887:マイナーな欝は戯言 1/5 ◆/xGGSe0F/E[saga sage]
2013/12/08(日) 02:12:50.76 ID:+8bSjH2P0
眼下にはとても懐かしい景色が広がっていた。二十年近く前に自分が通っていた小学校のグラウンドが、強い郷愁を伝え
るように僕の視界に晒されている。その光景を見ながら、僕は久しぶりに感じる穏やかな気持ちで、校舎の影に覆われた草
の上にゆっくりと寝そべった。用務員の人が草木の手入れをする以外に、ほとんど人の訪れることがないこの場所は、とて
も狭いスペースの中にあって、すぐ近くがグラウンドとの高低差を示す崖になっている。しかもそこに柵がないから少し危
険な場所でもある。グラウンド全体を見渡すには絶好の位置だが、ここに来る物好きなんて今の僕以外にほとんどいないだ
ろう。なにせ、ここは遊具も何もない。ただ危険な場所というだけであるし、しかも職員室から丸見えの場所でもある。大
人はもちろん子供たちが遊びに来ることもほとんどない。
それにしても、なぜこんな危険な場所に柵を設置しないのだろうか。
ここは峠の中腹に位置するド田舎の学校だから、その辺の意識はゆるいのだろうか。坂の下方向にあるグラウンドと、そ
こから長い階段を上った先に作られた校舎は、結構な高低差がある。今までここから落ちて死んだ奴はいないのだろうか。危ないだろう。
……いや、止めよう。最近はこんな暗い想像ばかりするようになってしまっている。
「博彦くん」
今しがたの考えを振り払うように一つ欠伸を浮かべると、懐かしい声音が耳に入り込んできた。呼応するように顔を上げ
ると、かつての親友である三崎遥が、僕を見下ろすようにして立っていた。淡い風にスカートの裾がひらひらと揺られている。
シルエットの様に陰になっていて、彼女の表情は窺えなかったが、久々に聴いた声は昔と変わらずに明るい印象を僕に与
えていた。
僕は少し嬉しくなって、手に貼りついた萎びた草を払いながら遥に挨拶を返す。
「遥も来てたんだ」
「うん。同窓会が始まる前に、なんかここに来たくなって」
「そうか。僕もなんとなくここに来たくなってさ」
「そっかー。って、あー。雪香も来てるじゃん」
「うん、アイツなんか知らんけど、僕が着た時からジャージ姿でグラウンド走ってんの。ずっと」
見下ろした先にあるグラウンドでは、昔と変わらないポニーテールを結った女性が、グラウンドを同じペースを保ちなが
ら走り続けていた。女性の名前は、かつての友達であった木崎雪香。しかし何故彼女はこんな場所で、一人で走り続けてい
るのだろう。木崎雪香は、僕の記憶が正しければとても病弱な少女だったはずだ。体育の授業はいつだって見学していたし、
だいたいにおいてマスクをして咳き込んでいた印象がある。そんな彼女が、大人になって元気にグランドを走っている光景
は、感慨を通り越してとてもシュールなものだった。誰もいないグラウンドを、大人になった彼女が走り続けている。その
光景から読み取れるものは、或いはそこから推測する彼女の感情や過去や、今の彼女を形成するたくさんの出来事は、難解
で超現実性を持ったものであるような気がした。つまり大人の彼女が小学校のグラウンドを走っている行為は、なんだかこ
の世のものとは思えない、異質な光景に見えた。
僕は思わず側に座り込んだ遥に問いかけた。
「あの子は病弱だったよな」
「うん。でも今では元気に走ってるね」
「なんで小学校のグラウンドで走っているんだろう。こんな寒い季節に。一人で」
「知らないよ。走りたかったんじゃない?」
「そんなもんか」
「そんなものでしょ」
もしかしたら、あれは木崎雪香ではない、他人の空似かもしれない。でも遠くから見た彼女の印象は木崎雪香そのものだ
った。間違いはない。僕らはいつも三人で一緒に居たし、ここ十年近く会っていなかったけれど、彼女を見間違うはずもな
かった。いや、“はずもない”なんて断言できることが、この世の中に果たしてあるのだろうか。はずがないなんて断言で
きるものこそ、本当はとても曖昧であやふやで、自身の欠片もない予想なのかもしれない。あれは木下雪香ではない人物か
もしれない。
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