過去ログ - モバP「知らない誰か」
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17:名無しNIPPER[saga]
2015/05/04(月) 17:08:43.89 ID:SnUXL8Vr0
  『Dさん』


 そのような経緯で大学生活にあぶれた僕は、都市計画に取り残された洞窟の様な古書店に逃げ込んだ。

 大学の彼等の、文明を装った鳴き声もここまでは届かないだろう――空き時間のための避難所と決めた。

 硝子戸一枚の静寂に踏み込み、鍾乳洞の様に不揃いな書架の縦横列を掻き分け――ふと、ぽっかりと空いた深奥の闇に、彼女は未研磨の鉱物の様に居た。


 露出は極めて低く、仄暗い店内とインクの匂いに紛れるような、落ち着いた色合いの洋服。

 この店を訪ねる偏屈な常連客さながらに、書に没頭する彼女が、勘定台越しの此方へ働きかけるのは、まさに勘定の時だけ。

 先ず、帳のような前髪の向こうで、光を湛えた二つの目がころころと蠢いて、商うべき客がいることをを見止める。

 次、表面張力の作用する盃を収めるような所作で書を中座させ、勘定台の上に置かれた商品と示された金額に視線を落として、売買契約が成立しているか確認する。

 おおよそ三冊以上だと電卓を用いるようだ。

 そうして取引に間違いがないと知れば、代金をしまうより先に、日焼けした表紙にカバーを巻き、輪ゴムで留め、すっと返してくる。

 その間、まじないの様に狂い無く働く指は骨と死を思わせるほど白く、幾度目にすれど、用心して覆い隠している筈の此方の無意識を異なる角度から揺さぶってくる。

 か細い礼の声は聞こえるか聞こえないか。他の客が頁でもめくっていれば望み薄だ。

 硝子戸を開ける前に振り返れば、その時には既に、再び、字の奈落へ身を投げ出しており――彼我は断たれ絶え果てたのだと悟る。

 これが、僕が知る彼女の全て。名前は知らない。

 もし金が足りなければ、彼女はどうするのだろう。もし猥本を置かれたら、彼女はどうするのだろう。

 もし万引きされたら、その時は怒りの感情を露わにするのだろうかそれとも悲しむのだろうか。

 戯けた疑問――そもそも感情はあるのだろうか。当然あるとして――思いもかけぬ告白をされたのなら、それはどのように揺れ動くのだろうか。

 その『If』は、解き明かされることはない。試してしまえば――僕は只の客ではなくなり、僕が最も忌み嫌う彼等と同じになってしまうから。


 彼女は石榑などではなかった。彼女は古い書物に埋もれた一片の栞。
 
 十年後も二十年後も、そこだけが動かない時間の中で、じっと同じ場所に佇み続ける存在。

 そうして僕は、数十年来の古書を閉じるように、店を後にする。

 次も同じ頁を開けると――なんら疑いもなく信じながら。


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