高木社長「ねぇ、キミぃ…」

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8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:13:08.68 ID:V4s4JV6AO
「いや、君は有能だ。少人数しかアイドルがいないとはいえこの765プロの事務をほとんど一人でこなしてくれていることには感謝しかない」

 今更誤魔化しても仕方ない。少し照れる気持ちもあるが日頃の感謝とリスペクトを正直に言葉にした。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:14:05.15 ID:V4s4JV6AO
「けれど…いや、だからこそ思うのだ。君は…765プロで良かったのかと…」

「はぁ…」

 無理をさせている。彼女の有能さに頼り切りになってしまっている。せめてもと、昇給や人手を増やす話を持ちかけたこともある。そこまで余裕があるわけではなかったが、彼女には身銭を切ってもバチは当たらない。そう思って声をかけると彼女はいつもこう言っていた。

『そのお金をあの娘たちに回してあげてください』

『私なら大丈夫ですから』

 いつも、どんな時も彼女から返ってくるのはそんな言葉ととびきりの笑顔だった。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:15:03.53 ID:V4s4JV6AO
「思ったことはないのかい?ここよりも条件が良い場所に行きたいと…」

 アイドル事務所は他にも、いや、アイドル事務所じゃなくたって、彼女の能力ならばどこでも活躍できるだろう。きっと今よりも良い待遇で働ける。私と知り合ってしまったがために、私に情が湧いてしまったがために縛り付けてしまっているのではないか。そんな考えが浮かんだのは一度や二度ではない。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:16:09.17 ID:V4s4JV6AO
「ここより良い場所ってどこですか?」

「え?そりゃぁ、961プロとか、876とか…」

「社長、それ本気で言ってます?」

 久しく見ていなかった心底呆れたというような表情。黒井や石川ならば、彼女も知らぬ仲ではない。特に黒井は今でこそあんな態度を取っているけれど、私のことを抜きにすれば音無君をぞんざいには扱わないだろうというのに。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:17:35.39 ID:V4s4JV6AO
「いや、君に限ったことではないのだ…アイドルの諸君も、私が見つけてきた最高の原石だ…もしかしたら、こんなコネも金も無い私でなければ、もっともっと…」

 彼女たちの実力、才能は本物だ。そんなもの誰が見てもわかる。けれど私はどうだ。業界にほんの少し長く居ただけ。日高舞が引退し、表に立つ者も裏で支える者も多く辞めていったあのアイドル冬の時代に、しぶとく生き残っただけでしかない。こんな男の事務所で無ければ…彼女たちももっと…
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:18:29.91 ID:V4s4JV6AO
「はぁ…そんなに言うなら聞いてくればいいじゃないですか」

「ん?どういうことだね?」

「だから!アイドルの娘たちにも聞いてみたらいいんですよ!765プロで良かったのかどうか!」

「君ぃ…それができれば…」

「できればもへったくれもないですよ!ほら!お仕事はできるところやっておきますから!聞いてきてください!」

「ちょ!?音無君!?」
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:19:23.25 ID:V4s4JV6AO
01

 変なところですぐに行動に移せる実行力は母譲りだろうか。社長室から叩き出されながら、『全員に聞くまで戻ってきたらダメですよ』と言われ、あれよあれよと言う間に鍵までかけられてしまった。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:20:35.78 ID:V4s4JV6AO
「むぅ…困ったねぇ…」

 これではどちらが雇い主なのかわからない。そんなことを考えていると…

「あれ?社長?どうしたんですか?」

「おぉ、天海君」

 ちょうど事務所にやってきたばかりの天海君に声をかけられた。道中、バレてしまわないように変装しているのだろうか、トレードマークのリボンは帽子に隠れ、いつもはしていない眼鏡をかけているが彼女の魅力に変わりはない。
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:21:44.75 ID:V4s4JV6AO
「いや、音無君に締め出されてしまってね…」

「えぇぇぇ!?ど、どういうことですか!?」

「いやいや、私が悪いんだ」

 トップアイドルと言われるようになって尚、こんなくたびれた中年に自然体で話しかけてくれる純真さが眩しい。そんな彼女だからこそ、やはり思う。
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:22:35.88 ID:V4s4JV6AO
「時に天海君。君は…765プロに入って良かったと思えるかね?」

「はい?」

「いやだから…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

 こんな状況ですら、トップアイドルになった彼女だ。きっと他の事務所ならば、日高舞など目ではない。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:23:21.74 ID:V4s4JV6AO
「えっと…他の事務所も何も、私765プロにしか受からなかったんですけど…」

「え?」

 てへへ、と言いながら頬をぽりぽりとかく天海君は恥ずかしそうに照れている。どうして?彼女ほどの逸材が何故…
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:24:10.36 ID:V4s4JV6AO
「私、ダンスも歌も苦手だったから…スクールの成績も良くなかったんです…だからオーディションの時も目立つところにはいませんでした」

