906:黒の牢獄 (お題:遺影)4/6[saga]
2013/12/09(月) 22:33:04.35 ID:i5OAEZ7e0
<thief>
彦坂が電車を降りたとき、太陽はとうに姿を隠し、まばらな街灯と月明かりが辺りを照らしていた。駅から延びる道は
ゆるやかな登り坂で、この時間にはほとんど人通りもない。彦坂がこの、館野の実家に至る2kmほどの道を通るのはこれ
が2回目である。彦坂はその時のことを思い出していた。
3か月ほど前のある日、彦坂は館野といつも通りセーリングの約束をしていたが、普段なら集合時間に10分も遅れるこ
とのない館野が30分も姿を現さなかった。メールの返信もないことを訝しがって彦坂は携帯に電話をかけてみたが、それ
にも出ない。待ち合わせ場所から館野のアパートまではたかだか15分くらいの距離だ。彦坂はため息を一つつき、館野の
家に向かった。
館野の部屋の前に立ち、チャイムを鳴らす。しかし、中からは何の反応もなかった。あれ、行き違ったか、と思いなが
ら彦坂はドアノブに触れたが、彦坂の予想を裏切りドアはあっさり開いた。館野は家にいるときはドアに鍵を掛けないこ
とがよくあったが、そのことがむしろ彦坂に冷や汗をかかせた。何かあったのではないか?そう思うと声も出せず、全身
がこわばったような感覚を覚えながら館野の部屋に入っていった。
ベットの脇で倒れている館野を見つけたときも、彦坂は声を上げられなかった。死んでいる。そうとしか思えず、彦坂
はその場にへたり込んだ。そのまますがるように館野の手を握ったとき、ようやく彦坂は落ち着きを取り戻した。その手
が生者の温かさを保っていたからである。そのまま手首に親指を当て、脈を測る。正常だ。携帯を取り出し、119番通報
するとともに、館野の姿勢を安全な体位に変える。その時になって、館野の髪にわずかに血がついていることに彦坂は気
付いた。転んで頭を打って気絶したのか。そう思えば、一応は安心できた。
病院に搬送されて1時間ほどで館野は意識を取り戻した。すぐに精密検査があるため彦坂が話せる時間は廊下を移動する
ときだけであったが、その時館野が
「面会できるようになったら連絡する。お前には話さないといけないことがあるんだ」
と言い残したことが彦坂の心には引っかかっていた。
次の週末に、彦坂のもとへ館野からメールが来た。彦坂が駆けつけると、館野は今までに見たことが無いような重い表
情をしていた。
「ほとんど動かないんだ」
「は?何がですか、亮さん」
「足が、だよ」
館野は続けて、自分が神経の病を患っていて以前から足に多少の痺れがあったこと、朝、急な痺れを感じてバランスを
崩し転んでしまったこと、今回の一件でかなり病状が悪化し、おそらくもう立って歩くことも難しいだろうということを
話した。
「体が本調子じゃなかったからな、お前を誘って海に出てたんだよ」
館野の声を、彦坂は虚ろな目で聞いていた。
そして今から2週間前、館野の退院が決まった。館野の家族の要望もあり、実家に戻るという。館野は家族の迎えを断
り、病院から実家までの運転手役に彦坂を指名した。彦坂には何も言えなかった。遠回りと分かっていたがわざと海沿い
の道を通り、ただただゆっくりと、車を走らせた。
彦坂は館野の家の門の前に立った。ここに来るのは退院した館野を送った日以来2回目であり、おそらくもう二度と来
ることがないだろう、と思いながら、玄関のチャイムを押す。彦坂には敢えて策を翻す必要もなかった。ただ館野の顔が
見たいと彼の家族に告げ、そして館野を連れて帰るだけでよかった。インターホン越しに、「彦坂です」と言うと、館野
の母らしき人物は小さくどうぞ、と答えた。
館野の家の中でも最も広い和室が、今館野がいる場所である。そこに至るまで館野の両親や親戚らしき人物に会ったが、
適当な受け答えでお茶を濁しながら館野のもとへ歩みを進めた。
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