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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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919 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/05/08(水) 01:16:24.30 ID:fqQjd7qK0
乙おつ
そういえば結構前からやってるんだなこれ
920 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:00:06.93 ID:LhxyyD+T0
洋画リメイクなら佐藤役はあえての浅野忠信でもいけるんじゃないかと思う
佐藤にもアジア人の血入ってるし、調べて知ったけど本名が佐藤忠信だったし
921 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:01:26.48 ID:LhxyyD+T0
13巻といい今回の14巻といい対亜人特選群かっこよすぎません?
922 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/07/04(木) 22:11:02.79 ID:ftj14UQ5O
ここのところ忙しく次の更新は今月末くらいになりそうとだけご報告。

本編の更新は次回分で一旦止め、余ったレスはおまけで埋めていこうかと考えています。

次スレは書き溜めがある程度できたら立てるつもりです。


P.S.
亜人最新話、佐藤さんが勝手に閉会式を始めてて笑いました。首相の開会の挨拶は邪魔してたのになあ。はた迷惑な人だわ。
923 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:56:31.30 ID:TPJ777ywO

誰よりも早く動いたのは平沢だった。それは動作を開始した時点という点でも、動作そのものの素早さという点でも、その両方の意味において、永井に微笑みを与えている佐藤や笑い声を廊下中に響き渡らせている平べったい頭の黒い幽霊たちよりも素早く迅速に行動を始め、気づいたときには終わっていた。

平沢は拳銃を麻酔銃に持ち替えると、永井だけしか見ていない佐藤めがけて麻酔ダートを撃った。

麻酔薬の詰まった矢が水平に真っ直ぐ飛ぶ。帽子の男から溢れ出た黒い幽霊たちは矢にまったく無関心で、視線を投げることも見送ることすらしなかった。


佐藤「あ、しまった」


胸に刺さったダートを見下ろしながら、佐藤が言った。


佐藤「油断しちゃった」


まるで全身を支えている骨がとつぜんすべて無くなってしまったかのように両足がくにゃりと曲がり佐藤は崩折れていった。平沢は佐藤が床に倒れるまでの間にナイフを握った左手が右の手首に伸びていく様子を目撃した。そのことに気づいていたのは平沢だけだった。

フラッドによって発生した幽霊たちは倒れる佐藤に眼もくれず、永井の首にじっと視線(もちろん眼球など有していないが、その先細る矢じりのような頭部の先端すべて)を送っていた。幽霊たちの視線はとある実現の可能性が濃厚な予感がを永井に与え、その予感によるひりつく恐怖が首輪のように喉を締め付け、永井をその場に拘束させたかのように動けなくしていた。

そのようなとてつもない恐怖をあたえているIBMたちだったがそれらにぜんぜん悪意はなく、ただたんに自らが発生した原因、存在理由の根本にいっさいの疑義を持つことのないままそれを遂行しようとする。

それら──十二体のIBMたちは永井を断頭するために発生した存在だった。
924 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:58:04.76 ID:TPJ777ywO

永井のすぐ右側にいるIBMが腕を振り上げた。その手と鋭く尖った爪はあまりに黒かったため、明かりのない通路の中でもその動きをはっきりと見てとれた。


中野「永井!」


中野が咄嗟に永井に飛びつく。

突き飛ばされ、永井は床に転がった。ふと首の後ろに痛みをおぼえ、血が背中へと流れていくのを感じる。シャツの襟から肩甲骨のあたりにかけて一筋の赤い染みができていた。

正気に戻った永井が起き上がって走り出そうとする。だが幽霊たちの挙動はあまりに素早く、あっという間に永井たちに追いついた。


平沢「IBMで援護しろ」


すかさず平沢がアナスタシアにむかって叫んだ。アナスタシアはびくりと震えたあと、ぎこちない動作で首を回し、平沢を見た。そこには平沢にとって見慣れた顔があった。戦場で何度も見てきた顔だった。あちこちを飛び交う銃弾、ひゅんひゅん飛んきてで空気を切り裂くそれらのうちの一発がこの世との最後の邂逅になるだろうと悟ったときの顔。アナスタシアの顔はもっと悪い。あちこちにいるのは黒い幽霊たちだったからだ。

平沢はアナスタシアの肩をひっ掴み、鋭い調子で叱咤した。


平沢「助けなければ死ぬぞ」


突き抜ける声の響きによって、アナスタシアが意志を取り戻す。
925 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:59:16.36 ID:TPJ777ywO

前を向くと、永井のIBMが集団の先頭に立つフラッドのIBMに向かっていきり立っている様子が眼に入った。永井のIBMが腕を振りかぶり、平らな頭部めかげて軽く開いた右手を打ち下ろそうとする。フラッドのIBMは瞬時に体勢を低くし、眼の前の相手の腰に肩からぶつかっていった。勢いそのまま、左腕で腿を抱えたフラッドのIBMは同時に右手を四十五度の角度で突き上げていた。掌底が頭部に衝突し、永井のIBMはあっけなく敗北した。

永井と中野が背後にかまわず走り続けている。背後から迫ってくる、墓掘人が迫ってくる、追いつかれたら墓を掘られる、墓掘人は手で墓を掘る、土のかわりに肉を掘る、横たわる肉体を墓のように掘る、背中の肉を掻き分ける、背骨を掴む、頭を丸ごと引っこ抜く、追いかけてくるのはそういうやつら、走ってくる、壁を這ってくる、天井をつたって追いかけてくる。やつらの関心はたったひとり。そしてそれは幸運なこと。

黒い星十字が一直線に駆け抜け、笑い声を渦巻かせている群体から飛び出してくる。

アナスタシアのIBMは先頭を走る断頭をしたいだけのIBMを追い抜き、追いつかれそうになっていた永井と中野の背中を掴んだ。一歩踏み込むと同時に腕を引いて二人を引き倒したかと思うと、次の瞬間にはアナスタシアのIBMは二人をぶん投げていた。

宙を舞い、禿頭と銀髪の頭上を永井と中野が飛び越えていく。星十字はそれを見守ることなく瞬時に踵を返すと、先頭を走るフラッドのIBMに意趣返しの右ストレートを突き放った。首のない幽霊と星十字が黒い氾濫に飲み込まれてった。

階段へと続くドアのところまで転がる二人をアナスタシアが追いかける。痛みを堪えうずくまる二人のシャツの襟や腕を掴んで引っ張りながら、アナスタシアは慌ただしく叫んだ。


アナスタシア「立って立って立って!」

永井「うるせぇ……」


身体を起こしながら、永井は小さな声で悪態をついた。

平沢が三人に合流する。手には通路に備え付けてあった消火器を持っている。

消火器を見た途端、永井は平沢の意図に気づいた。

926 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:00:32.28 ID:TPJ777ywO

平沢「IBMをありったけ発現しろ!」

永井「行け行け行け!」


中野とアナスタシアを追いやるように階段へと促し、永井は振り返って平沢の様子を見た。


永井「平沢さん!」


平沢は通路に置いた消火器を後退しながら撃ち抜いた。

白い噴煙が通路のあちこちにふりかかるのと同時に永井はあたう限りの黒い粒子を放出する。噴煙と粒子はそれぞれの層を作り、白黒を完全に色分けされた流動がもうひとつの氾濫となってフラッドのIBMたちに迫っていく。黒い粒子がかたちを作り始める。頭、胴体、手足が形成され、霧の中に潜んでいた怪物が獲物を求めるときのような叫びが消化剤の煙幕から鋭い反響をともなって轟わたる。複数のIBMが噴煙から飛び出し、永井の断頭を目論む集団と衝突する。


平沢「永井、もういい。退け!」


七体目のIBMを発現したところで、平沢が永井に向かって叫んだ。

縺れ合う絶叫と笑い声。黒い幽霊たちが身体を捻じ曲げながら白煙をかき混ぜ、狭い通路で殺し合いを演じている。マニエリスム的な通路の状況に背を向け、永井は階段へと遁走する。


