傘を忘れた金曜日には.

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580 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/16(土) 08:57:02.73 ID:Pp1ZEqbGo
おつです
581 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:41:46.27 ID:VaWGBfBWo



「……なにをしにここに来たんですか」

「……何拗ねてるんだよ」

「拗ねてません」

 屋上のフェンスにむかって、彼女は立っている。背中だけが、こちらから見える。
 景色は夜。まだ、明けたりはしない。

「べつに何かがあったわけじゃないんです」

 そんな喋り方がいつもどおりで、俺は少しだけほっとした。

「正直言っていいか?」

「なんですか」

「結局のところ、なんだけどさ」

「はい」

「ぜんぶ、よくわかんなかったよ」

「……なにがですか?」

「ここがどんな場所かとか、どんな意味があるのかとか、俺に欠けてるものがなんなのかとか」

「……」

「ぜんぶよくわかんなかった」

「……そうですか」

 ほんのすこしだけ拍子抜けしたみたいに、さくらは溜息をついてから振り返った。

582 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:42:16.18 ID:VaWGBfBWo

「さくら」

「はい」

「おまえ言ったよな。俺にからっぽじゃなかった頃のことを思い出させるって」

「……はい」

「できそうか?」

「……さあ」

「自信なさげだな」

「いまは、自信がないです」

「どうしてこんなところにいるんだ?」

「わかりません」

 と、さくらはそう言って、俺の目を見た。

「ずっとわからないままなんです」

「だよな」

 と俺は頷いた。

 何にもわかりっこない。

583 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:42:47.35 ID:VaWGBfBWo

 さくらはでみうるごすのえのなか。

 あなたのなかのかれとごういつをはたして。

 よげんをはたして、あのこをむかえにいって。

 ……"あなたのなかのかれ"って、なんのことだろう。

 でも、もしそんなものがもしあるとしたら、俺の中にいるのなら、"彼"とやらはもう俺だろう。
 合一もなにも、最初から俺なのだ。

 もし違うとしても、食べたものが徐々に消化されていくように、やがて馴染んでいくだろう。
 今は少し不自然だったとしても。

 そんなのはきっと、誰かに言われるようなことじゃない。

 問題は今、目の前にいるこの子に何を言えるかということだ。

 でも、

「……駄目だな」

「……何がですか?」

「結局、何を言えばいいのか、よくわからん」

「そんなこと、期待してません」

「そっか」

「はい」

584 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:43:15.61 ID:VaWGBfBWo

 さくらは、何か言いたげに、あるいは、何も聞かれたくなさそうに、うつむいたままだった。

 俺はそれをどうすればいいかもわからない。

 三枝隼。さえぐさしゅん。

 改めて考えてみても、なんだか自分の名前じゃないような気がする。

「ひとりで、ここまで来たんですか」

「……ん。いや、案内人がいた」

「案内人ですか」

「……」

「どうして、ここがわかったんですか」

「……屋上?」

「違います。こっちにわたしがいるって、どうしてわかったんですか」

「教えられたから」

「それで、どうして……」

「……」

「どうして、ここまで来たんですか」

「……さあ?」

585 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:43:41.73 ID:VaWGBfBWo

「さあ、って……」

「よくわからないんだよ、全部」

 本当にそうなのだ。
 俺には全部よくわからない。

「なんでかわかんないけど、俺にはさくらが見える」

「はい」

「なんでかわかんないけど、神隠しに遭った」

「はい」

「なんでかわかんないけど、風景が二重に見えて、音が聞こえて、声が聞こえて……」

「……はい」

「幼馴染がふたりに分かれて、俺もふたりいて、いなくなったり、戻ってきたり、消えたりして」

「……」

「何かが足りないとか、欠けてるとか、ずっと思ってたけど……」

 でも、と俺は今、考えてしまう。

586 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:44:11.25 ID:VaWGBfBWo

「……それが、何だって言うんだ?」

 俺が誰で、本物なのか、偽物なのかとか。
 俺に何かが欠けていて、からっぽだとかからっぽじゃないとか。
 俺が誰にどう見えるとか。

「それって、いったいなんなんだ?」

 この森が、茂さんの作った空間だとか、いや、作ったのは"夜"だとか。

 さくらが何者で、カレハが何者なのかとか。

 それが全部分かれば、何もかもが綺麗さっぱり解決するようなことなのだろうか。

「……わたし、ずっとひとりだったらよかったです」

 さくらは不意に、そう言った。

「ずっとひとりだったら、何にも怖くなかった。何にも変わらずにいられた。
 今までどおり、ただ、するべきことをして、それでよかったんです」

「……」

「でも、ましろも、あなたも、いなくなってしまう」

「……まあ、そうだな」

 否定できない。

「……なんで平気そうなんですか」

「平気そうに見える?」

「見えます」

587 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:44:43.86 ID:VaWGBfBWo

「俺にはよくわからない」

「そればっかりですね」

「……」

「ずっとひとりのままでよかったです」

 そう言って、彼女はごまかすみたいに声に笑みを含んだ。

「ひとりのままだったら、寂しくならない」

「……」

「そうですよね」

「そうかもな」

 でも、

「よくわかんないんだよ、さくら」

 自分の足音を聞きながら、視界が進んでいくのを感じ取る。

「俺に何かが欠けてるとか、俺の中の誰かと合一を果たせとか言われた。
 俺も何かが欠けてるような気がしてる。葉擦れの音が聞こえなくなってからも、気分は全然落ち着かない」

「……」

 さくらの肩を掴んで、俺は彼女を振り向かせる。
 まっすぐに視線を交わすと、さくらの目が少し揺れた。

 彼女のからだに触れたのは、これが初めてだという気がした。

「でも、それがなんだっていうんだ?」

「……」

「世界はからっぽかもしれない。……たしかに。世界は愛に満ちているかもしれない。……たしかに」

 でも、

「それがいったいなんなんだ?」

「……」

588 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:45:21.44 ID:VaWGBfBWo

「どうしてここに自分がいるのか、本当はよくわかってないんだ」

 さくらと会って、自分がからっぽだと言われて、手伝いを始めたときも。
 瀬尾がいなくなって、ちせに言われて、瀬尾の居場所をつきとめようという話になったときも。
 あの絵の中に何かがあると気付いたときだって、本当は俺は何にもわからないままだった。

 ただ流されていただけだった。自分がどうしたいかなんて、誰にも説明のしようなんてなかった。

 でも、

「それがなんだっていうんだ」

 俺はそう言う。

「どうしておまえがいなくなったりするのか、俺にはちっともわからないんだ」

「……」

「佐久間茂がどうだとか、『薄明』がどうだとか、そんなの全部、本当はどうだっていいんだ」

「どうだって、って」

「そんなのいいんだ、本当は」

 まっすぐにさくらの目を見る。彼女の目もこちらを見ている。

589 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:45:47.88 ID:VaWGBfBWo

 さくらのむこうがわに空がある。街がある。雲がある。月がある。
 あんなにも怖かった月が、今は不思議と、そうでもない。

「帰ろうよさくら。どうせもう、ひとりじゃいられないんだ」

「……帰ったって、でも、どうせ、わたしはひとりです」

「俺がいるだろ」

「あなただって、いなくなるじゃないですか」

「そうだよ」

「そうだよって……さっきから、いったいなんですか」

「どうにかする」

「……どうにか、って」

590 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:46:21.58 ID:VaWGBfBWo

「なあ、さくら。実は、困ってるんだ」

「……なにが、ですか」

「真中に振られそうなんだ」

「……自業自得です」

「そうかもしれない。でも、おまえ、縁結びの神様だろ」

「あなたが勝手に呼んでるだけです」

「でも、これもひとつの縁だろう」

「……」

「助けてくれよ」

「……そんな大事なこと、他力本願にしないでください」

「困ってるんだ。このままじゃ、話もしてもらえない」

「……」

「だから、戻ってこいよ。そしたらまた、おまえを手伝ってやる」

「……でも、あなたがいなくなったら、わたし」

「……」

「また、ひとりぼっちです」

591 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:46:51.46 ID:VaWGBfBWo

 そう言ってうつむいたさくらを、俺はどうしてだろう、不思議とあたたかな気持ちで見ていた。
 どうして気付かずにいられたんだろう。
 
「なあ。佐久間茂がこの国を作った。らしい」

「……なんの話か、わかんないです」

「おまえもたぶん、この国の副産物として、生まれて、ここにいるんだと思う」

「……」

「佐久間茂にこんな国を作れたんだから、俺にだってそのくらいのことはきっとできる」

「……なに、言ってるんですか」

「おまえの居場所くらい、俺が世界に書き加えてやるよ」

 茂さんに秘密があるように、母さんに秘密があるように、
 何かを隠しながらみんな生き延びている。
 
 それぞれがそれぞれの孤独を押し隠して生きている。

592 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:47:28.40 ID:VaWGBfBWo

「何言ってるんだ」と声が言った。

「さんざんおまえの泣き言に付き合ってやったんだ」と俺は言う。

「少しくらいは役に立てよ」

 戸惑ったように、さくらが俺を見た。声は、少しだけ溜息をついて、笑った。

「おまえにそれだけのものが作れるのか?」

「書いてやるよ」

「……」

「いいだろう」

 と声は言った。

「試してやるよ」

「交渉成立だ」

「さっきから、何を言ってるんですか」

「帰ろうぜ、って言ってる」

「……なんで」

 か細い声で、ささやくように言う。彼女はうつむいたままでいる。

 俺はその仕草を眺めている。

593 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:48:08.43 ID:VaWGBfBWo

「……おまえを放っておけない」

「どうして」

「たぶん、だけど……」

 ひとりぼっちでいる少女。
 誰にも見てもらえなかった少女。

 不意に、
 背後から声が聞こえた。
 夜ではない。

 夜とは違う。

「言ってやれよ」

"俺"が立っている。

 その姿は、一瞬で見えなくなった。

 どうしてなんだろう。
 俺にはやっぱり、全部わからない。

 出会ってしまった以上は、もう、他人じゃないからとか、
 なんとなく、自分を見ているようだったからとか、
 そういうあれこれをひっくるめて、

「なんとなく……」

「はい?」

「うん、なんとなく、なんだけどさ」

 本当に、ただなんとなく、

「おまえがいない生活が、既に少しだけ寂しいんだ」

 だから、たぶん、こういうべきなんだろう。

「俺は、おまえに居てほしいんだ」

594 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:48:37.94 ID:VaWGBfBWo

 さくらは、驚いたみたいな顔で、俺を見た。
 俺も少しだけ、自分自身に驚いた。

「そうだよ」と、また背後から声が聞こえる。

「やれやれ」と夜が言った。

 でも、それがなんだっていうんだろう。
 そんなのはちっとも大事なことじゃない。

「帰ろうよ、さくら」

 少しの逡巡のあと、
 さくらは小さく頷いた。

 それから俺の手をとった。
 こんなにも、小さな手だったのか、と、俺はまた驚いた。

「……信じてあげます」

「……うん」

「あなたが、わたしの居場所を作ってくれるんですね」

「うん」


595 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:49:08.29 ID:VaWGBfBWo

「もしできなかったら?」

「できなかったら……どうしようかな」

「……一生、取り憑いてあげます」

「それは落ち着かなさそうだな」

「絶対にそうします」

「ふむ」

 じゃあがんばらないとな、というのも少し違う気がした。
 だから、

「やれるかぎりはやってみるよ」

 と、そう言ってみせる。

「はい」

 と、さくらはようやく笑った。

 月が煌々と光っていた。

596 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/20(水) 00:49:50.28 ID:VaWGBfBWo
つづく
597 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 00:51:03.64 ID:VaWGBfBWo
311-7  二十六年前 → 二十五年前
598 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 03:41:46.84 ID:K1XPn4MoO
乙です
そろそろ終わると思うと寂しくなるなぁ
599 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 06:43:42.54 ID:lEadOsyH0
おつです
600 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 08:35:45.93 ID:fEoZ0sCBo
おつおつ
601 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 08:45:19.64 ID:HLLCq748O
乙です
さくらメインヒロインだろこれ
602 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/20(水) 17:04:05.06 ID:SM1Pn+Coo
603 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/21(木) 00:15:09.37 ID:w3OWurP50
おつです
604 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:02:30.54 ID:su5zp2Hbo

「それで……」とさくらは言った。

「帰るって、どうやって帰るんですか?」

「……わかんないのか?」

「知りません。気付いたらここにいましたし」

「……マジで?」

「……えっと、はい」

「……」

「……あの、どうやってここに来たんですか?」

 どうやって、と聞かれても、落ちてきたとしか言いようがない。

 
605 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:03:10.88 ID:su5zp2Hbo

「困りましたね」

 落ち着け。
 ここがあの森の一部なら、鏡を探せばいいだけだ。

 フェンスから離れて、さくらが塔屋の扉へと向かっていく。

「鏡……」

 以前、怜とも話した。
 概念的に鏡であればいいはずだ。

 月の鏡……という言葉もあるが、残念ながら月に触れることはできない。

 怜ならば、きっとこういうときでも、慌てたりしない。

 考えろ。鏡、鏡、鏡。

 ……いや、
 鏡じゃなくてもいいのだった。

「部室に行こう」

「部室、ですか?」

「『白日』がある」

「……あの絵ですか」

『夜霧』からこちらに入ってきたのだ。『白日』から帰るのも、おあつらえ向きだろう。

606 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:04:04.83 ID:su5zp2Hbo


「あなたに任せます」とさくらは言った。

「……責任、投げるなよな」

「そういうわけじゃないです。評価を改めただけです」

「評価?」

「あなたはもう少し、自分の柔軟さを評価すべきだと思いますよ」

「……どういう意味?」

「そのままの意味です。行きましょう」

 階段を降り、文芸部の部室へと向かう。

 夜の校舎は、窓から差し込む月の光以外には、ほとんど灯りがない。

「どうしてだろうな」

「はい?」

「ちょっと、ワクワクする」

「……子供みたいですね」

「夜の校舎だぞ。仕方ないだろ」

「でも、そっちの方がずっといいです」

「……そう?」

「はい」

607 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:04:43.89 ID:su5zp2Hbo

 廊下を歩く途中で、不意に、渡り廊下に人影を見つけた気がした。

「いま、何か見えたか?」

「……なにか?」

「人影みたいなの」

「気付きませんでした」

 ……気のせい、だろうか。
 それとも、単に、『夜霧』を歩いたときのような、単なるこの世界の演出のようなものか。

 いずれにしても、もう見えない。
 もうこの世界でするべきことはない。

 文芸部室の扉は簡単に開いた。
 
 壁には、『白日』が飾られている。

 海と空とグランドピアノ。決して混ざり合わない水平線。

「……なんで、ピアノを描いたんだろうな」

「なんでって、どういう意味ですか?」

「いや。人と人との距離が、海と空みたいなものだったら……」

 結局、繋がりあえないのかもしれない、と茂さんは言っていた。
 でも、ここにはピアノがある。

 さくらは、俺の心を読んだのだろうか。
 少し、不思議そうな顔をした。

608 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:05:23.08 ID:su5zp2Hbo

「空って、どこからが空ですか?」

「……ん?」

 彼女は部室の中へとゆっくりと踏み入って、静かに窓を開け放った。

 そして指先を伸ばす。
 そのままこちらを振り向いて、当たり前のような顔で、彼女は、

「ほら、これが空じゃないんですか?」

 なんでもないことのように、そう言った。

 一本取られた、と俺は思った。

「なるほど」

 だとしたら空は、海と接している。
 混じり合うことがないとしても。

609 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:05:51.28 ID:su5zp2Hbo

「あるいは、もしかしたら」

「ん」

「旋律は、空に届くかもしれません」

「……旋律」

「はい。それに、日差しも、雨も、空から海に届くでしょう」

「けっこうあるものだな」

「はい」

「雨も、海と空を繋ぐ」

「はい。空と海との距離なんて、たいしたことないです」

「……単なる言葉遊びだけどな」

 だとしたら、茂さんは、たとえば旋律が海と空を繋ぎうることに気付いていたのかもしれない。
 気付いた上で、ピアノの前の椅子に、誰も座らせなかったのかもしれない。

 雨は海と空を繋ぐ。

「……そっか」

「どうしました?」

「いや」

 だったら、傘をささずにずぶ濡れになるのも悪くないのかもしれない。

610 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:06:18.71 ID:su5zp2Hbo

「帰ろうか」

「はい。……帰れますかね」

「さあ。試してみないとな」

「……行き当たりばったりですね」

「おまえも相当だろ」

「まあ、たしかに」

 俺とさくらは、『白日』に向き合う。変なタイミングではぐれないように、さくらの手を取った。

「そういえばさ」

「はい?」

「さくらにはなんとなく、さわれないイメージがあった」

「……ふむ?」

「すり抜けそうな気がしてたんだ。さくらも、物にさわれないんだと思ってた」

「だとしたら、わたしの体は床をすり抜けていきますよね」

「テレパシーとテレポートを使うやつが急に物理法則っぽいことを言うな」

「それに服も着られません」

「でも、それ、どうなんだろうな。他の人には、服も見えないわけだろ」

「わたしが触ってるものは、他の人には見えなくなるんです」

「……怪奇現象を生み出せるな」

「いえ、あの、わたしが怪奇現象なんです。ある意味で」

「でも、その理屈だと、校舎が誰にも見えなくならないか?」

「……まあ、わたしにもよくわかんないです」

「まあそうか。……とにかく、なんとなく、さくらにはさわれないんだろうなと思ってた」

611 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:06:48.17 ID:su5zp2Hbo

「……ちゃんと触れてほっとしました?」

「いま、俺も透明人間なのかな」

「そうかもしれませんね」

「温度がある」

「不思議ですか?」

「さくらに限った話じゃないけど……」

「はい」

「人間の体温って、触れるたびに不思議になるよな」

「わたしが人間かどうかは、怪しいところですが」

「それを言ったら、俺もけっこう怪しいけどな」

「そうですか?」

「そうだよ」

 俺が真顔でうなずくと、さくらはおかしそうに笑った。

「そんなことは、いいんですよ」

 たしかに、と俺は思った。

「帰りましょう、隼」

 俺は一瞬、あっけにとられて、それから笑って頷いた。

「そうしよう」

 繋いでいない方の手で、俺は『白日』に触れる。

 光はあふれ、視界が鋭く満たされていく。
 その洪水に溺れながら、ゆるやかに時間が流れていくのを感じる。
 手のひらに温度がたしかにあった。

612 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 01:07:42.51 ID:su5zp2Hbo
つづく
613 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/22(金) 01:12:44.00 ID:un+l9grho
614 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/22(金) 01:21:25.78 ID:xrQUYTaQo
おつおつ
615 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/22(金) 02:58:55.23 ID:R0DATBk5O
台詞ばかりですね
616 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/22(金) 06:51:19.82 ID:qcpmRFia0
おつですら
617 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/22(金) 21:13:13.76 ID:SQ+045GW0
おつです
618 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/02/26(火) 21:43:36.31 ID:OGZvF3Wg0
おつです
619 : ◆1t9LRTPWKRYF [sage]:2019/03/01(金) 23:51:03.04 ID:1lN26oOXo
少し時間をください
620 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/02(土) 12:52:25.38 ID:kgIpuee70
気長に待たせていただきます
621 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 00:04:47.66 ID:4wYjYCyZO
勿論待ちますよ
622 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 09:16:20.36 ID:bSF5ICtQo
了解です。ゆっくりどうぞ。
623 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 20:58:51.27 ID:J7JQGDwio




「元素周期表みたいですね」と誰かが言った。それは分かってる。 
 でも、何の話なのかはわからなかった。何が元素周期表みたいなんだろう、みんな何の話をしていたんだろう、俺には何もわからない。

 意識がものすごく曖昧だった。とても、深い眠りからようやく目覚めたときみたいに。

 けれど俺は眠っていたんだろうか?

