM0CO

 永井からの返信はすぐだった。返信メールには画像が添付されていた。

 スマートフォンのカメラで撮影したとおぼしきその画像には、一枚のルーズリーフが写っていた。モールス符号を視覚的に表したキリル文字の一覧表がルーズリーフに記入してある。ふたたびメールの着信。ロシア語で、北西の方角を見ろという指示があった。

 窓を開け顔を出して指示された方角に眼を向ける。まず見えたのは女子寮を囲う塀、塀の向こうにはオレンジ色の街灯と街路樹がある。車の黄色いヘッドライトの移動が見え、夜の暗闇に染められたビルの壁面を一瞬照らす。

 空には紫色をした雲がひとつあり、鉛筆で描いたように月の下部に横たわっている。星の瞬きは数えられる程度。空の大部分は宇宙に飲み込まれつつあるかのように真っ黒だった。

 そのような背景にも関わらず、黒い粒子が上昇する様子をアナスタシアはしっかり見てとることができた。

 符号表と顔を付き合わせながら、空を見上げ、また符号表に顔を戻す。粒子は辛抱強く一定の間隔で昇り続けている。一時間近く経って、アナスタシアはようやくメッセージの内容を把握した。

 佐藤要撃における囮役となるターゲット二名の名前、要撃の舞台となるフォージ安全の簡単な概要とビルの構造、実行の時期は未定、作戦の詳細は追って報告する、と粒子は告げていた。
697 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:23:34.23 ID:z5kRHM0CO

 アナスタシアはメールを送ろうとしたが考え直し、了解の旨を黒い粒子で伝えることにした。窓から手を伸ばし、粒子を放出する。

 アナスタシアは舞い落ちる雪片を眺めるように、空に上がる粒子を見上げていた。 

 視線を戻すと、北西の粒子が昇るの止めていた。アナスタシアは手を引っ込めようとしたが、思いとどまり、手を真っ直ぐ伸ばすと、ふたたび黒い粒子の放出を始めた。

 おやすみ、とアナスタシアは永井に告げた。永井からの返事はなかった。

 アナスタシアはふてくされながらベッドに戻ると、夏用の掛け布団から腕を出して眼を閉じた。すぐには眠れなかった。心臓が早っていた。

 これは恐怖なんかじゃない、アナスタシアは自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと閉じた瞼に力を入れた。


アナスタシア「ニ プーハ ニ ペラー」


 アナスタシアは願掛けの言葉をちいさく発した。「獣も鳥も獲れませんように」という意味の言葉。

 ロシアでは成功を祈る言葉を口にすると、すぐそばに潜む悪霊が成功の邪魔をすると言われている。だからあえて失敗を口にして、悪霊を欺くのだ。

 古い迷信で、アナスタシアもこの願掛けを実際に口にしたことは祖母に教えられたとき以来だった。

 いま、猟の失敗を祈願するこの言葉を唱えたアナスタシアは、心のなかでこう思った。

 どうか、悪霊がわたしが思っているより賢いことがありませんように。わたしの心のなかまで見透かすことがありませんように。わたしの恐怖を見透かすことがありませんように。
 


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698 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:24:42.80 ID:z5kRHM0CO

 田中がアジトの通路を進んでいると、棒立ちしている佐藤のIBMに出くわした。ちょうど報告のために佐藤を探していた田中はIBMに呼びかた。が、すぐにこの前言っていたことを思い出し、あげかけた手を引っ込めた。


田中「あれか、放任中か」


 田中はIBMをそこに残し、佐藤を探しにさらに通路を進んだ。

 休憩室代わりに使っている一室に佐藤はいた。明かりを点けず、暗い部屋を照らしているのはテレビモニターの眼に刺すようなチカチカした光だけだった。

 佐藤はキャスター付きの椅子に腰かけながら、コントローラーを手に持ち、FPSシューティングゲームを惰性でプレイしていた。


田中「佐藤さん、五人目片付きましたよ」


 田中は佐藤の後ろを通りすぎると、スチール製のオフィスキャビネットに四隅をセロテープで貼られた暗殺リストから、理鳥 守琴の名前を消した。


田中「次は誰にします?」
699 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:25:36.30 ID:z5kRHM0CO

 ペンにキャップをし、田中は頬についた血を拭いもせず、佐藤に訊いた。佐藤はゲームをポーズ状態にして、ボタンから指を離した。そして、節々から力を抜きながら、佐藤はいった。


佐藤「三人くらいにしとけばよかったなあ」

田中「は?」


 田中は驚き、佐藤に首を向けた。


佐藤「SAT以降、これといった工夫もしてこないし……十一人は多すぎたよ」


 佐藤は何百回もプレイし、攻略し尽くしたゲームのポーズ画面を見ながら、はっきりと不満を口にした。


佐藤「飽きちゃった」

田中「でも……実験に荷担した奴らなんすよ!?」

佐藤「あと六人かあ」


 田中の訴えを聞き流すかのように佐藤が呟く。コントローラーを持ち直し、ポーズを解除すると、戦闘音が鳴り響いた。


佐藤「田中君でやっといてよ」


 カチャカチャというコントローラーの操作音、惰性的なプレイで敵を撃ち殺しながら、佐藤は田中を見ずに話しかけた。


佐藤「もうできるでしょ? 私は次のウェーブから参加するから」

 
 田中は何も言うことができなかった。しばらく佐藤の背中を見つめていたが、やがてなかば呆然としたまま部屋を出ていった。


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700 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:26:32.66 ID:z5kRHM0CO

 アジトの裏に積まれた廃品の山から鉄臭い臭いが漂ってきた。

 何年も前に廃業した工場の裏手には、鉄材や木材、砕けたガラス、絡み付いた鉄線、キャビネット、スチールデスク、パソコン、カーペットや自転車や自動車のドア、扇風機にエアコン、はてはフォークリフトまで投棄されていた。

 どれも錆び付いて、赤茶けている。豪雨でも洗い落とせない錆び付き。いまや廃品全体を覆いつくし、ひとつの物体になろうとしている。

 田中は三十分もまえからそこに佇み、雲の移ろいに従って地面に写ったり隠れたりする自身の影を意識するわけめもなく眺めている。

 田中はさきほどの佐藤のことを考える。

 佐藤さんが暗殺からおりた……いや、暗殺だけだ。闘争はやめてない。
701 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:27:42.75 ID:z5kRHM0CO

 たしかに、暗殺リストの十一人はおれの復讐だ。もっとほかにも殺したい奴はいる。──おれを切り刻んだやつ、精神鑑定をしたやつ、企業におれを紹介したやつ、悪態つきながら排泄物を処理したやつ──

 だが、あの十一人だけにした。それは復讐以上に重要な意味があったからだ。

 無関係なやつなどいないと知らしめたかった。おれの身体で実験した医薬品のCM、おれを乗せて壁に激突した車のCM、どこの薬局にもあり、どこのディーラーにもある。

 それを飲み下して健康を維持し、それを通勤し、休みの日は家族とどこかにでかける。

 おれから生まれたもので、この国の人間は日々を快適に暮らしている。


 おれの苦痛から生まれたもので。


 おれはおれの苦痛から生まれたものをすべて叩き壊し、燃やし、灰にして、滅ぼしたい。だが、それは不可能だ。あまりにも数が多いし、おれはおれから生まれたものすべてを知らない。知りようがない。十年もされるがままだったから。おれは世界すべてに復讐することができない。
702 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:28:32.99 ID:z5kRHM0CO

 だが、知らしめることはできる。

 おまえたちが使っているものはおれの苦痛からできたものだ、あるいはそうかもしれない、違うかもしれない、確実にそうだと言えるものは限られているが、それは大量にあるし、可能性を含むものは定義的にすべてのものだ。

