【艦これ】提督「風病」 2【SS】

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230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/18(月) 17:16:10.67 ID:kGLQuddsO
続きを楽しみに待ってます
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 00:19:44.22 ID:TYWkkuRmO
浜風に連れ去られてしまったか…
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/16(土) 13:35:37.66 ID:Z8tCJcnz0
保守
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/14(日) 11:46:58.50 ID:gAAIyIGBO
保守
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/05/12(日) 16:34:12.40 ID:FmDaoK2rO
ほっしゅ
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/04(火) 22:33:23.99 ID:2YPfB3P50
保守
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/07/17(水) 01:05:38.38 ID:eYupf2pU0
保守。待ち続けます。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/08/01(木) 22:27:06.00 ID:vk8suoXw0
ほしゅかぜです
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/09/29(日) 18:13:27.90 ID:aLzkqVfiO
保守します
239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/12/02(月) 08:29:00.33 ID:wEpTVx/Q0
俺は待ってる
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/01/08(水) 23:07:59.80 ID:2iEHSOJs0
待ってる
241 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/13(金) 00:34:00.57 ID:T+Bn6rWS0
お久しぶりです
>>1です。
わけあって長期間何もできない状態が続いていました。精神的にやられていましたが、ちょっと持ち直してきたので、投下していければと思います。
読み返してみると未熟なところの多い作品ですが、待っていてくれている方が結構いることに驚きと嬉しさ、申し訳なさを感じずにいられません。この作品だけは、死んでも書ききります。
まだ鋭意製作中なので、しばらくお待ちください。これからも当作品をよろしくお願いします。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/13(金) 10:04:03.00 ID:s22i2DoOO
ああ、戻ってきてくれたか
本当によかった
243 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 01:56:51.11 ID:6vWW5cBN0

 いつもどおりだったはずだ。

 いつもどおり、彼女は俺の部屋に来た。寝れないから一緒に寝てほしいと、何回聞いたかわからない理由を口にして、布団に入り込んできた。そして、いつもどおり寄り添って寝むったはずだ。

 それが、どうして、こうなった。

 俺の上に、雷が跨がっていた。ふと、重さと熱を感じて目を覚ますとこの状況だったのだ。驚いたなんてものじゃない。眠気は急速に醒めていった。

提督「……雷? なにをしているんだ?」

 問いかけても、彼女は答えない。ただ真っすぐこちらに目を向けている。月明かりに照らされた薄暗い空気の中でも、彼女の瞳は妖しい光を孕んでいることが分かった。

 様子がおかしい。

 俺は、起き上がろうとした。だが、雷がそれを許さなかった。俺の両腕を掴んでそのままマットレスに叩きつけた。力を込めても、微動だにしない。
244 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 01:59:08.11 ID:6vWW5cBN0

提督「おい、何するんだ」

雷「……」

提督「雷、聞いているのか? 一体なんなんだ」

 怒りを込めて言うと、彼女の目が細められた。顔を耳元に近づけてくる。

 冷たい吐息だった。

雷「司令官。ねえ、司令官。私、気づいたの」

 何に?

 そう尋ねる前に、彼女は続けた。

雷「私たちは、まだ本当の意味で『家族』じゃなかったんだって。特別な関係にはなれていなかったんだって。そうでしょう? 司令官は、誰にでも優しい。私以外の子にも。深雪ちゃんや時津風ちゃん、陽炎ちゃん、それにあの女狐にも……」

 忌々しげに声が歪む。俺の手は、汗で滲んだ。

雷「悔しいけど、あの女狐が言ったとおりよ。私たちはまだまだ足りなかった。もっと、もっと……関係性を深めないと、『家族』にはなれないんだわ。一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に仕事して、一緒にご飯を食べて、一緒に笑い合って、一緒に泣いて、一緒に抱き合って……いっぱい、時間を過ごしてきたわ。それでも、私たちは血のつながっていない他人同士。まだ、足りない。ねえ、私たちが『家族』になるには、どうすればいいかわかる?」

提督「な、なんのことだ。わかるわけないだろう」

雷「そう、わからないんだ。……じゃあ、教えてあげるね」
245 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:00:29.38 ID:6vWW5cBN0

 ――既成事実を、作ればいいんだよ。

 背筋が凍りついた。

 いま、こいつはなんと言った? 既成事実だと? 既成事実とはなんのことだ。既成事実。キセイジジツ。

 つまり、それは――

雷「セックスしようって、ことだよ」

 幼い雷の口からは、あまりにも似つかわしくない言葉が飛び出てきた。声の中に微かだが官能的な響きが混ざっている。

提督「ば、馬鹿なことを言うんじゃない! お前、自分が何を言っているか分かっているのか?」

 俺は腕を振りほどこうと暴れた。だが、ベッドが軋むだけでビクともしない。雷が、さらに強く俺の身体を抑えつけてきたからだ。腕の骨が、万力で締め付けられて砕けそうなほどに痛かった。

雷「あはは、分かっているよ。赤ちゃんの作り方くらい、前の司令官が教えてくれたもん」

 雷が顔を上げた。頬は朱く色づき、口元は熱い吐息を零している。茶色い瞳が、淀んでいた。

雷「逃げちゃダメだよ。そんなの絶対、絶対許さないんだから」

提督「やめろ! き、貴様、何を考えている! 馬鹿なことは止めるんだ!」

雷「ひどーい、貴様だなんて。これから奥さんになる相手に言う言葉じゃないでしょ?」

 彼女の耳には、拒絶の言葉は届かない。彼女は、俺の腕をクロスさせて片手で抑えつけると、パジャマのボタンを外し始めた。碁石を打つような乾いた音がして、徐々に徐々に柔らかい肌が顕になる。淡い光が、少女の肌を妖艶に彩っていた。

 ブラジャーが、こぼれ落ちた。わずかな膨らみに、赤い突起が二つ……。

 汗が脇から止めどなく流れ落ちる。言いようもない恐ろしさに、足先が痺れるように震えた。この戦慄は、もはや暴力に等しく、性への興奮は起こりようもない。

 俺の目の前には、怪物がいた。抵抗するものを無理やり蹂躙しようとする血走った目をした獣が、いた。
246 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:01:43.45 ID:6vWW5cBN0

雷「これは、『家族』になるために必要なことなの」

 息を荒くして、獣は言った。

雷「だからね、司令官。私たちの子供、作っちゃお?」

 獣は、俺の唇を無理やり舐め始めた。口を堅く閉ざしても、無理やりこじ開けられ、中まで舌を差し入れられた。小さな熱い舌が、ぐるぐると口内を動き回る。粘液が粘液を上塗りし、俺の口は生温かいもので溢れかえる。

 行為は、執拗だった。いったい何秒、何分そうされたかは分からない。俺は必死に足をバタつかせ逃げようとしたが、獣の拘束は外れない。恐怖と絶望が、だんだんと喉元にせり上がってくる。

 怖い。怖い。怖い。自分よりはるかに小さな少女に、強姦されている事実が。幼い少女が、性に倒錯している歪な姿が。

 何もかもが、怖い。

雷「あはは、司令官。司令官の唇、柔らかぁい」

 獣は、口と口を繋ぐ粘液の橋を絡め取りながら、笑顔を見せた。

雷「男の人の唇って、みんな乾いてて堅いのかと思ってた。あはは、司令官のはしっとりしてて、まるでマシュマロみたいだね。私、司令官とのキス、一番好き」

提督「……頼むから止めてくれ。こんなの、おかしいじゃないか……!」

雷「何もおかしいことなんてないよ? 私たちは男と女でしょ? 自然の摂理じゃない」

提督「俺とお前は、上司と部下だ! こんなことをする関係じゃないんだよ! なあ」

 言い切る前に、唇を塞がれる。また舌が、俺の矜持と尊厳を弄んできた。別の生き物のように動き回るそれが、ひたすらに気持ち悪い。
247 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:03:08.33 ID:6vWW5cBN0

 獣は、俺の胸板に手を伸ばしてきた。乱暴にさすり、服のボタンを外していく。

雷「司令官、まだ足りないよ。もっと、もっと気持ちよくなろ?」

 獣が、そう言って口を歪めたときだった。

 巨大な爆音が、鳴り響いた。鼓膜を破裂させるのではないかというほどの音響が、俺の内臓を揺さぶった。壁が、天井が、シャンデリアが、地震のように震えて、家具のいくつかが倒れた。俺の上に乗っていた獣も、小さな悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。

提督「なんだ!?」

 何が起こったというのか。突然の事態に、思考が追いつかない。

 警報がけたたましく鳴り響いた。

雷「なによ! 一体なんなのよ! いいところだったのにっ!」

 雷が熱り立って喚いたが、警報の激しい金属音にほとんど掻き消される。俺は事態を把握するよりも先に、本能を総動員した。逃げるように立ち上がって、部屋を出た。

 雷が、何かを叫んだ。だが、聞こえないふりをして逃げ出した。

 走る、走る、一心不乱に。

 呼吸が乱れたがお構いなしに。獣の舌の感触を頭の中から必死に消そうと、恐怖を消そうと、走った。

 階段を飛ぶように降り、角を曲がったときだった。誰かとぶつかりそうになった。
248 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:04:11.20 ID:6vWW5cBN0

陽炎「わっ!」

 陽炎だった。彼女は突然現れた俺に驚いたようだったが、すぐに顔を引き締めた。

陽炎「良かった! 無事だったのね、司令!」

提督「あ、ああ……」

 荒い息を吐きながら、俺は答えた。

陽炎「突然爆発があって、警報がなり始めたから……。ほんと、無事で良かった」

 胸を撫で下ろす陽炎は、驚くほどに可憐だった。

 それだけじゃない。優しくて、汚れない清純さを併せ持っている。

 あの獣とは、まったく違う。日常だ。日常にある、普通の少女の美しさ。毒花に刺された後に見る蒲公英だ。

 ああ、なんて。なんて奇麗なんだ。

提督「……」

 なぜだろう。陽炎を見ていると、だんだん視界が滲んで、歪んでくるのは。

陽炎「え、ちょっ! ちょっとどうしたのよ司令! どこか怪我でもしたの?」

 陽炎が驚いた声を上げる。

 どうしよう。抑えが効かない。大の男が、ましてや帝国海軍軍人が、部下の前で、それも少女の前で無様に涙を流すなんてあってはいけないことなのに――。

 だが、開放された安堵から、恐怖で一杯になっていた心のダムは呆気なく決壊した。

 俺は陽炎を抱きしめていた。

提督「よかった……本当に、よかった……」

陽炎「し、し、司令! 司令ってば! いきなりなんなのっ?」

提督「……すまない、すまない。安心して、怖くて……!」

陽炎「ちょ、ちょっと、もう……! とにかく、離れなさーい!」
249 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:05:30.12 ID:6vWW5cBN0





陽炎「……落ち着いた?」

 陽炎が顔を覗き込みながら、そう訊いた。俺は頷くと、ハンカチで眼元を拭った。

提督「すまない、取り乱してしまった。……ハンカチは洗って返す」

陽炎「いいわよ、別に。あげるわ。そのハンカチ見るたびに司令官の泣き顔思い出しそうだし」

 陽炎は白い歯を見せて、からかうように言った。

陽炎「でも、いくら爆発事故があったからって泣くこともないでしょ? 司令の気持ちはわかるんだけどさ。軍人として、ちょっと情けないかも」

提督「……すまない、君の言うとおりだ」

 陽炎は勘違いしているが、訂正しようとは思わなかった。あんな悍しい光景、思い出したくもないし、知られたくもない。

陽炎「まあ、でも、ちょっと嬉しいわよ。司令が、私たちのことをそこまで思ってくれるなんて」

提督「君たちは、宝だからな……」

 そう、宝だ。一人残らず大切な存在だ。

 その存在に、あんなことをされた。

陽炎「……そんな顔をしながら言うな、たく」

 恥ずかしそうに頬をかきながら、彼女は目をそらした。その少女らしい反応が、今の俺には救いだった。

陽炎「それより、事故の状況の方が大事よ。けっこう大きな事故だから一緒に来て」

 たしかに陽炎の言うとおりだ。俺は頭をふって、あの忌まわしい出来事を頭の片隅に追いやり、指揮官としての責務に集中する。陽炎に付いていきながら、尋ねた。

提督「……事故の状況は? 一体何があった?」

陽炎「工廠の爆発事故よ。何が原因かはわからないけど、けっこう大きな爆発だったから、おそらく誰かの艤装が爆発して、誘爆したんでしょうけど……」

提督「敵襲の可能性は?」

陽炎「百パーセントとは言えないけど、限りなくその可能性はゼロだと思う。夜間警邏も出ていたけど、敵影を見たって報告はないし。それに、この近海に鎮守府を襲えるほどの艦種はいないはずだから」
250 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:06:38.57 ID:6vWW5cBN0

 俺の頭には、南鎮守府の事件が過ぎっていた。陽炎の報告では安心はできない。

 しかし、もし敵襲だった場合、責任問題になって軍法会議ものだが……今はそんなことはどうでもいい。

提督「それくらいの根拠では、敵襲の可能性は排除できない。油断せず警邏隊を探索に当たらせろ。大型艦種が入ってきている可能性にも考慮して、警邏隊には榛名も同行させるように。もし、敵を発見した場合は即時戦闘体制に入って構わない。また、念のために動けるものは総員戦闘準備をさせておけ」

陽炎「りょーかい。……よかったわ、いつもの司令ね」

提督「さっきは本当に悪かった。もう大丈夫だから」

陽炎「うん、安心したわ。……で、この指示報告って私がしていいの? 雷ちゃんがいないけど」

 雷。その名前に心臓が震えたが、なんとか堪えて肩を竦めてみせた。

提督「あいつはいい。たぶん寝ているから、お前がやってくれ」

陽炎「なんというか、まあ……雷ちゃんらしいわね。わかった、私がやっとく」

 陽炎は溜息をついて、トランシーバーを出した。慣れた様子で流暢に指示をしてくれている。その間に、事故現場に近づいたのか、もうもうと立ち込める煙が見え、強烈な匂いが漂ってきた。俺はハンカチで、陽炎は袖で、鼻を覆った。

 近づくにつれ、ヒリヒリとした熱が顔を焼いた。近づけば近づくほど、熱さが増していく。

 工廠が、炎の渦に包まれていた。赤い炎が、空さえも焼き付くしている。その周りでは、慌てた様子の妖精たちが、必死に消防活動を行なっており、手隙の艦娘たちも手伝いをしていた。

