ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:13:32.44 ID:yoGXwZnsP<>
 「下流の方にもっと大きな橋があるから、飛び込むんだったらそこからにしなよ」



 不意に声をかけられ、私は振り向いた。

 声の主は、この近くの高校の制服を着た、男の人だった。

 多分、私より2、3歳くらい年上だ。



 「あっちの橋の高さだったら死ぬには十分だろうし、流れも急で川底も深いから、まず助からないだろうね。そんなに人通りは多くないけど、まぁどうせやるならオススメは夜――」



 「あ、……え?」



 「――っと、あー、す、すいません。なんか俺の早とちりみたいですね」



 彼は頭を軽く掻いて、困惑している私をよそに言葉を続けた。



 「迷惑ついでになんですけど、ハンカチ持ってませんか?」



 ……持ってる。

 でも、それは人に借せるハンカチじゃなかった。



 「よかったらこれ、使って下さい」



 私の答えを待たずに、彼はズボンのポケットからハンカチをスッと取り出し、私の手にそっと握らせた。

 すると「じゃあ」と一言添えただけで、何事も無かったように橋の向こうへと行ってしまった。



 なんだ。自分でハンカチ持ってたんじゃない。なら、なんで――あぁ、そうか。



 納得して、心がざわついた。すると枯れたと思っていた涙が自然と溢れだし、火照りきっていたはずの頬をさらに熱く濡らしていく。


 すでに涙と鼻水でびちょびちょになっているハンカチを鞄から出して、乱暴に顔へと押し当てた。

 彼がくれたハンカチは、使わなかった。





 橋の上で嗚咽を漏らす私の事など気にも止めず、眼下の川は……『あふれず川』は、今日も静かに流れていた。

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<>River -いつまでも変われないあなたへ- ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:15:20.93 ID:yoGXwZnsP<>  10年前の僕へ。

 君が今どういう気持ちで生きているのか、僕はあまり覚えていません。

 ただ、自分がこれからどうなっていくのか分からない。そんな、見えない未来が、すごく怖かった気がする。

 たぶん、10年後の君は、君がいま想像している10年後の君とは、とてもとてもかけ離れていると思う。

 でも、僕が僕になれたのは、君のおかげなんだ。

 君が生きる意味も分からず生きて、辛いことから逃げ出して、向き合わなくてはいけない事から目をそらし続けていても。

 それでも。

 『君の好きな君』に少しずつでも近づこうとしてくれたおかげで、僕がいるんだ。

 だから、ありがとう。

 ……あのね、いま、僕の隣には――



   ――ピピピピピ ピピピピピ ピピッ

潤一「ぐ、ぅぅ。ねむ……」

 目覚ましのアラームを止めて、目をこする。
 窓のカーテンから漏れる朝日が痛い。
 外から聞こえる鳥の陽気な鳴き声が、早く起きろと急かしている様で、とても苛立たしい。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:17:54.92 ID:yoGXwZnsP<>  うー、今日は目覚めが悪いな。……いや、いつものことか。
 
潤一「別に夜更かししたわけでもねーのに、なんでこんなに眠いんだよ」

 朝日を遮るように頭まで布団をかぶる。気分はまるでドラキュラだ。

 毎日毎日こんなキツイ思いをして起きなきゃいけないんだから、人間なんてやめて、いっそドラキュラや深海魚にでもなってしまいたい。
 なれるもんならな。
 ……そうか、なりたいものになれないから、まぁ、あれだ。人生って辛いんだな。
 もし生まれる前に、何に生まれるのか選べるんだったら、俺はまず間違いなく人間はヤメるな。
 だって――

 ジリリリリリリリリリリリリ

 布団の中でうだうだしていて、あっという間に時間が経ってしまったみたいだ。
 最初の目覚ましの5分後にセットしてある目覚ましが鳴り始めた。
 さっきの目覚ましの2倍はうるさい。おまけにベットから手が届かない机の上に置いてある。
 長さ2mはあるマジックハンドでもなければ、起き上がって止める他ない。

 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ

潤一「くっそ……、はいはい起きますよ、起きればいいんでしょ」 <> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:20:16.78 ID:yoGXwZnsP<>  重い体をゆっくりと動かして布団から起き上がると、叩きつける様にして机の上の目覚ましを止めた。
 すると、ウソみたいに部屋が静まり返る。

潤一「……はぁ」

 うーん、朝からどうも胃が痛い。どうやら目覚ましの音波攻撃を受けたらしい。
 こんな方法じゃなくて、もっと快適に起きる方法はないのもか。
 爽快起床目覚ましなんて発明できたら絶対売れるな。安かったら俺買うし。……あ、この際俺が開発しちゃうか。
 うん、それがいい。それが……

潤一「あほらし」

 自分で自分を突っ込んでから、グイッと軽く伸びをして、俺は食卓へ向かった。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:22:26.24 ID:yoGXwZnsP<>  5月7日(火) 朝

千沙渡「おはよう。潤一にいさん」

 仕度を終えて玄関のドアを開けると、そこには『伊東 千沙渡』がいた。

潤一「おう」

 軽く手をあげて、千沙渡の挨拶に応える。
 
千沙渡「ふふ、今日も眠そう」

潤一「まあな。昨日まで連休だったしな」

 そうして歩き出すと、二人足並みを揃えて学校へ向かっていく。

 千沙渡は頭のポニーテールを揺らしながら、朝早いっていうのに嫌にニコニコしていやがる。
 まぁ、千沙渡が頭悪そうにニコニコヘラヘラしてるなんて、茶飯事どころか四十六時中なわけで、別に珍しくもないんだが。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:23:38.49 ID:yoGXwZnsP<> 千沙渡「どうしたの? 頭に何かついてる?」

 俺にジッと見られていることに気がついた千沙渡が、頭をかしげて言った。

潤一「いや、引っ張りたいなーと思って」

千沙渡「だっ、だめっ!」

 千沙渡は慌てて両手で頭をおさえ出した。

潤一「いいじゃん。ポニーテールのひとつやふたつ」

千沙渡「潤一にいさん、いつも強く引っ張りすぎるんだもん……取れちゃうかと思うくらいなんだよ?」

潤一「取れる、って。千沙渡の髪はカツラか」

千沙渡「も、ものの例えだよ」

 むぅ。
 心なしか千沙渡が俺から距離をとり始めた。
 これではうまく千沙渡のポニーテールを引っ張ることは出来そうにない。
 さすが小さい頃から何度となく引っ張られ続けているだけあって、隙のない警戒っぷりだ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:26:24.85 ID:yoGXwZnsP<> 潤一「そういや、最近引っ張ってないな」

千沙渡「大人になった証拠だよ。潤一にいさんはもう高校生になったんだし、そういういじめ方ってよくないと思うんだ」

潤一「いじめじゃねぇよ。愛情表現だ。つまりは千沙渡、おめーを愛でてんだよ」

千沙渡「め、愛で……?」

 驚いたのか、立ち止まって目をぱちくりさせる千沙渡。
 もう何年も付き合いがあるのに、こんなのでそういう反応してくれる所が千沙渡の可愛いところだ。

潤一「冗談だ」

 ポカッ。
 言葉通り冗談が過ぎたのか、千沙渡に左上腕を殴られた。

潤一「ぐ、う、ぅぅぅ」

 すぐに痛みがジンと腕全体に広がってくる。とても痛い。とにかく痛い。
 くっそ……千沙渡の奴、俺が痛がるツボ分かってやがるな。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:31:20.36 ID:yoGXwZnsP<>  伊東千沙渡は、3つ年下の幼馴染だ。
 中学2年生で13歳。朝はこうして途中まで一緒に登校することが多い。

 本当は、彼女は俺の幼馴染と言うより、俺の弟の幼馴染だと言った方がいいかもしれない。
 俺の弟が千沙渡と同学年でなければ、例え近所に住んでいたとしても、一緒に登校するような関係にはならなかっただろう。

 まぁ、昔っから毎日一緒に登校していたという分けでもなく、色々複雑な理由というか、流れ……があるのだ。
 たまたま、ここ最近は一緒に登校する朝を送っているというだけだ。
 

 千沙渡は、このあたりではちょっと名の知れた名家の親類の家系らしく、つまりはお嬢様なのだ。
 千沙渡がお嬢様……というと、長い付き合いがあるから俺は吹き出しそうになるが、千沙渡の事をよく観察していると、どうも否定しきれない。

