【たぬき】高垣楓「迷子のクロと歌わないカナリヤのビート」

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2 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:36:07.69 ID:DTY4fa360


 歌を忘れたカナリヤは 後ろの山に棄てましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 背戸の小薮に埋めましょか

 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 象牙の舟に銀のかい

 月夜の海に浮かべれば


 忘れた歌を思い出す

3 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:37:14.34 ID:DTY4fa360

   ◆◆◆◆


 高垣楓さんには、一つ奇妙な癖があった。

 いきなり泣くのだ。それも左目「だけ」で。

 声はあげずに脈絡も無い。すんともしゃくり上げず、ただ涙がすぅっと流れるだけ。
 きっと自覚すら無かったんだと思う。
 本人は少し遅れて「あら私ったら泣いてるわ」って顔で、肩の埃でも払うように頬を拭うだけだから。


 どうして泣くのだろうと、その時はいつも考えていた。


 軽い昔話になる。
 これはある人と出会って、アイドルのプロデューサーになることを決めた、ちょっとした阿呆の顛末だ。

4 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:39:35.13 ID:DTY4fa360


【 春 : 陽だまりを避ける影 】


 芸能プロダクション「346プロ」は、新年度からますます回転率を上げていた。
 歌手、モデル、俳優……数多くのタレントやアーティストを輩出するこの事務所は、業界最大手との呼び声が高い。
 その実績は輝かしく、346の芸能人といえば知らぬ者はおらず、業界にこの者ありと言わしめる敏腕プロデューサーも数多い。

 まさに芸能界に君臨する、美しき城というわけだった。

 俺はさしずめ、そんなお城の片隅で働く、名もなき使用人の一人といったところか。


 雑務また雑務の毎日だった。
 山ほどの書類を抱えて走り回り、雪崩れ込む事務仕事をやっつけて、次から次へ企画をアシストする。

「おーい何モタモタやってんだ! 早くしろー!!」
「はい、ただいまぁ!」

 この会社はでかいだけあって自前で映像スタジオまで持っている。
 まさかADの真似事まですることになるとは思わなかった。
 人手不足では決してないのだが、「事務員」「アシスタント」って肩書きはこの業界ではほとんど何でも屋みたいな意味合いらしく、
 伝統的に多種多様な仕事をやらされるものらしい。どういう伝統だ。

5 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:41:07.41 ID:DTY4fa360

 スタジオ隅のベンチで一息つく頃には、外はすっかり夕方になっていた。

「じゃんっ♪」

 と、目の前にエナドリが差し出された。

「ああ。お疲れ様です、千川さん」
「あんまり根を詰めたらいけませんよ? これ、どうぞ」
「いいんですか? それじゃありがたくいただ」
「お給料から引いておきますね♪」
「アッハイ」

 千川ちひろさんは、俺のアシスタント仲間だ。

 なんでも17の頃からあちこちのテレビ局や芸能事務所でバイトを重ねて、大学卒業とともに念願の業界入りを果たしたとか。
 だからだろう、俺よりよほど仕事に慣れている。
 有能で気配り上手なだけでなく、どことなくちゃっかりしたお茶目さも併せ持ち、スタッフの間では結構人気が高かったりする。
 噂によると狙っている男性社員も少なくないとか――まあ、そこらへんは詳しくないのだが。

 彼女とは同期入社ということもあり、何かと話すことがあった。
 こうしてドリンクを渡したり渡されたりすることも一度や二度ではなく、このやり取りは一部で「ログボ」などと囁かれている。 

6 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:43:50.53 ID:DTY4fa360

「――ところでPさん、聞きましたか? あの話」


 千川さんの言う「あの」が「どの」なのかは、社員なら誰でもわかる。

「……聞いてますよ。やめときゃいいと思うんですけどねぇ」
「え、意外。嫌なんですか?」
「嫌っていうか……まあ、大丈夫なのかなぁっていうか」
「心配ないと思いますよ。なんていったって天下の346プロですし、まさか無策じゃないでしょ」
「だといいですね。大手が参戦して爆死なんて話、腐るほどあるんだから」
「うーん……なんか含みがありますねぇ?」

 千川さんが横から顔を覗き込んでくる。
 別に、隠してるわけではなかった。
 言う機会が無かっただけだ。

 かといって大声で言うようなことでもなく、聞こえるか聞こえないかのボリュームでぼそりと、
 

「俺、アイドル嫌いなんですよ」


 今年度から、346プロは新たに「アイドル部門」を立ち上げるという。

7 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:45:32.12 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


 そう、アイドルは嫌いだ。

 アイドルをやるような子たちが、じゃない。そういうビジネスモデルそのものが嫌いなのだ。

 程度の差こそあれ、芸能事業なんてのはみんな水ものだ。
 いくら努力を重ねようが、時勢の流行り廃りであっさり潮目を変えてしまう。
 歌手だろうと俳優だろうとそれは変わらないが、アイドル事業は特に顕著だろう。

 しかもその性質上、アイドルの中心層はティーンの女の子となる。
 まだ物事の善し悪しもわからない少女たちをその気にさせ、生き馬の目を抜く業界に飛び込ませる――
 なんてやり方が、俺はどうにも好きになれない。


 だったら芸能事務所の事務員になんてなるなよという話ではある。矛盾だ。ごもっともだ。
 だから俺はそういう話を口にしたことがなく、この間の千川さんが初めてだった。

 ……入社当初は、アイドル部門なんて影も形も無かったから。
 
 とはいえ社の方針に異を唱えるのも筋が違う話ではある。
 使用人はお銭のために働くまで。ただ……できればそちらは、見たくはない。

8 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:47:12.16 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


 下っ端が何をどう思おうが、企画はトントン拍子で進行していく。
 とうとうオフィスビルに専用のフロアができ、人事異動もどんどん進む。


「――でも、どれくらいの規模でやるつもりなんだろう。想像つかないなぁ」
「そりゃ相当リキ入ってんだろうよ。ほらあの、アメリカ帰りの専務。あのヒトの肝煎りって話だぜ?」

 金曜夜。
 会社近くの居酒屋で、ああでもないこうでもないと雑談を交わす同僚二人。
 彼らとはたまにこうして酒を酌み交わす仲だ。近ごろは忙しくて頻繁には会えないのだが。

「んでお前はどうなんだよ、ヨネ。自分とこの部署持ちたいって言ってたじゃねーか」
「あ〜……企画が通ればいいんだけどさ。オレまだペーペーだからどうだろうなぁ」
「……ヨネさん、プロデューサーになりたいんですか?」

 二人組の背の低い方が「うん」と快活に頷いた。
 一見すると中学生のような(失礼)小柄さだが、彼も立派な社会人。
 先輩である俳優部門のプロデューサーに付き、あれこれ経験を重ねている彼は、新規部門にも積極的な若手のホープだ。

9 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:48:51.23 ID:DTY4fa360

「やっぱりアイドルって花形だろ? この業界に入った以上はさ、憧れだよなぁ」

 俺は「そうか」と頷くばかりだった。

 もう一人はどうなのだろう。 
 こちらは金髪グラサン、ピアスにヒョウ柄のシャツといういかにも「そっち」な見た目だが、彼なりのやり方で自分の仕事を進めている。
 ちなみに直属の上司とは折り合いが悪いようで、ハゲとかなんとか陰口を聞くのはこちらの役目だった。

「俺はそういうのダリィけどなぁ……。まあでも、担当すんならチチのでけェ女がいいわ」
「うっわ身も蓋も無いな! それ単にタクさんの好みじゃないか!」
「バッカわぁかってねーなぁヨネ、ファンってのはそういうとこから付くモンなの。ほれ、チチを笑う者はチチに泣くって言うだろ?」
「聞いたことないぞそんなことわざ!?」

 ぎゃいぎゃい飛ばし合うのもいつもの光景だ。
 ただ一つ「いつも」らしくないのは、俺の口数が少ないということ。
 話題が話題だから当然なのだが、そうなると――

10 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:50:27.45 ID:DTY4fa360

「Pさんは?」

 当然、こっちにお鉢が回ってくる。

「そうそうお前どーすんだ? 結構いろいろ変わってくんだろ? 仕事増やされる前に適当なトコに落ち着いといた方がいんじゃね」

 どうもこうも。
 あらかじめ用意しておいた答えを、台本でも読み上げるように返す。


「……俺は、事務やれてりゃそれでいいですよ」

11 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:51:22.82 ID:DTY4fa360

   〇


「――んだからよぉ、やっぱ俺的ベストバウトは花山対スペックなんだよォ! そこんとこわかってんのかァ!?」
「ああ、わかったわかったから! タクさん酔うと刃牙の話ばっかすんだよな……!」
「いやそこは最トーの独歩ちゃん対渋川先生でしょ」
「バッおまッ最トーつったら花山対カツミンだろォ!?」
「タクさんそれ花山が好きなだけじゃないっすか!」
「もういいってPさん! それ以上やると終わんないから!」

