【たぬき】高垣楓「迷子のクロと歌わないカナリヤのビート」

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1 : ◆DAC.3Z2hLk [saga]:2019/06/14(金) 00:33:52.57 ID:DTY4fa360
 モバマスより小日向美穂(たぬき)の事務所と高垣楓さんのSSです。
 独自解釈、ファンタジー要素、一部アイドルの人外設定などありますためご注意ください。

 シリーズの一作ですが、時系列的に最初のお話なので、これから読むorこれだけ読むのでもお楽しみいただけます。


 前作です↓
【たぬき】鷺沢文香「ばくばくふみか」
https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1556725990/

 最初のです↓
小日向美穂「こひなたぬき」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1508431385/


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1560440032
2 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:36:07.69 ID:DTY4fa360


 歌を忘れたカナリヤは 後ろの山に棄てましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 背戸の小薮に埋めましょか

 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 象牙の舟に銀のかい

 月夜の海に浮かべれば


 忘れた歌を思い出す

3 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:37:14.34 ID:DTY4fa360

   ◆◆◆◆


 高垣楓さんには、一つ奇妙な癖があった。

 いきなり泣くのだ。それも左目「だけ」で。

 声はあげずに脈絡も無い。すんともしゃくり上げず、ただ涙がすぅっと流れるだけ。
 きっと自覚すら無かったんだと思う。
 本人は少し遅れて「あら私ったら泣いてるわ」って顔で、肩の埃でも払うように頬を拭うだけだから。


 どうして泣くのだろうと、その時はいつも考えていた。


 軽い昔話になる。
 これはある人と出会って、アイドルのプロデューサーになることを決めた、ちょっとした阿呆の顛末だ。

4 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:39:35.13 ID:DTY4fa360


【 春 : 陽だまりを避ける影 】


 芸能プロダクション「346プロ」は、新年度からますます回転率を上げていた。
 歌手、モデル、俳優……数多くのタレントやアーティストを輩出するこの事務所は、業界最大手との呼び声が高い。
 その実績は輝かしく、346の芸能人といえば知らぬ者はおらず、業界にこの者ありと言わしめる敏腕プロデューサーも数多い。

 まさに芸能界に君臨する、美しき城というわけだった。

 俺はさしずめ、そんなお城の片隅で働く、名もなき使用人の一人といったところか。


 雑務また雑務の毎日だった。
 山ほどの書類を抱えて走り回り、雪崩れ込む事務仕事をやっつけて、次から次へ企画をアシストする。

「おーい何モタモタやってんだ! 早くしろー!!」
「はい、ただいまぁ!」

 この会社はでかいだけあって自前で映像スタジオまで持っている。
 まさかADの真似事まですることになるとは思わなかった。
 人手不足では決してないのだが、「事務員」「アシスタント」って肩書きはこの業界ではほとんど何でも屋みたいな意味合いらしく、
 伝統的に多種多様な仕事をやらされるものらしい。どういう伝統だ。

5 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:41:07.41 ID:DTY4fa360

 スタジオ隅のベンチで一息つく頃には、外はすっかり夕方になっていた。

「じゃんっ♪」

 と、目の前にエナドリが差し出された。

「ああ。お疲れ様です、千川さん」
「あんまり根を詰めたらいけませんよ? これ、どうぞ」
「いいんですか? それじゃありがたくいただ」
「お給料から引いておきますね♪」
「アッハイ」

 千川ちひろさんは、俺のアシスタント仲間だ。

 なんでも17の頃からあちこちのテレビ局や芸能事務所でバイトを重ねて、大学卒業とともに念願の業界入りを果たしたとか。
 だからだろう、俺よりよほど仕事に慣れている。
 有能で気配り上手なだけでなく、どことなくちゃっかりしたお茶目さも併せ持ち、スタッフの間では結構人気が高かったりする。
 噂によると狙っている男性社員も少なくないとか――まあ、そこらへんは詳しくないのだが。

 彼女とは同期入社ということもあり、何かと話すことがあった。
 こうしてドリンクを渡したり渡されたりすることも一度や二度ではなく、このやり取りは一部で「ログボ」などと囁かれている。 

