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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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760 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/06(日) 13:19:59.53 ID:/l2+ircxO
まさかのウィリアム・ギャディス『JR』の刊行におののきながら、発売日までそのおののきを持続させつつ、940ページの書物に8640円(税込)を支払い、1.2kgのその異様な重量感に興奮を覚えつつページをめくっていたら、年末年始が終わってました。


というわけでガチで更新忘れたので生存報告だけ……いやでもマジで衝撃的な時間だったんですよ。デレマスで例えるなら文香が人目もはばからずガッツポーズするくらい衝撃的。

続きはなんとか今月中に。少なくともアーニャ参戦のところまでは書きたい。


>>755
川島さんの名前が誤字っていたので訂正。ついでにオチを足しました。


アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞樹と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞樹「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞樹らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」


事の顛末を聞いた奏がハンチング帽をかぶってお菓子を配る永井を見て、ぼそっとつぶやいた。


奏「どちらかというと、綾野剛よね」

761 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:46:00.22 ID:ymR8HEsBO

火災警報によって永井が眼を覚ます四時間前、杖をついた男がゆっくりと歩きながら検問ゲートまでやってきた。

 暦の数字はすでに秋の季節に入り込んでいたが、気候はそのことをまったく気にせず引き続き夏の暑さをそのままにしていた。

 出社する社員たちは空調が放つ冷気が頬を撫でる感触にひと心地つきながら、杖の男を抜き去っていった。男は小太りでその体型の原因はもっぱら運動不足のせいなのだが、筋肉の少ない右脚をみるにそれを理由に責めることはできない。男はネクタイをし、ワイシャツの上から作業用のジャケットを着ていたが汗ひとつかいていなかった。抜き去り際に障害のある脚をちらと見やる社員の視線を気にもとめず、透徹すぎて何も見ていないと思える眼で検問ゲートの先を見つめていた。

 検問に到達すると男は杖とリュックを警備員に預け、社員証を提示した。IDが照合され、男は金属探知機へとむかう。探知機が反応し、警備員がハンディ型の探知機を手に持って検査の続きを行った。胸ポケットに反応があり、ポケットの中身を取り出してみると、オイルライターとタバコが出てきた。


「所定のスペースで吸えよ」


 検査物を返却された男は杖でこつこつと床を鳴らしながらエントランスをまっすぐ進んでいたときと同じゆっくりとした速度でエレベーターへと向かった。エレベーターに乗り込み、セキュリティ・サーバー室のある十四階のボタンを押す。

 階数標示の数字が増していくのを見つめながら、奥山真澄は肩を壁に預けて、エレベーターの上昇に身を任せた。


ーー
ーー
ーー
762 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:47:42.66 ID:ymR8HEsBO


奥山「この配線じゃノイズで速度が二十パーセント落ちるよ」


 蓋が開けられたサーバーの内側を見ながら奥山が言った。

 不備を一目で見抜いた奥山の知識に現場の上司と同僚がかるく感嘆する。奥山は仕事に就いて早々、動作に違和感をおぼえ、サーバーの配線を確認すると言い出した。奥山は仕事を行うにあたって、システムをベストなコンディションにしておきたかったのだ。


フォージ安全社員1「青島さんもたまにはいい人材引っぱってくるじゃん」

フォージ安全社員2「それ言っちゃかわいそう」


 背後から不意につぶやかれた内通者の名前を聞き流しながら、奥山は腕時計を見た。デジタル式の文字盤が午前十一時十五分と標示していた。


奥山「ちょっとどいて」


 奥山は杖を片手に立ち上がり、あたりを見回した。シュレッダーを見つけると奥山は床に座りこみ、シュレッダーのゴミ箱の蓋を開けた。中には裁断された紙の束が山になってつまっついた。奥山は胸ポケットからライターを取り出すと下カバーを外し、それから底にあるオイルの栓をゆるめた。


フォージ安全社員1「なにしてんだ奥山?」


 床に座る奥山に上司が不思議そうに話しかけた。


フォージ安全社員1「一服なら一緒に行こうぜ」

奥山「いや、吸う人じゃないから」
763 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:49:11.09 ID:ymR8HEsBO

 奥山はライターを点けた。ゴミ箱の紙束にはオイルが振りかけられていて、油が染み込んだところの黒っぽく変色していた。インクが滲み、文字が溶けてゆく。奥山がライターを手放す。落ちていく際、ライターはくるりと下を向き、回転にあわせて火が揺らめいた。そのせいで火が消えてしまうのではないかと錯覚するほど赤っぽいオレンジ色の光熱がか細く揺らめいたが、ライターが紙束に落ちたとたん火は炎となって燃え上がり、あらかじめ仰け反ってゴミ箱から離れていた奥山の顔に熱気をぶつけた。


フォージ安全社員1「な、何してる!?」


 黒い煙が吹き上がり、プラスチックの溶ける臭いがサーバー室に充満する。火災警報が響き渡り、CO2ガスの放出までの三十秒のカウントダウンを開始する。部屋の中の社員たちは恐怖に急き立てられて出口のガラス扉へと殺到した。

 いちばん先頭の社員がガラス扉を押し開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。急かす声と罵る声とガラスを叩く音が雑多に混じって響く。扉は壁のようにびくともしない。片手で押す、両手で押す、肩でぶつかる、二人がかりで扉をこじ開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。大声が悲鳴に変わる。


IBM(奥山)『コ……ラ、コレ?……PEF……』


 奥山のIBMがガラス扉に背中を押し当てて四肢を踏ん張っていた。ガラス一枚隔てた背後から悲鳴が飛び交い、乱れるのとは対照的に、意味のない舌足らずな言葉を奥山のIBMはつぶやいた。IBMは背中でガラス扉の振動と命乞いの叫びを受け止めながら、日向ぼっこをしているかのように動かなかった。セキュリティ・サーバー室はいまやガス室のような様相を呈している。
764 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:50:16.84 ID:ymR8HEsBO

『3』

『2』

『1』


 あまりのも機械的なカウントダウンの音声。



「おぉーい!!」

「待て待て待て!!」

「早く開けろよ!!」


 ガス室の内側にいる人間の複数の声。恐慌にかられた人々の叫び。奥山はコツコツと杖で床を叩きながらガラス扉の反対側にある大型モニターの前にある椅子に歩いていった。椅子に腰かけ背凭れに身体を預けると瞼を閉じた。視界が暗くなると奥山の意識から大勢の悲鳴が遠ざかり、機械音声の冷酷な響きだけが選別されたように奥山の耳に届いた。


『CO2ガスを放出します』

765 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:51:35.58 ID:ymR8HEsBO

 天井のガス式スプリンクラーから消火用のガスが部屋中に放出される。ガスが身体に振りかかるのを感じた奥山は静かに深呼吸をした。ガラス扉前の社員たちの一部はとっさに息を止めた。無呼吸でいるのは長く続かず、激しく咳き込む音がいくつもした。室内の二酸化炭素濃度が致死量に達すると、そういった音もなくなり、どさどさという成人男性の体重が床にぶつかる音がガスの放出音にまぎれてかすかに鳴ったが、その音を耳にする者はひとりもいなかった。

 ガスの放出がおわり、室内の二酸化炭素濃度を通常に戻すため空調が働き始める。

 奥山の眼が覚めたとき、ゴォッーという空調の作動音はまだおおきく響いていた。


奥山「さて」


 奥山は理性的な眼で出口の前に積み重なっている死体を見やってから、椅子をくるりと回転させ大型モニターを見上げた。


奥山「んー……フォージ安全のハッキングかぁー……」


 システムを再起動するとモニターが点り、警備システムにログインできるように操作する。


奥山「テンション高いなあ」


 キーボードを叩きながら、奥山はいつもと変わらない平静な調子でつぶやいた。


ーー
ーー
ーー
766 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:55:38.55 ID:ymR8HEsBO

 ビル前に停められたバンのなかで田中は奥山からの報告を待っていた。荷台に座り込んだ田中はスマートフォンを左手に持ち、連絡がくるのを待ちわび焦れたように画面を凝視していた。連絡がまだきてないとわかりポケットにしまってからもスマートフォンを握りしめたままだった。右手は荷台に置かれたショットガンのグリップに置かれ、すこしだけ力をいれて押さえつけている。荷台に張られた車内カーペットの上にショットガンを置いたとき、固さと重さを持った音がかすかに、合成繊維では吸収できなかった分だけ田中の耳に届き、その音のため田中の右手は銃を押さえつけていた。

 田中がふたたびスマートフォンをポケットから取り出し、画面を見つめていると高橋が眼前で小瓶を振った。


高橋「ホレホレ、おまえもやっとけって」


 小瓶のなかの白い粉がさらさらと左右に揺れた。考えるまでもなくヤクだ。


田中「集中しろ」

高橋「こそだろ」


 高橋は小瓶を引っ込め、頭を壁に預けながら田中を見やると、気負っているくせに何もわかっていないとでも言いたげに唇の右端を持ち上げた。


高橋「どちらかというとアッパー系ドラッグだ。すべてが鮮明になる。銃の狙いもハンパなくなるぜ」


 そこまで言うと高橋の微笑が大きくなり、明確に田中を小馬鹿にしたものに変わった。


高橋「おまえ、ド下手なんだからよお」

田中「だまれ」


 田中がぴしゃりと言い返した。

767 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:56:55.98 ID:ymR8HEsBO


田中「あれから射撃はさんざん練習したんだ」


 指に力がはいり、置かれていただけだった右手が銃を握りしめた。それから十数分後、スマートフォンに通知がはいった。ハッキング成功の報せ。


田中「始めるぞ! 甲斐敬一と李奈緒美を暗殺する!」


 田中の号令に高橋とゲンはいよいよかと高揚感をあらわに笑い声をたてた。ふたりは鼻からドラッグを吸い、高揚感を増幅させる。

 バンのバックドアから外へ出た三人は縦に連なってオフィス街を突っ切ってゆく。


高橋「やべえ、やべえ」

田中「佐藤さん抜きなんだ。ナメてっと死ぬぞ」


 通行者たちは険しい表情をした田中にひるみ、道を開けた。すこしはなれたところで脱いだジャケットを手に持ったサラリーマンがスマートフォンを取り出し、田中たちを撮影し出した。

 銃器を手に持った三人の様子 ──田中─ショットガン(ウィンチェスター M1897)、高橋─自動小銃(USSR AKM)、ゲン─自動拳銃(US M1911A1)── から剣呑な雰囲気を感じとっていたが、その雰囲気の範疇に自分は含まれていないとでもいうようなふうだった。

 ビル前で警備にあたっている制服警官と田中の眼が合う。警官は驚き眼を見開いて慌てて無線機に手を伸ばすが、田中が即座に射殺する。
 

768 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:58:30.91 ID:ymR8HEsBO


田中「行くぞ!」


 銃声を合図に田中たちがフォージ安全ビルへと突撃する。根拠のない安全圏はたちまち消え去り、通行者たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していった。


高橋「くらえ!」


 エントランスに足を踏み入れたとたん、高橋が壁際にいる社員たちにむかって引き金を引いた。白い壁面に血が飛び黒い弾痕が穿たれる。


田中「無駄弾つかうな!」


 走りながら無関係な人間をたのしく撃ちまくる高橋を田中は検問ゲート周辺の警備員を銃撃しながら叱責した。それを受けて高橋は射線を壁から検問ゲートへ移し、警備員を牽制した。最後尾のゲンもゲート左側をむかって拳銃を連射し、警備員たちをその場に押さえ込んだ。


「防犯シャッターおろせ!」


 銃声に負けじと喉奥から放たれた叫び声に突き動かされひとりの警備員が金属探知機の先にあるロビーから業務フロアへと続く通路の壁の赤いボタンに飛びついた。握った拳の底をつかって殴りつけるというふうに警備員はボタンを叩いた。
769 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:00:06.82 ID:ymR8HEsBO

シャッターは下りなかった。警備システムはすでに奥山が掌握していて、すべてを操ることができた。

 ボタンを押した警備員の頭蓋骨が散弾で吹っ飛ばされた。衝撃によって警備員は顔面から壁にぶつかり鼻骨が折れたが、彼はもう痛みを感じることはなかった。糸の切れた操人形のように警備員の膝がくにゃりと折れ、床に倒れた。

 田中たちは検問ゲートを突き抜け、通路へ進入する。そのさい高橋とゲンがそれぞれ左右の側面を銃撃しながら警備員をさらに牽制した。金属探知機を越えると、ゲンはわれがちに逃げ出そうと出口に殺到している社員たちのほうを振り返った。そのようすは増えすぎた個体数を調整するためみずから入水するレミングの迷信を思わせる有り様だった。騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた警察官はパニック状態の群衆に行く手を遮られて一向にビルのなかにに入れないでいる。ゲンは視界の中心に警官をおさめつつも狙いはつけず、何発か群衆にむかって発砲した。銃弾は警官にはあたらず、周囲の人間の背中や首に命中した。


田中「奥山!」


 ゲンが銃撃しながら通路まで後退してきたとき、田中がインカム越しにタイミングを告げた。直後、田中の声に反応したかのようにシャッターが下がり、エントランスと通路を遮断した。


田中「ロビーを突破。十五階、社長室に向かうぞ」
770 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:01:26.41 ID:ymR8HEsBO

『エレベーターは使わないでよ。物理的に塞がれたら詰むから』


 インカムから奥山が注意をした。

 奥山は警備システムにアクセスしビルの見取り図を引っ張り出し、事前に入手した青写真と記憶の中で整合した。そして所見を述べる。


『見る限り設備やらなんやらは前情報通りだね。変わってるところはない。作戦通り行けるよ。北階段を使って』


 指示を出したところで奥山は監視カメラの映像から警備員二名がセキュリティ・サーバー室に近づいていることに気づいた。


『警備員がこっちに来る。しばらくオフるよ』


 田中たちが北階段の五階と六階のあいだの踊り場まで上ったとき、奥山から復帰の報告が入った。


『戻ったよ』

田中「おう」


 田中は腰だめにショットガンを構えていて、そのすぐ眼の前の階段には警備員の死体がうつ伏せの状態で転がっていた。
771 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:02:33.88 ID:ymR8HEsBO

高橋「ここまできてさすまたかよ」


 高橋が死体の横に落ちているさすまたを見て言った。


『日本の警備員はスタンガンはおろか催涙スプレーすら使用が認められないからね』

ゲン「引くわー」

高橋「ブッ飛んでな」


 高橋とゲンは死体となった警備員に皮肉な憐憫混じりの視線を投げかけると同時に嘲笑っていた。自分たちが殺した人間に対するふとした同情が可笑しくて仕方ないといった笑みがふたりの唇に浮かんでいた。


『だけどそろそろ気をつけたほうがいいよ』


 奥山の忠告が割ってはいった。


『この会社、ブラックだから』


 奥山はセキュリティ・サーバー室の確認にやって来た警備員(彼らは感電死させられた)の無線から流れる指示を直接インターカムから伝えた。麻酔銃使用の指示が田中らがいる五階より上に配置されている全警備員に通達されていた。
772 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:03:33.84 ID:ymR8HEsBO

高橋「法律違反だろ」

ゲン「だれかクビになったして」

高橋「逮捕だな。いや、どうせおれらが殺すからそれはなしか」


 二人はまたも嘲笑の声をあげた。


田中「マジメにやれ」


 つぎに銃撃戦が起こったのは十階と十一階のあいだの踊り場で、田中は腰を落とし階段に座るような体勢で階上から降りてきた警備員にショットガンを放った。それとほぼ同じタイミングで階段の正面に立つ高橋が十一階フロアからドアを開けて入ってきた警備員二名を射殺する。

