渋谷凛「愛は夢の中に」

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405 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/04(火) 00:08:01.03 ID:uYG6pbKDo

今日はここまで
406 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 04:33:48.66 ID:ngIJdE2DO
わー、クスリに手を出したのかー(棒読み)

音楽に男に薬と、いよいよ壊れ方が異常になってきましたね。先に待つは廃人か……それとも
407 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 14:25:18.82 ID:HqX6HMdTO
平然と麻薬を燻すのに使われるスタドリ
408 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 22:46:54.07 ID:TJeoIGflo
>>406
「ハーブは植物だろ? なぜハーブを禁じる!? たくさん使うほどラスタに近づく。」

>>407
モバマスのスタドリはヒロポンが世を忍ぶ姿ですからね
409 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:48:41.02 ID:TJeoIGflo

凛の魂がひとまず戻ってきてから、脳が正常化し動けるようになるまで40分ほど掛かった。

それまで意識はありながらもどこか自分ではないような無重力下にあったものが、或る瞬間、いきなり全て、精神も肉体も重さを感じるようになり、自分の制御できるところへ戻ってきたのだ。

身体にこびりついた精の匂いが脳を揺さぶる。

無意識でのまぐわいで相当な負担が身体に掛かったとみられ、凛は感覚が戻るや否や手洗いに駆け込んで嘔吐した。

途方もなく長いと思えるほど胃を締め上げる身体の防衛反応の結果、吐瀉物はかなりの量で、白く、粘性が高かった。

ふらふらになりながらも、一体どれだけ飲み込んだのか、翻れば栗栖は一体どれだけ出したのか、末恐ろしくなった。
410 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:49:46.82 ID:TJeoIGflo
「シャ、シャワー……浴びなきゃ……」

常識的思考が戻り、鞭を打って足を動かす。

行く手を遮るガラス戸がこんなにも重いものだと感じたことはかつてない。

寄り掛かるように全体重を乗せて何とかドアが開くと、勢いが余ってバスルームの中へ倒れ込んだ。

蛇口を求めて手を伸ばすが、まるで届かないので、這いつくばって進む。わずか1メートル未満の距離が1光年もの長さに思えた。

ターミネーター2でのT-800はこんな気分だったのかと少しだけ理解できた気がする。

劇中、T-800はT-1000の手で鉄製の棒を串刺しにされたが、凛に突き刺さるのは恵みの熱い雨だ。
411 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:51:09.43 ID:TJeoIGflo
よろよろ立ち上がって浴びている間に、栗栖も凛と同じ経過を辿ったようで、手洗いの方でドタバタ音がした。

じっくり念入りに全身を濯いでからリビングに戻った凛は、壮絶な現場跡を見て頭を抱えた。

「うわー……」

足の踏み場がないとはまさにこのこと。

どんなに気をつけて移動しようとしても二人の体液が足の裏に張り付き、まるで真冬の外に放置していたサンダルを履いた時のような冷感を一歩ごとに与える。

後片付けのことに思考が至るや、途方もなく気が遠くなった。

ただ、掃除をしている間は余計なことを考えなくて済むだろう、と云う点だけはありがたいと思った。
412 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:52:08.97 ID:TJeoIGflo
ふと、ムーンストーンのブレスレットが床に散らばっているのが目に入った。

激しい行為の最中に引っ掛けでもしたのだろうか、チェーンがぶっつり切れて固く絡まり、体液もべとべとに塗れて最早アクセサリとしての体を成していない。

「ああなんてこと……」

手に取ろうと身を屈めれば、やや離れたところに放られた栗栖のスマホが、着信に震え続けていた。

拾い上げると、そこには新進気鋭のアイドルプロダクションに所属するエースの名前が表示されており、アイコンは栗栖と二人仲睦まじいショット。
413 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:53:06.41 ID:TJeoIGflo
ああ、そうか。

そうだったのか。

「栗栖にとって、私は代えの利く玩具だったわけだね……」

半ば、こうなるかも、と予測していたことではあった。

しかし、それでも。

どうして。なんで。

バイブレーションの止まないスマホを眺めながら、思考はぐるぐる塒―とぐろ―を巻く。
414 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:54:01.80 ID:TJeoIGflo
だいぶ長く着信を試みて、ようやく力尽きたように止まった。

どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、ドアが開く。

「栗栖。さっき彼女さんから着信きてたよ」

視線は向けずに云った。

「……そうか」

「どうして?」

凛はそれだけ云う。時計の秒針の音だけが、妙に大きく聞こえた。
415 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:54:58.74 ID:TJeoIGflo
「私は、栗栖の望む通り何でもするよ。たくさん、もっとたくさん、シてあげる。血も肉も臓腑も、全て貴方の好きにしていい」

ゆっくり、静かに、諭すように語る。

だが、落ち着いた良い子ぶるのは限界のようだ。

「どうして! どうして私じゃダメなの?!」

今更云っても仕様のないこと。それでも訴えを禁じ得ない哀れな凛に、栗栖は、余命宣告をするかのように淡々と告げる。

「凛への最初の想いは本物だったよ。俺から告白したようなものだったし。でも――」

栗栖の声音から、もはや自分が彼の心の中にいないことが、凛には判った。
416 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:55:45.28 ID:TJeoIGflo
「凛はもしかしたら気付いていないのかもしれないけど」

やめて。

凛は、目の前がどんどん暗くなる。

「もはや凛は依存症に陥ってる。俺にとって、もう凛は重すぎるんだ」

やめて。やめて。

「事務所同士の事情も、ツクヨミの状況もある」

やめて。やめて。やめて。

「これが、最後になる」

やめて! やめて! やめて! やめて!
417 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:56:23.82 ID:TJeoIGflo
「今日で終わりにしよう」

凛は崩れ落ちた。びちゃり、と濡れる下肢に意識は向かない。不思議と泪も出ない。

凛の中で、彼女自身の20余年が瓦解してゆく音がする。

栗栖が静かに去ってゆく。去り際、凛とのこれまでの思い出に、胸が張り裂けそうな表情をみせた。

それも束の間、目を瞑ってかぶりを振り、しっかりと、ゆっくりと歩を進める。

閉まる玄関扉がガチャンと鳴って、凛が、女にも、アイドルにも戻れなくなってしまったことを告げた。
418 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:59:55.63 ID:TJeoIGflo

・・・・・・

「はい、恒例のお荷物チェックですよ」

ちひろがPのサイドテーブルに、膨大な量の配達物が入った段ボールの一角を仮置きした。

パソコンでメールのやりとりをしていたPは、「おっとすみません」とキーボードを打つ手を一旦止めて、溜まった書類をどかす。

滑った紙が、ばさばさと床へ落散した。

ツクヨミの戦略に関する契約覚書の回覧フォーマットだったり、凛のドレスアイデアがスケッチされた厚手のクロッキー紙、新曲になるはずだった譜面のラフ。

他にも様々な用紙が雪崩を打って落ちてゆく。
419 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:01:10.50 ID:TJeoIGflo
「ああ、こりゃいかん」

慌ててPは拾い集める。ちひろが少し済まなそうな顔をして、「よいしょっと」と云ってサイドテーブルに箱を据えた。

「なんか申し訳なかったですね。
この荷物もかなり量が多いですから、書類が片付くまで一旦Pさんのクローゼットにでも仕舞っておきますか? この後少し時間あるのでチェック手伝うこともできますよ」

だいぶ重かったのだろう、両肩を交互に叩きながらちひろが問うた。

「ああいえ、後ですぐ確認しますから。ここへ運んできてくれただけで大助かりですよ。ありがとうございます」

Pはちひろに礼を述べ、駄賃代わりのスタミナドリンクを差し出した。

「ふふふ、いいんですよ。スタミナドリンクは私の専売アイテムですから、Pさんから頂かなくても大丈夫です」

いつもと変わらない笑顔を向けて、ファイト、とエールを送ってから第一課を出ていった。
420 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:02:19.49 ID:TJeoIGflo
机に向き直ると内線が鳴る。

営業部からの外線取り次ぎで、マスコミ対応を依頼された。

「はいお電話代わりました、制作部第一課のPです――その件は弊社渋谷とは関わりありませんので。事実無根の風説です。では失礼します」

スピーカーからまだ何か喋る声が聞こえてくるのを無視して、受話器を置く。はぁ、と短い嘆息を零した。

昨今のマスコミもレベルが墜ちたものだ。

丁寧な裏取りや検証などを地道に進めてゆくのが記者の役目だろうに、自ら考えることを放棄し直接正面から訊きにくるだけ。

更にはこちらの都合を考えない事前アポなしの電凸ときた。これなら業務の邪魔にならない分、噂話の未確認三文記事の方がまだマシだ。
421 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:03:41.11 ID:TJeoIGflo
ちらりと、別の机に置いてある大手新聞社から確認を要請されたゲラを見遣る。

