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HTML化した人:lain.
ホロコーストスレ避難所2
1 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv2009/05/21(木) 17:23:17.11 ID:M90pgkc0
世界史板のホロコーストスレの避難所です。
規制中や、次スレが建たなかった時、次スレの相談なんかに使ってね。
みんな仲良く使ってね。
2 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/21(木) 17:29:40.83 ID:M90pgkco
ちょっと改正もしてますQ&A.
Q ドイツがユダヤ人の死体を焼く燃料とか、そんな重油捲く余裕ドイツに無いでしょ?
A アウシュヴィッツの焼却炉は連続焼却可能な焼却炉です。燃料はコークスですので
 重油は必要ありません。コークスも最初に温度を上げるために使えば、あとは少量の追加で
 連続焼却が可能です。

Q そんなおとぎ話捏造ではないでしょうか
A 焼却炉に関しては、製造元の会社の資料が残っています。現実です。
 炉内の温度を保つのに必要な熱は遺体が燃える熱を利用します。

Q 動物がそんなに燃えるものでしょうか。
A これを「ロウソク効果」というらしい。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Wick_effect
 こっちには豚が燃える写真も載ってる
 http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/158853.stm

Q ホロコーストの定義を教えて下さい
A どうして定義が必要なんでしょう。包括的に語る言葉が欲しい、ということであれば
 第二次世界大戦中にヒトラー政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人などに
 対して組織的かつ意図的に行われたとされる大量殺戮を指す。
 広義には組織的な大量虐殺一般をホロコーストと称することもある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
 これにナチスの民族差別政策全般を加えて、ホロコースト、と呼びます。

Q ホロコーストに対する肯定派、否定派とは何ですか。
A 肯定派というのは否定論を支持する人達がレッテル的に呼んでいるだけです。
 実際には現在の歴史学の説を支持する人のことです。対して、
・ナチスは虐殺していない or 虐殺はしてても「組織的ではない」または、
 「意図的ではない」このどちらかを主張するのがホロコースト否定派(ド・モルガンの法則)

Q ガス室はホロコーストの成立条件ですか
A 質問の意味が解りませんが、ガス室は一部であり、全体ではありません。
 ガス室の話をしなくても、ホロコーストについては語れます。
 ガス室だけから、ホロコーストは解りません。これでいいですか?

Q 600万人をガス室で殺害なんてコストがかりすぎておかしいのではないですか?
A 600万人がガス殺された、という学説はありません。

Q 赤十字の報告では収容所の待遇は良かったと聞きます
A ドイツ赤十字はSSの下部機関。赤十字本部を従えるスイスはドイツの属国です。
 なお大戦中の赤十字の「本音」はこちら
 >http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm
3 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/21(木) 17:32:40.30 ID:M90pgkco
Q ドイツはチフス対策をしっかりやっていたと聞きました。病院もあったはずですが
A あの死亡率で? それにチフス対策より、即刻解放の方がコストかからないし確実だよ。
 捕虜や犯罪者じゃないんだよ ?
 無理矢理連れてこられた一般人が犠牲になっているからホロコースト

Q 収容所外では、全滅した最前線の村やチフスで全滅した村があります。
 収容所はましな環境だったのでは?
A 詭弁の一つ。例外を一般化する。
  それって戦後の話でしょ?収容所は大戦中から死者が多かったですが。

Q 木村氏は殺人が立証されるには「容疑者」「死体」「殺人に使われた凶器」が必要と言っていますが?
A 凶器を特定出来なくても、現実では状況証拠や証言だけで有罪判決になることは多い。
 例 和歌山ヒ素カレー事件
 死体も必ずしも不要です 。焼かれたらどうしようもないしね。
 死体が発見出来なければ犯人を立証出来ない」とか刑事ドラマだけの話です。
 木村氏明確に事実誤認

Q ホロコースト肯定派は南京も肯定派でしょうか?
A 関係ありません。南京は南京。ホロコーストはホロコースト。
  状況も被害者も時も場所も全て違い過ぎです。
  なお、新しい教科書を作る会は、ホロコースト600万殺人をそのまま記載しています。

Q 東京裁判があれだけめちゃくちゃだと
 きっとニュルンベルク裁判もめちゃくちゃですよね?
A あまり関係ない、と思いますが。
  なんでもかんでも一緒に考えると、デンパさんっぽいですよ?

