もしもし、そこの加蓮さん。

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158 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:15:01.51 ID:XPAMg3p00

ぐぬぬと屈辱に身を震わせつつ、
ベッドフレームとマットレスの隙間に放り込んでおいたそれを明け渡します。
凛と奈緒はへぇ、ほぉ、ふぅん、なるほどね、ははぁ、
と好き放題に呟きながら笑みを浮かべました。

破門の取り消しを請うた皇帝はこんな心持ちだったのかなと、
加蓮は遠く中世に思いを馳せました。

 「違うから」

 「何も言ってないぞ」

 「丸くなったね加蓮」

 「違う」

 「へへへ……こちとら卯月とか美嘉に訊いて知ってるんだからな。尖ってた加蓮」

 「ぐぬぬ」

病につけ込んでからに、と加蓮は自身の無力さを嘆き、
同時に奈緒いじりネタ貯蔵庫の具合を確かめます。

まぁまぁストックはあったので、少し気分は晴れました。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:24:58.00 ID:XPAMg3p00

奈緒がくしゃみをして、
やべ、移ったかな、などとのん気にティッシュを拝借していると、
控え目なノックが響きました。

 「お邪魔しまーす。良かったら甘いもの、いかが?」

 「わー! いいんですか? やったぁ!」

 「こちらこそお邪魔してます。すみません、お気遣いを」

 「お母さん! こいつら猫! 猫被ってる! 特大の!」

 「もう。友達を悪く言うものじゃないのよ、加蓮」

 「いやいや加蓮には世話になってるんで。な、凛」

 「ね、奈緒」

 「あら……素晴らしいお友達じゃない。大事にするのよ?」

 「猫ですらない……狸ぃ……」

レッスンの成果が遺憾無く、偏りを伴って発揮された瞬間でした。
ドアが閉められるのを見届けると、奈緒は加蓮へ振り返ってウィンクをぱちり。
凛は、まだドアを眺めていました。

 「女狐め……」

 「猫なのか狸なのか狐なのかはっきりしてくれよ」

 「はぁ……まぁいいや。ケーキ食べよ」

 「それもそうだ。おーい凛」

 「加蓮」
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:33:54.24 ID:XPAMg3p00

凛の口調には全く遊びがありませんでした。
びくりと震えた奈緒を尻目に、加蓮の瞳をじっと見つめます。

 「私達、帰った方がいいかな」



 「……は、え? 急に何言って」

 「部屋を出るとき、泣いてた。加蓮のお母さん」

最後まで言葉を紡げずに、奈緒が息を飲みました。
加蓮の眉が綺麗な半月を描き、それから徐々に緩んでいきます。

 「あー……かもね」

 「かもね、って……加蓮」

 「あ、ううん。違うよ、凛。たぶん……嬉しかったんじゃない?
  最近はともかく、小さい頃、私ってほんっと友達居なかったからさ」

 「はっ?」

固まっていた奈緒が口だけ動かしました。

 「私の部屋に来てくれた友達も、二人が初めて。
  だから……まぁ、親不孝じゃなくて安心したんじゃないかな」

 「へぇ……奏とか美嘉ともよくつるんでた気がするけど」

 「最近の話じゃなくて、ずっと。生まれてから」
161 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:41:29.65 ID:XPAMg3p00

凛の表情は、加蓮も初めて見るものでした。
困ったように言葉を探しているような、どうしたらいいか迷っているような。
そんな彼女を前に、加蓮はあれ、まだ話してなかったんだっけ、と首を捻ります。


決して身の上話を名刺代わりにしている訳ではありません。
ですから加蓮自身、友人達のうち誰にどこまで話し、
誰にどこまで話していないのか、はっきりとは覚えていません。

なにぶんユニットのメンバーですから、
体力無いんだ、くらいの話はしたかとばかり思っていたのですが。


ぱん、ぱん。


加蓮が手を二回、叩きました。

 「はい、トラプリのみんな集まってー」

 「なに、急に」

 「名作劇場、加蓮ちゃんデレラが間もなく開幕しまーす」

 「ホントに何なんだ。語呂悪いし」

 「まぁまぁ。むかーしむかし、ある病室に――」
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:50:38.95 ID:XPAMg3p00

 ◇ ◇ ◆


割と、加蓮は寝具にこだわる方で、両親はそれに輪を掛けていました。
マットレスはシーリー上位のラインナップ品を買い与えていましたし、
枕は何年か前にお店までオーダーで作りに行ったものです。


なので、パジャマもなかなか上等なものを愛用しているのですが、
現在進行形で台無しになりつつありました。

 「まもっ……守るからぁ……!
  ぜったいぜったい、ぜったいっ、大丈夫だからなぁっ……!」

 「はいはい。お姫様をしーっかり守ってねーよしよし」

 「撮るよ」

 「あ、待って凛。動画、動画」

 「オッケー」

トライアドプリムス最年長のお姉さんが、
加蓮の胸でぐずぐずのぼろぼろに泣きじゃくっていました。
この様子だとあと一時間は意地でも剥がれそうになく。

加蓮はここぞとばかりにもっふもふの感触を堪能し、
凛はここぞとばかりにネタのストックへ余念がありません。


トライアドプリムスの結束感がより強固なものへと成長を遂げた瞬間でした。
163 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:55:03.07 ID:XPAMg3p00

 「生きてぇ……」

 「うん。そりゃもう生きるよ。すっごいよきっと」

 「加蓮んん……」

 「はいはい。北条加蓮ですよー」


そのままだと本当に一時間は粘りそうだったため、
美味しそうなケーキが乾ききってしまわない内にと、
加蓮と凛はいっせーので奈緒を引き剥がしました。
べりっと音が聞こえそうなくらい、しっかりとくっついていました。

 「おいしい?」

 「うん……」

 「うんうん。たーんとお食べ」

まだしゃくり上げている最年長のお姉さんの口に二人がかりでケーキを放り込みます。

甘いものには魔法が掛かっていますから、
三人仲良くケーキを食べ終える頃にはもう、奈緒も何とか平静を取り戻していました。


そしてベタベタになったパジャマを指で指し示します。
奈緒がごめんと呟いて、加蓮は貸し一つねと返しました。

基本的に、加蓮の貸しは高くつきます。
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:04:47.97 ID:qTjhoOKq0

 「体力が、って最初の頃に言ってたの、そういう事だったんだ」

 「ん。まぁ、我ながら成長したとは思うんだけどね。
  トラプリでおっきいライブって初めてだったし、はしゃぎ過ぎちゃった」

 「無理はダメだからな」

 「はいはい」

 「はいは一回」

 「はーい」

会話が途切れ、加蓮は再びベッドへ身を預けました。
心地良い時間が流れてゆきます。

 「こうやって寝てると、やっぱり思い出しちゃうんだ」


誰に向けるでもない呟きが、部屋に溶けていきます。
目の赤らんだ母が差し入れてくれたアールグレイに、
凛は砂糖を溶かして、こくり。

一方の奈緒はずっと腕を組んで何事か考えています。
むむむと唸ったかと思えば、得心したように一度、頷きました。
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:11:01.12 ID:qTjhoOKq0

 「加蓮、凛。今週……は無理か。再来週の土曜、空いてる?」

 「ちょっと待って……私は空いてる。加蓮は?」

 「んー……私も大丈夫」

 「なぁ加蓮。遠足って行った事あるか?」


遠足。

随分と懐かしい単語でした。
頭の中で秘密の加蓮ちゃんアルバムを取り出してめくります。

 「あー……社会科見学ならあるけど、遠足らしい遠足は……
  確かに無いかな。小学校の低学年とか、家と病院行ったり来たりだったし」

 「なら行こう。遠足」



 「……へ?」

 「いいね」

凛がノッて、加蓮は死ぬほど驚きました。
ついさっきの生きるよ宣言が危ぶまれるくらいびっくりしてしまいました。
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:16:22.17 ID:qTjhoOKq0

凛ってそんなキャラだったっけと零す暇も無く、
話が目の前でトントン拍子に転がっていきます。

 「おやつはどうする? 税込み?」

 「加蓮は初心者だし、今回は税別三百円ルールで」

 「よし。しおりはあたしが作ってくる」

 「バナナはどうする?」

 「そこ毎回解釈に悩むんだよなぁ……」

よく分からない取り決めを交わす凛と奈緒を前に、
完全に置いてけぼりにされてしまいます。


加蓮は何を言ってやろうか少しだけ迷って、
とりあえずパジャマを替えようとベッドから這い出すのでした。
167 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:20:48.82 ID:qTjhoOKq0

 ◇ ◇ ◆

 「お母さん」

 「あら、着替えたの?」

 「ん。これ、洗濯機でいい?」

 「手洗いするから別にして頂戴」

 「はーい」

 「お菓子でも持って行こうか?」

 「大丈夫。そろそろ帰るって」

 「そう。いつでも連れて来ていいのよ」


母は一階のリビングに居ました。
父のシャツへ丁寧にアイロンを掛けながらにこやかに笑っています。


言われた通り、脱衣所の洗濯かごに脱いだパジャマを放り込むと、
加蓮はまた居間へと舞い戻ります。
自室ではなく居間へ顔を出した娘に、母は少し首を傾げました。
168 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:25:23.33 ID:qTjhoOKq0

 「あら? かご、いっぱいだった?」

 「いや、空いてた……けど」

 「……加蓮?」

何か言い淀むような様子に、母はアイロンのスイッチを切ります。
視線を泳がせ、口を開いては閉じる加蓮を、何も言わずにじっと待ってあげています。

 「あのさ、お母さん」

 「なに? 加蓮」

 「……今度、再来週の土曜……遊びに」

尻切れトンボが飛んで行きました。
鼻先にちょこんと留まって、それでも母は待ちます。

いつの間にか俯いていた視線。
何度も深呼吸を繰り返し、加蓮は勢いを付けて顔を上げ、
頬を真っ赤にしながら言いました。


 「遠足っ! 凛と奈緒と行ってくるから……お弁当、作って!」
169 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:29:31.85 ID:qTjhoOKq0

