【アイマス】滄の惨劇

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209 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/15(月) 23:24:26.34 ID:A1H0t0jm0
「どっちにしても私たちだけで決めるのはどうかと思うわ。あの2人とも話し合わないと」

伊織は天井を見上げた。

「そうですね。酷なようですが2人にも今の状況を伝えておいたほうがよいでしょう」

そう言って談話室を出ようとする貴音を伊織が止めた。

「ひとりで部屋に籠もるのは賛成だけど、ひとりで出歩くのはさすがに反対よ」

つまりは同行するという意思を伝える。

千早はそのやりとりを黙って眺めていた。

やがて彼女たちが連れ立って談話室を後にすると、

「あの2人、いつも一緒にいるわね……」

訝るような目でその背中を流眄(りゅうべん)した。

「千早は伊織たちのことも疑ってるの?」

「最初に私を疑ったのは水瀬さんよ」

「それはそうだけど……」

真は気遣うような目で雪歩を見た。

彼女は何かに耐えるようにずっと俯いている。

「そう言う真も水瀬さんたちのことを信じているワケではないんでしょう?」

「そんなワケないじゃないか」

「ならどうして一緒に行かなかったの? 2人だけでは安全じゃないってことは――私と我那覇さんの件で分かってるハズなのに」

「それは…………」

「――千早ちゃんのことが心配だから」

俯いたまま雪歩が言う。

「そうしたら千早ちゃんを置いていくことになるから……」

「………………」

それには何も答えず、千早はソファに座りなおした。

時おり顔をしかめて蟀谷(こめかみ)を押さえる。

それに気付いた雪歩が声をかけようとした時、伊織たちが戻ってきた。

「あれ? 亜美と真美は?」

一緒じゃないのか、と真が訊く。

「それが――」

伊織によれば亜美の部屋は施錠されており、ノックしても声をかけても反応がなかったという。

真美の部屋も同様で返事がないので諦めて戻ってきたらしい。

「私たちに対しても疑念を抱いているのでしょう」

貴音が残念そうに言った。

「開けたら襲われるかもしれないから無視してた、ってこと?」

真の問いに彼女は渋々といった様子で頷いた。






210 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 21:43:58.18 ID:eCS5+ur40
 19時11分。

彼女たちは動けずにいた。

それぞれの部屋で過ごそうという千早の案も有耶無耶になり、といって代替案も出ず談話室で時間を過ごすばかりだった。

座りなおす、咳き込む、髪をかき上げる。

そんなわずかな所作さえ許されない空気だ。

実際、衣擦れの音がしただけで全員の視線がそちらに集まるほどである。

つまりこの場で一語を発するだけでも極めて勇気の要る行動となるのだが、

「あの、みんな……」

彼女はそんな空気を打ち破るように切り出した。

「お腹、空いてない、かな……? よかったらお茶だけでも――」

誰も応じない。

日頃は何かと彼女を庇う真でさえ、このキッカケに乗ろうとはしなかった。

「萩原さんが淹れてくれるのかしら?」

まったく嬉しそうでない声で千早が訊ねる。

「え……? う、うん……そうだけど……」

「ごめんなさい。気を悪くしないでほしいのだけれど、たぶん誰も飲まないと思うわ」

「どうし、て……?」

雪歩は既に泣きそうな顔になっている。

「警戒しているのよ。たとえばそのお茶に毒が入っていないかとか――」

口調に躊躇いはなかった。

「千早――」

真が抗議の声を上げようとしたのを貴音が制する。

「それはないでしょう。私たちは昨日も雪歩の淹れてくれたお茶を飲んでいます。その気があるのならとうに命を落としているハズです」

窘められた千早は不愉快そうな顔をした。

「まあでもたしかに喉は渇いたわね。今日はほとんど何も口にしてないし」

場を取り繕うに伊織が言うと、泣きそうだった雪歩の顔が晴れる。

「そ、それじゃあ……」

いそいそと立ち上がったところに真もそれに倣う。

「千早ちゃんも一緒にどう、かな? お茶淹れるの」

「………………」

しばらく考える素振りを見せた彼女は控えめに頷いた。

「私たちはここにいるわ。もし亜美たちが降りてきたら一番にここに来るでしょうし」

伊織が言うと貴音もそれに同意した。

厨房に向かう3人は見えない何かに怯えるように辺りを窺いながら廊下を進む。
211 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 21:48:30.04 ID:eCS5+ur40
「あ……」

その道中、千早が小さく声を上げた。

びくりと体を震わせる2人。

「どうしたの?」

と訊く雪歩の声は掠れていてほとんど聞き取れない。

「我那覇さんのこと……」

「え……?」

「写真を撮るのを忘れていたわ」

遺体を動かす前に現場の状況を写真に残しておく、というのは彼女が提案したことだ。

「昨夜、カメラを部屋に置いてきてしまったから……」

「しゃし……写真はいいんじゃないかな……」

雪歩は額に汗を浮かべて言った。

「どうして?」

「えっと、その……つらいことを思い出しちゃうし――」

「でも記録に残しておかないと警察が捜査する時に……」

今からでも隠し部屋の様子を写真に収めておくべきではないか、と千早が言う。

「ボクも反対、かな。響は……もう運んだ後だし、犯人を刺激してしまうかもしれない」

「……真がそんなこと言うなんて意外だわ」

千早はさりげなく真と距離を取り始めた。

「正直、ボクにもよく分からないんだ」

「…………真ちゃん?」

「最初は絶対に捕まえてやる、って思ってたんだ。人数だってこっちのほうが多いし、隠れててもすぐに見つけられるだろうって」

この告白に覇気はない。

彼女は機械的に口唇を動かして話しているようだった。

「やよいが殺されて、プロデューサーが殺されて……いざ犯人を捕まえるって時になったら一番頼りにしてた響まであんなことになって――」

正体不明の殺人鬼が目の前に現れたら挑めるだろうか、それが不安だと彼女は漏らす。

「そうね……」

それに対し千早も雪歩も気の利いた言葉をかけることはなかった。

食堂にたどり着いた3人は告発文を見ないようにして厨房に入る。

調理器具や湯呑みを用意する雪歩は、千早に見せるようにそれらを並べた。









212 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 21:53:17.55 ID:eCS5+ur40
談話室で待つ2人の視線は交わらない。

伊織は俯き、貴音は天井の一角を見つめたままだ。

「いま何を考えていますか?」

彼女の視線は動かない。

「後悔しているだけよ」

伊織もまた俯いたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「取り返しのつかないことをしてしまったわ」

「私も同じ想いです」

囁き声に伊織は貴音の横顔を見やった。

「あんたは相変わらず……なんていうか超然としてるわね」

こほんとわざとらしく咳払いをひとつして、

「そういうところ好きじゃないけど、今は頼もしく思えるわ」

いつものように拗ねた調子で言う。

「お褒めの言葉、感謝しますよ、伊織……ですが――」

数秒、深呼吸してから、

「私とて冷静ではないのです。これまでも判断を誤った局面は何度もありました」

天井を見上げたまま憂えるように目を細めて呟く。

伊織は鼻を鳴らした。

獰悪な殺人鬼を除けば、判断を誤らなかった者などいない。

しばらくして複数人の足音が近づいてきた。

雪歩たちだ。

トレイには大きめの急須と7人分の湯呑み、クッキーや煎餅などがある。

「体を冷やすのは良くないと思って――」

熱い緑茶を選んだ理由を説明した彼女はトレイをテーブルに置くと、真と千早を伴って談話室を出ようとした。

「どこに……いえ、いいわ」

伊織はトレイ上の湯呑みを数えた。

「出て来なかったらどうするの?」

「改めて持って行くしかないよ」

答えたのは真だ。

「さっきは伊織ちゃんと四条さんが呼びに行ってくれたから、今度は私たちが行くね」

先に飲んでいてくれていい、と言い置いて雪歩たちは2階に上がっていった。

数秒の沈黙の後、伊織と貴音の視線が合う。
213 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 22:00:41.33 ID:eCS5+ur40
「………………」

「………………」

「食べればいいじゃない?」

ソファに悠然と腰かける伊織が意地悪そうな笑みを浮かべる。

「――いえ、そのような不義理はできません。雪歩たちを待ちましょう」

澄ました顔で貴音が答えてから、さらに十数秒。

「………………」

観念したように貴音が菓子に手を伸ばした時、2階で物音がした。

何かを叩きつけるような重く、鈍い音だ。

「な、なんなの!?」

咄嗟に伊織が立ち上がる。

「亜美と真美が……!!」

真が転がり込んできた。

肩で息をしながら緊急事態であることを告げる。

「行きましょう」

手に取った煎餅をトレイに戻し、貴音たちは真に連れられて2階へと駆け上がった。

真美の部屋のドアが開け放たれ、前の廊下で雪歩が蹲(うずくま)っていた。

彼女は落涙していた。

「何があったのです!?」

今にも気を失いそうな雪歩の肩を掴む。

口調とは裏腹に彼女の表情は冷めていた。

「あ、あ…………!」

震える雪歩はまともに発音すらできない。

かろうじて動く手を持ち上げ、部屋の中を指差す。

貴音が顔を上げると、ちょうど伊織が中に入っていくところだった。

部屋の中央に千早が立っている。

彼女は両腕をだらりと下ろし、茫然とそれを見つめていた。
214 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 22:09:26.56 ID:eCS5+ur40
「……亜美…………?」

その後ろから覗きこむように身を乗り出した伊織は見た。

ベッドに仰向けになった亜美と真美は手を繋いでいる。

互いの指は絡まっておらず、実際は亜美が真美の手を包むように握っている。

まるで仲の良い双子が遊び疲れて眠っているようだ。

「どうし、て…………!?」

だが2人の様相は全く異なっていた。

亜美は腹部から胸元にかけてを血液で真っ赤に染め上げている。

対して真美の首の辺りには何かで締め上げられたような痕があった。

共通しているのはどちらも呼吸をしていない点だ。

「これは一体……」

遅れて入ってきた貴音もそれを見て絶句した。

ベッド近くの床に撒かれたような血液の痕はバスルームへと続いている。

それを見つけた貴音は血痕を踏まないように辿ってドアを開けた。

内部にこれといって異常はなかったが、バスルーム側のドアに近い床にもわずかに血が付いていた。

「なんで……こんなことになってんのよ……?」

怒りと悲しみが混じり損ねたような声で伊織が言った。

貴音はそれには答えず、緩慢とした所作で肩越しに振り返った。

立ち尽くす千早の向こう、蹲る雪歩と彼女を介抱している真。

この館に来て何度も繰り返してきた光景である。

繰り返す度に犠牲者は増え、涕泣する者は減っていく。

「………………」

彼女は生存者の様子を順番に見回したあと、

「――不可解ですね」

誰にも聞きとれない声で呟いた。

「亜美…………」

伊織が跪いた。

「とうとう、あんたまで……!」

拳を握りしめ、しかし彼女は涕を流さなかった。

爪が掌に食い込み、いくらかの痛みと出血を齎す。

どこかから生暖かい風が吹き抜けていった。






215 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 22:19:25.37 ID:eCS5+ur40
 19時44分。

