2:名無しNIPPER[sage saga]
2017/07/10(月) 22:06:40.64 ID:LyknWSHb0
ああ、これが女の笑顔というやつの正体だ。
誰かのものであるということが、おれのものでない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。
だが何故、すべてが誰かのもので、おれのものではないのだろうか?
誰のものでもないものがひとつくらいあってもいいではないか。
最初の女もそうだ。
あれもまた誰かのものになりつつあるもので、やがて誰かのものになるために、おれの関心を無視して消えてしまった。
あるいは、明らかにおれのものではないものに変形してしまった。
ではこのソファはどうだ。
もしこれがおれのものなら、笑顔の女が追いたてさえしなければ……確かにここはみんなのもので、誰のものでもない。
だが彼女は言う。
「こら、起きなさい。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてプロデューサーさんのものでもないですよ」
「さあ、早く仕事してください。嫌なら店から石ころを買い取ってもらいましょう」
「それ以外で石ころを求めるなら、あなたは仕事をし続けるしかないのです」
さまよえるユダヤ人とは、すると彼女ではなく、おれのことであったのか?
日が暮れかかる。
おれは去っていく女たちと逆へと歩き続ける。
おれの女がいない理由が呑み込めないので、首もつれない。
おや、誰だ、おれの足にまとわりつくのは?
首つりのひもなら、そうあわてるなよ、そうせかすなよ、いや、そうじゃない。
これは、ねばりけのある絹のリボンだ。
つまんで引っ張ると、その端は靴の破目の中にあって、いくらでもずるずるのびてくる。
こいつは妙だ。
と好奇心にかられてたぐり続けると、次第に体が傾き、床と直角に体を支えていられなくなった。
事務所が沈下でもしたか、引力の方向が変わったのか?
コトン、と靴が足から離れ、おれは事態を理解した。
事務所が沈下したのではなく、おれの片足が短くなっているのだった。
リボンをたぐるにつれ、おれの足がどんどん短くなっていた。
すり切れたスーツの肘がほころびるように、おれの足がほぐれているのだった。
そのリボンは、へちまの繊維のように分解したおれの足であったのだ。
もう一歩も歩けない。
途方に暮れて立ちつくすと、同じく途方に暮れた手の中で、リボンと化した足が独りでに動きはじめていた。
するすると這い出し、それから先はおれの手を借りずに、蛇のように身に巻きつきはじめた。
片方の足が完全にほぐれてしまうと、リボンは自然にもう片方に移った。
リボンはやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめない。
胴から胸へ、胸から肩へ次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めていく。
そして、ついにおれは消滅した。
あとには大きな空っぽのまゆが残った。
ああ、これでやっと休めるのだ。
夕日が赤々とまゆを染めていた。
これだけは確実に誰からも妨げられない、おれのものだ。
だが、おれのものができても、今度はそれを所有するおれがいない。
まゆの中で時が途絶えた。
外は暗くなったが、まゆの中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた。
このおれが、彼女の目に留まらぬはずがなかった。
彼女は、まゆになったおれを、デスクの上の封筒の中に見つけた。
彼女は、最初はまゆをひそめたが、すぐに大切なものを拾ったと思いなおして、バッグの中に入れた。
しばらくその中をごろごろした後で、彼女の裁縫箱に移された。
「まゆですよぉ」
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