8:律「うぉっちめん!」[sage saga]
2013/09/25(水) 13:34:43.94 ID:yFOnK56a0
第一章《転がる石》
『日誌 田井中律、記 2022年10月12日
今朝、若い女とすれ違った。すぐにまた同じ女とすれ違った。その次も。そのまた次も。
同じような髪形。同じようなメイク。同じような服装。聞き耳を立ててみれば、話している
内容も皆同じだ。
テレビが流行らせる菓子を求めて走り回り、この服を買わなければ男に相手にされないぞと
テレビにそそのかされる。
そして、浪費と虚飾とスキャンダルしか考えられなくなった頭を抱えて、自分自身の生き方すら
決められなくなるのだ。
知恵も知識も無くし、情報の奴隷と化した奴らは、もう手遅れとも知らずに天を仰いで
「助けてくれ!」と叫ぶだろう。
私はこう答える。「嫌だね」と。
俳優も、歌手も、芸人も、知識人も、文化人も、スポーツマンも、視聴者も。
皆、マスメディアに食い物にされる。
メディアは脳みそを食い荒らし、代わりに何か恐ろしいものを植えつけていく。
誰も彼もが元のままではいられない。
それは私も、私達も同じだ。あの頃のままではいられなかった。
いや、変われなかった奴も……
昨夜、平沢唯が死んだ。犯人は闇の中へと姿を消してしまった。絶対に報いを受けさせてやる。
絶対にだ』
平沢唯殺害の明くる午前。
彼女の部屋では中年の刑事が二人、疲れた顔で室内を見回していた。
刑事1「ガイシャの名前は平沢唯。年は30歳だ。来月の27日まで生きてりゃ31歳になれたのにな」
刑事2「職業はタレント、か」
刑事1「アイドルだろ? ちょっと前の」
刑事2「どっちも変わらんよ。んで、押し入ったホシにツラをぶん殴られた後、バルコニーから
50m下の道路に突き落とされたと」
刑事1「ひでえ事をしやがる。相当恨まれていたようだぞ。このガイシャ」
刑事2「いや、怨恨の線は薄いな。確かに現金や通帳の類には手を付けていない。だが、歯ブラシや
櫛のように本人の身体に触れている物が根こそぎ持ってかれてる。それにアクセサリーとか
昔のステージ衣装なんかもな。極めつけにゃ、トイレの汚物入れや排水溝の毛髪まで漁った
形跡がある、と鑑識が言っていた。十中八九イカレたファンのストーキングだろう」
刑事1「なるほど。ずっと自分だけのものにしたいから殺すって訳だ。アイドルの追っかけにも
その辺の男にもよくある話だな。しかし、何もここまでこっぴどく殺らなくてもねえ」
刑事2「だからイカレてたんだろ。何にせよ、だ。上はどういう訳か『今日中に現場検証を終えて、
遺族の好きにさせてやれ』ってうるさく言ってきている。もう切り上げようや」
刑事1「だな。おおい! 撤収だ! テープも剥がしとけ!」
二人の刑事は昼食の相談をしながら部屋を後にし、数名の捜査員も“警視庁 KEEP OUT”と
書かれた黄色いテープを剥がすと足早に立ち去ってしまった。
マンションのエントランス前には、うつむき加減でメモ帳に何やら書き込む田井中律がいた。
やがて、スリムなトレンチコートのポケットにペンとメモ帳を突っ込むと、談笑しながら出てくる
刑事達と入れ替わりにマンションの中へと足を運んだ。
奇妙な白黒模様のニット帽と大きなサングラスで顔の半分を隠した律を、刑事の一人がすれ違い様に
チラリと見遣る。
律は構わずに管理人室の小窓の方へ進み、エントランスの自動ドアが閉まると、刑事もすぐに律への
興味を失った。
律「こんにちは。お電話しました田井中です。1503号室の平沢さんの友人で、元の仕事仲間の……」
管理人「ああ、はいはい。では一緒に行きましょう。管理人立会いが原則ですから」
初老の管理人は小窓の横にあるドアから出てくると、律を伴ってエレベーターへと向かった。
二人が乗り込んだエレベーターの中は不気味な沈黙に支配されていた。
管理人はドアのガラスに映る背後の律をチラチラと観察し、律はポケットから出したキーホルダーを
見つめている。
“ん”という平仮名文字を模したピンクのキーホルダー。
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