高山紗代子「敗者復活のうた」

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146 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:15:44.43 ID:ZRhpxi3E0
高木社長「さて。では最後は、オープン投票で決着をつけてもらう。真壁瑞希君のパフォーマンスに軍配を揚げる者は、挙手を」

 紗代子が手を上げた。

高木社長「では次に、高山紗代子君のパフォーマンスは……」

 ここで瑞希も琴葉も手を上げた。

瑞希「田中さん? ここで田中さんが手を上げると、田中さんは負けが確定してしまいますが……?」

琴葉「うん。だから、はい! 私、紗代子に入れる。歌もダンスも良かった。でもそれだけじゃなくて、練習で体感時間まで会得して披露した紗代子に私、感動したわ。だから、私は負けでいい」

高木社長「いいんだね? では決定だ。次の公演は2週間後、センターは高山紗代子君で決定とする」

紗代子「ええっ!? い、いいんです……か?」

高木社長「いいもなにも、君もそれを望んでいたんだろう? 君は勝ち取ったんだ、胸を張るといい」

琴葉「そうよ。やっぱり努力って実を結ぶんだなって、紗代子を見ていて再認識した。それが嬉しい。だからおめでとう」

紗代子「琴葉さん……はい、ありがとうございます」

瑞希「次は、私も……センターを目指します」

紗代子「うん。がんばっていこうね」
147 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:16:23.70 ID:ZRhpxi3E0
 この時、客席にいた、765プロのアイドルとその関係者だけがこの紗代子の起こした、最初の奇蹟の目撃者だった。
 誰にも見いだされず、誰にも選ばれなかった少女が、1人のプロデューサーと共に実力をつけ、磨き、あきらめずにセンターという大役を掴んだこの瞬間の。
 少女は仲間達からの祝福を受け、少しだけ流れようとする涙をこらえた。

紗代子「まだ……まだ泣いちゃだめだよね。これから……なんだもの」
148 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:16:50.09 ID:ZRhpxi3E0

     『ついに2人は出会った』
149 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:20:20.56 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「事務所内オーディション、合格でした。ありがとうございました……っと」

 スマホでプロデューサーにメールを打つと、ものの数秒で返信がくる。
 メールでのプロデュースを受けるようになって三ヶ月が過ぎようとしていた。こうしたやり取りに慣れてはきたが、それでも海外で忙しくしているプロデューサーの手を煩わせているのではないかと、時々不安に駆られる。

紗代子「お忙しい中、私のために時間を割いていただき、申し訳ありません……え? もう返信が!?」

『君の成功は、私の成功でもある。気にしなくていい。最近は、レッスンも順調なようだし、今回のオーディションのように結果も出ている。ファンも増えつつある。君はよくやっている』

 最近は、指摘や指示以外にも、プロデューサーからのコメントが多くなってきた。
 と、少なくとも紗代子はそう思っている。
 尊敬するプロデューサーとの距離が縮まっている。そう感じられることは、彼女の喜びにもなっていた。
 センター公演が決まると、更にプロデューサーは様々指示を出し、紗代子はそれに従った準備を進めた。彼は事務所へも連絡をしているみたいで、公演内容もスムーズに決まりリハーサルも順調に進んでいる。

 そして2日後にセンター公演を控えたある夜、紗代子はプロデューサーにメールをしてみた。

紗代子「ひとつ、質問してもいいでしょうか?」

 返事はすぐにきた。

『なにか問題か?』

紗代子「ボイスレッスンは順調ですけど、今よりもっと歌声を磨きたいんです。何かアドバイスをいただけませんか?」

 今度は返信に少し時間がかかった。と言っても時間にすれば5分ほどだ。
150 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:22:25.61 ID:ZRhpxi3E0
『一朝一夕に効果のある手法など、ありはしない。少なくとも俺はそんな方法は知らない。ダンスやメイク・着こなし等と同じく、日々の積み重ね以外に歌が上手くなる道などあろうはずがない』

 それは当然そうだろう。紗代子もそう思ったところで、画面をスクロールさせると、意外な言葉をプロデューサーは綴っていた。

『だが』

紗代子「えっ!?」

 もしかしてあるのだろうか、何かそういう魔法のような特別な方法が。

『声質、声量、テクニック、そうしたものはレッスンで身につけ磨くしかない。だが、これはある意味精神論的というか、感覚的というか観念的、もしくは超自然的なことになるかも知れないが』

 紗代子は必死でメールを読み進める。
 そしてそこには、こう書かれていた。
151 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:25:05.77 ID:ZRhpxi3E0
『これは伝聞だが、山で遭難した人が助けを呼んでいた。山岳救助ボランティアの人がその声を聞きつけ、声のする方へ急いで向かった。果たしてその声の聞こえた方角に、遭難者はいた。だが』

紗代子「? なんだろう」

『遭難者がいたのは、数キロも先の場所だった。常識的に考えて、声など届くはずもない。だが、救助者は確かにその声を聞き、遭難者を見つけた。俺も経験があるが、山というのは不思議な場所だ。だが、それを差し引いても思うのは、必死な人間の懸命な声は、物理的な事柄を飛び越えて人の心……魂というものに届くのではないだろうか』

紗代子「必死な人間の懸命な声は、人の魂に届く……」

 紗代子は虚空を見つめ、大きく頷いた。

紗代子「プロデューサーは山登りをするんですか?」

『今でこそこんなだが、学生時代は登山部だった。高校や大学の頃は山にばかり登っていた』

紗代子「ふふふっ。こんな、って言われても見えませんよ。ええと……だから私を、選んでくれたんですか? っと」

『? どういう意味だ?』

紗代子「私の名前が、高山だからです」

 珍しく返信が遅くなった。
 もしかして、つまらない冗談でプロデューサーの気を悪くさせてしまったのだろうか?
152 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:29:57.89 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「あ!」

『関係ない。今のも、そういう話を聞いたことがある、というだけのことだ。ではまた』

 返信があったことで、紗代子は少しホッとした。
 そして再度、大きく頷くと押入からリュックを取り出した。
153 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:31:15.32 ID:ZRhpxi3E0

 ディスプレイだけが明かりを放つ室内で、紗代子のプロデューサーである彼はキーボードを叩いていた。
 昨日は、自分らしくもなく雑談などに興じてしまった。
 最後の紗代子からの、名前が高山だから山好きの自分は選んだのか、との問いには思わず笑い転げてしまった。誰かと会話……ではないが、言葉のやり取りで笑ったのなどいつ以来だっただろう。
 だがそれはともかくとして、それによって肝心な指示を出し忘れていては、野望……いや、復讐など果たせないではないか。
 改めて指示をメールで送る。が、普段ならすぐにある返信が、今日に限ってはない。1時間が経過し、さすがに彼も小首を傾げる。
 こんなことは初めてだった。紗代子だって年頃の女の子であり、常にスマホを携帯していないこともあるだろうが、それにしてもこれほど返信がないのは、初めての経験だけに彼も次第に不安になってくる。

P「通話を……し、してみる……か? ま、まあ、出ればそれでよし。そのまま切れば……う、うむ、いいんだから」

 ブツブツ言いながら、30分ほども逡巡した末についに彼は紗代子のスマホに通話をかけた。が、彼女のスマホは電源が切られているようだった。

P「どうする……ど、どうするべきか……そ、そうだ。おと、音無さん……音無さんに……!」

 震える指が痛む程の勢いで、Pはキーボードを打鍵する。
 永遠かと思える時間が過ぎーー実際には10分程のことだったがーー音無小鳥との通話回線が開く。

小鳥「どうしたんですか?」

『紗代子と連絡が取れない。こんなことは初めてだ。何か知りませんか?』

小鳥「え? うーん。でも、紗代子ちゃんだって色々と私用とかあるんじゃないですか? 明日は大事な舞台ですし、友達とリフレッシュしてるとか」

『メールにこんなに長時間、返信がないなんて初めてなんです!』
154 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:32:35.50 ID:ZRhpxi3E0
小鳥「ふう……わかりました。ちょっと紗代子ちゃんのお家に電話してみますね」

『おねがいします』

 またしても気の遠くなるような時間が過ぎる。
 果たして小鳥から、再度通話回線が開かれる。

小鳥「紗代子ちゃん、朝早くから出かけたそうですよ。なんでも山に行く、って」

 ギクリとした。
 まさか……まさかだが、昨夜の自分の話を紗代子は本気にしたのではなかろうか。
 そしてそれを、実践しようと……

『どこですか?』

小鳥「え?」

『どこの山へ行ったんですか?』

 紗代子が住んでいるのは、茨城県の大洗だ。茨城の山といえば……

小鳥「ええと……確か、なんだっけ? そうそう、筑波山だとお母さんはおっしゃってましたけれど。でもですね、大丈夫ですよ。紗代子ちゃん、ちゃんと……」
155 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:33:48.62 ID:ZRhpxi3E0
 なんという無謀なことを!
 プロデューサーは、部屋を飛び出していた。
 自分が余計な話などしたから!!
 素直で、そしてなんでも全力でいつも要求に応えてくれる彼女を、埒も根拠もない話で危機に追いやってしまった!!!
 息を切らしながら走り、飛び込むように帰宅した彼は、押入にしまってあった登山用具を引っ張り出すと、車に飛び乗った。


 はたと気がつくと、手も指も震えてはいなかった。
 それ自体、驚くべき事だが、今の彼はそれどころではなかった。すぐに頭の中を紗代子への心配が占める。

P「筑波山って、どっちだ!? 男体山か!? 女体山か!?」

 筑波山は、男体山と女体山の2つから成る山だ。それに加えて登山ルートも複数散在する。
 紗代子が登ったのは、そのどちらの山の、どのルートか……

P「確か筑波の男体山は、標高871メートルだったな。そして女体山は877メートル……」

 プロデューサーは、考えながら常磐自動車道を土浦北ICで降りた。
 そして筑波山神社の駐車場に車を停めると、荷物を担いで山頂を見上げる。

P「どのルートから山頂を目指したのか……そして男体山を目指したのか女体山を目指したのか……いや、そもそも筑波山に登るとは言っても、それが頂上とは限らないわけだし……」

 遭難者の気持ちになろうとしているのなら、逆に頂上は目指さないかも知れない。
 しかし気候も天候も今日はいい。登山客も多いルートだと、途中で横道に逸れるような真似はできないだろう。

P「よし。険しい白雲橋コースで女体山にまず登ろう」
156 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:34:39.84 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「意外とあっという間でしたね。男体山の頂上って」

北上麗花「うーん。今日は初心者の紗代子ちゃんと登るんだし、御幸ヶ原の筑波山頂駅までケーブルカーで来たからね」

紗代子「ありがとうございます。急に山に行きたいなんてお願いして、申し訳ありませんでした」

麗花「ううん。それはいいんだよ? 私もピクニック気分だったし。でも、紗代子ちゃんは違うんだよね?」

紗代子「え?」

麗花「山に来た目的。ピクニックじゃないんだよね?」

紗代子「……はい。小学校で登山はしたことがあっても、ちゃんと山に登ったことってなくて」

麗花「それだけ?」

紗代子「あと、山に登れば少し近づけるかなって思って」

麗花「そうなの? そうなんだ〜」

紗代子「あの、麗花さん。もう少し山登りをしたいんですけど、いいですか?」

麗花「うん。じゃあこのまま、さっきの御幸ヶ原へ戻って、そこから今度は女体山に登ろうか」

紗代子「はい。お願いします……え?」
157 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:35:16.11 ID:ZRhpxi3E0

P「どこだ……紗代子……紗代子ーーー!!!」
158 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:35:55.16 ID:ZRhpxi3E0
 一瞬、紗代子はハッとすると進む先、頭上の女体山を見上げた。

紗代子「プロ……デューサー?」

麗花「紗代子ちゃん? どうしたの?」

紗代子「今……呼ばれたような気が……したんですけど」

麗花「ふむふむ。あ、紗代子ちゃんのプロデューサーさんは、私のプロデューサーさんとは違うんだっけ。それって紗代子ちゃんのプロデューサーさんのことだよね?」

紗代子「はい……でも今、私のプロデューサーは」

麗花「海外に行ってるんだっけ? いいな〜どこの国かな〜? 北京? ベルリン? ダブリン? バビロニア〜♪」

紗代子「そういえば、どこの国なのかな? 私、聞いたことなかったです」

麗花「でもでも、紗代子ちゃんが声を聞いたなら、日本に戻ってきているかも知れないよ」

紗代子「え?」

麗花「山って、不思議だよ。普段はないような感覚が、ぶわあーってぶつかつてきたりするんだ」

紗代子「それって、自然の中にいるから……ですか?」

麗花「どうなのかな〜? でも、そうかも知れないよね」

紗代子「プロデューサー。もし本当に帰国しているのなら、会いたいな……」
159 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:38:56.04 ID:ZRhpxi3E0
麗花「紗代子ちゃんのプロデューサーさんって、どんな人なのかな?」

