926:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[saga sage]
2012/03/28(水) 17:07:13.75 ID:yeH7LGcTo
>>909
僕は大学の卒業式を終えて、大学前の公園に来ていた。大きな桜の樹のある広い公園。
冬の終わり。すこし冷めた空気の中、春を待つ気配を漂わせながら桜は立っていた。まだ開花はしていない。
近くまで歩いていくと、樹の下に誰かがいるのが分かった。
「あら元気ない顔ねえ」
その老婦人は、まるで顔見知りのように笑顔で声をかけてきた。
「……どこかでお会いしましたっけ?」
「そんな顔してると幸せが逃げちゃうでしょ」
老婦人は完璧に無視してみせた。あまりに自然な流し具合だったので戸惑うことすら忘れた。
そんな僕を尻目に、婦人はカーディガンを羽織り直すと頭上に広がる桜の枝を見上げる。
つられて視線を上げると、桜の花のつぼみが目に入った。小鳥が一羽飛んできて、そのそばにとまった。
綺麗な桜の下には死体がある。
当時だってそんなたわごとを信じるほどに子供ではなかったが、そこに何か心惹かれるものを見出せないほどに子供でもなかった。
桜の根元には死体がある。
「学生さん? 今日卒業の」
顔を下ろした老婦人が問うてきた。首肯すると、婦人はおめでとう、と言う。僕はそれには答えずに訊き返した。
「ここで何をなさっているんですか?」
「別に何も。何かしてなくちゃいけなかった?」
「そんなことは」
ありませんが。言い切る前に老婦人は「実はね」と口を開いた。
「わたしは桜の精なのよ」
「は?」
「今年は寒いのが長かったでしょ? だから咲くのが遅れちゃって」
老婦人は呆気にとられた僕をそのままに話を続ける。
「もうひと踏ん張りなんだけれど」
「それは、大変ですね」
頭のおかしい人。普通ならばそう思うのだろうが、老婦人の雰囲気がなんとなく“それらしかった”ので僕は素直にうなずいた。
「何かお手伝いしましょうか」
「気持ちだけ頂いておくわ」
婦人はため息を一つつく。
「明日には開花出来るかしら」
「……咲くといいですね」
老婦人が微笑んだ。そうね、と。
夜の闇の中、桜の樹の根元にシャベルをつきたてた。硬い土がそれに反抗した。
かまわず土を掘り返す。数十分。汗の噴き出す額を涼しい風が冷やす。
「大変ねえ」
声がしたのはその時だ。肩越しに振り返ると老婦人がそこにいた。夜の闇の中で、そのやわらかい雰囲気はどこか燐光を纏っているようでもあった。
僕が黙っていると、婦人は首を少し傾けた。
「こんな夜更けになにをしているのかしら」
「死体を埋めるんです」
僕の乾いた声に、しかし彼女に動じた様子はなかった。
「あら誰の?」
「僕のです」
そうなの。老婦人は穏やかに目を細めた。
そのまま彼女は何も言わなかったので、僕は穴掘りを再開した。
「僕が死んだら穴を埋めてもらえませんか」
「引き受けてもいいけれど、理由を訊く権利はあると思うわ」
僕は手を止めて少し考えた。
「くだらないことです。あまりにくだらなくてありふれているので、特に聞く必要もないと思います」
「そう」
彼女はそれ以上追及してこなかった。拍子抜けはしたが、手は止めなかった。
誰も僕には興味ない。そのことにはいつしか気付いていた。
友人はいないではなかったが、どれくらい親しいつき合いをしていたかを問われれば、僕は口をつぐむほかない。
自分が決定的に一人であることを理解したのは実はつい最近だった。
桜の幹が黒々としていた。
穴が適当な深さになった。俺はシャベルを放って、懐からナイフを取り出した。それを首筋にあてがう。瞼を下ろす。
「桜はね」
唐突に老婦人が口を開いた。
「桜は死体の血で色づくわけではないの」
僕は聞かずにナイフを握る手に力を込めた。
「目を開けて」
その言葉に従ったのはただの気まぐれだった。最後に映る景色はなんだろう、と気になったのだ。その視界が真紅に染まった。
死んだのかと思った。上を向いたままそう思った。だが違った。
「桜は、死人を慰めるためにそのつぼみを解くの」
視界を埋めたのは咲き誇る桜の花だった。満開の。
「それが……どうしたっていうんですか」
呆然と、呟く。何か深い意味を思って発した言葉ではなかった。ただ、呆気にとられながらも思ったのだ。これは僕の慰めにはならない。
「生きて」
その声を共に意識を失った。
翌日、桜の花びらに包まれて目を覚ました。しばらくぼうっとして、それから再び目を閉じた。
何も考えたくない。それでも、朝のまだ弱い日射しは、どこか優しかった。
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