トンボはまたどこかへ飛んで行ってしまったようです。
二人から強引に背負わされた任務を終えた解放感と、訳も分からぬ羞恥心に挟まれ、
加蓮はすっかり息を荒げていました。

目の前で震える娘の姿と、先ほどの言葉とを、ゆっくりと噛みしめて。


母は、やっぱり笑うのです。


 「卵焼きにほうれん草、入れる?」

 「……入れるっ」


それだけ絞り出すと、加蓮は逃げるように二階へ駆け上がって行きました。
それから勢い良くドアが開閉する音と、姦しく何やら言い合う声。


また湿ってしまった父のシャツへ、母はもう一度アイロンを掛けました。
170 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:37:38.28 ID:qTjhoOKq0

 ◇ ◇ ◆


 「しおり配るぞー」


お尻から伝わるバス特有の重たいエンジン音。
行楽の秋と呼ぶに相応しい陽光を車窓の外に眺めながら、
奈緒は二人に一枚ずつ紙を手渡しました。


『遠足のしおり・北条加蓮スペシャル』と題された、
もはや手作り感以外は伝わってこないその旅程表には、
本日のスケジュールがそれはもう大雑把に記載されています。

午前と午後に何かをするよという頼りない情報と、
おやつは三百円までと太字で記された注意事項と、
後はところどころに辛うじてフライドポテトだと分かるイラストが散りばめられているだけでした。


一瞬。一瞬だけ、ともかく何か言ってやろうとしました。
しおりから視線を上げると、にこにこ笑顔の奈緒がこちらを見つめていて、
それで加蓮は何も言えなくなってしまいました。
隣の凛が苦笑を零します。

ブザーと共に乗降扉が閉まり、路線バスが走り出しました。
171 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:41:56.20 ID:qTjhoOKq0

遠足と言えば、バス。

凛と奈緒の共通認識は有り得ないほど強固で、
電車でもいいよという加蓮の案は敢えなく却下されたのです。
観光バスを利用する手もありましたが、
小回りが利かないだろうという奈緒の提案で路線バスにお世話になる事となりました。


三人は最後部の座席に陣取って、
景色のよく見える窓際を加蓮へ譲りつつ、東京観光を楽しんでいます。

 「案外、こうやって都内巡る機会って無いよね」

 「確かに」

 「え、そうなのか? あっちこっち行ったりするもんだと」

 「いつでも行けるって思うと逆に、ね」

 「奈緒も意外に夢の国、行かないんじゃない?」

 「……なるほど」
172 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:46:14.55 ID:qTjhoOKq0

路線バスですから、小刻みに停車を繰り返します。
その度にアナウンスされる名前に感心したりしていると、急に奈緒が声を潜めました。

 「凛、加蓮」

 「ん?」

 「ちょっと耳貸して」

言われるがまま、加蓮と凛は奈緒に耳を寄せます。
奈緒はきょろきょろと周りを確認してから、水筒のキャップを捻りました。


 「へへ……水筒にジュース入れてきちゃった」

 「っふ」


あまりの下らなさに凛が吹き出しました。
凛の反応に気を良くした奈緒がフタに注いだジュースを加蓮に勧めます。

オレンジの香りが鼻孔を抜けて、
なるほどこれが遠足の味かと、加蓮はひとり納得するのでした。
173 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:53:49.36 ID:qTjhoOKq0

 ◇ ◇ ◆


 「あ、見た事ある」

 「だろ?」

 「コートジボワール的な」

 「サッカー強い所でしょそれ。コルビジェね」


美術の教科書にも載っている有名な外観。
国立西洋美術館を前に、加蓮はへぇと感心していました。

常設展が無料の第二土曜日という理由もあるのでしょう。
加蓮たちのような年代の少女は少なく、親子連れを中心に賑わっていました。

 「と言うか、小学校の遠足で美術館って、『ぽい』の?」

 「『ぽい』と思うよ。私も三年生か四年生で行った記憶あるしね。奈緒は?」

 「あたしもある。ほら、美術館っておとなしくしなきゃいけないだろ?
  団体行動とかを学ばせようとするんじゃないかな」

 「へー」

目の前を小さな女の子が駆けて行き、
父親らしき男性にやんわりと注意されていました。

凛と奈緒は何となく加蓮の方を見て、
なに、と呟く加蓮に揃って首を振るのでした。
174 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 01:00:13.98 ID:qTjhoOKq0

 「うおー。この果物籠の絵、すごいな」

 「凄いね……さっきもぎって来たのを盛ったみたい」

 「三百五十年前の絵だって。食べるのはやめといた方がいいかもね」


前説となる歴史展示を抜けると、
最初のコーナーは中世から近世にかけての絵画がメインとなっていました。

大きさも額縁の意匠も様々な作品の数々を、
三人はマナーモードで鑑賞していきます。


ふと、凛が気付きました。

 「……何かさ、宗教の絵が多くない?」

 「あ。あたしもソレ思った。ほとんどそうだよな」

 「この頃のヨーロッパは教会が生活の中心だったからね。
  文字の読めない人も多かったし、絵は大衆ウケが良かったんじゃない?」
175 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 01:07:44.91 ID:qTjhoOKq0

 「……」

 「……」

 「……何? 黙り込んで」

 「いや……なんか、加蓮が真面目な事言ってると、な」

 「ね」

 「ねじゃない。凛はともかく奈緒は世界史で習ったでしょ」

呆れるように加蓮が首を振ります。
凛と奈緒は視線を交わし合って、小さく首を傾げました。


順路に沿って進み、通路の先を曲がった所でした。
気付いたように加蓮が立ち止まります。

 「あれ?」

 「ん。どうかした?」

 「いや、ここだけ一つの部屋みたいになってるなって」

 「お、ホントだ」

加蓮の言葉通り、これまでの展示されていたのは通路といった趣でしたが、
この一角だけは少し違っていました。
176 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 01:15:01.78 ID:qTjhoOKq0

 「ここが目玉展示みたいだね」

凛が呟き、何人かのお客さんが集まっている一角を指し示します。
二人も凛の背中について行って、その作品の前で立ち止まりました。


クロード・モネの代表作の一つ、『睡蓮』。
池に浮かびながら描き上げたかのような傑作です。

 「お仲間さんだ」

 「仲間?」

 「蓮仲間でしょ」

 「あー、なるほど」

奈緒が苦笑を零す隣で、加蓮は睡蓮をじっと見つめていました。


青い池へ静かに浮かぶ、筆致も鮮やかな葉と花。
晩年の彼が妄執とも呼べる程こだわった景色。

 「綺麗だね」

 「私に似てね」

 「自信凄いな」


三人は肩を並べて、しばし名画の鑑賞に勤しみます。
177 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 01:23:54.11 ID:qTjhoOKq0

 「あ、これも知ってる」

 「ロダン……あれ、ダンテさんだっけ?」

 「ロダンで合ってるっぽい。地獄の門……物騒だね」

内部展示の見学を終え、三人は再び外へと戻って来ました。
前庭に幾つか並ぶ彫刻のうち、ひときわ目を引く門の前で立ち止まります。


オーギュスト・ロダン作、『地獄の門』。
ギベルティの手による通称『天国の門』を参考に作られたとされる、
世界でも一、二の知名度を争う扉です。

 「で、あの上の方に座ってるのが『考える人』だと」

 「へぇ……意外にちっちゃいんだね」

 「でっかいのもあるみたいだし、行ってみるか?」

 「いいね。加蓮、向こうに……加蓮?」

凛の呼び掛けも届いているのか、いないのか。
加蓮は自分の背丈を遥かに超える巨大な扉を、何も言わずに見上げていました。


凛は何故だかもう一度声を掛けようとするのが躊躇われて、
加蓮の細っこい背中を見つめるだけでした。
178 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 01:32:26.07 ID:qTjhoOKq0

やがて、細く長い息と共に加蓮の肩が緩みました。
くるりと振り向いて、こちらを眺めていた二人に笑みを浮かべます。

 「で、『考える人』だっけ? 行こいこ!
  あ、三人でおそろの写真撮ろうよ。あのポーズで」

 「あ、あぁ……」

加蓮が戸惑う奈緒の腕を引っ張ります。
引き摺られるように歩き出す二人の背を見守って、凛はちらりと振り返りました。


そこには見る者を圧倒するような、異界への門が一つ。


 「……考える人、か」

 「りーん! 早くー!」

 「ごめん。いま行く」


小さく呟いて、凛も二人の後を追いました。
179 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 10:34:32.08 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆

代々木公園や新宿御苑と並び、都内でも有数の規模を誇る上野恩賜公園。
その芝生広場の一角に、三人の女の子がレジャーシートを広げています。

芝生にレジャーシートを広げてやる事と言えば二つに一つ。
お昼寝か――お弁当です。


 「いっせーの」

 「ん」

 「ほい」

加蓮たちは一斉にお弁当箱を開けました。
現れた宝物は三者三様。
お互いのお弁当箱を覗き合い、感心したように頷きます。
180 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 10:46:00.83 ID:GVB5f6680

 「加蓮の、気合入ってるな」

 「凄いね。素直に」

加蓮のものは、まさにお弁当と呼ぶに相応しい出来栄えでした。

タコに化けたウィンナーにはつぶらな瞳。
ご飯の上には鶏そぼろと解し鮭が綺麗に散らされていて、
ほうれん草入りの卵焼きと、
器用にカプレーゼされたプチトマトが華を添えています。