紗代子「きっと私と違って、自信に満ちあふれた人じゃないかなって思います」

麗花「それはどうして?」

紗代子「いつも、的確で厳しくて、でも優しさを感じる文章だから……」

麗花「なるほど、なるほど。自信家の普通の人って感じだね」

紗代子「え? ええと……うーん、そ、そうですね」

麗花「それなら早く帰った方がいいのかな。ニイタカヤマノボレ、じゃなくてツクバヤマハレーってね」

紗代子「? でもちょっと気がついたことがあるんです。麗花さん、女体山までは、行きたいんですけど駄目ですか?」

麗花「駄目じゃないよ〜。私も、紗代子ちゃんとピクニック楽しいから」

紗代子「良かった。じゃあ、行きましょう!」
160 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:39:59.74 ID:ZRhpxi3E0

 かつての山男とはいえ、そのブランクは深刻だった。まして彼は、ここ暫くはろくに部屋から出てすらいなかったのだ。
 女体山頂を目指すコースは、かなりの急勾配だ。それを彼は、必死に進んでいく。

P「紗代子……今、行くぞ……紗代子……」

 呻くように必死に登り、山頂に着く頃には疲労困憊は限界に達していた。
 そこで周囲を見渡すが、紗代子の姿はない。

P「いないか……よし、このまま男体山へ……」

 しかし体力は限界だった。道の途中、荒い息で、四肢を着き、顔を伏せるP。
 もはやその口から出る声は、譫言のように微かだった。

P「紗代子……」

紗代子「はい?」

麗花「どうしたの? 紗代子ちゃん」

紗代子「そこの人が今、私の名前を呼んだような……」

麗花「ん〜? 私には聞こえなかったけど……」

 刹那、プロデューサーと紗代子の目が合った。
 紗代子には、わかった。
 この人こそが……
161 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:42:15.83 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「プロデューサー……ですか?」

P「紗代子……!」

 どこにこれほどの元気が残っていたのかという勢いでプロデューサーは立ち上がると、肩を掴んだ。

P「心配したぞ! こんな……こんな無茶をして!! だが、良かった!!!」

紗代子「え? あの、プロデューサーなんですよね? 私、ええ?」

P「すまなかった。昨日、俺があんな話をしたから……」

紗代子「そ、そんなことはないんですけど、プロデューサー。人が……」

 気がつけば、周りの登山客が全員2人を見ている。
 それはそうだろう、気息奄々としていた男がいきなり立ち上がると若い女性の肩を掴み、よくわからないことをまくし立て始めたのだ。

P「あ、す、すまん。だが、無事で良かった」

紗代子「無事……って、私は別に危なくなんかなかったですよ? お天気もいいし、いい気分転換になりました」

P「へ? いや、紗代子。遭難する為に山に来た……んじゃないのか?」

紗代子「え? そ、そんな危ないことするわけないじゃないですか! 人に迷惑がかかりますし……あ、プロデューサー!?」

 今度こそ、本当にプロデューサーは脱力をした。
 その場に崩れ落ちると、顔だけは苦笑の表情になる。
162 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:43:37.78 ID:ZRhpxi3E0
P「なんだ……俺の早トチリか……良かった……」

紗代子「プロデューサー、もしかして私を心配して来てくれたんですか?」

 プロデューサーの傍らに、紗代子は腰を下ろす。その顔つきは、心配と申し訳なさがない交ぜになっている。

P「メールの返信が……なかったからな、お母さんは紗代子は男体山に行ったとおっしゃるし、昨日あんな話を俺がしたから……」

紗代子「すみません。確かに今日、山に来たのはプロデューサーからのメールがきっかけではあるんですけど、そんな遭難なんて……ちゃんと山に詳しい人も一緒ですし」

P「え?」

麗花「ふふふ〜紗代子ちゃんと紗代子ちゃんのプロデューサーさんの運命の出会い、私見ちゃいましたよ〜」

P「うおわっ! だ、誰だ!?」

麗花「はじめまして。私、北上麗花といいます。紗代子ちゃんとは765プロで一緒にアイドルやってま〜す」

P「そ、そうです……そうでしたか。は、はじめ……まして」

紗代子「麗花さんは山登りが趣味で、経験も豊富なので、お願いして一緒に山に登ってもらってたんです」

P「ちゃんと詳しい人も同伴だったのか……」

紗代子「スマホは、山では通じないと思って電源をきっていたんですけど」

麗花「あ、紗代子ちゃん言わなかったっけ? 山でもけっこう電波通じるんだよ?」

紗代子「そうなんですか!? あの、プロデューサー本当に申し訳ありませんでした!!」
163 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:44:56.58 ID:ZRhpxi3E0
P「いや、無事で何よりだ……」

 青空がプロデューサーの目に映る。確かにいい天気だ。
 もう人前に出ることもない。そう考えていた自分が、気がつけばここまで夢中でやって来て、空を見上げている。
 それがなんだか可笑しかった。無性に可笑しかった。

紗代子「プロデューサー? もしかして私を笑っているんですか?」

 心配そうな紗代子には何も答えず、プロデューサーはただ笑っていた。
164 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:45:22.08 ID:ZRhpxi3E0

麗花「じゃあ紗代子ちゃんは、お迎えに来た白馬の普通の人にお任せしちゃいますね」

P「べ、別に俺は1人で帰るつもりだ……が」

紗代子「あの、私からお願いして山に連れてきてもらったのに、麗花さんを1人で帰すなんて……」

麗花「いいの、いいの。せっかく会えたんだから、私は気にしないで2人でお話をどうぞ。私は、2人がどんなお話をしてるのかな〜って想像しながら楽しく帰るから」

P「べ、別に、俺は……は、話とか……」

麗花「紗代子ちゃんのプロデューサーさん。紗代子ちゃんですね、男体山の頂上で私に、何か気がついたことがあるって話してくれたんですよね」

P「え?」

麗花「それが何か、知りたいですよね?」

 何だろう。そういえば紗代子は先ほど「山に来たのはプロデューサーからのメールがきっかけではあるんですけど」と言っていた。
 遭難が目的ではないにしろ、何をしに筑波山まで彼女はやって来たのか?

麗花「ひとつだけ聞いてもいいですか?」

P「え? あ、い、や、あ……は、ああ」
165 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:45:52.45 ID:ZRhpxi3E0
麗花「紗代子ちゃんのプロデューサーさんは、山登りをする人なんですね?」

 この娘は、おそらく自分の服装や装備を見てそう思ったのだろう。
 プロデューサーは、そう思った。確かにそれなりに準備をしたとはいえ、着ているものも持っている装備も、いささか年季が入ってはいるが、それなりのものだ。

P「あ……あ、ああ」

麗花「うふふ。は〜い。わかっちゃいました〜」

 麗花が何をわかったのかはプロデューサーにはさっぱりわからなかったが、彼にとってありがたいことに彼女はそれ以上は何も聞いてこなかった。

麗花「紗代子ちゃん、会いたいって言ってたプロデューサーさんと、しっかりお話をしてね」

紗代子「麗花さん……ありがとうございます」

麗花「バイバーイ! また一緒に山に登ろうね。次は越生の駒ヶ岳とか紗代子ちゃんにはぴったりかも」

紗代子「はい。また、ぜひ」
166 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:46:21.03 ID:ZRhpxi3E0

 北上麗花は、顔に風を受け微笑んでいた。
 幸せな気持ちだった。
 どうして紗代子が急に山に行きたいと言い出したのか、彼女はなんとなく言葉を濁していたが、彼女のプロデューサーに出会ったことで、麗花は全てを理解した。

麗花「プロデューサーさんが山男だったから、少しでもプロデューサーさんに関係あるものを知りたくて……触れたくて、紗代子ちゃんは山に行きたくなったんだね」

 山は素敵だ。大好きだ。
 その山で、大好きな同僚で友である紗代子が、会いたがっていたプロデューサーと運命的な出会いをした。
 嬉しかった。
 それだけで麗花は、とても幸せだった。
167 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:48:13.37 ID:ZRhpxi3E0

 麗花と別れた後、2人は駐車場に停めてあったプロデューサーの車に乗り込む。そして車が走り出しても、2人は無言のままだった。
 それぞれ、お互いに話したいこと、聞きたいことはたくさんある。
 だが、そのきっかけが掴めない。

紗代子「あ」

P「ど、どうした?」

紗代子「鳥が……」

P「……ヒバリか。珍しいな」

紗代子「プロデューサー、鳥にも詳しいんですか?」

P「茨城県の、県鳥だぞ」

紗代子「……知りませんでした」

 数秒の沈黙の後、2人は声を上げて笑い合った。
 笑いは、次第に言葉を呼び会話となる。

紗代子「いつ帰って来たんですか?」

P「え?」

紗代子「海外から」

P「あ! あ、ああ……け、今朝……か、かな」

紗代子「え?」

P「い、いやあ、ほら。時差とかあってよくわからなくなるんだ」

紗代子「ああ! すみません、それなのに私のが心配をかけてしまって」
168 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:50:04.55 ID:ZRhpxi3E0
P「いや、それはいい……んだが、そもそもなんで山に登ろうと思ったんだ?」

 プロデューサーの問いに、急に紗代子は俯く。その頬は少し赤くなっている。

P「どうした?」

紗代子「えっと、遭難するつもりまではなかったんですけど、遭難する人の気持ちがわかるかなっていうか、そもそも山にいるってどういう感じか肌で感じたかったんです!」

 真剣な瞳の彼女に、プロデューサーは小首を傾げる。
 その理由と、頬を染めた理由は関係があるのか?

P「それで? どうだったんだ?」

紗代子「そうですね……山はとっても気持ちよかったですし、楽しかったんですけど、遭難した人の気持ちはわかりませんでした」

P「そりゃそうだろうな」

紗代子「はい。でも……」

P「ん?」

紗代子「気がついたことが、2つあります」

P「それは、なんだ?」
169 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:51:20.17 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「ひとつは、プロデューサーの言ってた事は本当だった、ってことです」

P「俺が?」

紗代子「必死な人の懸命な声は人の魂に届く、という話です。プロデューサーの私を呼ぶ声、聞こえました。確かに……」

P「……そうか、聞こえたか。それで、紗代子はすぐに俺だとわかったんだな」

紗代子「男体山の頂上にいた時から、なんとなく聞こえた気がしていました。そして、あの時……目が合った時にわかりました。この人だ、この人が私を呼んでいたんだ。私のプロデューサーなんだ、って」

P「やっぱり山は、不思議だな。それから? もうひとつのわかった事っていうのは?」

紗代子「明日の公演、プロデューサーは見ていてくださるんですか?」

 そうだった。明日はこの娘の、初主演公演だったのだ。
 こうして帰国しているという体裁なのだ、見ないのはおかしいだろう。
 しかし……
 まだプロデューサーは、迷っていた。いや、恐れていた。
 人前で自分は……大丈夫なのか?