 そうこうしているうちに駅まで着いてしまった。
 どこをどう歩いたかもわからない。馴染みの居酒屋というだけあって飲み過ぎてしまった。

「じゃ、俺たちこっちだから。お疲れPさん! 気を付けて!」
「そっちも……タクさんを頼みます」
「あ〜〜〜でもなぁ……千春対アイアンマイケルも捨てがてぇんだよなァ〜〜……」

 一番ベロンベロンのタクさんが、頭一つも小柄なヨネさんに支えられながらよろよろ歩く。
 二人がホームの向こうに消えるのを見送って、俺は正反対の路線に行こうとして、足を止めた。

12 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:53:33.97 ID:DTY4fa360

「22時……」

 終電まで時間はある。
 一番の盛りを過ぎたものの、街はまだ騒がしかった。春先の涼しい夜風に、酒気を帯びた熱が混ざって頬を撫でる。

 まだ、もう少しここに残ろうか。

 今夜に限って飲み足りない気分だった。
 この浮かれた夜の衣に包まれていれば、余計なことを考えないで済むような気がして。

 思い立った時、気付けば足は駅から離れていた。
 浮き上がるような頭で考える。どこかいい店があったかな。どこへ行こう。どこへ行けるだろう――


 ――どこへ行ったんだろう。

13 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:54:58.84 ID:DTY4fa360

「……っ」

 頭を振って暗い感情を追い払った。
 歩こう。歩いているうちに少しはましになるはずだ。

 やがて橋に差し掛かる。きらきらした夜景が川面に映り、遠くには高いタワーが霞んで見えた。

 何も考えず歩道を進み、ふと視線を上げた時、妙なものを見た。


(……女の人?)

14 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:56:15.41 ID:DTY4fa360

 ちょうど自分の何メートルか前を、背の高い女性が歩いていた。

 彼女も飲んでいたのだろうか。それとも帰りだろうか。
 それだけなら別になんてことのない光景なのだが、場所が場所で、つい釘付けになってしまう。


 彼女は、橋の欄干の上を歩いている。


 バランスを取るでもなく、自分のペースで、ゆらり、くらり。
 高いヒールでふらつく様子も見せず、舞うように足を進める。
 
 危ないですよと言おうとした。
 けどその歩みがとても自由な感じがして、邪魔をするのが憚られた。
 アッシュグリーンのグラデーションボブが動きに応じてふわふわ揺れている。

 彼女の纏う空気は独特だった。

 酒精に浮かされた花びらのように、見え隠れする耳がほんのり赤い。
 見ている前で片足立ちになり、ヒール一本を軸にその場でくるりと回った。


 その一瞬、月明かりに照らされる細面がこちらを向いた。

15 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 00:59:29.44 ID:DTY4fa360


 両眼の色が違った。


 見間違いではないと思う。
 右は日差しを孕む花葉の碧、左は夕闇に迫る月影の紺。
 互い違いの瞳の色が、いっぱいに夜を写し取って輝いている。

 そして俺は、光る雫を見た。

 あんなに楽しそうなのに、酒に酔ってご機嫌っぽいのに、彼女の頬を一筋の涙が伝っている。
 しかも青い左の眼からだけ流れていて、それは回る動作で目尻を離れ、雫となって川へと落ちた。

 どうして――

16 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:00:30.54 ID:DTY4fa360

 ぽかんと開いたままの口から、「あ!」と自分でもびっくりするような大声が迸る。
 女性の体が、今度こそ欄干の外に出たのだ。

「危ない!!」

 どんなに優れたバランス感覚だろうが、足を踏み外してしまえばおしまいだ。
 考える前に駆け出した。大きく傾ぐ体に手を伸ばす。とうとう宙に躍り出る。間に合わない……!!


「――あら?」
「え?」


 逆さまになった女性と、目が合った。
 高さがおかしい。というか落ちていない。

 ………………え何、飛んでる?

 何度まばたきをしても同じだった。彼女は完全に橋から離れ、上下逆転の姿勢でぷかぷか浮いていて。
 思い出したように左眼を拭い、なにやら遠慮がちにこちらを指差した。

17 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:00:59.74 ID:DTY4fa360

「あの、足元……」


 残されたのは、無茶な姿勢で欄干に足をかけたアホの酔っ払い一人である。
 止まっていた時が動き出したように、すっかりバランスを崩してしまう。


「あ。グワーッ!!!」


 こうして俺は、きらきら光る神田川に落ちた。

18 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:03:39.60 ID:DTY4fa360

   〇


「ぶえっくしょい!!」
「どなたか存じませんが、ごめんなさい」

 春先の夜は普通に寒い。
 岸辺に沿う桟橋の上で、濡れ鼠になった俺を女性が申し訳なさそうに拭いてくれる。

 どうにか助かりはしたものの、どうやって助かったかはよくわからない。
 自力で泳ぎ着いた感じは無いし、何か細い手に引き上げられたような……というか。


 飛んでた?
 飛んでたよな。


 間近に見るその女性は、息が詰まるほど美しかった。
 色違いの瞳もやはり見間違いではなく、もしやこれ自体が深酒のもたらす夢ではないかと思う。

19 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:05:17.48 ID:DTY4fa360

 聞きたいことは山ほどある気がしたが、かける言葉が出てこない。
 見つめ合うことしばし、妙な沈黙が二人の間に降りた。

「「あの」」

「あ、すいません、お先にどうぞ」
「ああいや、大したことじゃないんで、そちらから先にどうぞ」
「いえ、私も……それほどのあれではありませんから、もしあれでしたらそちらから」
「別にそんな、あれってほどでもないんであれですけど、あれ? ああだから、まずは……」

「助けてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、大したこともできず」

 ぺこー。

 ……なんだこれ。いや、とりあえず礼でいいんだよな?

「……お礼を言うなら、こちらこそ。私を助けてようとしてくださったんですよね」
「いや、差し出がましい真似をしてしまったみたいで。まさかお飛びになるとは思わず」

 お飛びになるって日本語初めて使ったぞ。
 なんか順調に混乱してきてる気がする。


「ですから、お詫びというのではありませんが……」

 細く形のいい指が、お猪口をつまむ形を取る。

「この後、一杯奢らせていただけませんか?」

 綻ぶように笑む彼女の、左眼の下にある泣きぼくろが、不思議なほど印象に残った。

20 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:07:10.82 ID:DTY4fa360

   〇


 入ったのは、路地裏にある小さな居酒屋。
 大将が一人でカウンターに立っているような、古式ゆかしいもつ焼きの店だった。
 チョイスの渋さに内心驚かされたが、出てきた串物はどれも絶品でまた驚いた。

 それらに輪をかけて驚きなのは、彼女がグラスを空けるペースだ。

 どうも行きつけの店のようでボトルキープがあったのだが、一升あったはずの中身が気付けば半分減っている。
 目に見えてガバガバ飲むわけでもないのに、気が付けばぺろりと枡ごと干してしまう感じだ。
 なんだか化かされているような気がした。


 胃の腑に酒を落とすと、なんだかんだで体が温まってくる。
 ずぶ濡れの男に店主は嫌な顔ひとつせず、何があったか聞こうともせず職人の仕事を進めていた。

「へいお待ち」
「ああ、これこれ♪ これが食べたかったんですよ」
「串……ですよね。何の肉ですかこれ? ……鶏?」
「ご存知ありませんか? ズンドコベロンチョです」

 ご存知ないです。なんだそれ。
 口にしてみればびっくりするほどうまかった。肉か魚かもわからない。むしろ豆腐かもしれないが、芋と言われても信じる気がする。
21 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:09:03.39 ID:DTY4fa360

 妙ちくりんな時間だった。

 特に会話が弾むでもなかった。お互い何者かもわからない同士だし、彼女にしたって饒舌な方ではないらしい。
 ただ「あ、これおいしい」「そうでしょう」的なやり取りを散発的に交わして、お互いのペースはまったく不揃い。
 それでも、不思議と居心地は悪くない。

 酒を注ぎ合いながら、彼女がふと、口を開いた。

「何か、おありだったんですか?」
「え?」
「こう、私がくるっと回った時、ちょっぴり目が合ったでしょう。その時少し気になって」

 彼女もこちらを認識していたのだ。
 実感するなり急に気恥ずかしくなった。


「とても、悲しそうなお顔をしていたもので……」

22 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:10:04.13 ID:DTY4fa360

 そんな顔をしていただろうか。
 頬をぐにぐにする。今はまた火照っていて、酒のせいだと思うことにした。


「それを言うなら、あなただって」
「はい?」
「泣いていたでしょう。……何かあったんですか?」

 あら――と、彼女は左頬に手を当てた。
 今はもう涙の痕も消えていた。
 そもそもあれは悲しみの涙だったのだろうか、それすらもわからないのだが。

「たまにあるんです、ああいうこと。今日みたいな良い夜とか。癖といいますか、体質のようなもので……」
「体質……ですか」
「ええ。それか、何か特別なことが起こりそうな時とか……」