 「凛のはきっちりしてるね」

 「健康になりそうだな」

凛のお弁当は加蓮のものほど彩り鮮やかではありませんが、
筍の煮物や豆腐のチャンプルーなど、
栄養バランスのしっかり整えられた品目が詰められています。

アイドルたるもの身体が資本。
しっかり食べて、真っ直ぐに育てそうな、良いお弁当でした。
181 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 10:53:11.23 ID:GVB5f6680

 「奈緒のは……」

 「……どしたの?」

二人が遠慮がちに首を傾げたように、
奈緒のお弁当はお世辞にも良い出来とは言えませんでした。


少し焦げ付いているミニハンバーグに、
米を詰めすぎたお蔭でひしゃげてしまった日の丸。
おかずのスペースは揺れで寄ってしまったのか、
小松菜の胡麻和えが申し訳無さそうに縮こまっています。

 「へー。頑張ってるなぁ」

 「頑張ってる……?」

 「あぁ。実はウチのお母さん、ちょっと実家に寄っててさ。
  お弁当作ってくれ、って頼んだら、試しにお父さんに作ってもらったら? って」

 「じゃ、これ、お父さん作?」

 「へへ、たぶん力作だな」

父の四苦八苦する姿を想像し、奈緒が表情を崩しました。
182 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 10:59:56.57 ID:GVB5f6680

 「仲良しだねー、神谷家」

 「普通だろ」

 「あれ……奈緒、このタッパーは?」

 「ん? まだあったのか」

凛が片手で拾い上げたタッパーを振ります。
奈緒が開けるよう手で示すと、二人にもよく見えるよう、ぱかりと蓋を開けました。


 『あ』


鎮座していたのはスライスされたバナナ。
三人は顔を見合わせてから、声を上げて笑うのでした。
183 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 11:11:21.37 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆


 「え、すご。たかっ」

 「おおー……」


都民が行かない東京名所の代表格、日本電波塔――通称、東京タワー。
地上三百メートルを超える威容の足元で、三人は呆けたように天を仰いでいました。

 「なぁ、本当に来た事無いのか?」

 「無いね」

 「うん」

 「それでも都民か……? 大人三枚で」

 「そう言われてもね」

 「うん」

実りに乏しい会話を繰り広げつつ、奈緒が二人に展望チケットを手渡しました。
184 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 11:28:52.06 ID:GVB5f6680

残念ながら、本日は風の影響でトップデッキには立ち入れないようです。
観光客でいっぱいの、凝った照明のシャトルエレベーターにしばし揺られているうち、
気圧差に耳が詰まってきます。

到着したタイミングで隅を向いて耳抜きをしてから、
加蓮は展望デッキへと足を踏み出しました。


 「すげー……」


文字通りの一望。
無秩序に広がるスプロールはもちろん、
南方面は午後の陽にさざめく東京湾が眩しいくらいでした。

子供たちは我先にと窓へ貼り付き、
もっと小さな子は父母に抱えられて呆然としています。


 「見ろよー加蓮! 人が米粒よりちっちゃい!」

もふもふの奈緒も貼り付いていました。
凛と苦笑しながら駆け寄って行き、三人並んで東京の街を眺めます。
185 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 11:46:35.92 ID:GVB5f6680

どこまでも広がる灰色は、人類の偉大さと愚かさを同時に見せつけてくるようでした。

所々に見える緑色を見つけては、加蓮がほっと胸を撫で下ろします。
北条加蓮の公式カラーになってからも、なる前も、彼女は緑がお気に入りでしたから。

 「私の家、見えるかな?」

 「あっちだと思う」

 「とすると、凛の家はあの辺かな」

 「じゃあウサミン星は向こうだね」

 「言っとくけどあたしは普通に千葉に住んでるからな」


ぐるりと展望台を一周する途中、ふと見ると床がありませんでした。
慌てて飛び退ろうとして、
四角い強化ガラスがしっかりと填め殺されているのだと気付きます。

 「うわー……何だこれ。下見えてるじゃん……凛、乗れるか?」

 「いいよ。はい」

 「躊躇とか可愛げとか無いのかよ……」

 「奈緒が乗れって言ったんでしょ」
186 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 12:09:26.71 ID:GVB5f6680

ひょいと乗ってみせた凛に奈緒は軽く引いていました。
譲るように凛が場所を開け、不敵な視線で加蓮を挑発します。

 「どうぞ」

 「……どうも」

首を伸ばしてガラスの下を覗き込みます。
ほとんど胡麻粒にしか見えない点が、あちこちへ行き交っていました。
落ちれば命は無い高さですが、落ちる事はありません。


そう、落ちる事は無いのです。
強化硬質耐熱ガラスは一トンを超える荷重にも余裕を保って耐え得る計算ですから。

ただ、そこは人の性。
もしかしたらという可能性がコンマ一パーセントでも残っている限り、判断には鈍りが生じます。


ですが、臆する事もありません。
加蓮たちシンデレラにとって、ガラスはいつだって味方です。

加蓮は自分に六回ほどそう言い聞かせ、
エナメルシューズに包まれた右足をそっとガラスに乗せました。
続いて一歩、もう一歩。

 「……ふふん」

 「おー」

勝ち誇った顔でガラスの上に立つ加蓮へ、二人は小さく拍手を贈りました。

ピースを作りながら写真を要求され、
ポケットから携帯電話を取り出したところで奈緒が気付きます。
187 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 12:28:10.42 ID:GVB5f6680

 「あ」

 「ん、何?」

 「スカート……」

 「え?」

指差しされたのは下ろし立てのフレアスカート。
きっと、百五十メートル下からはガラス越しの素敵な景色が見えるでしょう。

鮮やかなオレンジ色を何度か手でひらひらとさせてから、
加蓮は腕で身体を隠しました。


 「奈緒のえっちー」

 「はぁー? えっちじゃないしー? えっちって言う方が――」

 「加蓮、奈緒」


イチャつき始めた二人の肩を叩き、凛は背後を指差しました。

 「アイドル」

じゃれ合いに気付いた皆さんが、携帯電話やカメラを手に三人を取り巻いていました。

加蓮と奈緒はひどく魅力的な愛想笑いを浮かべつつ、
手を振る凛を引き摺って、やって来たエレベーターに急いで飛び乗るのでした。
188 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 12:39:12.17 ID:GVB5f6680


 「幸せってクリームの事だったんだね」

 「違うと思う」


秋の日暮れは早いものです。

おやつのクリーム山盛りパンケーキを平らげ、
店を出た時には空も真っ赤に燃え始めていました。
昼間は空いていた路線バスにも他の乗客が目立ち始め、
三人は後部座席で声のボリュームを絞ります。


エンジンの鼓動が加蓮の身体を揺らします。
たっぷりと甘い後味が眠気を誘い、加蓮の頭から重力を奪っていきます。
こてんと肩にへ預けられた重みに、凛が柔らかく笑みを浮かべました。

 「……遠足、楽しかった」
189 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 12:42:58.73 ID:GVB5f6680

加蓮の呟きに、二人は目を丸くしました。そして揃って、くすりと笑いを零します。

 「何言ってんだよ、加蓮」

 「……え?」

ほとんど閉じられそうになっていたまぶたがゆっくりと開いて、二人の姿を捉えます。
何故か揃って得意気に笑うと、声まで揃えてこう宣言するのです。


 『帰るまでが遠足だよ』


加蓮は結局、遠足の流儀をまるで知りませんでした。
自身の無知がおかしくなって、バスの揺れが心地良くて、また目を閉じてしまいます。

 「はいはい……」


それきり、三人は静かになりました。
190 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:08:17.60 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆


 「ただいまー」

 「おかえり。夕ご飯、本当にいいの?」

 「んー。お腹いっぱいー」

 「おかえり。先食べてるぞ」


加蓮はしっかりした娘ですから、食事の不要な日は母へのメールを欠かしません。
遠足最後の行程を文字通り消化しに掛かった際、
加蓮はいつものように一通、メールを送っておいたのです。


鞄からすっかり軽くなった弁当箱の包みを取り出し、母に振って見せます。

 「おべんと、ありがとね」

 「出して水に浸けておいて頂戴」

 「はーい」

弁当箱を軽くすすぎ、水を張った洗い桶に浸け、
加蓮は二人が夕食を囲むテーブルに腰を下ろします。
そこで疲れがどっと吹き出て、ぐにゃりと身体を机上に預けました。
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:23:37.36 ID:GVB5f6680

 「あれ? 今日レッスンだったのか?
  渋谷さん達と遠足だって聞いてたような気が」

 「遠足だったよー……でも疲れたぁ……」

 「楽しい事は疲れるもんね。それで? どんな所に遊びに行ってたの?」

 「まぁ、まぁ。加蓮くらいの頃は詮索されたくないもんさ」

 「……ん、いや……話すよ」

むくりと加蓮が身体を起こしました。
肘で頭を支えつつ、多少ボサついていた毛先を整えます。


 「えっとね、地獄の門とか見てきた」

 「あらまぁ」
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:29:11.09 ID:GVB5f6680

手伝うと申し出た洗い物を受け流され、
同じく申し出た父もあら珍しいですねと軽くあしらわれ、
加蓮は結局やる事も無く、父と一緒に母の背中を眺めていました。

昔よりも少しだけ小さく見えるような、見えないような、
そんな背中をただじっと眺めてばかりでした。


蛇口を閉め、弁当箱の水滴を払い、水切りラックにそっと載せると、
母は手慣れた様子でエプロンを解きに掛かります。


 「ねぇ」


どちらに向けた訳でもなく、加蓮は呟きます。

今日は本当に楽しい一日でした。
凛も奈緒も、父も母も、加蓮の好きなようにさせてくれて、
だからこそ全力で楽しんでやりました。
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:38:56.69 ID:GVB5f6680