 その可能性を常に考えろ、苦痛から経済を動かす力学が生まれたこと、利益と人権を秤にかければかならず利益に傾くこと、そういった人間がこの国を動かしていること、そしておれたちは何度命を奪ってもそのことに反対するということ。

 あの十一人はそのために選んだ。メッセージとなりうる十一人。猶予となりうる十一人。

 権利が得られなければ、おれたちはもっと殺す。おれたち自身が権利を付与できるように。

 最終ウェーブは個人的な感情では闘いきれない、使命と思わなければ。

 あの十一人は個人的な感情を処理するためのものでもある。だから、佐藤さんには必要のない過程なのかもしれない……


奥山「田中さん田中さん」


 考えに耽る田中に奥山が話しかけた。しばらくまえに奥山が使用している部屋の灯りが消えたことに田中は気づかなかった。
703 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:29:27.06 ID:z5kRHM0CO

奥山「フォージ安全の青写真ダウンロードしたよ。これ、PDFにしといたから」

田中「……奥山」


 田中は奥山にほうを見ずに、口の中につぶやきを籠らせるように言った。


田中「おれは佐藤さんが……何考えててんのかわかんなくなってきた気がするよ」


 奥山はちょっと間をあけて、持っていた杖を肩に置くと、口を開いた。


奥山「『マリオ』やるときさあ」

田中「はあ?」

奥山「ピーチ姫を助けるぞ!ってテンションでやる?」


 ほどよく気の抜けた声で奥山は話を続けた。


奥山「ストーリーは必要だけど、亀を踏み潰すのが楽しいからやるんだろ? 佐藤さんはそういう単純な人だね」

田中「わかりやすく言えよ」

奥山「やるの? やらないの?」


 奥山はUSBを差し出しながら、訊いた。

 田中は奥山を見た。奥山の眼は田中がどうするか真剣に問うていた。

 田中はもぎとるようにUSBを手にとった。


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704 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:30:04.30 ID:z5kRHM0CO

 田中が気づかなかったことがもうひとつあった。

 佐藤のIBMに声をかけようとしてやめ、田中が通路を奥へと進んだときのことだった。

 棒立ちしていたIBMの左手がゆっくりあがった。六本指が小刻みに震えながら閉じてゆき、人差し指だけが伸ばされた。

 IBMは方向を指し示していた。


IBM(佐藤)『あっ……ちの……部屋……』


 IBMは佐藤と同じ声を響かせた。その声を発したのは、佐藤ではなかった。

 平たい頭をした六本指のIBMは自らの意思ではじめて言葉を話した。


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705 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:43:12.67 ID:z5kRHM0CO
今日はここまで。

一万字程度ですが、来週には続きを更新できると思います。あと、ハロウィン関係のネタでなにか書こうかと。クローネの誰かを出したい。
706 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/10/20(土) 00:40:13.58 ID:AAkaDZ9k0
追い付いた
もうこれ半分本編補完のノベライズみたいになっとる(誉め言葉)
亜人好きだから嬉しいよ
707 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 20:59:17.26 ID:jiMS7eDVO

 フォージ安全ビルの地下駐車場に国産のセダンと黒のSUVが縦列に連なってすべるように進入してきた。先頭のSUVが柱近くのスペースに停車すると、黒服たちは一斉に下車し、各々の装備を詰め込んだバッグやケースを担ぎ上げた。

 SUVの反対側にセダンが停まった。下村の運転するセダンはカーリングの石のようにゆるやかでスムーズな停車を見せ、なかに乗っている人間にすこしの振動も伝えなかった。


中野「よっしゃ、行こうぜ」


 シートベルトを外し中野がドアの把手に手をかけた。ふと横をむくと永井はシートの背もたれに沈みこんだままの姿勢でいた。前方の席にいる下村と戸崎もほぼ同じタイミングでドアを開けたので、ガコッというロックの外れるときの解錠音がふたつ連なった。
 


中野「永井? なんだよ、また弱音か?」

永井「……」


 永井はよびかけにまっまく無反応だった。完全に気の抜けた表情をしていて、なにも考えてないのか、それとも逆に深く思索している最中なのかわからない。

 昨夜、移動する車内で永井はため息をついた。永井は窓の外に流れゆく風景を、正確には闇に顔を向けていた。いかにも憂鬱そうに。いよいよ佐藤と戦うというときにそんな態度だったから、中野はどうにも不満だった。

 急に永井が思いついたことでもあったかのように身体を起こすと、ドアを開けてそそくさと車から出ていった。中野はすこし奇妙に思いつつ、あとを追った。

 フォージ安全社長甲斐敬一が車からおりた一同を待ち受けていた。
708 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:00:57.27 ID:jiMS7eDVO

甲斐「ようこそ」


 歓迎の言葉もそこそこに、甲斐は一同に視線をむけた。永井圭の姿を認めると甲斐は視線を戸崎に戻した。


甲斐「おもしろいことになってるな、戸崎」

戸崎「昨日の今日で悪いな、甲斐」

甲斐「早いほうがいいだろ。それに私としてもありがたい申し出だ。設備は信頼できるが問題はいつだって人災だ。こんな状況では社員もいつ裏切るかわからんからな」


 甲斐は戸崎も当然同意するだろうといいたげな薄い微笑みを口の端に浮かべながら言った。同時に、その微笑にはどこか揶揄めいた色もあった。

 甲斐は後ろの方に身体を半転させ奥にある金属製の扉に手を掲げた。
 

甲斐「そのエレベーターを使ってくれ。五分だけどこにも止まらず十五階まで昇れるようにしてある。カメラもオフだ。社員にお前らの存在は悟られない」

戸崎「よくあることか?」

甲斐「女を呼ぶ頻度によるな」


 甲斐がほくそ笑んだ。笑みがほのかに嫌らしくなる。それを見て、戸崎はやはり勘づいているのだろうかと訝った。
709 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:02:12.99 ID:jiMS7eDVO

中野「なあ、なんで社員に知られちゃだめなの?」


 エレベーターに乗り込むとき、中野は永井に訊ねた。永井はそれを無視して壁に背中を預け、やはりまだ気の抜けた無表情のままでいた。


平沢「前に言っただろ。われわれの介入を敵に知られないためだ」


 平沢が永井の代わりに答えた。


戸崎「内通者が発生している可能性がある以上、社員すべてに対し秘密裏に動く必要がある」

中野「秘密り……り?」


 聞き慣れない単語のせいで中野の理解はいまいち進まなかったが、戸崎は気にせず、亜人管理委員会内に発生していた内通者に思いを馳せた。

 二日前に都内の高級料亭で亜人管理委員会メンバーの会合があり、戸崎は当初の意志を翻し出席予定だった。そこをIBM二体が襲撃──一体は田中のものだ──したものの、戸崎は不在だった(出席は内通者をあぶりたすための方便だった)。田中のIBMにあせって言い繕った長髪の研究者がもう一体のIBM──なだらかに盛り上がった丘のような頭部を持ったIBMで、首にあたる部分はなく、巨大な手をしていた──に殴り殺された。研究者の顔面は打ち下ろされた拳の威力で表裏がひっくり返りなくなってしまった。そのとき、振り抜ける拳の軌道上に大臣の鼻先があった。鼻先はこそぎとられ、じくじくと痛みだし、指先で拭った血を見つめる大臣の内側にじわじわと恐怖心が湧いてきた。

 この襲撃事件によって、厚生労働大臣および亜人管理委員会は方針を転換、佐藤との対話・和解を進め、現行の作戦の一切に中止が命じられた。つまり、戸崎たちはまったくのバックアップなしに佐藤を拘束しなければならくなったのだ。
710 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:03:18.36 ID:jiMS7eDVO