 いつも姿勢がいいから頭から足先までまっすぐスラッとしてるし、制服にシワがあるのを見たことがない。
 俺とはこんなに気さくに話しているけれど、普段年上と話すときは大人も顔負けの敬語をつかいやがるし、だから先生の受けもいい。
 学校の成績も昔からピカいちで、情けない話、俺も千沙渡に教わったりすることがある。

 昔っからポニーテールだが、たまに千沙渡が髪を下ろすと、いつもそのボリュームと艶やかさに驚かされる。
 肌も白いし、きっと着物でも着たらそれこそホントの……

千沙渡「今日の潤一にいさん、目がえっちぃ」

 ……いかん。
 無意識のうちに千沙渡の事をジロジロ見てしまっていたらしい。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:33:08.82 ID:yoGXwZnsP<> 潤一「ばっ、バッカ。誰がおめーなんかに発情するかよ」

千沙渡「そうかぁ、潤一にいさんは今発情期なんですね……ぷぷ」

 口元をおさえて千沙渡は今にも吹き出しそうにしている。

潤一「まーたおまえはっ、中学になって急にそっち方面のネタに遠慮なくなってきやがって」

千沙渡「潤一にいさんのレベルに合わせてあげてるんだよ。えへん」

潤一「ほほう……どうやらその頭にぶらさがってるモノを引き抜いて欲しいみたいだな」
 
千沙渡「ぼ、暴力は反対だよ……」

潤一「さっき先制して殴ってたお前がよく言うよ」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:35:07.77 ID:yoGXwZnsP<>  家から20分ほど川沿いを歩いて、大きい橋に出た。
 この橋を渡れば、俺の高校。
 このまま真っ直ぐ川を下っていけば、千沙渡の通う中学校だ。

潤一「じゃ、またな」

千沙渡「うん。今日もがんばろうね」

潤一「あぁ、テキトーにな」

 軽く手を振ってお互い分かれた。

 少し気になって、離れていく千沙渡を橋の上から観察してみる。
 ……うん、ポニーテールが揺れている。

潤一「しっかし……遠くからでも目立つ奴だな」

 正直、千沙渡は美少女だと思う。ガキの時はまだしろ、中学生になったぐらい急に色っぽくなってきた。
 ちょっと近寄りがたい清楚な雰囲気もあいまって、だいたいの男なら千沙渡とすれ違うと振り返っちまうんじゃないだろうか。
 後ろ姿だけでも、ちょっとしたオーラみたいなものを感じる気がする。

潤一「あれ……?」

 中学校へ向かう千沙渡に、俺は少し違和感を覚えた。
 なんだろう。
 いつもは……。

潤一「まぁ、いいか」

 考えることを止めて、緩い橋の上り斜面を歩き出した。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:39:10.46 ID:yoGXwZnsP<>  橋の中ほどまで歩いて、足を止めた。

 欄干の向こうで、川が緩やかに流れている。
 朝日を反射させて、まるで何かを祝福しているかの様に、キラキラとその川は光っていた。


 ……この町には、川が流れている。
 この町に住んでいるみんなは、この川の事を『あふれず川』と呼んでいる。

 遠くの山から湧き出た水が、この町を通って、海へと向かっていく。
 その水の通り道が、このあふれず川だ。

 川の上流の方に目を向ければ、うっすらとその山は見える。
 ただ、海は車で何時間もかかる場所にあるから、この町から見ることはできない。


 このあふれず川には、色々と伝説があるらしい。
 らしい、というだけで、聞いたことがあるのはほんの一部でしかない。
 数ある伝説の中で、一番有名なのは、俺もよく知っているこの川の名前の由来だ。

 ――あふれず川は、決してその流れを変えない。

 伝説いわく、ここ何百年もの間、一度たりとてこの川は洪水を起こした事がないらしい。
 それどころか、大雨が降っても嵐が来ても水かさが少しも増える事がなく、日照りが続いても川が干上がる事がないらしい。
 だから、あふれない川……『あふれず川』と言うらしい。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:41:07.82 ID:yoGXwZnsP<>  俺もこの町に住んで長いから、知っている。
 どんなに天気が荒れても、この川は増えも減りもしない。
 毎年の様に夏から秋にかけてここにも台風が来るが、下水道が詰まって溢れることはあっても、なぜかこの川は流れを変えない。

 確かにこの川は異常だ。
 ……異常なのだが。とくに世間的に注目されているというわけでもないので、どこかの大学が研究をしているという話も聞いたことが無い。


潤一「行くか」

 ここから高校まで歩いて10分ほど。
 ボーッとするのも、そろそろタイムリミットだ。

潤一「……はぁ」

 重い足を動かして、俺は橋の残り半分を降って行った。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:43:45.58 ID:yoGXwZnsP<>   放課後


 授業が終わり、今日来た道をゆっくりと帰る。
 橋を渡り、川沿いの道を歩いていく。

潤一「……ふぅ」

 あふれず川の川岸まで降りて、柔らかそうな草が生えている所を選んで腰かけた。
 もう4時をまわっていて、日が少し傾いてきている。

 犬の散歩をしている爺さんや、遊びに向かう小学生の姿がちらほら通る。
 この町はいわゆる田舎という奴なので、人口はそんなに多くないはずなのだが、夕方のこの時間は多少人が集まる。

 川沿いに続く原っぱは散歩やジョギングに丁度いい。
 サッカーや野球ができる広さの公園になっている所も近くにある。そこは子供たちの人気スポットだ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:46:10.39 ID:yoGXwZnsP<> 潤一「はー、今日も疲れた……」

 大きく伸びをしながら、俺は地面に寝そべった。
 そうして、目の前に広がる空。
 オレンジと青のグラデーション。
 これからゆっくりと空は赤く染まっていき、夜へと向かって行くのだろう。

潤一「明日も、明後日も、学校か」

 そう思うと、とても気だるくなる。
 このだるさは、昨日までゴールデンウィークだったからだろうか。いわゆる5月病ってやつなのだろうか。

 ……いや、よく考えたらゴールデンウィークより前も、ずっとこんな事を言っていた気がする。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:48:32.49 ID:yoGXwZnsP<> 潤一「いつまで続くんだろうな。こんなこと」

 目をつぶって、ひとり物思いにふける。
 これは、俺の日課だ。
 近所の爺さんがここで犬の散歩をする様に、俺は放課後ここで寝るのを日課にしている。


 ……分かってる。
 10年も20年も学生なんてやっているはずはない。
 ……だけど。
 学生から……高校生から、俺は何になるっていうんだろう。
 
 就職? 進学? やりたいことは? 夢は? 上京する? 結婚は? 子供の数は? 家は? 老後は? お墓は? 葬式は?
 ねぇ、どうしたい?
 ……知るかっ。

 社会が敷いたレールの上に乗ればいい。それは分かっている。
 そのレールの上に俺はこれまで乗ってこれたと思っていた。

 ……そう、思っていたのに。
 好むと好まざると、今の俺はレールから落とされてしまった。
 それは……

 そのわけは…………

 ……。
 …………。
 あ……。
 ねよ………………。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:50:25.83 ID:yoGXwZnsP<>  ……。
 …………。
 ………………。

 ……………………ドスッ!

潤一「ゲフゥッ!!」

 突然右脇腹に激痛が走り、むりやり意識が現実に引き戻された。

静姫「きゃっっ!」

 ドサッッ

 続けて上半身全体に重い衝撃。
 息ができなくなるかと思う位の圧力が胸を圧迫した。

潤一「ぐ、ぉ、……お……っ」

 くそっ。
 い、一体俺の身に何が……?
 
