【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』

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1 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:13:35.92 ID:BdiXsnKQo
「んん……っ。」

彼女は読んでいた資料の束から顔を上げ、静かに集中を解いた。
ここ、劇場の事務室には談話スペースが置かれており、誰も使っていないときにはローテーブルを挟んだ奥側のソファーでこうした読み物をするのが彼女の習慣となっていた。
彼女が意識を外に向けたとき、開かれた窓から木々が揺れる音を連れた爽やかな風が吹き込んで、そっと彼女の髪を揺らした。
梅雨入りして以来雨が続いていたが今日のような晴れ間は季節柄ありがたく、事務室のどの窓も大きく開かれ、自然の風を取り込むようになっていた。

馬場このみは読んでいた資料をテーブルに置き、談話スペースから出た。
彼女のプロデューサーも事務員である青羽美咲も出払っているため、いま事務室にいるのは彼女だけである。
部屋の端にある冷蔵庫から、作って冷やしておいた麦茶を取り出して、氷を入れた透明なグラスに注いでから、また談話スペースへと戻る。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1560266015
2 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:15:04.98 ID:BdiXsnKQo
風にのって微かに香る潮の匂いが鼻腔をくすぐるなか、彼女はまた資料を読み進めていく。

「…………。」

彼女が一週間ほど前から向き合っているこの資料は、近々行われる演劇の公演のオーディションに関するものだ。
765プロライブ劇場でも公演の一つとして演劇を行うことがあるが、これは完全に外部のもので演者もすべてオーディションで選ばれる。
765プロがアイドル事務所ということもあり、この手の話は必ずしも事務所に通知が来るとは限らず、今回のオーディションも本来はそうなるはずだったようだ。
ところが、企画の立ち上げに関わったスタッフの中に、馬場このみが元大女優シンシア役を演じた「屋根裏の道化師」を観たものがいて、そこから偶然彼女個人にオーディションの話が回ってきたのだった。

資料の枚数は50ページほどにものぼり、演劇のあらすじや世界観はもちろん、それぞれの役の詳細な設定、人間関係、そして劇中から抜粋されたオーディション用の短い台本も含まれていた。
すなわち、選考の過程で役そのものへの理解が不可欠であり、オーディションではまさに劇中の人物自身であることが要求されることは想像に難くない。
3 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:15:34.22 ID:BdiXsnKQo

演劇のモチーフは「鶴の恩返し」である。
4 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:18:29.79 ID:BdiXsnKQo
鶴を助けた青年のもとに、道に迷い雪に降られた娘が泊めてほしいと訪れる。
吹雪で外へ出られない日が続くが、やがて青年は娘の人となりに密かに好意を抱くようになる。
ある日娘が「布を織る間部屋を覗かないでほしい」と言い部屋にこもり、数日かけて一反の美しい布を織りあげた。
青年が詳しい話を聞いても、娘は「言えない」というばかり。
やがて娘が布を織るために頻繁に部屋にこもるようになり、それゆえ次第に二人が顔を合わせて話せる機会が少なくなっていった。

娘は青年に恩を返すため、自身の羽を抜いて糸とより合わせることで美しい布を織るが、それゆえに青年の近くにいることができない。
彼への想い、彼から伝わる好意と優しさ、そしてそれらと相反する正体を知られてはならないという自身の秘密の間に、娘は苦しんでいた。

青年は徐々に痩せ細っていく娘が心配だったが、娘は「大丈夫」と答えるばかり。
彼女がひとりで抱える秘密と、それゆえ表に出せない彼女に対する想い。
戸を開けて声を聴きたい、会いたい。しかしそれは約束を破るだけにとどまらず彼女の秘密を侵すことになってしまう。
彼もまたひとり二律背反を抱えていた。

物語の終盤で娘は自身の秘密を青年に打ち明け、その代償として青年のもとを去っていくことになる。
鶴の選択が正しかったのかどうか、といった解釈は受け手側に委ねられる。

このように、民話で伝えられるような内容から着想を得た、「互いが想い合うゆえのすれ違い」を描いた作品になっている。
演技をするにあたって、そういった感情のやり取りが重要となることは明白だった。
5 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:19:21.91 ID:BdiXsnKQo
馬場このみが再び意識を外に向けた頃には、すっかり氷も解け、グラスの汗はローテーブルを濡らしてしまっていた。
資料が濡れてしまわぬように台拭きで拭ってから、彼女は息を吐いた。

「悲しいお話ね……。二人は、どうして別れなくちゃいけなかったのかしら……。」
6 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/12(水) 00:20:45.91 ID:BdiXsnKQo
彼女がアイドルとして活動する中で、最近はドラマ「セレブレーション!」や先述の「屋根裏の道化師」をはじめとした演技の仕事も増えてきた。
自身の二十余年の経験も助け、「想い合う二人のすれ違い」そのものについては、いまではある程度具体的なイメージを持てている。
しかしその一方で、物語の幕引きにどこか彼女の中で役に落とし込めない部分があった。