 瞼を開いている。それはわかる。けれど全てが滲んだように曖昧にぼやけている。
 
「そうかな。そんなふうに思ったことはないけど」

 そう、また別の誰かが言う。俺は、いま、何かを聴いている。それは分かる。

 俺はいままでどこにいて、何をしていたんだったか。

「……ああ、起きたかい」

 そんな声が、俺に向けられているんだとわかる。

 わかったから、もっとはっきりと見ようと思った。

624 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 20:59:46.27 ID:J7JQGDwio

 そして、ふとした一瞬のうちに、自分がどこにいるのかが分かった。

 ここは『トレーン』のテーブル席だ。俺は頭を突っ伏して、眠っていたらしい。

 話をしているのは……。

「ずいぶん眠っていたようだけど、大丈夫?」

 茂さん。

「隼ちゃん、来てからずっと眠ってましたよ」

 ちどり。

「やっぱり、疲れが溜まってるんだろうね」

 怜。

 それから……。

「まあ、無理もないか」

「……大野?」

「大丈夫か? 目の焦点があってないけど」

「いや……うん」

 さて、大丈夫か、大丈夫かと問われれば、どうだろう?

625 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:00:13.03 ID:J7JQGDwio

 重苦しいほどの虚脱感がある。

 とても深い眠りから醒めたのだという実感はある。
 
 というより、これはいっそ、
 俺が今まで睡眠だと思っていたものは本当に睡眠だったのだろうか、と感じるほど、眠ったのだという実感がある。

「……あたま、ぼんやりする」

「しばらくは無理するなよ」

 大野の声が妙にやさしくて、そのせいで俺は、やっぱり今この瞬間のほうが夢なんじゃないかという気がした。

「……なんで、大野がいるんだよ」

「なんでって……おい、ほんとに大丈夫か?」

「そのうち意識がはっきりしてくるよ」と言ったのは怜だった。

「隼は昔から寝起きがひどいからね」

「……なんで、怜もいる」

 ふう、と彼女は溜息をついて、

「さっさと目を覚ましてくれると助かるな。それとも、純佳を呼んで起こしてもらったほうがいいかな」

「……いや、いい。自分で思い出す」

「隼ちゃん、無理しないでくださいね」

 ちどりはそう言うけれど、俺はまだ、自分の体の感覚すらも取り戻せない。
 腕も首もしびれているように重く鈍く、動かせない。

 頭がまったく回らない。

626 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:00:39.32 ID:J7JQGDwio


「時間がかかりそうだから、僕が言おう」と、茂さんは言った。

「今日は木曜。きみは月曜の放課後から二晩の間家に帰らず行方不明だった」

「……ゆくえ」

「そう。行方不明。そして水曜、つまり昨日の朝、なんでか自宅のベッドにいたらしい」

「……その記憶、ないんですが」

「じき思い出すよ。まあ、二日間でいろいろあったんだろうね。もちろん、僕らには推し量ることしかできないが」

 ああ、そうだ、と茂さんは声をあげ、

「ちどり。そういえば昨日買ってきたプリンがあったんだ」

「はい?」

「ええと、厨房の冷蔵庫の中に箱がある。みんなで食べよう」

「……? わかりました」

 ちどりは文句ひとつ言わずに、厨房へと下がっていった。

627 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:01:29.46 ID:J7JQGDwio

「……じゃ、改めて話をしようか」と、そう、茂さんは言った。

「……話、というと」

「さすがにちどりには聞かせられないからね、"むこう"のことは」

"むこう"。
 
 そう、俺は"むこう"にいた。思い出せる。

 そこで俺は……。

 ああ、
 思い出してきた。

「怜ちゃんと大野くんは、知ってるんだったね」

「ええ」

「はい」

「だったら、大丈夫。隼くんとは、ちょっとまとまった時間をとって話さないといけなかったからね」

「……ええと、すみません。俺、自分がなんでここにいるのか。いま、金曜って言ってましたか?」

「そう。きみは昨日の朝帰ってきて、今日は学校にも行って、その帰りにここに来た」

 ……思い出せない。
 いや、そんなことはない。

 覚えている。……ようやく意識がはっきりしてきた。

 ふと目がさめたら、自分の部屋にいた。体が重くて、すぐに寝直した。
 それで、気がついたら夕方で、純佳が学校から帰ってきて、あいつは俺を見て一通り文句を言ってからぐすぐす泣いた。
 
628 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:02:03.34 ID:J7JQGDwio

 次の日は学校にも行って……そうだ、それが今朝だ。

 瀬尾たちにいろいろ事情を聞かれたけれど、うまく説明できなくて、
 真中は相変わらず俺と話そうとはしなくて、
 そもそも意識も記憶もやっぱり曖昧で、
 どうしても眠くて、でも、怜に『トレーン』に来るように言われて、
 危なっかしいからと、大野が俺に付き添ってくれた。そうだった。

「……店に来て座ってすぐに寝ちゃったからね。まあ、それは仕方ないかと思って、目が覚めるのを待ってたんだ」

「……そう、ですか」

「まだすっきりしないかい?」

「……はい、なんでか、わかんないですけど」

「そっか。……続くようなら困りものだね。でも、まあ、仕方ないか」

「……それで、茂さん、話って?」

「きみはたぶん、試してないから、一応伝えておこうと思って」

「……はい」

「"むこう"、もう行けなくなったみたいだ」

「……」

 むこう。
 行けなくなった。

「それは……どうして」

「わからない。僕もそうだし、怜ちゃんもそうだって言う」

「うん。ぼくも、行けなくなった」

 ……行けなくなった?

629 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:02:30.86 ID:J7JQGDwio

「どうしてですか?」

「さあ? きみが帰ってきてからそうなった。なんでかは、僕にもわからない」

「怜も?」

「そうだね。ぼくも最初は気付かなかったけど」

 ……。

「まあ、とはいえ、それで何が困るってわけではないんだけど、何か知ってたら、隼くんに話を聞きたかったんだ」

「……俺は」

 むこう。
 俺はたしかにむこうにいた。

 でも……俺はむこうで何をしていたんだっけ?

茂さんは柔らかく微笑んだ。

630 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:02:59.16 ID:J7JQGDwio

「……それで、どうするんですか」

 と、俺が訊ねると、茂さんは不思議そうな顔をした。

「どうするって?」

 そう問い返されて、こちらがあっけにとられてしまった。

「だって、行けなくなって……」

「うん」

「それで……」

 ……行けなくなって、それが?

「べつに困らないだろう?」

「……」

 たしかに、そうだ。
 たしかにそうだ、あの場所に、用はない。今のところ。

「……さくら」

「……?」

 怜が首をかしげるのが見えた。

 さくらはどこだ?

631 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:03:30.92 ID:J7JQGDwio




 ちどりが持ってきたプリンをみんなで食べたあと、

「疲れてるみたいだから、今日は早めに休むといい」

 と茂さんが言ってくれた。その言葉に甘えて、俺は頷く。

 外は雨が降っていた。

 鞄の底に、折りたたみの傘が入れっぱなしになっているはずだ。
 そう思って鞄をあさったけれど、見つからない。

 ……雨が降ったときに一度使って、そのまま出しっぱなしにしていたのだろうか。

 そう思ったとき、なんだか少し前にも、こんなことがあったような気がした。
 雨が降ったときに、鞄の底の傘を探して、見つからなかったことがあったような。
 
 ……いつのことだったっけ?

 そんなことを考えたとき、不意に入り口の扉が開いた。

「おじゃまします」と言いながら、片手に傘を持った純佳が現れた。

「純佳」

「ちどりちゃんに連絡したら、ここにいるということだったので、迎えに来ました」

「……なんで?」

「雨が降っていたので。傘、忘れていったみたいだったので」

「……そっか」

 そっか、とうなずきながら、なんだかいろいろなことがよくわからない気持ちのまま、俺は純佳に近付いた。

 ひさしぶりかな、と怜が言って、おひさしぶりです、と純佳が言った。

「じゃあ、俺も帰る。無理するなよ」

 大野はそう言って、俺達より店を出ていく。

 追いかけるように、慌てて俺も店を出る。

「それじゃあ、帰ります」

「またね」と怜が言って、ちどりは何も言わずに手を振った。

「またのお越しを」と茂さんが言った。俺はまだ混乱していた。

632 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:03:57.72 ID:J7JQGDwio

「帰りが遅くなるなら、連絡くらいしてください」

 ひとつの傘のなか、俺と純佳は並んで歩く。

 記憶が判然としないままだったけど、俺は素直に、

「ごめん」

 と謝った。

「兄は、言葉足らずです」

「そうかな」

「そうです。急にいなくなるし……」

 雨がたしかに降っていた。
 傘を打つ雨粒がリズムを刻んでいる。こんな雨の降る夜道を歩いていると、なんだか世界から隠されてるような気がした。

「わたしが……」

「ん」

「いえ……」

 言いかけた言葉の続きを、純佳は言わなかった。
 俺は聞き返さなかった。
 
 なんとなく、言いたいことがわかるような気がしたのだ。 

633 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:04:24.56 ID:J7JQGDwio


「悪かった」

 そう謝ると、純佳は顔を上げてこちらを見上げる。

 泣き出しそうな顔に見えた。

「……わたしが」

「……うん」

「わたしが、どれだけ心配したと思ってるんですか」

「……うん」

「今度こそ、帰ってこないんじゃないかって……」

「……」

「どこにも行かないって、言ったじゃないですか」

「……うん」
634 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:04:56.07 ID:J7JQGDwio

 こんなとき、何を言えばいいんだろう。
 どんなふうに言えばいいんだろう。

 心配をかけて、迷惑をかけて、そればっかりだ。
 
 どんな言葉も言い訳になってしまう。

"むこう"に行けなくなったんだと、怜も、茂さんも言っていた。

 でも、それとは無関係に、俺はもう"むこう"に行かないほうがいいのだろう。
 行けるようになったとしても、行くべきではないのだろう。

 帰ってこられるかわからない場所。 
 今回は、本当にそうだった気がする。

 そんな場所との境界を、今まで俺が平気で渡ってきたのは、きっと、
 帰ってこられなくてもいいと、心のどこかで思っていたからじゃないだろうか。

 今は、でも……。

635 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:05:22.90 ID:J7JQGDwio

「もうどこにも行かない」

「……どうせ嘘です」

 前のときと同じみたいに、純佳は俺の言葉なんて全然信じなかった。
 仕方ないことかもしれない。

 雨が降ってる。

 傘を叩く音が聞こえる。

 ……そうだな、と俺は思った。

 嘘かもしれない。

 どうだろう。

 いや、
 どうだっていいや。

「どこにも行かない。つもりでいる」

「つもりって、どういうことですか?」

636 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:05:55.80 ID:J7JQGDwio

「先のことはわからないって意味」

「……先のこと、ですか」

「そう」

 今までだって、どこにも行ったりしないと決めていた。
 他人に関わって、踏み込んで、そんなの面倒で誰のためにもならない。

 でも気付いたら、そんなことすっかり忘れていた。

「……仕方ないですね」

「ん」

「兄はばかですから」

「……まあ」

 そういうことになる。

 純佳はそれから黙り込んでしまった。
 俺と彼女はふたりで雨に濡れたアスファルトの上を歩き、その間に何かを考えていた。
 
 何かを考えていたと思う。
 わからないけれど。

637 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:06:30.13 ID:J7JQGDwio


 まっさきに考えなければならないことは、ふたつ。
 とはいえ、確認しないことには始まらない。

「純佳」

「はい?」

「ちょっと出かける」

「……はい?」

「学校に忘れ物をした」

「……」

 あきらかに、疑わしそうな目を純佳は向けてきた。
 
 ……それはそうか。
 さっき、どこにも行かないと言ったばかりなのだ。


638 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:07:17.15 ID:J7JQGDwio

「わたしも行きます」

「……ふむ」

 だめです、と言いかけたけれど、仕方ない。

「いいよ」

「え、いいんですか?」

「うん」

「……え、どこに行くんですか」

「学校だって」

「……校門しまってますよね?」

「……ああ、そうか」

 いや、

「十分だろう」

「……ほんとに学校に行くんですか?」

「それが最初だな」

「……?」

「そのうち全部話すよ」

 純佳はちょっと、警戒するような目をした。
 
「そうしないと納得しないだろ?」

「まあ、そうですけど」

 ……まだ少し意識がぼやけている。
 でも、何をすべきかははっきり覚えている。

 とはいえ、大事なのは順番だろう。

 ひとつひとつ、済ませなければ。
 手品は下準備が命だ。

639 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/10(日) 21:07:53.74 ID:J7JQGDwio
つづく
640 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/10(日) 21:42:00.26 ID:9itivIleo
おつん
641 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/11(月) 14:25:02.23 ID:Vidb0t370
おつです
642 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/12(火) 00:53:09.47 ID:MBnQihBB0
おつです
643 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/12(火) 15:17:44.85 ID:08CiIAJjO
644 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 20:58:55.80 ID:tPIsQ6zzo


 高校に繋がる坂道を登りながら、俺達は無言のままだった。

 街の灯りが雨粒に滲んで絵の中の国みたいに見える。
 でもここは現実で、今日は金曜日で、明日は土曜の休みだ。
  
 覚えているかぎりだと明日はバイトが入っていて、でも俺はこっちに帰ってきたばかりで、未だに感覚が不鮮明なままだ。

 とはいえ……そんなのは、あとで考えればいいことだ。

 校門のそばには桜の木がある。もう、花を散らすような時期じゃない。

 夜の雨の中で見る桜というのは、なんとも言えない不思議な気分がした。

 そこに……

「なにしにきたんです?」

 当然のように、さくらはいる。

「一応確認にな」

「……兄?」
 
 怪訝そうな声を、純佳が隣であげた。
 
「昼間も会ったじゃないですか」

 さくらはそう言った。
 たしかに、そういう記憶はある。けれど、それが実感として馴染むまでには、まだ時間がかかりそうだった。

「ようやく落ち着いてきたところなんだ」

「それなら、仕方ありませんね」

 そう言って彼女は、校門のむこうから俺を見た。

 
645 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 20:59:25.91 ID:tPIsQ6zzo

 さくらは学校の敷地から出ることができない。

「これから、どうします?」

「ん」

「何から始める気ですか?」

「そうだな、まあ……」

「兄?」

「……」

 さて、

「帰るか」

「……誰と、話してたんですか?」

「そうですね。来週、話しましょう」

 両方から話しかけられて、混乱する。
 さっき、全部話すと言ったばかりだが……まあ、あとでいいか。

 いや、まあ、どうせだ。

 俺は純佳の方をみて、

「神様」

 と、そう答えてみた。

 純佳は蛇のぬけがらでも踏んだみたいな顔をした。

646 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 20:59:55.34 ID:tPIsQ6zzo





「……さて」

 まずはひとつ、どうしても優先的に片付けなければならないことがある。
 
 翌週月曜の放課後、授業を終えたあとの教室で、俺はひたすらに待っていた。

「三枝、部活は?」とクラスの奴に声をかけられる。

「もうちょっとしたら行く」

「ふうん?」

「三枝、病み上がりなんだから無理すんなよ」

 と、そう言ったのは陸上部の女子だった。

「おかまいなく」

「会話を会話らしく成立させる努力くらいはしろ」

 そもそも俺はべつに病み上がりではないのだが、言ったって仕方のないことではある。その説明が一番わかりやすい。

「……ところで」

「ん」

「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

647 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:00:44.85 ID:tPIsQ6zzo

 俺がそう訊ねると、ふたりのクラスメイトはきょとんと不思議そうな顔をした。

「何だ、その顔は」

「いや、三枝からそんな質問をされると思ってなくてな」

 男のほうが頭をかきながらそう言った。

「俺だって質問くらいする」

「そりゃそうだろうけどな。……で?」

「ああ、うん」

 さて、どう訊ねるべきか。

「あのさ……この学校に七不思議とかって、ある?」

「七不思議?」

 きょとんとした顔をされてしまった。

「……なに、急に」

「ちょっと調べ物」

「似合わな」と女のほうが言った。

「ほっとけ。七不思議じゃなくてもいい。その手の与太話に心当たりは?」

「……ないな」

「そうか。じゃあもう用はない。さっさといけ」

「あ、ひとつあるよ」

「ん」

「縁結びの神様」

「……それだ」
648 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:01:11.54 ID:tPIsQ6zzo




 少しして、さくらが教室にやってきた。

 偶然なのだろうが、それまで話していたふたりは「じゃあ部活行くから」といなくなってしまう。

「何かお話していたんですか?」

 俺は頷いた。

「後で話す」

「そう言ってあなたが話してくれた試しがあったかどうか」

「俺自身も覚えてない。……それで?」

 はあ、とさくらはため息をついて、じとっとした視線をこちらに向けた。

「……ずいぶん偉くなったものですね。人をパシリにしておいて自分は座って休憩ですか」

「役割分担だ」

「誰のために動き回ってると思ってるんです」

「感謝してるって」

「まったく感じ取れません、その感謝が」

「嘘だろ?」

「……そんな素直な目で驚かれても困ります」

649 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:01:43.98 ID:tPIsQ6zzo

 それからさくらは仕方なさそうに笑った。俺は頷いて立ち上がる。

「真中は見つかった?」

「こっそり女の子の行方を探るなんて、ストーカーもいいところですよ」

「たしかに」

「もっと男らしくいったらいいじゃないですか、最初から他人をあてにしないで」

「そういうキャラじゃねーだろ」

「たしかに」

 納得されてしまった。

「話が進まん。真中はいたか?」

「さっきは、渡り廊下近くの自販機のところにいましたよ」

「ふむ」

「つかぬことをお聞きするんですけど」

「ん」

「普通に電話すればよいのでは? どうしてわざわざわたしに探らせるんです?」

「警戒されるだろ」

「そうですか?」

「そうだよ」

650 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:02:19.37 ID:tPIsQ6zzo

 そんなわけで、俺は渡り廊下近くの自販機のあたりまで移動する。

 さくらは俺の斜め後ろをとことことついてきた。もし真中が移動していなければ、そこにいるはずだ。
 そして彼女はそこにいる。

 さくらが様子をうかがっていたのだから、ある意味では当然。

 さて、もう考えているような場合でもないだろう。
 自販機の横に背中をもたれさせて、彼女はぼんやりと渡り廊下のほうを眺めている。

「やあ」

 と、適当に声をかけると、真中は一瞬だけちらりと俺の方に視線をよこす。
 そしてすぐにそらした。反応らしい反応なんて、浮かべる気配もない。

「どうしたの」と真中は言う。

 以前と比べると、やはり、そっけない。

 それも仕方ないことなのかもしれない。

 とはいえ、
 そうは言っても、
 ここから始めるべきなのだろう。

「……わたしは、ちょっと離れてますね」

 そうしてもらえると助かる、と心の中だけで返事をした。
 あまり人に聞かれたいような話でもない。

651 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:03:29.11 ID:tPIsQ6zzo

 どこから話したものだろうな、とはいえひとまず、

「元気か?」

 なんて、世間話にすらなっていないような一言から始めるしかなかった。
 
 仕方ない。

 俺が真中に話しかける。それ自体、何か話があるという宣言のようになってしまう。
 そのことに、真中も俺も気付いている。だから、仕方ない。
 こんなあからさまな場繋ぎの台詞から始めるしかないのだ。

