千早「賽は、投げられた」

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188 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 14:59:54.20 ID:cF8UknzM0

寝ては起きて、寝ては起きて、と忙しい日だ。

目覚めた時、最初に目に入ってきたのは白い天上だった。

鼻を刺す独特な化学的匂いが漂っている。


「病室、ね……」


ベッドの横には透明のパックがぶら下げられ、ぽたりぽたりと滴が落ちている。

その先から伸びる針は、私の腕の中へ潜り込んでいた。


「助かった、のかしら」

「千早、気分は大丈夫か?」


声がした方に目をやると、げっそりとしたプロデューサーが椅子に座っていた。


「慌てたよ。電話が来たと思ったら、いきなり発作起こしてるんだから……」

「……すみません。ご心配をおかけした上、こんなお手間まで……」

「それはいいんだいいんだ。面倒を見るのがプロデューサーの仕事だから」


まともに会話をできる私を見て、一先ず安心してもらえたようだ。
189 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:00:26.68 ID:cF8UknzM0

「過呼吸で倒れただけだって救急車の方には言われたけど……ホッとしたよ」


私が落ち着くと、プロデューサーがすぐに連絡を入れた。

社長、音無さん、律子。

そして次に、当然のように。


「ご両親にも連絡しないと」

「しなくていいです」

「そう言うわけにはいかない。仮にも娘さんを預かってる身だ」

「私の家のこと、ご存知ですよね」

「だとしても、だ」

「なら、私が会いに来なくていいと言った旨、一言添えてください」

「……分かった」


プロデューサーとしても、譲歩の限界ラインだったのだろう。

私の言った通りにしてくれつつも、やりきれない表情をしていた。
190 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:00:52.93 ID:cF8UknzM0

夜が明けて。

検査入院をすることになった私の所へ、両親は来なかった。

代わりに、オフだった二人が朝一番にやってきた。


「千早さん、お身体は大丈夫ですか?」

「心配は要らないわ、高槻さん」


あんな無様な姿を晒して迷惑をかけた私を、こんなにも心配してくれる。

私には過ぎた仲間、だった。


「何よ。心配して損したわ」

「ごめんなさい、水瀬さん」

「……っ」

「えーっと、これ、途中で買った果物です!」


ありがとう、と言おうとして二人を見ると。

水瀬さんが浮かない表情をしていた。
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:26:28.40 ID:cF8UknzM0

「今、なんて言った?」

「え? ごめんなさい、と」

「そうじゃなくて。私のこと、名字で呼んだわよね」


それが何だと言うのだろうか。

そんなに気にするようなこと?

変な心配をさせてしまったのかと、薄く微笑むと。


「アンタ、そんな無感情な顔で笑うような人間じゃなかったわ」

「そうかしら。昔から無表情だと言われていたけれど」

「ええ、そうね。淡白だけど時々激しい性格が顔に出やすくて、愛想笑いなんて誰よりも苦手だった」


愛想笑い、なんてつもりはなかったけれど。

でも、水瀬さんの言ってることは分かる。

きっと、私は。
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:27:19.61 ID:cF8UknzM0

「……いい機会だから、そのままゆっくり休んでなさい」

「私は……休むも何も」

「……」

「千早さん、退院したら、事務所のみんなでご飯食べに行きましょー!」

「……ええ、ありがとう」


高槻さんは何かを察したかのように、水瀬さんの手を引いて病室を後にした。

去り際の水瀬さんは、何かを案ずるような目つきで私を見ていた。
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:27:59.20 ID:cF8UknzM0

次にやってきたのは四条さんと我那覇さんだった。


「お加減は如何ですか?」

「あ、もう誰か来たんだなー。この匂い、伊織か?」

「ええ。水瀬さんと高槻さんが」


そう答えると四条さんは一瞬、水瀬さんと同じように顔をしかめた。

一方の我那覇さんは、いつものようにあっけらかんとしている。


「食欲はあるの?」

「それなりに、と言ったところかしら」

「じゃあ、これどーぞ!」


差し出されたのは、丸いお菓子が入った小袋。


「いつも同じものな気もするけど……サーターアンダギー!」
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:38:53.74 ID:cF8UknzM0

「私もいただきましたが、まこと美味でしたよ。さぁ、どうぞ」


我那覇さんに差し出された袋から、一つ摘み出す。

口に運ぶと、柔らかい甘みが広がった。

美味しい、はず。


「……あ、あれ? なんか失敗しちゃったか?」

「え?」

「なんか微妙な表情をしてるから……」

「いえ、美味しいわ、我那覇さん」

「んー……」


納得しかねると言った表情で、我那覇さんは首を捻る。

その様子を見ていた四条さんは、私の顔をじっと覗き見た。
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:39:19.81 ID:cF8UknzM0

「何かついてますか?」

「如月千早。あなたは……」


出かかった言葉を呑み込み、四条さんは言葉を選び直した。


「……きっと時間が解決してくれることでしょう。私からは何も言いません」

「ん……」


四条さんの言葉に、我那覇さんも神妙な面持ちになった。

それを見る私の心は、どんな色をしているのだろう。

二人の言葉も、このお菓子の味も。

何も響かなかった。
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:39:45.98 ID:cF8UknzM0

「てりゃーっ!」

「サボりは許さんぜよ!」


前の二人が部屋を出てしばらくすると、騒がしい声が聞こえた。

勢いよく病室のドアが開いたかと思えば、小さな身体が駆けこんでくる。


「ってうえぇ!? 思ったよりやばそーじゃない?」

「うわ、点滴痛そー……」

「大丈夫よ、双海さん。見かけほどじゃないわ」

「え……?」


問題ない旨を伝えたところ、何故か一層深刻な表情をされてしまった。

二人はベッドの両側にそれぞれしゃがみこむと、私に声をかけた。
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:40:31.70 ID:cF8UknzM0

「千早お姉ちゃん、辛い?」

「辛いって……何が?」

「えーっと、それはその……色々、あるけどさ」

「辛くはないわよ」


それは偽りない事実。

辛くは一切ない。

普段ならそう感じるセンサーが、今は全く動かない。


「なんか、千早お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がする……」

「ねぇ、急にいなくなっちゃったりしないよね?」

「大丈夫よ」


心配する必要なんて何もない。
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:41:10.87 ID:cF8UknzM0

私にはそもそも、行く場所なんてどこにもない。

二人の心配は杞憂でしかない。


「ホントにホント?」

「本当よ。心配性なのね」

「でも、真美もなんか怖いな、って思った……」

「心配なら、電話でもメールでも。深夜でもいつでもしてくれていいから」

「うん……」


別に部屋に来ても構わない。

呼び出されれば遊びに行ってもいいし、何でも付き合おう。

何をしても、私は何も感じないだろうから。
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 15:45:24.56 ID:cF8UknzM0

双海さん達が出ていく時、廊下で誰かに声をかけていた。

すぐに入れ違いで入ってきたのは、菊地さんと萩原さん。


「千早、具合はどう?」

「心配されてばかりね、私」

「そりゃ心配するよ……夜中にいきなり倒れたって聞いたらさ……」

「千早ちゃん、お茶、飲む?」

「いただくわ、ありがとう」


菊地さんが椅子に腰かける横で、萩原さんが魔法瓶からお茶を注いでくれた。


「……」


菊地さんは俯いて何も話さない。

そういえば廊下で双海さん達と喋っていたけれど、何を話していたのだろう。
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:01:46.57 ID:cF8UknzM0