 その中に、白いバンダナを巻いて必死に水を運ぶ鈴谷の姿を認めた。その顔はすでに煤だらけで、火災の激しさを教えてくれる。俺たちは彼女に駆け寄った。
251 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:07:59.56 ID:6vWW5cBN0

提督「鈴谷!」

鈴谷「提督じゃん! 無事だったんだね、よかった」

 鈴谷は、心底ほっとしたように息をついた。

提督「負傷者はいるか?」

鈴谷「幸いなことに、一人も確認されていないよ。工廠も深夜帯は基本的に人はいないから」

提督「……そうか」

 俺は愁眉を開いた。負傷者がいないことが、俺にとっては何よりも大切なことだからだ。

鈴谷「鈴谷、どうすればいいかな? このまま消火活動手伝ってていいの?」

提督「ああ。その他の必要な指示はすでに陽炎経由で知らせてある。そのまま作業してくれ。……指揮は俺が取ろう」

鈴谷「分かった! じゃんじゃん運んですぐ鎮火させるから見ててよねー!」

 鈴谷は張り切った声を出して、飛ぶように火に向かっていった。

陽炎「司令、私も手伝うわ!」

提督「頼む」

 陽炎の言葉に頷くと、ふと視界の隅に人影を捉えた。特徴的な銀髪と佇まい。その人物は、木陰に立って燃える工廠を見つめていた。

 浜風だ。

提督「……浜風」

 何をやっているのだろうか。この非常時に、ぼうっと突っ立っているなんて。

 咎める気持ちはわかなかった。ただ、気にはなった。あの浜風が、こんな状況で何もしないなんておかしい。

 俺は、浜風に近づいて声をかけようとした。

 だが、声が出なかった。

 燃え盛る音の中、消火活動の声がする中、警報がなる中、浜風は何かを呟いていた。あまりにも小声だったのでよく聴こえなかったが、繰り返し、繰り返し、なにかを一心不乱に。

 三文字の言葉を。血走った眼で。
252 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:09:04.93 ID:6vWW5cBN0

提督「……」

浜風「……提督? 提督!」

 浜風は俺に気付くと、飛びつくように懐に入ってきた。

浜風「ああ、提督……提督……。よかった……。無事だったんですね……」

提督「あ、ああ……」

浜風「あの雌……いえ、雷さんは何処ですか? 見当たりませんが」

 顔が歪みそうになるのを、なんとか堪えた。

提督「あいつは、今は寝ているよ。俺だけ音に気づいて飛び出してきたんだ」

浜風「ふうん、そうですか」

 浜風は、嬉しそうだった。嬉しそう? この状況に、そんな笑顔は似つかわしくない。

浜風「ということは、ふふ、置き去りにされて今は独りですか。……可哀想な子」

提督「浜風?」

浜風「なんでもありませんよ。提督がご無事でよかったです」

 浜風はそう言って、額を胸板に押し付けてきた。

浜風「よかった、本当に、よかった」

 俺を愛おしげに抱き止めながら、浜風は不安の解消に勤しんでいた。

 微かな違和感が、俺を炙っていた。
253 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/20(金) 02:10:47.30 ID:6vWW5cBN0
投下終了です。
長らくお待たせしてしまい、すいませんでした。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/20(金) 17:26:50.61 ID:vxJORoKmO
よかった、本当に、よかった

255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/03/21(土) 16:28:39.37 ID:2gxZJf8e0
待ってました!
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/21(土) 19:17:19.91 ID:AYTzpoquO
一年半も経ってたのか…

ともあれ待ってました、これからも楽しみにしています
257 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:42:15.24 ID:LO56XlXm0




 工廠の火災は、陽炎が予想したように艤装の爆発が招いたものだった。迅速な消火活動の結果、全壊は免れたものの、被害はけっして小さくはなかった。工廠は半壊。艤装の大半は、消失してしまった。

 敵襲でなかったことは幸いだったが、だからといってお咎めなしとはいくはずがない。事故の責任は当然のように追及された。提督会議本部に招集された俺は、横須賀副議長から厳しい訓戒を受け、減給処分と工廠の修繕が完了するまでの間の謹慎を言い渡された。これ程に軽い処分で済んだのは、提督という貴重な人材を長期間遊ばせておく暇がないことと、舞鶴中将の口添えがあったからだろう。

 工事の終了は、一週間後の予定であった。鎮守府設備の修理は、通常妖精が行う。一瞬で艤装を作り出すほどの彼らの能力を持ってすれば、大規模な修理もその程度で済んでしまう。呆気ないものだ。

 だが、その呆気なさは、今の俺には有り難くない。たったの一週間。たったの一週間だ。それくらいで、心の整理が付くものだろうか。

 雷と、向き合えるようになるのだろうか。

 頭には、あの夜の光景がこべりついている。俺の上に馬乗りになって、涎を蜜のように吸う卑しい女の汚らわしい光景が。月明かりに狂った、一匹の性に支配された獣が。

 ずっと、俺を苛んでいくる。

 あれから二日がたった。それでも、消えようとはしない。

舞鶴「……柊中佐。ずいぶん、顔色が悪いじゃないか」

 本部からの帰り道。門を出てすぐのところにある葉桜の並木道を、舞鶴中将と歩いていた。達磨のような体型の舞鶴中将は、太い眉を潜めて俺の顔を覗き込んでいる。

提督「……そうでしょうか?」

舞鶴「どう見てもそうだ。萎びた玉葱のような顔をしているぞ」

 その例えはよく分からないが、よっぽど酷いのだろう。

舞鶴「責任を感じとるのはわかるが、そこまで窶れることもなかろうに。たったの一週間、我慢すればよいだけであろうが」

提督「まあ……」

舞鶴「たく、小心なところは治っておらんのぉ。指揮能力は優秀だというのに、勿体ない。そこさえ治ればなあ」
258 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:43:24.65 ID:LO56XlXm0

 舞鶴中将は、溜息をついた。立派に蓄えた髭が心なしか残念そうに下がって見える。

 訂正する気も言い訳する気も起きず、すいませんと頭を下げる。分かってもらえるわけもない。俺の今の苦しみを。

舞鶴「過ぎたことは過ぎたこと! くよくよしていても男が下がるだけだぞ柊中佐! 過去はどんなに後悔しても戻ってこんから、後ろを振り向く暇があったら前を向かんか前を!」

提督「あだっ!」

 背中をぶっ叩かれて思わず悲鳴を上げた。柔道五段の平手打ちは並の痛さではない。背中には刺すような痛みが波を起こしていた。

 彼とやり取りしているときは、大抵叩かれるので慣れてはいたが、痛いものは痛い。無言の抗議を目線に込めると、舞鶴中将は豪快に笑った。散歩中の貴婦人が、二度見するほどの声量だった。

舞鶴「その粋だ! わしを睨む元気があるならもう大丈夫だな!」

提督「……気合いを入れてもらって、ありがとうございます」

舞鶴「む、なんだ? 声が小さいな。もう一発いっておくか?」

提督「わあ、勘弁してください! 気合いを入れていただいて、ありがとうございますっ!」

 これ以上、あんな岩みたいな手で殴られてたまるか。

舞鶴「よしよし、それでこそ帝国海軍軍人だ。……いいか、柊。お前は部下たちの鏡だ。お前が痩せた大根のような顔をしておったら、部下たちも不安に思う。そうしたら、艦隊の指揮にも必ず響いてくるぞ?」

提督「……」

舞鶴「儂らには、泣くことも不安に暮れることも許されん。指揮官たるもの毅然としておくことが寛容だ。一番最初に教えたことのはずだ。初心を忘れるな」

提督「はい、先生」

 あなたの教えは、痛いほど分かっている。だが、俺という人間の弱さが、その教えを忠実に守ることを許さない。許さないのだ。

 俺は、あらゆるものが怖い。艦娘制度という歪みをもたらす悍しいものに関わる全てが。
259 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:45:04.83 ID:LO56XlXm0

 あの夜の光景も、その一つだ。

 薫風が、木々をそよそよと通り過ぎる。いつの間にか川辺の近くにまで来ていた。ハハコグサが揺れる川辺は、温かな陽射しを受けて宝石のようにキラキラと輝いている。犬と戯れる童たちがいた。憎たらしいほどに楽しそうだった。

 内地の長閑すぎる光景は、俺の目には毒だ。あまりにも、ギャップがありすぎる。

舞鶴「……墓参りには、行くのか?」

 舞鶴中将は、唐突にそう尋ねてきた。

 誰の墓参りか。俺の父と母、そして静流の墓参りだ。

提督「はい。帝都を離れる前に済ませようと思っています」

舞鶴「そうか、そうだな。帝都はいつ離れる予定だ?」

提督「今日の夕刻までには、鎮守府に戻ろうかと思っています」

舞鶴「……ふむ、性急だな。そんなすぐに戻ったところで、どうせすることはないだろうに」

提督「いえ、溜まっている報告書や書類があるので、せっかくの機会に片付けてしまおうかと思っていました。謹慎中でも提出する準備くらいはできますし」

舞鶴「生真面目なやつめ」

 舞鶴提督は顔をしかめて言った。だが、すぐに顔を引き締めた。
260 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:45:58.81 ID:LO56XlXm0

 改まって、どうした?

舞鶴「その予定、変更できんか?」

提督「なぜです?」

舞鶴「閣下が、お前に会いたがっている」

提督「閣下が?」

 俺は目を見開いた。閣下とは、今は隠居されてしまった呉元提督のことだ。お会いするたびにいつも気にかけてもらっていたが、最近はまったく会うこともなくなってしまっていた。

 閣下は、引退されてからというもの誰にも会いたがらなかったからだ。俺も何度か挨拶に伺おうとしていたが、目の前の達磨中将に止められていた。

 それが、今になって、なぜ? しかも、俺などに。

舞鶴「閣下は、お前に話したいことがあるのだそうだ。詳細は私も分からんが、とにかく、急ぎでないならすぐに会いにいってくれ」

提督「それは良いのですが……。なぜ、私に?」

舞鶴「詳細は知らんと言ったろう。閣下は、昔からお前を気に入っていたからな。ただ単に会いたいだけなのかもしれん」

提督「はあ」

舞鶴「いいから、行ってこい。閣下の呼び出しなんだぞ?」

 よくは分からないが、舞鶴中将の言うとおりだ。閣下の呼び出しを無碍にはできない。

 俺は、舞鶴中将に頭を下げて閣下のところへと向かった。
261 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:47:05.44 ID:LO56XlXm0
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262 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:47:46.21 ID:LO56XlXm0






 閣下の屋敷は、帝都の一等地に建っている。立派な庭園がついた巨大な日本屋敷だ。見るものを圧倒する威風堂々とした出で立ちは、どこか閣下を思わせるものである。

 威容と形容すべき門の前で、俺は喉を鳴らした。

 何回来ても緊張する。無理もないだろう。相手は艦娘制度の始まりから艦隊を率いて深海棲艦と戦ってきた生ける伝説、軍神そのものだ。艦娘と一緒に内火艇で出撃して指揮を振るった、なんていう冗談みたいな言い伝えをもつ男なのだ。

 軍人としての格そのものが違う。引退したとはいえ、それはなんら色褪せない。

 俺は、手汗を拭いて呼び鈴を鳴らした。

 乾いた金属音とともに声がした。女性の声だ。澄んだ綺麗な声だった。

提督「失礼致します。御主人様に、柊結弦が挨拶に参りましたとお伝えください」

「ああ、柊中佐かあ」

 女性の声が、嬉しそうに弾んだ。門が開くと、現れたのは美麗な熟年の淑女であった。紫の髪に、紫の瞳。どこかで見た顔だった。

「久しぶりだね。私のこと、わかるかい?」

提督「……隼鷹さん?」

 まさか、この年老いた女性が? 自分でいいながら信じられない気持ちだったが、彼女以外に思い当たる節がない。

 彼女は、白い歯を見せた。

隼鷹「正解! よく分かったね?」

提督「……やはり、そうでしたか」

隼鷹「ははは、びっくりしたでしょ? 解体されて艦娘じゃなくなったからさ、魔法が溶けちゃったんだよ」

 魔法。その言葉で得心がいった。艦娘は艦娘になった時点で成長が止まってしまうのだが、解体された瞬間に人間に戻るためか、その反動で止まっていた時間分一気に歳を取るのだ。この現象を、一部では「玉手箱を開ける」などと揶揄するが、隼鷹さんほど歳を取る艦娘はまず存在しない。
263 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:48:47.08 ID:LO56XlXm0

 なぜなら、ほとんどの艦娘が歳を重ねる前に戦死して転生するからだ。それほどに艦娘の死亡率は高いのだが、隼鷹さんはその中でも例外中の例外、三十年前の開戦初期から生き残っている艦娘である。かなりのレアケースで、そんな強運に恵まれた艦娘は、後は雪風と大和くらいしかいない。

 だからこそ、彼女はこうして歳を取ったわけだが、理屈は分かってもさすがに驚きを禁じ得ない。

 俺が何とも言えない表情をしていたせいか、隼鷹さんは優しく、それでいて少し寂しそうに笑った。

隼鷹「まあ、そんな顔するなよな。私もお婆ちゃんになっちゃって戸惑ってるけどさ、それはそれで幸せなことなんだからさ」

提督「……そうですね」

 たしかに、そのとおりなのだろう。無惨に死んでは転生し無惨に死んでは転生を繰り返す他の艦娘たちに比べると、はるかに幸せなことなのかもしれない。

 俺が頷いて笑ってみせると、隼鷹さんも満足そうに微笑んだ。

隼鷹「じゃ、とりあえず上がれよ。提督……じゃなかった、豪三郎さんがお前のことを首を長くして待っていたんだからな。はやく会いにいってやれ」

提督「はい。お邪魔します」

 門を抜けて飛び石を渡ると、これでもかと広い玄関についた。靴を脱いで上がり、隼鷹さんに案内されて廊下を歩く。日本家屋らしい木の温もりに包まれた家だ。ヒノキのいい香りがした。

 長い廊下を歩いて辿り着いたのは、中庭だった。

 庭石に一人の老人が座っている。和服を着た、痩せた老人だ。暖かな陽の光を浴びながら、穏やかな表情で手に持った一葉の写真を見つめていた。小鳥が鳴き、鹿威しが静かに響く。まるで、洋画を見ているような幻想的な光景。
264 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:49:48.43 ID:LO56XlXm0