 呆れられても仕方ないような言い方だったのに、真中はくすっと笑って、

「元気だよ」

 と、仕方なさそうに言った。
 
「そっか。元気がいちばんだな」

「似合わないね」

 自分でもそう思った。

652 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:04:26.00 ID:tPIsQ6zzo

「何か用事?」

「そうだな」

 取り繕ったって仕方がない。

「……わたしが惜しくなった?」

「……」

「ね、せんぱい。先週は……どこに行ってたの?」

 どうしてだろう。
 そんな質問に、少しほっとしている自分を見つける。

 もうそんなふうに、何かを話したりしてくれないものだと思っていた。

「ちょっとな」

「また内緒?」

「……」

「どうせ、また、誰かのところに行ってたんでしょ」

 責めるというよりは、からかうみたいな口調だった。

「いつも独断専行。秘密にして、嘘ついて、ごまかして、ひとりで全部済ませちゃう」

「……まあな」

「否定しないんだ?」

 否定したところで仕方ない。
 今までは少し、違うような気がしていたけれど……はっきり言ってそれは事実だ。
 事実を否定しても仕方がない。

653 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:04:56.67 ID:tPIsQ6zzo

「ま、そうだな」

 結局そう頷いた。

 自販機に小銭を入れる。

「なんか飲む?」

「おごり?」

「そ」

「じゃあ、カフェオレ」

「カフェオレな」

「……せんぱい」

「ん」

「何かお話?」

「……何話そうと思ったんだったかな」

「ばかみたい」

 たしかに。

654 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:05:56.40 ID:tPIsQ6zzo

 真中に、何を言えばいいだろう。

「……おまえさ、言ったろ」

「んー?」

「俺が、瀬尾のことが好きだって」

「あ、うん」

「あれは違うな」

「……そう?」

「ていうか、おまえが言ったんだろ」

「なんて」

「俺は誰のことも好きにならないって」

「……そうだっけ?」

「そうだよ」

 その場その場で適当なことを言うのは、俺と真中の両方ともだ。

「……でも、それ嘘だ」


655 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:06:24.92 ID:tPIsQ6zzo


「……ん。そうかな」

「違う?」

「わかんない」

 真中はほんとうにわからないと言うみたいに、カフェオレのパックにストローをさして口をつけた。
 その様子を俺はぼんやりと眺めながら、自分の分のジュースを買った。

 オレンジジュースにしておこう。なんだか今日はそんな気分だ。

 渡り廊下の窓から吹き込む風も、差し込む日差しも、もうあたたかだ。

 季節が変わろうとしている。

「どうでもいいよ」

 と真中は言った。

「わたし、もう関係ないもん」

「そう?」

「……ちがうの?」

「違うかもな」

「まーた、そんなふうに言う」


656 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:06:51.94 ID:tPIsQ6zzo

 思ったよりもずっと柔らかい態度で、俺は逆に戸惑ってしまう。
 何を言ったらいいんだろう。

「真中」

「ん」

「ちょっといろいろあったんだ」

「うん」

「……」

「なあに?」

「なんだったかな」

「へんなの」

「自分のことが……」

「ん?」

「よくわかんないんだよ、俺」


657 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:07:21.51 ID:tPIsQ6zzo


「……へんなの」

 と真中は繰り返した。

 どうなんだろう?

 わからないという気もするし、わかるという気もする。

 何もほしくない、と思う。
 何かがほしい、とも思う。

 自分が好きじゃないとも思う。べつにそこまででもないとも思う。
 
 一貫性がない。

 誰のことも好きになるべきじゃないとも思う。
 でもそう思うのは、どうしてだったっけか。

 その理由は、今も俺の手元にあるんだったか。

 よくわからない。

 俺は真中を好きなのだろうか。
 それはちょっと自信が持てない。
 
 そんなふうに断言できるほど、誰かを好きになるという感情について、自分が理解できている感じもしない。


658 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:08:17.24 ID:tPIsQ6zzo

「真中は、俺が誰のことも求めてない、必要としてない、好きにならないって言うけど」

「……うん」

「そんな気もするし、そうでもないだろって気もする」

「……うん」

「でも」

 でも、どうなんだろうな。
 
 中学の頃から、真中と過ごした。
 真中柚子と三枝隼は付き合ってる。

 そんなふうに言われながら、当たり前みたいに過ごした。

 真中は気付いていたんだろうか。

 人気だった真中と付き合っているということで、俺は相当他の男子に睨まれたし、妬まれた。
 けっこうあからさまに、嫌がらせを受けたりもした。

 俺が本当に、ただ善意だけで、そんな仕打ちに耐えていたと、真中は思えるんだろうか。
 なにもかもがどうでもいいから、真中と付き合っているふりを続けていたなんて。

 ──本気でそう思うんだろうか。

 これを口にするべきなのかすら、俺にはもう判断がつかない。
 
659 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:08:53.47 ID:tPIsQ6zzo

 子供の頃、俺は怜を探偵みたいだと言った。

 そうしたら、そのとき怜はにっこり笑ってこう言ったのだ。

「ぼくが探偵なら、隼は怪盗……」

 そう、そのとき怜は言いかけて、いや、と楽しそうに頭を振り、

「……詐欺師ってとこかな?」

 そんなふうに笑ったのだ。

 詐欺師。
 ひどいやつだと、そのとき思った。

 でも、そうなのかもしれない。

 嘘と韜晦と誤魔化し。取り繕いと言い逃れ。

 本当のことなんて、言葉にしようとしてもどうせ言葉にならない。
 だから適当に喋っているだけだ。

 何かを話すことは、話さないことよりも悪い。
 話す人間は、話さない人間に遅れをとっている。

 結局のところ、俺が本当のことを話さない人間だと思われるのも、
 秘密主義者だと言われるのも、
 嘘をつく人間だと言われるのも、全部、同じ理由だ。

 俺は最初から、正確で明晰な言語化なんてしようともしていなかったのかもしれない。
 正確さなんてほどほどでいい。それが責められるなら、茶化して誤魔化しているほうがいい。

 でも、今は、

660 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:09:44.69 ID:tPIsQ6zzo

「せんぱいは、自分で言ってたよ」

「なにを」

「『俺が俺だ』って。わたしが思うせんぱいとは無関係に、せんぱいだけが自分なんだって」

「……」

「わかんないっていうほうが、わかんない」

「……そんなこと、言ったっけ?」

「記憶、ない?」

「ない、かもな」

「かも?」

「どうもはっきりしない」

「……そか」

「でも、そんなら、いいのかな」

「なにが?」

「……」

 いいのかもしれない。

661 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:10:34.94 ID:tPIsQ6zzo


「真中、俺は……」

「……なに」

「ホントは、俺はさ」

「……うん。なに?」

 当たり前みたいな顔で、真中は俺をまっすぐに見つめてくる。
 それを俺は、不思議な気持ちでみている。

 俺よりも低い背丈。
 細い手足。細い髪。
 俺は、

 ……本当に、言ってしまっていいんだろうか。

「……どうしたの、せんぱい」

 俺は、真中が言うような、浮世離れしたみたいな仙人のような存在ではない。
 霞を食べて過ごすような無欲な人間ではない。

 俺が本当に何も欲しがっていなかったなら、どうして怜と自分を比べて劣等感にさいなまれる必要があっただろう。
 ちどりと比べて、自分が何も上手くできないと思う必要があっただろう。
 ふたりと俺との間に、微妙な距離を感じることがあっただろう。

 俺が何も欲しがらない人間だったなら、どうして真中と付き合ったふりを続けたりしたのだ?
 面倒を嫌うなら、最初からかかわらなければよかったのに。

 俺は、みんなに好かれていた真中と嘘でも付き合っているという事実に、優越感を覚えてはいなかったか?
 自分が真中と親しい存在であるということに、自意識が満たされてはいなかったか?
 
662 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:11:16.96 ID:tPIsQ6zzo

 あの葉擦れの森の中で、声を枯らして誰かを呼んでいたのは確かだ。
 呼ばなくなったのは、単に諦めたからだ。

 あるいはむしろ、
 欲望があまりにも強く大きすぎるあまり、その欲望を達成することが著しく困難であるため、
 その完璧な達成を諦めると同時に、欲望そのものを投げ捨てた。

 真中は、俺が真中を好きにならないと思ったから、俺と一緒にいてくれた。
 だから俺は、真中を好きにならないように気をつけていた。

 どうして?
 
 真中と一緒にいるために。

 最初から、そうだ。
 
 複合的な理由。
 俺の居る場所が、俺のための場所だと思えなかったから。
 誰かを好きになるほど、自分のことが好きじゃないから。
 
 だから俺は真中を好きにならない。

 真中と一緒にいるために、俺は真中を好きにならない。
 俺が真中を好きだと言った瞬間に、真中は俺から興味を失うかもしれない。
 だから俺は真中を好きにならない。

 だから俺は、そうだ。
 真中が俺から離れていかないように、真中に興味なんてちっともないような振りを続けなきゃいけなかった。

 その時点で、最初から俺は真中が好きだった。
 好きだった?

 少なくとも……。

「本当は……なに?」

「めんどくさいな」

「なにが」

「……話すの」

663 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:11:49.11 ID:tPIsQ6zzo


「……」

「なんでもかんでも、言葉にしないとだめかな」

「……じゃあ、大事なことだけ、言ってよ」

「うーん……」

 さて、どう言ったものだろうな。

「……ほんとはちょっと、悲しかっただけなんだ」

 と、真中はそう言った。

「なにが?」

「青葉先輩のことも、ましろ先輩のことも、いろんなことも、いろいろ、あって」

「うん……?」

「知れば知るほど、わたし、せんぱいのこれまでの人生に、どこまでも無関係な人間だなって」

「……」

「一緒にいたのに、ほとんどなんにも知らなかった。せんぱい、何にも話してくれなかったし」

「……」

 そうかな。

「『俺の振る舞いが全部おまえの想定内に収まるくらいおまえは俺のことを知っているのか?』」

「……」

「せんぱいは、そう言ってた。……わたし、なんにも答えられなかった」

664 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:12:29.92 ID:tPIsQ6zzo

 そんなこと、言ったっけな。
 言ったんだろうな、きっと。 
 そんな記憶が、いま、蘇ってくる。

「すっごく、悔しかった」

「……そっか」

「せんぱいの幼馴染さんとか、青葉先輩とか、ましろ先輩とか、それに、ちせとか……」

「……」

「せんぱいの周りにはいろんな人がいて、みんな、せんぱいのこと、知ってるみたいな顔がするのがいやだった」

 真中は、恥じ入るみたいに顔を俯ける。
 俺はそれを黙って聞いている。

「わたしがいちばんじゃないといやだ。せんぱいのこと、いちばん知ってるの、わかってるの、わたしじゃないと、いやだ。
 わたしの知らないせんぱいを、他の誰かが知ってるなんて、やだ」

「……なんだ、それ?」

「……なんでもない。言ってみただけ」

「ん」

 当たり前みたいに、真中は俺の言葉を待つ。

 俺は真中のことが好きだ。

 けれど、真中はやっぱり、俺のことを分かっていない。

665 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:13:14.18 ID:tPIsQ6zzo

 真中もちどりも純佳も、瀬尾も怜も大野も、分かっていない。

 どいつもこいつも、俺がまるで無欲な人間であるかのように誤解している。
 俺自身でさえ、そんなふうに考えている。

 でも今は、違うような気がする。

 共犯意識、恩を着せているような得意な気持ち、
 人に懐かない猫が自分にだけすり寄ってくるような優越感、
 あるいは、もっと純粋に、魅力的な女の子と一緒にいられるという役得。
 もっと単純な、性欲。

 すべてが絡み合っている。 
 すべてが絡み合っていて、
 真中が離れていくと考えるだけで、俺は待てよと言いたくなる。

 ふざけるなよと誰にともなく言いたくなる。

 好きだとか、一緒にいてほしいとか、そんな殊勝な気持ちなんかじゃない。

 勝手に離れてるんじゃねーよ。
 ふざけてんじゃねーよ。
 
 じゃないと俺はまた、あの森の中でひとりだろうが。

 好きだなんて、そんな単純なものじゃない。
 その単純な一言の中に、いろんなものがないまぜになって絡み合っている。
 欲望、劣等感、優越感、孤独、空虚、寂しさ、庇護欲、承認欲求。

 そんなすべてが含まれた感情を、俺は純粋な好意だと思えなかった。

666 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:14:06.87 ID:tPIsQ6zzo

 真中が離れていかないように、真中を突き放した。……それは事実だ。
 でも、そんなないまぜになった感情を抱く自分が嫌で、綺麗な気持ちじゃないのが嫌で、真中を突き放した。……それも事実だ。
 きっと全部が絡み合っている。
 
 それが愛なら、たぶん全部が愛なんだろう。
 世界は愛でできているんだろう。

 俺は言葉の使い方が雑だから、それを愛と呼んでやってもいいんだけど、
 でも今は、いつもみたいにそんなごまかしをつかったら、取り返しがつかないような気がした。
 
 ──きみはね、恋がしたいんだよ。
 ──恋がしたいから、困ってるんだ。

 それが本当だったのかもしれないと思うけれど、好きだなんて言葉ではどこにもいきつかない。

「……せんぱい?」

 自販機の脇に、真中はもたれている。
 仕方ないから俺は、

 とん、と手を突いて近付いた。

「……なにしてるの、せんぱい?」

「……壁ドン?」

「……最近あんまり聞かなくなったね?」

「……だな」

 とりあえず、十五センチ圏内に真中のからだがある。

667 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:14:32.94 ID:tPIsQ6zzo

 いろんなものがないまぜになっているのかもしれない。

 それがなんだ。

 綺麗なだけの感情じゃないかもしれない。

 それがなんだ。

 俺が好きだと言ったら、真中が離れていくかもしれない?
 
 ふざけてんじゃねえよ。

「真中」

「はい」

 と、真中はなんでか敬語だった。
 あっけにとられたみたいな、ちょっと慌てたみたいな、高い声だ。
 それが珍しくて、俺はなんだか、慣れないこともやってみるもんだな、と思う。

 さて、なんて言えばいい?

 必要だ、というのとは違う。
 好きだ、というには混乱している。
 ましてや、愛してるなんてお笑い種だ。

 だからって、茶番をもう一度繰り返したいわけでもない。

668 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:17:06.69 ID:tPIsQ6zzo

「……いくじなし」

 と真中が言った。
 
 うるせえよ、と俺は思って、
 すんなりと言った。

「俺はおまえが欲しい」

 それが一番、感覚としては近かった。

 んだけど、

「……は?」

 と、不審そうに見られてしまった。
 それもまた仕方ない。

 レディコミの男役か、と言いたくなるような台詞だった。我ながら。

 真中は、十秒くらいたっぷり黙り込んで、俺の方を見上げていた。
 そして、ふきだすみたいに笑う。

「なぜ笑う」

「笑うよ、これは」

「……俺らしくない?」

「……うん。とっても」

669 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:20:51.00 ID:tPIsQ6zzo

 欲しい。
 
 思い通りに動かしたい。
 所有したい、とすら思う。

 これが純粋な好意だなんて、最初から思ってない。

 真中は、呆れたみたいに俺を見上げて、
 猫みたいに、にんまり満足そうに笑う。
 
 頬にほんの少し朱がさしていて、それを綺麗だと思った。

「わたしが、欲しい?」

 少し震えた声で、真中はそう言った。

「欲しい」

「……ふうん?」

 油断しちゃいけない、とずっと思っていた。
 油断したら、この表情に全部もっていかれる。

 そう思っていた。
 手遅れだ。最初から。

「簡単にはあげないから」

 そういって彼女は、俺のもう片方の手をそっと持ち上げて、自分の頬にもっていった。
 すりよせられるように頬の感触を感じ、てのひらに、真中の睫毛があたるのが分かった。

「……だから、もっと欲しがってよ」

 ……結局これだ。
 完敗だ。

 こうなるのが分かってたから、俺は気取られたくなかったのだ。
 そんな後悔を覚えたけれど、もう手遅れだ。

 俺はこいつを欲しがっている。ほかの誰でもなく。

670 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:21:36.32 ID:tPIsQ6zzo

「……からかってる?」

 そう訊ねると、真中は柔らかく首を振った。

「もっかい言ってよ」

「なんて?」

「わたしがほしいって」

「……あのな」

「なんかね、なんでだろう。なにが、ちがうんだろうな……」

「……?」

「言い慣れてない感じが、せんぱいだなって気がしたよ」

「……何の話?」

「なんでもない」

 と真中は笑った。

 俺と彼女はそれからしばらく、誰も来ないのをいいことに、もぞもぞと動く貝になったみたいに、黙りあったままそこにいた。


671 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/15(金) 21:22:03.66 ID:tPIsQ6zzo
つづく
672 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/15(金) 23:43:40.20 ID:Xb9b5CRZO
おつです。いいですねぇ。
673 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/16(土) 00:10:42.01 ID:R2UE3L2No
おつおつ
674 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/16(土) 23:43:02.44 ID:uclklhEE0
おつです
675 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/17(日) 11:29:03.48 ID:CSFZJr2GO

ニヤニヤする
676 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:35:35.25 ID:5P8sYMU/o





 部室に行くまでのあいだ、真中はずっと俺の制服の裾を掴んですぐ後ろを歩いた。


677 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:36:33.31 ID:5P8sYMU/o



 部室についてからも、真中は制服の裾を離さなかった。
 
 大野と瀬尾と市川は既にそこにいて、それだけで察したみたいに何も言わなかった。

「歩きにくい」

「恥ずかしいの?」

「それもある」

 なんて会話を、俺は沈黙が広がる文芸部室のなかで繰り広げなければいけなかった。

 俺は荷物を机の上に置いてから、部室の隅の戸棚に近寄る。
 
「どうしたの?」

「調べ物」

 そう言って俺は『薄明』の平成四年版を手に取る。

 茂さんが作り上げた架空の書物、架空の文芸部、架空の歴史。
 今から俺はそれを足がかりに、大掛かりな嘘をつかなければならない。

678 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:37:01.86 ID:5P8sYMU/o


 手にとって読んでみても、やはりそれをひとりの人間が作り上げたのだという感じはしなかった。
 収められている文章はどれもこれも巧拙や筆致に差異があるように見える。

 つまり、彼はそれほどの書き手だったということだろう。

 それだけのことが俺にできるだろうか?

