白菊ほたる『災いの子』

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153 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/06/28(木) 01:02:43.29 ID:sg2qAd8w0
 テレビ局に入ると、ちょうどスタジオから白菊ほたるが出てきたところだった。撮影は中止になったらしい。
 少し離れて後を追う。建物の外に出て少し歩いたところで、白菊ほたるが思い出したように携帯電話を取り出し、どこかにかけ始めた。
 話しながら、今にも卒倒してしまいそうに顔色を失う。やりとりを聞かなくても、良い内容ではないというのは十分にわかった。

 通話を終えた白菊ほたるが夢遊病者のような足取りで公園に入る。公園には彼女の他には誰もいなかった。
 声をかけるなら今か、とその後を追う。一歩近づくにつれて空が暗くなり、空気が冷たさを増していくように感じた。風がその少女を中心に渦を巻いているようだった。

「どうしたの?」

 と、自販機に頭突きをくれている彼女に声をかける。

 やはり先ほどの電話で解雇を通告されたらしい。それは予定通りだったが、スカウトはうまくはいかなかった。
 白菊ほたるが拒絶の言葉を残し、公園を出て行く。そのあとを追いかけ、行く手を塞ぐように立ちはだかる。
 そこに、けたたましいクラクションとブレーキの音が耳に届いた。
154 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/06/28(木) 01:03:51.94 ID:sg2qAd8w0
 太腿のあたりに激しい衝撃が走り、体が宙に浮く。
 視界が揺れる。体がアスファルトの上をすべり、皮膚が裂ける。
 地面に倒れ伏して数秒経ってから、やっと車とぶつかったのだと気付いた。
 体が思うように動かなかった。痛みはない。代わりに、傷口らしきあちこちに痺れのようなものを感じた。
 意識ははっきりしている。少し離れたところで、車が路肩に停車し、運転席から男が飛び出してくるのが見えた。

 ゆっくりと手足を順番に動かし、状態を確認する。擦り傷が多数あるが、どうやら骨折はしていないし、頭も打っていない。死ぬような怪我じゃない。
 車の運転手より先に、青ざめた白菊ほたるが駆け寄ってきて、言った。

「だいじょうぶですか!? ごめんなさい、私のせいです!!」

『ついている』と思った。
 彼女がバッグを探り、携帯電話を取り出す。電話ごと、その手をつかんだ。

「頼む、アイドルになってくれ」

 負傷のせいか、やたら切実な声が出た。
 白菊ほたるが目を丸くする。

「きゅ、救急車を呼ぶので、放してください!」

「スカウトを受けてくれるなら離す」

「アイドルでもなんでもなりますから! 離してください!!」
155 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/06/28(木) 01:05:16.63 ID:sg2qAd8w0
 運転手の男の手を借りて、道の端のほうに避難する。しばらくして救急車とパトカーがやってきた。

 運転手の男が警官と話をしている。
 救急隊員が白菊ほたるを見て、「ご家族ですか?」と言った。

「いや、うちのアイドルです」と答えた。

「アイドル?」

「芸能事務所の、プロデューサーをやってまして」

 救急隊員は「はあ」と言って、困ったような顔をした。知りたいのは関係ではなく、救急車に同乗するのかどうなのか、ということなのだろう。

「名刺、捨ててないか?」

 白菊ほたるがうなずく。

「じゃあ明日、その住所に来て」

 呆然とする彼女を残して、救急車が発進する。
 ショックで麻痺していた感覚が戻ってきたのか、今頃になって全身が痛み始めた。



 明日、もしも事務所に来てくれなかったら、という不安はない。
 白菊ほたるは、この事故を自分のせいだと思っている。実際にこれが『不幸』によるものかなんてのは、俺にとってはどうでもいい。重要なのは、彼女がそう思っているということだ。
 その負い目があるから、無視は出来ない。必ずやってくる。
156 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/06/28(木) 01:06:46.40 ID:sg2qAd8w0
   *

 書類手続きを終えた次の日、トレーナーの青木聖さんに白菊のレッスンを依頼をした。
 レッスンを担当するトレーナーは、そのアイドルの技量に応じて変わる。聖さんは通常、新人を受け持つことはなかったが、このときは無理に頼み込んだ。白菊の実力はいかほどのものか、どうせなら厳しいトレーナーを当てて試してみたかったからだ。

 結果は、正直なところ期待外れだった。
 神社の階段から落ちたときの身のこなしから、常人離れした運動神経を持っているのではないかと思ったが、どうもそんなことはないようだ。専門家ではない自分でもわかる。これはズブの素人と変わりないレベルだ。

 レッスン終了後、聖さんと話してみたが、こちらの感想も変わらないようだった。完全な初心者で、特別筋がいいというわけでもない。
 ただ、評価とは別に、聖さんは白菊を気に入ったようだった。下手なりにでも、なんとか食らい付いて行こうとする姿勢に好感をもったそうだ。

 他に変わったところといえば、聖さんが終了を告げているにもかかわらず、本人がレッスンの続行を求めたぐらいか。へとへとに疲れているだろうに、やる気だけはあるらしい。
 少しだけ不安がよぎる。根性があるのは悪いこととは思わない。ないよりはあったほうがいいだろう。しかし、あまり精神論を盲信されても、かえって正しい成果を得られなくなることが多い。
 とはいえ、まだ仕事が決まっているわけでもない。せっかく本人がやる気を出しているのに、水を差すのも無粋というものだろう。今日のところは部屋だけ貸して、好きなようにやらせることにした。

 部屋を出る前に、「気になったところはないか」と問われた。
 技量としては気になるところだらけだが、具体的なものはすでに聖さんが指摘している。
 少し考えてシンデレラ・プロジェクトのプロデューサーのことを思い出し、「笑ってみて」と言ってみた。

 こちらが笑ってしまいそうになるような、固く、ぎこちない笑顔が返ってきた。
157 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/06/28(木) 01:07:36.00 ID:sg2qAd8w0
 書類仕事に追われて時間を忘れ、気が付けばすっかり日が暮れていた。
 そろそろ帰るかと腰を上げ、ふと思い出す。帰る前にひと声かけるようにと言っておいた、白菊が顔を見せていない。

 忘れてそのまま帰ってしまった?
 それならそれで構わない。しかしあの子は不幸体質なのだ、なにか突発的な事故があったのかもしれない。それとも、無理をしすぎて倒れてしまったのか。

 彼女がそこにいないことを願いながら早足で通路を進み、第3レッスン室に向かう。部屋には、まだ明かりが灯っていた。
 薄く開いたドアから中を覗き込み、背中にぞくりと冷たいものが走る。獣じみた荒い息をつきながら、白菊が踊っていた。
 初心者用の、決して難しくはないダンスだ。しかしそれは、昼間見たものとは比べ物にならないほどの、美しく、洗練された動きだった。
 手を抜いていたのか、と一瞬思い、そうではないと気付く。あれは練習の成果なのだと。

 もう、いったい何時間そうしていたというのだろう。彼女のレッスン着は濃く変色し、全身からぽたぽたと雫を滴らせている。
 足元には、流れ落ちた汗で大きな水たまりができていた。



 昼間に抱いた感想は、てんで見当外れなものだったらしい。
 やる気や根性があるなどという話ではない。この娘は、異常だ。
158 : ◆ikbHUwR.fw [sage]:2018/06/28(木) 01:08:32.76 ID:sg2qAd8w0
(本日はここまでです)
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/06/28(木) 21:37:50.19 ID:FkK+31YX0
乙です
いいね、プロデューサーもやはり曲者だったか
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/03(火) 12:46:41.72 ID:EGErunWGO
面白いねこれ
続きに期待
161 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:32:01.43 ID:1DFdeF0E0
   11.