Q 人間石鹸は嘘らしいですが?
A 一部の噂は歴史学者も信じていません。マスコミがおもしろおかしくかき立てているだけです。
  しかし、サンプルから人間の組織が発見された、というニュースもありました。
  続報が待たれます。

Q アンネの日記とか、シンドラーのリストって嘘多いですね。
A アンネの日記はともかく、シンドラーのリストはフィクションですからね。
  アンネの日記にウソなんてありましたっけ。なんでもかんでも(ry
4 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/21(木) 17:35:46.58 ID:M90pgkco
Q アウシュツビッツの人数が変わっているのに全体の600万が不変なのは?
A 基準というか、根拠が違うので単純比較できないからです。
  なお、歴史学的にも600万以外にも色んな学説があります。

Q イスラエルのヤド・ヴァシェム博物館は350万人死亡者をリスアップして、発表しました。
  600万殺害説を下方修正したということですか?
A わかる範囲でリストアップしました。リストアップできたのが350万人ということです。
  最低が350万人ということです。自説を補強するというよりは犠牲者や遺族を確定させる為に
リストを作りたかっただけで、修正の意図は無いです。

Q そのリスト表は捏造されたのでは?
A あなたが捏造を証明できれば、そういうことになります。できますね?

Q 日本の捕虜収容所も酷かったのでは?
A 酷かったら?ホロコーストになんの関係が?
 そういうのは「相対化」と呼ばれます。何の意味もありません。以下一緒。繰り返すなよ?

Q ソ連のラーゲリも酷かったのでは? Q アメリカも日系人の一般人を収容した
Q アメリカもドイツ兵を虐殺したのでは?

Q ドイツのSSには予算が無かったらしいですがホロコーストなんてあったのでしょうか。
 予算無しではホロコーストはおこなえないはずです。
A SSに予算が無いと、ホロコースト以外にも色々行えないはずですが。
 収容所に予算が無い、の間違いでは?なお、収容所は独自予算で運営されています。
 収支報告書が残されています。収容者派遣とかで結構、儲かってます。

Q ガス殺がメインでないとしたら、どうやって600万ものユダヤ人を処刑したんですか?
A 600万人が処刑されたわけではないです。ていうか何故処刑?
 殺害方法としては銃殺、薬殺、飢餓による衰弱死、病死、首吊りなど様々にありますが。
 もちろんガス殺も有りました。ガスの種類は様々。
5 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/21(木) 17:47:53.42 ID:M90pgkco
Q T4作戦ってなかったんでしょ?

A T4作戦にはヒトラーの署名入りの指示書があります。無かったって話しはナランでしょう。

Q ナチスドイツがもちいたユダヤ人の基準は何ですか。

A 基本的にはニュルンベルク法で規定されてますが、厳格に施行されたわけではありませんでした。
  >>ttp://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08b03g.html#05120
  フランスなどでは、自主申告で判別されていました。
  ドイツ国内では家系図を作って証明しなければならなかったようです。
  「娘と話すアウシュヴィッツてなに?」23〜25Pアネット・ヴィヴィオルカ著 現代企画室より。
6 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/30(土) 15:39:35.32 ID:y/aqiX2o
ええっと、また規制かかりました。ぷげら。ほんまアカンな。もうカキコ控えるわ。
中途半端になっても回りに迷惑かけるばっかりだし。
んじゃ。
7 :投降依頼2009/06/02(火) 22:42:58.18 ID:Na9Hulo0
こっちも規制中なので気がついたらお願いします。
【否認論の】ホロコーストはあった【否認】 4 です。

---------------------------------------------
>>105
リーフェンシュタール監督のやつだと思うけど、あれはある意味とても貴重な映像だなww

俺の見たやつには日本人の競技は一つも入ってなかったけど、
唯一入場行進してくる日本人が映ってた。
小さくて黒くてまるで猿みたい。ご先祖様とはいえあの容姿にはガッカリした。

前畑がドイツでどう見られていたかは知らないが、400メートル自由形で
アメリカのジャック・メデイカと競った鵜籐は会場を沸かせたらしい。
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8 :72009/06/03(水) 21:52:43.48 ID:d3m2rSY0
投稿ありがとうございました。
こっちは今日もまだ規制です。ダメだこりゃ。

>>6
控えるとかおっしゃらずに、
気が向いたら何でも書いておいてくださいよ。
規制が解けたらずうっと遡ってレスしときますよ。
9 :72009/06/07(日) 15:20:53.20 ID:Mfmp2/.0
すいません、また代理投稿おねがいします。
まだ規制中です。長いなあ。

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芝健介の記述でおかしな点を見つけたんだけど「1室で1500名の殺害が可能だっ
た。」(>>90 pp.177f)て多すぎない?

