千早「賽は、投げられた」

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102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:04:56.89 ID:nKI6vhSl0


「私、千早ちゃんに歌って欲しいなあ」

「どうして?」

「千早ちゃんがこの歌を歌えば、きっとみんなが認めてくれるもん。……ちょっと、複雑だけど」

「複雑?」

「う、ううん! なんでもないよ!」


彼女は慌てて、取り繕うように笑った。

その表情に、いつもの快活さは見えない。


「ねぇ、何を隠してるの?」

「うぇっ!? か、隠してななななんてないよ?!」

「……そう」


隠し事はばればれなのに。

これ以上聞いても無駄だろう。

こうなった時の彼女は、本当に口が堅い。

103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:06:31.46 ID:nKI6vhSl0


「ね、千早ちゃん」


腕を掴まれ、引っ張られた。

その力は、とても弱々しい。

座り込んだ私の身体は、なかなか動こうとしなかった。


「指切り、したよね。前に進むことをやめないで、って」

「でも……」

「だから、お願い」


引っ張られて少し、腰が浮いた。


「歌って」


今は亡き弟の姿が、僅かに重なった。

104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:06:58.27 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


「やります、プロデューサー」


私の言葉を聞くと、プロデューサーはデスクから勢いよく立ち上がった。


「ほ、本当か!?」

「はい」

「大丈夫か?」

「覚悟は決めてきました」


プロデューサーはじっと私の目を見た後、安堵の表情を浮かべた。


「そうか、その調子なら大丈夫そうだな。嬉しいよ」

「嬉しい?」

「はは、俺は千早のファンだからな。名曲が生まれるんだ。そりゃ嬉しいさ」


名曲になるかどうかは、これからの私にかかっている。

気を引き締めなければならない。

105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:09:28.73 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


まるで、私のことを歌っているかのようだった。


過去に囚われず、未来を目指そうとする歌。

それでも、過去を忘れることは出来ない。


過去を意識し、過去を忘れようともがく。

忘れたい。

忘れたい。

脳裏を過ぎるたびに、克明に思い出される。

忘れられない。

負の連鎖。


でも、どこかで切り捨てなければならない。

飛び立たなければならない。


私に課された課題。

106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:11:34.48 ID:nKI6vhSl0


「もう、少しだね」


弱々しい声が、私の背中を押す。


「分かってる。あと少し。あと、少しよ」


この声は、彼女へ向けられたものか。

それとも、自分に言い聞かせる為か。


一瞬、幼い日の幸せを想う。

けれど、決別しなければならない。

この歌のように。


私は、あなたを忘れない。

でも、きのうにはかえれないのだから。

107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:12:08.90 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


「お疲れ様でした」

「千早……」


レコーディングを終えた時、プロデューサーは僅かに涙ぐんでいた。


「プロデューサー、どうしました?」

「いや……なんだろう」


涙を拭うプロデューサーの手は、小刻みに震えていた。


「千早の歌が泣いてたからな。伝染ったみたいだ」

「伝染っただなんて。泣いてるの、プロデューサーだけじゃないですか」

「お前、気付いてないのか?」

「え?」

108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:12:58.11 ID:nKI6vhSl0

プロデューサーはポケットからハンカチを取り出した。

それを差し出しながら、私の顔を指差す。


「涙、出てるぞ」

「え……」


右手でそっと目元を撫でる。

指先には、雫を拭き取った跡が残されていた。

視界が少し滲んだ。


「プロデューサー」

「ん?」

「私、前に進めたでしょうか」

「……そうだな。千早にとっては大きな一歩だよ、これは」


プロデューサーはそう言い残し、私の肩を叩いてスタジオを出て行った。

その途中、他のスタッフにも声をかけていく。

声をかけられた人達は頷くと、片付けを中断して出ていった。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:19:50.55 ID:nKI6vhSl0

すぐに、スタジオには私一人が残された。


「っ……!」


骨組みを抜かれたように、私の身体が崩れ落ちる。

もう我慢をする必要はなかった。

そのつもりはなかったが、気付かない内に我慢をしていた。


「……っうぁ……」


声が漏れる。

止めるつもりもない。


「あぁ……うっく……あ、あぁ……」


止まらない。

忘れられない想いが目から溢れ、流れ落ちていく。


「さよう、なら」


私の、大切な。


大切な。

110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:26:26.02 ID:nKI6vhSl0


鏡を見る。

泣き腫らした目が真っ赤になっていた。


「千早ちゃん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫」


心配そうに見つめる彼女に、私はにっこりと笑って返した。


「本当に? 無理してるように見えるよ」

「大丈夫だから」


それでも不安そうな表情をする彼女を、正面から静かに抱き締めた。

111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:27:00.11 ID:nKI6vhSl0


「わっ」

「でも少し、このままでいてもいいかしら。なんだか安心できるの」

「そっか。うん、いいよ。千早ちゃんがそうしていたいなら」


細い手が私の背中にも回される。

私はこの子に、どれだけ救われたことだろう。

触れ合う温度に混ざり、微かな鼓動が伝わる。

とくん、とくん、と。

抱き締めたら心臓が潰れてしまわないか、心配になるほどのか細さ。


「千早ちゃん」

「なに?」

「……ううん。やっぱりなんでもない、よ」


また、その表情をする。

何かを言いかけてから躊躇う表情。

それをなかったことにするかのように、私を抱く力が強くなった。

112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:32:29.86 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


私が吹き込んだ命は、世間に喝采と共に受け入れられた。

幸福の象徴の名を冠する、魂の放浪の歌。


受け入れられたことで、私は安堵した。

自分を重ね、想いを籠めた歌。

過去との決別、未来への歩み。

これを否定されたら、私自身も否定されたことと同じだ。


今、ようやく。

私の想いは、人々から認められたのだ。


私は自分が歩む道に、ようやく自信を持つことができるのだ。

113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:32:58.62 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


作曲家の方が、わざわざ事務所へお越しになった。

対面して最初に、握手を求められた。

我が子の産声を上げさせてくれてありがとう、と。


私は新しい命を育んだ。

それと同時に、一つの想いを殺した。

向けられた言葉に喜ぶと同時に、締め付けられるような気分だった。


作曲家の方は、また如月千早のために歌を書きたい、と。

そう言い残し、お帰りになった。

114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:33:34.87 ID:nKI6vhSl0

「やったじゃないか、千早!」

「はい。何とか責務を全うできて、肩の荷が下りました」


プロデューサーは上機嫌だ。

事務所の懐が良くなるとか、そういった打算ではない。

心から私のことを喜んでくれているのだろう。


けれど、その気持ちを素直に受け取ることができない。

どうしてそんな風に思うの、私は。


別れは告げたのだ。


もう、告げたのだ。

115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:34:42.34 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