再び談話室に戻ってきた5人には、ただひとりを除いて表情がなかった。

お茶は飲むのに適した温度を逸し、湯気の一筋も昇らない。

「ドアに――」

自身を抱きしめるように腕を組んだ千早は囁くように言った。

「ドアの内側にあの線が引かれてあったわ。2本の線が交差していた」

「見なくても分かるわよ!」

伊織がヒステリックに叫んだ。

怒声に雪歩がびくりと体を震わせる。

「何なのよ! 一体……どういうつもりなのよッ!!」

彼女は2人を睥睨した。

視線の先のひとりは怯えた様子で、もうひとりは訝るような目で見返した。

「やっと分かったわ! ずっと……あんたたちだったんでしょ!?」

貴音は目を細めた。

一歩退いた場所で成り行きを見守る。

「なんでボクたちなんだよ!? そんなことするワケないじゃないか!」

鋭い視線を撥ねのけるように真が前に出る。

だが伊織は怯まない。

「ええ、そうね! 訂正するわ! あんたもよね、千早!!」

名を挙げられた千早は驚いた様子で見返した。

「まだ私を疑っているのね? 私が我那覇さんと一緒にいたから――」

「それだけじゃないわ。あんたたちは亜美と真美も殺したのよ!」

「何を言って――」

「私がバカだったわ! もっと早く気付くべきだったのよ! 犯人はひとりだと思っていた私のミスよ!」

雪歩は信じられないといった様子で伊織を見つめた。

その顔つきは犯人扱いされたことに対する怒りではなく、憐れ嘆くような憂いを帯びたものだった。

「水瀬さん、私たちが亜美と真美を……殺したと言ったわね? どういうことかしら?」

「そのままの意味よ。さっき2人を呼びに行くフリをして手にかけたに決まってるわ。3人なら簡単にできるわよね」

千早は目を閉じ、あからさまに嘲弄するようにため息をついた。

「それは水瀬さんにも同じことが言えると思うけど?」

「なんですって……!?」

「私たちが真美の部屋に入った時には2人は既に殺害されていた。ならその1時間ほど前に2人を呼びに行った水瀬さんと……四条さんの犯行ということになるわ」

「あんた…………!」

「2人はずっと前に水瀬さんたちに殺されていた。それを私たちが発見した――ということじゃないかしら?」

伊織が感情的になればなるほど千早は冷淡にあしらう。
216 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 22:29:28.58 ID:eCS5+ur40
「それは聞き捨てるワケにはいきませんね。2人を害するのであれば昨夜にもその機会は充分にあったハズです」

物静かな口調にはわずかに怒気が覗く。

「それに――美希や響の件はどう説明するつもりですか? 私にも伊織にも2人を手にかけることは不可能です」

ここにきて貴音は言葉に熱を込め始めた。

普段の真理を見据えたような双眸は輝きを失いつつあり、自分に嫌疑をかけた千早を射抜くような目で見つめている。

「まだあるわよ」

貴音の援護を受けてか、千早に押され気味だった伊織が勢いづく。

「響が殺されたと思われる時間、不自然な行動をしていたわよね?」

彼女は今度は雪歩を睨みつけた。

「えっ!? わ、私……?」

「あんた、携帯が繋がるか試すって言って真と一緒に出ていったじゃない」

「それは……もし繋がったら助けを呼べると思って……」

「理由としては満点ね。でもどうしてあのタイミングだったワケ? 千早たちが戻って来てからでもよかったハズじゃない?」

これは憶測ではない。

指摘は全て事実だったから、その気迫も相俟って彼女は答えを返すことができなかった。

「あんたたちは千早と合流したのよ。3人ならいくら響が相手でも殺すのは簡単だものね!」

語調には一切の迷いがなかった。

不確かな事柄でも断定口調で詰る様は、平素の水瀬伊織のそれと何ら変わりがない。

唯一の諫言役である貴音は肯定も否定もしなかった。

今は伊織からさえも距離を置き、視線だけは千早に向けたままだ。

「――いくらなんでも言い過ぎだよ」

菊地真にしては控えめだった。

低く、怨嗟を纏ったような声質はそれを聞く者に警戒心を抱かせる。

「こんな状況になって、団結しなきゃいけない時じゃないか。疑い合ってどうするんだよ」

「もう何人も犠牲者が出てるのに、今さら何が団結よ。人殺しと団結して助かるのは共犯者だけだわ!」

「伊織だって765プロだろ! 仲間同士信じ合わなくてどうするんだよ!」

「お、落ち着いて真ちゃん……伊織ちゃんも……!」

仲裁する雪歩は真の傍から離れようとはしない。

「そうやって信じた奴から殺されたじゃない! だからあんたはバカなのよ!!」

「伊織っ!!」

「ま――」

雪歩が制止しようと声をかけたが一瞬だけ遅すぎた。

真の伸ばした手が彼女の胸倉を掴む。
217 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 23:16:54.19 ID:eCS5+ur40
――ハズだった。

銀が閃き、赤が散り、真は後退った。

雪歩が悲鳴をあげる。

千早も貴音もまるで磔刑に処されたように身動きひとつしなかった。

悪鬼の形相で睨みつける伊織の手には果物ナイフがあった。

先端はたった今、濡れたばかりだ。

「そうやって頭に血が上って殺したんでしょ!? 今度は! 今度は私を殺すつもりなのね!?」

真は驚愕の表情で伊織を見た。

押さえた手頸から赤い液体が一筋流れ落ちた。

「念のために厨房から持って来ておいてよかったわ。どう? これならあんたたちも迂闊に手出しできないでしょ?」

刃先は真に、視線は千早に向ける。

「ま、真ちゃん! 早く血を止めないと……!」

青白い顔をして雪歩がその手を取った。

鮮血が一滴、カーペットを濡らした。

「見損なったよ、伊織――」

救急セットを持って来ているからという雪歩に促され、彼女は談話室を出て行こうとする。

「ほら見なさいよ! 自分たちは殺されないからそうやって悠々と行動できるんでしょ!? この人殺し! あんたたちが――」

「伊織ちゃんっ!」

呆気にとられたように伊織は雪歩の顔を見た。

「私も真ちゃんもそんなことしないよ! 千早ちゃんだって!」

精一杯と思われる怒声を張り上げ、彼女は真を伴って談話室を出て行った。

その後ろ姿を目で追った伊織は、刃先を千早に向けた。

「あんた、見捨てられたわよ?」

表情にいくらか余裕が戻ってくる。

対する千早は凶器を突きつけられているというのに、まるで動揺する素振りを見せない。

「私は犯人なんかじゃないわ」

とはいえ毅然と抗議はする。

「言ってればいいわ。貴音、私たちも部屋に戻るわよ」

千早から目を離さないようにして談話室を出ようとする伊織。

観念したようにため息をついた貴音もそれに続く。

「――千早」

去り際、彼女は肩越しに振り向き、

「もし貴女が本当に誰も殺めていないというのであれば、部屋に籠もり固く鍵をかけておくことです」

諭すような口調で言った。
218 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/16(火) 23:27:35.36 ID:eCS5+ur40
ひとり残った千早は、生気が抜けてしまったようにソファに座り込んだ。

静寂だ。

自らの心音さえ聞こえそうなほどの静謐を、秒針の音が遠慮がちに打ち破る。

「………………」

ぼんやりと天井を見つめて彼女は長大息した。

照明を眩しく感じてかそっと手を翳す。

「誰も殺めていないというのであれば……?」

つい先ほど、貴音が残した言葉を繰り返す。

「誰も殺めて……誰も……誰も……!?」

突然、弾かれたように立ち上がる。

「プロデューサーは誰かを見た……心当たりがある、とも……でも、もしそれが…………!」

千早は談話室を飛び出した。

階段を駆け上がり、突き当たりの自室に入ると素早く施錠する。

ナイトスタンドに置いてあったカメラを手に取り、この島に来てから撮影した画像を展開していく。

1枚目は港の風景だ。

大小さまざまな漁船をバックに、やよいや亜美たちがはしゃいでいる様子が収められている。

4枚目は船からの光景である。

遠近に映る島嶼は木々が暢茂してどれも青々と美しい。

9枚目以降は島に着いてからのひとこまだ。

最初に館に向かう道中やそれぞれに砂浜で遊ぶ様子、ビーチバレーの経過が捉えられていた。

それら写真を順番に開いた千早は72枚目の画像を注視した。

映っているのは美希だ。

厨房の奥の壁際で体を折り曲げ、まるでいつもどおり仮眠しているような姿の彼女がほぼ真上から撮影されている。

「たしか高槻さんの遺体を最初に発見したのは美希――その時は我那覇さんも……」

さらに数枚の画像を見比べた千早はおもむろにデジカメを置いた。

そしてボイスレッスンの時のように、肺の中の空気をたっぷりと時間をかけて吐き出す。

「………………」

千早は音を立てないように部屋を出た。

そして目的の部屋の前に立ちドアノブを回す。

施錠されている。

彼女は控えめに3度、ドアを叩いた。

しばらくして鍵が外れる音がした。

再びノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。

中の様子を窺おうと身を乗り出した瞬間、襟首を掴まれて部屋の中に引きずり込まれた。

「あなただったのね…………!」

それが千早が発した最後の言葉だった。






219 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 21:53:21.10 ID:LTgWybDj0
 20時13分。