23 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:12:25.84 ID:DTY4fa360

 指先で泣きぼくろを一撫でし、彼女は小首をかしげてみせる。


「もしかしたら、これがそうなのかもしれませんね」


 これが、後にアイドルとなるその人との、最初の出会いだった。

24 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:13:31.80 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


「それ高垣さんじゃありませんか?」
「…………たかがき?」
「知らないんですか!? モデル部門の高垣楓ですよ! 雑誌の表紙とかバシバシ飾ってるあの!」

 知ってる。だからこそ実感が無かった。

 確かに、そういえば見覚えのあるようなないような顔だった。
 なんだかんだ酔っていたせいで、あの夜はそこまで考えが至らなかったのだ。
 次の日になり、千川さんに言われてやっと実感する始末だ。

25 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:15:07.85 ID:DTY4fa360

「にしても、凄いですね。あの高垣楓さんとご一緒するなんて」
「え、そんなにですか?」
「ええ。噂ですけど彼女、飲む時は決まって一人なんですって」

 あちこちの部署を渡り歩いているおかげか、千川さんは社内の事情通としても知られる。
 高垣楓のパーソナリティは、しかしそんな千川さんをもってしても謎に包まれているようだ。

「お酒が好きっていうのは有名なんですけど。それにほら、あのルックスでしょ? 美人揃いのモデル部門でも頭ひとつ抜けてる感じ」
「ええ、まあ……間近で見たのでわかります」
「まあだから、お近づきになりたい人たくさんいるんですって。男女両方。けど、食事に誘おうにも気が付けば消えてるとかで」

 掴みどころが無い人なんです。――千川さんは、そう締め括った。
 彼女が杯を傾けているところを見た人は、誰もいないというのだ。

 俺以外には。

26 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:22:03.91 ID:DTY4fa360

「Pさんもよくわからない人ですね……。一体どういう魔法を使ったんですか?」
「いや、魔法っていうか。単に成り行きなんですけど」
「そういうことにしときます。あ、このこと他の誰にも話さない方がいいですよ。騒ぎになるかもだし」

 そんなにか。
 改めて言われると、あの夜のことが丸ごと幻だったように思えてくるから不思議だ。
 しかし高垣楓という人は実在していて、今も見本の雑誌やポスターの中で微笑んでいる。

 千川さんはふと思い立って、深刻な顔でこちらに口を寄せた。

「…………一応言っておきますけど商材に手を出すのは」
「出しませんよ! 俺のこと何だと思ってんですか!?」
「ならいいんですが。いえ、なんかPさんってクソ鈍感天然中途半端モテ野郎の気配がどことな〜くするものですから……今はまだ兆し程度ですが……」
「しれっとなんてこと言うんだこの黄緑……」

 実際、手を出すもクソも無い。あの夜が例外中の例外だっただけで、また会えるかすらわからないのだし。
 ……あの人飛んでましたよ、ともまさか公言できない。
 モデル部門で既に第一線にいる彼女ならば、仕事で一緒になることもまずないだろう。

 色んな意味で高嶺の花だ。二度とはない珍事に違いない。

27 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:24:02.37 ID:DTY4fa360

   〇


「あら、またお会いしましたね」
「…………」

 というわけでもないらしい。
 とっぷり夜も更けてからの帰宅途中、噂の人とまた偶然出会った。

 今夜の高垣さんは電線の上にいた。

 体重なんて無いように、パンプスのつま先を電線に乗せて、夜の雀みたいな顔で往来を見下ろしていた。
 ……普通に人通りのある場所なんだが。誰も気付かないのか?

28 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:24:55.82 ID:DTY4fa360

「……すみません、どこから突っ込んでいいかわからないんですが」
「おでんの気分なんです」
「はい?」
「まだ少し肌寒いですから。ここはひとつ、おでんを食べて温まりたいなぁって」
「は、はぁ……?」

「今夜はおでんにしよう。いざ、おでんにせん……おでんせん♪」

 ダジャレだった。しかも前置きが長い。
 高垣さんはふわりと電線から飛び降り、足音もなく目の前に着地した。

「ご一緒にいかがですか? おいしいお店を知ってるんです」


 ……これは、気に入られたのだろうか。

29 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:32:37.87 ID:DTY4fa360

   〇


 それから、何度か酒を酌み交わすことがあった。
 例によって会話は弾まない。一人と一人で飲みながら、思い出した時に話の接ぎ穂を拾うだけ。
 大きく笑うことも、泣いたり怒ったりすることもない。
 お互いのパーソナルスペースの、その端と端を触れ合わせながら、静かに酒気の泉にたゆたうような。

 その時間が、えもいわれず心地よかった。


 彼女は自ら名乗ることはなかった。
 だから、俺も敢えて聞いたり、こちらが名乗ることはしなかった。

 けれど多分、あっちは俺がどこの会社の人間かも察していただろう。
 もちろん俺は彼女が何者かもう知っていて、高垣さんもまた、そのことに気付いていたはずだ。

 だからまあ、知らないのは建前だ。
 ここでは何者でもない。
 お互い、見えない仮面を被ったような関係。


 だからかもしれないが、たまにはとりとめもない愚痴みたいなものを零す時もある。

30 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:34:18.25 ID:DTY4fa360

「うちの会社の話なんですけど」
「はい」
「新しい事業を始めるみたいなんですよ」
「まあ、そうなんですか」
「そうなんです。まあ、それが……思うところが」
「お嫌なんですか?」
「是非もないことです。ただ、個人的に少し、嫌なことを思い出して」
「それは、ご自分の失敗とかですか?」
「違います。誰が悪いとか、そういうことでもありません。ただ……」

 また、言葉を失う。

「……ただ……」

31 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:36:58.16 ID:DTY4fa360

 オチを考えて言い出したことじゃない。思考がそのまま漏れたみたいな感じだ。
 小さく首を振り、「この話は終わりです」と動作で示した。
 すると高垣さんは深く追求せず、「そうですか」とだけ返して酒を注ぎ足す。


 顔を上げてぎょっとした。
 高垣さんの左眼から、また透明な涙が滑り落ちている。


 俺の表情から察したのだろう。彼女はなんでもないように涙を拭った。
 その視線が、こちらから外れない。
 
 高垣さんは自分の涙も差し置いて、俺の眉間のあたりを注視しているようだった。

32 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:38:41.96 ID:DTY4fa360

「ほら」

 花綻ぶ笑みの意味は何だろうか。
 気遣いか、慈しみか。酒に鈍った頭では、敢えて問うこともできなかった。


「また、悲しそうな顔をしています」


 条件反射的に自分の頬に触れる。
 そういえば、長いこと笑っていない気がした。


  【 春 ― 終 】

33 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 01:42:39.92 ID:DTY4fa360
一旦切ります。
以降は随時更新の形になると思います。

諸々の登場人物に関しては「そういう世界線」ということでご容赦ください。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/14(金) 02:17:45.69 ID:iUIyDBhDO
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/14(金) 12:29:35.31 ID:iVYIG9gFO
今までのSSと手間のかけ方が段違いだな
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/14(金) 12:55:46.95 ID:d8ILbz2Co
今日誕生日か
37 : ◆DAC.3Z2hLk [saga]:2019/06/14(金) 23:11:50.94 ID:DTY4fa360

  【 夏 : 人形たちの夢 】


「マぁジかよヨネお前ェ!? やったじゃねぇかこのこのこの!!」
「あははは……あだだだっ痛い痛い痛い!」
「タクさんそれ決まってるから! ヘッドロック入ってますから!」

 いつもの居酒屋は、いきおいヨネさんの祝いの席となっていた。
 このほど小規模な人事異動が起こり、なんと彼が一つの部署を担当することになったのだ。

 もちろんアイドル部門。今もっとも勢いのあるところだ。

「改めて、おめでとうございます。俺も応援してますよ」
「ああ、ありがとう! よっし、やるぞぉ!」
「しっかしヨネがアイドルのプロデューサーねぇ。で? 誰担当すんのかとか決まってンのか?」
「それはまだ。だけどこう、清楚で大人のお姉さんとかだったらいいよなぁ〜……うへうへ」
「いやお前も自分の女の好みじゃねーかそれ」
「完全に浮かれてますねヨネさん」

 浮かれるのも当然だ。これは大躍進と言うべきだろう。
 かねてから本人も望んでいたことなので、我が事のように嬉しかった。

38 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:14:43.43 ID:DTY4fa360

 春が終わり、夏が来て、アイドル部門の滑り出しは順風満帆だ。
 既にいくつかの部署に分かれて、第一弾、第二弾とアイドルたちを送り出している。

 ヨネさんが一足先に忙しくなる関係上、俺たちが集まれる機会はがくっと減った。
 伝え聞く話によると、彼は元気いっぱいのジュニアアイドルを束ねたり束ねられなかったりしながら、二人三脚(多人多脚?)で頑張っているようだ。