事務所のみんなも、自分のことのように喜んでくれた。


「千早さんはやっぱりすごいの! ひょーげんりょく?っていうの?」

「ホントだよね。ボク、思わずウルッときちゃったよ」

「歌うからにはこのくらい当然よね。ま、ちょっとは良かったけど……」

「弟達が子守唄に歌ってーって言うんです。私には難しくて歌えないですけど」

「これは負けてらんないっしょ! 亜美達にも新曲をじゃんじゃん歌わせてよ!」

「うーん、でも真美達はもちっと育成されんといけんですなー」

「歌ってあんなに感情を籠めることができるんだね。驚いちゃった」

「そうよ、雪歩。とはいえ、あそこまでとは……想像以上だったわ」

「か、カッコイイ系なら自分だって千早みたいにさぁ! ……ごめん、見栄張った」

「大言はいけませんよ、響。しかし、月までも届きそうな見事な歌声でした」

「千早ちゃんの歌、まるで語りかけてくるようだったわ。少し、悲しげで……」


感嘆の言葉をかけられたり、もみくちゃにされたり。

心の整理がつかない中でも、みんなの反応は素直に嬉しかった。

116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:36:04.31 ID:nKI6vhSl0

「如月君、よくやってくれた」

「本当よ。あんなに難しい状況で……すごいわ」


社長と音無さんも、私のことを優しく褒めてくれた。

大人から褒められるのは嬉しいことなのだということを、久しぶりに思い出した。


昔は、いっぱい褒めてもらった。

その度に、桜が満開になるように嬉しかった。


――千早。

――お姉ちゃん。


私を呼ぶ声を思い出す。

117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:36:30.59 ID:nKI6vhSl0



……駄目だ。

思い出してはいけない。

後ろに下がってはいけない。

必死に頭の中を掻き回した。


118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:37:00.00 ID:nKI6vhSl0


前に進め。

自分に必死に言い聞かせる。

己の意思で前に進め。

逃げられない様、自身を信念に縛り付ける。


「痛そうだよ、千早ちゃん」

「これは、必要な痛みだから。耐えなければならない痛みよ」

「そっか……」


口振りとは裏腹に、彼女の顔は納得していなかった。

119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:37:40.45 ID:nKI6vhSl0


「もう引っ張ってあげるほどの力はないけど」

「これくらいなら、してあげられるよ」


ずきずきと胸の奥底が痛む。

そこに暖かい手が当てられた。


「痛く、なくなった?」

「少し楽になったわ」


そう答えると、彼女は満足そうな笑顔を浮かべた。

額には、じんわりと汗が滲んでいる。


彼女は最近、辛そうな表情をすることが多い。

私に負けず劣らず、痛みを堪えるような表情をしている。


この子は、どうしてここまで、私のことを。

120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:38:06.93 ID:nKI6vhSl0


1マス進む。


私の歌がきっかけになったのか、事務所はにわかに賑わい始めた。

これまでも賑やかではあったものの、今は少し趣が違う。


まず、仕事が入るようになった。

最初は一躍有名になった私が中心。

次第に私の周囲もクローズアップされることで、他の子達も目に留まるようになってきた。


元々みんな、活躍できる力は十二分にある。

その声やキャラクターが知れていくにつれ、自然と仕事は増えていった。

121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:39:39.37 ID:nKI6vhSl0

ステージイベント。

テレビの司会。

映画のキャスト。

ラジオのパーソナリティ。

ゲームの声優。


話題性に満ち溢れた私達の事務所は、瞬く間に活躍するフィールドを広げていった。

主役級の仕事を貰うことも多くなった。

大規模なプロダクションライブや、私達全員で持つ冠番組の企画も持ちあがり始めた。


私達が売れれば売れるほど。

社長は事務所に居ることが少なくなった。

音無さんは電話応対が増えた。

プロデューサーと律子は中でも外でも大忙しになった。

みんなと会う機会は減っていった。


それでも時々顔を合わせて話すと、誰もが本当に活き活きとしていた。

その光景を見て、ようやく報われた気がした。

122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:40:08.34 ID:nKI6vhSl0


ああ、私はやりました。


やっと、みんなに貢献することができました。


良き風を、大切な人達に届けることができました。


私の居場所を、やっと掴み取ることができました。


極彩色で彩られた世界に、私の色も加えていきましょう。



色とりどりの中、一か所だけ灰色だったキャンバス。


みんなの色の中に、私の色が灯っていく。



この幸せなキャンバスの中へ、私も飛び込もう。


眺めて満足するだけじゃない。


自分の足で、駆け出そう。

123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:40:53.77 ID:nKI6vhSl0


私はじっと、すごろくを眺めていた。

随分とたくさんのマス目を歩いてきたものだ。


「もうこんなに歩いてたんだね」

「そうね。手を引いてもらってばかりだったから、気付かなかったわ」

「えー、千早ちゃんはまるで私のせいみたいに言う」

「でも、そうじゃないかしら?」

「ずるいよー!」


ぽかぽかと背中を叩かれる。

その微笑ましさに、つい笑ってしまう。

それを見たのか、ぽかぽかと叩く回数が更に増える。

叩かれれば叩かれるほど、口から洩れる笑い声は大きくなった。

124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:41:27.17 ID:nKI6vhSl0


「……あら?」


叩かれて足が動いた拍子に、何か硬いものを踏んだ。

足をどけてみると、小さな立方体が一つあった。


「これ……」


それはよく見覚えのある、点の刻まれた立体。


さいころ。

運命を決める、四角い宣告者。


久しぶりに目にしたそれは、まるで忘れ去られた史跡のように長い年月を感じさせた。


ずきん。


胸の奥が、痛む。

125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:42:13.98 ID:nKI6vhSl0


「千早、ちゃ……」


心配そうな目を向けられる。


「……」


何も言わずに、私はさいころを拾い上げる。

石のような手触り。

暖かい手に握られた反対の手とは対照的に、冷たい感触が伝わってくる。


「大丈夫」


大丈夫よ。

頭の中で反復する。

もう過去には囚われない。

126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:42:52.18 ID:nKI6vhSl0