紗代子「だめ……なんですか?」
170 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:54:34.95 ID:ZRhpxi3E0
P「いや、わかった。行くよ、明日は劇場に」

紗代子「良かった! 私、全力でがんばります。そして……」

P「え?」

紗代子「今日、気づいたこと。プロデューサーに明日、劇場でお目にかけます!!」

P「なんだかわからんが、楽しみにしておく。じゃあ、俺も聞いていいか?」

紗代子「なんですか?」

P「紗代子の熱意は素晴らしいと思う。だが、紗代子をそこまで駆り立てるものはなんだ?」

紗代子「約束が……あるんです」

P「約束?」
171 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:55:47.52 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「小さい頃、いつも一緒に遊んでいた幼馴染みの女の子。その子と、約束したんです。2人ともアイドルになろうね、って。そして一緒のステージで歌おう、って」

P「そうだったのか」

紗代子「きっとあの子も、がんばっているはずです。だから、私も……」

P「それでステージではメガネを外して髪もほどくんだな」

紗代子「あの子の知っている私は、メガネをかけていませんでしたから……」

P「そうか。会えるといいな、いつか」

紗代子「はい。あの……私からも、もうひとつ聞いてもいいですか?」

P「なんだ?」

紗代子「プロデューサーは、どうして私を選んでくれたんですか?」

 紗代子の問いに、プロデューサーは何も答えない。

紗代子「私には特別なものはなにもありません。だからオーディションにも落ち続けました。そんな私を……どうしてプロデューサーは私を……?」

P「お、水戸大洗ICだ。ここで降りればいいんだよな?」

紗代子「え? あ、はい……」

P「遠い未来……」

紗代子「?」
172 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:56:13.89 ID:ZRhpxi3E0
P「今日のことや、そういうことを懐かしく話す日もあるかも知れない。だが、紗代子も俺もまだ道半ばだ。今はただ、目の前だけを見ていこう」

紗代子「……わかりました」
173 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:57:43.30 ID:ZRhpxi3E0

 高山家の前で紗代子を下ろしたら、そのまま帰るつもりだったプロデューサーの腕を、紗代子は必死で引っ張ってきた。

紗代子「今日のお詫びに! いいえ!! 今までのお礼もこめて、夕食だけでも食べていってください!!!」

P「いや、俺は……は、放せって……」

「なあに、紗代子。どうしたの? 確か今日はいつもお世話になっている女性の方と筑波山に……あら」

P「あ……ど、どどど、どうも」

 家から出てきた紗代子の母親に、プロデューサーはぎこちなく頭を下げる。その彼を見て、母親は首を捻る。

「確かに……紗代子は、女の人と出かけるって言ってたわよね。でも……つまり……」

紗代子「あ、あのねお母さん。この人は……」

「わかった! この方、こう見えて女性の方ね!?」

P「は?」

紗代子「違います。この人は……」

「え? ちょっと待って、状況を整理するわよ……紗代子は女の人とでかけると言った。でも帰ってきたのは男の人とだった。つまり……お母さんに嘘をついてのね!?」

紗代子「う、嘘じゃなくてね。最初は女の人と出かけたんだけど、今一緒にいるこの男の人はね、私の……」

「つまり……山で性別が変わった、と?」

紗代子「ちーがーう! あのね、この人は……」

「誰なの?」

紗代子「私のプロデューサー! いつも話をしてるでしょ? お世話になっている方なの」
174 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:58:49.72 ID:ZRhpxi3E0
 結局、女性2人に両腕を引っ張られ、プロデューサーは高山家へと招き入れ……いや、引きずり込まれた。
 手際よく夕食の調理を始める紗代子の母を横目に見ながら、プロデューサーは紗代子に小声で話しかける。

P「なんだか……紗代子とはちょっとノリが違うな」

紗代子「ええ……いい両親なんですけど、なんというか冗談とかが多くて軽いんですよね。時々、本当に実の両親なのかな、って思っちゃったり……」

 確かに、今まではメールでしかやり取りをしたことがなかったが、プロデューサーの紗代子に対する印象は真面目で情熱に溢れているというイメージだ。

「そうですか。プロデューサーさんは、山男でらっしゃるんですか」

 改めて、プロデューサーは紗代子と一緒に帰ってきた経緯を母親に説明する。

P「は、はあ……学生時代は、日本中の山を登ってました」

「富士山もです?」

P「の、登りました」

「まあすごい。なるほど、だからなんですのね」

P「なに……何がで、ですか?」

「紗代子を担当してくださった理由ですわよ。名前が高い山だから選んだ! ……当たりです?」

P「……紗代子」

紗代子「な、なんですか?」

P「安心しろ。間違いなく血の繋がったお母さんだ。うん」

紗代子「えー……」
175 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 14:59:15.22 ID:ZRhpxi3E0
「ただいまー。姉ちゃん今日はもう帰って……あれ? お客さん?」

P「あ、ああ、あ、ど、どうも」

「どうも……どなたさん?」

紗代子「あ、あのね、この人は……」

 紗代子が説明するより早く、母親が弟に説明を始める。

「この人はね、お姉ちゃんの大事な人よ」

「ええっ!? マジで!? そういう人が来るの、もっと先だと思ってたけど」

紗代子「ちょっと、お母さん! あなたも勘違いしないで!!」

「これからはこの人を、兄さんだと思っていいのよ」

P「や、ま、ちょ、ちが」

「それで兄さん、仕事はなにをしてる人なんですか?」
176 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:01:06.98 ID:ZRhpxi3E0
P「あ、しょ、し、職業は、あい、あ、アイドルのぷ、プロデューサーを……」

「そうなんですかー。僕も好きですよ、アイドル」

紗代子「そ、そうなの? えへへ」

「雪歩ちゃんと伊織ちゃんが好きなんです」

紗代子「ちっょとー! 私はーー!?」

「新規加入した765プロアイドルでは、真壁瑞希ちゃんの大ファンです!」

P「そ、そうなの……そうなんで……か」

「この人はね、あなたのお姉ちゃんと、とてもよく理解し合っているのよ」

紗代子「お母さん! やめてって!」

「姉ちゃんのこと、よろしくお願いします!」

P「え? あ、え、あ、ええ」
177 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:01:35.13 ID:ZRhpxi3E0

紗代子「なんだかすみません。ノリの軽い家族で」

P「いや、ごちそうになった」

紗代子「いいえ。じゃあ、明日……劇場で」

P「……」

紗代子「プロデューサー?」

P「わかってる……明日、劇場で……」

 挨拶を交わし、プロデューサーは高山家を辞して去った。
 その後ろ姿を、紗代子は不安げにずっと見ていた。

P「明日……か。行くべき……だろうな」

 いっそこのまま、またあの場所に籠もろうかとも思った。
 人前なんて、とんでもない。
 だが……

P「約束……してしまったしな……」

 そう。そしてそれだけではない。
 俺には、返さなければならない借りがある。
 それから劇場のこけら落としの時、あの場所に籠もって悶々として映像が届くのを待っていた記憶が蘇る。
 どうせ、どちらにしても辛いことなら……
178 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:02:15.15 ID:ZRhpxi3E0

     『歌声は魂に届いた』
179 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:04:39.20 ID:ZRhpxi3E0
高木社長「き、君!?」

 765プロ社長の高木順二朗が、目を剥いて驚いた後、心底嬉しそうに両手を開く。

高木社長「ついに君は、あそこから出てきてくれたんだね。いや、待っていたよ」

P「……色々とすみませんでした。そして、紗代子が世話をおかけしました」

高木社長「そんなことはないよ……しかし、最初はどうなることかと思っていたが、さすがは君の手腕だ。今日の公演センターを勝ち取った事務所内オーディションは見事だったよ」

P「紗代子は……よくやってくれています。時々、忘れそうになりますよ。あの時のこと」

高木社長「もう、忘れた方がいいんじゃないかね」

P「そうはいきません。今日出てこられたのだって、それがあるからこそ……あの時の屈辱を晴らす為に俺は!」

高木社長「……高山紗代子君を選んだ理由もそれかい?」

P「え!?」

高木社長「時々、可哀想になるよ。何も知らない高山紗代子という娘が」

 暫く、沈黙が流れた。
 やがて高木社長は、肩を竦めると言った。
180 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:05:18.23 ID:ZRhpxi3E0
高木社長「まあそれは、2人の問題だ。高山紗代子君は、確かに目的であるトップアイドルにちゃんと向かっている。あの娘の望む通りに」

P「そうですとも。ギブアンドテイクだ。お互いがお互いを利用して、何が悪いというんです!?」

高木社長「……ひとつだけ、君に言っておこう」

P「? なんです」

高木社長「復讐は、いつか終わる。終わらない復讐などない。なぜなら……」

P「復讐は何も生まない、なんていう話じゃないですよね?」

高木社長「無論、違う。これは君よりは長く人生を歩み、そして多少は愛憎というものを経験している身としての、経験則だ」

P「……うかがいましょう」

高木社長「復讐は、何を以て成し遂げられたとするか……そう考えれば、自ずと明らかだろう。復讐は、その過程が報われた時、終了するのだ」

P「? 復讐をするな、という話ではないんですね?」

高木社長「逆に君に聞こう。君はどうなれば、復讐が終わると思っているのだね?」

P「それは……俺を馬鹿にしたやつらを……そう、特にあいつを見返して……」

高木社長「君は、それを確認できるのかね? 目に見える所で見返せたとわかるのかね?」

P「……」

高木社長「君の復讐も、いつか終わる。そして、そのいつかは突然にやってくる」

P「それは、予言ですか?」
181 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:06:17.11 ID:ZRhpxi3E0
高木社長「先程も言っただろう? これは経験則だよ。そしてそのいつかがやって来た時に、君はプロデューサーとしての真価が問われるだろう」

P「……お言葉は、覚えておきます」

高木社長「うむ。それはそうと、気になることがあるんだが」

P「え? なんです?」

高木社長「二階の最前列……ここから見えると思うが」

P「ええ……ん? あれは……961プロの……」

高木社長「黒井が来ているんだよ。いや、業界としての礼儀で劇場のこけら落とし時から招待状は送っていたんだが、今回初めて来たっていうのがどうにも不思議でね」

 765プロと961プロは、互いにライバル関係にある芸能事務所だ。そしてそこには社長同士の因縁もある。
 その961プロの社長が、一体なんの用でやって来たのか。それも初めて。

P「確かにいい予感はしませんね」

 無愛想に、というよりは不機嫌に腕を組んで座る黒井社長に、プロデューサーは眉を顰めるが、招待客としてやって来たわけでもあり無下にもできない。が、無視もできない。

高木社長「まあともかく、私が目を光らせておく。君は、高山君を頼む」

P「わかりました」
182 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:06:51.70 ID:ZRhpxi3E0

 765プロ劇場において、高山紗代子の名前は少しは知られ始めている。
 だがそれは、765プロの新鋭アイドルメンバーの1人としてであり、単独のアイドルとしては「ああ、あの娘か」程度の認知であるのが大半だ。
 無論。紗代子のファンも存在はしている。が、まだこれといって目立った活動実績のない紗代子のファン達も今は「ちょっと気になる娘」「あの娘、可愛いな」「今後に注目をしている」といった人達だ。
 事実、今日は紗代子が主役のセンター公演だが、客席は探せば空席もあるといった状況である。

P「見てろよ。そのうち、紗代子単独でもこの劇場を満席にしてやる」

 舞台袖から客席を見ながら、プロデューサーは呟く。
 そこへ紗代子がやって来る。

紗代子「プロデューサー、行ってきます!」

 舞台に上がる時、すなわち仕事の時、紗代子はメガネを外す。意志の強い瞳が、普段より更に際だって見える。
 表情だけ見れば、自信にあふれている。
 だが、その実この少女は、コンプレックスという弱い自分を抱えているのを、プロデューサーは知っていた。

P「ホウキは必要か?」

紗代子「え? あ、いいえ。もうわかっていますから、プロデューサーの教えは」

 紗代子は、はにかんだように笑った。
 どうしたことか、今日は本当に自信に満ちているかのようだ。
 何かあったのだろうか。

紗代子「じゃあプロデューサー……約束を果たします」

P「約束?」
183 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:09:41.07 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「筑波山からの帰り、お話ししたことです」

 プロデューサーの脳裏に、あの時の事が蘇る。
 そう。あの時、紗代子は……

P「気づいたことを、俺に見せる……というあれか」

紗代子「はい。上手くいくかはわかりませんけど、試してみます!」

 自信だけじゃない。心底楽しそうな姿が、そこにはある。

P「ひとつ、気をつけて欲しいが二階席最前列に、やや年輩の男性がいると思う」

紗代子「え? あ、はい」

P「気をつけろ」

紗代子「えっ? 気をつけるって、それはどういう……」

P「うむ……俺にも正直わからん。が、もしかしたら何かをしてくるかも知れない。少なくとも、そういう心の準備だけはしておいてくれ」
184 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:10:13.92 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「誰なんですか? その人は」

P「黒井崇男といってな、あの」

紗代子「961プロの社長さんですね」

P「知っているのか!?」

紗代子「以前、劇場の新規アイドルを邪魔したり引き抜こうとしたりして……」

 迂闊だった。いや、現状把握ができていなかった。一番のライバルであるのみならず、様々な妨害を仕掛けてくる961プロとその社長の動静に無頓着だった自分が ※はらただしく なる。
 これもすべて、あんな部屋などに閉じこもっていたせいだ。

紗代子「プロデューサー?」

P「なんにせよ、気をつけろ。それから……がんばってこい」

紗代子「はい! プロデューサー、見ていて下さい!!」
185 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:10:41.19 ID:ZRhpxi3E0

