961:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[saga]
2012/06/19(火) 17:27:02.30 ID:VR9dTtFWo
>>494
お上が全て正しいと思ったことはない。間違いを為すのが人というもので、それが世の理というもので。
だから大三郎は、自分もまた正しくはないであろうことは知っていた。
正しくないのならば、少なくとも正しくないと思われているならば、斬られることも覚悟せねばならなかった。
「わたしは行くよ、おみつ」
大三郎がそう言って立つと、彼女は一見には普段通りの眼差しで見上げてきた。
特に不安がるでもなく、引き留めるでもなく。
ただ一言、言って頭を垂れた。
「今まで、楽しゅうございました」
まだ見ぬ先を見ているのではないか疑うほど勘のよい女だ。やはり恐らくは、今夜が最後なのだろうと彼は思った。
「わたしも楽しかったよ」
家屋を出ると、冷えた空気が頬を撫でた。日暮れが近く、町並みは薄暗がりに沈みかけている。大三郎は道を右に歩き始めた。
行く手に山の稜線が見える。赤く染まった空を持ち上げて、だが山は次第に夜に呑まれる。
夕日が背中から照りつけて、そこだけが少しあたたかい。彼女のぬくもりを背中に感じているような気にもなる。
もうあれとも会えぬと思うと、引き返したくなる気がじんわりと湧いてきた。だが、それはできぬことぐらいは心得ている。
「お前」
後ろから声が聞こえたのはその時だった。ぴたりと足を止める。
「大三郎だな」
「ああ」
振り向かずに彼はため息をついた。来た。この時が。
「ならば斬る。覚悟せよ」
鯉口を切る音が耳に届き、それと同時に大三郎は地を蹴った。
横っ跳びにかわした影の名残を刃が駆け抜ける。止まらず追ってくるそれに向き合いながら、大三郎は二手、三手と体を捌いた。
そして横に伸ばした手で掴む。槍。
「ぬ!」
相手の驚きの声がする。無理もない。襲撃を予想し隠しておいた事などだれが予想できようか。
「シッ――!」
大三郎は相手の動揺を、槍で突いた。
時は幕末。尊王だ、攘夷だ、いや佐幕だなどと世が騒がしい時代である。
人は考え方により真っ二つに割れ、口角に泡を飛ばし、斬った張ったの大騒ぎ。
大三郎の周りでも討幕の機運が高まっていた。
が、その中で大三郎だけはそれにうなずけずにいた。彼は愚直に過ぎた。
そのためのこの状況である。
飛び込もうとする相手の足を打ち、留め、喉を突く。
相手はすんでの所でかわしたが、返した槍の石突きで胴の中心を抉ったところで、相手は倒れた。
が、右手からさらに人の気配。ただの通行人ではないことはすぐに分かった。
そちらに顔を向け、槍を振るう。振り下ろされていた刀が、甲高い音を立てて逸れていった。
「まだまだ!」
だが、そう長くはもつまい。事実、背後にさらにいくつもの気配。これは反応しようがない。
大三郎がその時思い浮かべたのは、想い人がかつて見せた、ひそやかな微笑だった。
世はいまだ混乱の渦中にあり、その中で散った、一人の男、その誰にも知られぬ最期であった。
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