アナスタシア「ケイ、急いで!」

中野「永井、早く!」

永井「先に行ってろ!」


手摺から身を乗り出す二人にいらだちながら永井が叫び返した。

踊り場まで駆け上がり平沢に追いついたとこで、先行していた二人は身体を反転させ階段を上った。
927 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:01.26 ID:TPJ777ywO
undefined
928 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:49.35 ID:TPJ777ywO

十五階の踊り場のドアが吹っ飛んだ。ひとつに纏まった黒い塊も同時に飛び出してきた。強い圧力によって変形したドアは壁にぶち当たり、うるさく音を立てながら階段を転がり落ちていく。黒い塊の上半分がテープを剥がしたときのように起き上がり、その扁平なかたちの頭部を永井のいる踊り場に向けた。



『は、は、は』


永井を睨めあげながらIBMが笑う。

ずるりと起き上がり、一足飛びで永井のもとまで跳んでいこうとするフラッドのIBM。真横から現れたアナスタシアのIBMが飛びついてそれを食い止める。足が床から離れた瞬間に肩からぶつかり手摺まで追いやる。二体のIBMが手摺の隙間から落下していく。永井は十六階と十七階のあいだの踊り場で平沢たちに追いついた。中野が持っている消火器の暗い赤色が眼に入った。階段を駆け上がる途中、壁を引っ掻く音が下階から聴こえ、思わず顔を左に向けた。何かの残像が一瞬だけ視界を通過したかと思うと、引っ掻き音が右側から近づいてきていた。脳裏に大振りのナイフを振りかぶる佐藤のイメージが蘇り、永井は反射的に右腕を振り上げ、首を守った。次の瞬間、壁から跳躍したIBMが永井の腕と首の皮膚を噛み千切った。

腕を吐き捨てたIBMは筈にした左手を喉に食らわせ、永井を壁に押し付けた。IBMが手に力を込める。首の骨が折れ、脳の重みによって右に傾いた永井の頭にIBMが右腕をのばす。

階段から跳躍した中野がIBMの頭部に身体ごとぶつかった。永井の頭部を掴む寸前に黒い右腕に自分の腕を回し、中野はIBMの身体を支柱のようにして宙で右側へと回った。遠心力によってIBMがすこし右に傾いた。一拍遅れてアナスタシアが階段を駆け下り、腕を開いて肩から膝にタックルする。痛んだのはむしろアナスタシアの肩の方でIBMはビクともしなかったが、さすがに纏わりつく二人をわずらわしく思ったのかIBMは首の折れた永井を投げ捨て、対処することにした。消火器が階段を転がり落ちてきた。
929 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:03:55.69 ID:TPJ777ywO

IBMは左手をピースにし、自身の首と右腕をがっちり固めている中野の両眼を突いた。中野は熱によく似た痛みに叫び、眼を両手で覆った。指の隙間から血が涙のように流れ、溢れ出た。IBMは左膝を両腕で抱きしめ、押し倒そうと踏ん張っているアナスタシアのスラックスから露出した左のアキレス腱に右の拳を打ち下ろした。足関節が丸ごと潰され、血と骨のかけらが床に飛び散った。

復活した永井の耳に中野の絶叫とアナスタシアの悲痛な泣き声が届く。IBMと視線がかち合う。IBMがアナスタシアを跨ぎ越えて、階段のすぐ前にいる永井に近寄ってくる。永井は後ずさろうと身体を起こす。一番下の踏段で転がるのをやめた消火器が右肘がぶつかる。そのとき、右腕がまだ再生していないことにに気づく。永井は咄嗟に消火器を掴み、唯一の策を実行しようとするが操作に手間取って消火器のピンを抜けないでいた。


平沢「永井!」


声に反応した永井が消火器を平沢の方へ投げる。みっともない動作で叩きつけられるように投げられた消火器は弧を描くこともできずに床を転がっていった。

視線を床に戻したとき、黒い幽霊の足がすぐ眼の前にあった。その左足首に白く細い指がからみついていて、後方の闇には血が描いた赤い線が浮かび上がっていた。それはIBMの足首にすがりついていたアナスタシアが引き摺られるがままにされたことによって床に描かれた線だった。砕かれた足関節が床に擦れると、アナスタシアは激痛に苛まれ、みじめに泣き叫んだが手を離すことはしなかった。永井とアナスタシアの視線がかち合った。

IBMはアナスタシアのことなどまったく気にもとめず永井を見下ろしている。IBMは今度こそ断頭を成功させるため、永井の首に手を伸ばした。永井はその手から逃れるように身体を前に出し、IBMに迫った。親指の爪が右耳を裂いたが永井は再生途中の右腕を上げて、偏平な形をした頭部に向けて突き出した。黒い粒子は螺旋を描きながら腕を形成していく。分解作用をもった粒子の運動がIBMの頭部を襲う寸前、平沢が消火器のノズルをIBMへと向ける。消化剤がまっすぐに噴射され、IBMを眩ませる。永井が白い靄が隠しているその箇所めがけて腕を突っ込む。
930 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:05:12.11 ID:TPJ777ywO

永井の視界が突然暗くなる。左側頭部に衝撃が走り意識が一瞬途切れ、続いて圧迫感と痛みに襲われる。IBMの右手が永井の頭部を掴んでいた。IBMが力を込めると、するどく尖った爪が額を突き破り、頭蓋骨に食い込んだ。IBMが左手で永井の喉を掴む。


アナスタシア「ニェーニェー!」


アナスタシアがロシア語で悲鳴をあげる。

中野が悲鳴のした方向に顔を向ける。ちょうど突然視界を奪われたことと痛みによるショックから立ち直り、ポーチの拳銃を手探りで見つけたところだった。


中野「アーニャちゃん、どこ!?」


アナスタシアがはっとする。痛みに叫ぶ永井の声がすぐ上から聞こえてくる。


アナスタシア「まっすぐ、そのまま!」

平沢「体勢を低くしろ!」


平沢の声はどこかくぐもっている感じがした。

言われた通りの位置に向かって、言われた通りの姿勢を保ちながら中野が走った。

喉を掴むIBMの手が永井の頚動脈を突き破った。浮きあげられた永井を見上げるアナスタシアの青い眼に血が降りかかってきた。まさにその瞬間、中野がIBMにぶつかった。膝がくの字に折れ曲り、IBMは倒されるのをふせぐため右脚を前に出した。咄嗟の行動の勢いがあまってIBMの右手が永井の額を引きちぎった。平沢はその瞬間を見逃さなかった。永井の頭部を一発で撃ち抜くと、復活までの時間を稼ぐために消火器を投擲しつづけて撃った。
931 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:06:08.01 ID:TPJ777ywO

IBMと三人の姿が白さに隠される。平沢は深く息を吸い腹筋に力を込めると一気に立ち上がり、煙幕が漂う空間に歩を進めた。

煙の中から何者かの身体が倒れるように躍り出てきた。暗闇のせいでその姿ははっきりせずただの黒い塊に見える。そのシルエットから判断できる唯一のことは首から上がないことだった。平沢が拳銃を構えながら黒い身体ににじり寄る。そして黒さの理由が暗闇のせいではなく、身体そのものにあることに気づく。

平沢は銃口を煙幕の方へ向け、無造作に連射した。それから平沢は煙を手でかき、階段の前に漂う白さを晴らしていった。

三人は折り重なって床に倒れていた。三人とも見事に撃ち抜かれ、それぞれ負傷した箇所もすっかり修復されている。いちばん上にいるのが永井で、アナスタシアがいちばん下で下敷きになっている。


永井「つかれた」


永井がぼそっと、ベットに倒れ込んだときのように呟いた。


アナスタシア「重い……です!」

中野「のけよ、永井!」

永井「腕、まだ治ってないんだけど」


永井はそう言ったがそれはIBM同士の衝突が印象に残っているためだった。自身の右腕が再生していることに気がつくと永井は起き上がった。左手で中野の背を押してグッと身体を起こしたので、いちばん下にいるアナスタシアの背中がつぶされ、カエルみたいなうめき声を出した。
932 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:07:17.36 ID:TPJ777ywO