 わからない。

 とはいえ、今重要なのは、そんなことではない。

 問題はひとつ。

 佐久間茂が作り上げたこの『薄明』のなかに、どんな物語が隠されているのか、だ。

 なのだが。

「……真中」

「ん」

「近い」

「うれしい?」

「……」

 うれしくないこともなかったが、集中できない。

「今日はあっついねー」と瀬尾があからさまにわざとらしいことを言う。

「夏だからな」と大野が答えた。
 
 市川は黙ってノートに絵を描いている。

679 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:37:34.16 ID:5P8sYMU/o

 ……とりあえず、『薄明』に視線を下ろす。

 平成四年度に発行された部誌は全部で四冊。
 春季号、夏季号、文化祭特別号、冬季号。

 そのうち、佐久間茂という名前があるのは、春季号と夏季号のふたつのみ。
 以降のふたつには彼は参加していない、ことになっている。

 読むものが読めば、春季号と夏季号に佐久間茂が寄稿した文章は盗作だとはっきりわかる。
 だからこそ、茂さんは、佐久間茂の名前を文化祭特別号以降には載せなかった。
 
 この一連の捏造された事態にはひとつのメッセージがあるように受け取れる。

 これは、『佐久間茂の作品は盗作である』という宣言だ。

 そして、佐久間茂の作品というのは、この四冊の『薄明』を指し示しているともとれる。

 何の盗作なのか?
 
 もちろん本人に聞くのが早いけれど、既に俺はその答えを知っている。
 
『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』。

 彼は、ボルヘスのあの短編の着想を模倣し、それによって架空の部員たちの存在を捏造した。

 これはもちろん、本来ならば紙の上で起きただけの出来事にすぎない。
 けれど、本当にそれだけで済んだのだろうか。

680 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:38:00.65 ID:5P8sYMU/o

 机の上に並べた『薄明』に順番に目を通しながら、俺は考える。

 佐久間茂の想像に過ぎない『むこう』は、その存在を現実に映し出し、今にまで影響を与えている。
 それによって、瀬尾青葉がこの場にいて、さくらが生まれ、カレハも生まれた。

 だとすれば、佐久間茂が捏造したこの部員たちは、現実に何の影響も与えなかったのだろうか?

 もちろん、部員たちが本当に生み出されたというようなことはなかっただろう。……おそらく。
 少なくとも茂さんは、そんなことを言っていなかった。

 だが、他の部分はどうか?

 たとえば、茂さんが言っていた、この部誌に仕込まれた『物語』。

 たとえばそれが、なんらかの形で現実に影響を与えたということは、ないだろうか?

 たとえばそれが……。

 ──さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?

 他の何かと噛み合ってしまった、ということは、ないだろうか。

681 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:38:33.51 ID:5P8sYMU/o

 じっくりと目を通しているうちに肩が凝ってくる。
 そもそも俺は文章を読むのが得意ではない。

 こんな調子でやっていけるかどうか不安だけれど、俺は約束してしまった。

 さくらの居場所の作り方なんて、正直なところ見当もつかない。

 そもそも、どうなったらさくらの居場所ができたことになるのかもわからない。

 それでも俺は大言壮語を吐いてしまった。今更飲み込み直すこともできない。

 少なくとも……彼女が甲子園を見に行けるくらいにはしてやらないといけない。

682 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:39:53.56 ID:5P8sYMU/o

 と、少し休憩しているところで、真中がじっと俺のことを見ていることに気づく。

「……なに」

「なんでもない」

 なんとなく変な気分で、俺は両手を机の下に垂らすように伸ばした。

 すると真中は、不思議そうな顔で俺の手の甲に指先で触れた。

 ほんの少しなぞるような感触に、肌がざわつくみたいに動揺した。

 何かを言いそうになったけれど、どうしてか声を出せない。
 周囲の様子をうかがうと、みんなそれぞれが別々のことをしていて、こちらを気にする様子はない。

 真中もまた、みんなの様子をたしかめたあと、静かに俺の手に視線を戻して、指先だけでたしかめるように俺の手を撫でた。
 
 俺が文句を言わないのを見て取ると、真中の指の動きはそれまでよりも大胆なものに変わった。
 手の甲全体を手のひらで包むように動かし、かたちをたしかめるように何度も往復する。

 くすぐったい。

 彼女はテーブルの上に載せた本をもう片方の手でもって、何食わぬ顔でそちらに視線を向けている。

 負けてたまるか、いや、何に負けたことになるのかはわからないけれど、などと考えながら、俺は視線をページに戻す。
 真中はまるで俺の我慢を試すみたいにしばらくその動きを続けた。
 
683 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:40:49.40 ID:5P8sYMU/o

 
 やがて彼女の指先が、俺の手のひらの内側に忍び込んでくる。
 彼女の指が、俺の指の一本一本の根本の間を、爪の先でひっかくみたいにくすぐる。
 
「……」

 当然、俺は集中できないけれど、真中は片手で器用に文庫本のページをめくった。
 指先が絡められる。

 ああもう、と俺は思った。

 彼女の指と指の間に、自分の指を滑り込ませ、黙らせるみたいに握ってやると、一瞬真中が驚いたのが手のこわばりだけでわかる。

 それでも真中はかたくなに手を離さず、顔色も変えない。
 こういうことに関しては、真中は慣れきっているのだ。

 それは俺だって同じだ。数年間ずっと、葉擦れの音が聞こえ続けるなかで生活してきたのだから、さして難しくない。
 そのはずだ。

 真中はしばらく、俺の手の中でじたばたあがくみたいに指先を動かしていたけれど、やがて諦めたみたいにされるがままになった。
 ようやく静かになった、と思って、俺と彼女は互いの手のひらをそのままに、それぞれに文章を読み始めた。

 
684 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:41:17.02 ID:5P8sYMU/o




 佐久間茂の文章の物語。仕掛け。

 それはさして難しい秘密ではなかった。
 別人名義の編集後記や、ところどころの短編小説や散文に、その影を推し量ることができる。

 当然、さまざまな人間が書いた文章という体裁なので、全体像を把握することは難しい。
 
 それでもはっきりと、隠された物語を見つけ出すことはできた。

 それは、『守り神』についての話だった。
 人と人とを結ぶ縁の神。

 少女の姿をした神様は、普段は制服姿で生徒たちの間に隠れ、ひっそりと人々の縁を結ぶ手伝いをしている。
 彼女は誰からも見ることができず、彼女の声は誰にも聞こえず、彼女は学校から出ることができない。

 校門近くの大きな桜の樹。その樹の精だという噂もある。

 その精霊の噂話が、あたかも本当に生徒のあいだでまことしやかに語られていたかのように、ところどころで触れられている。

『さくら』はましろ先輩の空想の友達だ。それはたしかだろう。
『さくら』を連れたましろ先輩が『むこう』に行ったことでカレハが生まれたのだとしたら、そうだ。

 だとすれば、『さくら』が生まれたのは……。

 佐久間茂の書いた『薄明』。
 ましろ先輩の『空想の友達』。
 そして、『夜』と『むこう』。

 その三つが複合的に絡み合った結果なのではないか。
『夜』によって叶えられた『むこう』。そこに踏み込んだ『ましろ先輩』。その『空想の友達』。
 そしてその『空想の友達』、眠っていた空想の友達が、ましろ先輩がこの学校に入学したことで、
『守り神』としての形を持って再構成された。

 ──わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
 ──あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる。

 やはり、ましろ先輩が言っていたとおりなのだろうか。

685 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:41:55.26 ID:5P8sYMU/o

「……いや」

 と、思わず独り言を言うと、瀬尾がちらりとこちらに視線をよこした。

「なんでもない。少し考え事だ」

「……そ?」

 納得のいかないような顔だったけれど(俺は瀬尾に隠し事ができないらしいので仕方がない)、あえて何も聞いては来なかった。

 ……だとすると、カレハはどうなる?

 カレハが生まれたのは、ましろ先輩がむこうにいったとき、そのはずじゃないか。

 ……。
 けれど……。

 そもそもカレハは、どうして、瀬尾がいなくなった頃に、俺の前に姿を見せたんだろう。

 むこうの俺は、六年前からずっと、あの場所に置き去りだったはずだ。
 そのときからカレハが居たなら、カレハが俺の前に現れるのは、もっと前でもよかったはずだ。

 だとすると、こうだ。

 まず、『俺がさくらを見つけた』。
 
 そして、『カレハがむこうの俺の前に現れた』。

 カレハもまた、ずっとあっちに存在していたのではなく……。
 俺がさくらを見つけたから、俺の前に現れることができるようになったんじゃないのか?

 ……さすがに、頭が混乱してきて、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて息をつく。

 この仮定が本当だったところで、どう判断したものか。
 ふと、真中が俺の手をぎゅっと握った。俺はされるがままにしておいた。

686 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:42:22.38 ID:5P8sYMU/o
つづく
687 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 00:51:19.82 ID:hZv4zwpOo
おつおつ
続きが気になる
688 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 10:08:34.49 ID:B6sQ61W+0
おつです
689 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 22:37:06.01 ID:36JIBwBg0
おつです
690 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:36:50.49 ID:zBDZg6OAo





「ね、三枝くん。お願いがひとつあるんだけど、いいかな」

691 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:37:17.74 ID:zBDZg6OAo



 部活を終えて帰ろうという段になったとき、瀬尾にそう声をかけられて、俺はいくらか面食らった。

「いいけど……なに?」

 瀬尾はほんの少しためらいがちに、俺の近くにいた真中を見る。
 真中の方はそのまま瀬尾を見返していた。

「……お願い?」

 なんとなく硬直した空気をいさめるつもりで俺が聞き返すと、瀬尾はこくんと頷いた。

 うなずいてからも、瀬尾は言いにくそうにもじもじと視線をそらしている。
 瀬尾が俺に頼み事をするのも珍しいが、こんなふうに落ち着かない様子でいるのも珍しい。

「お願いって?」

「えっとね……」

「うん」

「……せんぱいって」と、黙っていた真中が口を挟んだ。

「ん」

「青葉先輩にはやさしいよね」

「……」

 俺と瀬尾はそろって真中の方を見た。

「……なんでそうなる」

692 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:37:44.97 ID:zBDZg6OAo

「だって、そんな感じするし」

「そんなことないと思う」

 と、瀬尾と俺の声は揃った。

「……失礼なやつだな」

「や、べつにそういう意味じゃなくて……」

「どういう意味だよ」

「三枝くんはみんなに優しいじゃん」

「……」

 俺と真中は顔を見合わせた。

「……せんぱい、どんな弱みを握ったの?」

「俺はどんな人間だと思われてるんだ?」

「……わたし変なこと言った?」

 瀬尾は不思議そうに首をかしげた。
 
「変というか……」

 俺が何かを言うのも違う気がして、話を戻す。

693 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:38:15.70 ID:zBDZg6OAo


「で、結局お願いってなに」

「あ、うん」

 そこで瀬尾は真中の方をちらりと見た。

「……わたし、邪魔?」

「邪魔だってさ」

「や、や。邪魔ってことはないけど」

「いい。せんぱい、今日は先帰るね」

「はいはい」

 俺のうなずきを待たずに、真中はあっさりと去っていった。
 相変わらずのペースで、かえって面食らってしまった。

694 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:38:47.56 ID:zBDZg6OAo


「……えっと、ふたり、どうしたの?」

 瀬尾にそう訊ねられても、俺はうまく答えられずに肩をすくめるしかない。

「どうというか……まあな」

「あらためて付き合うことになったの?」

「そう言っていいものか」

「よくわかんないね」

「複雑なんだ」

 まあとはいえ、事実だけを言えば、俺から告白したようなものか。
 
「よかったの? 帰らせちゃって」

「真中がいたら話しづらい話題なんだろ」

「そうだけど……」

「変な気を使うな」

「……さっきまでベタベタしてたくせに」

 それはまあ、そうなのだろうけど、ここで真中を追ったところで、良いビジョンがあまり見えないのが不思議なところだ。

『今日は先に帰るね』と真中は言った。
 
『また今度一緒に帰ろう』という意味だろう。

 経験上、そういう意味だと思う。

 それからたぶん、このあとに起きることも聞かれるのだろう。
 不思議なものだ。

695 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:39:28.41 ID:zBDZg6OAo


 と、思っていたところで、携帯がポケットのなかで震えた。

 真中から、

「ばか」

 と来た。

「……」

 ごめんと返すと、またすぐに、

「節操なし」

 と来る。

「はくじょうもの」

「うわきもの」

「ごめんて」

「ゆるす」

 許すんだ。

 良い子かよ。

「良い子」

「えへへ」

 ……えへへってなんだ。誰だこれ。

696 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:40:03.26 ID:zBDZg6OAo

 とりあえず対応に困ったので、返信をせずに携帯をしまう。

 それから瀬尾のほうに向き直った。

「それで?」

「あ、うん……。連れてってほしい場所があるんだ」

「……ふむ」

 まあ、ちょうどいいと言えばちょうどいい。
 俺も瀬尾に話さないといけないことがある。

 ちせと、ましろ先輩。
 それから……市川にも。

 とはいえそれはひとつひとつだ。

「じゃあ、とりあえず行くか」

「……うん」

697 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:40:35.59 ID:zBDZg6OAo



「……えと、ね」

 校門を抜けたところで、瀬尾は言いにくそうに口を開いた。

「どうした」

 と訊ねても、やっぱり困ったような顔をするだけだ。

 甘えるような目でこちらを見ている。
 
「なんだよ」

「ちょっとまってね」

 と言って、瀬尾は深呼吸をした。

「まだ、迷ってる部分もあって……」

「……ふむ」

「えと……」

「うん」

 こんな瀬尾も珍しいな、という気持ち以上に、もっと不思議な違和感のようなものがある。
 この感覚を俺は知ってる。

「……『トレーン』」

「え?」

「『トレーン』に、連れて行ってほしいの」

698 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:41:06.63 ID:zBDZg6OAo

 ああ、そうだ、と俺は思った。
 
 今の瀬尾は……さっきの言葉も、そうだ。

 ちどりに似ている。どことなく。

「ほんとはすごく迷ってるの」

「……だろうな」

「だけど、でも……そうしないと、進めない気がする」

 進むって、どこに。

 そう訊ねたかったけど、やめた。

「だけど、ひとりじゃいけない。だから……」

「俺に付き合えって?」

「……だめかな」

「……駄目じゃないよ、べつに、もちろん」

「そ、そう?」

 瀬尾がいいなら、いいのだろう。

「瀬尾は……」

「ん」

「すごいな」

「……なに、急に」

「あとで牛乳プリン買ってやるよ」

「……それ、約束だからね」

「俺は嘘をつかない」

「……それは嘘」

 瀬尾はぎこちなく笑った。
 
699 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:42:02.76 ID:zBDZg6OAo
つづく
700 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/27(水) 22:48:49.95 ID:dLSrOJbU0
おつです
701 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/28(木) 00:08:15.15 ID:FYh3U4650
おつん
702 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/28(木) 16:48:26.65 ID:aAjGkucG0
おつです
703 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:12:22.89 ID:DGAy5fz9o




『トレーン』の扉を開けるといつものようにベルが鳴る。

 夕方の店内には、何人かの客の姿があった。応対をしていたマスターは、ちらりとこちらに目を向けると静かに笑った。

「いらっしゃい」

 瀬尾は俺の背中に隠れ、店内の空気をたしかめるように呼吸をした。

「どうも」とだけ声をかけて、俺は奥のテーブル席へとむかう。
 瀬尾は黙ったまま俺を追いかけた。

 席についたところへ、いつものようにちどりがやってきた。

「いらっしゃい、隼ちゃん」

 そう言って、いつものように俺を見てから、瀬尾の方へと視線をうつし、
 その表情が不可解そうに揺れた。

 なにか不思議なものを見たような、
 そんな顔だ。

「……あ、えと。お友達ですか?」

「ん。まあな。……忙しそうだな」

「ええ、まあ、いつもよりは、少し」

「そうか」

「注文は……」

「ブレンド。瀬尾は」

「あ、同じで」

「かしこまりました」

 そう言って、ちどりは小さくお辞儀して去っていく。

704 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:13:12.56 ID:DGAy5fz9o

「……」

「ずいぶん緊張してるな」

「まあ、ね」

 来たいというから連れてきたものの、俺は瀬尾が何をするつもりなのか知らない。
 ちどりはもちろん、茂さんも瀬尾の存在を知らない。
 
 茂さんなら、瀬尾を見れば何が起きたかを感づくだろうか。

 それもそうかもしれない。
 俺はひょっとして、瀬尾をここに連れてくるべきではなかったのか。

 ……いや。

 瀬尾青葉の判断は、瀬尾青葉の判断だ。

 俺がどうこうできるものじゃない。

 ましてやそれは、ややこしい変な出来事のせいで制限されていいものでもないはずだ。
 おそらくは。
705 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:13:51.17 ID:DGAy5fz9o