日はとうに沈み、窓の向こうは黒にちかい灰色が覆っている。

「大丈夫……?」

雪歩がか細い声で問う。

「うん、雪歩のおかげだよ。ありがとう」

幾重にも巻かれた包帯は傷口の上に血が滲んでわずかに赤黒くなっている。

咄嗟に躱したため傷自体は浅かったが裂傷の範囲が広い。

雪歩が救急セットを持ってきていたおかげで真はすぐに手当てを受けることができた。

止血や消毒に多少時間を要したが処置は適切だった。

「ごめんね、真ちゃん……」

「なんで謝るの?」

「あの時、私が携帯を試したい、なんて言わなかったから伊織ちゃんに疑われることもなかったのに……」

雪歩だけのせいじゃないよ、と真は力なく笑った。

「一緒に行ったボクにも責任があるし」

取り繕うように言った直後、その笑みは虚しいものに変わる。

「伊織ちゃんのことだから何か考えがあるんだって思ってたの。だから何を言われても黙っていようと思ってたけど――」

それが仇となって真が怪我をさせられたことが我慢できない、と雪歩は悔恨の情を滲ませた。

あの時、自分がハッキリと否定しておけば――。

誰も感情的にならず、仲違いをするにしても刃傷沙汰は避けられたのではないか。

あるいは真の代わりに自分が切られていればよかった、と彼女は言う。

「そんなこと言わないでよ。こんな状況なんだから誰が悪いとかないよ」

「うん――」

しばし、沈黙。

普段は昵懇の間柄の2人だがこの状況では会話も続かない。

どちらもが何事かを喋ろうと唇を動かすも、空気を振動させるには至らない。

だが言葉に寄らずとも思考や想いを伝える方法はある。

雪歩はそっと、躊躇いがちに彼女の手に触れた。

真はびくっと小さく体を震わせたが、すぐにその手を握りしめる。

その時、インターホンが鳴った。

「ひぅ……っ!!」

雪歩が頓狂な声を上げた。

怯えきった子犬のような目で真を見上げる。

「い、今のは――!?」

突然の音に跳びあがりそうになった真は左見右見(とみこうみ)した。

再び、インターホンの音が鳴り響く。

静寂の中にあっては不気味な余韻がいつまでも部屋の中を巡っているようだ。
220 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 21:59:32.59 ID:LTgWybDj0
「もしかして警察が来てくれたんじゃ……?」

雪歩が震える声で言う。

「通報してないんだよ? 警察が来るワケが――」

ない、と言いかけて真は言葉を呑んだ。

「――雪歩」

何かを決意したような顔で言うと、すっくと立ち上がる。

「ここにいて。ボクが出たらすぐに鍵をかけて」

「ま、真ちゃん……?」

「大丈夫。ちょっと様子を見てくるだけだよ」

「あ、危ないよ! もし悪い人だったら……!」

縋るような目で雪歩が訴える、

だが真は首を横に振ってそれを退けた。

「心配しないで。何かあったらすぐに戻って来るから」

またインターホンが鳴った。

今度は続けて2度だ。

「でも……」

と、しばらく押し問答が続き、最後には雪歩が折れる恰好となった。

「それじゃあ、真ちゃん――」

部屋を出tた真は小さく頷いた。

音を立てないようにドアを締め、施錠する音を確かめた彼女は深呼吸した。

「ごめん、雪歩。犯人の罠かもしれないけど……響たちの仇を取りたいんだ……」

呟きはドアを隔てた雪歩には届かない。

しつこく鳴っていたインターホンは鳴り止んでいた。

「………………」

真はひとつ隣の貴音の部屋の前に立ち、ドアを叩いた。

「貴音……?」

返事はない。

しばらく待ってみたが反応は返ってこない。

「さっきのインターホン、聞こえたでしょ? ボク、様子を見てくるから」

ドア越しに言い置いて薄暗い廊下を進む。

エントランスに漂う空気は湿っていて少し冷たい。

真は拳をぎゅっと握りしめたあと、正面扉をゆっくりと開けた。

隙間から生暖かい風が吹き込んでくる。

シャンデリアに照らされ、扉の向こうの土と草木がわずかに浮かび上がる。

特に異常はない。

真は半開きの扉に身を寄せるようにして外を窺った。

微風に枝葉が揺れる。

はらりと舞った一葉が真の前を過ぎった。
221 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:01:03.83 ID:LTgWybDj0
「…………!?」

それを目で追った彼女は息を呑んだ。

扉のすぐ横。

春香がうつ伏せに倒れていた。

血塗れの彼女は開いた右手を突き出している。

まるでインターホンを押した後に力尽きたような恰好だ。

「……はる、か…………?」

真はしばらく動けないでいた。

一陣の風が砂埃を舞わせ、木の葉と共に砂の一部を館内に運ぶ。

そろりと一歩を踏み出す。

周囲に人の気配はない。

真は充分に辺りを窺い、他に人影がないのを確認すると春香を館内に運び入れた。

硬直し、冷たくなっている彼女の体に目立った外傷はない。

外の砂塵や運び込んだ際にエントランスの床を擦ったせいで衣服は汚れている。

「春香……」

真は無駄なことをした。

呼びかけたところで彼女は死んでいる。

「やっぱり律子も……?」

呟いてから真は思い出したように振り返った。

2階へと続く階段がある。

左右に視線を振れば東棟、西棟に続く通路がある。

彼女はしばらく待った。

だがそれも無駄だった。

「インターホンは聞こえてたハズなのに貴音も伊織も来ないなんて……」

特に貴音に対しては返事がなかったとはいえ、ドア越しにこの件は伝えてある。

「まさか……2人とも、誰かに…………!?」

真は春香から離れた。

そして恐怖に引き攣った顔で亡骸を見下ろすと、エントランスを飛び出した。

東棟に続く廊下の角を曲がる。
222 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:23:49.17 ID:LTgWybDj0
「…………ッ!!」

突き当たりの部屋のドアが開いていた。

「そんな……まさか……?」

真は激しい動悸に襲われた。

足音を立てないように近づく。

「雪歩!?」

部屋に入るや名を呼ぶ。

部屋の照明は消えていた。

廊下の明かりがほのかに室内を照らしている。

彼女はベッドに横たわっていた。

腹部から流れた血液がシーツを伝って床に達している。

「そんな……っ!!」

真は危うく倒れ込みそうになった。

しかしどうにか踏ん張り、重い足を引きずるようにしてベッドに近寄る。

「雪歩! 雪歩!!」

追い縋るように白い肩を揺さぶる。

しかし眼下の彼女が目を開けることはなかった。

「どうして……なんでだよ……! なんで……!!」

嗚咽を漏らす真の後ろで物音がした。

振り向く。

何かが振り下ろされ、彼女はその場に倒れた。






223 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:28:02.50 ID:LTgWybDj0
 20時36分。

2人の亡骸を見下ろし、貴音は深呼吸した。

しかし鼻腔を突く血液の臭いに咽んでしまう。

「私は……取り返しのつかないことを…………」

一筋の涙が頬を伝う。

薄明かりの中、彼女はぼやけた視界に腹部を血で染め上げた雪歩と撲殺された真を捉えている。

「………………」

手に握りしめたナイフの感触を確かめた彼女は静かに部屋を出た。

階段を上がりかけたところではたと止まり、エントランスを覗く。

春香が倒れている。

「あの呼び出し音は偽りではなかった……ということでしょうか……?」

貴音はその亡骸の傍に跪いて短く黙祷を捧げた。

「――だとすれば言葉どおり、真が……?」

再び顔を上げた彼女の目は鋭かった。

今度こそ階段を上って西棟へ。

亜美、真美の部屋を通り過ぎた貴音は千早の部屋の前に立った。

深呼吸をひとつし、静かにドアをノックする。

「――千早」

しばらく待つが返事はない。

「お話ししたいことがあります。私だけです。中に入れていただけませんか?」

言葉は丁寧だが口調には棘があった。

さらに数秒。

返事もなければ開錠する音も聞こえない。

貴音はナイフを握りしめた手を後ろに隠し、ドアノブに触れた。

「…………?」

鍵はかかっていなかった。

「入りますよ」

形式だけの断りを入れ、ドアを開ける。

彼女はすぐにそれを見つけた。

千早だ。

仰向けに倒れている彼女は喉を裂かれている。

凝固した血液と乱れた長髪に隠れて分かりにくいが、首には扼殺の痕があった。

「これは一体…………?」

貴音の手からナイフが滑り抜けた。

刃は豪奢なカーペットに小さな傷をつけ、軽く弾んで持ち主の足元に落ちた。
224 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:40:22.56 ID:LTgWybDj0
「千早…………」

囁く声は震えていた。

実際に震えていたのだ。

彼女自身が。

「――貴女では、なかったのですか……?」

千早は何も答えない。

それが答えだった。

「……いえ、そんな……それはあり得ないことです……」

貴音はかぶりを振った。

「彼女には……美希や響を殺めることはできなかったハズ……」

ではいったい誰が、と口にしかけた彼女はもう一度、千早を見下ろした。

そして何かを得心したように頷くと、足元のナイフを拾い上げた。

部屋を出た貴音は堂々と――悠然と――廊下を曲がり、反対側の棟へ向かった。

突き当たりの部屋のドアを叩く。

「私です。お話ししたいことがあります」

返事を待つ。

「今さら何の話があるのよ?」

相変わらずの勝ち気な物言いが返ってきた。

「私のことも信用できないって言ったくせに」

「今はそれが正しかったと言えます」

「どういう意味よ?」

ドア越しでくぐもっているというのに、彼女の声は廊下までハッキリと聞こえた。

「私は真実を知りたいのです――伊織」

「はあ? 真実?」

「真、雪歩……千早も何者かに害されました。えんとらんすには春香の亡骸が――」

貴音はこのわずか数分で見たものを説明した。

ドアの向こうからがさごそと何かが動く音がした。

そして数秒。

「じゃあそこにいるのはあんただけってことね?」

「はい」

「――分かったわ」

しばらくして鍵を開く音がした。

しかしドアが開く様子はない。
225 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:42:54.44 ID:LTgWybDj0
「入ってもよろしいですか?」