平沢「五分が過ぎた。おそらくフラッドは収束した」


立ち上がった永井の顔を見つめながら、平沢が言った。


永井「たぶん佐藤は復活してる。グズグズしてられません」


そう言うと永井は視線を中野とアナスタシアに向けた。ちょうど中野がアナスタシアの手を取って身体を起こすのを手伝っているところだった。


永井「もたもたすんな」


永井はさっとを背を向け階段を上っていった。


中野「マジかー……」


疲労感が残っているような声を中野が洩らした。アナスタシアも同調してささやかにうめき声を発した。


ーー
ーー
ーー

933 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:21:53.21 ID:TPJ777ywO

屋上までは問題なくたどり着いた。いつのまにか永井を追い抜いて先頭を走っていた中野がドアを手で押した。


中野「閉まってるぜ!」


中野はずっと握っていた拳銃をドアに向け、二回撃った。銃弾はドアにわずかな凹みをつけ、跳ね返って暗闇を飛んだ。跳弾した弾のうちの一発がアナスタシアにあたった。アナスタシアは踊り場まで転げ落ち、あらぬ方向に四肢を捻じ曲げてしばらくのあいだ死んでいた。永井も中野も理解の追いつかない眼で踊り場の死体を眺めていると、頭がばっと跳ね上がった。

復活したアナスタシアがさすがに憤懣やるかたないといったふうに叫ぶ。


アナスタシア「どうしてですか!?」

永井「おまえ、下で見張ってろ!」

中野「だな!」

永井「早く上がってこい!」


永井がアナスタシアにむかって叫んだ。ドアの前までやってくると、永井が電子ロックの上下十センチ程のところを指し示しながら言った。


永井「ココとココに穴を開ける。設計図で見た限りそれで開くはずだ」

アナスタシア「でも、どうやって?」

永井「僕の両腕を切り落とす」

934 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:22:38.27 ID:TPJ777ywO

アナスタシアは驚愕のあまりわずかなうめき声すら出せなかった。そのせいか背後で平沢がナイフを抜いた際、ナイロン製のケースと擦れる静かな音がいやに耳を衝いた。平沢はドアの前まで来ると永井が指し示した箇所をナイフで引っ掻き、バツを描いて目印を作った。


永井「佐藤がどうやってあの穴を開けたか……」


言いながら、永井は平沢と入れ替わるように階段の方へ戻っていった。数段下りると振り向いてしゃがみこみ、右腕を一番上の踏段に置いた。


永井「まず、奴は自分の腕を切り落とした。手持ちの道具ではそれなりに時間がかかっただろう。次にその腕を復活時、回収できる範囲外に捨てる。過去のデータから見て五〜十メートルで圏外だろう。そして社長室に戻り、自殺。新しい腕が作られる。が、そこで傷口をドアに押し当てた。こうすると腕を作り出さなければならない空間に障害物ができるわけだ。亜人はどんな状況だろうと肉体をフラットに戻す。再生の障害となる物体があれば、それを分解し始める。そうやって穴を開けた」

アナスタシア「物体を、分解……?」

永井「特別なことじゃない。おまえや中野の肉体でも何度も起きてることだ」


印をつけ終わった平沢がアナスタシアにナイフを手渡した。

永井はナイフを見つめるアナスタシアを見上げながら話を続けた。

935 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:23:25.15 ID:TPJ777ywO

永井「撃たれて復活したら体内の弾丸は無くなってるだろ? 同じ理屈だ。それに消すわけじゃない。たとえば肝臓が作り出すアルコール分解酵素。これはけっして体内に入ったアルコールを消すのではなく、アルコールと反応して人体に無害に物質に変化させるだけだ。おそらく似たようなことが起きてるんじゃないか? 亜人は再生の際、障害となる物体を分解するための未知の物質を……作り出してる」


永井の話が終わっても、アナスタシアはナイフを持ったまま棒立ちになっていた。ナイフを持たされた意図を理解しておらず、あきらかに戸惑っている。

しびれを切らした永井が「腕に当てるんだよ」とアナスタシアを叱り飛ばした。

アナスタシアはまだ多少の戸惑いを残したまま、おろおろと膝を折り、ためらいがちにナイフの刃を永井の腕に当てた。


永井「ちゃんと両手で握ってろ」


アナスタシアの様子を見た永井がきつい調子で言葉を発した。


平沢「いくぞ、いいか永井」

永井「よくはないですよ」


永井は忌々しさを表情に表しながら言った。

平沢が足を踏み下ろした。

アナスタシアの両手に衝撃と生々しい切断の感触が伝わった。


ーー
ーー
ーー
936 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:26:36.46 ID:TPJ777ywO

ビルの屋上は風が激しく吹いていた。風は冷たく、皮膚に震えを催させ、吹き上げられた髪が乱れ舞い、風音がうるさく、耳の奥が痛くなるほどだった。新鮮な空気が身体に染み渡るが、あまりに透き通っているからか、呼吸には適さない。鼻の奥がツンと痛くなった。

ごうごうと鼓膜を突き刺してくるかのように吹き荒れる風は、しかし、どこか虚しさと寂しさを感じさせた。風は身体全体にぶつかってきたが、どこか届かないところから鳴っている声みたいに思えてならない。

アナスタシアはふと行き止まりに辿り着いてしまったときのような、物哀しい、感傷的な気持ちに襲われた。家出した子どもが何日も飲み食いせず、腹を空かせたまま、ぼんやりとした記憶を頼りに自由になれる場所を目指し、歩き疲れても足を前に出してようやく辿り着いた場所が、果てしなく広がる海だったときのような……。目指すべきものは自由なのか。自由とは状態であり、地点ではない。求めるべきものは出口であって、出口は自由と異なり固定的な一点に過ぎない。

ビルの屋上は空中に固定されていて、足場を担保する四辺の向こうには無辺の空間が拡がっている。この真っ暗闇が出口なのか、ここから先、重力に従って、望ましい状態はやってくるのか。紫色の雲は空全体を埋め尽くしていて、明るい期待はいっさいなしだと視界の上端に雲を映しているアナスタシアに告げているようだった。

発達した低気圧の洗礼を浴びた中野がぶるっと身を震わせた。 中野は手のひらで腕をこすり、鳥肌のたった肌をすこしでも温めようとした。摩擦で生まれたぬくもりはすぐに冷えた。中野はあたためるのをあきらめ、容赦なく吹こんでくる風に眼をしばたたせながら振り返り平沢を見た。


中野「で、どうするんだ!?」


中野は平沢に訊く。


平沢「逃げるぞ」


まるで曲がり角にきたことを指示するように、平沢はあっさりと言ってのけた。

937 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:27:24.36 ID:TPJ777ywO

中野「え、でもよ……」


激しく吹き荒れるビル風にかき消されるまでもなく、中野の言葉はそこで途切れた。中野はなにかを探すように視線を彷徨わせた。見えたのは不愛想なコンクリートの屋上の床ばかりだった。風に揺れ動くものは何もなく、階段を駆け上がってきたせいで火照って汗をかいた身体ももうすっかり冷え込んでしまっていた。


平沢「中野、作戦は失敗した。戦うにしても一度態勢を立て直す必要がある」


落ち着いた諭すような口振りで平沢は中野を言い含めようとした。それは中野自身うすうす感じていたことだった。永井は屋上に来てから一言もしゃべらない。アナスタシアも不安そうに身を縮こまらせている。強い横風が屋上に吹き付けてきた。平沢も強風に煽られたが翻るのは服だけで、大木のようにどっしり構え風の冷たさにも平気そうに見えた。