甲斐「そうだ戸崎、愛ちゃんは元気か?」


 エレベーターの扉が閉まる直前、甲斐が出し抜けに訊いた。戸崎が何も言わず無感情に見つめ返した。


甲斐「ああ、すまない……事故に遭ったんだったな」


 甲斐は失言を本心から詫びた。


戸崎「元気だよ」


 扉が閉まりきるまえ、かろうじて甲斐が視界に入っているとき、戸崎は一言だけ告げた。

 エレベーターが上昇する。甲斐が言った通り、どこの階にもとまらず、金属の箱はなめらかといってもいい運動性を感じさせた。


中野「え? ふたり知り合い?」


 三階を通過したとき、さっきの会話の意味をようやく理解した中野が訊いた。戸崎は前を向いたままこたえた。


戸崎「大学の同期だ。私がこのポストに就いたとき奴に亜人の話を持ちかけた。そういった経緯があるから今回個人的にアポが取れたんだ」

平沢「信用できるのか?」

戸崎「できない」


 戸崎が即答した。


戸崎「だが、命がかかっているからといって平伏すような奴じゃない。攻撃してくる相手は、徹底的にねじ伏せる。それがフォージ安全社長甲斐敬一という人間だ」
711 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:05:07.91 ID:jiMS7eDVO

 十五階に到着すると、もう一人のターゲットであるフォージ安全社長秘書、李奈緒美が戸崎たちを出迎えた。李は一同を応接室に案内すると、施設の説明のために同階会議室に何名か来るように依頼した。戸崎と下村が説明受けることになった。


李「フォージ安全ビル。全高百十五メートル、地上二十六階」


 天井のプロジェクターから真っ直ぐにのびた光線がスクリーンに投影され、施設の外観が映る。


李「昇降方法はエレベーター四機と荷物用が一機、階段が二箇所、小さな郵便物用のリフトも一機あります」


 李が手元のタブレット端末とスクリーンに視線を行き来させながら説明する。


李「ビル外面の全窓は弊社開発の強化ガラスで戦車の砲弾も防ぐ世界最高強度を誇ります。一〇uでないと強度を実現できないことやコストの問題等から商品化には到りませんでしたが、プロモーションも兼ね自社ビルの窓に採用しています」


 画面が強化ガラスのアップから別の画面に移り変わる。一階の様子。戸崎たちはここを直接眼にしていない。


李「一階ロビーには検問ゲートがあります。どんな訪問者もここでIDチェック、金属探知、身体検査を受けます。社員も例外ではありません。不審者がいれば、防犯シャッターが下がり侵入を防ぎます。郵便物も同様。X線検査、生物・化学剤検知等をパスしなければ通過できません」


 李の説明に従うように映像は検問、シャッター閉鎖、X線検査のイメージを映した。


李「二階から十三階までは十階を除き同じ間取りのオフィスが続きます。十階は機械室、空調・水道・ガス・電力等を管理しています」


 オフィス内の仕事風景が映されていたのは短い間で、すぐにパイプや機械類に埋め尽くされた十階フロアの風景に切り替わる。


李「空調はビル内で化学兵器が使われる自体を想定して作られており、一部屋につき六秒で完全に新鮮な空気に換気することもできます。これらの配管はビル全体に広がってますが、人が入って移動できるような物ではありません。ここまでが一階から十三階の説明です。次に十四階」


 映像がまた切り替わる。
712 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:06:50.73 ID:jiMS7eDVO

李「十四階はセキュリティ・サーバー室。ビル全体の情報・防犯設備はすべてここで管理しています。ここのコンピューターは外部のネットワークと断絶されており、ネットを介してハッキングすることは絶対に不可能です。この部屋にスプリンクラーはありません」


 セキュリティ・サーバー室の天井にカメラが向けられ、備え付けられた消化設備がアップになる。


李「精密機械に水は天敵です。火災が発生した場合はCO?を放出し鎮火します」


 ガスが噴射された場合、サーバー室には速やかに警報が鳴り響き、職員を避難させるようになっている。


李「そして次に十五階。いま、わたしたちのいるフロアです」


 スクリーンに社長室が映る。甲斐とおぼしき人物がデスクに座っている。カメラが引いた位置に置かれているため、顔が判別しづらい。背後は全面窓になっていて、オフィス街の様子が見渡せる。


李「十五階は社長専用のフロアと言っていいでしょう。社長室がある他、社長専用の応接室、会議室、宿泊室など。甲斐社長は年間三百日以上このフロアで過ごします。ほとんど自宅へ帰ることはありません」


 また映像が切り替わる。開発部門の紹介。ピストル型の麻酔銃を研究開発の様子。


李「最後に十六階から二十六階、開発部門です。製品の開発・試作・実験施設が続きます」


 李の説明はそれで終了した。
713 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:08:12.45 ID:jiMS7eDVO

戸崎「聞いている通りですね」


 部屋の照明がつけられた。戸崎は椅子の背もたれに少しだけ背中を預けると、李の説明が甲斐から聞かされていたものと合致していることについて考え、李のほうを向いて訊いた。


戸崎「たとえば図面にないような隠し部屋等、そういったものは本当にないんですね?」

李「ありません」

戸崎「警察のビル内警備は?」

李「許していません。ビル周辺の巡回は増えましたが、社長は警察批判で有名ですから。『真に安全を守れるのは民間企業だ』と」

戸崎「わかりました」


 甲斐の持論はともかく、警察の介入がないのは──少なくとも、作戦開始時において──戸崎たちにとってもメリットがあるとはいえた。

 リストの五人目が殺害された際、現場から一人の生存者が発見された。それは周辺警護にあたっていた警官で、警護計画の内容を知ることができる立場にいた。

 すでに社内に発生しているかもしれない内通者をこれ以上増やす必要もなかった。


戸崎「李さん、あなたはなぜリストに?」


 戸崎はふと、リストに記載された人物を調査しているときに覚えた違和感を本人にぶつけてみた。


戸崎「ただの社長秘書。狙われるポジションの人間とは思えないのですが」

李「いえ、当然です」


 李は感情はおろか意思決定さえも抑え込んだ無表情を作り、応えた。


李「わたしは、狙われて当然……」



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714 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:09:55.20 ID:jiMS7eDVO

黒服2「うろこ雲か……」


 年嵩の黒服が暮れなずむ空に散らばる黒い雲の欠片をながめながらつぶやいた。

 十五階のゲスト用の宿泊室の北側に面した壁面はガラス張りになっていて、周囲のビル群を見下ろし睥睨することができた。

 日がな一日天候は不安定で、鈍色の空からポツポツと雨滴が降り落ちてはやみ、またポツポツ降り始めるという具合だった。それだけならたいしたことはないが、なにしろ風が強かったので、傘が手の中で独楽のように暴れまわるのがやっかいだった。

 茜色の空の天頂のあたりが青みがかった薄闇に染まりはじめていたが、全体としてはまだ赤い部分が支配的で風のうねる音はビル群にのしかかる竜の唸る声のようだった。


真鍋「台風が近いってな。予報で言ってたぞ」


 真鍋が麻酔銃の照準をたしかめながら言った。平沢は隣で拳銃を分解して整備している。若い方の黒服はベッドで本を読んでいる。真鍋たちを挟んだベッドの反対側にデスクがあり、戸崎が椅子に座り並べてノートパソコンでニュースを見ていた。下村はいつものように戸崎の側にひかえている。


中野「なあ!」


 弛緩してはいないが張りつめてもいない待機時間に耐えかねて、中野が叫んだ。


中野「いつ来るんだよ、やつらは!」


 中野は準備万端で、ショルダーホルスターを付け予備のマガジンを両脇から下げている。
715 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:11:07.33 ID:jiMS7eDVO