 俺を痛めつけるものの正体を知ろうと、ゆっくりと目を開けた。
 すると、そこには……

静姫「う、ぅ……」

 女の子がいた。

潤一「……は?」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:52:16.93 ID:yoGXwZnsP<>  俺の胸の上で、微かに声を漏らす見知らぬ少女。
 しかも、どことなく苦しんでいる様子。

潤一「あ、あのぅ」

 あまりの自体に、俺は自分の痛みも忘れて、その少女に声をかけた。

静姫「……?」

 その声に促されるように、少女もゆっくりとまぶたを開いた。

 ……そして至近距離で合う、目と目。

静姫「……」

潤一「……」

 黒く、大きい瞳。
 その奥に映る、俺。

 ……あぁ、この娘にはこんな風に俺が見えてるのか。
 

 ゾクッ。

 
 ……あれ。
 なんだろう。胸が、痛い。
 苦しい。

 ひょっとして。

 もしかしたら。

 彼女の瞳に映っているあの俺が本当の俺で、今こうして考えてる俺は俺じゃなくて――
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:53:56.10 ID:yoGXwZnsP<> 静姫「……っ!?」

 少女はようやく状況を飲み込めたのか、あわてて俺の上から起き上がった。

潤一「う……」

 どれくらい目があっていただろう。
 ほんの短い時間だったはずなのに、その間の時間感覚がやけにあいまいだ。

静姫「あの……」

潤一「……あ、あぁ。うん。大丈夫」

 さすがにまだ脇腹と上半身に鈍い痛みは残っているし、頭もボヤけている。
 けれど、少女に心配かけさせまいと俺は自分に鞭を打って、ゆっくりと立ち上がった。

潤一「ふぅ」

 軽く背中とお尻を払い、すこし深く息をした。
 ……まぁ、大丈夫かな。思ったより俺の体は丈夫に出来ているみたいだ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:58:40.09 ID:yoGXwZnsP<>  少女は、俺より2、3歳は年下だろうか。
 下はジャージで、上は薄手のパーカーを羽織ったラフな恰好だ。

 初めは彼女も何が起こったのか理解していなかったみたいだが、今は少し落ち着いて申し訳なさそうに目を落としている。

 俺は、とりあえず状況を整理させてもらうことにした。

潤一「ごめん。どうしてこうなったか、教えてもらってもいいかな」

静姫「川沿いに走ってて……」

潤一「うん」

静姫「そこに、あなたがいたの気づかずに、つまづいて……」

 なるほど。
 はじめ脇腹に走った衝撃は、彼女が寝ていた俺につまづいたときのものか。
 走ってる勢いの蹴りだもんな。
 どおりで結構痛いわけだ。

静姫「……ごめんなさい」

潤一「あ、あぁ。いいよ。寝てた俺も悪いし」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/03(木) 23:59:55.36 ID:yoGXwZnsP<> 静姫「……」

 俺があやまると、少女はジッと俺の顔を覗き込んできた。

潤一「……ん? ど、どうした」

静姫「え……? なんで」

潤一「……?」

 少女は困惑したような表情を見せるも、俺を覗き込むのを止めない。
 俺の顔に何か付いてるわけでもなさそうだ。

静姫「ちょっと、聞いてもいいですか」

潤一「ま、まぁ。答えられることだったら」

静姫「高校生ですか?」

潤一「まぁ、一応」

静姫「数学は好きですか?」

 え? 数学?
 ずいぶん突拍子もない質問だな。

潤一「あんまり好きじゃないな」

 疑問に思いながらも、少女が真剣な表情なので真面目に答えた。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:02:21.91 ID:5To1Tuv6P<> 静姫「海外旅行には行ったことありますよね?」

潤一「え? べつにないけど」

 何だこれ。何かの占いか?
 YESとNOで答えていくと、自分の性格が分かるっていう。

静姫「犬と猫なら、猫ですよね?」

潤一「おう、猫だな」

静姫「……前に、私に会ったことありますか?」

 質問の雰囲気が変わった。
 初対面のはずなのに、こんなにずばずばと言ってくる人に俺は会ったことがない。
 だとしたら、どこかで俺と彼女は会っているのかもしれない。

 だが、あいにく俺は彼女の事を覚えていない。

潤一「前に? ……どうだったかな」

静姫「はっきり答えてください」

潤一「……無い。と、思う」

 俺は申し訳なさそうに答えた。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:03:51.31 ID:5To1Tuv6P<> 静姫「なん、……で」

 俺の答えを聞くと、彼女は瞳を潤ませた。

潤一「ごめん。どこかで、会ってたかな……」

静姫「なんでっ、……なんで分からないの……っ!?」

潤一「えっ?」

静姫「あなた、何者なんですか」

 涙をこぼしながら、彼女は一変してキッとした瞳を俺に向けた。
 その威圧に、情けなくも少したじろいでしまう。
 
潤一「何者、って……」

静姫「さっきの質問。……嘘はつきましたか?」

潤一「ついてない。つく理由がわからない」

静姫「……」

 質問の意図も意味も、よく分からない。
 でも、正直に答えたはずだ。彼女の真剣さに答えようとしたはずだ。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:05:30.56 ID:5To1Tuv6P<> 静姫「もし、私があなたに一億円をあげると言ったら、欲しいですか」

潤一「欲しい」

静姫「こんな単純な答えなのに……やっぱり、分からない……」

 それまでの気勢が削がれたように、彼女は声を落とした。
 よく分からないが、どうやら落ち込んでいるようだった。

潤一「あの……何かよく分からないのだけれど、理由くらい教えてほしいんだけど。そうすれば何か力になれるかも」

静姫「ごめんなさい……。言った所で、どうしようもないんです」

潤一「……はぁ」

 思わず気の抜けた声を出してしまう。
 この少女は頭のネジがどこか外れてるんじゃないかとも思いたくなるが、表情や言葉から察するに、そうとは考えられない。

 まぁ、どっちにしろ、俺はこれ以上この娘に付き合うつもりにもなれなかった。
 だから、せめて一つだけ確認したい事があった。

潤一「で、結局、俺とキミは、これまで会ったことが無い。……それでいいんだよな?

静姫「いいえ」

 予想外の答え。

静姫「会ったこと、あります。……一度だけ」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:07:05.17 ID:5To1Tuv6P<> 潤一「……え?」

静姫「あの橋の上で」

 そう言って、彼女はあふれず川の下流の方向を指差した。
 その指の先には、登下校するときに必ず通る、あの橋があった。

潤一「……あ」

 思い出した。
 たしか、一ヶ月ぐらい前の事だ。
 あの橋の上で泣いていた女の子に、ハンカチを差し出した事があった。

静姫「覚えてくれてましたか?」

潤一「……あぁ。覚えてる。思い出した」

 俺がそう言うと、少女は微笑んだ。
 閉じた瞳から頬へ、涙がこぼれていく。

 ……確かに、この泣き顔に覚えはあった。
 そうか、あの子が……。 <> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:09:45.72 ID:5To1Tuv6P<> 静姫「あの時は、ありがとうございました。私、あなたに二度も迷惑をかけてしまって……」

潤一「迷惑とか思わなくてもいいよ。……そっか、結局飛び込まなかったんだな」

静姫「……はい」

潤一「また、ハンカチ貸してやろうか?」

静姫「えっ」

潤一「必要だろ?」

 ハンカチ鞄から取り出して、少女に差し出した。
 
静姫「あ……」

 遠慮しつつも、少女は受け取ってくれた。

潤一「泣き虫なんだな」

静姫「やっ、えっ……そ、そんなこと、ないです」

 俺の言葉に顔を赤くしてから、慌てて受け取ったハンカチで瞳をぬぐい出した。

 まいったな。さっきの気勢はどこにいったんだろう。
 なんだか調子が狂う女の子だな。

静姫「あっ、あの……これ、洗って返します。この前お借りしたハンカチもっ」

潤一「べつにいいよ。捨てちゃってもいいし」

静姫「で、でも。そういう、わけには……」

 聞くに耐えない弱々しい声。
 だめだこりゃ。
 この調子じゃまた泣きだし兼ねない。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:11:57.21 ID:5To1Tuv6P<> 潤一「わ、わかった。俺はいつも夕方にこの辺をぶらぶらしてるからさ、適当に捕まえてくれよ」

静姫「は、はいっ」

 一変して彼女の表情がにぱっと明るくなる。
 うん、なんだかわかりやすい娘だな。
 ……最初はよく分からない事を言う娘だと思ってたのに、不思議なもんだ。

静姫「あの、よかったら……お名前を教えてくださいませんか」

潤一「え? 大友潤一っていうけど」

静姫「私は立花静姫(しずき)っていいます。……あの、ほんとにありがとうございました」

潤一「立花さんね。……んじゃ、また機会があったら」

静姫「はいっ」

 軽く手を降ってから、俺は立花静姫と名乗った少女と別れて家路に付いた。

 なんだか気になって振り向くと、彼女はまだ俺の方を見ていたらしく、手を振ってきた。
 苦笑いして小さく手を振り返す。
 そうして、また歩き出した。

 すっかり空は朱に染まってしまっている。
 もうすぐ、一日の終わりだ。
 そして明日がやってくる。明後日も、明々後日も。

 それを考えると憂鬱だが、今は不思議と気分が良い自分がいる。

 今日はおもしろい娘と知り合ったな。
 立花静姫、か……。
 しっかし、肝心な事が色々とよく分からないまま別れちまったし……。
 まぁ、ハンカチを返してくれるっていうんだから、また会うこともあるだろう。

