18:名無しNIPPER[saga]
2016/11/15(火) 23:38:06.48 ID:NksOo2NR0
多くの習い事がそうであるように、ある日、よそ行きを着た親に連れられて行った先がピアノの先生の家で、今日からよろしくお願いしますなんて勝手にお願いされて、僕はピアノを始めた。
もちろん、すんなりいくはずもなかった。
そもそもやりたいと思ったこともない習い事だし、友達と遊びたいし、ピアノやってるなんて言ったらオマエおんなみたいだななんて囃されるし。
ふざけんなって感じだった。
――で、週に一度のレッスンで、教えられたことの半分もできない自分に嫌気がさして、泣き喚いたことも一度や二度じゃなかった。
帰ってきた僕の様子を見た親はどういうわけか必ず事情を察して、その度先生に謝りに行き、先生も特に気にした風もなく、次またがんばろうねなんて言ってくれて。
そうやって嫌々通い出して――どれくらいの頃だろう。
いつも通りロクに練習もせず、ため息つきながら先生の家のインターフォンを押すと、家の奥からドタドタ音がしたかと思えば、制服姿のお姉さんが出てきた。
先生によく似ていたけど、先生じゃなかった。
「あれー? 今日はお母さん出かけてるって、連絡いってなかったのかな……?」
先生の家にお姉さんがいることはなんとなく知っていた。
でも、小学校低学年の僕からすれば、高校生のお姉さんなんてヘタな大人より雲の上の存在で、これまでのレッスンじゃ居合わせることもなかったから、面識もなくて。
僕は怖くなって、どうしたらいいか分からなくなって、口を金魚みたいにぱくぱくさせるだけになった。
そんな僕が手に持っているテキストを見て、お姉さんは少し悩んだようにしてから、言った。
「――じゃあ、今日は私が教えてあげよっか!」
驚きのあまり頭が回らなくなった僕の腕を、きれいな手が取った。
初歩の初歩の練習曲が、お姉さんの指にかかると、鳥の様に活き活きと羽ばたき、雨だれの様に物悲しく紡がれた。
細い爪が黒鍵と白鍵の線上を交錯し、奏でながら踊っていた。
お姉さんは先生と同じくらいピアノが上手で、百倍くらい手厳しかったけれど――同じくらい、優しかった。
現金な話だけど、その日以来、僕は真面目に練習するようになった。
別に先生が嫌いだったわけじゃない。ただ――この家で僕が下手なピアノを弾いたり、駄々をこねているのがお姉さんに伝わるのが、この上なく恥ずかしかった。
お姉さんからのレッスンはあれ一回きりだった。でも、その後も家の中で鉢合わせたら、上手になったねと言ってくれたりして、それが何よりの励みになった。
いつか――いつか頼もうと、緊張で汗びっしょりになりながら連弾の楽譜を買ったこともある。
結局、切り出すことはなかったけれど。
あれから5年か、6年か。
僕のピアノはまあ年数なりに上達し、今度初めて、関東地区のコンクールで演奏することが決まった。
お姉さんは――久美子さんは、たまに実家に帰ってくるらしい。アイドルになってからはまだ、僕は会えていないけれど。
だから先生に伝言をお願いした。発表会の日付と場所、曲目。
忙しいのは分かっているけれど、でも。今なら――少しくらいは、聴かせられるものになったんだと、伝えたかった。
あの頃の久美子さんと同じくらい歳の僕。
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