戸崎「それはわからないな。二分後か二週間後か。張り切るのはいいが、気張りすぎるのもよくない」


 デスクのところから戸崎が返事をした。中野はあまり納得していない様子で窓とは反対側にあるソファを指差して言った。


中野「じゃあ、あれは?」

戸崎「あれは……」


 戸崎は首を巡らしソファに視線をやった。


戸崎「張らなさすぎだな」


 視線の先にあるソファはシックな色調のソファで、そこに永井がだらしなく寝ころがっていた。永井は戸崎たちに背を向け、右足をソファからはみ出させ親指の先を床に垂らしていた。永井の履いていたスニーカーは寝ころがってから脱ぎ捨てられたので、左右の靴がそれぞれ意思を持ったように別々の方向に先を向けてソファのまえに転がっていた。


中野「永井、そんなんでいいのかよ」


 中野がつめよってきても、永井はなにも言わずボーッとしてるままだった。


平沢「中野、ほっとけ」


 平沢が手元の拳銃に視線を落としたまま言った。


平沢「というより、ほっといてやれ」
716 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:13:05.58 ID:jiMS7eDVO

 それから一日が経過した。佐藤の襲撃はまだなく、永井も無気力に寝ころがったまま。いまは通路のベンチに横たわり、背中をガラス張りの窓に向け太陽の光を浴びて暖まっている。


中野「おい」

永井「あ?」


 うとうとしているところに中野がやってきた。ベンチの端を軽く蹴り、永井の意識をしゃっきりさせようとした。


中野「永井、ビビってんのか?」


 つっかかるような言い方ではなかった。中野は永井の不安がどこにあるのかわからないながらも、どこかはげますような声でつぶやくように言った。


中野「いいじゃねえかよ、負けたって。次がんばれば」

永井「中野……次なんかないんだよ」


 身体を起こしながら永井が応えた。


中野「死なねえんだから次くらいあんだろ」

永井「佐藤にドラム缶詰めされて余生を送るだけだ」 

中野「そうなったら警察か自衛隊がなんとかしてくれんだろ」

永井「対応が遅い」
717 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2018/11/04(日) 21:15:03.08 ID:jiMS7eDVO

 そう言ってから永井は左手を前に持ってくると右肘だけで支えていた上半身をさらに起こし、中野の顔をじっと見据えた。


永井「なあ……おまえにはわからないだろうけど、こんな好条件は二度と揃わない。これが失敗したら、確実に終わりなんだよ」


 そして、永井は中野の言葉を肯定した。


永井「ああ、そのとおりだ。僕はビビってる」


 そのとき、ベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル(現ボーイング・ローラークラフト・システムズ)が共同開発した垂直離着陸機?V-22 オスプレイが音もなく突如として窓の外に現れた。

 コックピットに佐藤の姿がみえた。


佐藤「やあ」


 プロップローターは回転しているのに、なぜかその音が窓を震わせることはなかった。にもかかわらず、佐藤の挨拶を永井ははっきりと耳にした。

 M134 7.62mmミニガン・ターレットが駆動する、その様子が、永井の眼に、ストップモーションのように、分割された、時間として、写った。


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718 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:16:09.33 ID:jiMS7eDVO

「ギロチンで首を斬られても、数十秒は意識があるらしいね」


 と、佐藤が言う。


「私の昔の知り合いはワイヤーを使ってベトコンの、まだ子どもだったんたけど、その十三歳くらいのベトコンの首を切ったとき、その子の意識はちゃんとあって、じっと彼の眼を見つめていたそうだよ」


 そう言う佐藤の手は血で濡れていた。


「そのことを思い出してね、それで私もやってみたんだ」


 佐藤は手に斧を持っていた。斧の刃は血塗れで、ねっとりと輝ている。


「二回やって一回成功した」


 よく見れば、斧の刃に髪の毛が張りついていた。


「失敗した方はきみにあげるよ」
719 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:17:38.18 ID:jiMS7eDVO

 そう言って、佐藤は頭ひとつ投げてよこした。ごろごろ転がってきた。完全な球じゃないから、ときどきぽんと跳ねたりした。眼の前にやってきたそれは長い亜麻色の髪をなびかせ、ぴたりと止まると、その顔を見せた。


 美波の顔をしていた。


 自分がいまいる建物が崩壊しつつある、足場がぐらつき、コンクリートが崩れる轟音と窓ガラスが割れる音、そして吹きすさぶ狂暴な風の音が耳を襲った。

 それらの音が自分の喉から絞り出された絶叫だと気づいたとき、佐藤は首のない死体を引き摺ってビルの屋上から飛び降りようとしていた。

 死体は夏用の学生服を身にまとっていて、首の断面から黒い粒子が湧き出していた。


 新しく出来た永井圭の顔が、首だけになった美波を見た。
720 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:19:28.54 ID:jiMS7eDVO

 アナスタシアは眼を覚ました、汗びっしょり、三十秒してようやく眼が自分の部屋の天井を認める、あまりの悪夢に泣きたくなる、息を吐く、ベッドから這い出ようとする、パジャマがべっとりしている、冷たい感触に嫌な予感をおぼえる、掛け布団をめくる、人型の染み、地図にはなってない、安堵ともに気が抜ける、落ちるようにベッドから出る、しゃがみこみベッドの縁に頭を預ける、が二度と眠れそうな気がしない。

 頭を沈み込ませていると、頸椎に押され皮膚が伸びてゆく感じがした。アナスタシアは額にマットレスの反発を感じつつ、頭のことを考えた。額から後頭部にかけての丸み、そこから首の付け根までを頭のかたちとして意識する。首の後ろの皮膚を張り出している首の骨、ここを絶たれると亜人も死ぬ。正確には断頭され、その頭部を回収範囲外に置かれたまま復活すると新たに頭部が作られる。そのとき、断頭された方の頭部、生まれたときから存続してきた意識は死をむかえる。

 断頭のことを聞かされたとき、アナスタシアは「断頭=死」という永井が認識している等式をイメージとして感じ取ることができなかった。運転席で話を聞いてる中野も同様で、「全然わからない」と全然わかってなさそうな表情で言った。
721 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:20:45.91 ID:jiMS7eDVO

 永井は宗教的な意味での魂とかスワンプマンの思考実験などといった方向から説明するのを一瞬であきらめ、中野とアナスタシアのスマートフォンを頭に見立てて説明することにした。


永井「これをもともとのおまえらの頭部だと思え」


 永井は右手に中野のスマートフォンを掲げながら話はじめた。おまえらと言いつつ、永井は中野にもアナスタシアにも視線をあわせず正面を向いたままだった。


永井「断頭時、この頭部が回収範囲の外に出たとする。新しい頭部がつくられ、まったく同じ記憶・心もつくられるが、離れた頭部から意識が抜け出して新しい頭部に移るわけじゃない。新しい人格は生きているが、離れた頭部の人格は永眠している。つまりこっちがこうなると」


 そこまでしゃべったところで、永井は車の窓から中野のスマホを投げ捨てた。


中野「え? 投げた?」

永井「これが新しくできる」


 今度は空いた手でアナスタシアのスマホを掲げる。
722 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:22:04.22 ID:jiMS7eDVO

中野「おれのケータイ投げたの?」

永井「そうだけど」


 「なんで投げたんだよ」と叫びつつ中野は運転席から外に飛び出した。アナスタシアが前部座席で繰り広げられている滑稽なやり取りに呆気にとられていると、スマートフォンがひゅるひゅると縦に回転しながら眼の前にやってきた。


永井「機能的には同じだが、存在的にはまったく別。そのスマートフォンと同じだ。機種変更する前のものと同じデータを保存し、同じ機能を果たすけど、構成している物質はまったく別。スワンプマンが定義的に歴史性を持たないのと同じ」