遠足、と、四人はそう言ってくれました。
ずっと昔から組み立てていたジグソーパズルの、ずっと欠けていた部分の一つに、
今日というピースがぴったりと填まり込むようで。


だからこそ、中央にぽっかりと広がる、
大きな空白と向き合わなければ駄目だと、加蓮はそう思ったのです。


 「すっごい、昔の話なんだけどさ」

 「ああ」

 「うん」

父と母が、頷きます。

 「どうして身体、弱いのかな……って、そう訊いたけど」


パズルのピースを、中央に填め込みました。


 「馬鹿なこと訊いて、ヤな気分にさせて、ごめんなさい」
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:42:12.42 ID:GVB5f6680

気付けば頭を下げていました。
両親に謝るのは、随分と久しぶりのような気がしました。

二人は何も言いませんでした。
加蓮は面を上げるタイミングを失ってしまい、そのまましばらく頭を下げ続けます。


首と背中が痛くなってきた頃、おそるおそる顔を上げてみると、
エプロンを抱えたままの母は唇を引き結んでいました。

 「……覚えてたの?」

 「え、あの……うん」

 「……そうか」

隣に座っていた父が呟き、顔を両手で覆いました。

その手が、腕が徐々に震え出すのを眺めている内に、
父が泣いているのだと、加蓮は気が付きました。

父だけではありませんでした。
抱えていたエプロンが破けそうなほど強く握り締め、俯き、母が嗚咽を繰り返します。
慌てた加蓮が椅子を蹴倒して立ち上がると、
母はエプロンを目に押し付けてフローリングに崩れ落ちました。
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:46:57.13 ID:GVB5f6680

 「なんで……っ! なんで、加蓮が、加蓮がっ、ごめんなんて、言うの……!」

 「ご……ごめんなさい……」

 「ごめんは、っ、ごめんなんて……
  要らないのに、っ! 加蓮が……ごはん、たべて……」

 「あ……ぅ」

 「……遊んで、笑ってくれ、れば……いいのに、っ」


そこから先は言葉の形を成しませんでした。
何も言えずに震える父と、何事かを請い続ける母の間で、
加蓮はただおろおろと揺れ動く事しか出来ません。
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 19:52:17.75 ID:GVB5f6680

口に出してしまった言葉の恐ろしさを、加蓮はよく分かっているつもりでした。
つもりだけで、何一つとして分かってはいなかったのに。

十年前のたった一言。
たった一言で、二つの生をこの棘だらけの娘に縛り付けてしまったのだと、
加蓮は今ここに至って、ようやく気付く事が出来ました。
気付いてしまうと、すぐに足元が歪み始めます。


透明だった筈の何かが影を伴って現れ、両肩を痛烈に押し付けてきます。
そして加蓮もまた、フローリングへとへたり込んでしまいました。


 「……ごめんなさい」


絞り出せた言葉は、溶けて消えてしまいそうなほど弱々しく。
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/05/09(土) 20:00:04.55 ID:GVB5f6680


最初に取り戻した感覚は二つの暑苦しい熱でした。
何か声を絞り出そうとして思い切り咳き込みます。

何時間も続けたボーカルレッスンの後みたいに喉の奥がヒリついて、
上半身から水分が全て飛んでいったように視界がチリチリと霞みます。


あ、ああと、ようやく声らしきものが出始めて、最初に言う言葉は決まっていました。


 「……ご」

 「加蓮」

 「いいんだ」
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:05:27.01 ID:GVB5f6680

二つの熱から声が響いて、どうも両親のものによく似ていました。
前から、後ろから挟むように抱き締められ、
ただでさえ細い身体が押し延ばされてしまいそうです。

 「な……ん」

 「ありがとうね、加蓮」

 「ゆっくりでいいんだ。少しずつ、取り戻そう」


紡ぎたい筈の言葉が。
紡げる筈の言葉が。
二つの熱でどろどろに溶かされていきます。


溶け残りへ隠れるように蹲っていた昔の自分を見つけて、
加蓮はその小さなお尻を蹴っ飛ばしてやりました。
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:11:44.36 ID:GVB5f6680


 ――ねぇ、神様。


呪詛とも祈りともつかない感情を、
加蓮は生まれて初めて『そいつ』に叩き付けました。


私のせいで、アンタのせいにしちゃったのは、謝るよ。
幾らだって謝ったげる。

本当に、ごめんなさい。
全部、ぜんぶ大馬鹿なアタシのせいでした。

だから……これで、チャラ。
アンタが、もしアンタに力があるんなら。


ちっぽけな人間の一人や二人くらい――救ってみせてよ。


いつ返ってくるかも分からない返事を待っている間に、
加蓮の意識は再び溶け出してゆきました。
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:14:50.35 ID:GVB5f6680

 【Z】イージー・ライダー


何せ広いものですから、入ってくる所が違えば途中の道順も全く異なります。

結局、目的地に辿り着くまでの時間は前回とさして変わりませんでした。
スーツ姿で代々木公園のベンチに座る彼は、
やはりサボリーマンに見えてしまいます。

 「やっぱ待ち合わせ場所に向いてなくない?」

 「それは分かる」


譲られた隣に腰を下ろし、加蓮は眼鏡を外しました。
伊達とは言えなかなか可愛らしいデザインで、
最近はプライベートでも愛用しつつあるお気に入りの一品です。

 「良い天気だね」

 「三寒四温の四の方に当たったな」

プロデューサーが封筒の紐を解こうとして、止めました。
そっと封筒を置き直し、弥生の太陽に照らされる広場を二人並んで眺めます。
三つ子の噴水が今日も今日とて立ち昇っていました。
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:20:05.72 ID:GVB5f6680

 「今日って大安だっけ?」

 「ああ」

 「結婚日和だね」

 「吉日じゃないけどな」

 「え? 私と居る日はぜんぶ吉日でしょ? Pさん」

 「……言うようになったなぁ」

 「茄子さんの受け売りだけどね」

加蓮が拳二つだけ間を詰めて、彼は拳一つ半だけ間を空けました。
力関係の縮図です。


加蓮がもう一度だけ間を詰めようとしたところで、
彼が封筒をがさがさとやり始めました。
お仕事の時間が始まり、加蓮は鼻を鳴らしながら彼の手元に視線を注ぎます。

 「三周年と、この前の定例ライブ。調子の良いのが続いてるな」

 「でしょ?」

 「デビューしてからしばらく、
  どうも加蓮には踏ん切りの付かないきらいがあったが……憑き物が落ちたみたいだ」
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:24:05.55 ID:GVB5f6680

憑き物。

改めて他人の口からそう表現されると、
何だか小気味好い気分がして、加蓮は小さく笑いました。
怪訝そうに首を傾げる彼へ、加蓮は掌を見せて話の続きをせがみます。
封筒の中から出てきたのは、見覚えのある表紙でした。


 「上もそう評価してる。バースデーライブだ、加蓮」


手渡された企画書をめくるでもなく、加蓮は両手で抱えたそれをじっと見つめます。
彼女が黙り込むのは色々と思案を巡らせている時間だと、彼はもう知っていました。

 「昔はさ、誕生日が嫌いだったんだ」


そして一言だけで話を区切るのは、続きを促せという合図。

 「どうして」

 「病室で迎える事の方が多かったから。
  あぁ、また来年もここに居るのかなって、そう思っちゃうんだよね。どうしても」

 「……そう、思うかもな」

 「それに、せっかくプレゼントを貰っても、病室にはなかなか置いとけなかったし。
  携帯テレビだって、電波とかの関係で病院の許可を貰うくらいだったから」

 「じゃあ、今は?」
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:28:49.21 ID:GVB5f6680

分かりきった質問を投げ掛けるのも、プロデューサーの重要な役目でした。
両手に持っていた企画書を胸にそっと抱きしめて、
加蓮は抑えきれないと言わんばかりの笑みを零します。

 「楽しいよ。いつも、いつだって、次の誕生日が一番楽しい」

 「違いない」


ようやく中を確かめ始めた彼女を横目に、彼は続けます。

 「休憩三十分含めて百二十分。
  ユニット曲合わせて全十二曲。MCを抜いたって最低六十分は唄いっぱなしの計算だ」

 「いいね」

 「……渋谷さんの口癖、移ってきてるぞ」

 「可愛いとか言うなー」

 「言ってない。それ神谷さんのだろ」

 「バレた?」

隠す気ゼロの演技がバレて、加蓮は小さく舌を出しました。
わざとらしいその仕草は、しかしひどく魅力的で、
至近距離で喰らってしまうとなかなかの威力を誇ります。

ですがその程度でいちいち吹き飛んでいては、
北条加蓮のプロデューサーなど務まりません。
上手に目線を泳がせて、
全部分かっている彼女にニヤつかれるまでが一セットなのです。
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:35:35.15 ID:GVB5f6680

 「……順番は逆だけどな。実を言うと、
  そこに載ってるメンバーと担当には先に話をしてある。
  みんな二つ返事どころか一つ返事だったぞ」

 「愛されてるね、私」

 「そうだな」

 「その『そうだな』って、勘違いしてもいいやつ?」

 「話は変わるが」


話が途切れて、戻って来ませんでした。
子供たちのはしゃぐ声がよく聞こえて、元気良く噴水が噴き上がります。

 「変えないの? 話」

 「急に良い感じの話を思いつかなかったんだ」

 「Pさんの正直なところ、好きだよ」

 「……どうも」

 「これは勘違いしていいやつね」

 「……言うようになったなぁ」


そこでまた会話が途切れます。
お仕事の時間は一旦の終わりを告げて、ここからまた、別の時間が始まるのです。
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:43:09.39 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆


 「やほ★ 元気してる?」

 「なんとかね」


自主レッスン中に顔を見せたのは美嘉でした。
買って来てくれたばかりらしいスポーツドリンクを勧める彼女に、
加蓮は笑って首を横に振ります。

 「ブレとか見てくれない?」

 「オッケー。任せて」


壁際で美嘉が見守る中、加蓮は意識を集中させました。
何度も繰り返したステップとターンを、それでもなお磨き上げます。

ガラスの靴を履いたって踊れるくらい、つま先の神経まで尖らせながら。


鋭さすら感じさせるブレーキをかけ、加蓮の動きが止まります。
忙しなく駆け巡っていた血液が息をつき、
代わりにやって来た疲労がそこかしこの筋肉を震わせました。
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:48:20.96 ID:GVB5f6680

 「どう?」

 「全体的に右回転が遅い。右足首、かばってるでしょ」


醒め切った声でした。観念したように両手を上げ、手招きに応じる形で出頭します。
普段は快活な美嘉の瞳がじとりと細められ、
加蓮は誤魔化すような笑みを浮かべるしかありません。


 「かーれーんー……? 何度言ったら分かんの!
  オーバーワークはケガのもと! はい復唱っ!」

 「オーバーワークはケガのもとっ!」

 「よし。マッサージしてあげるから、こっち来て脚伸ばして」

 「美嘉お姉ちゃん……!」

 「こんなでっかい妹は知らないよ」


口では色々と言いつつも、結局、面倒見は良いのが美嘉お姉ちゃんです。
丁寧なマッサージを施すと、改めて加蓮にスポーツドリンクを差し出します。

二人並んで壁に背を預け、束の間の静かな時間が続きました。
時折、美嘉が加蓮の方へ視線を送り、けれど何も言いません。
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:52:12.65 ID:GVB5f6680

加蓮がペットボトルの中身を半分ほど減らしたところで、
美嘉が口を開きました。

 「昔さ、話したよね」

 「何を?」

 「アイドルになった理由。卯月とアタシ達で」

 「あー」

ほんの二、三年前の出来事を、まるで遥か昔の思い出のように感じられる事実こそが、
加蓮の過ごしてきたアイドル生活の濃さを物語っていました。

さてあの時はなんと話しただろう、と記憶を検索しますが、いまいちよく思い出せません。
何となくお茶を濁したような記憶だけが朧気に残っていて。


 「……ぼた餅」

 「それ。よく覚えてんね」


お茶からの連想ゲームだよとは言えませんでした。
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 20:56:22.28 ID:GVB5f6680

 「ホントの所、どーなの?」

 「何が」

 「だーかーら、アイドルになったワケ★
  ぼた餅食べる為だけにここまでやんないでしょ、フツー」

 「やん」

腿をぺちんと叩かれました。

あの日は細く頼りなかった腿も、今ではごく健康的に膨らんで、
中にはステージを跳ねるために必要な全てが詰め込まれています。

男の人はどっちが好きなんだろうと思わないでもないですが、
それはそれとして、です。


加蓮は体育座りをして、しばし思案に耽りました。
隣で座る美嘉は、やっぱり何も言いません。

 「美嘉、口固い?」

 「莉嘉と仲良しの加蓮くらい固いよ」

 「じゃあ言わない」

 「コラ」
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 21:00:40.21 ID:GVB5f6680

頬を突っつかれて、加蓮はまた両手を挙げました。

 「私ね、卯月になりたかったんだと思う」



 「……卯月?」

 「卯月みたいな娘、かな。正確には」

 「意外。加蓮が卯月推してるのは知ってたけど」

 「昔から漠然とアイドルには憧れててさ。
  最初は、ほら、アイドルってだいたい健康そうじゃない?
  私にとっての『元気』の象徴がアイドルで、だからなりたかったんだと思う」


加蓮は理詰めで物事を俯瞰できる娘でした。
その能力こそがアイドル北条加蓮の武器なのだと、彼女はまだ気付いてはいませんが。

 「でも違った。卯月ってさ、ほら、練習量すごいでしょ」

 「ま、ね。加蓮とはまた別の意味で、純粋に量こなすよね」


少し目を離した隙に、この前替えたばかりのシューズをボロボロにしている。
それが加蓮と美嘉、二人のよく知るアイドル島村卯月でした。
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 21:10:45.96 ID:GVB5f6680


 「あの娘を見て、分かった。
  私……好きだからとか、やりたいからとか……
  そんな理由だけで頑張れる人に、ただ憧れてただけだった」


そこまで話すと、加蓮は言葉を切りました。
少し喋り過ぎたと、微かに頬を赤らめます。

 「……そっか」

美嘉は肯定も否定もせず、加蓮の瞳を覗き込んで柔らかく笑いました。


一緒に居ると気を許してしまって、ついつい話し過ぎてしまう。
加蓮にとって美嘉はそんなアイドルで、
帰宅してからベッドの上で転げ回った経験も一度や二度ではありません。


猫みたいに気持ちの良い伸びをして、美嘉が帰り支度を始めます。
すっかり存在を失念していた時計を見れば、
針はまもなく二十一時を回ろうとしていました。
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 22:07:14.07 ID:GVB5f6680

 「ぜったい内緒だからね、卯月には」

 「加蓮が莉嘉にアタシの秘密とか訊き出そうとしなければね」

 「それは無理」

 「ちょっと」

心地良い疲労感を抱え、加蓮は立ち上がりました。
荷物を纏めて美嘉の後を追おうとし、つま先が何かに蹴躓きます。
足元を見てみても、トレーニングシューズに包まれたつま先以外は見当たりません。


 「加蓮ー? 置いてくよー」

 「あ……うん。いま行くー」

 「どうかしたの?」

 「いや、クラゲが居てさ」

 「……何の話?」

思い出話を語り合い、二人は更衣室へと向かいます。
あの日、床にへばりついていた液体生物は、
無事伸びてきた二本の脚で元気に歩いてゆくのでした。
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 22:21:29.95 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆


何かの拍子に窓ガラスが鳴って、加蓮はゆっくりと目を開きます。


薄手のシーツに包まれていた身を起こすと、
そこに待ち構えていたのは薄闇の広がる病室。
またこれかと、加蓮は誰に遠慮するでもなく、大きな大きな欠伸を決めました。


すっかり病院と縁遠くなって久しい頃、
加蓮は時折こういった夢を見るようになりました。

目覚めるのはいつもベッドの上。
階や場所は違うものの、いずれも加蓮が寝転んだ覚えのあるベッドでした。
時間はいつも深夜で、加蓮の他に人影はありません。


最初こそ恐ろしくて泣き出しそうになりましたが、
今ではすっかりルーティンワークです。
パジャマとスリッパのまま病室を出て、夢遊病ってこんな感じなのかな、
だとか下らない事を考えつつ、眠くなるまでぺたぺたと病院内を歩き回ります。
213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 22:44:01.47 ID:GVB5f6680


他の病室。
受付。
診察室。
手術室。


錠も何も掛かっていない病院内はどこでも入り放題で、
勝手が分かってきた頃はむしろ若干楽しくすらありました。
もっとも、今ではそれもすっかり飽きてしまって、
ただぼんやりと徘徊するだけになってしまいましたが。


今日は比較的疲労の回りが早いようです。
そろそろ頃合いだろうと幽霊病院ツアーを切り上げ、
四階の病室まで踵を返します。

スライド式のドアを開け、さぁ一眠りして起きようとベッドに向かい、
何かが光っているのに気付きました。


サイドボードへ置かれていた携帯テレビ。
いつの間にかその電源が入っていて、小さな液晶に何かの映像が映し出されています。

 「……あ」

事務所主催のライブ映像のようでした。

いつのものかは判別が付きませんが、
奏や奈緒など、どのアイドルにも見覚えがあります。
なかなか盛大なライブらしく、思いつく限りの顔ぶれは全員が出演しているようでした。
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 22:45:10.43 ID:GVB5f6680



 加蓮ただ一人を除いて。

215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 22:46:09.49 ID:GVB5f6680


 「――っ!」


声にならない叫びを上げながら手を振り回しました。

床に叩き付けられたスマートフォンが震え続け、
表示された画面は午前七時を知らせてくれています。

肩で息を繰り返していると指先に軽い痛みが走ります。
スマートフォンを力の限り払い除けた衝撃か、
小指の爪の端はひび割れたように欠けていました。


加蓮の部屋の、加蓮のベッドの上。
壊れるまで使って捨てた携帯テレビなどある筈も無く、
そろそろ起きてくれと言わんばかりにアラームが鳴り響いているだけでした。

 「は……ぁ……」


小刻みに震える手を、もう片方の手で強く抑え込みます。
そうしていないと身体どころか、すぐに心まで震えてしまいそうでした。
216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 23:27:57.87 ID:GVB5f6680

 ◇ ◇ ◆

現代の理論では、夢について判明している事実は多くありません。

人によってフルカラーかモノクロームか違っているらしいだとか、
そもそも一切見ない人も居るだとか、
得た記憶の整理作業中の副産物なんじゃないかとか、
せいぜいがその程度です。


今回の夢について、加蓮は防衛機制の一種ではないかと推測していました。

バースデーライブという大一番。
その高揚と不安を察知した加蓮の心が、
安定の象徴たる過去の記憶を追体験させる事で解決を図ろうとしているのではないかと。

夢は所詮、どこまでいっても夢。
夢の中で何が起きようが、現実の自分に何ら影響はありません。


幾ら自分にそう言い聞かせても、
暗い病室で目覚める度、加蓮は細い体を震わせずには居られませんでした。
217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 23:40:32.93 ID:GVB5f6680