「そうよ。私はもう報われた」


さいころから目を離さない。


「誰もが認めてくれた。前へ進ませてくれた」


冷たいキューブを強く握りしめる。


「ここからは、自分一人の力で」


後ろから誰かが、必死に私の名前を叫ぶ声が聞こえた、


「また昔みたいに、自分の力で」


気がした。


「私は、幸せを掴み取るの」

127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:43:19.06 ID:nKI6vhSl0





手のひらに載せたさいころを、宙へ放った。




128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:43:48.28 ID:nKI6vhSl0


放物線を描きながら飛んで行く。


これは、零れ落ちたものでも、すっぽ抜けたものでもない。

間違いなく、私が自分の意志で放ったもの。


私自身によって決められる運命。

これまで私が逃げ続けていたもの。



さいころが地面に落ちる。

かつん、と音を立てて跳ねた。

もう一度地面にぶつかると、そのままころころと転がった。


転がっていたのは、ほんの一瞬のはず。

その一瞬が、私には異様なほど長く感じられた。

129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/29(木) 21:45:18.27 ID:nKI6vhSl0





ぴしり、と、何かにひびが入る音がした。




130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:33:02.68 ID:5sQzdRfU0


『6』


さいころが数字を示す。

駒を摘まむ私の手には、もう誰の手も添えられていない。

私だけの力で、駒を進める。

131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:33:32.24 ID:5sQzdRfU0


「ひとつ」


駒を動かしながら、マス目を数える。


「ふたつ」


私が止まるかもしれなかったマス。


「みっつ」


嬉しいこと、大変なこと、悲しいこと。


「よっつ」


それらはもう、私には関係のないマス。


「いつつ」


そして、私が自分の手で、導いた場所は。


「……っ」


駒を置こうとした手が、止まった。

132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:34:01.75 ID:5sQzdRfU0


『ゴシップ誌に家族のことを書かれる』

『3マス戻って2回休み』


良いことのあとには、悪いことが待っている。

その事実を思い出した瞬間、視界が一気に暗くなった。

133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:34:41.86 ID:5sQzdRfU0

携帯の充電が切れていなければ、もう少しマシだったかもしれない。


コンビニで何気なく立ち寄った雑誌コーナー。

平積みにされた雑誌の表紙に、信じられない言葉を見つけた。


「美しき歌姫の、醜い家庭事情――」


私はひったくる様に雑誌を手に取り、その中を見た。

別居中の両親について。

言葉すら交わさない、冷え切った家庭環境。

そして、そのきっかけとなった――。


「――ッ!」


雑誌を慌てて置き、口元を押さえる。

猛烈な吐き気に襲われた。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:35:10.73 ID:5sQzdRfU0

急いで店を飛び出し、部屋へ逃げ帰る。

玄関へ飛び込むと同時に、胃の中のものを全て吐き出した。


「ぅ……」


胃が空になってもなお吐き出そうと、身体が消化器官を圧迫する。

最悪の状態でもなんとか意識を保ち、汚れてしまった玄関先を片付ける。


放心状態で、充電中の形態の電源を入れる。

何件もの着信とメール受信。

全てプロデューサーからだった。


『事務所へ来てくれ』


要件はもう分かっていた。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:35:37.13 ID:5sQzdRfU0

「千早……」


真っ青な顔をしたプロデューサー。

目の前のデスクには、私がコンビニで見たものと同じ雑誌。


「その表情……もう、これを見たのか」

「はい。朝、コンビニで」


努めて平静を装ったつもりだったけれど。

プロデューサーの態度からすると、顔に出てしまっていたらしい。


「私は、大丈夫です。いずれ、こういう日は来ると思っていましたから」


分かっていた。

こうなるであろうことは。
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:36:22.88 ID:5sQzdRfU0

「それよりプロデューサー。この記事で、事務所は――」


そう口にした時、プロデューサーに両肩を勢いよく掴まれた。

少し驚いてプロデューサーの顔を見ると、泣き顔と怒り顔が入り混じった表情だった。


「それよりじゃない!」


何故怒鳴られたのか分からず、私は困惑した。


「今、一番心配なのは千早のことだ! 事務所のことなんて後回しだ!」


ああ、この人は私のことを心配しているのだ。


「私のことこそ、後回しで大丈夫です。事務所に影響が出ては、他のみんなが……」

「大丈夫なものか! 俺が思いっきり掴んでも、震えが止まらないほどなのに!」


言われて初めて気づいた。

私の身体は、まるで極寒の中に裸で放り出されたようにがくがくと震えていた。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:36:52.53 ID:5sQzdRfU0

なんともないと自分に言い聞かせ、何とかここまで保ってきた。

けれど、震え続けている自分の現実を突き付けられ、徐々に余裕がなくなっていく。

恐怖と絶望を意識すればするほど、私は追い詰められ、逃げられなくなっていく。


「こんな状態で、事務所を気遣っている余裕が――」

「……じゃあ」

「……?」

「じゃあ、どうしろと言うんですか!」

「千早っ!?」


気持ちのままに、私は吠えた。

そうして自分を正当化しなければ、私は潰れてしまう。
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:37:23.55 ID:5sQzdRfU0

「じゃあ、どうすればいいんですか!?」

「誰かに泣きつけば、この記事はなかったことになるんですか?!」

「記事に書かれているのは全て事実です! 嘘も誇張も何もない!」

「私を心配してもらったところで、何か変わるんですか!?」

「それより大切なのは、事務所としてどう動くかです!」

「違いますか!!」


「それは……」


私が捲し立てると、プロデューサーは押し黙った。


プロデューサーの優しさは痛いほど伝わってくる。

けれど、これは私自身が招いた運命だ。

事務所に迷惑をかけるわけにはいかない。

私は前に進み続けなければいけない。


立ち止まることは、許されない。
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:38:02.83 ID:5sQzdRfU0