息継ぎをするかのように風が一時やんだ。中野が俯いている。空気が沈黙しているあいだに平沢は中野にむかって静かな声で言い聞かせた。


平沢「やつに勝つためだ」

中野「くそ……」


アナスタシアも悔しさに俯いた。敗北したのはもはや確定事項だと理解せざるをえなかった。あれだけの犠牲を払って、なにひとつ状況を良くすることができなかった。眼がじわりと熱くなり、アナスタシアはとっさに顔を空に向けた。厚ぼったい紫色の雲が巨大な塊になって風に流れていっている。星々はまったく見えない。星々は雲の上、空の上、宇宙のなかで、地上の出来事とまったく関わりなく輝いている。そんな予感をおぼえたアナスタシアの心にぽっかりとした無情感が生まれた。美しいもの、平和なもの、輝けるもの、そのようなすべての喜ばしいものは物理的な条件に左右されることなく存在するが、観察は可能でも所有したり属したりすることはできない。虚無的な考えの去来にアナスタシアは打ちのめされた。

永井は風の流動を見えているかのような透明な視線で他の三人を視野に収めていた。中野が屋上の縁に近づき、アナスタシアの身体の重心が中野の移動につられて傾くのが永井には見えた。

938 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:28:34.00 ID:TPJ777ywO

中野「うお!」


下を覗き込んだ中野が叫んだ。後をついてきていたアナスタシアもおそるおそる顔を出す。それまで意識の外にあった地上や周囲のビルの窓から洩れる明かりが色とりどりに輝いているのが眼に入ってきた。地上に埋め込まれた光を見ていると、風のせいではない悪寒が背筋を走り抜けた。


平沢「はやく飛び降りろ」


地上を見下ろし呆然としている二人の背中に平沢が声をかけた。平沢は拳銃を握り、屋上への入口を見張っている。


アナスタシア「ヴイソーキー……」

中野「うん。慣れたと思ったけどこれは高すぎだな……」


アナスタシアのつぶやきに中野が共感を示した。中野は今までの経験から落下中の体感と落ちた後の血の広がりを想像してぞっとした。そしてふと平沢のことに思いあたり、振り返って訊いた。


中野「平沢さんはどうやって逃げるんだ?」


平沢は視線を中野に返してから応えた。


平沢「向こうに窓清掃用のリフトがある。それでだ」


永井はさっきと変わらぬ位置から三人の様子を透明な感情で見ていた。風が息を吹き返したかのように屋上を駆け抜けていった。前髪が一斉に風になびき、視界がいっそう開けた気がする。平沢のジャケットの前の裾が手を使って三角形に折り曲げたかのように持ち上がってその裏地が見えた。ジャケットの裾が元に戻った。永井はようやく気づきかけていたことに気づいた。

ふたたび風が、猛烈な殴りつけるような勢いで吹きつけてきた。中野の身体がぐらっと後方の闇に向かって揺れ、そのまま帰ってこなかった。
939 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:29:26.78 ID:TPJ777ywO

中野「あっ」

アナスタシア「アッ」


あまりにもあっけなく落下していったので、アナスタシアは宙を掻く手を掴むことも思わず悲痛な声で名前も呼ぶこともできず、中野と同じ小声で驚くことくらいしかできなかった。「ああぁ、ぁ」という悲鳴が真っ暗闇から耳に届いたが、すぐにか細くなって消えてしまった。


平沢「まったく、あいつは」


平沢が呆れ声を洩らす。怒っているような感じはまったくない。表情こそ微笑んでいなかったが、声の調子は微笑んでいる。そんな感じのつぶやきだった。


平沢「おまえら、早く行け」


残った二人に向かって平沢が言った。もう声に微笑むようなかすかなやわらかさはなく、命令めいた厳格さがあった。


永井「先に行け、アナスタシア」


永井に話しかけられ、アナスタシアは平沢のほうに向けていた顔を永井に移した。はじめて見る顔だった。何かの予感、不吉で受け入れがたい予感が確信に変わったのに、それを隠しているかのような透き通った何物も見つめていない眼を永井はアナスタシアに向けていた。アナスタシアは永井から見られている気がせず、むしろほんとうに永井のことを見ているのか不確かになる気持ちにさせられた。


永井「僕は平沢さんを、どこで拾うか話してから行く」


永井の声は平沢とはちがい、すこしも急かすような調子は感じられずフラットそのものだった。そのことがアナスタシアの背中を押した。自然とそうすべきだと思えた。永井が平沢と話す時間をつくるべきだといういたわりにも似た感情が起こり、作戦の失敗のために逃げるという事実も一瞬忘れてしまった。

とはいえ、恐怖は感じた。屋上の縁に立ち、前に倒れこむか、それとも足から落ちていくか逡巡したが、意を決して瞼を閉じ、失神することを願いながら川に飛び込むように足から落ちていった。


平沢「おれのことは待たなくていい」


アナスタシアを見送るように下を眺めている永井の背中に向けて、平沢が言った。


永井「平沢さん」


永井は顔を上げ、虚空にひろがる闇から平沢へと視線を戻し、鋭く言った。
940 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:30:23.95 ID:TPJ777ywO

永井「清掃用のリフトなんか無い」


永井は平沢の顔から上着へと視線を下げた。おもむろなゆっくりとした視線の移動は平沢にそのことを告げるためのようだった。永井は上着のある部分を見つめながら、こんどは静かな声で言った。


永井「あと、なんで上着のボタンを留めてるんです?」


二人はわずかなあいだ、共に押し黙った。向き合う二人のあいだを相変わらず風が流れていたが、いまはゆるやかだった。次に出てくる言葉をたがいに承知しているときの沈黙が風に移し込まれているようだった。


平沢「ああ。くらった」


そう言ったとき、ジャケットの裾を伝って血が一滴、滴り落ちた。


永井「あのときですね」


永井はプール室での銃撃を回想しながら言った。


平沢「防弾ベストの隙間からな」


まるで他人事をつぶやくかのように平沢が付け加える。


平沢「当たりどころも悪かった。大勢見てきたからよくわかる」


そう言うと平沢はふっーと静かに息を吐き、永井の顔を見つめた。悟ったような表情をしている。大勢見てきたもののほとんどをその場に残してきたことを平沢は吐息とともに思い起こしていた。


平沢「おれはもう死ぬ」


抜け出していくものを止めようがないことをふたりは知っていたが、実際に言葉となって伝わると心が重くなる感覚が沁み渡っていくのを永井は感じざるをえなかった。


永井「……ですね」


息が詰まりそうな声で永井は平沢に応じた。
941 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:31:52.24 ID:TPJ777ywO


平沢「持っていけ。おれにはもう必要ない」


平沢は沈黙の間を作らないように真鍋から返された拳銃を取り出し、永井に渡した。真鍋の拳銃は黒服や永井たちが統一して使用しているシグザウエル P220ではなくベレッタ M92Fで、銃器に詳しくない永井は見た目ではなく手に持った瞬間に感じた重さで支給された装備とは別の種類の拳銃だと気づいた。重さの違いに気づくと手に持った感触も別のものに感じられた。見た目の違いもあったし永井もそれには気づいたが、やはり重さと感触の違いのほうがはっきりしていてリアリティがあった。そのベレッタにはひとつの物語があった。拳銃には特定の人物の生きられた時間があり、この黒い物質とともにその時間まで移譲されたかのようだった。

永井が手渡されたその時間的な重さにかすかに戸惑っていると(というのも無意識の領域で感じ取っていた時間の重さは永井がこれまで背を向けてきた歴史性に他ならないからだった)、かん、かん、かんという等間隔の歩幅から繰り出される足音が屋上へ続く階段から響いてきた。
佐藤が姿を現した。


佐藤「もう逃げるのかい? 永井君」


佐藤は問いかけを投げたのにもかかわらず永井の返事を聞く事なく草刈機を作動させ、耳障りな高めの回転音を響かせ示威を見せつけるかのようにその場に立っていた。


平沢「逃げろ、永井」


佐藤を見据えながら、平沢が落ち着いた声で永井に語りかけた。


平沢「このビルからだけじゃない。この戦いすべてからだ」


佐藤が身体を前に傾け一気に駆け出した。それでも永井はその場から動かずにいた。その気配を察知した平沢は固定していた視線を永井に向け、あらためて諭すような声で言った。