しびれを切らしたように貴音が問うと、

「いいわよ」

慳貪な声が返ってきた。

ノブに手をかけて深呼吸をひとつする。

そしてゆっくりとドアを開ける。

目の前には伊織がいる。

平素と変わらない自信に満ちた表情だ。

彼女の手の中で何かがきらりと光った。

貴音が身構える。

だがそれより先に飛び込んだ伊織が、それを彼女の腹部に押し当てた。

「…………ッ!」

じわりと熱が広がる。

続いて衣服に血液が浸潤し、不快感に貴音はたまらず後退った。

「貴女だったの……ですね…………」

腹部を押さえた手は真っ赤に染まっている。

「それはこっちの台詞よ! あいつらと組んでたんでしょ!? でも邪魔になったから殺した――そうよね!?」

「なにを……なにを言っているの、です? 貴女こそ……真たちを……」

「騙されないわ!」

伊織がナイフを振り上げた。

目の前の、かつての仲間を切りつけんと迫る。

だがそれが振り下ろされることはなかった。

ほとんど無意識的に突き出した貴音の手には、しっかりとナイフが握られていた。

照明を受けて銀色を返す刃先は驚くほどするりと伊織の喉を刺し貫く。

「た…………」

恨みがましい目で彼女は何か言おうとした。

しかし口から出たのは言葉ではなく夥しい血液だった。

痙攣しながら膝をついた伊織は貴音の首を掴もうと手を伸ばす。

指先が肩に触れかけたところで彼女は力尽き、自らの血液で作った湖に身を没した。

「………………」

一瞬、忘れていた激痛が再び襲ってきた。

「いお、り…………?」

虚しい呼びかけに応える者はいない。
226 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:47:45.79 ID:LTgWybDj0
「私は……なにを…………?」

問いに対する答えは彼女の手の中にある。

貴音は伊織だったものを見た。

彼女はまだ動いている。

筋肉が動き、血液が流れ、それが喉に空いた穴から止めどなく溢れ出てくる。

彼女の周囲はそこだけ内装を取り違えたように赤とも黒ともつかないカーペットが敷かれている。

咽返る鉄錆の臭い。

体温をぶちまけたことで上がった室温。

肌にべたつく湿り気。

それらが貴音に纏わりついて離れない。

「なんという…………!」

独り言を述べる体力も尽きようとしている。

すぐに適切な手当てを受ければ一命を取り留めることはできるだろうが、ここは医療機関のない孤島である。

雪歩の持っている救急セットでは気休めにもならないだろう。

したがって彼女は――。

「………………」

貴音はナイフを逆手に持ち替えた。

したがって彼女は死ぬのを待つか、自ら死ぬしかない。

「無念……です…………」

刃は脇腹に突き刺さった。




227 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/17(水) 23:50:36.46 ID:LTgWybDj0









 翌日。

迎えのために島に船をつけた岩倉が、約束の時間を過ぎてもいっこうに現れない彼らを不審に思って館を訪れたところ、エントランスで天海春香の遺体を発見した。

岩倉はすぐに本島に戻り、警察に通報した。

その後の捜査により、次のことが分かった。



秋月律子の遺体は2階の管理人室にあった。
腹部に深い刺し傷があった。

天海春香の遺体はエントランスにあった。
紐状のもので絞殺されたとみられる。

我那覇響の遺体は自室にあった。
体には複数の刺し傷があった。

菊地真の遺体は雪歩の部屋にあった。
頭部を鈍器で殴打された痕があり、これが致命傷となったようである。

如月千早の遺体は自室にあった。
首を絞められ、さらに喉を斬られていた。

四条貴音の遺体は伊織の部屋にあった。
腹部に複数の刺し傷があった。

高槻やよいの遺体は自室にあった。
背中を包丁で一突きにされていた。

萩原雪歩の遺体は自室にあった。
腹部を数度刺された痕があった。

双海亜美の遺体は真美の部屋にあった。
胸の辺りを刺されたことが死亡につながったようである。

双海真美の遺体は自室にあった。
紐状のもので絞殺されたとみられる。

星井美希の遺体は自室にあった。
扼殺されたものとみられる。

三浦あずさの遺体は自室にあった。
腹部を包丁のようなもので刺されていた。

水瀬伊織の遺体は自室にあった。
首を刺し貫かれていた。

プロデューサーの遺体は1階の管理人室にあった。
腹部を包丁のようなもので刺されていた。



228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/07/18(木) 01:24:34.91 ID:1Ak+T/QPo
え?全滅エンド?
229 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 21:30:22.85 ID:+5XilU3f0









事務所の一室で高木はそれを何度も読み返していた。

知性的な彼女らしい整った字体に理路整然とした文章だ。

描写も精緻で、その場にいなかった読み手にも当時の情景がありありと浮かんでくるようだ。

「ふむ…………」

彼はそれを脇に置くとわざとらしく背伸びをした。

見計らったように小鳥が入ってくる。

「社長、お茶でも――どうしました?」

落魄した様子の高木に心配そうに声をかける。

「ああ、これを読んでいたものでね……」

「……手紙ですか?」

「彼女からのね。音無君も読んでみるかい?」

湯呑みを差し出した彼女はしばらく考えてから言った。

「少し怖い気もしますが――」

小鳥は1枚の便箋を手に取った。





230 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 21:40:42.30 ID:+5XilU3f0



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


―― 3日目 ――



 21時07分。

静まり返った館。

生温い風と、どこにいても鼻腔を衝いてくる血の臭い。

それらが人に齎すのはこの上ない不快感。

あちらこちらに転がる遺体は見る者を震え上がらせ、正常な思考を悉く奪う。

迸(ほとばし)る血液は全て重力に従って下へと落ち、ゆっくりと床面に広がって張り付いている。

彼女はドアを叩いた。

控えめに、3度。

ビジネスマナーとして学んだことだが最近は根拠のないルールだとして見直されつつある。

そのことは分かっているが一応は踏襲してしまうのは彼女の几帳面さと融通の利かなさの表れでもある。

ドアはすぐに開けられた。

「とりあえず手を洗ったらどうだ? 手首まで血が付いてるぞ」

言われて彼女は自分の両手を見る。

拭いはしたが、そのせいでかえって血が広がってしまったようだ。

「ええ、そうします。手洗いを借りますね」

向けられた厚意は受け取っておく。

それが彼女――秋月律子の仕事に対する心構えである。

付着し、凝固した血液はなかなか落ちない。

5分ほどかけてようやく皮膚についた血を洗い流す。

衣服の汚れは諦めるしかない。

「――残念でしたね」

タオルで手を拭きながら律子が言う。

「いろいろと予定が狂ってしまったな」

心底残念そうな声が漏れる。

頭を抱える彼――プロデューサーはこの件をどう報告しようかと思案した。

「もともと無理があったんじゃないか? 今回の企画――」

「でも必要なことですよ。事務所の存続のためには……」
231 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 21:45:22.50 ID:+5XilU3f0
真のアイドルは強力なリーダーシップと恐怖に打ち克つ力を持っていなければならない。

生き延びるために知恵を絞り、どのような状況も打開する機転も必要だ。

ヴィジュアルやヴォーカルやダンス等の基礎的な要素はレッスンでいくらでも向上させることができる。

しかしそれだけでは厳しい業界で生き残ることはできない。

不撓不屈の心、その場その局面に対応できるしなやかさ、強かな謙虚さと形振りかまわぬ貪欲さ。

そのどれが欠けてもトップアイドルとしては成立しない。

誰が最もトップアイドルとしての資質を具(そな)えているか。

この小旅行はその選定のために企画されたものだった。

つまり仲間が殺害され、外に助けを呼べない状況で彼女たちがどのように思考を巡らし、行動するのか。

それを観察することによって誰がトップアイドルに相応しいのかを見極める。

”トップ”というからには合格者はひとりだけ。

最初の犠牲者が決定した後は、彼女たちの反応や状況を見ながら最も不適格と見做された者から逐次脱落していくこととなる。

「それにしても意外だったな」

「なにがです?」

「最初の犠牲者だよ。まさか律子があずささんを選ぶとは思わなかった。竜宮小町だから贔屓目に見てるかと思ったんだが」

「大事な選定に情を挟むワケにはいきませんからね。いろいろとリスクを考えた結果ですよ」

「どんなリスクなんだ?」

「あずささんのおっとりとした雰囲気や柔らかい歌声には多くのファンがついています。その性質は竜宮小町でも個性として確立されていますしね」

「高評価じゃないか」

「アイドルの寿命は長くないんです。若ければ若いほどいい。そこがまずマイナスです。なにより問題はあの迷子癖ですよ。

事故や事件に巻き込まれるリスクも高くなりますし、遅刻でもすれば失う信用は計り知れません。いちいち捜して連れ戻す労力やコストと釣り合わないんです」

それが選出の理由だ、と語る律子は落魄した様子だった。

「次にやよいを選んだのはプロデューサーでしたよね。これはどういう理由なんですか?」

彼女はあずさの話題から逃れるように早々に高槻やよいの名を出した。

「やよいはあずささんとは逆に伸びしろがあった。年齢的にも問題ない。ただ家庭のことが引っかかるんだ」

「長女でしたよね」

「それゆえに責任感や面倒見の良さはあるが、兄弟姉妹が多いから看病や家事等で仕事に穴を空ける恐れがある。大きな仕事を任せられず安定感に欠けるんだ」

彼は大いに残念がった。

「手にかける時はどうやって? 難しかったと思いますが」

「チャンスがあったんだ。千早が偶然、暖炉と多目的室が繋がってることに気付いてな。確かめるために俺たちは多目的室に行ったんだ。

響が降りたあとで亜美と真美を先に合流させた。俺とやよいも戸締りをしてすぐに追いかけると言ってな。

その際にやよいに言っておいたんだ。”大事な話がある。昼食後に施錠して自室で待機しろ。俺が行ったらすぐに入れろ”と」
232 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 21:49:43.84 ID:+5XilU3f0
なるほど、と律子が手を叩いた。