 そう語る彼女の目はどこか遠くを見つめているようだった。

「…社長だけでした。オーディションで他の子には目もくれず、端っこにいた私に『ティンときた!』って言ってくれたのは」

 私からすれば、彼女の他には居なかった。どんな状況でも希望を忘れずに前を向き続ける目をしていたのは彼女だけで、その目は今でも変わらない。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:25:19.43 ID:V4s4JV6AO
「だから、私にとっては765プロ以外なんて…考えられないんですよ」

 ニコッと笑った彼女の笑顔がその言葉が嘘ではないことを証明していた。

「そうか…ありがとう天海君」

「はい!社長」

「ん?どうしたんだい?」

「あの…ありがとうございます!」

「うむ…」

 そのお礼は何に対してだろうか。わからないまま、天海君は次の仕事へ向かって行った。
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:26:52.86 ID:V4s4JV6AO
02

「〜♪」

「む?この声は…」

「え?社長?」

「やっぱり君だったか、如月君」

 手持ち無沙汰になった私は、風に当たろうと屋上に向かった。そこで聞こえてきた美しい声の持ち主を間違えるはずがない。如月君だ。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:27:49.69 ID:V4s4JV6AO
「どうしたんですか?こんなところで…」

「いや、何、少し風に当たろうと思ってね…」

「そうなんですか…私も…少し練習の環境を変えたくて…」

 彼女の美しい声。これは誰の目から見ても、いや、誰の耳から聞いても明らかな才能だ。アイドルにして初めてオールドホイッスルに出演した。本場のアメリカでレコーディングもした。彼女ならば、どこでアイドルをしても、いや歌手でだってきっと成功しただろう。だからこそ、気になる。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:28:54.14 ID:V4s4JV6AO
「如月君、君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「はい?」

「いや、君はそもそも歌手志望だっただろう?私はアイドルのプロデュースしかできないから、君にもアイドルとしてデビューしてもらったが…」

 如月君が、アイドルの活動に気乗りしていなかったことは知っていた。それが原因で番組のスタッフや、プロデューサーの彼と衝突したということも。もしもアイドルではなく、最初から歌手としてデビューしていれば、そんなことも無かったのではないか。私は思ったことをそのまま伝えることにした。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:30:02.98 ID:V4s4JV6AO
「そう…ですね…確かにそうだったかもしれません…」

 如月君は私の話を聞いた後、考えながら絞り出すように返事をしてくれた。

「けれど、今の私があるのも765プロのおかげです」

 そう言った如月君の目はあの時とは違っていた。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:31:02.43 ID:V4s4JV6AO
「もう一度歌えたのも、過去を乗り越えられたのも…母と…和解できたのも、765プロのみんなと一緒だったから…みんなが支えてくれたから…そして、それに気づかせてくれたから…」

 話すことが得意では無い彼女。けれど、それでも必死に言葉をかけてくれる。まるで私に『伝えなければならない』と思っているかのように。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:31:45.95 ID:V4s4JV6AO
「だから、今度は私の番なんです…その…上手く言えないですけど…私はここを守りたい」

「如月君…」

「だから、私は…今はもう、ここ以外は考えられないですね」

「…っ」

 あぁ、彼女はこんな風に笑うのか。そんな風に笑える場所に私の事務所はなっていたのか。まだまだ自信とは言えないけれど、少し心は晴れた気がした。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:33:07.85 ID:V4s4JV6AO
「ありがとう、如月君」

「いえ、こちらこそありがとうございます」

 如月君も、天海君と同じように逆にお礼を返してくる。それが何に対してか聞き返す前に、彼女は自主練に戻ってしまった。私は大人しく室内に戻ることにした。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:33:55.20 ID:V4s4JV6AO
03

「う、うーん…むにゃむにゃ…」

「おや?ソファに誰かいるのかね?」

「ん?うーん…あ、社長…おはようなの…」

「あぁ、おはよう美希君」

 ふわぁ、と大きな欠伸をしてソファから起き上がったのは美希君だ。何かと一芸に秀でた者が集まるこの事務所で、『天才』と言えば彼女のことを指す。彼女も成功するべくして成功したと言えるだろう。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:34:41.29 ID:V4s4JV6AO
「時に美希君。少し、変なことを聞くようだがね…君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「うーん…無いよ?」

「ははは、そうか。即答とは嬉しい限りだね」

 彼女は迷うということをしない。それが彼女の天才たる所以なのだろうが。確かにこと彼女においては『辞めずに今ここにいる』ということが、765プロ以外考えていないということの証拠なのだろう。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:35:32.17 ID:V4s4JV6AO
「けれど、辞めたくなったことはあるんじゃないかね?」

「うーん、確かにそれはあるの」

 美希君は事務所随一の気分屋だ。今でこそプロ意識の高さも他のアイドルと変わりないが、最初の方は割と彼女に振り回されることも多かった。かくいう私も彼女のおにぎりを間違えて食べてしまい、辞める辞めないの大騒動を引き起こしてしまったことがある。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:36:23.80 ID:V4s4JV6AO
「でもね、それはアイドルそのものを辞めようとしただけなの。多分他の事務所にまで行って、美希アイドルやらないよ?」