平沢「おまえが戦わなきゃならない義理はない」


その言葉を受け、まず反応を示したのは眼だった。最初に見開かれて、まるい眼球を覆う粘膜が風に晒された。永井は眼を細めたがそれは風のせいではなく、内側からせり上がってくる痛みにもよく似た熱のせいだった。

永井は平沢と同じ方へ向き直り、決然として言った。
942 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:32:52.55 ID:TPJ777ywO

永井「やだね」


永井は弾薬ポーチから麻酔銃を引き抜いた。


永井「ぜったいに、いやだ」


接近する佐藤に麻酔銃を向けるが、これほどの強風が吹く中でまともに当てるのは難しいとすぐにわかった。麻酔銃そのものが風のせいで激しく振動した。永井は両手に力を入れ、ノズルの先についているフロントサイトに効き眼をあわせ、佐藤を待ち構える。胴体を狙う、もっと近付いてから、胴体を撃つ。早鐘を打つ心臓を落ち着かせる呪文を唱えるように、永井は心中でつぶやいた。


平沢「楽しかったよ」


平沢の声はやけにやさし気で、思い出を慈しむようで、声のする方向から考えても平沢が佐藤ではなく永井を見つめながら言ったのはあきらかで、だから永井は平沢へと視線を向けた。


平沢「息子たちを見てるようで」


永井を見つめるふたつの眼があった。ひとつは眼鏡越しに見える平沢の瞳、もうひとつは黒くてちいさな銃口。永井の眼はその黒い穴に注がれた……一瞬だったが、長い時間のように感じられた……ともかく、その瞬間はやってきた。


平沢が引き金を引いた。


943 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:33:47.05 ID:TPJ777ywO


佐藤「あ!」


ぱん、と乾いた音がした。永井の頭が思いっきり仰け反り、身体が暗闇に落下していった。永井が握っていた麻酔銃が風に吹かれ、はらはらと布切れのように遠くに流されていく。

佐藤はバスに乗り過ごしたみたいにそれらを見送った。


佐藤「どうしよう……飛び降りて追いかけようかな」


佐藤は動力を切った草刈機を所在なさげに肩からぶら下げていた。真剣味のかける声で佐藤が悩んでいる横で平沢が弾切れになった拳銃を捨て、留めていたジャケットのボタンに手をかけた。


佐藤「いや、やめとこう。これが壊れちゃうだろうし。それに……」


佐藤はストラップを肩から外し、草刈機を無造作に屋上に放った。がたっという鈍い音が響き、同時に平沢が脱ぎ捨てたジャケットが風に舞って飛んでいく。

平沢が拳闘の構えを見せる。白いTシャツは腹部が血に染まっていて、出血部である右脇腹には四つ折りにされたタオルが当てられ、ガムテープで固定されている。ショルダーホルスターには永井の腕を切り落とすのに使ったナイフがまだ残っている。


佐藤「いいよ、やろうか」


平沢に同調した佐藤が同様の構えを取る。
勝負の終わりがどうなるかは互いに承知していた。


ーー
ーー
ーー

944 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:36:59.20 ID:TPJ777ywO

永井「クソッ、クソッ……」


永井はビルの窓の出っ張りにたった三本の指を引っ掛けて奇跡的にしがみついていた。指に力を込めると爪が出っ張りの部分を引っ掻き、食い込で痛んだ。永井の筋力で片腕で自身の体重を持ち上げることはかなわず、爪が剥がされるときのような痛みの数歩手前の予感を指先から感じながら、一分もしないうちに落下するであろうこの状況を呪うことしかできないでいた。


永井「クソッ!!」


自棄になった永井がIBMを放出する。頭部と右腕がまず形成され、舞い上がる粒子が上半身と下肢を連結させているあいだ、永井のIBMははじめに作られた右腕で横の出っ張りを掴み、頭を少し突き出した格好で永井を見下ろしていた。

全身が出来上がってもIBMは同じ姿勢を取り続けて動こうとはしなかった。きわめて乱暴な自我を持ち凶暴な振る舞いしかしてこなかった永井のIBMがこのときばかりは、その場に永井しかいないためか命令を待ち受ける飼い犬のようにおとなしくしていた。

永井はIBMを見上げた。息切れが激しい。苛立ちが募り、誰かを憎んだときのようなうめき声が喉からこぼれた。


永井「役立たずが」

IBM(永井) 『?』


永井から敵意に等しい罵倒を浴びせられてもIBMは意味を理解できず、小首を傾げる仕草を見せるだけだった。突然、それまでより一層強い横風がビル街を吹き抜け、か細い指先で体重を支えていた永井のを吹き飛ばし、暗闇にさらっていった。

永井を見送ったあともIBMはその場にとどまり、首をめぐらしあたりを見回した。真上を向き、しばらくのあいだ空を見上げていた。IBMはふいにかつて永井が中野にため息混じりにこぼした言葉を意味ありげにつぶやいた。
945 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:39:06.68 ID:TPJ777ywO


BM(永井) 『……先……行ってて』


言い終わった途端、IBMは驚くべき軽やかさでビルの壁面を昇っていった。その軽やかさは猿の木登りよりも鳥の飛翔のほうに近い運動を示していた。軽業めいた動作で一分もしないうちに天辺まで上り詰めたIBMが最後に片腕の力だけで持ち上げた身体を屋上に着地させ顔を上げると、鼻血を出し瞼を切った佐藤が息を切らした様子で夜気を肺いっぱい吸い込んでいる姿とその足元に倒れ伏してピクリともしない平沢を見てとった。タオルを当て止血を施していた腹部の傷からあらたに出血し、佐藤の靴先を黒く濡らしていた。


佐藤「いやぁ……タフな人だったよ!」


IBMの姿を認めた佐藤がまだ抜けきらない興奮に染まった声で語りかけてきた。

IBMは突発的に『あ、あ、あ』、と音節を区切った絶叫を発しながら、佐藤に向かって飛び出していった。


佐藤「はは!」


同じタイミングで佐藤も真正面に駆け出した。ビルの東側から走ってくるIBMと直角をなすように、屋上の南側に向かって佐藤はスリルを味わいながら疾走していく。


佐藤「断頭はできなかったけど期待しているよ!」


佐藤が叫ぶ。IBMはコースを斜めに修正して佐藤に接近していく。

追い風が吹いて佐藤の背中を押した。目下に街の灯りが風景として拡がって見えた。
946 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:40:24.10 ID:TPJ777ywO


佐藤「最終ウェーブでまた会おう、永井君」


佐藤は屋上から跳びだし、その身を暗闇へと投げ出した。そのすぐ背後でIBMの腕がむなしく振り抜けいていった。は、は、は、と佐藤の笑い声が切れ切れに聞こえ、やがて消えていった。

ひとり取り残されたIBMは意味もなく佐藤が飛び降りたところを眺めていたが、ふとした拍子に振り向き平沢を見やった。もうしばらく前からそうだったしわかっていたことなのだが、平沢は死体になっていた。


死とは、おまえが世界にされるがままの存在になること。


フランツ・カフカ式の文章がはたして自我を持っているとはいえIBMの思考から生じたかどうかは不明だが、死体となった平沢の肉体は世界に起きるあらゆる現象や法則に無防備に支配される状態になっており、すくなくともそのことはIBMも理解していたようだった。

いつのまにか視点がクレーンを用いたカメラのごとく上昇し、ビルの屋上の周囲が開け、明かりの灯る街を一望できるほど高くなっていた。平沢の姿は小さな点になったかと思うと、すぐに見えなくなってしまった。

頭部の崩壊がはじまり、上昇する黒い粒子のひと粒ひと粒が視覚を獲得したかのような風景の拡がりは実際にIBMが知覚するところのものだったのか、リンクのない永井には不明だし、IBMはすでに消え去ってしまっていた。