6 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:43:50.53 ID:DTY4fa360

「――ところでPさん、聞きましたか? あの話」


 千川さんの言う「あの」が「どの」なのかは、社員なら誰でもわかる。

「……聞いてますよ。やめときゃいいと思うんですけどねぇ」
「え、意外。嫌なんですか?」
「嫌っていうか……まあ、大丈夫なのかなぁっていうか」
「心配ないと思いますよ。なんていったって天下の346プロですし、まさか無策じゃないでしょ」
「だといいですね。大手が参戦して爆死なんて話、腐るほどあるんだから」
「うーん……なんか含みがありますねぇ?」

 千川さんが横から顔を覗き込んでくる。
 別に、隠してるわけではなかった。
 言う機会が無かっただけだ。

 かといって大声で言うようなことでもなく、聞こえるか聞こえないかのボリュームでぼそりと、
 

「俺、アイドル嫌いなんですよ」


 今年度から、346プロは新たに「アイドル部門」を立ち上げるという。

7 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:45:32.12 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


 そう、アイドルは嫌いだ。

 アイドルをやるような子たちが、じゃない。そういうビジネスモデルそのものが嫌いなのだ。

 程度の差こそあれ、芸能事業なんてのはみんな水ものだ。
 いくら努力を重ねようが、時勢の流行り廃りであっさり潮目を変えてしまう。
 歌手だろうと俳優だろうとそれは変わらないが、アイドル事業は特に顕著だろう。

 しかもその性質上、アイドルの中心層はティーンの女の子となる。
 まだ物事の善し悪しもわからない少女たちをその気にさせ、生き馬の目を抜く業界に飛び込ませる――
 なんてやり方が、俺はどうにも好きになれない。


 だったら芸能事務所の事務員になんてなるなよという話ではある。矛盾だ。ごもっともだ。
 だから俺はそういう話を口にしたことがなく、この間の千川さんが初めてだった。

 ……入社当初は、アイドル部門なんて影も形も無かったから。
 
 とはいえ社の方針に異を唱えるのも筋が違う話ではある。
 使用人はお銭のために働くまで。ただ……できればそちらは、見たくはない。

8 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:47:12.16 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


 下っ端が何をどう思おうが、企画はトントン拍子で進行していく。
 とうとうオフィスビルに専用のフロアができ、人事異動もどんどん進む。


「――でも、どれくらいの規模でやるつもりなんだろう。想像つかないなぁ」
「そりゃ相当リキ入ってんだろうよ。ほらあの、アメリカ帰りの専務。あのヒトの肝煎りって話だぜ?」

 金曜夜。
 会社近くの居酒屋で、ああでもないこうでもないと雑談を交わす同僚二人。
 彼らとはたまにこうして酒を酌み交わす仲だ。近ごろは忙しくて頻繁には会えないのだが。

「んでお前はどうなんだよ、ヨネ。自分とこの部署持ちたいって言ってたじゃねーか」
「あ〜……企画が通ればいいんだけどさ。オレまだペーペーだからどうだろうなぁ」
「……ヨネさん、プロデューサーになりたいんですか?」

 二人組の背の低い方が「うん」と快活に頷いた。
 一見すると中学生のような(失礼)小柄さだが、彼も立派な社会人。
 先輩である俳優部門のプロデューサーに付き、あれこれ経験を重ねている彼は、新規部門にも積極的な若手のホープだ。

9 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:48:51.23 ID:DTY4fa360

「やっぱりアイドルって花形だろ? この業界に入った以上はさ、憧れだよなぁ」

 俺は「そうか」と頷くばかりだった。

 もう一人はどうなのだろう。 
 こちらは金髪グラサン、ピアスにヒョウ柄のシャツといういかにも「そっち」な見た目だが、彼なりのやり方で自分の仕事を進めている。
 ちなみに直属の上司とは折り合いが悪いようで、ハゲとかなんとか陰口を聞くのはこちらの役目だった。

「俺はそういうのダリィけどなぁ……。まあでも、担当すんならチチのでけェ女がいいわ」
「うっわ身も蓋も無いな! それ単にタクさんの好みじゃないか!」
「バッカわぁかってねーなぁヨネ、ファンってのはそういうとこから付くモンなの。ほれ、チチを笑う者はチチに泣くって言うだろ?」
「聞いたことないぞそんなことわざ!?」