スタニスワフ・コザク証言によると、はじめに作った3室のガス室は1室が
「縦4メートル、横8メートル、高さ2メートル」だからね。1500人も入らない
だろうよ。

芝の根拠は不明だけど、のちに作り替えた新しいガス室なら1回に(10室で)
1500名という証言があるので(ルドルフ・レーダー証言)、これはそれとの
取り違いミスだと思う。

リュビーとヒルバーグからベウジェッツに関する史料(ないし該当本文)を
抜粋したので、検討してみてほしい。
-------------------------------------------------------
10 :7[sage]:2009/06/07(日) 15:23:18.36 ID:Mfmp2/.0
以下は長いのでお手数ですが適当なところで切ってください。
32行ずつにすれば大丈夫だと思います。
-------------------------------------------------------
ベウジェツ関連史料
○[全般]
▼グロボチュニクのヒムラー宛書簡1943.11.04(Ruby, p.335)
 『総督府にて継続して参りましたラインハルト作戦を、1943年10月19日をもって終了し、
 収容所を解体いたしました。』
▼ガンツェンミュラーのヴォルフ宛書簡1942.07.28(Hilberg1, p.372)
 (……)週に二度、5000人のユダヤ人を乗せた別の列車がプシェミシルからベウジェ
 ッツに向けて走っていた
▼ヴェッサーマンのガリツィア治安警察指揮官宛報告1942.09.14(Hilberg1, p.377)
 (1942年9月10日ガリツィアのコウォミヤ発の8205人の列車について)(……)この列
 車がベウジェッツに着いたとき、乗っていた者のうち200人が死んでいた
▼ヘーフレとロイターの議論1942.03.16(Hilberg2, p.158 史料名は要確認)
 ヘーフレは若干の忠告をした。すなわち収容所はベウジェッツで建設中である。ベウ
 ジェッツはザモシチ郡にあり総督府の境界近くに位置している。それでデンブリン=
 トラヴニキ線上のどこで、6万人のユダヤ人を処理できるか、と。ヘーフレはベウジェ
 ッツで毎日4、5名の移送者を受け入れる用意をした。「これらのユダヤ人たちは境界
 を越えることはできたが、総督府にもう戻れなかった」。
▼ハンス・フランク証言(Hilberg2, p.220)
 ある日、彼は「ベウジェッツの近郊で何かが起こっている」という報告を得た。そこで
 彼は、翌日そこを訪れた。グロボツニクは、巨大な壕を掘っているユダヤ人をフランク
 に見せた。フランクが、ユダヤ人をどうするつもりかと尋ねると、彼はありきたりの説
 明をしただけだった。ユダヤ人はさらに東方に移送されるというのである。そこで、
 フランクは別の方法をとった。彼は、ルブリンを訪問したいとヒムラーに言ったが、ヒム
 ラーから行かないよう説得された。
▼ゲルシュタイン関連書簡・口供書(ニュルンベルク裁判証拠PS-1553)(Hilberg2, p.171)
 (……)1942年8月のある日(……)アイヒマンの代理ギュンターと防疫係長クルト・ゲル
 シュタインがベウジェッツに到着した。彼らは90キログラムのチクロンをたずさえており
 、一酸化炭素ガス室をシアン化水素による方法に変えさせようとしていた。この招かれ
 ざる客たちは、とくに長時間(3時間以上)かかるガス殺害を監視すべく滞在した。ヴィ
 ルトが困惑し屈辱を覚えたのは、ゲルシュタインがストップウォッチをもって作業の時間
 を測定したことであった。ヴィルトは彼の生涯の最大の危機に直面し、彼の誇りは傷つ
 いた。彼は「ベルリンにおいて他のどんなタイプのガス室も提議しないよう」ゲルシュタ
11 :7 2つめ2009/06/07(日) 15:24:37.02 ID:Mfmp2/.0
 インに要請した。ゲルシュタインは要請を受け入れた。ただしチクロンが駄目になった
 という口実で、チクロンを忘れ去るよう指図した。
・ゲルシュタイン報告(手記)
ttp://www.deathcamps.org/belzec/gerstein.html
▼スウェーデン外務省の現代ユダヤ資料館宛書簡1949.11.10(Hilberg2, p.219)
 (……)ガスの担当者であったゲルシュタインSS中尉は、1942年夏の終わりに総督府
 の収容所を巡回したのち、ワルシャワ=ベルリン間の急行列車に乗り合わせたスウ
 ェーデン外交官オッター男爵に、あらゆる機密事項を漏らしてしまった。男爵は、絶滅
 収容所の存在についてストックホルムに報告したが、スウェーデン政府はこの情報を
 世界に公表しなかった。
▼プファネンシュティール証言(Hilberg2, p.226, 原注p.77)
