もしもし、そこの加蓮さん。

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67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 16:39:01.63 ID:SPkljqcV0
>>66
ミス
68 :>>65から続き [saga]:2020/04/29(水) 16:40:31.23 ID:SPkljqcV0

 「っ! 加蓮っ!」

 「……ぅ……ぁ、ひぐ…………っ」

駆け寄り、肩を揺すろうとした彼の動きが止まります。


加蓮は泣いていました。
今まで堰き止めていた分を一息で吐き出すみたいに、
涙と汗でメイクを台無しにしていました。
白い肌を真っ赤に染め上げながら、年端もゆかぬ子供のように。

苛立ちでも悔しさでもなく、歓喜に涙を流す経験は、
彼女の十六年の生で初めての事でした。


傍で膝をついていた彼は、インカムマイクを外すと加蓮の隣へと座り込みます。
そして、何もしませんでした。

いつだってアイドルの傍に居られるのは、担当プロデューサーの特権でした。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:43:11.57 ID:SPkljqcV0

 「すいません、インカム調子悪かったみたいで。
  何かありましたかね? あぁ、了解です。もう大丈夫です」

涙が涸れ、汗も退き、後は暴れる横隔膜が落ち着くのを待つだけになりました。
膝を抱え込む加蓮の横で、彼は立て掛けておいたクリップボードを再び手に取って、
やっぱり何もしませんでした。

 「加蓮」



 「……ん」

 「キライなものが多いって、前に言ってたよな」

 「ま、ね」

 「昔の自分がキライだったか?」

いざ尋ねられると、果たしてどうなんだろうか、と加蓮は考え込んでしまいます。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:58:44.61 ID:SPkljqcV0

昔の自分はいつもパジャマを着ていて、
だいたい食欲が無くて、ほとんどじっとしてばかりいました。

でも、ネイルを練習してくれて、髪をアレンジしてくれて、
本を読んでくれて、テレビを見てくれていたのです。
決して悪い事ばかりではありませんでした。

 「ううん」

 「なら、今の自分は?」


しばらく考え込んでから、伏せていた顔を久しぶりに上げました。

試しに隣を見てみればそこにはプロデューサーが居て、
耳を澄ませば歓声が聞こえて、衣装のスカートはふんわりしています。

どうしてか口が動かなかったので、首を左右に振りました。

 「充分。自分を認められる奴は、強いよ」

 「……そ」
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 17:47:42.24 ID:SPkljqcV0

 「……どう?」

 「え?」

 「今の俺、めっちゃ格好良い感じの事言えてなかったか?」

びしりと親指を立て、アイドルだったらファンに怒られそうなくらい決まりきっていないウィンク。
目の前にいたアイドルは口を丸く開けると、
怒る気力も絞り出せないまま、徐々に肩を震わせます。


横隔膜は、まだ暴れ足りないようでした。


 「うん。すっごく良い感じに馬鹿だった」

 「馬……おま、言うに事欠いて」

 「まーまー。馬鹿同士仲良くやろーよ。ね?」

 「……何が?」


今度こそ、正真正銘の大笑いで、馬鹿笑いでした。
ばしばしと肩を叩かれ、彼に出来るのは訝しむような視線を返すだけ。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 18:11:26.00 ID:SPkljqcV0

訳も分からぬまま加蓮の抱腹に付き合ってやると、
彼女のツボもようやく満足してくれたようです。

 「はー……ふふっ……ね、プロデューサー」

 「はいはい」

 「ライブ、楽しいね」

 「ああ。馬鹿みたいに楽しいだろ?」

 「根に持っちゃって」

不貞くされたような彼に、加蓮は三度笑みを零しました。

 「アイドルのライブって、こんな感じなんだね」



 「……ん? 加蓮、ちょっと待て」

 「へ?」

 「一応訊くけど、アイドルのライブに来た事はあるんだよな」

 「そりゃそうでしょ。デビューライブなんだから」

 「いやそうじゃなくて……今まで、誰かのライブに、ファンとして、一般参加した事が」

 「無いけど」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 18:24:34.93 ID:SPkljqcV0

今度はプロデューサーが口を丸くする番でした。
腕時計の文字盤を数秒だけ睨み付け、加蓮の手を引いて立ち上がらせます。

 「確かに馬鹿だった! 観た事あると思い込んでた!」

 「ちょ……ちょっと? プロデューサー?」

 「行くぞ! 次の出番までまだある」

 「行くって、何処に?」

 「ライブを観るんだ」

ポケットから彼女の分のIDカードを取り出し、加蓮へと放りました。
事態を把握できないまま関係者席へ急ごうとし、慌てて呼び止められます。

 「加蓮、『そっち』じゃない! 『こっち』だ!」

 「え? だって、向こうは」

困惑する彼女の手を捕まえて、プロデューサーは長い廊下を走り出しました。
ピンヒールを履いたままの加蓮をこれでもかと急かし、
そのまま階段を駆け上がって、スタッフ用の通用口へと辿り着きます。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:09:28.69 ID:SPkljqcV0

分厚いドアを開いた途端に大音量が鼓膜を打ちました。
同時に始まった前奏は加蓮にとっても、かなり耳馴染みのあるメロディで。

機材席のスタッフに頭を下げつつ、彼は加蓮を手招きします。
衣装のままやって来た加蓮へ、近くのお客さん達が驚きに目を剥きました。
プロデューサーはそんな彼らに大げさなジェスチャーを返し、
始まるぞ、と告げます。


そのジェスチャーも、慌てて前を向く彼ら彼女らも、加蓮の視界には入っていませんでした。


 『――憧れてた場所を、ただ遠くから見ていた』


ステージの中央に、アイドルが立っていました。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:12:39.92 ID:SPkljqcV0


 『S(mile)ING!』
 http://www.youtube.com/watch?v=SKhIL0QyJI8
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:28:26.12 ID:SPkljqcV0

サイドポニーを揺らし、ふわふわのスカートを翻して。
両手でマイクを握りながら、こちらを見ていました。


錯覚です。
目立つ衣装を着ているとは言え、
薄暗い客席、その後列部に立つ一人を見つけ出すなど出来る訳がありません。
そんな事は数十分前まであの場所に立っていた彼女自身が一番よく理解しています。

けれど、何故だかそう思えてしまうばかりだったのです。


 『スポットライトに』 『Dive!』


周りが一斉にピンクの光を掲げ、加蓮はびくりと身体を震わせました。
興奮と熱気の入り混じった歓声。
一拍遅れてから、コールだ、と気付きました。

気付いたところでどうしようもありませんでした。
続くコールをおろおろと手を泳がせながら見送って、
こうなったらいっそ別に手筒でもいいかと思い切った時、手元が仄かに明るくなりました。
差し出されたピンクのサイリウムに隣を向けば、
彼は自身の分をひらひらと振りつつ、加蓮の掌にそれを握らせてきます。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:40:44.40 ID:SPkljqcV0

業務中に何を持ち歩いてるんだとか、
ひょっとして三色とも持ってたりしないだろうなとか、
色々と言ってやりたい事はありました。

それらをぐっと堪え、受け取ったコンサートライトを思いの限り振り上げて。


 「Go!」『もうくじけない!』


卯月は輝いていました。
同時に、彼女をキラキラさせる為の、
この舞台の一部になれた事が、何となく誇らしくも感じられたのです。


それからは会場のうねりへ任せるようにピンクの輝きを振り上げて、
一番では控え目だった声も、二番の途中からは随分と様になっていました。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:46:08.58 ID:SPkljqcV0

唄い終えた卯月に喝采が降り注ぎます。

コンサートライトを振りつつ大きな拍手をするのは難しいなと思いながら、
まぁいいかと気にせずライトのグリップをべちべちと叩いている途中でした。
水を差すように彼が加蓮の肩を叩き、
先ほど入ってきたばかりのスタッフ用通用口を掲げた親指で指し示します。

それまでとは打って変わったような蒼の光で照らし出されるステージに後ろ髪を思い切り引かれつつ、
彼女は渋々ながら頷きました。


再び分厚いドアを潜ると、体の芯まで揺らすかのような熱は姿を消し、
静けさが鼓膜を痛めつけます。

 「もう終わり?」

 「この後、城ヶ崎さんのバックダンスあるだろ」

 「そりゃ……そうだけどさ」

 「楽しんでもらえたようで何より。さて……どうだ? 連れ出した意味、分かったか?」

気付けば握りっぱなしだったコンサートライトを見つめました。
グリップ側を彼へと差し出し、頷きます。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 20:47:44.70 ID:SPkljqcV0

 「推しを見つけろって事でしょ」

 「全然違う」

 「冗談だって」

控室へと踵を返し、加蓮はおどけてみせました。

 「卯月、すっごいちっちゃかった」

 「ああ」

 「でも、アイドルだったね」

 「……そこまで感じ取れたなら、もう言う事は無いさ」

小さなライブハウスならともかく、
今夜のような規模の会場ともなれば、必然アイドルとの距離は遠くなります。

事実、ステージ上の卯月を見て、加蓮はその小ささにひどく驚きました。
広大なホールと、その空間を満たす一万の観客達と、ゴテゴテと組み上げられた舞台装置。
彼女とそれらを見比べてしまうと、
圧し潰されてしまいそうなくらいに小さく見えてしまったのです。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:01:22.90 ID:SPkljqcV0

けれど、そんなのは最初だけでした。

卯月が手を振る度、卯月が跳ねる度、卯月が笑みを浮かべる度、
彼女の存在感はどんどんと膨らんでいって、
会場を支配しているのはすっかり彼女になっていました。

それが錯覚だったのか魔法だったのか、
まだ胸に渦を巻いている熱が邪魔して、加蓮は答えが出せません。


 「プロデューサー」

 「ん」

 「アタシの曲、早めにお願いね?」

 「ああ。俺も頑張らなくちゃな」


二人はしばらく歩幅を合わせて、微かに響く歓声に耳を澄ませていました。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:17:43.94 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆

 「……ごめん。一箇所トチった」

 「そなの? んー、後で録画観たら分かるかな」

 「ほんと、ごめん」

 「いいって! 初ライブなんだし、ちょっとしたミスなんてかわいいもんでしょ」

 「でも……」

実際、大したミスではありませんでした。
直後にカバーだって出来ていましたし、その後のダンスにも響いてはいません。

ただ、最初の一歩目があまりに上手く行き過ぎたものですから、
必要以上に気に病んでしまうのも致し方無い事でしたが。


 「あー、もうっ! き・り・か・え!
  ほら。後はフィナーレだけなんだし、ゆっくりみんなのライブ観てなって★」

 「美嘉……あの、ありがと」

 「わ。加蓮がアタシにきちんとお礼言うなんて初じゃない?」

 「シツレイな」

 「へへ。そっちのカオのがいーよ★ アタシはもう一曲演るからさ、ちゃーんと観ててよね?」
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:30:06.13 ID:SPkljqcV0

そのまま次の準備へ向かおうとして、美嘉はぴたりと立ち止まります。

 「そだ。担当さんが終わったら来てくれって言ってたよ」

 「どこに?」

 「あり? 言えば分かるって話だったけど」

 「……ふぅん」

 「っと、時間ヤバ。お先っ!」

美嘉の背中を見送ると、加蓮はステージ袖から再び通路へと舞い戻ります。


彼の居そうな場所は、何となく分かっていました。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:37:22.74 ID:SPkljqcV0


 「お疲れ」

 「仕事しなくていいの?」

 「俺のとりあえずの分は終わり。何なら他の手伝いだってしたさ」


関係者席に居たのは彼だけではありませんでした。
何組かのアイドルとプロデューサー達が、
セットリストを確認したり、演出について検討を重ねたり、
ただ単純にはしゃぎ合ったりしています。

ちょうど一曲終えた所だったようで、
ステージ上のフレデリカが客席に向かってキスを飛ばしていました。
黄色い声を上げるファン達を見下ろし、
みんな自分に飛んで来たと思っちゃうんだろうなと、加蓮は何度か深く頷くのでした。

 「加蓮」

 「なに?」

 「もう、こっちが『こっち』だからな」

事も無げに呟いて、彼は加蓮を見つめました。
じっと彼を見つめ返し、またこくりと頷きます。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:53:07.73 ID:SPkljqcV0

 「ほら。ここ、ここ。よく見ておいた方がいい」

 「えーと、フレデリカの次は……誰だっけ」

 「すぐ分かる。あの娘は――凄いよ」

言い終わらない内に、ステージを煌々と照らし付けていた照明が極限まで絞られました。
かつん、かつんと、わざとらしい程に緩やかな足音が暗闇の中に響いて、止まります。

ようやく次のナンバーを思い出し、加蓮はそのまま転げ落ちていきそうな勢いで手すりを掴むと、
乗り出すようにしてステージへと視線を注ぎました。


響き出したのは、ともすれば場違いなサウンド。
これまで続いてきたポップスを午睡の夢に変えてしまう、目の醒めるような電子音。
幾筋もの照明が悶えるかの如く明滅し、
主犯格のシルエットを乱雑に切り取っては撒き散らします。

あちこちで揺れていた光は息絶え、
不意に凪いだ海は沈黙を守り、雑音が消えました。


それから照明が正気を取り戻し、慌ててステージを照らし出す中。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:54:57.84 ID:SPkljqcV0


 『One, Two, X, X』


速水奏は、微笑を浮かべていました。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 21:56:00.36 ID:SPkljqcV0


 『Hotel Moonside』
 http://www.youtube.com/watch?v=kU5ii7DAyxU
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 21:58:20.48 ID:SPkljqcV0
また明日更新します
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 19:45:05.11 ID:QqIdgo5i0

 【W】アグノスティク


千万の人々が暮らす首都とは言え、
流石に松の内ともなれば幾分かは落ち着いています。
ここ代々木公園もどうやら例外ではないようで、
すれ違う人の数も、以前訪れた時の記憶と比べれば随分少ないように感じました。


敷地に足を踏み入れてから五分ほど経ったところで、
ようやくお目当ての姿を見つけます。

サボリーマンでした。
平日午後の陽気を浴びながらスーツ姿で携帯電話を弄る彼を見て、
加蓮はそう断じました。


どうやらまだこちらに気付いていない様子に、
加蓮はサボリーマンだねと声を掛けようかどうかちょっとだけ迷って、
やっぱり言ってやる事に決めます。

 「サボリーマンだね」

 「ひどい」
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:10:35.84 ID:QqIdgo5i0

隣を譲られるまま、加蓮はベンチに腰を下ろしました。

 「めっちゃ歩いたよ」

 「広いからなぁ」

 「待ち合わせ場所に向いてなくない? ここ。寒いし」

 「ここ来てから正直向いてないと思った」

携帯電話をポケットへしまうと、彼は傍らの鞄を漁ります。
取り出した封筒の紐を丁寧に解きながら柔らかい陽光に目を細めました。

 「ただ、これは個人的な意見なんだけど」

 「うん」

 「めでたい事はさ、会議室の中より、こういう……外とか、
  お店とかで伝えた方が嬉しくないか? あと大安だし、今日」


めでたい事。


その一言に、ばっと顔を上げました。
封筒の中からはピンク色の小さな音楽プレーヤーが現れて、
それを見た瞬間、加蓮はほとんど叫び出しそうになりました。


 「おめでとう、加蓮。ソロデビューだ」
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:24:55.06 ID:QqIdgo5i0

胸の内で幾つもの、幾つもの言葉が激しく渦を巻き、
なかなか喉から出て来てくれません。
ただ何度も握られる拳に、プロデューサーは笑いました。

目にも留まらぬ速さでひったくられたプレーヤーのイヤホンを、
目にも留まらぬ速さでぐちゃぐちゃに絡ませた加蓮に、
プロデューサーはもう一度笑いました。


はやくはやくはやく、と加蓮に肩を揺さぶられつつ、
だんだん上半身ごと強めに揺らされながら解いてやると、
彼はイヤホンを加蓮の耳にそっと差し込みました。


手渡されたプレーヤーの電源ボタンをかちりと押し、液晶へ表示された一行。
たった一行の文字列が、彼女の視線を釘付けにしてしまいました。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:29:26.32 ID:QqIdgo5i0



 薄荷 -ハッカ- (北条加蓮)

92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:31:15.75 ID:QqIdgo5i0

 「……薄荷」

 「ああ。加蓮の曲だ」

ほとんど無意識だった呟き。
彼が何か言ってくれているのは分かりましたが、加蓮の耳には届いていませんでした。

もちろん差し込んだイヤホンのせいではありません。
タイトルの後、括弧書きで添えられた『北条加蓮』の名を、
何かと照らし合わせるように見つめ続けるのに忙しかったのです。

 「……聴いても、いい?」

 「はは。イヤでも何度だって聴くんだぞ」

 「イヤじゃないっ!!!」


彼も、叫んだ本人もびっくりしてしまうくらい大きな声でした。
反射的に口元を手で覆うと、吐息が白い霧になって消えてゆき、
加蓮は浮かび上がってきたそれをゆっくりと押し戻します。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:37:35.10 ID:QqIdgo5i0

 「イヤじゃ、ないよ」

 「……そう、だよな。軽率過ぎた。すまない、加蓮」

 「……アタシこそ、ごめん。よく、分かんないけど……叫んじゃって」

何度か深呼吸を繰り返す内に、
耳元へ纏わり付いていたノイズは剥がれ落ちていきました。

世界の音がくっきりと聞こえるようになると、加蓮は視線だけで彼に問い掛けます。
彼が頷いて、加蓮も頷き返して、再生ボタンをタップしました。


小さく流れ始めたピアノソロ。
加蓮が少し驚いてから目を閉じ、仮歌に耳を澄ませる様子を、
彼は隣で見守っていました。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:56:42.12 ID:QqIdgo5i0


 『薄荷 -ハッカ-』
 http://www.youtube.com/watch?v=X2QhlXiV9kA
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:00:54.34 ID:QqIdgo5i0

満ち足りた五分三十秒が再びのピアノソロで締め括られました。
イヤホンを外すと冷たい風が頬を撫で、そういえば今は冬だったっけと遅れて思い出しました。

 「プロデューサー」

問い掛けるような彼の視線に、視線で答えてやります。

 「ぜんっぜん分かってない」



 「…………え、な」

幾つか予想していた加蓮の反応。
そのどれとも異なる鋭い切っ先を突きつけられ、彼は固まりました。

 「ぜんぜんアイドルポップっぽくないし、可愛らしく唄える曲でもないし、
  かと言って元気いっぱいなリズムとも違うし、そうかと思えば格好良さに振った曲調でもないし」

 「え、ちょ、かれ、え?」

矢継ぎ早に捲し立てる加蓮に、彼は困惑を隠せません。
しどろもどろで言葉を探す彼を、鋭く視線で射抜き――加蓮は、表情を緩めました。


 「でも、アタシの曲なんだね。すっごく、良い歌」
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:06:04.98 ID:QqIdgo5i0

雛鳥でも暖めてあげるかのように、
小さな音楽プレーヤーを両手でそっと包み込んで。
一旦緩めた箍は締め直す事も叶わず、
柔らかな笑みはいっそ、春の雪解けのように。


釣られるように彼の表情も柔らかさを取り戻しました。
へへ、と笑みが零れて、止まりませんでした。

へへへへへ、と照れ笑いに似た何かを浮かべる彼を見て、
加蓮はちょっと気持ち悪いな、と思いました。
伝えようかどうかちょっとだけ迷って、今度は伝えずにおこうと決めました。


北条加蓮、気遣いの人です。


 「アタシのだよ。返さないからね」

 「……いや、それは困るな」

 「えー?」

 「ファンに返してもらわないと」
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:14:48.17 ID:QqIdgo5i0

むっ、と、加蓮がおとがいに指を添えて唸りました。
そのままむむむと唸ったかと思うと、指を三本、伸ばします。

 「三倍返しするから」

 「オーケー。交渉成立だ」

 「何の話だっけこれ」

 「めでたい話第一弾。こっから第二弾」

 「えんっ」


対抗するように伸ばされた二本の指に意表を突かれ、
加蓮は変な声を上げてしまいました。
頬を染めてまた口元を抑える彼女の姿に、プロデューサーは肩を震わせました。

 「ユニットを組んでもらう。それも、二つ」

 「……おおー、二つも」

 「加蓮の頑張り、ちゃんとみんな見てるって事さ」
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:23:58.23 ID:QqIdgo5i0

彼の言葉通り、アニバーサリーライブ後の加蓮は以前にも増して熱が入っています。
ポテトだったらからりと揚がるくらいです。
所属当初は液体生物と化していたダンスレッスンも、
最近は何とかヒトの形を保ったまま終える事が出来るまで成長を遂げました。