「……」

「なんか、顔赤いな」

「ん。や、まあ……」

「どうした」

「や。……ほんとに敬語だったなあって」

 恥じ入るみたいに、瀬尾はテーブルに両肘をついて顔を手のひらで覆った。

「……なんでおまえが恥ずかしがる」

「……三枝くんにはわかりませんことよ」

「そりゃ、べつにいいけどな。いいじゃないか、敬語」

「そう?」

「似合ってる」

「そうですか?」

「……」

「……」

「似合わないな、不思議と」

「不思議ですね……」

 ちょっとやけになっているみたいだった。

706 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:14:19.30 ID:DGAy5fz9o

「それで……?」

「ん……」

「どうする気でここにきたんだ」

「ん。まあ、いろいろ考えてたんだけど。ひとまず……忙しそうだし、あとにしよっか」

「……」

 忙しそうだし、というからには、やはりちどりと話したいのか。
 いや、話してみたいのか。

 それはそう、かもしれない。

 瀬尾にとってちどりは可能性そのものだ。

「それより、三枝くんこそ、わたしになにか話があるんじゃないっけ」

「……俺、そんなこと言ったっけ?」

「あれ、言ってないっけ?」

「まあ、あるのはホントだけどさ」

 言ってなかったとしても、瀬尾とももう長い付き合いだ。
 こいつなら見透かしてもおかしくないかもしれない。

 今となっては瀬尾は、俺を取り巻く状況について、いちばん知っている人間だとも言える。

707 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:14:50.03 ID:DGAy5fz9o

「さくらのことだ」

「さくら……」

 瀬尾は、一瞬きょとんとした顔になって、

「あ、さくら!」

 と、声をあげた。周囲の客がこちらに視線を寄せてくる。俺は唇の前に人差し指を立てた。

「声が大きい」

「ごめんなさい」

「素直でよろしい。覚えてるみたいだな」

「ん。今の今まで忘れてた。戻ってきてから、わたし、姿を見てないよ。……見えなくなっちゃっただけ?」

「いや。たぶん、姿を見せてないだけだろう」

「……そうなの?」

「ああ。さくらはいる」

「……そっか。すっかり、頭から抜けてた。……うん。さくらね」

「そう。さくらのこと」

「……さくらが、どうかしたの?」

「ま、いろいろあったんだけど、ややこしいから過程は省略する」

「省略するんだ」

「説明が面倒でな」

「……ま、三枝くんらしいけどさ。それで?」

708 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:16:03.05 ID:DGAy5fz9o


 説明、そう、説明だ。
 それが必要だ。……俺に、できるだろうか。

 そもそも俺は、自分が何をしようとしているのか、ちゃんと理解できているのだろうか。

 目的。

 さくらの居場所を作る。

 手段。

“夜”を利用する。

 さくらの居場所をこの世界に書き足す。

「……『薄明』を作りたい」

「……ん。なに、突然」

「フォークロアを作る」

 俺の言葉に、瀬尾は目を丸くした。

「ごめん、順番に説明してくれる?」

「……だよな」

 まあ、仕方ない。話せる部分だけ、話してしまおう、と、そう思ったところで、声をかけられた。

709 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:16:41.51 ID:DGAy5fz9o

「おまたせしました。ブレンドふたつですね」

 ちどりがやってきた。

 俺と瀬尾が話している間に、客は少しずつ減っていた。
 周囲を見ると、いくらか落ち着いた雰囲気だ。

「……あの、鴻ノ巣ちどり、さん?」

 不意に、瀬尾がそう声をかけた。

「……あ、はい」と、戸惑ったふうに、ちどりが返事をする。

「あの、わたし、瀬尾青葉っていいます」

「……あ、はい。はじめまして、ですよね」

「……うん。三枝くんから、いつも話は聞いてる」

「……ほんとに?」

 と、なぜかちどりは俺を見た。

「なんで」

「だって、隼ちゃんが誰かにわたしの話をするなんて、思えないです」

「……」

 たしかに、と思うと同時に、瀬尾が『たしかに』という顔をした。

「……や、まあな」

「三枝くんとは文芸部で一緒で、いろいろ話をしてるうちにね」

710 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:17:18.87 ID:DGAy5fz9o

 そんなふうに誤魔化しながら、瀬尾はちどりに笑いかける。
 やっぱりいくらか、緊張した様子だ。

 それにしても……ふたりはやっぱり似ている。
 瓜二つ、とまでは言わない。

 それでもやはり、似ている。

「前から、ちどりちゃんに興味があったんだ」

「興味……ですか」

「うん。あのね、もしよかったら……わたしと、友達になってくれない?」

「……ともだち、ですか?」

「うん。……駄目かな」

 ちどりは、いくらか戸惑った顔を見せた。

 無理もない、といえば、無理もない。
 初対面の相手に、そんな言い方をされたら、普通はそうなる。

 でも、

「駄目なんてこと、ないです。隼ちゃんのお友達なら、大歓迎です」

「……」

 瀬尾は恥ずかしそうに目を覆った。

「どうした」

「や……自分のことじゃないのに、この無垢な信頼が恥ずかしい」

「……そう言われると俺のほうが恥ずかしい気がしてくるな」

「えっと?」

「あ、ごめんね。……うん。じゃあ、わたしと、おともだちになってください」

 そんなふうに瀬尾は、ちどりに手をさしだした。

 ちどりはその手を受け取った。
 
711 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:18:05.04 ID:DGAy5fz9o





 
 瀬尾とちどりが話をするのを聞きながら過ごして、店を出たとき、まだ外は明るかった。
 夏が近い。

 俺は瀬尾に訊ねずにはいられなかった。

「どうしてだ?」

「ん」

 少しほっとした様子の瀬尾を見て、俺は不思議に思う。
 どうして、ちどりと友達になりたかったんだろう。

 それは瀬尾にとって、もしかしたら、とても残酷なことなんじゃないか。

「……わたしはさ、瀬尾青葉だからね」

「……うん」

「瀬尾青葉だから。鴻ノ巣ちどりじゃない。でも、なんだか、こうしなかったら、いつまで経ってもわたしは、本当の意味でわたしになれない気がする」

「……よく、わかんないな」

「わかんない、かもね。『三枝くんの幼馴染』に興味があったのも本当だし……でも、ちょっと説明がむずかしいかな」

「うん」

712 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:18:31.91 ID:DGAy5fz9o

「わたしは……わたしとして生きる。だから、鴻ノ巣ちどりは、ちどりちゃんは、わたしのともだち」

「……」

「だめかな?」

「……いや」

 俺がどうこう言うことじゃない。
 きっと、たくさん考えたんだろう。

 ああでもないこうでもないと、もがいてあがいた結果なんだろう。

 だとすれば、それを俺が認めるとか認めないとかいう次元の話じゃない。
 
 瀬尾青葉は瀬尾青葉として生きる。

「……ホントはずっと、悩んでたんだ。鴻ノ巣ちどりとしての記憶を持ってる自分が別人として生きるって、絶対変だから」

「……」

「でも、決めた。『それ』を含めて、わたしはやっぱり瀬尾青葉なんだって」

「……そっか」

「今、わたしがここにある。そこに至るまでのすべてがぜんぶわたし。そう思ったらすっきりしたから」

 だからだろう。
 瀬尾の表情が澄み切って見えるのも。

713 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:19:21.81 ID:DGAy5fz9o


「だからね、“隼ちゃん”」

「……」

「これからもよろしくね」

「……まあ、好きに呼べよ」

「つめたーい。わたしのこと好きって言ってたくせに」

「なんだそれ、記憶にねえよ」

「覚えてないの?」

「いつの話だ」

「ずっと昔」

「そっか」

 ここに至るまでのすべて。

 経験。
 記憶。
 歪み。
 痛み。
 ありとあらゆる感情。

 今ある混乱。 
 そのすべてが自分であるならば……。

714 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:19:49.97 ID:DGAy5fz9o

「大丈夫だよ。柚子ちゃんとのこと、邪魔したりしないから」

「そんな心配、してない」

「……そう?」

「ああ」

「ちょっと残念かも」

「なんで」

「隼ちゃんには、わかんないですよ」

「……」

「……なに?」

「いや、ちょっと今……」

 ちどりみたいだった、と、またそう言ったら怒るだろうか。

715 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:20:28.92 ID:DGAy5fz9o

「ちどりちゃんみたいだった?」

「……うん」

「それはそうだよ」

 と、瀬尾はなんでもないように言う。

「それを含めて、わたしはわたしだからね」

 瀬尾青葉は本当に、強い人間だと思った。

「それで……さっきの話だけど」

「ん」

「フォークロアを作るって?」

「……ああ」

 そうだな、
 その話を始めなきゃいけない。

 他のことはすべて、もう、一段落した。
 最後の仕上げをしなきゃいけない。

716 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:20:55.44 ID:DGAy5fz9o
つづく
717 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/02(火) 23:36:28.06 ID:sv9LSuKLo
ちどりと青葉が会うのドキドキした
乙乙
718 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/03(水) 07:36:23.61 ID:WMGt4U9+0
おつです
719 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/03(水) 22:39:47.31 ID:qSiUdSAW0
おつです
720 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/04(木) 02:31:47.89 ID:7l+6ad+Io
721 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:37:39.98 ID:iNQmpNLTo




 佐久間茂はあの森を作った。
 
 夜の力を借りて。

 夜は現実に影響をきたした。
 その結果、『薄明』を通じてさくらが生まれた。

 これが最初の仮定。

 そしてこう続く。

 仮に『薄明』がさくらのディティールを作り上げたのならば、
『薄明』によってそれを書き換えることは可能ではないか。

 佐久間茂がデミウルゴスなのだとしたら、夜はデウス・エクス・マキナだ。

 これはもはや呪術的儀式に近い。

 佐久間茂の『薄明』、その『後日談』を描くことで、『さくらのディティールを書き換える』。

 矛盾なく、さくらを揺らがせないように、慎重に。
 さくらを今のさくらのままで保ちつつ、さくらを書き換える。

 そのためには、佐久間茂がそうしたように、
『薄明』を作らなければいけない。

『薄明』そのものを物語にしなければならない。

 そのとき夜は、昼の世界に静かに侵食するだろう。

『薄明』。

 夜明け前のほのかな明かり。

722 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:38:12.56 ID:iNQmpNLTo

 


「……突拍子もないこと考えるね」

「まあな」

「本当にできると思う?」

「わからん」

「でも」

「ん」

「おもしろそう」

 そう言うと思った。

723 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:38:56.24 ID:iNQmpNLTo




 『薄明』平成四年春季号

 目次

 
 1.小説

『ゆりかごに眠る / 赤井 吉野』
『白昼夢  / 佐久間 茂』
『空の色 / 弓削 雅』
『悲しい噂 / 酒井 浩二』
『ひずみ / 峯田 龍彦』
『ハックルベリーの猫 / 峯田 龍彦』
『許し / 笹塚 和也』



 2.散文

『ちょうどいい季節 / 酒井 浩二』
『神様の噂 / 赤井 吉野』
『偏見工学 / 峯田龍彦』
『恋人のいない男たち / 笹塚和也』 

 3.詩文

『冬の日の朝に思うこと / 赤井 吉野』
『夕闇 / 弓削 雅』
『たちまちに行き過ぎる / 弓削 雅』
『成り立ちについて / 弓削 雅』
『作り方 / 佐久間 茂』


 編集:赤井 吉野  弓削 雅
 表紙:赤井 吉野


 編集後記:赤井 吉野

724 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:39:52.24 ID:iNQmpNLTo




 『薄明』平成四年夏季号

 目次

 1.小説

『ふんわりとした音 / 赤井 吉野』
『水の上 / 佐久間 茂』
『茜色には程遠い / 弓削 雅』
『もしもあなたがいなくても / 弓削 雅』
『真実 / 峯田 龍彦』
『日々かくのごとし / 峯田 龍彦』
『白線捉える / 峯田 龍彦』
『永遠の途中 / 笹塚和也』

 2.散文

『猫と犬について / 赤井 吉野』
『屋上遊園地について / 赤井 吉野』
『天気について / 赤井 吉野』
『縁結びの少女 / 赤井 吉野』
『幽霊の所在 / 峯田 龍彦』
『無限の猿と踊る / 佐久間 茂』


 3.詩文

『白衣 / 弓削 雅』
『風遥か / 弓削 雅』
『鈴の音 / 弓削 雅』

 編集:赤井 吉野 弓削 雅
 表紙:赤井 吉野
 

 編集後記:赤井 吉野 

725 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:40:37.10 ID:iNQmpNLTo



 瀬尾と別れたあと、俺は結局、『トレーン』の店先に居た。
 俺がやろうとしていることは、正しいことなのか、可能なことなのか。

 そんな考えが浮かんでは消えていく。
 
 そんなとき、不意に、見知った姿を通りの向こうに見つける。
 彼女は軽く手をあげてから、静かに歩み寄ってきた。

「やあ」と彼女は言う。

「やあ」と俺は返事をする。怜だった。

「最近はよく見るな」

「思ったより簡単にこっちに来られることに気付いたものだからね」

「そうか。何よりだ」

「うん。たったこれだけの距離だったのにな」

「……?」

 その響きになにか変なものを感じて、俺は思わず眉をひそめた。

「べつに深い意味はないよ。……さっき、誰かと一緒みたいだったけど」

「ああ、さっきまで……」

「……瀬尾、青葉さん?」

「……だな」

「……ねえ、隼。どうして彼女がちどりにそっくりなんだって、教えてくれなかったんだ?」

「……」

「彼女は、ちどりだよね」

 さて、どう答えたものか。
 けれど本当は、悩むようなことでもなかった。


726 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:41:05.82 ID:iNQmpNLTo

「ちどりと言えば、ちどりだが……」

 怜が何かを言い出すよりも先に、言葉を続けた。

「今は、瀬尾青葉だ。本人がそう言ってる」

 怜は、なにか承服し難いような顔をしたが、やがて頷いた。

「なるほど。……どうして彼女はここに?」

「ちどりと、友達になりたかったらしい」

「……」

 今度こそ、いよいよ納得がいかないような顔を、怜はする。
 どうしてだろう。

 いつもより、どこか感情的に見える。

「そっか」

 とだけ言うと、怜は店内へのドアの取っ手を開いた。

「隼は帰るの?」

「そうだな。考えなきゃいけないこともあるし、遅いと純佳が心配する」

「そっか。……ね、隼」

「ん」

「瀬尾さんは強いね。ちどりも、きっと」

「……まあ、そうだな」

「ぼくは……」

「……ん」

「……」

「怜?」

「いや……」

727 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:41:58.07 ID:iNQmpNLTo


「言いかけてやめるなよ。怜、悪い癖だ」

「隼には言われたくない。ただ、なんとなくね……」

「なんとなく、なんだ」

「ぼくは……昔から、ちどりになりたかったんだ」

「……どういう意味?」

「いや。……なんでもない、忘れてよ」

 そう言って、怜は、今度こそドアを開けた。

「あ、怜」

「……なに?」

「ひとつ、聞きたかったんだ。おまえ、最初に“むこう”の話をしたときのこと、覚えてるか?」

「……えっと、学生証の話をしたとき?」

「そう。そのとき」

「あのときがなに?」

「覚えてるか? おまえ、言ってたよな。“案内人がいた”って」


728 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:42:28.52 ID:iNQmpNLTo

 ──怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね。

「……そんなこと、言ったっけ?」

「ああ。あの案内人って、誰のことだったんだ?」

 ましろ先輩ではない。
 佐久間茂でもない。
 おそらく、カレハでもない。誰もそんな話はしていなかった。

 だとしたら、怜の案内人は、誰だったんだ?

「……えっと、思い違いじゃないかな。そんなこと、言った覚えがないんだけど」

「……そう、か?」

「うん。ぼくはむこうにいるときは、いつもひとりだったし」

 ……でも、それでは話が通らない、ような気がする。
 が、本人にそう言われては、確かめようもない。

「それだけ? ぼくは行くけど」

「……あ、ああ」

「じゃあね、隼」
 
 最後、怜は俺の顔を見なかった。
 そんなこと、今まではなかった。
 
 それなのに俺は、怜に対して何を言えばいいのかもわからない。
 怜のことを、自分がどれだけ知っているのか。

 そんなことを、どうしてか、考えてしまった。

729 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:43:09.10 ID:iNQmpNLTo




 隼はきっと、気付かないだろう。
 おそらくこの事実はぼくの中でしか存在できない。
 
 砂浜に書いた文字のように、やがては波にさらわれて消えていくだろう。
 
 誰にも確かめられないし、誰にも知ることができない。

 誰も気付かない。

 ぼくをぼくと呼ぶこのぼくが、泉澤怜なのだと、みんなが信じている。

 このぼくがここにあることは……ぼくがぼくを獲得した結果だと、誰も知らない。

 それでいい。

 隼はぼくを探偵と呼ぶ。ぼくは隼を詐欺師と言う。

 けれど本当は違う。
 
 本当の詐欺師は探偵のような顔をしているものだ。

 そんなことを隼は知らなくていい。

 ぼくは、ちどりになりたかった。
 隼になりたかった。
 
730 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:43:34.96 ID:iNQmpNLTo



「……それで?」

 と、市川鈴音は言った。
 渡り廊下のベンチに腰掛けて、市川鈴音は本を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』だ。

 部誌を作る、と俺は言った。瀬尾に話を通した以上、あとは部員を説得するだけだ。

「市川、絵が描けるだろ」

「そりゃ、描けるけど……」

「表紙」

「……もう、期末だよ。部活動休止期間」

「関係ない」

「なくない。なんでそうなるの?」

「まあ、なくはないか。いや、でも、ちょっと描いてほしいんだよ」

「そう言われても……ううん、描くぶんには、いいんだけど、なんで急に?」

「必要だと思う」

「……前作ったときは、なかったよね?」

 たしかに、前回作ったときは、なかった。
 とはいえ、これは儀式だ。

「描いて欲しい絵がある」

「……」

731 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:44:04.54 ID:iNQmpNLTo


 市川は、静かに考え込んだ。やはり、説明しないわけにはいかないのだろう。

「……なあ、市川」

「ん」

「前から思ってたんだけど……」

 彼女は俺を見ようともしない。ずっとページに目を落としている。

「おまえ、"むこう"に行ったことがあるな?」

「……」

 ようやく彼女は俺を見た。

「……どうして?」

「見たからだよ」

「……」

 さくらを連れ戻しにいった、あの日。

 帰り際、俺は渡り廊下で人影を見た。
 最初はただの気のせいだと思った。

 でも、それだけのはずがない。

 市川鈴音の姿をあのタイミングで幻視するなんておかしな話だ。

732 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:44:31.80 ID:iNQmpNLTo

 思えば、市川は最初からおかしかった。

 俺が部誌に寄せていた文章、そのなかの、"むこう"に近い風景の描写。
 それを彼女は「実話か」と訊ねた。

 そんなわけがない、と俺は答えたけれど、そもそもの話……。

 どうしてあんな馬鹿げた風景を、こいつは"実話"だなんて思えたんだ?