 アナスタシアは投げ返された自分のスマートフォンを見つめた。蚊を叩くようにパチンと手を合わせて受け止めたそれは、一月ほどまえに買い換えたばかりの新しいスマートフォンで、永井の説明を反芻しながら眺めてみると、どこか見慣れない、いつも使っているものにかたちは似ているけど違和感を放つ物体のように思えてきた。

 もし切り離されたら、切り離されたことに気づいているのは自分だけになる。亜人にとって断頭は、物理的な切断にとどまらず、時間的な切断でもあり──誕生したときから記憶を保存し、細胞を入れ換えながらおおきくなって感情を育んできた器官が経験した年月の切断──、わたしは死んでいるのに、周囲の人間はそのことに気づかない。友だちも家族も気づかない。わたしの死を知っているのは、わたしだけ。それは、あまりにも絶対的な孤独だと、アナスタシアには思えた。
723 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:23:33.66 ID:jiMS7eDVO

中野「おい、ケータイ見つかんねえぞ」


 中野が助手席の側に寄ってきて、永井に話しかけてきた。


永井「あるだろ、そこらへんに」

中野「おまえも探せよ」

永井「めんどくさい……」


 永井は自分のしたことなどすっかり忘れたかのように気だるげにぼやいたが、シートの背もたれに背中を深く預けた姿勢でポケットからスマートフォンを取り出すと、アスファルトの上だかどこかに転がっているはずの中野のスマホに電話を掛けてみた。

 着信音が鳴り響いたが、位置まではわからない。画面が光っているはずなのたが、射すようなブルーライトの眩しさも眼に写らなかった。結局、三人は車から降り(アナスタシアがなんとか永井を降ろさせた。そのときの永井は渋々としていた)着信音に耳をすませるとその音はこもって聴こえ、音がするところに近づくと側溝を覆うぶ厚いコンクリートふたの隙間から光が洩れ出していることにきづいた。

 中野はさっそくふたを持ち上げにかかった。ふたの重量はかなりのものだったが、持ち上げられないこともない。だが、ふたの持ち手、つまり隙間は片手の指が四本入るか入らないかくらいしかあいておらず、渾身の力を込めてもふたを側溝からどかせられるほどはあがらなかった。
724 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:26:02.27 ID:jiMS7eDVO

中野「手伝ってくれ、永井」

永井「指が擦りむける」

アナスタシア「アーニャがやります」


 アナスタシアは憮然としながら前に進んだ。言い訳するにしてももっとましな説得力のある言い方をしてほしいものだというふうに態度で示しているかのようだった。

 その白くて細い指を隙間に入れるまえに、中野が「ちょっと待って」とアナスタシアを制した。ふっ、と気を抜くように息を吐き、わずかに力を抜いてから右腕に──指、手首、上腕にかけて──一気に力を込める。ふたがふたたび、さっきよりも少し持ち上がり、中野がアナスタシアに「いま!」と指示を飛ばす。

 アナスタシアが指を突っ込み、身体ごと持ち上げる。ふたがくっと上がり、止まる。少しだけしか上がらなかったが、中野が左手の指を入れ込むだけの隙間はできた。

 指からふっと重さが消える。ふたは一瞬、垂直になって静止したかと思うと、銃で撃たれた者のように後ろに倒れた。コンクリートのふたがアスファルトにぶつかったときの衝撃はすさまじく、それこそ銃声のような音を響かせた。事実、アナスタシアはその音のあまりの大きさにたじろいでしまった。
725 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:27:22.78 ID:jiMS7eDVO

 中野は膝まづいて側溝にぽっかり空いた暗闇に眼を凝らした。眼が形を判別すると、手を伸ばし闇のなかを探る。指がスマートフォンに触れる。

 側溝から取り出し、おそるおそる起動させる。パッと画面が明るくなる。傷ひとつない。中野とアナスタシアは安心と感嘆が入り交じった声をあげる。


「おおー」


 その様子を見ていた永井がこぼす。


永井「幽霊使えばよかったのに」


 ふたりして「あ」と、感心と間抜けさが混じった声を出したところでアナスタシアは顔をあげた。時計を見ると、ベッドから這い出したときより二十分ほど時間が経っていた。

 どこからが思い起こした記憶でどこまでが夢なのか、アナスタシアには判然としなかった(“断頭”のことを聞いたのはたしか、スマートフォンを窓の外から投げたかどうかはわからない、永井だったらやりかねないだけに余計にわからない)。
726 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:28:56.61 ID:jiMS7eDVO

 九月になり、すこしずつ日の出の時刻は遅れ始め、カーテンを開けてみてもまだどこか薄暗い。アナスタシアはぼおっと窓の外を眺めていると、だんだんと風景に光の量が増えていく様子が眼に映った。

 外を見ながら、アナスタシアは友だちはもうすぐ学校に行くのだろうと考えた。でも、わたしは別の場所に行く。

 友だちが死んだと告げられた日、担任にカウンセリングを勧められたアナスタシアはそれを受け、結果としてすこしのあいだ休学を許された。仕事についても同様。また精神衛生上、日中の外出が推奨され、そのためアナスタシアは言い訳やごまかしなしで毎日フォージ安全まで足を運んでいる。

 両親や仲間や友だち、プロデューサーにカウンセラーや担任が考えているのとはことなり、アナスタシアの気持ちは消沈していない。そのことでどこかしらズルをしているような後ろめたい思いはあるが、それもわずかなもの、心の大半を闘志が占めていた。

 アナスタシアは外出の準備を整える。人混みに紛れ、電車に揺られる。目的地付近の駅で降り、十分ほど歩く。到着。

 フォージ安全ビル。

 日付は九月八日、時刻は午前八時十二分。

 アナスタシアは待つ。佐藤が来るまで。


ーー
ーー
ーー
727 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:31:40.47 ID:jiMS7eDVO

「来いよ。佐藤」


 永井は佐藤に宣戦した。ミニガン・ターレットが獰猛に吼え、ヘリポートが剥がれ散り、ビルの上部が喰い千切られる。永井の身体もばらばらに吹き飛ばされる。だがその直前に走馬灯、またも時間の分割、痙攣、細かな震動の刹那の合間に存在する停止、そこに佐藤の“表情”が見えた。

 その“表情”は見たことがないものだったが、聞いたことはあった。……ベトナム、一九七六年の“プレイボール”……

 ソファに横になったまま、永井はなかば寝ぼけたまま、しかしまばたきせずにあたりを眼だけで慎重に見回した。カフカは『審判』の草稿から抹消した箇所でこう言っている。(作者は不要な箇所を抹消するわけではない)。
728 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:33:09.73 ID:jiMS7eDVO


 だれか私にこう言った者がありますよ──それがだれだったかはもうおもいだせまんけれどね──、朝目がさめて、少なくとも大体のところで、すべてのものが動かされずに、ゆうべ置いてあったとおりの同じ場所に置いてあるのを見つけるのは、なんといってもすばらしいことだ、とね。なぜといって、睡眠中と夢のなかでは、人は少なくとも見かけたところ、起きているときとはまったく違う状態にいたわけですからね。まったくその男が言ったとおりなんですが、目をあけると同時にその目ですべてのものを、いわばゆうべ置きはなしにしておいたのとおなじ場所にとらえるというためには、無限の沈着さがいることですし、沈着さというよりは、むしろ機敏さのいることなんです。ですから目のさめる瞬間というのも、一日のうちでいちばん危険な瞬間なのだ、自分のいた場所からどこかへ連れ去られて行ったりはしないで、その危険な瞬間が克服されてしまえば、人は一日じゅう自信を持っていられる、というわけなんです。