 ぎゃいぎゃい飛ばし合うのもいつもの光景だ。
 ただ一つ「いつも」らしくないのは、俺の口数が少ないということ。
 話題が話題だから当然なのだが、そうなると――

10 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:50:27.45 ID:DTY4fa360

「Pさんは?」

 当然、こっちにお鉢が回ってくる。

「そうそうお前どーすんだ? 結構いろいろ変わってくんだろ? 仕事増やされる前に適当なトコに落ち着いといた方がいんじゃね」

 どうもこうも。
 あらかじめ用意しておいた答えを、台本でも読み上げるように返す。


「……俺は、事務やれてりゃそれでいいですよ」

11 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:51:22.82 ID:DTY4fa360

   〇


「――んだからよぉ、やっぱ俺的ベストバウトは花山対スペックなんだよォ! そこんとこわかってんのかァ!?」
「ああ、わかったわかったから! タクさん酔うと刃牙の話ばっかすんだよな……!」
「いやそこは最トーの独歩ちゃん対渋川先生でしょ」
「バッおまッ最トーつったら花山対カツミンだろォ!?」
「タクさんそれ花山が好きなだけじゃないっすか!」
「もういいってPさん! それ以上やると終わんないから!」

 そうこうしているうちに駅まで着いてしまった。
 どこをどう歩いたかもわからない。馴染みの居酒屋というだけあって飲み過ぎてしまった。

「じゃ、俺たちこっちだから。お疲れPさん! 気を付けて!」
「そっちも……タクさんを頼みます」
「あ〜〜〜でもなぁ……千春対アイアンマイケルも捨てがてぇんだよなァ〜〜……」

 一番ベロンベロンのタクさんが、頭一つも小柄なヨネさんに支えられながらよろよろ歩く。
 二人がホームの向こうに消えるのを見送って、俺は正反対の路線に行こうとして、足を止めた。

12 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:53:33.97 ID:DTY4fa360

「22時……」

 終電まで時間はある。
 一番の盛りを過ぎたものの、街はまだ騒がしかった。春先の涼しい夜風に、酒気を帯びた熱が混ざって頬を撫でる。

 まだ、もう少しここに残ろうか。

 今夜に限って飲み足りない気分だった。
 この浮かれた夜の衣に包まれていれば、余計なことを考えないで済むような気がして。

 思い立った時、気付けば足は駅から離れていた。
 浮き上がるような頭で考える。どこかいい店があったかな。どこへ行こう。どこへ行けるだろう――


 ――どこへ行ったんだろう。

13 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:54:58.84 ID:DTY4fa360

「……っ」

 頭を振って暗い感情を追い払った。
 歩こう。歩いているうちに少しはましになるはずだ。

 やがて橋に差し掛かる。きらきらした夜景が川面に映り、遠くには高いタワーが霞んで見えた。

 何も考えず歩道を進み、ふと視線を上げた時、妙なものを見た。


(……女の人?)

14 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:56:15.41 ID:DTY4fa360

 ちょうど自分の何メートルか前を、背の高い女性が歩いていた。

 彼女も飲んでいたのだろうか。それとも帰りだろうか。
 それだけなら別になんてことのない光景なのだが、場所が場所で、つい釘付けになってしまう。


 彼女は、橋の欄干の上を歩いている。


 バランスを取るでもなく、自分のペースで、ゆらり、くらり。
 高いヒールでふらつく様子も見せず、舞うように足を進める。
 
 危ないですよと言おうとした。
 けどその歩みがとても自由な感じがして、邪魔をするのが憚られた。
 アッシュグリーンのグラデーションボブが動きに応じてふわふわ揺れている。

 彼女の纏う空気は独特だった。

 酒精に浮かされた花びらのように、見え隠れする耳がほんのり赤い。
 見ている前で片足立ちになり、ヒール一本を軸にその場でくるりと回った。


 その一瞬、月明かりに照らされる細面がこちらを向いた。

15 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:59:29.44 ID:DTY4fa360


 両眼の色が違った。


 見間違いではないと思う。
 右は日差しを孕む花葉の碧、左は夕闇に迫る月影の紺。
 互い違いの瞳の色が、いっぱいに夜を写し取って輝いている。

 そして俺は、光る雫を見た。

 あんなに楽しそうなのに、酒に酔ってご機嫌っぽいのに、彼女の頬を一筋の涙が伝っている。
 しかも青い左の眼からだけ流れていて、それは回る動作で目尻を離れ、雫となって川へと落ちた。