「雪歩のお茶、美味しい?」

「ええ。流石萩原さんね」


このお茶は美味しい。

それは間違いない。


「それ、真ちゃんが買ってきてくれたんです。お店まで探して」

「菊地さんが……?」

「ッ……ああ。口に合うかな」


ただそれは、美味しいという客観的事実が存在しているだけで。

私の口に合うか、というのは、自分では判断できない。


「……そうね。嫌いではないわ」


事実だけを告げる。
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:03:20.46 ID:cF8UknzM0

その答えに、やっぱり、といった表情で。


「……そっか。良かったよ」

「真ちゃん……」

「これ、残りのお茶の葉。置いてくから、良かったら淹れてもらって飲んでよ」

「ありがとう」


鞄から取り出された小筒からは、ふっと香りが漂ってきた。

きっと以前なら夏の匂いとか太陽の香りとか、色んな感想が浮かんだだろう。


「ボク達、近くで収録だからもう行かなきゃいけないんだけど」

「……お大事にね、千早ちゃん」


部屋を後にする二人の肩は、何故か僅かに震えていた。
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:03:48.26 ID:cF8UknzM0

それからしばらく一人の時間が続いた。

その沈黙を破ったのは、営業途中だった三浦さんと秋月さん。


「千早、起きてる?」

「失礼するわね、千早ちゃん」


窓の外を眺めていた私を見て、三浦さんが呟く。


「お邪魔だったかしら?」

「いえ、そんなことは」

「よかったわ。これ、差し入れ」


手渡されたのは、ケーキ屋の箱。

中にはシュークリームが入っていた。
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:04:27.42 ID:cF8UknzM0

「とーっても美味しいのよ」

「あ、食べるの辛かったら無理しないで。冷蔵庫に入れておくから」

「一つ、いただきます」


秋月さんの気遣いを制して、一つを口に運ぶ。

生クリームの上品な甘さが、舌の上で溶ける。


「さ、律子さんも」

「千早へのお見舞いの品でしょう、これ……」

「私は構わないわ。秋月さんもどうぞ」


甘いということしか分からない私が食べても、勿体ないだけだから。


「それじゃあ、一つ……え?」


口に運ぼうとして、秋月さんの手が止まった。
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:05:12.21 ID:cF8UknzM0

「何か?」

「あ、ううん! 一つ貰うわね」


慌てて口に入れると、美味しい美味しいと早口で何度も言った。

それを見ながら、三浦さんは人差し指を顎に当て、僅かに顔を傾ける。


「病院、退屈じゃない?」

「これで退屈するような生活、元々送っていませんでしたから」

「それはそれで心配だなぁ」


二人は他愛もない話題を振ってきた。

何かを隠しながら。

きっと私を慮ってのことだろう。

私にそんな価値はないのに。
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:05:39.18 ID:cF8UknzM0

二人も帰って、外が暗くなり始めた頃。

営業終わりのプロデューサーと星井さんが、病室を訪れた。


「よ、千早」

「なんだかハニーに聞いてたよりも、全然元気そうなの」

「みんなが騒ぎ過ぎなのよ」


そう、私なんかに構いすぎている。

もっとやるべきことがあるはず。


「ともあれ星井さん。営業お疲れ様」

「え……!?」

「お、おい美希! 待て!」
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:06:07.85 ID:cF8UknzM0

私が声をかけた途端、星井さんは血相を変えてしがみついてきた。

労いの言葉をかけるのは、間違っていたのだろうか。

でも星井さんが口にしたのは、全く別のことだった。


「ち、千早さん?! どうして星井さんなんて呼ぶの!?」

「何かおかしいかしら」

「どういうこと……どういうことなの、プロデューサー!?」


かなり動転しているらしい。

プロデューサーのことを、ハニーと呼ぶ余裕もないくらいに。


「美希、落ち着け。検査のためとはいえ、千早は入院中の身だぞ」

「あっ……ご、ごめんなさい……」
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:06:35.59 ID:cF8UknzM0

「千早、さん……どうしちゃったの……?」

「別にどうもしてないわ。発作で倒れただけよ」

「それだけなワケないの!」


涙を目にいっぱいに溜めて、星井さんは叫んだ。

何事かと部屋を覗き込む看護師を見て、プロデューサーが慌てる。


「どうして……どうして……」

「本当に何ともないわ。しばらく休めば、また買い物でもなんでも行ける」

「ミキは……ミキは、千早さんと行きたいの!」


よく分からないことをもう一度叫ぶと、星井さんは病室から走り去ってしまった。
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:09:55.98 ID:cF8UknzM0

「美希! あいつ……」

「プロデューサー、星井さんを追いかけないと」

「分かってるよ。それより、千早」


何がそれより、なのだろう。

私に何か言うよりも、星井さんを追いかける方が重要なのに。


「……あの生放送の件は、番組側から正式に事務所へ謝罪があったよ。司会者も謹慎処分だそうだ」

「千早に直接謝罪をしたい、という申し出もあって、一旦保留にしてある」

「うちの事務所責任は何も問われてない。気に病まないで、しっかり休んでくれ」

「……」


プロデューサーは何を言っているのだろう。

私だってそれくらいの予想はつく。

問題は、そこではない。
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:11:19.36 ID:cF8UknzM0

『如月千早は、このような人物である』


このレッテルは、業界関係者一般視聴者問わず、観た人間全員に刷り込まれた。

勿論、同情論も少なくはないだろう。

けれども、私が激しく取り乱し、晒した醜態から根付いたイメージ。

それはじわりじわりと、人から人へ伝染し、蝕んでいく。


私自身の評価だけではない。

『仲のいい、一心同体の事務所』

そこを表に出してきたこの事務所にとっては、致命的な猛毒。


世界は、いくらかの良心に守ってもらえるほど、優しくはない。
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:11:50.23 ID:cF8UknzM0

だからこそ。


「分かりましたから、早く星井さんの所に行ってあげてください」

「……ああ。くれぐれも思いつめないでくれよ、千早」


私に引き摺られるのではなく、少しでも周囲のフォローに回らなければならない。

私からもたらされるマイナス以上に、みんなをプラスへ導かなければならない。


私を切り捨てる、という手早い手段を取れる事務所でないことは分かっている。

だからせめて、私に構わないでください。


もう私には、みんなが心配するほどのものは、何も残されていない。
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/02(月) 22:12:17.42 ID:cF8UknzM0


私の中は、本当に空っぽで。

みんなの気持ちに対して、お礼を言わなければ、とは思った。

けれど、それはみんなにわざわざそうさせたことへの礼であり。

みんなの気持ちに対しては、何も感じなかった。


入ってくるものがなかった。

溜まっていくものがなかった。

まるで笊が水を通すように、上から下へまっすぐ落ちていくだけだった。

地下へ向かう吹き抜け階段のように。


私の心は、限りなく無機質になっていた。

212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/03(火) 23:28:56.03 ID:HNSD9MSE0
一度エタったくせに今更また来たのか
213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 09:57:49.45 ID:Uj/nf4tu0