凛やツクヨミにフィーチャーした記事内容で、大方の内容に問題はない。

しかし話題がどうしてもスキャンダルの方へ引き寄せられていってしまうのは性と云うものだろう。

若干抵触してしまった当該箇所に赤を入れて、手数を詫びつつ別の問答への差し替えを依頼してある。

炎上させれば中身は何でもよい週刊誌や大衆紙と違い、この新聞社ならば、きちんとこちらの意図を汲み、整えた記事を最終的に読者へと届けてくれるだろう。
422 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:04:31.76 ID:TJeoIGflo
雪崩た書類を一旦まとめて床へ置いておき、配達物の確認をしようと段ボールをごそごそ漁る。

中身はPが担当しているアイドルへ送られてくる手紙や小包だ。全部一緒くたに入っているものだから、まず第一段階は仕分けから始まる。

初期の頃なら9割9分を凛宛てが占めていたので楽なものだったが、最近はつかさ、ジュニ、それぞれへ宛てられたものも多い。

仕分けの手間は、担当アイドルが躍進していることへの嬉しい悲鳴と云えよう。

それでも、大方の選別を済ませると、明らかに凛宛ての手紙が多い。

割合と云うよりも、昨今は絶対数が多くなった。これは例のスキャンダル以降とみに顕著だった。
423 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:05:20.45 ID:TJeoIGflo
一通ずつ開封し、中身を確認する。

純粋なファンレター。アイドル本人のみならず担当プロデューサーとしても嬉しいものだ。

なぜか凛に宛てられた謎の売り込み営業。差出人の意図が全く理解できない。

送付先の認識を誤ったとみられる凛担当ラジオ番組へのリクエスト葉書。哀れに思うがPは何もしてやれない。

そして――攻撃的な中傷。

一通々々、しっかり確認する。

凛へ回してよいもの、よくないもの、きちんと選別する必要がある。一つたりとも漏れてはならない。
424 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:06:59.51 ID:TJeoIGflo
或る手紙の封を切っていると、指先に鋭い熱を感じた。

「……またか」

封入された剃刀が、Pの左手人差し指に一筋の赤い線を作り出した。

ティッシュを取って、珠のように浮いた血液ごと傷口を押さえる。

切れ味のある刃物で出来る傷は、深手さえ負わなければ逆に治し易いから楽だ。少し止血すればそれだけで済む。

これまでで最も衝撃的だったのは、五寸釘が打ち込まれた藁人形と、それに同梱されたセアカゴゲグモだ。

もし無検閲で凛に渡していたら、と思うと身の毛がよだつ。

明確な憎悪が込められた贈り物が届いたことは、CGプロの中でも一握りの人間しか知らない。
425 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:07:55.01 ID:TJeoIGflo
このように身の危険を感じるものは流石にさほど経験はないが、他にも、およそ日本語で考え得るありとあらゆる罵詈雑言を駆使した攻撃がしたためられた手紙は大量に届いている。

単純に口汚い罵りだけなら、逆に何とも思わない。まるで生産性がないし、便乗する愉快犯も多い。

だが中には、長いこと追ってくれているらしいファンから、丁寧な筆致と穏やかな口調で、しかし内容は急所を突く悲痛な訴えがたまに届く。

これにはPは堪えた。

「貴重なご意見、まことにありがとうございます」

そう独り言ちて、封書に軽く頭を下げる。

専用のエンベロープケース――『地獄への戒め』と書かれた容器に仕舞った。
426 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:09:25.09 ID:TJeoIGflo
これらのような庶務――しかしそれでいて担当アイドルのために絶対必要なプロデュース業務――がとてつもなく増えた影響で、担当アイドルたちの日の目を見る機会がめっきり減っていた。

それどころか、新曲の監修や各種衣装へのアドバイス出し、レッスンの様子のチェック、アイドルのモチベーションのフォローアップ……諸々のやるべきことが全て滞っている。

先日もベキリとして珍しいバラエティへの出演があったはずだが、満足に見守ることもできないまま、凛とつかさの組み合わせなら大丈夫だと送り出したことがあった。

もちろん、つかさにも大なり小なり負担が掛かっていることは間違いないだろうから、近いうちにフォローをしなければと思いつつ実際は進められていない。

もどかしい思いが先行する。
427 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:10:27.34 ID:TJeoIGflo
「全ては業なんだよな……」

これは、自分の蒔いた種だ。

凛がムーンストーンのアクセサリを着け始めた段階で阻止しておくべきだったのかも知れない。

何年も前、自身に好意を寄せ始めているのを察知した刻は、アイドルとPの関係は許されないことだと叱った。

それ以来、凛は女の感情を仕舞い込んでしまった。

無論それはアイドルとしての活動には理想的なことだと云える。

――だがそれでは、アンドロイドと何が違うのだ?