プロデューサーが封筒から企画書を取り出して加蓮に見せました。
社外秘の但し書きが添えられた表紙をめくれば、
そこに刻まれていたのはユニット名らしき横文字と、デザインされた図形。

 「トライアド……プライマス?」

 「お。惜しい、トライアドプリムス、だ。英語読みなら加蓮の言う通りだけどな」

 「三つの……プリマドンナのプリマで……三つの、一番?」

プロデューサーが目を丸くしました。

 「驚いたな。ラテン語とイタリア語が分かるのか」

 「プロデューサー、アタシを物凄いお馬鹿さんだとか思ってない?」

 「いや、そんな事無いけど……なんか歳下に負けるのって悔しいじゃん」


能ある鷹を気取るつもりも無いようですが、加蓮は教養のある娘でした。
幼い時分から読み、聞き、蓄えてきた知識を有機的に結合し、
一つの情報として纏め上げる行為を苦も無くやってのけます。

今回知識を引っ張り出してきたのは散々引っかき回した神話聖書の棚でしたから、
敢えて言及する気もありませんでしたが。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:33:16.91 ID:QqIdgo5i0

 「単語レベルだよ。聞き齧りの付け焼き刃。で?」

 「正解だよ。俺の意図はそれだけど」

 「それ?」

言いながら指差された先を見れば、三色の三角形。


 「並び立つ、三つの頂点」


すこんと、つむじを叩かれたような気がしました。

 「……プロデューサーが通したの? これ」

 「発案は別。ユニット名とロゴは俺」

 「良いセンスしてるじゃん」

 「もっと褒めていいぞ」

 「メンバーは?」

 「もっと褒めてもいいんだぞ」

 「メンバーは?」

 「渋谷さんと神谷さん……後で顔合わせするから……」

得意気な表情を秒で凹ませ、彼は力無く呟きました。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:42:34.23 ID:QqIdgo5i0

 「ふぅん」

企画書をめくりつつ、同時に頭の中の加蓮ちゃん大辞典もめくってやります。
どちらも覚えのある名前でした。


渋谷凛は事務所を代表するアイドルの一人です。

創設期から在籍しているアイドルで、確かソロデビューも一番手のいわゆる顔役。
何度か一緒にお仕事をした覚えがありますが、
名は体を表すと言わんばかりの、凛とした佇まいが印象的な娘でした。


神谷奈緒のページにはまだ情報があまり書き込まれていませんでした。

確か、加蓮と同時期に加入したアイドル。
一度、何かのついでに二、三、話をした記憶がありますが、
とにかく彼女のもふもふとした髪質が際立ち過ぎていて、
会話中もずっともふもふしてみたいなぁ、等と考えていたため、
肝心の何を話していたのかまではさっぱり覚えていません。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:46:16.87 ID:QqIdgo5i0

 「神谷さんも今頃ソロデビューの曲を貰ってる筈だよ」

 「あ、そうなんだ」

 「次の定例ライブで加蓮のソロと神谷さんのソロ、
  もちろん渋谷さんのソロと、それからユニット曲をお披露目だ」

 「最高。敏腕。男前」

 「もっと褒めていいぞ」

 「ちょっと褒め過ぎた」

 「加蓮?」

 「二つ目のユニットは?」

 「モノクロームリリィ……」

力無く封筒を漁り、やるせなく書類を手渡してくれます。
クールに受け取ってやって、同じように表紙をめくり、加蓮は固まりました。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 22:02:45.40 ID:QqIdgo5i0

 ◇ ◇ ◆


 「何にする?」

 「何がオススメ?」

 「ラテかな。冷たいのも美味しいよ」

 「んー……じゃ、ラテ。あったかいの」


――外で、ゆっくり話そうか。


軽い顔合わせの後、加蓮と奏がそう口を揃えて頷き合い、
互いの担当プロデューサーが情けない顔を見合わせてから三十分と少し。

邪魔の入らない茶店を二人とも知っていましたから、
今回は奏が贔屓する純喫茶へお邪魔する事に決まりました。

壁には往年の傑作映画のポスターが何枚か貼られ、
控え目な有線放送はオールディーズが中心でした。
懐古主義者なのかなと奏を見つめてみると、彼女は美しく微笑みます。
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 22:10:00.11 ID:QqIdgo5i0

 「自己紹介はさっきのでもうオッケー?」

 「ええ。殿方の前では出来ないような、女同士のやらしい話をしましょう」

 「めっちゃ売れてるね。ホテムン」

 「本当にやらしい話をするとは思わなかったわ」

奏のデビューシングルは売れに売れていました。
アニバーサリーライブ随一の話題曲と言って差し支えありません。


カフェラテが二つ運ばれて来ました。
カップを手で包み、外の寒さにかじかむ肌を温めてあげます。
昇り立つ湯気を頼りない吐息で散らしながら、一口。

 「……美味しい」

 「でしょう」

奏は我が事のように喜びました。

 「ねぇ、加蓮。私が苦手?」
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 22:41:46.72 ID:QqIdgo5i0

一口。二口。
少し考えて、もう一口。

 「まずね、急過ぎてびっくりしてるの」

 「そう」

 「それと、奏が苦手な訳じゃないんだ。
  何て言えばいいのかな……いつも余裕のありそうな人が、ちょっと苦手でさ」

 「余裕?」

 「余裕……だと、思う」

奏もカップを傾けました。
音も無くソーサーへと戻し、小さく出した舌先で唇の端をぺろり。
意識した風でもない仕草が妙に艶かしくて、加蓮は口元をカップで隠しました。

 「ふふ……私のこれは、虚勢よ」

 「嘘だぁ」

 「嘘は苦手なの。可愛い女の子と二人で、すごく緊張してるわ」

 「まぁ、可愛いからね」

 「嘘だぁ、って、言わないのね」

 「そりゃあ、可愛いし?」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 22:50:49.74 ID:QqIdgo5i0

二人が笑い合いました。
少しだけ冷めて湯気も落ち着いたカフェラテはちょうど飲み頃のようです。

 「そういえば、加蓮はどんな曲を貰ったの?」

 「アタシ? あー、んと……」

ごそごそとポシェットの中をまさぐって、
折り畳まれたホチキス留めのプリントと音楽プレーヤーを奏へと手渡します。

イヤホンを耳へ差し込み、丁寧に開いてプリントの中を検めると、
奏は軽くこめかみに指を添えながら視線を落としました。
コンタクト着用者の仕草だと、加蓮は何となく当たりをつけます。


曲を聴き終えると、奏はイヤホンを外して軽く髪を振りました。
さらさらと濡れ羽色が揺れて、それが何だか拍手みたいで、
加蓮は何となく視線を泳がせます。

 「良い歌ね」

含みも何も無い、素直な感想。
加蓮だってそう思いますし、
だからこそ、気になる箇所がやっぱり気になってしまうのです。

 「だよ、ね」
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 22:51:17.21 ID:QqIdgo5i0

 「あら。どこか気に入らない?」

 「気に入らないっていうか……折り合いが悪くて」

 「彼のこと? 加蓮のために一生懸命で、とっても素敵だと思うけれど」

 「あー、いや、プロデューサーじゃなくて」

 「……?」

 「その、だから……神様と」


きょとん。

そんな音の聞こえてきそうな顔でした。
彼女にしてはかなり珍しい表情のまま加蓮を見つめていたかと思うと、
俯いて、肩を震わせて、口元を抑えます。


奏は抱腹し、必死に笑いを堪えていました。

 「っふ、ふふ……っ! 加蓮、ふっ、貴女、本当に面白い娘ね」

 「……えーと、どうも?」

 「ふふ……そう、神様と、ね……ふふっ」

何がそんなに面白かったのか、加蓮は見当も付きませんでしたが、
何となく奏も楽しそうだし、まぁ、いいかな、と流しました。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:00:59.75 ID:QqIdgo5i0

目の端に滲みかけていた涙を軽く拭い、
奏はようやくいつもの落ち着きを取り戻します。

 「ねぇ。よければ聞かせてもらえる? 貴女と神様の馴れ初め」

 「馴れ初め、って程のもんでもないんだけどね」


加蓮にとって、過去は隠すものでも、話すものでもありませんでした。
求められれば提示し、そうでなければただ持ち歩く。

生まれた事実を消せはしないように、辿って来た過去とは、現在の自身を構成する要素。
彼女はそう認識しています。


ですから加蓮は、自身の思い出を冗談交じりに語ってみせました。
学会の発表などではない、友人への雑談として。
面白おかしく、時に自慢気に、奏が退屈しないように。
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:10:29.79 ID:QqIdgo5i0

一通り語り終える頃、二つのカップは空になっていました。

 「……ごめんなさいと、言うべきではないんでしょうね」

 「ん。要らない」

 「面白い話だったわ……何か頼む?」

 「ココア。出来ればマシュマロ入りのやつ」

 「一応、訊いてみましょうか」


しばらくして、マシュマロ入りのココアが二つ、運ばれてきました。

 「奏は? 神様好き?」

 「さてね。アグノスティクだから」

 「あー。最近多いよね」


不可知論者――アグノスティク。
知らないものは分かり得ないとする理論であり、
特に宗教においては神の存在について否定も肯定もしない立場を指します。

おおよそ、その辺りの女子高生が喫茶で持ち出す類の言葉ではないでしょうが、
この二人はかなり特殊な一派に属していますので。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:18:41.85 ID:QqIdgo5i0

 「なるほどねー……」

 「神様を唄うのが気に入らないの?」

 「簡単に言うとね。ただ、
  その辺りって昔考えたんだけどさ、結局今でもアタシの中で答えが出なくて」

 「とすると……よく分かってもいないものを唄うのがイヤなのかな」

 「それ。そっちのが近い。さっすが」

 「でもね加蓮。私だって、歌詞の意味を全部理解してる訳じゃないわ」

甘ったるいココアを啜りながら、加蓮が首を傾げました。

 「自分の解釈が合ってるか、作詞家の先生に確かめに行ったりはしてないもの」

 「そりゃ……そうかもしれないけどさ」

 「でも、私は唄った。みんなは、それを聴いた」


明滅を繰り返すステージが脳裏に浮かびます。


 「唄うのは怖いけど、楽しいよ」
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:25:03.16 ID:QqIdgo5i0