なにも誰もが救われる話であってほしい、ということではない。
最後に娘が自身が決めた道を向かうとき、それはどんな心境であったものだろうか?
青年に心配を掛けまいと作り笑いをするものなのか、それとも後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、涙を見せないよう振り返らず進むものなのか。
馬場このみが生きてきた中で、もちろん出会いの数だけの別れがあった。
その中で前者の別れもあったし、後者の別れも確かに経験している。
しかしながら、どちらを軸に解釈をしても娘の心の動きとかみ合わないような、そんな気がしてならなかった。

「どうしたものかしらね……。」

資料の中身は擦り切れるほどに読み返している。
二人を取り巻く環境、生活、価値観、心の動き──物語とその背景への理解を深めようと試みるたびに、その感覚は薄れるどころか、鮮明になっていくようだった。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/12(水) 22:18:44.51 ID:PfnMtZAgo
ええぞええぞ
8 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:48:03.76 ID:aN661FRYo
「はいほー!なのです。」

事務室のドアが開く音がしたと思えば、直後に特徴的な声が聞こえてきた。
談話スペースの奥側に座るこのみにはパーテーションが死角となり直接見ることはできないのだが、声の主が誰であるかは特段迷うこともなかった。

「まつりちゃんね、おはよう。」
9 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:48:52.99 ID:aN661FRYo
このみは当人を確認するために腰を浮かし背中を伸ばした。
……のだが、思いのほか死角が大きいようだった。
ローテーブルに軽く手をつくようにして前のめりになり、それでも姿が確認できなかったため、さらにもう少しもう少しと。
体重を前に移すたび存外つらい体勢となっていく。

ふくらはぎから嫌な音が聞こえてくる前に、その場から数歩動いて死角から脱出したほうが建設的だと判断したのだが、
自身の身体を無理なく定位置に戻す方法がすぐに思い当たらず、結局その不思議な体勢のまま声の主と目が合うことになってしまった。

「このみちゃん。……えっと。それはエクササイズか何か、なのです?」

このみは何事もなかったかのようにソファーに座り直したかったのだが、その前に至極全うな疑問が飛んできたので諦めてしばらくの間弁明をした。
10 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:50:59.36 ID:aN661FRYo
まつりは撮影の仕事を終え、劇場へ今しがた戻ってきたとのことだった。
小脇に抱えた小さな荷物を置き、慣れた手つきで自分の飲み物を準備して談話スペースに戻ってきた。

先ほどのこともあり、まつりが戻ってきたころにはこのみの集中は完全に途切れ、反動でローテーブルに突っ伏すような状態になっていた。

「その体勢は、レディとしてどうなのです?」

「レディにも色々あるのよ……。色々と……。」

11 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:52:25.59 ID:aN661FRYo
このみは、はぁ……、とため息とも返事ともつかない微妙な声を上げつつ、
ちょうど目の前の位置にあった件の資料の束を、まるで紙の感触を確かめるようにそっと指先で転がした。

「『鶴の恩返し』って、悲しいお話よね……。」

このみはテーブルに体を預けたまま、そう声を漏らした。
彼女の目は相変わらず資料に向けられたままであったが、どこか別の場所を見ているようにもみえた。

「ほ?どうしたのです?」

そのこのみの様子を見かねて、まつりはそう尋ねた。
12 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:53:25.23 ID:aN661FRYo
「ええ、実はね……。」

このみはそう言って身体を起こした。
まつりといえば765プロでも演技に定評のあるうちのひとりだ。
自身のプロフィールにも特技として記載するほどであるし、「屋根裏の道化師」でも共演している。
このみの言葉は口をついて出たというのが本当のところだが、実際相談する相手としても申し分ないだろう。


静かに降りゆく冷たい雪の中で、青年が白い息を吐き指を赤く腫らして、それでも助けてくれたこと。
鶴が青年の家を訪れたとき、初対面である「娘」も温かく迎えてくれたこと。
たった戸一枚分の距離でさえ、遠く離れているように感じてしまっていたこと。
そして、娘が青年に最後に伝えたことも。
自身でも一つ一つ咀嚼しながら、このみは劇中の物語をつぶさに伝えた。
13 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:55:48.73 ID:aN661FRYo
物語を深く知れば知るほどに、このみはやりきれない切なさを感じてしまっていた。
娘にとって、自身が秘密を抱えたままでいること、そして大事な人に自身の本当の姿を知ってもらえないということは、なにより辛いことだったのだろう。
この選択が正しかったのかなんて、鶴自身もわかっていないのかもしれない。
別れを選んだ鶴は、雪の積もった山の奥で、人知れず涙を流すのだろうか。
それでも辛い選択をしたのは、きっとそれを選ぶほかなかったのだろう。

「お互いに思いあっていても、離れなきゃいけないなんて……。でも、仕方ないことなのよね……。」

グラスの中の氷が、からんと音を立て、結露の粒が下へ流れていった。
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