今回は、アイドル同士。

本人たちさえ望むならと、久方ぶりに人間の感情を思い出した凛を押し留めるのが怖くて、もしかしたら抑制することで今度こそ壊れてしまうかもしれないと云う一種の恐怖から、何もできなかった。
428 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:11:16.51 ID:TJeoIGflo
凛が大事すぎるがゆえの、躊躇い。

しかしプロデューサーにとって傍観とは、罪だ。Pは間違いを犯してしまった。

せめて、今以上に状況が悪化しないよう奔走しなければ。

指を組んだ両腕に額を乗せる。

目を閉じて、深い呼吸を何往復か繰り返す。

また内線が鳴った。今度は来客の報せだ。

今日はこれから田嶋との今後についての打合せが入っているのだが、予定より30分も早い到着にPは驚いた。

待たせるわけにもいかないので、別の会議室をすぐに確保し直して、ロビーへと迎えに上がった。
429 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:12:06.48 ID:TJeoIGflo

・・・・・・

凛はスキャンダル以来、狂犬だともヤマアラシみたいだとも比喩されていた元々の雰囲気に加え、アンニュイな味を纏うようになった。

そして最近は、どこか解放された感じにも見える達観した尼のようだと囁かれている。

この日は、新しい衣装を作るための打ち合わせを社内デザイナーとしていた。

今回は、経験を積ませるために若手にリードデザインを任せ、ベテランが補佐につく形式で進めるらしい。

いつもならこれほどに制作体制を変更させる際にはPが同席するのだが、生憎アポが重なったらしく凛だけが参加していた。

「これまではあまりダブルブッキングなんてしなかったんですけどね、Pさん」とは重鎮の言だ。
430 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:12:53.34 ID:TJeoIGflo
新進気鋭のルーキー、岩見沢は鼻息が荒い。

「やっぱり渋谷さんは、以前みたいな、瑞々しい一種の健康的な肉感を少しは出した方がいいと思うんですよ」

熱弁が、小会議室に響く。

「確かに歌姫と云われていますけど、渋谷さんの源流は歌手じゃなくてアイドルじゃないですか。ファンを目でも愉しませてこそかなと。
最近のシック系だと、ダンスもしにくいでしょう?」

凛は、曖昧に「うーん……」と愛想笑いで相槌を打つことしかできない。

よもや男の痕を隠すためだとは到底云えまい。
431 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:14:10.35 ID:TJeoIGflo
「デビュー当時の、ニュージェネレーションのドレス。あれって本当に最初から完成されていると思います。
ローマの胸像のようにすっきりと魅せる肩や鎖骨のライン、シュッと無駄なく締まった大腿など、露出させるべきところはさせて、布で覆うべきところは覆っている。
コルセットで絞りつつすぐ下はパニエスカートで拡げるあのシルエットは最高です」

「なんかちょっとくすぐったいな、そこまで評価して貰えると……」

何でも、シンデレラガールを獲った時分の凛に憧れてアイドルの服飾を志したと云うので、気恥ずかしさに頬を掻いた。

ひとしきり熱く語った岩見沢が、急にしゅんと肩を落とした。

「以前、Pプロデューサーに思い切って疑問をぶつけてみたんです。でもそうしたら強い調子で『これがプロデュース方針だ』って。
……もったいないですよね。もちろん自分たちは指示には逆らえないですけど、プロデュース側とデザイン側とが一緒に練り上げてこそ渋谷さんをもっと輝かせられると思うんです……」
432 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:16:14.45 ID:TJeoIGflo
凛は初めて耳にする事実に驚き、狼狽した。

あわや表に出やしないかと必死で表情や仕種を取り繕う。

社内の反発を承知の上で、“方針”の名の許に有無を云わさず露出低減を推し進めていたなんて。

Pは社での立場を脅かしかねない綱をずっと渡っていたのか。

このままではPだけが悪者になってしまう。凛は必死に頭をフル回転させた。
433 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:17:26.35 ID:TJeoIGflo
「私にはどっちの意見もわかる……かな。ほら、どうしても時間には逆らえなくってさ。今更になって肌を晒すと色々云われそうで。
絶対色々なところで『【悲報】JKだったしぶりんが劣化www』とか貶されるでしょ」