 その美しさに、一瞬、目を奪われた。そこにいるのは間違いなく呉元提督……閣下その人であった。

提督「……閣下」

 俺が声をかけると、閣下はゆっくりと顔をこちらに向けた。

 俺は、息を飲んだ。こちらに顔を向けて初めて気付かされた。その、やつれ切った表情に。

呉「結弦くん。久しいな」

提督「……お久しぶりです。お邪魔しております」

呉「ああ、今日はゆっくりしていくといい。……すまないな。ちょっと陽を浴びたくて庭に出ていたんだ。客間に移ろうか」

 閣下は微笑みながら言うと、杖をもってゆっくりと立ち上がった。そこに、大艦隊を指揮していた頃の気迫はない。

 隼鷹さんが慌てて駆け寄り、介抱する。以前なら強気で突っぱねていたはずのそれを、すんなりと受けていた。

 酷く、胸を締め付けられた。

提督「はい、わかりました」

 表情に出さないようにするのが精一杯だった。彼が人と会いたがらなかった理由が、分かってしまった。

 閣下は、俺のそばにやってくると心底嬉しそうに笑ってくれた。骨の浮いた手で、俺の身体を触る。

呉「事故があったと聴いていたが、どうやら怪我はしていないようだな」

提督「ええ、なんとか……」
265 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:50:56.95 ID:LO56XlXm0

 さすが、引退してはいても耳が速い。

提督「いらぬご心配をおかけして大変申し訳ありません」

呉「まったく、話を聞いたときは肝を冷やしたぞ。まあ、何はともあれ無事でよかったが」

 閣下はそう言って、俺の手元に視線を落とした。

呉「ん? その手に持っているのは、まさか……」

提督「ええ。松島屋の豆大福です。少々忙しかったのでこのようなものしか手土産にできず申し訳ないのですが」

呉「いや、素晴らしいものじゃないか。私は松島屋の豆大福に目がないのだ。良いものをありがとう。……隼鷹」

隼鷹「分かってる。茶だろ? 用意してくるよ」

 隼鷹さんは片目を閉じて、茶の用意に台所へ向かった。俺たちはその間に、すぐそばの客間に移動する。

 俺は閣下の真向かいに腰を落とした。つい習性で正座をすると、呉提督がさっそく豆大福の箱を開けながら言ってくれた。

呉「楽にしてくれ。お前は客だからな」

提督「はい、わかりました」

 胡座で座り直す。

呉「さて、今日は大変なところをいきなり呼びつけて悪かったな」

提督「いえいえ。閣下のお呼び出しならば、たとえ槍が降ろうとすぐに駆けつけますよ」

呉「大袈裟な物言いをするな。そう言ってもらえると嬉しくはあるが」

 カラカラと、閣下は笑う。
266 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:52:01.05 ID:LO56XlXm0

提督「……それで、本日はどのようなご用件で?」

呉「色々ある。まず、結弦くんの近況が聞きたい。最近はどうだ? 海域攻略は進んでおるか?」

提督「ええ、一応、バシー島沖の攻略も順調に進んでおります。このままのペースで行ければですが、今月中には攻略も完了するかと」

呉「ほう、そうか。では、次はいよいよ『魔の海域』だな。あそこはそこそこに大変なところだから、心してかかれよ」

提督「はい。覚悟して参ろうと思っています」

呉「良い良い、その粋だ。お前なら心配せんでも大丈夫だろう」

提督「……」

 この人は、こんなにも優しい人だったろうか? 俺の知っている閣下のイメージは、もっと峻厳で、もっと苛烈なものだ。直属の部下にも刃のように容赦なく切り込み、厳しく接するイメージがある。

 それは、俺に対しても例外ではなかったはずだ。やはり、引退されたことや息子さんが亡くなられたことが、彼の心境に変化をもたらしているのだろうか?

 閣下のやつれきった顔に、答えがあるのだろう。彼の苦悩は、俺ごときに押し測れるものではないはずだ。

 閣下が豆大福に手を付け出した。そのタイミングで、隼鷹さんがお茶を運んできてくれた。

提督「ありがとうございます」

隼鷹「いいってことよ。それより、今日はゆっくりしていってくれよな。久しぶりの来客で私も嬉しいんだ」

 隼鷹さんは、本心から言ってくれているのだろう。お茶を差し出す手は労りに満ちていた。

呉「かっかっ、本当は酒を出したいところなんだがなあ。秘蔵の三十年ものの響があるんだ」

隼鷹「駄目だぜ、豪三郎さん。酒は医者に止められているだろ?」

呉「むっ、貴様に酒を止められると調子が狂うな」

隼鷹「どういう意味だよ?」

呉「自分の行いを振り返らんか。蛙は口から飲まれるということだ」
267 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:53:00.40 ID:LO56XlXm0

 ぐうの音も出ないのだろう、隼鷹さんが押し黙った。俺が思わず噴き出してしまうと、赤らめた頬を膨らませながら「……最近は止めてるし」と呟いた。

隼鷹「……じゃ、じゃあ、私はもう行くからな! なんかあったら呼んでくれよ?」

 隼鷹さんが恥ずかしそうに去っていく。閣下はその後ろ姿に静かな瞳を向けていた。

呉「あれは、いい女だろう?」

提督「……そうですね」

呉「私が辞任するときに、付いて行くといって聞かなくてな。戦力の低下に繋がって後任に迷惑がかかるから止めろと言っても、まったく応じなかった。『お前一人には抱え込ませない』と言って。……頑固な女だよ」

 まるで数十年来の連れ合いを自慢するように、彼の口調には深い慈愛が感じられた。これが、開戦から背中を預け合ってきたもの同士の絆というものなのだろうか。

 こんな美しいものが、あったのだな。艦娘は、道具のように扱われてばかりだと思っていた。そうした艦娘ばかりが、うちには沢山いるから。いいように扱われ、捨てられ、玩具同然に弄ばれ……壊れてしまった子たちばかりが。

 俺も、みんなと、こんな風になりたいものだ。果たして、なれるのだろうか。こんな絆を、作れるのだろうか?

呉「……結弦くん」

提督「はい」

呉「お前の鎮守府は、難しいだろう?」

 即答はできなかった。思わず口をつぐんでしまう。そして、この反応が、何よりも雄弁に事実を語っていた。

 閣下は、隼鷹さんに向けていた目を俺にも向けてきた。すべてを見透かすような瞳だった。
268 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:53:56.05 ID:LO56XlXm0

呉「すまないな。お前があの改装鎮守府の提督になったのは、すべて私の力不足だ。東の捨て艦を止められなかったのも、療養所の改装という馬鹿げた計画も……私は止めることができなかった。もし、その頃の私にもう少し力があったなら、君をあのまま輝かしい道に進ませることができたはずなのに」
 
提督「……閣下」

呉「責任を感じていたのだ、ずっと。本当にすまなかった」

 閣下はそう言って、頭を下げた。目頭が熱くなるのを禁じ得なかったが、舌唇を噛んで我慢する。

 彼は、分かってくれている。俺が背負った業の深さを。苦しみを。

 なんて慈悲深い人なのだろうか。仏を見ているような気分だ。

提督「閣下、頭を上げてください。……俺があの鎮守府を任されたのは仕方のないことです。閣下のせいではありません」

 そうだ、すべての原因は東提督という悪魔にある。あの事件の前から、捨て艦を無くそうと尽力していた閣下を責めることなどできるはずがない。

 鹿威しがなった。静謐さを揺らす、優しい響き。

提督「私は……この半年間、さまざまな悍しいものを目にしてきました。正直、海軍のあり方、艦娘制度のあり方に疑問を抱いたことも事実です。しかし、あの鎮守府に就任してよかったと思うこともあるのです」

 予備役とはいえ、海軍大将だった人物に批判をぶつけるなど、ずいぶん大それた行いだ。だが、閣下は諌めることなく黙ってくれていた。眼で、続きを促してくる。

提督「……それは」

 俺は唾を飲み込んで、言った。

提督「それは、彼女たちの笑顔を取り戻したことです」
269 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:55:00.79 ID:LO56XlXm0

 浜風や陽炎、三隈、榛名、羽黒、青葉、その他の苦しみぬいて流れ着いた艦娘たち。一人ひとりの顔を思い浮かべる。彼女たちは、涙ばかりを流していただろうか? 否、南西鎮守府での日々の中で、少しずつ少しずつ笑顔を取り戻していったはずだ。

 その笑顔は、大いに意味のあるものだ。行き場を失った彼女たちの、最後の寄る辺となっている事実。それはあるいは俺だけの自己満足なのかもしれない。だが、ささやかでも彼女たちの救いになったことは、どんな勲章よりも嬉しい俺だけの成果なのだ。

 誰が何を言おうと、俺は、大きな財産を手にしている。手にしているのだ。

提督「……私は、それだけで意味のあることだと思っています。だから、どうか気にしないでください。私は、その役目を果たすことにはなんの躊躇もありはしないのですから」

 いつもは誤魔化してばかりの俺も、今回ばかりは嘘をつかなかった。これは、紛れもない俺の本心。

呉「……言うようになったな」

 言葉とは裏腹に、閣下の目は優しかった。

呉「あの洟垂れが、ずいぶんとまあ……。今日はやはり酒を用意するべきだったな」

提督「隼鷹さんが飛んできますよ」

呉「それもそうだな」

 呉提督は白い歯を見せた。茶を一口含むと、今度は一点変わって目を細める。

呉「しかし、結弦くんよ。必ずしも、すべての艦娘がお前の期待に答えてくれるわけではない。……その意味は分かるな?」
270 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:55:43.03 ID:LO56XlXm0

 俺は顔をしかめそうになるのを堪えて、頷いた。

呉「そのとき、お前がどういう選択をするのか。あの鎮守府で、お前に問われる真価はそこにある。すべての艦娘が平穏無事に笑って過ごしていけるわけがないことは、心しておけよ。そんな極楽は、お前たちの世界には存在せん」

 いちいち、もっとだ。俺がずっと目をそらし続けてきた問題を、彼は目の前に持ってきて問答をした。間違いなく、俺の逃げ腰な短所をわかった上で。

呉「壊れるなよ、結弦くん。私は、お前なら乗り越えられると信じたい」

提督「なぜ、そこまで……そこまで、私のことを?」

呉「若者の力は侮れんということだ。私はな、ひたむきな若者が好きなんだよ」

 閣下は大口を開けて、笑ってくれた。
271 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:56:31.14 ID:LO56XlXm0




 湿っぽい話が続いたからか、その後閣下は取り留めのない雑談に切り替えて、クールダウンを測ってくれた。海軍内部の人間だけにわかる身内ネタから始まり、閣下が好きな相撲の話や落語の話、そして、内火艇で出撃し指揮を取ったという話が本当であることなど……閣下は元々話好きだったようで、話題は尽きなかった。

 時計の針が大分進んで、陽射しが冷たくなってきた頃。閣下は急に皺の刻まれた顔を引き締めた。

呉「……さて、話は変わるが、お前にはもう一つ大事な話があるんだ」

 急激な変化に、思わず姿勢を正した。閣下の顔は、海軍大将の頃のものに戻っていた。

提督「なんでしょう?」

呉「お前たち末端にはまだ伏せられていた話についてだ。この話は、提督会議の議員たちしか知らない」

 それはつまり、超極秘事項ということである。

 唐突にそんな話題になったことに、俺は戸惑いを隠せなかったが、閣下の反応を見る限りでは、本日の本命はどうやらこれのようだ。

 俺は喉を鳴らして、閣下の言葉を待った。

呉「私がまだ呉鎮守府で指揮をしていた頃の話だ。東鎮守府の事件が発覚する直前……十一月初頭の夜のことだ。呉鎮守府第一艦隊は、サーモン海の定期攻略を終わらせて帰途の途中であった。その帰り、呉鎮守府近海付近で事件が起きた」
272 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:57:31.66 ID:LO56XlXm0

提督「事件」

呉「ある、正体不明の深海棲艦に出くわしたのだ」

 閣下の言葉は淡々としていたが、どこか苦々しい重さが混じっていく。

呉「敵は一隻。見たこともない艦影で、艦種はまったく類推することができなかった。我が隊の旗艦武蔵は、慎重に慎重を重ねて敵を観察し、攻撃を行うべきかどうか報告を入れてきた。私は了承したよ。燃料にも弾薬にも余力があったからな。しかも、敵は一隻だった。いかなる艦種であっても、たやすく撃滅できるであろうと、慢心もあった」

提督「……」

呉「結論から言うと、我々は大損害を被った。そのたった一隻の敵艦に、駆逐艦一隻が轟沈、旗艦武蔵を含めた三隻が大破に追いやられた」

提督「――な」

 絶句した。呉鎮守府の第一艦隊といえば、海軍最強の艦隊だ。それが、たった一隻の深海棲艦にそれほどにしてやられるなど……。到底信じられない話だ。

 だが、閣下はそんなことを冗談で言う人ではない。

呉「あれは、とんでもない化物だった。駆逐艦のような見た目のくせに、武蔵に匹敵する威力を持った主砲と、正規空母並の艦載機保有数を誇っていた。しかもそれだけではない。雷装巡洋艦を思わせるほどの魚雷まで搭載していたよ。砲撃、雷撃、航空戦……まるで、すべての深海棲艦を合成した生物
のようであった。そんなものを、化物以外のなんと形容すればいいか。……私たちの艦隊は、そいつにいいようにしてやられた。最終的に刺し違える覚悟で、武蔵が撃沈させることに成功したが、一歩間違えれば私たちは全滅していたであろう」

 息を飲んだ俺を一瞥し、閣下は息を吐いた。
273 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:58:48.17 ID:LO56XlXm0

呉「……信じられない話だろう?」

提督「はい」

呉「だが、事実だ。あいつは、ニタニタ笑いながら我が艦隊を相手にしていたそうだ。思い出したくもない、悪夢のような夜だったよ。私たちは、そいつのことを戦艦レ級とカテゴライズした」

提督「……戦艦レ級」

 そんな化物が現実に存在するという事実に、寒気を覚える。しかも、呉鎮守府がその艦隊と出くわした場所は、海域の最深部などではない。ただの帰り道だ。しかも、鎮守府近海のすぐ近く。

 それは、これまでに考えられてきた深海棲艦の常識とは明らかに違う。

提督「……縄張り行動をとっていない」

 俺の呟きに、閣下は肯定の言葉を述べた。

呉「そうだ。あれは、あんな場所に現れていいような敵ではないし、群れずにたった一隻で行動していた点でも普通とは違う。これまでの下らん理屈のどれにも当てはまらない。……まあ、だからこそ、提督会議以下には伏せられたわけだがな。いらん混乱を避けるためという弱腰な理由で」