 田中がショットガンの排莢を行う。上階から大勢の人間の足音。田中は銃口をあげる。そのとき、視界の横切る黒い影が田中の眼に映る。


田中「は!? バカ!!」


 高橋のIBMが警備員の集団に突っ込んでゆく。巨腕を振り上げ、先頭の警備員の顎にアッパーカットを喰らわせる。警備員の頸がゴムのように伸びる。後頭部が背後の壁にぶつかり、スカッシュのボールみたいに跳ね返ってくる。黒い幽霊は集団の中心で腰を落とすと肘を曲げ、つぎの瞬間、勢いづけて跳ねあがり、両腕をぶんと振り回した。頬骨と頸骨が破壊され、攻撃を食らった箇所がやわらかくゆがんだ。


「え!?」


 最後尾に位置し、ひとりだけ離れたところにいた警備員のすぐ眼前に黒い手が迫っていたが、警備員にとって黒い幽霊の手は透明で、彼は何事が起こったのかを理解する暇もなく─同僚の死すら理解できず─その手に押し潰されて死んだ。
773 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:04:52.65 ID:ymR8HEsBO

高橋「イアー」


 高橋が階段を駆けあがり、黒い幽霊と拳を突き合わせた。黒い幽霊の口角も心持ち上向いている。


田中「高橋!」


 田中が高橋を怒鳴りつけた。


高橋「あ?」

田中「黒い幽霊はシューティングゲームの“BOMB”だ。回数制限がある。本当にヤバいときまでとっとけ」

高橋「いいじゃねえか。あと一回も出せる」

 
 田中はいったん落ち着き、真面目くさった口調で諭そうとしたが、高橋からしたらそれが滑稽な落差を生んでいた。田中の言っていることは佐藤の受け売りであることは明白だった。だが佐藤とちがって田中はいわばゲームの攻略法をしごく真面目に口にしてしまっていた。高橋はヘラヘラとした態度で黒い幽霊と肩を組んで笑っていた。幽霊のほうも高橋と同調しているのかケタケタと歯を剥いていた。


田中「おま……」

『田中さん』


 田中がさらにどやそうとしたとき、冷静な響きをもった奥山の声がインカムから聞こえた。

774 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:07:02.30 ID:ymR8HEsBO

『上の階、固められてる。シールドと麻酔銃で』


 しごく冷静な声を保ったまま、奥山が状況を説明する。


『あと、その階の廊下側からもう一団そっちに向かってる。挟み撃ちにする気だね』

高橋「いよいよ本番か」

田中「どちらかとは戦うことになるな。どっちがいい?」

『下から上に攻めるのは不利だよ』


 奥山が冷静に意見を続けた。


『いまいる北階段を出て廊下側の一団を倒す。そしたら今度はまだ手薄な南階段で上を目指して』


 弾倉交換を手早く済ませたあと、三人は銃口を床に下げ、ドアの前で立ち止まった。田中がちらと高橋に振り返ると、高橋はワンショルダーバッグから粘着力の強いグレーのダクトテープを取り出し田中に手渡した。銃を持つ右手をテープでぐるぐる巻きにすると、田中は高橋にテープを返した。同様のことを高橋とゲンが済ませたことを確認すると、田中はドアノブを握り、力を込めた。


田中「いいか? 隊列を崩すなよ」


 田中は閉じられたドアを見つめたまま、その向こう側の光景を予想しながら言った。


田中「佐藤さんはこれをひとりでやったらしいが、おれらにそんなテクはねえ。練習通りやるぞ!」

775 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:08:00.60 ID:ymR8HEsBO

 言い終わった田中が慎重に、ゆっくりとドアノブを捻る。このとき、廊下で陣取っている警備員のうちの一人がドアノブが動いたと感じたが、田中は二秒間握ったままの姿勢でいたため、その警備員は気のせいかと思い始めた。突然、叩きつけるようにドアが開け放たれた。田中はオフィスに飛び込むと同時にショットガンを持ち上げ、すぐさま引き金を引いた。散弾がシールドを割り、割れた強化プラスチックと散弾が警備員の肩をえぐった。オフィスの隅の方に固まっていた社員たちが悲鳴をあげた。

 田中は腰をおとしデスクの陰に隠れられるように重心を左に傾けた。田中に続いて突入してきた高橋がAKMを乱射する。銃弾が麻酔銃を撃とうとシールドから身体を出していた何人かに貫通した。弾が当たらなかった警備員は高橋が田中の後を追ってデスクに身を隠す前に麻酔銃を撃った。麻酔ダートが左肩の下あたりに突き刺さり、高橋の身体から意識が消え、すぐ後ろのゲンを巻き込んで仰向けに倒れた。


田中「ゲン!」


 ゲンはすぐさま拳銃の先を高橋に押し付け引き金を引いた。銃弾は右耳のあたりから斜めに発射され、左眼球を巻き込んでこめかみから射出された。血と脳漿が飛び散って床を汚した。高橋は仰向けの姿勢のまますぐに上体を起こしふたたびフルオートで撃ち始めた。高橋に麻酔ダートが刺さってからほんの数秒しか経過していなかったので、麻酔銃を持った警備員たちはシールドに隠れる暇もなくまた何人かが射殺された。


「もう一度だ!」


 すぐ隣の仲間が撃たれて死んでいくなか、この一団を指揮しているとおぼしき警備員が麻酔ダートを装填し直し、ふたたび高橋に狙いをつけた。照準をあわせ、引き金を引こうとする。
776 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:09:47.22 ID:ymR8HEsBO

 田中は引き金を引きその男の顔面を吹き飛ばした。


田中「はやくこっちに来い!」


 デスクの陰に移動しようとしている数名を撃ちまくりながら田中が叫んだ。ゲンが高橋のバッグを引っ張り、尻を床につけたまま乱射している高橋を引きずっていった。今度は田中に麻酔ダートが刺さった。ゲンは指示されるまえに田中のこめかみを撃った。倒れる際にオフィスチェアに田中の後頭部がぶつけた。からからと車輪が転がりオフィスチェアはコピー機にぶつかって止まった。同時に田中の復活が完了し、高橋の射線と交差するかたちで廊下側の集団に引き金を引いた。

 銃撃戦がしばらく続けられたが、気づけば、オフィスの床が死体で埋まっていた。

 少人数とはいえ武装した亜人の部隊に対抗する武器が一発ずつしか装填できない麻酔銃では警備員が全滅するのも当然だった。

 息を喘がせながら田中はオフィスの様子を見渡した。興奮の波が退いていく感じ。呼吸を整えるためにその場に立ち尽くしていると、銃声が一発だけ響いた。ゲンがびくびくと痙攣している瀕死の警備員の後頭部に銃弾を叩き込んでいた。ゲンはこれまでの戦闘でやってきたように背後から引き金を引き、動くものをなくしていった。


高橋「田中」


 田中が無感動な表情でゲンの行いを見つめていると、高橋がほくそ笑みを浮かべながら話しかけてきた。


高橋「おれら、いま、無敵だぜ」


 田中もつられてほくそ笑んだ。


田中「いくぞ!」


 銃を握り直し、三人はオフィスから廊下へと出てそのまま南階段へと進んでいった。
777 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:11:31.15 ID:ymR8HEsBO

 田中たちが去った直後のオフィスは霞が漂っている森の中のように静まりかえっていたが、──実際に白煙が漂っていたが、それは銃の硝煙で不快な煙たさを持っていた──やがて、徐々に動き出すものがあった。デスクの下や壁際に身を縮こまらせていた社員たちがおそるおそる顔をだし、周囲の状況を確認しはじめた。かれらは積み重なる死体に怯え、ひとりが北階段のほうへ一目散に走り出すと、ほかの者たちも悪霊にとり憑かれた豚の群れが湖に飛び込んでいくかのようにあとに続いて逃げ出した。

 オフィスにはなにも言わない死体たけが残された。しかしそのように見えたのはほんの五秒ほどのことで、床に仰向けに倒れていた警備員の死体のひとつがふっと右腕をあげ、被っている帽子のつばに触れた。

 帽子の持ち上がり、顔が見えた。

 永井圭がひっそりと生き返っていた。

 永井は顔をあげ、南階段、田中たちが去っていった方を見やった。


永井「痛って。撃たれちゃったよ」


 上体を起こし、血痕がべっとり付いている右手を見て永井は言った。自動小銃で撃たれたせいで右手は手首からずたずたになり、失血死するまでのあいだひどく痛んだのだった。

 永井がとっくに消えてしまった痛覚を気にしたのは理由があった。そっとを気にすることでできれば起こってほしくないことが目の前で展開されてしまったことを意識したくなかったからだった。


永井「というか……ウソだろぉ……」


 実際に言葉を発することで踏ん切りをつけると永井は立ち上がり、オフィスから北階段へと出ていった。
778 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:13:07.19 ID:ymR8HEsBO

 十階へと降りる途中で中野と出くわした。中野は手摺に右手を軽く置いた姿勢で背中を向けていた。背後から聞こえてきた足音に慌てている気配を感じられず、ついさっきオフィスから逃げたしてきた社員たちの避難誘導をしたばかりの中野はその足音が永井のものだろうと振り返るまえから察していた。


中野「なにしてたんだよ、永井?」

永井「この眼で確かめたいことがあった」


 永井はすれ違いざま、中野に顔を向けて言った。


永井「やっぱり、佐藤さんがいない」

中野「戦いたがりじゃなかったのかよ」

永井「ああ。あの人が後方支援なんてありえない。(永井はドアを開けて十階廊下へと進んだ)つまり、本当にこの戦いに参加してないんだ」

中野「あの手下たちを捕まえるだけでもダメージなんじゃねーの?」

永井「次なんかないんだ。ここで全滅させないと」


 十階にはまだまばらに人がいた。家族へ電話する者や互いに無事を確認しあう者、避難か待機か言い争っている者の横を通り過ぎながら、永井はなぜ佐藤が今回の暗殺に参加しなかったのか考えた。


中野「なあ、おれまで着替える必要あったか?」


 中野がふとした調子で尋ねた。


永井「ガキがうろついてたら目立つだろ。バレちゃだめなんだ、とくに奴には」

779 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:14:58.28 ID:ymR8HEsBO

 そう言うと、永井は中野に振り返り、天井に備え付けてある監視カメラを指差した。指差した手は胸のまえに掲げて、監視カメラからの視点では背中に隠れてみえないようにしていた。

 永井は身体の向きをもとに戻し、歩きながら根拠を説明した。


永井「敵はまず絶対にセキュリティ・サーバー室を取りにくる。ここを陥とさず進攻するのは不可能だからだ。すこしでも異変が起こればサーバー室は陥ちたと考えて動くべきだ」

中野「じゃあこんなところで油売ってていいのか?」

永井「中野、要撃はとっくに始まってるぞ」


 真剣な言葉を発した直後、永井の表情はあっという間にゆるんであきれ顔に変わった。


永井「ていうか、作戦要項にかいてあったろ。そんなんでよく従ってられるな」

中野「おれはバカだからなあ」

永井「あ?」


 そんなことはとっくに知ってる、だからなんなんだ。そういったいらだちを浮かべながら永井はちらと顔だけ中野に振り返った。


中野「ただ、これが佐藤を倒すベストなんだろ? 」


 中野は永井の態度を気にせず(気づいていなかったのかもしれないが)、単純な確信をとくべつ感情も交えず口にした。


中野「おまえが言うんだから」


 永井はなにも言わず前に向き直った。機械室のすぐ前まで来ていた。
780 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:15:48.46 ID:ymR8HEsBO

永井「ここからは仕事柄おまえのほうがくわしい」


 ドアノブに手をかけ、ドアを半開きにしながら永井は振り返り、中野の顔に眼をあわせ、言った。


永井「頼んだぞ」


 機械室のなかに入る。つけっぱなしの空調設備の作動音が耳を聾さんばかりにがなりたっている。壁から天井にかけて無数のダクトが繁生した蔦のように張り巡らされていたが、床はきれいなもので定期的に清掃が行われていることがうかがえた。通路がわかりやすいように黄色いラインの内側がグリーンに塗られていた。

 中野は機械室を見渡して言った。


中野「だれもいねえな」

永井「銃声とかで仕事どころじゃなかったんだ」


 空調制御盤を見つけると、中野は蓋を開けて器機の操作スイッチがどのようになっているか眼で確認していった。中野の作業を待つあいだに永井は戸崎に無線で連絡を入れた。


永井「聞こえますか、戸崎さん。最大の標的が来てないようです」

『そうか。なにか案はあるのか?』

永井「はい。佐藤を引きずり出す。現行の作戦は続行。このまま田中たちは捕獲します。が……」

781 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:17:18.64 ID:ymR8HEsBO

 戸崎はイヤホンを指で押さえながら永井の作戦を聞いた。歩く速度はゆるめずセキュリティ・サーバー室への通路を下村とともに歩いている。こっこっこっこっ、と足音が壁に反響する。合わせ鏡で無数に増幅された像のように、迷宮的に反響が連鎖していく。

 無線連絡を終えた永井は中野に振り向くと、まだ制御盤の操作を続けていた。永井がスマートフォン取り出しメールを打とうとしたとき、中野が声をかけてきた。


中野「永井、始められるぜ」

永井「わかった」


 永井は喫煙スペースから持ってきた脚部がパイプ製のスツール運びながらもう片方の手でスマートフォンを操作した。大型送風機のまえにスツールを置き、腰を下ろすとテキストを確認しメールを送信した。


中野「誰にメール?」


 背後に立った中野が訊いた。


永井「アナスタシア」

中野「え、アーニャちゃん、ここにいんの?」

永井「本人が言ったんだよ、佐藤と戦うって」


 永井は中野がぐだぐた反対するまえに先回りして言った。それでも中野は納得しきらず、戦闘という行為においてはただの女の子でしかないアナスタシアがこの要撃作戦に参加するのは、本人の意思がどうだという問題とはまた別だと思った。


永井「詳しく聞いてないけど、佐藤のテロで知り合いが死んだそうだ」
 

 中野の懸念を察した永井はだめ押しするように言った。中野の性格を考えれば、こう言っておけば、一〇〇パーセントの納得は得られずとも承知はするだろうと知っていたからだった。事実、中野は押し黙った。アナスタシアのそれは、中野が佐藤と戦う動機と重なるところがあったから。

 永井は中野の無言の承諾を感じながら、ふと、中野とアナスタシアの動機についてわずかな時間、十数秒ほど、思考の何パーセントかを傾けた。
782 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:18:33.79 ID:ymR8HEsBO

 中野は大量殺戮への反対というごく常識的で倫理的な動機をみずから口した。アナスタシアのそれについては完全に推察したものだったが、三人で行動していた際に車内で尋ねてきたときの不安そうな声の調子と ──アーニャはどうすればいいですか?──、九月に電話をかけてきたときの決然とした宣言 ──アーニャも佐藤とたたかう── との比較、それに加えそのあいだに佐藤の旅客機テロがあったことを考えると、友人の死あたりが変遷の理由だということは簡単に推察できた。

 永井は、中野みたいな直線的なバカでもないのにそんな理由で十分に戦えるのだろうかと疑問に思ったが、戦闘といってもIBMの使用にするに限るのだから、と考え直した。

 送風機のファンが回り始めた。中野は羽の回転を眼で追いながら、永井にふと尋ねた。


中野「そういや結局、UWFは使わないのか」

永井「IBMだろ」


 中野のとぼけた発言を永井はすぐさま訂正した。


永井「使うもなにも、おまえ、出せるようになんなかっただろ」

中野「だよなあ……おまえも操れないままだしな」


 中野の指摘が正鵠を得ていてばつが悪くなったのか、永井は何も応えず、無言で通した。


永井「まぁ、すこしは使うけどね」


 ファンの回転がいよいよ速くなりはじめる。

 中野は制御盤のところまで戻ると、回転速度を上限めいいっぱいになるまで操作する。

 永井は高速回転するファンを見据え、スツールに座ったまま、要撃開始の狼煙をあげた。


ーー
ーー
ーー
783 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:20:22.80 ID:ymR8HEsBO