 (ガス室の覗き穴について)プファネンシュティールは、1952年11月9日の供述で、見よ
 うとしたが、ユダヤ人がガラスを叩いていたので、あまり見えなかったと言っている。
・プファネンシュティール証言1950.06.06ほか
ttp://www.nizkor.org/ftp.cgi/people/p/pfannenstiel.wilhelm
○[収容所SS隊員]
▼カール=アルフレート・シュルッフ証言(Ruby, p.332 /Hilberg2, p.226)
 『貨車の荷降ろしは、カポ1名の指示のもと、ユダヤ人労役組によって行なわれていた。
 ドイツ側からは2、3人のメンバーが作業の監視に当たった。[わたしに課されたのもこ
 の役割である。](……)もやは歩けなくなっているユダヤ人たちは別の集合場所にまと
 められた。彼らに対しては、これからの移動に先立って水浴と消毒をしてもらうと告げ
 ておくのだった。この説明は、ヴィルト自身と、また彼の通訳をつとめるユダヤ人カポ
 の口から行なわれた。それから、残りのユダヤ人たちを脱衣用のバラックに連れて行
 った。ひとつのバラックで男たち、もうひとつのバラックで女と子供らがそれぞれ服を脱
 ぎ捨てた。脱衣のあと、まず男たち、ついで女子供という順番で、別々に交通壕を通
 って行った。[脱衣用のバラックを担当していたのが誰だったかは思い出せない。
 (……)わたし自身はそこに配属になったことは一度もないので、脱衣については詳細
 を述べることができない。わたしが記憶しているのは、ただ、衣服の一部はこちら、別
 のものはあちら、そして貴重品はまた別のの所、といった具合に持ち物を置いてゆく
 ように指示されていたということだけだ。(……)]
 交通壕を見張るわたしの持ち場は、脱衣バラックに近い場所であった。ヴィルトがわた
 しをそこに配置したのは、彼の見たところ、わたしにユダヤ人たちを安心させるような
12 :7 3つめ2009/06/07(日) 15:25:35.70 ID:Mfmp2/.0
 感化力が備わっているからだという。脱衣バラックから出てきたユダヤ人たちにガス室
 への道を示してやるのがわたしの任務だった。実際、わたしがいるおかげで彼らの
 通行はスムーズに行なわれていたのだと思う。わたしの態度と言葉遣いから、彼らは
 本当に水浴に行くのだと信じ込んだに違いないからだ。彼らが部屋に入ると、ハッケン
 ホルト、または彼の部下として配属されていたウクライナ兵たちが扉を閉めた。ついで
 ハッケンホルトがエンジンを始動させた。5分から7分経過したと思われる頃、全員死
 亡したかどうか確かめるため、のぞき窓から中を見た。確認の上で外の扉を開け、
 空気の入れ換えを行なった。[この確認作業を行なっていたのが誰だったかは、もう
 覚えていない。(……)皆が、必ず一度はのぞき窓から中を見るように言われていたよ
 うな気もする。]
 ガス室の換気のあと、カポ1名に率いられてユダヤ人労役組がやって来た。[このユダ
 ヤ人たちが死体を片づけるのだった。時折、わたしもこの作業の監督に当たることが
 あった。わたしは今、その模様を正確に描写することができる。わたしはそれをこの目
 で見たのだから。目撃者なのだから。] 部屋の中のユダヤ人たちは、ぴったりと折り
 重なっていた。死体は地面に横たわってはいなかった。のけぞったもの、前かがみに
 なったもの、横倒しになったもの、立て膝をついたもの、それらが互い違いに絡み合っ
 ていたのだ。大便、小便で汚れているものもあれば、よだれを垂らしたものもあった。
 わたしが観察し得たところでは、唇と鼻の先がやや青みがかった色を帯びていた。瞼
 を閉じたものもあれば、白目をむいているものもあった。死体がガス室から引きずり出
 されるろ、まず歯医者による点検があった。歯医者は指輪や金歯を引き抜いていた。
 そのようにして収集された貴重品をそばにおいたボール箱に投げ入れていくのだった。
 この作業が済むと、死体はあらかじめ用意してある大きな墓穴に投げ込まれた。』
 (Ruby, p.332)
▼ハインリッヒ・グライ証言(Ruby, p.334)
 『死体の掘り起こしと焼却処分が始まったのはこの時である。作業は1942年11月から
 1943年3月まで続いたと記憶している。焼却は、はじめ1か所の火元で、のちに2か所
 で、昼となく夜となく続いた。1か所の火元だけで、24時間に2000体を焼却することが
 できた。焼却作業の開始から4週間後、2つめの火元を作った。最初のもので5か月間
 に約3万体、2番目のもので4ヶ月間に2万4000体を焼却した。むろん、これはざっと
 見積もった数字にすぎない。総じて5万の死体というのが正確なところだったはずだ。(……)
 死体を掘り起こして焼却するというこの作業が、精神的にも、また視覚、嗅覚にとって