『さて、みんなには残念なお知らせになっちゃうんだけど、実は夕美ちゃんがケガしちゃってさ』

『あー、そんな深刻なものじゃないから、心配はしないでいいよ。ただ、このあと予定されてたステージには、ちょっと出れそうにないかな』

『でも、この後もライブは続行するから、しばらく待っててね〜』

 ばちりと派手なウインクを残し、志希ちゃんがステージを後にする。
 ステージの明かりが絞られ、代わりに客電が灯る。お客さんがざわざわと騒ぎ始めた。

 深刻なケガじゃないというのは本当だろう。もしも夕美ちゃんが重症を負っているなら、たぶん志希ちゃんは自分の出番なんてほっぽらかす。今日のステージだけは無理ってぐらいかな?
 様子を見に行きたいけど、ライブ中はちょっと無理だろう。終わってから顔を出してみようか。

 それから15分ほど経過する。再開する気配はない。
 20分が経過する。長い休憩だ。
 出番が連続してしまう志希ちゃんを休ませるためだろうか、と思ったところで客席の照明が落ち、少し間をおいてスポットライトがひとりの少女を照らし出した。
 上がりかけた歓声が静まり、再び困惑のざわめきへと変わる。

 ……ほたるちゃん、か。

 さて、だいじょうぶかいな?
 あたしはひょっとしたらこの可能性もあるかなーと予想していたけど、今日ここに詰めかけているお客さんは桜舞姫を見に来ている。ほたるちゃんは前座としか見られていなかったはずだ。夕美ちゃんの代わりを立てるとしたら、それは志希ちゃんだと疑わなかっただろう。
162 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:33:13.09 ID:1DFdeF0E0
 出てきたはいいけど、なかなか始まらない。ほたるちゃんはマイクスタンドの前で石像のように突っ立ったままだ。
 客席が静かになるのを待っているんだとすれば、それは無理ってもんだ。これは放っておいて静まることはない。むしろお客さんたちは困惑を深めて、ざわめきは一層大きくなっている。

 そのとき、ふいにほたるちゃんが、にこりとほほ笑み、あたしはぽかんとしてしまった。
 意表を突かれたのはあたしだけじゃないらしく、喧噪がすっと吸い込まれるように静まる。その一瞬の隙を突くように、ほたるちゃんがアカペラで歌い出した。

 細い、透き通るような声がホールにこだまする。
 この場にいる人たちなら誰でも知っている、夕美ちゃんの代表曲だ。

 ワンフレーズ後から音楽が流れ出し、同時にほたるちゃんがステップを踏み始める。
 羽織の菊の模様が、ライトを反射して色とりどりに輝く。
 客席でぽつぽつと黄色い光が灯り、リズムに合わせて揺れ始める。せっかくだし、あたしも振っとこう。 

 曲が終わり、静寂がおとずれる。
 ステージのほたるちゃんが不安そうにたたずんでいる。
 少し遅れて、喝采と拍手がホールを満たした。
 ほたるちゃんがほっと胸をなでおろし、大きく手を振って、笑った。
163 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:34:17.08 ID:1DFdeF0E0
 初めてその少女と出会ったとき、あたしは「おとなしそうな子だな」と思った。
 伏し目がちで口数が少なく、いつもなにかに怯えるみたいにおどおどとしていた。

 13歳、あたしから見ると5つ下、ここはひとつお姉さんがリードしてやらねばなるまい、とガラにもなく張り切って、あれこれと喋りかけたりしたもんだ。

 なかなかの強敵ではあったけど、それなりに仲良くなれたと思う。その日のうちに泣き顔もまで見た(あたしが泣かしたんだけど)。
 他の寮住まいのアイドル達と引き合わせて、紹介したりもした。
 礼儀正しくはあるけど、やっぱりフレンドリーとは言い難く、そのひかえめすぎる態度に、ちょっとだけイライラしたりもした。

 手を差し伸べても取ろうとはしない。呼びかけても、隣に並んで歩こうとはしない。だけど、少し離れたところから、こっちの服の裾をちょこんとつまんでついてくるような、そんな子だった。

 お人形さんみたいだな、とよく思った。
 美白にはちょっと自信のあるあたしにも負けないくらい色白で、触れたら壊れてしまいそうに儚げで、だけど、暗い光を宿したその目はいつも、前だけを見ていた。
164 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:35:22.00 ID:1DFdeF0E0
 2曲目、3曲目、4曲目と、硬派なロックバンドみたいに一切MCを挟まずに歌が続いていく。
 アイドルのライブらしくはない、だけどそれが通用するだけの力がほたるちゃんの歌声にはあった。
 アクシデントに遭うことが多く、オーディション会場にたどり着けないことも珍しくないほたるちゃんは、その実力に対して不当に評価が低い。
 単純な技量で比べるなら、本当は事務所のトップクラスにだってひけをとらない。今まではそれを発揮する機会に恵まれなかっただけだ。

 さっきまでざわざわしていたお客さんはコロッと態度を変えて、曲と曲の間には盛大な歓声と拍手が湧き起こっていた。
 いくら夕美ちゃんのファンであっても、夕美ちゃんの曲だというそれだけで大喜びはしない。むしろ出来がよろしくなかったら憤慨していたところだろう。
 この喝采は、ほたるちゃんのパフォーマンスが認められた証拠だ。

 このライブは複数のビデオカメラで撮影をおこなっていて、後日桜舞姫のライブビデオとして売り出すはずだった。だけど実際には、販売されることはないだろう。
 結局のところ、ステージに上がったのはほたるちゃんと志希ちゃんだけ、もはや桜舞姫のライブというには無理がある。
 もしもあの姿がたくさんの人の目に触れたら、ほたるちゃんの評価は一変するだろうに、もったいない。
 そういった意味では、今日ここにいる5000人のお客さんは、最高にツイてるね。

 曲の合間にあたしも立ち上がって、目いっぱいの歓声を送った。ヅラを脱ぎ捨ててしまいたくなったけど、そこはなんとか我慢した。

 上手いだけじゃない。いい顔をするようになった。
 さっきの、志希ちゃんの前に出てきたときよりも、ずっといい。

 ステージの上のほたるちゃんは、とても楽しそうだ。
 歌うことが大好きで、踊ることが大好きで、声や動きのひとつひとつから喜びが伝わってきて、なんだか、見ているこっちまで幸せな気分になってくる。



 まるで、夕美ちゃんみたいだな。
165 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:37:09.55 ID:1DFdeF0E0
   *