 
 その日の夜は、今日出会った少女の事を、ぼんやり考えながら眠りについた。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 00:14:06.86 ID:5To1Tuv6P<> この板でははじめまして
今日はこのへんで <> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 11:51:55.80 ID:5To1Tuv6P<>  5月8日(水)


千沙渡「おはよう。潤一にいさん」

潤一「おう」

 挨拶をすませて、二人学校へと歩き出す。

千沙渡「今日はまた一段と眠そうだね……」

潤一「まぁな」

千沙渡「夜更かし? だめだよー」

潤一「ちょっと考え事しててな」

千沙渡「ふぅん」 <> ちぢれ<><>2012/05/04(金) 11:59:52.92 ID:5To1Tuv6P<> 潤一「なぁ最近、彩大(あやひろ)の奴はどうしてる?」

千沙渡「どうしてる……って。ヒロは潤一にいさんの弟でしょ?」

 そう、大友彩大は俺の3歳下の弟だ。
 千沙渡は彩大の幼馴染なので、あだ名で『ヒロ』と呼んでいる

 しかしここ最近、俺と彩大は一緒に暮らしているはずなのに、ろくに会話も出来ていない。

潤一「なんか部活が忙しいらしくてな。顔すら殆ど合わせられてないんだ」

千沙渡「毎日朝練行ってるみたいだしねー」

潤一「学校ではどうなんだ?」

千沙渡「んー。寝てるか、食べてるか、部活してるか……かな」

潤一「なんだそりゃ」

千沙渡「授業中は殆ど寝てるんだよ。それで、休み時間と放課後だけパッと起きるの」

潤一「部活……バトミントンだっけ? 典型的な体育会系な奴になっちまってるなぁ」
<> ちぢれ<><>2012/05/04(金) 16:35:28.78 ID:5To1Tuv6P<> 千沙渡「でも一緒に住んでてちっとも会えないって……それ、嫌われてるんじゃ?」

潤一「そうかもな」

 俺は、さらりと言ってみた。

千沙渡「……変わっちゃったねぇ」

潤一「彩大がな」

千沙渡「……うーん」

潤一「何か言いたげだな」

千沙渡「ヒロも、一生懸命なんだよ。また昔みたいに、一緒に登校できたらいいなって思うけど」

 千沙渡と彩大が小学生だった頃、こいつらは毎日の様に一緒に遊んでいた。
 俺もそれに混じって遊びに付き合ってやったりもしたが、学年が上がるにつれて、自然とそういうのもなくなっていった。

潤一「そうだな……」

 千沙渡と彩大は、幼馴染だ。
 俺は、二人のおまけにすぎないはずだ。
 その俺が、最近は毎朝二人で千沙渡と登校している。

千沙渡「応援してあげようよ。潤一にいさんも、ヒロに会ったら『部活頑張れよ』とか言ってあげて」

潤一「まぁ……気が向いたらな」
<> ちぢれ<><>2012/05/04(金) 16:36:24.05 ID:5To1Tuv6P<> 潤一「千沙渡の方はどうなんだ?」

 俺は話題をかえてみた。

千沙渡「……というと?」

潤一「最近。お前部活とかやってないだろ?」

千沙渡「うーん。……そうだなぁ」

 首をひねって、少しの間考え込む。

千沙渡「あえて言うなら……最近、友達が増えた……いや、減った?」

潤一「減った?……って。俺に聞いてんのか」

 千沙渡は昔から、誰からも好かれていた。
 友達が増えるような事はあっても、減るような事なんて無い様に思ってたんだがなぁ。

千沙渡「あはは、ちょっと複雑でねぇ。またそのうち機会が出来たら潤一にいさんに話すよ」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/04(金) 16:40:31.86 ID:5To1Tuv6P<>  放課後


 いつもの様に、あふれず川の川岸で寝そべる。
 昨日、立花静姫と名乗った少女と出会った場所だ。

潤一「あの子、来るかな」

 空を見上げながら、ひとりごちる。
 そうして、昨日ここであった事を思い出す。

潤一「そういや『川沿いに走ってた』って言ってたな」

 走っていた……って、ランニングのことだろうか。
 それとも、どこかへ急いでたのだろうか。

潤一「そういや彼女、ショートカットで細身の体だったし、運動やってそうだったな」

千沙渡「あれ、潤一にいさん」

潤一「んぉ?」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:39:45.12 ID:9V+AYWfHP<>  どこからか千沙渡の声が聞こえた。

 起き上がって、声の方向を探す。



千沙渡「またこんな所で寝てたんだ。風邪、ひくよー」



 下校中に俺を見つけたのだろう。
 俺の居る方へ向かって、千沙渡は川岸を歩いてくる。

潤一「なんだ、千沙渡か……ほっとけ」



千沙渡「もう、心配してあげてるのに」

潤一「それがおせっかいだって、昔っから言ってるだろ」

千沙渡「じゃあ、ちょっとは潤一にいさんも私におせっかいしてよ」

 むくれた顔でそう言うと、千沙渡は俺の隣に座った。
 まだ中学生とはいえ、一応女の子で制服なのに、千沙渡は草の上で座れる子だった。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:41:08.36 ID:9V+AYWfHP<> 潤一「なんだそりゃ」

千沙渡「なんだと思う?」

 謎かけじゃないんだから、焦らすなよ。

潤一「……お前は、俺が世話焼く必要もない位、しっかりしてんじゃねーか」

千沙渡「その回答、45点……かなっ」

潤一「赤点は免れたか」

千沙渡「補習したかった?」

潤一「遠慮しとく」

 千沙渡は「それもそうか」と小さく言って、あふれず川の方を向いた。
 俺も、なんとなくそれに続く。

千沙渡「……」

潤一「……」

 直前の軽いやりとりが嘘みたいに、二人黙って川を眺めた。
 川はただ静かに流れ、風の音、鳥の声がささやかに耳に届いてくる。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:43:31.62 ID:9V+AYWfHP<>
 『あふれず川』なんて変な名前をしているが、その実、なんの変哲もないただの川だ。
 底が見えるまで透き通ってるとか、慕情をかき立てるような姿をしているとか、江戸時代に誰かが俳句のモチーフにした……などとは無縁の川なのだ。

 いや、決して汚くは無いけれど、ただ、人が飲める程ではないというだけだ。
 農業用水としても使われているので、川沿いに田畑が広がってる姿は決して悪くはない。……が、感動するほどではない。

 ……なら、なぜ。
 なぜ、俺は『あれ』以来、毎日の様にこの川へときているのか。

千沙渡「潤一にいさん、変わったよね」

潤一「……は?」

千沙渡「朝の話のつづき」

潤一「あぁ」

 きっと、千沙渡は俺を心配してここに来たんじゃない。
 この話をするために来たんだと、なんとなく察した。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:46:07.10 ID:9V+AYWfHP<>
千沙渡「ヒロも変わったけど。それ以上に、やっぱり潤一にいさんが変わっちゃったよ」

潤一「うるせえな。……だったら、なんだってんだよ」

 千沙渡は『あの事』を、知っている。
 これまで、触れてこなかった事、触れてほしくなかった事を、千沙渡はあえて聞こうとしている。
 
 ……でも、それは俺にもまだ消化しきれていない事だ。

潤一「千沙渡」

千沙渡「……なに?」

潤一「お前に迷惑かけたのは、知ってる。今も迷惑かけてると思う」

千沙渡「迷惑、だなんて」

潤一「……でも、もうちょっと、ほっといてくれないか。まだ、なにもかもが整理できてないんだ」

 千沙渡の顔を見ないまま、俺は言葉を続けた。

潤一「頭の中がバラバラのパズルみたいで、端っこのピースすら埋まってなくて……どういう絵が完成するのかも分からなくて」

千沙渡「えへへ」

 俺の話を割く様にして、千沙渡が小さく笑った。

千沙渡「ごめんね、潤一にいさん。……大丈夫、なんでもないの」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:48:24.74 ID:9V+AYWfHP<>
潤一「千沙渡」