 あるいはまた、別の日に。

『あー、今日も無理っぽいわ。なんか俺もスカウトくらいしてこいって言われてよぉ』
「そうですか……」
『わりわり、今度昼飯奢るからよ。ったくあのクソハゲ言うだけ言ってなんも手伝いやがらねぇ……』

 上司への愚痴をぶちぶち零しながら、電話を切るタクさん。 
 あちらもあちらで、別の部署で仕事が増えてきているようだ。

39 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:15:59.14 ID:DTY4fa360

 何の不満も無い。
 一抹の寂しさこそあっても、同僚の活躍は素直に喜ばしかった。

 あとは、しがない事務員が一人、会社の潮流に置いていかれるだけの話だ。


「……今日は早めに帰るか」


 アイドル部門へのヘルプが、ここのところ増えてきている。
 千川さんはもともとアイドルが好きだったみたいで、毎日生き生きとしていた。

 346プロは変わっていく。荘厳な城に、アイドルという新たな華を添えて。

 俺は、望んでその日陰にいる。

40 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:18:09.84 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


「やあ、お疲れ様。調子はどうだね?」

 ある日、機材を倉庫に運んでいたところ、聞き慣れた声に呼び止められた。
 振り向けば、眼鏡をかけた初老の男性がこちらに手を挙げている。

「今西部長……」

 部長とは言うが、実際のところ何の「部長」なのかは正直よくわからない。
 半分ご隠居のような存在でありながら、時折こうしてみんなの様子を見に来るのだ。
 社内でも最古参に入り、本来なら相応の要職に就くべきポジションらしいが、あくまでも現場の感触を重視する人柄には慕う社員も数多かった。

 いうなれば、346プロのご意見番のような御仁である。

41 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:20:15.12 ID:DTY4fa360

   〇


「君の仕事も増えてきただろう。大変なのではないかと思ってね」
「いえ、そんな。忙しいのは望むところですよ」
「しかし無理は禁物だよ。事務員とは言ってもその実、便利屋みたいなところがあるからねぇ」

 他社もそうなんだよ、と彼は笑う。アシスタントが何でもやるのは業界的気質というやつかもしれない。
 だが大変なのはどこも同じだ。

「アイドル部門の話、聞きました。順調みたいですね」
「そうだねぇ。特に第一から第三は、予想以上の成果を挙げているよ。みんなよくやってくれてる」

 良いことだ。
 休憩室のベンチに並んで座り、部長は缶コーヒーのプルタブを引いた。

「君も、そろそろどこかに腰を落ち着けてはどうだろう?」
「……すみません。仰りたいことがよく……」
「アイドル部門は新たなプロデューサーを求めている。君さえ良ければ……」

42 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:22:06.00 ID:DTY4fa360

「ありがとうございます。ですが、遠慮させて下さい」

 即答する。
 部長は冷えた缶コーヒーを手に、ほんのわずかに表情を曇らせた。

「……お父上の件は残念だった。しかし、決して彼の力不足だったんじゃない。むしろ最善を尽くしたと言ってもいい」
「結果は、結果です」
「今は時代が変わっている。君がもしあのことを気に病んでいるのなら……」
「……せっかくのお誘いですが、向いていないと思います。コーヒー、ご馳走様でした」

 奢ってもらったコーヒーは、結局開けることもなくポケットにねじ込んだ。
 頭を下げ、機材のダンボールと共に去る俺を、部長は何も言わずに見送っていた。

43 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:26:18.81 ID:DTY4fa360

   〇


『あんたが選んだアイドルだろうが!』


 確かそんなことを言った。
 高校生の頃だから、もう十年近く前のことになるだろうか。

『最後まで責任持つってくらいのことが、どうして言えないんだ!!』

 親父は俺の訴えを黙って受け止めていた。
 感情のやり場が無い息子を諫めるでもなく、ただ淡々と、こう返した。


 彼女たちはいくらでもやり直せる。
 もう取り返しがつかない以上、忘れるのは早ければ早いほどいいんだ、と。

 潰えた夢と心中するのは、大人だけでいい――。

44 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:27:51.53 ID:DTY4fa360

 その主張に、俺は意地でも納得しなかった。

 だったら全部無駄だったって言うのか。
 彼女たちの努力も、ファンの人たちも、歌も舞台も、笑ったことも泣いたこともみんな「忘れなくてはならないこと」なのか。
 それさえも丸ごと否定する権利が、あんたにあるのか。

 返す言葉の無機質な響きが、今も耳にこびりついている。


「その方がいいんだ」


 今にして思えば、彼の言うことにも相応の理があった。
 けれどそれは大人の理屈だ。
 何も言わず呑み込むには、当時の俺は子供すぎたのだと思う。

 その日以来、親父とはほとんど口を利いていない。

45 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:29:07.40 ID:DTY4fa360

   〇


 十年前。当時の世は、まさにアイドル戦国時代だった。

 某レジェンドアイドルがたった三年で焦土と化した後のショービジネス市場において、
 荒野になお芽吹く雑草のように運営を続ける不屈のアイドルプロダクションは幾つもあったらしい。
 
 今のように勢力図があらかた出来上がる前のことだ。
 業界には、所属アイドルが二人とか三人とか、あるいは一人しかいないような弱小事務所も少なくなかった。
 ここらへんの詳細に関しては岩〇書店刊行の「〇波講座現代アイドル史」に詳しい。

 親父はその弱小事務所の一つに所属する、ただ一人のプロデューサーだった。


 結論から言えば、彼のプロデュースは失敗した。

46 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:30:50.56 ID:DTY4fa360

 スキャンダルがあったわけではない。担当アイドルたちとの関係も良好だった。
 彼らは一丸となり努力して、努力して、努力して、努力して、それでもなお、届かなかった。

 ただただ、単純に「負けた」のだ。

 時勢の要因もあるにはあるだろう。
 小さな事務所がお互い喰い合う世紀末状態だったものだから、昔は今よりもっと過酷で、みんなギラギラしていた。

 ライバル事務所はどこも手段を選ばず、表だっては言えないようなことをしてまでのし上がろうとしたらしい。
 ただまっすぐ進むだけでは、目指す場所はどうしても遠すぎたのだ。

 だが言い訳にはならない。

 ライバル事務所のやり口が悪だとも思わない。弱肉強食こそ芸能界の基本原理だ。
 今日の業界は、そのようにして倒れた幾多の者たちの屍の上に成り立っていると言っていい。
 親父のプロダクションも、そうした並び立つ墓標の一つとなっただけの話だ。

 プロジェクト解散からほどなくして会社が倒産し、一家は東京から父方の地元へ帰った。

47 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:32:18.60 ID:DTY4fa360

 にもかかわらず、こうして独り東京に戻ってきた。
 理由は色々ある。まず一刻も早く実家を出たかったし、地元ではろくな仕事が無かったのもそれだ。

 父を知る今西部長と出会ったのは完全に偶然だった。
 彼は紛れもない恩人だ。うちで働かないかね――という誘いは渡りに船だった。
 けれど本当に芸能事務所に入るべきだったのかどうかは、今でも悩むことがある。

 アイドルに夢を見ることはやめた。

 大人の事情で水泡に帰す夢なら、そんなものは最初から見ない方がいい。
 
 けれど、何か引っかかるものがあって、こうして346プロにいる。
 ずいぶん昔に置き忘れたものが、見つかるとでも思っているみたいに。

48 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:35:44.19 ID:DTY4fa360

  ◆◆◆◆


 高垣さんとの交流はそれからも続いていた。

 彼女は相変わらずのマイペースだ。モデルの仕事は続けており、街を歩けば広告にその顔を見ることも少なくない。
 けれど本人は、忙しそうな素振りなど欠片も見せない。
 トップモデルであることを鼻にかける様子もない。
 そればかりか、自分の立場さえ気にもかけていないのかもしれない。

 身バレしたら騒ぎになるだろう。同僚やモデル部門のスタッフが見れば何と言うか。
 気を揉む凡人の内心も知らぬげに、彼女は今日も、アルコールの浮遊感に身をゆだねるのだった。

 天衣無縫とは、彼女のためにある言葉なのかもしれない。

49 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:36:38.28 ID:DTY4fa360

 というか実際に浮遊している。今も。

「…………前から気になってたんですが、それ、どうやってるんです?」
「え〜? なんでしょうか〜?」
「人間、訓練したら浮いたりできるのかなって」

 ほんのり紅潮した顔がこちらを向いて、どきりとした。
 馴染みの大将の居酒屋で、串を焼く煙に燻されながら、高垣さんは「ぷわっ」と酒臭い言葉を落とした。

「私、地に足が着いてませんから」
「文字通りとは誰も思わんでしょ……」
「浮世離れ、落ち着かない、浮き足立つ……まあ、そんなところです♪」

 何の説明にもなっていない。
 何度聞いてもはぐらかされるばかりなので、さして期待してもいなかったが。

50 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:42:55.29 ID:DTY4fa360


 ――ドォン……。


 と外から、腹に響く重低音。
 おや、という顔をする高垣さん。霞ガラスの窓が小さく揺れる。

 そういえば、心当たりがあった。

「花火でしょうね」
「花火?」
「確か今夜、花火大会だったから。どっか近くでやってるんでしょう」

 聞くなり高垣さんの表情がぱっと華やいだ。


「見てみませんか?」

51 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:47:54.77 ID:DTY4fa360

 見に行くもなにも、場所が悪いのではないか。
 そう言いかけた俺にも構わず、高垣さんは大将にお勘定を頼んでさっさと出ていってしまった。

 いつも割り勘だ。慌てて財布を探りながら外に出ると、花火の音は予想よりずっと近かった。


 ――ドォン……!