「千早、ちゃん……」


私を安心させようとしてか、弱々しい手が重ねられた。


「大丈夫――」

「うるさいっ!!」

「きゃっ!?」


その優しさを、私は感情のままに払いのけた。


「千早ちゃん……無理しちゃ、ダメだよ……」

「もう黙って! 放っておいて!!」

「っ……。うん……ごめん、ね」


私は完全に余裕を失っていた。

恐れと焦りが身体を支配していく。


「振らなきゃ……さいころを、振らなきゃ……」


強迫観念に襲われ、またキューブを握りしめる。

140 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:38:31.01 ID:5sQzdRfU0


さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『トーク番組に出演する』


まだ軽微とはいえ、事務所や他のみんなへの影響は出てきていた。

勿論、これだけで干されるということはない。

でも、週刊誌のターゲット決めや、世論の風潮。

それらは、このような綻びから徐々に変わっていく。

そうしたダメージを最小限に抑えるためにも、私の健在をアピールしなければならなかった。

141 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:39:31.65 ID:5sQzdRfU0

容赦のない言葉を浴びせることで有名な番組だ。

今のタイミングなら、あの週刊誌のことについて言われるだろう。

正直言って、気分は最悪になるに違いない。

でもここでさらりと受け流せれば、ダメージはプラスに転換される。

ゴシップ記事がダメージたる所以は、突かれた時に痛がるからなのだ。


視聴率も高く、話題性もあるこの番組。

ここで払拭することができれば、これ以上引き摺らずに済むだろう。

そう考えての、私自身の判断だった。
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:40:11.19 ID:5sQzdRfU0

「本当に出るのか? 今ならまだ……」

「くどいですよ、プロデューサー」

「……そうか。千早が、そこまで言うなら……」


きっと、内心では全く納得していないのだろう。

けれど、一度こうなった私が折れないことも分かっている。


あんな記事を出してしまっておいて、その上こんなに心配までかけて。

私はつくづく最低の人間だ。

だからせめて、自分の尻拭いくらい自分でしなければならない。


これに打ち勝つことが、私の課題の総仕上げだ。
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:41:16.99 ID:5sQzdRfU0


さいころを振ろうと握りしめた途端、再び胃から何かが込み上げてくる。

熱く、酸味を帯びた嫌悪の塊。


いやだ。

いやだ、いやだ、いやだ!


身体が拒絶する。

本能が拒絶する。

私が拒絶する。


振りたくない。

この結果を見たくない。


克服したはずだ。

私は、報われたはずなんだ。

何度も何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も。

繰り返し繰り返し、大丈夫だと口にする。

144 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:42:18.35 ID:5sQzdRfU0


「――」


もう誰かの声は耳に入らない。

周りの環境音に同化して、雑音のように音だけが認識される。


視界も定まらない。

感覚も狂っている。

冷たい、氷のような何かが私の右手を掴む。

145 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:42:48.12 ID:5sQzdRfU0


「やめて!!」


ヒステリックな叫び声を上げ、掴んできた手を振り払う。

そうだ、このまま勢いに任せよう。


私は、さいころを振った。



『2』


2マス進めなければならない。


1……。

2……。

146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:43:16.42 ID:5sQzdRfU0




『傷を、深く深く、抉られる』


『5マス戻って10回休み』



147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:44:13.59 ID:5sQzdRfU0



私はまだ、過去を切り捨てられていなかった。



「ッ……」


決壊寸前だった。


司会者から浴びせられる、容赦のない質問。

両親の仲違いの原因。

一人暮らしを始めた理由。

事故を起こした運転手とのその後。


掘り返されるたびに、その場で胃の内容物を戻しそうになる。

これまで培ってきた作り笑顔を、必死に盾にする。


この1時間を何とかやりきれれば。

耐え切れさえすれば、また帰れる。

過去を乗り越え、あの日々に帰れる。
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:44:46.74 ID:5sQzdRfU0

番組も終盤に近付いてきた。

プロデューサーはカメラの横から、唇を噛み締めながらこちらを見ている。


ごめんなさい、プロデューサー。

ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。

でも、あと少しです。

あと、少し、ですから。


その少しが、気の緩みに繋がったのだろうか。
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:45:16.98 ID:5sQzdRfU0

ずっと張りつめていた私の神経が、ふっと弛んだ。

そしてまさにその瞬間に突き付けられた質問。

ある雑誌の表紙を指差しての一言。

明日発売する雑誌を事前に入手したのだという。


それを見た、聞いた、私は。
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:46:40.21 ID:5sQzdRfU0



『弟を見殺しにした』



『本当ですか』




視界が歪む。


歪んでいてなお、捲れ上がる様に痛いくらい目を見開く。


脳内を巡る信号が何倍にも増幅され、限界を超える。


抑えることも叶わず、口が大きく開く。



「ちはっ――」



映り込むのも無視して、プロデューサーがこちらへ駆けてくる。

でも、到底間に合うはずはなかった。

151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:47:16.28 ID:5sQzdRfU0


「あ……」


口を押えようとしていた手。


「ああ……!」


絶望の光景から逃げるように、反射的に目を覆った。


「あ……あああ!」


私の感情を妨げる壁はない。


数年前に置いてきたはずの幼い感情が、ただただ発露する。



「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」



私はその醜態を、カメラを通して数多の人々へと晒した。
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:48:17.18 ID:5sQzdRfU0




幸せな日々よ、さようなら。



私はまた、スタートに戻る。



153 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:48:58.47 ID:5sQzdRfU0

酷いものだった。

私はパニックを起こし、泣き叫び、暴れた。

途中でカメラは切られたものの、これは生放送番組。

それまでの映像は家庭へ届き、ネットの海へとばら撒かれた。


プロデューサーに抱き抱えられてすぐ、私は倒れた。

パニック障害のような症状。

すぐに救急車で病院に運ばれた。

長々と醜態を晒さずに倒れられたのは、せめてもの救いだった。
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/03/31(土) 08:49:29.82 ID:5sQzdRfU0

「ごめんな、千早。許してくれ。止められなかった俺を、許してくれ……」


救急車の中で、プロデューサーはみっともなく泣いていた。

泣きながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。


どうして、プロデューサーが謝るんですか。

私が、私が悪いのに。

呪われた災厄の源である私が、悪いのに。


意識が朦朧とする中で、うわ言のように繰り返した。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめん、なさい…………。


