11: ◆Freege5emM[saga]
2016/01/03(日) 02:19:17.74 ID:d/9JR/ulo
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「長野まで押しかけてきて言うのもなんだが、仕事の話はさほど重要じゃないんだ」
文香は、意外そうな目つきになった。
「貴方が、私の素っ気ない返事にもかかわらずお越しになったので……
もしかしたら、重要な案件かと思ったのですが」
「いいや。口が軽い彼は困るかもしれないけど、俺や文香が困ることは無いだろう」
文香が気を遣ってきたので、俺はその点について心配無用と断言した。
あくまで、文香はかつての映画版がヒットした時の主演女優。
宣伝する側としては、来れたら来て欲しいぐらいの勢いだろう。
「だいたいこの話は、文香も乗り気じゃないだろう。顔に『嫌だ』って書いてあるよ」
「私、そんな顔をしておりましたか……?」
文香は顔を俯けて、目だけでこちらを見上げてきた。
「顔はよく見えない。けど、文香が見せてくれないから、分かるんだよ。
業界人が懲り懲りなのか、単に俺のツラが見るに堪えないのかは知らないが、
今更、まともに顔を合わせたくないんじゃないか」
俺の言葉は、半分ハッタリで半分本気の推測だった。
文香は駅であったときからずっと、暗がりに半ば身を沈めて、まともに顔を見せてくれない。
お店の個室に入った今だって、部屋が行燈による薄暗がりのヴェールに包まれているから、
お互いの表情がなんとなく分かる程度の明るさしかない。
俺を相手するつもりがないのか。
あるいは、単に文香が谷崎潤一郎みたいな趣味になった可能性もある。
――が、文香は、俺の予想外の答えを返してきた。
「いいえ……私、貴方に含むところが……ということはございません。
ただ私、大学帰りしか時間がとれなくて、貴方に会うのに、十分な身繕いもできず……」
「――あ、いや、わかった。もういい、もういいから、文香」
「今は、明るいところで貴方の目に晒すのが、憚られるのです……」
「……すまない、忘れてくれ」
俺は心底から文香に頭を下げた。
歳歳年年人同じからず、というのはお互い様だったようだ。
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