検査の結果、特に異状はなし。

発作も、精神的なものだろうと判断された。

入院の必要はないけれど、暫くは通院してくれ、とのこと。


病室を引き払う時、音無さんが迎えに来てくれた。


「部屋まで送ってあげるわ、千早ちゃん」

「わざわざそんなこと、して頂かなくても」

「とはいえ、もうここまで車で来ちゃったのよね」


今から引き返してもただの時間の無駄だし、と。

音無さんは珍しい私服姿で微笑んだ。
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 09:58:15.30 ID:Uj/nf4tu0

曇り空の下、音無さんの車が走る。

舗装の古い道路のお陰で、がたがたと揺れる。


「みんな心配してるわ、千早ちゃんのこと」

「私はなんともありません」


そう答えると、音無さんは少し寂しそうな顔をした。


「……落ち着いたら、事務所に顔を出してね」

「呼ばれれば明日にでも」


それっきり、音無さんは何も喋らなかった。
215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 09:58:41.69 ID:Uj/nf4tu0

「ほんの二日だけど、入院生活は退屈だったでしょ」

「何もしないことには慣れてますから」


マンションに着いて、車を降りる。

荷物を出して、音無さんに頭を下げた。


「ありがとうございました」

「ふふっ、もっとお姉さんを頼ってもいいのよ?」

「何かあれば、また」


別れの言葉を告げ、部屋へと向かう。

建物に入ろうとした時、後ろから声が聞こえた。


「時間がかかってもいいわ。私もみんなも、待ってるから」


「帰ってきてね……千早ちゃん」


私は何も答えず、そのまま部屋へ帰った。
216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 09:59:08.38 ID:Uj/nf4tu0

単調な日々が始まった。


起きる。

朝食をとる。

ずっと窓の外を眺め続ける。

昼食をとる。

病院へ行く。

帰宅して、また窓の外を眺める。

夕食をとる。

入浴する。

寝る。


ひたすら、それの繰り返し。
217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 09:59:41.02 ID:Uj/nf4tu0

寝ればいつも、夢を見る。

深い眠りも、浅い眠りも。

ベッドで寝る時も、テーブルでうたた寝をする時も。

眠りに落ちるたびに、私はあの部屋にいた。


破かれたすごろく。


南京錠が巻き付いたドア。


壁に背を預け、一人で座り込む私。


ただ、それだけの夢。


もうさいころは振らない。

駒を進めることもない。

私に触れていた誰かも、いない。
218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:00:09.74 ID:Uj/nf4tu0

起きて外を歩けば、時折私に気付く人もいる。

侮蔑の視線。

同情の視線。

時には露骨に声をかけられることもある。

けれど私はもう狼狽えなかった。


嘲りの声が聞こえれば、そうですか、と。

慰めの声が聞こえれば、そうですか、と。


道行く人々はそんな私を見るたびに、顔をしかめた。
219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:01:00.19 ID:Uj/nf4tu0

日々は動き続ける。

しかし、前へは進まない。

動き続ける世界の中で、私は確かに生きている。


ただただ、生きているだけ。


意思なく動くだけの駒のように。

私だけが停滞の中を生きていた。


事務所のみんなは必死に頑張っている。

仕事は減ったものの、私の置き土産にも負けず、懸命に。

地道な活動と少しずつ表れる成果。

そうだ、彼女達は本来、こうあるべきだったのだ。

夢を目指し続ける彼女達はきっと、輝いていることだろう。
220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:06:23.58 ID:Uj/nf4tu0

その日も私は、いつものように病院へ向かった。

発作はもう、殆どなくなっていた。

しかし主治医の先生曰く、どうにも私が心配らしい。


病院を訪れ、軽い世間話をする毎日。

私の返答から精神状態の変化などを見ているらしい。

今の私が、どう変わるはずもないのだけれど。


単調な毎日に組み込まれていた病院での時間だったが、今日は少しだけ違った。


「……プロデューサー?」


診察を終えて廊下を歩いている時、病室から出てくるプロデューサーに出会った。
221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:06:49.46 ID:Uj/nf4tu0

「ん、千早か」

「こんにちは。お見舞いですか?」

「ああ、ちょっと知り合いのな」


プロデューサーが出て来たのは個室部屋。

その浮かない表情も手伝い、ただの入院でないことは容易に想像がついた。

プロデューサーは、閃いた!というような表情をした。


「お前、もう暇か?」

「私ですか? はい、あとは帰るだけですが」

「良かったら会ってやってくれないか? 千早のファンなんだ」

「私は構いませんが」


そう頼まれれば、特に会わない理由はない。

ファンだという人物にとってプラスになるかどうかは保証できないけれど。
222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:07:16.67 ID:Uj/nf4tu0

入口のところには名前が書かれた表札があった。

女性の名前。

知り合いと言うからには、プロデューサーと同年代くらいだろうか。

自分からは何を話したらいいのか分からない。

せめて、あちらから話を振ってくれると有り難い。


プロデューサーがドアを控えめにノックする。


「春香、また入るぞ」


部屋に入ると、白いベッドに横たわる姿が見えた。
223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:09:35.70 ID:Uj/nf4tu0

無機質な白い壁に囲まれ、締め切られた病室。

傍の棚に置かれた花瓶に挿されたオレンジ色のガーベラ。

綺麗に畳まれ、椅子の上に置かれたパジャマ。

そんな場所で、女の子は眠っていた。


部屋には微かに、甘い香りが漂う。

差し入れのお菓子か何かだろうか。


プロデューサーは、その顔を覗き込みながら声をかける。


「ぐっすり寝てるところ、たびたび出入りして悪いな」


私もプロデューサーの後ろから、寝顔を覗き込む。


……。

……?


見覚えがある。

どこかで会ったことがある?
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:10:23.02 ID:Uj/nf4tu0

覚えのあるシャンプーの香りが、私の鼻腔をくすぐった。


髪は肩よりも少し長い。


「……ぁ」

「……? 千早、どうした?」


きっと入院している内に、髪は本来の長さよりも伸びていて。


「名前は……はる、か……?」

「ああ、天海春香っていうんだ。近所に住んでる子なんだよ」


その寝顔は、何度も見たことのある顔で。


私は、この子を知っていた。
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:12:11.32 ID:Uj/nf4tu0

そう。


私は知っている。

このあどけない寝顔を。


私は知っている。

小さく聞こえる寝息を。


私は知っている。

この口から紡がれるであろう、優しい声を。


私は知っている。

きっと、このお節介焼きのことを。
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:12:53.37 ID:Uj/nf4tu0


入口にあった表札。


ずっとずっと、会いたかった顔。


その姿を見た途端、私の中でにわかに湧き上がる激情があった。


■■……。


■■!


違う!

227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:14:25.36 ID:Uj/nf4tu0


春■。


■香。



かつて叫んだ記号に、一つずつ文字が収まっていく。



春香。


春香!


天海、春香!



彼女の名前は、『天海春香』!


228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:15:53.56 ID:Uj/nf4tu0


あっという間に心が熱く熱く燃え上がる。

冷え切っていた私にとって、その動きは急激過ぎて。

すぐさま、自分では制御できなくなった。


天海春香。

あの時呼べなかった、彼女の名前。


天海春香。

欠けていたピースを、やっと見つけることができた。


天海春香。

大切な大切な名前。


天海春香。


かけがえのない、私の、私の――!

229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:17:08.10 ID:Uj/nf4tu0


春香!

ああ、春香、春香、春香!


ねえ、分かる?

私よ!