李奈緒美は一人掛け用のソファに緊張と恐怖に身体を強張らせながらそれでも辛抱強く、慎ましい態度で浅く腰を下ろしていた。フォージ安全社長甲斐敬一は李の背後の壁際に何食わぬ顔をして立っている。黒服たちは囲うのようにして二人を警護していた。応接用のソファとその間にテーブルがあり、四人はそれぞれソファ背後の端から少し離れたところで待機している。

社長室の入口はガラスで仕切られた向こう側にあり、立体的に張り巡らされた一枚ガラスが社長室を二分している。先程まで西側に面した窓から日が差し込んできて、この仕切りガラスに反射していたので黒服たちは警護のポジションを変更していた。

銃声が聞こえてきた。はじめに単発の破裂音が微かに響き渡り、直後に連続的な銃撃の音が続いた。


甲斐「近づいてきたな」


音のする方向に顔を向けながら甲斐が言った。甲斐はふっと背中を向けると南側の壁に近づいていった。


真鍋「あまり動かないでくれ」


甲斐の動きに気づいた真鍋が言った。その言葉に耳を傾ける者は甲斐も含めてだれもいなかった。銃声は徐々に近づいてきていて、黒服たちは応戦の準備をしようとしていたところだった。

甲斐は壁から張り出した柱に右の掌をぴったりとくっつけた。
784 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:21:54.78 ID:ymR8HEsBO

手の触れたところがガコンとへこみ、甲斐の眼の前の壁が自動ドアのようにちょうどドアの横幅の分だけ開いた。

平沢が眼を見開いた。同時に真鍋が叫ぶ。


真鍋「セーフルーム!?」


ほかの二人の黒服、李も突如として現れた空間に驚愕し、動きを止めてしまった。その間隙の時間を利用し、甲斐はセーフルームに難なく滑り込んだ。甲斐の動きにわずかに遅れて真鍋が飛びつく勢いで走り出したが、すでに扉は閉まり出していた。


甲斐「あとは頼んだよ」


扉が閉まり切る直前、見捨てられたことを理解した悲痛な面持ちの李に向かって、甲斐はたったそれだけ言い残し、扉の向こうに消えた。

真鍋が李に向かって詰問した。


真鍋「あんた知ってたのか!?」

李「いえ!」


李は正気に返ってあわてて否定した。


真鍋「クソ野朗……ターゲットがいねえとダメだろーが」

李「大丈夫です」


正面のガラスに強いるように見ながら李は震えた声で言った。閉じられた透明の扉の開閉部は一枚ガラスから独立していて、その切れ目の線がいやに眼についた。李はさらに言葉を続けたが、それは恨めしげに壁を睨みつける真鍋やほかの黒服たちにというより、自分に向かって言い聞かせているふうだった。


李「わたしは……逃げませんから」


ーー
ーー
ーー
785 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:23:37.41 ID:ymR8HEsBO

十五階の業務フロアへと続くドアの前で田中たちは上階と下階からの挟み撃ちに警戒しつつ、奥山がドアのロックの解除するのを待っていた。


田中「奥山、まだ開かないのか?」


田中は銃床を肩にあて床に膝をついた姿勢で下階を見張っていたが、いい加減にしびれを感じ始めていた。


『十五階のセキュリティシステムは特別厳重で、熱源に体重感知、社長本人の認証がなきゃ猫すら入れない』


奥山がインカム越しに説明した。


高橋「もう五万分は待ってるぜ」

ゲン「ハハ、サバ言うな」

『あのねえ……きみらがたのしくドンパチしてた間も、僕はこのセキュリティと格闘してたの』


奥山の口ぶりは自分の仕事のほうが撃ち合いよりもはるかに複雑で神経の使う仕事だと言いたげなものだった。


『優秀なエンジニアでもあと五時間はかかるよ』

田中「おい、そんなに待てないぞ!」
786 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:25:13.41 ID:ymR8HEsBO

田中が文句を言った直後、背後からガコンという音がした。三人が階段へ向けていた視線をドアへ戻すと、固く閉ざされていたドアが半開きになっていた。


『ほら、とっと入って』


田中がハッと軽く笑う。高橋とゲンを見やって言った。


田中「ゲン、高橋」


呼びかけられた二人はニヤつていた。クライマックスを楽しみにしているとでもいうような表情。


田中「終わらせるぞ」


三人が社長室への通路を進んでいく様子を監視カメラで眺めらながら奥山は十五階のセキュリティをすべて掌握するためハッキングを続けていた。

奥山の視界には三台のデスクトップモニターが収まっていて、右のモニターが田中たちの様子を、中央のモニターがコードを、左のモニターが自分のいるセキュリティ・サーバー室への通路をそれぞれ映していた。

奥山が熱源感知システムのコードを書き換えていると、左モニターの映像に影が横切るのが見た気がした。


奥山「ん?」

『どうした?』

奥山「いま、なにか……」


声を洩らしていたため、田中が尋ねてきた。


奥山「気のせいか」

『あと二十メートル』
787 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:26:26.51 ID:ymR8HEsBO

奥山「こっちもあと少しで十五階全体のセキュリティを掌握できるよ」


気を取り直した奥山がハッキングの進捗状況を田中に伝える。

田中は奥山からの通信を聞きつつクリアリングしながら通路を進行していく。観葉植物の裏を素早く確認し、視線を前に戻す。奥山からの通信に意識を向ける。


『そしたら熱源で敵の配置を……し……』

田中「奥山?」


突如、無線にノイズが走り、すぐに通信が不可能になった。


奥山「田中さん?」


奥山の無線も同様で、田中との通信を再開しようとしてもノイズばかりがインカムから聞こえてくるだけだった。

田中は足を止めて奥山からの通信が再開するのを待っていた。


高橋「どうするよ」


田中は視線を上げた。社長室のドアが見える。距離は十メートルもない。


田中「……もう眼の前だ。続行するぞ」
788 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:27:12.37 ID:ymR8HEsBO

奥山「何か、変だぞ」


一方の奥山は違和感に手を止め、思考をフル回転させていた。偶然とは思えないタイミングで無線が通じなくなった。しかし、妨害だとしたらいったいだれが? フォージ安全側の人間である可能性はきわめて低い。セキュリティ・サーバー室は掌握してあるし、妨害が可能なら被害が大きくなる前に行っているはず。第三者の介入? だが、外部にセキュリティ業務が委託された痕跡はなかったはず……

いきなり、警報が鳴り響いた。


奥山「火災警報……十階……」


奥山は囮のエサに誘い込まれた鼠のように警報を表示しているモニターに見入った。十階の通路にある監視カメラが火元の映像を映し出した。

永井圭が火のついた紙束を松明のように掲げて、帽子を脱いで監視カメラを見上げていた。


奥山「永井……圭……? 何してる、こんなところで……」


奥山がカメラ越しに永井と視線を合わせていたのは一瞬だった。奥山は左手を素早くあげ、耳のイヤホンを指で押さえて叫ぶ。


奥山「田中さん、中止して!」


インカムから返ってきたのはノイズだけだった。


奥山「ったく!」


床を足で蹴って固定電話へと飛びつく。勢いづいたオフィスチェアをデスクを抑えてとめ、受話器を持ち上げ番号を押す。

789 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:28:42.14 ID:ymR8HEsBO

奥山「佐藤さん!」


留守番電話センターにつながったが、無視して叫ぶ。


奥山「なぜか永井圭がいる! こっちの見えないところでなにか……」


奥山は違和感の正体に気づいた。耳に受話器を当てたまま、左のモニターを見る。セキュリティ・サーバー室への通路には何も映っていない。奥山はキーボードのキーを押し、映像を巻き戻した。受話器を持ったまま、映像を巻き戻しを続けていると、廊下を横切っていくものが見えた。奥山は映像を一時停止して顔をモニターに寄せると、瞬きも忘れモニターを睨んだ。

床から一メートルほどの高さにピストルのような形をしたものが浮かんでいた。


奥山「麻酔銃が、飛んでる……?」


その瞬間、奥山はすべてを悟った。


奥山「ああ、全部ワナだ」


下村のIBMが奥山のすぐ背後で麻酔銃を構えていた。引金が引かれ、麻酔ダートが発射される。麻酔ダートは奥山の首の後ろに刺さり、一瞬で奥山の意識を奪った。

IBMによって室内の安全が確認されると、下村と戸崎がセキュリティ・サーバー室に足を踏み入れた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室を奪還した」


戸崎はキーボードをタッチし、換気システムを作動させた。

平沢が戸崎からの無線連絡を耳にする、そのときドアが開いた。
790 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:29:53.72 ID:ymR8HEsBO

李は震えあがっていた。田中が社長室に侵入してきたのを見たとき、李はとっさに立ち上がったが、それ以上は動かなかった。喉は閉塞し、呼吸するのもつらい。眼はずっと見開かれている。田中が強化ガラスのドアの前で立ち止まる。田中と李の眼があった。


田中「久しぶりだな」


怯えきっている李を睨みつけながら田中が吐き捨てるように言った。

高橋がガラス越しにターゲットを撃った。巨大な一枚ガラスにヒビが入る。


田中「防弾ガラスだよ! ドアの鍵を壊せ!」


田中はドア下部のデッドボルトを狙ってショットガンを撃った。頑丈な作りのため、散弾を一発撃ち込んだだけではビクともしない。


平沢「今だ」


平沢が無線でタイミングを告げた。黒服たちは李から離れ、それぞれソファや壁から張り出した柱に身を隠していた。彼らの任務は対象の護衛ではなく、あくまで佐藤ら亜人テログループの捕獲だった。黒服たちは麻酔銃を構え、銃声にまったく反応を見せないまま、田中らが侵入してくるのをじっと待っている。

三発目でデッドボルトが吹き飛んだ。強化ガラスのドアが開き、銃口を上げることも忘れ、まっさきに田中が中に飛び込む。

ショットガンを持ち上げ、左手で銃身を支える。銃口が真っ直ぐ、李に向けられる。

791 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:36:07.96 ID:ymR8HEsBO

李「あのときは……ごめんなさい」


顔の横に挙げた両手と唇を震わせながら李が言った。瞳から涙が溢れ落ちた。

田中の動きが止まった。心は激しく動揺していた。

李はゆっくりと手を下げ、瞼を閉じた。唇は噛み締められ、手は胸のところでぎゅっと握られている。

田中は大きく動揺したまま、李を見た。撃ち殺される恐怖に打ちひしがれながら、額に脂汗を滲ませ涙を哀れに幾筋も流しながら、逃げることだけはきっぱりと拒否して、李奈緒美はそこに立っていた。

田中の動揺がさらに大きくなった。眼の前の女は復讐されるに当然の人間のはずだった。なのにその顔はなんだ。なんでそんな顔をする。なんでおれみたいに助けを求める顔をして、それなのに逃げ出しもせず命乞いもしないんだ? そこで田中は気づいた。暗殺のとき、相手の顔を正面から見たのはこれが初めてだということに。田中はみずからの殺意が砂の城のようにたよりなく、たやすく波にさらわれ消え去っていくのを感じた。

背後から黒い波が押し寄せてきた。


田中「なんで……亜人の粒子が?」


驚く高橋とゲンにつられ、振り返った田中は換気口から流れ出てくる黒い粒子をいまだ動揺から立ち直られない態度のまま見やった。


田中「いや、それに……あんなすぐ消えちまうもん、こんな大量に……」


粒子の波はいまや濁流と化していた。換気口からの送風にのせられて黒い粒子が部屋を飲み込み始める。すぐ眼の前まで黒い濁流が迫ってきた。そのとき、田中の頭の中で佐藤からの伝聞の情報が線を結び、答えとなって閃いた。

792 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:37:14.94 ID:ymR8HEsBO

田中「永井か」


亜人にしか見えないIBM粒子が田中たちを飲み込んだ。並外れた量のIBM粒子を放出した永井は、何食わぬ顔で巨大送風機の前に座ったままだった。永井は無意識に視線をあげ、ふと閉じていた口を開け、つぶやいた。


永井「あとは任せましたよ、平沢さん」


黒い粒子に埋め尽くされた社長室は亜人にとっても奇妙な空間と化していた。ブラックアウトする視界、だが音もなく匂いもない、暑さや冷たさもなく、ただごうごうと音を立てる送風によって粒子が眼の前で流動していく。


高橋「なんも見えねえぞ!」


パニックになった高橋が銃を乱射する。銃弾は防弾ガラスをひび割っただけだった。悲鳴をあげる李を取り残して、平沢たちは平常通りの滑らかな動きで接近していく。

高橋のAKMが弾切れを起こす。舌打ちしつつマガジンをリリースしたあと、バックに手を伸ばし換えのマガジンを探す。


ゲン「ウッ!」


ゲンの呻き声のあと、床に倒れる音がした。


高橋「ゲン! どうした! ゲン」

田中「落ち着け、高橋!」
793 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:38:09.31 ID:ymR8HEsBO


平沢が麻酔銃に換えのダートを装填しているあいだ、背後の若い黒服が高橋に狙いをつけた。


高橋「ゲン、どこだ!」


言葉を切った瞬間に麻酔ダートが撃ち込まれた。ごうごうと響く送風音で田中は高橋が倒れたことに気づかない。


田中「こんなことになってるのはこの部屋だけだ! なんとか出口へ……」


田中のすぐ眼の前に麻酔銃の銃口があった。

平沢が引金を引く。

麻酔ダートが首に突き刺さる。

田中は意識を失い、床に倒れる。

黒服たちは麻酔銃を構えながら、意識を失った田中以下三名の亜人を見下ろす。

そして、平沢が無線で告げる。


『クリア』


イヤホンを指で押さえながら、永井はその声をしっかりと聞き取った。


ーー
ーー
ーー
794 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:39:05.48 ID:ymR8HEsBO

「クリア」という声がコイル型イヤホンから聞こえたとき、アナスタシアにはその言葉が何を意味するのかすぐにはわからなかった。少ししてビルに侵入してきた田中たちがやっつけられたのだと思い当たった。

アナスタシアが正解に思い当たったのと同時にスマートフォンがブルブルと振動した。洋式トイレの蓋の上に置いていたのでびっくりするような大きな音が婦人用トイレに鳴り響いた。アナスタシアはビクッと肩を震わせ、そのときの動作によって人感センサーが働き、トイレの照明がパッと光った。

メールは永井から送られてきたものだった。本日四通目のメールの文面には、田中以下三名の無力化を確認、佐藤はいまだ確認できず、引き続き待機、との指示が書かれていた。

アナスタシアは洋式トイレの蓋の上にスマートフォンを置き、無線機の横に並べた。トイレットペーパーを敷いた場所に尻を置き直し、ふたたび仕切り壁に背中を預ける。両膝を合わせて抱え込むようにして手を組むと、そこに左頬を置いて無線機とスマートフォンを眺めた。

ウィッグの前髪が垂れ落ちてきた。視界に入り込んできた黒髪を直そうとしたとき、照明が自動で消え、暗闇が戻ってきた。アナスタシアはくすぐったさにむず痒い思いをしたが、身を隠していることを考えるとまた明かりを点けることはためらわれた。結局、ウィッグの毛はそのままにしておいた。
795 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:40:09.19 ID:ymR8HEsBO

アナスタシアはいま黒のウィッグと茶色のカラーコンタクトを付け、ウィッグの色と同じ黒のパンツスーツに身を包んでいる。その姿は百六十五センチという高身長も相まって、キャリアウーマンのように見えるが、足元はレディースの革靴ではなく多少の使用感がある白いスニーカーだった。