バースデーライブの長丁場をこなすため、
今の加蓮に必要とされているのは一にも二にも体力です。


とは言え、体力など一朝一夕につくものではありません。
地道な反復運動こそが一番の近道です。
加蓮の今の体力とて、三年間のアイドルを経てようやく身につけた成果なのですから。

そうなれば後はもう、いかに体力を使わずに演じられるかの勝負になってきます。
そのために必要なのは効率化。
喉へ負担を掛けないブレスの方法や、最小限の動作で綺麗に見せる為のステップ。
どれも結局は地道な反復練習で、
けれど加蓮は他のメンバーが居ようと居まいと、泣き言一つ零しませんでした。


――もっと、体力を。


事務所でのレッスンが無い日にも、加蓮は近所で走り込みを繰り返します。
泣き言を言う暇があったら走れと、
いつだったかの凛の言葉を思い出して加蓮はひとり笑いました。

確かに泣いている暇などありません。
涙なんか流している暇があるなら、一滴でも多くの汗を。
218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/09(土) 23:51:32.22 ID:GVB5f6680

文字通り寝る間を惜しみ、加蓮は体力作りに励みました。
ライブ本番が近付くにつれて、
その分、他のメンバーとの合同レッスンも必要になってきます。

削られた基礎動作の反復をプライベートの時間に無理やり捩じ込みます。

最初は二ヶ月に一度くらい。
けれど、レッスンが密度を増す度に、その頻度は増えていきました。


一ヶ月に一度。
二週間に一度。
一週間に二度。


消えて無くなる筈の不安感が、戻る必要の無い筈の場所が、得体の知れぬ質量をもって。
219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 00:04:25.36 ID:7gnP6kF90


 「加蓮ちゃん」



 「……ん。どうしたの、卯月?」

 「え、っと……最近、頑張ってますね!」

 「うん。私一番の大舞台だからね。ボケっとしてる暇は無いよ」

 「……ねぇ、加蓮ちゃん」

 「なに、卯月?」

 「少し、私と……お話を、しませんか?」


震える手が、加蓮の汗ばんだ手を握りました。
伝わってくる温度を感じて、俯くようにして頷きます。
220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 00:19:13.01 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆

プロデューサーから差し入れられた、紙コップのアイスココア。
両手で抱え、小刻みに揺れる水面を、加蓮はただじっと見つめていました。

 「ネイル」


卯月が呟きます。

 「加蓮ちゃんのネイル。
  綺麗で、凄いなぁって見てたんです。でも、最近、してないなーって」

指先を伸ばしました。
いつだったか欠けてしまった小指の爪も、今では跡一つも残っていません。
綺麗に整えられた、ごく普通の爪です。


何だか、塗る気が起きなかったのです。

明日は塗ろうかな。
週末に塗ろうかな。

小さな先延ばしが積み重なって、今日がその最後尾でした。


 「ごめん」
221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 00:29:15.35 ID:7gnP6kF90

加蓮の呟きに、プロデューサーは一瞬だけ、ほとんど泣きそうな顔になって。
それから何度も首を振りました。

 「そうじゃない。叱りたい訳じゃないんだ、加蓮」

 「……何で?」

 「だって……逆だろう。加蓮が……どうしてそんなに、辛そうなのか。
  担当プロデューサーの癖して分かってない、俺が叱られる側だ」

 「ちょっと、レッスン……し過ぎたからだよ」

 「そのくらいなら、俺も分かるんだ。加蓮は自分の体力を考えて、
  多分、俺の知らない所でも何かをこなして、上手いことレッスンを重ねてる。
  確かに普段よりもハードだけど、加蓮が苦しんでるのは……そこじゃない気がする」

 「……」

 「まるで……何かから、追い掛けられてるみたいだ」


揺れ続ける茶色の水面は、自分が今どんな顔をしているのか、加蓮に教えてくれません。


 「…………笑わない?」
222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 00:31:15.82 ID:7gnP6kF90

届く前に消えてしまいそうな言葉へ、二人は深く頷きました。

 「笑いません」

 「……ほんと?」

 「笑わない。笑ったら渋谷さん呼んで、ぶん殴ってもらう」

 「こわい夢を、みるんだ」


二人が静かになって、加蓮が話しやすくなりました。


 「暗くて、戻って、ぜんぶ失くす夢。
  あんまり寝たくなくて……走ってただけ」


もっと何かを話そうとして、話せませんでした。
口に出してしまえば、それが形となって襲い掛かってくるんじゃないかと、
そんな想像をしてしまったから。
223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 00:38:55.18 ID:7gnP6kF90

加蓮が話し終えると、二人はじっと考え込んでいました。
やがてプロデューサーが一度頷いて、卯月に視線を移します。


 「島村さん」

 「はい」

 「どうか、力を貸してほしい」

 「もちろんですっ!」


待ってましたと言わんばかりに、卯月が勢い良く立ち上がりました。
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 10:35:31.66 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆

 「……」



 「ふぁー……! このマリネ、とっても美味しいです!」

 「あら! 良かったわー。遠慮せずにどんどん食べてね?」

 「はいっ!」

 「どうしましょうお父さん。楽しくて仕方が無いわ。娘がもう一人出来たみたい」

 「全くだ。でも加蓮の方が可愛い」

 「それもそうね」

 「え……えぇ〜っ? ふ、二人ともひどいですよ〜!」

 「うふふ……ごめんなさい」



 「……」
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 10:46:27.89 ID:7gnP6kF90

北条家の食卓に新たな家族が加わりました。
母が張り切って用意した夕飯を堪能しつつ、父にからかわれて目を白黒させています。

 「お母さん、お料理上手なんですねー」

 「そうなの。この人も胃袋から掴んだのよ」

 「おいおいやめてくれよ」

 「あははっ。加蓮ちゃん、お父さんもお母さんも、とっても面白い方ですね!」

 「……まぁ、浮かれてるのは否定しない、かな」


鶏の香草焼きに齧り付きながら、加蓮は苦笑を返します。
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 10:56:26.05 ID:7gnP6kF90


――ウチでライブ前の強化合宿したい。泊まり込みの。


そう両親に告げる前、具体的には「合宿」の辺りまで喋ったところで、
両親は来なさい来なさいと満面の笑顔で首肯を繰り返しました。

拍子抜けする程あっさりとした承諾に彼女は毒気を抜かれ、
居間とか使うようならテーブルをどけようか等と逆に提案してきた二人に、
加蓮は改めてダダ甘な親だと感じ入るばかりでした。


初日の今夜は卯月の番。
育ちの良さなら誰もが認める所の彼女は、加蓮の両親から案の定大歓迎を受けました
島村さんと呼ばれていたのも最初の一度だけ。
後は卯月ちゃん、卯月ちゃんと呼ばれる度に、とびきりの笑顔を零します。


明日以降の凛や奏を両親がどう構い倒すのか、ちょっぴりだけ楽しみでした。
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 11:06:02.63 ID:7gnP6kF90


 「ウチの娘になっちゃう?」

 「あはは。魅力的ですけど、パパとママが泣いちゃいそうで」

 「泣いちゃいそうって言うか、泣くね絶対。島村家の場合」


夕食から少し時間を開けて。
並んでジョギングをしながら、二人は家族談義を交わしていました。

 「本当に、加蓮ちゃんの事が大切なんですね」

 「そうかな? まぁ……そうかも」

 「昨日の今日で泊めてもらえて、
  あんなに歓迎してもらって……何だか、私まで嬉しくなっちゃって」

 「卯月ってさ、けっこう平気で言うよね。恥ずかしい事」

 「え、えぇ? そうでしょうか……?」

 「ふふ……あー、あっつい。もうむーりぃー」
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 11:17:38.09 ID:7gnP6kF90

おどけた声真似を披露しつつ、加蓮はゆっくりと歩調を緩めます。
夏の湿気にすっかり汗みずくとなったトレシャツのジッパーを下ろし、
ぱたぱたと仰いで、さして涼しくもない外気を取り込みます。

お外ではしたないのはダメです、と卯月にジッパーを上げ直され、
加蓮は情けない声で呻きました。

 「うぇえー……谷間は私のアイデンティティなのに……」

 「みくちゃんみたいですね」

温い風から逃れるように天を仰ぎます。
冬場に比べれば随分と濁っている夜空には、それでも、幾つもの星が微かに煌めいています。


空を見上げるのは久しぶりでした。
思えば、最近は前しか見ていなかったような気がします。


静かに夜空を見つめる背中を、卯月は微笑みながら見守っていました。
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 11:36:27.84 ID:7gnP6kF90


 「さ、女子会……の前に、どっちで寝るか決めよっか」

 「え? 加蓮ちゃんがベッドじゃないんですか?」

 「いやいや、ゲストに決めてもらわないと」


お風呂でしっかりと身を清め、
パジャマ姿の二人は加蓮の自室で女子会の準備に取り掛かりました。
ベッドのすぐ脇に予備のお布団を敷き、その上でちょこんと向かい合います。

 「私、お布団で大丈夫ですよ?」

 「あ……ごめんね? 私の匂い、くさいよね……」

 「く、くさくないですっ! とってもいい匂いがしますっ!」

 「いや力説されても困るけど」

軽口に卯月が拳を握りました。
そういうのは凛とか響子辺りにやってほしいと、
加蓮は掌を見せ、どうどうと卯月を宥めます。
230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 11:55:19.11 ID:7gnP6kF90

