6:名無しNIPPER[saga]
2016/07/01(金) 01:49:07.54 ID:YGge3a1w0
5
「モデルを……辞める?」
いつもの小料理屋。
高垣さんに「大事な話があるんです」と言われて連れて来てもらったそこで告げられたのは、そんな話だった。
「はい」
私の言葉に、高垣さんは端的に答えた。いつもと違って、お酒には少しも手を出していない。
「どうして……」
喉の奥からそんな言葉が漏れた。――どうして。どうして、そんなことを言うんですか。あなたが居なかったら、私は……。
高垣さんは私を見据えて、その形のいい唇をもう一度動かした。それは澄んだ返事だった。
「アイドルに、なるんです」
「……え?」
思わず声を出した私に、高垣さんはもう一度言った。
「私、アイドルになるんです」
アイドル……? アイドルというのは、あの、アイドル? 歌って、踊る……あの?
意味がわからなかった。高垣さんは何か冗談を言っているんだと思った。そうじゃないとしたら……これは夢なんだ。そうだ、そうとしか考えられない。だって――
「あなたには言っておかないと、と思って」
……そんなこと、言われたら。
「……そう、なんですか」
声が震えるのを必死に抑えて、私は言う。動揺を隠せ。悟られるな。辞めてほしくない……そんな想いを抑えろ。ぎゅっ、と私は痛くなるほどに強く、強く、自分の手を握りしめる。
「……高垣さんなら、きっと、アイドルになっても成功できると思います」
そんなことは思っていない。行かないで。いつまでも憧れのあなたでいて。私の前から、消えないで。
「応援してます。頑張って下さい!」
――私のことを、見捨て、ないで……。
「……ありがとうございます」
高垣さんはそう言って微笑んだ。その微笑みは、どこか、寂しそうで……でも、そんなことはない、と思った。思い込んだ。
そんなことを気にしていられる精神状態じゃなかった。彼女の強さに、甘えたかった。
……もしかしたらその日、私は存外うまく笑えていたのかもしれない。そう思わせてくれるくらいには、高垣さんはそれ以上何も言わなかった。
それから、私たちはちょっとした料理を食べて、店を出た。
「あの……これを、あなたに」
そう言って高垣さんは私にお酒の入った箱を差し出した。
私はそれをありがたく受け取った。帰り道、一人になった時、それが彼女と初めて飲みに行った日に、私が最初に口を付けた日本酒と同じものだと気づいて、ようやく少しだけ泣くことができた。
翌日、高垣さんが事務所を辞めることが発表された。モデル仲間の子たちはどうしてですかと高垣さんに詰め寄ったが、高垣さんは曖昧に笑うだけだった。
私はその輪の中に入らなかった。
入れなかった。
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