――。
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:42:36.42 ID:8fWIK/550


私はすごろくの前で立ち尽くした。

倒れた駒が、私のことを見上げている。


もう涙すら出ない。

私はやはり、最低の人種だった。

絶望に叩き落とされるなら、自分一人で勝手に落ちればいいものを。

みんなを破滅の巻き添えにした。

最低だ。

最悪だ。


「そんな、自分のことを最低だなんて、言っちゃダメだよ」


声が聞こえた。

凄く久しぶりな気がする。

156 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:43:22.12 ID:8fWIK/550


「どうして? 事実なのに」

「千早ちゃんは、最低なんかじゃ……最悪なんかじゃ、ないよ……」


震えた涙声が後ろから聞こえる。

私はそちらに視線を向けずに吐き捨てた。


「最低よ。最悪よ」

「でも、千早ちゃんのお陰で出来た事だっていっぱいあるよ!」

「例えば?」

「お仕事減ったって言うけど、千早ちゃんがいなかったら減るようなお仕事もなかったんだよ!」


どうしてか、必死に私に追いすがる様に言葉を繰り返す。

そんな言葉を聞くたびに、私の神経が逆立っていく。

157 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:44:01.61 ID:8fWIK/550


「みんな、才能のある人達よ。私が居なくたって、いつかはトップアイドルを目指して羽ばたいていたわ」

「むしろ私のせいで、地が固まる前に仕事が来るようになってしまった」

「その上で、私が招いた今回の出来事」

「一方的に仕事を与えられ、そして一方的にその芽を摘まれたのよ、彼女達は」

「誰もが、あの煌びやかな舞台で主役を演じる資格があった」

「才能があった。環境に恵まれていた。運もあった」

「私と出会ってしまった、ということだけを除いて」

「もう、彼女達は星のように輝くことは出来ない」

「もう、私のせいで泥にまみれてしまった」


「ねぇ、それでもあなたは言うの?」


「私は最低じゃないって」


「私は最悪じゃないって」


158 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:44:37.24 ID:8fWIK/550


「言うよ!」


たった今まで涙声だったのに、この言葉だけははっきりと口にした。

正確には、今も涙声であることに変わりはない。

ずっと弱々しかった声に、ぴしっと芯が通った。

どうしてか分からないけれど、命を削る様に絞り出した強さがあった。


「千早ちゃんは、最低なんかじゃない」

「千早ちゃんは、最悪なんかじゃない」

「私、知ってるよ!」


怖い。

彼女から向けられる言葉が、私を否定するようで。


「何よ……あなたが、私の何を知っているの!」

「いきなり出てきて、知った風な顔をして!」


私は叫んだ。

私が私であるための、最後の砦を守るために。

159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:45:11.52 ID:8fWIK/550


涙を目にいっぱいに溜めて、彼女も叫ぼうとした。


「だって……だって!」


きっと、万感の思いが籠った奔流。


「千早ちゃんは……千早ちゃんは、私の――」

160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:45:42.09 ID:8fWIK/550


けれど、私がその続きを遮った。

怖くなった。

彼女が何か言い掛けた時、私の身体は反射的に動いた。


「ッ千早ちゃ……」


その動きに気付いた彼女は目を見開き、咄嗟に身構えた。

私は怒りに身を任せ、そのまま彼女を突き飛ばした。


「きゃあっ!」


信じられないほど軽い身体が、衝撃で後ろへ飛ぶ。

勢いよく倒れ込んだ彼女は、しばらく起きることができなかった。

161 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:46:20.99 ID:8fWIK/550


彼女が痛みに呻いている間に、私はドアに手をかける。


「!! ま、待って、千早ちゃん!」


地面に強く打ちつけた半身を押さえながら、彼女は慌てた様子で言った。

その言葉に振り向くこともなく、私はドアを開け、部屋を出る。


「待って! 待ってよぉ!」


暗い哀しみの色をした瞳から、涙が溢れて頬を伝う。

私も、彼女も。


「行かないで、行かないでよ!」


何とか起き上がった彼女が、よろめきながらドアへ駆け寄ってくる音がする。


「……っ」


私は待たずに、ドアを閉めた。

162 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:46:48.70 ID:8fWIK/550


がちゃり、と拒絶の音。

鍵を掛け、いつか彼女に出会った時のように、その場にへたり込んだ。

後ろのドアを何度も何度も叩く音が響く。


「開けて! 開けてよぉ! 千早ちゃん、千早ちゃん!!」


あの弱々しい身体で体当たりしているであろう音も聞こえる。

ドアはびくともしない。

それでも形振り構わず、彼女は叩きながら泣き続けた。

163 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:47:26.74 ID:8fWIK/550


「開けてよ! 千早ちゃん! お願い、お願いだから!」


痩せ細った身体から絞り出された声は、突き刺すように私の心へ届く。

それでも、ドアを開かせるまでには至らない。

私の諦観は、それほどまでに達していた。


「もう、私は疲れたのよ……もう、何もしたくない……」

「イヤだぁ……そんなの、イヤだよぉ!」


ドアを叩く音が弱まっていく。

音は弱まっても、叩くことは決してやめようとしない。

私を呼ぶ声に、苦痛の声が混ざり始める。

それでも痛みを堪えながら、彼女は叩き続けていた。

164 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:48:13.72 ID:8fWIK/550


どうして。

どうして、そんなに私に固執するの。


「もう放っておいて!」


もう私は疲れた。

もう私は諦めた。

もう私は、何もしたくない。

だから、放っておいてください。


「私のことは、あなたには関係ないじゃない!」

「放っておいて! もう二度と私に構わないで!」


だからもう、私のために、そんなに傷つかないでください。

これ以上、私の罪を増やさないでください。

165 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:48:52.47 ID:8fWIK/550





「嫌だよぉ!!!」




166 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:49:23.91 ID:8fWIK/550


一際大きな叫び声が聞こえ、ドアを叩く音が止んだ。


「……だって、千早ちゃん……指切り、したもん……」


呟く声に、小さく嗚咽が混ざる。


「絶対に、前に進むことをやめないで……ってぇ……」


この少女と初めて会った時を思い出した。

確か今みたいに、深く深く絶望の底に座り込んでいた時だった。

167 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:50:32.36 ID:8fWIK/550


私達の間に、久しぶりの静寂が訪れた。

そしてぽつりと、彼女が呟いた。


「私、アイドルになるのが夢だったんだ」


今にも消え入りそうなかすれ声で。


「小さい頃ね、近所の公園で歌ってるお姉さんがいてね」

「私も歌ったら、みんなに誉めてもらえたの」

「みんな楽しそうで、私も楽しくて」

「だから私、もっともっと、たくさんの人を幸せにして、楽しませてあげたいって思ったの」