「ほぅ、それはどうしてかな?」

 彼女の天才性は黒井好みだ。もしも961プロにいたらと思うと恐ろしい。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:37:39.80 ID:V4s4JV6AO
「だってここじゃないと楽しくないの」

 返ってきた答えは彼女らしく至極簡単な答えだった。

「君のスタイルなら、例えば黒井とも上手くやれるかもしれないよ?」

「冗談キツいの。ミキあそこには絶対行かないの」

 なんかジメジメしてそうだし。と彼女らしい表現の仕方をする。彼女にそう言われると、黒井がどこか湿っているように思えるから不思議なものだ。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:38:51.30 ID:V4s4JV6AO
「ミキね、大体のことはできるの」

 これが嫌味ではなく事実なのが彼女のすごいところだ。

「でもね、ここにはミキが敵わない人がたくさんいるの」

「そうかい?」
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:39:50.14 ID:V4s4JV6AO
「歌は千早さんに敵わないし、ダンスは真くんや響に勝てないでしょ?うーん、おっぱいも自信あるけど貴音やあずさに勝てないの」

「ははは、そう言われたらそうかもしれないね」

 もしかすると、美希君にとって『誰かに勝てない』というのは貴重な経験なのかもしれない。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:40:33.04 ID:V4s4JV6AO
「番組の司会も春香みたいに上手くできないし、デコちゃんみたいにツッコミもできないの」

「…」

 水瀬君には黙っておこう。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:41:36.29 ID:V4s4JV6AO
「律子さんみたいに周りを見て動けないし、亜美真美みたいに面白いことも言えないの」

 いつもは『律子…さん』と言っているけれど、その実ちゃんと尊敬しているのはみんな知っている。水瀬君よりもよっぽどツンデレだ。

「雪歩みたいにお淑やかでも無いし、やよいみたいにお料理もできないの」

「ほう…」

 ちゃんと見てるじゃないか。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:42:25.12 ID:V4s4JV6AO
「だからね、みんなのいいところをいーっぱい見せてもらって、ミキはもっともっと輝くの」

 他の人の良いところまで自分のものにする。できると信じ、実際にできる。だから彼女は『天才』なのだ。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:43:10.49 ID:V4s4JV6AO
「社長、ありがとね」

「ん?何がだい?」

「zzz〜」

「ちょ…君ぃ…」

 答えをもらう前に、美希君は夢の世界にもう一度旅立ってしまった。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:44:05.63 ID:V4s4JV6AO
「ふむ…しかし、こうしているとステージとは別人だね…」

 年相応の彼女の寝顔に少し安心する。けれど、年頃の女の子が寝ているところにこんな中年がいるのはいただけない。私は美希君に仮眠用の毛布をかけた後、別の部屋に移動することにした。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:44:56.61 ID:V4s4JV6AO
04

「あ、社長!おはようございます!」

「うむ、おはよう菊地君」

 部屋を出たところで菊地君に出会った。空手をやっていたという彼女の竹を割ったような性格はアイドルを通り越して人としての魅力だ。ランニングの途中に水を取りに来たらしく、非常にスポーティな格好をしている。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:45:45.35 ID:V4s4JV6AO
「どうしたんですか?こんなところで」

「いや、何、みんなに少し聞きたいことがあってね…」

「聞きたいこと?」
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:46:25.74 ID:V4s4JV6AO
「菊地君、君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「うーん…ありませんね」

 彼女もまた即答だった。即断即決とは美希君とは違った意味で彼女らしい選択だ。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:47:11.24 ID:V4s4JV6AO
「どうしてか…なんて、聞いてもいいかな?」

「え?だって普通の事務所なら売れるかどうかもわからないアイドル候補生の父親の説得なんてしてくれないでしょ?」

「はは、そんなこともあったねぇ…」

 菊地君の父親は、彼女のアイドル活動に反対していた。そんな父親の説得に音無君と二人で出向いたのは今ではいい思い出だ。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:48:08.87 ID:V4s4JV6AO
「多分父さんが、紛いなりにもアイドル活動を許してくれてるのは、あの時社長が来てくれたからだと思うんです」

 菊地君の父親は、今でもそこまで彼女のアイドル活動に乗り気ではない。ことあるごとに彼女を空手の道に戻そうとしているということも彼女から聞いている。それでも、形だけでも許してくれたのは、あの時我々の熱意が伝わったからなのだろうか。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:49:08.13 ID:V4s4JV6AO
「だから僕決めたんです。社長みたいに、真っ直ぐ、心でアイドルをするって…」

「ははは…菊地君…」

 知らない間に、彼女はそんな風に思っていたのか。思っていてくれていたのか。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:49:48.98 ID:V4s4JV6AO
「だから…社長、僕はここ以外でアイドルなんてできません」

「…」

「社長!いつも、ありがとうございます!」

「…こちらこそ」

 私が返事をするかしないか、そんな僅かな間に菊地君は走り去っていってしまった。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:50:44.48 ID:V4s4JV6AO
05

「あれ?社長?」

「おぉ、萩原君」

 少し話疲れた私は、お茶を飲もうと給湯室に入ると萩原君がいつものようにみんなにお茶を入れていた。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:51:30.09 ID:V4s4JV6AO
「あ、社長もお茶飲みますか?」

