189:空気を感じて 3/3(お題:古本屋の匂い) ◆d9gN98TTJY[sage]
2013/07/29(月) 22:43:14.79 ID:ZRWh3hi+0
その店主にしてみれば、それは今まで取り扱った数え切れない冊数の本の内の単なる一冊としての
存在感しかない本だったんだ。思い入れも何もない。ただの一冊。それでも彼は知っていたんだよ。
「いえ、花伝書……能の……」と私が言いよどむが早いか「ああ世阿弥の」と返ってきた。
「それはないなあ」の最後の一言で私はすっかり打ちのめされたよ。
彼の視線は他の本棚を指していてね。要件が揃ったら、覚えている範囲だがあるかないかの検索が
終了するらしい。
ハッタリかも知れないって? 知らないことをあけすけに伝えてきたその店主がかい? 読む気も
ない一冊の本のタイトルからすら出版社を特定するようなその店主がかい?
信じられない気持ちは分かるよ。私もそうだった。いや、疑っていたわけじゃなくてね。目の前で
やられたことなのに、どうしてそんなことができるのかが全く分からなかったというべきだね。現実の
ことなのに夢でもみたかのような心持ちだったよ。
ただで出て行けなくなった。
その人は何も薦めなかったけどね、その人が集めた本の中から何一つ宝物を掘り返すこともできずに
立ち去っていいものか。そういう風にプライドが刺激されてしまったんだよ。
古本屋の臭いにやられたのかもね。
本だけじゃない。すべてが臭いを発していた。店構えからも、埃っぽさからも、電球の熱からも、
そしてなにより店主の知性からも。
結局、その時は一冊の浄土宗関連の本を選び出して買ったんだが。私が言いたいのはそこじゃないと
いうことが分かるよね?
長い不況が続いた。今少々上向きになったからといって、そうそう販売実績が伸びるものでもない。
むしろ実績が落ちて辛い思いをしている者も多いだろう。
そもそも客商売が苦手な人だっているし、そういう人は ホスピタリティとかお辞儀の仕方とか形だけ
教えられてもうまくいかないことが多いだろう。ああいうのは、実感として分かるなら言うまでもない
ことばかりだし、実感として理解できないやつはきっと言われても理解できないことばかりだろうからね。
でも、では私の話に出てきたその店主はどうだった?
彼は客が本を探している間中、何も言わずに自分もじっと本を読んでいるだけだったよ。それでも、
いやそうだからこそ、その読書で絶え間なく磨かれ続けた彼の知性はすさまじいものがあった。
風姿花伝にある言葉で、老い木の花というのがあってね。若い頃には誰でも花は咲く。それぞれの人に
魅力の出るべき時がある。けれどその花は、つまり逆に言えば時の流れによって散る定めにあるわけだ。
けれど、人の力押しの魅力では決して届かない、技で咲かした老木の花はもう二度と決して枯れることは
ない。ということなんだ。
個人の魅力やセンスに頼ったものよりも、長年のたゆまぬ努力こそが実を結ぶと言う話だよ。
そしてそういう理想論……いや、理想論だったものには、実例がある。
歴史書や古典の中だけじゃない。今この日本で同じ空の下で同じ空気を吸っている。同じ人だ。
だからもう少し頑張ってやってみよう。その頑張りが店の空気を作るんだ。
それにね。私が感動したいい言葉はもう一つあるんだよ。
「できないと言うのは嘘なんで……
END
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