 もいかに不快な、おぞましい作業であるかは、文明の進んだ今日の生活に慣れてしま
13 :7 4つめ2009/06/07(日) 15:26:26.49 ID:Mfmp2/.0
 った人間たちには想像もつかないほどである。』
○[収容所生存者]
▼ルドルフ・レーダー証言(Ruby, p.333 /Hilberg2, p.224)
 (3つのガス室をもった従来の建物を壊して新たに建設された10のガス室を備えた建
 物について)『屋根が低く、横に平べったい建物であった。壁は灰色のコンクリート製、
 平屋根にはアスファルトで固めた厚紙がかぶせられ、さらに木の枝を絡ませた網で覆
 われていた。ステップはなく、幅約1メートル、3段の階段を上って中に入る仕組みにな
 っていた。建物の前には、けばけばしい色の花を植えた大きな鉢と、とても読みやすい
 字で「浴室、吸入室」と書かれた看板があった。階段を上ると、薄暗く、がらんとした廊
 下に出た。廊下はとても長かったが、幅はわずか1.5メートルであった。左右に幅1メー
 トルの木製の扉があり、それがガス室の入口であった。(……)廊下といい、部屋といい、
 天井がやけに低かった。高さは2メートルに満たなかった。それぞれの部屋の扉と反対
 側の壁に引き戸があって、そこからガス殺の犠牲者の死体を外に投げ出していた。
 建物の外に2メートル四方の小屋があり、そのなかにエンジンが置かれていた。部屋
 の床の高さは地上1.5メートル、全室合わせて一度に1500人、貨車にして約15輌分を
 収容することができた。』(Ruby, p.333)
○[収容所建設作業員]
▼スタニスワフ・コザク証言(Ruby, p.328)
 『1941年10月、ベウジェツに3人のSS隊員がやって来て、町から工事要員を20人要求
 した。これを受けた町側は、住民のなかから20人を指名し、そのなかにわたしも入っ
 ていた。ドイツ人たちは、駅の南西、リヴォフ行きの線路に近い引き込み線に沿った場
 所に土地を選んだ。われわれは、11月1日に工事を始めた。まず引き込み線に隣接し
 た区域のバラック建設である。線路のすぐわきに建てられたバラックは、奥行き50メー
 トル、間口12.5メートルのものであった。これは収容所で働かされることになるユダヤ人
 たちの待機場所であった。2番目は、奥行25メートル、間口12.5メートルで、ユダヤ人た
 ちが体を洗うためのものであった。
 これらのバラックの隣に、われわれは奥行き12メートル、間口8メートルの3つ目のバラ
 ックを建てた。このバラックは、木の内壁によって、それぞれ縦4メートル、横8メートル、
 高さ2メートルの3つの小部屋に仕切られていた。われわれは、このバラックの壁の内側
 に隔壁を打ちつけ、すきまを砂で満たした。バラック内の仕切り壁はアスファルトで固め
 た厚紙でおおわれ、さらに床と、仕切り壁の高さ1.10メートルまでの部分にトタン板が張
 られた。第1と第2のバラックのあいだには、幅3メートルの通路があったが、その両側が
14 :7 5つめ2009/06/07(日) 15:27:13.61 ID:Mfmp2/.0
 高さ3メートルの鉄条網の柵で囲われた。柵の一部は、引き込み線を隠すため、松や樅
 の植え込みになっていた。第2のバラックから、幅2メートル、高さ2メートル、長さ10メート
 ルの屋根付き廊下が1本延びて、第3のバラックにつながっていた。この廊下を通って
 第3のバラックの控えの間に入るようになっていた。そしてこの控えの間には、それぞれ
 の小部屋に入るための扉が3つ開いていた。そのほかにも各小部屋には、北側に面し
 、高さ1.8メートル、幅1.1メートルの扉があった。これらの扉は控えの間につながってい
 るものも含めてすべて、ゴムの強力な目張りがしてあった。扉はすべて外に向けて開く
 ようになっていた。扉は厚さ3センチメートルの板で非常に頑丈につくられており、内側
 からどんな圧力がかかっても大丈夫なように何本か横木をわたし、それを特別に工夫
 をほどこしてある鉄の鈎に2か所で固定するようになっていた。(……)
 バラックの北側に沿って、高さ1メートルの降車場があり、そこに軽便鉄道が1本引かれ
 ていた。この線路は共同墓地につながっていた。「黒の連中」が絶滅収容所の北隅の
 一角に作った壕である。壕は深さ6メートル、幅20メートル、長さ50メートルあった。収容
 所で殺された最初のユダヤ人たちが埋められた場所である。黒の連中は、われわれ
 がバラックを建てている間も掘り続け、結局6か月を要した。のちに、この壕は北隅の
 ラインの中点付近まで延長された。第1のバラックは、引き込み線から20メートル、南隅
 のラインから100メートル離れていた。われわれポーランド人がバラック建設工事を行