 「凄いね、奏は」

 「これだって虚勢かも」

 「嘘だぁ」

凄いアイドルと組んでしまったなと、加蓮は今頃になって痛感していました。
次回の定例ライブに新曲は間に合わないと聞きましたが、
いずれやって来るユニットの初ステージまでに仕上げなければならないのですから。
彼女と並び立てるくらいに。

嘆息しながらふにゃりとテーブルへ崩れた加蓮を見て、奏は妖艶に笑みました。

 「それに、何もひとりで考える必要なんて無いんだから」

 「……ほぇ?」

 「頼れる仲間が居るでしょう? 百人も。すぐ隣にだって」

奏がカップを持ち上げ、一口。
長いまつ毛がぱちりと瞬いたのを見て、加蓮は訊ねました。


 「奏。ココア好き?」

 「さてね。珈琲党だから」

 「ふぅん」


割と甘党っぽいよって、後で担当さんに伝えてやろう。

ちびちびとココアを楽しむ彼女を前に、加蓮はそう決意しました。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:31:58.65 ID:QqIdgo5i0

 ◇ ◇ ◆

事務所へ立ち寄った際、まだ約束の時間まで暇があると、
大抵のアイドルは事務室の片隅にパーテーションで区切られた、
広めの談話スペースに身を落ち着けます。


ダイヤの関係で思いのほか早く事務所へ到着してしまった加蓮もまた、
この日は談話スペースへ顔を出しました。
先客は鷺沢文香ひとりだけで、今日も今日とて耽読に精を出しているようです。

文香の読書好きは事務所内でも有名でした。
邪魔をしないよう近くのソファーに通学鞄を放ろうとしたところで、
彼女が抱えている本に気付きます。
以前に読んだ事のある題でした。


どこまでならネタバレにならないか少しだけ考えて、結局は無難な感想に留める事にします。

 「可愛いよね、ペトロニウス君」
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:38:03.30 ID:QqIdgo5i0

頁と見つめ合っていた視線がすいと上を向きました。
澄み切った美しい瞳に見つめられ、加蓮は思わず半歩だけ退がります。

 「……読んだ事が……お有り、なのですか?」

 「え、あ、うん。昔ね」

 「印象に残っている場面など……宜しければ、伺っても」

 「んー……どこまで読んだの?」

 「この本は、二度目です」

 「へ」

 「この前のお仕事で……猫と触れ合ったのです。
  何となく、猫の登場する物語を……読み直したくなりまして」


想像してしまいました。
日課の読書に勤しみながら仔猫によじ登られ、
傍らに用意した茶菓子をむしゃむしゃとつまみ食いされつつも、悠然と書に向き合っている光景を。

吹き出しそうになり、慌てて首を振りました。
小首を傾げてこちらを伺う文香に向き直り、
自慢の加蓮ちゃん書庫から記憶を引っ張り出してきます。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 23:45:27.13 ID:QqIdgo5i0

 「コールドスリープから目覚めた後、お仕事貰うじゃん?
  必ず一日一回はミスがあるのに気付く場面、けっこー怖かった」

 「なるほど……確かにその場面は、私も覚えています。
  遠からず機械知は人智を超えると、彼は予見していたのかもしれません」

同好の士というのは、お互いの存在を鋭く嗅ぎ付けるものです。
文香もまたご多分に漏れず、今度は加蓮の頁を紐解こうと話を続けました。


 「加蓮さんは……どういった本を、多く読まれるのですか?」

 「最近はご無沙汰だけど、割と何でも。
  小説なら短編かな。好きなように読めるし」

 「と、言いますと……星新一なども」

 「うん。オー・ヘンリーも好き。『ゴム族の結婚』とかほとんど勢いだけで笑っちゃった」

 「確かに……あの作品はユーモラスでした。私は、短編ですと――」

こと、語るという点において、哲学者と読書好きに並ぶ者は居ません。
並びたくもないのかもしれませんが、さておき。


文香は水を得た魚でした。
普段は隠れがちな両の瞳を幼子のようにきらきらとさせ、書について加蓮と語り合います。
なかなか読書好きのアイドルも少ないものですから、ここぞとばかりに。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 00:04:49.12 ID:TaaH9Z3P0


ひとしきり興味を満たし終えたところでようやく、文香は我を取り戻しました。

 「……申し訳有りません。加蓮さんの都合も考えず、独りよがりな会話を……」

 「いいって。レッスンまでまだあるし、久しぶりに本の話ができて楽しかったし」

 「……その、失礼ですが」

 「ん?」

 「意外だったのです。加蓮さんは……今どきの、
  華やかな方で、こうした趣味とは、少し……縁遠いかと、考えていました」

 「あー。ま、そうかもね。昔は熱中したけど……また何か読もっかな」

 「……読書好きの知己が、いらっしゃったのですか?」

 「え?」

 「あぁ、いえ。何か……書に親しむ、契機のような何かが、あったのかと思いまして」


契機ならありました。
入院生活。母の一言。

決して多いとは言えない日々の選択肢の中で、
読書は気の置けない友としていつでも傍に居てくれました。
きっかけが何にせよ、頁をめくるのは加蓮にとって楽しいもので。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 20:20:52.49 ID:TaaH9Z3P0


居るでしょう? 百人も。


不意に奏の言葉が蘇ります。
言いかけた何かが加蓮の口から逃げていって、文香は不思議そうにこちらを見つめていました。

知性を湛えた瞳に、緩慢ながらも理路整然とした語り口。
彼女なら、加蓮の求める答えを持っているかもしれません。

 「文香さんは」

 「はい」

 「……神様って、何だと思う?」

 「神……ですか」

雲を流すかのような物言いとなってしまったにも関わらず、
文香は真摯に考えを巡らせてくれました。

 「神学の心得はありませんので……
  書に偏った考えではありますが……狂言回し、でしょうか」
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 20:31:07.46 ID:TaaH9Z3P0

 「……その心は?」

 「表舞台に姿を現す事は少なく、
  けれども、確かに……この世界に、計り知れない影響を与えています」

 「文香さんらしいね」

 「私には、これしかありませんから」

尚も続けようとして、文香が掛け時計を見やりました。
時計の針は二人が口火を切ってから半周も回り、
加蓮はボーカルレッスンの、文香はダンスレッスンの時刻が迫っています。

 「……加蓮さんは、レッスンの後……少し、お時間はありますか?」

 「え? うん、あるけど」

 「でしたら……終わりましたら、
  また事務所に来て頂いてもよろしいでしょうか。心当たりが、ありますので」

 「おーい加蓮。送るぞー……あ、鷺沢さん、ども」

心当たりとやらについて訊ねようとすると、
ちょうどプロデューサーが談話スペースへとやって来ました。
続きが気になるのは山々ですが、後ろ髪をばっさりと断ち切って荷物を手に立ち上がります。

なにせ遅れてしまうと、天から雷が落っこちるので。
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 20:47:09.77 ID:TaaH9Z3P0

 ◇ ◇ ◆

 「ご紹介します……こちらが」

 「じょっ、道明寺歌鈴ですっ! アイドルだけど巫女です!」

 「クラリスと申します。アイドルですがシスターです」

ダンスレッスンの余波か、文香の体の軸はだいぶ傾いていました。
丁寧に下げられた二人の頭に加蓮もお辞儀を返します。


頭が痛い。
それが加蓮の正直な感想でした。

なぜ巫女がアイドルをしているのか。
なぜシスターがアイドルをしているのか。
なぜよりによってこの二人がデュオユニットを組んでいるのか。
数え上げようとすればキリがありません。


キュート部門の談話スペースにて顔を合わせたアイドルは、二人とも聖職者でした。
冷静に分析し直しても今ひとつ筋の通らない状況に、加蓮は考える事を放棄しました。

正解です。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 21:16:34.87 ID:TaaH9Z3P0

 「こちらが北条加蓮さんです。彼女は、神について知りたいようでして」

 「へぇ〜っ……! 変わってますねー!」


歌鈴が感心したように言い放ちました。


 「とは言え、興味を持ってくださるのは大変素晴らしき事ですわ。
  相互理解の一歩は、まず歩み寄る事ですからね」

クラリスも同様に頷きました。
何だかすっかり信徒になりにやって来たような空気に慌て、
加蓮は視線で文香に助けを求めます。

 「あの……お二人とも……今回は、深い所ではなく……
  信仰の源流、基本的な理念や概念を教えて頂ければ、と」

 「はいはいっ! まず歌鈴さんからっ! お願いしまーす!」

 「ひゃいっ! わ、分かりましたぁー……!」

隙を逃さず、加蓮は高々と挙手。
いきなりのご指名に泡を食いながらも、歌鈴はごひゅんと小気味良い咳払いをし損ねました。

 「けほ、ごほっ……え、えっとですね、
  私は、神道……宗派を抜きにすれば、八百万の神に身を奉じています」

 「うんうん」

 「それで……うんと、神様とは何か、でしたっけ?
  神道の特徴で言うとー……う〜ん……神様は何処にでも居るよー、っていうのが特徴かなぁ?」
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 21:46:28.84 ID:TaaH9Z3P0

歌鈴の隣に座るクラリスも、興味深そうに耳を傾けています。

 「神道の神様……神霊と言ったりもするんですけど、
  神霊は無限に分けられるんです。そして、全て同じ神様なんですよ」

 「……ん、んん……?
  ごめん、ちょい待って分かんない。部下とか遣いとかじゃなくて……同じ?」

 「例えば、分祠……町中の小さな神社がありますよね。
  そこには総本社の祭神、つまり本部が祀っている神様と同じ神様が居るんです」

 「……要するに、クローン?」

 「う〜ん……見方によっては……そうかも?」

歌鈴が小気味良く笑いました。
神道について学んだ事はありましたが、そのような概念は初耳です。

 「それからですねー、とにかくいっぱい居るんです!
  お隠れになっちゃった神様とかもおわしますけど、それでもいっぱい!」

 「例えば?」

 「糸車の神様とかは流石に引退なさったでしょうけど、
  たぶんアイドルの神様とかはけっこう前に降臨されてると思いますよ?」

 「……なるほどね」
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 22:16:58.66 ID:TaaH9Z3P0

 「こんな所ですかねー」

 「ありがとうございます。では、クラリスさんからも」

 「かしこまりましたわ」

傾きの緩やかになってきた文香に水を向けられ、クラリスが柔らかく笑みました。

 「私見も混じりますが、主は私達の裁定者なのかと思います」

 「おっかないね」

 「善きを助け、悪しきを罰する……
  加蓮さんの仰るとおり、ちょっぴりこわいかもしれませんね。
  ですが主は、人に寄り添おうと、近くで見守ろうしているのではないでしょうか」

クラリスが胸元のブローチを撫でました。

 「それから……」



 「……クラリスさん?」

 「ああ、申し訳ありません……これは、幼い頃、
  私の尊敬するシスターから教えて頂いた話なのですが」

 「うん」

 「私達は、誰でも一度――主の声を聞くそうです。
  そしてそれを、主の声だと気付ける者は、数えられる程に少ないと」
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 22:27:27.95 ID:TaaH9Z3P0

どこかで聞き覚えのある話でした。
さてどこで聞いた話だったかなと考え込みそうになりましたが、
ふと、慈しむようにブローチを撫で続けるクラリスの指先が目に留まります。

 「あの、クラリスさんはさ」

 「ええ」


 聞こえたの?