「あぁ、いただこうかな」

 そう言って、手際よくもう一人分のお茶を用意する。こうして彼女がお茶を入れてくれるのは765プロでは見慣れた光景だ。彼女はオフィスに行き、音無君、律子君、そしてプロデューサーの彼の席にお茶を置いた後、私と共にソファに腰をかけた。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:52:05.10 ID:V4s4JV6AO
「はい、どうぞ」

「うむ、ありがとう」

「今日は玉露を入れてみたんですけど…」

「あぁ、美味しいよ…」

「ふふ、良かったぁ…」

 思えば音無君が入れてくれたお茶も彼女の持ってきてくれた玉露だった。私はそんなに、誰の目から見てもわかるくらい疲れた顔をしていたのだろうか。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:52:47.73 ID:V4s4JV6AO
「萩原君は、いいお嫁さんになるね」

「え、えぇ!?」

「はは、ごめんごめん。今はこういうのもセクハラになるんだったね…」

「い、いえ、そうじゃなくて、わ、私が男の人と結婚なんて…想像できなくて…」

「そうかい?」

 彼女が男性を苦手にしているのは知っている。むしろそれを克服するためにアイドルになったのだから。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:53:40.85 ID:V4s4JV6AO
「君はもう十分、強くなったと思うけれど」

「わ、私なんて、まだまだダメダメですぅ…」

「いやいや、君が強くなっていることはみんなわかっているよ」

 以前ほど男性を拒絶しなくなった。今こうして私と話ができているのが何よりの証拠だ。苦手だった犬もある程度克服した。最初は緊張で動けなかったライブでも、今ではしっかりアピールできる。この765プロで一番成長したのはもしかすると彼女なのかもしれない。しかし、そんな彼女の成長に私は応えられているのだろうか。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:54:41.70 ID:V4s4JV6AO
「萩原君…君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「え?うーん…無い…と思います」

 不安そうに、しかししっかりとした口調で答える彼女からは芯の強さがうかがえる。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:55:29.91 ID:V4s4JV6AO
「もちろん、辛いこともありましたけど…でも、いつだってみんなが励ましてくれて…」

「ほぅ…」

「私…ダメダメだから…できないことも多くて…今まで…学校なんかじゃ『ぶりっ子』とか『あざとい』とか言われたこともあったんです…」

 確かに彼女の可憐さは男性を惹きつける魅力だ。しかし、それは同時に同年代の女子からのやっかみも引きつけることになるのかもしれない。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:56:40.56 ID:V4s4JV6AO
「でも、765プロのみんなは違いました…そりゃあできないことで怒られることもあったけど、誰もバカにしたり、意地悪を言ったりしなかったから…」

 そこで言葉を区切った萩原君は、大きく息を吸い込んで、続ける。

「だ、だから私!765プロで良かったです!もう一度…いいえ、例え何度アイドルを始める前のあの瞬間に戻っても、私は765プロを選ぶと思います!」

 普段大声を出すことなんてそうそうない萩原君のその叫びは、私の心の深くに突き刺さった。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:57:26.08 ID:V4s4JV6AO
「…って、ごめんなさい!私ばっかり喋って…お茶も…ぬるくなっちゃいましたね…入れなおしてきます」

「…いいや、これをいただくよ」

「え?でも、これぬるくなって…」

「いいんだ」

 そう言って、私は湯呑みに入った玉露を一気に飲み干す。少しぬるくなっていたおかげで玉露の甘みをより一層感じることができた。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:58:16.35 ID:V4s4JV6AO
「うむ!美味しい!ありがとう、萩原君!」

「いえいえ、私の方こそありがとうございます」

 お茶のお礼をするのはこちらなのだが、またしても逆にお礼を言われてしまった。何に対するありがとうなのかを聞こうとしたが、それを聞く前に萩原君は私の湯呑みを片付けるために給湯室に下がってしまった。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:59:03.34 ID:V4s4JV6AO
06

「ただいま!スーパーアイドル伊織ちゃんのお帰りよ!」

「おぉ、水瀬君。おはよう」

「あら?社長しかいないの?…というか珍しいわね、社長がこんなところに座ってるなんて…」

 仕事終わりで事務所に戻ってきたのは水瀬君だ。今日も朝早くからラジオの収録があった。華々しい外見、言動とは裏腹にこうした地味でキツい仕事も地道にこなし、手を抜かないのが彼女の魅力だ。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 20:59:47.41 ID:V4s4JV6AO
「あぁ、萩原君から玉露をいただいていてね…」

「ふぅん、まっ、私はオレンジジュース派だけど…」

 そう言って彼女は冷蔵庫から、愛飲している果汁100%のオレンジジュースを取り出す。普段ならば、こんな少しの距離でさえプロデューサーの彼に取りに行かせる彼女だが、私と二人の時には自分で取りに行く。あれは彼に対する一種の愛情表現なのだろう。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:00:47.55 ID:V4s4JV6AO
「それに現場を離れて久しい身としては、こうしてアイドル諸君と交流を持つことで、初心を思い出しているのだよ」