 なっているあいだに、黒の連中は収容所の柵を設置していた。柱から柱へと有刺鉄線
 の頑丈な網を張り巡らしてゆくのだ。われわれが3棟のバラックの建設を終えると、ドイ
 ツ人は12月22日、われわれを仕事から解放した。』
▼錠前師の証言など(ベウジェツ裁判 Hilberg2, p.157)
 建設中に収容所で働いたある錠前師は以下のような年表を残している。
 〇1941年10月、親衛隊がベウジェッツのポーランド行政当局に20人の労働者の提供を
 要求。ドイツ側、敷地を選定。
 〇1941年11月1日、ポーランド人労働者、以下の3つの収容施設の建設に着手。
 控え室への通路のある待合会場。
 その控え室と通じている第三の建物、その廊下にはそれぞれ個室に通じる3つのドア
 がある。個室にはそれぞれ床通路と出口が1つある。
 3つの個室には(出入口となる)全部で6つのドアがあり、厚いゴムでおおわれ、外部へ
 と通じている。
 〇1941年11-12月、約70人の囚人服の東部協力者隊(監禁を放免されたソ連捕虜)が、
 狭軌の鉄道を敷き、穴を掘り、囲いをつくった。
15 :7 6つめ2009/06/07(日) 15:28:05.79 ID:Mfmp2/.0
 〇1941年12月22日、ポーランド人労働者、仕事を放免される。
 〇1942年1-2月、監視塔の建設。
○[鉄道員]
▼ステファン・キルシュ証言(Hilberg2, p.223)
 ベウジェッツのホームでは、到着したユダヤ人は、囚人による10人編成のオーケストラ
 の歌と音楽で迎えられた
○[移送関連]
▼スタニスワウォフの生存者・治安警察証言集(Hilberg1, p.376)
 スタニスワウォフでは、1941年10月12日に、ほぼ1万人のユダヤ人が墓地に集められ、
 射殺された。42年3月にも射殺が行なわれ、このあとゲットーの火事が3週間も続いた。
 4月には、ベウジェッツへの輸送が行なわれ、さらに射殺行動が夏に始まり、このなかで、
 ユダヤ人評議会のメンバーと治安隊の隊員が、街頭の柱に吊るされた。9月と10月には、
 ベウジェッツに向けて大規模な輸送が行なわれた。このときには、病院が流血のなか
 で一掃され、(ドイツ人の農業関係の役人が聞いた報告によれば)ユダヤ人たちはひざ
 まずいたまま駅まで行進させられたという。
▼ミエチスラフ・ガルフィエンキェル証言(Hilberg1, p.374)
 (……)42年4月11日、まさにザモシチで検挙が行なわれた。ガルフィエンキェルは、ゲッ
 トーの残った住民を数えて、3150人連れていかれたことを確認した。翌日、評議会役員
 (ヴォルステイン)の13歳の息子が収容所から帰ってきた。この少年は裸にされた人び
 とを見ており、親衛隊員が彼らに話すのを聞いていた。ヴォルステインの息子は、まだ
 服を着たまま、どぶに隠れて、ベウジェッツの秘密を手にして、有刺鉄線の下をはい出
 たのである。
▼ヴォルフ・サムボル証言(Hilberg1, p.376)
 1942年7月に輸送停止が解除されるや、ラヴァ・ルスカからの輸送が始まった。この夏
 にはベウジェッツがどういうところか、もはや秘密ではなかったが、ラヴァ・ルスカのユダ
 ヤ人評議会は協力する方針をとっており、多数のユダヤ人が輸送のための集合地点
 に集まった。『彼らの望みは、30分でも長く生き延びることだった』とサムボルは言う。し
 かし、数千の人々は隠れようとし、列車から飛び降りた者も多かった。
○[収容所周辺]
▼ヴィルヘルム・コルニデス日記1942.08.31(Hilberg2, p.220)
 あるドイツ人下士官は、ラヴァ・ルスカのドイツ館や近郊のヘウムの市庁舎地下レスト
 ランで、ベウジェッツについて多くのことを聞いた。ある日ヘウムに行く途中、ラヴァ・ル
16 :7 7つめ最後2009/06/07(日) 15:30:49.78 ID:Mfmp2/.0
 スカの駅で、彼は移送列車を見た。ユダヤ人はどこから来たのかと、彼は鉄道警察官
 に尋ねた。多分リヴォフから来た最後の奴らだ、と警察官は答えた。ベウジェッツに行
 くのさ。それからだって? 毒さ。ドイツ人下士官は、自分の列車に乗って、鉄道警察
 官の妻と同じ車室になった。仕事でその列車に乗り合わせていた彼女の夫が話しに加
 わった。その女性は途中でベウジェッツのことを示そうとした。「ほら、来たわ」。強烈に
 甘い匂いが彼らを迎えた。「もう、嫌な匂いがしてるでしょう」と女性が言うと、「馬鹿だな、
 あれはガスじゃないか」と夫は説明した。
○[ベウジェツ調査報告]
▼ポーランドにおけるドイツの犯罪(German Crimes in Poland, 1946)
ttp://www.ess.uwe.ac.uk/genocide/gcpolindex.htm