風がごうと唸って乱れ行く。最後の粒子の漂いが空気の流動によってさらわれてゆく。

ビルの屋上で動くものはもう誰もいなかった。


ーー
ーー
ーー

947 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:42:36.03 ID:TPJ777ywO

潰れる音と砕ける音が混ぜ合わさった人間が本能的に忌避する不快な落下音が背後から響き、落下物の周囲にいる記者やカメラマンたちの背筋に蜘蛛が駆け抜けていくような寒気が走った。

落下音は周囲の人間の心象に赤い血が広がる様子を喚起させ、事実近くにいた人間の靴やズボンの裾には飛び散った血が付着しており、そこからカメラや視線を上げると大きな血だまりの中に落下の衝撃によって、砕けて折れて潰れて捻れた人体があった。

何人かは眼を背けたが、カメラマンのうちの半数はカメラを向けたままでいた。シャッター音が鳴り渡り、もっと近くで撮影するため前方の人を押しのけようと怒声があがった。

一眼レフを持った若い男が血だまりに気をつけながら死体に近寄り膝をついて構図の中心に収める。

そのとき、永井が息を吹き返す。

記者たちはまずはじめに眼の前で死んだ人間が生き返ったこと自体に驚きの声をあげ、復活したのが永井圭だとわかると緊張感を宿した警戒の声を発した。永井のことを佐藤の仲間だと思い込んでいる記者とカメラマンたちは永井から数歩退いたが、撮影や中継は続行されたままだった。

永井はすぐに現状を把握しようと顔を上げた。フォージ安全ビルが聳え立つ姿が眼に入った。距離感からしてかなり離れた位置にある。車の走行音が後方から聞こえ振り向くと、すぐ背後は車道だった。


「下がって!」「道をあけて!」


ビルの前で警備していた警官が騒ぎを聞きつけ、永井に迫っていた

永井は亜人の声を使おうと息を吸い込む。警官は耳栓を装備しているだろうが、道を塞ぐ記者たちの動きを止めれば足止めになるはず。

最も効果的なタイミングを見計らって、亜人の声を発しようとしたそのとき、一台の中継車が猛スピードで突っ込んできて永井のすぐ背後で急停車した。
948 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:43:38.54 ID:TPJ777ywO

中野「乗れ! 永井」


助手席側のドアを開けた中野が運転席から叫ぶ。

永井はすぐさま車に乗り込み、乱暴にドアを閉めた。

前部座席と中継用の設備が備えられたスイッチャーと仕切るカーテンが慌てた様子で開けられ、そこからアナスタシアが顔を出した。


アナスタシア「ケイ! 無事ですか!?」

永井「まだ引っ込んでろ!」


永井ら大声で心配するアナスタシアの額を手で押してスイッチャーへと押し戻す。短い悲鳴と機材にぶつかる音を無視しながら、永井は中野に向かって叫んだ。


永井「出せ!」


永井のどなり声に弾かれたように中継車はその場から猛スピードで発進した。車道を走る車の数は少なく、眼の前の交差点の信号が青だったため、中継車はあっという間にビルから離れていった。

呼吸が落ち着いていく。街灯やビルの明かりが尾を引きながら後方へ消えてゆくのを見えた。永井はぼやき声で文句を言った。


永井「なんでこんな目立つ車……」

中野「カギがついてたんだよ!」

永井「マスコミのおかげで警察がゴタついてる。今のうちに距離をとってどこかで乗り捨てるぞ」

中野「平沢さんはどうやって拾う!?」


百キロ以上ものスピードで運転している中野は事故を起こさないように神経を張り詰めさせながら、永井に大声で訊いた。そのときアナスタシアがふたたびカーテンを開けた。永井の後頭部が見えた。永井は窓ガラスに頭を預け、サイドミラーでパトカーが追跡していないかを確認していた。文句を言おうとアナスタシアが口を開いた。
949 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:44:41.06 ID:TPJ777ywO


永井「死んだよ」


アナスタシアが言葉を発するよりも先に永井が言った。


永井「平沢さんは、死んだ」


永井はフラットな調子で言った。感情を交えない言葉だっただけに中野もアナスタシアも意味を了解するのにしばらく時間を要した。

中野が突然大声で「クソッ!」と叫んだ。堪えきれなかった感情が爆発したかのようだった。眼に涙が浮かんでいた。中野は乱暴に眼元を擦って涙を拭うと、運転に集中するため真っ直ぐ前を見据えた。

一方、アナスタシアはへたり込み、茫然自失の状態に陥っていた。アナスタシアの性格を考えればそれほど見知ってもいない相手の死に悲しみを覚えるのも納得のいく話だが、しかしこれほどのショックを受けるとはアナスタシア自身にとっても意外だった。

平沢の死を告げられた瞬間の頭が真っ白になる感覚には既視感があり、それは夏休み明けの学校に登校したとき友達の死を告げられた瞬間にもたらされた感覚と同一のものだった。なぜそこまでの内心の衝撃をアナスタシアは受けたのだろうか? いくらつい先ほどまで行動を共にした人物とはいえ、知り合い、言葉もほんの二言三言ほどしか交わさなかったのに、友人の死にに匹敵するまでのショックを受けるものなのだろうか?

車が大きく右に振れ、アナスタシアの身体も右側へ傾いた。立ち並べられた中継用の機材に手をつき身体を支えたとき、アナスタシアは平沢の死はある種の決定打だということに気づいた。

アナスタシアが目撃した黒服たちの死。三人が死に、うち二人の死ぬ瞬間を目撃した。彼らの死を悲しむ時間もなく、戦いに身を投じ、そしていま為すすべもなく逃げ回っている。平沢の死を告げれたとき、アナスタシアがそれまで眼をそらし続けてきた感情が一気に噴出した。アナスタシアを激しく揺さぶった衝撃の正体、それは生き残ったことに対する罪悪感だった。
950 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:45:33.90 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「いのちを、かけてた」


アナスタシアは自失の状態からなおも抜け出せないまま、ぼそりとつぶやいていた。


アナスタシア「いのちをかけて、たたかってた」


自分はそうではなかったとそう言いたげな口調でアナスタシアは言った。言い終わった瞬間、アナスタシアの瞳から涙が止めようもなく溢れ出た。


ーーなぜ、亜人であることを明かさなかったんだろうーー


アナスタシアの内心を占める罪悪感の主な要因はこの一言に集約できた。永井や中野のようにはじめから作戦に参加していれば、IBMをもっとはやく送り込むことができたかもしれない。そうなっていれば誰も死ななかったかもしれない……

咽び泣くアナスタシアの嗚咽の声を聞きながら、中野を唇を血が滲むほど強く噛んだ。ハンドルを握る手にも力が入り、指先が真っ赤になっていた。

永井はあいかわらず窓に額を預けていた。景色を眺めていると、飛び行く街灯の白い光が規則的に永井の顔を照らした。そのたびに暗く沈んだ瞳に光が写り込んだが、光ったのはあくまで反射した街灯の光だけだった。

永井は感情のない瞳を車が走行しているあいだ、ずっと外に向け続けていた。


ーー
ーー
ーー

951 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:46:29.74 ID:TPJ777ywO

夜が白みはじめた。

中継車はオフィス街を抜け住宅が立ち並ぶ一帯へと進み、河川敷のほうへ移動した。中野は中継車を橋の下に停車させた。橋は低く、中継車の車高から一メートルも離れていなかった。あたりには人影は見えなかったが、早朝のランニングを習慣にしている付近の住人がそろそろ現れてもおかしくなかった。

中野は助手席から下りてきた永井にむかって言った。


中野「永井、どうやって隠れ家へ帰る?」


永井は中野に応えず、スイッチャーの置いてある後部のドアを開けた。

泣き腫らしたアナスタシアが怯えたように瞳を揺らし永井に眼を向けた。永井の眼にはあいかわらず感情が見えず、アナスタシアを眺めるその表情はまるで壁でも見てるかのようになにもなかった。