如月千早よ!

なんて素晴らしいことなの!

もう会えないと思ってた!

もうあなたは、私の世界から消え失せたと思ってた!


けれどあなたは今、こんなにも近くにいる!

また話せる!

また触れられる!

また、触れてくれる!


また、私の隣に、いてくれる!

230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:19:33.69 ID:Uj/nf4tu0


春香!

春香、寝てなんていないで早く起きて!

私、ずっとずっと会いたかった!

ちょっと会わなかっただけなのに、まるで何年も経ったみたい!

今なら、あなたの名前を呼んであげられる!

夢の中なんかじゃない!

本当のあなたと、手を取り合うことができる!


「あんな鍵だらけのドアは……もう、無い……」

「ほら、分かる……? 私、今あなたの左手を握ってる……」

「ねぇ、春香!」

「また、二人で色んなことを話しましょう?」

「アイドルになりたいんでしょう? 一緒に、頑張りましょう?」

「ほら、春香」

「春香……」



「……何とか、言って……!」


231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:20:06.50 ID:Uj/nf4tu0

春香は、何も喋らない。

目を閉じて、小さな寝息を立て続けるだけ。


「お前……春香と知り合いだったのか」

「春香、春香!」

「……千早。春香はな」

「どうして……」

「……」


「どうして、目を覚まさないんですか……!」


私がどれだけ名前を呼んでも。

身体をゆすっても。

春香は、目を覚まさなかった。
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:07.30 ID:Uj/nf4tu0

「目を覚まさないんだよ」


春香をゆする私の手を押さえ、プロデューサーは言った。


「丁度、千早が発作を起こして入院した日」

「あの夜から、目を覚まさないんだ」


私の呼びかけに、春香は全く答えない。

穏やかな寝息を乱せば、今すぐにでも起きそうなのに。


「病気……というのも少し違うんだけどな」

「長い間寝ては少し起きて、長い間寝ては少し起きて……」

「これまでも、そんな生活を送ってた」
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:58.15 ID:Uj/nf4tu0

「寝る時間が徐々に長くなってきて、あの夜、とうとう……」

「そんなこと……全然聞いてない……」

「……やっぱり黙ってたのか、春香」


友達に隠し事は良くないな、と。

プロデューサーは寂しそうに笑った。


「前は長くても二、三日で起きてたんだが、医者が言うには、今回はもしかしたら……もう」

「ッなんでそんな!」


プロデューサーのスーツを思いっきり掴む。

どうしてそんなにあっさりと言えるの?

春香が、春香がこんなことになっているのに!


「ご両親も俺も、いつかこうなるかもしれないと言われて、前々から覚悟はしてた」

「春香自身も、な」


「っ……」
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:22:53.74 ID:Uj/nf4tu0

どうして、こんな。

折角会えたのに。

届きそうなどころか、実際に触れられる距離にいるのに。


たった今、私たちは触れ合っているのに。


やっぱり、私と春香の心は、こんなにも遠い。

地球の裏側よりも遠いところに、春香はいる。

あの南京錠のかかったドアの遥か先に、春香はいる。


「どうして」

「……」

「どう……してぇっ……!」


頬が濡れる。

久しぶりの潤い。

乾き切ったと思っていたのに、まだ湧き出る源泉があったなんて。
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:23:34.65 ID:Uj/nf4tu0

「俺には何もできない」


プロデューサーは項垂れながら、スーツを握りしめる私の指を解いた。


「ただただ、春香が起きるまで待ってることしかできない」

「……悪い、千早。今日はこんなつもりじゃなかったんだ」


果実の種を噛んでしまった時のように苦い顔をして、私から目を逸らした。


春香がすぐ目の前にいるのに、私には何もできない。

その現実を突き付けられ、理解した時。

私は悔しくて悔しくて、唇を噛み締めた。
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:24:25.35 ID:Uj/nf4tu0

「……待っていること、しか?」


ふと、プロデューサーの言葉を復誦してみた。

確かに私は無力だ。

私には、春香を目覚めさせることはできない。


なら、何をするべきか?


「……深く考える事なんて、なかったのかもしれない」


こんな時、春香ならどうするか。

こんな時、私はどうしてもらっていたか。


どうしようもない時。

塞ぎこんでいた時。

邪険に突き放した時。


どんな時でも、春香は傍にいて、私のことを信じて、待っていてくれた。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:25:04.27 ID:Uj/nf4tu0

簡単なことだった。

とてもとてもシンプルな結論。


なら、今度は私の番だ。


「プロデューサー。これからも、春香に会いに来ていいでしょうか」

「ん? そりゃ勿論。春香も喜ぶだろうな」


春香はここにはいないのに。

でも、いい。

ここに春香がいないのなら。

春香が、今は遠くに行ってしまっているのなら。


私はここで待ち続けよう。

彼女が、春香が帰ってきて、再び目を開けるその時まで。
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:27:37.33 ID:Uj/nf4tu0



もう私は、すごろくの番に追われていない。

さいころは振らない。

駒を進めるつもりもない。

そんな今の私にとって、停滞し、待ち人に思いを馳せるのは、とてもとても容易なこと。



ずっとずっと。


何日でも。


何週間でも。


何か月でも。


何年でも。



私は待ち続けよう。

他の何も望まない。

ただただ、この場で停滞していよう。

ただただ、春香が目を覚ますことだけを待ち続けよう。


どこへも進むことなく。

どこへも戻ることなく。


彼女がずっと、そうしてくれていたように。

彼女への恩返しに。

そして、私自身のために。


239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:35:58.80 ID:Uj/nf4tu0

その日から私の日課が増えた。


診察を終えた後、病室へ立ち寄る。

春香が一人きりで眠り続ける、白い部屋へ。


どうやら、ご両親は午前中の内に来ているらしい。

私は椅子に腰かけ、春香と二人きりで他愛もない独り言を続ける。


「今日ね、こんな嬉しいことがあったのよ」


「お昼にこんなものを食べたのだけれど、とても美味しくて」


「昨日たまたま観たテレビが面白かったわ」


嘘で塗り固められた独り言。

私が感じられるはずもない感覚を、あたかも事実のように語りかける日々。

きっと春香が聞きたがりそうな話。

過去の記憶を頼りに、一つ一つ創り上げていく。
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:38:06.23 ID:Uj/nf4tu0

毎日毎日、足繁く通う。

二人きりの時間の流れは、とても穏やかに停滞していて。

可愛らしい寝息を立てる春香の横で、私は話し続けた。


一度、病室の前でご両親らしき人達とプロデューサーが話しているのを見た。

その翌日、いつものように春香に話していると、春香のお母さんが来た。

初対面でどうしたらいいか分からない私に微笑むと、持ってきた紅い林檎を八つに切り分ける。

それを差し出し、二人で食べてね、と言うと、着替えを抱えて帰っていった。


「美味しそうな林檎ね、春香」


林檎は一つも減らなかった。
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:14.02 ID:Uj/nf4tu0

そこから始まる、私と春香、二人だけの空間。

まるで録画したビデオを見続けるように、変わらない日々。


私たちは繰り返す。

ただただ、同じ毎日を繰り返す。

コピーのように淡々と、往復する毎日を繰り返す。


日にちの感覚を忘れ。

曜日の感覚を忘れ。

月の感覚を忘れ。

外の空気がなければ、季節さえも忘れそうなほどに。


私と春香、二人だけの世界だった。

誰もいない、二人だけの世界。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:44.70 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