 どうして――

16 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:00:30.54 ID:DTY4fa360

 ぽかんと開いたままの口から、「あ!」と自分でもびっくりするような大声が迸る。
 女性の体が、今度こそ欄干の外に出たのだ。

「危ない!!」

 どんなに優れたバランス感覚だろうが、足を踏み外してしまえばおしまいだ。
 考える前に駆け出した。大きく傾ぐ体に手を伸ばす。とうとう宙に躍り出る。間に合わない……!!


「――あら?」
「え?」


 逆さまになった女性と、目が合った。
 高さがおかしい。というか落ちていない。

 ………………え何、飛んでる?

 何度まばたきをしても同じだった。彼女は完全に橋から離れ、上下逆転の姿勢でぷかぷか浮いていて。
 思い出したように左眼を拭い、なにやら遠慮がちにこちらを指差した。

17 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:00:59.74 ID:DTY4fa360

「あの、足元……」


 残されたのは、無茶な姿勢で欄干に足をかけたアホの酔っ払い一人である。
 止まっていた時が動き出したように、すっかりバランスを崩してしまう。


「あ。グワーッ!!!」


 こうして俺は、きらきら光る神田川に落ちた。

18 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:03:39.60 ID:DTY4fa360

   〇


「ぶえっくしょい!!」
「どなたか存じませんが、ごめんなさい」

 春先の夜は普通に寒い。
 岸辺に沿う桟橋の上で、濡れ鼠になった俺を女性が申し訳なさそうに拭いてくれる。

 どうにか助かりはしたものの、どうやって助かったかはよくわからない。
 自力で泳ぎ着いた感じは無いし、何か細い手に引き上げられたような……というか。


 飛んでた?
 飛んでたよな。


 間近に見るその女性は、息が詰まるほど美しかった。
 色違いの瞳もやはり見間違いではなく、もしやこれ自体が深酒のもたらす夢ではないかと思う。

19 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:05:17.48 ID:DTY4fa360

 聞きたいことは山ほどある気がしたが、かける言葉が出てこない。
 見つめ合うことしばし、妙な沈黙が二人の間に降りた。

「「あの」」

「あ、すいません、お先にどうぞ」
「ああいや、大したことじゃないんで、そちらから先にどうぞ」
「いえ、私も……それほどのあれではありませんから、もしあれでしたらそちらから」
「別にそんな、あれってほどでもないんであれですけど、あれ? ああだから、まずは……」

「助けてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、大したこともできず」

 ぺこー。

 ……なんだこれ。いや、とりあえず礼でいいんだよな?

「……お礼を言うなら、こちらこそ。私を助けてようとしてくださったんですよね」
「いや、差し出がましい真似をしてしまったみたいで。まさかお飛びになるとは思わず」

 お飛びになるって日本語初めて使ったぞ。
 なんか順調に混乱してきてる気がする。


「ですから、お詫びというのではありませんが……」

 細く形のいい指が、お猪口をつまむ形を取る。

「この後、一杯奢らせていただけませんか?」

 綻ぶように笑む彼女の、左眼の下にある泣きぼくろが、不思議なほど印象に残った。

20 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:07:10.82 ID:DTY4fa360

   〇


 入ったのは、路地裏にある小さな居酒屋。
 大将が一人でカウンターに立っているような、古式ゆかしいもつ焼きの店だった。
 チョイスの渋さに内心驚かされたが、出てきた串物はどれも絶品でまた驚いた。

 それらに輪をかけて驚きなのは、彼女がグラスを空けるペースだ。

 どうも行きつけの店のようでボトルキープがあったのだが、一升あったはずの中身が気付けば半分減っている。
 目に見えてガバガバ飲むわけでもないのに、気が付けばぺろりと枡ごと干してしまう感じだ。
 なんだか化かされているような気がした。