永井は取り出したスマートフォンをアナスタシアの眼前に放り投げた。


永井「おまえが復活してる様子を撮影した動画が保存されてる。端末ごと処分しろ」


永井は平沢の死を告げたときと同じ声の調子でアナスタシアに語りかけた。

アナスタシアは思わず身を乗り出した。しかし口を開いてもちゃんとした言葉を作れないで、ただ口をパクパクと動かすことしかできなかった。


永井「これでもう戦う理由はないだろ」


最後通牒を告げた永井はそそくさとアナスタシアの視界から立ち去った。

952 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:52:35.64 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「ニェット……! ちがいます、アーニャは……」


弱々しい言葉を呟きながらアナスタシアが永井を追いすがった。足取りは心もとなかった。曇天模様の空はいまにも雨が降り出しそうで強い風も吹いていた。ふらふら歩くアナスタシアに強い横風が吹き付けてきた。バランスを崩したアナスタシアが草の生い茂る河川敷に倒れこんだ。中野があわててアナスタシアのもとに駆け寄り、こけた拍子に手から零れ落ちたスマートフォンをアナスタシアへと返した。

中野は無力感に苛まれているアナスタシアを複雑な表情で見ていた。いまでも女の子であるアナスタシアが戦うことに内心反対だった。フォージ安全ビルでの要撃作戦においてのアナスタシアの役割はIBMを用いた後方支援だったから、中野も渋々納得したに過ぎなかった。一方で中野もアナスタシアに自分と同じように佐藤と戦う理由があることを理解していた。中野はそういった感情を無碍にできる人間ではなかった。しかし現状を冷静に鑑みると、このままアナスタシアが戦闘に参加し続けるのは賛成できかねた。黒服たちが死んでしまった以上、次の戦闘はアナスタシアも前線に立たざるを得ないだろうし、アナスタシア自身も立ちたがるだろう。

中野は顔を上げて永井を見やった。永井はアナスタシアとは完全に手を切り、もはや他人同士だといわんばかりに歩き続けていた。
953 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:53:41.65 ID:TPJ777ywO


中野「どこ行く?」

永井「おまえはまだマークされてない。ふつうに帰れるだろ」

中野「おまえは変装でもするのか?」


中野は立ち上がるかちょっと迷ったが、永井が後ろを少しも気にしないで歩き続けているので結局は立ち上がりあとを追った。

中野の気配を察知した永井が振り向いて言った。


永井「僕は、やめる」


永井の言葉はアナスタシアにも聞こえた。それがどういう意味の言葉かすぐにはわからず、アナスタシアは眼を赤くしたまま虚をつかれたようにきょとんとした。

曇天から雨が一滴落ちてきた。途端に雨は激しさを増し、周囲の光量もひときわ暗くなった。


中野「は……あ!?」


驚きに不意をつかれた中野がやっと口を開いたとき、永井はまた歩き出していた。


中野「待てよ、どういうことだよ!?」

永井「目標を下方修正する」


慌てて駆け寄ってくる中野に対して、永井はあくまで平静だった。


永井「おまえらが来てから僕は、ふつうの生活水準を取り戻すために戦ってきたが、佐藤は止められなかった。だから、もう文化的な暮らしはあきらめる! 山奥や大海原とか、社会も佐藤も関係のないところで生きていく。海がいいかな……いつか海外に流れ着くかも」

中野「佐藤を止めなきゃやべぇんじゃねぇのか?」

永井「だろうな」


永井はそっけなく応えた。

954 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:54:37.24 ID:TPJ777ywO


永井「佐藤ひとりが暴れてるだけなのに、マスコミは亜人ってカテゴリーで叩きつづけ、どんどん住みづらくなる。だから離れるって言ってんだ……」

中野「逃げるのかよ!?」


中野が永井の肩に掴みかかった。中野の眉根は険しく、激昂寸前のように見えた。


永井「逃げてなにが悪い!」


肩を掴む手を乱暴に払いのけ、永井が叫び返した。突然の大声の応酬によろよろと二人を追いかけてきたアナスタシアが怯えたように肩を震わせ、思わず息を止めた。

永井は中野を睨みつけながら、なかば感情にまかせて怒鳴りつけ、畳みかけた。


永井「そもそも国が悪いんだろ! 規格外の暴力に対応できないんだからなあ!」

永井「やれ法律や倫理だって、戦わないことを美徳にしようとしやがる。かといって、平和的に解決するスキルもないくせになあ!」

中野「大勢死ぬんだぞ!」

永井「だから人なんざいつだって理不尽に殺されてるって言ってんだろ!」

永井「急に眼の前で起こったからってとってつけたようにヒーローぶってんじゃあねぇ!」

永井「僕は佐藤が何万に殺そうが自分のほうが大切だね!」


中野が永井を殴った。中野の右拳は顎関節のあたりをとらえ、永井の身体を大きく倒した。

思いもよらなかった中野の暴力にアナスタシアはすっかり竦み上がってしまった。激昂している中野はそのことに気づかず、永井に詰め寄りさらに怒りをぶつけようと口を開いた。
955 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:56:03.42 ID:TPJ777ywO


中野「人の命を……」

永井「命!?」


永井が中野の向う脛を力任せに蹴りつけた。歩み寄ってくるタイミングでの蹴りで中野はバランスを崩し、そのうえたっぷりと雨に濡れた草地を踏んでいたせいで中野はひっくり返ってしまった。

アナスタシアが正気に帰り、ふたりの間に分け入ろうと駆け寄った。

永井はこのうえなく苛立ちながら立ち上がり、見下ろす中野に怒声をぶつけた。


永井「命の価値なんざTPOで変わるもんだ!」


激昂しながら永井はさらに言葉を続けた。


永井「家族が死にそうなら助けるだろうが、どっかの国で百万人が死んだって、せいぜいニュースで見て感傷に浸るくらいなもんだろ!」

中野「御託ばっかり……」

永井「どっちがだよ!」


永井が中野の胸ぐらを乱暴に掴み馬乗りのように上に被さった。

そのときアナスタシアが永井の腕を掴み、二人の顔を交互に見やってから言った。
956 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:57:37.11 ID:TPJ777ywO

アナスタシア「ケイ、もうやめてください! コウも殴ったりするのは……」

永井「フォージ安全の社長が死んだとき、たいして騒がなかったよな」


アナスタシアの予想に反して永井は中野を殴りつけたり罵倒を重ねたりはしなかった。自分の声が相手の心内に確実に作用させるため、永井は低く沈鬱な感じのする調子で喋り出した。


永井「平沢さんが死んだとき聞いたときはあれだけ感情的になってたのになあ!」


まるでそのときの中野の感情を再現するかのように永井は声を荒げて言った。


永井「すべての人間が無意識に他人の命の重さを秤にかけてる……おまえもだ」


いちど言葉を切ったとき、永井は視界にアナスタシアが映っていることを認めた。その表情は計り知れない痛みのような感情に歪んでいた。いままでは天秤の大きく傾いたほうにばかり心を占められ、その傾き、つまりは感情の流れにのって行動を起こしたし堪えきれず内心を現したりもしてきたアナスタシアは、この永井の指摘によって眼が開かれたかのように傾かなかった上皿のことを鋭敏に意識した。しかし、意識できたのは上皿だけだった。そこにのっているはずの命の重さを計るのは当然誰にだってできないことだった。


永井「それを意識的にやってるだけで僕を批判するじゃねえ!」


永井は中野の胸ぐらから手を離し、言葉を失っているアナスタシアにも背を向けその場から立ち去ろうとまた歩き出した。

雨は激しさを増す一方だった。水分を含んで垂れ落ちてきた前髪がアナスタシアの視界を遮った。額に張り付いた銀色の髪をかきあげもせずアナスタシアは永井の背中をただ見送った。追いかけようにも何を言ったらいいのか全然わからなかった。雨は顔を強く打ち、流れ落ちていった。雨滴をやたらと温く感じた。