「それで、将来の夢がアイドル。安直だよね、えへへ」


涙声を堪えながらの、精一杯の強がりが聞こえた。

168 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:51:24.39 ID:8fWIK/550


「でも、私には才能も力もなかった」

「小学校卒業する頃には、半ば諦めてたんだよね」

「私なんかには、アイドルなんて絶対に無理だ、って」

「ほら、千早ちゃんも知ってると思うけど、私って音痴だから」


そう言うと、どこかで聴いた童謡をワンフレーズ歌った。

音痴、というほどではないけれど、お世辞にも上手とは言えない歌声。


「やだよねぇ。大人に近づくと、なんか現実的になっちゃって」

「……そんなこと考えてたんだけどね。ある日、気持ちが変わる出来事があったの」


「合唱コンクールに出たんだ」


その一言に、私の心が、僅かに揺さぶられた。

169 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:51:56.25 ID:8fWIK/550


「私達の順番は後半だったから、前半は他の学校の歌を聴いてたんだけど」

「ある学校にね、とぉーっても歌が上手い女の子がいたの」

「20人くらいいたのにね、その子の声はすっごくよく聴こえるんだよ」

「すごいよねぇ。他の子も頑張ってたんだけど」

「……合唱としてはあまり良くないのかな? あはは……」

「でね、私、その子の歌しか聴こえなくなっちゃって」

「終わってみんなが拍手してる時……私ね、泣いてたんだ」

「もうすごい勢いで涙が止まらなくて……」

「なんとか声は堪えてたんだけど、先生に心配されちゃった」

170 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:52:38.90 ID:8fWIK/550


「その子の歌がね、とっても悲しそうだったの」

「寂しいのを、泣くのを必死に堪えながら歌ってるみたいで」

「もらい泣き……しちゃった」


ドアの向こうから、鼻をすする音がした。

少しして、また無理をして明るく振る舞う声が聞こえた。


「その時、思ったんだ」

「ああ、歌ってすごい!って」

「私もこんな風に、人の心を動かすような歌をたくさんの人に届けたい!って」


明るく振る舞いつつも、声は徐々に力を失っていく。


「やっぱり私、アイドルになりたい、って」


ドア越しからでも、涙まみれの笑顔が見えた気がした。

171 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:53:48.06 ID:8fWIK/550


「だからね、千早ちゃん。もう一回、私からのお願い」

「前に進むことを、やめないで」


ドアの向こうから届いた願いは、先ほどよりも深く、私の心に刺さった。


「私ね、千早ちゃんのお陰で生まれ変われたんだよ」

「自分自身の意味を、心からの願いを、やっと見つけられたんだよ」

「千早ちゃんが諦めちゃったら……自分の力を信じられなくなっちゃったら……」

「私の夢も、あの時の感動も、希望も……全部、否定されちゃう」

「私が考えてきたことが、やってきたことが、無駄になっちゃう」

「私には、何も残らなくなっちゃう」

「私が、生きた証も……なくなっちゃう……」


きっと、必死に堪えていた涙がまた溢れてきたのだろう。


「わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!」


その後にも何か言おうとしていたけれど、言葉になっていなかった。

172 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:56:29.46 ID:8fWIK/550


「そろそろ私、限界なんだ」


呼吸を整えながら、彼女は次の言葉を必死に紡いだ。


「もう、千早ちゃんと一緒にいられない」

「だから、お別れの前に、もう一つだけお願い」


突然向けられた言葉に、一瞬思考が止まった。

限界?

お別れ?

何を言っているの、この子は。


「今度新曲を出す時は、明るい歌を歌ってほしいな」


声が震えている。

何かへの恐怖を必死に打ち消そうとしているけれど、つい漏れ出してしまっている。

そんな震え。

173 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 15:59:28.99 ID:8fWIK/550


「千早ちゃんの歌声なら、たくさんの人に幸せな気持ちを届けられるから」

「それに、千早ちゃん自身にも、歌いながら楽しい気持ちになってもらいたいし」

「……だから、デビュー曲の時は少し複雑だったんだけど……」

「あっ、ううん、あの曲はすごくいい曲だと思うよ! 私も好きだよ!」

「でも、明るい曲も聴いてみたかったかな……って」


慌てて詰め込むように、あれこれと饒舌になっている。

発車直前の駆け込み乗車のように、焦りが感じられた。


「……一つ、聞いていいかしら」

「なぁに?」

「……どうして、私自身にも楽しい気持ちになってほしい、と?」

「えっ?! えーっとね……その……」


私の問いかけに対し、急に歯切れが悪くなった。

うー、恥ずかしいなぁ、などと前置きをしてから、彼女は答えた。

174 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:00:12.97 ID:8fWIK/550


「だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ」

「とも、だち……?」

「うん。大切な大切な、友達」


照れつつも、愛おしさで包むような声が聞こえた。


「……」

「……えっ!? も、もしかして友達だと思ってるの、私だけだった、とか……?」


考えもしなかった。

ある日突然現れて、それから当たり前のようにいつもいて。

そう、彼女がいるのが当たり前になっていた。


友達?


そんなことが頭にこれっぽっちも思い浮かばないほど、彼女は身近な存在になっていた。

175 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:01:13.40 ID:8fWIK/550


私にとって、彼女は――。


「ぁ……」


それを考えようとした時、小さな悲鳴が聞こえた。


「私、もう行かなきゃいけないみたい」

「ごめんね。最後の最後で、なんだか困らせちゃったみたいで」


そう話す声が、ドアから少し遠ざかった。


「でも私は、千早ちゃんのことを友達だと思ってるよ」

「……千早ちゃんもそう思ってくれてたら、嬉しいな」


徐々に声が遠のいていく。

待って。

何処へ行くの?

私は慌てて立ち上がり、ドアを開けようとした。


ドアノブが、動かない。

176 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:01:59.76 ID:8fWIK/550


「千早ちゃん。さっき頼んだこと……できれば、お願いね」


動かない。

ドアが開かない。

行ってしまう。


「待って!」


足音は止まらない。

待って、待って待って待って待って!


「一人にしないで! 私を置いてかないで!!」


いつも一緒だと思っていた。

何処へも行かないと思っていた。

自分で閉ざしたドアを叩きながら、今更ながら、自分の愚かさを噛み締める。

177 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:02:34.50 ID:8fWIK/550


「ばいばい、千早ちゃん」


「待って――」



叫びが喉でつかえ、呼吸が止まる。

その時になって、ようやく気付いた。




私は、彼女の名前すら知らなかった。



178 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:03:28.83 ID:8fWIK/550


知らない?