 胃の腑に酒を落とすと、なんだかんだで体が温まってくる。
 ずぶ濡れの男に店主は嫌な顔ひとつせず、何があったか聞こうともせず職人の仕事を進めていた。

「へいお待ち」
「ああ、これこれ♪ これが食べたかったんですよ」
「串……ですよね。何の肉ですかこれ? ……鶏?」
「ご存知ありませんか? ズンドコベロンチョです」

 ご存知ないです。なんだそれ。
 口にしてみればびっくりするほどうまかった。肉か魚かもわからない。むしろ豆腐かもしれないが、芋と言われても信じる気がする。
21 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:09:03.39 ID:DTY4fa360

 妙ちくりんな時間だった。

 特に会話が弾むでもなかった。お互い何者かもわからない同士だし、彼女にしたって饒舌な方ではないらしい。
 ただ「あ、これおいしい」「そうでしょう」的なやり取りを散発的に交わして、お互いのペースはまったく不揃い。
 それでも、不思議と居心地は悪くない。

 酒を注ぎ合いながら、彼女がふと、口を開いた。

「何か、おありだったんですか?」
「え?」
「こう、私がくるっと回った時、ちょっぴり目が合ったでしょう。その時少し気になって」

 彼女もこちらを認識していたのだ。
 実感するなり急に気恥ずかしくなった。


「とても、悲しそうなお顔をしていたもので……」

22 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:10:04.13 ID:DTY4fa360

 そんな顔をしていただろうか。
 頬をぐにぐにする。今はまた火照っていて、酒のせいだと思うことにした。


「それを言うなら、あなただって」
「はい?」
「泣いていたでしょう。……何かあったんですか?」

 あら――と、彼女は左頬に手を当てた。
 今はもう涙の痕も消えていた。
 そもそもあれは悲しみの涙だったのだろうか、それすらもわからないのだが。

「たまにあるんです、ああいうこと。今日みたいな良い夜とか。癖といいますか、体質のようなもので……」
「体質……ですか」
「ええ。それか、何か特別なことが起こりそうな時とか……」

23 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:12:25.84 ID:DTY4fa360

 指先で泣きぼくろを一撫でし、彼女は小首をかしげてみせる。


「もしかしたら、これがそうなのかもしれませんね」


 これが、後にアイドルとなるその人との、最初の出会いだった。

24 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:13:31.80 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


「それ高垣さんじゃありませんか?」
「…………たかがき?」
「知らないんですか!? モデル部門の高垣楓ですよ! 雑誌の表紙とかバシバシ飾ってるあの!」

 知ってる。だからこそ実感が無かった。

 確かに、そういえば見覚えのあるようなないような顔だった。
 なんだかんだ酔っていたせいで、あの夜はそこまで考えが至らなかったのだ。
 次の日になり、千川さんに言われてやっと実感する始末だ。

25 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:15:07.85 ID:DTY4fa360

「にしても、凄いですね。あの高垣楓さんとご一緒するなんて」
「え、そんなにですか?」
「ええ。噂ですけど彼女、飲む時は決まって一人なんですって」

 あちこちの部署を渡り歩いているおかげか、千川さんは社内の事情通としても知られる。
 高垣楓のパーソナリティは、しかしそんな千川さんをもってしても謎に包まれているようだ。

「お酒が好きっていうのは有名なんですけど。それにほら、あのルックスでしょ? 美人揃いのモデル部門でも頭ひとつ抜けてる感じ」
「ええ、まあ……間近で見たのでわかります」
「まあだから、お近づきになりたい人たくさんいるんですって。男女両方。けど、食事に誘おうにも気が付けば消えてるとかで」

 掴みどころが無い人なんです。――千川さんは、そう締め括った。
 彼女が杯を傾けているところを見た人は、誰もいないというのだ。

 俺以外には。

26 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:22:03.91 ID:DTY4fa360

「Pさんもよくわからない人ですね……。一体どういう魔法を使ったんですか?」
「いや、魔法っていうか。単に成り行きなんですけど」
「そういうことにしときます。あ、このこと他の誰にも話さない方がいいですよ。騒ぎになるかもだし」