口を出た言葉の呪いを、恐ろしさを、加蓮は知っていました。
伝えてはいけない言葉を飲み込んで、伝えるべき言葉を真摯に差し出します。

 「……ううん。何でもない。教えてくれてありがとね」

 「どういたしまして」

見透かされたなと、加蓮は直感しました。
軽い自己嫌悪を抱きかけた加蓮に、クラリスは慈愛の笑みを浮かべてみせます。


 「主の加護があらん事を」
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 22:40:42.51 ID:TaaH9Z3P0

 「……うん。結構スッキリ、し?」

 「……うんー……?」

ソファから腰を上げようとした瞬間、加蓮の膝の上で何かが転がりました。
おそるおそる確認してみれば正体は小さな女の子で、
加蓮の膝を枕にしつつ、薄く開いたまぶたをこしこしと擦っているところでした。

 「へっ? こずえしゃんっ? あれ? いつの間に……?」

 「んん〜……」

歌鈴もクラリスも、もちろん文香も加蓮も、驚いて遊佐こずえを見つめました。
健康的なあくびと伸びを披露すると、すぐそばにあった加蓮の顔をじっと見上げます。

 「かれんはー……かみさま、しりたいのー……?」

 「……うん」

 「そっかー」

そう言うとこずえはまた目を閉じて、小さくゆらゆらと揺れました。
困惑に包まれたままの四人に見つめられながら、ゆらゆら、ゆらゆら。
そして薄く目を開けると、加蓮の膝の上へよじ登りました。


 「かみさまはねー……さがしても……
  いなかったりー……たくさんかんじたりー……ふわふわしてるのー……」
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/01(金) 23:03:21.07 ID:TaaH9Z3P0

 「……うん」

 「こすえたちをー……みてたりー……
  みてなかったりー……こたえてくれたりー……はなしてくれなかったりするー……」

 「うん」

 「だからー……きにしない……きにするなー」

小さな手がぺちぺちと加蓮の頬をはたきました。


 「かれんはー……かれんのやりたいように……やるのー。やっちゃえー……」


頬をはたく間隔が徐々に間延びしていって、聞こえなくなって、
代わりに安らかな寝息が聞こえてきました。

倒れていかないようこずえの身体を捕まえて、
起こさないようふわふわのつむじを撫でてやります。
平熱で一度くらいは違いそうなぽかぽかの身体を抱き、加蓮は三人に笑いかけました。

 「だってさ」

見守っていた三人も破顔しました。
結局立ち上がれなくなってしまった加蓮を囲み、
今度は他愛も無いガールズトークに花が咲きます。


今なら何だか、上手く唄えそうな気がしました。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:03:09.95 ID:EfLG+Erp0

 【X】アヴァンチュール


 「そうだったなぁ……赤かったよ」



 「……赤いの?」

 「うん」

ナポリタンにフォークを突き立てつつ、加蓮は首を傾げました。
愛らしいほっぺたに散った赤を拭ってやりながら父が頷きます。

 「まっかなお家がいっぱいなの?」

 「いや、何て言えばいいのかな……全体的に赤っぽいんだ」

 「……?」

 「土とか、木の幹とか、遠くの景色とか……そこかしこが、ちょっとずつ赤い」

 「よくわかんない」

 「うーん」

父が唸りました。
頭の中と同期させるように、フォークで麺をくるくると巻き取ります。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:15:36.22 ID:EfLG+Erp0

 「後は、ハエが凄かったかしら」

 「あぁ。そう、そう! あれは凄かった……何だったんだろうな」

 「えー……なんかヤだなぁ」

 「そういえばシリアル食べたら洗剤の味がしたっけ」

 「あったわねぇ」

 「へんなとこ」

 「いやいや、良い国だったよ。オーストラリア」


一足先に昼食のナポリタンを食べ終えた父がどこからかアルバムを持ってきました。
ケチャップが跳ねないよう加蓮たちの皿から離して置き、ゆっくりとめくって見せます。

 「あ! ゲームセンター!」

 「ああ。オスの鹿だけ撃てってゲームが難しかったな。見分けつかなくて」

 「このお馬さん、なんで町にいるの?」

 「こっちはニューヨーク。おまわりさんがパトカー代わりに乗ってたみたい」

 「へー」
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:23:06.45 ID:EfLG+Erp0

今よりも少しだけ若い二人が笑い合う写真の数々。
自身が生まれるよりも前の記録を、加蓮は興味深そうに眺めていました。

雄大な景色を収めた写真に、何故撮ったのか全く分からない写真。
加蓮が次々に疑問をぶつける度、両親は懐かしむように思い出を語ります。

 「いろんなとこ、行ったんだ」

 「まぁ、昔はね」

 「ねぇ、わたしも行ってみたい! 外国っ!」

 「ん……」

 「アメリカでもアフリカでもいいから! ねっ?」

愛娘が父に向けて手を合わせます。
ごちそうさまの呟きに、両親も釣られてご馳走様でしたと呟きました。

 「じゃあ、お父さんにお金、いっぱい稼いでもらわないとね?」

 「うん!」

 「いや、俺歩合給じゃないけど……まぁ、いいか」


苦笑する父と微笑む母が、加蓮の頭上で目線を交わします。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:33:53.62 ID:EfLG+Erp0

 ◇ ◇ ◆


 「――ちゃん。加蓮ちゃん」



 「……んぅ? なに? 機内食……?」

 「じゃ、ないんですけど……ほら、あそこ!」

 「んー……?」

卯月が肩を揺さぶってくるのと同時でした。
ぽーん、とアナウンスが流れ始め、ベルト着用を促すサインが点灯します。
隣に座る卯月から何度も何度も指差され、
加蓮は寝起きの緩慢な動作で窓の外を見やりました。

 「おー……割と細長いなぁ」

 「周りが全部海なんですねー」

 「島って全部そうじゃない?」

 「……あ、あはは……確かに」

海外の空気に浮かれる卯月へ、加蓮が眠気混じりの無粋を突き刺しました。
照れ笑いを浮かべる彼女に軽く笑みを浮かべ、加蓮は再び目的地を見下ろします。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:43:39.40 ID:EfLG+Erp0

事前のリサーチによれば、あの場所は何と『天国に一番近い島』。
なら、遥か空から見下ろしている自分達は、もう天国の住人だったりして。


機上で縁起でもない事を考えながら、
加蓮は先程までの夢うつつで覗いていた、懐かしい記憶を振り返ります。
そういえば久しく母のナポリタンを食べてないなと気付いて、
気付いたところでしばらくは食べられそうにありませんでした。

 「卯月は海外旅行ってした事あるの?」

 「はい! 今回で四ヶ国目ですね」

 「おー、流石は島村家のご令嬢」

 「ふ、普通です……よね?」

 「ふふ……どうだか」


今なら分かります。

万が一の事態も考えれば。
加蓮の身体を慮れば。
例え連れて行きたくとも、加蓮を海外へ連れ出す訳にはいかなかったのだと。

パスポートを取りたい。
そう告げた時のひどく驚いたような父の顔を、加蓮はまだ覚えています。
テレビのリモコンを握ったまま目を閉じ、
静かに返された、そうか、という言葉も。
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 22:53:09.40 ID:EfLG+Erp0

 「卯月」

 「?」

 「アイドルって、凄いんだね」


家を出立する際、両親は彼女を見送ってくれました。

不安に押し潰されそうな表情ではなく、
薄く何かを誇るような笑みを浮かべて。

 「さーて。記念すべき一歩目の土は硬いか、軟らかいか……」

 「着くのは空港ですし、しばらくコンクリートだと思いますよ?」



 「……」

 「ふひゃ、はゆっ……!? ふぁれんひゃ、なんへぇ……?」

卯月の頬を軽く引っ張ります。
純国産のそれは大変柔らかく、良い具合でした。
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:01:28.96 ID:EfLG+Erp0

 ◇ ◇ ◆

まだ撮影も始まっていないというのに、
エメラルドブルーを目指し、シンデレラ達は我先にと裸足で駆けて行きました。

 「置いてかれるぞ?」



 「海は逃げないでしょ」

 「まぁな」

いつ見てもスーツ姿のプロデューサーですが、
今回ばかりはさしもの彼もそうは言っていられないようです。
足にはサンダル、下はチノパン、上はシンプルなポロシャツと、
彼にしては随分とラフな出で立ちです。

 「しかしまぁ、呆れるくらい碧いな」

 「ね」

透き通るような海に、抜けるような空。
贅沢に過ぎる景色を背に、少女達がそれはもうはしゃぎ合っています。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:11:10.40 ID:EfLG+Erp0

 「ところで加蓮、泳げるのか?」

 「ううん」

 「だとは思った」

加蓮も裸足ではありましたが、水着の上にはパーカーを羽織っています。
両親から持たされた鍔広の帽子を直し、彼をすいと見上げました。

 「泳げなくたって構わないさ。とりあえず浮かんでみればいい」

 「人は水に浮かないよ」

 「そこからか……」

苦笑を零しつつ、彼は海へ向けて歩き出しました。
二歩ほど遅れて加蓮が後をついて行くと、さり、さりと砂浜が音を立てます。
砂浜が湿り気を帯びてなお気にする様子も無く、立ち止まった加蓮の前で、
彼はチノパンとサンダルのままじゃぶじゃぶと海へ分け入ります。

 「……ズボン、いいの?」

 「そのうち乾く。あと、少しくらい濡れた方が良い男になる」

 「……」

 「ほら、そこでこう……もう良い男じゃんとか、こう、何か一つ」

 「呆れるくらい碧いね」

 「さっき言った」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:18:59.82 ID:EfLG+Erp0