 その口調には強い皮肉が籠もっていた。だが、もっともだ。そんな危険な存在についての情報を周知徹底しないなど、本当にどうかしている。もし、呉鎮守府ほどの実力を持たない鎮守府が、不運にもそいつと出くわしたらどうなるか……考えるまでもない。

呉「あれの存在が示す恐るべき事実は、そこだけじゃない。……深海棲艦がさらなる進化を遂げたという事実。それが、もっとも恐ろしい」

提督「そう、ですね。いわゆる、姫クラスとも違うようです」

呉「やつらは、縄張り行動に縛られるからな。だが、レ級はそうじゃない」

 俺の脇から冷たい汗が流れ落ちていく。風の音、水の流れ、鳥の声。あらゆる情報が重たく、入ってくる。

 閣下が何を言おうとしているか、俺には分かってしまった。

呉「……あれが、私の出くわした一隻だけだったならいい。突然変異種で、百年に一体生まれるような個体ならいいだろう。だが、そうは思えない。もしあれが、次から次へと生まれてくるようなら……」

 閣下は、言葉を切って続けた。
274 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 20:59:46.63 ID:LO56XlXm0

呉「我々は戦争に負けるぞ、結弦くん」

 鋭利な刃で突き刺されたかのように、俺の心にその言葉が食い込んでくる。南鎮守府の空襲でも感じた嫌な予感が、ジワジワと重油のように湧き出してきた。

 まさか、あの事件の犯人も――。

 証拠のない推論にしかならないが、そう考えてしまっても違和感はおきない。空恐ろしさを感じたが、答えが出しようはないので、一旦保留する。

提督「……私は、どうすれば良いのでしょう? この目の前に現れた危機に対して、どう対処すればよいのでしょうか?」

呉「備えろ」

 俺の質問に、閣下は即答した。

呉「正直、いまのお前にできることは少ない。だから、いまは戦力を整えて備えるんだ。来たるべき日に向けてな。そして、海域攻略に勤しめ。実力のないものの意見に耳を傾けるような海軍ではない。しっかり実力をつけ、お前の影響力を高め、やがて……やがて革命を起こせ。お前と、舞鶴でな」

 俺は大きく目を見開いた。

 いま、この人は俺にクーデターを起こすよう示唆したのだ。そこに、予備役となった男の本音が現れていた。

 俺にこの話をした理由も、きっとここにある。海軍には、閣下を擁していた「呉派」と横須賀大将が統べる「横須賀派」に分かれて派閥争いをしていた。前者は深海棲艦の殲滅と早期終戦を目指す「積極決戦派」とも呼ばれ、後者は国防の優先と鎖国体制の完成を目指す「鎖国派」とも呼ばれている。両者は互いに主義主張を対立させ歪み合ってきたが、「呉派」だった東提督が起こした捨て艦事件や、閣下の引退が重なり、呉派の求心力は低下。今の海軍は、横須賀派にほとんど牛耳られているのが現状だった。

 その現状を打開しろ、ということだ。彼ら「鎖国派」は自身の信仰する優生思想と、自分たちの利益にしか興味がない。この戦線の膠着状態によって、うまい汁が吸えている彼らがいつまでも椅子に座っていたら、戦争は終わらない。戦争を終わらせるため、敗戦を防ぐため……そのための、クーデター。
275 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:00:47.97 ID:LO56XlXm0

呉「だが、焦るなよ。お前たちには今、味方になる勢力が少ない。今行動を起こしたところで、国民の支持も得られないだろう。あまり時間もかけてはいられないが、時期焦燥に走っては足元を掬われる。横須賀も、佐世保の小僧も存外手強い。やつらを相手するには、十分な準備がいる」

提督「……」

呉「迷っているのか?」

提督「……いえ、そういうわけではありません。ただ、私にその役目が務まるかどうか、正直自信がありません」

呉「弱気になるな。お前ならできるさ。……ただ、こんな負担を背負わせてしまうのも、また私のせいだ。すまないな」

提督「いいえ。海軍を変えなければいけないとは、私もずっと思っていたことです。……跡を引き継いだ私たちが、やらねばならないことだとは思いますので」

 内心、かなりのプレッシャーは感じていた。閣下は評価してくれているみたいだが、どうしてそんな風に思ってもらえるのかも分からないし、俺は自分をそこまで過大に評価してはいない。酒に頼り切らねばやっていけぬ、軟弱な人間だと思っている。

 どうして、俺なのか。そう思ってしまうところはある。だが、俺や舞鶴提督がやらねばならないことも分かってはいる。

提督「……閣下が、いてくれれば」

 つい喉元からその言葉が零れ出た。はっとして、閣下の方を見ると、困ったような笑顔を浮かべていた。

呉「……お前たちには、酷なことをさせてしまっているな」

提督「すいません、つい……」

呉「いいんだ。いい。私の引退が、海軍に大きな歪みをもたらしたのは事実だからな。だが、私はあそこで辞めなければならなかった。辞めなければ、私は桐生家の人間として、いや……人としての道を反することになっていた」

 閣下の顔には、寂寥感が影になって浮かんだ。閣下は床の間に目を向けている。そこには、彼の奥方と息子さんの写真があった。
276 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:01:41.27 ID:LO56XlXm0

 何があったのか、俺は知っている。彼が息子さんにいかなる処断を降したかも。その責任をとって、海軍を退いたことも。

 言葉に尽くせぬほどの後悔が、黒い瞳に陽炎となって映っている。さっき、中庭でも写真を眺めていた。その写真は彼の懐に仕舞われているが、きっとその写真にも息子さんが映っているに違いない。

 ずっと、いつ何時でも……彼は自分を責め続けているのだ。

呉「人は、ときに自分の選択を後悔する」

 その言葉には、苔むした岩のような重みがあった。

呉「もっといい選択肢があったのではないか、とな。それは避けられないことだ。さっきも選択の話をしたが、これから君にはたくさんの選ばなければならない状況が訪れるだろう。後悔することも、きっとたくさんな。そのとき君がどうするのか、私は見届けたかったが……まあ、それはいい。ただ、例えその選択肢が後悔するものだったとしても、選んでしまった以上、その事実は変えられない。その後の行動、考えが重要なんだ」

提督「……はい」

 首肯しながら気づいていた。彼は俺に言いながら、自分にも言い聞かせているのだと。呪い囚われた自分に対して。

 そして俺に、自分のできなかったことを託している。

呉「結弦くん、いや柊結弦中佐。お前はきっと、大いに成長できる。……海軍の、この国の未来を託したぞ」
277 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:02:41.96 ID:LO56XlXm0






提督「今日は、お世話になりました」

 俺は玄関で、呉提督と隼鷹さんに頭を下げた。時刻はもう八時を回ろうとしていたためか、外はすっかり暗く、鈴虫の声が風流に響いていた。

呉「ああ、楽しかったぞ。また内地によったときは家に遊びにくるといい」

隼鷹「中佐ならいつでも歓迎するぜ」

 二人の笑顔に、俺の心に優しい温かさが灯った。帰る家がある人は、きっとこんな気持ちになるのだろうな。

 俺は感謝の言葉をもう一度述べる。すると、呉提督が俺のそばにやってきて抱きしめてくれた。

提督「……閣下?」

 閣下は、何度か背中を叩いた。あまりにも弱々しい力だった。

呉「元気でな……。未来ある若者よ」

提督「……」

 俺の頬に、微かな湿り気を感じた。驚いたが、何も言わず抱き止める。隼鷹さんが、目頭を抑えているのが見えた。

 数十秒、そうしていただろうか。閣下は、名残惜しそうに俺を離すと、今度は突き飛ばしてこう言った。

呉「いけ。今日はもう遅い。振り返らずに帰れよ」

提督「……はい」

呉「……じゃあな」

 俺は、踵を返して玄関を出た。彼の言葉どおり振り返らずに門を抜ける。

 そこで、追ってきた隼鷹さんに声をかけられた。

隼鷹「待てくれ中佐」

提督「……忘れものでもありましたか?」

隼鷹「違うよ。せっかくだし、送ろうと思ってな」
278 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:03:37.14 ID:LO56XlXm0

 俺は戸惑いに眉をひそめた。有り難い話ではあるが、時刻が時刻だ。女性に夜道を歩かせるわけにはいかない。

提督「有り難い話ですが……」

隼鷹「いいから。送らせてくれ中佐」

 強い言葉で遮られた。

 彼女の瞳には有無を言わせぬ光が宿っている。何か話があるようだ。

提督「わかりました。よろしくお願い致します」

隼鷹「すまねえな。無理言って」

提督「……いえ」

 俺たちは、外灯に照らされた夜道を歩き出した。

 星の見える夜だった。帝都は鎮守府に比べると明かりが多いからか、それほど星は見えないが、綺麗な夜空には違いなかった。

 しばらくは沈黙したままで、足音しかしない。川辺に辿り着いた頃だろうか。水の流れが耳に響いてくるころに、隼鷹さんが口を開いた。

隼鷹「今日はありがとうな。豪三郎さん、久しぶりに嬉しそうな顔をしていたよ」

提督「そう言っていただけて、光栄です」

隼鷹「ほんと……安心した。ずっと塞ぎ込んでたからなあ」

提督「……」

 隼鷹さんは、上を見上げていた。空を見ているわけではないのは、舌唇を噛んで何かを我慢している様子で分かった。俺は何も言わない。彼女が口を開くのを、ゆっくりと待った。

 やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
279 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:04:38.90 ID:LO56XlXm0

隼鷹「癌なんだ」

提督「え?」

隼鷹「末期の肺癌なんだよ、豪三郎さん。医者からももって後三ヶ月って言われている」

 そんな告白をされるとは思ってもいなかったので、閉口せざるを得なかった。

 癌だと? あの、閣下が?

 閣下の痩せた姿が想起される。まさか、あの姿は単に心労でああなったわけではなくて――。

隼鷹「鎮守府にいた頃に、癌が見つかったんだ。その頃からもう手遅れでな。医者からも療養を勧められたんだけどさ。ほら、あの性格だろ? 死ぬまで軍人であることに拘って、無理をおしてずっと指揮をしていたんだ。まあ、あいつらしいよな。私もできたら、あいつが死ぬまで指揮を取れればいいなって思っていたんだ」

 でも、提督は引退した。隼鷹さんは、苦しげな声でそう言った。

隼鷹「仕方のないことだとは思う。あんなことがあったんだ。だから、辞めるしかなかったこともわかる。けどな、無念だろ。あまりにも、無念だ。あいつがどんな思いで、三十年も艦娘を率いて戦ってきたか全部知っているからさ。私、悔しくて悔しくて……! 最後の最後まで、あいつには海にいて欲しかったのに!」

 堪えきれなかったのだろう。隼鷹さんの目から大粒の涙がボロボロと零れ出た。かける言葉なんて見つかりようがない。俺も、あまりのショックと動揺で頭が真っ白だった。

 閣下……。どうして? 

 そういう弱みを人に見せる人ではないことは分かっている。でも、これはあまりにも悲壮にすぎるのではないか。

 俺を抱き止めたときの、あの湿り気は……そういうことだったのだ。そして、今日見せた優しさも、かけてくれた言葉も。自身の終着点を見据えたものだった。

 ふと、俺の目からも一筋、こぼれた。閣下がこれまで俺にくれたもの、すべてが頭の中で流れていく。そのたびに、目からこぼれるものは増えていった。
280 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:05:54.50 ID:LO56XlXm0

提督「……閣下」

 閣下は、何も言わなかった。

 何も言わず、俺に思いだけを託した。正直、少々荷が重いと思っていたが、閣下の思いの深さをこうして再確認した今、考えを改めないといけない。

 時間が残されていない彼と違って、俺にはまだたくさんの時間がある。少しでも海軍を、艦娘たちの暮らしをよりよくするためにかけられる時間が。

隼鷹「……柊中佐。私からも、頼む。あいつは国民の、そして何よりも艦娘たちのためにこの戦争を終わらせようと、すべてをかけた。……無理はいえないけどさ、どうかその意思を継いで欲しい」

提督「……」

隼鷹「……頼む」

 俺は、隼鷹さんの華奢な肩を掴んだ。彼女は涙に濡れた顔を上げ、まっすぐに俺を見据えている。老いてしまったとはいえ、その顔は一切の曇りなく美しいものであった。

 本当に、素晴らしい女性だと思う。

提督「わかりました」

 俺の言葉は、自分でも驚くほどに強かった。

提督「俺が、この戦争を終わらせます」

 閣下の意思を継いで。

提督「約束します、俺が必ず」



281 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/23(月) 21:08:11.39 ID:LO56XlXm0
投下終了です。
今回は珍しく光しかない話でした。あと、この作品を始めたのが5年近く前なので、現在の艦これ二期とズレがある部分もあるとは思いますが、どうかご了承ください。
282 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/03/29(日) 12:38:48.42 ID:d5FDQrfG0
すいません。
訂正です。南西鎮守府はすでに、沖ノ島海域の攻略に乗り出してました。しかも、それ以前に沖ノ島海域の前は東部オリョール海でした。
大変申し訳ありませんでした。
283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/31(火) 06:41:11.23 ID:ZPqUUG26O
おつおつ
284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/04/10(金) 18:47:15.93 ID:Ygu59TXRO
good
285 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:47:39.43 ID:tGxqIDnD0





 小型飛行艇の窓からは、海と空しか見えなかった。細い雲が鰯のように泳いでいる。

 のどかで、美しい景色だった。内地を往復するたびに目にする景色とはいえ、その美しさは色褪せることがない。

 だが、今はその美しさが目に毒だった。

 俺は視線を少しだけ東に移した。朝日が目に刺さるり、思わず目を伏せる。狭まった視界の先に、群れとなった艦載機の影をとらえた。

 横須賀所属の軽空母の直掩隊だ。機体はすべて零戦五二型で、勇まし気に編隊を組んではいるが、ところどころ列が乱れたり機体がふらついたりしているせいで、格好がついていない。玩具の兵隊たちが威張っている姿にも似ている。

 苦笑を浮かべずにはいられない。こんな頼りないものが、たった十機護衛しているだけなのだから。

 ……俺は本当に提督なのだろうか?