自分に同調しない凛の答えを聞いて、岩見沢が残念そうな顔をする。

自らのことを思ってくれるが故の熱意が凛は少しだけ気の毒になって、「まあ、でも――」と予定にない言葉がつい口に出た。

「ちょっと鍛え直すから、そしたら是非その案を具現化して貰える?」

栗栖と終わってしまった今、どうせそのうちこの“刻印”は消えてゆく。

もはやアイドルには戻れないと云う諦めの気持ちはある。それでも、目の前の落胆する岩見沢や、悪者に仕立て上げられそうなPへのフォローを考えれば、方便は必要だった。
434 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:18:13.55 ID:TJeoIGflo
消沈していた表情がみるみる輝きに変わってゆく。

「はい! 悲報どころか朗報って云わせてやりますよ!」

この場では次回のシック度合いだけ決めて、詳細はまた改めてPを交えて詰めることとなった。

プロデューサーに謝らなきゃ――。

凛は話し合いの内容を記憶しておく余裕はなかった。
435 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:19:03.80 ID:TJeoIGflo

廊下を早足で駆けて、第一課のドアを邪魔だとばかりに押し放つ。

「プロデューサー、いる?」

しかし凛の声に反応するのは、第一課の別アイドルの担当しかいなかった。

「Pさんはさっきから席を外してるよ。アポが長引いてるのかもね。ちょっと色々と業務が回ってないみたいだよ」

凛は出端をくじかれて肩を落とした。
436 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:20:24.42 ID:TJeoIGflo
今のうちに云いたいこと云うべきことをまとめられる時間ができたと考えよう、そうポジティブに思い直して、ソファへと腰掛ける。

少し座っている間だけでPの席の内線は3度鳴り、ガチャリとドアの開く音がしてはトレーナーの青木明や興行部の遠藤がPの所在を尋ね、いないことが判ると困ったような顔を浮かべて去っていった。

相当色々なことが込み入ってそうだ。何か助力できることはないだろうか。

ただ座して待つだけなのも忍びない凛はそう思って、早速鳴った4度目の内線に出る。

「はい3階、代理で渋谷凛です」

『あれっ? えーとPさん不在ですか』

アイドルが内線に出たせいか一瞬驚いたような声音で、しかしすぐに業務に追われ驚きを思考から放逐したように質問を寄越してくる。
437 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:21:32.94 ID:TJeoIGflo
「はい、プロデューサーは別のアポの対応中らしいです」

『あー……、読買新聞さんから外線で校正結果の照会が突かれてんだけど、どうなってるのかな。流石に渋谷さんじゃ判らないよね』

電話口の向こうから困惑と苛立ちの雰囲気が感じられた。

「うーん、ごめんなさい、ちょっと……はい、伝えておきます。では」

日々の業務については何の補佐にもなれない現実を突きつけられ、凛は無力さを感じた。
438 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:22:44.42 ID:TJeoIGflo
受話器を置いて、はぁ、と嘆息すると、ふと、床に散らばる紙の束が目に入る。楽譜と思わしきものもあった。

「あれ、そういえば……」

ベキリやツクヨミの新曲をPが書きおろす企画が挙がったと云う話を耳にしたことがあった。結構前のことだ。

だが、手に取った譜面用紙は到底完成されているようには見えない。

めくってゆけば、『間に合わん』とだけ走り書きされ、太い朱で大きなバッテンが刻まれていた。

昨今のタスク量で手が追い付かず破談となったことが窺えた。

これまで凛の楽曲をいくつか手掛けてきたPのことだ、ツクヨミ向けともなればきっと腕が鳴ったことだろうに。

Pに無理を強いてきた物証がこうやって続々と顕れてくると、その度に凛の胸には棘が突き立てられる。

今や心は裁縫のピンクッションのようで、空き場所が見当たらない針の山だ。
439 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:23:56.66 ID:TJeoIGflo
頭を抱えて立ち上がると、サイドテーブルに血のこびりついた剃刀の刃が置かれていることに気づいた。

「これは……?」

髭を剃ろうとして誤って切った……とするならば刃が単体で置かれているのは妙だし、よもやPが自殺を企てたわけではあるまい。

よく見れば、刃の置かれている紙には宛名に『渋谷凛様』と書かれている。

もしや――

「この剃刀、私宛……?」

それだけではない。

傍に鎮座する大きな段ボールに入れられた大量の手紙や小包は、普段凛がPから定期的に渡されるファンレターの量とは明らかに差があった。
440 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:25:06.87 ID:TJeoIGflo
凛は、弾け飛ぶ勢いで段ボールを漁った。