「ふぅん…」

 私の話を水瀬君は、オレンジジュースのストローをいじりながら興味なさげに聞く。おっと、初心を思い出すと言った側からアイドルに気を使わせてしまったか。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:01:35.99 ID:V4s4JV6AO
「そういうのもいいけど、社長は765プロのトップなんだから。奥でドシッと構えていてもらわないと他の事務所に舐められるわよ?」

「ははは、これは手厳しいね…」

 彼女は水瀬財閥のお嬢様。兄二人が優秀で、自身は帝王学を学ばせてすらもらえなかったと言っているが、彼女の思考はまさしく王者のそれだ。そして、その思考を実現するだけの力はどれだけ泥に塗れようとも掴み取る。だからこそ思う。こんなコネも金も無い事務所でなければもっと早く…
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:02:31.92 ID:V4s4JV6AO
「どうしたのよ、なんか元気無いじゃない」

「水瀬君…君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「はぁ?他って…例えば?」

「ほらうちには961プロや東豪寺プロのような資金もコネも無い。実家を見返すために成功するのなら、そちらの方が良かったのではないかと思うのだよ」
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:03:43.39 ID:V4s4JV6AO
「…」

「いや、もちろん私としては君がここを選んでくれたことは素直に嬉しいよ。しかしだね、君の実力を考えると…それこそコネがあったというだけなら君の家が筆頭株主のこだまプロでも…」

「何言ってるの?」

「え?」

「私は実家を見返すためにアイドルになったのよ?それなのに実家の傘下の事務所に入るなんておかしいじゃない」

 確かに、彼女の性格を考えればそんなことを良しとはしないだろう。
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:04:26.76 ID:V4s4JV6AO
「それに私はワガママなの。961プロ?嫌よあんな成金趣味の事務所。東豪寺?麗華に頭を下げるなんて死んでも嫌」

 真っ直ぐに私の目を見つめる。実は照れ屋な彼女とこうして目が合うことは珍しい。

「だから私はここがいいの。お金が無い?コネが無い?上等よ。全部私が作ってあげるわ」

 その力強い言葉で自らを奮い立たせる。嗚呼、この子はこうやって戦ってきたのか、十五年間ずっと。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:05:29.78 ID:V4s4JV6AO
「社長、こんなチンケなビルで満足しないでよね?いつか私が…あの時押しかけてきた小娘が、水瀬財閥だって持ってないような大きな事務所にしてあげるんだから」

 彼女が押しかけてきた時は面食らったものだ。私など父親の知り合いの中でも末端の末端。向こうからすれば胡散臭い業界人でしかなかっただろう。しかし、彼女はそんな薄い縁を伝って、握りしめてここまでやってきた。その意志の強さを美しいと思った。だからこそ、彼女をうちに入れたのだ。

「最後にこれだけは言っておくわ…ありがと…」

 そう言って彼女は逃げるように次の仕事に向かって行った。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:06:22.89 ID:V4s4JV6AO
07

「おはようございます〜」

「おぉ、三浦君。おはよう」

 次に事務所にやってきたのは竜宮小町のメンバー、三浦君だった。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:07:09.14 ID:V4s4JV6AO
「なんだか凄い勢いで伊織ちゃんが走って行ったんですけど…」

「そうか、入れ違いだったか…ところで三浦君、君は今日オフではなかったかね?」

「えぇ、そうだったんですけど…近所のパン屋さんに行って帰ろうと思ったらいつの間にか…」

「あぁ…そ、そうだったのか…」

 売れっ子になっても方向音痴が治らないのは些か心配だけれども、不思議なことに(というよりプロデューサーの二人のおかげで)今まで大きな遅刻はしていないということだから地道に頑張っていく他無いのだろう。これでもパン屋にはたどり着けているのだから成長しているのだ。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:07:51.89 ID:V4s4JV6AO
「それならば送って行こう」

「えぇ…そんな、悪いですよ」

「何構わないよ。ちょうど暇していたところでね」

「そうなんですか?それじゃあ…」

 遠慮がちなところも奥ゆかしい。嫌味にならないところで受け入れてくれるのも枯れかけたおじさんであるところの私としては嬉しいことだ。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:08:41.64 ID:V4s4JV6AO
「それでそこのパン屋さんが少しおまけしてくれたんです」

「ほぅ、それは良かったね」

 車内では他愛のない話が弾む。本来ならば同年代の女性…うちで言えば律子君くらいと話をしたいところだろうが、そんなことは微塵も出さずにこんな中年の相手をしてくれている。全くできた子だ。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:09:29.27 ID:V4s4JV6AO
「ふぅ…」

「社長さん?どうかしましたか?」

「いや、少し考えごとがあってね」

「考えごと?」

「他の子たちにも聞いてるんだが…三浦君、君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:10:35.50 ID:V4s4JV6AO
「あら?私もしかしてクビになるんですか?」