 溜息をついて、硬い背もたれにもたれかかった。鋼鉄の天井は、空の輝きを嘲笑うように冷たかった。

 俺が鎮守府への帰路についたのは、閣下とお会いした日の明朝だった。

 南西鎮守府へは横須賀港から飛行機に乗って帰るのが通例となっている。その空域の制空権は完全に海軍の手中にあったし、近海に空母出現の報告例はほとんどない。雑魚とはいえ深海棲艦が出現する海路より、交通手段として安全なのだ。
286 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:53:29.35 ID:tGxqIDnD0

 だが、それにしてもこの扱いは酷いものだった。他の鎮守府の提督たちならば、横須賀を代表する一航戦や正規空母たちの護衛が何十機も付けられる。俺の鎮守府よりも近く、階級もさほど変わらないはずの峠鎮守府や西鎮守府だって、きちんと正規空母の庇護におかれるのだ。それが、俺は軽空母の護衛がわずかばかり付くだけ。しかも、今年着任したばかりの新米である。

 南西鎮守府の長になってからというもの、ずっとこうだった。あらゆるところで冷遇され、差別を受けてきた。

 頭に来ないわけがない。横須賀提督のいけ好かない顔に唾でも吐き捨ててやりたい気分だ。しかも奴は、戦艦レ級の存在を知っている。それなのにも関わらず、こんな対応をしているわけだ。俺は死んでも構わないということか。

 これだけ差別されるのは、俺が呉派に属しているからだ。自分の政敵を徹底して貶めようとする愚考から生まれてきたものだ。だが、それだけが理由ではない。上層部が、俺の鎮守府を軽視していることにも理由がある。

 つまりそれは、俺の仲間を遠回しに蔑視しているということでもある。

 ……どこまでもコケにしやがって。

 俺だけが馬鹿にされるのならまだいい。まだいいが、彼女たちへの侮辱だけはどうしても許せなかった。

 しかし、どうすることもできなかった。今の俺には文句を言うだけの力がないからだ。この侮辱を頑として跳ね返すだけの権力がない。渋柿を渋柿と分かっていて食うことしかできなかった。

 悲しいことに、それが現実なのだ。閣下の言うとおりである。俺が無力だから、今の現状がある。

 苛立ちと無力感。空を濁って見せていた鬱屈の正体はこれだ。

 俺は懐から酒瓶を取り出した。例のごとくブラックニッカ。ラベルの「髭の王様」の目が、なんだか冷たげに見えた。
287 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:54:25.85 ID:tGxqIDnD0

 ――また儂に頼るのか?

 そう言われているような気がする。

 悪いか? 飲まなきゃやっていけないんだ。

 ――どうして?

 俺は自嘲的に笑う。

 もう心が折れそうだからだ。閣下の意思を引き継いだ気になって、隼鷹さんともあんな約束を交わしたのに。英雄気取りで調子にのってしまったわけだが、現実をつきつけられて萎えてしまったわけである。

 あの力強い宣言はどこにいった? これじゃあ、公約を一切守らない無能政治家とまるっきり一緒じゃないか。

 髭の王様がニヒルに笑った気がした。

 ――風刺にでもされるといい。ドン・キホーテのようにな。

 その冗談はやめてくれ。

 俺はキャップを回して口をつけた。

 無力な俺に、いったい何ができるというのだろうか。提督会議を風車とするなら、俺はまるっきりロバに乗ったドン・キホーテだ。風車に突撃して倒そうとしていたわけだ。

 喉を焼きながら、思う。

 閣下たちが俺に託したのは、他に誰もいないからだ。消去法で残ったのが、俺だけだったという話で……。そうじゃなければ、俺に託そうなんて思わない。俺が閣下の立場なら迷わず他の人間に声をかける。

 酒瓶を口から離したとき、狙いすましたように飛行機が揺れた。乱気流にぶつかったためだろう。瓶から溢れた雫が、俺のズボンに降りかかった。
288 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:56:32.59 ID:tGxqIDnD0

「すいません、中佐」

 パイロットが前を向いたまま、謝ってきた。

提督「いい、気にするな」

 ハンカチを取り出してズボンに押し当てる。拭いながら、はっとした。

 陽炎からもらったハンカチだった。先日はこれで涙と鼻水を拭ったわけだが、今はウイスキーという弱気の証を吸い取ってくれている。

 陽炎の笑顔が、ちらついた。

提督「……」

 もちろん、全部は消えない。スボンには染みができてしまった。だが、湿り気は幾分かマシになっている。

提督「……わかっているよ」

 そう、わかっている。俺と舞鶴の先生以外に、艦娘たちの笑顔を本気で守ろうとしているものは誰もいない。

 だから、俺がやらないといけないのは、わかっている。

 腹の中に住んでいる弱気の虫が、また顔を出しただけだ。

 ブラックニッカを見つめる。「髭の王様」は何も言わなかった。

 しっかりするんだ。

 俺にはまだ、時間があるんだ。無念を抱えたまま朽ちていくことしか許されない閣下の想いを、忘れるんじゃない。

 こんな貧弱な精神のままでいいはずがないんだ。彼女たちの笑顔を守るんだろう? ならば、俺がしっかりしないといけない。先生も言った。俺たち指揮官に泣き言は許されないと。
289 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:57:41.07 ID:tGxqIDnD0

 俺は、空を睨んだ。揺れる艦載機を睨んだ。その先にある権力の横暴を睨んだ。

 許してはいけない。この屈辱を。

提督「……」

 それに、俺にはまず何よりも第一に向き合わなければならない問題がある。

 雷の問題だ。

 彼女とどう向き合えばいいか、まだ答えは出ていない。そもそも、正解など出しようがないだろう。経験の浅い俺にはそれだけの引き出しがないのだ。

 だが、俺は選択しなければならない。

 たとえ、間違っていたとしても逃げてはいけない。閣下は言った。人は、選択を誤るときがあると。そのときにどう考え、その後悔と向かい合うかが大切なのだと。人生は選択の連続であり、後悔の連続である。その荒波の中で、俺たち人間は生きている。

 俺は、すでに雷の選択で多くの過ちを犯してしまった。共依存を許し、周りに不満を抱えさせ、彼女の暴走を見てみぬふりしてしまっていたのだ。あの夜のことは、その選択の過ちが招いたことにすぎない。そう、彼女だけに原因があるわけではない。俺の罪でもある。

 だから、俺にはこの過ちに対して向かい合う義務がある。どんなに怖くても、どんなに許せなくても、彼女を蔑ろにしていいわけがない。

 戦わなければならない。俺は、俺自身と。

 それに――。

 俺は、ハンカチに目を落とした。そこには優しい染みがあった。ムラサキケマンのような形の染みが。

 陽炎と、浜風の顔が浮かぶ。陽炎は、俺の夢を笑わず真剣に手伝ってくれる。浜風は、俺を求めながら俺も雷も助けようとしてくれる。

 俺には、仲間がいる。

 もう、独りじゃないんだ。
290 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:58:49.56 ID:tGxqIDnD0




 鎮守府についたのは〇八三○だった。

 小さな飛行場に降り立った小型飛行艇は、俺を降ろすと颯爽と帰って行った。不器用な艦載機群を伴って帰る姿は、まるでヒナを連れまわる母鴨のようである。どっちがどっちを守っているのかまるっきり分からない。

 俺は息を大きく吸い込んだ。六月になろうとしていたが、朝の空気はまだほんのりと寒い。暗く佇む修理中の工廠が視界に入ってきた。弱虫が、顔をのぞかせた。

 目を閉じて、思いっきり頬を叩いた。弾けた痛みがじんわりと引いていく中、目を開く。

 工廠の暗さは影を潜めていた。

提督「……よし」

 歩き出した。アスファルトはいつもより重く硬い。だが、足はしっかり前へと進んでくれた。

 心臓の鼓動が、走るように速くなる。冷たい脇汗も流れていく。しかし、俺に躊躇はなかった。恐怖に抗い、義務を実行する意志があった。

 飛行場を出ると、艦娘寮に差し掛かる。二つの寮に挟まれるように道があり、その側には休憩できるベンチや広場などもある。そこで談笑していた艦娘たちが、俺を見つけた途端立ち上がって手を振ってくれた。

 敬礼じゃないのが、嬉しかった。安堵もあった。ここにいる者たちからは邪気を感じられない。何か面倒ごとがあったわけではなさそうだ。

 雷が面倒ごとを起こしてやいないか、かなり心配だったのだ。彼女は俺から離れると発狂することがある。だからこそ秘書にして側に置いたし、外出するときは必ず連れていっていたが、さすがに今回ばかりは向き合うことができず、置いてきてしまった。

 雷には悪いことをしたとは思うが、彼女のしたことを考えれば、詮無いことだ。
291 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 19:59:45.19 ID:tGxqIDnD0

 俺は、艦娘寮を過ぎ、鎮守府本館の入口へとついた。そこには、陽炎と浜風がいた。なんだか落ち着かない様子でそわそわしているように見える。連絡は入れていたから、待っていてくれたのだろう。

 二人は俺を見つけると、嬉しそうに笑ってくれた。おかえりなさい。その言葉が、優しく耳に溶ける。

提督「ただいま」

 俺は、ほっと息をついた。

浜風「お勤めご苦労さまでした。……どうでしたか?」

提督「一週間の謹慎だ。工廠が直るまで大人しくしておけだとさ」

 陽炎と浜風は顔を見合わせる。陽炎が、わかりやすいくらい安心したように表情を緩めた。

陽炎「よかったあ……。懲戒免職にでもなるんじゃないかって心配したわよ」

浜風「ほら、私の言ったとおりでしたでしょう。絶対、謹慎くらいで済むと思っていました」

 浜風は余裕そうに言った。

陽炎「……ほんと、あんたの言ったとおりだったわ。なんで分かったのよ。預言者かなんかなの? たまに怖くなるんだけど」
 
浜風「まあ、簡単な推理です。上が考えそうなことくらい、すぐに分かりますので」

 鼻を鳴らして微笑を浮かべる。言葉を曖昧に濁している辺りが、なんとも彼女らしい。その推理の行き着いた先に触れたら、陽炎を傷つけることになると分かっているからだ。

 この鎮守府を、代わりにやりたいなんて奴は一人もいない。だからこそ、上の連中は俺に押し付けたのだから。

浜風「でも、よかったじゃないですか。たったの一週間で済んで」

提督「……ああ。一ヶ月とか言われたら目も当てられなかったよ」

浜風「そのくらいでよかったんですけどね」

 浜風がぼそっとこぼした言葉に、俺は固まった。浜風は「ああ」と呟いてすぐに訂正した。
292 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:00:48.89 ID:tGxqIDnD0

浜風「失言でした。提督の謹慎が長引けば長引くほど、遠征をサボタージュできると思ってしまいました」

提督「……あんまり、そういうことを言うのは関心せんぞ。俺は仮にも上司なんだから」

浜風「そうですね。失礼しました」

 浜風は頭を下げる。

 俺は冷や汗をかいていた。浜風の言葉はさらっと出てきたものだが、だからこそ毒を感じられるもののように思えた。……いや、いくらなんでも、考えすぎか。彼女は雷のことを救おうとしているのだから。

陽炎「あんたでもそういうこと思うのね」

 陽炎の言葉は呑気だった。浜風が肩をすくめてみせる。

浜風「私も人間ですので。休めるときは休みたいと思うのですよ。ね、提督も分かるでしょう?」

提督「あ、ああ。……でも、俺としては出撃できなくなるのは困るがな」

浜風「真面目ですね、本当に」

 喉を鳴らして笑う浜風は、不思議なくらい色気があった。

提督「……ところで、二人ともいいかな?」

 改まった言い方をしてしまう。二人の視線を受けて、唾を飲みこんだ。

 まだ逡巡と恐怖は、死んでいない。奥に潜んでこちらを伺っている。

提督「雷のことなんだが。あいつは、いまどこにいる?」

陽炎「雷ちゃん? 執務室で、事務作業しているわよ」

提督「……そうか」

 安心と怒り、恐れ、複雑な感情が渦を巻く。場所を聞くことで、その存在が輪郭を持って感じられた。

 あいつは、普通にしている。暴れていない。それを確かめられたことはいいことだ。だが、あんなことをしておいて普通に仕事ができる神経も疑いたくなる。理不尽な感情だとは分かっているが、感じずにはいられない。
293 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:01:56.67 ID:tGxqIDnD0

陽炎「……司令?」

 陽炎が、怪訝そうに眉を傾けた。

陽炎「どうかしたの? なんか辛そうに見えるんだけど」

提督「……いや、すまない。なんでもないんだ。ただ、ちょっとあいつのことが気になってな。それだけなんだ。それだけ」

浜風「それだけじゃないでしょう」

 強い断言だった。感情がこもっているわけでもないのにはっきりと響き、俺は思わず押し黙った。

 浜風は、ゆるりと目を細めた。最近、気づいた。問い詰めるときの彼女の癖だと。

浜風「提督、なにか悩んでいることがあるんでしょう? それも雷さんのことで」

提督「……」

浜風「しかも、この前のこととは別のことで悩んでいる。依存が強くなってきて、眠れないこととは別のことで。……いや、正鵠を射てはいませんね。繋がってはいるけれど、もっと酷くなったことで悩んでいる。そう言った方が正しいですかね」

 図星も図星だった。まるで見てきたかのように、浜風は、俺の悩みを見透かしている。

 彼女の目が、鷹のような鋭さを帯びた。

浜風「……提督は、それをどうにかしたいと思っている。けど、自分では答えが出せなくて悩んでいる。そんなところですかね。それを、私達に相談しようかどうか悩んでもいた。でも、寸前のところで、言葉が出なかったのでしょう?」

陽炎「……本当なの、司令?」

 俺は口を開いて閉じ、そして意を決したように口を開いた。

提督「……ああ。当たりだ。参ったね」

浜風「……」

 浜風は、溜息をついた。
294 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:02:51.44 ID:tGxqIDnD0

浜風「提督。私、言ったと思うんです。ここにいるみんなを守ることに協力すると。提督もそのうちの一人です、と。提督が苦しんでいるなら、その苦しみを一緒に解消したいと。言いましたよね?」

提督「もちろん、忘れてはいないよ」

浜風「では、隠し事はなしです。戸惑う理由もないはずですね?」

提督「……そうだな。君の言うとおりだ」

 俺は頷いて、息を吐いた。彼女には本当に敵わない。

提督「話すよ、ちゃんと。すまない、俺の覚悟が足りなかったんだ」

浜風「謝らなくていいですよ。提督らしいと思います」

陽炎「……たしかにね。臆病者だもん提督」

 陽炎がからかうように言った。抗議しようとしたが、やめた。陽炎の瞳は、慈愛に満ちた色をしていたからだ。夢に一歩近づいたような、嬉しさを隠せない表情だった。

陽炎「……そっか。そんなことを言ってたんだ」

 その顔は、ずるいな。

 俺は二人から目を逸らして頭をかいた。やはり、思い違いではない。俺は独りではないのだ。

提督「……じゃあ、聞いてくれるか?」

 二人が頷いたのを見て、俺は話始めた。

 あの夜に雷とトラブルがあったこと。そして、それをどう解消すればいいか分からないこと。今からどういう風に向き合っていくべきか。

 俺が悩んでいたことは出来る限り話した。
295 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:04:17.76 ID:tGxqIDnD0

