工藤忍「染まるよ」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:11:51.14 ID:+p98PieH0
「大丈夫、ひとりで帰れるから。……それじゃあ、お疲れ様でした」
 未練が私を座布団に縫い止めて、『しんでれら』を出たのはずいぶん遅くなってしまった。のれんを上げて夜風を吸い込むと、後ろからプロデューサーさんに呼び止められる。家まで送ろうかという申し出はやんわり断った。歩いて帰っても差し支えないくらいの距離だし、私ももういい大人だし。なにより、まだ賑やかなままの座敷から主役の彼を連れ出していいわけはない。
 夏にしてはひんやり涼しい、いい夜だった。雨上がりの空に月は首を傾げながら、じきに訪れる満月の晩を待っている。湿った風が火照った顔にちょうどよくて、私は歩調を少しだけゆるめた。少し離れたところで踏切の音が鳴った。時間を考えるとたぶん終電だったんだろう。あたりには車の通りもまばらで、東京は穏やかに夜を越そうとしていた。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1765599111
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:12:22.79 ID:+p98PieH0
 事務所の近くにある居酒屋からの帰り道は、どうしたっていつもの帰り道と重なってしまう。見慣れたコンビニ、高架、そばの国道でほとんど意味を失った信号たち。何度もプロデューサーさんと歩いた道だ。私はよくレッスンルームに遅くまで居残っていたから、帰りが夜道じゃ危ないだろうと、たびたび面倒をかけてしまっていた。
 律儀な人だった。優しい人でもあった。レッスンの厳しかった日はコンビニに寄って、アイスを買ってくれたり、肉まんを買ってくれたりした。そういうとき、彼は決まって、おれが食べたいからだぞ、と前置きをした。おれが食べたいから買うんだ。でも、おれだけが食べてると体裁が悪いからな。忍にも買ってやるよ。内緒だぞ? ――毎回、ちゃんとそうやって前置きをするのがおかしかった。
 コンビニの窓から夜勤の店員さんの顔が見える。私はふと、足を止めた。
 今日はいつもと違う道から帰ろう。いま、この道を通るのは、ちょっとだけつらい。
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:13:10.13 ID:+p98PieH0
 横道に入ると、コンビニの室外機がごうんごうんと唸っていた。濡れたマンホールを避けながら、等間隔に立つ街灯をたどって歩く。明かりの足元には必ずなにかが置いてあった。なぜかサドルがない折りたたみ自転車、縛られた古雑誌の束、積み重なったビールケース。四つめの街灯はシャッター倉庫を照らしていた。セメントの壁に描かれた、いびつな字体の『LOVE』。
 この道から帰っても、表通りから帰っても、うちのアパートまでかかる時間はそんなに大きく変わらない。でも、普段ここを通ることは基本的にない。夜なんて特に、あまりすてきな雰囲気の通りではないから。街灯に照らされた私の白いブラウスは、なんだか白すぎて不自然なくらいだった。 
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:14:55.18 ID:+p98PieH0
 細い路地の終わりにきらびやかなネオンが光っていた。明滅する淡い光で組み上げられたスナックの看板の、すぐそばに自販機があった。型の古い煙草の自販機が一台だけ、店内から漏れてくるカラオケを聞きながらひっそりと動いている。光にたかる虫を目で追っているうちに、私は知った銘柄のダミーを見つけた。
 パーラメントというその煙草は、プロデューサーさんが好んで吸っている銘柄だった。彼の背広の内ポケットにはいつでもそれが入っていた。私の前で吸うことこそしなかったけど、スーツに染み込んだその匂いはよく覚えている。私はあまり好きな匂いではなかった。でも、嫌いになれない匂いだった。嫌いになるわけにはいかなかった。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:16:07.38 ID:+p98PieH0
 もう大人なんだから、べつに許してもらえるはずだ。
 一度くらい煙草を吸ってみたくなって、私は白のパーラメントをひと箱買うことにした。いまどき珍しいICカードのいらない自販機に、千円札を飲み込ませてボタンを押す。煙草の落ちる軽い音を聞いて、そういえば自分が火の気を持っていないことに気付いた。しまったなあ、ひとり苦笑いをしながらおつりのレバーを押し込む。小銭を取ろうとしたとき、指先に硬貨とは違う感触が当たった。反射で手を引っ込め、取り出し口をそっとのぞく。すると、十円玉と百円玉が重なる下に、誰かが捨てていったらしい小さなライターが見えた。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:17:44.00 ID:+p98PieH0
 拝借したそのライターはもうガスが切れかけていて、何度も試してやっと火が点いてくれた。火が点いたときに私はまだ煙草の準備ができていなくて、片手でライターを押さえながら、もう片方の手で箱の封を切って……と、ずいぶんわたわたした。