 クスクスと笑いながら答える彼女に揶揄われるのは嫌な気はしない。

「いや、君程の逸材がこんな弱小事務所で燻っているのは申し訳なくてね…それに君の夢は『運命の人』を見つけることなんだろう?」

 アイドルにとってスキャンダルは厳禁だ。もしも彼女が運命の人を見つけたのなら、両手を挙げて喜びたいところだが、スポンサーや他の事務所との兼ね合いで円満に引退させてあげられるかもわからない。そんな世界に招いてしまったことも気がかりだった。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:11:27.70 ID:V4s4JV6AO
「うーん…そうですねぇ、でもね、社長さん。私、ここに入る前にバイトをクビになってるんです」

「ん?あ、あぁ…」

「運転免許も二年かけても取れませんでした。手早く、器用にするっていうのが苦手なんです」

「でもじっくり丁寧にできるのが君の素晴らしいところだと思うけれどね」

「ふふ、そうやって言ってくれるから、私はここにいるんですよ」

 そう言って彼女は美しく微笑んだ。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:12:12.85 ID:V4s4JV6AO
「普通の事務所じゃあ、タレントの送り迎えを社長が自らなんてしませんよ。そんな社長がいる事務所だから、765プロは温かいんです」

「…」

 私にとってはこんなこと普通のことだ。社長にとって、社員やアイドルは宝なのだから。それを上手く伝える方法を考えているうちに彼女は続ける。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:12:57.75 ID:V4s4JV6AO
「知ってますか?社長、私ね、今日みたいに間違えて事務所に来ることはあっても、事務所に行こうとして間違えることはないんですよ?」

「…ほう、それはまたどうしてかな?」

「私にもわかりません。でもね、もしかしたら、それは私があの場所に惹かれてるからかもしれない…って思うんです」

 少し乙女チック過ぎますかね?なんてハニカミながら話す彼女の美しさは言葉にできないほどだった。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:13:46.97 ID:V4s4JV6AO
「あら、もう着いちゃいましたね」

「お、ほ、本当だね」

 バックミラー越しに三浦君に見惚れているうちにどうやら車は彼女の家の前まで来ていたようだ。(事故が起きなくて本当に良かった)
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:14:35.25 ID:V4s4JV6AO
「それじゃあ社長。私はここで…」

「うむ、しっかり休んでくれたまえ」

「ありがとうございました…そして、ありがとうございます」

 投げかけられた二つのお礼。一つは送迎についてだろう。もう一つは…それを確認する前に、後部座席のドアは閉められてしまった。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:15:31.74 ID:V4s4JV6AO
08

「うぎゃぁぁぁあ!?」

「ん?あれは?」

 三浦君を送った帰り道、道の真ん中で頭を抱えて叫んでいる我那覇君を見つけた。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:16:16.46 ID:V4s4JV6AO
「どうしたんだね?我那覇君」

「社長!?どうしてここに…ってそんな場合じゃないんだ!」

 いつも『完璧』『なんくるない』と自信満々の彼女だが、実はこんな風に取り乱すことは少なくない。こういう時はひとまず落ち着かせることが先決だ。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:17:06.84 ID:V4s4JV6AO
「まあ落ち着きたまえ。ほら、車に乗って」

「う、うん…」

 我那覇君を車に乗せて、ひとまず彼女の家に向かって走り出す。今日は彼女もオフだったはずだ。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:18:08.10 ID:V4s4JV6AO
「一体どうしたんだね?慌てふためいて…」

「それが…それが…ハム蔵が居なくなっちゃったんだ!」

「何だと!?」

 我那覇君はたくさんのペット(本人は家族と呼んでいる)と一緒に暮らしている。確かハム蔵君はその中でも特に一緒にいることの多いハムスターだったはずだ。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:19:04.68 ID:V4s4JV6AO
「それは心配だね…何か心当たりはないのかい?」

「それがないんだ…今日はみんなのご飯を買い溜めしに行く予定だったんだけど、その途中で居なくなっちゃって…最近は喧嘩もしてなかったのに…」

 動物と会話ができる我那覇君の家族たちは動物の割には皆賢い。中には常識では考えられないほど人間臭い行動をするような者もいる。(たしかハム蔵君は以前合宿をした際に温泉を楽しんでいたらしい)
 そんな賢い動物が行方不明になるのは確かに心配だろう。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:19:54.56 ID:V4s4JV6AO
ス-リルノナイアイナンテ-

「ん?」

「あ、自分だぞ…家から?ごめん、社長出てもいい?」

「あぁ、構わないよ」

 こんな場面でも、礼儀を忘れない。親御さんの丁寧な教育が垣間見える。けれど、我那覇君は確か沖縄から出てきて一人暮らしだったはず。その一人暮らしの家から電話…これはまた別の心配をしなければならないか…そんなことを考えていると…
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:20:44.57 ID:V4s4JV6AO
『ヂュイ!』

「は、ハム蔵!?」

 なんと、電話の相手は話題のハム蔵だった。いやはや、まさか電話まで使えるとは思わなかった。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:21:37.15 ID:V4s4JV6AO
「どこに行ってたんだよ!自分心配してたんだぞ!」