 幕が上がった。
 舞台袖から見える紗代子の顔も、いい表情にプロデューサーには見えている。
 幕の上がる直前の、少しだけ不安げな顔はもうない。いや、口元には笑みすら見て取れる。
 最初の曲のイントロが流れる。紗代子の歌声をまずは聞かせようと選んだ、バラードだ。
 吐息のような、歌い出しから……

紗代子「あーーー♪」

 突然、紗代子は大声で歌い出した。いや、絶唱だ。
 バックの志保と静香が呆気にとられた。つまり、明らかにリハーサルとは違う歌い出しだ。
 しかし構わず紗代子は手を客席に、そう二階席の方に向けてそのままの声量で歌い出す。

紗代子「私は ここにいます♪
    私は ここで歌っています♪
    ねえ 聞こえますか?
    私が わかりますか?
    私が ここにいます♪」

 冒頭の絶唱で、もしかしたら紗代子は初のセンターで混乱してるんじゃないか。プロデューサーは一瞬、そう思った。必要があれば、曲を止めるつもりだった。
 しかし彼は、戸惑いながらもそれはやめた。
 紗代子は明らかに、意図して絶唱している。
 本来なら、気弱な少女の不安な胸の内を歌った曲が、今紗代子によって強い問いかけの歌になっている。

紗代子「誰も 知らない私♪
    明かりもない ここで♪
    私は あなたの為に歌います♪
    お願い 私を見て♪
    お願い 私を聞いて♪
    お願い 気づいて♪
    あなた♪」
186 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:11:33.03 ID:ZRhpxi3E0
 客席は静まりかえっていた。
 誰もこんな始まりを想定していなかった。
 が、呆然としていた観客は、曲の途中で思い出したかのようにペンライトを振り出す。
 そして紗代子が歌い終わると、その場の全員がーーおそらく黒井社長以外はーー熱狂的な拍手をもって彼女を讃えた。
 その熱気は最後まで途絶えることなく、公演は終了した。
 アンコールまでの間に、プロデューサーは紗代子の元に走った。

P「ああいうことをやるなら、せめて俺には事前に報告して欲しかったな」

紗代子「すみません。試してみようと思ったら、もう胸を抑えきれなくて、幕が上がってから、そうだここでやってみようって」

 そう言えば紗代子は、この初センター公演で先日気づいた何かをプロデューサーに見せると言っていた。
 確かに彼は驚かされた。そして客席全ての人の心に響く歌声だった。

P「結局、気づいた事っていうのはなんだったんだ?」

紗代子「プロデューサーの言ってた事は本当でした。必死な人間の懸命な声は、人の魂に届くって」

P「ああ、俺の声が聞こえたんだったな」

紗代子「でも……じゃあどうすれば必死で懸命な人の声を出せるのかは、山に行っても遭難した人の気持にはなれないのでわかりませんでした。だけど……」

P「?」

紗代子「それなら遭難した人の気持ち、必死な人の懸命な心境ってどんなだろうって考えてたら、思いあたることがありました」

P「なんだ? それは」
187 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:12:02.90 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「765プロのオーディションを、落ちた時の私の気持ちです」

P「……」

紗代子「もう駄目なのかな……これで……ここで終わりなのかなって絶望だけがあって……希望や明日も見えなくて……誰かに助けて欲しくて……そんな気持ちを、歌にこめました」

P「夢を失い、人生の絶望を経験した者の強み……か」

 彼にはわかった。紗代子のあの冒頭の絶唱は、出そうと思ったのではない。自然と出た、助けを呼ぶ声だったのだ。
 まだ17歳の少女が、生きる目標である輝く夢を失いそうになり、それを恐れ、そして助けを呼んでいたのだ。聞いた者の心に響かないはずがない。
 そしてそれだけに、紗代子のアイドルにかける夢の強さと、想いに彼は震える思いだった。
 この純粋な夢に対して、自分はなんと汚い人間なのだろうかと、恥ずかしくなった。
 そう、泣きたくなるぐらいに……

紗代子「え?」

P「なんでもない。さあ、アンコールだ。早く行け」

紗代子「はい! あ、プロデューサー」

P「……なんだ?」

紗代子「待ってて、くれますよね?」

P「……」

紗代子「またどこかに行ったりしないですよね?」

P「……俺は」
188 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:12:41.15 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「ずっと、私を見ていて……いいえ、教えてください! トップアイドルになる夢の叶えかたを!!」

 実際、プロデューサーは内心このままここから去ろうかとも考えていた。
 逃げ出したかった。
 少なくとも紗代子に、顔向けが出来なかった。
 だが、まるでそれを見透かしたように紗代子に念を押され、改めて彼は決意した。

P「待ってるさ。ここで、紗代子をな」

 紗代子は笑顔で頷くと、ステージへと走って行った。
 センター公演を終えたばかりとは思えない力強さに、Pは苦笑を漏らす。

P「時々だが……本当に時々だが、復讐とか……ばからしくなるな」
189 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:13:26.20 ID:ZRhpxi3E0

 公演が終了した後、765プロ劇場はちょっとしたパニックに陥った。
 公演前はまばらだったグッズ売り場に、お客さんが大挙して押し寄せたのだ。
 紗代子関連のグッズは見る間に完売し、急きょ倉庫から在庫が運ばれた。

美咲「て、手伝ってください。お願いします〜」

P「い、いや、お、俺は……」

 言いかけて彼は考え直す。
 今日の主役は、紗代子だ。その紗代子が起こした成功の証しなのだ、これは。
 体験し、見届けておこう。自分は彼女のプロデューサーなのだから。

「今日の高山紗代子ちゃんの歌、CDはないんですか?」

P「申し訳ありません。CDは近日発売予定です。配信も同時販売の予定でして」

「タオルを3枚ください! 自分用と保存用と布教用!」
「マスコットぬいぐるみ、もうないの!? Tシャツは!?」
「ラバストがあるの!? 全部一揃いください!!!」

 売れたのは紗代子のグッズだけでなく、触発されるように他の娘のグッズも売れ出し、とうとう売店も倉庫もカラになってしまった。
 観客が帰り静寂の戻った劇場で、プロデューサーは鈍りきった身体を隠そうともせずに投げ出す。
 疲労感は強いが、それ以上に満足と達成感に満たされる。
 自分と紗代子が、この劇場のグッズを空にしてやったのだ。
 知らず、笑みが漏れる。

紗代子「いつも……」

P「うおわっ!」
190 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:14:29.14 ID:ZRhpxi3E0
 気がつけば、紗代子が上から顔を覗き込みようにしている。
 衣装から私服に着替え、メガネも髪もいつものように戻している。
 こうしていると、本当に普通の女の子だ。本当にあの絶唱をした娘と同一人物だろうかと、心配になってくるほどに。

紗代子「あ、驚かせてしまってすみません。プロデューサーは、いつも横になって目を閉じて笑ってるなあって思って」

P「ぐ、偶然だ。そうだ……見ておくんだ。この光景を」

紗代子「え?」

P「ここの売店だけじゃないぞ。倉庫も空っぽだ」

紗代子「これ、私の歌で……?」

P「そうだ。紗代子のステージを見て、みんなファンになってくれたんだろう」

紗代子「……嬉しいです」

P「まだまだトップアイドルへの道はこれからだ……レッスンだって現場だって、辛いこともあるだろう。けれど……」

紗代子「はい。この光景を、忘れないでおきます」

 薄暗い、物のなくなった売店という、ドラマのワンシーンとはほど遠い、殺風景な光景を2人は目に焼きつけるようにしてしばらくの間、佇んでいた。
191 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:15:32.40 ID:ZRhpxi3E0

     『プロデューサーも敗者だった』
192 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:16:03.25 ID:ZRhpxi3E0
「歌姫様は、ご機嫌ナナメかい」
「ナナメどころか、癇癪玉をぶつけてきてるよ。どうすんだ、もうすぐ本番だってのに、リハーサルもできちゃいない」

 場所はラスベガス。その中にあるベガスを代表する有名ホテル、シーザース・パレス。
 歌姫、とやや揶揄の隠った呼ばれ方をされている少女は、そのロイヤルスイートに立てこもっていた。
 理由は特にない。
 いや、特にないーーと本人は思っている。
 だが何だか気に入らない。
 思えばなぜ、自分はこんな所にいるのだろう。
 本当は、日本でアイドルをしているはずだった。
 いや、別に日本でやると決めていたわけではないが、それでもアメリカに来るつもりなどなかった。
 見込まれ、条件を出され、それに両親がのったというだけのことだ。自分にはどうすることも出来なかった。
 しかしそれとても、それはそれで別にいいだろう。自分はアイドルになりたかったのだから。今も自分が歌えば、会場は熱狂し、ファンは日に日に増えている。
 歌うたび、会場は大きくなっている。
 そして今日の会場が、コロシアム・アット・シーザーズ・パレス。名にし負う、世界的に有名な劇場だ。
 本来ならば、申し分のない……いや、名誉に思えるはずのこの会場でのコンサートにも気乗りがしない。
 彼女は、先ほど自分で蹴飛ばしたイスを引きずってテーブルの前に戻すと、いつもの儀式めいた行動に入る。

 カタカタカタカタ

検索結果『たかやまさよこ アイドル』……107件HIT

「えっ!?」

 彼女は思わず立ち上がった。
 これまで何度も検索をして、その都度落胆をしていた検索結果。それが今夜、期待もせずに習慣のように検索した結果は、思わぬ結果を表示していた。
193 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:16:34.26 ID:ZRhpxi3E0
「よー……ちゃん?」

 震える指先が、ヒットした検索結果の一番上を開く。
 そこにはあの765プロの新入アイドルとして、高山紗代子の名とプロフィールが掲載されている。

「よーちゃん……よーちゃんだ! アイドルに……なったんだ!! やっぱり私との約束、忘れていなかったんだ!!!」

 涙が溢れ、滲むディスプレイを彼女は読み進む。
 日本では有名なライターの書いた、高山紗代子の初センター公演の記事だ。

「新人とは思えない見事な歌声は、観客全員の心をいっぺんに掴んでしまった。いや、掴んで激しく揺さぶってみせた……冒頭からの絶唱は、我々に対する呼びかけだった……この日この公演をもって、彼女ーー高山紗代子は一躍、歌姫として我々の記憶に残るアイドルになった……公演後、765プロ劇場の売店とその倉庫は、売る物を何もなくし文字通り空っぽになった。いや、彼女の歌声が空っぽにしたのだ……」

 文章を指でなぞりながら、声を出して彼女は記事を読んだ。
 記事は、あの子を絶賛していた。
 読み終えた少女は、笑みと燃えるような瞳で立ち上がった。

「負けないよ……よーちゃん」

 鍵を開け、ドアから出てきた少女にプロモーターである、コーエンは苦言を述べようとする。
 が、それより早く彼女は口を開く。

「さあ、私を歌わせなさい」

 コーエンの顔はにがり切る。が、そもそもそれこそが彼の目的であり仕事なのだ。
194 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:18:07.87 ID:ZRhpxi3E0
「準備はすべて終わっている。リハもしてないが、いけるのか?」

 彼女は答えなかった。代わりに、ハイトーンで歌い始める。

「馬鹿な。まだステージじゃないんだぞ」

 プロモーターであるコーエンなどお構いなしに、彼女は歌いながら廊下を歩いて行く。
 そしてそのままステージに登る。

「あ〜〜〜♪♪♪」

 司会も呆気にとられる登場と、絶唱。
 観客も驚くがもさすがにサプライズ好きで、慣れているベガスの常連客である。
 すぐにコロッセオは、熱狂に巻き込まれた。

 最初の1曲を歌い終え、満座の拍手を浴びながら、彼女の目はまったく観客を見ていなかった。
 彼女の目は、そこから見えないはずの遠く……海の向こうを見ていた。

「よーちゃん。負けないよ……私、負けない!」

 そう呟く少女は、心底嬉しそうだった。
195 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:18:44.76 ID:ZRhpxi3E0