火災警報によってセキュリティ・サーバー室の占拠を悟った永井は一通目のメールを送信し、アナスタシアにビル内に入るよう指示した。そのときのアナスタシアは自転車便のメッセンジャーに扮した格好をしていた。変装の精度がどのようなものか判然とせず、アナスタシアはこれまでの人生のなかで最も速く心臓をドキドキさせながらビルへと向かった。十五歳の子どもが隠し事をしたまま、たくさんの大人がいる場所に忍び込むというのだから、当たり前ともいえる反応だった。

アナスタシアの激しい緊張と不安をよそに、検問は難なく通過できた。

アナスタシアの存在はその身元こそ明かされていなかったものの、フォージ安全ビルでの要撃作戦に参加するにあたって、永井は戸崎に協力者がいることを言及していた。 ──同時にそれは戸崎への牽制として機能した。永井は佐藤拘束の報酬として偽の身分と捕獲対象からの除外を要求し、万が一果たされなかった場合、戸崎の婚約者は協力者のIBMによって殺害されることになると脅迫していた。もちろん、アナスタシアはこのことを知らない。── 戸崎は永井の脅迫を受け止めつつ、作戦の成功率を少しでも上げるため、協力者がビル内に入り込めるよう手筈を整えた。

アナスタシアはメールに従って八階まで上がると、その階にいた女性社員から配達物を受け取った。それから九階に上がり、照明が消えていることを確認すると、すばやくトイレの中に入り一番奥の個室へ向かった。鏡の前を通り過ぎる際、アナスタシアは自分の姿を一瞬だけ認めた。その一瞬で、黒髪に茶色の眼をした、若いというより少女にしか見えないメッセンジャーは明らかに場違いだと思い知らされた。
796 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:41:08.68 ID:ymR8HEsBO

個室の戸を閉め、肩にかけた大きめのメッセンジャーバックから小さく折り畳んだジャケットとスラックスを取り出して、着替える。パンツスーツとメッセンジャーの格好を比べ、とりあえずいまの姿の方が多少はましだと結論づける。アナスタシアは配達物の封を開け、中身を確認する。無線機と使用法と周波数が書かれたメモがあった。アナスタシアはメモに従って無線機の電源をオンにした。

コイル型イヤホンを左耳に入れた途端、野太い焦燥が色濃く混じった叫びが耳を貫いた。一階の検問ゲートを武装した亜人三人が突破し、ビルに侵入したと言うのだ。

無線を聞いたアナスタシアの全身が緊張で強張る。

そのとき、身体の麻痺を解くための如くジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが振動した。永井から見計らったように二通目のメールが届いた。指示があるまで待機との厳命。三通目のメールは、アナスタシアの聴覚が微かではあるが遠くで鳴る銃声を、アナスタシアのいる階で轟いたものだとわかるくらいの音量で捉えたときだった。内容は二通目と同様で、命令があるまで絶対に動くなと強い口調が聞こえてくるような書き方がされてあった。
797 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:42:31.52 ID:ymR8HEsBO

この戦いにおいて、自分への期待が高くない ─それどころか、ほとんどない! ── ことはわかっていた。というのも、永井はリスクも手順も最小限の作戦を打ち立てていて、アナスタシアの役目といえば、せいぜい不測の事態が起きた場合にIBMで支援を行うことくらいだったからだ。活躍どころか、働きすらないかもしれないのだ。参戦を通告してから作戦の詳細を知らされるまでのあいだ、アナスタシアには不安と緊張の感情が心の中心に宙吊りになって存在していた。他者の安全、自分の正体の露見、十分な働きができるかどうか……ネガティブな未来が浮かぶたびに、美波やプロダクションのの仲間や学校の友だち(死んでしまった友たちも含めて)のことをイメージとして思い浮かべて戦いの意志を強固にし直していった。だから、永井から役目はほとんどないだろうと知らされたとき、戸惑い、もっと言えば後ろめたさすらおぼえた。密閉された空間に敵を誘い込み、IBM粒子を利用して視界を奪う。永井の作戦が効果的であるのは納得できたし、被害が出る可能性も最小限まで抑えられている点は安堵したほどだった。 でも、とアナスタシアは疑義を浮かべた。亜人であるわたしが、隠れているだけでいいの? 銃を撃ったりはできないとしても、盾になることはできるかもしれないのに……(この時点ではアナスタシアは警備員のことまでは想定していなかった。永井が意図的にその事実を隠したのは、アナスタシアが佐藤と戦う理由はナイーブなものだと予想していたからだった。かすかな銃声が耳に届いたとき、アナスタシアの意識に警備員の存在がはじめて浮上し、その欠落にいままで気づいていなかった自分に愕然とした。すぐに腰を上げたが、銃声はすでにはるか遠くに遠ざかっていた……研究所で見た凍結されていない生々しい滑り気を持った虐殺のイメージが蘇ってきた……「クリア」という声がイヤホンから聞こえ、アナスタシアは現実に戻ってきた)。
798 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:43:22.94 ID:ymR8HEsBO

永井はこの考えを、少年漫画の読みすぎだ、と黒い粒子の狼煙による返答で一蹴したが、銃弾の前に生の肉体を晒してたたかうといういざというときの心構えが完全に退けられることはなかった。この心構えは警備員の死に気づいてから具体的な細部を持ったイメージへと変わったが、いまでは空想の域にまで入り込んでいた。肉体に穿たれた孔と流れ出す血は勇者の赤いバッヂとなり勇敢さをたたえる、こうした空想は輪郭があいまいで現実的な苦痛から遠く隔たっていることをアナスタシアは自覚せざるをえなかった。空想は退けられた。だが、後ろめたさは残していた。永井に言わせれば後ろめたさを抱くこと自体見当はずれの感傷に過ぎないのだが、アナスタシアはそうとは思わない。死なないからこそ、死を他人事にしてはいけないのだと、アナスタシアは考えていた。

そしていま、暗闇の中に浮かび上がった四通目のメールを見つめながら、アナスタシアは命令通りに待機の時間の只中にいた。センサーが反応しないように最小限動きだけでスマートフォンや無線機を操作しながら、ただひたすら、佐藤が現れるまで待つ。後ろめたさを錘にしながら。


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799 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:46:06.03 ID:ymR8HEsBO

コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぐと黒い液体がにわかに泡立った。淹れたてで熱々のコーヒーから湯気があがり、カップの内側を水滴で濡らした。ほんのちいさな一ミリくらいの泡がはじけ、コーヒーの水面が完全に静まり黒い円形として停止すると、佐藤はソーサーにのせたカップを持ち上げ、キッチンから休憩室に戻っていった。

アジトの休憩室は雑然としていた。整理整頓はおざなりで、歩くスペースは確保してあったが、パンの袋やコピー用紙などが隅のほうに放置されたままになっていた。

休憩室を通り過ぎ、ゲーム機のある部屋に戻ろうとしていた佐藤は長机の上に置かれた携帯電話に留守番メッセージが新着していることに気がついた。佐藤はさして考えもせず携帯電話を手にとると、メッセージを再生した。


『佐藤さん!』


奥山の声。焦燥で大声になっている。


『なぜか永井圭がいる!』


メッセージはそのあともすこし残っていたが、佐藤はそれを聞かず携帯電話とカップを机に置いた。カップを置いたとき、中身が跳ね溢れそうになった。コーヒーの波間はやがて落ち着き、そして黒い液体が揺らされることはもう二度となかった。


ーー
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ーー
800 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:47:02.77 ID:ymR8HEsBO
今日はここまで。

なかなか思うように進まない…
801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/27(日) 15:21:29.42 ID:lGUhnR6s0

アーニャ関連には期待している
802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 02:09:25.72 ID:Zvp9ZrOr0
漫画と変わらないところは飛ばしても良いんじゃないか?
803 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:13:43.74 ID:6D6vTS+OO
亜人捕獲の報せを受けフォージ安全ビルに赴いた刑事はビル前に集結し騒ぎ立てているマスコミの姿を見て、既視感とともにうんざりした気分を味わった。

永井圭が亜人だと発覚したときの美城プロダクションの前もこのような光景だった。報道陣がわらわらとつめかけ、現場整理にあたっていたこの刑事は身体を押しつけられてはフラッシュを焚かれ罵声を浴びせられ、こちらもマスコミを押し返し罵声を浴びせ返した。プロダクションに侵入しようとした記者をひとりとっ捕まえたがそのせいで左小指の爪が割れたし、あとからそいつに訴えられた(とうぜん、特別な説得をもって訴えはすぐに撤回してもらった)。

パトカーから降りてフォージ安全へと歩いてるいくうちに、この刑事は自分が抱えているうんざりした気持ちはマスコミのせいではなく、この会社自体にあるのだと認めざるを得なくなった。社長の甲斐はもともと警察批判で有名で、ここ最近は業績を上げるためか──実際上がっているらしい──舌鋒をさらに鋭くしている。しかも、亜人のテロには警察力より民間セキュリティのほうが有効だということを今日証明してしまったのだ。

彼はフォージ安全の社員にどんな対応されるのかと考えると気が重くなった。最近見たドラマの大企業の幹部のように下請け会社の社員にとる尊大で居丈高な態度でもとるのだろうか……。
804 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:15:05.89 ID:6D6vTS+OO
undefined
805 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:16:15.33 ID:6D6vTS+OO

正面入口で刑事を待ち受けていたのは三十代前半の男性社員だった。警備員二人を従え、刑事にむかって慇懃に挨拶すると一階エントランスへと招き入れた。そんなことはないとは思っていたが、男性社員にこちらを見下すような態度は感じられなかった。刑事は独り合点かつフィクショナルな思い込みに心持ちをすこし悪くした。

入り口を通り、エントランスに足を踏み入れる。眼に飛び込んできたのは、さながら災害が起きた直後の病院のような光景だった。エントランスに負傷者が集められ、床に座るか仰向けに寝かされ、傷口を抑えながら痛みに耐え、あるいは呻き声を洩らしている。タオルやハンカチ、包帯、シャツ、ジャケット、ネクタイ、社員証などが赤く染まり、付き添いの者が傷口を抑えている場合もある。救急隊員が駆け寄って、慎重に傷口を覆う手を剥がしながら処置を行っていく。同じ動作を行なっている私服姿の者もいて、きびきびとした的確な動作や救急隊員に指示している姿から見てボランティアでかけつけてきた医師なのだろう。かれらの奮闘を示す張り上げた声と苦痛に歪んだ声がエントランスを満たしている。
806 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:17:02.02 ID:6D6vTS+OO

刑事という職業をしていても、生存者が多数いる現場に立ち会うことはほとんど経験したことがなかった。複数の死傷者が出た通り魔事件を担当したことはあったが、現場に到着したときには負傷者は既に病院に搬送されていて、死亡したスズキという若い女性も同様だった。だから、このような光景はテレビ画面越しに見るのが常だと記憶していた。そこではヨーロッパがテロが起きたときの夜の光景が警察車両の青い光が警官が羽織る蛍光色のジャンパーと埃まみれか血だらけの怪我人たちを記号的に記憶されている。国名は置き換え可能であり、ジャンパーの色も回転灯の色もべつの色彩に置き換え可能な記号にすぎない。黒尽くめの特殊部隊の様相など、匿名性がきわまって置き換えても置き換えても区別がつかない。眼球に映る現在と記憶のなかの映像とのちがいはひと言でいえばリアリティの有無であるが、それは視野が三次元的な立体感を獲得しているか否かが問題なのではなく、眼の前で生起している/しつつあるできごとの総体が認識の受容範囲の限界を越えようとしてるのが問題で、できごとのリアリティはたやすく人間を自失や失語の状態に持ち込む。置き換えることなどとうてい不可能なことなのだと思い知らされる。とはいえ、テロ自体はもう収束しているのだから、あまりおおきく動揺するのも……
807 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:18:15.23 ID:6D6vTS+OO

刑事を出迎えた社員はつかつかと淀みなく負傷者のあいだを歩いて行った。歩みがあまりにスムーズなので、あらかじめ彼が歩くところには誰も座らせたり寝かさないようにと指示がされているみたいだった。その様子を見た刑事は先ほどとは別種の居心地の悪さを感じた。

防犯シャッターのところまでやってきた。そこにシートを被せられた遺体が何体も並べられていた。何度も見てきた光景だが、これほどの数を一度に視野に収めるのは初めてだった。


「防犯シャッターはまだ開かないのか?」


刑事はシートのふくらみから眼をはずし、遺体が並べられているのとは反対側の床に視線をやりながら言った。


「ウイルス攻撃の影響とのことです。順次復旧するはずです」


刑事に応えた社員のしゃべり方は平坦そのものだった。感情めいたものをいっさい見せず刑事に正対しその顔を見つめている。
808 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:19:04.22 ID:6D6vTS+OO


「亜人はしっかり拘束できてるのか?」

「もちろんです」


さきほどと変わらない平坦な声でフォージ安全の社員は言い切った。


「現在ビル内の仮眠室にて麻酔医の資格を持った研究員のもと、厳重に隔離しています。シャッターが開き護送車が到着し次第受け渡しできます」

「けが人の搬送が優先だ。中の社員の帰宅にはどれくらいかかる?」

「かかりません」


淀みない返答をうけた刑事の表情が面食らったように固まった。音声として聴き取れた言葉の意味がある汲み取れなかったのだ。


「被害のあった区画以外は通常営業を続けます。それが社長の方針なので」


面食らったままの刑事にむかって、フォージ安全の社員はことなげもなくそう告げた。


ーー
ーー
ーー


809 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:00.99 ID:6D6vTS+OO

機械室に人が戻ってきて、かれらはのびをしてからめいめい作業を再開し始めた。さまざまな種類の機械ががなり立てる騒音は耳栓がほしくなるくらいうるさく、機械や張り巡らされているダクト類の表面を微振動させるほどだった。天井のすぐ近くのダクトにもかすかな振動は伝わっていて、そこに寝転がって身を隠している永井と中野の後頭部や背中に鬱陶しい感覚を送っている。


中野「平沢さんたち、みんな無事だってよ。よかったな」


中野が左に顔を向け、上を見上げたままの永井に言った。ダクトに積もり積もった埃はエアホースから噴射された空気できれいに吹き払われていたので中野は遠慮なくおおきく挙動した。


永井「いいから、そういうの」


永井は顔を向けずとも中野の無遠慮さを感じ取っていて、ちいさく顔をしかめながらうんざりした口調で応えた。


中野「いやほんとすげえって。みんなの安全も考えて」

永井「犠牲者は出ると思ってたよ」

中野「余裕だったじゃん」

永井「佐藤がいなかったからな」


気の緩んだ中野を引き締めるかのように永井は口を開き、きっぱりした口調で言う。


永井「本番はこれからだ」

810 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:49.88 ID:6D6vTS+OO

さきほど戸崎と会話したとき、永井は佐藤が今回の暗殺に不参加だった理由をたった一言で簡潔に述べた。うすうす予感していた嫌な可能性が実現してしまったときに出す、口ごもりと運命に対する呆れ果てた感情を交えた声音で永井は「あの人、飽きてる」と戸崎に言った。
佐藤はその本名をサミュエル・T・オーウェンといい、イングランド系の父親と中国系の母親とのあいだ生まれたアメリカ人であることがすでに戸崎たちには判明している。一九六九年、サンディエゴの新兵訓練場でサミュエル・T・オーウェンに出会った元海兵隊員カーター氏が語るところによると、ポーカーフェイスとの呼び名を持っていたサミュエルは徴兵された若者たちのなかでも際立って若く見えたとそうだ。

「アジア系の顔つきというのも理由だが、それ以前に彼は年齢を偽って入隊していた」とカーター氏は言った。つづけて彼は「身長一七三程度の小柄な男がココでやっていけるのか?」とサミュエルに対して最初に抱いた印象を戸崎に語った。

「犯罪者の片鱗などは?」という戸崎の問いかけにカーター氏は「なかった」と即答し、戸崎がさらに質問を続ける前に「というより、かれは二週間で群を去った」と思い出にも満たない当時の短いできごとを回想した。本格的な戦闘訓練が始まった頃、担当教官が一言、ポーカーフェイスは重病のため使い物にならなくなったと告げた。
811 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:21:44.64 ID:6D6vTS+OO

