過去ログ - ありす・イン・シンデレラワールド
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2:チョッキを着たウサギ
2014/01/11(土) 08:55:47.16 ID:Gcj069EQ0
 1

 秋から冬へと空気の冷たさが変化していく季節、一人の少女が草木を掻き分けるようにして走っていた。時は空が白み出す前の誰もが未だ夢の中、そこは人々にとって間隙であり一人の少女はとある総合病院の緑多い中庭の奥へと足を踏み入れていった。
 その姿はまるで、ウサギを追ってこれから不思議の国へと迷い込む"アリス"のようであった。病や怪我を負っている人の心を癒やすために設けられた草木生い茂る中庭は大きく、少女が進む奥へと向かうほど緑は深くなっていく。
 腰まで届く黒髪をハーフアップにして青い大きなリボンで留め、チェック柄のマフラーを首元に巻いて袖と裾に意匠を凝らしたコートの下には学校の制服を着ている。コートの裾からは深い青のプリーツスカートが覗け、そこから伸びる細い脚は頼りない。
 凛とした目が印象的な整った顔立ちをした少女だ。しかし、大人びた雰囲気を見せる少女が持つあどけなさ――ぷにっとした触ることを誘う柔らかそうな頬――は彼女を十二歳という年齢相応に感じさせる。
 橘ありすという日本では幾分珍しい名前を持つ少女は、深緑の葉に乗っていた朝露が弾かれる様に心奪われるように足を止めて見つめる。自分の指先が葉を揺らして散っていく水滴は目が暗闇に慣れているからこそ気付けることだった。湿った指先を彼女は拳を握って親指で擦ることで温める。元から冷たくなっており、それでは足りずに温かい息を吹きかけた。
 そして、そこからありすは歩を緩めて森林のようになっている場所で少し開けた場所へと辿り着いた。ここが市街地であることを忘れられるほどに静かだった。大通りに面した総合病院、そこにある大きな中庭はまるでコンクリートのビル群とどこかの森が入れ替わったように錯覚する。斜向かいには小さな教会があり定時で鐘が鳴らされる。その瞬間に人々は目覚めて大通りが賑やかになる。
 ありすは、今だけが自分の時間。と冷たい空気を吸って弾んでいる脈を落ち着かせる。自分もこの朝霧も今だけ形を成しているように思う彼女は木の根に学生鞄と胸に抱えていたタブレットPCを置く。マフラーを外してその上にそっと乗せると落ちないように細心の注意を払って手を離した。
 開けた場所の中心に立つありすはピンと張っている背筋を少し逸らす。それは彼女なりの『背伸び』なのかもしれない。まだ背が低く華奢な少女が少しでも大人になろう、近付こうとする行為は誰にでも憶えはあるだろう。すぅっ……と全身に酸素を行き渡らせてありすは静かに、だが力強く歌い出した。
 楽曲は日によって違く、今日は先日耳にしたアイドルの歌を歌い出した。寂しさを感じさせる曲調だった。何かに耐える強さとそれに反して何か後ろ髪引かれるものを感じさせる。普段のありすはアイドルの楽曲など歌わないどころか気にも留めないが、テレビ画面に映る厳かに歌うアイドルの姿に思わず目を見開いて耳を傾けた。
 しかし、幼いありすには『恋』という言葉のすぐ後に出てくる『別れ』という歌詞を理解することは出来なかった。疑問に思うが頭の中に何度浮かべようと声に表そうとも疑問が解けることは無かった。冷たさの中に秘められた熱に触れるのを怖がるように、少女は恋に恋するように歌い続ける。
 少女の歌声は土に吸われ木々に吸われ空へと抜けていく。ありすが自分の立つステージを"自分の場所"と定めた理由がこれである。誰にも気付かれることはない、自分の秘めたる思いの丈を。
 そして、ありすは読書やゲームをしている時以上の集中力を発揮して歌いきる。目を閉じてコートを脱ごうか考えていると瞬間、冷たい風が吹いてほっそりとした脚に鞭打つ。こんな厳しい冷気が噛みついてくるときばかりはこの時間でしか思い切り歌えないことを恨めしく思う。
 どこか頑なな少女、これも自分で決めたことと思いを一新してさぁもう一曲……と思ったところに不意の音で彼女の思考は遮られた。
 拍手の音、ありすは怯えた表情でバッと振り返った。一瞬ありすの視界が自分の黒髪を振ったことによって覆われる。それがパラパラと下りていくと次に大きな瞳に映るのは長身に黒い短髪の男だった。
 少女と向き合うのは若い男であり、きりりとした太い眉が特徴的で熱く優しい眼差しをありすに送っている。男は柔和な表情を取っていたが相手の怯えている顔に驚いて息を飲んでしまう。よくよく見ると男は水色のワイシャツの下にはパジャマズボンを穿いており、総合病院の患者であることが見て取れる。たまたま入院患者が早朝に散歩してありすの元まで足を向けてもおかしな話ではない。
 しかし、ありすにとってこの場所に自分以外の人間が居ることは初めてで驚きと戸惑いが入り交じる。大人に対する、それも若い男に対して自然と恐怖を感じてしまう。自分の歌を聴かれた気恥ずかしさまでも昇ってくる。まだ十二歳の彼女の思考はぐちゃぐちゃになってしまう。
 様々な感情が複雑に絡み合う頭と心でありすは言葉を詰まらせる。そんな様子に男は自分が何かとんでもないことをしでかしたのではないかと彼もまた言葉を失っている。その時だった、鐘の音が聞こえてくるのは。
 冷たい静寂を破る厳格な鐘の音に男も女も、年齢さえも関係なく教会へと目を向けてしまう。それによって世界は動き出す、少女もまた例に漏れず。ありすは木の根元に置いていた学生鞄とタブレットPCを慌てて手に取り、急いで胸に抱くと脱兎の如く逃げ出した。
 男は「あっ」と声を上げて少女の背中へと手を伸ばしてしまう。空は白みだし、駆ける少女の黒髪はさらさらと流れて陽光を弾き、男はぽつんと取り残される。長身の男、三笠 灯(みかさ ともる)は後頭部を掻いて呆然とする。
 灯という男はアイドルプロデューサーであり、交通事故に遭って打撲と全身の至る箇所に骨折を負って入院していた。プロデュースする女の子と初めて出会うその朝に彼は車に吹き飛ばされたのだ。彼がプロデューサーとしての第一歩を踏み出そうとした時、それは掬われて盛大に転んだのだから完全に笑い話である。
 怪我も治り、退院まで秒読みとなった彼は鈍った体の調子を戻すために散歩の足を伸ばすとアイドルの歌を耳にしてありすと出会ったのだった。そしてまたしても女の子に逃げられる。
 灯はありすが立っていた場所に自分も立ってみる。ちょうど朝日が差し込んできて開けたそこだけ明るくなる。まるでスポットライトみたいだ、と彼は心地よい温もりを全身で浴びた。
「悪いことしちゃったのかな?」
 灯が心に浮かんだ言葉をそのまま口にしてみせる。それと同時に腕を組んでため息をつくと申し訳なさの先、あの少女のために自分に何か出来ないかを考える。綺麗な顔立ちに柔らかな頬は良いアクセントとなっている。そして、人目を忍ぶように歌っている姿は絵画として扱われていてもおかしくなく思う。


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