| Ruby - マルセル・リュビー『ナチ強制・絶滅収容所』筑摩書房
| Hilberg1 - ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』柏書房、上巻
| Hilberg2 - 同下巻

※上はほんの一部。ソースが下記になっているものは一次史料名未確認のため除外。
A. Rückerl, NS-Vernichtungslager (München, 1977)
Eugen Kogon et al., Natinalsozialistische Massentötungen durch Giftgas (Frankfurt, 1986)

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多いですね^^; すいません。よろしくお願いします。m(__)m
17 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/06/07(日) 18:22:03.80 ID:xCS84M6o
見たとたんにワロタ。多いわっ!
でも資料を提示しようと思ったら長くなっちゃうんだよねぇ。
ヒマみて転載します。
18 :7[sage]:2009/06/09(火) 20:48:20.41 ID:kVRkri.0
>>17
ありがとうございます。
eo.eaccess.ne.jpなんだけど、規制が長びいてます。
19 :7[sage]:2009/06/13(土) 19:27:22.05 ID:nqNN4DU0
解除されました! 転載乙でした。感謝します。
20 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/06/14(日) 08:33:35.81 ID:E/XMXM6o
解除オメ。オレは再度規制中。トホホ。
21 :72009/06/19(金) 00:32:10.24 ID:DtClvpE0
あらら。
なんか最近●の購入を促してるかに見える規制のしかたですね。



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