頭を掻く彼に笑い返し、加蓮が足を振ってサンダルを放り投げます。
閉めていたジッパーを下ろし、パーカーもそこらに放り捨てて。
寄せる波が、薄い青に彩られた彼女のつま先にキスをしました。

足の裏にくすぐったさを感じながら、加蓮は歩みを進めます。
彼の見ている前で一度深呼吸をし、勢いをつけてざぶんと潜りました。


 「――ぷは、っ」

すぐに水面から顔を出します。
細い髪の間を冷たい水が流れ落ちてゆき、唇が少ししょっぱくなりました。
視界は蒼と碧だけで満たされていて、
二つは遥か遠く、水平線の彼方で互いに混じり合っていました。


憧れるだけの場所だと、あの頃はずっとそう思っていたのです。
水着で、海なんて。
どこか遠い世界の、ただの御伽噺だと。

ですが加蓮は今、海水の塩辛さを。
流れ落ちる雫の冷たさを。
容赦無く焦がそうとする南天の太陽を、その肌で感じていました。


 「海だね」

 「ああ」
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:33:18.12 ID:EfLG+Erp0

水も滴る良い加蓮が振り向きます。
こちらを見ていた彼と視線が合いそうで合いません。

やや、下を向いていたので。

 「視線がやらしい」

 「アイドルなんだ。少しずつ慣れてくれ」

 「あ、やらしいのは否定しないんだ」

 「男の子だからな」

 「十年早く言いなよ」


昔の事は昔の事。
加蓮は今やすっかり健康体でした。
年頃の少女らしくごく健全に発育して、不健全な視線を集めてしまうくらいには。


 谷間は、見せ得。


そう強く、強く主張する美嘉に言われるまま見繕った、フリル飾りの水色ビキニ。
鎖骨のくぼみに溜まっていた水滴を人差し指で弾くと、
伸ばした指先へ釣られるようにして彼の視線も泳ぎました。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:45:53.62 ID:EfLG+Erp0


 「楽しそうね、お二人とも」


流石の奏も南国の陽気に中てられたかもしれません。
いつもより気持ち濃いめの笑みを浮かべつつ、彼女が二人へと歩み寄って来ます。

抜群と形容して差し支えない彼女の肢体を包むのは紺のビキニ。
何が十七歳なんだと、加蓮は心中で小さな溜息を吐きました。

 「この海とも仲良くなったでしょう? そろそろ撮影開始だって」

 「あ、お仕事で来てたんだっけ?」

 「ふふ……私も思い出したのはついさっき、だけどね」


南の島でのピンナップ撮影。
近頃スケジュールの詰まり気味だったアイドル達へ、
容赦無く追加で積み重ねられてしまったお仕事です。

何につけても、お題目というのは大変重要ですから。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/06(水) 23:51:20.91 ID:EfLG+Erp0

 「うん、今行く。プロデューサーも、」


目は口ほどに物を言う。


至言でした。
振り向いた加蓮の前で、彼は奏を一心不乱に見つめるのに忙しそうです。
口を小さく半開きにして、ウソだろ、等と呟いているのが聞こえました。

加蓮はしばらく考えてから、
水面を蹴り上げるようにして彼へ激しい飛沫を見舞わせます。


 「ぶわっ!」

 「行こっか奏。えっちデューサーは置いといてさ」

 「あら。折角良い男になったのに?」

 「それさっき言ったからもういいよ」


にこやかに笑い合い、二人がみんなの元へと駆けて行きます。
プロデューサーはずぶ濡れになりながらしばらく立ち尽くし、


 「……嘘だろ…………」


万感の思いを反芻していました。
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 00:04:31.64 ID:XPAMg3p00

 ◇ ◇ ◆


 「はい♪ 事故だけはくれぐれも気を付けてくださいね?」

 「すみません。ほんと助かりました」

 「いえいえ。ご飯、忘れないでくださいね? それではごゆっくりー♪」


キーを彼へと託すと、
洒脱な服に身を包んだちひろはご機嫌な様子で市街へと消えて行きました。

もう一度ぐるりと一周しながら装備を確認するプロデューサーのそばで、
加蓮は欧風の街並みをきょろきょろと見渡します。

 「よしオッケー。乗ってくれ」

 「はーい。というか右ハンドルなんだ」

 「左は昔一回乗ってみた事あるが、怖過ぎる」

 「よく見つけたね、右ハンドルのオープンカーなんて」

加蓮が助手席へと乗り込み、
シートベルトをしっかり閉めたのを確認してからサイドブレーキを戻します。
レンタカー屋のガレージに軽快なエンジン音を響き渡らせて、
四人乗りのオープンカーは青空の下へと繰り出しました。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 00:14:06.23 ID:XPAMg3p00

 「ちひろさんが見つけてくれたんだよ。というか、手配まで含めて全部」

 「相変わらず何でも出来るね、ちひろさん」

 「なかなか高くつくけどな……」

 「今回は?」

 「さっき言ってたろ。何か有名らしいレストランでディナー奢り」


市街地には信号が少なく、飛ばす車も見えません。
ローマではローマ人のようにせよ。
路上駐車の陰に気を配りつつ、ゆったりと安全運転で流していきます。

慣れない右側通行に慎重なハンドル捌きで対応し、
ようやく太い道へ出られた彼が強張っていた肩を緩めました。
と、同時に、急に静かになっていた加蓮に気付きます。


助手席で、加蓮は何とも形容し難い笑みを浮かべていました。
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 00:27:25.70 ID:XPAMg3p00

 「やるじゃん」

 「は?」

 「いいんじゃない? 南の島でひと夏のアヴァンチュールなんてさ」

 「ああ、ちひろさんはそういうの一切無いぞ。マジで。砂粒ほども」



 「え?」

 「めでたくステーキとロブスターをガッツリ奢らされる予定だ」

 「……良かったね」

 「おう、涙が出るくらいな」


交差点を曲がった先の道は、まっすぐに海へと伸びていました。
彼はどこからか取り出したサングラスを無言のまま着用すると、
もう一本を助手席の加蓮へと差し出します。
加蓮もサングラスをそっと掛け、無言のまま行く先の大海原を見つめました。


しょっぱい。


そんな小さな呟きが、海風にさらわれていきます。
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 20:34:28.08 ID:XPAMg3p00

 ◇ ◇ ◆

念のため、髪をアップに纏めておきましたし、上着だって一枚羽織ってあります。
ですが彼は飛ばす訳でもなく、海岸沿いの道を法定速度で流すだけ。

加蓮にとって、窓も屋根も無いドライブは、やはり生まれて初めての体験でした。
運転席の彼ほどではありませんが、それなりの上機嫌が顔を覗かせ始めます。

 「それで?」

 「うん?」

 「随分と楽しそうだけど、何でアタシを連れ出したの」

 「あー、そりゃ両方同じ答えになるな」

 「?」

 「ずっと叶えたかったからな」

夫婦らしき男女を乗せたスポーツカーとすれ違う間際、軽くクラクションを鳴らされます。
応えるようにこちらも鳴らし、軽く手を振りました。

 「夢だったんだよ。外国の海岸沿いを、
  助手席に可愛い女の子乗せたオープンカーで走るのがさ」

 「奏でも乗せたらよかったじゃん」

 「悪かったって……アレは……男なら仕方無いんだよ」

 「そうだね。男の子だもんね」

 「ぐぬ……」
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 20:45:51.03 ID:XPAMg3p00

彼を言い負かし、加蓮はひとしきり満足しました。
窓枠へ軽く肘を掛け、纏め損ねた毛先を風の妖精に遊ばせてやります。

 「夢だったんだ」


出し抜けに呟いた加蓮へ、彼の視線が続きを促します。

 「水着で、海で泳ぐの」

 「ささやか過ぎやしないか」

 「昔の、ね。ちっちゃな私には、おっきな夢だったの」

サングラスに隠れて、彼の表情はよく伺えませんでした。

 「さっきの質問だけど」

 「ん」

 「答え、もう一つあるな」

 「うん」

 「加蓮とゆっくり、話してみたかったんだ」
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:00:46.29 ID:XPAMg3p00

唇を結び、加蓮は彼の顔を見つめます。
そして、にっと笑ってみせました。

 「話したかったんだ? 可愛い女の子と」

 「そう言われるとガールズバーみたいだな……」

 「行ったんだ」

 「行ってない……行ったっていいだろ別に」

 「お話くらい幾らでもしてあげるよ? 三十分につきアイスかポテトいっこね」

 「そりゃ財布に優しくて助かるよ……」

加蓮に比べればやや苦味の混じった彼の笑み。
それが彼女お気に入りの表情なのを、当の本人は知る由もありません。

 「俺はまだ、加蓮の事をほとんど知らないんだ。
  誕生日と、趣味と、好きな食べ物と、スリーサイズくらいしか」

 「割と充分じゃない……? いいけどさ」

ハンドルを握り直し、今度は彼から口を開きました。

 「イヤだったら、話さなくてもいい」

 「うん」

 「身体が弱かった、ってのは前に聞いたけど……相当だったのか?」
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:14:21.11 ID:XPAMg3p00

 「ま、ね。幼稚園とか小学校の頃は病院を行ったり来たりだったし。
  生まれたばっかの頃とか、何か赤ちゃん用の機械に入れられてたらしいし」

 「それは……相当だな」

 「遺伝性の呼吸器系でさ。お母さんが抱えてたみたい」

 「親御さんもか」

 「大人になってから発症したお陰で、お母さんは結構すぐ治ったんだって。
  でもアタシ、小さかったからさ。強い薬もなかなか使えなくて……結構長引いちゃったんだよね」


語る内に、鋭い痛みが胸を刺しました。

忘れられたくとも忘れられない、人生で最悪の一言。
子供ながらに言い放つべきではなかったとすぐに理解して、
けれどもう取り戻す事の叶わなかった呪いの言葉。

幻痛に上着の胸元をぎゅうっと握り締めます。
隣のプロデューサーは迷うように目線を送り、けれどどうする事も出来ません。

 「……すまない」

 「ううん。いつかは知る事だったし」

加蓮が軽く答える一方で、彼は沈痛の面持ちを浮かべていました。
頬を軽く掻きながら、彼女は努めて明るい声音を出します。
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:31:16.33 ID:XPAMg3p00