「だからあの時、私に何枚か大皿を割れ、と言ったんですね。皆の注意を引きつけるために」

「ただ大きい音がしただけじゃ注目するのも一瞬だからな。掃除に時間がかかればそれだけ釘付けにできる」

彼は傍に置いてあったコーヒーを一口だけ飲んだ。

「素直だったよ。俺がうつ伏せになれと言ったら疑いもせずにそうした。その背中にハンカチを乗せ、包丁で一突きに――」

「残念ですね」

「ああ、でも失格者だから仕方がない。その分、他のアイドルたちの観察の材料にさせてもらったよ。やよいの死を無駄にしないためにな」

律子は一瞬、訝るような目でプロデューサーを見た。

彼の言葉と表情は一致していない。

口調だけは思いつめたような強弱があるが、顔つきは微塵も変化しない。

「しかし暖炉にあんな仕掛けがあるなんてな。千早もよく気づいたものだよ」

その観察力が評価され、彼女は生存者候補に大きく近づいた。

「3番目に美希を選んだ理由は何ですか? やはり普段の怠けぶりからですか?」

彼は手を振った。

「真面目に取り組めば才能を発揮して、あいつが言うようにキラキラ輝くアイドルになれたかもしれないな――」

しかし、と間を置く。

「それにしても美希には驚かされたよ。死んだふりをしていた俺が起き上がったところにいきなり入って来たんだからな。その時に言われたよ。

”ハニー、やっぱり生きてたんだね”って。あいつ、勘が鋭いから気付いたんだろうな。考えている暇はなかった」

咄嗟に彼女の首を扼してしまった、とため息交じりに言った。

「死んだふりは犯人を欺くために律子と協力してやった、という言い訳もできるけど、あれを見られたからな――」

指差した先には15インチほどのモニターが置いてあった。

画面はいくつかに分割しての表示が可能で、今は談話室、食堂、2階東棟の廊下と伊織の部屋が映っている。

「俺も迂闊だったんだ。ちゃんと鍵をかけておけばよかったな」

些細なミスを振り返る程度の口調だ。

「美希の遺体は頃合いを見計らって裏から厨房に運び込んだ。見つかりやすい場所に置かないと面倒になりそうだしな」

「ええ、そうですね」

「さて、俺からも聞かせてくれ。春香を選んだ理由は何だったんだ?」

3日目になると誰もが警戒するので殺しが難しくなる。

篩(ふるい)にかけたはいいが失格者を減らせないでは意味がないので、夜が明ける前に律子がひとりを選んで始末することになっていた。

「悩みましたよ。春香は際立った個性がないために何にでも化ける可能性がありましたから。その意味では後回しにするべきだったかもしれません。

ですが彼女はメンバーの中心になることはできても、皆を引っ張っていく力まではなかったんです。うちの事務所は皆、個性が強いじゃないですか。

春香はそのまとめ役を担うことはできますが、言い換えれば彼女個人としてはトップアイドルの素養はないんです」

だから色の強いユニットに加えることで真価を発揮しただろう、と彼女は評した。
233 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 21:57:54.57 ID:+5XilU3f0
「単純ながら飲み物に薬を入れるという手も有効でした。あれのおかげで響たちに気付かれずに春香を連れ出すことができましたから」

「響といえばスペアキーの件で伊織が意外な展開に持っていったな。あれにも驚いたよ」

彼によればスペアキーがあるのは管理室のみだから、自分があずさ殺害の実行犯だと疑われるのは想定していた。

それを避けるために存在しない何者かを目撃したと偽ったが、少なくともその時点では伊織は極めて冷静だったと言える。

この点がプラスされ、彼女は生存者候補に一歩近づいていた。

「あの娘は才媛ですよ。ものをよく見ていますし指摘も的確です。響を犯人扱いしたのは彼女を庇うためだったみたいですけどね」

「さいえん……? ああ、才媛か。あんな難しい言葉、よく思いついたな。それを読めて意味も理解できた貴音も流石だが」

「私の趣味、資格取得なんです。漢検一級を持っていますから。誰も読めなければ適当な理由をつけて私が説明するつもりでした」

ここで博学な貴音に加点がなされた。

昨今は芸能界に限らず著名人の失言に厳しい。

軽忽な発言をすればすぐに炎上だ。

この点、貴音なら間違っても迂闊な発言はしない。

余計なトラブルを引き起こさないというのはプロデュースする側にとっても事務所にとってもありがたい。

「さて、肝心の今日ですけど……ここは接戦でしたね」

「ああ、といっても亜美と真美には早々と退場してもらうつもりだったけどな」

「やはり普段の言動からですか?」

「双子、というのはそれだけで充分な個性だ。しかも全く同一じゃないからそれぞれに持ち味がある。でも言動は大きなマイナス点だよ。

現場で何度もハラハラさせられたよ。2人に悪気はないんだろうが信用第一だ。不用意な発言で得意先の心証を損ねるのはまずい」

「でもなかなかチャンスが巡ってきませんでしたね。おかげであんなことをする羽目になりましたよ……」

律子は憤然として言った。

「まあいいですけど。ところで響の件ですが――」

「惜しかったな。あれは苦渋の決断だった。ムードメーカーだったしダンスの才覚だけでもトップアイドルの可能性は充分にあった。

もし千早と一緒に捜索に動いていなかったら脱落はずっと後になっていたと思う。

ただメンタル面がな……ミスが続くと混乱しがちだったし、反対に勢いのある時は調子に乗ってしまう。

それに最後まで仲間を信じていたようだけど、その優しさや脇の甘さはともすればカモにされるかもしれない」

千早か響、どちらかを残す選択に迫られ、彼は僅差で響を脱落させたと述べた。

「響は隠し部屋を見つけた点をプラスして千早ともども上位にあったんだが……あのタイミングを逃すと次にいつチャンスがくるか分からないからな」

館内の様子は複数の隠しカメラで常時監視しており、千早たちの行動も筒抜けとなっている。

そこで2人の行動を見て先回りし、響を脱落させたのである。

止むを得なかったと繰り返すプロデューサーの表情はやはり超然としていた。
234 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 22:43:21.10 ID:+5XilU3f0
「あ、そうだ。あの赤い線の意味は何だったんだ? 律子に言われたとおりにドアに引いたが」

「あれは主に2つの効果を狙ってのことですよ」

「恐怖心を煽るためとか?」

「そんなのは最初にあずささんの遺体が見つかった時点で充分ですよ。思い込みと錯覚、これが重要なんです」

律子は眼鏡をかけ直した。

「最初は犠牲者と赤い線……ここに共通点を持たせるためでした。誰かが死ねばその部屋のドアに線が引かれる。

これが常に一致していれば、彼女たちは次の犠牲者を直接見なくても線の有無だけで生死を判定してしまうんです」

その法則性はあずさ、やよい、プロデューサーでしっかりと示した、と彼女は言った。

「赤を選んだのは単純に血=死という意味ですけどね。ピンクや水色では締まりませんから」

「そんな法則を見せてどうするんだ? 手がかりを与えてどんな推理をするのか観察するためか?」

「プロデューサーはまだ気付いていないみたいですね」

律子は得意気だ。

彼は首をかしげた。

「彼女たちが犠牲者と赤い線を関連づけることが大事なんです。死んだ者の部屋には線が引かれてしまう、と。

次第に彼女たちはこれを次のように解釈します。”線が引かれた部屋の人間は死んでいる”という具合に」

「同じ意味じゃないのか?」

「全く違いますよ。線さえ引かれていれば死んだものと思い込むんです。隠れていようが行方不明になろうが、本当に死んでいようが――。

昨夜、私は春香とともに館から消えました。2本の赤い線を見た彼女たちは思ったハズです。”2人とも殺された”と」

これがこの仕掛けの、ひとつめの効果だと鼻を鳴らす。

「3日目ともなると私も自由に動けなくなります。だから彼女たちには死んだものと思わせておく必要があったんです。

あとは管理人室のモニターを見ながら機会を窺い、実行するだけです」

律子は人を殺すことを”実行”に置き換えた。

「もっともそう認めたくないのか、私も春香も生きていると考えを改めた娘も何人かいましたけどね」

「なるほどな。じゃあもうひとつの効果は何なんだ?」

「言い訳のように聞こえますけど、思い込みを利用した混乱――ですね」

「線を引かずとも皆、混乱していたと思うけどな」

「美希の件を除けばこの仕掛けは完璧だったんです。つまりさっき言った思い込みを生存者の意識に刷り込んでおくことですね。

生存者の数が減って実行が難しくなると線を引くのも難しくなります。いつ線が引かれるのか見張ろう、なんて話になりかねませんから」

「それはあるな」

「だから春香以降は線を引かないようにしたんです。というより引けなかったんですよ。それだけの充分な時間がとれませんでしたからね。

ただ結果的にそれが選定のために良い効果を齎しました」

彼女はいつになく饒舌だった。
235 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 22:53:16.78 ID:+5XilU3f0
「つまりいま何人生きているか、何人殺されたかが分からなくなるんです。まず線が引かれていないにもかかわらず響が殺された。

これで線と犠牲者の関連性が崩れることになり、ちょっとした混乱を引き起こします。まあこれは後付けですけど……。

さっきも言いましたけど最初に線を引くようにしたのは、秋月律子は死んだと皆に思わせるためなんですよ」

この目的はある程度達成できたから彼女は殊の外喜んでいる。

「………………:

プロデューサーは顎をさすった。

何事にも真摯なこの男には、彼女のように奸計を巡らせることはできない。

この企画を任された際、彼が考えたのは選定の基準と殺害のタイミングだけだった。

たとえば告発文を貼り出して面々の反応を見たり、初日の夜に淹れた飲み物に睡眠導入剤を仕込んであずさ殺害を確実にする等は律子のアイデアである。

その仕込みもあらかじめ全てのカップの”右手で持ったときに口が触れる場所”に薬を塗っておくという凝りようだ。

真美は左利きなのでこの手は使えないが夜更かしするのが彼女だけなら対処はできる。

もちろんプロデューサーと律子はわざわざ左手でカップを手に取った。

この仕掛けによってあずさ殺害は容易になった。

実行にあたって廊下を歩く音も彼女の部屋を出入りする音も、熟睡している彼女たちを起こすには至らない。

告発文からプロデューサーを除外し、代わりに小鳥の名を入れたのも律子のちょっとした思い付きだった。

伊織が何度か言ったように、唯一名前のない彼の仕業だと印象付けるためだ。

その彼が何者かの影を目撃し、その後に絞殺されたとなれば普通は第三者の犯行を疑うものだ。

正体不明の殺人鬼に彼女たちが団結し、誰がリーダーシップを発揮し、誰がどう動くのかを観察するのは興味深いものだった。

「それにしても大した手際だったよな」

彼は感心した。

選定にあたってはとにかくイベントを起こさなければならない。

新たな出来事が起こり、その度にどのような言動をするかで加点減点が随時行われる。

誰かが殺されるという大きなイベントの他にも、小さなキッカケをばら撒いたのもほとんど律子である。

象徴的なのは3日目の朝だ。

熟睡している秋月律子を演じた彼女は近くで雪歩の寝息を聞きながら、春香たちのやりとりに耳を傾けていた。

4人で交代で見張りをしてはどうかという案が持ち上がった。

後にそれは響を気遣っての真の提案であることが明らかになったが、分かったところで律子には何の関係もない。

ほどなくして響が真のソファに腰をおろした。

律子はそれを薄目を開けて見ていた。

待つこと数時間。

極度の心労ゆえか薬の効果か、談話室にいる全員が眠っているのを確かめた彼女はトイレに付き添わせるために春香を起こした。

寝ぼけ眼の彼女を背後から絞殺するのは簡単だった。

その様子をモニタリングしていたプロデューサーがトイレに駆け付けた。

彼に遺体を隠すよう頼み、律子は再び談話室に戻る。

掛布団をわざと乱して床に落とし、用意していた血糊を雪歩の襟元に付ける。

外した眼鏡はハンカチに包んでから――音を立てないため――左側のレンズを割り、フレームを軽く捻ってソファの下に忍ばせた。

血糊には鉄粉を混ぜているから臭いも再現できている。

不可解な格闘の跡を演出したのは彼女たちの思考力を見るためであり、雪歩に血糊を付けたのは疑心暗鬼に陥らせるためだ。

その一方、プロデューサーは引き取った春香の遺体をひとまず管理人室横の空き部屋に隠しておいた。

そこは美希の遺体を厨房に運ぶために通った部屋だが、ここに通じるドアは両方とも施錠されているので遺体を隠すには都合がよかった。
236 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:03:41.24 ID:+5XilU3f0
「難しかったのは亜美と真美ですね」