 だが、当然、言えないこともあった。強姦されそうになったことだけはどうしても言えなかった。ちゃんと話すと言っておきながら、話さないのは欺瞞かもしれないが、いくらなんでも話せることにも限度はある。

 いくらこの二人でも、雷が俺に対してしようとしたことを知ったら、さすがに嫌悪感をあらわにするだろう。とくに陽炎は怒り狂うはずだ。彼女は、そういう尊厳を踏みにじるような行為に、誰よりも強い反発を抱いている。この二人に嫌われてしまったら、雷は本格的に居場所を失ってしまう。

 雷のためにも言えない。だから、少しだけ内容を変えて伝えることにした。キスを求められ、断ったら喧嘩になったということにしたのだ。

浜風「……なるほど。それで、喧嘩になったわけですね」

 俺は頷いた。心苦しかったが、信じてもらうしかない。

 浜風は、俺を見詰めていた。サファイアのような瞳が、俺を捉えて離さない。金属探知機に探られるような居心地の悪さを覚えながら、俺は見つめ返した。

 視線がぶつかる。

 何十秒かして、浜風が目を逸らした。

浜風「……提督は本当、呆れるくらい優しいですね」

 苦々しい言葉だった。浜風は、スカートの端を強く握りしめる。何かに耐えているかのように、強く。

 その様子を見ていた陽炎が、気まずそうに頬をかいて、困ったように眉根を下げていた。
296 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:05:35.68 ID:tGxqIDnD0

陽炎「あー……。なんか繋がったわ。一昨日のあれってそういうことなの?」

提督「ああ」

陽炎「……なるほどね。そういう状況も踏まえて考えるとさ。『そのこと』だけじゃなくて、これまで積もりに積もってきたものが一緒に爆発したのかな、って感じがするんだけど、どう?」

 それは、あながち間違いとも言えない。あれは、これまでの選択ミスの積み重ねが起こしたことなのだから。そこに連動する負の感情は、当然無視できない要素だろう。

陽炎「……限界がきちゃったわけね。雷ちゃんを置いていったのも、そういうことだったのか。どおりで、ちょっとおかしいと思ったのよ。提督が、これまで雷ちゃんを放ったらかしにしたことなんてなかったからさ」

提督「あいつには悪いことをしたかなとは思う。でも、どうしても許せなかったんだ。あまりにも……あまりにも一方的だったからな」

 語気がどうしても強くなる。言葉に出すと、どうしたって封じ込めていた荒い感情は表に出てきてしまう。

 あれは、一方的なんてものじゃない。

 あれは、破壊だからだ。

陽炎「……司令、ごめんなさい」

 バツが悪そうに、陽炎は謝ってきた。

提督「なぜ謝る?」

陽炎「いや、だって……司令があんなに取り乱すまで悩んでいたのに、私、何もしてこなかったじゃない? あの子が司令だけにしか心を開かなかったのは確かなんだけど、だからといって放置していい理由にはならないし……。任せきりになっていたなと思ってさ」

提督「……」

陽炎「だから、ごめん。仲間なのにさ、責任を押し付けるようなことをして」

 陽炎の言葉は、とても嬉しかった。素直で、優しい彼女の美点が、破壊的な気分を引き波のように静めてくれる。
297 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:06:49.39 ID:tGxqIDnD0
undefined
298 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:07:42.17 ID:tGxqIDnD0

提督「……ありがとう。その言葉だけでも十分嬉しいよ。俺も自分一人で抱え込んで誰にも頼ろうとしなかったからな。あいつがあんな風になったのは、俺の責任が大きいんだ。もっとはやく、お前たちに頼ればよかったな」

陽炎「……そうかもね。私達も、ちゃんと声かければよかった。自分のことしか見えてなかったわね」

提督「だから……その……今からでも頼らせてくれ」

陽炎「ん。わかった」

 陽炎は、ニンマリと笑ってくれた。太陽のように温かい笑みだった。陽炎がみんなから慕われる理由が、とてもよくわかる。

提督「それで……俺はどうすればいいかな? 一人で考えていたんだが、どうしても答えが出なくて。君たちの意見を聞きたい」

陽炎「そうね……。本来なら、提督の元から離すのが一番いいんだけど、そういうわけにはいかないだろうから。たぶん、また暴れちゃうだろうし」

提督「だろうな」

 否応なく思い出す。雷の自傷癖が止まらなくなるところを。制圧に入ったことがある陽炎も、その現場を当然見ているから、思い出しているようだ。顔が少しだけ青くなっている。

提督「……ただ、最悪の場合は専門家に引き渡すことも視野に入れていこうとは思っている。かなり強引だが、拘束した上で、監視をつけてな。でも、今はそうすることができない状況だから」

陽炎「どういうこと?」

提督「憲兵との出撃特約があるからだよ」

 陽炎が、「ああ」と嫌悪に満ちた呟きをこぼした。

陽炎「だから、うちの隊に入れたんだもんね。……ほんと、困ったわね。どうするのが一番いいかな。専門家を交えつつ話すというのは……もうやったんだっけ?」

提督「とっくの昔に。駄目だった。俺以外にはまったく心を開かないから。一言も喋らなかったよ」

陽炎「そうかー……。一筋縄じゃいかないわね」

提督「そうなんだよな。だから困っている」

 俺たちは二人して肩を落とした。こうして話してみると、改めて状況の深刻さが見えてくる。正直、詰んでいるように思えるくらいだ。
299 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:08:43.47 ID:tGxqIDnD0

 だから、どうしたって見える選択肢は現状維持になってしまう。あの夜の出来事をなかったことにして、これまでどおりに接するという消極策。正直、被害者と加害者の図式がはっきり刻まれた今、これまでどおりに振る舞うことができるとは思えない。

 俺は、ロボットじゃないんだ。どうしたって、あの光景はまとわりついてくる。おそらく、長い時間をかけても、消えはしないだろう。自分の心を納得させて飲下すには、あまりにも劇薬すぎた。

陽炎「……一応、私とは普通に会話してくれるから、ちょっとアプローチはしてみるわ。正直、仲良くなれる自信はないんだけど、少しでも提督の負担を減らすにはこうするしかないと思う」

提督「助かるよ」

陽炎「榛名さんとかにも改めて事情を話して……。いや、彼女は無理か」

提督「榛名に限らず、東から来た連中はやめた方がいい。雷に対してかなりの負い目があるから」

陽炎「……そうよね」

 陽炎は、悲しげに目を伏せた。雷の事情をよく知っているからだ。

陽炎「とりあえず、やるだけやってみる。私の頭じゃこのくらいしか策が出てこないわ。ごめんけど」

提督「いや、いいんだ。考えてくれただけでもすごく嬉しい」

陽炎「……浜風はなんかないの? こういうの、あんたの専売特許みたいなもんでしょ?」

 陽炎が、今まで沈黙を保っていた浜風に水を向ける。浜風は、ゆっくりと頭をこちらに向けた。はらりと舞う銀髪から、隠れていた瞳が覗いた。

 乾いた目だった。冬の森林のごとく、空虚で寒々しい。
300 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:10:06.61 ID:tGxqIDnD0

浜風「対策もなにも……」

 浜風は口の端を歪めて、衝撃的なことを口にした。

浜風「もう手は打ってますよ」

 俺たちは、完全に固まった。唖然、とはまさにこのことだろう。世界から音という音が消えていた。

 先に我に返ったのは陽炎だった。

陽炎「ちょ、ちょっと。どういうことなのそれ?」

浜風「手は打ったといっても、別に大したことはしていませんよ。私が、個人的に雷さんとお話しただけです」

陽炎「は? う、嘘でしょ? いったいいつ?」

浜風「先日の昼です。私の方から執務室に出向いて話しました」

 浜風は何でもないことのように言うが、寒気すら感じた。あの雷と、二人で話をしただと? とてもじゃないが応じるとは思えないし、あまりにも危険ではないか。

 雷は、人のことを菌扱いし、俺の手を燃やそうとしたやつだ。しかも、その菌とは他ならぬ浜風のことを言っていたのだ。そんなやつが、まともに浜風の話を聞くとはどうしても考えにくい。

 俺の視線を受けて、言いたいことを察したのだろう。浜風は苦笑を浮かべた。

浜風「まあ、最初は話なんてする気はないって態度でしたけどね。花瓶も投げられました。ですが、懇切丁寧に、粘り強く話しているうちに、こちらの話を聞くようになりましたよ。ちゃんとね」
301 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:10:57.15 ID:tGxqIDnD0

提督「いったい、どんな話を……」

浜風「このまま提督を困らせ続けたら、提督と居られなくなりますよ、と説明しました。提督が夜眠れていないことや、憲兵に目をつけられている現状なども踏まえて話をして、どれだけ提督が困っているのか分かっていただきました。提督は、かなりご立腹だと。このままでは、あなたを解体しかねないと」

陽炎「そ、それって脅しじゃない! 何考えてんのよ!」

 陽炎が詰め寄らんばかりに声を上げる。まったくもって同意だ。いったい何を考えているんだ、浜風は。そんなことをしたら雷が何をしでかすか分かったものではない。

浜風「夢を見ているのですよ、彼女」

 浜風は淡々とこぼした。

浜風「ここは軍隊ですよ? その無機質さをまったくもって理解していない。提督は、私達の上官であり、生殺与奪に関与できるほどの権力を有する方。本来なら気軽に話もできないほどの存在です。友人でもなければ、『家族』でもない。だから、現実をわかってもらっただけです。四面楚歌に陥っている現状をね。それを理解していないから、あんな風に付け上がってしまうのですよ」

 酷く冷たい。浜風の言葉からは、一切の甘えや感傷は消えていた。どこまでも無味乾燥としている。

 俺たちは、閉口するしかなかった。

浜風「舐められてはいけませんよ、提督。それは優しさではなく、ただの甘えです。依存傾向の強い方は、他者との心理的な距離が曖昧になりやすいので、とくに一線を引いておくことが大切なんですよ。舐められてしまうと、どこまでも際限なく付け上がりますから」

提督「……」

浜風「初動でそれに失敗してしまったのでしょう? だから、こうなってしまった。これまでの策が一切成功しなかったのも、あなたが舐められて甘く見られてしまっていたから、上手くいかなかったんですよ。『司令官は、何をやっても私を見捨てない。怒らせても、いやいやすれば私を見てくれる』そんな風に子供じみた考えを抱いていたのでしょうね、彼女のことだから」

 浜風は鼻で笑った。
302 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:12:03.88 ID:tGxqIDnD0

浜風「私も甘く見すぎていました。提督の意思を尊重して、消極的なやり方にこれまで異議を挟みはしませんでした。ですが、もうそういう状況じゃない。……思い知ったでしょう? 今までのやり方じゃ上手くいかないということを。だったら、やり方を変えないといけません。脅しだろうがなんだろうが、甘えを捨てて厳格な態度を示すべきなんです。今からでも一線を引いて、距離を分からせるしかないんですよ」

提督「……君の言うとおりだとは思うよ。しかし、それをしたら雷が暴走してしまうかもしれないだろう? それは考慮していなかったのか?」

 少しだけ責めるような言い方になってしまった。浜風の言っていることは間違ってはいない。間違ってはいないが、勝手に動かれた身としては、あまり気分は良くない。

 それに、不安もあった。その話を聞いた雷がどういう反応を示したのか、まったく読めないから。

浜風「その点は大丈夫ですよ。そんなパフォーマンスを許すほど、私は甘くありませんから。長い長い釘を刺しておきました」

 事実、何も問題は起こっていないでしょう?

 浜風は、目を細めてそう言った。

陽炎「そうかもしんないけど……。でも、いくらなんでも強引すぎるんじゃない? 司令にも何も相談することなく、勝手にやったんでしょ? ちょっとどうかと思うわよ」

浜風「なんとでも言ってください」

 突き放すような言い方だった。
303 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:13:03.60 ID:tGxqIDnD0

浜風「どうせ、遅かれ早かれこうしなきゃいけなかったんですから。それを、私が私の意思で早めただけ。どう思われようが知りませんよ」

陽炎「……あんたねえ。その言い方はないでしょ。提督が、これまで雷ちゃんのためにどれだけ心を砕いてきたと思ってんのよ? そこを考えなさいよ」

浜風「その結果がこれでしょう? 提督一人に任せきりにしてしまったから、にっちもさっちもいかなくなってしまった。本当の意味で、提督の心が砕けてしまっていたら笑い話にもなりませんよ」

 陽炎はぐっと、言葉を呑み込んだ。浜風の言調はまさに鋭利な刃そのものだった。陽炎の痛いところを見事についている。

 冷たい眼差しの奥が、炉のように燃えていることに気づいた。珍しく感情的になっているようだ。

 ふいに、日が陰った。太陽が雲に隠れたのだろう。微風が肌を触り、空気が冷えていることを否応もなく感じさせる。

 浜風は入口から離れた。俺に近づいて、手に視線を動かし、俺を見上げた。

浜風「感情論など、なんの役にも立ちませんよ。だから私が動いたんですから。……提督なら、わかってくれると信じていますよ」

提督「……浜風」

浜風「では、私は戻ります。やれることはやりましたし、提督を見ることができて安心しましたから。後はよろしくお願いしますね」

 浜風は、去っていった。微笑のような苦笑のような曖昧な表情を浮かべて。

陽炎「ちょ、ちょっと」

 声を投げかけようとした陽炎を、手で静止する。首を横に振ると、陽炎は諦めたらしい。大きく息を吐いていた。
304 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:13:44.14 ID:tGxqIDnD0

陽炎「……いいの、司令?」

提督「ああ、いいんだ」

 本当に、気の回る子だなと感心する。

 浜風は、不甲斐ない俺に代わって汚れ役を引き受けてくれたのだ。たしかにやり方は強引で褒められたものではないが、その点は無視してはいけない。

 俺は、浜風の背中から鎮守府本館へと目を移した。本館の二階の窓が、不気味なほどカーテンで閉ざされている。

 賽は、すでに投げられているのだ。俺の思わぬ形で。その事実は、いかに意図せぬ選択とはいえ、もう変えようがない。

提督「……やるしか、ないよな」



305 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/12(日) 20:14:21.33 ID:tGxqIDnD0
投下終了です
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/12(日) 20:36:59.39 ID:hrJig2KPO
乙です
307 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:34:54.75 ID:Kyye75DL0


