311:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[saga]
2013/07/16(火) 23:04:52.24 ID:AhPKC+s4o
「どういうことでしょう?」
「どうもこうも引き抜きだろ。太田先生はおまえの能力に目をつけたんだよ。そんであり
得ないことに俺にそれを直接言ってきたんだ」
「何なんでしょうね」
いったい何の話だ。クライアントの企業、それも大企業から社員を引き抜くなんていく
ら業界で有名な弁護士だってあり得ない。こういうことが噂になれば他社だって太田事務
所との取り引きを控えるようになるだろう。あたしには太田先生がそれだけのリスクを犯
してまで引き抜きたいと考えるほど能力があるわけではない。わずか半年ほど前に大学を
卒業したばっかりの、法曹資格すらない新人に過ぎないのだ。
「あり得ない話ですね。いったいどういう冗談なんでしょう」
「うーん。常識的に言えば結城の言うとおりなんだけどさ。あの先生は変わってるからな。
本気で君を気に入ったとしたら、うちとの取り引きなんてどうなっても気にしないだろう
な」
ひょっとしたら太田先生は罪悪感を感じているのだろうか。自分が代理人となった麻紀
さんのせいで兄貴の家庭は崩壊し、仲の良い兄妹は別れさせられ、あたしは人生の目的を
失った。全ては麻紀さんの身勝手な行動が原因だけど、調停の場で太田先生の受任通知が
その手助けをしたことは間違いない。そしてやり手の弁護士なら自分の果たした役割の大
きさに自覚しているかもしれない。
ひょっとして太田先生はあたしの投げやりな態度に気がついたのだろうか。そして罪滅
ぼしの気持ちで会社の仕事に興味を抱けないでいるあたしに就職先を斡旋しているのだろ
うか。
「まあ、よく考えなよ。俺としては結城には期待しているからこのまま社に残って欲しい。
でも、どうしても辞めると言うなら大田先生に甘えてもいいかもよ。このままニートにな
りたいわけじゃないだろ」
結論を曖昧にしたままでこの夜の話し合いは終った。あたしは予定どおり辞職した。わ
ずか半年で辞職するあたしには送別会も別れの花束も何もなかった。ただ、私物をまとめ
て最後に社を去ろうとしたあたしに、係長は黙って太田先生の連絡先を記したメモをそっ
と握らせた。あたしが太田先生の名刺を暫定的な後任者に引き継いでいったことをわかっ
ていたのだろう。
それであたしは私物と太田先生の名刺だけを持って永遠に自ら志望して入社した会社を
去ったのだった。
二週間後、無職のまま実家に寄生していたあたしは、お母さんから大きな声で呼ばれた。
「唯、電話よ」
「うん」
夜遅くまで予備試験に向けて勉強していたあたしは、朝の九時にお母さんの声に起こさ
れた。社を辞めたあたしに両親は何も言わなかった。きっと司法試験を受験するために辞
職したのだと思っていたんだと思う。それともそう思い込みたかっただけのかもしれない。
兄貴が勘当され家族が一人減った家庭をこれ以上荒ませるわけにはいかなかったから、あ
たしも両親の幻想と思い込みに付き合うことにした。
法科大学院のニ、三年はどう考えても無駄としか思えなかったから、あたしは予備校で
予備試験の受験勉強をすることにした。本気で司法試験に合格したいという気持ちはなか
ったけど、せめてその振りでもしないと兄貴がいなくなった実家が崩壊してしまいそうな
気がしていた。思えば麻紀さんの身勝手な行動は彼女と兄貴の家庭を崩壊させたにとどま
らず、あたしの実家をも傷つけた。そして玲子ちゃんから聞いている話だと、兄貴と結婚
した理恵さんのせいで、玲子ちゃんの実家も理恵さんと半ば縁を切った状態になっている
らしい。全てはあの女のせいだった。そしてあんな女に夢中になって言いなりになった兄
貴のせいでもある。
そういうわけで就職したばかりの会社を辞めたあたしは、家に篭もって惰性で勉強を続
けていた。自ら縁を切った兄貴とはその間一度だって連絡を取らなかった。この頃のあた
しの唯一の楽しみは、携帯電話の明細書を眺めることだった。
明細書には基本料金のほかにわずかな通話料が毎月請求されている。これだけがあたし
の生きる希望だった。そしていつかこの通話料がなくなったとき、あたしは本当の意味で
人生の目標を全て失うことになるのだ。
玲子ちゃんからかな。あたしは寝巻き代わりのスウェットの上下のままぼさぼさの髪の
毛を撫でながら電話に出た。
「お電話代わりました」
「朝早くからすいませんね。前に一度お仕事をご一緒させていただいた太田です」
それは大田先生からの電話だった。
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