 幼馴染の強がりに、思わず名前を呼んだ。

千沙渡「潤一にいさんを放っておくにしても」

 けれども、また千沙渡の言葉に遮られる。

千沙渡「朝くらいは、一緒に登校してくれるでしょ?」

潤一「……あぁ」

千沙渡「よかった。……じゃあ、私もういくね」

 千沙渡は立ち上がって、制服のスカートについた草をはたきながら言った。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:50:16.26 ID:9V+AYWfHP<>
潤一「気をつけて帰れよ」

千沙渡「……にいさん」

潤一「ん?」

千沙渡「何かあったら、私なんでも聞くからね」

潤一「お前もな」

 千沙渡は首だけゆっくりと縦に振ってから、川岸から道路の方へと歩いていった。

 ……くそっ。

 千沙渡と別れた瞬間、心の中で自責の言葉が溢れ出てきた。
 
 多分、俺はどうすればいいのか分かっている。
 千沙渡に甘えてしまえば、殆どの事が解決すると知っている。

 なのに……。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/06(日) 13:56:42.38 ID:9V+AYWfHP<> 潤一「あふれず川、か……」

 目の前に流れる、何百年も前から溢れた事の無いと伝わる川。
 変わることの知らない川。

 少しでも水かさを増せば、今座っているここをこの川が飲み込む事など容易いのに。
 俺の居場所を奪う事が出来るのに。

潤一「俺は、どうしたいんだ」

 自分で自分に問う。
 
 千沙渡は俺を「変わった」と言った。
 でも、今の俺は『俺が変わりたい俺』じゃない。

 なら、俺は、どう変わりたいのか。

潤一「……」

 あふれず川を眺めながら、少しの間考える。

潤一「……分かるかっ!」

 やけっぱちになって、俺は体を投げ出すようにして大の字に寝そべった。

 そうして目の前にあらわれるのは、いつも通りの夕方の空。

 朱に染まっていく青と一緒に、俺も何かに溶けていってしまえばいいのに。
 ……俺はゆっくりと目を閉じた。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:12:38.38 ID:Vj89o+hAP<>
 ……ひゅぅ。



 冷たい風が、体をくすぐった。

 ぶるる、と体が少し震える。



 そうして、自分がいつの間にか眠りに落ちていたことに気づいた。


 ……あれ。俺、どれくらい寝てたんだ。



 ゆっくりと、目を開く。

 するとまぶたの隙間から、赤い光が差し込んできた。



 もう世界はすっかり夕焼けに包まれてしまっていた。



 思ったよりも長い時間寝てしまったみたいだ。



 体はまだ重いが、しょうがない、もうそろそろ帰らなければ。
 そう思って、起き上がろうとした。
 けれど。

 ……あれっ。
 寝ている俺の隣で、誰かが座っている。

 女の子だ。
 視線はあふれず川の方へと向いていて、俺が起きた事には気づいていないみたいだ。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:14:48.64 ID:Vj89o+hAP<>
 俺の方から顔はハッキリ見えないけれど、この後ろ姿の雰囲気に見覚えがある。
 
 ボサッとしたショートの髪。
 風通しが良さそうな薄手のパーカーに、ジャージのズボン。
 細身だけれど、よく動けそうな引き締まった体つき。

 そして何より、一見して心体ともに健康そうなのに、どこか影を帯びている空気の持ち主。

静姫「……たい」

 その少女は……立花静姫は、膝を抱えながら何かをつぶやいた。
 盗み聞きしている気分で、少し罪悪感を覚える。

 声をかけようか。
 ……でも。

静姫「強く……なりたい」

 ……えっ。

静姫「もっと」

静姫「…………もっと」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:16:55.52 ID:Vj89o+hAP<>
 夕焼けの強い光の影になって、彼女の表情がよく見えない。

 『強くなりたい』。

 彼女は、どんな顔でつぶやいたのだろう。
 どんな気持ちでつぶやいたのだろう。
 何が彼女にそんなことを口に出させるのだろう。

 このまま寝たふりをしていれば、きっと、そのヒントくらいはつかめるんだろうな。

潤一「ふぁ〜〜……ぁっ」

 できるだけ自然なあくびを演じた。
 いつかの学芸会の時なんかより、ずっと真剣に。

静姫「っえ?」

潤一「……ん?」

静姫「えっ、……えっ……? あっ、お、おはようございますっ」

 うわ。
 めちゃくちゃ動揺してるよこの子。

潤一「お? おー、えっと……立花、静姫……さんだっけ?」

静姫「そ、そうです。そうです、けど……あの……」

潤一「ん?」

静姫「今の、聞いてました?」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:18:35.04 ID:Vj89o+hAP<> 静姫「……」

 とぼけてみたが、俺の顔を立花さんは目をこらすようにして見つめてくる。

 ……疑われている。
 う〜ん、言い方がわざとらしかっただろうか?

静姫「……やっぱり、わからない」

潤一「えっ?」

静姫「いっいいぇっ。何でもないんですっ。聞いてないなら別に……あはは」

 よかった、どうやら俺の演技力も捨てたもんじゃないらしい。

潤一「まぁ、いいけど。……もしかして俺が起きるの待っててくれた?」

静姫「待つと言うほど、待ってませんが……」

 彼女は小さい紙袋を差し出してきた。

静姫「ハンカチ、ありがとうございました。しっかりと洗ったので」

 差し出された紙袋を受け取る。
 わざわざこうやって包んでくれるところがうれしい。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:20:07.06 ID:Vj89o+hAP<> 潤一「ありがとう。しっかし立花さんって、律儀なんだね。まさか本当にここに来てくれると思わなかった」

静姫「そんな。律儀って程では。それに……この辺りは毎日走ってますし」

潤一「走ってる?」

静姫「はい。放課後は、この川沿いで」

 どうやらランニングが日課らしい。
 彼女は文化系というよりは体育会系の体つきをしているから、腑に落ちた。

潤一「へぇ。もしかして、陸上部?」

静姫「違いますよ」

潤一「そうなの?」

静姫「帰宅部なんですよ。走るのは……まぁ、趣味みたいなもので」

 部活に入ってないのはもったいないな。
 小柄だけど、運動神経は良さそうなのに。
 ……まぁ、寝ている俺につまづく位だから、本当の所はどうか分からないけれど。

潤一「走るって、どの位走ってるの?」

静姫「いつもこの川の上流に向かって走ってるんですけど、この川ってすごく長いんですか?」

潤一「え? う〜ん、どうだろう。あの山の方から流れてるらしいけど」

 夕焼けの赤い太陽が沈みかかっている、遠くの山を指差した。
 たしか、電車でだって1時間以上はかかる場所だったはずだ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:21:53.21 ID:Vj89o+hAP<> 静姫「あんな、遠く……」

潤一「それがどうかしたの?」

静姫「私、この川が好き……って訳じゃないんですけど、なんだか気になって。どこまでつづいてるんだろう……って」

潤一「あふれず川がどこまで続いてるか、か……。あんまり考えた事無かったな」

静姫「あふれず川? この川、そういう名前なんですか?」

潤一「あれ? 知らないの?」

 この町に住んでいる人なら誰でも知っていると思っていたのに。
 川の名前も、名前の由来になった伝説も。
 げんに、俺も物心つく前から婆ちゃんか誰かに教わっていた。
 そうやって、口承で伝えられてきたもののはずなのだ。

静姫「すいません。話してなかったですね。私、最近越してきたんです」

 なるほど、それなら合点がいく。

潤一「へぇ。どこから?」

静姫「横浜です」

潤一「と、都会じゃねぇか」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/14(月) 00:23:42.76 ID:Vj89o+hAP<>
静姫「でも私が住んでた所はビルに囲まれてる様な場所ではなかったですし」

潤一「それでも、コンビニがいっぱいあって、道路は夜中でも明るいんだろ?」

静姫「……まぁ、確かにこっちに来て、コンビニの少なさと夜道の暗さにはびっくりしましたけど」

 どうやら俺の都会観は合っていたらしい。
 
潤一「東京やら大阪やらへ……って言って転校してくやつは結構みてきたけど、都会からわざわざこっちに転校しにきた人は初めてかもな」

 この町も今の時代の流れに逆らうこと無く、過疎と高翌齢化が着々と進んでいる。
 みんな仕事のある都会へと行ってしまうし、それはもうしょうがないことなんだろう。

 でも、それに振り回されてるのは大人だけじゃなくて子供もだ。
 クラスメイトの『親の仕事の都合』なんて転校の理由に、理不尽を覚えない時はなかった。

潤一「どうしてまたこんなへんぴな街に?」

静姫「それは……」

 立花さんは、俺の質問に目を逸らして言葉を途切らせた。
 答えにくい質問だっただろうか。

静姫「あ、でも、この町……私、好きですよ」

  質問の答えになっていないけれど、それを突っ込むのは野暮だろう。

潤一「そうなの? 何にもないけどな」

静姫「確かに何にもないですけど」

潤一「だろ?」

静姫「……でも、私にはそれくらいが丁度いいです。前に住んでいた所、嫌いでしたから」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:18:19.80 ID:KrKVAUOWP<> 潤一「俺は、この町から出たい……かな」



