2:aho ◆Ye3lmuJlrA[saga]
2013/12/22(日) 17:21:39.29 ID:y7rCDTmB0
まだまだ慣れないレッスンを終えた西島櫂が置き忘れた荷物を取りに事務所に帰ってくると、服部瞳子がテレビの前のテーブルに伏せて静かな寝息を立てていた。
「お疲れさまでーす……」
小声で挨拶して、そっと近づく。
余程疲れが溜まっていたのか、瞳子は結構深い眠りに落ちているようだった。明かりがつきっぱなしなのに、全く目覚める気配がない。
(最近なんかの撮影とかで、ずっと忙しそうだったもんな)
音を立てないように注意しながら、テーブルを挟んだ反対側のソファに、何となく座る。
そうしてよく見ると、明かりだけでなくテレビもつけっぱなしなのが分かった。
つけっぱなしと言っても、映像は何も映っていない。
(服部さん、何か録画したのを見ててそのまま寝ちゃったのかな)
それで録画された映像が終わって、黒い画面のままなのだろう。
(何見てたんだろ)
少し気になったが、まさか起こすわけにもいかない。疲れて眠っている人を用があるわけでもないのに起こすのは良くないし、増してや相手はあの服部瞳子なのだ。
(そう……よく考えたら、ちょっと前までテレビでしか見たことなかった人が目の前にいるんだよな)
改めてそう考えると、少し緊張してきた。
櫂は最近スカウトされてこの事務所に入ったばかりだが、瞳子のことはアイドル候補生になる前から知っていた。
どこか影のある雰囲気を背負いながらも、決して折れぬ芯の強さを感じさせる演技と歌声で、特に同年代の女性から広く支持を得ている遅咲きのアイドルだ。
相当前から活動してきた芸歴の長い女性らしいが、櫂はつい最近テレビ番組で目にするまで、彼女のことを少しも知らなかった。
それもそのはず、服部瞳子はまだ少女の頃にデビューして以来、十年以上もの間ずっと成功の機会に恵まれず、齢二十五の今にしてようやく名が知られるようになってきたという苦労人だった。
彼女のそんな経歴を知れば、あの深く重みのある歌声は長年の艱難辛苦の末に作り上げられたものか、と誰もが納得するという。
櫂自身非常に納得し、同時に瞳子に対してある種の感情を抱くようになった。
それは、尊敬――いや、畏敬の念と呼ぶべきものである。
(……この人から見たら、あたしなんて半端者にすら見えないのかな)
眠る瞳子をぼんやり見つめていたら、ふとそんな考えが浮かんできた。
(プールに近づかなくなってから、もうどのぐらい経つっけ……なんて、言うほど長いもんじゃないか。スカウトされてからまだ二週間ちょっとだもんな。でも、もう何年も泳いでない気がする)
自分の手足をじっと見つめてみる。
幼い頃からずっと水泳を続けてきた結果作り上げられた、泳ぐための筋肉。水中を自由自在に動き回るための、しなやかな肉体。
今はまだ、スカウトされる前と目に見えて違っているところはない。
だが、それも今だけのことだろう。
(このままアイドルとしてのレッスンを受け続ければ、この身体はアイドルらしいものに作り変えられて……そしたらもう、昔は泳ぐために使われてたなんてことは、自分でも信じられなくなっちゃうんだろうな。今、そういう自分に変わっていっている最中なんだ)
そのことを自覚するたび、櫂は不安に囚われる。
そうして努力を続けて、アイドルとしての自分になりきって……それでもまた、上手くいかなかったらどうしたらいいのだろう。
そのときの自分は、今度はどこへ流されていくのか。
流された先で、今度は何になるのか。
それを考えると、怖くて怖くてたまらない。
「……あーっ、やめ、やめっ!」
まるで足を絡み取られたようにどんどん暗い深みへ沈んでいきそうになる気持ちを、首を振って振り払う。
最近一人になるとすぐこれだ、と櫂は力なく笑う。自分はこんなに暗い人間だったのか、と自分でも驚いてしまうほど。
(プロデューサーにスカウトされたとき、こんな風に考えるのはもう止めようって決めたはずなのにな)
記録が伸び悩んでもうプロになるのは無理だと悟り、では自分は何をしたらいいのだろうと迷っていた、ちょうどその頃の出会い。
あのときは、これはアイドルになれという天啓に違いない、などと心の底から信じきったものだが。
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