翼「歌姫にラスベガスが揺れた。デビュー間もない新鋭歌姫。既に貫禄のショー。えっと……これなんて読むのかな〜?」

未来「えっと……さ……し? す……違うかな、せ……そ?」

静香「Shah……は、ええと……シャーでいいのかしら? どう、エミリー」

エミリー「そうですね。発音はシャーだと思います」

百合子「プロフィールは一切未公開の、新生歌姫かあ。なんか衣装もスタイルもセクシーって感じがしますね」

琴葉「そうね。でもメイクはしてても、なんとなく顔立ちは少し幼い気がするわ。私とそんなに年齢は違わないんじゃないかな」

瑞希「はい……そして髪は染めているみたいですが、東洋系とも見てとれます。お名前の、シャーからもオリエンタルな響きが感じられますね」

昴「オリエンタル?」

瑞希「シャーは、ペルシャ語で王という意味だったと……記憶しています。めいびー」

のり子「そうそう。ほら、シャー・ナーメって世界史で習ったじゃない」

望月杏奈「そう……なの? 杏奈、まだ……そういう世界史とか、習ってない……からわからない……」

育「どうなの? 高校生のみんな」

茜「そ、そういうのはまだ、茜ちゃんにはちょーっと早いかなー……」

美奈子「ええっと。古代ペルシアの神話、伝説、歴史を集めた叙事詩……って習ったかな? シャー・ナーメは王の書って意味で」

茜「あ、そうそう! そうだったね!! 茜ちゃんもちょうど今、思い出したよ!!!」
196 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:20:43.85 ID:ZRhpxi3E0
静香「じゃあやっぱり、このShahっていう人、中央アジア出身なのかな」

翼「とか言って案外、日本人だったりして〜」

のり子「まっさか〜。でもそんなにいい歌なら、ちょっと聞いてみたいよね」

紗代子「おはようございますー。? みんな、どうしたの?」

瑞希「おはようございます、高山さん。今週発売の週刊誌に、アメリカで人気急上昇のアーティストの記事が……載っていたので、みなさんと盛り上がっていました」

紗代子「へえ……アメリカかあ。私たちも、日本でトップアイドルになったりしたら、全米デビューとか……?」

桃子「どうしたの? 紗代子さん」

紗代子「この写真のアーティスト……どこかで見たことがあるような……」

未来「え? それって紗代子さんのお知り合い、ってことですか?」

翼「ほら〜。Shah日本人説、がぜんシンピョーセー? が出てきましたー」

静香「まさか……どうなんです? 紗代子さん」

紗代子「え? シャー?」

瑞希「そのアーティストの、お名前です。Shahと書いてシャーと読むよう……です。めいびー」
197 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:21:19.61 ID:ZRhpxi3E0
可憐「ほ、本当にお知り合い……なんですか?」

紗代子「ど、どうかな……なんとなく見たことあるような気がするだけのかも知れないし……」

琴葉「写真も白黒で小さいしね。東洋系だから、親近感あるだけかも知れないわね」

小鳥「みんな、こんにちは」

未来「あ、小鳥さん。おはようございまーす」

小鳥「劇場に来るのも久しぶりで……ぴ、ピヨッ! さ、紗代子ちゃんその記事は!?」

紗代子「え?」

小鳥「そ、それ、紗代子ちゃんのプロデューサーさんには……見せてないわよね!?」

紗代子「え……え、ええ。はい」

P「おはようございます。おや、音無さん」

小鳥「ピーヨーーーッッッ!!!」
198 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:21:47.35 ID:ZRhpxi3E0
P「どうしました?」

小鳥「あ、あの、ええと、そ、その、さ、紗代子ちゃん」

紗代子「え?」

 小鳥は紗代子の方を見ずにヒソヒソと声だけかけると、後ろ手に何かを渡せと合図する。

紗代子「?」

瑞希「何かを渡せ……という、合図でしょうか?」

環「じゃあこれ、くふふ」

小鳥「ん? この暖かくて柔らかい、そして私の指をペロペロと……」

こぶん「にゃーん」

小鳥「わ〜可愛い〜♪ ん。ネコちゃんネコちゃん!!」

こぶん「にゃーん」

P「音無さん?」
199 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:23:22.96 ID:ZRhpxi3E0
小鳥「ハッ! そ、そうじゃなくて、その週刊誌……」

 ヒソヒソと小鳥は紗代子に言い、手を出す。
 よくはわからないが、言われるまま紗代子は週刊誌を渡す。

P「なんです? その本」

小鳥「こ、これはその、私の秘蔵の、う、薄い本で……」

P「え? 音無さん、そういうのみんなの前では……」

小鳥「ですよね! ね! だからこれ、私が持って帰りますね。それじゃあみんな、またねーーー!!!」

P「……なんだありゃ? 何しに来たんだ?」

翼「さあ……」

静香「なんだったのかしら?」

P「まあいい。紗代子、レッスンのことでちょっと」
200 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:23:51.24 ID:ZRhpxi3E0
 この所……そう、先日の紗代子のセンター公演以来、プロデューサーは毎日劇場にやってくるようになった。
 それに伴い、紗代子のレッスンは格段にすすんだ。やはり、一度行ったレッスンを後で確認してから指示を出すのと、その場で指示を出すのとでは内容は同じでも早くそして的確だった。
 ひとつ予想外だったのは、彼が毎日顔を出すようになると、他のアイドル達もアドバイスや指導を求めるようになった事だ。


志保「あの、すみません。私のダンスも見ていただいていいですか?」

P「え? や、いや、お、俺は……紗代子の担当で……で、だ、だから、北沢さんには担当のプロデューサーが……」

志保「ちょっとでいいんです! お願いします!!」

P「え、ええと……」

のり子「そういえば、公演終盤の紗代子のダンス」

P「え、お、俺に……い、言ってる……のか?」

のり子「アタシにも教えて! あの後自分でやってみたんだけど、ピンとこなくて」

P「あ、あの……」

可奈「あと、あの曲なんですけど」

P「い、いや……」
201 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:25:31.58 ID:ZRhpxi3E0
 そうした光景に、紗代子は少しだけ悋気を感じてはいたが、誇らしくもあった。
 自分のプロデューサーが有能であることを、みんなにわかってもらえるのは単純に嬉しかった。
 そして紗代子にとって意外だったのは、強気で自信に溢れてるんじゃないかと思っていたプロデューサーが、案外……いや、かなり気弱で素振りの落ち着かない人物だったことだ。
 紗代子以外の娘に対しては、言葉遣いがやや口ごもりがちで、目線もなかなか合わせてはくれない。
 だがプロデュースに関しては真摯で、厳しくもあった。

 そうこうするうちにやがて……毎日劇場でみんなに会うようになり、必要に駆られ会話を交わし関わるうち、1ヶ月もするとプロデューサーは紗代子以外の他のアイドルに対しても物怖じしなくなってきた。
 今では普通に会話をし、求められれば紗代子以外の他の娘にもアドバイスや指導をする。

「もっと高山さんのプロデューサーみたいに指導して欲しいって言われてまいりましたよ」

 他の娘の担当プロデューサーが、そう苦笑していた。
 いずれにしろ、765プロ内の歯車は、上手く回り始めていた。
202 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:25:57.13 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「あ。はい! そうだプロデューサー、私ちょっと思ったんですけど」

P「なんだ?」

紗代子「千鶴さんがきのうやっていたステップなんですけど」

P「なんでもやりたがるんだな、紗代子は。後でちょっと見てやる」

紗代子「はい!」

 そのまま個別レッスンに入りそうな紗代子の腕を、瑞希がチョイと引く。

紗代子「え? どうしたの瑞希ちゃん」

瑞希「後で……ちょっとよろしいですか」

紗代子「?」
203 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:26:27.42 ID:ZRhpxi3E0

桃子「かくれんぼ?」

環「うん。劇場ってかくれるとこがたくさんあるから、きっと楽しいぞ〜」

桃子「はあ……そんな子供みたいな遊び。第一、劇場でそんなことしちゃダメ」

環「だってたまき、子供だぞ?」

育「隠れるって言っても、機材とか大事なものがある場所は勝手に入ったらだめなんだよ?」

環「じゃあ、劇場のステージと客席と、機械の置いてある場所はナシでやろう!」

育「うーん。それなら」

桃子「一回だけだよ?」
204 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:26:55.10 ID:ZRhpxi3E0
桃子「あはははは。じゃあ次は、環が鬼だよ」

環「よーし。たまき、すぐ2人をみつけてやるぞ〜! いーち、にー……」

育「桃子ちゃん、桃子ちゃん」

桃子「なに? 育」

育「今度は一緒に隠れようよ。だって、1人で隠れてるとつまんないもん」

桃子「そうだね……いいよ」

育「やったあ。あ、そうだ。わたし、さっき面白そうな所に気がついたんだ」

桃子「面白そうなところ?」
205 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:27:24.71 ID:ZRhpxi3E0

桃子「二階と三階の間の階段? ここが面白そうなの?」

育「それがね。ほら、ここから下の方見えるでしょ? 階段はジグザグになってるんだけど、一階と二階の間の階段下には何もないでしょ?」

桃子「うん」

育「で、上の方を見て。ほら、三階と四階の間の階段下も何もないのに」

桃子「あれ? 二階と三階の間には、壁がある」

育「ね、ここってもしかして倉庫みたいになってるんじゃないかな」

桃子「なるほどね」

 コンコンと桃子が壁を叩くと、明らかに中は空間があるような音がする。

桃子「ほんとだね。中に入れそう……ここかな?」

 壁の下部に小さなスペースがあり、指を入れてみるとカチャリと何かが外れる音がする。

育「桃子ちゃんすごーい。あ、ここを持つと壁が横に動くよ」
206 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:29:05.21 ID:ZRhpxi3E0
環「育も桃子もみーつけた! あ、ずるいぞ2人とも」

桃子「あー。環が来ちゃったか……え? なにがずるいの?」

環「機械の置いてある場所はもなしだってたまき、言ったぞ」

育「え? あ、ほんとうだ。これ……パソコンかな」

桃子「本当だ……なんの部屋だろ」

環「なんだっていいけど、機械のある場所だからここはなしで、続けるぞ」

桃子「はいはい。じゃあ次は桃子が鬼でいいよ」

環「よーし」

育「じゃあ、どこに隠れようかな」
207 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:29:43.19 ID:ZRhpxi3E0

 事前に予定されているレッスン時間は1時間だったが、2時間半後に紗代子は戻ってきた。

紗代子「ごめんね! つ、つい夢中になっちゃって」

瑞希「大丈夫です。そうだろうと、最初から思っていましたから……学校の課題をやっていました」

 無表情にそう言う瑞希だが、口の端と瞳の動きで紗代子には彼女が笑っている事がわかる。いや、正確には心中そう思っているということだ。

瑞希「これから……音無さんに会いに行きませんか?」

紗代子「あ、さっきのこと? うん……そうだね。少し変だったもんね」

瑞希「なんだか気になります……、ではさっそく765プロ事務所に向かいましょう……ごー!」

 電車から降り、事務所に向かいつつ紗代子は改めて今日の小鳥とプロデューサーのやり取りを思い出す。
 あれはなんだったのか。
 思い当たるのはあの記事の主……

瑞希「どうされました? 高山さん」

紗代子「あ、うん……さっきの小鳥さん、なんであんなに必死にShahの記事のこと、プロデューサーから隠そうとしてたのかな、って」

瑞希「確かに……あの慌てようは、普通ではありませんでしたね」

紗代子「私のプロデューサー、ずっと外国に行ってたんだよね」

瑞希「はい。……なるほど、Shahさんとその時に何かあったのでは、思っているのですね?」

紗代子「なんとなくだけど……でも、そう考えると小鳥さんがShahのこと知ってそうだったり、プロデューサーさんから記事を隠そうとしたのも、理解できるかも知れないって思ったの」
208 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:30:52.46 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「確かに、そうかも知れません。あ、765プロが見えてきました」

高木社長「では、よろしく頼むよ。また何かあれば、すぐに知らせてくれ」

善澤「ああ。ま、あんまり期待するなよ」

瑞希「あれは高木社長さんと、確か芸能記者の……」

紗代子「善澤さん、だっけ? そうだ!」

瑞希「え……高山さん?」

紗代子「あ、あの!」

善澤「ん? おや、君は確か……高山紗代子君だったかな」

紗代子「はい! あの、先日は私の主演公演の記事を書いてくださってありがとうございました!!」

善澤「いやいや。こちらこそ、素晴らしいステージをありがとう。ふむ……」

紗代子「?」
209 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:33:08.94 ID:ZRhpxi3E0
善澤「ステージを離れると、また印象が違うね」