 そう思った瞬間、あれが単なる幻だったとは思えなくなった。

 思えば市川は、やけに"むこう"の話に対して理解が早かった。

「……隼くんは、探偵みたいだね」

「俺は探偵にはなれない」

「そうかもだけど」

「……で?」

「……どうかな」

「……どうかな、って、どうなんだよ」

「わかんないの」と市川は言った。

733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:45:09.07 ID:iNQmpNLTo

「わたしは夢に見てるだけ」

「夢?」

「うん」

 珍しく、真摯な声音だった。
 そのせいで俺は、それ以上の追及ができない。

「……夢、か」

「うん」

「……そっか」

 なら、言っても仕方がない。

「ま、いいや」

「……ん。描いてほしい絵って?」

 訊ねられて、俺は少しだけためらった。
 けれどたぶん、必要なものだろう。

 たぶん、その絵は、描かれるべきだろう。


734 : ◆1t9LRTPWKRYF [saga]:2019/04/05(金) 01:45:36.15 ID:iNQmpNLTo
つづく
735 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/05(金) 02:13:07.06 ID:X67qyF8J0
乙です。
736 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 07:18:53.63 ID:a3QCfA1F0
おつです
737 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 13:12:44.46 ID:FzCrcLhvO
738 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 21:13:05.09 ID:aoQsTvLco
おつおつ
続きが気になりなる
739 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 23:40:05.58 ID:JCf+zWWr0
おつです。
740 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:08:07.07 ID:1j+CnVDuo




 期末テストが終わって、夏休みが目前に迫った頃、俺達は部誌を完成させた。

 突貫と言えば突貫だったけれど、瀬尾と真中は協力的だったし、市川も拒みはしなかった。
 そうなれば大野だって付き合いはいいやつだし、その上ちせも引き込めたことが大きかった。

「それにしても」と瀬尾は言った。

「三枝くんがこんなにやる気になる瞬間を生きてるうちに見られるなんてね」

 茶化すみたいなそんな言葉が、やけに照れくさかった。

 文芸部には少しだけ変化があった。

 真中と俺の関係性が変わったこともそうだけれど、そのうえ、ちせが入部することになった。
 
「なんとなくですけど、必要な気がするので」

 と、彼女は言った。それはたしかにそのとおりだと俺は思う。
 ちせがいないと、俺の計画していることは、ほんの少しだけ面倒が増える。

 
741 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:08:40.61 ID:1j+CnVDuo

「でも、こんなことで本当にうまく行くんでしょうか」

 と、ちせはそう言った。

 何のために部誌を作ろうとしているのか、それを知っていたのは、俺と瀬尾とちせだけだった。

 理由は単純で、この三人にはさくらが見えるから。

 以前、ちせがさくらと顔を合わせたとき、ちせにはさくらが見えていた。

"むこう"に行った人間にはさくらが見える。それが俺の仮説だった。

 そして瀬尾とちせに対して、俺はいくらかの説明をした。

 結果として、それが上手く行ったかどうか、効果はまだ掴めない。

 ひとまず今は、それも一段落したので、俺は少し羽を休めることにしていた。

742 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:09:20.25 ID:1j+CnVDuo




 放課後、屋上に寝そべって昼寝をしていると、「サボりですか」とさくらがやってきた。

「がんばったんだから、少しくらいサボったって、バチは当たらない」

「ま、そうかもですけど」

「……」

 なんだろう。
 何かを言えるような気がしたんだけど、何も思い浮かばない。

 どうしてだろう。


743 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:09:50.39 ID:1j+CnVDuo



 『薄明』夏季特別号。


 目次


 0.部誌発行にあたって 
『物語の影響 / 瀬尾 青葉』
『概略 / 三枝 隼』

 
 1.小説

『涼やかな午後 / 大野 辰巳』
『寝顔 / 真中 柚子』
『湖畔 / 瀬尾 青葉』
『朝靄 / 瀬尾 青葉』
『塔  / 市川 鈴音』
『夜霧 / 宮崎 ちせ』
『幽霊のよまいごと / 宮崎 ちせ』
『あなたがそこにいなくても / 宮崎ちせ』
『白日 / 三枝 隼』


 2.散文

『平成四年に発行された部誌『薄明』に関する調査と仮説 / 三枝 隼』
『噂話の効用 / 瀬尾 青葉』
『ファンタジーと現実との対照 / 宮崎ちせ』
『桜の少女についての再考 / 三枝 隼』
『わたしたちの不確かな現在 / 瀬尾 青葉』

 3.詩文

『成り立ちについて / 瀬尾 青葉』
『作り方 / 宮崎 ちせ』
『薄明 / 三枝 隼』


 編集:瀬尾 青葉 三枝 隼
 表紙:市川 鈴音


 編集後記:瀬尾 青葉

744 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:10:17.26 ID:1j+CnVDuo




 俺の考えは、さくらの存在が佐久間茂の作った『薄明』に根ざしているという仮定から始まる。
 だからその詳細をさくらに話すわけにはいかない。

 誰かの書いた文章が自分の存在を生んだかもしれないなんてこと、さくらは知らなくていい。

 まず第一に必要だったのは、佐久間茂がさくらについてどのような『設定』を用意していたかを確認することだった。

 それはそんなに難しいことではない。『薄明』を確認すればいいだけだからだ。

「でも、本当にそれだけでいいのかな」

 と瀬尾は言っていた。

「部誌に書かれてる以外の設定もあるんじゃないの?」

 そうだとしても、佐久間茂に確認すればいい。それはそうだが、俺は別の理由からそっちを無視した。
 仮に薄明に描かれている以外の情報がさくらの存在に反映されるとしたら、さくらの存在はもっと揺らぎやすく曖昧になる。

 噂話だって変化する。茂さんがさくらのことを忘れることもあるだろう。
 にもかかわらず存在し続けているのは、さくらが『薄明』に依拠しているからだ。

 と、仮定しないかぎり、そもそも俺の解決法も成立しないのだが。

 はっきりいって、根拠があるわけではない。
 
 単に、『これで駄目なら他の方法を試すしかないから、とりあえずやってみるしかない』という理由だ。

745 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:10:44.90 ID:1j+CnVDuo

「そのために……この『薄明』を使うんですか?」

 平成四年に作られた『薄明』を見て、ちせはいかにも不思議そうな顔をした。
 無理もないと言えば無理もない。

「もし仮にこの『薄明』がさくらを規定しているとしたら、この『薄明』に書かれている情報は無視できない」

「……まったく別のお話を作ることはできないんですか?」

「できなくはないが」

 仮にそれをしてしまったら、今度はさくらではない別の存在が生まれることもありえるだろう。
 もっと言えば、いまいる『さくら』が根っこから変化してしまうこともある。

 それでは意味がない。

 であるなら、『佐久間茂の薄明』を前提にして、そこに情報を付け足すことでさくらに変化を与えなければいけない。

「そんなこと、できるんですか?」

 できるかどうかはわからない、と俺は答えた。

 それはそうか、という顔を、ちせも瀬尾もしてくれた。

746 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:11:10.65 ID:1j+CnVDuo



 そして俺たちは、『平成四年に作られた薄明において語られた噂話』を検証するという体裁を使った。

 佐久間茂の『薄明』においては、噂話の真偽は曖昧に、あくまでも『そういう噂がある』というふうに語られていた。
 その噂は今現在この校内で流布している噂話の原型になっている。

 桜の樹の精。
 縁結びの神様。

 その物語を『検証する』というかたちで、俺達はそれを作り変えることにした。

 これに関してはひとつアイディアがあった。

『聞き取り調査』だ。

 平成四年に作られた『薄明』の中で『神様』と『縁結びの少女』について書いていたのは赤井吉野という生徒だった。

 俺たちは、赤井吉野という少女──というのは文体からの想像だが──に、さくらについて直接質問しにいった。

 つまり、

『現在流布されている噂話の原型を知っている相手へ聞き取り調査を行い、その詳細を確かめた』。

 さて、とはいえもちろん、『赤井吉野』という生徒が実際に『薄明』を作るのに参加していたわけではない。
 佐久間は『幽霊部員だらけの文芸部』を利用して部誌を作ったのだ。

 けれどだからこそ、『赤井吉野』という生徒は、当時の卒業アルバムにはちゃんと載っている。

 だから、あくまでも、『赤井吉野に聞いた』というかたちで、『さくらについての情報』を書き加えたのだ。
 
747 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:11:47.93 ID:1j+CnVDuo

・赤井吉野はさくらを見たことがある。
・それは『薄明』を作り上げたあとのことである。
・よって平成四年の『薄明』に描かれた情報は真実というよりは推測であった。
・その少女は時折人前に姿をあらわす。
・彼女は人と人との縁を繋ぐことを楽しみにしている。
・自分がどうしてそんなことをしているかはわからない。
・誰かが必要としたとき、彼女は姿を見せる。
・こっそりと人々の手伝いをしている。
・ある一時期、文芸部は彼女のために恋愛相談所として機能していた。
・文芸部の部室には当時使っていた相談用のボックスが置かれていた。
・それは今現在も残っているはずである。
・赤井吉野自身も勘違いしていたが、彼女は校内から出ることもできるし、望んだ相手と会うこともできる。
・実際、卒業してから彼女が会いにきたといっていた人間もいる。
・彼女は寂しがりなので、相手をしてあげると喜ぶ。

748 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:12:38.12 ID:1j+CnVDuo



 俺と瀬尾とちせ、それから暇をしていたましろ先輩は、日曜大工をして木製の箱を作り上げた。

 ちょうどよく古びた木材を釘で打ち合わせて。

 そして「古くなっていたものをキレイにした」風に見えるようにしてから、文芸部の部室に置いた。

「なにこれ?」と大野に聞かれたとき、
「調べ物をしているうちに見つけた。文芸部の部室にあったらしい」と伝えたところ、
 大野は疑いもせずに「ふうん」と言った。

 あまり興味のないことなら、人はその真偽を疑わない。

「本当にこれでいいのかな?」と瀬尾は言った。

「さあ?」と俺は答えた。

「でも……」とちせは笑った。

「なんだか、楽しいですね」

749 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:13:03.74 ID:1j+CnVDuo




「隼!」

 と、声がして、俺は昼寝を邪魔された。

「……なんだよ」

 体を起こすと、さくらが息を切らせて(息が切れるのか。初めて知った)俺のそばにきていた。

「どうした」

「ちょっときて! きてください!」

「どこに」

「校門です!」

 そう言ってさくらはぱっと姿を消した。

 あいつはそれで済むかもしれないが、こちらは階段を降りて渡り廊下を歩いていかなきゃいけないのだ。
 とはいえ、言われたとおりにすることにした。

 近くに置いていた鞄を背負って、靴を履き替えて外に出ると、さっきまでより遠くなったはずの夏の日差しがやけに近く感じる。

 校門のそば、桜の樹。

 そこに彼女は立っている。

750 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:13:35.32 ID:1j+CnVDuo

 歩み寄ると、今までに見たことがないくらい浮かれた表情で、彼女は得意げに笑った。

「ほら! 早く!」

 俺が近付くと、彼女は俺の手をとって走り出した。

 校門を抜ける。……ここまでは、いつもどおり。
 以前、学校を出るまでの坂道で、さくらを見たことはある。
 このあたりまでは、彼女は前から来ることができた。

 その先。

 坂道を嬉しそうに下っていくさくらを見ながら、俺はもう何が起きたかを理解できていた。

「そんなに走るなよ」

 周囲からはどんなふうに見えるんだろう。俺が手を前に出したまま走っているように見えるんだろうか。
 それもまあ、今は別にかまわない気がする。

 さくらは止まることなく走っていく。息を切らして、楽しそうに笑っている。

「どこまで行く気だ?」

「ちょっとそこまでです!」

 一応鞄を持ってきて正解だった。

 さくらは坂道を下り切ると、どうだと言わんばかりに俺に向き直った。

「どうですか!」

「……なにが」

「この坂道、前まで、下りきれなかったんです」

「……」

「この坂道、わたしには、終わらない坂道だったんです。それが、ほら!」

751 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:14:05.92 ID:1j+CnVDuo

 道の先の交差点のコンビニに近付くと、さくらは入り口で何度か跳ねた。
 すると自動ドアが反応する。

「……おいおい」

 そりゃまずい、と思って、俺も入り口に近付いて、何気ないふうに入店する。

 するとさくらもついてきた。

「ほら! ほら!」

 さくらは嬉しそうに笑っているけど、俺はさすがに返事ができない。

 ポケットから携帯を取り出して耳にあてる。

「よかったな」

「はい!」
 
「上手くいってよかったよ」

「どんな魔法を使ったんですか?」

「たいしたことはしてない」

「嘘です」

 まあ、ほんのちょっと悪いやつと契約したくらいだ。

「悪いやつ?」

 そうだ。心が読めるんだった。

「ま、追って沙汰があるだろう」

 それだけ言ってから、俺は適当に飲み物を二本買った。店を出て片方をさくらに渡すと、彼女は物珍しそうに受け取る。

「いったい、どうやったんですか」

「知らぬが仏だ」

「……これは、大きな借りができてしまいましたね」

「大げさだな」

752 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:14:38.68 ID:1j+CnVDuo

 彼女はペットボトルをしげしげと眺めている。

 蓋を開けるのを実演してみせると、おそるおそるといった具合に自分でもやりはじめた。

「お、おお」

「初めてか」

「はい。こんなふうになってたんですね」

「うむ。祝杯である」

「はい、乾杯」

「かんぱーい」

 といって、俺達はボトルを打ち合わせた。店先に誰もいなくてよかった。

 このようにして、嘘から生まれた真を、新しい嘘で書き換えた。

 毒をもって毒を制し、嘘をもって嘘を制する。

 俺にできるのはこのくらいだろう。

753 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:15:19.88 ID:1j+CnVDuo



『薄明』の表紙は、市川に頼んで、その絵の構図を俺が指定した。
 それは、ひとりの少女が坂道の下から──つまり、学校の敷地の外から、学校を見上げている様子だ。
 
 容姿は俺が可能な限りの注文を入れて、さくらに近いようにしてもらった。

 事情を知らない市川は、

「こういう子が好みなの?」

 と不審そうな顔をしたが、面倒だったので、

「そういうことだ」

 と適当に返事をしておいた。

 そして今、その絵と同じ光景が、俺の目前に広がっている。

「めでたしめでたし」

 と俺は呟いた。
 
 さくらは楽しそうにまた笑った。


754 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:15:49.47 ID:1j+CnVDuo
つづく
そろそろおわりたいです
755 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 00:37:00.26 ID:+/5m/pBX0
おつおつ
756 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 01:15:21.77 ID:I+cIz9XxO
757 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 07:18:14.00 ID:N6XyIpstO
おつです
758 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 23:49:58.15 ID:2VbMBPYC0
乙です
759 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:54:15.53 ID:GpXAKj/vo




 真っ暗なところにひとりで立っている。左右には壁があり、少し低い天井がある。
 あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音が聞こえる。
 それがやけに響いていた。

 切れかけた裸電球が等間隔でぽつぽつと薄暗く通路を照らしている。

 その明滅の隙間に、通路の先の暗闇がぽっかりと口を開けている。
 背後を見ても同じ様子。自分がどちらから来て、どちらに向かっているのか、もうわかりそうもない。

 しばらく俺は立ち尽くし、そしてやがて歩き始めた。

 時間の感覚がなく、どれだけ歩いても一瞬だという気もするし、ずいぶん長い間歩いてきたという気もする。
 ただ電灯が明滅している。

 そして俺はそれと出会う。それがそこにあることを俺はあらかじめ知っていた。

 だから俺は挨拶をする。

「やあ」

「やあ」

 とそれは返事をした。

760 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:54:43.39 ID:GpXAKj/vo

「調子はどうだい?」

 と“夜”は言った。

「どうだろうな」と俺はとぼけて見せた。

 夜は黒い竹編みの椅子に悠然と腰掛けていた。
 
 彼の姿を俺は初めてみた。それで驚いた。
 俺は彼の姿を知っている。

「おまえのおかげで助かったよ」

 と彼は言った。

「……おまえを助けた覚えはない」

「いずれわかるさ」

 はっきりと、彼は笑みをつくる。

「……が、それは今じゃない」

「……でも、こちらこそ助かった」

 一応、礼を言うことにした。

「ありがとう。おかげで書き換えられた」

 彼はおかしそうに笑う。

「……本当にここまでするとは、思っていなかったけどな。たぶんおまえは才能があったんだろう」

「才能?」

 才能。俺には無縁なものだ。

761 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:55:14.63 ID:GpXAKj/vo


「……でも、本当にこれでよかったのか?」

 そう、夜は俺に訊ねた。

「……どうだろうな」

 俺は、
 他にどうしようがあったんだ? と、
 そう訊ねかけて、やめた。

 その言い方は、誰かに責任を押し付けているような気がしたから。

「自分では気付いていないだろうが……おまえは佐久間茂にはできなかったことをした」

「……?」

「おまえは世界を書き換えた」

「それは……茂さんだってしたことだろう」

「違うね。あいつは書き足しただけだ。おまえは書き換えた。その差は大きい」

「……」

「あいつはこの世に暗がりを作った。けれど、それは所詮、粘土のように夜をこねくり回しただけのことだ。
 おまえはけれど、夜を昼に滲ませた。おかげで扉が開かれた。
 あの女に負けたときはこれで終わりかと思ったが、俺にもようやく運が回ってきた」

「……」

 こいつは、
 何の話をしてるんだ?

「けれどまあ……それは、おまえとは直接関係ない。とにかく、感謝するよ」

「……」

「二度も俺の力を使いやがったんだ。普通なら代償を求めてやるところだが……お釣りが来るくらいだ」

「……何を言ってる?」

「礼を言ってるのさ」

762 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:55:41.46 ID:GpXAKj/vo


「違う。“二度”って……何の話だ?」

「……なんだ、覚えてないのか。人間ってのは、不便なもんだな」

「……」

 二度。
 二度?

「……なるほどな。おまえはどうやら本当に才能があるらしい。自分で書き換えた物語を、自分で信じ込んでいるわけだな。
 それでこそ、というところではある。本当の嘘つきっていうのは、自分がついている嘘を信じ込まなくちゃいけないもんだ。
 しかし……凄まじいな」

「……」

「なあ……おまえ、自分で疑問に思わないのか?」

「……何がだ」

「宮崎ましろ。泉澤怜。鴻ノ巣ちどり。瀬尾青葉。市川鈴音。佐久間茂。そして、おまえ。
 夜の世界、おまえが神様の庭と呼んだ世界。どうしてそこに関係している人物が、おまえの周辺で完結してるんだ?」

「……」

 疑問に思わなかったわけではない。
 
 ましろ先輩、瀬尾、俺。どうしてあのとき、むこうに行った人間が、揃ってこの高校の文芸部に入部したのか。
 そして、どうしてそこに、佐久間茂が通っていたのか。

 神様の庭の夢を見るという市川鈴音が、どうして文芸部に入部していたのか。
 
 どうしてこんなにも完結した関係性の中に、そんな出来事が起きたのか。

 まるで誰かが、

「……まるで、誰かが書いた物語みたいだと思わないか?」

763 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:56:08.25 ID:GpXAKj/vo


 そんな言葉が。
 馬鹿らしいと笑えないのは、どうしてだったのか。

「おまえは何を言ってるんだ?」

「佐久間茂がどうして『薄明』で遊んだか、覚えてるか?」

 どうして。
 どうして、だったっけ。

「……“どうして?”」

「おまえはどうして、真中柚子をそんなに欲するんだ?」

「……」

「おまえのなかには矛盾した感情がある。
 ほしいものがひとつもないという感情。真中柚子を烈しく求める感情。
 どうしてそんなことが成立する? その矛盾には何か……明らかに、秘密がある」

「……」

「だが、まあ、俺も山師だ。だからおまえのその程度の嘘くらい、なんとも思わない。
 この世界は苦痛に満ちていて、柔らかな光はいつも暗い痛みに押し潰される。
 これから先、どんな光を手にしたって、きっと、それはすぐに失われてしまう。
 そのなかにあって……おまえの嘘は、実に俺の好みだった」

「……待て、おまえは、何を言ってる?」

 二度……俺は、『夜』を使った?
『書き換えた』?

「面白い見世物だったよ、三枝隼。ずいぶん凝ったシナリオを作ったもんだ」

「……」

「おまえのおかげで、俺は自由だ」

 不意に頭上の電球が明滅し、
 もう一度点いたときには、夜の姿はそこにはなかった。

764 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:56:35.35 ID:GpXAKj/vo




 ねえ、せんぱい、本当にわたしのことを捕まえていてくれる?