 隠れていた倉庫から顔を出し、周囲を確認する。
 スタッフの姿、足音、減少。遠くからかすかに音楽と歌声。ライブが再開したらしい。

 通路を歩き、スタッフに姿を見せる。困惑の視線、対応に迷っている。堂々と、なに食わぬ顔をして通り過ぎる。呼び止められることはなかった。

 プロデューサーたちの話し合いの結果、夕美ちゃんの代わりに出ることになったあたしが行方をくらました。スタッフに捜索するよう指示があった。しかし見つからず、唯一残されたほたるちゃんがステージに上がることになった。捜索は打ち切り、ライブ再開――が今の状況だろう。
 外に出てしまおうかとも思ったけど、あたしはステージ衣装のままだ。あまりに目立ちすぎるし、お財布もスマホも持っていない。却下。

 舞台袖に移動、プロデューサーが3人、横並びでステージに目を向けている。
 左端、自分の担当プロデューサー。さんざんあたしを探し回ったのだろう、疲弊の色が濃い。
 中央、ほたるちゃんの担当プロデューサー。あたしの失踪に関わっているとはおくびにも出さない。
 右端、夕美ちゃんのプロデューサー。元ヘヴィスモーカー、担当アイドルに言われた「煙草臭い」のひとことで禁煙に成功した男。夕美ちゃんを病院に搬送するなら、間違いなくこの人が付きそう。ここにいるということは病院は後回し。緊急性はないと判断、あるいは夕美ちゃん自身の希望?

 しばしプロデューサーたちに並んでステージを眺める。3人はステージに没頭していて、あたしに気付きもしない。目の前を横切っても気付かないかもしれない。

 ステージ中央、ほたるちゃんが本能を叫んでいる。
 その姿に目を奪われる。立ち尽くす。鼓動が高鳴る。
 予定にはなかった夕美ちゃんの楽曲だけど、驚くほどクオリティは高い。お客さんの反応も上々。
166 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:38:26.55 ID:1DFdeF0E0
 その場を離れ、通路に出る。
 目を閉じ、鼻から大きく息を吸い込む。
 埃の匂い、金属の匂い、コンクリートの匂い、油の匂い、人間の匂い。



 ――いい匂いがする。



 頭に会場の見取り図を思い浮かべる。
 芳香を頼りに移動。ひとけのない区画、医務室、ドアを開ける。
 
「あっ、志希ちゃん」

 夕美ちゃん。簡易ベッドに腰かけ、テーピングのほどこされた片足を浮かせている。

「こんなところにきて平気なの? プロデューサーさんたちに見つかったらまずいんじゃない?」

 事情はおよそ伝わっているらしい。あたしを探すプロデューサーかスタッフがこの部屋に来たのかもしれない。

「もう始まってるから、見つかっちゃってもいいよー。それに彼らはほたるちゃんのステージに釘づけで、たぶん終わるまではこない」

 ドアは開けたまま部屋に入る。
 ここは通常、医療スタッフが待機している部屋のはず、しかし姿はない。

「夕美ちゃんひとり? お医者さんとか看護師さんは?」

「隣の部屋にいるよ。なんかここを臨時の控室にするんだって」

 控室の惨状を思い出す。砕けた照明、散らばった鏡の破片。でも、それだけなら他の部屋でもいい。処置が済んでいるとはいえ、夕美ちゃんをひとりにする理由にはならない。
167 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:39:36.58 ID:1DFdeF0E0
「それを決めたのは、あたしのプロデューサーかにゃ?」

「うん」

 捜索は打ち切るにしても、そのまま行方不明になられると困る。それよりは、ここで夕美ちゃんと合流してくれたほうが後が楽、ということだろう。
 あたしとしては、これ以上逃げ続ける理由はない。

「あたしに伝言とかあった?」

「アンコール分は休憩なしで続けてやるから、乱入するようなら好きなタイミングで、だって」

「ふーん……」

『乱入』、なんとなくあたし好みっぽい言葉。誘っているのだろう、けど――

「どうするの?」

「やめとく。今日のステージはもう、ほたるちゃんのものだよ」

「そう」

 ぷらぷらと揺れる脚に目を向ける。

「足首は、どんな感じ?」

「んー、やっぱり動かすと痛いね」

「ちょっと触るね」

「うん」

 ベッドの前にしゃがみ込む。
 大きく腫れた足。反応をうかがいながら、骨折が起こりやすいとされている部分を数ヶ所、順番に押していく。強い痛みを感じている様子はない。
 テーピングは、ガチガチに固めているように見えて、ほんの少しだけ可動域を残している。応急処置としては完全固定がセオリーのはず、治療に当たった人が重度ではないと判断したのか。

「問題なさそうだね」
168 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:41:17.03 ID:1DFdeF0E0
 夕美ちゃんの横に腰かける。
 開いたドアから、かすかに音が届く。夕美ちゃんの曲、ほたるちゃんの歌声。

「聞こえる?」と問いかける。

「うん、いい声出てるね」

「あれは、夕美ちゃんがほたるちゃんに教えたの?」

「少しはね。でも本当に少しだけ、ほとんどはひとりで練習してたみたいだよ」

 さすがにこの事態を予期していたはずはない。ライブとは無関係、レッスンのためのレッスン。

「ほたるちゃんって」ふいに夕美ちゃんがつぶやく。「負けず嫌いだよね、すごく」

 その横顔に目を向ける。なにか思い返しているような微笑。

「なんでも器用にできるタイプじゃないってのは、すぐにわかったよ。だけど、できるようになるまでずっと繰り返すんだ、何度でも」

 うなずきを返す。言っちゃ悪いけど、あたしの見た限りでは、ほたるちゃんは特別優れた才能があるようには思えない。それにもかかわらず、技量は相当に高い。
 取り憑かれたような反復練習、それだけで身に着けた技術。

「あれは、ちょっと異常だね」と言った。

「異常?」

 夕美ちゃんが不思議そうに繰り返す。

「明らかなオーバーワークだよ。フツーならとっくにどこか故障してるはず。練習量も異常だし、それで壊れないのはもっと異常」

「体が丈夫ってことなのかな?」

「かもしれないし……」

 仮説、それが後天的にもたらされたものだとしたら。

 苦痛とは機能だ。生物は痛みを味わい、覚え、それを避けるよう行動する。
 降りかかる災厄をずっとその身に受け続け、無意識に、自動的に深刻なダメージを回避している結果が、あの壊れない体だとしたら。

 ほたるちゃんには、レッスンを苦しいとかつらいとか思う感覚がない。自分の力ではどうしようもないことが多すぎたから、たかが努力でなんとかなることなんて、楽で楽で仕方がないんだろう。

 心も体も過度の負荷を苦にしない。冗談ではなく無限に練習できてしまう。
 それは、本人が不幸と呼ぶ、その体質によってもたらされたものだ。
169 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:43:02.72 ID:1DFdeF0E0
「志希ちゃん、懺悔しまーす」