「見えませんねぇ」
「光ってはいるんですけどね……」

 そもそもここは路地裏だ。向こうの空の花火など見えようはずもない。
 ただ光がわずかに差し込み、薄汚れたビルの壁を染めるのだけはわかった。

 スマホの検索によると、行って行けない距離ではないらしい。
 とはいえ現場は人でごった返しているだろうし、今から急いで間に合うかどうか……。

52 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/14(金) 23:51:37.79 ID:DTY4fa360

 隣を見ると、高垣さんは赤ら顔で「にまぁ」と笑っていた。

 その全身から童女のような悪戯っ気が湧き出ているのを感じる。


「行きましょうか」

 まさか。

 何事か突っ込む前に逃げ場を失った。
 高垣さんの左手が、こちらの右手をがっしり掴んでいたのだ。


「――それっ♪」
「ちょおおおおおおおおいっ!!?」


 狭い路地裏を突き抜け、ビルとビルの細い隙間から、大空へ。

53 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:10:41.61 ID:xNFFfoZD0

   〇


 本当に飛んでいた。
 もはや街は遥か眼下だった。二人が飛び出した路地がどこだったかなんて、とっくにわからない高さだ。

「ちょっ、待! 降ろしてください! お、落ちる……っ!?」
「あ――来ましたよっ」

 半分パニックな俺をよそに、高垣さんは楽しそうだった。

 彼女が指差す一点から、今まさに打ち上げられた鮮やかな火球が、


 ――ドォン!!


 遮るものなど何もない、圧倒的な音と光の歓迎だった。
 たちまち俺は魂を抜かれた。打ち上げ花火を「見下ろす」のなんて、生まれて初めての体験だった。

54 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:11:46.03 ID:xNFFfoZD0

「――――――――――か?」

 高垣さんが何か言っている。
 見えますか、とかだろうか。

 そうですねと返そうとしたところで、耳を疑った。


「もうちょっと近付いてみましょうか?」
「は?」

 びゅんっ!!

 否も応もない。高垣さんはいきなり速度を上げて、ぶつかるつもりとしか思えない軌道で打ち上げ地点を目指す。
 引っ張られて宙を滑りながら、こっちはもう幽体離脱しないだけで精一杯だった。
 
「耳、塞いでいてくださいね!」

 ひゅるるる――――と、またもう一つ打ち上げられて、

55 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:13:20.51 ID:xNFFfoZD0



 ド ォ ン ッ ッ ! ! !


 もう音なんて言えるレベルじゃない。揺れる空気の、分厚く重い壁だ。
 木の葉か何かになったつもりの思考を、空に咲いた眩い光が塗り潰す。

 四方八方に飛び散る、熱く大きな花色の火。
 高垣さんは速度を上げて、その真ん中を一直線に突っ切った。


「ふふ、うふふっ。あははははっ」


 対空砲撃を切り抜ける戦闘機のような軌道。
 昼より明るい花火の只中で、高垣さんは笑っていた。

 大声を上げて。子供のように無邪気に。

 左眼からこぼれた雫が一滴、俺の頬に触れて弾けた。

56 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:15:08.49 ID:xNFFfoZD0

   〇


「…………………………………………」
「ああ、楽しかった!」

 気が付けば、どことも知れない雑居ビルの屋上。
 錆の浮いた室外機のほかには給水塔しか無いそこに仰臥して、俺は命あることの素晴らしさを噛み締めている。

「…………死ぬ、かと、思った」
「本当、すごかったですねぇ。びっくり……あ、はなびっくり♪」
「ダジャレにもなっていない…………」
「公園にも人がたくさんいて。あ、見つからなかったかしら」
「もう、ああいうのは…………」
「次、どこかで花火大会やってません? 検索してみようかしら」
「あのですねぇ! 俺がどんな気持ちだったと!」

 さすがに突っ込まざるをえなくなり、がばっと上体を起こして。
 彼女の横顔を見るなり、そんな気にもなれなくなった。
 
57 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:20:54.79 ID:xNFFfoZD0

 高垣さんはずっと顔を上げていた。花火が終わったあの夜空に、まだ火の残光を見ているように。

 その表情があまりにも楽しそうだったから。
 輝く顔はいっそ幼くすらあった。雑誌や広告に載る、あの凄絶で研ぎ澄まされた美貌とはまるで違う。

 それにしても意外だ。
 彼女はどちらかというと、こんなはっちゃけたことをするタイプではないように思えたのに。

 人は見かけによらない……というか、最初のイメージ通りとはいかない、ってことなのかな。
 どちらが本当の彼女なのかはわからない。
 けれどそんな顔を見せられて、改めて腹を立てるほど無粋にもなれない。

 言いかけた言葉を飲み込んで、しばらくその横顔を見ていた。


 ビルの屋上は街の喧騒も遠い。花火の音も消えた今、辺りは嘘のように静かだ。

 高垣さんが、ふと横目に俺を見た。
 彼女はこちらに左側を向けている。必然、泣きぼくろを備えた青い瞳とかち合う。

58 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:21:57.08 ID:xNFFfoZD0


「寂しいんですか?」

「……え?」

「そういう顔。今もです。なんだか、帰り道を忘れちゃった迷子みたい」

「寂しいなんて……俺は、一言も」

「わかりますよ。だって私も」

59 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:22:33.94 ID:xNFFfoZD0


 ――私も?

 言葉はしかし、続かなかった。
 高垣さんはちくりと虫に刺されたような顔をして、改めて俺に向き直る。


「私いま何か言いました?」
「え、覚えてないんですか」
「あら……あぁ」

 どこか気だるげな嘆息が喉から漏れて、高垣さんは軽く頭を押さえる。

「なんだか、少し飲み過ぎてしまったみたい……」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫です。いけませんね、浮かれてしまって」

60 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:26:02.18 ID:xNFFfoZD0

 立ち上がり、深呼吸を繰り返す彼女は、すっかりいつも通りだった。

「もう遅いです。今日はこのくらいにしておきましょう」
「珍しいですね、いつもは粘る方なのに」

 そしてもう帰ろうと言うのは大体こっちの役割だった。
 高垣さんはまだへたり込む俺の前にしゃがみ込み、指でつんつん脇腹をつついてくる。

「ぐえっ、ちょ、やめ」
「だって、私が帰ろうと言わないと、あなたもここから降りられませんよ」

 …………それもそうだ。

61 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:31:08.92 ID:xNFFfoZD0

  ◆◆◆◆


 彼女との奇天烈な日々は、正直に言って、楽しかった。


 既にこの状況に心地よさを感じ始めていた。
 こうしていれば余計なことを考えず、ただ目の前の新鮮な驚きだけを受け入れていられた。

 もしかしたら、このまま忘れられるのかもしれない。

 不可思議な出来事と関係が麻酔となって、記憶の澱から目を逸らせるかもしれない。

 それでいいじゃないか。何をためらうことがある。
 仕事を乗り越え、重い夜をアルコールと共に飲み下す。
 みんなやっていることだ。それが当たり前の大人というやつだ。

62 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:31:55.49 ID:xNFFfoZD0

 思い浮かぶのは、みじめに丸まった男の背中。
 逃げ込んだ我が家での夜を、親父は一体、どんな気持ちで過ごしていただろう。


 ――寂しいんですか?


 青い眼の投げた疑問が、胸に刺さって取れないままで。

63 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:40:42.88 ID:xNFFfoZD0

  ◆◆◆◆


「この間はごめんなさい。私ったら、羽目を外しすぎたみたいで……」

 次に会う時、高垣さんは見ていて気の毒になるくらいしょんぼりしていた。
 かなり珍しいものを見た気がする。

「いえ、いいんですよ別に。まあ、あんなこともあるかなとは」

 だいぶ苦しい。あんなことそうそうあってたまるかという話だ。
 とはいっても、彼女がこうだと調子が狂うのはこっちだ。
 気にしていないのは本当なんだし。むしろ楽しかったくらいで。

 なんとかフォローできまいか……そうだ。

「それじゃあ、また新しい店を教えてくださいよ」
「新しいお店……」
「そうそう。また別のおいしいところを紹介してもらうことで、チャラ。どうです?」

 実際あの串焼き屋はものすごい掘り出し物だったので、高垣さんならもっと色んなところを知っているのではないかとの期待もある。

64 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:44:39.80 ID:xNFFfoZD0

 高垣さんは少し考えて、ぽんっと手を打った。

「あります」
「本当ですか」
「いわゆるお店というか、居酒屋やバーという感じではないんですが――」

 曰く、今の時期にはちょうどいいかも。
 一年中やっているけれど、夏は特に。

 ただ、少し複雑なところにあるから、わかりにくいかも。
 皆さんきっと気に入られると思いますが――


 ……一見さんお断りなところなんだろうか?