静姫「嫌いなんですか?」



潤一「どうだろ、分からないな。……でも、外に出れば何か変わるんじゃないかと思うよ」



静姫「なら、東京の大学に行ったりするんですか?」



潤一「さぁ。東京かどうかはわからないけど……」



 言葉を続けようとして、詰まる。

 自分がどうしたいかも分からない俺が、何を言ってるんだ。

 この町を出たい? 何か変わる? バカらしい。



 中学生の女の子相手に、こんな主体性の無い言葉を吐くなんて。

 そもそも進学するかどうかも怪しいというのに。



潤一「……いや、なんでもない。まぁ、なるようにやってくさ」

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:22:09.36 ID:KrKVAUOWP<>
静姫「あ、そういえば大友さん、高校生なんですよね? 何年なんですか?」



 俺の微妙な間を読み取ったのだろうか。

 彼女は話題を微妙に変えてきた。



潤一「1年だよ」



静姫「へぇ……じゃあ、15歳、ですか?」



潤一「この前誕生日だったから。16かな」



静姫「なら、私より3つ上ですね」

潤一「そうだな」

静姫「でも、学年的には2つしか違わないですから、もしかしたら2年後には同じ学校に通っ……」

 そこまで言って、彼女は急に言葉を止めた。

静姫「……えっ」

潤一「どうした?」

静姫「う、うぁ……なん、っで? こんな、ところでっ……っ!?」

 頭を両手で抑えて、苦しそうに呻き出した。
 痛がってる? いや、どう見たってこれは痛いだろう。

静姫「あ゛、ぅ……うぅ」 <> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:24:49.91 ID:KrKVAUOWP<>
 それまでの何気ない会話を交わしていた雰囲気が、一変した。

 一体、彼女に何が? 
 頭が痛い? やばいんじゃないか?
 脳の血管が詰まったとか、そういう病気……だとしたら?

静姫「う゛……ぁぅぅっ……、おかしぃ……こんな、強いの……ううううっ」

 痛みが大きくなったのか、彼女は頭を抱え込む様にして丸くなった。
 体が小刻みに震えさせながら、必死で痛みに耐えている。

 ……人が、痙攣している姿なんて、はじめてみた。
 それどころか、自慢じゃないが俺は急病人を目の前にした事なんて……って、そんな事どうだっていい!
 今の俺に出来ることは……

潤一「ちょ、ちょっと待って! 救急車をっ」

静姫「やめてくださいっ、これは……違うんですっ……っう」

潤一「でもっ、明らかに何かの病気だろ!?」

静姫「病気じゃないんですっ、病気じゃ……っ、い、いつもの事で……」

潤一「いつものこと、って……」

 持病か何かだろうか。
 それにしたって、誰から見ても彼女は顔色が悪い。
 明らかに血の気が引いてる。

 救急車を呼ばないで、ただ彼女の苦しい姿を見てればいいっていうのか?
 俺にはそんなの出来そうにない。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:26:47.38 ID:KrKVAUOWP<> 静姫「大友さんっ、ひ、ひとつ……教えて、ください」

 途切れ途切れの、ひり出す様な声。
 抱えていた頭をゆっくりと起こして、彼女は言葉を続けた。

静姫「さっき、嘘を……つきました、か」
 
潤一「……嘘?」

静姫「はい」

 こんな時何を言ってるんだ、と口に出かかって、彼女の言葉に遮られた。

静姫「正直に……っ、おね、がぃ……します……」

 今にも消えてしまいそうな、弱々しい細い声。
 そして、俺を覗いてくる黒く、淡い、大きな瞳は、彼女の感情が『悲しい』事を表わしていた。

 けれど、彼女は泣いていなかった。
 あんなに泣き虫だと思っていたのに。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:29:59.17 ID:KrKVAUOWP<>
潤一「……」

 昨日。
 この瞳を、正面から見つめてしまった。
 そして、今も。

 立花静姫の瞳は、まるで水面の様に俺の姿を映す。

 凛とした顔にたゆたう、二つの黒い水面。
 『そこに映った俺』が、『俺』を見ている……
  
 ゾクッ。

 ……まただ。
 また、昨日出会った時と同じ、まるで地震の様に時間が揺れて、その流れが止まってしまうような感覚。

 ……これから、俺の時間は止まってしまうか。

 あぁ、そういえば、この感覚は昨日だけじゃない。
 1年ほど前にも味わっていた。

 世界を構成するいくつものフィルターから、『大友潤一』というフィルターだけが抜かれてしまう。
 取り残されてしまう。
 この感覚を、俺はすでに知っていた。

 それは。

 死だ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:31:38.69 ID:KrKVAUOWP<> 潤一「俺は……」
 
 意志とは無関係に、俺の口は言葉を紡ぐ。

潤一「嘘を、ついた」

静姫「どんな、嘘を?」

潤一「俺は、17歳だ」

静姫「……」

 まばたきひとつしない、彼女の瞳。
 そこに映る、自分。
 映った自分に見つめられる、俺。

 そんな合わせ鏡の世界に閉じ込められた俺は、彼女のため息で、はじめて開放された。

静姫「……ふ、ぅ」

 彼女はゆっくりと目を閉じた。

 そして、今までの感覚が嘘だったかの様に、俺の体もフッと軽くなる。
 
 理解不能なプレッシャーも、狂った時間の流れも、いまは無い。

<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:32:40.67 ID:KrKVAUOWP<>
潤一「なんなんだよ……これ……」

静姫「ごめんなさい」

潤一「ごめん、って……なんで謝るんだよ」

静姫「私が、悪いからです」

潤一「悪い? どうして」

静姫「それは……」

 彼女は言葉に詰まった。
 けれど、さっきまでの苦しそうな表情はどこにもない。

 むしろ、言葉を探して、迷っているように見える。

潤一「……体調は、もういいんだな?」

静姫「あ、はい。それは……もう」

潤一「よかった」

 俺は本当の意味で、安堵の息を吐いた。
 
 心臓に悪い出来事だったが、彼女の命に別状はないのなら、それに勝るものはない。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:33:57.44 ID:KrKVAUOWP<>
潤一「念のため、病院で見てもらった方がいいんじゃないか?」

静姫「それは……」

 なんとなく予想していたが、やはり彼女は病院へは行きたくないらしい。

 ……その気持ちは、俺にはよく分かった。

 それこそ、痛いほどに。

潤一「まぁ、いいや。嘘ついて悪かった。俺は17歳だよ。17歳で、高校1年生だ」

静姫「……はい」

潤一「高校1年ってのが嘘だって、言わないんだな?」

静姫「……」

 何か言いたげではある。
 顔を見て分かる。

 本当の事が言いたくても言えない。
 そんな顔だ。

 適当にはぐらかせばいいものを。
 俺の事を「嘘をついた」と責めた様に、どうやら彼女はよほど『嘘』が嫌いらしい。

 嘘をつくのも、つかれるのも。

潤一「何か、言いたくない事があるんだな」

静姫「……はい」
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:35:31.97 ID:KrKVAUOWP<>
潤一「俺も、言いたくなかったんだ。17歳で、高校1年なんて。16歳で高1が普通だろ?」

静姫「……そう、です……よね」

潤一「別にその理由を話したくなかった訳じゃない。ただ……会ったばかりの立花さんに、そう言う話はまだしたくなかっただけで……」

静姫「ひっ、ぐ……うぅっ」

潤一「だから……」

静姫「えうっ、……うっ、わたしっ、またっ……ぐすっ」

潤一「っっって、お、おいおいおいっ」

 さっき、あんなに苦しそうにしていた彼女は、少しも泣かなかった。
 ……なのに。

静姫「うぇえええええぇえぇっん」

潤一「ちょ、ちょっとっ」

 俺は急いで静姫からもらったばかりの紙袋を開けて、中のハンカチを取り出した。
 もちろん、静姫の涙を拭くために。

静姫「ひぐっ、……ひぐっ」

潤一「やっぱ、泣き虫じゃねーか」

 静姫の顔にハンカチを当ててやる。

静姫「……自分で、やれます……」

潤一「そっか」

 手を離して、ハンカチを静姫に委ねた。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:37:05.51 ID:KrKVAUOWP<>
静姫「ごめ……、ごめんな、しゃぃ……」