「ざんげ? はい、どうぞ」

「さっきほたるちゃんに、けっこーキツいことを言ってしまいました」

「あらあら」

「あやうく引っ叩いちゃうところでした」

「そっかあ」

「……怒らないの?」

「志希ちゃんは、それが必要だと思ってやったんだよね。だったら、怒らないよ」

「違うよ」

「違うの?」

「夕美ちゃんはあたしをかばったんだから、あたしがするはずのケガだったんだから、それはあたしのせいなんだよ。だから、自分のせいだって言い張るほたるちゃんを見て、腹が立った。許せないって思った」
170 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:43:50.01 ID:1DFdeF0E0
 夕美ちゃんが苦笑する。

「私には、よくわからないなぁ」

 それはそうだろう。あたし自身にも、なにを言ってるんだかよくわからない。

「でも、それならどうして、ほたるちゃんに出番をゆずったの? 本当なら志希ちゃんが出ることになってたんだよね」

「頼まれたから」

「誰に?」

「周子ちゃん」

「なんて?」

「助けてあげてよ、って」

「そっか」

 夕美ちゃんがぽんぽんと自分の太ももを叩く。少し迷ったけど、あたしは体を横に倒し、振動を伝えないよう慎重に、そこに頭を乗せた。
 夕美ちゃんの手が、ゆっくりとあたしの頭をなでる。

「志希ちゃんは、いい子だね」

 思わず、くすりと笑みがこぼれた。
 やれやれまったく、この天才志希ちゃんを、ただの女の子扱いしてくれちゃって。

 夕美ちゃんの膝の上でころんと転がり、真上を向く。微笑をたたえた夕美ちゃんが、あたしを見下ろしている。

「ほたるちゃんね、歌いたいって言ってたよ」

 あたしは言った。

「うん」

「いい匂いがしたよ」

「うん」
171 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:44:58.11 ID:1DFdeF0E0
   12.

 夕美さんの予定してた曲を終え、3人で歌うはずだったアンコールパートに入っても、志希さんは姿をあらわさなかった。残りのステージは全て、私に任せてくれたということなんだろう。
 不思議と疲労は感じなかった。むしろ歌うほどに体が軽くなっていくようだった。

 客席を眺める。
 この人たちも不幸だ。周子さんを、夕美さんを、志希さんを見るためにここまでやってきたはずなのに、こうしてステージに立っているのは桜舞姫ではない、誰も目当てにはしていなかったはずの、この私なのだから。
 なのに、お客さんたちはみんな、私が歌うたびに大きな拍手と歓声をくれた。それが、嬉しかった。

《次が、最後の曲です》

 マイクに向けてささやく。
 最後の曲のタイトルは『つぼみ』、これは元々が5人で歌う楽曲であり、桜舞姫の3人に、高垣楓さんと前川みくさんが加わったものがオリジナルメンバーだった。346プロの代表としてフェスで披露したこともあるという、夕美さんの好きな歌だ。
 
 天井のライトが絞られ、代わりにステージ上の、足元を照らすライトが灯る。
 前奏の、ピアノの音が流れ始める。
 私はゆっくり、一歩、二歩と踏み出し、両足をそろえる。


 息を吸い込み、声を響かせる。
 体を舞わせる。
 再び天井のライトが灯る。
172 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:47:22.28 ID:1DFdeF0E0
 お前は不幸じゃない、とプロデューサーさんは言った。
 その言葉には、嘘がある。

 プロデューサーさんが、以前私が所属していた事務所に妨害行為をおこなったというのは本当なんだろう。それならたしかに、私がクビになったことと、あの事務所が潰れたことは、私の招いた不幸じゃなかったのかもしれない。

 だけど、それだけだ。プロデューサーさんが関与していたのはその部分だけで、私が不幸であることは変わりない。交通機関のトラブルや夕美さんのケガは、やっぱり私が起こしたのだろう。

 プロデューサーさんはどうして、そうまでして私を?

 その答えは前に言った、とプロデューサーさんは言った。
 これまでにあの人と交わしてきた会話を思い返して、思い当たるのはひとつしかなかった。

『俺も、トップアイドルのプロデューサーってものになってみたいから』



 あれは、本当に?

 そんなに私のこと、期待してくれた?
173 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:48:26.35 ID:1DFdeF0E0
 なんの前触れもなく、ふいに全てのライトが消えた。
 予定の演出じゃない、なんらかの事故があったんだろう。
 客席のほうで、ざわっと狼狽の声が上がりかける。

 ――『なにかあっても止められない限りは続けろ』

 取り乱さない。何事も起きていないように歌い続ける。ざわめきはすぐに静まった。
 照明のなくなったホールに、客席のサイリウムだけが蛍の光のようにぼうっと浮かび上がっている。
 もはや客席から私の姿は見えていないだろう。振り付けを止めて、歌に専念することにした。

 客席の明かりが少しずつ消えていく。
 歌いながら、落ち着いてそれを眺める。
 破裂じゃない。故障か電池切れ、ケガ人が出ることはない。
 やがて、全ての光源が失われた。完全な暗闇の中で歌い続ける。

 足元からみしりと嫌な感触が伝わって、バランスを崩して転倒した。
 片方のブーツのかかとが折れたらしい。
 どうせ見えてないんだから、だいじょうぶ。尻もちをついたまま歌い続ける。

 ジジッと、かすかなノイズを残して、音楽が途切れた。
 構わない、よくあること。アカペラで歌うなんて、もう慣れたものだ。
 頭の中で音楽を鳴らし、歌い続ける。



 スピーカーが沈黙する。マイクが壊れた。



 ――でも、負けない。



 左手に握っていたマイクを手放す。
 暗闇を吸い込み、声に変える。大きな声に。体中から、振り絞るように。
 お尻の両側、やや後ろのほうの床に手をつき、首を反らして、空に吠えるように歌う。

 客席は物音ひとつなく、みんな呼吸を止めているように静まり返っている。宇宙に放り出されてしまったような暗闇の中に、私の歌声だけが響き続けた。
174 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:49:25.21 ID:1DFdeF0E0
 喉が発した最後の一音が宙に吸い込まれ、静寂に包まれた。
 それから、どこからともなくぱちぱちと拍手の音が鳴り始め、伝播していくようにホールを満たした。

 立ち上がり、「ありがとうございました」と叫ぶ。声は拍手に飲まれて、自分の耳にすら届かなかった。

 お礼の言葉を何度も繰り返しながら、方向だけ見当をつけておそるおそる舞台袖に向かう。順応し始めた目に人影が映る。プロデューサーさんだとすぐに気付き、差し伸べられた手を取った。
 拍手はいつまでも鳴りやまない。私は最後に振り返って、客席に向かってもういちどお礼を叫び、深々と頭を下げた。
175 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:50:04.79 ID:1DFdeF0E0
   *

 プロデューサーさんから医務室に向かうように指示を受ける。荷物や着替えは、その部屋に運び込まれているそうだ。
 本来の控室は立ち入り禁止になっているらしい。私が壊した、鏡や照明の破片が落ちているからだろう。

 教えてもらった道順をたどり、医務室の前に到着する。ドアは開いていた。
 膝が震える。この部屋には、治療を受けた夕美さんがいる。

 レッスンの成果を発揮する、その場所さえ与えられないことの悲しさは、私は誰よりもよく知っている。
 悲しくて、悔しいはずだ。あんなにレッスンしていたのに。夕美さんは、本当は私なんかよりずっと上手なのに。