紗代子「あ、メガネをしてますから。普段は」

善澤「いやいや。そういう些細な点だけじゃないな。なんていうか……こういう言い方をしたら失礼かも知れないが、普通の女の子という雰囲気になるね」

紗代子「そうですね。わかります、私には特別なものは何もないですから」

善澤「気を悪くしないでくれ。だからこそ、先日のあの公演での君の輝きが更に印象深くなったよ。うむ……素顔の高山紗代子の特集とか、ぜひ書かせてもらいたいな」

紗代子「それはそうと……あの」

善澤「なにかな?」

紗代子「善澤さんは、Shahっていうアメリカのアーティストをご存じですか?」

善澤「ああ。今、全米チャートを急上昇中の新鋭アーティストだね。まだ日本ではほとんど知られていないけどその内に人気が出ると取材を始めてるんだが、困ったことにプライベートに限らずプロフィールは全て厳重なトップシークレットでね」

紗代子「そのShahは、プロデューサーと何か関係があるんじゃないかと思っているんです」

善澤「? プロデューサー? 765プロ劇場のプロデューサーといえば……」

瑞希「いえ。高山さんだけは、私たちとは別のプロデューサーです。――とおっしゃるプロデューサーなのですが」

善澤「――君だって!? 復職していたのか……そうか、彼が高山紗代子君のプロデューサーだったのか。なるほど」

紗代子「復職?」

善澤「あれ? 知らなかったのかい?」
210 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:33:36.57 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「ずっと外国にいたと……」

善澤「ふうむ。これは、僕が言ってもいいことかちょっと迷うな」

紗代子「教えてください! この通りです!!」

 往来で、人気の高まりつつあるアイドルが頭を下げる姿に、善澤も少し慌てる。

善澤「とにかく、ここでは何だから少し落ち着いて話せる場所に移ろうか」
211 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:36:41.30 ID:ZRhpxi3E0

瑞希「カフェなのに個室があるのですか……これは驚きました」

善澤「まあ職業柄、こういう場所も知っているというわけだ。人目を気にする話でも自由にできる場所が必要でね」

 善澤が2人を連れてきたのは、歩いて数分のカフェだった。
 彼が目配せをすると、店員は黙ってこの個室に通してくれた。

善澤「さて……君のプロデューサーの話だったね。いや、来る途中でティンときた」

紗代子「え? 何がですか?」

善澤「Shahの正体……というか、彼女が何者なのかがさ」

瑞希「なんと! どういうことなのですか……?」

善澤「うむ……まあ高山君は、自分の担当プロデューサーのことであるし、真壁君はその親友だ。彼のことについて知る権利はあるかも知れない」

紗代子「はい!」

善澤「なにより、私が話すのを断ったら、君たちは他の者に聞いて回るかも知れない。アイドルがそういうことをするのは危険だ。この業界、悪徳みたいな記者だっているのだからね」

瑞希「はい」

善澤「だからこれは、君たちを護る意味も含めて話そう。それから、君たちがいずれトップアイドルになったら、独占取材でもさせてもらうからね?」

 笑いながら言う善澤に、2人は頷いた。
212 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:37:42.93 ID:ZRhpxi3E0
善澤「かつて……765プロにある男がプロデューサーとして入社してきた。彼はまだ若く、経験も未熟だったが、並々ならぬ熱意と才能を見出す目。そしてそれを育てる知識を持っていた」

紗代子「もしかして……」

善澤「アイドルの未熟さと、彼の未熟さ、両者が互いに磨き合い成長し合っていけば素晴らしいアイドルとプロデューサーが誕生する予感がすると、高木は目を細めていたものだ」

瑞希「その方が、高山さんの……」

善澤「ある日、その彼が勢い込んで事務所に帰ってきた。ものすごい逸材を見つけた! 絶対にトップアイドルになれる娘だ!! と、たまたま居合わせた私も驚くほどの、それはもう興奮した面持ちでね」

 善澤は、懐かしい思い出を語りながら煙草に火をつける。
 壁には『禁煙』と書かれていたが、個室なので店員も注意には来ない。
 紗代子と瑞希も話の腰を折るまいと黙っていた。

善澤「確かにその娘は逸材だった。容姿、歌声、ダンスと既に高いクオリティを身につけており、それに加え彼がレッスンで鍛えたこともあり、メキメキと実力を伸ばしていった」

瑞希「なるほど……今の高山さんと、同じように……ですね」

紗代子「そんな。私なんて……まだまだだけど」

善澤「……だが、ある日。事件が起きた」

紗代子「え?」
213 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:38:11.31 ID:ZRhpxi3E0

P「社長! ついに決まりましたよ!! デビューイベントが!!!」

高木社長「……」

P「都の文化会館大ホールもおさえましたよ。いやあ、これは広告もバンバンうたないといけませんね。なに、見て聞いてもらえれば間違いなく観客は納得してくれるはずです!」

高木社長「……残念だが」

P「グッズですが、今からだと……え?」

高木社長「そのイベントは中止だ」

P「なんですって!? な、なんでです!? 本人もレッスンじゃなくて、早く観客の前で歌いたいと言ってるのを宥めてすかして、ここまで事務所の他のアイドルとも別レッスンにしてまで人前には出さず実力を磨いてきたのに!!」

高木社長「彼女は、引き抜きにあった」

P「……え?」

高木社長「AISの代理人から先ほど、連絡があった。彼女は本日付けをもってAISの所属となった。我が765プロとの契約解除に伴う違約金も、既に振り込み済みだそうだ」

P「そんな馬鹿な! AIS? AISってどこの……まさか!?」

高木社長「アメリカン・インターナショナル・シンガーズ。通称AIS。アメリカでも1、2を争う大プロモート事務所だ」

P「なんで……なんであの娘がそんな……どうして……」
214 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:38:38.30 ID:ZRhpxi3E0
高木社長「詳しいことはわからない。善澤に調べてもらったが、事の経緯は不明だ。だが、彼女は既にアメリカにいる。どうやらAISのドン、コーエンと彼女の両親が極秘裏に示し合わせていたらしい」

P「な、なんとか……なんとかならないんですか!? そ、そうだ、訴訟! 訴訟を起こしましょう!!」

高木社長「難しいだろうね……なによりこの移籍を、当の彼女が承知をしているんだ」

P「俺が……俺が育てた……俺の……自慢のアイドルになるはずだったのに……」

高木社長「残念だが、致し方あるまい。また君には新たに最初から別の娘のアイドルプロデュースを……」

P「そんな……馬鹿な……そんな……なぜ……なんでだ……どうして……」

高木社長「……」
215 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:39:16.79 ID:ZRhpxi3E0

善澤「才能を見いだし、育て、その成功を夢見ていたアイドルが突然に引き抜かれ、彼は精神的に大変なショックを受けてね」

紗代子「そんなことが……」

善澤「それに加え、担当していたアイドルに逃げられただとか、そもそも大したアイドルじゃなかったのをエラそうに吹聴してたんじゃないかとか、そんな娘なんか最初からいない……全部ウソなんじゃないかとか、大金をせしめる為に外国に彼女を売り飛ばしたとか散々に業界内で陰口を叩かれてね」

瑞希「なんという……ひどい話です。ぷんぷん」

善澤「未来のトップアイドルを極秘に育てていると彼も言っていたとはいえね……特に酷かったのは、プロデューサーが無能だからその娘は海外に出ていったらしい……担当アイドルに見限られて捨てられたんだ、という声だったな」

紗代子「そんなことまで……」

善澤「そういったことが重なり、彼は人前に出られなくなってしまったんだ。人の目が気になり、手が震え、言葉も上手く出せなくなって」

 そう言われ、紗代子と瑞希にはピンときた。劇場に来るようになってからしばらく、プロデューサーがやや挙動不審ともとれる言動であった理由が。

紗代子「……それで、どうなったんですか?」

善澤「高木は彼に休養を勧めた。まあ、そうでなくても人前に出られない彼にはプロデュースそのものが無理だった。その後の消息を聞かなくなったから、もしかしたら765プロを辞めたんじゃないかとも思っていたんだが、今日その名前を久しぶりに聞いたというわけさ」
216 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:39:48.04 ID:ZRhpxi3E0
 初めて聞くプロデューサーの過去に、紗代子は少なからず衝撃を受けた。
 確かに外国に行っていたという話は、結果として嘘だったのかも知れないが、それでもプロデューサーに対する同情が胸に去来する。
 苦労して、夢の実現まであと一歩という所での挫折……いや、絶望。その悲しさや苦しさは、いかばかりだっただろうか。
 瞬間、あの夜のことが脳裏に蘇る。
 765プロオーディションを落ちた、あの夜の自分の苦しみだ。
 絶望の淵で、必死にプロデューサーも助けを求めたのだろうか? いや、それを乗り越えて今、彼は自分のプロデュースをしてくれているんだ。

善澤「これはまだ記事にはしないから教えてくれないかな、彼はどうやって君のプロデューサーになったんだい?」

紗代子「オーディションの様子を録画で見て逸材かも知れないって言ってくれたそうで……最初はレッスンの様子を録画して、後からそれを見て指導を……」

善澤「外国にいることにして、そうやってプロデュースをしていたのか……」

瑞希「そうだと、思います。ですが……今はもう、いつも劇場に来てくださいます。きっと、高山さんをプロデュースしているうちに、心の傷も癒えたのではないでしょうか」

善澤「そうかも知れないね。そして、Shahの件だ」

紗代子「あ! そういえば最初に、Shahの正体がわかったっておっしゃってましたね」

瑞希「そうでした……今の話を聞いて、Shahの正体を予測すると……はっ! もしやShahさんは、高山さんのプロデューサーが担当していた……」

紗代子「そうか……その、引き抜かれたアイドルなんですね?」
217 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:42:08.29 ID:ZRhpxi3E0
善澤「うむ。僕も、そうじゃないかと思ったんだ。アメリカでのデビュー、そして活動を始めた時期、そのポテンシャル。写真からでは少しわかりにくいが、そう思って見るとかつての面影もある気がする」

 善澤が、件の週刊誌をカバンから取り出す。
 この娘が、かつて自分のプロデューサーの担当アイドルだった……
 そう思うと、紗代子は不思議な思いがした。
 そしてなんとなくだが、自分がこのShahに対してどこか既視感にも似た感情を抱いたのは、そうした因縁がそう思わせたのだろうかという気もした。

善澤「いずれにしても、辛い挫折があったとはいえ、まだまだ彼の才能を見いだす目と、それを育てる力は健在だということが、よくわかったよ」

紗代子「え?」

善澤「高山紗代子君というアイドルを、見てね」

紗代子「あ、ありがとうございます」

善澤「こうしていると普通の女の子に見える君を見出したのは流石だよ。いや、もちろんこうしていても君が可愛いのは間違いないけれどね」

 紗代子と瑞希は、善澤に礼を言い別れると共に帰途についた。
218 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:44:39.61 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「……」

瑞希「……ショックでしたか? 高山さん」

紗代子「え?」

瑞希「高山さんのプロデューサーが……嘘をついておられたこと、です」

紗代子「うん……びっくりはしたかな。でも、ごめんね。今は違うことを考えていたの」

瑞希「違うこと……それは、なんですか?」

紗代子「やっぱりプロデューサーはすごいなあ、っていうことと」

瑞希「はい。辛いことがあって、人前に出られないほど精神を痛めて、それでも復帰してこられたのは、尋常な強さではありません」

紗代子「それと……前から不思議に思ってること、あれはなんだろうなあ、って」

瑞希「?」

紗代子「プロデューサーはオーディションの私の映像を見て、逸材かも知れないって選んでくれたんだけど、私のどこにそんな要素を見つけたのかな」
219 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:45:12.58 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「それは……以前にも言いましたが、高山さんは心の強い人です。きっと高山さんのプロデューサーも……」

紗代子「うん。正直、瑞希ちゃんにそう言ってもらえるのは嬉しいよ。でも、あのオーディションでそういうの、プロデューサーはわかったのかな?」

瑞希「それは……確かにあのオーディションは、面接がほとんどでした」

紗代子「ちょっと発声とか身のこなしはさせられたけど、それで私のどこを逸材だと思ってくれたのかな?」

瑞希「私には、わかりません……ですが、高山さんのプロデューサーは、あのShahも見つけた眼力の持ち主です。きっと、私たちにはわからない目の付け所が、あるのではないでしょうか?」

紗代子「……前にそれを聞いた時、プロデューサーにははぐらかされちゃったし、さっき善澤さんにも言われたじゃない。普通の女の子にしか見えない私を見出したのは流石だ、って」

瑞希「はい」

紗代子「ずっと気になってるんだ。どうして私なんだろうって。なんで私は選んでもらえたのかな、って。今日の話を聞いて、それが強くなったの。人前に出られなくなったプロデューサーが、私を見てプロデューサーに復帰して、人前に出られるようになるほどのものが、本当にあるのかな、って」

