13:マリアと 1/7 ◆1ImvWBFMVg[sage]
2012/08/13(月) 00:03:36.77 ID:w5RtmRbo0
もしこの世に女神が存在したとして、はたしてそれは本当に人の形をしているのだろうか。
女神というものを語るとき、美とは何か、次にはそんな命題が頭をもたげてくるかもしれない。
世の中には美しいものと醜いものがある。これは歴然とした事実だ。例えばいつまでも眺めていたくなるような美しい景色があり、また逆に、目を覆いたくなるような醜悪な吹き溜まりがある。
もちろん美しい顔や、醜い顔もある。ではその違いとは何なのか。
整っている。均整を保っている。清潔感がある。汚れがない。これらを挙げることは簡単だが、まだどこか芯を食っていない面持ちがある。なぜか。
おそらく美しさというのは、生理的な欲求や即物的な必要性というものからかけ離れた、遙かに超えた不思議な感動を呼び起こすものを差すのではないだろうか。
だが人の欲望は果てしなく、その降って湧いたような感動でさえも余計に手に入れたがる。
人生の美しさを語ろうとしたとき、どれだけの小説家たちが言葉では表せない秘密を原稿にあぶり出そうと必死にもがいて、挫折を繰り返してきたことだろう。
どれだけの音楽家たちが、音の魔翌力に取り憑かれ、美しい調べを求めて時間を潰してきたことだろう。
どれだけの画家たちが。どれだけの数の人々が。どれだけの。
もちろんそれ自体はひどく感動的な話だ。だが醜悪であることだけは間違いようがない。
もしこの世に女神が存在したとして、はたしてそれは本当に人の形をしているのだろうか。
地主なんて物が幅をきかせていた時代。孤児であり、その地主に拾われた自分は、幼い頃にある問題を起こした。その地主様にけがをさせたのだ。あり得ないことだった。だがありがたいことに地主様は幼い子供のやったことと、すべてを不問にして子供を別の土地に移してくださったのだ。もちろん表向きは。なにが起きたかは思い出したくもない。
ショックでほんの少しのあいだ口が利けなくなった。ただほんの少しだ。次の日には普通に話せていた。ただ口が利けない方が何かと好都合だった。
なので自分はそのまま喋れないふりをした。もともと口数の少ない方なので、それほど苦でもなかった。
ただ、不具になった自分を屋敷は見放した。教会でなら恵まれない者にも優しいだろうと、修道院送りにしたのだ。もちろん教会だって建前上すべてを受け入れる姿勢を見せる。
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