 なんて名前のお店なんですかと問うと、彼女はまるで、秘密基地の場所を教えるみたいに答えた。


「夜市、と呼ばれています」

65 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/15(土) 00:45:53.96 ID:xNFFfoZD0
一旦切ります。
夏もうちょっと続きます。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/15(土) 10:47:43.74 ID:Mc57Ve9DO
対空砲火……まぁ、普通なら爆撃機や攻撃機は避けずに編隊を組んだままだからね


つか、夜市との出会いクルー?!
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/18(火) 14:55:07.13 ID:RluBy/K70
色々とあったりしたので、初めて【たぬき】シリーズをここで見れました。
早く続きが読みたいです!
68 : ◆DAC.3Z2hLk [saga]:2019/06/18(火) 22:42:33.72 ID:BLRBsoCc0

  ◆◆◆◆


 このところ悪い夢を見る。


 ショーウィンドウに並ぶ、着飾った人形たちの夢だ。

 分厚く冷たいガラスの向こうで、彼女たちは精いっぱいの輝きを見せた。

 だけどそれも徐々に翳り、スポットライトは消え失せ、衣服は色褪せていく。

 暗い暗いウインドウの向こうに手を伸ばそうにも、ガラスに阻まれて叶わない。

 やがて人形は埃を被り、誰の手にも触れられないまま、倉庫の隅へと押しやられるのだ。


 一体、誰がそれを見つけてやれるというのだろう。
 答えなど得られず、日陰は日陰のまま暗闇に沈み続ける。


  ◆◆◆◆
69 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:44:43.65 ID:BLRBsoCc0

 話によると「夜市」というのは、いわゆるフリーマーケットのようなものだという。
 みんな個人で出店を出し、多くは趣味、または本業の延長になるものを売っているのだとか。
 とすると、ささやかな規模なのだろう。酒が出るのも野外のビールフェスみたいな感じなんだろうか。


 ……という認識が甘かったことをほどなく思い知らされることとなる。

 電車を降りて歩くことしばし、地下鉄のホームから見たこともない脇道に逸れ、錆の塊めいた螺旋階段を降りて降りて降りた果てに小さなドアがある。
 地下鉄さえ頭の遥か上を走るこの謎空間で、高垣さんはあっさりドアを開けた。

「……なんだ、これ」


 一気に視界が開けたかと思えば、空があった。


 石敷きの長い参道が果てしなく伸びて、巨大な鳥居で等間隔に区切られている。
 道の左右に並ぶのは、縁日を想起させる色とりどりの出店。

 小さなものは移動販売車から、大きなものではサーカスに使われる大型テントまで。
 道脇の広場では移動遊園地が展開されていて、観覧車やメリーゴーラウンドが煌びやかに回っていた。

 暮れなずむ紫色の空は雲ひとつ無くて、中天に満月が冴え、ぽつぽつと星が生まれていた。

70 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:45:48.31 ID:BLRBsoCc0

「これが、夜市です」

 ここは異境か?
 これは現実か?

 夜市はかなり賑やかだった。参道は人でごった返し、月夜の下でカラフルな提灯が揺れる。
 万華鏡に放り込まれたような気がして目がくらんだ。

 高垣さんは一歩先んじて、いたずらっぽく忠告した。

「離れないでくださいね。慣れてないうちに迷子になると、二度と出られないかもしれませんから」

 ここがどんな場所であれ、その忠告にはかなりの説得力があるように思えた。
 俺は慌てて彼女の背を追い、人の流れに飛び込む。

71 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:47:33.19 ID:BLRBsoCc0

   〇


 ふと鼻先をくすぐる良い香り。食べ物ではない。これは、花の香だろう。

 見れば参道の脇が花畑になっている。
 一瞬面食らったが、実際には、そう思ってしまうほど多種多様の花が並べられているのだった。


「こんばんはっ」


 中心にショートヘアの女の子が座っている。
 目が合うなり「にぱっ」と笑う彼女に、高垣さんが親しげな会釈を返す。

「こんばんは、お花屋さん。いい夜ですねぇ」
「あ、カナリヤさんも来てたんだ! ほんと、明るくて素敵な夜ですねっ」

 花屋さん……は、この少女のことだろう。

 だけど、カナリヤ?

72 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:48:44.55 ID:BLRBsoCc0

 高垣さんのことだろうか。
 いまいち腑に落ちない俺に、高垣さんが耳打ちする。

「ここではみんな、屋号やあだ名で呼び合う決まりなんです」
「あだ名……ですか?」
「表社会での立場やお仕事に縛られず、みんな平等に楽しむ……。夜市を統括する総代の計らいなんですよ」

「そっちのお兄さんは見ない顔だね。ひょっとして初めてさんなのかな?」

「え、ああ、うん。正直何が何やらわかってないんだけど……」
「そっかぁ。それじゃ、私があだ名を付けてもいいかなっ?」

 人懐っこいにこにこ顔で、花屋さん。
 隣を見ると、高垣さん的にもOKのようだ。
 それならばとお願いしたところ、花屋さんは顎に手を当てて思案を巡らせた。

73 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:49:42.83 ID:BLRBsoCc0

「う〜〜〜〜ん。そうだなぁ……男の人のあだ名って、どんなのがいいかなぁ……」
「あ、そんなに凝ったのじゃなくても大丈夫だけど……」
「鞄を持ってるから……かばんさん……」
「どこかで聞いた気がする」
「カナリヤさんのお友達だから、スズメさん?」
「鳥縛り?」
「げろしゃぶか、フーミン……」
「嫌だ嫌だ嫌だそれは絶対嫌だ」

 あっ。

 と思い立った花屋さん、両手をぱちんと合わせる。

「それじゃあ、クロさんなんてどうかなっ」
「クロ?」
「ほら、着てるスーツが黒いから♪」

 想像以上にストレートな由来だった。
 高垣さんと花屋さん二人して、新たに付いたあだ名を口の中で転がしてみる。

「クロさん、クロさん……うんっ。いいと思うなっ!」
「そうですね。仔犬さんみたいで、かわいらしいわ♪」
「仔犬ってガラじゃありませんけどね……」

 ともあれ、確かにわかりやすい。
 夜市では俺は「クロさん」。郷に入りては郷に従い、そう名乗るとしようか。

74 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:54:16.20 ID:BLRBsoCc0

「さっそく……お花をひとつどうかな、クロさんっ♪」

 ぱ、と両手をいっぱいに広げる花屋さん。
 俺は花には詳しくないが、ちょっと見ないような変わり種がたくさんある。

 海外産とかだろうか? 店主はどう見ても学生だし、趣味の延長でやっているとしてもかなりの幅の広さだ。

「っと、これは……?」

 小さな鉢に植えられた、真っ赤なチューリップみたいな花がある。
 手乗りサイズだ。何故か気になり、促されるまま手に取ってみる。

「それはね、うえきちゃんっていうんだっ」
「うえきちゃん……。チューリップとは違うのかな」
「育てばすごく立派になるんだよっ。二メートルくらい♪」
「そんなに!?」

 しかもよくよく見れば、なんか顔みたいなものがあった。

 育つにつれてはっきりしてくるというが……人面花?
 うさんくさすぎないか?