瑞希「高山さん。現実だけを見ましょう」

紗代子「え? 現実?」
220 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:45:56.75 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「はい。高山さんのプロデューサーは、高山さんを見つけた。プロデュースをしたいと思った。そしてプロデュースをして、人前に出られるようになった。高山さんも、ちゃくちゃくと実力をつけています」

紗代子「うん……」

瑞希「これらは全部、本当にあった事です。それだけで十分ではないでしょうか」

紗代子「そうかな……うん、そうだね。自分にわからないことをあれこれ考えるより、現実がすべてだよね」

瑞希「そうです。私も……自分が可愛いと呼ばれるとは思っていませんでした。ですが今、ファンからは瑞希ちゃん可愛いと言ってもらえます……うれしはずかしですが」

紗代子「瑞希ちゃんは可愛いよ?」

瑞希「……不意打ちで、高山さんの強い瞳に見つめられながら言われると、照れてしまいます。ともかく、自分の魅力は、自分ではわかりにくいものなのでしょう」

紗代子「そうか……そうかも知れないね」

瑞希「きっとそうです」

紗代子「わかった。プロデューサーが、私の何を認めて選んでくれたのかはわからないけど、その期待に私は応えたい! トップアイドルになって、プロデューサーに報いたい!! いつかトップアイドルになったら、私の夢もプロデューサーの夢もかなうんだよね!!!」

 帰りの電車内。窓から見える夕日。その夕日に負けない、強く燃える瞳で、紗代子はトップアイドルへの想いを更に強くしていた。
221 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:46:30.72 ID:ZRhpxi3E0

 紗代子と瑞希が電車に乗って帰っているのと同じ頃、当のプロデューサーは劇場内の、あの暗い部屋にいた。
 相変わらず光源はディスプレイしかなく、その黄昏のような灯りで彼は週刊誌を読んでいた。
 音無小鳥が隠したものではない。もうとっくに彼はそれを見つけ、手に入れていた。
 小さなその記事は、読めば数分程度の長さだ。
 それを彼は、飽くことなく読んでいた。いや、眺めていた。
 そして急に殺気だった顔で立ち上がると、週刊誌を壁に投げつける。
 荒い息をしながら、彼は吠えた。

P「なにが新鋭歌姫だ! なにが貫禄のショーだ!! なにがShahだ!!!」

 投げ捨てた週刊誌を、彼は再度拾うとそれをビリビリに引き裂いた。

P「今に見てろよ……」
222 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:49:18.94 ID:ZRhpxi3E0

     『すべては嘘だった』
223 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:49:52.62 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「て、テレビに出演ですか!?」

P「もうそろそろ、そういう段階に進んでもいいかと思っている。どうだ? やるか?」

紗代子「は、はい! もちろんやりたいです!! やらせてください!!!」

翼「え〜! 紗代子ちゃんだけ、もうテレビとか出ちゃうのー? 私は〜?」

静香「翼はまだ、センター公演だってやってないでしょう? でも……私も早くテレビには……」

永吉昴「センター公演も、紗代子をトップバッターにしてこの間、瑞希がやっただろ? 次は誰だ? 3番目からはクリーンナップだから、案外オレとか!?」

のり子「ジャジャーン! 実は次のセンターは……なんとアタシなんだよね!!」

静香「えっ!? それ、決定なんですか!?」

のり子「うん! 昨日プロデューサーに言われたんだ」

静香「そんな……私は……私の番はまだなんですか!?」

未来「まあまあ静香ちゃん。そのうち私たちの順番も回ってくるよ。それで、その次はテレビでデビュー!」

美奈子「うんうん。焦らなくても、順番はちゃんとやってくるし、プロデューサーさんはちゃんと色々考えてるみたいだから、ね!」

静香「わ、わかってます。けれど、なんていうか、紗代子さんを見ていると焦っちゃうんです!」

紗代子「え?」
224 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:50:31.83 ID:ZRhpxi3E0
静香「紗代子さんの努力はわかってます。でも……なんだかどんどん先に進んでいって、私は置いて行かれてるような……」

P「……じゃあ、紗代子と一緒に出るか?」

静香「え?」

翼「それって、テレビに一緒に出るってことですよね〜? えーそれなら私も出たい、出たーい!」

静香「ま、待って! 声をかけられたのは私よ!! あ、あの……本当に紗代子さんと一緒に出て……いいんですか?」

P「というか、君たちのプロデューサーには話を通してあって、紗代子のバックで一緒に出る娘を2人ばかり出していいかと思……」

未来「はい! じゃあ私も出たいです!!」

翼「え? あ、ズルい〜! 私も出たーい!!」

育「テレビに出られるの!? 私も!!」

高坂海美「私も出たい! お願い!!」

P「ま、待て待て。最上さんに声をかけたのは、身長がちょうどいいからなんだ」

静香「身長……ですか?」

P「紗代子のバックってことは、当然に紗代子よりちょっと後ろでダンスとコーラスをやることになる。その時に身長が揃ってるといいんだ」

昴「さ、紗代子! 身長は!?」

紗代子「え? あ、えっと、156cmだけど」
225 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:51:08.47 ID:ZRhpxi3E0
P「最上さんは見た感じ160とちょっとぐらいだろう?」

静香「はい。162cmです」

P「そのぐらいの娘がちょうどいいんだ」

美奈子「じゃあ私もだめですね……残念」

翼「私、ヒールを履きますから〜!」

P「慣れないヒールは危険だ。そして実はもう1人は既に考えていて……真壁さん、どうかな?」

瑞希「私が……ですか? それはテレビには出たいですが」

翼「む〜! 瑞希ちゃんはもうセンターも経験してるし、やっぱズルいー!」

P「身長が160cmぐらいだし、紗代子とは仲がいいみたいだから、スムーズにいくかと思うんだ」

瑞希「わかりました……私が高山さんのために、一肌脱ぎましょう」

静香「わ、私もがんばります!」
226 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:51:36.75 ID:ZRhpxi3E0
P「よし! じゃあ決まりだな。2人のプロデューサーには言っておくから、今日から紗代子と一緒にレッスンをしてくれるな?」

静香「はい……チャンスだわ。テレビにも出られるし、あの高山さんが受けているレッスンを、私も受けられるなんて、貴重な経験なんだから」

瑞希「高山さん、よろしくおねがいします!」

紗代子「こちらこそ! 2人とも、よろしくね。一緒に最高の番組にしようね!!」

静香「もちろんです。がんばります!」

P「じゃあ俺は、そのことを伝えたり打ち合わせがあるから、紗代子頼むな」

紗代子「はい! じゃあまず、日課であるレッスン前のランニングから」

瑞希「わかりました」

紗代子「瑞希ちゃんも静香ちゃんも初めてだし、今日は初日だからハーフでいくね」

静香「よろしくお願いします」
227 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:52:19.96 ID:ZRhpxi3E0

静香「……ハーフってなんだろう?」
228 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:53:00.35 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「はあ……はあ……ま、まさかレッスン前から20km以上走らされるとは……予想外でした。気息奄々だぞ、瑞希……」

静香「………………」

紗代子「だ、大丈夫? 静香ちゃん?」

静香「だ、だい゛じょ・ぶでず! だい゛じょぶ……」

紗代子「ちょっと休憩しようか」

静香「らいじょうぶれすから!」

紗代子「整理体操が終わったらね」

静香「えっ!? は、はい……あの、瑞希さん」

瑞希「なんでしょう……私、既に答える気力が残りわずかです……」

静香「紗代子さんの、あのレッスンでの吸収力の源泉を見た気がします……すべてはこの体力があってなんですね……」

瑞希「それに加えて、あのやる気と熱意です……すごいです、高山さんは……」

静香「ええ……本気でアイドル目指すんだから、見習わないと……あ、そういえば」

瑞希「なんですか?」

静香「ShahのアルバムやMV、手に入りそうなんです」
229 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:54:49.05 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「えっ!?」

瑞希「なんと……それはまた、どうやって?」

静香「父の仕事の関係もあって、海外によく親戚が行くんですけど、お土産としてお願いしたんです」

紗代子「本当に!? 私にもそれ、聞かせてくれるかな」

静香「もちろんです。みんなで見ようかと思ってます」

瑞希「楽しみです……全米で人気急上昇の歌姫は、絶対に参考になるでしょうし……」

 瑞希は紗代子を見る。
 Shahは紗代子にとって、プロデューサーが前に担当していた娘になる。その意味でも紗代子は色々と気になっているはずだ。
230 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:56:45.89 ID:ZRhpxi3E0
静香「? なんですか?」

瑞希「なんでもありません……歌だけではなく、ダンスやパフォーマンスも、さー……しゃ……しゃあー……すみません、かみました」

紗代子「あれ? ……」

瑞希「?」

紗代子「……あっ!」

静香「ど、どうしたんですか!?」

紗代子「Shahって……もしかして……」

瑞希「?」
231 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:58:26.64 ID:ZRhpxi3E0

善澤「やあ、久しぶり」

P「え? あ、善澤さん! ご無沙汰しています。先日は紗代子の記事、ありがとうございました」

善澤「ああ。いいライブだったよ。そして君もまた、バリバリとやってるらしいね」

P「はい……また、色々とお願いします。あ、そうだ」

善澤「なんだい?」

P「黒井社長……なんですが」

善澤「黒井が? どうかしたのかい?」

P「いや、特になにがってわけじゃないんですが、先日ウチの劇場に観客として来てたんですよ」

善澤「黒井がかい? それはまた珍しいな……いや、他はともかく765プロの劇場にか。確かに彼は、意外と自分の足でスカウトをしたり、芸能界の情勢を掴んだりする男ではあるんだが」

P「そうなんですか?」

善澤「以前、沖縄や礼文島で偶然会った時には驚いたものだよ。しかし目の敵にしている765プロ劇場になあ……」

P「ええ。それがなんとなく気になってまして」

善澤「うーん……待てよ、それっていつのことだい?」

P「2週間ぐらい前ですか」

善澤「というと、高山君のセンター公演か」

P「そうです」
232 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 15:58:58.16 ID:ZRhpxi3E0
善澤「僕もその時いたが、黒井には気がつかなかったな」

P「何か言ってくるかとも思ったんですが、すぐに帰られて……逆に心配なんですよ」

善澤「ふむ……ちょっと探ってみるか」

P「お願いします」

善澤「代わりに、高山君の独占取材でも頼むよ。いや、彼女と君のね」

P「え? 俺、ですか?」

善澤「一度は挫折した男が、才能を見いだした少女をトップアイドルにする、その復活劇を記事にしたいんだよ」

P「……」

善澤「なに、高山君にはトップアイドルになったら独占記事を書かせてもらうと約束をしてあるんだ。君には内緒だったがね」

P「そんな、かっこいいものじゃないんです……」

善澤「え?」
233 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:00:40.92 ID:ZRhpxi3E0
P「今はこうやって落ち着いて善澤さんと話もしていますが、俺の心の中にはまだ俺を馬鹿にした連中と、あの娘……今はShahですか、あいつを恨む気持ちが残っているんです」

善澤「それはまあ……きれいさっぱり忘れて赦せなんていうのも、無理というものだろうが」

P「紗代子や、765プロのみんなと過ごして、そんな自分が嫌になることもあります。けれど……まだ俺の心の奥底には、あいつらを見返したい気持ちが強くあって、時々頭をもたげてくるんだ……」

善澤「見返す?」

P「善澤さんには、話しておきます。俺は……復讐のために、紗代子のプロデューサーになりました」

善澤「なんだって?」

P「俺が……なぜ彼女を……高山紗代子という娘を選んだのか、わかりますか?」

善澤「いや。皆目見当がつかない。それだけに、よくぞあの娘を見いだしたと、感心しているよ」

P「違うんだ……」

善澤「違う?」

P「俺が、彼女を……高山紗代子を選んだ、その理由は……」
234 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:02:49.58 ID:ZRhpxi3E0
 プロデューサーは、善澤にだけ聞こえるよう小さな声で呟いた。
 瞬間、善澤はペンを落とした。
 その表情は、驚愕を示していた。

善澤「馬鹿なことを……それは、いくらなんでもあんまりだ。彼女はこのことを!? い、いや、知るはずもないか」

P「紗代子は俺を全面的に信用してくれています。それは嬉しいし、きっと彼女のお陰で俺はまた人前に出られるようになったと思います。だがもし紗代子が、自分が選ばれた理由を知ったら……」