 「だからホラ、ウチの親ってアタシにダダ甘なんだよね。
  昔から欲しいって言ったものは大体何でも買ってもらえたし」

 「……可愛い一人娘だから?」

 「そうそう」

その甲斐あってか、彼の表情も少しは晴れてくれました。
これはもうひと押しが必要だなと、加蓮はわざとらしく咳払いを一つ。

 「で、今度はこっちの番」

 「あー、俺の話か? スリーサイズは内緒な」

 「切れた輪ゴムよりどうでもいいから大丈夫」

 「ひどい」

 「彼女いるの?」

悲哀の呻き声をおろしポン酢のようにさっぱりと無視して質問を投げました。


 「あ、それはどうでもよくないのか」

 「破けたレジ袋よりは」

 「お願いもっと興味もって」


可能な限り女子高生らしい話を振ってあげたつもりでした。
何がお気に召さなかったのだろうと加蓮は口を尖らせます。
144 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:45:37.33 ID:XPAMg3p00

 「いないよ」

 「そうなんだ」



 「……」

 「……え、いや、そこから話広げてくれたりしないの」

 「もう、注文が多いなぁ」

 「えぇ……?」


絵画のようにくっきりと塗り潰された自然を背景に、真っ赤なオープンカーは走ります。
何故か『事務所のアイドルでお付き合いするなら誰か』という話題へと発展し、
最終的に『顔で選ぶな』と結論付けられたところで、彼が長く大きく溜息を吐きました。

 「あ、そうだ音楽流すの忘れてた……なに聴く?」

 「どんなの用意してきたの?」

 「やっぱこういうドライブには洋楽だろ」

片手でサイドポケットを探り、用意しておいた音楽プレーヤーを取り出します。
ケーブルを繋ぎ、カーステレオへの接続ジャックへと差し込みました。
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:51:26.71 ID:XPAMg3p00

 「ご贔屓のグループは? あれば掛けるぞ」

 「贔屓って程でもないけど……カーペンターズは入ってる?」


プロデューサーが口を開けて加蓮を見つめました。
ハチドリが巣を作るのなんかににちょうど良さそうな開き具合です。

 「ちょいと。前見て前」

 「……っと。すまん」

幸い、海岸線沿いの一本道に正面衝突するような障害物はありません。
ほんの少しハンドルを切れば車はすぐに舵を取り戻しました。

 「何? 洋楽の一つくらい聴いてちゃ変?」

 「変というか……カーペンターズ、聴くのか」

 「両親が好きでね。旅行先の車なんかでよく聴いてたの、思い出してさ」

 「……そうか」

滑らかに喋っていたプロデューサーが再び黙り込んでしまいました。
どこか逡巡するように、握ったハンドルを指先でとんとんと叩いて。
訝るような視線を加蓮から向けられつつ、手元のプレーヤーをタップします。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 21:59:45.33 ID:XPAMg3p00

 「何だ。入ってたんじゃん」

流れ始めたのは耳馴染みのあるメロディ。
穏やかで落ち着いた、どこか懐かしい曲調は加蓮の眉を少しだけ緩ませます。

 「このボーカルの女性、なんて人だか知ってるか」

 「え? さぁ……メンバーの名前までは」

 「カレン・カーペンター」


緩んだばかりの眉がきゅっと上がりました。

 「カーペンター、って本名だったんだ……というか、カレン?」

 「ああ。ご両親は多分、彼女から加蓮の名前を取ったんじゃないかな」

 「……なのかな」

 「あれだ。小学校の頃、名前の由来を両親に聞いてみようって作文があったろ」

 「何で知ってんの」

 「一昔前の指導書に載ってたからな。みんな書くんだよ」

 「……指導書?」

 「教師用の教科書みたいなもん。俺は教育学部の出身だ」

 「へ」
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:11:02.27 ID:XPAMg3p00

加蓮がじろじろと彼の全身を眺め回します。
この人が、まかり間違ったら教師に。


 「そこ、笑わない」

 「っふふ……あは。ごめん、笑っちゃってた? っふ」

 「笑い過ぎだ……まぁ、俺も生徒じゃなくてアイドルを育てるとは思わなかった」

 「人生って大変だね」

 「全くだ……で? 両親は何て言ってたんだ」

 「んー……」

燦々たる太陽に煌めいて仕方が無いエメラルドブルーを眺めながら、
加蓮は再び記憶の海へと潜ります。

確かあれは、小学校の中学年。
中には自身の名に用いられている漢字を習い始める子も居る、そんな頃でした。

 「蓮の花みたいに綺麗で、可憐に育つように……だったかな」

 「うん。小学生にはそのくらいが限度だろうな」

 「限度、って」

 「ここからは……だいぶ勝手な想像になる」

彼の声が少しだけ密やかになります。
加蓮が小さく首肯だけを返しました。
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:17:03.70 ID:XPAMg3p00

 「カレンって読みは多分、もともと二人の間で決まってたんだろう。
  それから加蓮が生まれて……疾患を抱えているのを知ってしまった」

 「……」

 「カレン・カーペンターは最後、摂食障害って病気で亡くなったんだ」

 「続けて」

 「彼女と同じ結末は辿らせたくない。
  だからご両親は、その字を贈ったんじゃないかな」


加蓮。
数ある両親からの贈り物の中で、最も大切なたった二文字。


 「加は、プラス。伸びる、育つ、重なるって意味だ」

 「蓮は?」

 「生命力の象徴。『泥より出でて泥に染まらず』、って詠んだのは誰だったか」

 「……」

 「良い名前と、良いご両親だ……全部俺の勝手な想像だけど」
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:23:21.76 ID:XPAMg3p00

思い出を数え上げれば、楽しい記憶はそれほど多い訳ではありません。

ですが苦しい時や、辛い日には、常に母か父が傍に居てくれました。
震える手を握ってくれたり、退屈しのぎの話を聞かせてくれたり。
きっと、ただひとりのままだったら、
いずれどこかで消えてなくなってしまっていたかもしれません。


掛けっぱなしだったサングラスをずらしました。
途端、遮られていた風と陽光が目を襲い、加蓮は目を細めます。

ニューカレドニアは眩しかった。
日本へ帰ったら二人にそう伝えようと、加蓮は遥か彼方の故郷に思いを馳せました。


 「カーペンターズなら……この曲は知ってるか?」

プロデューサーがプレーヤーを操作すると、
耳馴染みはある、けれども聴いた事の無い旋律が響き始めます。

 「知らない。なんて曲?」

 「邦訳は……忘れたけど、『古き良き日々よ』ってところかな」

 「ふぅん……何でまた?」

 「何となく、な」
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:28:14.89 ID:XPAMg3p00

真っ赤なオープンカーに乗って。
南の島の海岸沿いを走り抜けて。


昔の自分が想像もしていなかった未来を、加蓮は今、歩いていました。

以前、文香の読んでいた小説のように、
タイムマシンで過去の自分へと会いに行ったら。
昔の自分はどんな顔をしてくれるだろうと、ふと考えてしまいます。


 「プロデューサー」

 「ん」

 「何か食べたい。どっか寄ろ」

 「えー……俺、フランス語喋れないぞ」

 「サバ。何事も挑戦だよ」

 「鯖……って、この国でも食べんの……?」

 「いや、違うって」


ひょっとしたら、死ぬほど驚いてしまうかもしれません。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:34:32.22 ID:XPAMg3p00

 ◇ ◇ ◆

 「やー、バスタブでシャワーって慣れないねー……って加蓮、なに聴いてんの?」

シャワーを終え、下ろした髪も艶やかな美嘉がベッドルームへ戻って来ます。
ふかふかのベッドに寝転びながらイヤホンを耳へと差し込む加蓮に気付き、
大きくも小さくもないお尻をその脇へ沈めました。

 「カーペンターズ」

 「へー! そういうの聴くんだ」

 「さっき配信されてるの買ったばっかだけどね」

加蓮が片耳から抜いたイヤホンを拭って差し出します。
美嘉は携帯電話を挟むように隣へと寝転びました。

 「カーペンターズってあれでしょ、シャラララー……ってやつ★」

 「うん。それが一番有名かな」

 「お。これは聴いた事ないかも。どんな歌?」

 「えっとね――」


少女達の未来を彩るように、文字通り満天の星が夜空を輝かせています。
まだまだ眠る様子も無い二人の頭上で、ゆっくりと夜は更けていきました。
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:40:28.76 ID:XPAMg3p00


 『――幾つもの古き良き夢たちが舞い戻って』


 『一つ一つ叶っては、正夢に変わっていくよう』


 『あの頃ずっと見つめ続けていた、夜明けの兆しが』


 『今朝も変わらず差し込んでくるみたいに――』
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/05/07(木) 22:44:02.43 ID:XPAMg3p00


 『Those Good Old Dreams』
 http://www.youtube.com/watch?v=7N32bjoyNOw
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:48:47.80 ID:XPAMg3p00

 【Y】パズルピース


人は、人生の約三分の一をベッドの上で過ごすと言われています。


だからこそ加蓮は、今までベッドの上で過ごしてきた時間を埋め合わせるように、
遊び、学び、はしゃぎ回るように努めてきたのです。
北条加蓮、遅寝早起きが信条のアイドルでした。


彼女ほど時間の価値をよく理解しているアイドルは他に居ません。
レッスンルームは借りた時間いっぱいまで、
許された外出は門限いっぱいまで使い切るような生き方を心掛けています。

もちろんライブもその範疇です。
ツアーの最終日ともなれば余力を残しておく意味などありません。
加蓮は持てる力の限りを尽くして最高のパフォーマンスを叩き出し、
今はこうしてベッドの上で奈緒からいいように頬を突っつかれているという訳です。


紛う事無き自業自得でした。
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 22:54:25.15 ID:XPAMg3p00

 「なー、かれーん……そろそろ機嫌直してくれって」

 「……別に、上機嫌だけど」

 「口調が超不機嫌なんだよなー……」

 「桃、剥いたよ」


北条家、加蓮の部屋。
セカンドアニバーサリーツアー千秋楽の翌日、
凛と奈緒は、はしゃぎ過ぎたお蔭で体調を崩した加蓮のお見舞いにやって来ていました。

身体が崩れれば往々にして心も崩れやすいもの。
病に臥せった際の見舞というのは、本当に嬉しくなるものです。

加蓮は心根の優しい娘ですから、友人達のお見舞いに機嫌を損ねる道理もありません。


例えば、大切な時間を削られたのでもない限り。
156 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:00:13.98 ID:XPAMg3p00