カーター氏の次の回想はベトナム戦争終結後、米軍の完全撤退が完了してから一年が過ぎた、一九七六年のことだ。シアトルの自宅にいた彼に軍から一本の電話がかかってきた。アメリカ兵パイロット一名がいまだベトナム国内に捕虜として囚われているとの情報を入手した米軍は、とある理由からカーター氏をサミュエルが所属していた特殊部隊「チーム」に同行させ、ベトナムの奥地まで送り込んだ。そこは、戦争終結後も戦いはまだ続くと信じていた、ベトコンのなかでもとくに狂信的な集団百人ほどが潜伏している地域だった。危険極まりない地域だったが、そこへ侵入してゆく「チーム」の隠密行動は芸術的だった。身体の輪郭を暗闇に溶け込ませるすべを持ち、葉っぱひとつ揺らさずにジャングルを潜り抜けるすべを持ち、月明かりに立つ歩哨を音も無く暗闇に引きずり込み永遠に寝かせるすべを持っていた。「チーム」の技能をまの当たりにし、また自らも同様の行動(みずから技能をはるかに越えた行動をとれたのは、「チーム」の、とりわけサミュエルのおかげといってよかった。)をとったカーター氏は、得も言われぬ興奮と感動が胸に満ちていた。厳重な警備を瞬く間に抜け、サミュエルら「チーム」三名とカーター氏は捕虜を救出。カーター氏は捕虜となっていた弟を抱きしめると、弟もまたか細くなってしまった腕で兄を抱きしめた。これには「チーム」のメンバー二人も微笑みを浮かべた。あとはピックアップポイントまで後退すればそれで任務はおわる。

カーター氏は尊敬のまなざしを向けながら、サミュエルに脱出をうながした。カーター氏はにわかに興奮していた。またあの素晴らしい「チーム」の技能を眼にできる、その動きに加わり、弟とともに故郷に帰れる。
812 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:22:42.43 ID:6D6vTS+OO

サミュエルが、拳銃を抜き取り、銃口を地面に向けた。カーター氏は突然の行動にぽかんとし、「チーム」の二人も意味不明な行動に戸惑っている。二人はサミュエルの指が引き金にかかっているのを気にしていた。「チーム」のふたりと違って、カーター氏はサミュエルの表情を見ていた、いつものポーカーフェイスが、別の表情に変わるのをはじめて目撃した。


「プレイボール」


サミュエルは笑顔を浮かべて、引き金を引いた。

一発の銃弾が、百人の敵を呼びよせた。おびただしい数の敵との戦闘。まるでジャングルを形成する植物と熱帯の気候と闇が敵意を剥き出しにしてきたかのよう。戦闘中、サミュエルは笑みを絶やすことはなかった。茂みから飛び出してきたベトコンに銃剣で腹部を刺されても、お礼のように笑いながら水平に寝かしたナイフを心臓に送り返す。手榴弾がジープの荷台に転がり、炸裂しサミュエルの右脚を吹き飛ばす、「チーム」のひとりの顔面が半分になり、もうひとりの方は腹から多量の出血。カーター氏は耳鳴りに苦しみ、現実が遠のいていく感覚に襲われる。

認識が戻り、現実感を取り戻したとき、カーター氏は自分が自軍のヘリに乗っていることに気づいた。しばらくは茫然としていた。浮遊感をおぼえてからだいぶ経って安堵を覚え、カーター氏は弟の無事を確認しようと顔をあげた。サミュエルがいた。

もうその顔に“表情”はなく、その無表情は右脚が失われたことを惜しむというより、右脚が失われた状況が失われたことを惜しんでいるように見えた。

帰国後、サミュエル・T・オーウェンは軍法会議にかけられ不名誉除隊となる。
813 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:24:08.79 ID:6D6vTS+OO

本来ならそこで悪夢は終わるはずだった。あるいは、カーター氏の個人的な悪夢としてときおり思い出される程度のものとなるはずだった。

「だが、神は彼に……第二の戦場を与えてしまったのだ」カーター氏は消え去るような声でつぶやいた。

「亜人」と、戸崎が語り継いだ。

「もうその戦いに終わりなどない」


そう言ってカーター氏は述懐を終了した。

カーター氏の述懐は永井が抱いていたある予感を再確認させる類の話だった。つまり佐藤はたのしいから殺しをしているという予感、つまりたのしくなければ殺しをしない、そしていま佐藤はたのしくなくなってきている。

佐藤のきわめてシンプルな個人的感情へ対応しなければならないなんて。永井はみずからの合理性を放棄したくなった。
814 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:25:13.04 ID:6D6vTS+OO

中野「佐藤にはどんな作戦でいくんだ?」


中野がまた首を横にむけ訊いた。


永井「さっきと同じ作戦でいく。だからまだこの部屋にいるんだよ」

中野「大丈夫なのか? おんなじで」

永井「注射器は百五十年かたちが変わらない。それがベストだからだ」


さも当たり前のように永井は言う。


永井「だいいち佐藤は僕らの介入は知ってても作戦の中身までは知らない。だが問題もひとつ。敵の戦力を削ってくれる警備員が田中との戦いで減ってしまったこと。だから一階のシャッターを開き、実況見分に来た大勢の人間を招き入れる」


永井の口調は淡々としていて、すくなくとも永井にとって問題はたいしたことはないと言いたげだった。


永井「こうやって警察官を警備員の代用品にするんだ」

中野「どういう意味だよ」

永井「言ってるだろ。他人の安全なんか気にしないって」


永井はこのとき、はじめて視線を中野にむけた。中野は身体を起こして永井の顔を見下ろすかたちをとりながら、疑問を口にした。


中野「注射器がどうのって……どういうこと?」
815 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:26:43.84 ID:6D6vTS+OO

一階ではシャッターが開けられ、永井の作戦通りに多くの警察官がビル内に入ってきた。

戸崎はセキュリティ・サーバー室から田中の侵攻ルートを説明して、警官を各階に配置していった。

救急隊員が怪我人を見、手当が済んだ者から一階へと運んでいく。警官のほうは聞き取りをおこない、田中たちの足取りを確認する作業に没頭していた。

無線からは業務的な報告が聞こえてくるだけで、佐藤が現れる気配はまだなかった。

中野は無線の雑音と警官の口ごもりや言い直しが混じる報告を耳で受け止めながら、また永井に質問した。


中野「永井、さっき敵はまずセキュリティ・サーバー室を狙うって言ってたよな。佐藤一人じゃ侵入すらできねえんじゃねーの?」

永井「こちらでシャッターを開けっぱなしにしておく。不審がられたっていい。罠だと知っててテーマパークに飛び込んでくるんだから」


ふと永井が言葉を切った。


永井「正直、佐藤がどんな作戦で来るのかまったくわからない」


声の調子が低くなり、それとともに永井の表情が懸念に眉をよせるのを中野は見た。


永井「だが物理的に入口はひとつ、絶対、田中達とおなじ順路を辿るほかないんだ。それだけわかってれば十分! やつは怪物でもなんでもない、死なないだけのただの人間だ!」


永井は腕組みしている手に力を入れていた。指にかかる握力のせいか、声も少し荒っぽい。言い終わったあと、力を抜き、拳になっている手をゆるめる。そして、自分自身に言い聞かせるようにちいさくつぶやいた。


永井「だれがビビるかよ」
816 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:27:34.74 ID:6D6vTS+OO

アナスタシアは無線越しに永井の声を聞いていた。永井の口から無意識のうちに溢れ出た不安の感情はアナスタシアをむしろ納得の気持ちにさせた。それは永井のつぶやきがアナスタシアの内面の心情と一致するからだったが、それ以上に責任感と重圧の間隙から感情が垣間見えるという心理的葛藤のあり方に姉と弟とのつながりを見出したからだった。

アナスタシアはいまになってようやく、ここにいる明確な動機を掴んだ気がした。


アナスタシア「だれが、ビビるかよ」


アナスタシアは永井と同じ言葉をゆっくり口にした。恐怖を否定するためでなく、恐怖と戦う覚悟をするために。


ーー
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817 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:28:26.96 ID:6D6vTS+OO

黒服たちはめいめい装備を点検し、ソファやキャビネットを応接室の入り口付近に縦に配置し身を隠す壁代わりにした。

準備が終わり、静かな待機の時間がまた戻ってきた。

真鍋はふと思いつめた表情を浮かべ、隣の平沢に話しかけた。


真鍋「平沢さん、今のうち返しておくよ」


真鍋は拳銃を取り出し、平沢に渡したい。


真鍋「あんたから貰った銃だ」


ベレッタM92F。真鍋が言った通り、平沢が譲渡したもので、平沢がその手でこの拳銃を持ってからかなりの時間が過ぎていた。

平沢はベレッタの銃口を床に下げ、真鍋を見つめた。

真鍋が口を開いた。

818 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:29:16.34 ID:6D6vTS+OO

真鍋「今回の仕事が終わったら、この稼業から足を洗おうと思ってる」

黒服2「やめてどうする、真鍋」


年嵩の黒服が茶化すように話しに入ってきた。


真鍋「伊豆にいい物件があってな、そこでのんびりするよ」

黒服2「隠居ってやつか」

真鍋「こっちが死なねえように敵を殺す。それだけをやってきたってえのに、死なねえやつなんてのに出てこられちゃあよぁ……」


真鍋は口調には倦んだものが感じられた。十数年続けてきた仕事でときおり去来しては振り払ってきた考えに追いつかれて観念したかのように真鍋はつぶやいた。


真鍋「潮時だろ」

黒服2「おれは好きでやってんだ」


年嵩の黒服は真鍋の諦観を受けても即座に自分の意志を口にした。
819 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:30:08.46 ID:6D6vTS+OO

黒服2「平和なんてハリボテの上で暮らすなんざ、いまさら気乗りしねえからな。なあ?」

黒服1「金が貰えればなんでもいい」


若い黒服は文庫本からからいちども眼を逸らさず、我関せずの態度のまま返事をした。読んでいたのはウラジミール・ナボコフ『青白い炎』で、開いてあったページにはこんなことが書かれていた。


── 三段論法。他人は死ぬ。しかしぼくは
他人ではない。ゆえにぼくは死なない。

[註釈]これは少年を面白がらせるかもしれない。年を取ってからわれわれは自分たちがその「他人」であることを知るのである。


年嵩の黒服は年下の仲間の態度をかるく笑い飛ばしながら、また何事かを話しかけた。

真鍋は仲間の話し声を耳にしながら、感慨深げに口を開いた。


真鍋「湾岸でも……そのあとも……平沢さん、あんたにはいろいろお世話になったなあ」


平沢はただ黙って、真鍋の言葉に耳を傾けていた。


ーー
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820 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:01.22 ID:6D6vTS+OO

佐藤「ちゃんと整理してよー……田中君たち……」


食べ残しや食べかけが乱雑に詰め込まれた冷蔵庫は、肥満体を維持しようとする健啖家の胃の中身のようだった。佐藤は冷蔵庫のまえでしゃがみこみ、中を覗きこんだ。ソースや脂がこびりついた食品のパッケージデザインが幾重にも折り重なって浅薄な資本主義批判が主題の現代アートもどきの森とでもいうべき光景をかたちづくっている。実際の胃のように蠕動運動と攪拌運動がこの冷蔵庫の中の光景を蠢かしていたら、宇宙的な混沌の最中にいるように感じられただろうが、冷蔵庫は冷蔵庫でしかなく、どれだけ乱雑でも手を加えないかぎり食べ物が位置を変えることはなかったので、しばらくして佐藤はおあつらえ向きのものを見つけた。

佐藤は冷凍バイク便に電話で配達を依頼すると揚げ手羽先のレシピをプリントアウトし、あとひとつ手羽先をつくるのに必要な調理器具と調味料を用意した。食材の用意はいまからする。

佐藤は鍋に油を入れ、コンロに火をかけた。油の温度が揚げ物に適したことを確認すると、中華包丁を握り、まな板の上に置いた自分の左手首に勢いよく振り下ろした。
821 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:53.84 ID:6D6vTS+OO

右手で左手首を掴み、油の中にいれる。人間の手首を揚げているにもかかわらずジューっという音だけはおいしそうだった。片手での調理ははじめてだったが、揚げ上がりはうまくいった。タレを絡めるとほかの手羽先と見た目はあまり変わらない。

ビニールパックに手首と手羽先を詰め終わったちょうどそのとき、バイク便がやってきた。

佐藤は包帯を巻いた左手をポケットに入れて隠しながら配達物をバイク便のドライバーに手渡した。

バイク便が行った後、佐藤は近くの材木工場へ自転車で向かった。帰路を考えると、自動車を使うわけにはいかない。

ズボンのポケットに拳銃と左手を忍ばせながら自転車を漕いで行く。夕暮れから夜へと変わる頃。影が道路にのび、車輪がカラカラと音をたてながら回った。

豊郷林業の駐車場に停まっている車は二台しかなかった。佐藤は自転車を乗り捨てると、工場へ歩いていった。

工場の前で二人の人間がなにかを話している。現場の作業員とおぼしき帽子を被った男が木製のパレットを事務所の人間らしい若い社員に見せて、何事かを説明していた。

佐藤は帽子を被った作業員を撃った。

もう一人の社員が同僚が即死したことも理解しないうちに、佐藤はその社員に話しかけた。


佐藤「ある機械を貸してくれないかな?」


ーー
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822 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:32:52.34 ID:6D6vTS+OO

「あのー」


各階の様子を無線で聴きながら被害状況を整理してきた刑事にのんきな呼びかけがかかった。


「配達なんすけど」

「はあ? 何の」

「食べ物っす」


バイク便のドライバーは規制線のテープ越しに刑事に配達物を手渡した。


「サイン貰わないと帰れないんすよ」


刑事が手渡された紙袋を開けると、ビニールパックが入っていて、取り出して確認してみると冷凍された揚げ鳥がパック詰めされていた。


「こんなときに……ここの社員はどうかしてるな」


ビニールパックにはラベルが貼ってあり、「手料理おとどけねっと」という社名が行書体で印刷されていた。ラベルの右上には手書きのスマイルマーク、左下には小さな文字で「“余分な手”を一切加えず、まごころを込めて……」というメッセージが添えられている。


「ちょっと! うちの荷物ですよ」


刑事をエントランスに案内したフォージ安全の社員が駆け寄ってきた。社員ら刑事からの許可も貰わないうちに荷物を掴み取り、紙袋にビニールパックを戻すと連れ立ってきた警備員に手渡した。


「爆発するかもよ」

「警察署より厳重な検査を経て搬入します。ご安心を」


揶揄を嫌味で返された刑事は「けっ」と、ちいさく悪態をついた。
フォージ安全の社員が言ったとおり、配達物は即座にX線検査にかけられた。モニターには揚げ鳥の骨しか映らず、不審なものは何一つ見えなかった。


「異常なし」


警備員のその言葉とともに、紙袋は十階にある機械室へと運ばれていった。



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823 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:01.20 ID:6D6vTS+OO

中野「永井、なんか食べもの持ってねえ?」


永井は考え深げな様子で中野を無視した。

中野は永井が呼びかけに応じないのに慣れてしまったので、どうにかして空腹を誤魔化す方法を自分で考えることにした。胃の中には胃液があることを思い出し、それを意識することで空腹を感じずに済むのではないかと思いついた中野は胃液がたっぷり分泌されているところを想像して、空腹によるキュっーとする痛みににた感覚が胃液のせいではないかと思い始めた。