「ああ、ちょっとした賭けみたいなものだったからな」

あの2人の脱落は決まっていたが、肝心の実行をする機会が巡ってこない。

これにはプロデューサーも頭を抱えたが、律子がある提案をした。

それは亜美と真美、それぞれの部屋に隠れて待ち伏せしよう、というものだ。

普段はおどけていてもやはりまだまだ子供である。

犠牲者が増えて内部犯の疑いも強まってくると、彼女たちは身内以外を信用できなくなり、2人だけで行動したがるようになる。

律子はそこに目をつけた。

2人はいずれ貴音や伊織も拒絶してどちらかの部屋に閉じこもるに違いない、という読みがあった。

ただしどちらの部屋を選ぶかは運任せのため、真美の部屋には律子、亜美の部屋にはプロデューサーが忍び込むことになった。

チャンスは響の遺体が発見された時にやってきた。

とうとう耐えきれなくなった2人は真美の部屋に閉じこもったのだ。

ベッドの下に身を潜めていた律子はさらに待ち続けた。

やがて亜美がトイレに立つと、まず真美を絞殺した。

持っていたナイフを使わなかったのは彼女に声をあげさせないためだ。

その後、トイレから出てきた亜美を刺す。

遺体をベッドに並べたのはせめてもの慰めだった。

「でも本当に大変だったのはその後だよ。スピード勝負だった」

彼は怒涛の展開を思い返した。

残る生存者は5人だが少なくとも雪歩と真の脱落は決まっていた。

「雪歩にも成長性はあったからな。消極的で内向きな性格も少しずつ変わっていった。いずれ大舞台でも尻込みしない胆力は身に付いただろうな。

でもその成長を気長に待っている余裕はないんだ。そういう意味じゃもっと早い段階で脱落しててもおかしくはなかったな」

「ただ真がいますからね。どうにか引き離さないことには実行は難しいですからね」

「真も脱落させるには惜しかった。響に並ぶダンスの才能はあったし女性ファンも多い。それに大体の現場はそつなくこなしてくれるからな。

残念なのはあの一本気なところだ。正々堂々戦うって姿勢はこの業界ではきつい。最後まで仲間を信じようとしてたけど、その甘さもマイナスだ」
237 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:12:57.82 ID:+5XilU3f0
そこで彼がとった作戦はこうである。

律子は2階の管理人室に待機させ、隠しておいた春香の遺体を正門の前に置く。

厨房とつながる物置には外に通じるドアがあり、そこから遺体を運び出すことができた。

勝手口のようなものだが外からは分かりにくくなっており、初日に館近辺を捜索した真や亜美がそれに気付くことはなかった。

そして適当な間隔をおいてインターホンを鳴らす。

館内に鳴り響く音に対して反応は様々なハズだ。

怯え恐れるか、助けだと思って飛び出すか、犯人の罠だと警戒するか。

いずれにしても膠着状態を解す呼び水にはなるだろう。

そうして彼女たちに隙ができたところを葬り去るつもりだったが、ちょっとしたトラブルがあった。

千早が律子の部屋を訪れたのだ。

彼女は生存者の最終候補に残っていたが、部屋に招き入れた律子は躊躇いなく扼殺した。

「千早はどうやって突き止めたんだ? 律子が生きていることを分かっていたみたいな口ぶりだったらしいけど?」

「貴音の言葉がヒントになったみたいですね。その後で写真を見返してましたけど……今となっては理由は分かりませんね」

律子は憮然として言った。

「流石に候補に残るだけありましたね。千早の歌に懸ける熱意は他に抽(ぬき)んでています。ストイックな姿勢も好印象でした。

仕事を着実にこなそうとするところからも安定感や安心感がありましたからね。ただ融通の利かない点は致命的な短所です。

彼女の場合はモチベーションを維持するのも難しかったので――」

それらを勘案すると”実行”は妥当だったと振り返る。

「真相に迫ろうとする気概、実際に私にたどり着いた思考力も申し分ありません。が、直後の行動には問題があると言わざるを得ません。

せめて貴音か伊織を説得して同行させるべきでした。単独で危険に飛び込んだ軽率さ、迂闊さは大きなマイナスポイントですよ」

アイドルの仕事は積み重ねだ。

最後の最後で冷静さを欠いた千早にトップアイドルの素質はない――というのが律子の出した結論だった。

「まあ、そのお陰か俺のほうはやりやすくなったよ」

インターホンに明らかな反応を示したのは真だった。

恐怖心はあったハズだが彼女の場合は好奇心や犯人に対する復讐心がそれを上回ったようだ。
238 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:19:31.21 ID:+5XilU3f0
「私は千早の後始末に忙しくてその時の様子は見てないんですよ」

「真がひとりでエントランスに向かったのを見て、まずは彼女から仕留めようかと思ったがやめたんだ。

万が一、他の誰かが遅れてやって来たりしたら鉢合わせする可能性があったからな」

「それで雪歩を先に?」

「ああ。真が外に出て春香を引っ張り込んでいる隙に階段の後ろを通って雪歩の部屋に行くことにした。

施錠されていたけどノックをしたら簡単に開けてくれたよ。よほど不安だったんだろうな。外にいるのが真かどうかも確かめずに――」

ドアを開けた雪歩の口を塞ぎ、腹部を刺す。

絶命したのを確認してから彼女をベッドに横たえ、部屋の照明を消しておく。

隅に隠れて真が戻って来るのを待つ。

彼女は真っ先にベッドに横たわる雪歩に近づく。

その背後からあらかじめ用意しておいた工具で殴打すれば完了だ。

凶器を変えたのは自身も暗がりにいたために刺突では狙いが逸れる恐れがあったからだ。

加えて一撃で昏倒させる必要もあった。

相手は真だから思わぬ反撃を受ける可能性もなくはない。

「貴音はどうしたんですか? 様子を見に行くと声をかけた真にも反応しなかったようですけど」

プロデューサーは大息した。

「俺は貴音はどんなことがあっても動じないと思ってた。実際、これだけの犠牲者を目撃しても平静を保っていたからな。

しかし見た目にはそうでも彼女も限界だったらしい。おそらく真の呼びかけを彼女の罠だと疑っていたのだと思う。

呼びかけに応じてドアを開けたら殺されるのではないか――ドアから離れて窓際に立っていた貴音はそんな感じだったよ」

「まあ、それが普通の反応でしょうね……」

「今にして思えばこの貴音の判断がまずかったんだろうな。まさかこんなことになるなんて――」

結果は惨憺たるものであった。

最終的には伊織または貴音のどちらかが生き残り、事務所が全力を挙げてトップアイドルとして育てあげるつもりだった。

しかし伊織を殺害した貴音が自死してしまい、この3日間はまったくの無駄に終わってしまった。

「プロデューサーは最終的には誰を残すつもりだったんですか?」

「貴音だな。あの独特の雰囲気を持ったアイドルは他にいない。競合がいないっていうのは大きな強みだ。

スタイルもいいからモデルなんかもこなせただろう。浮世離れしているようだが常識がないワケじゃない。

弁えがあるから大きなスキャンダルに発展しにくいのもプラスだ。多少、融通が利かないところもあるが瑣末なものだろう」

なるほど、と律子は唸った。

「律子はどうなんだ?」

「私は伊織ですね。堅実性でいえば千早も最後まで候補でした。伊織はアイドルとしての貪欲さがまず評価の対象です。

妥協を許さず、水瀬の名に胡坐をかくこともしません。竜宮小町でもリーダーシップを発揮していましたしね。

それに意図があったとはいえ響を犯人と断じた際の推理力や説得力を見ても怜悧であることは明らかです。

不遜な言動もありますが必要とあれば猫を被る器用さもあります。うまく馭することができれば優秀なアイドルになれたでしょう。そして何より――」

彼女はわざとらしく間を置いた。
239 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:26:50.96 ID:+5XilU3f0
「水瀬家とのパイプがあるのが最大の強みです。資金提供、業界への介入――本人は嫌がるでしょうが使えるものは使うべきです」