765 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:57:04.89 ID:GpXAKj/vo




 おまえを居なかったことになんかしない。
 おまえがいなくならなきゃならないような世界なら、そんなの、世界のほうが間違ってるんだ。

 おまえを傷つけるだけの世界なら、俺が全部書き換えてやる。


766 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:58:02.18 ID:GpXAKj/vo






 不意に目をさますと、俺は眠っていた。目をさましたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
 でも、いつから眠っていたのか、わからない。

 何か夢を見ていたような気がするが、はっきりとしない。

 体を起こすと、屋上だ。見慣れた屋上。俺だけが鍵を持つ、秘密の場所。

 昼寝をしていたらしい。

「隼さん、またサボりですか」

 ドアが開く音が聞こえて、そちらをむくと、ちせが立っている。

「……ああ」

 むっとした顔のちせを眺めながら、俺は返事をする。

「もう。大野先輩も青葉さんも怒ってますよ」

「怒らせときゃいいんだよ。第一、部誌だって出来上がったんだし、顔出す理由もそんなにないだろう」

「でも……」

 ちせは何かを言いたげに俺の方を見た。

「……隼さん、ひとつ聞きたかったんですけど」

「ん」

767 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:58:34.07 ID:GpXAKj/vo

「隼さんが書いた小説のタイトル。あれって、どんな意味があるんですか?」

「ん。読んでわからなかった?」

「はい、まあ……」

「つまりさ……次の日が土曜日で休みだろ」

「……?」

「だから、ずぶ濡れになって踊ろうって意味」

「……よくわかんないです」

 俺は起き上がって空を仰いだ。

 瞬間、
 空が拉いだ。

768 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:59:02.44 ID:GpXAKj/vo
つづく
769 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 00:25:15.54 ID:nBjw/t4Oo
おつです。
770 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 00:26:46.92 ID:nMQdOy3D0
おつん
771 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 06:49:04.54 ID:91kAx3ZY0
おつです
772 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:54:21.70 ID:hfXGEpDLo



「兄、起きてください」

「……」

「兄。起きてください。もう起きる時間ですよ」

「……ん。あと五分」

「そんな定番の寝言言う余裕があるなら起きてください」

「……ねむい」

「もう。夜遅くまで起きてるからですよ。昨夜は何してたんですか」

「……ちょっと」

「ちょっとじゃないです。ほら、起きないと恥ずかしいことしますよ」

 恥ずかしいことってなんだ。
 恥ずかしいことってなんだろう。

 興味を引かれて寝たふりを続けると、純佳の声がすっと近付いてきた。

 耳元で、

「起きてください」

 と、囁かれる。
 こそばゆい。

 そのまま黙っていると、湿った柔らかい感触があって、思わず俺はからだをびくりとさせて目を開いた。

773 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:55:35.91 ID:hfXGEpDLo

「……なにをしたいま」

「耳をなめてみました」

「なめるな」

「目がさめましたか?」

「おかげさまで」

「じゃあ、早く着替えて降りてきてください。お味噌汁さめちゃいますから」

「……わかったよ」

 平気な顔で純佳が部屋を出ていく。

 どうしてこんな育ち方をしてしまったやら。

774 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:56:10.10 ID:hfXGEpDLo



「もうすぐ夏休みですね」

 ダイニングテーブルを挟んで朝食を一緒にとりながら、純佳はそんな世間話をはじめた。

「何か予定は?」

「特には……バイトくらい」

「ですか。柚子先輩とは出かけないんですか?」

「ああ……どうだろうな」

「他人事みたいですね」

 そんなつもりはないけれど、そういう癖がついてるんだろう。

「なんだか……兄は最近、元気そうで何よりです」

「……そう?」

「はい」

「そう見えるなら、そうなんだろうな」

「うん。そうだと嬉しいです」

 そんなふうに思ってくれる人なんて、きっと長く生きていても、そんなに多くはないだろう。
 それだけで、やっぱり俺は恵まれている。

 さくらがいつか言っていた通りに。


775 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:57:05.43 ID:hfXGEpDLo




 玄関を出ると、そこにさくらが立っていた。

「遅いです。遅刻しちゃいますよ」

「……さっそく出かけてるのな」

「探検してました。一緒に登校しましょう」

「……ん。まあ」

 まあいいか、と俺は思う。

 純佳はとっくに家を出ていた。俺はさくらとふたり、学校への道のりを辿る。

「しかし、面白いものだらけですね」

「そうか?」

「そうです。こんな面白いものに囲まれてるなんて、あなたは幸せですよ」

「そうかな」

「そうなんです」

「……そうなのかもな」

 でもきっとそれは、
 慣れてしまえば……
 見慣れてしまえば、きっと……。

 けれど、今は……。


776 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:57:52.68 ID:hfXGEpDLo

「……もっと楽しんだほうがいいよ、か」

 そんな言葉を思い出して、俺は思わず笑ってしまった。

 どんな日々を過ごしたって、たぶん結論なんて出ないけれど、おんなじところに行き着いてしまうものなんだろう。

「なあ、さくら」

「はい?」

「俺はさ」

「……馬鹿なことを考えてますね」

 こんなことで、本当にさくらの居場所を作ったことになるんだろうか。
 俺は結局、さくらに何もできていないんじゃないか。

 そんなことを考えたところで、どうせいまさらだとわかってるのに。

「ね、隼。お願いがあるんです」

「ん」

「あのね……」

777 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:58:25.45 ID:hfXGEpDLo





 部誌を完成させてからまだほんの少ししか立っていないが、文芸部には変化があった。

「これで三通目だね」

 と、瀬尾が呟く。

 それからじとりと、責めるような目で俺を見た。

「……」

 俺たちが完成させた部誌『薄明』はいつものように図書室のスペースを借りて展示・配布されている。
 
 今回、どうやら大野が図書新聞のスペースを借りて宣伝してくれたらしく、けっこう多くの生徒の目に止まっているらしい。

 その宣伝というのが、いわゆる「縁結びの神様についての研究」をピックアップしたものだったという。
 どうやらその話題に興味がある人間というのは少なくはなかったらしく、結果的にさくらの存在は急速に生徒たちに認知されつつある。

 結果、
 冗談半分に文芸部の入り口に置いておいた偽物の箱に、恋愛相談の手紙が何通かやってきている、というわけだ。

「願ったり叶ったりですね」

 と言うさくらの声は、俺と瀬尾とちせにしか聞こえていない。

「……ったく。どうすんだよ、これ」

 呆れたふうに語る大野の隣には市川が座っている。
 おまえたちだって恩恵を受けているんだぞ、とは俺は言わないでおいた。

778 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:01:45.73 ID:hfXGEpDLo


「ま、まあまあ。でも、ほら、こういう形でも、部が認知されるのは悪いことじゃないし」

「活動目的に反してるだろ」

 事情をいくらか知っている瀬尾が庇ってくれるけれど、大野は俺の方を見ていた。

「……こんなことになるなんて思わないだろ?」

「そりゃそうだが。どうもこの手紙、いたずら半分ってわけでもなさそうだぞ」

「……みんな真剣に生きてるなあ」

「おまえも真剣に対応してやれ」

「俺?」

「そりゃあな」

「なんで。一番不向きだろ」

「おまえが原因だろうが」

「だから……こんなことになるなんて」

「でも、結果としてこうなった。どうするんだよ」

「どうするったって」

 ……いや。
 まあ、そうだな。

779 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:02:13.03 ID:hfXGEpDLo

「……どうにかしてやるしかないだろうな」

 俺のその言葉に、大野は少し面食らった顔をした。

「ん……?」

「なんだよ」

「いや、てっきり、知ったことじゃないって言うかと思ったから」

「……まあ」

 普通なら、そう言っているところだけれど。
 ここまで込みで約束したのだ。

 最初から投げ出すつもりはない。

「どうにかやってみるさ」

 さくらが笑った気配がした。
 そっちを向くと、もうそっぽを向いている。


780 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:02:45.19 ID:hfXGEpDLo



「せんぱい、わたしに秘密にしてることあるでしょ」

 部活を途中で抜けてふたりで屋上に来ると、出し抜けに真中はそう言った。

「まあな」

 と俺は取り立てて隠さなかった。

「さいきん、せんぱいとちせの様子がおかしい」

「ああ、まあ」

「ちせも関係あること?」

「そうだな」

「わたしには関係ないこと?」

「そういうわけじゃない」

 真中はむっとした顔をする。
 俺はそれを見て少し笑う。

「なんで笑うの」

「べつに、隠したいわけじゃない。ただ、話してもあんまり信じられないようなことだから」

「……そんなの、もういまさらでしょ」

「ん」

「青葉先輩のこととか、絵のこととか、いろいろあって、いまさら信じられないことなんて、想像つかない」

 それもそうか、という気もする。


781 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:03:12.25 ID:hfXGEpDLo

「でも、話せないなら、べつにいいよ」

「……いいのか?」

「うん。あのね、せんぱい。わたしがつらいのはね、もっとべつのこと」

 俺たちはフェンスに近付いていく。
 網目を掴んで、街を見晴らす。

 少しだけ考える。

「べつのこと、って?」

「わかんない?」

 そう言って彼女は、ふいに俺の方へと手を伸ばす。
 その指先が、俺の目尻のあたりに触れた。

「……すごい隈」

「……」

 そんなにひどいのかな。

「部誌が完成する前から、ずっとそんなふうだったけど。まだ治ってない」

「……」

「なにか、無理してたんでしょ」

「……べつに、そういうわけじゃない。寝不足には慣れてるし」

「でも、疲れてるみたいだよ」

782 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:03:38.42 ID:hfXGEpDLo

「そうかな。純佳には、元気そうになったって言われたけど」

「それは、前よりは、そうかもだけど。でも、やっぱり、無理してる感じ」

 そうなのかなあ、なんて考えてたら、真中は「どうしたの?」というみたいに微笑んだ。

 夏の日暮れはやけに遅くて、だから空はまだまだ明るい。
 それなのに今が夕暮れみたいな気がした。
 
 もうすぐ夜が来てしまうような、そんな気がした。

「……瀬尾が」

「ん」

「瀬尾がいなくなったのは……俺が、あいつの小説を真似たからだ」

「……そう?」

「うん。俺が、俺の文章を書けなかったから、あいつを真似て、あいつはそれで、ショックを受けて、いなくなった」

 発端は、そうだった。
 他のいろんな事情が絡まっているにせよ、そうだった。

「だから俺は……早く、俺だけの文章を書けるようにならないと」

「……そんなの、あるの?」

「わからない」

 創作は模倣から始まる。
 模倣と剽窃からの逸脱が、個性になる。

 そういう理屈はわかる。
 
 でも俺は……。

783 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:04:23.11 ID:hfXGEpDLo

「文章が書けるようになりたかったんだ。昔から」

「……書けてたじゃない」

 まるで小さな子供を見るみたいな微笑み。そのせいで、気が緩んでるんだろうか。
 
「書けなかった。だから書こうとして、書こうとして、ずっともがいてた。
 それを続けて、その結果、瀬尾を傷つけた。だから……」

「……だから、書けるようになりたい?」

「……うん」

「まさか、それで……部誌が出来上がったあとも?」

「……笑う?」

「……ふふ」

 笑われてしまった。

「せんぱいはばか」

「……まあ、なあ」

784 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:05:29.69 ID:hfXGEpDLo

「あのね、せんぱい。せんぱいがどれだけ隠しても、わたしには全部わかるんだよ」

「……へえ? たとえば?」

「青葉先輩がいなくなったときに、せんぱいがすごく心配して、責任を感じてたこと」

「……それはさ」

「それに、大野先輩も言ってた」

「なんて」

「あいつは基本的にめんどくさがりで嘘つきでスカしてるように見えるけど」

 ひどい言いようだ。

「でも、困っている人を助けるときには善悪にすら縛られないって」

「……」

「大野先輩が困ってるところ、助けてたんだって?」

「なんのことだ?」

「大野先輩が言ってたよ。文章が書けない自分のために、代わりに書いてあげてたって」

「あれは……」

「青葉先輩も、言ってた。新入部員の勧誘のときだって、結局動いたのはせんぱいだったって」

 そんな些細なこと。
 そんな些細な……。

「中学の時だって、わたしのことを守ってくれた。守ってくれる理由なんて、ひとつもなかったのに」

「……そんなの、結果論だろ」

「でも、みんなにはそう見えてるんだよ」

「……」

785 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:05:56.80 ID:hfXGEpDLo

「だからね、せんぱい。そんなに自分を追い詰めなくても平気だよ」

「……」

「それがどんなにわかりにくくても、わたしはちゃんとそれを見抜いてあげるから。
 それを見抜いている人だって、きっとたくさんいるはずだから」

「……そうかな」

「うん」

 そう言って、彼女は俺の頬を撫でた。

 どうしてだろう。

 泣きそうになるのはどうしてだろう。

「だから、無理をしないで。自分に何かが欠けてるなんて思わないで」

「……」

「せんぱいは、せんぱいのペースで、少しずつ、なりたい自分になっていけばいいんだよ」

「……年下のくせに、偉そうに」

「……元気になった?」

「うるさい」

「せんぱいってさ、嘘つきっていうより……見栄っ張りだよね?」

「……」

「かっこつけ」

「うるさい」

786 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:06:28.99 ID:hfXGEpDLo


 真中の肩に腕を回して、引き込むみたいに抱きしめた。

 泣きそうな自分を見られたくなかった。

 こいつは分かってない。
 こいつは全然分かってない。

「……せんぱいは、強がりすぎ」

「そんなことない。弱音吐いてばっかりだよ、俺なんか」

「……そうかも。そうかな。どうなのかな。わかんないけど」

 真中の小さなからだは、すっぽりと腕の中におさまっている。
 声がそばに聞こえる。

「せんぱい」

「……ん」

「わたしを離さないでいてくれて、ありがとう」

「……なんだよ、それ」

「守ってくれて、ありがとう」

「……」

 俺は、
 真中を守ってなんか、いない。


787 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:06:56.74 ID:hfXGEpDLo




 真中を好きになることはない。
 真中を好きになることはできない。

 俺は真中を守れなかったんだから、そんな資格があるわけがない。

 俺は真中を守ったりしなかった。
 真中が傷つくのを眺めているだけだった。

788 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:07:44.78 ID:hfXGEpDLo




 それでも、今、真中は俺のそばにいる。

 それが奇跡みたいに思えるのは……どうしてなんだろう。

「ときどきね……」

「ん」

「ときどき、変な夢を見るんだ」

「……どんな?」

「わたしが死んじゃう夢」

「……」

「その夢のなかでは、誰も助けてくれなくて、中学の頃のわたしは、とてもつらくて、それで、死んじゃうの。
 そういう夢を見るんだ」

 俺は、不意に、純佳といつか話したことを思い出した。

789 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:08:19.25 ID:hfXGEpDLo

 ──……また夢ですか。

 ──またって?

 ──……あ、いえ。以前にも、そう、他の人に、同じようなことを言われたことがあって。

 ──……他の人?

 ──ええと、兄の知らない人です。

「でも、その世界にもせんぱいはいるの。せんぱいはわたしを守ってくれようとして、でも、わたしは、その手を取れずに死んでしまうの」

「……」

「だからね、わたしは毎朝目をさますたびに、思うんだよ。最近は本当に、強く思う。
 ああ、よかった、ただの夢だったんだ。この世界にはせんぱいがいて、せんぱいはわたしを守ってくれたんだって。
 だから、せんぱい、気付いてないかもしれないけど、せんぱいがしたことは、わたしにとっては奇跡みたいなことなんだよ」

「……」

 うるせえよ、バカ、と、言いかけて、やめた。

「そんなの……」

「ん」

「奇跡なんて、そんなの……」

 言葉にするのが嫌になって、真中をぎゅっと抱きしめた。
 真中がここにいることが、奇跡みたいに思えるのは、俺の方だ。

「……へへ」

 真中は、そんなふうに笑った。俺は、その真中の表情が見られないことを少し悔やみながら、それでも真中を離せずにいた。

790 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:09:03.74 ID:hfXGEpDLo

 
『薄明』平成四年春季号の冒頭には、江戸川乱歩が好んで記したという言葉が引用されていた。

 曰く、

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」

 その言葉の意味も意図も、俺は知らないままでいい。

 俺たちは何かを演じているのかもしれない。誰が仕組んだ舞台なのかもわからないまま。
 それを仕組んだのが、仮に俺自身だったとしても。

 それがどうしたっていうんだろう。

 今この腕のなかにあるもの。
 それが離してはいけないものだ。

 それだけわかっていればいい。


791 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:10:11.78 ID:hfXGEpDLo
つづく
792 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 22:14:17.48 ID:nMQdOy3D0
おつん
793 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:41:50.97 ID:zLydDmoho




「遅いぞ、後輩くん」

 学校近くのファミレスで、俺とましろ先輩は待ち合わせた。

「急に呼び出していったい何の……」

 言いかけたところで、ましろ先輩が気付いた。

「……さくら」

「ましろ」

 俺の斜め後ろから、さくらが顔を見せた瞬間、ましろ先輩は頬を緩めた。

「さくら!」

「あ、先輩。声が大きい」

「なんでさくらが……後輩くん。これは……」

「や。会いたがってたんで」

「会いたがってたって、でもさくらは……」

「隼がなんとかしてくれました」

「なんとかって……」

 ましろ先輩が目を丸くしているのを、俺は初めて見た気がする。

「すごいね……」

 今度ばかりは、俺の勝ちみたいだ。いつも踊らされてばかりだったから、悪い気はしない。

794 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:42:17.95 ID:zLydDmoho

 テーブル席に座ってから、ドリンクバーを頼んだ。
 三人分。店員は変な顔をしていたけれど、「あとで来るんで」と言うと頷いてくれた。

 俺が三人分のジュースを持って席に戻ると、ましろ先輩は俺のことを見上げた。

「いったい、どんな方法で?」

「企業秘密です」

「……きみに鍵を渡したの、正解だったみたい」

 ましろ先輩じゃないみたいな気がした。
 彼女は何もかも、いつもお見通しみたいに見えたから。

 グラスを二人の前に置くと、さくらは当然のようにストローをグラスにさした。
 周囲から見たら、ひとりでに飲み物が減っていくように見えるのだろうか?