 私さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。

 なのに――

「ほたるちゃん、お疲れさまっ」

 この人はどうして、こんなふうに笑えるんだろう。
176 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:53:35.16 ID:1DFdeF0E0
 夕美さんと志希さんが、並んでベッドに腰かけていた。
 私は立ち尽くして、大人に叱られるのを待つ子供みたいにうつむいた。夕美さんの顔を、まともに見ることができなかった。

「ごめんなさい」と言った。

「どうして、謝るの?」

 夕美さんが首をかしげる。

「私のせいですから。……夕美さんのケガは、証明なんてできないけど、きっと私の不幸のせいです」

「うーん……志希ちゃんはどう思う?」

 夕美さんが隣に座る志希さんに目を向ける。

「ふむん」と志希さんが声を出す。「あたしはほたるちゃんが不幸だとも、周りの人を不幸にしているとも思わないかにゃ」

「え?」

「あ、ほたるちゃん、さっきはごめんね〜」

「い、いえ。それより……」
177 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:54:10.10 ID:1DFdeF0E0
「うん、まず幸せってなんだろうね? 美人の奥さんとかわいい子供がいて、お仕事でもそれなりの地位についててお金に困ることなんてない。そんな一見して恵まれている人でも心の内はストレスの塊で、毎日『死にたい』って思いながら生きているなんてこともある。一方で、家族とはすっかり疎遠になって、恋人もいなくて、自由に使えるお金もほとんどない。それでも人生が楽しくて仕方がないなんて人も珍しくない。幸不幸なんて主観だよ、はたから見てわかるもんじゃない。ほたるちゃんがウチに来る前、所属してた事務所がいくつか潰れたんだってね。たくさんの人が職を失ったね。借金を抱えた人もいるだろうね。でもそれは本当に悪いこと? 転職した人はそのあとどうなるかな? それをきっかけに実家の家業を継ぐなんて人もいるかもしれないね。もしも潰れなかった事務所で勤め続けた場合と、どっちが幸せなのかな? 答えは『わからない』だよ。たくさんの人が関わってるんだから、結果なんてひとそれぞれ。もちろん不幸になる人はいるかもしれないけど、それで幸せになる人もいる。だから会社の倒産なんてのはただの出来事で、ひとまとめにいいとか悪いとか決めつけていいことじゃない」

 話しながら、志希さんはじっと観察するように私を見ていた。私は戸惑ってしまい、どうしたらいいのかわからなかった。

「それからもうひとつ、単純な不幸だとは思えないところがある。人間はたやすく死ぬ。毎日どこかで、不慮の事故で亡くなってる人がいる。特別運の悪い体質なんて持ってない、ごく普通の人がだよ。もしも無差別に悪いことを引き寄せてるんなら、ほたるちゃんは今、生きているわけがない。ねえ、ほたるちゃんて、身近な人がバタバタ亡くなったりするの?」

「えっと……いえ、命にかかわるようなことは……」

 志希さんがうなずく。

「うん、やっぱりね。それはなにかの方向性があるんだよ。それがどんなものかはわからないけどね。たとえばこれはひとつの可能性なんだけどさ、ほたるちゃんが不幸だと思ってるその体質は、本当は、人を助けてるのかもしれないよ」
178 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:55:26.37 ID:1DFdeF0E0
 私が、人を助けてる?

「そんなわけ……」

「ほたるちゃんのプロデューサーが言ってたじゃない、ほたるちゃんには出来事が自分の影響かそうでないか区別がつかないってさ。スタッフに聞いたんだけど、さっきのステージ、大変だったみたいだね。その起きたトラブルが、ほたるちゃんはまったく関係がないとしたら? 明かりがぜんぶ落ちた真っ暗闇で、音楽が止まって、マイクも壊れて、その中で最後まで歌い続けるなんて、あたしにも、夕美ちゃんにだってできやしない。ほたるちゃんじゃなきゃダメだったんだ。じゃあ、そのときステージに立っていたのがほたるちゃんなのは、ラッキーだったとも言えるよね。もちろん本当のところは、どこまで行っても『わからない』だよ。時間をさかのぼって、もういちどやりなおしてみない限りはね。でもそれはつまり、ほたるちゃんが不幸な出来事だと思ってることでも、ほたるちゃんがいなかったらもっと悪い結果になってたって可能性は常にあるってこと。それだけ覚えておいてほしいかにゃ」

「えっと……その……」

 言葉が見つからない。
 志希さんの声には、感情がこもっていなかった。夜の次は朝が来るみたいに、淡々と当たり前の事実を述べているようだった。

 ズキンと頭が痛む。
 悪夢がフラッシュバックする。
 みんなが私を指差して、「おまえのせいだ」と責めたてる。私が不幸にした人たちが。
 そんな都合のいい答えに飛びつくなんて許さないと言っているようだった。

 だって、たくさん迷惑をかけた。嫌な思いをさせた。夕美さんにだって。
179 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:56:35.32 ID:1DFdeF0E0
「あたしからはこんなところ。まあ、すぐに納得はできないよねー」

 志希さんが隣の夕美さんに笑いかける。

「うん、ありがとね」

 夕美さんがにこやかなほほ笑みを返して、ベッドから立ち上がった。

「夕美ちゃん、足」

 志希さんが眉をひそめ、いさめるように言う。
 夕美さんは意に介さずに、厳重にテープで巻かれた足を踏み出す。

「……夕美ちゃんのばか」

 志希さんがすねたような声を出す。

 私は呆然と立ちつくしたまま、制止することも忘れて、夕美さんが一歩一歩、ゆっくりと近づいてくるのを眺めていた。
 夕美さんの足は、テーピングの上からでもわかるくらい、大きく腫れあがっている。
 だけどその顔は、いつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
 痛いはずなのに。

「私には、志希ちゃんみたいに難しいことはわからないんだけどね」

 夕美さんが私の目の前で立ち止まり、ぱっと花が咲くように笑う。

「私、ほたるちゃんのこと好きだよ」

 動揺した。いきなり、なにを言ってるんだろうと思った。

「きれいで、優しい歌声が好き。いつも礼儀正しくて、慎み深いところが好き。おいしいものを食べたときにちょっとだけ見せる、嬉しそうな顔が好き」

 歌うように、軽やかに言葉を紡ぐ。

「一生懸命がんばる姿が好き」

 夕美さんが私の背中に腕を回し、抱きしめる。
 密着した体から、あたたかい体温が伝わって、ぽわんといい香りが鼻腔をくすぐった。
「だからね」と、耳元でささやく声がする。

「いてくれてよかったよ」
180 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:57:23.30 ID:1DFdeF0E0
 気付けば、私の手はしがみつくように夕美さんのお洋服をつかんでいた。
 とめどなく涙があふれた。
 喉からは言葉にならない、動物の唸り声みたいな音がもれていた。
 なにも考えることができず、こらえることもできなかった。
 恥ずかしいという思いも、夕美さんのケガを心配することも忘れて、ひからびて死んでしまうんじゃないかというぐらい泣き続けた。

 夕美さんはなにも言わずに、ずっと私の背中をなでてくれていた。



 コンコンとノックの音、それからドアが開かれる音がした。

「ここかな? お疲れさーん……って、なんだこの状況」

 周子さんの声だった。

「お、周子ちゃん。ちょっと見ないあいだに髪伸びたね」と志希さん。

「そんなわけあるかーい! で、これなに? あたしお邪魔だったかな?」

「いやー、あたしもいいにゃーって思いながら見てたとこだったから。ちょうどよかった、周子ちゃん相手してよ」

「余計にわけわからん状況になるよ。夕美ちゃんに代わってもらったら?」

「んー、どっちかというと、ほたるちゃんのほうがうらやましいかにゃ」

「夕美ちゃんに抱きつきたいの? いつもやっとるやん」

「まあそうなんだけどねー」

 にゃっはっはと、志希さんの笑う声がする。

「なんだか今のほたるちゃん、すごく幸せそうだから」
181 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/15(日) 23:59:17.67 ID:1DFdeF0E0
   13.