潤一「……ま、いーけどよ」

静姫「せっかく洗ったのに、2枚も使っちゃって……」

 そう落ち込んだ声を漏らして、彼女は2枚のハンカチで両目をぐしぐしとぬぐっていった。

静姫「……あの」

 ひとしきり涙をふき終わって、静姫が赤く腫れた目を俺に向けてきた。
 さっきの感覚がまた襲ってくるのではないかと一瞬体がこわばったが、今度は直視しても特に問題はなかった。

 彼女の目を見て、2度、俺は現実離れした感覚に襲われた。
 それなのに……なんだろう。
 勘違いだろうか。偶然だろうか。

静姫「えっと……?」

潤一「え、あ……ごめん、な、なに?」

静姫「また、洗って返しても、いいですか?」

 2枚のハンカチを両手に持って、彼女は遠慮がちな小さい声で俺に尋ねた。

 もしかしたら、今回の事で俺に嫌われたとか、そういう風に思ってるのだろうか。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:38:45.82 ID:KrKVAUOWP<>
潤一「じゃあ、頼むよ」

 前みたいに『捨てても良い』とは答えなかった。

潤一「放課後は、いつもここにいるからさ」

静姫「……あ……はっ、はいっ!」

 立花さんの笑顔。
 なぜだか、すごく久しぶりに見た気がする。

潤一「今度は借りるハメにならなくて済むといいな」

静姫「う、うぅ……気をつけます」

潤一「あははは」

 陽は完全に落ちる寸前だった。
 もう少し、この娘から聞きたい気持ちもあったが、やっぱり気になることが多すぎる。

 笑ってはみたものの、もう今日はおとなしく帰った方がいいんだと、俺の頭は告げていた。

潤一「じゃ、……帰ろっか、立花さん」

静姫「……はい」

 あふれず川で出会った少女、立花静姫。

 彼女には、何かがある。
 きっと何か、重いモノを背負ってる。

 だが、俺に何が出来るって言うんだ。
 自分の事も……自分の荷物も、背負いきれずに放り出したいと思ってる奴が、彼女の何を……
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:39:50.74 ID:KrKVAUOWP<>
 ……いや、そもそも俺の思い上がりだ。妄想だ。
 彼女の境遇を勝手に想像して、膨らませて、楽しもうとしているだけだ。
 
 俺が彼女にしてやれることなんて、これっぽっちもないし、そもそもするべき事なんて存在しない。

 そうだ。

 俺は、必要とされない……されてはいけない、人間なのだから。

 ……やっぱり、もう。
 この娘とは会わない方が、いい。

潤一「立花さん。そのハンカチ、やっぱり――」

静姫「1つ、お願いしてもいいですか」

 俺の言葉を遮って、彼女は言葉を続けた。

静姫「私の事、静姫って……呼んでください」

潤一「――えっ?」

静姫「……好きじゃ、ないんです。名字が」

潤一「あ、あぁ。そういうことか」

 一瞬、ドキッっとした。
 千沙渡にも、そんな事言われたこと無い。
<> ちぢれ<>sage<>2012/05/20(日) 00:40:41.02 ID:KrKVAUOWP<>
静姫「……あっ、な、なんかすいません。何か言いかけてましたよね」

潤一「いや、いいんだ。……じゃあ、静姫ちゃんで……いいかな?」

静姫「よ、呼び捨てで大丈夫です。友達も、静姫って呼んでくれてますから」

潤一「そ、そか……分かった。次からそう呼ぶよ」

静姫「は、はいっ。お願いします」

 それから、何事もなく俺は彼女と別れた。

 言いかけた言葉は、ハンカチを返してもらってから、言えるだろうか。

 ……もしかしたら、あふれず川にはもう行かない方がいいのかもしれないな。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:49:42.42 ID:swmSaLLqP<>  5月9日(水)


潤一「よっ」


千沙渡「おはよう、潤一にいさん」


潤一「行くか」


千沙渡「うんっ」


 二人並んで、学校へ向けて歩き出す。


潤一「今日は体育があるのか?」


千沙渡「えっ、どうして分かったの?」


潤一「それ」


 千沙渡が持っている布袋を指差した。


千沙渡「あ、そっか」


潤一「俺の時と変わらないからな。入学時に絶対買わされるその体操着袋は」


千沙渡「なんでみんな同じの買わされるんだろうね。袋なんて何だって良い気がするけど」


潤一「貴重な地元企業の収入源だからだろ。その袋を作ってる会社のさ。……まぁ、癒着っちゃあ癒着かもしれないが」


千沙渡「はー、せちがらいんだねぇ」



 千沙渡は妙に納得した様に頷いた。

 まぁ、癒着とか云々のひねくれた見方はあくまで想像に過ぎないのだが、それは黙っておく事にしよう。

<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:50:48.57 ID:swmSaLLqP<> 潤一「そういや千沙渡は、運動嫌いだったな」



千沙渡「べ、べつに嫌いじゃないよ! ちょっと不得意なだけだよ!」


 千沙渡は基本的になんでも器用にこなす癖に、運動に関する事だけはまったくダメだ。
 誰にでも一つは欠点があるというけれど、千沙渡にとってはそれが運動音痴って訳だ。
 
 ……まぁ、せめてそれくらいの弱点がないと、千沙渡は完璧すぎてこっちが困るんだけどな。


潤一「そんなんでいい子ぶるなよ。素直に嫌いだって言っていいんだぜ?」



千沙渡「ぶーっ、逆上がりぐらいならできるもん!」



潤一「それで自慢できるのは小学2年生までだろ」



千沙渡「こっ、この前、カイキャク前転? ってやつ? できたし!」



潤一「うるせえっ」



 ぽかっ。



千沙渡「あいたっ」



 千沙渡の頭を軽くチョップで叩いた。



千沙渡「うー……しどい」

<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:52:23.54 ID:swmSaLLqP<> 潤一「次はその後頭部についてるモノを引っ張るからな」



千沙渡「に、にいさんの悪魔ぁ……」



 怯える様にして、千沙渡はポニーテールを両手で覆った。

 儚い防御だ。

 俺が本気を出せば、ポニーテールの一つや二つ引っ張ることなど造作ない。



潤一「確かにな、サッカーボールを蹴ろうとする度にすっ転んでたお前が、逆上がりや開脚前転は大した進歩だよ」



千沙渡「そうだよ。私だって、やればできるんだよ!」



潤一「だから、お前が努力家なのは認める。……だが、お前はどうしようもなく運動音痴なんだよ。それは動かしがたい事実なんだな残念ながら」



千沙渡「あ゛ーーーーんっ。……そんな事ないってばぁ……」



潤一「まだ言うかっ」



 ぽかっ



千沙渡「うに゛ぁっ」



 今度は千沙渡のおでこを小突いた。

<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:54:11.47 ID:swmSaLLqP<> 潤一「お前が自慢してる逆上がりだけどな。その逆上がりが出来る様になるまで、毎日毎日毎日ずーっと誰が練習見てやった?」


千沙渡「う……」


 どうしても逆上がりができないと泣きついてきた千沙渡。

 千沙渡が小学2年生の頃だったか。

 あの頃から負けず嫌いで、でも、誰よりも努力する娘だった。


潤一「千沙渡が逆上がり出来る様になるまで、一ヶ月はかかった気がするんだが……?」


千沙渡「い、一ヶ月で出来たじゃない」


潤一「普通は毎日やってりゃ一ヶ月もかからねぇっての! だから音痴だって言ってるだろうがっ」

千沙渡「……みっ、認めないもん。認めたらそこで終わりだもんっ」

潤一「隙ありっ!」

 クンッ。

千沙渡「ひ゛に゛ゃあぁっ!?」

 ムキになって油断したのか、ガラ飽きになった千沙渡のポニーテールを引っ張ってやった。

 軽く力を入れて引いただけで、面白いくらい千沙渡の頭が上に傾いた。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:55:23.48 ID:swmSaLLqP<> 千沙渡「あぅぅぅぅぅぅぅぅっ」