 すべてのものは永井が夢を見るまえに置いてあってところからほんのすこしも動かずそのままの位置にあった。よく見ると、平沢と真鍋のまえにあるテーブルの上にふたりが点検中の拳銃その他の装備品のほかに、拳銃を差し込んだままのショルダーホルスターが置いてありそれは中野が付けていたものだったが、いまでは肩掛けの部分が混乱して自暴自棄になった蛇のようにこんがらがって放置してある。中野は年嵩の黒服と並んでガラス窓のところに立ち、景色を見下ろしながらくっちゃべっている。

 永井はそのような変化ともいえない部屋の様子の変化を見てとると、ごろんと背中を向け、半分だけ眼を閉じた。のこりの半分は眠気に落ちてくるにまかせた。

 九月八日はこのように過ぎ去った。

 それから、五日が過ぎた。


ーー
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ーー
729 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:34:30.51 ID:jiMS7eDVO

 ──九月十三日


 デスクの上にある社用のノートパソコンが警報を報せた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室で火災警報……」


 火災の検知と同時にガス噴射装置が作動し、二酸化炭素ガスがサーバー室の消化を開始した。火災の規模は小さく、火はすぐに消しとめられた。

 戸崎はパソコンを見ながら、思案した。待機を始めてから初めての異変。


平沢「被害が出るほどの規模じゃないな。誤作動ということもあるらしいしな」


 デスクに近づいてきた平沢がパソコン画面を覗きこみながら言った。

 微妙な異変だった。異変の規模こそ小さいが場所が場所だけに違和感がある。確かめないわけにはいかない。しかし大きく介入すれば、秘密裏にしていた自分達の存在が露見しかねない。どの程度の措置をこうずるか。一同は戸崎の判断を待った。


永井「みなさん、配置についてください」


 突然の指示に全員がソファに視線を向けた。永井が肘で上体を起こした格好をしている。顎が肘掛けの上にのせている。永井はのっそりと身を捩らせ、顔をあげると、静かに確信を込めた一言を口にした。


永井「来るぞ」


ーー
ーー
ーー
730 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:35:48.83 ID:jiMS7eDVO

 火災警報装置の作動から一時間ほどが経過した。

 フォージ安全ビル正面の道路に一台のバンがあった。二時間前にエンジンが切られ、停車したきりで誰も乗り込まず降りてこずの状態だったバンのドアが突然開いた。

 男が三人、バンから降りる。三人組は縦に並び、ずんずんとビルに向かって突き進んでいく。

 ビルの正面で警備にあたっていた警官がその様子に眼をとめる。あきらかにほかの歩行者とは異なる。歩調、速さ、視線の強さ、どれをとっても不審を抱く。

 三人組は手に何かを持っていた。先頭の男は右手に棒状のものを握っている。列から二番目の男の顔が判別できるまでの距離になった。警官は男たちが手に持っている物体が何なのかわかる。同時に先頭の男の正体に気づく。
731 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:37:50.81 ID:jiMS7eDVO

警官「あ!」
 

 警官は肩の無線に手を伸ばした。

 田中は警官の手が動くと同時にショットガンの銃床を肩にあて、狙いをつけ、引き金を絞った。

 警官の口と右手が吹っ飛んだ。

 銃声に怯え逃げ惑う人びと。悲鳴が沸き起こり、しだいに遠ざかっていく。

 田中たちはフォージ安全ビルへと突き進む。

 ビルの前ががらんとした空白地帯になる。人の賑わうオフィス街にぽっかりと無人の空間ができる。警官の欠けた喉からひゅーひゅーと濁った呼吸音が漏れ出す。警官の眼は青い空と白い雲、天を衝く高層ビルを捉えている。やがて見えている景色がだんだんと暗くなり、耳に聴こえるざわめきは遠くなった。警官自身がたてる音もちいさくなってゆく。


 奇妙なほどしんとした静けさが漂うその空間には、口のない死体だけが残されていた。

ーー
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732 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:52:46.71 ID:jiMS7eDVO
今日はここまで。

前回の更新の時に来週には更新しますといっていたのに、遅くなってしまい申し訳ないです。

>>706
ありがとうございます。

ノベライズみたいだな…とは書いてる本人も思っています。追加した亜人がアーニャ一人なので、フォージ安全の後半まで展開を変えられなかったのは悩んでいたので、コメントはとてもうれしかったです。

細部のつけたしはこれも楽しいんですが、読んでてどうかと……とくに永井と中野とアーニャが無意味な感じの時間を過ごすのは十代だし、こんな感じに適当に過ごしてほしいと思って書いたんですが、本編にまったく関係ないですしね。

ハロウィンネタのおまけ短編はこんどこそ今週中に更新できるかと思います。
733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/04(日) 23:05:44.74 ID:epLBYzTr0
おつー
前の永井Pなコメディ短編も面白かったからハロウィン期待してる
734 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:07:28.41 ID:vr0r0Ve5O
予告したいたハロウィンネタのおまけを投下します。

本編との時系列や整合性はかなり適当
735 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:08:19.11 ID:vr0r0Ve5O

「トリック・オア・トリート」


 部屋に入ってきた四人が声を揃えて言った。

 休憩中の永井がドアの方に眼を向ける。アナスタシア、ありす、奏、文香の四人がハロウィンの仮装をしてやってきていた。


永井「ああ、そうだった」

アナスタシア「お菓子をくれなきゃ、イタズラしますよ?」

ありす「え、ほんとにするんですか?」

文香「わたしは、その、あまり勇気が……」

奏「……白状すると、わたしも」

永井「ちゃんとあるから」


 永井は立ち上がり、用意していたお菓子を四人に手渡した。

 そのお菓子をまじまじと見つめながらアナスタシアが言った。
736 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:09:59.37 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「これ、お菓子、ですか?」

永井「お菓子だろ」

ありす「おせんべいに、おかきとあられ」

文香「たしかにお菓子ですが……」

奏「米菓ね」

永井「安かったから」

アナスタシア「あまいのがいいです」


 ハロウィンなのに雰囲気をまったく考慮しない永井にアナスタシアは不満たらたら。永井はめんどうそうに顔をしかめて、デスクに戻ると床に置いてあった段ボールを持って戻ってきた。

 段ボールを床に置き、中から橙色をしたまるいものを取り出すと、永井はふたつずつ配った。

737 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:11:58.63 ID:vr0r0Ve5O

永井「山中のおばあちゃんが送ってくれた柿。熟しててあまいよ」

アナスタシア「ハロウィン……」

永井「色は似てるだろ」

文香「おおきいですね、この柿」

ありす「入れ物にはいらないです」

永井「ならここで食べてく? 皮むくよ」

奏「あら、いいの?」

永井「手間じゃないから」


 四人がソファに腰を下ろして待っていると、食べやすいおおきさにカットされた柿の鮮やかな橙色が白い皿に載せられてやってきた。柿にはプラスチックのつまようじが刺さっていて、まろやかな感じのライトグリーンが柿の実とは対比的で眼に映えた。


永井「お茶も淹れてくる」


 そこで永井はふと気づいたことを口にする。


永井「姉さんはいっしょじゃないの?」


 四人とも美波と親しい関係なのに、姉は不在だった。


アナスタシア「ミナミは……アー」

奏「肌を出して弟にお菓子を貰いいくのとか無理だし、イタズラとかもっと無理って」

永井「肌を出さなきゃいいんじゃ?」
738 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:13:41.10 ID:vr0r0Ve5O

 永井がお茶を持って戻ってくる。


ありす「ありがとうございます……あの、永井さんもごいっしょにどうですか?」

奏「そうね、ひさびさに映画と本の話をしたいしね。ねえ、文香」

文香「ええ、永井さんはどちらにもお詳しいので……ちなみに、これがなんの仮装かお分かりですか?」

永井「黒猫ですね。どこの国の小説ですか?」

文香「ロシア文学を意識してます」

永井「ロシアで黒猫だと、ベゲモートですか? 『巨匠とマルガリータ』の」

文香「流石です……!」


 文香は眼を輝かせた。密かなコンセプトに気づいたのは永井が最初だった。


奏「今年はみんなロシアを意識した仮装をしてるのよ」

アナスタシア「ナヤーブリ……十月は、ロシアで大切な月、ですから」

永井「なら、去年やれよ」


 ムッとするアナスタシア。ピリピリするまえにありすが話題を変える。
739 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:14:30.12 ID:vr0r0Ve5O