中野をよそに永井はじっと腕組みして動かないでいる。そのとき、戸崎が無線越しに呼びかけてきた。


『永井、一時間以上待ってるぞ。仕切りなおすべきじゃないか?』


応えはなかったが、戸崎は永井が考えを巡らせている気配を感じた。熟考になりそうな気配、戸崎は別の角度から疑問をぶつけることにした。


『さっきは聞く時間がなかったが……おまえの介入を佐藤が知って楽しいことが待ってるなんて思うのか? 佐藤にとっておまえは何でもない』


永井は、戸崎の疑問に対し、しずかな声で、思い出を語るときのように話し出した。


824 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:48.41 ID:6D6vTS+OO

永井「前、佐藤さんと記憶が交差したとき、一瞬だけど僕は、動悸が治り汗が引いた……たぶんあのとき、記憶だけじゃなく、精神状態も交差したんです。佐藤に僕の恐怖が伝わり、僕には佐藤の冷静さが……いや、冷静さだけじゃない、高揚感も」


感覚的に理解していたことを言葉にして語り直したとき、佐藤のパーソナリティがくっきりとした輪郭をともなって見えてきたように永井は感じていた。


永井「あのひとはこんなガキの一挙手一投足を気に入ってた……理解してくださいなんて、無茶なことは言いません」


そして、永井は確信を込めて言った。


永井「これは、僕と佐藤にしかわからない」


すこしのあいだ、沈黙が流れた。中野はまだ空腹に気を取られていて、唸るように息を吐いた。

戸崎は永井と佐藤のあいだに思った以上につながりがあること、そのつながりを永井が認め、告白した声の調子から永井の感情の機微が感じ取られ、自分でも予想しなかったことだが、そのことに感慨深い気持ちになっていた。

やがて、無線から戸崎の声が聞こえてきた。


『きみはいるべくしてここにいる気がしてきたよ』

永井「迷惑ですね」


すぐに返事をした永井の口調は、いつもと同じできっぱりしていた。


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825 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:36:21.01 ID:6D6vTS+OO

佐藤が案内された工場はメインとなる敷地中央の工場の南側にあり、トタン張りの壁に埃がこびりついた、老朽化した小さな作業場だった。

シャッターを閉め明かりをつけると、天井の照明が目的の機械を照らし出した。その機械は正面シャッターからいちばん奥まった場所に置いてあった。



「木材破砕機……丸太を五センチ四方のチップに砕きます」


機械を前にした佐藤に向かって震える声で社員が説明した。

真上にある照明のはたらきのせいもあって木材破砕機は舞台装置めいて見えた。スポットライトをあびて、クライマックスでの活躍をいまかいまかと期待しているようだ。


佐藤「そろそろかな。動かして」


壁時計を見た佐藤は、時刻がバイク便に電話したときに聞いた到着予定時刻を二十分ほど経過していることを確認すると、材木工場の社員に向かって指示を出した。震える指でなんとか起動スイッチを押し、カッタードラムの回転を最速に設定する。

佐藤は丸太をカッタードラムに送り込むためのベルトコンベアの両端に足を乗せた。


「なに……する気だ?」


佐藤の行動はたちまち結果を想像させ、材木工場の社員は堪えきれず、まさかという気持ちで訊いた。


佐藤「運が良ければめずらしいものが見れるよ、ミスター・スポック」


佐藤は社員の恐怖をよそに応えた。
826 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:37:03.65 ID:6D6vTS+OO

佐藤が破砕機と相対していたとき、フォージ安全の機械室に例の紙袋が届けられた。

紙袋を運んできた作業員が中身を見て、言った。


「なんか届いてるぞー。揚げ鳥だって」

「いいねえ、休憩にしよう。チンすりゃいいのか?」

「だれだ? 注文したの」


休憩室にした三人ともだれが注文したのかわからずじまいだったが、さほど気にもとめず、人数分の紙皿を用意して揚げ鳥を分けていった。
サスペンダー付きの工具ベルトを腰に巻いた作業員がひとりにつき三個ずつ、冷凍された揚げ鳥を皿にあけていく。最後に自分の分を皿にあけたとき、三つある揚げ鳥のうちのひとつが妙なかたちをしているのに気づいた。
827 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:39:42.79 ID:6D6vTS+OO

佐藤「亜人は最も大きな肉片を核に再生する」


ビニールパックからごろんと転がり出てきたひときわ大きな塊は、人間の左手首だった。


佐藤「転送だ」


佐藤が破砕機に飛び込んだ。

左手首が突然黒い粒子を噴出して舞い上がった。粒子は螺旋状に回転したかと思うと、たちまち血肉となって人体をかたちづくる。

距離を隔てた死と再生。A地点で死に、B地点で復活する。

転送を果たした佐藤は眼前の作業員の工具ベルトからドライバーを奪い取り、切っ先をこめかみに突き刺した。

佐藤が旅立ったあと、ひとり取り残されていた材木工場の社員は嘔吐し、床を汚した。がたがたと身体の震えが激しくなった。

カッタードラムの刃と受け刃が木材を挿入されたときと同じように人間を細かく砕いたのを見たのは一瞬だったが、破砕音は始めから終りまで聞いていた。

木材破砕機もまた振動を続けていた。排出口から吐き出された佐藤の血と肉片が床にぶちまけられている光景とあいまって、まるで悪いものをたべてしまったかのようだった。


ーー
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828 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:40:37.38 ID:6D6vTS+OO

機械音が鳴りわたっている空間に人間の声がかすかに混じったのを永井は聴き取った。


永井「聞こえたか!?」

中野「どうした永井」


永井の表情は眼を見開いたまま固まっていた。口もぽかんと開いたままになっている。ほんのわずかに聞き取られた人間の声は、永井の思考の方向をすべてそれについて向けさせた。それとは耳に届いた人間の声が悲鳴で、一階から上ってくるだろうと想定していた悲鳴が、同じ階から聞こえてきた原因と可能性についてだった。


永井「今、なにか……」

中野「何かの音はするだろ」

永井「だよな……いきなり侵入する方法なんか……な」


永井はひとつの可能性に思いあたった。


いや、そんなはずない……そんな方法……


永井は感情的な否定を心中でつぶやいていた。


だってそれは……普通の人間がやろうと思うような方法じゃない……


だが、思考のほうはこれまでの知識から論理を構築していて、それは十分な可能性を持っていた。
829 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:41:44.63 ID:6D6vTS+OO

永井「そんなはず……ない……」


永井は否定の言葉を口にしながら、天井パイプからぶら下がって、着地した。

着地したさいの膝を曲げたままの姿勢で顔を上げ、通路の先を見る。誰もいない。無人の空間のまま。通路の両端に配置された機械類がゴウンゴウンと作動音を響かせている。単純な文字通り機械的な音の繰り返し。だがその繰り返しは、しだいに人間の声が染み付いたかのような響きへと変貌していた。

それは永井の心象的な音的イメージに過ぎなかったが、機械類がたてる騒音とは別の種類の音を実際に永井は耳にした。

人間の足音。

通路の左側から人影が現れた。


佐藤「あっ、永井君」


永井と佐藤は同時に互いのことを認めた。佐藤は立ち止まって両手を広げ、言った。


佐藤「来ちゃった」


家に突然訪問してきた友人然とした身振り。右手に握ったドライバーから血が滴り落ちる。佐藤は作業用のつなぎとサスペンダー付きの工具ベルトを身につけていた。それらが奪いとったものであることは、染み込んだ血の跡を見れば一目瞭然だった。

830 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:42:27.79 ID:6D6vTS+OO

永井「佐藤さん、なんでそんな方法……できる……」


佐藤がほんとうに現実に存在しているのか、眼に見えている光景を信じきれない感情が渦巻くまま、永井は茫然と訊いた。


佐藤「社長室に直はさすがに無理そうだし、ここなら武器になりそうなものがありそうだし、それに……」

永井「死んだんだぞ!?」

佐藤「気にしないよ、私は」


佐藤はのんびりとした口調で応えた。

あまりの理解しがたさに永井の顔が歪んだ。

眼の前に立っているのはいくつもの矛盾が重なりあった幽霊ともいえる存在だった。肉体を持った幽霊。殺すために喜んで死んでいまも笑顔を浮かべている生きた幽霊。

永井はこれは何かの間違いではないかと思い始めていた。佐藤がここにいることではなく、自分がいてしまっていることが間違いだったのではと……


中野「佐藤オォ!」


根本的な理解の過ちを思い知って言葉を失っている永井の背後から中野の怒声がとんできた。


佐藤「きみは!」


佐藤はそこで言葉を切り、少し間をあけてから「だれだっけ?」ととぼけた返事をした。

831 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:43:37.40 ID:6D6vTS+OO

佐藤「でも意外だなあ。永井君が十階にいるなんて。どんな作戦なんだろう?」


中野への関心もそこそこに佐藤は興味深げに周囲を見回して、言った。

その発言を受け、わずかなりとも永井はショックから回復した。


永井 (こっちの思惑はバレてない!)


永井はすぐさま思考を働かせた。


(予想外の侵入だったが十階分とばしただけ、しかも非武装)(まだ作戦は生きてる)(あとはどうやって僕らをスルーさせ上に行かせるか)


現状認識と作戦の修正案の検討が同時的かつ無数におこなわれる。


佐藤「安心して」


佐藤は見守るようなおだやかな声で言った。周囲に彷徨わせていた視線を永井に戻し、宣言する。


佐藤「ルールは変えないよ。私はこのまま甲斐敬一と李奈緒美を暗殺しに行く」


永井の口の端が上向いた。好戦的ともいえる笑みを作り、同時にまだ焦燥の色もその表情に浮かんでいる。

佐藤の出現に戸崎たちも驚愕していた。モニターを見上げながら緊迫した眼で事態の推移を睨んでいると、突然警報が鳴り出した。

戸崎が無線機に飛びつき、叫んだ。


戸崎「永井! ガス漏れ警報が鳴ってるぞ!」


無線を聞いた永井の表情が固まる。視線は佐藤に固定され、佐藤の動き、佐藤の動きだけが空間から独立して唯一の運動体のように永井には見える。

佐藤の表情がかわる。にっこり笑って話し出す。

832 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:45:55.52 ID:6D6vTS+OO

佐藤「止めてみせてよ、永井君」

永井「戸崎さん! スプリンクラ……」


二箇所が切開されたガス管、そのすぐ近くにはタバコと包装フィルムとマッチで作られた手作りのおもちゃめいた発火装置な置いてあった。タバコの火が根元までじりじりと迫っている。火がマッチの薬頭に届く。火がぼっと膨らむ。空気を求め海から顔を出した哺乳動物のように、包装フィルムを破って外に出た。

次の瞬間、爆発が起きる。

伝播した火炎によって温度上昇が引き起こされ、室内の気体の体積が一気に膨張する。ガス管のある部屋は密閉されていて室内の圧力の急激な上昇が閉じられた空間を吹き飛ばした。閉鎖空間内から凄まじい勢いで高圧の気体が噴出する。熱と衝撃が波となって襲いかかり、永井と中野、そして佐藤も飲み込んでいった。

ビルが揺れる。

眼覚めた永井は腹部に熱を感じた。ネクタイに火が付き、半分ほど燃えてしまっている。中野に至ってはシャツ全体が燃えおちていて、ばたばたともんどりを打ちながら燃えるシャツを脱ぎ捨てた。

永井はネクタイの結び目を乱暴に引っ張った。


永井「戸崎さん! 被害は!?」

『その区画だけだ!』


周囲を見渡すと、あちこちに火が飛び散っている。床にはバラバラになった部品が無数にあり、機械類は激しく損傷し、パイプは歪曲している。

永井が嫌な予感に振り向く。そして叫ぶ。


永井「ファンが壊れた!」


急ぎ、戸崎に叫ぶ。


永井「佐藤はどこに!?」

『今探してる!』

永井「僕らがこの部屋で何をするかはわからない、だからすべて吹っ飛ばしたのか!?」

中野「黒い粒子を送れなくたって……平沢さんたちなら……」

永井「ダメだ、ゴリ押しじゃ!」


吸い溜めていた空気を一気に吐き出すような大声を永井は出した。

833 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:46:56.35 ID:6D6vTS+OO

永井「眼が見えなきゃいくら佐藤でも闘えないはず。だからリセットできない方法で資格を奪う……そこに勝機があった」

中野「じゃあなにをすればいい、永井」

永井「こっちは大勢、やつは一人でたいした武器もまだない。平沢さん! 無勢が多勢に挑むときのセオリーは!?」

『動向をつかまれないよう行動し、撹乱・奇襲を繰り返し徐々に戦力を削っていく。いわゆるゲリラ戦だ』

永井「だがいまセキュリティ・サーバー室はこっちの手中、佐藤の動きは掌握できる。警官・警備員を誘導、僕らも加勢し一気に強襲すれば……なんとか……」

中野「ゴリ押しじゃねえの!? それ」

永井「……戦略的ゴリ押しだ!」


永井は苦しげに押し通した。

さっきからスマートフォンが鳴っている。永井はいらだたしげに電話に出た。


『ケイ! ヴズルィーフ! ばくはつ!』

永井「まだ待機!」


乱暴に指示を出し、アナスタシアからの通話を一方的に切った。


下村「あ、いました!」

戸崎「永井! 佐藤がいたぞ! まだ同じ十階にいる」


セキュリティ・サーバー室のモニターに佐藤の姿が映った。戸崎は映像がどこから送信されているのかを確認し、無線に叫んだ。


『電力区画だ!』
834 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:04.49 ID:6D6vTS+OO


それを聞いた永井は一瞬で佐藤の目論見を悟った。


永井「ちがった……」


永井の思考が止まり、すべてが遅すぎたといいたげに暗くなった眼をある方向に向けた。


永井「ここを、爆破したのは……予備発電機を使用不能にするため……これで、主電源が落とされれば」


おそれを滲ませた声で永井がつぶやく。


永井「すべてがとまる」


突如、暗闇が降ってきた。あらゆる機械の作動がいきなり停止し、ビル全体が深い眠りについたかのように静まり返る。

空間を区分するあらゆる物の輪郭が暗闇に沈み、飛び散った小火も消えようとしている。


中野「永井」


中野が永井に呼びかける。その声は荒くなろうとする呼吸を抑えつけようとして非常にゆっくりと口から出た。


中野「つぎは?」


返事はなかった。


ーー
ーー
ーー

835 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:47.34 ID:6D6vTS+OO

九階にある人事部。ひとりの社員が後ろめたさと自己正当化に苛まれて自分のデスクから動けないでいる。名前は青島。この青島が今回の内通者だった。

田中たちが捕獲されたときから、青島の内心は異常な勢いで焦燥し出した。内通の露見、共犯扱い、有罪、懲役刑、出所後の人生など考えたくもない。

みずからの手引きによって大勢の犠牲者が出たことにもちろん後悔はした。だがそれもすぐに自己弁護に埋め立てられてしまった。
だって、脅されたんだ。協力しなきゃ絶対殺されていた。やつらは弱みを握っていたんだ。断れるわけがない。弱み、弱みさえなければ。こんなことはしなかったのに。働いた分だけ評価されてれば、弱みなんて持たなかったのに。ずっと働きづめで、疲弊ばかりして、未来なんかなくて、みじめになって……

窮地に立たされた青島は、いっそのこと自首してしまおうかと一瞬だけ考えたが、結局それはできもしないことを夢想してわずかな慰めを得るだけの無駄な行為に過ぎなかった。

爆発とそれに続く停電が彼の心をさらに引っ込ませ、すべてが終わるまで何もしないでいようと逃げの決心をした。

何もしないでいたら、何も起こらないかもしれない……青島は淡い逃避の希望を抱いた。

突然、口を塞がれた。強い力で?が締め付けられパニックになる。


IBM(佐藤)『きみだね? 例の内通者は』


背後から声がした。聞き覚えのある声……ぞわりと、背中に戦慄が走った。
836 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:50:34.67 ID:6D6vTS+OO