「うーん……でもそんなに大きくなるなら、置き場所がなぁ」
「30円だよっ」

 やっす。買うわ。

75 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:56:23.04 ID:BLRBsoCc0

   〇


 次に通りかかったのは、所狭しと古書の敷き詰められた四角いテントだった。
 そんな「本の要塞」とでも言うべき空間の中心で、黒髪の女性が黙々と読書している。

「こんばんは、古本屋さん」
「……あ……カナリヤさん。こんばんは……お久しぶりです」

 なるほど古本屋か。
 彼女自身相当な本好きのようで、言葉を交わしながらもページをめくる手が止まらない。

「今日は叔父様は留守なんですか?」
「稀少本を求めて、ストックホルムの古本市へ……。半月は帰ってこないものと思われます」

 ちら、と顔を上げた時、彼女の目元を覆う厚い前髪が払われる。
 綺麗な青色の瞳だった。

 高垣さんの、深い泉の底のような色とはまた違う、夏空を写し取ったかのような鮮やかな青。
 身だしなみにはとんと関心がなさそうだが、かなりの美人だ。それこそモデル部門のスカウトが見たら黙っていないだろう。

76 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:57:34.87 ID:BLRBsoCc0

 その青い瞳がこちらを向いて、ようやく俺の存在に気付いたようだった。

「……そちらの方は……?」
「クロさんといいます。このところ、よくお酒をご一緒してもらってるんですよ」
「そうでしたか……。初めまして……本来は叔父の古書店ですが、不在ですので、私が代理に立っています」
「ああ、これはどうもご丁寧に」

 お互いに、ぺこー。

 なるほど古本はフリーマーケットの定番。
 しかしこの規模となると、本業として表に店を持っていてもおかしくない。

 と、見ている前で古本屋さんはなにやらそわそわしだした。

「……クロさんは……このところ、夢はご覧になられますか?」
「え? ああ……ええと。いや、最近はとんとご無沙汰かな」

 嘘だ。
 近頃、よく悪い夢を見る。
 昔のことを思い出すことが多いからだろう。忘れるよう努めていても、寝ている間の無意識はどうしようもない。

77 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 22:59:37.10 ID:BLRBsoCc0

 古本屋さんはなにやら難しい顔をして、俺の健康状態を案じているようだった。
 まさか勘付かれた? いや……まさかな。

「そう、ですか。……いえ……あまり、良質な睡眠を取られていないようですから……気になってしまい……」

 ぎくっとした。
 曖昧に笑って返す。目の下に隈でもあっただろうか。

「……その。もしよろしければ、これを……お近づきのしるしとお考えください」

 と、ハードカバーの本を渡してくれる。
 財布を出そうとしたが、代金はいらないとのことだった。
 ここは厚意に甘えることとし、表紙をめくって呆気に取られた。

 何も記されていない。

 上等な本らしく紙質がかなり良いものの、これほど分厚いのに肝心の中身がゼロとは。
 これじゃ豪華な自由帳だ。
78 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:03:34.50 ID:BLRBsoCc0

「……夢日記に、お使いください」
「夢日記?」
「何か夢をご覧になり……もしそれが忘れたいものであれば……この本に、書き記してください」
「そうすると、どうなるんだ……?」

 古本屋さんは口元を押さえ、綺麗な目をすっと細めた。

「……悪いようには……いたしませんので……」

 えっ怖っ。
 け、けどまあ、貰っておこう。
 古本屋さんが俺の方を見て「こくん」と小さく喉を鳴らしたのには、気付かなかったことにした。

79 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:34:14.32 ID:BLRBsoCc0

   〇


「カナリヤさんっ」


 と、声がかかる。

 次に出会ったのは、ゆるゆるでふわっとした感じの女の子。
 色とりどりの出店の中で、彼女の店は一段と質素だった。

 小さなグリーンのレジャーシートに、花飾りを施した籠バッグ。細部まで行き届いた手作りのディスプレイ。

 並んでいるのは、小さなフレームに綴じられた写真の数々だ。

「あら、写真屋さん。今夜はお店を出していたのですね」
「ええ、なんだか良いことが起こるような気がして……」

 トイカメラを使ったようで、写真自体はチープなものだが、その一枚一枚に不思議な魅力があった。
 路地裏、空、電柱、菜の花畑、小さな黒猫、ピースサインの子供たち……それぞれが本物のような空気感を秘めている。

 まるで彼女が出会った瞬間を、そのまま切り取って持ってきたかのような。

 その中心で、彼女の笑顔は陽だまりのようだ。
 見たところ女子高生くらいだろうか。ずっと年下のはずだが、えもいわれぬ安心感と包容力をもたらしてくれる。

80 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:35:42.56 ID:BLRBsoCc0

「予感、当たってました。久しぶりにカナリヤさんと会えましたから」
「あら、嬉しいわ。ありがとう♪」

 こっちも自己紹介はしておくべきだろう。

「どうも、ええと……クロです」
「今日初めてこちらに来られたんですよ」
「わぁ、そうなんですか!」

 ぱぁっと写真屋さんの表情が華やぐ。人懐っこい仔猫みたいだなと思う。
 彼女は何か思いついたようで、首から提げていたレザーケース入りのトイカメラを掲げる。


「それじゃあ記念に一枚どうですか? カナリヤさんとクロさん、二人並んで♪」

81 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:37:07.34 ID:BLRBsoCc0

 記念……か。確かに悪くはないかもしれない。
 というか選択の余地が無かった。
 おっとりしているように見えてこうと決めればグイグイいくタイプらしく、写真屋さんはいそいそと二人を並べさせ、
 さっそくカメラを構えてしまう。高垣さんも乗り気なようだ。

「それじゃ撮りますよ。笑ってくださーいっ」

 笑うといったって。
 戸惑って、つい隣の高垣さんを見てしまう。彼女は小首を傾げ、鷹揚に「どうぞ」というようなジェスチャーを見せた。

 ……頑張ってみるか。


「――ぱしゃりっ」

 いざ撮られてみれば、まあなんともぎこちない面構えになってしまった。
 そういう形に表情筋を使ったのは物凄く久々な気がする。
 一方で高垣さんは流石に撮られ慣れしていて、笑顔もポーズも、横から見惚れるくらい決まっていた。

82 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:38:43.78 ID:BLRBsoCc0

 ……これ、俺の存在が邪魔じゃないか?
 高垣楓のプライベートポートレートとか、出すところに出せば結構な値が付くぞ。

「うん、すてきなツーショットですっ」

 マジでか。

「現像できたらお渡ししますね。楽しみにしていてください♪」

 それはすなわち、「また会いましょう」という約束でもある。
 なんとなく、そうか、と思った。彼女が写真を好きな理由に。

 景色を切り取るだけでなく、こうして交流して、形に残して、それを渡して。

 そうした人と人、人と物との繋がり自体が、この子はきっと好きなのだろう。

83 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:39:53.38 ID:BLRBsoCc0

   〇


 他にも色々な店があった。

 テントとは思えない本格的な洋菓子店。年代物を取りそろえたレコード店。色とりどりの古着屋。
 屋台食堂、おもちゃ屋、レトロゲーム屋、情報屋(?)、着ぐるみ屋(??)――などなど。

 宝石箱をひっくり返したような色どりの中を泳ぎ渡り、高垣さんは参道の果てを指差す。

 そこは境内のような広場で、多くの人が集まり、それぞれの時間を楽しんでいる。
 中心には馬鹿でかい桜の木があってまた驚かされた。


「満開……ですね。もう夏なのに……?」
「あの桜が、夜市の中心です。――少し挨拶をしたい人がいるんです」


 桜の下には卓と椅子が並んでいた。
 小さくは一人席、大きいものだと六人掛けのテーブルが配置され、人々が桜吹雪の中でお茶を飲んでいる。

84 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:41:24.73 ID:BLRBsoCc0

 その最も奥まった席に、一人の女性が座っていた。


 蓄音機から流れるオールディーズに耳を傾け、下世話なパルプ雑誌を学術的目付きでめくる女性。
 片手のワイングラスでは鳩の血色の液体がゆらゆら揺れる。

 大胆にはだけた胸元で、宝石のペンダントが上品に光っていた。

 楓さんは彼女の前に立って居住まいを正す。
 ふわっと風の揺れる気配を感じて、女性は眼だけでこちらを見上げた。


「ご無沙汰しております、総代」

85 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:42:40.21 ID:BLRBsoCc0


 女性――「総代」は顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。


「言ったでしょう楓ちゃん? 私とあなたの間で、あだ名は無しだって」
「そうでしたね。ごめんなさい――志乃さん」


 志乃、と呼ばれたその女性は、続いて俺に視線を移す。

 数千年の時を超えた琥珀のような色の瞳は、俺の頭の中までも見通している気がした。
 まだ何も話していないのに、彼女はこう言った。


「はじめまして。あなたが、楓ちゃんの新しいお友達ね?」

86 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:45:51.92 ID:BLRBsoCc0

   〇


 そこからがもう凄かった。
 二人差し向いに座り、ものすごいペースで酒を飲み交わす。

 ビールにワインに日本酒に焼酎……どこからこんなに出るのかというほどの酒量を、
 二人はまるで当然といった顔で飲み干してのける。

 こっちはついていくだけで精一杯だ。
 高垣さんは俺と飲む時にはセーブしていたらしいという恐るべき事実が明らかになった。

「――で――だから――」
「そうですね――は――から――」
「――――なの――――するのは――」

 途切れ途切れの会話を追うこともできない。机に突っ伏しても重力を感じなかった。
 辛うじて空けた最後のグラスを片手に、重い眠気にも似た酩酊感に身をゆだねる。

 不意に目の前に、淹れたて熱々のコーヒーが置かれた。
 それでいくらか意識が引き戻され、苦労して上体を起こすと、マスターが気遣わしげに俺を見下ろしていた。

87 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:47:52.41 ID:BLRBsoCc0

 そう、その人は「マスター」と呼ばれていた。

 多分喫茶店のそれをイメージしているのだろう。
 彼女は桜舞う真夏のオープンカフェを一手に引き受け、思い思いの時間を楽しむ人々にドリンクや軽食を提供しているのだった。