 そんなにか。
 改めて言われると、あの夜のことが丸ごと幻だったように思えてくるから不思議だ。
 しかし高垣楓という人は実在していて、今も見本の雑誌やポスターの中で微笑んでいる。

 千川さんはふと思い立って、深刻な顔でこちらに口を寄せた。

「…………一応言っておきますけど商材に手を出すのは」
「出しませんよ! 俺のこと何だと思ってんですか!?」
「ならいいんですが。いえ、なんかPさんってクソ鈍感天然中途半端モテ野郎の気配がどことな〜くするものですから……今はまだ兆し程度ですが……」
「しれっとなんてこと言うんだこの黄緑……」

 実際、手を出すもクソも無い。あの夜が例外中の例外だっただけで、また会えるかすらわからないのだし。
 ……あの人飛んでましたよ、ともまさか公言できない。
 モデル部門で既に第一線にいる彼女ならば、仕事で一緒になることもまずないだろう。

 色んな意味で高嶺の花だ。二度とはない珍事に違いない。

27 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:24:02.37 ID:DTY4fa360

   〇


「あら、またお会いしましたね」
「…………」

 というわけでもないらしい。
 とっぷり夜も更けてからの帰宅途中、噂の人とまた偶然出会った。

 今夜の高垣さんは電線の上にいた。

 体重なんて無いように、パンプスのつま先を電線に乗せて、夜の雀みたいな顔で往来を見下ろしていた。
 ……普通に人通りのある場所なんだが。誰も気付かないのか?

28 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:24:55.82 ID:DTY4fa360

「……すみません、どこから突っ込んでいいかわからないんですが」
「おでんの気分なんです」
「はい?」
「まだ少し肌寒いですから。ここはひとつ、おでんを食べて温まりたいなぁって」
「は、はぁ……?」

「今夜はおでんにしよう。いざ、おでんにせん……おでんせん♪」

 ダジャレだった。しかも前置きが長い。
 高垣さんはふわりと電線から飛び降り、足音もなく目の前に着地した。

「ご一緒にいかがですか? おいしいお店を知ってるんです」


 ……これは、気に入られたのだろうか。

29 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:32:37.87 ID:DTY4fa360

   〇


 それから、何度か酒を酌み交わすことがあった。
 例によって会話は弾まない。一人と一人で飲みながら、思い出した時に話の接ぎ穂を拾うだけ。
 大きく笑うことも、泣いたり怒ったりすることもない。
 お互いのパーソナルスペースの、その端と端を触れ合わせながら、静かに酒気の泉にたゆたうような。

 その時間が、えもいわれず心地よかった。


 彼女は自ら名乗ることはなかった。
 だから、俺も敢えて聞いたり、こちらが名乗ることはしなかった。

 けれど多分、あっちは俺がどこの会社の人間かも察していただろう。
 もちろん俺は彼女が何者かもう知っていて、高垣さんもまた、そのことに気付いていたはずだ。

 だからまあ、知らないのは建前だ。
 ここでは何者でもない。
 お互い、見えない仮面を被ったような関係。


 だからかもしれないが、たまにはとりとめもない愚痴みたいなものを零す時もある。

30 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:34:18.25 ID:DTY4fa360

「うちの会社の話なんですけど」
「はい」
「新しい事業を始めるみたいなんですよ」
「まあ、そうなんですか」
「そうなんです。まあ、それが……思うところが」
「お嫌なんですか?」
「是非もないことです。ただ、個人的に少し、嫌なことを思い出して」
「それは、ご自分の失敗とかですか?」
「違います。誰が悪いとか、そういうことでもありません。ただ……」

 また、言葉を失う。

「……ただ……」

31 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:36:58.16 ID:DTY4fa360

 オチを考えて言い出したことじゃない。思考がそのまま漏れたみたいな感じだ。
 小さく首を振り、「この話は終わりです」と動作で示した。
 すると高垣さんは深く追求せず、「そうですか」とだけ返して酒を注ぎ足す。


 顔を上げてぎょっとした。
 高垣さんの左眼から、また透明な涙が滑り落ちている。


 俺の表情から察したのだろう。彼女はなんでもないように涙を拭った。
 その視線が、こちらから外れない。
 
 高垣さんは自分の涙も差し置いて、俺の眉間のあたりを注視しているようだった。

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