『ヂュイヂュイ』

「え?財布…あ、確かに…忘れてる…」

『ヂュヂュイ』

「それを取りに帰ってくれてたの?」

『ヂュイ』

「そっか…でもそういう時は一言言ってよね!」

 相変わらず、彼女と動物たちの会話は面白い。友達のようできょうだいのようでもある。(この場合、姉弟なのか兄妹なのかは本人の名誉のために伏せておこう)
 溌剌とした性格に隠れているが、彼女の慈愛に満ちた心がそうさせるのだろう。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:22:24.33 ID:V4s4JV6AO
「ごめんね、社長…自分が財布忘れてたから…」

「ははは!なぁに、何の問題もない。ハム蔵君が無事で何よりだ」

 彼女にはこのまま家まで送って行くことを提案した。もう彼女の家は目の前だったから。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:23:09.71 ID:V4s4JV6AO
「何ならお店まで送ろう。あれだけの家族がいたらご飯の量も多くなってしまうだろう?」

「え?いいの!?」

 むしろ徒歩でどうするつもりだったのかと問えば、当たり前のように何往復もするつもりだったと言う。大人を頼ればいいと思うが、それが彼女なりの家族に対する責任なのだろう。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:24:14.79 ID:V4s4JV6AO
「だから休みの日じゃないと中々行けないんだー」

「ふぅん、なるほどねぇ」

 ハム蔵君と財布を連れて降りてきた彼女は付き物が取れたかのように普段の明るい調子を取り戻した。この笑顔を見られるだけで声をかけた甲斐があると、我ながら少々気持ちの悪いことを考えながら、店に向けて車を走らせる。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:24:56.54 ID:V4s4JV6AO
「あ、ごめん、自分ばっかり話しちゃって…社長は何か喋りたいことない?」

「そうだねぇ…我那覇君、君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

 我那覇君から話を振られたので、彼女にも思い切って聞いてみることにした。すると…

「えぇぇぇえ!?ど、どうしたんだ!?ま、まさか、765プロ倒産するのか!?」

「え?」
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:25:39.48 ID:V4s4JV6AO
「うぎゃぁぁぁあ!?そんなの困るぞ!?そんなに危なかったのか…いや、でも新しい事務所もできたばっかりで…はっ!?もしかしてその時のお金が足りなかったの!?」

 話がどんどん膨れ上がっていく。猪突猛進型の彼女はこういうことがままあるが…

「落ち着きたまえ。心配しなくても765プロは倒産しないよ」

「そうなの!?」

「あぁ、そうとも」
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:26:30.32 ID:V4s4JV6AO
「良かった…じゃあなんであんなこと言ったの?」

「いや、だからね…」

 私は我那覇君にも、今までの子たちと同じように説明することにした。

「君たちはよく頑張ってくれた。それはもう雑居ビルの一室から始まった、金もコネもない事務所でトップアイドルになるほどに…」

「…」

 いつも賑やかな彼女が真剣な面持ちで私の話を聞いている。その状況にむず痒さを感じながらも私は続ける。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:27:18.05 ID:V4s4JV6AO
「けれど、他の事務所なら…もっと資金力もコネクションもある事務所ならば、君たちの魅力をもっと引き出せたんじゃないかと考えてしまってね…特に君と四条君は、961プロにも居たから…」

「…うん」

 我那覇君と四条君は961プロから訳あって移籍してきた。マスコミやネットを使って印象操作をする黒井のやり方は正しいとは思わないが、私と黒井、どちらが一般的なやり方かと言われれば黒井の方だ。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:27:57.81 ID:V4s4JV6AO
「ははは、黒井の事務所とは大違いだっただろう?すまなかったね…」

「ううん…いや、確かに違ったけど別に謝ることなんて何もないぞ」

「しかし…」

「自分ね…」

 静かに、しかし、はっきりと聞こえる口調で彼女は語り出した。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:28:45.80 ID:V4s4JV6AO
「自分ね、961プロに居た時は…デビューしてすぐに今と同じくらいの仕事があったし、練習の環境も確かに今と同じくらいいい環境でさせてもらってたぞ…」

 765プロは今でこそ売れているが、それこそ彼女たちが移籍してきた直後はボイトレも毎回はトレーナーを付けられなかった。そんな環境でも彼女たちが頑張ってくれたからこそ今がある。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:29:34.77 ID:V4s4JV6AO
「だけどね、全然楽しくなかった。『クールでいろ』『圧倒的な力でねじ伏せろ』そんなことばかり言われて、他のアイドルはみんな敵だって教えられたぞ…」

 それはそれで黒井の愛情なのだが、そこが上手く伝わらないのがアイツの不器用なところだ。

「だからね、春香に負けた時…びっくりしたんだ、『こんな世界もあるんだ』って…」

 その後、彼女たちは961プロダクションを解雇されうちにやってきた。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:30:29.18 ID:V4s4JV6AO
「それでダメ元で765プロに声をかけたんだ…まさか本当に移籍できるなんて思ってなかったけど…」