「なんだ、結局は金じゃないか」

プロデューサーは冗談っぽく笑ったが律子はいたって真面目だった。

「それはそうでしょう。本人の素養だけではトップには立てません。井渫不食や臥竜鳳雛という言葉もあるように支えが必要なんですよ。

恵まれたレッスン環境、優秀なトレーナー、振付師に作曲家……どれもお金がかかります。これらにお金をかければかけるほどトップに近づけるんです」

彼女は断言した。

これは他のプロダクションや所属アイドルを見てきたからこその持論だ。

「ただ、それも叶わなくなりましたけどね――」

律子は拗ねたような調子で言った。

「伊織も最後まで頑張りましたが貴音の反撃に対応できなかったのが惜しいですね」

「相当参ってたようだな。疑心暗鬼だったみたいだが、この業界で生き残るにはそれくらいでちょうどいいんだ」

彼は何度目か分からないため息をつく。

「さて、これからどうしたものか――」

この結末は想定していなかったから、彼は何からどうすればいいか分からなかった。

予定ではめでたく生き残ったひとりに企画の趣旨を打ち明け、3人で本島に戻る手筈だった。

島に何者かが紛れ込み次々と殺傷したようだと口裏を合わせ、世間の同情を得ながらトップアイドルを目指す――。

単純だが概ねこのような筋書きだった。

「社長にはどう報告すればいいんだ? というかアイドルがいなくなったプロダクションってどうなるんだ?」

と、頭を抱える彼に、

「簡単なことですよ」

律子は呆れたように言う。

「――こうすればいいんです!」

言い終わる前に刃は彼の腹に真っ直ぐに刺さっていた。

飽きるほど見てきた血液と臭いとが、じわりと滲み出してくる。

痛みはそれを自覚した時には熱さに変わっていた。

「…………なぜだ?」

こんなことは予定にない。

いい加減、この赤に慣れてきた彼もそれを齎したのが自分だとなると話は変わってくる。

「なぜ――?」

律子は首をかしげた。

「さっき言ってたじゃないですか。アイドルがいなくなったらどうなるんだ、って」

ナイフを引き抜いた彼女はそれを突き出したまま数歩退く。

伊織の二の舞は演じない。

目の前にいるのは何人ものアイドルを仕留めてきた殺人鬼だ。

油断はできない。
240 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:33:03.48 ID:+5XilU3f0
「アイドルのいない事務所にプロデューサーは2人も要らないじゃないですか」

「そ、それを言うなら……お前だって……!」

「私だって元はアイドル――多少のブランクはありますが、その気になれば復帰できます。分かりますか? 私にはまだ価値があるんです」

「………………」

「今のは語弊がありましたね。765プロにはもはや私しかいないんです。今回の企画の主旨に沿うならば私こそ合格者ということになりませんか?」

「なにを、勝手な……」

一滴、また一滴と血が流れ出す度に彼の体から力が奪われていく。

「私にはセルフプロデュースができます。でもあなたはただのプロデューサー……事務所にいても邪魔なだけなんですよ」

彼には眼鏡の奥の澄みきっていて淀んだ双眸が悪魔のそれに見えた。

まるで情を感じさせない、理論と理屈と計算だけで自分を切り捨てた彼女に――。

彼は虚しい怒りを覚えた。

「ふざける、な……! 俺は、俺はこれまで事務所の、ために働いてきた……だぞ……! それがどうして…………」

「それはあずささんたちも同じですよ」

律子はさらに距離をとり、構えを解いた。

これだけ離れていれば不意を突かれることもないだろうし、相手もどうにか余喘を保っている状態だ。

かすり傷ひとつ負わせることはできないだろう。

これは油断ではなく分析の結果である。

「な、なら……せめて事務員でもいい……俺を……」

流れ出た血液にはプライドが含まれていたようである。

彼が必死に縋ろうとしているのは生だけでない。

それと同じ程度に業界とのつながりも求めていた。

「事務なら小鳥さんがいるじゃないですか」

彼女は冷淡に事実を述べた。

その瞬間、熱さは寒さに変わった。

どくどくと溢れ出た血液が、外気に冷やされて再び体内に戻って来るような感覚。

「り、りつ……りつこ……」

「はい?」

「頼む……医者を、呼んでくれ……血が…………」

止まらないんだ、という言葉はかすれて聞き取れない。

「なに言ってるんですか。外との連絡は取れないって知ってるでしょう? 明日になれば船が来ますから」

それから病院に行きましょう、と提案する彼女の口調は妙に軽やかだった。

「ま、まて……まって…………!」

踵を返した律子を追おうと彼は一歩踏み出した。

だがバランスを崩して転倒してしまう。

「……りつ…………」

それから彼は二度と立ち上がることはなかった。






241 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:39:24.81 ID:+5XilU3f0





 22時15分。

脱力感から律子はベッドに伏した。

とても疲れていた。

たったひとりを殺めるのにも途方もない体力と精神力、なにより覚悟が要る。

そのどれかが欠けていたとは思えない。

屈強な格闘家ならまだしも、相手は自分とそう変わらない――あるいはずっと幼い――女ばかりである。

作業自体は道具を使えば容易い。

たとえ素手でも隙を突き、力を込めれば扼殺はできよう。

選定は苦痛を伴うものだったが事務所のために必要な企画だと確信していたから、その想いが罪悪感を和らげてくれた。

しかし今、である。

伊織か貴音、どちらかが生存していればこの企画にも意味はあったといえる。

惜しくも脱落してしまった者たちの想いを受け継ぎ、揺るぎないトップアイドルとして君臨させる。

それこそが彼女たちへの弔いになると。

(いいえ、ちがうわ……それは後ろめたさから逃げたいからよ――)

彼女は疲れていた。

企画は失敗に終わった。

つまり12人の脱落者はまったくの無駄死にだった。

ただ恐怖させ、惑わせ、疑わせ、そして――。

あとに何も遺さない、たんなる死であった。

「………………」

涕を拭った律子はペンを取った。

トップアイドルを生み出すためなら耐えられた罪悪感は、それが叶わなくなった途端に鎌となって彼女の首を刎ねようとしていた。

だが、その前に――。

ほんの少しの謝罪の時間が必要だ。

冷たく鋭い鎌も、彼女がそれをする暇くらいは与えてくれた。




242 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:46:55.37 ID:+5XilU3f0




------------------------------------------------------------------------------------------------------



 私は取り返しのつかないことをしてしまいました

 全てはトップアイドルを誕生させるため

 そのために未来も才能もある何の罪もない仲間を手にかけました

 この企画で生き延びたたったひとりに事務所の全力を注ぎアイドル界のトップに君臨させる

 私はその主旨に賛同しそして積極的に実行しました

 しかし結果はご存じのとおりです

 私はただ彼女たちを殺めただけでした

 高尚な理念を掲げたところでこれはただの殺りくに変わりありません

 このような罪深い人間に生きている資格などありません

 わたしは自ら命を絶ちます

 もはやトップアイドルの候補はいません

 彼女たちを殺めた者もおりません

 いるのはこの企画を発案したただひとりです

 時間の許すかぎりここで起こったことを書き記します

 それがせめてもの償いになると信じております

 どうかお願いです

 彼女たちを手あつくほうむってあげてください

 そしてわたしとかれらのつみをえいえんにゆるさないでください



------------------------------------------------------------------------------------------------------





それから書くべきことを書き遺した律子は生を終わらせた。

使用した便箋は全部で20枚に及び、うち18枚はこの島で起こったことを彼女なりに精緻にまとめたものであった。



243 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:52:01.98 ID:+5XilU3f0



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



読み終えた小鳥はそっと便箋を置くと目元を拭った。

このたった1枚に彼女の苦痛が凝集されているのだと思うと、滂沱として溢れる涙を止めることができない。

「やはり見せるべきではなかったかもしれないな……」

すまなかった、と高木は謝った。

「いえ――」

小鳥も気丈に振る舞うが、上ずった声調は戻せなかった。

「彼らも765プロのためにあんな企画を考えてくれたのだろう。せめて私に相談してくれれば――」

「どうしてこんなことを……?」

「私はアイドルというのはそれぞれの個性を活かしてのびのびとやるのが一番だと思っている。もちろん結果が出れば、の話だがね。

だが彼らはちがった。レッスンや営業の効率化を重視し、より売れるアイドル――トップアイドルの育成に注力していたんだ」

小鳥は首をかしげた。

たしかに両者の方針はちがうが矛盾するような内容でもない。

個性を活かしたレッスンや営業をすれば双方のやり方を同時に満たせるのではないか、と彼女は思った。

その疑問を悟ったように彼は続けた。

「私がアイドル個人を中心に考えているの対し、彼らは事務所の発展を中心に考えていたんだ。事務所のためにアイドルがいる、とね。

プロデュースは彼らに任せていたから極力、口を挟まないようにしていたが……今となっては……」

高木は落魄したふうを装った。

再びお茶を淹れた小鳥が、そっと湯呑みを差し出す。

「どうやら黒井のやり方に感化されたらしい。真のアイドルは孤高である、と。それも考え方のひとつだろう。しかし私が見誤ったのは――」

「社長……?」

「彼らが黒井以上だった、ということだ」

「どういうことですか?」

「黒井のやり方は一言で言えば”勝つためなら何でもやる”だ。競争相手を陥れることも、仲間を欺くことさえもする」

「ひどいですね……」

「だがその方法でさえトップを維持するのは難しい。961プロはたしかに大手だが、実力あるアイドルはどこにでもいる。

だから彼らは黒井のやり方に共感しつつも、それでもなお甘いと考えていたようだね」

そうして館での惨劇が引き起こされたのだ、と彼は言う。

「仲間を欺いて平気で裏切り、極限の状態で知恵を絞りあらゆる手を講じて生き延びた者だけが真のアイドルになる素養を有する――。

天海君たちがあのような目に遭ったのは……この手紙にあるようにその選定に漏れてしまったからなんだ」

「でも、どうして……? プロデューサーさんも律子さんもアイドルのことを一番に考えていたハズなのに?」

「おそらく業績や財務状態を見てのことだろう。我が765プロには多くのアイドルが在籍していたが余裕のある経営ではない。

事務所としての発展を考えた結果、黒井の流儀に靡いたのだろう。費用を抑えて収益を最大化する――ある意味、黒井をも超越した理念と実践だよ」

小鳥は何も言えなかった。

765プロを想って行動した彼らをただ責めることはできない、と彼が付け加えたからだ。

それからどれほどの時間が流れたか。

高木は意を決したように口を開いた。
244 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/18(木) 23:59:41.55 ID:+5XilU3f0
「こんなことを言うのは気が引けるが……音無君。アイドルにならないかね?」

「ええっ!?」

「プロデュースは私がしよう。大丈夫。彼らのような失敗はしないし、黒井のような手法もとらない」

「で、ですが社長……」

「もはや音無君しかいないんだ。最高の環境を用意しよう。どうだね? 引き受けてくれるかな?」

小鳥は即答しない。

しかし渋っているワケではない。

この誘いに乗らなければ765プロにはアイドルはいない――つまりプロダクションとして成り立たなくなる。

彼女はそれをもちろん理解している。

理解しているからこそ安易に引き受けはしない。

「少し考えさせてください」

妙な愛想笑いを浮かべる彼女に、

「ああ、良い返事を期待しているよ」

一仕事終えたように高木はお茶を飲み干した。

「あ、おかわり、淹れてきますね!」

「ああ、すまないね」

湯呑みを下げ、小鳥はそそくさと給湯室へと消える。

「………………」

その背中を見送った彼はポケットから丸めた便箋を取り出した。

「まったく秋月君にも困ったものだ。仕事には守秘義務というものがあるというのに」

灰皿の上にそれを置き、年季の入ったライターで火を着ける。

「最後の一枚にこんなものを書き遺すとは――あやうく私の発案だということが露見するところだったではないか」

パチパチと弾ける音がする度、真っ白だった便箋が黒く染まっていく。

橙色の手が緩やかに伸び、端から内側へと侵食する。

「遺書を装いながら私を道連れにするつもりだったのかね、秋月君……?」

ゆらゆらと。

踊る火の手が勢いを失い、彼は安堵のため息をついた。

その様子を覗き見ていた小鳥は、くすりと笑った。











   終


245 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/22(月) 21:15:47.05 ID:mlv/4o5L0