春香とお話をした。


243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:10.15 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香の髪を洗ってあげた。


244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:59.20 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

車椅子の春香と、二人で散歩をした。


245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:41:24.99 ID:Uj/nf4tu0



今日は雨。

春香と一緒に音楽を聴いた。


246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:03.44 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香が好きだという花を持ってきた。


247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:35.82 ID:Uj/nf4tu0



昨日も。


今日も。


明日も。


明後日も。


その次も。


その次も――。


248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:19.78 ID:Uj/nf4tu0


私の生活は春香を中心に動いていた。

いや、春香だけを軸に動いていた。


最近、春香以外の人と話した記憶がない。

携帯電話も、随分前に電池が切れたまま。


それでも私の生活に支障はない。

今の生活を続けることに、問題はない。



ない、はず。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:54.54 ID:Uj/nf4tu0


ないはず、なのだけれど。


私の潜在意識が。

私の深層心理が。


何かの不調を訴える。

何かの違和感を訴える。


それが何なのかは分からない。

認識できない。


余分なものなのか。

足りないものなのか。

はたまた、ただの思い込みなのか。


それでも自分に言い聞かせた。

私は待ち続けなければならないのだ。

それこそが、私の義務なのだから。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:23.22 ID:m2Fax+Wi0

その日も、私は春香の病室へ向かっていた。

病院への道すがら、唐突に声をかけられる。


「……千早お姉ちゃん?」

「っ千早お姉ちゃん! 千早お姉ちゃんだ!」


その声には聞き覚えがあった。

双子の双海さん。

駆け寄ってきたのは、髪が短い妹の方。


「千早お姉ちゃん! 電話もメールも返事がないから、心配してたんだよ!?」

「部屋に行っても、いつも反応がないし……」


そういえば、携帯電話の電池は切れていたんだった。

病院へ向かう足はそのままに、ふと思い出す。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:57.46 ID:m2Fax+Wi0

「亜美ちゃん、ちょっと早いわよ……って、千早ちゃん?」


軽装の三浦さんが駆け寄ってくる。

成程、二人でレッスンにでも行っていたのだろう。


「久しぶりね。全然音沙汰がないから、みんな気が気じゃなかったのよ?」

「ホントだよ! いつでも連絡でもなんでもしろって言ったの、千早お姉ちゃんなのに!」


そういえば、そんなことを言ったような気もする。

でも今は事情が変わった。

もっと優先するべきことが、私の前にはある。


「ちょっと千早お姉ちゃん、なんか言ったらどうなのさ?」


双海さんが私の腕を掴んだ瞬間。


「……亜美ちゃん!」

「うえっ!?」


私は腕を払った。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:28.17 ID:m2Fax+Wi0

「ち、千早、ちゃ……」

「急いでいるんです。失礼します」


私は春香の所へ行かなければならない。

ここで時間を潰している暇はない。

ちょっと勢いよく払い過ぎたかとも思ったが、転んではいないようだ。


「千早、お姉ちゃん……」


か細い声が聞こえた。


「何処に、行っちゃったのさ……」


私が居る場所は、今も昔も変わらない。

春香の傍。



なのに、この揺らぎは何?

背後から聴こえてくる女の子の泣き声が、耳から離れない。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:55.18 ID:m2Fax+Wi0

「春香。遅くなってごめんなさい」


花瓶の水を換えながら謝った。

いつからか、これは私の仕事になっていた。


「そうね。今日はどんな話をしようかしら……」


今日来る途中にね、と言い掛け、口を閉じる。


泣きじゃくる双海さんの姿が見えた。


違う。

違う!


脳裏からその姿を振り払い、改めて春香と向き合った。


「……ごめんなさい。話してあげること、思いつかないの」



小さな揺らぎが水面を震えさせる。

小さな波紋が生まれた。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:27:38.16 ID:m2Fax+Wi0

もう陽が落ちる。

帰らないと。


「また明日ね、春香」


結局何も話すことができず、私は病室を後にする。

病院から出ると、正面に二つの影があった。


「……千早」

「何か用かしら、菊地さん」

「亜美を泣かせたんだってね」

「別に、意地悪などをしたわけではないわ」

「そうなんだろうね」


菊地さんは必死に感情を押し殺しているように見える。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:28:10.40 ID:m2Fax+Wi0

隣に立つ萩原さんは、無表情でこちらを見ている。

拳を握りしめ、菊地さんが一歩ずつ近づいてくる。


「……なんとも思わなかったのか、千早」

「……」

「思わなかったのか」


私は何も答えなかった。

菊地さんの拳に、更に力が籠められる。


怒っているのだろう。

私を殴るつもりなのだろうか。

それもいい。

そうしたいというのなら、私は構わない。


漫然と待っていると、強めの衝撃が私の左頬を襲った。

勢いで、私の顔が右を向く。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:30:37.27 ID:m2Fax+Wi0

「ゆ、雪歩……?」

「……」


前へ向き直った私の目に映るのは、驚きで目を丸くする菊地さん。

そして、平手を放ったままの姿勢で私を睨む、萩原さんの姿だった。

正直、萩原さんが手をあげるとは思わなかった。


「随分嫌われたわね、私」

「……そんな事しか感じなかったの?」


私の襟を掴みながら、萩原さんは叫んだ。


「ねえ千早ちゃん! そんなことしかっ! 感じなかったの!?」

「落ち着いて、雪歩!」


激昂する萩原さん、宥める菊地さん、気圧される私。

菊地さんの言葉に我に返ってから俯くと、萩原さんは背を向けて走っていった。


「ちょっと待ってよ!」


私をちらりと見て何か呟くと、菊地さんは慌てて追いかける。

その場には、私一人だけが残された。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:31:31.79 ID:m2Fax+Wi0

自分の部屋へ戻り、ベッドへ倒れ込む。

痛みが引かない左頬を押さえながら、去り際に菊地さんが言い残した言葉を思い出す。


どうして雪歩が叩いたか、分かる?


分からない。

双海さんを泣かせたから。

私に愛想を尽かしたからではないのか?


「……どうして?」


ならば何故。

何故叩いた側の萩原さんが、あんなに辛そうな顔をしていたのだろう。

何故肩を震わせながら、私を叩いた右手を押さえていたのだろう。


揺らぎが大きくなる。

波紋は、笹舟が浮いていられないくらいになった。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:32:16.45 ID:m2Fax+Wi0

昼前、呼び鈴の音で目が覚めた。

どうやら昨夜はそのまま、ベッドで寝入ってしまったらしい。

夢は、春香と再会した日から見なくなっていた。


無視しても、何度も何度も呼び鈴が鳴る。

どうにも来客が帰る気配はないので、仕方なく身体を起こした。


「ええと、おはようございます?」

「千早はねぼすけだなー」


玄関を開けると、首をかしげる高槻さんと、何やら紙袋を抱えた我那覇さんがいた。


「……何か急な用事かしら」

「別に、急ってほどでもないんですけど」

「渡したいものがあって来たんだ。頬、大丈夫?」


我那覇さんに言われて思い出す。

そう言えば、萩原さんに叩かれたところがまだ少し痛い。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:33:48.85 ID:m2Fax+Wi0