 我那覇君は移籍できたことや、天海君たちが何のわだかまりも無く受け入れてくれたことに衝撃を受けたそうだ。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:31:29.65 ID:V4s4JV6AO
「ははは、そんなにびっくりしたかね?」

「そりゃそうだぞ!普通そんなことあり得ないだろ?」

「そうかも…しれないねぇ…」

「自分、今の765プロが大好きなんだ。自分が自分でいられるから…前の事務所じゃあ貴音以外動物と話せるなんて言っても信じてくれなかったから…」
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:32:18.76 ID:V4s4JV6AO
「いやいや、動物の言葉がわかるくらいで驚いてたらダメだろう。なんせ我々は人の心を動かさないといけないのだからね!」

「ふふ、何それ…本当に社長はお人好しだぞ…」

 お人好しなのは君の方だろう。という言葉は飲み込む。求められる期待を全て背負い込んで、全てを実現させようとするなんて君しかいない。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:33:01.79 ID:V4s4JV6AO
「でも、そんなお人好しの社長だからかな?765プロがこんな事務所になったのは…」

「そう…なのかな…」

「うん、多分きっとそうだぞ」

 なんだか納得されてしまったけれど、最後に一つだけ彼女に言っておくことがある。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:33:44.65 ID:V4s4JV6AO
「私はそこまでお人好しじゃないよ。君や…黒井に比べたらね」

「黒井社長が?でも、黒井社長は…」

「君がさっき言っただろう?『普通はあの状況で移籍なんてできない』って」

「だからそれは社長が…」

「あぁ、だけど、それだけじゃあ成立しないのがこの世界だ…それこそ、前の事務所の社長が頼みでもしない限りね…」

「!?」

 アイツはあれでちゃんと、愛がある人間なんだよ。と憎まれ役にしかなれない不器用な彼の代わりに嘯いてみる。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:34:27.78 ID:V4s4JV6AO
「そっか…そうだったんだ…ねえ、社長」

「ん?どうしたんだい?」

「ありがとね」

 そう言い残して、彼女は大量の動物たちのご飯を持って帰っていった。そのありがとうは私にか、それとも黒井にだろうか。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:36:19.72 ID:V4s4JV6AO
09

「うーん、ラーメンの並を一つ」

「あい!ラーメン並入りまぁす!」

 我那覇君を送り届けた後、私は昼食をとっていないことに気づき、近場のラーメン屋に入ることにした。思えば最近は社長室で出前を頼むことが増えた。プロデューサーをしていた当時はこんな風に出先で流し込む様に食べるのが常だったと思い返す。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:37:03.14 ID:V4s4JV6AO
「すいません、お客様」

「ん?どうしたのかな?」

「申し訳ありませんが相席よろしいでしょうか?」

 そうそう、この感じだ。少ない時間の中で食事を取らなければならないこの雰囲気を今の今まで忘れていた。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:37:46.91 ID:V4s4JV6AO
「すいません、高木殿」

「ぶふぉ!?」

 そんな懐かしい感覚も目の前に座った四条君に吹き飛ばされた。

「相席ありがとうございます」

「いや、君は…四条君は何を…」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:38:30.50 ID:V4s4JV6AO
「いえ、撮影の合間を縫って昼餉をと思いまして…」

「今日の仕事は確か…」

「らぁめんの食れぽでございます」

「そ、そうかね…」

 ラーメンの合間にラーメンを食べる。いや、彼女の好物だとは知っていたがそこまでだったとは…やはり四条君に関してはまだまだ知らないことが多い。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:39:11.18 ID:V4s4JV6AO
「申し訳ありません。まさか払っていただけるとは…」

「いやいや、ここは年長者に華を持たせてくれたまえよ」

 ラーメン屋から出て、ロケ現場に一緒に向かう。この際だ、予定には無かったがアイドル諸君の仕事を見ておくことも必要だろう。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:40:01.50 ID:V4s4JV6AO
「四条君は本当にラーメンが好きなんだね」

「そうですね、らぁめんとは奥深いものです。これほど食べてもまだ深淵には辿り着けません」

「なるほどね…」

 思えば私もまだ四条君のことはよくわかっていない。彼女は事務所のことをどう思っているのだろうか。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:40:46.53 ID:V4s4JV6AO
「時に四条君。君は…他のプロダクションならばよかったと…思ったことはないかい?」

「はて?他のぷろだくしょん…ですか?」

「あぁ、君は…765プロで良かったかな?」

 彼女もまた我那覇君と同じく961プロから移籍してきた。あのまま961プロに居たならば、今とは違う未来があっただろう。それがどうなるかはわからないが、今よりも良いものになっていた可能性も0ではない。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/22(火) 21:41:36.72 ID:V4s4JV6AO
「愚問ですね。私は自分で選んでここに来ました。その選択に後悔などあろうはずがありません」

 そんなモヤモヤと悩む私の思考を両断するかのように四条君はそう断言する。

「それは、何故かな?」

 私にはわからなかった。四条君は他のアイドルの子たちと比べてもわからないことが多い。出身地はおろか、両親すらもわからない。だから、彼女がどうしてそう思ってくれているのか想像ができなかったのだ。
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