1: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:33:22.85 ID:NLnJB+H60
 駅を降りてレンタカーを借りた。三十分ほど走らせれば街並みは次第に郊外の風景へと変わり、やがて古い軒が目立つとともに田畑が混じる。細い畦が目立つ中を一本貫く国道は、ガードレールもところどころにしかない片道一車線。それは連峰の鮮やかな緑へと向かっている。 
  水田の稲が青々と視界の端に過る。そう言えば街中でコイン精米機をいくつも見たな、と俺は今更ながらに思った。 
  
 「お米が名産、っていうには新潟とか北海道に差をつけられちゃった感じはしますけど、昔はもっと、いまよりも盛んだったみたいです。ただ、街のほうに品種改良センターがあるのと、農業機械のメーカーの工場も少し遠くにあって」 
  
  漣は水田の、青々と伸びる盛稲を見ながら言う。 
  
 「今から入るのは赤根山っていうんですけど、この辺り一帯は味ヶ淵連峰って大きなくくりの中にあって、こう……山がそのまま海になる、って言ったらわかりますかね? 平野部が少ないんです。 
  山があって、木があって、崖があって、んで、海がずどーん! って」 
  
 
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2: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:34:06.83 ID:NLnJB+H60
  
  確かに、列車に揺られているあいだ、その殆どの時間は海沿いに敷かれた鉄路を往っていた覚えがある。山に遮られて見えないが、海に近い土地なのだ。 
  言われてみれば潮のかおりが僅かに漂うような気もしたが、いや、単なる気のせいに違いない。五感ほど調子のいい器官も珍しいから。 
  
  窓を開けて身を乗り出し、漣が遠くを指さす。危ないからやめろ、と窘めても、「ご主人様あそこ、あそこ!」と聞きやしない。 
3: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:35:51.01 ID:NLnJB+H60
  
  全開にした窓からばたばたと風がうるさい。それに負けじと漣が声を張るものだから、二重奏でさらにうるさい。このあいだ酒が飲めるようになったくせして、言動は出会ったころからまるで変化がないのだから、人間というものは実に難儀である。 
  とはいえ、ならばお前はと訊かれたときに、胸を張って堂々とできるやつがどれだけいるものか。俺も嘗てと今を見比べてみて、十二分に満足な大人になったとは言い難い。 
  そもそも論として大人になるということ自体に価値を見出すのが間違っている。事実、俺はいま、漣の稚気に随分と癒されているのだから。 
  
4: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:36:36.76 ID:NLnJB+H60
  
  山間を抜けた先、特筆すべきこともない港町――とは漣の弁である。泊地を発ってJR、JR、私鉄と乗り継ぎ、そろそろ六時間が経過しようとしていた。長旅というほど長旅ではないにせよ、小旅行というにはあまりに遠い。 
  漣からこの話を持ち掛けられたのは二週間ほど前のことだった。二週間。それは、単なる約束事なら十分すぎる猶予期間だけれど、故郷を訪ねるには聊か急すぎる。 
  
  どうして漣が俺を誘ったのか、俺はその理由を知らない。ついぞ聞けずじまいに終わってしまった。 
5: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:38:19.32 ID:NLnJB+H60
  
 「山道とかも詳しいのか」 
  
 「このあたり、昔はよく遊んでましたよ。桑の実とか、山葡萄とか、お腹が空いたら食べてましたねぇ。カブトムシが山ほど集まる木もあったんですけど、忘れちゃいました」 
  
6: ◆yufVJNsZ3s
2020/08/12(水) 23:39:15.04 ID:NLnJB+H60
  
 「……どうすんだ」 
  
 「降ります。歩きましょう」 
  
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