 桜舞姫のライブから、1週間が経過した。

「白菊」

 事務所にやってきた私に向けて、プロデューサーさんが手招きをする。

「お前にいくつか仕事の依頼が来ていて――」

「やります」

「だから、内容を聞こうな」

「あ、はい。えっと……どんなのですか?」

「色々来てるな。ファッションショー、演劇、アイドルの運動会、気が早いことに来年の新春ライブなんてのもある」

「新春……お正月?」

「そう。桜舞姫のライブで和風のイメージがついたのかな」

「いいんでしょうか? そんな、おめでたいイベントに、私が……」

「いいんだろ、よそから来た依頼なんだから。こっちは頼まれてる側だ」

 プロデューサーさんが机の上に企画書を並べる。

「どれを受けたい?」

「えっと……じゃあ、ぜんぶで」

「言うと思ったよ」

 プロデューサーさんが苦笑しながら、企画書をまとめてカバンにしまった。

「あとそれから」

「はい」

「担当プロデューサーを変えてほしいなら、可能だよ」
182 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:00:27.75 ID:we/MuDDP0
 プロデューサーさんが私をじっと見つめる。

「恨まれても文句は言えない。俺に言いづらいようなら、他のプロデューサーか千川さんにでも言ってくれればいいから」

 私が前にいた事務所に、私を解雇させるように仕向けたことを言っているようだ。

 知らされたときは、たしかにショックを受けた。
 クビを言い渡されたときは悲しかったし、初めてアイドルをあきらめようとも思った。
 だけど、それを知った今も私は、プロデューサーさんに対して恨みや怒りの感情はない。たぶんあの事務所にいたとしても、私がまともにアイドルの仕事をできることはなかっただろうから。

「プロデューサーさんは、変えてほしいですか?」

「まさか」

 私はプロデューサーさんの右手を取った。
 あの日、スカウトされたときに差し伸べられた手。車にはねられて、救急車を呼ぼうとする私をつかんだ、血まみれの手。

「私のせいで」

 ぼそりとつぶやく。

「いつも、ケガしてますね」

 そのときの傷はもうない。
 代わりに手の甲に新しく、斜めにかさぶたが走っていた。先日私が壊した、ライブ会場の控室を片付けているときに切ってしまったらしい。

「ありがとうございます」
183 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:01:09.20 ID:we/MuDDP0
 プロデューサーさんはきょとんとした顔で、ぱちぱちとまばたきをした。

「……妙な気分」

「や、やっぱり変ですよね……すみません」

「ああ、でも俺、白菊と行動して痛い目見るの、そんなに悪くないって思ってるな」

「え?」

「いや別にケガをしたいとか、痛いのが好きとか、そういうんじゃないんだけど」

「わかってますよ、それは」

「白菊の体質、そういうものがあるって知ってはいても、想像するのが難しいんだよな。実際に体験しないとわからない」

「そんなの、わからないほうがいいですよ」

「そんなことはない」

「……どうしてです?」

「がんばれって言えるから。俺も痛い目見てるんだから、お前ももっとがんばれって」

 思わず笑ってしまった。おかしな理屈、すごい自分勝手。

「プロデューサーさんは、変な人ですね」

「そうかなあ?」

「そうですよ」

「そうかもなあ……」

「そうですよ」
184 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:02:38.30 ID:we/MuDDP0
 ――と、そのとき。

「お届け物でーす」

 ガチャリとドアが開き。私はあわててプロデューサーさんの手を離して飛びのいた。

 入ってきたのは、事務員の千川ちひろさんだった。

「千川さん、お疲れさまです」とプロデューサーさんが言う。

「お、お疲れさまです」私も続けて言った。

「……手と手を取り合って、なにしてたんですか?」

 ちひろさんが不審そうに訊ねる。

「傷を見てもらってたんですよ、これ」

 プロデューサーさんが手の甲をちひろさんに向ける。

「あら、きれいにすっぱりいってますね。これならむしろ前より丈夫になるってもんです。よかったですね」

「それ、ふつう骨折とかで言いません?」

「なんだって同じですよ」

「そうですかね? ところで、届け物というのは?」

「あ、そうでした。ほたるちゃん、これ」

 ちひろさんが私のほうに向き直り、輪ゴムで束ねた封筒を差し出してくる。

「ファンレターですよ、ほたるちゃん宛ての」

「ファ……ファンレター!? 不幸の手紙ではなくて!?」

「ほたるちゃんは、なにを言ってるんですか?」

「そういうやつなので」とプロデューサーさんが言った。
185 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:03:48.16 ID:we/MuDDP0
 ちひろさんから封筒の束を受け取る。手が震えていた。私は今日、死ぬんじゃないかと思った。

「検閲は私のほうで済ませておきました」ちひろさんが言う。

「ありがとうございます」とプロデューサーさん。

「けんえつ?」

 私は首をかしげた。

「ああ……こういうお手紙とかは、ときどき心無いものや脅迫状みたいなものもあったりするので、本人に渡す前に事務かプロデューサーさんのほうで目を通すんです。そういう規則になっているので、ごめんなさいね」

「……そういうのも、来てたんですか?」

 ちひろさんが困ったように頬を掻く。

「架空請求がいくつか混ざってましたね」

 プロデューサーさんが笑った。

「珍しいですね、なかなか」

「あと、そちらにもひとつ来てましたよ、はい」

 ちひろさんが封筒を差し出し、プロデューサーさんが怪訝そうな顔で受け取る。

「架空請求が?」

「さあ? アイドル宛てじゃないので、中身は確認してません」

「……ありがとうございました」
186 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:04:38.77 ID:we/MuDDP0
 ちひろさんが部屋を出て行った。