 「でもいいの? このマットレス、
  けっこう良いやつなんだよね。卯月ん家も良いの使ってるんだろうけど」

 「へぇ……そうなんですか?」

 「そうそう。ちょっと一回だけ、お試しで寝転がってみたら?」

 「う〜ん……じゃあ、お言葉に甘えて……あ」

 「どう?」

 「確かに、すごくふかふかで……良いですね」

 「目を閉じるともっとよく分かるよ」

 「ふむふむ……」

 「はい、そのまま深呼吸してー」

 「すー……」

 「いいこいいこ。じゃ、頭の中で呼吸を百までカウントしてみよっか」

 「すー……すー……」


加蓮のカウントが六十回を超えた辺りで、卯月の吐息が寝息へと変わります。

そっとタオルケットを掛けてやりつつ、
親御さんは子供卯月を寝かしつけやすくて助かってたんだろうなぁと、
柔らかなほっぺたの感触を指先で味わっては頷きました。
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 12:03:47.21 ID:7gnP6kF90


卯月が完全におやすみモードへ突入したのを見届けると、
加蓮は冷房の設定温度を少しだけ上げました。
部屋の明かりを消して、自分も久々のお布団の中へ潜り込みます。


誰かを部屋に泊めるのは初めてでした。
いつもより天井が高くて、友達の寝息が聞こえて。
それだけで何だか秘密の冒険でもしているような、妙な気分に眉が緩んでしまいます。


 「ありがと」

 「……ふぇゆぅ」


耳に届いたのか定かではありません。
たまたまかもしれません。

卯月の夢心地な返事に小さく笑って、加蓮は目を閉じるのでした。
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 12:23:25.26 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆


何かの拍子に窓ガラスが音を立てました。
ゆっくりと目を開け、シーツをめくりながら身体を起こします。

 「あら、おはよう」



 「……おはよ。たぶん夜だけどね」

 「残念。もう少し寝てたらキスで起こしてあげたのに」


奏が隣のベッドに腰掛けていました。
女子会の時に着ていたネグリジェのまま、病室の中を感心したように見渡しています。

正直その格好は目の遣り場に困るので何とかしてほしいのですが、
言って素直に聞くような女ではない事を、加蓮は十二分に承知していました。

 「えっと、ここ、私の夢なんだけど……なんで居るの?」

 「さぁ。きっと、私の夢でもあるのよ」

 「……」

 「それで……やっぱり、ここが貴女の言ってた?」

 「うん」

 「暗いのね。それに、静か」
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 13:04:21.86 ID:7gnP6kF90

スリッパを履き、奏と共に病室を後にします。


今回も病院内は息を潜めるかのように静謐を湛えていて、
唯一違うのは一人分増えたスリッパの音だけでした。

いつものようにあちこちを歩き回る加蓮。
奏はそんな彼女の隣を静かに付き従います。


レントゲン室を出て、階段の所まで戻って来ました。
目を覚ました病室のある三階へと一歩を踏み出した時、奏が初めて口を開きます。

 「どうして戻るの?」



 「……え?」

どうしてと言われても、戻る場所は結局そこしか無いのです。
無いのですから、そこに戻るしかありません。

 「だって」

 「加蓮は、加蓮よ。貴女はもう、シンデレラなのに」
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 13:25:39.69 ID:7gnP6kF90

憫笑。

昔、何かの小説で知ったそんな言葉を、加蓮は思い出していました。
きっと、奏のこの笑みを表す為に作り出された表現なのだろうと、
何故だか加蓮は、自分の中にほとんど確信めいたものを持っていました。


病室へと続く一段目。
そこに載せていた足をそっと戻して、加蓮は再び歩き始めます。


これまでの夢で一度も近寄った事も無い玄関の自動ドアは、無機質に口を噤んでいました。
すぐ目の前に立っても、何度か手をかざしてみても、うんともすんとも言いません。

 「開かない」

 「開くわ。鍵は、掛かってないもの」

ガラスとガラスとの僅かな隙間に、奏が細い指先を差し込みました。
寝る前に塗ってやった夜色のネイルが剥がれ落ち、粉となって消えてゆきます。
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 13:48:00.29 ID:7gnP6kF90

 「んっ……」

整った顔を少しだけ歪め、奏は指先に力を籠めます。
ざりざりという悲鳴にも似た耳障りな音を立ててドアが開け放たれると、
強く吹き込んだ風が少女達の髪を弄んでいきました。

 「さぁ。往きましょう」

 「何処へ?」

 「何処へだって往けるわ。夜は、私達の時間だもの」


差し出された手に華を添える筈の夜色は、すっかり見る影もなくなっていました。
乱れた指先を見つめ、加蓮はゆっくりとその手を握ります。


お揃いのスリッパを履いて、シンデレラ達は静かなお城を抜け出しました。
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 14:34:24.73 ID:7gnP6kF90


 「――ねぇ!」


風切り音とヘルメットに阻まれて自信はありませんでしたが、
背後の奏がそう叫んだように聞こえました。

 「なに!」

 「まるでロード・ムービーみたいじゃない? 本当に……痛快だわ!」

 「イージーじゃないよこれぇ! ハンドルおっもい!」

車一台も通っておらず、信号の一つも灯っていない山の手通りを、
病院の駐輪場から失敬してきた二人乗りのオートバイが駆け抜けて行きます。

パジャマにヘルメットで叫び散らす少女達は、
百人が見れば百人が指を差して嘲る滑稽な姿でした。

ですが今、二人を見つめているのは物静かなお月様だけです。


 「寄り道していいーっ?」

 「加蓮、何か言ったー?」

 「寄り道していいかってー!」

 「何処へでもー!」


加蓮が急ハンドルを切ると、
二人分の悲鳴を生贄にして、奇跡的なドリフトが決まりました。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 15:13:41.71 ID:7gnP6kF90

奇跡的に何とか停車する事が出来ました。
しかし、何故だかエンジンまで鼓動を止めてしまい、
どれだけいじり回してもうんともすんとも言ってくれません。

スタンドの立て方が分からず、
とりあえずその辺の街灯にオートバイを立て掛けて頷き合った二人は、
ヘルメットを脱いでパサつく髪を靡かせます。


久しく顔を見ていなかったコンクリートの塊は、
真っ暗闇の町中で煌々とライトアップされていました。
入口すぐ上の大看板に写っているのは、在りし日のデニス・ホッパー達。

 「あら。ちょうどいいわね」

 「ご都合主義だなぁ」

 「嫌い?」

 「別に。夢だしね」
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 15:32:12.91 ID:7gnP6kF90

 「ふふっ……レイトショーなんて初めて」

 「ごゆっくり」

 「貴女は?」

 「ん、ちょっと食べたいものがあってさ」

 「……そ」


手を振ってミニシアターへ消えようとした奏の背に、
加蓮は伝え忘れていた約束を思い出しました。

 「かなでー」

 「……?」

 「いつか、ツーリング行こ!」

加蓮が親指を立ててウィンクを飛ばします。


ハリウッド映画も真っ青なハンドル捌きを思い返すと、
奏は苦笑だけを返して劇場へと入って行きました。
239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 16:30:07.23 ID:7gnP6kF90


百貨店の向かい、細長いビルの一階と二階に掲げられた顔馴染みのアルファベット。
やっぱりこのお店は照明が煌々と灯っていて、加蓮は店内へ続く扉を押し開けました。

明るい店内には誰も居ません。
でも、それでいいのです。

窓から通りを見渡せる二階のカウンター席へ腰掛け、静かに目を閉じます。


加蓮はアイスとポテトと甘いココアを愛する女の子でした。
健康に悪いものほど美味しい。
今でもそう信じて止まないのは、もしかしたらある種の反動だったのかもしれません。


それでも加蓮は、これからだってポテトをつまみ続けます。
たまには小言の多い隊員にLサイズを託して。
時にはケチャップ色のネイルを塗って。


揚げたてを知らせる電子音と、扉を押し開ける小さな音と。
どちらが早かったのか、加蓮には分かりませんでした。
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 16:44:04.55 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆


目の覚めるほど綺麗な顔が眠りこけていました。

枕元で振動を繰り返すスマートフォンを見もせずに黙らせ、
むくりとベッドから身を起こします。


 「……夜這いだぁ」


奏が埋もれていた筈のお布団はもぬけの殻。
ちょうど薄目を開け始めた彼女は相変わらず目の遣り場に困るネグリジェ姿です。

緩慢な動作で上半身を起こすと、若干ボサついている髪にくしゃっと雑な手櫛を通し、
ぼんやりと周りを見渡して、隣の加蓮を認めたのは一番最後。


 「……加蓮……何で、私のおふとんで寝てるの……?」

 「ぜんぶ逆」


奏は、見た夢の内容を寝起き三秒で忘れるタイプでした。
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 16:59:25.60 ID:7gnP6kF90


 「おはようございます。お父様、お母様」

 「あらおはよう。挨拶がしっかりしてるわねぇ」

 「奏ちゃん。ジャムは苺とブルーベリー、どっちがいい?」

 「そうですね、ブルーベリーをお願いできますか?」

 「よしきた」


奏らしきものをどうにかこうにか速水奏まで仕立て上げると、
加蓮は引き摺るようにして彼女を食卓へと連れてきました。
下りで一段踏み外したのが効いたのか、
今やどこに出しても恥ずかしくない人気アイドル速水奏です。

加蓮がもの言いたげな眼を向け、首を傾げた奏に何でもないとだけ呟きました。


 「美嘉ちゃん達もそうだったけど、加蓮のお友達はみんなしっかりしてるね」

 「恐縮です。幻滅させなければよいのですが」


加蓮が口を開き、何も言わずにトーストを齧ります。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 17:30:15.33 ID:7gnP6kF90