ありす「あの、永井さん、わたしの仮装はどうですか?」

永井「それはハリネズミ?」

ありす「はい、そうです」

永井「じゃあ、『霧の中のハリネズミ』だね。ヨージックだったっけ?」

ありす「正解です。えへへ」

永井「映画は速水さんが勧めたの?」

ありす「はい。いっしょに観ました」

奏「ちょっとまえにBlu-rayが出たから、それでね」

永井「なるほど」


 永井はアナスタシアに視線をやった。白いドレス、頭に花冠。柿を食べる手を止め、得意気な表情。マイナーな選択で勝ちを狙ってる。


アナスタシア「アーニャのは、むずかしいですよ?」

永井「『妖婆 死棺の呪い』」


 あっさり答える。永井はふてくされるアナスタシアから文香に視線を変える。
740 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:16:27.46 ID:vr0r0Ve5O

永井「原作はゴーゴリでしたっけ?」

文香「はい。永井さんはゴーゴリはお読みに?」

永井「主要な作品は。最近、後藤明生の小説を読んだので、読み直したいと思ってるんです」

文香「『挟み撃ち』は『外套』が下敷きになってますからね。芥川龍之介や宇野浩二もゴーゴリの影響下にいますし。というより、明治の作家はほとんど影響下にあると思います」

永井「坪内逍遙が『小説神髄』で〈小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。〉と書いて近代小説には写実的リアリズムが重要だと主張してますが、これもゴーゴリの作風の一部分と到底する主張ですよね」

奏「ねえ、ふたりとも、わたしたちを置いてけぼりにして楽しい?」


 会話が深まりそうなところを奏が軌道修正する。文香は熱中ぎみになったのをはずかしがりつつ、ありすに詫び、ありすはふたりの対話の深まりに感心するばかり、アナスタシアはさっきから柿を食べていて、また食べ始めた。


永井「スーツ……なんだろ、レーニン?」


 こんどは奏の仮装を当てる番。永井はあてずっぽうに答えた。ロシア映画でレーニンといえば、それはもうやっぱりほとんどヒーロー扱いされていたから(セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』の象徴としてのレーニン、ミハイル・ロンム『十月のレーニン』『1918年のレーニン』の普遍性をもった小市民としてのレーニン)、二割くらいの確率で当たるかなと思っていた。
741 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:17:18.33 ID:vr0r0Ve5O

奏「残念」

永井「だよね。髪の毛そのままだし」

奏「おでこ見ないで」


 奏は前髪の分け目からのぞく額を手で隠した。


永井「映画の登場人物?」


 永井が訊いた。


奏「まあ、そうね」

永井「で、ロシア?」

奏「……言うほどロシアは関係ないかも」


 奏の歯切れがだんだんと悪くなってきた。


永井「さすがにわからないな。答えは?」

奏「……ジョン・ウィック」
742 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:21:06.77 ID:vr0r0Ve5O

永井「アメリカ映画だけど」

奏「ほら、劇中ではバーバ・ヤーガって呼ばれてるじゃない」

文香「スラヴ民話に登場する妖婆ですね」

ありす「でも、アメリカ映画なんですよね?」

永井「敵対するのがロシア系の組織だから」

ありす「はあ」


 あまり納得してない様子のありす。アナスタシアはお茶をふーふーしている。まだけっこう熱い。


奏「やっぱりレーニンのほうがよかったかしら?」

永井「『十月』だしね。かつらとかなかったの?」

奏「自分から話を向けてなんだけど、本気で勧めようとするのはやめて」
743 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:23:15.46 ID:vr0r0Ve5O

 話題はまた映画について。

 『MEG ザ・モンスター』の撮影監督がトム・スターンで驚いたという話題から、ハリウッド大作映画の撮影監督ははんぱない一流カメラマンがクレジットされることがあるから油断できないという話題に。

 『アントマン&ワスプ』のダンテ・スピノッティ、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のハビエル・アギーレサロベといった名前は否応なしに人を興奮させる(かれらの名前は、クリント・イーストウッド、マイケル・マン、ヴィクトル・エリセといった名前を連想させる)。

 『ジョン・ウイック:チャプター2』はサイレント時代のコメディ映画のオマージュがあるという話。冒頭、ビルの壁面に映写された『キートンの探偵学入門』と銃口に囲まれたポスターイメージはハロルド・ロイド主演の『都会育ちの西部者』の話。チャーリー・チャップリン+バスター・キートン+ハロルド・ロイド=ジャッキー・チェン。最近のトム・クルーズもこの流れ。


永井「懸賞金がかけられたところで、僕のときは一億円って言われたなって思った。ラストとか僕がトラックに轢かれたあとの感じそのままだった」

奏「永井君、たまにリアクションしづらいこと言うわよね」

ありす「リアクションしづらいとか、そういうレベルじゃないと思いますが」

永井「実際に体験してるとやっばりね。『ザ・プレデター』(なにげにハロウィン映画)で麻酔銃がいっぱい出てくるんだけど、麻酔ダートを人の眼に撃つ描写には驚いたな。あんな死に方は僕もしたことない」

文香「あの、怖くはならないのですか?」

永井「映画は映画ですし」

奏「前にも言ってたわね、それ」
744 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:24:34.69 ID:vr0r0Ve5O

 小梅がホラー映画に出演することが決まったときの話。永井が通りかかり、ちょくちょく映画の話をしていた奏が呼び止める。どんな映画と永井が訊くと、小梅はスマートフォンでティーザー予告を見せた。手術台に拘束された男が電動ノコギリで腕を切断される。永井がひとこと。


永井「これ、されたなあ」


 言葉を失うふたり。スマートフォンを返しつつ、永井がさらにひとこと。
 

永井「公開されたら観に行くよ」

奏・小梅「「観に行くの!?」」


 奏が小梅のあんなにおおきな声を聞いたのははじめてだった。

 そんなこんなで話題は永井との印象深いエピソードへと移行した。

 奏がもうひとつエピソードを披露する。永井の好きな映画のタイトルがあからさまに狙いすぎという話。永井が挙げた三つの映画のタイトル──クレール・ドゥニ『死んだってへっちゃらさ』、ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』、ジム・ジャームッシュ『デッドマン』──。

 文香の場合はもちろん本が介在した。
745 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:26:01.42 ID:vr0r0Ve5O

 文香の忘れものを永井が届けにきたときの話。忘れものはもちろん本で、いまでは絶版、文香は内心あわてふためていた。

 そんなとき、永井が本を携えてやってきた。


永井「これって鷺沢さんのですか?」


 そう言って見せたのは、ウィリアム・ギャディスの『カーペンターズ・ゴシック』だった。

 ウィリアム・ギャディスはアメリカ合衆国・ニューヨーク出身の小説家。寡作ながら非常に評価が高く、“JR”と“A Frolic of His Own”によって全米図書賞を二度受賞した。作風はポストモダンと称されることが多いが、モダニズム的な色合いも強く、デビュー当時はジェイムズ・ジョイスに似ていると評されることも。トマス・ピンチョンやドン・デリーロなどと並んで、作品はいずれも大部。特に『JR』以後の作品では、ト書きのない脚本のような書き方が顕著で、「誰がしゃべっているのか」、「この人物はどういう人物か」、「今しゃべっている人たちはしゃべりながら何をしているのか」などといった情報は、読者が発話内容から推測しながら読み進めなければならない。また、登場人物の発話も、言いかけて途中でやめたり、言い直したり、他人の話の最中にさえぎったりなどして、非文法的な不完全文が多いが、それによってリアルなせりふとなると同時に、そこにプロット上の仕掛けが施されていたりする。 ──Wikipediaより引用