 プロデューサーさんは受け取ったお手紙を読んでいる。
 ちらりと封筒を盗み見ると、差出人のところに女の人の名前が書いてあった。

「プロデューサーさんにも、ファンレターが来るんですか?」

「まさか」プロデューサーさんが首を横に振る。「前に担当してたアイドルだよ。もう引退した」

 前に担当。私が所属したとき、プロデューサーさんは担当を持っていなかったから、それより前ということになる。

「……どんな人だったんですか?」

「ちょっと待って」

 プロデューサーさんが机の引き出しから写真を1枚取り出す。
 受け取ったそれを見て、私は驚き目を見開いた。

「どうした?」とプロデューサーさんが問いかける。

「私、この人……知ってます」

「ああ、現役のころはテレビもよく出てたし、見たことあってもおかしくない」

 プロデューサーさんが、なんでもないことのように言う。
 でも、私にとっては、そうじゃない。

「なに笑ってるんだ?」

「いえ……」
187 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:05:50.25 ID:we/MuDDP0
 ある日、『アイドル』というものを見た。
 それはテレビの音楽番組で、若い女の人がフリルいっぱいのひらひらしたドレスに身を包んでいた。

 彼女は希望の歌を歌っていた。
 信じればいつか夢は叶うというような、陳腐でありふれた歌詞。だけどそれは、これまでに聴いたどんな歌よりも私の心に響き、深く深く刻みつけられた。

 後から思い返してみれば、歌もダンスも技術的には立派なものではなかったと思う。
 だけど、そのときの私の目は、すっかりテレビの中の彼女の姿に釘付けになっていた。

 彼女は楽しそうだった。
 とてもとても楽しそうに見えた。
 色とりどりのライトが照らすステージで、力いっぱいに歌って、踊って、笑っていて、なんだか見ている私まで幸せな気分になったことを覚えている。

 その笑顔が、私にもうひとつの呪いをかけた。
 私もアイドルになりたいと、そう願ってしまったことだ。
188 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:06:34.92 ID:we/MuDDP0
 運命、なんて言ったらロマンチックに過ぎるだろうか。
 私がアイドルを目指すきっかけとなったアイドル。その人を担当していたプロデューサーが、今私の目の前にいるなんて。

「この人とは、仲よかったんですか?」

「いや、最後のほうはかなり険悪だったよ。それで引退したようなもんだし」

「……そうなんですか?」

「今でも少し、後悔してるかな。あのときに担当替えでもして俺と離れていたら、まだアイドルを続けていたんじゃないか、今頃はトップアイドルにでもなれてたんじゃないかって」

 プロデューサーさんが少し寂しそうな顔をする。

「だけど、元気でやってるみたいだから、少し安心した」

 プロデューサーさんが手紙をたたんで封筒に戻し、机の引き出しにしまう。大切なものを扱うように、優しい手つきで。

「トップアイドルには、私がなってあげますよ」

 私は言った。
 ちょっと顔が熱くなる。また大きいことを言ってしまっている。

「えっと……だから、私は担当の変更なんて望みません。私を見つけてくれたのは、プロデューサーさんなんですから」

 少し間を取って、プロデューサーさんを見つめる。

「責任、取ってくださいね」

「白菊、それは男が女から言われたくないセリフ上位に入るから、覚えとくといい」

 なんですか、それ。
189 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:07:30.36 ID:we/MuDDP0
   *

『突然のお手紙、失礼いたします。
 ふだんは手書きの手紙なんて書くことはないので、形式とか作法とかは全然わからないけど、そこはあなたと私の仲ということで許してください。なんて、なれなれしすぎるでしょうか?

 この前、テレビのニュース番組で桜舞姫のライブが取り上げられているのを見ました。
 夕美ちゃん、志希ちゃん、周子ちゃん。私はあまり彼女たちと関わることはありませんでしたが、かつての同僚というものはやはり気になるものです。
 ニュースになるくらい活躍してるんだ、みんな元気にしてるかな、なんて思いながらそれを見ていたら、白菊ほたるという、私の知らない子が出ていました。
 メンバーが増えたのかな、と気になって調べてみて、ライブのスタッフの中にあなたの名前を見つけました。
 ということは、あなたがこのほたるちゃんの担当プロデューサーをやっているということでしょうか?(違っていたらごめんなさい)
 そのようなわけで、あなたのことを思い出し、こうして筆をとった次第です。

 ところで、
 もしかしたら、あなたは私が引退したことを自分のせいだと思っているのではないでしょうか。
 だとしたら、それは間違いです。誰のせいでもありません。私が弱かったから、ただそれだけのことです。
 思えば私は、自分がアイドルになれるなんて思っていませんでした。年齢的にもデビューするには遅すぎたし、歌やダンスも、あまり得意ではありませんでしたから。
 だから346プロに採用されて、人気も出るようになって、まるでキツネかタヌキにでも化かされたような気分でした。346プロ的に言うなら、「魔法をかけられた」ですかね。
 そのせいでしょうか、私はアイドルになれて、そこそこの成功をして、そこで満足してしまったのです。

 私は、人間の強さとは、夢を見る力だと思います。
 私にはきっと、それが足りなかったのです。
190 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:08:15.08 ID:we/MuDDP0
 ほとんど勢いまかせのような引退でしたが、今はこれでよかったと思っています。
 知っているかもしれませんが、昨年結婚しました。
 そういえば、ちゃんと言ったことはないと思うので、ついでに言っておきます。ずっと好きでした。でも今は、今のダンナのほうが好きなので、安心してください。
 それと、今は妊娠しています。どうやら女の子のようです。
 もし大きくなって、「アイドルになりたい」とか言い出したらどうしよう、なんて今から悩んでたりもしています。気が早すぎますよね。
 でも、実際そうなったらどうしましょう。止めるべきでしょうか、それとも応援してあげるべきでしょうか。応援してあげたい気持ちは山々ですが、芸能界は悪い大人がたくさんいるので、やはり心配です。

 ほたるちゃんは、かわいらしくて、歌もダンスも上手で、とても強い子ですね。
 まだあまり世間に知られてはいないようですが、あの子ならいつか、あなたが望むところまで駆け上ってくれるんじゃないかと思います。

 手紙を書くというのは意外と大変ですね、少し疲れました。このあたりで筆を置こうと思います。少し余計なことまで書いてしまったかもしれませんが、気にしないでください。



 それでは、くれぐれもお体に気を付けて、特にスタドリの飲み過ぎには注意してください。いい加減死にますよ。



 P.S.

 ほたるちゃんのことはこれからも影ながら応援していくつもりです。悪い魔法使いにたぶらかされた者同士ということで。

 アイドルとして活躍できた日々の思い出は、私の一生の宝物です。私を見つけてくれて、ありがとうございました。



 ばいばい』
191 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:09:42.41 ID:we/MuDDP0
   *

 今日、私が事務所にやってきたそもそもの用件は、自主レッスンのためだった。だけど、この日はあいにくと、空いているレッスン室がなかった。
 少し考えて、私はレッスンはあきらめ、久しぶりに神社にお参りに行くことにした。事務所からそう遠くないところにあるそこは、プロデューサーさんが初めて私を見た場所でもあるらしい。

 事務所の出口に向かっている途中で声をかけられる。
 振り返ると蘭子さんが、その隣には飛鳥さんもいた。

「先頃の至高なる桜の狂宴、血が滾る想いであった。幾度ものカタストロフの中、災いの子が紡ぎし深淵の絶唱は、ゲヘナの火の如き灼熱を持って今も我が魂を焦がしているわ!」