 ……人の認識なんて曖昧なものだ。
 誰かが見たとしても、気のせいで済むものかもしれない。

 仮に俺が見たら、そう思うような気がする。

795 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:42:53.94 ID:zLydDmoho

 さくらに頼まれてましろ先輩を呼び出したわけだけれど、彼女たちはお互いに、何も話そうとはしなかった。
 どうしていいかわからないみたいに、ずっとそわそわしてばかりだ。

「さくら」

「はい?」

「なにか、話したかったんじゃないのか」 

「え?」

「そうなの?」

「……えっと、そういうわけじゃないです」

 てっきりそうだと思っていた。
 ということは、まあ、そういうことなのだろう。

796 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:43:22.74 ID:zLydDmoho


「ただ、外に出られるようになったから……ましろに会いたかったんです」

「……」

「迷惑でしたか?」

 ましろ先輩は、一瞬、驚いたような顔をして、また笑った。

「何言ってるの。わかるでしょう?」

 彼女が笑うとさくらも笑う。
 さくらは、不安だったのかもしれない。

「ね、さくら。わたしも何度か、さくらに会いにいこうとしたんだ」

「……そう、だったんですか」

「うん。でも、なんだかそれって……すごく、ひどいことのような気がして」

 だから、会いに行けなかった。ましろ先輩はそう言った。

「さくら。……ひとりにして、ごめんね」

 そんな言葉で、俺はましろ先輩のことが、少しだけわかったような気がした。

「ね、ましろ」

 テーブルを挟んで向かい合って、さくらは先輩の手をとった。

「これからも、ましろに会いにきてもいいですか?」

797 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:43:50.17 ID:zLydDmoho

「……何度だって、会いに来てよ」

「……」

「さくらは、わたしの友達だもの」

 俺は、なんだか自分が邪魔をしているみたいに思えたけれど、そんなことを考えた瞬間に、さくらがこちらを見て、

「何をいってるんですか」

 と笑った。

「あなたのおかげです」

「……」

 そうなのかな。
 どうしてか、そんなふうには、思えない。

 それなのに、

「ありがとう」とさくらは言った。
 泣いているみたいに見えた。

798 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:46:02.93 ID:zLydDmoho





 ちせを部員に加えた文芸部は、瀬尾の主導で夏休み中に新たな部誌を作ることに決まった。

「前回は、わたしが消化不良だったからね」と瀬尾は言う。

 彼女はときどき『トレーン』に顔を出すようになった。
 俺を誘うこともあるし、誘わないこともある。

 ちどりと瀬尾は馬が合うのか、すぐに仲良くなって、週末に一緒に遊びに行く話をするようになるまですぐだった。

 まあ、趣味だってある程度は共通しているのだろうから、当然と言えば当然だろう。

 怜もまた、以前よりも頻繁に『トレーン』を訪れるようになった。

「一度こっちに来てみたら、意外とそんなに遠くないんだと思ってね」

 ということらしい。引越し先では上手くやっているというし、実際そうなのだろう。

 怜はときどき、何か言いたげな表情を見せることがある。
 そのたびに俺は訊ねてみるのだけれど、彼女は首を横に振ってはぐらかすだけだった。

 それを話してくれる日が来るのかどうか、俺には今のところ見当もつかない。
 
 改めて『むこう』のことについて話したけれど、怜も茂さんも、やはり、あちらには行けなくなったままらしい。

 どうしてそんなことになったのかはわからない。
 誰もがむこうにいけなくなったのか、
 それとも俺たちが、むこうにたどり着く条件を満たせなくなったのか。

 茂さんは、むこうについても、瀬尾についても、あまり多くを語らなかった。
 思うところは、きっとあるのだろう。それでも彼は、カウンターのむこうで笑っている。あの覆い隠すような笑みのままで。

 いずれにせよ、俺たちをさんざん混乱させた春の出来事は、まるで夢か何かだったみたいに、途絶えてしまった。

 カレハや、あいつがどうしているのか、俺にはわからない。
 夜からの音沙汰も、今の所はない。記憶しているかぎりは、ない。
 
 少し拍子抜けしているけれど、そんなものなのかもしれない。

799 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:50:36.57 ID:zLydDmoho


 さくらは文芸部の部室に顔を出すようになって、他のやつらがいないときには、よく瀬尾やちせと話している。
 特にちせとは、ましろ先輩という共通の話題があるからか、だいぶ仲良くなったみたいだ。

 とりあえずのところ、仮に俺や瀬尾が卒業したとしても、ちせがいる。

 あとのことは、『薄明』がどのくらい機能しているかに関わっている。

 それについて大野は、

「あの噂がだいぶ広まってるみたいで、ずいぶんみんなに受け入れられてるらしい」

 と言った。

「みんな正直だね」と、呆れ調子で言ったのは市川だった。

 彼女が見る夢について、俺は詳しい話を聞いていない。
 けれど一度だけ、どうしても気になって訊ねた。

「まだ、夢は見るか」と。

 市川は、うん、と短く頷いた。それだけだ。

 彼女はまだむこうの夢を見ている。

 それはただの夢なのだろうか。
 それとも、まだ何かがあるのだろうか。

 あるのかもしれない。あそこは理外の森だから、俺たちの事情とは関係なく、きっと存在し続けるのだろう。
 どこかでぽっかりと口を開けているのだろう。

 それは俺にはわからない。

 わかるのは、市川と大野の距離が、以前よりも近付いたらしいということくらい。
 それについての詳しい話を俺は聞かなかったし、大野も言わなかった。

 やけに俺のことを買いかぶっている大野だから、言わなくてもわかると思っているのかもしれない。


800 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:51:03.33 ID:zLydDmoho

 部室の前に置いておいた箱の中には、ときどき手紙が入っていることがある。
 それの担当は、ひとまず俺ということになった。

 といっても、『神様に対する恋愛相談』を果たして俺が覗き込んでいいものか、という問題もあるにはあった。
 
 とはいえ、『代理人』の役目はやっぱり俺だろう、という話もある。

 ときどき瀬尾やちせの力を借りつつ、主にさくらの主導で、俺は『縁結び』をやることになった。
 手紙には大抵名前も学年も書かれていなかったので、俺達はひっそりと、陰ながら、彼や彼女の悩みに手を貸すことになった。

 それは上手くいったりいかなかったりした。それは当然のことだ。

 さくらがやっていたときとは違う。

「人は縁がない相手のことも好きになったりするものですから、仕方のないことです」と、さくらは言っていた。
 
 そう言われると、俺は自分がやっていることがものすごいおせっかいなんじゃないかという気がしたが、

「それでも、無駄にはなりませんよ」

 とさくらは言っていた。

 そうであってくれればいいと俺も思う。
 傲慢になるつもりはないけれど、そうでなければ寝覚めが悪いから。

 もしそうでなくても……それは仕方ない。
 
 最初からそれは正しいことではないのだ。これは、嘘の上に成り立ったものなのだから。
 だから俺にできることがあるとしたら、その嘘を可能な限り誠実なものにするように努めることだけだろう。

801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:51:39.29 ID:zLydDmoho

 ちせはときどきさくらを家に招くようになったという。
 それはつまり、さくらがましろ先輩の家に遊びにいくようになった、ということだ。

 あのとき話しただけでは話し足りないことが、ふたりの間にはきっとあるのだろう。

 それができるのを自分の功績だと誇るつもりはないし、おそらくまだ完全ではない。
 
 二重の風景を見ることがなくなった俺は、不思議と今になって、その事実に寂しさを覚えている。

 あいつはどこかに消えてしまったのか。
 カレハはどこにいるのか。

 それを考えるたびに、俺はあの絵の中の景色に入り込みたくなるけれど、
 たとえそれができたとしても、もうむこうには行くべきではないような気がした。

 あなたの中の彼と合一を果たして。

 カレハはそう言ったけれど、俺は結局、そうはならなかったような気がする。
 あの暗い森で、灰のように崩れ落ちたあいつの傍らに、カレハが今もいるような気がする。

 そうであってほしいと、思っているだけなのかもしれない。

802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:52:49.90 ID:zLydDmoho

 七月の末近い土曜日に、茂さんは俺を車に載せてある場所へと連れて行ってくれた。

 高速道路を二時間走った先には、見渡す限りの森と山があった。
 
 俺と茂さんはふたりで森の中へと入り込み、そこでひとつの廃墟を見た。

 草花の気配が古びた建物に侵食して、割れた天窓から差し込む光に、割れたコンクリートの隙間に咲いた花が照らされていた。

「ここだよ」と彼は言った。

「ここがモデルだったんだ」

 どうしてそこに、俺を連れて行きたかったのか、茂さんは話してくれなかった。
 あのとき、あの絵の中で、茂さんは俺の背後に何かを見ていた。

 それはひょっとしたら、かつての自分の姿だったのではないか。
 そんな想像をしたけれど、俺にはどうせ本当のことはわからない。

 何を言いたくて俺をそこに連れて行ったのか。
 ただ、自分がそこに行きたくて、誰かを道連れにしたかっただけなのか。

 本当のことなんて、どうせ俺にはわからない。
 それでいいのかもしれない。

 その森の茂みのなかで、俺は跳ねる二匹の動物の影を見た。
 そこになにかの面影を重ねたけれど、それは単なる俺の感傷なのかもしれない。

803 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:53:56.45 ID:zLydDmoho

 真中にも釘を差されたけれど、俺は毎夜ノートに向かって自分の文章を書こうとすることをやめなかった。
 
 文章を書けるようになりたい。少なくとも、みんなが書ける程度のものを書けるようになりたい。
 その欲望は、いつしか最初の理由や目標なんて置いてきぼりにして、欲望だけになってしまったような気がする。 

 書きたい、書きたい、という、欲望だけになってしまったように思える。

 純佳はそんな俺に呆れてため息をつきながら、ときどきコーヒーを差し入れてくれる。

 そして朝になると起こしてくれて、弁当まで作ってくれている。

「そろそろ妹離れしてくださいね」
 
 なんて純佳は言う。

 それでも「そうだな」と頷くと、少し寂しそうな顔をするのだ。

 書くのに疲れて窓の外を見てみると、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。
 いつか見たときのような恐れのような気持ちは、今は綺麗になくなってしまっている。

 そのたびに俺は何かをなくしたような気持ちになって、なんだか自分が長い夢を見ていたような気分になるのだ。
 あるいは、こんな日常さえもが、ただの夢なのかもしれない。

 本当と嘘の区別なんて、どうせ俺たちにはつきやしない。

 だったら、気にするだけ無駄だ。
 
 そんな夜でも眠ってしまえば朝が来て、杞憂だと言わんばかりにあたりまえの明日がやってきた。

804 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:55:09.21 ID:zLydDmoho

 部活をサボって屋上で昼寝をしていたある日、真中が勝手にそばにやってきて、寝そべった俺の頭を勝手に自分の膝の上にのせた。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 気にしないで、と真中は笑った。

 感情表現が豊かになった真中は、近頃めっきりモテるようになった。

 嘘から出た真で恋人になった俺としては頭の痛い事実だが、今のところ、不届き者は現れていない。

「もしそんなことになっても、せんぱいじゃ相手が悪すぎるよ」

 と、真中が照れもなくそんなことを言うので、

「そりゃあ買いかぶり過ぎだろう」というと、そうではない、と首を横に振って、

「せんぱいは手段を選ばないから、かわいそう」

 手段を選ばない。まあたしかに、そうなのかもしれないな、と俺は思った。
 
 その日はとてもいい天気で、俺はそれが、世界の終わりか始まりか、そのどちらかのようにさえ思えた。
 
 けれどそれはあくまでも、どこまでも地続きの日常の一端で、
 だから俺はほっとして、真中の膝の上で眠った。

「夏だね」

 と、真中がそう呟くのが聞こえて、俺は思わず笑ってしまった。

 いつのまに、こんなに明るいところまで来ていたんだろう。

 
805 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:56:17.49 ID:zLydDmoho



 夏休みに入ってすぐのある日、瀬尾がみんなに召集をかけた。

 みんなというのは文芸部のメンバーだけでなく、ましろ先輩やちどりや怜、更にはさくらまでもを含む『みんな』だった。

 真中とちせが誘ったというので、コマツナまでが来ていたくらいだ。

「お邪魔してよかったんですかね」とコマツナが遠慮していた様子だったが、気にするような奴はひとりもいない。

 瀬尾が俺たちを呼びつけたのは、今となっては廃校寸前というくらい生徒数が減少してしまった小学校、
 の、旧校舎だった。

 野草の生い茂るグラウンドと、周辺を囲うような雑木林のせいで、あたりから隠されているような気さえする。

 俺と大野は瀬尾に言われて背負っていたリュックサックを下ろすように命じられた。
 彼女はその中からいくつものおもちゃの水鉄砲を取り出した。

「……それは、なに」

「水鉄砲」

「見ればわかる」

「見てわかるなら、しようとしてることもわかるはず」

「……何歳だよ」

「楽しそうでしょ?」

「正気か?」
 
 と言って周囲を見ると、みんなはやれやれという顔をした。

「……なんで誰も文句言わないんだ?」

「三枝くん以外、みんな何するか知ってたからね」

「……こいつら全員ノリノリなの?」

 試しに周囲を見てみると、それぞれがそれぞれに自分の得物に手をつけていた。

806 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:56:44.01 ID:zLydDmoho

「……なんだってこんなこと」

「楽しそうでしょう?」

「そりゃ……」

「ね、三枝くん」

「ん」

「もっと、楽しんだほうがいいよ」

 そう言って、瀬尾はからりと笑う。
 
 もう、むこうに逃げ込んでいたときの瀬尾とは違う。
 こんなこと、たしかにちどりは言い出さないだろう。

 瀬尾はもう、瀬尾青葉になったのだ。

「……本気かよ」

「チーム戦。じゃんけん、グーパーね」

 それで俺たちは、日が暮れるまでずぶ濡れになって踊るみたいに遊ぶことになった。
 その日は綺麗に晴れていて、俺達は馬鹿みたいに笑った。

 帰り道の途中で、不意の夕立ちに降られても、俺たちはとっくにずぶ濡れだったから、馬鹿みたいにはしゃいだままだった。
 
 たぶん、この日のことを思い出すとしたら、俺はきっと、その、雨に濡れた瞬間のことを、思い出すんじゃないだろうか。
 ずっとあとになって思い出す瞬間があるとしたら、きっと、そういう瞬間なんじゃないだろうか。

 みんなの濡れた髪や服や、遠くの山に被さる黒い雲の隙間の夕焼けのことなんかを。

 やがて、ずっとずっとあとになって、何もかもが過ぎ去ったあとに、ふと思い返すのだとしたら。


807 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:57:11.33 ID:zLydDmoho



 部室の隅の戸棚の中に、俺達の書いた『薄明』も並べられる。
 これからも俺たちは『薄明』を並べるだろう。

 そのたびに、いくらかの注意を要するかもしれない。
 その懸念はあるけれど、俺はあまり悲観も心配もしてはいなかった。

 いつか、この『薄明』を他の誰かが読むことになるのだろう。

 俺たちがそうしたように、いずれ誰かの目に留まるのだろう。

 それはべつに、俺達の痕跡になるとまでは言えないだろう。
 佐久間茂の『薄明』のような例もあるのだから。

 それでもこれを読んだ誰かは、俺達がここにいたのだと想像するのだろうと思う。

 誰かがこれを見つけるだろう。

 この古い戸棚は化石を隠した地層のように堆積していく。

 それはかつて現在だったもの。更に前には未来だったもの。そして今となっては過去になってしまったもの。
 これから過去になっていくもの。

 俺たちは、そのときちゃんと、誰かにとっての何かになれるだろうか。 
 そんなことを、俺はときどき考える。

808 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:57:43.92 ID:zLydDmoho




 たとえば当たり前に季節が変わり、
 船が積荷を載せ替えるように、人々が入れ替わったとしても、
 また桜が咲いて、その中で誰かが孤独だったとしても、
 あるいは、孤独であるからこそ、誰かが彼女を見つけるだろう。


809 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:58:18.56 ID:zLydDmoho




「もう部活決めた?」

「まだ」

「いろいろあって悩んじゃうよねえ。文化系だっけ?」

「ん。美術部か、写真部か……文芸部にしようかな、と」

「ふうん。なんでその並び?」

「……サボりやすそうだし」

「あはは。文芸部って言えば……この学校の文芸部、変な噂があるんだって」

「噂?」

「なんでも……桜の精霊が……」

「ええ、このご時世にそんな噂?」

「でもなんか、先輩たちが話してるの聞いたんだもん。見える人もいるんだって」

「ふうん……。まさか、信じてる?」

「んー。わたしは自分が見たものしか信じないからなあ」

「友情も愛情も信頼も? 寂しい生き方だね……」

「こら、勝手に人を寂しいやつにするな。そういう意味ではない」

810 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:58:47.78 ID:zLydDmoho

「わかってるよ。……あ」

「ん。どったの」

「校門のところ。誰か立ってる」

「ん?」

「ほら。桜の下……」

「……どこ?」

「え?」

「誰もいないよ……?」

「……そう、なの?」

「うん」

「気のせいかな……」

「……ひょっとして、からかってる?」

「まさか。……早く行こう。移動教室、遅れちゃうよ」


811 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:59:50.53 ID:zLydDmoho




 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
 けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。

 鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
 余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
 その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。

 使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
 絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
 
 上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。

 境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
 空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。

 海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
 グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。

 ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。
 またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。

 その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
 何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。

 そこに映る景色には、誰もいない。今はもう誰もいない。

 けれどそれは、たぶん絶望ではなかったのではないか。今になって、そんなことを思う。
 そこには誰かがいたのかもしれないし、これから現れるのかもしれない。

 だからこそ、この絵は、予兆のようでも余韻のようでもあるのかもしれない。

 たとえばすべての部品が入れ替わってしまった船があるとしても、
 その船を形作ってきた部品たちが、朽ちてしまったとしても、これから朽ちていくとしても、
 それは存在しなかったわけではない。

 たとえ描いた人間がそう思っていなかったとしても、そういう嘘を、信じてもいいような気がしている。

812 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 01:00:16.76 ID:zLydDmoho
おしまい
813 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 01:07:28.17 ID:HRfqi1PA0
乙でした
怜の案内人のこととかってよく読み返したらわかるんだろうか
814 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/22(月) 06:47:12.95 ID:D+ZRSQp00
1年間、ここの更新を確認するのが日課でした
おつかれさまでした
815 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 06:48:55.68 ID:2q9uPnj20
おつでした
816 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/22(月) 08:17:24.70 ID:9DNGlqwnO
乙でした〜
まだ理解できなかったところがあるので
読み返します〜!
あと最後の方の後日談っぽい感じが良かったです!
817 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 16:53:24.99 ID:4zgMi7zSO
818 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 20:16:24.47 ID:2zM9mCL8O
おつです。
いい作品を読ませてもらって感謝です。ゆっくり読み返しますわ。
819 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 23:51:22.91 ID:SBeiMLGB0
おつです。お疲れ様でした!
820 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/23(火) 00:40:25.88 ID:Ap7DvQ/Lo
おつです。
平成最後の名SSをありがとうございます。
821 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/23(火) 00:48:12.15 ID:0NhWc7w90
おつでした。書いてくれてありがとう。
822 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/23(火) 18:55:05.75 ID:iiyQ+TdOO
おつ
823 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/25(木) 04:41:11.54 ID:Mbgu3+v2O
出遅れた!終わっとるやんけ!
リアルタイムで追えて良かったです。
お疲れ様でした
824 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/29(土) 19:46:39.17 ID:Qp0aUxZmo
また気が向いたら書いてください
応援しています
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