957 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:58:36.48 ID:TPJ777ywO


中野「そう、なのかもしれない……」


静かなためらいがちな声で中野は自分自身に吐露するようにつぶやいた。


中野「命がどうのって、言えた口じゃないのかも……」

中野「でも……なんて言ったらいいのかわからないけど……佐藤を止めたいんだよ」


中野はふと口をつぐんだ。アナスタシアは困惑しながら、永井は立ち止まって聴き耳を立てている。数秒が過ぎた。雨の音がおおきい。風も強く吹いている。


中野「電球を替えようとしたんだ」


中野はさっきよりもはっきりした声で話を再開した。


中野「雑誌とか新聞を積んで……踏み台にして……」

中野「で、バランスを崩して、頭から落ちた」

中野「そしたら、からだが動かなかったんだ」

中野「声も出なくて、だれにも見つからなくて、何日もそのままだった……生き返るまで」

中野「たぶん、そのとき初めて死んだんだ」


それまで中野は声の大きさにふさわしく淡々と冷静な調子で話していたが、ふいに息継ぎするかのように一瞬だけ言葉を切ると、今度は最初はまだ大声でこそないが底から湧き上がってくる怒りにまかせてだんだんと声を荒げていった。

958 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:59:19.11 ID:TPJ777ywO


中野「おれの親父もお袋もろくでもねえ奴らだった。平気で家を空けて遊び歩いてやがる」

中野「動けなくなったとき、何度も思った。おれはいらない人間なのかって……でも、おれを拾ってくれて、仕事を与えてくれて、使ってくれる人たちがいた! だからおれを頼ってくれる人がいたならおれは絶対に応える! ずっとそうしてきたんだ!」


しゃべっているうちに中野は眼が熱くなっていくのを感じていた。熱さは雫になって眼から溢れ落ちそうになっていた。


中野「だけど……ひとりじゃないもできない。バカだから……」


さっきまでの激情はもはやなかった。沈鬱した感情に声を詰まらせながら中野は永井に言った。


中野「おまえがコンテナのドアを開けたとき、ほんとうに安心したんだぜ? ……おまえのおかけで、ここまでやれたんだ」

中野「身勝手なお願いなのはわかってるよ……でも」


中野の声が震えた。痛めつけるように強い力を込めて拳を握り、中野は涙を流して言った。


中野「もうすこしだけ手伝ってくれよ……永井」


中野が必死になって訴えかける様子を永井は首だけ振り向いた格好でだがしっかりと見ていた。眼から溢れる涙も、震えがおさまらない唇も、締め付けるように閉じられた手も永井は見ていた。

959 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:00:19.66 ID:TPJ777ywO


永井「知るかよ」


永井はそれだけ言い捨てると、その場から立ち去るようにまた歩き出した。


中野「平沢さんも……真鍋さんたちも、みんな……殺されちまった……」


中野は悔しさに涙しながら、途切れ途切れに声を震わせた。


中野「悔しくねえのかよ」


鼻を啜るような声だった。


永井「うるさい」


その一言を言うために永井が一瞬立ち止まったのをアナスタシアは目撃した。耳に届いた声は微かに震えていたと思ったが、激しい雨音に邪魔されたせいかもしれなかった、仮に震えていたとしてアナスタシアには永井を説得する方法などまるでなかった。

結局、アナスタシアは永井の後ろ姿が雨に烟り、完全に見えなくなるまでその場に立ち尽くしているしかなかった。

アナスタシアは中野がさっきから押し黙ったままでいることに気づいた。中野の告白はアナスタシアに高架下の車中で交わした会話を思い出した。修学旅行もクリスマスも正月も、中野は無縁だったと言った。それを聞いた自分の質問があまりにも不用意だったことも思い出したアナスタシアは血の気が引く思いだった。

中野のほうを見るのは怖かった。アナスタシアは祈りを捧げるようにギュッと目を閉じ、意を決し顔を上げた。中野が振り返ってアナスタシアを見ていた。中野の顔は、悲しみを堪えていることがわかるような笑顔だった。
960 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:01:18.01 ID:TPJ777ywO


中野「アーニャちゃんは帰った方がいいよ」


おもむろに中野が口を開いた。


アナスタシア「え……」

中野「やっぱり、女の子が危ないことをするのはダメだって」

アナスタシア「コウ、なんで……」

中野「泉さんや戸崎さんが無事ならまだやれるから」

アナスタシア「アーニャだって亜人です!」


中野はアナスタシアを見つめた。


中野「お父さんやお母さんが心配するって」


そのことはまるで考えていなかった。


中野「アーニャちゃんを大切に思ってる人はたくさんいるんだからさ。学校の友達とかさ、あのプロデューサーの人とか……あ、永井の姉ちゃんとも仲良いんだろ? 」


中野はそこでアナスタシアがアイドルだということを思い出したかのように短く笑った。


中野「すげえよな、アイドルって。やっぱアーニャちゃんはアイドルやってたほうがいいって」


中野は自分の言ったことにうなずき、それからアナスタシアを見て言った。
961 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:02:11.41 ID:TPJ777ywO


中野「がんばってよ。新曲でたら買うからさ」


どこか謝りたいと思っているような笑顔だった。アナスタシアからの反応を待たずに中野はあっというまに土手を駆け上がり去っていった。中野の姿が見えなくなると、アナスタシアはその場にへたり込み、心も身体も動けなくなった。

中野の言葉を受けたアナスタシアの内面の感情は「悲しい」や「悔しい」といった言葉で指示できる状態にはなかった。永井や中野の言葉が、佐藤と戦うという意志といままでの人生の記憶、思い出、友情や愛情といったものとの葛藤を引き起こさせていた。記憶から引き出せば心を温めてくれるもの、そういったものを守るための戦いだとアナスタシアは思っていた。だが先ほどの言い争いのなかで明らかになったのは、"そういったもの"を犠牲にしなければならない戦いだった、というより"そういったもの"を犠牲にしなければ参加すること自体が不可能な戦いだったということだった。

永井も中野もそれらを遠くに置いたうえで、佐藤と戦った。自分だけはそうではなかった。

上空に吹き荒れる風が雨雲を運んでいったのか、いつのまにか雨は止んでいた。風がその激しさにふさわしくアナスタシアの肌を荒々しく叩いた。陽の光が差し込み、河川敷を照らし出した。河川のゆらめきや水を吸った草が輝いていた。空は濃紺で、澄んでいた。

このような風景の中で、アナスタシアはようやく敗北したという事実を思い知った。


ーー
ーー
ーー
962 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:05:26.67 ID:TPJ777ywO


法務教官に案内された面会室はドラマや映画によくあるようなアクリル板はなく、取調室のような圧迫感もない、かなりの広さを持った白い壁紙と床に包まれた清潔な場所だった。照明は十分に明るく、また入り口はガラス戸で外から見えるようになっていた。ガラス越しに法務教官たちが働いている様子が見えた。特別に職員用の会議スペースを今回の面会のために使用させてもらったのだ。

五十くらい法務教官はしばらくお待ちくださいと言い残し、部屋から出て行った。その際、飲み物を用意するよう二十歳過ぎの若い職員にむかって言った。

まもなくお茶を出され、一礼する。しかしお茶に手をつけずに三分ほど待っていると、さっき案内してくれた法務教官が少年をともなって戻ってきた。

美波は顔を上げて、少年の顔をまじまじと見た。


美波「海斗くん……」

海斗「おひさしぶりです、美波さん」


そう言って、海斗は椅子に坐った。




963 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:09:46.65 ID:TPJ777ywO
今日はここまで。

前にも言った通り、このスレでの本編の更新はここまで。残りはおまけを書いて埋めてくつもりです。
964 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/01/04(土) 15:20:32.46 ID:7fUwwu0w0
更新まだか
965 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/02/06(木) 19:11:12.52 ID:gOqYRoM20
待ってる
966 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/23(月) 13:34:28.88 ID:3BzQPb7N0
エター?
楽しみだったんだけど
967 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/05/18(火) 20:44:54.29 ID:Vw+2Fh4x0
原作完結しちゃったね
968 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2022/12/19(月) 20:09:25.73 ID:0TinRBsA0
今でも好きだよ
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