「大丈夫よ」

「痛そうです……これ、貼っておいてくださいね」


高槻さんに渡されたコンビニの袋の中には、冷却シートの箱が入っていた。


「雪歩さんも、ちょっとカッとなっちゃっただけで」

「つい、手が出ちゃったんだよ。怒らないであげて、っていうのも難しいと思うけど……」


恐る恐るといった様子の、二人のフォロー。


「別に、気にしてないわ」

「はぁ、良かったぁ……これ、あげる!」


私の言葉に安心したのかはにかむと、我那覇さんは抱えていた紙袋を差し出してきた。

素直に受け取ると、高槻さんはにこりと笑い、おずおずと袋を指差した。


「中身、気に入ってもらえると嬉しいかなーって」


紙袋は、その大きさにしては軽かった。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:34:40.40 ID:m2Fax+Wi0

その後も何かと私の暮らしぶりを心配してくる二人に、ふつふつと疑問が湧いてきた。


「……一つ、聞いていいかしら」


話題が止まり、二人がやや緊張の面持ちで私の目を見る。


「どうして、私の心配なんてするの?」


問いかけた途端、二人の表情が緩んだ。


「そんなの決まってるさ」

「千早さんは、私達の大切な人ですから」


大切な人?

私が?

どうして?


「あ、千早! 次事務所に来たら、一言くらい亜美に謝っておいてね!」


そう言い残すと、二人はじゃあね、と。

最後に手を振って、階段を下りて行った。
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:35:30.35 ID:m2Fax+Wi0

私には分からなかった。


私は春香が大切だ。

春香は色んなものをくれて、色んなことを教えてくれて、私にとってかけがえのない存在だから。


では、彼女達にとっての私は?

私は彼女達に何かしただろうか?


何故彼女達が私を大切だと思うのか。

私のどこに、輪を去ってもなお気にかけるような、かけがえのないものを見出したのか。

分からない。


紙袋に入っていたのは、二羽の鳥の模様が編まれたマフラー。

一羽は少し潰れ気味で。

上手くいかないことに苛立ち、ツインテールを揺らしながら唸る姿が浮かんだ。



揺らぎがどんどん大きくなっていく。

大きな石を投げ込んだように。
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:36:13.60 ID:m2Fax+Wi0

午後。

病院に行く前に、久しぶりに事務所へと寄る。

うっかりしてたのか、紙袋に編み棒が入っていたので、我那覇さんに返さないと。


「あ……!」


事務所の前に着くと、久しぶりの顔を見た。


「千早さ――」

「こんにちは、星井さん」

「……っ!」


名前を呼ぶと、星井さんの表情が強張った。

バッグに手を入れたまま、唇を噛み締めながら私を睨む。


「……こんにちは。如月、さん」


何か気分を害するようなことを口にしただろうか?

星井さんはビルに背を向け、ずっと私のことを見ていた。
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:38:02.25 ID:m2Fax+Wi0

「美希、そんなところに突っ立ってないで早く……って、千早?」

「こんにちは」


二人して黙り込んでいると、建物の中から秋月さんが姿を現した。

私の姿を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「久しぶりじゃない! 帰ってきてくれたのね!」

「ごめんなさい、秋月さん。今日は我那覇さんの忘れ物を持ってきただけで」

「あ……そう、なんだ。ごめんごめん、早とちりしちゃって。わざわざありがとね」


秋月さんは一瞬だけ寂しそうにして、すぐにいつもの明るい顔に戻る。

編み棒を紙袋ごと手渡すと、秋月さんは星井さんの方へ向き直った。


「ほら、美希! 久しぶりに会ったのに、何よその顔は」

「う……」


居心地が悪そうに、星井さんの視線が泳ぐ。


「まったく……あれ? 美希、バッグから見えてるそれって……」

「っ! こ、これは……その……」
264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:40:21.99 ID:m2Fax+Wi0

言われて見てみると、星井さんの手元に何か包みがある。

バッグに入れた手は、それを取り出そうか迷っていたようだ。


「千早に渡すんでしょ?」

「そ、それは、そう、だけど……」

「まどろっこしいわねぇ、あなたらしくもない。照れてないでサッと渡せばいいのよ」


そう言うと秋月さんは私に手招きをして、星井さんの手を取ろうとした。

その時。


「……これは、千早さんにあげるモノなの!」

「み、美希!?」


星井さんはバッグを抱き込み、大きく後ずさった。


「如月さんにあげるものなんて、何もない!」


そう叫ぶと、星井さんは背中を向けて事務所へと走り出した。


「あ、ちょっと、美希!」


私と秋月さんは、呆然と星井さんの後姿を見ていた。

星井さんが階段を駆け上がる音は、とても乾いていた。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:41:15.03 ID:m2Fax+Wi0

如月さん。

そう言われた時、どこかがとても痛んだ。

階段を登る足音が、空っぽな私の頭の中で反響する。


かんかんかん。

かんかんかんかん。


私から逃げるように去っていく音は、響くたびに私を軋ませた。

何らかの理由で至る所にひびが入った私の身体。

軋むごとに、ボロボロと劣化した欠片が剥がれ落ちる。


星井さんの足音だけではない。

秋月さんの瞳。

私を見つけた時の輝いた瞳と、直後に一瞬だけ見せた暗い瞳。

輝いた瞳の中にいたのは、私ではなかった。

暗い瞳の中にいたのは、私だった。



揺らぎは最早、揺らぎというには大きすぎた。

うねりが、幾重にも重なって広がっていく。
266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:42:45.11 ID:m2Fax+Wi0

秋月さんに紙袋を託して別れを告げ、病院へ向かう。

事務所から少し歩いてから、私を追いかける足音に気付いた。


「何か用でしょうか」

「用、というほどのことでもないのですが」


後をつけていたのは、四条さんと、双海さんの姉の方。


「双海真美が、千早のことが心配だと言うもので」

「だってさ、遠目に見てもめっちゃ悩んでるのバレバレなんだもん」


まただ。

私のことが心配だと言う。

私なんかの心配をするより、やるべきことは沢山あるはず。


「私の心配なんてしても時間の無駄よ。もっと他のことに時間を使って」

「やっぱり、そういうこと言うんだね」


やっぱり?

双海さんは、私が考えていることを分かった上で?
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:43:50.71 ID:m2Fax+Wi0

「ねぇ、千早お姉ちゃん。心配することって悪いことかな? 真美達、迷惑じゃない?」


心配することそれ自体は、別に悪いことではないだろう。


「迷惑ではないわ」

「……良かったぁ」


双海さんは肩の荷が下りたように、安堵の笑みを浮かべた。

四条さんも目を細め、喜ぶ双海さんの頭を撫でた。


「皆も悩んでいたのですよ。自分達の心配が、千早の迷惑になっているのではないか、と」

「やよいっち達に、何で自分の心配するんだーとか聞いたらしいじゃん」


迷惑などではない。

ただ単に不思議だっただけだ。

誰も彼も、何を考えているのか分からない。


不透明感が捻じれ合って渦を作る。

考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく気分だった。
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:44:41.82 ID:m2Fax+Wi0

再び思考の渦に呑み込まれそうになっていた時、双海さんが私の手を取った。


「ねね、千早お姉ちゃんって今仕事してないから、ニート状態っしょ?」

「ふ、双海真美! そのような言い方は……」

「事実ですから構いません。それがどうかしたかしら」

「じゃ、今度遊園地に遊びに行こうよ!」


前なら行っても良かった。

でも今は毎日、春香に会いに行かなければならない。


「ゆーびきーりげーんまーん」


断ろうと思っていたら、いつの間にか私の小指に双海さんの小指が絡められていた。


「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ! お姫ちんが証人ね!」

「ふふっ、確かに見届けました」

「いや、あの……」


私の言葉を待たず、双海さんは笑いながら逃げてしまった。

四条さんも、私を見てにっこりと笑ってから追いかけていった。
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:16.21 ID:m2Fax+Wi0

私は底なし沼に足を取られ、無様にもがいている。

考えても考えても、納得のいく答えが見つからない。


指切りをした小指が、じんじんと熱くなる。

強い既視感を感じながら、私は二人の後姿を見送った。


前にも、同じように指切りをした気がする。

あの時は、どんな約束だっただろうか。

誰と交わした約束だったか。

それを考えるたび、小指がずきりと痛む。



そこにいるのは、誰?