 「自由にテーマを展開するピンチョンをジャズに、緻密に語りを組み立てるギャディスをクラシック音楽にたとえる比喩がわかりやすいだろう。」とはアメリカ文学者であり、ギャディスの長編『カーペンターズ・ゴシック』と短編『シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五−八七号』の訳者である木原善彦のギャディス評。
746 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:28:35.13 ID:vr0r0Ve5O


 文香は本を見るなり、喜び、そして喜びのあまり永井に本の紹介しそうになるが、思いとどまる。

 ウィリアム・ギャディスは訳書が『カーペンターズ・ゴシック』のみ。日本ではまったくもってマイナーな存在で、文香の通う大学の図書館にも置いてなかったほど。

 そのような作家について熱っぽく語るほど相手を引かせることはない。文香にもそれくらいのことはわかる。まして、このときは永井と話したことは数える程度。しかも仕事で。

 というふうに文香が気持ちを落ち着かせて、そうだお礼を言わなければと思い出したとき、永井がふとした調子で質問した。


永井「ウィリアム・ギャディスの小説って鷺沢さんのところにまだありますか? 洋書でもいいんですけど」

文香「ギャ、ギャギャ、ギャディスをご存じで!?」


 驚き、いきなり距離を詰める。永井はひょいと横に避ける。文香がよろめく。壁に手をついて転ぶのを防ぐ。無人空間への壁ドン。


永井「大丈夫ですか?」


 永井が後ろから声をかける。ちいさく「はい……」と応えた文香の顔が真っ赤になったことは言うまでもない。
747 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:29:41.05 ID:vr0r0Ve5O

奏「受け止めてあげたらよかったのに」


 話を聞いた奏がひとこと。さすがにあきれ口調。


永井「いきなりだったから」

文香「あのときは、ほんとうに……」


 お礼か謝罪か、どちらを口にすればいいのか、文香が言いよどむ。声をかけられ、永井は温度のない眼で文香をみやった。


ありす「わたしのときは良いアドバイスをもらえましたよ」


 微妙な空気が漂う前にありすがエピソードを披露する。

 ラジオのコーナーで、趣味や得意分野のジャンルが異なるふたりが相手のジャンルについて想像であるあるネタを披露し、当たった数が多い方が勝利するというのがあり、ありすは文香に本にまつわるあるあるネタを投げ掛けなければならかった。

 十個の投げ掛け。七つまではなんとか考えついたが、のこりの三つが難しかった。

 収録前日、うんうん悩んでもやっばり思い付かない。と、そこに永井がやってくる。

 永井は姉である美波はもちろん、尊敬する文香や奏やアナスタシアとよく話している。とくに文香とは読書に関する話題だけでなく、ネット上に公開されている論文をダウンロードする方法や、文献管理ソフトの使い方についても話していて、それがのちに文香がありすにタブレット端末の使用について質問するきっかけにもなった。

 そういった経緯もあり、ありすは永井といちどちゃんと話してみたいと思っていた。

 チャンスはいまだと思い、ありすは永井に話しかけた。
748 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:31:25.62 ID:vr0r0Ve5O

永井「読書に限らなくてもいいんじゃないかな」


 ありすから相談された永井が答えた。


ありす「どういうことですか?」

永井「行為そのものの体験量は鷺沢さんが圧倒してるから、それ以外、たとえば本屋でどう過ごすかとか、目当ての本以外に手にとってしまったこととか」


 そう言うと永井は思いつくままに紙にあるあるネタを書き付けた。


本屋の会計で一万円を越えなかったらあんまりお金を使わなかったとほっとする。

いっぱい買ったときは買ったときで手提げの紙袋が用意されるから、ちょっとうれしい。

親族か友人から本でなく本棚を買えと言われた。

というか、大学生なんだからパソコンくらい買えとも言われた(レポートや論文書くときどうするの?)


 最後のは違うかな、とつぶやくと永井は四つ目の文章に横線を引いて、ありすにメモを見せた。

 三つ目の文章のちょっとしたユーモアにありすはふふっと声を洩らした。

 永井のスマートフォンに着信がはいった。永井は全部そのまま使ってもいいよ、口元を手で隠しているありすに言い残しその場を離れた。
749 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:34:53.15 ID:vr0r0Ve5O

 その夜、ありすはうーんと悩んだ。自分でいくつかあるあるネタを考えてみたが、永井の三つよりピンとくるものがない。永井は使っていいよと言っていたが、七つのあるあるネタと並べてみると自分で考えたわけではないから違和感があるし、なんだかズルい気もする。

 もうすぐ就寝時間、ありすは美波を経由してSNSで永井に相談したみた。

  自分が考えたあるあるネタとその評価、正直に自分が感じている逡巡を吐露した。

 メッセージを送って二十分、永井からの返信。



 メッセージ確認しました。

 橘さんはどちらの文章を使っても自分らしさを出せないことに悩んでいるんですね。

 僕の文章で自分らしさを出せないのは当然ですが、橘さんがあとから考えた文章も前に考えた文章と比べると、自分で決めた水準に達していないからこれも自分らしさを出せていない。そのように感じているのがメッセージから伝わりました。

 結論からいえば、どちらを使ってもコーナーは成立すると思います。

 このコーナーの主旨は互いに知識が乏しいと思われる領域に対して、アイドルとしての個性を出しながら接していくかという点にあると思います。ゆえに必ずしも投げ掛けるあるあるネタの精度が高くなくても相手のリアクションやそれに対するこちらの受け答えによっては、僕が考えた文章を使うよりも良い反応を呼び起こすことが可能でしょう。

 ただ失礼だけどこの方法は、橘さんにはちょっと不向きかなと思います。橘さんのアイドルという仕事に対する姿勢には真摯さを感じます。力量を見定めながら事前にプランを設定し、それを実行していく。プロフェッショナルな態度です。

 その分、アドリブに弱いところもあります。自分で納得のいかない文章を使うとなればハプニングが起きたときの動揺はより大きくなるでしょう。

 もちろん、それでコーナーがおもしろくなるのであれば、と橘さんが考えるのであればその選択もオーケーでしょう。ただ、やはり僕としては橘さんが納得できる方法をとってもらいたいと思います。
750 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:36:12.26 ID:vr0r0Ve5O

 さて、僕の文章を使った場合に生まれる齟齬についてですか、これを解決する方法はふたつあると考えています。

 ひとつは僕の文章をもとに橘さんが自分の納得のいく文章を作り上げること。これは齟齬をなくすという方向性なのでわかりやすいと思います。

 もうひとつはあえて齟齬を前に押し出してみること。この前に押し出すという行為に橘さんの個性を出してみてはどうでしょうか。

 これは裏を返せば自分で考えた文章ではないと認めることになります。そのことで苦言を呈されるかもしれません。

 何度も言いますが、僕の書いた文章をそのまま使ってもらってもまったく問題ありません(同じく僕の名前を出す必要もありません)。

 僕たちの仕事はアイドルの方々にまっとうに全力をもって仕事に取り組んでもらい、輝ける手伝いをすることです。

 橘さんを悩ませている自身の納得とコーナーの成立というのは、理想と現実の擦り合わせそのものです。その擦り合わせに納得できる結果がうまれること願っています。 

 それでは、おやすみなさい。

 僕ももう寝ます。お返事は明日にでも。

 
P.S.
 明日の本番は午後三時からでしたね?

 本番の一時間前までにメッセージを送ってもらえば返信可能です。また相談したいことがあればぜひ。
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