IBM(佐藤)『田中君たちが捕まってしまって、このままじゃいずれきみの関与がバレるよ。そこでコレだ』


背後の何者かがデスクの上に何か物を置いた。暗くてよくわからないが、黒い塊からアンテナのようなものが伸びている。


IBM(佐藤)『警察と警備員の無線機。これで嘘の、私の位置情報を流し続けて欲しい』


口を塞いでいた手が青島から離れた。手が闇の中に退いていく。その際、手は青島の?にメッセージを残していった。


IBM(佐藤)『じゃあ、お互いがんばろう』


声が聞こえなくなってしばらく、青島は?の切り傷から血を流したままにしていた。詰めで引っ掻かれたような薄い切り傷。デスクには二個の無線機が紛れもなく存在している。

青島の内心は拒否の気持ちでいっぱいだった。それをやってしまったら、もう言い訳できない。完全な共犯だ。そんなことになったら……
青島は気づいた。すでにもう、そうなのだ。後戻りできるタイミングはとっくに過ぎ去っていた。いや、そもそもそんなタイミングはなかった。内通を持ちかけれた時点で、選ぶべき道はひとつしかなかったのだから。

もはや、降りることは叶わない。

青島は無線機を手に取り、席を立った。

誰もいないところまで移動し、無線機にむかって嘘を言い始める。
佐藤に暗殺を成功させるため、青島は必死になって嘘をまくし立てる。


ーー
ーー
ーー

837 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:51:25.99 ID:6D6vTS+OO


更衣室のロッカーに鍵はかかっていなかった。佐藤はそのうちのひとつを開け、ゆうゆうと着替えを始めた。作業用のつなぎを脱ぎ、スラックスとワイシャツに着替える。服の上に身につけたサスペンダー付きの工具ベルトにはさきほど殺害した警官と警備員から奪った二丁のリボルバーと麻酔銃があった。ほかに使えそうな工具も何本かある。

サスペンダーを肩にかけ、ロッカーを閉める。更衣室から出ようとしたとき、佐藤の視界にあるものが映る。

ハンチングだった。


佐藤「いいねえ」


佐藤は帽子を手に取り、頭に被った。いつものスタイルが出来上がった。


佐藤「ブチかまそう」


頭部に馴染みの感触を得ながら、佐藤は暗闇に笑った。


ーー
ーー
ーー

838 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:52:15.63 ID:6D6vTS+OO

『佐藤らしき男の目撃情報が』

「そんなバカな!」


ビル内からの無線連絡にフォージ安全の社員ははじめて感情を表した。亜人によるテロを防いだとしてメディアの取材を受けていたこの男性社員は爆発と佐藤出現の報によってすっかり冷静さの仮面が剥がれていた。

刑事は報告を苦渋の表情で聴いてきた。数秒の逡巡のあと、刑事は振り返り取り乱した様子のフォージ安全社員に向かって言った。


「あんたら、麻酔銃使ったんだろ?」


その言葉を聞いた男性社員の顔が一瞬で元に戻る。彼は刑事と対面した時と同じ顔と声を作り、言った。


「害獣対策用の麻酔銃を開発しています。田中侵入時、警備の数名が無断で使用してしまったようです」


会社の不利益になる可能性のある言葉は徹底して排除されていた。

刑事はそのことに興味はなかった。麻酔銃が使用可能かどうか、それが聞きたかった。


「なかにいる警官用に用意してくれ」


刑事の言葉にそばにいた制服警官が驚き、詰問口調で「いいんですか!?」と声を上げる。


「そういう組織の体質がやつらを野放しにしつづけてるんだろうが!」


刑事は叱責を返した。無線機を口元に寄せて、勢いに任せありったけの声量で叫ぶ。


「全班麻酔銃を受け取り、使用しろ! 全責任はおれが取る!」


「了解」と無線機から声が返ってくる。それを聞いた刑事は頭を下げ、後悔が混じったため息を吐くかのようにつぶいやた。


「クビだちくしょー」


ーー
ーー
ーー

839 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:54:40.19 ID:6D6vTS+OO


麻酔銃と麻酔ダートが入ったケースを警備員が床に置いた。周辺にいた警官がケースの近くまで集まったことを確認すると、警備員はケースを開け麻酔銃を取り出し、使用法とダートの装填の仕方を実演でレクチャーした。

質問もそこそこに麻酔銃を受け取る警官たち。警備員が実演してみせたように麻酔ダートを装填していると、こつこつと靴音が近づいてくるのが耳に届いた。

警官が振り向く。

キャンバスを担いだ佐藤がゆっくりとこちらに向かっていた。


「佐藤発見! 十一階、プラントルーム前です!」


麻酔銃の引き金を固定しているピンを引き抜き、正面に構える。佐藤は通路の左側面がプラントルームのガラス張りの入口であることを見てとると、いきなりダッシュし真正面から突っ込んできた。警官は麻酔銃を撃った。佐藤は速度を落とすことも避ける動作をする事もなく、キャンバスを盾のように構えた。通路を見栄えさせる油彩画が麻酔ダートを止めた。次々に麻酔ダートが突き刺さる油彩画の裏側で佐藤が拳銃を持ち上げた。キャンバス越しの当てずっぽうの射撃。五発全弾撃ち尽くし警官三人を負傷させたが、死に至らしめることはできなかった。


佐藤「うまくあたらないなあ」


リボルバーとキャンバスを投げ捨てながら佐藤は通路を左に折れ、プラントルームに進入する。キャンバスは前方に投げられ、正面の警備員から佐藤の姿を隠した。警備員は視界から消えた佐藤を追って、無理に身体を捻って右側にいる佐藤に麻酔銃を撃った。

麻酔ダートが、ガラスに弾かれた。


「あ!」


失態に気付いたとき、佐藤が眼の前で鏡写しのようにリボルバーを構えていた。その銃口が自分の視線と同じ高さにあることを警備員は視ていた。

佐藤が二連射し、警備員と警官を射殺する。


「あっちから銃声だ!」


警官の声が通路の奥から響いてきた。

その声を聞き取った佐藤は工具ベルトからナイフを抜き、ふたたび闇の中を走り出した。

右手にナイフ、左手に拳銃、顔には笑み。

まだまだ序盤。それでも佐藤は楽しくてしかたない。


ーー
ーー
ーー
840 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:55:39.59 ID:6D6vTS+OO

『十一階で佐藤と交戦中!』『六階で佐藤らしき男が……』『いや二十階だ!』


無線機から流れてくる情報はどれもバラバラで、佐藤のいる位置を伝えるどころかむしろ混乱を大きくさせることが目的のようだった。


永井「情報が錯綜してる、佐藤の現在地を確認しないと」


無線機からの情報はあてにならないと判断した永井は無線機をポーチにしまい、中野に向かって「行くぞ!」と叫ぶやいなや、走り出す。
中野は社長室に向かおうと機械室のすぐ近くにある南階段へ走っていこうと身体を前に倒すが、永井が階段のある方とは反対に向かって走っていくのを見て思わず叫んだ。


中野「社長室に直行じゃねえ!?」

永井「そのまえに田中のところに行くと思う! やつらの使ってた武器を調達できるしな!」

中野「佐藤は田中の場所しらねえだろ!?」

永井「職業意識の低い公務員なんかいくらでもいるだろ! 脅せば吐く!」


機械室から飛び出した二人は一つ上の階の南側にある仮眠室にむかって、まず通路を突っ走った。

走りながら永井はスマートフォンを取り出し、アナスタシアに電話をかけた。

841 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:56:43.06 ID:6D6vTS+OO

『もしもし? ケイですか!?』

永井「いいか、おまえの存在を正体は隠したままこっちの仲間に明かす。平沢って人から佐藤と遭遇したと連絡が来たら、おまえはIBMを平沢さんたちのところまで送れ。やつにIBMを消費させ、できるだけ長く引き付けるんだ!」

『わかった!』


躊躇いのない返事。通話を終えたあと、永井は無線機で平沢に先ほどのアナスタシアとのやり取りのことを告げる。平沢から了承の返事。立て続けに喋り続けたせいで、呼吸がとてつもなく早くなっている。永井は肺が破裂したかのように大きく息を吐くと、足に力を込め階段を駆け上がった。

十一階に到着、永井は戸崎に連絡する。


永井「戸崎さん、電力区画の状況は!?」

戸崎「こちらセキュリティ・サーバー室、電力の復旧はできそうか?」


『こちら電力区画、主電源が物理的に破壊されています。修理が数分で済むか数時間かかるか……まだ、なんとも……』


戸崎「だそうだ」

永井「クソ!」


永井の口から悪態が飛び出た。


永井「佐藤にIBMを消費させるためスプリンクラーを切っといたのが裏目に出たか……予備電源の破壊は防げたかも……」


過去の判断を悔やむ発言を口ごもり気味に言い終わった永井は即座に感情を切り替え、戸崎に指示を出した。


永井「戸崎さん、あなたは電力が復旧したときのためにそこを動かないでください。これから講じるすべての策が失敗に終わった場合……わかってますね?」

戸崎「ああ」

中野「永井! そこが仮眠室だ!」


顔を上げると、仮眠室と書かれた室名札が眼に入った。通路を右に折れた先を示している。永井も先頭を走る中野もスピードを緩めず、仮眠室へ走っていく。

仮眠室のドアが開いた。中から負傷者を寝かせた担架を搬送する救急隊員二名と制服警官一名が出てきた。通路を曲がった永井たちと警官の視線が合った。


842 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:57:29.45 ID:6D6vTS+OO

永井「あっ!」


警官の格好をした田中がリボルバーを抜き、二連射する。中野が被弾。腹部を貫通し、銃弾が背後の壁に粉塵を飛ばしながら埋まった。


永井「もう佐藤が来た後だ!」


永井が床に倒れた中野を引きずりながら、無線機に叫ぶ。近くにいた女性社員が悲鳴をあげた。


平沢「佐藤はこっちに向かってるようだ」


悲鳴混じりの連絡を聞いた平沢が即座に動いた。


平沢「IBM粒子もスプリンクラーも無い以上、こんな狭い部屋でIBMを使われたら一瞬で全滅だ。廊下へ出るぞ」

真鍋「平沢さん、作戦は?」


平沢は何も言わずに真鍋を見つめ返した。真鍋もまた無言で平沢の答えを受け取る。


李「あの、わたしは……なにをすれば……」


立ち去ろうとする平沢の背中に李がいまにも消えそうな声で呼び止めた。ソファから腰を上げ、肘掛に手をついた姿勢のままで動きを止めていた。だが、その全身は恐怖によって震えている。


平沢「逃げるなり隠れるなり好きにしろ。その状態じゃ邪魔になる」


平沢はそれだけ言い残し、社長室から出て行った。

843 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:58:25.29 ID:6D6vTS+OO

田中は永井と中野が隠れた通路の角を睨みながら、背後の仲間にむかって叫んだ。


田中「おまえら先に逃げろ!」

高橋「は!? おまえは!?」

田中「少しやりたいことがある!」


麻酔銃を左手で引き抜き、ふたたび二連射。


中野「逃げちまうぞ!」

永井「ほっとけ!」


通路の角を銃弾が削り、内壁材の粉塵が飛んだ。


永井「田中だけは残って何かするみたいだな」

中野「銃使うか!?」

永井「麻酔銃だ!」


永井に言われて中野が麻酔銃をポーチから引き抜いたとき、腹部の銃創が熱くなった。


中野「いってーな、くそッ!」


激しい痛みを堪えながら、しっかりと両手で麻酔銃を握る。


永井「田中は無力化しとくぞ!」


二人は角から飛び出した。
844 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:59:39.54 ID:6D6vTS+OO
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845 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:01:22.61 ID:SzhTzFDuO

田中のIBMがすぐ眼前に迫っていた。右脚の踏み込みが大きく振り上げた右腕を鞭のようにしならせ、鋭い爪が横薙ぎのギロチンのような作用を見せながら中野の首にかかる。


永井「中野!」


永井はとっさに中野を突き飛ばす。反射的な行動は二人のバランスを崩し、中野だけでなく永井も床に倒れる。IBMの攻撃は頭上を通過し、反対側の通路にいた女性社員の二の腕をシャツの上から切り裂いた。振り抜いた腕とともに飛び散った血が宙に軌跡を描いた。


中野「てめえ!」

永井「よせ中野!」

うずくまり悲鳴をあげる女性を見た中野が床から飛び起きる。倒れたままの永井の制止を振り切って中野はIBMへ突進した。IBMが振り返って迫り来る中野に顔を向ける。同時に中野がIBMに飛び掛かり、黒い無貌めがけて頭突きをぶつける。次の瞬間、中野の腹部が弾けた。IBMの左腕が中野の右脇腹を肘のあたりまで貫き、まとわりついた羽虫を追い払おうとするかのように振り回し始めた。


「う」「お」「お」


まだ生存している状態にあった中野の口から洩れ出てくる叫び声がブレを含みつつ、左右に振り回される身体の残像と微妙にズレながら聴こえてきた。

その光景に見覚えのある永井は一瞬だけ対応に悩む。その一瞬のロスを後悔するかのように永井は身体を前に突き出し、IBMを発現した。
846 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:02:45.11 ID:SzhTzFDuO

永井「中野よけろ! こいつはおまえが嫌いだ!」


渦巻くように生成される黒い幽霊の肉体。永井のIBMは床を蹴って一直線に中野めがけて突進する。永井の言葉に頭だけ振り向いていた中野が敵意剥き出しのIBMを目撃する。中野が頭を仰け反らせる。その直後、さっきまで中野の頭部があった場所に永井のIBMが攻撃を打ち込まれる。田中のIBMがその攻撃をまともに喰らい、その頭部と突き出された腕が対消滅する。永井のIBMは突進の勢いそのまま前進を続け、崩壊する田中のIBMと中野を下敷きにして床に倒れた。

うずくまっていた女性社員は突然眼の前で展開された異常な出来事に慄いていた。声も出ないほどの恐怖、喉の強張り、中野が床に倒れたときやっとのことで、「ひっ」という短い悲鳴が口から洩れる。悲鳴に反応したIBMが黒い無貌を女性に向ける。腕を押さえている女性を見た瞬間、IBMは一切躊躇せずに残った左腕を振り上げた。


中野「あっ!」


咄嗟に田中のIBMの爪を掴み、頭上にあるIBMの顔にぶつける。死角からの攻撃がクリーンヒットし、永井のIBMは制御を失った操り人形よろしく背後に倒れた。

IBMの頭部の粉砕を確認した永井は、注意しつつ通路の角から顔を出し、仮眠室前に視線を向けた。 田中の姿はない。


永井「クソ」


永井は視線を中野に戻す。復活し、起き上がろうとしているところだった。


永井「中野、無茶すんじゃねえ! 断頭の話が理解できてないから、おまえは……」


永井はいらだたしげに中野を怒鳴りつけた。


中野「あの話はよくわかんねえけど、とにかく死ぬんだろ?」


めまいでも起きたのか、目元を手で押さえながら中野は静かに言った。一息ついてから起き上がり、永井と視線を合わせた。


中野「死ぬってことがどんなことかってくらいは、わかってるよ」


永井は何も言わず、中野を真っ直ぐ見つめ返した。

847 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:03:59.91 ID:SzhTzFDuO

電力の復旧の目処はまだ立たない。戸崎は永井が田中を見失った瞬間、復旧と同時に佐藤の居場所を見分けられるようにとモニターを見上げつづけている下村に向かって指示を出した。