うねりはますます激しくなる。

何本ものうねりが濁流となり、私の心を巻き込んでいく。
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:55.48 ID:m2Fax+Wi0

病室に着いても、私の心は波立ったままだった。


「ねぇ、春香……」


返事はない。


「私、何か間違っているのかしら」


春香の手のひらは、夢の中と同じように暖かい。

でもその目は開かず、私の質問には答えてくれない。


「ねぇ、春香……」


返事がないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。


「みんながね、私のことを気にかけてくれるの」

「迷惑をかけても」

「距離を置いても」

「千早、千早ちゃん、千早さん、千早お姉ちゃん」

「みんながね、私の名前を呼ぶの」
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:46:29.40 ID:m2Fax+Wi0

私の中は、空っぽになったものだと思っていた。

私の心は、あの事務所から離れたものだと思っていた。

思おうとしていた。


「でも、ずっと頭の中で反響しているの」


双海さんが泣きじゃくる声が。

萩原さんに叩かれた痛みが。

星井さんの刺すような視線が。


「お願い、春香……教えて……」


もう、誰にも迷惑をかけたくない。

誰も不幸に巻き込みたくない。


「私、どうしたらいいの……?」


何度私が問いかけても。

春香は答えてくれなかった。
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:13:45.46 ID:UnTjGLwD0

いつの間にか、面会時間の終わりが来た。

病院から出なければならない。


「浮かない顔してるわね」


建物を出た途端、真横から向けられる声。

少し驚いて顔を向けると、水瀬さんが壁に身体を預けて佇んでいた。


「放っておいて」

「どうして?」

「私なんかに構っても、時間の無駄よ」


あれだけ環境に恵まれて、あれだけチャンスに恵まれて。

それを、全てを壊してきた私。

これ以上関わっても、私は不幸しか生まない。


「そんなにボロボロなのに、いっちょ前に私達に気を遣ってるつもり?」


水瀬さんは、そんな私の心を見透かしたように鼻で笑う。

それからすぐに、目付きを鋭くして詰め寄ってきた。
273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:17:27.58 ID:UnTjGLwD0

「余計なお世話よ、ばーか」


水瀬さんの猛禽類のように鋭い眼光が、私を射抜く。

――かと思うと、すぐにため息をつきながら目を背けた。


「もしかして、アンタのために心配してるとでも思ってる?」

「だとしたら悪いけど、勘違いしてるわよ。私達は自己中集団なの、アンタが思っている以上にね」

「アンタのためじゃない。私達は“自分のため”にアンタの心配をしてるの」


そう私に告げる水瀬さんは、年齢以上に大人びて見えた。


「自分の、ために?」

「ええ。千早に何かあったら私達が困るから」

「そういう意味ならもう手遅れじゃないかしら。散々仕出かした後よ」

「まだそんなこと言ってるの? ホントに察しが悪いわね」


呆れ顔の水瀬さんが、再びため息をついた。

言いたいことがよく分からない。

けれどこれが分かれば、みんなが私に執着する理由も分かるはず。
274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:23:10.14 ID:UnTjGLwD0

「仕事なんて二番目なの、私達にとってはね」

「水瀬さんらしくない言葉ね。家族を見返してやるってあんなに言ってたのに」

「全くよね。丸くなったものだわ、この伊織ちゃんも」


でも、仕事が二番目なら一番目は何?

私の失態に巻き込まれたことへの対応よりも、優先すべき大切なこと?

そこに、みんなが私を気に掛ける理由があるのだ。

私にはそれが分からない。

ここで仕事を優先しなければ、みんなの夢は遠ざかっていくばかりだというのに。


「みんな、トップアイドルになるためにあの事務所に入ったはず。それを差し置いて優先することなんてあるのかしら」

「じゃあ千早、逆に聞くわ。アンタはどうしてアイドルになろうと思ったの?」

「それは……」

「私はアンタも知ってる通り、家族を見返す為よ」


水瀬さんは胸を反らせながら宣言した。


「トップアイドルになってどいつもこいつも見返して、悦に浸ってやるためにアイドルになろうと思ったのよ!」


水瀬さんはそう。

では、私は――?
275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:31:38.57 ID:UnTjGLwD0

「別にアンタは答えなくていいわよ、わざわざ聞く気もないし」


こめかみに力が入り始めたところで、水瀬さんはあっけらかんと言い放った。


「でも、“アイドルになる”こと自体は目的でもゴールでもない。アイドルになって、“欲しい何か”があったんでしょう?」

「高揚感でも、人々の笑顔でも、自己顕示でも、復讐でも、新しい自分でも」

「アイドルは、それらを得るために選択した手段、ってだけのはずよ」


私は何故あの事務所に入ったのだろうか。

春香に後押しされたことは覚えてる。

でも私はアイドルになって、一体何を得ようとしていた?


「勿論、今だってトップアイドルは諦めてないわ。到達すべき具体目標よ」

「けれど私は、家族を見返すことよりも人気の上でふんぞり返るよりも、“もっと大切なもの”を見つけた。見つけてしまった」

「だから私には……ううん、私達には、その大切なものこそが仕事よりも優先すべき第一なのよ」


そう私に言った水瀬さんは、何かが吹っ切れたように誇らしげだった。
276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:35:26.47 ID:UnTjGLwD0

「自分にとって大切なもののためだけに、アンタを心配する。ね? 私達、すっごい自己中でしょ」

「自分勝手な考えだし、良いわよ、私達の心配を面倒に、鬱陶しく思っても。そのせいで私達を嫌いになっても」

「姿を暗ましたいなら水瀬財閥が手伝ってあげるわ。地球の裏側で新しい人生をやり直すくらい余裕よ?」


「でも」


一拍おいて、水瀬さんは再び猛禽類のような鋭い目つきになった。

これ以上譲歩はしないという、決意の瞳。


「私達のためを思って、とか、迷惑をかける、とか」

「そんな頼んでもない下らない理由で私達の想いを、願いを否定することは許さない」

「絶対に、許さない」

「否定するならせめて、アンタ自身のためでありなさい」


言葉はとても静か。

身振りもなく、ただ静かに言われただけ。

なのに水瀬さんの言葉は鋭く研ぎ澄まされたナイフのようで。


「……はぁ、仕事したわけでもないのになんか疲れたわ」


そう言うとまるで何事もなかったかのように、いつもの表情に戻った。
277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:36:28.18 ID:UnTjGLwD0