彼女の名前を?

シラナイ?

あんなに一緒にいたのに?


ドアの向こうから、彼女の気配が消えていく。

まるで立ち上る煙のように。

溶けていく氷のように。


声は、喉でつかえたまま。

当たり前だ。

出てくるはずの言葉を、私はそもそもシラナイのだから。

179 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:03:56.54 ID:8fWIK/550


「■■――!」


がむしゃらに叫んだ。

彼女の姿を脳裏に浮かべながら。

それは何の意味も持たない記号。

今この瞬間だけ、彼女と言う意味を持たせた記号。

勿論、返事はない。


ドアの向こうの気配は、とっくに消え失せていた。

180 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:04:30.73 ID:8fWIK/550


「あ……」


私は何をしているのだろう。


ドアの隙間から吹き込む風に乗って、微かな香り。

彼女が使っているシャンプーの香り。

ついさっきまで目の前にあった香りなのに、酷く懐かしい。


涙が溢れた。

私は、どうしてここにいるのだろう?

181 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:05:16.19 ID:8fWIK/550


声も出ないまま項垂れると、足元に大きな紙が落ちていた。

すごろく。


ぽたり。

ぽたり。

と。

すごろくに染みがいくつも出来ていく。


『じゃらり』


金属が擦れる音がした。

182 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:05:51.57 ID:8fWIK/550


……こんなもの。


『じゃらり』


こんなもの。


『じゃらり』


こんなもの!


『じゃらり』


こんなものこんなものこんなもの!


『じゃらり』


全部全部全部なくなっちゃえ!


全部どこかへいっちゃえ!


全部、全部引き裂いてやる!


もう二度と……二度と!

183 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/01(日) 16:07:02.56 ID:8fWIK/550


「ぅ……」


紙吹雪が舞う。

ドアはいくつもの南京錠で固く閉ざされている。

その中で私は、一人で叫び続ける。


「ぅあ……」


運命への哀哭か。

環境への悲嘆か。

違う。

もっともっと、どうしようもなく根深いもの。


自分自身への、失望。


「うぁぁぁああああぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!!」

184 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:57:58.89 ID:cF8UknzM0

 * * * * * * * * * * * * * * * *


「ああああぁぁぁ……っっハァっハァっハァっ――」


自分の叫び声のせいか、私は跳ね起きた。


「っハァっハァっハァっ……」


時計を見ると、時刻は日付を越えて少し。

べっとりと嫌な汗をかいている。


「今の……夢、は……」


ここはベッドの上ではない。

どうやら、テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。

寝起きの気分は最悪だった。
185 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:58:25.41 ID:cF8UknzM0

ふと周囲を見回すと、一枚の紙が目に入った。


「これ、は……」


すごろく。

真美が空き時間の戯れに、広告用紙の裏に書いたものだった。


「あ……」


見た瞬間、鼓動が高鳴る。

いや、高鳴るなんて生易しいものではない。


「ハァっ……!」


心臓の動きが、みるみる内に早くなっていく。

呼吸もどんどん早くなり、頭の中が徐々に白んでいく。


「ハァっハァっハァっハァっ!」


死ぬ。

直感がそう判断する。
186 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:58:51.40 ID:cF8UknzM0

「誰、か……!」


頭が回らない。

何をすればいいか分からない。


「電、話……!」


意識が朦朧とする中、必死に携帯電話の位置を探る。

幸い、ポケットに入れたままだ。

震える手で何度も掴み損ねながら、何とか取り出して画面を開く。


誰でもいい。

誰かに、連絡をしないと。


待ち受け画面には、プロデューサーからの着信履歴。

迷わずボタンを押した。
187 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:59:26.33 ID:cF8UknzM0

『千早! かけ直してくれたのか!』


数コールの後、すぐにプロデューサーの嬉しそうな声が聞こえた。

良かった、出てくれた。


『って、どうして何も言わないんだ? 息も荒いが……』


端的に、急いで、伝、えな、けれ、ば。


「あ……ハァっ……! 助、け……」

『……ち、千早!? おい、しっかりしろ!』


いしき、とび、そ


「早く……家……たす……」

『部屋にいるんだな?! 救急車は呼んだのか!?』


かっ


『聞こえてるか! 千早! ちは――』


――――。

188 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:59:54.20 ID:cF8UknzM0

寝ては起きて、寝ては起きて、と忙しい日だ。

目覚めた時、最初に目に入ってきたのは白い天上だった。

鼻を刺す独特な化学的匂いが漂っている。


「病室、ね……」


ベッドの横には透明のパックがぶら下げられ、ぽたりぽたりと滴が落ちている。

その先から伸びる針は、私の腕の中へ潜り込んでいた。


「助かった、のかしら」

「千早、気分は大丈夫か?」


声がした方に目をやると、げっそりとしたプロデューサーが椅子に座っていた。


「慌てたよ。電話が来たと思ったら、いきなり発作起こしてるんだから……」

「……すみません。ご心配をおかけした上、こんなお手間まで……」

「それはいいんだいいんだ。面倒を見るのがプロデューサーの仕事だから」


まともに会話をできる私を見て、一先ず安心してもらえたようだ。
189 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:00:26.68 ID:cF8UknzM0

「過呼吸で倒れただけだって救急車の方には言われたけど……ホッとしたよ」


私が落ち着くと、プロデューサーがすぐに連絡を入れた。

社長、音無さん、律子。

そして次に、当然のように。


「ご両親にも連絡しないと」

「しなくていいです」

「そう言うわけにはいかない。仮にも娘さんを預かってる身だ」

「私の家のこと、ご存知ですよね」

「だとしても、だ」

「なら、私が会いに来なくていいと言った旨、一言添えてください」

「……分かった」


プロデューサーとしても、譲歩の限界ラインだったのだろう。

私の言った通りにしてくれつつも、やりきれない表情をしていた。
190 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:00:52.93 ID:cF8UknzM0

夜が明けて。

検査入院をすることになった私の所へ、両親は来なかった。

代わりに、オフだった二人が朝一番にやってきた。


「千早さん、お身体は大丈夫ですか?」

「心配は要らないわ、高槻さん」


あんな無様な姿を晒して迷惑をかけた私を、こんなにも心配してくれる。

私には過ぎた仲間、だった。


「何よ。心配して損したわ」

「ごめんなさい、水瀬さん」

「……っ」

「えーっと、これ、途中で買った果物です!」


ありがとう、と言おうとして二人を見ると。

水瀬さんが浮かない表情をしていた。
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:26:28.40 ID:cF8UknzM0

「今、なんて言った?」

「え? ごめんなさい、と」

「そうじゃなくて。私のこと、名字で呼んだわよね」


それが何だと言うのだろうか。

そんなに気にするようなこと?