戸崎「下村君、行け。十五階へ向かう佐藤を階段で待ち伏せし、一体でも多くのIBMを消費させるんだ」

下村「戸崎さん、ここに佐藤が来るかも……」


椅子から立ち上がりかけたところで、下村が戸崎にもしものときのことを訊いた。


戸崎「行け」


戸崎の命令に下村は真っ直ぐサーバー室から出て行く。イヤホンを耳に付け、永井に指示を仰ぐ。


下村「永井君、北・南、どっちの階段に行けばいい?」

永井「わからない!」


率直な答え。佐藤は田中たちと別行動を取っているのか、それとも田中と合流し暗殺にむかっているのか、情報の錯綜はいまだ解消せず、判断の根拠はほとんどない。


中野「ヤマはるしかねえぞ」

永井「二分の一だ」

下村「じゃあ、わたしは近い北階段へ行く」


下村は現在位置から判断を下した。


永井「中野! 僕らは南階段で行くぞ!」


二人は階段に向かって走り出した。廊下を駆け抜けている途中、中野が永井に訊いた。


中野「永井! いまはどんな作戦だ!?」


永井は走り続けた。返事をするまですこし間があった。永井は、狭まった喉からやっとのことで絞り出したような苦渋に滲んだ声で言った。


永井「こんなの、すでに、作戦じゃない」

848 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:04:51.44 ID:SzhTzFDuO

下村が階段に到達した。ドアを開け、十四階廊下から階段の踊り場に足を踏み入れる。


下村「北階段に着きました。佐藤は……」


階段に足をかけた警官と視線がぶつかる。見覚えのある顔。


田中「病院……以来だな」


階段を挟みながら、下村と田中が対峙した。
849 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:05:30.50 ID:SzhTzFDuO

永井と中野が十二階を通過する。


中野「永井! さっき戸崎さんと話してた全部失敗に終わった場合って……なにをするんだ!?」


手すりを掴んで崩れかけた体勢を立て直した永井にむかって中野が大声で訊く。


永井「最終手段だよ」


永井は振り向き、またすぐに正面を向いて階段を上った。


永井「電力が復旧し次第、屋上、一階の出入り口をロックしてビル自体を巨大な檻にする。佐藤が暗殺に成功しようがしまいがこのビルからは出られない」

中野「でもそれじゃ、ほかの人たちも出られないぜ!?」

永井「ああ! だが、佐藤がこのビルの全人間を殺そうが僕らは死なない! 何日何週間かかろうが、奇跡的に佐藤を拘束できるまで闘い続ける!」

中野「全人間って……本気かよ!」

永井「もちろんだ! 何人死のうが僕の知ったことか!」


中野の声に負けないように永井は大声で言い返した。

言葉を投げっぱなしにしたまま、永井は踊り場を曲がった。十三階へと続く階段を足で蹴る。


永井「だが、そんなことはさせない」


決意の言葉を永井はつぶやいた。


ーー
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850 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:07:29.90 ID:SzhTzFDuO

十五階、黒服たちが十字になった通路で左右に展開し伏撃の体制で佐藤を待ち構えている。

下村から南階段で田中と遭遇したとの連絡、黒服たちは北階段からつづく通路を伏撃の地点に選んでいた。


黒服2「平沢さん、あんたはなんでこの仕事を?」


平沢と並んでシグザウエルを正面に構えている年嵩の黒服が訊いた。


平沢「忘れたよ」

黒服2「家族はいるのか?」

平沢「長いこと会ってないな」


オープンサイト越しに通路の暗闇に視線を固定する。真鍋と若い黒服は横に貫く通路にそれぞれ銃口を向けている。

平沢の眼が暗闇の中での黒い影の微妙な動きを捉える。影は通路の陰に消え、同時に動きの気配も消える。数秒間そのままで、眼が間違いを起こしたのかと思い始める程度の時間が過ぎる。

突然、暗闇の中にパステルカラーの脚の生えた抽象画が出現する。

平沢は躊躇せず引き金を引いた。


佐藤「ぬ!?」


抽象画越しの銃撃が佐藤の膝を貫いた。床に倒れた佐藤の頭部はキャンバスで隠れ、平沢からは狙えない。キャンバスが傾く。年嵩の黒服が狙えるようになった佐藤の頭部に照準を合わせる。

佐藤が先に引き金を引いた。牽制のための連射。平沢と黒服が身を隠している隙に佐藤は這いずって通路の角まで後退した。


851 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:08:34.16 ID:SzhTzFDuO

佐藤「きみら、警備の人間じゃないな!」


佐藤は喜ばしさを口にしながらリボルバーを口に咥え、自殺した。笑い声が銃声で途切れた。


平沢「南階段前の通路で佐藤と遭遇」


平沢が協力者にむかって無線で告げる。

アナスタシアはIBMを放出し、十五階へ走らせる。


平沢「やつには麻酔ダート程度の弾速なら一、二発かわす反射神経がある。殺し続ける方法と麻酔銃での無力化、臨機応変に使い分け、やつを拘束するぞ」


暗闇を見張りながら、平沢が指示を出した。


佐藤「この国の、兵士に相当する職種の人間は……戦闘に身を置く覚悟がぬるい」


佐藤が復活した。黒い粒子を口から噴き出している口から言葉が洩れる。


佐藤「だが、きみらはちがう。ちゃんと殺し合いをしてきた風情を感じる」


佐藤はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させた。


佐藤「SAT相手よりよっぽどエキサイティングな時間になりそうだね」


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852 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:09:21.01 ID:SzhTzFDuO

田中「女だからって容赦はしねえ。てめえは特にだ」


踊り場に突っ立ったまま、独白するような調子で田中がつぶやいた。


田中「十年……十年だぞ?……佐藤さんが来るまで十年間……おれは実験施設にいた……」


俯きながら身体を震わせて独白を続ける田中を下村は表情一つ変えず見下ろしていた。スーツのジャケットのボタンを外し、前を開ける、脇を圧していたショルダーホルスターが解放される。時間が差し迫っている感覚。


田中「てめえとエレェ違いじゃねえか」


下村を睨めあげた田中が怨みがましい声を出した。


田中「連中に色目でも使ったかよ」

下村「好きに言って」


八つ当たり的な挑発の言動を下村は意に返さなかった。


田中「あんな仕打ち、間違ってると思わねえのか!?」

下村「わたしは与えられた仕事を最後までやりたいだけ」


いらだちを募らせる田中とは対照的に、下村は冷静な態度を取り続けた。下村の黒い瞳は田中の苛立ちが復讐心によるものだけではないことを見て取った。


下村「ていうか」


別の理由による動揺、下村はそれを指摘した。

853 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:10:06.05 ID:SzhTzFDuO

下村「あなただって正しいと思ってこんなことしてるわけじゃないでしょ?」

田中「あぁ!?」


田中のIBMが発現される。怒りに身を任せた突進。下村もIBMを発現、闇雲だが激しい攻撃をなんとか凌ぐ。田中のIBMが背後に回り込もうと壁に向かって跳んだ。下村のIBMがその動きを追いかけ、左脚を軸に身体を反転させる。


IBM(下村)『あ』


下村の視界から三角形の頭部が消える。IBMは足を踏み外し、転んでいた。下村と田中の視線がふたたびぶつかる。田中は麻酔銃を持ち上げようとしていた。

下村は即座に飛び退いた。麻酔ダートが壁に突き刺さる。両脚で着地し、顔を上げる。田中のIBMが逃げ道を塞ぐようにドアの前から下村を睨んでいる。壁を踏んでいた右脚を強く蹴り、IBMは下村に向かって飛び出した。


下村「……来いよ!」


下村は左肩を前に出した姿勢を取り、開いた左手を前に、握られた右手を胸の前に構える。IBMの爪が振り下ろされる。攻撃の呼吸に合わせ、下村は身体を後退させる。下村の左手を切り落とされ、指の付け根から落下していく。爪はそのまま下村の腕に進み、コピー紙が裂かれるみたいに前腕の半ばあたりまで入り込んだ。下村は激痛に眼を細めながら、手を切断した左側の爪が肘にひっかかり勢いが止まったのを見た。爪が引っかかったままの左腕を引き、右肩をIBMの前に入れる。IBMの伸びた左腕の肘を掴み、足が床から離れた瞬間に身体を捻った。


IBM(田中)『お!?』


IBMの上下が反転し、反対側の壁に投げ飛ばされる。下村は体重移動を行い、踊り場から階段の下に身体を出した。途中、麻酔銃をホルスターから抜き、下に向ける。ダートを装填していた田中と眼が合う。焦りを浮かべた表情。下村が麻酔銃を撃ち、ダートが田中の胸に突き刺さる。


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854 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:11:40.47 ID:SzhTzFDuO


平沢が通路に備え付けられている消火器を取り出し、床を滑らす。若い黒服が膝で受け止めたのを見ると、平沢は言った。


平沢「やつがIBMを発現させたらそれで煙幕を張り、消滅までやり過ごせ」


スマートフォンのカメラで床を滑る消化器を見た佐藤がつぶやく。


佐藤「消化器? 何に使うんだろう……幽霊対策かな?」


疑問を解消した直後、年嵩の黒服がスマートフォンを狙撃した。佐藤は気にかけず、顔を出さないように角に頭を寄せながら、暗闇に向かって呼びかけた。


佐藤「大丈夫! 幽霊をこんなタイミングじゃ使わないよ」


佐藤は身体をもとに位置に戻し、腰に巻いた工具ベルトを探った。ダクトテープを取り出す。


佐藤「面白みがないじゃない。せっかく不死身なんだから」


テープを剥がしながら、佐藤は黒服たちの戦略を推察する。

佐藤の動向を見張りながら、平沢がハンドサインで仲間に指示を出す。平沢と真鍋が通路を回り込み佐藤を背後から襲撃、挟撃を目論む。年嵩の黒服が了解のサインを返し、平沢と真鍋が移動を開始する。残った黒服二人が左右の角から佐藤を見張る。


佐藤「彼らの装備から見て、SATの時と同じ無力化の方法かな? だったら……」


壁から張り出した細い柱を掴み、テープで固定した佐藤は高橋のAKMを持ち上げ、銃口を右手首に押し付けた。


佐藤「これで壁から誘い出そう」


855 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:13:24.47 ID:SzhTzFDuO

通路の陰から銃火の閃きを見えた。黒服は意図の掴めない銃撃に疑問を持ちつつ、視線を固定していると、銃声が止んだ。

佐藤がリボルバーを乱射しながら飛び出してきた。佐藤から見て右側、年嵩の黒服がいる角に向かって集中的に発砲を続け、前進する。

若い黒服がイングラムM10で佐藤の頭部を狙撃した。


黒服2「目標射殺」


倒れた佐藤を確認した年嵩の黒服が平沢に告げる。


黒服2「殺し続け接近、拘束する。頭部を狙え」


殺し続ける方法を取りながら、黒服二人が佐藤に接近する。撃たれ続ける頭部からは血と黒い粒子がとめどなく飛び出していた。黒い粒子は右手首からも放出されていた。手首の切断面はズタズタで、自動小銃で千切ったためだった。手首の粒子は頭部のそれとは違い、柱に固定されている右手に吸い寄せられるように通路の陰に伸びていった。黒い粒子が連結し、手首と切断面がすこし持ち上がる。黒い粒子が磁力のように互いに引っ張り合った結果、突然、佐藤の身体が滑り出した。若い黒服が頭部を狙って引き金を引くが、通路の角に邪魔され佐藤の姿が視界から消える。

黒服たちは射撃を中断し、歩みを遅くしながら佐藤のいる位置を注視する。靴音を殺すようなゆっくりとした前進。十五階全体が静まり返っている。
856 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:14:34.28 ID:SzhTzFDuO

佐藤が若い黒服を二連射した。銃弾は右耳の下にあたり、イヤホンのランヤードを切断、そのまま首を貫通した。若い黒服が頭を下げたため、二発目は壁に埋まった。沈み込む黒服から銃口を移し、佐藤は通路の右に位置する年嵩の黒服に向かって二発撃った。身体を下げていたため、弾はあたらなかった。

最後の一発が年嵩の黒服の額に穴を開ける直前、佐藤の首に麻酔ダートが刺さった。平沢が回り込んできたことを確認した佐藤は、通路を横切るように跳躍し、リセット。ふたたび佐藤の姿が隠れる。

年嵩の黒服が銃口をあげる。


黒服2「こっちからは狙えない」


膝撃ちの姿勢で佐藤を狙撃しようとするが、帽子をかぶった頭部はインテリアに隠れて見えない。

若い黒服は射出口を押さえながら、噴き出してくる血の勢いを手のひらで感じていた。激しい脈動に従う血の勢いは、止むことはなさそうだった。若い黒服は傷口から左手を離し、MAC10のストラップを肩から外す。床に放り投げると、MAC10はがちゃんと音を立てた。年嵩の黒服と眼が合う。

若い黒服は右手をあげた。

857 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:16:56.57 ID:SzhTzFDuO

黒服1「お先」


年嵩の黒服は黙って頷いた。

平沢と真鍋が通路を進行、佐藤が倒れた地点を確認するが、姿はなかった。床の血痕は近くのドアまで続いていて、ドアはかすかに開いていた。

年嵩の黒服が合流した。肩からMAC10のストラップをかけている。

若い黒服は足音が遠ざかっていくのを聞いていた。視覚も暗くなっていく。通路の覆う物理的な暗闇以上に暗く黒い闇が、頭の先から下りてきて、手足の先端まで染み渡っていくのを感じる。感覚のすべてが遠くなっていき、力が抜ける。使えるものがなくなる。身体を動かす意識が小さくなる。


天国への扉を叩くような感覚……


傷口を押さえていた黒服の左手が床に落ちた。


黒服2「一名死亡」


かすかな気配の消失を感じ取ったかのように、年嵩の黒服が無線にむかって静かに言った。


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858 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:18:04.95 ID:SzhTzFDuO

『一名死亡』


耳のイヤホンから黒服の報告が聞こえる。永井は十二階と十三階のあいだの踊り場いて、階段に転がっている警官の死体を眺めていた。階段を駆け上ってきたためか呼吸は荒く、頭の横にあげた両手が呼吸に従って上下している。

永井はゆっくりと視線をあげ、死体から眼を逸らした。名前はなんだった、と永井は一瞬考えた。眼の前で横たわっている警官の名前も、十五階で死んだ黒服の名前も永井は知らなかった。


「動くなぁぁっ!」


上の踊り場の警官が永井にむかって怒鳴った。その声をきっかけにその場にいる全員の視線が永井に集まった。


「永井……圭だな……」


警官が緊張感を抑えた声で言った。手に麻酔銃が握られ、永井に狙っていた。


永井「うるせえよ」



この上ない苛立ちを感じながら、永井はぼそりと言い捨てた。




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859 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:19:52.06 ID:SzhTzFDuO

両腕をだらんと床におろし、田中がうなだれている。踊り場のIBMも田中と同様に床に尻をついて、突然いなくなった飼い主を探す忠犬のように虚空に顔を上げじっとしていた。

下村は麻酔銃を捨て、右脇のホルスターからH&K USPを引き抜いた。右手で拳銃を持つのは痛みのせいもあり、かなり苦労した。

騒ぎを聞きつけたフォージ安全の社員が動く様子のない田中に駆け寄って、声をかけようとする。


下村「どけ!」


拳銃を左右に振りながら、下村が怒鳴りつける。踊り場まで下り、銃口を田中に向けながら俯いてる顔を覗き見る。半開きになった口、眼は閉じられている。

下村は一息つき、拳銃を持った右手の親指でイヤホンを押さえ、報告した。


下村「田中を無力……」


突然、下村は何者かに後ろから突き飛ばされた。衝撃で拳銃が手から離れ、宙を舞った。右手が壁と顔に挟まれ、背中を圧迫する凄まじい力によって抜くことは不可能だった。下村は必死に首を伸ばし、何が起きたのか把握しようとする。田中がゆっくりと瞼をあげ、下村を眺めた。


下村「防弾……ベスト……厚み」


田中のIBMが抵抗を示す下村に顔を寄せ、威嚇するように短く吠えた。噛みつかれるのを怯んだ下村が反射的に頭を下げると、田中が麻酔ダートを装填し直す動作が眼にうつる。
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