 不器用な格闘の末にようやくフィルタをくわえ、私は優しく息を吸い込みながら火を点けた。からだの中に慣れない感覚が流れ込む。喉をいぶす重い苦味にむせそうになったけど、ぐっとこらえて、ゆっくり吐き出した。白い息がぷかぷか揺れながら空に上がっていく。鼻に残った匂いは思っていたよりずっと強くて、目をつむればすぐそこにあの人がいるみたいだった。目を開けたらもちろん隣には誰もいない。空のずっと高いところから月が私を見咎めているだけ。――涙がにじんでしまうのは、煙が目に染みたせいだ。
 だから、プロデューサーさんが結婚することなんて、私の涙にはちっとも関係ない。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:19:27.64 ID:+p98PieH0
「忍の気持ちは嬉しいけど、応えることはできないよ」
 もう何年も前のことを、いまでも鮮明に思い出せる。困ったような顔のプロデューサーさんは、子どもをあやすような手付きで私の頭を撫でた。
「おれみたいなおっさんは、高校生を恋愛の対象として見れない。見ちゃいけない、って言い換えてもいいかもな。恋愛に年の差なんて関係ないって言う人もいるけど、世の中は実際そんなに単純じゃない」
 その言葉が正しいってことは、当時の私にもわかっていた。もしもクラスメイトが三十路手前の社会人と付き合ってるって聞いたら、私だって「それって大丈夫なの?」と思っただろうから。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:20:24.28 ID:+p98PieH0
 だけど、正しいからって理由だけで納得できるほど、私は物事を割り切れなかった。たくさん泣いたし、心配してくれる友だちの前でヒステリーを起こしもした。立ち直るのにたっぷりひと月くらいかけて、しかも立ち直ったからって気持ちが片付いたわけではなかった。
 プロデューサーさんが私の気持ちを拒んだのは、私が高校生、つまり子どもだったから。だったら、ちゃんと成長して大人になればいいんだ。私が高校を卒業して、そのうちお酒を一緒に飲めるようになったりなんてして。そのときまで彼はきっと私のそばにいてくれる。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:21:32.48 ID:+p98PieH0
 はたして、プロデューサーさんは今日まで私をそばで支え続けてくれた。いつからか左手の薬指に指輪を嵌めるようになってもずっと、ほとんど態度を変えることなく。
 その変わらない対応がどうしようもなく切なくて苦しかったなんて、そんなのは私の勝手な言い分だ。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:22:31.13 ID:+p98PieH0
 かなり短くなるまで味わった煙草を、私は足で踏んで鎮火した。親しみ深い匂いが鼻から抜けて消えていくと、苦くて重い最低な後味だけが舌の上に残る。近くにBOSSの自販機が見えていたけど、口直しはしないことにした。この苦味だって、いつか知らないうちに消えていく。
 吸い殻をどうしようかひととき迷ったあと、私はそれを拾い上げてまだ新品も同然のパーラメントの箱に押し込んだ。かなり割高な買い物をしてしまった。もったいないとも思う。でも、もういらないから。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:23:32.75 ID:+p98PieH0
 見上げた真っ黒な空には煙のような細長い雲がたなびいている。きっと明日は気持ちよく晴れるだろう。月と星とがそういう空模様を作っていた。
 目の端にアパートが映ったとき、不意にポケットの中のスマートフォンが震えた。取り出してみるとプロデューサーさんからのメッセージが届いている。
『そろそろ帰れたころかな? 今日はわざわざありがとう。嬉しかったです』
 本当に、律儀で優しい人だと思う。お礼のメッセージに見せかけて、実は私の安否確認をするのが本命だ。私は『いまちょうど家に着いたよ』と返した。
『お祝いで盛り上がるのは仕方ないけど、あんまり飲みすぎないようにね』
『そうだな。ありがとう、気をつけるよ』
 すぐに返ってきた素直な言葉に、私は薄く笑った。握り締めたパーラメントの箱を共用のごみ捨て場に投げ捨てる。

12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:24:04.72 ID:+p98PieH0
 さようなら、私の恋。
 苦い終わり方になってしまったけど、思い出は苦いばかりじゃなかった。

13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2025/12/13(土) 13:30:47.96 ID:+p98PieH0
終わりです
7.97 KB Speed:177   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 新着レスを表示
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)