 執務室の扉の前で、俺は立ち尽くしていた。

 ドアノブがカタカタと音を立てている。俺の手が震えているせいだ。白い手袋の中は汗で湿っていた。極度の緊張が自律神経を昂ぶらせ、交感神経を活発にしているからだろう。指先だけではなく体の芯にいたるまで活性化しているかのようだ。鼓動が、内側から全身を叩いて、鼓膜の外へと突き抜けていく。

 落ち着け。自分に言い聞かせる。落ち着くんだ。落ち着いて対応すれば大丈夫なんだから。

陽炎「……大丈夫なの?」

 俺の様子を見かねたのか、陽炎が心配そうに声をかけてくる。

陽炎「やっぱり、私も付いていった方がいいんじゃない? 本当に外で待機していていいの?」

提督「……大丈夫だ」
 
陽炎「そうは見えないけど」

提督「……大丈夫だよ。君は、待っていてくれ」

 俺は陽炎に笑いかける。口元の緩み方が硬かったのは自分でも分かったので、良い表情は作れていないだろう。

 陽炎の眉は、ハの字に曲がったまま戻らなかった。だが、俺の意を組んでくれたのか、肩を強く叩いてくれた。骨が軋むほどの威力だった。

 悲鳴を堪える。

陽炎「なら、しっかりしなさい。後はいくしかないんだから」

提督「そ、そうだけどな。……もう少し手加減してくれよ」
308 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:36:18.51 ID:Kyye75DL0

陽炎「これでも蚊を叩くくらいの力でやったわよ」

提督「……基準がゴリラすぎる」

陽炎「は?」

提督「いやなんでもないです」

 思わず敬語になってしまう。どうして俺の周りにはこんな筋肉バカみたいなやつばかりいるんだ。

 俺の反応に、陽炎が噴き出した。突然だったから目を白黒させてしまう。

陽炎「いや、ごめん。司令情けないなーって思ってさ」

提督「悪かったな」

 憮然とした態度で言ってしまう。

陽炎「ごめんごめん。気は悪くしないでね。なんというかさ……司令らしくていいなあって思って。こういうヘタレなところも、司令の魅力だから」

提督「ヘタレなところが魅力ってどういうことだよ。むしろ欠点じゃないか」

陽炎「欠点があるくらいが面白いのよ、人間は」

 陽炎は白い歯を見せて、そう言った。からかうような態度と言葉には、彼女らしい温かさが街路の朝顔みたいに顔をのぞかせている。

陽炎「司令の欠点は、美徳でもあると思っているの、私。それだけ私達のことを……雷ちゃんのことを真剣に考えてくれているからこそ、思い悩むし、立ち止まってしまうんだと思うから。そんな司令官はあんただけよ」

提督「……そうかな」
309 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:37:31.35 ID:Kyye75DL0

陽炎「そうよ。雷ちゃんには悪いけど、他の司令官ならあの子のことなんてあっさり解体しているわよ」

 それは否定できない。いや、まず間違いなく面倒になってさっさと解体してしまうだろう。そして、ゴミのように捨ててしまう。

 陽炎は、咳払いした。

陽炎「まあ、ともかく。自信ないかもしれないけど、私は司令のことを信じているのよ。司令なら大丈夫だって」

提督「……」

 俺は頭をかきながら、目を伏せた。少しだけ、不覚にも耳元が熱くなるのを感じていた。

陽炎「だから、心配すんな。なんかあったって、この陽炎様が助けに入ってやるんだから、大船に乗った気で行けばいいの」

提督「そうだな。陽炎が守ってくれるなら百人力だ」

陽炎「そうそう。それに、浜風の言葉もあるでしょ?」

 陽炎は言葉を切って、窓の方に目をやる。視線は浜風が消えていった方角に向けられていた。葉桜がそよそよと緑の生命力を振りまき、靡いている。

陽炎「……たしかに、あいつがやったことは身勝手で余計なことかもしれないけど、大丈夫よ。あいつがああ言ったのも、自信があってのことだろうしね。そういうときのあいつの言葉は絶対に間違いないから」

提督「言い切るんだな」

陽炎「同期で親友よ? 当たり前でしょ」

 陽炎の言葉は強かった。深く結びついた信頼が確信となって現れているのを感じる。

 たしかに、浜風の言葉なら間違いないだろう。これは、彼女の人間性だけではなく、能力に裏打ちされた信用でもある。それがなければ、いくら俺でも厳重に注意しただろう。汚れ役を買って出てくれたとはいえ、だ。

陽炎「さっき言ったことと被るけど、私はあの娘も司令のことも信じている。だからあんたも、私達のことを信じなさい」

提督「分かった。……行ってくるよ」

陽炎「ん」
310 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:38:21.83 ID:Kyye75DL0

 陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。

 俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。

 陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。

 俺は、扉を開けた。

 むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。

提督「……」

 なんだ、これは。

 背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。

 理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。

 棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。

 時計が、不気味に音を刻んだ。
311 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:39:35.60 ID:Kyye75DL0

 陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。

 俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。

 陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。

 俺は、扉を開けた。

 むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。

提督「……」

 なんだ、これは。

 背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。

 理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。

 棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。

 時計が、不気味に音を刻んだ。
312 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:41:28.80 ID:Kyye75DL0

 間違いない。ここは、執務室だ。

 困惑に突き動かされるように、俺は辺りを見渡した。雷の姿が見えない。俺の机にも、秘書艦娘用の机にもその姿がない。いや、白い塊の群れに隠されて見えなくなっているというのが正確だろう。

提督「……雷?」

 妙に胸がざわつくのを感じながら、俺は秘書艦の名前を呼んだ。返事はなかった。再度、今度は少しだけ大きな声を出してみたが、それでも返事はない。

 部屋の形を思い出しながら、俺は慎重に近づいた。資料の山の一つが、つま先に当たってしまい音を立てて崩れる。心臓が飛び出る思いをしながら、それでも近づくと、ようやく雷の姿が見えた。

 俺は、息を呑んだ。

 一心不乱に、取り憑かれたように、雷は資料にかじりついていた。何かをブツブツつぶやきながら、ひたすらペンを走らせている。目元に大きな隈をつくり、見開かれた目は、虹彩に至るまでヘドロのように濁りきっていた。破れてしまうんじゃないかと思えるほど、充血しきった結膜が痛々しい。

 おそらく、ろくに寝ていないのだろう。それどころか、この部屋から出ることなく作業し続けているに違いない。普段は手入れを怠らない茶色い髪の毛が、使い古したモップのようにちりぢりになっている。風呂にも入っていないのか。

雷「……なきゃ」

 雷の呟きが、ペンの音に混じって聞こえてくる。

雷「もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと、もっと、もっともっともっと」

提督「……」
313 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:42:29.08 ID:Kyye75DL0

雷「もっとやらないと、もっとやらないと。やらないと要らない子になっちゃう。いやだ、いやだ、もっとやらないと。もっとしないと。もっと頑張らないと。いやだいやだいやだ」

 後退ってしまった。ムカデが這い回るような戦慄が脳神経を駆け上がる。雷に気を取られすぎたせいで、俺は後ろを確認するのを忘れていた。資料の山に足を取られ、よろめいてしまった。尻もちを付くようなことはなかったが、短い悲鳴を上げてしまう。さすがに雷の鈍った知覚にも触れたようで、餌を狙う魚類のような瞳が、こちらに向けられた。

 黒い瞳に、飲み込まれそうだった。そこに映った俺の姿は、命を狙われる小動物のように怯えきっている。

 時計の音は、心臓の鼓動に掻き消された。

雷「……あ、司令官。おかえりなさい」

 彼女は、相好を崩して俺の帰還を歓迎した。が、その笑顔からは、花弁の禿げあがった桜のように可憐さの欠片もない。

 闇の底に咲いた悪の華だ。誰もが目を背けるような空虚さが、彼女を笑わせている。

雷「ごめんなさい。仕事に集中していて……。司令官が帰ってきたことに気づけなかったわ。遠くに行っていたから疲れたでしょう? コーヒーいれるわね」

 雷はそう言って立ち上がると、コーヒーカップを取りに向かった。足取りは覚束ない。資料の山など眼中にないと言わんばかりに跳ね除け、跳ね除け。その動きによって空気が撹拌され、酸味を含んだ汗の臭いがつんと鼻まで届いた。彼女は、棚の扉を開ける。

雷「待っていてね。すぐ淹れるから。司令官は座っておいて」

提督「……」

 声が出てこなかった。ただただ、汗が首筋を流れ落ちるばかりだった。俺は突っ立ったまま、危うい手付きでカップを取り出し、豆を用意する雷を見つめることしかできない。
314 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:43:27.21 ID:Kyye75DL0

 どうすれば……何が起これば、こんな風になるんだ。理解が追いつかない。浜風はいったい何を言ったんだ。どんな言葉をかければ、こんな……こんな……。

 そのとき、俺は最悪なものを見つけてしまった。それだけは見たくはなかった。雷の机の上に置いてある物体。俺は悲鳴を上げそうになって、口を抑えた。

 注射器だ。注射器と、やってはいけないもの。無造作に置かれた箱にはこう書いてある。

 ――ヒロポン。

提督「……お前」

雷「な、なに? どうかしたの司令官」

 雷は、俺の顔を見て怯えたように身体を震わせた。

雷「……あ。も、もしかして、コーヒーじゃなくて紅茶だった? いつもコーヒーだったから……ごめんなさい」

提督「馬鹿野郎!! そんなことを言っている場合か!」

雷「ひっ」

提督「いったいどこでこんなものを手に入れた! 俺の鎮守府では厳重に禁止しているはずだぞ!」

 そうだ。こんなもの。こんなものは、俺の鎮守府には一切置いてはいない。置いていてはいけないものだ。軍内部で暗喩的に「ダメコン」とも呼ばれているこれは、艦娘や兵士を無理やり働かせるために使われることがある、非人道的な代物だ。これのせいで廃人になってしまった艦娘を、俺は何人も目にしている。

 だからこそ、禁止にしていた。蟻の一匹も入れないくらいの厳重さで取り締まっていたのだから、これがあるわけがないんだ。

 あまりの悍ましさに、身体の震えが止まらない。
315 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:44:54.11 ID:Kyye75DL0

雷「あ、あああ、あ、あの。その、その」

 雷は目をキョドキョドと回しながら動揺している。言葉が言葉になっていない。だが、俺は止まることができなかった。すべてが、消し飛んでいた。これまでの不安や苦悩など、どうでも良くなっていた。ただ怒りだけがあった。俺は紙の束を蹴り飛ばし、箱を掴み取ると、雷に詰め寄った。

提督「どこで手に入れたと聞いているだろうが! 答えろっ!」

雷「あ。そ、その元気の出るお薬のこと? わ、わかんない。私の机の上に置いてあったから、使っていいのかと思って」

提督「いいわけないだろう! うちでは絶対に取り扱わないと再三訓示していたはずだぞ!」

 雷はパニックに陥っていたのだろう。頭が真っ白になっているのか、目線が俺を捉えようとしない。まるでピンポン玉のように、さっきよりも速く目が動く。

雷「……そうだっけ? いやそうだっけじゃないごめんなさい。あの、勘違いしてて。本当に机の上にあったから使っていいのかと思っちゃったの。前の鎮守府ではよく司令官さんが『嫌なことを忘れられるよ』って打ってくれていたし。実際忘れられたし。悪いものじゃないからいいのかなって。大丈夫なのかなって」

提督「そんなやつの言うことなんか信じるなっ! それはただの毒物だ! 人間を破壊する悪魔のような薬だ! 何度も教えただろう!」

雷「ひぃっ。怒鳴らないで怒鳴らないで。こ、これがあれば元気が沢山出るし、いつもより頑張れると思っただけなのよ!」
 
 雷はへたりこんだ。手にしていたカップが転がり、インスタントコーヒーの粉末が床を汚した。芳しい香りが漂うが、空気は少しも清涼としない。頭を抱える雷が、髪をかき乱し出した。

雷「頑張らないと頑張らないと、司令官が許してくれないと思って。いらない子だって思われるのが怖かったの! だ、だから、お薬で元気出してやらないとって。そのくらいしないと駄目だと思ったの」

提督「……」
316 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:45:45.57 ID:Kyye75DL0

雷「怒らないで、ねえ……。わ、私頑張ったんだよ? 今月分の定期報告の書類も一日で全部片付けたの。後は司令官の裁可を貰うだけの状態にしておいたわ。遠征の資料も、出撃の申請書も、工廠の開発報告だって! 過去に遡って全部まとめておいたわ! 司令官が会議のときに困らないようにしようと思って。ま、まだ他にもたくさん……。もちろん、終わってないやつもまだ一杯あるんだけど、調子が上がってきたの。きっと今日中に終わらせ」

提督「もういい」

 自分の意思とは関係なく、言葉がこぼれた。頭の中にある何が音を立てて切れていた。雷がビクリと震えたが、そんなこともどうでもよくなっていた。

 俺の口は、緩んでいた。どうしてそうなってしまうのかはわからない。いま、自分の感情は小波のように静まったものになっていた。怒りの先を通り越した感覚が、俺を一時的に静謐な躁状態にしている。身体が、異様に軽かった。ああ、こういう感覚なのか。

 限界とは、こういうことか。

提督「もう、いい。もういいんだ。頑張ったな、雷」

雷「……司令官?」

 恐る恐る声をかけてくる雷にも、笑顔を向けられた気がした。ああ、なんて軽いんだろうか。これまで感じていた重荷がすべて無くなった気分だ。

提督「は、ははは。そうだなあ。こんだけやったんだもんな。すごい、すごいよ。ああ、すごいと思う」

 ドアノブが擦れる音がした。俺は、「くるな!」と叫んでいた。心配した陽炎が中の様子を伺おうとしたのだ。今の現状を彼女に見られるのが嫌だった。こんな、情けない現状を。ドアノブは、止まった。
317 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:46:44.44 ID:Kyye75DL0

 俺は椅子を引いていた。いつも俺が座っている椅子だ。慣れているはずなのに、いつもよりもずっと硬い。尾てい骨に感じる鈍い痛みがゆっくりと蓄積されていくのを感じながら、俺は億劫な気持ちで天井を見上げた。

 隅を侵食するように黒い染みが広がっていた。もともと病院だったこの鎮守府には、随所にこうした歪な名残が見られる。

 壊れたものを、無理やり使おうとするからだ。だから、こんなことになるんだ。

 雷が、しゃっくりをあげながら泣き始めた。大きな目から溢れる涙を拾おうと拾おうとするかのように、手で拭っている。俺の気持ちは水面に浮かんだ氷のように冷めていた。泣き声がうるさいとすら思えた。ショッピングモールで、玩具を買ってもらえずに泣き叫ぶ子供を見たときのような気持ちだった。

 慟哭が、天井まで響いていた。

提督「……なんでだろうな」

 本当に、なんでだろう。俺はただ、みんなと穏やかに生きたいだけなのに。あまりにも落ちた闇が深すぎて、頭がどうにかなりそうだった。

 俺は、この闇からみんなを拾い上げようとしていたはずだ。でも、できる気がしない。閣下や浜風たちと話して持ち直しかけていた決意が、ガタガタと崩れていく気がする。
318 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:47:36.53 ID:Kyye75DL0

 いくらなんでもこれは酷すぎる。だって、だってだ――薬はこの鎮守府には「ない」はずなんだ。俺が赴任してから内部にあったものは一掃したし、外から着任した艦娘たちの持ち物検査だって徹底してやった。だから、あるはずがない。あるはずがないんだ。でも、現実はここに存在している。じゃあ、なんである?

