【モバマス】水曜日の午後には、温かいお茶を淹れて
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52: ◆Z5wk4/jklI[saga]
2018/12/19(水) 20:16:14.98 ID:MnCJ5f3U0
 6.Camellia sinensis 
  
  時は流れ、十二月、ある水曜日の午後。 
  私は長い廊下を歩く。廊下のいちばん奥の扉の前には、ちひろさんが立っていた。 
  
 「夕美ちゃん、どうもありがとう」 
  
 「お疲れ様です、ちひろさん」 
  
  部屋の扉には私たちを導いてくれた人の名前が書かれた札が下がっている。 
  
 「今は、お休みになっています」 
  
  ちひろさんの言葉に私は頷いて、大きな音をたてないよう、そっと扉を開けて部屋の中に入った。 
  小さな個室の中に、白いベッドがひとつ。 
  消毒液か何かをイメージさせる、病院独特の匂い。定期的に電子音を発している機材。 
  これまでにも数回経験のある、この世とあの世の間みたいな、生活感の断ち切られた非日常的な景色。 
  プロデューサーさんが運び込まれた病室は、そういう空気に満ちていた。 
  花瓶に挿されたお花さんが、この部屋の借主をじっと見つめている。 
  ベッドの中央で、私たちのプロデューサーさんは、目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。 
  私は荷物を置いて、お布団のあちこちからたくさんの管が伸びるベッドのとなり、お見舞にきた人のために置かれた椅子に座り、レースカーテンのかかった窓の外を観る。 
  空は薄明るい灰色で覆われていて、今年初めての雪がちらついていた。 
  もう一度、プロデューサーさんの顔を見る。 
  ほんの数十日前は元気に私たちを導いてくれていたのに、今ではずっと痩せて小さくなってしまっていて、肌の色は深く沈んでいて。 
  ――誰が見ても、もう、長くはないんだとわかってしまう。 
  誰にでも訪れる瞬間ではあるけれど、私は、胸が詰まる思いだった。 
  
 「プロデューサーさん」 
  
  私は声に出す。プロデューサーさんは、目を閉じたままゆっくり呼吸して、胸を上下させている。 
  
 「もうすぐ、今年もおしまいです。私はまだ自分の部屋の大掃除も終わってないし、年賀状の準備もこれからで、なんだかばたばたした年末になっちゃいそうです」 
  
  あの日、プロデューサーさんは事務室で倒れてから、搬送された病院で治療を受け、命を取り留めた。けれど、それから先、意識は安定しなくなってしまった。 
  今では眠ったり目覚めたりを不定期に繰り返していて、起きていても意識は濁って、しっかり受け答えができないことが多いらしい。 
 私たちユニットのメンバーは代わる代わる、プロデューサーさんのお見舞いに訪れていた。ちひろさんのお話では、プロデューサーさんに奥さんやお子さんはなく、親族もみんな既にこの世を去っていて、この部屋を訪れるのはプロデューサーさんの信頼できるお友達と、プロダクションの一部の人、そして私たちユニットのメンバーくらいらしい。 
  それでも、プロデューサーさんの部屋にはたくさんの花が飾られ、お見舞いの品が溢れ、プロデューサーさんが、ここまでずっと誠実に生きてきたんだっていうことが、とてもよく分かった。 
  
 「事務室は、先週大掃除をしたんですよ。マキノちゃんが、これからどんどん忙しくなるんだから、先にやっておくべきだって……美穂ちゃんとくるみちゃんが、すっごく頑張って綺麗にしてくれて……あれ、このお話、もしかしたら一昨日にマキノちゃんがしちゃってたかなぁ……」 
  
  私はひとりでちょっと笑う。 
  
 「でも、これから話すことは、プロデューサーさんはご存じじゃないと思います。今日、私たちのユニット名が決まりました。もう、プロデューサーさん、私たちに残していった資料に、ユニット名は自分たちで決めなさい、なんて書くんだから……決まるまで、とっても時間がかかったんですよ。でも、最後はみんなが納得する名前に決まりました。はぁとさんが出してくれたアイディアなんです」 
  
  私はプロデューサーさんの手をとる。筋肉が衰えて骨ばっているけれど、しっかりと温かい。その手のひらに、私は一文字ずつ、指で字を書いていく。 
  
 「G、R、A、C、E、F、U、L、T、E、A、R、S。グレイスフルティアーズ。優雅な滴っていう意味です。マキノちゃんがすぐに、イニシャルはG・TでGreen Tea、緑茶と同じね、って言ったら、はぁとさん頬を膨らませて恥ずかしがっちゃって。ふふっ。そのあと美穂ちゃんが、つづりの中にTeaも入ってますねって言ったら、はぁとさん、そっちは気づいてなかったみたい。でも、いい名前だと思いませんか」 
  
  私はプロデューサーさんの手を握った。 
  
 「この名前で、プロデューサーさんがくれた歌で、私たちみんなでフェスに出ます。あと、もうすこしです。みんな成長したんですよ。美穂ちゃんもマキノちゃんも、歌もダンスもすっごくレベルアップしてて、私はみんなに置いて行かれないように必死で。くるみちゃんはお仕事にも慣れてきて、最近は前より涙が流れるまでの時間が長くなったって言ってました。苦手だって言ってたダンスも、一歩一歩、進んでます。はぁとさんは、トレーナーさんから矯正完了のお墨付きをもらって、今はどんどんお仕事を入れて、ユニットの宣伝をしてくれています。私は……私も、みんなほどじゃないかもしれないけど、頑張ってるつもりです。だから――」 
  
  私は、希望を唱える。 
  
 「プロデューサーさんも、きっと元気になって、私たちのステージを見に来てくださいね」 
  
  私はもう一度、プロデューサーさんの手をぎゅっと握ってから、椅子から立ち上がる。 
  コートを着て、マフラーを巻こうとしたときだった。 
  背後のベッドから、衣擦れの音がしたような気がして、私ははっとして振り返る―― 
  プロデューサーさんが目を開いていた。 
  眩しそうに眉間にしわを寄せて、それから首と眼球を少し動かして、私の方を見る。 
  黒目に光が、ううん、炎が灯っているように、私には見えた。 
  
 「……ごに……っ」うまく声が出せなかったのか、プロデューサーさんは詰まったような音を漏らした。「そこに、居るのは……? 相葉さん、ですか……?」 
  
 「はい、相葉、夕美です、プロデューサーさん!」 
  
  私はもう一度コートを脱ぎ、プロデューサーさんに近寄った。 
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