善澤「もし彼女が知ってしまったら、君はどうする?」

P「……今度こそ、二度と人前には出ないつもりです」

善澤「そうならない事を祈っているよ。そして今の話、決して高山君には話すんじゃないよ」

P「復讐を望む俺が、口を滑らせなければ……ね」
235 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:03:41.61 ID:ZRhpxi3E0

 ふと、プロデューサーの脳裏にShahがまだ彼の担当だった頃のことが去来する。


「芸能活動って、本名じゃなくてもいいんでしょ?」

P「? そりゃアイドルでも芸名で活動してる人は大勢いるけど、本名を使うのは嫌か?」

「本名が嫌なんじゃなくて、名乗りたい名前があるの」

P「ほう? なんていう名前だ?」

「サー、って芸名どう?」

P「サー? それだけ?」

「表記はSAHでもSirでもなんでもいいわ。読み方がサーなら」

P「覚えやすいし、インパクトはあるけど、どういう意味があるんだ?」

「アイドルが、サーって名乗ってたらファンやマスコミからは『サーちゃん』って呼ばれるでしょ?」

P「まあ、そうなるだろうな」

「サーちゃんっていうアイドルがいたら……気づいて……もらえるかも……」

P「え? なんだって?」

「……なんでもない。いいでしょ?」

P「うむ……まあいいだろう。いや、確かに印象的だからいいかも知れない」

「決まり! 私、今日からアイドルのサーよ」
236 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:04:20.19 ID:ZRhpxi3E0

瑞希「相変わらず、念入りな下見ですね」

静香「え? いつもこんなに念入りに下見をしてるんですか? ステージの大きさをわざわざ測ったりを?」

紗代子「うん。実はメガネを外すと、ちょっと視界がぼんやりしちゃうから、下見の段階で距離感とか掴んでおかないといけないから」

瑞希「そうでした……そして、そうまでしてステージではメガネを外すのは、訳があるんでしたね」

紗代子「私……小さい頃、仲良しだった友達がいたんだ。その子も私もアイドルが好きで……それで、2人で約束したの。絶対2人ともアイドルになろうね、って」

瑞希「幼い頃の、大切な友達との約束ですか……それを守ろうと、高山さんは一生懸命なんですね」

紗代子「あ、もちろん私自身がアイドルが好きで、憧れてて、なりたいって思ってたんだけど、あの子だってきっと今もそうだって……そして私も信じてるから」

瑞希「なるほど。そして、それはまだ、高山さんがメガネを使用するようになるより前のことなのですね?」

紗代子「うん……アイドルごっことかして遊んでいた頃は、メガネをしてなかったから。もしかしてメガネをしてたらわかってもらえないかも、って」

瑞希「お名前では、わからないのですか?」

紗代子「なんとなく覚えてはいるんだけど、漢字でどう書くのとか詳しいことは……小さい頃だったからね。でも2人とも名前が『さよこ』だったのは印象深いからはっきりと覚えてるよ」

静香「2人とも……? その子も、さよこというお名前なんですか?」

紗代子「うん。一緒に遊んでいたりして、周りの誰かが『さよこちゃん』って呼んだりすると2人とも『はーい』って返事しちゃったりしてたから、ある時にあの子が『じゃあ、私はさーちゃんで、あなたはよーちゃん。ね!』って言って」

瑞希「じゃあそのさーちゃんという方も、今アイドルになろうとしているのかも知れませんね」

紗代子「というか、もうなっていると思う」

静香「えっ!? 本当ですか!?」
237 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:06:28.51 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「Shahが、あの子……さーちゃんだと思う」

瑞希「……なんですって。びっくり」

静香「え? じゃあその紗代子さんの幼なじみの、さーちゃんがShahだっていうんですか?」

紗代子「うん……さっき瑞希ちゃんが、かんでShahのことをさーって言った時に思い出したの。週刊誌に載っていたShahの写真、あれは……」

瑞希「そういえば、高山さんはあの写真を見た時に見覚えがあるような気がする……とおっしゃってましたね。まさか私がかんだことが、手がかりになるとは……お手柄だぞ、瑞希」

静香「ま、待ってください! ほ、本当にそうなんですか? 勘違いとか見間違いじゃないんですか!?」

紗代子「? たぶん、間違いないと思うけど……どうして?」

静香「っ……実は、翼と賭をしていて……」

瑞希「賭け、ですか?」

静香「か、賭って言っても、金銭とかは賭けていなくて、そ、そう!  射幸心を煽るようなものじゃなくて……」

紗代子「え? それってもしかして翼ちゃんが言ってた、Shah日本人説……のこと?」

 静香は、コクリと頷く。
238 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:07:14.38 ID:ZRhpxi3E0
静香「翼が大穴ねらいで日本人説、でもけっこう自信あるんだ〜♪ って言い出して……じゃあもし違ったら花坊のうどんをおごりなさいよ、って話になって……」

紗代子「う、うん」

静香「かわりに、もし本当にShahが日本人だったら私は翼に、根の津でうどんをおごるってことに……しかも私は翼が食べるのを見てるだけっていう……あああ、本当にShahは紗代子さんの幼なじみなんですか!?」

紗代子「う、うん! ま、間違いない……と、思う!!」

静香「ああ……」

 ガッカリと項垂れる静香。

紗代子「元気出して、静香ちゃん。うどんなら、今度私がヤマサ製麺所でおごってあげるから」

 瞬間、バッと静香は頭を上げると、紗代子に詰め寄る。

静香「そこって、美味しいんですか!?」

紗代子「う、うん! うちの家族はみんな大好きだよ」

静香「どんな? どんな、うどんなんですか!?」

紗代子「えっと、セルフのお店なんだけど」

静香「セルフ!? セルフって、自分で作るってことですか!?」

紗代子「そ、そうだよ」

静香「製麺所のセルフうどんなんて、香川に行かないと体験できないと思ってました……あ、味はどうなんですか!?」

紗代子「や、柔らかくて美味しいよ」

瑞希「待ってください最上さん、少々落ち着きましょう」
239 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:08:12.77 ID:ZRhpxi3E0
静香「あ……す、すみません私、ちょっと興奮してしまって……」

瑞希「高山さん、高山さんのプロデューサーは、この事ご存じなのでしょうか?」

紗代子「どう……かな? そもそもShahの存在を知っているのかがわからないし、知っていたとしてもShahが自分の担当していた娘だっていうことも気づいているのかな」

静香「え? 紗代子さんのプロデューサーが、Shahのプロデューサーなんですか!?」

瑞希「元……ですが、これはまたあとできちんと説明しますね」

静香「そうだったんですか……」

瑞希「この事、お知らせすべきでしょうか?」

静香「この間の、小鳥さんの様子を見ると、私は慎重に考えた方がいいんじゃないかと思いますけど」

瑞希「はい……せっかく心の傷が癒えたプロデューサーが、またショックを受けたら大変です」

紗代子「確かにそうだね。うん、まだちょっと黙っておくよ」

瑞希「それが良いでしょう。しかしそれにしても……」

静香「?」
240 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:09:41.26 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「不思議なご縁ですね。高山さんとShah、子供の頃に一緒にアイドルになろうと約束した幼馴染みのお2人が2人とも、同じプロデューサーに担当されて」

 それは紗代子も思っていた。
 そして、自分とShahを友にのプロデューサーが見出したということは、自分とShahに共通するような才能か、それに類するなんらかの見所があったということなのだろうか。

紗代子「私も……がんばれば、さーちゃんみたいに、アメリカでも通用するようなアイドルになれる……のかな?」

瑞希「もちろんです」

静香「ええ、紗代子さんの歌声はすごいです。それに、あのがんばりなら絶対に大丈夫だと思います」

紗代子「そうだね。今はまだまだでも、いつかはあの子に届くって、私も信じるよ……ありがとう。さあ、じゃあ続きをやろうか。ますは、明日のために!!」

静香「はい!!」

瑞希「やるぞー瑞希。えいえいおう!!」
241 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:11:27.00 ID:ZRhpxi3E0
 紗代子のテレビ出演は大成功だった。
 容姿の美しさと、軽やかなダンス。そしてなにより、画面越しでも伝わるあの、魂を揺さぶられる歌声に視聴者は驚き、話題になった。
 効果はすぐ現れた。問い合わせは殺到し、関連グッズがまた在庫から消えた。
 町中で、紗代子の歌が流れるようになる。

「姉ちゃんのサイン、欲しいって言われるようになったよ。とうとう姉ちゃんのこと、自慢しちゃった」

 弟が少し恥ずかしそうに、紗代子に言う。

静香「私にテレビのお仕事ですか!?」

翼「え〜また静香ちゃん〜?」

P「先日のテレビで、注目されたみたいだな。真壁さんにも声がかかってるそうで、改めて2人のプロデューサーから話があると思う」

瑞希「やったぞ……瑞希。がんばります」

紗代子「ふふっ。私たちも、段々アイドルとして有名になってきたんだね……」
242 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:12:31.96 ID:ZRhpxi3E0

     『あの子がやってきた』
243 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:13:45.72 ID:ZRhpxi3E0
 アメリカ、テキサス州のダラスから飛び立ったプライベートジェットの操縦室で、機長は困惑していた。
 このジェット唯一の乗客である少女が、突然ハイジャック宣言をしたのだ。行き先を日本に変更しろという脅迫と共に、だ。
 このハイジャッカーは別に武装しているわけでも、人質をとっているわけでもなかったが、機長はフライト前に雇い主であるコーエン氏から「くれぐれも乗客の機嫌を損ねないよう、最大限のワガママを許してやって欲しい」と強く言われていた。
 だがしかしこれは、最大限というワガママを越えているのではないだろうか。
 本来の行き先は、イギリスのヒースローである。そこへ向かわずに日本になど行って良いものだろうか? そしていずれにしろ最終的にはこの乗客はヒースローに向かわなくてはならないのだ。
 なにしろあの、ロイヤル・アルバート・ホールでのライブが控えているのだ。

「数時間でいいのよ。今回は少し余裕のある移動のはずでしょ? お願い!」

 乗客の瞳は真剣だった。ワガママというよりは、今しかないという一瞬に望みをかける、懇願の目だった。

 機長は成田空港へ、連絡を取ることにした。
244 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:15:19.51 ID:ZRhpxi3E0

P「歌番組も好評だった。色々と仕事も入ってきている」

紗代子「本当ですか!? 良かった……あ、でも、まだまだですよね。もっと私、上を目指したいです!!」

P「うむ……確かにまだまだやるべきことは、ある。だが、こうした世間からの求めに応じるのもアイドルとしての大切な仕事だ」

紗代子「はい。私、がんばります」

P「とりあえず、劇場外で単独ライブをうつ」

紗代子「劇場外……ですか?」

P「今度は本当に1人だぞ。どうだ? やるか?」

紗代子「はい」

P「いい返事だ。単独だから、色々とやってもらうぞ。覚悟しておけ」

紗代子「もちろんです。それで、どこなんですか? 劇場外って」

 一瞬、プロデューサーの顔が曇ったのを、紗代子は見逃さなかった。
 が、彼は軽く頭を降ると、殊更に笑顔で答える。

P「東京都の文化会館だ。しかも、大ホールだぞ。大きなハコだが、気後れするなよ」

 その答えで、紗代子はなぜプロデューサーの表情が曇ったのかを悟った。
 東京都文化会館は、Shah……いや、あの子のデビューイベントとなるはずだった会場だ。
 プロデューサーにとっては、苦い思いでの場所だ。
 今度は……いや、自分はなんとしてもプロデューサーに成功の喜びを味あわせてあげたいと強く彼女は思った。
245 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 16:16:16.96 ID:ZRhpxi3E0
瑞希「東京都文化会館ですか? 確か……上野だったと思いますが……どうかされましたか?」

紗代子「私の単独ライブが決まったの!」

瑞希「本当ですか……いよいよ単独でのライブなのですね。私、当日は観客として、高山さんに声援を送りたいと思います」

紗代子「ありがとう。それで、その会場がその東京都文化会館なんだ」

瑞希「待ってください。都の文化会館といえば……確かShahさんの……」

紗代子「……うん。それも同じ大ホールなんだって」

瑞希「高山さんは……本当に、良いのですか?」

紗代子「え? なにが?」

瑞希「高山さんは、Shahさんではありません。トップアイドルになって、自分だけでなく高山さんのプロデューサーの夢もかなえたいという想いは立派です。ですが、高山さんがShahさんの身代わりになることは……ありません」

紗代子「ありがとう、瑞希ちゃん。瑞希ちゃんの言ってること、わかるよ」

瑞希「はい……」
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