 決まっている。誰かが、なんらかの方法で持ち込んだからだ。

 雷の話を信じたわけじゃないが、彼女の持ち物である可能性は極めて低い。それは、遺憾ながら隣で見てきた俺だからわかる。こいつはそんなに器用じゃない。今こうして、俺にあっさり見つかったことからも分かる。

 だから、誰かが彼女に渡した可能性が高い。

 引き笑いしか出てこなかった。雷が泣き叫ぶ中で、そんな表情を浮かべるだけしかできない俺も、きっとどこかが可笑しくなりかけている。

 これは現実か。それとも悪夢なのか。

 地滑りに飲み込まれたように、この現実からは逃れることはできない。

 頭の中に、ある歌の詩が浮かんでくる。

 なあ、静流。

 俺は、どうすればいいんだろうな?



319 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/15(水) 15:48:55.17 ID:Kyye75DL0
投下終了です。
すいません、ミスで二回投下してしまった部分があります。以後気をつけます
320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/17(金) 14:47:47.21 ID:xeUKbFEQO
乙ん
321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/18(土) 11:26:07.07 ID:KlJluISsO
乙です
復活待ってました。応援してます
322 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:20:02.02 ID:nx3ZtZEk0







陽炎「……まさか、こんなことになるなんて」
 
 陽炎が眉間を押さえながら、そう言った。苦しげな吐息混じりの声はけっして大きいものではないが、静寂に包まれた療養室の中では重たく響いた。

 俺は椅子に座り、項垂れているだけだった。首筋に倦怠感が重くのしかかっている。視線の先には雷の腕がある。点滴を打たれた腕には血の気がなく、いつもの健康的な輝きがない。ただ、白い。死人のように白い。そのせいか、リストカットの跡がかえって生々しく見えて、グロテスクな死体の彫像が横たわっているようでもあった。

 でも、目を逸らそうとも思えない。嫌悪と吐き気と無力感に蹴られ続けた俺には、現実から逃れる気力すらもなかった。いや、かえって現実にしがみつくことで正気を保とうとしているのかもしれない。綱渡りの綱が見えなくなったまま立ち往生している状態だった。

 雷はあの後、薬の効果が切れたのか、糸が切れたように倒れてしまった。蓄積された疲労が、溢れ出したストレスと不安とともに一気に押し寄せたのだろう。荒い息を吐きながら、身体中に汗を浮かべて苦しんでいた。なのに、その姿を無気力に眺めることしかできなかった。いつの間にか部屋に入ってきていた陽炎に叩かれ、「しっかりしなさい!」と声をかけられ、ようやく我に返ることができた有様で。雷をここまで運んでくれたのは、陽炎と彼女が呼び出した浜風だった。

 あれから、一時間くらいが経つ。空はいつの間にか雲で覆われていた。薄暗い部屋に、薄ら寒い風が流れてくる。水っ気があったから雨が降り始めたのかもしれない。向かいに立っていた浜風が、窓を閉めた。
323 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:20:56.90 ID:nx3ZtZEk0

 サッシが窓枠を叩き、外界の音が消えた。強調された沈黙を厭うものは誰もいない。俺も、浜風も、陽炎も、三者三様にこの重たい空気を享受している。点滴筒を滴る生理水の音が、ポツポツと時を刻んでいた。

 何回、そのリフレインを聴いただろうか。浜風が口火を切った。

浜風「……私のせいですね」

 答える気力はなかった。

浜風「私が言い過ぎたせいで、雷さんを追い詰めてしまいました。……すいません」

陽炎「……そうね」

 陽炎が代わりに答えてくれた。

陽炎「明らかに、やり過ぎたわね。勝手に行動したのも本来のあんたらしくないし。正直言うけど、ちょっと前のあんたに戻ったみたいだったわよ。……そこは反省した方がいいと思う」

浜風「はい。そうですね」

陽炎「でも、仕方ない部分もあるわ。……こんなものを隠し持っていたなんて、誰にも読めるわけないんだから」

 陽炎の憎々し気な物言いは、彼女の手の中にあるものに向けられているのだろう。あの薬の箱は、陽炎が持っていた。

陽炎「……どうして、こんなものが。司令が徹底して取り締まっていたはずなのに」
324 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:21:59.18 ID:nx3ZtZEk0

浜風「おそらくですが、彼女が隠し持っていたものではないと思います。そんなに器用な性格ではありませんし」

陽炎「じゃあ、誰かがこの子に渡したってこと?」

浜風「その可能性が高いでしょう。誰が渡したのかはわかりませんが」

陽炎「……信じられない」

 陽炎が絶句していた。無理もない。俺も同じ気持ちだからだ。こんなものを不正な手段で手に入れ、雷に渡した輩がいることなんて信じられないし、信じたくはない。

 だが、現実はこうだ。人間を狂わせる悪魔の薬はここにあり、その誘惑に身を委ねたやつがここで眠っている。

提督「……浜風の言うとおりだ」

 喋るのも億劫だったが、口を開いた。

 視線をゆっくりと上げていく。眉を下げた浜風の後ろに、窓がある。俺の顔が映っていた。酷い顔だ。目が死んでいる。正直、何もかも放り出して酒に溺れてしまいたい。浴びるほど飲んで、ゆらゆらと街の中を彷徨い、そのまま夜の街頭のごとく消えてしまいたい。いっそ、いっそ俺も……親父やお袋のように……。

 俺は頭を振るった。馬鹿な考えを浮かべてはいけない。俺には、そんなやり方で楽になる資格はないのだ。弟を殺したカインのように、生き地獄を彷徨い歩いていかなければならない。たとえ、頭のどこかがおかしくなりかけていたとしても。

 浜風の青い瞳は、湖面のように静かだった。陽炎も何も言わずに俺の言葉を待っていた。喉元にわだかまる言葉の澱を、息を吐きながらゆっくり解す。
325 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:23:05.00 ID:nx3ZtZEk0

提督「……受け入れるしかない。誰かが、こんなくだらないものに手を染めて、雷を巻き込んだんだ。この子の弱みに漬け込んでな」

 拳を握りしめる。力は入らない。しかし、気怠さの中にも、怒りの火は燻っている。消えていない。消してはいけない。

 俺は、許せない。

提督「……浜風。俺はもう、君を責めはしない。いずれは、やらなければならなかったことではあった。そこから目を逸らしていたのは俺だからな。俺に、責任がある」

浜風「……」

提督「今回の件もそうだ。薬を排除した気になって、完全に油断していた。俺がもっとちゃんとしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」

 血の味を、味蕾が拾っていく。唇を噛んでいた。億劫さを噛み殺し、怒りを増幅させ、交感神経を無理やり叩き起こす。それは自分の顔面を殴って気合いを入れるのとなんら変わらぬ、自傷行為。自分を責め、自分を傷つけ、自分を追い立てる。そうすることで、自分を無理やり奮い立たせようとする愚かな行い。馬鹿者の発想。意味もないプライド。壊れかけ、折れかけた人間の取るに足らぬ意地。拳が、軋んだ。中手骨が内側から折れんばかりにしなる。鋭い痛みが俺を加速させる。億劫さは落葉のごとく死に絶え、荒い感情が若竹のごとく生長していく。

 俺は、ベッドの鉄柵を殴っていた。

陽炎「……司令」

提督「絶対に、許さない。これは許されない裏切りだ! 浜風、陽炎! 俺は、あんなものを汚い手段で入手した輩を、このままのさばらせておく気はない。見つけ出し、必ず処断する。そして、追放してやる」

 二人は、何も言わなかった。圧倒されて言葉が出てこないのだろう。俺は構わず、雷に目を向けて続けた。
326 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:24:12.33 ID:nx3ZtZEk0

提督「こいつもこいつだ。あれだけ再三注意したのに薬の誘惑にあっさり負けやがって……。なぜ、一言も俺に相談しに来なかった、馬鹿野郎め」

 俺には散々、隠し事をしないように言っておきながら。こいつは俺をあっさりと裏切った。強姦未遂でも、この件でも。これで、二回目だ。もう我慢の限界を超えていた。

 目頭が、だんだん熱くなってきた。ポロポロと、意志とは関係なく思いが溢れていく。雫が、雷の手を濡らした。彼女は、それでもまったく動かなかった。

提督「馬鹿野郎、馬鹿野郎が。どんな思いで俺がお前を受け入れたと思っているんだ……。こんな、こんな酷い裏切りをされたいがために、受け入れたんじゃないんだよ。少しでも、笑って、笑ってくれればいいなって思っただけなのに……。だからこそ何度も向き合おうとしたのに。こんな……こんなの……酷すぎるだろう」

 わけがわからない。俺は、どうしてこんなにも、惨めで苦しいんだ。どうしてこんなにも、上手くいかないんだ。雷を救えず、裏切られ、あまつさえ他の艦娘からも欺かれた。上から理不尽な目に合おうが、後ろ指をさされようが、今までやっていくことができたのは、彼女たちが笑ってくれていたからのはずなのに。

 その笑顔の裏に、悪意の影があることを思い知らされた。閣下に得意気に語った、自分の中で唯一の成果だと思っていたことですら、足蹴にされた。踏みにじられた。泣きっ面に蜂、なんてかわいいものではない。塩酸を浴びせかけられたような気分だ。

 最悪の、気分だ。

 止まらなくて、とうとう嗚咽が漏れ始めた。過呼吸を起こしそうになるくらい、苦しくて、辛い。暗闇の中に閉じ込められたみたいに、ひどく寂しい。

 その時だった。ふわり、と温かなものに頭が包まれた。毛布のごとく柔らかく、軽やかな感触。布越しに感じる肌の弾むような感触が、俺の横顔に吸い付いた。
327 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:25:09.15 ID:nx3ZtZEk0

浜風「提督」

 浜風の甘い吐息が、俺の生え際を撫でた。愛おしげに愛おしげに、彼女は俺を捕まえて、額をゆっくりと頭の上に乗せてくれた。

浜風「……提督」

 優しい声が、耳を触る。衣擦れの音が、そっと俺の心に染み入る。浜風の手が、俺を撫でる。優しくやさしく。温かくあたたかく。聖母のごとく。苦しむ俺を包み込む。

 揺り篭のように。俺の苦しさを鎮めるために、小刻みに頭をゆすり。俺の涙がいかに服を濡らそうとも、彼女は俺を慰めることをやめなかった。

 浜風は、囁いた。

浜風「……あんまりですよね。こんなにも、頑張っているのに」

提督「……」

浜風「提督はみんなを救おうとしているのに。そんな提督にむかってこんな仕打ち……。許せない」

 淡々とした声には、まるで邪気はない。ただ、最後の言葉だけが冷たく響いた気がした。ほんの細やかな火がゆらぐような差異。だが、その冷たさは、氷というより雪解け水で。優しい冷たさだった。

陽炎「私も、許せないわ。こんな人の神経を逆なでするような行為、人のやることじゃない」

 陽炎の強い言葉に、浜風が「ええ」と同意した。

浜風「……提督。私は、雷さんを専門家の元に預けて療養させるべきだと思います。提督自身がもう本当に限界ですし、彼女自身も治療を受けないと危うい状況です。それに、薬を渡した人物が特定できていない以上、また雷さんに危害が及ぶ可能性が高い」

提督「……ああ」

 弱々しく返事をすると、彼女は間をおいて続けた。
328 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:26:22.96 ID:nx3ZtZEk0
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329 : ◆WvruwVSMos [sage saga]:2020/04/20(月) 13:26:59.25 ID:nx3ZtZEk0

浜風「しかし提督が言っていたように、彼女には憲兵の特約という縛りがあります。しかも、まだほとんど出撃の実績を残せていない。これではいくら事情を説明して説得しようにも、先方は一切応じないでしょう。書類上の数字にしか興味はありませんからね。酷ですが、説得できる実績を残せるようになるまでは、彼女には出撃を強いなければなりません」

提督「……わかって、いるよ。そうしないと、雷が殺されてしまう」

浜風「その決断の苦しさは、察するにあまりあるものです。ですが、ここはどうか踏ん張ってください。私達もできる限りサポートしていきます」

陽炎「……できることは、なんでもやる。私達は司令の味方よ。だから信じて欲しい。いまは、誰も信じられないかもしれないけど……」

提督「……いや」

 俺は目を閉じて、言った。

提督「お前たち二人は、信じられる。陽炎も、浜風も、どちらも。お前たちは、同じ志をもった仲間だ。俺の気持ちを踏みにじるような行為をするわけがない」

 それに、状況から見ても二人が犯人だとは考えられない。陽炎のいた岬鎮守府でも「ダメコン」は使われていたが、彼女に使用の形跡はないし、むしろ彼女も「ダメコン」の被害にあった艦娘たちを見てきているから、あれに対しては深い憎しみを抱いている。浜風の場合は、ここに来た経緯が経緯だ。あんなものを持ち込む隙も暇もなかったはずだ。

 だから、確信をもって言える。彼女たちは絶対に白だと。

提督「……そうだろ? お前たちは、違う」

陽炎「ええ。もちろんよ。私も、浜風も、絶対にそんな外道なことはしないわ」

浜風「……一蓮托生。そういうべき関係ですから」

 二人は、そう言って笑ってくれた。この二人がいなければ、俺は本当にどうなっていたかわからない。そう思うくらい、二人の存在は大きくなっていた。俺は笑えなかったが、それでも限界だった心の中にも一縷の望みがあることに気付かされた。
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