 「幻滅なんてとんでもないわ! 次に泊まりに来るのは来週だったかしら?」

 「ええ。その予定です」

 「……それなんだけど」

トーストを持っていない方の手を挙げ、加蓮が三人の耳を集めました。
牛乳で口の中を綺麗にし、短く一息。

 「もう大丈夫。強化合宿は今日でおしまい」


奏が心得たように薄く微笑んで、両親は目を丸くしました。

それだけでは収まらず、
それぞれの手にしていたスプーンとフォークを皿の上へ取り落して、
指先をわなわなと震わせます。

 「そんな……嘘だろう、加蓮……」

 「……えっと、何が?」

 「ま、まだ奈緒ちゃんが泊まりに来てないじゃない!
  晩御飯の材料だってもう買ってあるのよ……?」

 「…………えぇー……?」
243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 17:38:24.43 ID:7gnP6kF90

伏せた顔を震わせ続ける奏の前で、
両親による必死の説得が繰り広げられました。

最初こそ適当にあしらっていた加蓮でしたが、
熱の籠もった二人と言葉を交わすのがだんだん面倒になってきて、
結局最後は首を縦に振らされます。


手を握り合って喜ぶ両親を眺め、奏が加蓮へ視線を流しました。

 「愛娘は大変ね」

 「代わってあげよっか?」

 「遠慮しておくわ。胸焼けしちゃいそう」


加蓮が隠すように溜息をつきます。
とっくに焼けている胸の中へ、冷たい牛乳を流し込みました。
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 18:05:27.02 ID:7gnP6kF90

 【[】ミントグリーン


 「……キャンドルの炎がゆらめく時、そこに必ず影は寄り添う」



 「……急にどしたの、加蓮」

 「ん? いや、言ってたのはジェダイだったか、
  それともシスか……さっきから頑張ってるんだけど全然思い出せなくって」

そのままそっくり返すように、凛が首を傾げました。

 「意味分かんないけど、そういうのは奏の専門じゃないの」

 「ノベライズ版のモノローグよね、確か」

 「あ、そうだったっけ?」

 「おー、さすが」

 「誰の語りだったかは……私も覚えてないけど」

奏の苦笑に、奈緒が素直な称賛を贈ります。
245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 18:32:54.26 ID:7gnP6kF90

 「いいよ。舞台裏って暗いよねって、何となく思っただけだから」


照明の落とされたステージの上、ベニヤとFRPで組み上げられたお城の裏。
僅かなフットライトだけが頼りの薄闇に立ち、
少女達は密やかに声を交わし合います。

 「リラックスし過ぎでしょ、アンタ達」

 「いいんじゃない? カッチコチになるよりはさ」

 「まぁね。あ、そだ」

茶目っ気たっぷりのウィンクを飛ばし、美嘉が笑いました。
それから思い出したようにぴんと指を伸ばして、加蓮の肩を抱き寄せます。

 「ウチの可愛い妹から伝言。
  センターなんだから、とびっきりカッコよくキメてよね☆ ……だってさ★」

挑むような瞳に軽口を叩こうと唇を尖らせました。
次の瞬間に辺りが一段と暗くなって、客席の照明も絞られたのだと分かります。
そばで控えていた卯月が握った拳へ、加蓮はこくりと頷きます。


五人の少女達はアイドルへと変わりました。
揃いの衣装、”アクロス・ザ・スターズ”に身を包んだ四人が、
騎士のようにお姫様へと寄り添います。
246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 18:41:11.30 ID:7gnP6kF90

目を閉じるともう、真っ暗闇でした。
ホールはすっかり静かになって、自分の鼓動がよく聴こえます。

少しずつ呼吸をずらし、鼓動とぴったり重なった瞬間、
メロディが流れ出しました。


 『――誰よりも、光れ!』


そしてお城を飛び出して。


 『この世界、ただ一つのMY STAR――』


今日この日を精一杯輝くために編み出された衣装。
”スパークリング・モーメント”を華麗に翻し、加蓮は跳ねました。


 「――3、2、1、Fight!」
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/05/10(日) 19:06:15.38 ID:7gnP6kF90


 『BEYOND THE STARLIGHT』
 http://www.youtube.com/watch?v=eDzsLG4EZM8
248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 19:22:21.25 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆

今の加蓮にとって、三千というのは決して小さなハコではありません。
それでも、他の五人の力を借りたのは確かでも、彼女は埋めてみせました。
埋めるどころか勢い良く零れて、
抽選率に加蓮のファン達が悲痛な叫びを上げていたくらいです。


もっと大きな会場を知っています。
もっと有名なアイドルだって知っています。

でも、客席を埋めるこの人数が、漏れ無く北条加蓮を求めて遊びに来たのだと、
その事実を噛み締めるだけで珠の汗が流れました。


 『――愛をこめてずっと、歌うよ!』


卯月とのデュエットを終えて前半戦が終了しました。
歓声と拍手を最後まで受け取ってから、加蓮がハンドマイクをしっかりと握り直します。

 『やー、嬉しいね。こんなに嬉しい事があと半分も残ってるんだってさ』

 『えぇっ……? もう半分しか残ってないんですかっ?』

卯月のMCへ合わせるように、会場が似たような声を上げました。
249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 19:29:03.46 ID:7gnP6kF90

 『お。コップ半分の水? 私以外そっち派かー』

 『コップ……えっと、何ですかそれ?』

 『あ、ううん、気にしないで。卯月はみんなに可愛がられてればそれでいいから』

 『何ですかそれー!』

 『せーのっ、卯月かわいーっ!』

投げた声が三千倍になって帰ってきました。
爆笑する加蓮の隣で卯月がわたわたと頭を下げ、
盛大な拍手と笑い声が巻き起こります。


頬を膨らませてじとりと視線を向けてくる卯月を爽やかに無視して、
加蓮が再び会場へ語りかけました。

 『さてさて。ここで三十分の休憩だよ。みんな騒ぎ疲れちゃったでしょ?
  でも、後半はもっとブチ上がってもらうから、覚悟しておいてね?』

 『会場の温度も上がってます! しっかりと水分補給をしてくださいね!』

 『それじゃあまた三十分後。
  もし加蓮ちゃんが恋しかったら、泣いちゃってもいいからね? 分かったひとー』


はーいっ!


ほとんど怒号のような返事が響いて、加蓮はまた笑ってしまいました。
250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 19:37:49.21 ID:7gnP6kF90

 ◇ ◇ ◆

卯月と共にハケると、彼が待ち構えていました。

 「バッチリだ。ナイスパフォーマンス」

 「とーぜん。私を誰だと思ってるの?」

 「世界一のアイドルだよ」

 「言うようになったね」

 「どうも」

軽口を叩き合う二人のそばで、卯月は何か言いたげに手を泳がせるばかりで。


 「だから言わなくちゃいけない。加蓮」

 「お願い。無茶、させて」
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 19:45:32.85 ID:7gnP6kF90

 「……加蓮ちゃん」

泣き出しそうな卯月の呟き。
二人分の視線が加蓮の右足へと注がれました。
アドレナリンの分泌が落ち着きを見せ、震えが顔を出し始めます。

 「……アクセル、踏み過ぎだ」

 「あはは。私の方がアガっちゃってさ」

衣装の裾を握り締めそうになった手を、そっと離しました。

 「休めば、イケる。最後までだって、保たせるよ」



 「……分かった。何かあったらすぐに言ってくれ。
  島村さん、加蓮を控室まで連れて行ってもらえるかな」

 「はいっ」


じっとりと重たくなった手を引かれ、加蓮はステージを後にしました。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 19:51:45.84 ID:7gnP6kF90

 「……お。加蓮、」

ひとまずの出番を終えたみんなは一足先に控室へと戻っていました。
休憩に戻ってきた加蓮と卯月を見て、奈緒がすぐに椅子から立ち上がります。
細い肩を叩こうとし、紡ぎかけた言葉が途切れました。

 「……加蓮?」

 「みんなありがと。えっへへ、
  会場かなりボルテージ上がってるよ。後半も凄いよ、きっと」

 「ねぇ、加蓮」

 「ただ、うっかりはしゃぎ過ぎてさー……
  疲れちゃって。少し休めばまた元通りだから」

 「……出ようか?」

 「……うん。ごめん」

問い掛けにも顔を上げない加蓮を、凛はじっと見つめていました。
所在無く立ち尽くしていた奈緒を手招きし、入口の扉へと背を押します。
他の三人にも視線だけで扉を示し、
みんなが出たのを確認してから最後にそっと扉を閉めました。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 21:02:26.63 ID:7gnP6kF90

美嘉が叱ってくれて、
卯月が話してくれて、
プロデューサーが聞いてくれて。

みんなを頼り、自分を信じて積み重ねてきた筈のものが、今にも崩れかけている。
嘲るように目の前で震える脚が、
「助けて」とまた叫ぶだけの小さな勇気を、加蓮の中から奪っていきました。

みんなを失望させてしまう事が、加蓮は何よりも怖かったのです。
きっと、全てを失ってしまうから。


健全な精神は健全な肉体に宿る。
裏を返せば、満足でない身体には弱い心が宿ってしまうという事。

震える脚を前に、とうとう心まで震え出してしまいます。
悪循環が悪循環を呼び寄せて、
彼女の優れた武器である分析力を奪い取っていきます。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 21:03:13.36 ID:7gnP6kF90



……。

255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 21:03:54.25 ID:7gnP6kF90



…………うん。

256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 21:04:46.21 ID:7gnP6kF90



ちょっと、深呼吸してみましょうか。

257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/10(日) 21:05:31.00 ID:7gnP6kF90


 「…………ぁ、え?」


深呼吸。


 「な……なに? 奈緒? 誰……プロデューサー?」


まぁ、いいじゃありませんか。はい、吸ってー。


 「……す――」


吐いてー。


 「――は……っ」


少し、落ち着きましたか?


 「……まぁ、ね」
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