 「邪魔したのはほんと悪かったけどさぁ……わざとじゃないんだって」

 「別に……Pさんは関係無いし」

 「あ、加蓮。それなんだけどさ、前は『プロデューサー』って呼んでなかった?」

 「……プロデューサーは関係無いし」

 「いやもう遅いから。はい桃」

ぷりぷりと膨んだ頬に瑞々しい白桃を押し込んでやると、
しばらく加蓮がおとなしくなります。
あのね、子供じゃないんだよと言おうとした鼻先に二切れ目を差し出すと、
また加蓮が静かになりました。

 「あのさ、加蓮」

 「ふぁに」

 「お行儀悪いのは置いといて、ここに私達の写真があるでしょ」

自ら頬張らせておいてマナー指導とは何様なんだと言いたくなる気持ちをぐっと堪え、
キャビネットの上に視線を送ります。


ネイルケア用品と並ぶ緑のフォトフレームには、
加蓮と奈緒と凛、トライアドプリムスのスリーショットが収まっていました。
二切れ目の桃を嚥下すると、既に目の前には三切れ目がスタンバイしていたので、
加蓮は丁寧に手で差し戻します。
157 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:06:22.03 ID:XPAMg3p00

 「ん。あるね」

 「我ながらよく映ってるよなー」

 「その隣」

左手の指先だけがぴくりと動きました。
しかし緊張の表面化を加蓮はその僅かな動作だけに抑え込み、
素知らぬ顔で話の続きを待ってやります。


凛にはその様子がよく見えていました。


 「同じサイズの写真立てがもう一つ、ちょうど置けそうなくらいのスペースが空いてるね」

 「そうかな?」

 「担当さんと入れ替わりで入ってきた以上、
  他の部屋に移す時間は無かった筈。奈緒。部屋内にあるよ」

 「応」

 「ごめんなさい素直に渡すから勘弁してください」

 「うん。素直で大変よろしい」
158 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:15:01.51 ID:XPAMg3p00

ぐぬぬと屈辱に身を震わせつつ、
ベッドフレームとマットレスの隙間に放り込んでおいたそれを明け渡します。
凛と奈緒はへぇ、ほぉ、ふぅん、なるほどね、ははぁ、
と好き放題に呟きながら笑みを浮かべました。

破門の取り消しを請うた皇帝はこんな心持ちだったのかなと、
加蓮は遠く中世に思いを馳せました。

 「違うから」

 「何も言ってないぞ」

 「丸くなったね加蓮」

 「違う」

 「へへへ……こちとら卯月とか美嘉に訊いて知ってるんだからな。尖ってた加蓮」

 「ぐぬぬ」

病につけ込んでからに、と加蓮は自身の無力さを嘆き、
同時に奈緒いじりネタ貯蔵庫の具合を確かめます。

まぁまぁストックはあったので、少し気分は晴れました。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:24:58.00 ID:XPAMg3p00

奈緒がくしゃみをして、
やべ、移ったかな、などとのん気にティッシュを拝借していると、
控え目なノックが響きました。

 「お邪魔しまーす。良かったら甘いもの、いかが?」

 「わー! いいんですか? やったぁ!」

 「こちらこそお邪魔してます。すみません、お気遣いを」

 「お母さん! こいつら猫! 猫被ってる! 特大の!」

 「もう。友達を悪く言うものじゃないのよ、加蓮」

 「いやいや加蓮には世話になってるんで。な、凛」

 「ね、奈緒」

 「あら……素晴らしいお友達じゃない。大事にするのよ?」

 「猫ですらない……狸ぃ……」

レッスンの成果が遺憾無く、偏りを伴って発揮された瞬間でした。
ドアが閉められるのを見届けると、奈緒は加蓮へ振り返ってウィンクをぱちり。
凛は、まだドアを眺めていました。

 「女狐め……」

 「猫なのか狸なのか狐なのかはっきりしてくれよ」

 「はぁ……まぁいいや。ケーキ食べよ」

 「それもそうだ。おーい凛」

 「加蓮」
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:33:54.24 ID:XPAMg3p00

凛の口調には全く遊びがありませんでした。
びくりと震えた奈緒を尻目に、加蓮の瞳をじっと見つめます。

 「私達、帰った方がいいかな」



 「……は、え? 急に何言って」

 「部屋を出るとき、泣いてた。加蓮のお母さん」

最後まで言葉を紡げずに、奈緒が息を飲みました。
加蓮の眉が綺麗な半月を描き、それから徐々に緩んでいきます。

 「あー……かもね」

 「かもね、って……加蓮」

 「あ、ううん。違うよ、凛。たぶん……嬉しかったんじゃない?
  最近はともかく、小さい頃、私ってほんっと友達居なかったからさ」

 「はっ?」

固まっていた奈緒が口だけ動かしました。

 「私の部屋に来てくれた友達も、二人が初めて。
  だから……まぁ、親不孝じゃなくて安心したんじゃないかな」

 「へぇ……奏とか美嘉ともよくつるんでた気がするけど」

 「最近の話じゃなくて、ずっと。生まれてから」
161 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:41:29.65 ID:XPAMg3p00

凛の表情は、加蓮も初めて見るものでした。
困ったように言葉を探しているような、どうしたらいいか迷っているような。
そんな彼女を前に、加蓮はあれ、まだ話してなかったんだっけ、と首を捻ります。


決して身の上話を名刺代わりにしている訳ではありません。
ですから加蓮自身、友人達のうち誰にどこまで話し、
誰にどこまで話していないのか、はっきりとは覚えていません。

なにぶんユニットのメンバーですから、
体力無いんだ、くらいの話はしたかとばかり思っていたのですが。


ぱん、ぱん。


加蓮が手を二回、叩きました。

 「はい、トラプリのみんな集まってー」

 「なに、急に」

 「名作劇場、加蓮ちゃんデレラが間もなく開幕しまーす」

 「ホントに何なんだ。語呂悪いし」

 「まぁまぁ。むかーしむかし、ある病室に――」
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:50:38.95 ID:XPAMg3p00

 ◇ ◇ ◆


割と、加蓮は寝具にこだわる方で、両親はそれに輪を掛けていました。
マットレスはシーリー上位のラインナップ品を買い与えていましたし、
枕は何年か前にお店までオーダーで作りに行ったものです。


なので、パジャマもなかなか上等なものを愛用しているのですが、
現在進行形で台無しになりつつありました。

 「まもっ……守るからぁ……!
  ぜったいぜったい、ぜったいっ、大丈夫だからなぁっ……!」

 「はいはい。お姫様をしーっかり守ってねーよしよし」

 「撮るよ」

 「あ、待って凛。動画、動画」

 「オッケー」

トライアドプリムス最年長のお姉さんが、
加蓮の胸でぐずぐずのぼろぼろに泣きじゃくっていました。
この様子だとあと一時間は意地でも剥がれそうになく。

加蓮はここぞとばかりにもっふもふの感触を堪能し、
凛はここぞとばかりにネタのストックへ余念がありません。


トライアドプリムスの結束感がより強固なものへと成長を遂げた瞬間でした。
163 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/07(木) 23:55:03.07 ID:XPAMg3p00

 「生きてぇ……」

 「うん。そりゃもう生きるよ。すっごいよきっと」

 「加蓮んん……」

 「はいはい。北条加蓮ですよー」


そのままだと本当に一時間は粘りそうだったため、
美味しそうなケーキが乾ききってしまわない内にと、
加蓮と凛はいっせーので奈緒を引き剥がしました。
べりっと音が聞こえそうなくらい、しっかりとくっついていました。

 「おいしい?」

 「うん……」

 「うんうん。たーんとお食べ」

まだしゃくり上げている最年長のお姉さんの口に二人がかりでケーキを放り込みます。

甘いものには魔法が掛かっていますから、
三人仲良くケーキを食べ終える頃にはもう、奈緒も何とか平静を取り戻していました。


そしてベタベタになったパジャマを指で指し示します。
奈緒がごめんと呟いて、加蓮は貸し一つねと返しました。

基本的に、加蓮の貸しは高くつきます。
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:04:47.97 ID:qTjhoOKq0

 「体力が、って最初の頃に言ってたの、そういう事だったんだ」

 「ん。まぁ、我ながら成長したとは思うんだけどね。
  トラプリでおっきいライブって初めてだったし、はしゃぎ過ぎちゃった」

 「無理はダメだからな」

 「はいはい」

 「はいは一回」

 「はーい」

会話が途切れ、加蓮は再びベッドへ身を預けました。
心地良い時間が流れてゆきます。

 「こうやって寝てると、やっぱり思い出しちゃうんだ」


誰に向けるでもない呟きが、部屋に溶けていきます。
目の赤らんだ母が差し入れてくれたアールグレイに、
凛は砂糖を溶かして、こくり。

一方の奈緒はずっと腕を組んで何事か考えています。
むむむと唸ったかと思えば、得心したように一度、頷きました。
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:11:01.12 ID:qTjhoOKq0

 「加蓮、凛。今週……は無理か。再来週の土曜、空いてる?」

 「ちょっと待って……私は空いてる。加蓮は?」

 「んー……私も大丈夫」

 「なぁ加蓮。遠足って行った事あるか?」


遠足。

随分と懐かしい単語でした。
頭の中で秘密の加蓮ちゃんアルバムを取り出してめくります。

 「あー……社会科見学ならあるけど、遠足らしい遠足は……
  確かに無いかな。小学校の低学年とか、家と病院行ったり来たりだったし」

 「なら行こう。遠足」



 「……へ?」

 「いいね」

凛がノッて、加蓮は死ぬほど驚きました。
ついさっきの生きるよ宣言が危ぶまれるくらいびっくりしてしまいました。
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/05/08(金) 00:16:22.17 ID:qTjhoOKq0

凛ってそんなキャラだったっけと零す暇も無く、
話が目の前でトントン拍子に転がっていきます。

 「おやつはどうする? 税込み?」

 「加蓮は初心者だし、今回は税別三百円ルールで」

 「よし。しおりはあたしが作ってくる」

 「バナナはどうする?」

 「そこ毎回解釈に悩むんだよなぁ……」

よく分からない取り決めを交わす凛と奈緒を前に、
完全に置いてけぼりにされてしまいます。


加蓮は何を言ってやろうか少しだけ迷って、
とりあえずパジャマを替えようとベッドから這い出すのでした。
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