 バランスを崩しそうになるが、すぐに地に足がついた。

 さすが、昔からひっぱられ慣れているだけある。



千沙渡「うううう。頭の中身が出るかと思ったよぉぅ……」



潤一「いやぁ、久しぶりに引っ張れたわ。マンゾクマンゾク」



千沙渡「もう……こっちは朝から災難だよ……」

<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:57:31.04 ID:swmSaLLqP<>  そんな馬鹿なやりとりをしているうちに、いつも別れる橋までついた。

潤一「じゃ、またな」

千沙渡「うー、まだ脳ミソが頭の外にある気がする……」

潤一「くくくっ、お大事に」

千沙渡「にいさん、今日は私の事いじりすぎ」

潤一「わりぃわりぃ。……怒った?」

千沙渡「……んー、まぁ、いいよ」

 確かに今日は3回も千沙渡の頭にツッコミを入れたしな。
 少し、自分でもやりすぎたと思う。
 
 ……でも、そうでもしないと、千沙渡と上手く空気が作れない気がした。
 昨日、あふれず川で話してから、ともすると千沙渡と距離を作ってしまいそうで。 <> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:58:16.07 ID:swmSaLLqP<> 千沙渡「痛かったけどさ」

潤一「けど?」

千沙渡「……うぅん、なんでもない」

潤一「……そっか」

千沙渡「じゃあ、また明日」

潤一「ん」

 別れを交わして、お互い別々の道を歩き出した。

 千沙渡は何か言いかけていたけれど、言わなかった。
 もしかしたら、千沙渡も昨日の事を気にしていたのかもしれない。
  <> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:58:51.25 ID:swmSaLLqP<> 俺の事を、千沙渡は「変わった」と言った。

 その「変わった」俺と、昔と変わらずに千沙渡は接してくれている。
 けれど、昨日みたいに改まって何か話をするような事は、これまでなかったことだ。

潤一「気を……使わせちまってるな」

 ありがたくもあったが、迷惑に感じている部分もある。

潤一「どうしたもんかな……」

 また明日。
 そう言って別れたはいいものの、毎日お互い気をつかい合うのも疲れてしまう気がする。

 なら、千沙渡にもう朝は迎えに来るなと言えばいいのだろうか。
 
潤一「はぁ……」

 どっちにしろ、気が重かった。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/03(日) 23:59:38.99 ID:swmSaLLqP<>
 放課後

担任「……んじゃ、今日はこれで終わり。日直〜」

日直「きりぃつ。……れーい」

 日直のやる気の無い号令に、クラスメイト達の揃わない「さようなら」が続く。

担任「うい。気をつけて帰れよー」

 そう言い残して、一番に教室から消える担任。
 クラスメイト達もおのおの帰る準備を始め出す。

潤一「……ふぅ」

 部活に遅れそうなのか、見たいテレビ番組でもあるのか、何人かが駆け足で教室を出て行った。
 いつもなら、俺もそれに続く形でサッと消えるのだけれど、今日はどうも気分が乗らない。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:00:23.28 ID:c90LK9qkP<> 潤一「……」

 窓の外を見ると、生徒達が学校内から校庭へとゾロゾロと出てくる所だった。
 
 ……おそらく、今日またあふれず川のあの場所へいけば、立花静姫と会うだろう。
 そうしたら、彼女と話をするだろう。

 この先一緒に話をしていけば、もっと彼女の事を知るだろう。
 俺の事も知られてしまうだろう。

 お互いがお互いを知って、きっと友達くらいにはなれるだろう。

潤一「……友達、か」

<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:01:31.63 ID:c90LK9qkP<>  他の皆が帰る準備をしている中、一人だけ座ったままなのもどうかと思って、ぶらりと教室を出た。
 けれど、学校の外まで出る気がしなかった。
 出てしまえば、いつもの癖であふれず川へ寄ってしまいそうだから。

潤一「どうしたものか」

 とりあえず、階段を降りる。
 一階につくも、昇降口とは反対側に向かった。
 あまり普段は歩かない場所だ。

 日当たりが悪いのか、ここの廊下は薄暗い。
 どんな教室があったかと思いだしながら、ゆっくりと進んだ。

 使われていない空き教室が並び、それから美術室。美術準備室。
 写真部が使ってる暗室。社会科準備室。

 ほとんどの教室が、蛍光灯が灯ってはいなかった。
 美術室だけは、美術部が活動しているのか、教室内が明るい。
 
 なるほど。
 日当たりだけじゃなく、ここは日陰的な目的に使われる教室ばかりだ。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:02:25.35 ID:c90LK9qkP<>  ジメジメドヨドヨした雰囲気が、なんとなくこの廊下全体に漂っている。
 俺がこの高校の宿直だったら、こんなところは絶対に見回りしたくないな。

潤一「もしかすっと、何か出るかもしれねーな」

 ……バサバサッ

潤一「うぉっ!?」

 背後から物音がして振り返った。

 ……が、目の前はリノリウムの無機質な廊下が続いているだけだ。

 『何か出る』なんてつぶやいたら、本当に何か出ちまうとか、どんなお約束だよ。

潤一「ったく……俺はそういうの、信じねータチなんだぜ?」

 本心はそうでもないのだけれど、こういう時は強がっておかないとな。
 平常心。平常心。
 ……さ、気にせず歩こう。

 バサバサッ。

潤一「うぉおっ!?」
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:03:29.62 ID:c90LK9qkP<>  また、さっきと同じ物音。
 しかも、近くなってる。

潤一「ど、どこだよぉおおっ」

 あたりをキョロキョロ見回す。
 ……が、それらしき物音を発する様なものは見当たらない。

潤一「クールクール。大丈夫、俺はクールだ」

 必死で自分を奮い立たせる。
 こういう時は冷静になるに限る。
 大丈夫、幽霊だろうがなんだろうがドンとこいだ。

潤一「ふー。……うん、何もなかった。なかったんだ」

 バサバサバサッ

潤一「うぉおおおおおおおおおっ!!!?」
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:04:15.60 ID:c90LK9qkP<>  また、物音。
 しかも至近距離。

潤一「ひっ、……ひぃいいっお助けっ!!!」

 ……くるっくー。

潤一「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」

 ……くるるるるぅ。

潤一「ひぃぃぃぃ…………いぃっ?」

 な、なんか、今、ものすごく聞き覚えのある音が聞こえたような……。

 ……くるるるるっく〜。

潤一「この、音は……」

 そうだ、音……というより、これは、鳴き声だ。
 町のどこにでもいて、朝ホーホー泣いてるあの……。

潤一「……は、鳩っ!?」

鳩「くるっく〜」 <> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:05:12.48 ID:c90LK9qkP<>  どうして気づかなかったのだろうか。
 いや、まさかそんな。

 なんで俺の足元に、鳩が。

 まさか怪奇音の正体が、鳩だったなんて……。

鳩「くるるるぅ〜♪」

 そんなショックを受けている俺の気持ちを知ってか知らずか、鳩はのんきに鳴き声をあげながら、トットットッと小走りで俺から離れていく。

 どうやら、学校に鳩が入り込んでしまった様だ。
 まぁ、放っておけば勝手に出て行くだろう。

 しかし、鳩に怯えてた俺って一体……。
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:05:55.90 ID:c90LK9qkP<>  バサバサバサッ。

 迷い鳩は、翼を広げて飛び上がろうとする。
 しかし、羽は広がり切らず、ちょっと浮かぶとすぐに着地した。

 バランスが崩れて、鳥らしくないよろけた着地だった。

 どうしたんだろう。
 廊下が狭いから、思った様に飛べないのだろうか。

潤一「いや……あれは」

 迷い鳩の羽に、違和感があった。
 目をこらすと、ほんのり羽の付け根が赤い。

潤一「もしかして怪我してんのか。……おいっ、ちょっと待て!」
<> ちぢれ<>sage<>2012/06/04(月) 00:08:07.66 ID:c90LK9qkP<> 鳩「くるっく〜♪」

 飛べなくとも、足をトコトコ動かして鳩は俺から素早く離れていく。

 すばしっこくて捕まえるのに苦戦はするだろう。
 けれど、怪我をしてるのなら放ってはおけない。

潤一「……ったく」

 もしかしたら、いつもの俺だったら怪我した鳩なんてどうでもよかったかもしれない。
 でも、今日はつまらない面倒事でも背負い込みたい気分だった。

 真っ直ぐあふれず川に向かわないで済む理由なら、なんでも良い。
 汚した鳩? 大歓迎だ。

潤一「待てってば!」

 羽に傷を追った迷い鳩を追って、俺は駆け出した。
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