朗読を終えた高木は極めて嬉しそうな顔である。

柔和な貫禄はすっかり消え失せ、童心に帰ったかのように無邪気な笑顔を隠そうともしなかった。

「どうかね、きみたち? 私が作ったシナリオは?」

自信に満ちた彼の問いかけに比し、反応はいまひとつである。

「何なのよ、この話! 私なんてすっかり悪者じゃない!」

真っ先に抗議したのは伊織だ。

「頭が良いっていうところだけはその通りだけど、私はこんなに怒りっぽくないし無暗やたらに場を乱すようなことも言わないわよ」

失礼しちゃうわね、と口を尖らせる彼女はすっかり鶏冠にきているようだ。

「そうかなあ、まさに伊織って感じだったけどなあ」

「なんですって!?」

とぼけた調子で言う真に彼女は顔を赤くした。

「いいじゃないかね、いおりんや。見せ場もいっぱいあったんだしマンゾクっしょ?」

「亜美たちなんていつの間にかコロコロされてんだよ? やっぱ律っちゃんはお話の中でも鬼軍曹だよ」

「ちょっと!? お話の中でも、ってどういう意味よ?」

思わず声を荒らげた彼女をプロデューサーが宥める。

「うむ……普段のきみたちを見て違和感の無いように書いたつもりだったんだが……」

高木は首をかしげた。

「あの、私なんかが3日目まで生き残っていいんでしょうか……?」

雪歩は不安げだ。

「こんな私なんて1日目でひっそりと穴にでも埋まっていたほうがいいと思いますぅ」

「お、落ち着いてよ、雪歩。ね? 知らないうちに殺されてる私よりずっと良い役だよ!」

焦った春香はよく分からない励まし方で彼女からスコップを取り上げた。

「ミキもナットクいかないの。どうせならもっとキラキラした死に方がいいの。響もそう思うでしょ?」

「キラキラした死に方ってなんだ……? それはともかく自分も納得いかないぞ。カンペキな自分が犯人を追いつめる見せ場がないじゃないか」

「でも響さんもとってもカッコよかったですよ? いつもみんなのことを考えてすごいなー、って思いました!」

「へ……? そ、そう……? ん〜、やよいがそう言うならそうかも……」

美希に同調して不満を露わにした響だったが、やよいの一言であっさりと翻る。
246 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/22(月) 21:20:05.06 ID:mlv/4o5L0
「やっぱり響はちょろいの……」

呆れついでにひとつ欠伸をして貴音を見る。

彼女は声こそ上げないものの釈然としない様子で高木の持っている台本を凝視していた。

「貴音、どうしたの?」

それに気付いた美希が訝しげに声をかける。

「ええ……いえ、瑣末なことです」

「え〜? なんか気になるの。思ってることがあるならちゃんと言ったほうがいいって思うな」

高木と目が合う。

「どうしたんだい、四条君? もしかして私の完璧なシナリオに圧倒されてしまったかな? いや〜、これでも抑えたほうなんだがね。やはりあり余る才――」

「いえ、そうではなく。ただ一点、不服が――」

「な、なにかね?」

「なぜ館での食事にらぁめんがないのですか?」

「………………」

「………………」

「分かった、書き足しておこう」

貴音は笑顔になった。

「しかしどうにも反応が芳しくないな。きみ、どうしてだと思う?」

突然、話を振られたプロデューサーは視線を彷徨わせた。

「あ、えっと……そうですね。皆、社長の書かれたシナリオが素晴らしすぎて、どう反応すればいいか分からないんじゃないですか?」

「きみ、それは本心から言っているのかい?」

彼の眼力はプロデューサーを鷲掴みにした。

「え、ええ……もちろん……!」

曖昧に頷いてから律子に助けを求める。

だが彼女はその視線に気付きながら知らないふりをした。

「そうかそうか! いや〜、私もそうじゃないかと思っていたんだよ。なにしろ我が765プロが総力を挙げて製作する初の映画、

”iDOLM@STER A 765PRO STORY”のために書き上げた渾身の作だからね!」

すっかり得意になった彼は大仰に笑った。
247 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/22(月) 21:29:29.03 ID:mlv/4o5L0
所属するアイドルたちの仕事が軌道に乗ってきたことで、高木はその人気を活かしたプロジェクトを立ち上げた。

先ほど彼が言った映画製作だ。

出演するのはもちろん765プロ所属のアイドルたち。

だがそれだけに留まらず社長、プロデューサー、事務員に至るまで全員が出演する大規模なものだ。

そのため平凡なストーリーではつまらないだろうと高木自らが脚本を手掛けると言い出した。

今日、そのシナリオが遂に完成し、さっそく披露したいと場を設けたのだが……。

「なんで慰安旅行の初日にそんな暗い話を聞かされなきゃならないのよ」

誰もが思っていることを伊織が代表して言った。

それぞれに人気が出始めてファンも増えてくると、これからますます仕事が忙しくなる。

その前にリフレッシュをしよう、と提案した高木とプロデューサー、律子の働きかけでスケジュールを調整。

奇跡的に全員が4日間のオフを確保することができた。

まだ肌寒い時期ということもあり、都市部から遠く離れた山奥の温泉旅館を提案したところ満場一致で行き先が決定。

今日がその一日目。

豪勢な夕餉を堪能したあと、重要な話があるという高木に連れられ、彼女たちはあらかじめ借りてあった離れにある多目的室に集められた。

そしてプロジェクトの発表とともに高木自身によってシナリオが読み上げられた――という次第である。

「暗い話だなんてとんでもない。765プロ総出の映画なのだよ? これ以上にない明るい話じゃないか」

「シナリオのことよ。みんな死んじゃってるじゃない」

「ま、まあまあ、伊織……」

高木の手前、少しは抑えろと律子が窘めた。

「社長、このお話で本当に大丈夫なんですか?」

横で聴いていた小鳥も不安そうに問うた。

この4日間は完全休業と関係各社に連絡済であり、慰安旅行ということで当然彼女も参加していた。

「いやあ、これくらいインパクトのある筋書きでないとね。もちろん、アイドルとしての側面もきっちり魅せるつもりだよ」

「でもこれじゃあ私が黒幕みたいじゃないですか」

「はっはっはっ! それでいいんだよ。一番犯人の可能性が低い者が実は……これこそミステリの王道、醍醐味じゃないかね?」

「あの、社長」

ここで珍しく千早が手を挙げた。

「うん、どうしたんだね、如月君?」

「できればどこかに歌を挿れていただくことはできませんか?」

「ミュージカル調にするということかい?」

「いえ、形式には拘泥りません。ですが歌があったほうがアイドルらしいかと……」
248 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/22(月) 21:38:08.57 ID:mlv/4o5L0
高木は頷いた。

「実は私も考えていたんだよ。練習風景とか回想シーンの要領で挿れられないかとね。いやあ、如月君もこのシナリオを気に入ってくれたみたいで何よりだ」

「いえ、特にそういうワケでは――」

「ち、千早ちゃん!」

春香が慌ててその口を塞いだ。

「さて、こうして発表も済んだことだしそろそろ戻るとしよう。実は予算の都合でこの部屋は2時間しか借りられなくてね」

そろそろ追い出される時分だ、と彼は陽気に笑って言った。

中身はどうあれ765プロが主役の映画となれば話題になることは間違いない。

これがキッカケとなってさらに露出が増え、たくさんの仕事が舞い込んでくるだろう。

高木は既に前祝いの気分になって揚々としている。

「ねえ、ところであずさは?」

伊織が室内を見回して言った。

「そういえば――?」

と律子もはったとして視線を巡らせる。

そう広くない多目的室に全員が集まって高木の朗読を聴いていたハズだが、いつの間にか彼女の姿がなくなっていた。

「お手洗いに立ったのかもしれませんよ」

と小鳥が言うと、それは大変だとプロデューサーと律子がほぼ同時に声を上げた。

「迷子になっているのかもしれないぞ」

「ありえますね、それ……」

捜しに行こうと、2人が室を出ようとしたその時だった。

廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
249 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/22(月) 21:41:47.93 ID:mlv/4o5L0
「な、なんだ!?」

ほどなくして仲居が息を切らして飛び込んでくる。

「765プロ様……! お、おお、お連れの方が……!」

青白い顔をした仲居にただならぬ雰囲気を感じ取った高木たちは、詳しい事情を聞くために彼女とともに外に出ようとする。

だが焦っていたのか、それより先に、

「本館のお手洗いの前で三浦様がお亡くなりに――!」

そう叫ぶものだから全員に聞こえてしまった。

「そんなバカな……!?」

高木は声を荒らげたが、顔つきは落ち着いている。

「いまスタッフが通報を――」

聞けば腹部を包丁で刺されているという。

彼女がそう言ったのはうつ伏せに倒れているあずさの傍に、血に塗れた包丁が落ちていたかららしい。

「えっと……これも冗談、なんですよね……?」

春香が泣きそうな顔でプロデューサーに言う。

彼は答える代わりに高木を見やった。

「な、何かの間違いだろう。私が見てこよう。きみたちはここにいてくれ」

社長らしく落ち着き払った声で言うも、間もなくやってきたスタッフの一言がそれを台無しにした。

「電話が通じません! 電話線を切られたようです! ここは携帯電話も通じませんし、このままでは――」

悪夢は始まったばかりである。











   完

250 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/24(水) 21:33:52.16 ID:oR8DtNQq0
 以上で終わりです。
お読みくださりありがとうございました。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/08/13(火) 09:20:26.24 ID:rZPcCpOg0

自分は終盤まで犯人分からんくらい理解力無かったが長くても内容が濃くて面白かった
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