変な心配をさせてしまったのかと、薄く微笑むと。


「アンタ、そんな無感情な顔で笑うような人間じゃなかったわ」

「そうかしら。昔から無表情だと言われていたけれど」

「ええ、そうね。淡白だけど時々激しい性格が顔に出やすくて、愛想笑いなんて誰よりも苦手だった」


愛想笑い、なんてつもりはなかったけれど。

でも、水瀬さんの言ってることは分かる。

きっと、私は。
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:27:19.61 ID:cF8UknzM0

「……いい機会だから、そのままゆっくり休んでなさい」

「私は……休むも何も」

「……」

「千早さん、退院したら、事務所のみんなでご飯食べに行きましょー!」

「……ええ、ありがとう」


高槻さんは何かを察したかのように、水瀬さんの手を引いて病室を後にした。

去り際の水瀬さんは、何かを案ずるような目つきで私を見ていた。
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:27:59.20 ID:cF8UknzM0

次にやってきたのは四条さんと我那覇さんだった。


「お加減は如何ですか?」

「あ、もう誰か来たんだなー。この匂い、伊織か?」

「ええ。水瀬さんと高槻さんが」


そう答えると四条さんは一瞬、水瀬さんと同じように顔をしかめた。

一方の我那覇さんは、いつものようにあっけらかんとしている。


「食欲はあるの?」

「それなりに、と言ったところかしら」

「じゃあ、これどーぞ!」


差し出されたのは、丸いお菓子が入った小袋。


「いつも同じものな気もするけど……サーターアンダギー!」
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:38:53.74 ID:cF8UknzM0

「私もいただきましたが、まこと美味でしたよ。さぁ、どうぞ」


我那覇さんに差し出された袋から、一つ摘み出す。

口に運ぶと、柔らかい甘みが広がった。

美味しい、はず。


「……あ、あれ? なんか失敗しちゃったか?」

「え?」

「なんか微妙な表情をしてるから……」

「いえ、美味しいわ、我那覇さん」

「んー……」


納得しかねると言った表情で、我那覇さんは首を捻る。

その様子を見ていた四条さんは、私の顔をじっと覗き見た。
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:39:19.81 ID:cF8UknzM0

「何かついてますか?」

「如月千早。あなたは……」


出かかった言葉を呑み込み、四条さんは言葉を選び直した。


「……きっと時間が解決してくれることでしょう。私からは何も言いません」

「ん……」


四条さんの言葉に、我那覇さんも神妙な面持ちになった。

それを見る私の心は、どんな色をしているのだろう。

二人の言葉も、このお菓子の味も。

何も響かなかった。
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:39:45.98 ID:cF8UknzM0

「てりゃーっ!」

「サボりは許さんぜよ!」


前の二人が部屋を出てしばらくすると、騒がしい声が聞こえた。

勢いよく病室のドアが開いたかと思えば、小さな身体が駆けこんでくる。


「ってうえぇ!? 思ったよりやばそーじゃない?」

「うわ、点滴痛そー……」

「大丈夫よ、双海さん。見かけほどじゃないわ」

「え……?」


問題ない旨を伝えたところ、何故か一層深刻な表情をされてしまった。

二人はベッドの両側にそれぞれしゃがみこむと、私に声をかけた。
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:40:31.70 ID:cF8UknzM0

「千早お姉ちゃん、辛い?」

「辛いって……何が?」

「えーっと、それはその……色々、あるけどさ」

「辛くはないわよ」


それは偽りない事実。

辛くは一切ない。

普段ならそう感じるセンサーが、今は全く動かない。


「なんか、千早お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がする……」

「ねぇ、急にいなくなっちゃったりしないよね?」

「大丈夫よ」


心配する必要なんて何もない。
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:41:10.87 ID:cF8UknzM0

私にはそもそも、行く場所なんてどこにもない。

二人の心配は杞憂でしかない。


「ホントにホント?」

「本当よ。心配性なのね」

「でも、真美もなんか怖いな、って思った……」

「心配なら、電話でもメールでも。深夜でもいつでもしてくれていいから」

「うん……」


別に部屋に来ても構わない。

呼び出されれば遊びに行ってもいいし、何でも付き合おう。

何をしても、私は何も感じないだろうから。
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:45:24.56 ID:cF8UknzM0

双海さん達が出ていく時、廊下で誰かに声をかけていた。

すぐに入れ違いで入ってきたのは、菊地さんと萩原さん。


「千早、具合はどう?」

「心配されてばかりね、私」

「そりゃ心配するよ……夜中にいきなり倒れたって聞いたらさ……」

「千早ちゃん、お茶、飲む?」

「いただくわ、ありがとう」


菊地さんが椅子に腰かける横で、萩原さんが魔法瓶からお茶を注いでくれた。


「……」


菊地さんは俯いて何も話さない。

そういえば廊下で双海さん達と喋っていたけれど、何を話していたのだろう。
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:01:46.57 ID:cF8UknzM0

「雪歩のお茶、美味しい?」

「ええ。流石萩原さんね」


このお茶は美味しい。

それは間違いない。


「それ、真ちゃんが買ってきてくれたんです。お店まで探して」

「菊地さんが……?」

「ッ……ああ。口に合うかな」


ただそれは、美味しいという客観的事実が存在しているだけで。

私の口に合うか、というのは、自分では判断できない。


「……そうね。嫌いではないわ」


事実だけを告げる。
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:03:20.46 ID:cF8UknzM0

その答えに、やっぱり、といった表情で。


「……そっか。良かったよ」

「真ちゃん……」

「これ、残りのお茶の葉。置いてくから、良かったら淹れてもらって飲んでよ」

「ありがとう」


鞄から取り出された小筒からは、ふっと香りが漂ってきた。

きっと以前なら夏の匂いとか太陽の香りとか、色んな感想が浮かんだだろう。


「ボク達、近くで収録だからもう行かなきゃいけないんだけど」

「……お大事にね、千早ちゃん」


部屋を後にする二人の肩は、何故か僅かに震えていた。
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