 もっとも、高垣さんと柊さんは酒しか飲まないのだが。
 もしかしてマスターは無限の酒樽でも持っているんじゃないだろうか。


「大丈夫?」
「ああ……すみません。コーヒー、いただきます……」
「二人とも普通のペースじゃないから、ついていこうとしたら駄目よ。それを飲んで一息ついて」


 ブラックのまま一口含むと、さっきよりは視界がクリアになる。

 改めてマスターと目を合わせた時、考える前に言葉が口をついて出た。


「……どこかで、お会いしました?」


88 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:49:08.76 ID:BLRBsoCc0

 対するマスターは首を捻るばかり。

「……そうかしら?」
「いや、すみませんなんでもないです。あーいかんいかん酔ってるな……」

 別のテーブルからお呼びがかかる。マスターはそちらに返事して、

「あまり無理をしないでね」

 一言そう言い含め、接客に戻っていった。

89 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:50:00.64 ID:BLRBsoCc0

 気付けば高垣さんと柊さんがこっちを見ていた。

「な、なんですか」
「『どこかで会ったか』……なんて、ずいぶん古典的な手を使うのね?」
「移り気な人ですね。そんなだと、これからクロうしますよ……ふふっ」

 さっそく人のあだ名をダジャレに使われた。
 なにやら急にばつが悪くなって、むっつりとコーヒーを啜る。
 マシになったとはいえまだまだ酔っている。そんな男一人をよそに、二人はまた新たなグラスを手に取った。

「……話はわかったわ。ここは私の庭だもの。ここで起きることに、何の心配もいらないわよ」
「ありがとうございます。やっぱり、志乃さんと話していると安心します」

 俺がくたばっている間に大事な話をしていたのだろうか。
 どのみち知る由もないのだが。



「代わり、といってはなんだけれど」

 グラスの中にワインを転がし、柊さんはひとつ提案する。


「久しぶりに、楓ちゃんの歌が聴きたいわ」
 

90 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:51:19.26 ID:BLRBsoCc0
 
 歌?


 提案を受け、高垣さんは困ったような顔をした。

「歌は……もう長いこと、歌っていませんから」
「忘れたわけではないでしょう?」

 この人は、歌を歌っていたのだろうか。
 そんな話は聞かない。少なくともモデルは沈黙を是とするものだ。

 着飾られ、ポーズと表情を作り、写真に納まる。
 モデルとは切り取られた存在だ。束の間の一枚絵を残し、そこで完結する。
 まるでマネキンのように。そこに音は要らない。

「……俺も、興味があります」

 これも酔いのせいか、思いつくままに言ってしまっていた。
 高垣さんは目を伏せ、しばし何かを考えているようだった。

91 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:53:48.21 ID:BLRBsoCc0

「夜市の歌姫が空席で、寂しいのよ。クロさんもこう言っていることだし……どうかしら?」

 思いのほか長い時間をかけ、高垣さんはグラスのワインを飲み干して。

 志乃さんの頼みでしたら――と、重い腰を上げた。


 歩み出て一礼。柊さんの小さな拍手。


 ふたたび顔を上げた時、高垣さんの顔付きは変わっていた。


 ほのかに赤く緩んだものから、打って変わって静謐な表情に。
 漂う酒気や周囲の喧騒を余さず吸い込むように、胸元を小さく膨らませて。

92 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:54:40.59 ID:BLRBsoCc0




 最初の一声で、酔いが醒めた。




93 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:55:30.59 ID:BLRBsoCc0



 彼女の歌には「色」があった。



 たとえば、夜気を震わす声の波紋。応じて生まれるささやかな風。揺れる花弁と、たゆたう光の提灯たち。

 声に振り返る他の客、耳に染みて広がる笑顔、小さく唱和される童謡のワンフレーズ。

 形を持たず、目にも見えず、だが確かに存在する。


 彼女を中心に波及し、何もかもを塗り替える清(さや)かな音の色が。


94 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/18(火) 23:58:52.82 ID:BLRBsoCc0


 誰もがそこにいて、声を聞いていた。

 グラスを傾ける柊さんも、カップを磨くマスターも、ハーブティーを楽しむ花屋さんも、文庫本をめくる古本屋さんも、
 野良猫と遊ぶ写真屋さんも、大人も子供も、一時それぞれの手を止めて、すべての意識を一ヶ所に注ぐ。

 桜の巨木の根元に立つ歌姫は、今やこの明るい夜の中心だ。

 
 世界が彩られる音に灼(や)かれて、俺はただ、呆然としていた。


 歌い終えて頭を下げる高垣さんに気付きもしなかった。
 今度こそ破裂する万雷の拍手で我に返り、コーヒーがぬるくなっていることにようやく気付く。



 顔を上げ、はにかんだような顔をする彼女は、すっかりいつも通りの高垣さんだった。

95 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:00:28.34 ID:H28+Nx7V0

   〇


「カナリヤというあだ名は、彼女が歌うのをやめたことから付いたの」

 人々に取り囲まれる高垣さんを見ながら、柊さんは小さく言った。

「口を噤んで、一羽きりで自由に飛ぶ鳥。彼女がそれでいいならと、何も言わなかったけれど……」

 また琥珀色の眼がこちらを向く。
 何もかも見透かされるようでいて、奇妙に安心する不思議な瞳だった。

「実のところ少し驚いているの。あの子がここに人を連れてくるなんてこと、無かったから」

 俺はといえば、頭の芯が余韻でまだ痺れていた。
 カップに残ったコーヒーを一気飲みして、かねてから気になっていたことを勢いのままに問う。



「あの人は何者なんですか? 空は飛ぶわ、こんな場所は知ってるわ、これじゃまるで……」

「楓ちゃんは人間よ。私が保障するわ」


96 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:02:29.68 ID:H28+Nx7V0

 柊さんは即答した。
 と、弱りきった高垣さんの声がかかる。
 見ると感激した他の客に殺到され、押し合いへし合い握手したりハグされたりの彼女がこちらに助けを求めている。

 たくさんの人と接するのは苦手らしい。柊さんはそれさえも楽しんでいるように、俺を促した。


「行ってあげて。けどあまり深入りしてはいけないわよ」


 言葉の意味はよくわからなかった。
 気にはなるが、高垣さんを放っておくのも憚られたので、彼女のもとに向かうことにした。
 黒山の人だかりをかき分けて手を伸ばすと、藁をも掴むように握り返してくる。

 ぐいっと引いて救出するや、高垣さんは俺ごと桜のてっぺんに飛び上がってしまう。

97 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:03:23.58 ID:H28+Nx7V0

「――ああ、びっくりした」

 やんややんやと囃し立てる酔客たち。
 桜の雲の下には、参道で会ったお店の子たちがちらほらいて、こちらを見上げていた。
 写真屋さんが小さく手を振るのが見えた。

「凄かったです」

 我ながらもうちょっと褒める語彙が無いものかと思うが。

「ありがとうございます。歌うのは久しぶりでしたが――」

 もみくちゃにされ、乱れ気味の髪を手櫛で直す高垣さん。
 歌うことよりも人に囲まれることに緊張したと見えて、息を整える姿はいつもの彼女らしからぬものだ。

「たまには、いいのかもしれません」

98 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:04:16.16 ID:H28+Nx7V0


 彼女は自分の歌を、たまにやる余興程度のものだと思っている。

 とんでもない。

 この人なら、と俺は思う。


 もしかしたらこの人なら、永遠でいられるのではないか。


 脳裏に蘇るのは、連なる人形たちの悪い夢。


99 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:18:00.33 ID:H28+Nx7V0

  ◆◆◆◆


「わかってるわ。最悪の場合、私が引き受けるとしましょう」

「ごめんなさい。私だけでは、きっと制御できませんから……」

「見ていればわかるわよ。楓ちゃんのそんな顔を見るのは久しぶりだもの」

「……あの人は、きっと迷っているんだと思います」

「怖いのね?」

「…………」

「いいの。長い付き合いだもの。あなたのことは、わかるつもりよ」

「……お願いします。もし……もし私が、駄目になってしまったら」


「ええ。夜市総代の名において、あなたと彼を遠ざけることを誓うわ。……永遠にね」



  【 夏 ― 終 】

100 : ◆DAC.3Z2hLk [sage saga]:2019/06/19(水) 00:19:15.97 ID:H28+Nx7V0
一旦切ります。
所用につき、また何日か更新が滞ることになると思います。すみません。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/19(水) 02:50:29.77 ID:q9yBGZ22o
一旦乙です
マスターはあいさんかと思ったけど、この口調からすると喫茶店絡みならあの人かな
名前からすると前回の夢の話とも連動しそう
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