「い、伊織ちゃん……ちょっと言い過ぎじゃないかしら……?」

「別にいいのよ、小鳥。ネジが何本か飛んじゃってるみたいだから、これくらいガツンと言ってやらないと」


塀の陰から、恐る恐る音無さんが姿を現した。

どうやら水瀬さんと一緒に来て、今の始終を見守っていたらしい。


「ほら、現場行くからさっさと車を出してよね」

「うぅ……あたしは運転手じゃないんですけどお……」

「新堂が忙しいから仕方ないじゃないの。満足してあげてるんだから感謝しなさいよ」


涙目の音無さんが、近くに停めてあった車に乗り込む。

私が退院する時に乗せてもらった、小さな軽自動車。


「あ、そうそう、千早!」


助手席に乗り込もうとした水瀬さんが、私の方を見て叫んだ。


「アンタも、もう少し自己中になりなさいよ。人に気を遣ってばかりでも、人生つまらないでしょ?」


水瀬さんが乗ると、音無さんの車はすぐに走り去っていった。

言い残された最後の一言のせいで、頬の痛みが増していった。
278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:42:18.99 ID:UnTjGLwD0

『もっと大切なもの』。

水瀬さんはそう言った。

みんなにとって、アイドル活動よりも、そこから得ようとしていたものよりも、何よりも大切なもの。


そういえば、みんなが私を気にかけていたけれど。

誰一人としてアイドル活動については口にしなかった。

私を心配する言葉を発した時、みんなは何を思っていたのだろう。

それこそが、今の私から欠落しているモノ?


私は何のためにアイドルになった?

どうして、あんなにがむしゃらに歌い続けてきた?


「……あ、忘れ物……」


ふと、春香の病室にハンカチを忘れてきたことを思い出した。

少し取りに戻るくらいなら、きっと大丈夫だろう。
279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:43:13.05 ID:UnTjGLwD0

受付で忘れ物をしたことを話し、病室へ向かう。

角を曲がって春香の病室が見えた時、扉が開いていることに気付いた。


「……誰か来ているのかしら」


765プロの関係者じゃないといいけれど。

今、あまり会いたい気分ではない。

静かに中の様子を窺うと、そこにいたのはプロデューサーだった。


「千早か?」

「っ……はい」


私の気配を察して、すぐにプロデューサーは振り向いた。

こんな時ばかり勘がいい。


「そんな嫌そうな顔するなよ。お説教とかするつもりはないよ」

「……見てたんですか?」

「たまたまな。個人的に春香を見舞いに来たんだ」
280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:44:50.05 ID:UnTjGLwD0

「ハンカチ、取りに来たんだろう。しっかり者でも忘れ物をするんだな」

「はい、ありがとうございます」


置きっぱなしになっていたハンカチを手渡される。

お礼の言葉は何とか絞り出したものの、プロデューサーの顔を見る気になれない。

早く病室を出よう。

今何か声をかけられても、返す言葉は否定も肯定も思いつかない。

私は今、自分自身を見失っている。


「こいつさ、昔からアイドルになりたいって言ってたんだ」


帰ろうとした時、プロデューサーが春香の額を撫でながら言った。


「いつだったかなぁ。急に言い出したんだよ」

「小さい頃から明るかったけど、あんなに目を輝かせてるのは初めて見たな」


思い出すように話すプロデューサーの目は、優しかった。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:47:36.15 ID:UnTjGLwD0

「毎日毎日、自分なりに試行錯誤してた。ボイトレしたり、振り付けを真似したり」

「でもこんな体質だからな。アイドルを目指すのは愚か、レッスンを受けることすら叶わなかった」

「オーディションのチラシや新人アイドルの番組を見ながら、悔しそうにしてることも多かった」

「そんな春香に感化されたのかな。進路思いつかなかったから、じゃあ芸能業界でも行ってみようかな、って」

「あわよくば、こいつの夢を手伝ってやれたらな、って思ってさ」

「……誰かが助けてやらなきゃ、夢を持つことすら許されなかったんだよ」


私が知っている春香は、いつも笑っていた。

オーディションの様子を話すとワクワクしながら聞き耳を立てて。

収録の様子を話すと続きを急かされて。


けれど、それは本音だったのだろうか。

本当は私の話を聞きながら、内心穏やかではなかったのではないだろうか。

私が気まずくない様に、傷つかない様に、自分の心を押し殺していたのではないだろうか。
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:17.76 ID:UnTjGLwD0


いつも明るい春香。

私は彼女のことを、どれだけ知っているのだろう?

毎日のように私の横で笑っていた春香。

アイドルをする私を見ながら、何を思っていたのだろう?


私はいつも、彼女から与えられてばかりだった。

事あるごとに励まされて。

事あるごとに慰められて。

事あるごとに私の背を押してくれた。

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:47.33 ID:UnTjGLwD0


私は彼女に何を与えた?

何も与えていない。

彼女が恋い焦がれ、手を伸ばすことすら許されなかったものを享受し、食い潰してきた。

ただひたすらに、春香に甘え続けてきただけだった。


きっと、春香をたくさんたくさん傷付けてきた。

だったらせめて、怒って欲しい。

罵って欲しい。

軽蔑して欲しい。

『如月千早が悪い』と、一言そう言って欲しい。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:49:25.60 ID:UnTjGLwD0

でも、春香は目を開けてさえくれない。

何を思っていたのかをおくびにも出さず、ひたすら眠り続けている。


怖い。


たまらなく怖い。

私、本当は春香に嫌われていたのではないかしら。

本当は、春香は私の顔なんて見たくもないのではないかしら。

私が勝手に待ち焦がれているだけで、私が勝手に縋りついているだけで――。


「これ、預かってたんだ」


急に声をかけられ、ビクッと肩が上がる。


「春香の母さんがな、お前に渡してくれってさ」


そう言ってプロデューサーが懐から取り出したのは、二冊のノート。

一冊はかなり長い間使っていたようで、表紙が色褪せ始めている。

もう一冊は見たところ、比較的新しい。
285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:50:28.54 ID:UnTjGLwD0

「春香のノートだ。中身は見てないからよく分からんが」

「どうして……私に?」

「知らないよ。春香の母さんが、お前に、って言ったんだから」


古い方のノートは、随分前に流行った女の子向けのキャラクターのシールが貼られている。

粗雑に扱えば破れてしまいそうで、鞄にしまうことさえ躊躇われた。


「まぁ見てやってくれよ。わざわざご指名があったくらいだ。ファンレターでも書かれてるんじゃないか?」


そう言ってから、ハッとプロデューサーは腕時計に目をやった。


「やばっ! もうすぐ打ち合わせの時間じゃないか! すまん千早、また今度な!」

「お疲れ様、です」


私の言葉を最後まで聞かず、プロデューサーは慌てて病室を出て行った。

その直後、廊下から看護師の怒り声が聞こえた。


「……どうして、私に……?」


ノートを慎重に抱え、春香を一瞥してから病室を後にした。
286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 17:18:33.68 ID:XhF9INNGO
続き書くのか書かないのか 書くつもりなら過去分はさっさと投下した方がいいのでは
287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 20:17:52.14 ID:IWgYdlX+0
>>286
やる気がないんだろ。察してやれ
>>1が何も言わない時点でもう…ね
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