 すらすらと、振り付けのような身振りをまじえて蘭子さんが言う。
 私は、返す言葉に詰まった。

「翻訳が必要かな?」と飛鳥さんが言う。

「あ、いえ……なんとなくわかりましたから、だいじょうぶです。……おふたりとも、ライブ見に来てくれてたんですね。ありがとうございます……」

「フム? 伝わったにしては、なにやら浮かない顔だね。今のは蘭子にとって、最上級の賛辞だったと思うのだけど」

「えっと……本当に嬉しいんですけど、ちょっと……『災い』というのが……」
192 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:10:40.90 ID:we/MuDDP0
「ああ――」飛鳥さんが軽く握った手を顎に添える。「なんというかな……蘭子や、ボクのような人種にとっては、一般的なイメージではよくないとされている言葉に惹かれるものがあったりするのさ。その、闇系統というか、わかるかな?」

「……すみません、私にはちょっと」

 飛鳥さんが腕を組んで「ううん」と唸る。
 蘭子さんはぷうっと頬を膨らませている。
 私は、どうしたら……

「つまり」飛鳥さんがピンと指を1本立てる。「なんとなく、響きが格好いい」

「か、格好いい……ですか?」

「ああ、格好いいじゃないか、災いの子」

 格好いい……あまり言われ慣れていない、というより、初めて言われた。
 私自身じゃなくて、蘭子さんの言った言葉に対してなんだけど、なんだろう、なんか照れくさい。……ちょっとだけ嬉しい、かもしれない。

「波動が伝わったようね」蘭子さんが満足げにうなずく。

 波動って、なんだろう。
193 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:11:42.87 ID:we/MuDDP0
   *

 蘭子さんと飛鳥さんと別れ、事務所を出る。外は、暖かな日差しが降り注いでいた。
 地面にところどころシミがあり、植え込みの葉っぱに水滴がついている。少し前まで雨が降っていたらしい。
 珍しい、と思った。
 それまで晴れていたのに自分が外に出たとたんに突発的な豪雨に襲われる、なんてことは珍しくもなんともない。もはや運が悪いとも思わない、当たり前の日常の光景だ。
 だけどその逆は、少し前まで雨が降っていたのに自分が外に出たタイミングで晴れているなんてことは、ちょっと身に覚えがない。

 気温はほどよく、暑くも寒くもなかった。
 ぽかぽかした陽光は暖かく、吹き抜ける風は涼しいと感じた。息を吸い込むと、どこからか漂ってきたお花の香りが鼻腔をくすぐった。
 夕美さんは、雨も好きだと言っていた。
 だけど私はやっぱり、晴れた日のほうが好きだ。お日様の下は気持ちがいい。ただ歩いているそれだけで、なんだか楽しい気分になってくる。

 神社への道のりを歩きながら、ライブのことを思い出す。
 途中でマイクが壊れて、私はマイクなしで歌った。広い会場だったけど、私の声は客席の、いちばん後ろのほうの席まで届いていたらしい。
 よくレッスンで声が小さいと叱られていた私に、そんな声量があっただろうか?
 無我夢中だったから、よく覚えていないけど、あのときは、なにか不思議な力が私を助けてくれたような感じがした。
194 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:12:34.92 ID:we/MuDDP0
 桜舞姫は、日を改めてもういちどライブを行う。
 まだ日付は未定だけど、振替公演のような形で、この前のライブに来ていたお客さんはみんな招待扱いになる。それに公式発表していた周子さんをメインとするイベントもまとめ、更に追加でチケット販売もする。会場はこの前よりも、もっとずっと大きいところになるらしい。
 夕美さんのケガが治って、周子さんも加わって、今度こそ本来のメンバーの桜舞姫のライブになる。ファンのみんなも喜ぶだろう。きっと、すごいライブになると思う。その日は、私も客席から観させてもらうつもりだ。今から楽しみで仕方がない。

 実は、私に特別ゲストとして出てみないかという話があった。この前のライブのおかげで、桜舞姫のファンの間では私は少しだけ名前が売れている。1曲だけでも参加してみればきっと盛り上がるだろう、と。
 私はそれを断った。この前のは、あくまで代役を務めたにすぎない。本当は、私にはまだまだあのステージに立つ資格はないと思ったからだ。

 でも、私もいつかは――



 ふいに上空から甲高い絶叫が響く。
 驚いて顔を上げると、落下してきたなにかが、私の目の前に迫っていた。
195 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:13:24.14 ID:we/MuDDP0
 ぱっと一歩後ろに下がり、それを両手で挟み込みながら深く体を沈める。地面にぶつかる、ほんの少し前で止まった。
 ふうっと息をつく。心臓がどきどきしていた。
 落ちてきたのは、お花の鉢植えだった。
 白い、小さい鐘みたいなお花が、茎からたくさんぶら下がっている。すうっと、さわやかで、ほのかに甘い香りがする。スズランのお花だ。
 びっくりしたけど、うまく衝撃を逃がすことができたらしく、鉢にはヒビひとつ入っていない。受け止めた手にも、かすり傷もなかった。
 すぐ目の前にマンションが建っている。たぶんベランダから落ちてきたものだろう。
 どのあたりかな、と鉢を抱えたままもういちど顔を上げる。人の姿は見当たらなかった。

 じゃあ、あの声は?

 と考えていると、マンションの入り口から、中年の女性が転がるように飛び出してきた。
 さっきの悲鳴の主だろう。彼女はさっと辺りを見回したあと、凄まじい形相でこちらに駆け寄ってきて、なにかまくしたてた。ひどくあわてて、息も切らせていて、ほとんど言葉になっていなかった。たぶん、「だいじょうぶ!?」とか「ケガは!?」とか言ってるんだと思う。

「だいじょうぶです。ほら、お花も無事ですよ」

 私は鉢植えを軽く持ち上げて、彼女にほほ笑みかけた。

 ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返しながら、彼女の表情が険しいものから、だんだんとほころび、穏やかなものに変わっていく。



 きっと、まだまだあの人たちにはかなわない。

 だけどこのときの私は、今まで生きてきた中でいちばん上手に、笑えている気がした。



   〜Fin〜
196 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2018/07/16(月) 00:19:55.41 ID:we/MuDDP0
過去作品です。



美城専務「君に仕事を頼みたい」きらり「にょわ?」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1490034903/

杏「杏は天才だぜい」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1499136917/

夕美「うおおおおお!!!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1492222941/

北条加蓮「アタシ努力とか根性とかそーゆーキャラじゃないんだよね」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1514723350/

など。
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/16(月) 00:39:27.22 ID:ruMc3pPDO

いいSS読んで過去作公開されて、昔読んだ面白かったSSの作者だって気づいた時の感覚好き
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/16(月) 01:16:44.76 ID:TKe+lgyDO
おつ!
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/17(火) 22:48:26.27 ID:/5vUnYJao
乙です
素敵な作品がエタらず完結して嬉しくもあり
次の更新はまだかまだかと楽しみにする日々が終わって残念でもあり
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 12:51:48.32 ID:HoUhGbelO
面白かったよ
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 15:11:40.56 ID:8ceb1ImlO
杏は天才だぜい読んだときと全く同種のワクワク感があった
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/22(日) 00:42:56.73 ID:H25adFDE0
よくやったスタースクリ−ム
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