慎重に、それでいて時間を無駄にしないよう手早く。

開封する度に、油田の如く溢れ出す悪意の暴風雨。

ソーシャルネットワークで罵詈雑言はよく目にしたし、或る程度の耐性は身についていると思ってきたが、ただの思い上がりだったようだ。

こうやって物理的な存在として訴えかけてくるのは堪えた。
441 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:25:54.53 ID:TJeoIGflo
手紙だけならまだよい。

画鋲だったり、引き裂かれた写真だったり、文字以外の実体で伝えられる憎悪がとても怖かった。

なまじ、これまでPたち裏方がフィルタリングをして堰き止めていたことで、端末の画面で見るだけの文字とはレベルが違う、直接触れる機会が皆無だった醜悪なものへは耐性が醸成されていないのも不幸だった。

Pは、こんな毒気にずっと中―あ―てられ、耐え、庇っていたのか。

こんなクズみたいな自分のことを、色々やらねばならない多量のタスクを放り投げてまで、戦友は守り続けていてくれたのか。
442 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:26:52.09 ID:TJeoIGflo
「バカみたい……」

自分は、本当に、バカみたいだ。

「一番近くで私のことを一番に想ってくれるヒトがいたのに、傷つけて、ずっと傷つけて――」

足の力が抜けた。

がくりと項垂―うなだ―れ、膝を突くと、OAフロアの床に、一つ、二つと濡れた染みが出来上がる。
443 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:28:23.02 ID:TJeoIGflo
凛の嗚咽をよそに、田嶋と胃の痛くなる長い協議を終えたPが、溜息を吐きながら戻ってきた。

その顔には見るからに疲労の色が滲んでいるが、同僚からの作業状況を照会する質問が方々から飛んでくる。

自らのところでボールが止まっていることを詫びてから、急いで処理しようと執務机へ歩を進めると、うずくまっている人影を視認した。

すぐにそれが渦中の人物だと直感すると、田嶋の早い来訪に慌てるあまり送付物を仕舞い忘れた痛恨のミスに気付く。

「り、凛!?」

どうした大丈夫か、と駆け寄って支えようと手を伸ばしたところで、凛は弱々しく息を吐く。

「ごめん……」

云いながら顔を上げた。滂沱の泪を流していた。

「ごめんね……」

気丈だったはずの凛が哀しい顔で詫び続けるのを見て、Pは、宝物をついに守り切れなかったのだと認識した。
444 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:29:48.57 ID:TJeoIGflo
「私……プロデューサーのような才能あるヒトをダメにしちゃった……」

赦しを乞う言葉を、壊れたレコードのように何度も何度も繰り返す中、剣呑な空気を感じ取ったPの同僚たちが、何ぞ問題が起きたのかとざわつきつつあるのを凛は感じた。

これ以上騒ぎを起こしてPを陥れてはならない。

「本当にごめんなさい」ともう一度付け加えてから、がくがくと震える両脚に喝を入れて、第一課を飛び出す。

誰の目にも触れないよう、廊下の端に設けられたベランダへの鍵を開けて駆け込む。

ここは緊急時の避難梯子が据えられた場所で、普段はまず人の来ない部分だ。手近で一人になれるのはここにおいて他にない。
445 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:30:28.61 ID:TJeoIGflo
どのように詫びればよいのか、もはや凛には判らなかった。

そもそも詫びたところで取り返しのつかないことに変わりはないし、アイドル活動で挽回しようとしても市場が赦してくれるかは未知数だ。

むしろ赦してもらうためには、Pはさらなる奔走を要求されるだろう。

結局どうやってもPの負担になる未来しかないのだ。
446 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:31:01.26 ID:TJeoIGflo
PもPとて、何とか追わなければと思うのだが、凛のあれほどまでに自責する言葉や表情は、8年も一緒にいるのに初めてのことで、身体が動かなくなってしまった。

どのようにフォローするべきなのか、もはやPには判らなかった。

どんな言葉を投げても凛の負担にしかならないだろう。

かと云って語り掛けなければ、この不幸な現状維持が続くだけだ。

「一体、どうすれば……」

呆然と立ち尽くすPの後ろで、内線が鳴り止まない。
447 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/04(火) 23:33:35.23 ID:TJeoIGflo

今日はここまで
448 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/05(水) 04:56:16.02 ID:JCPLzoMDO
もしかしてラスト近い?

もちょっと続いて欲しいけど……ね
449 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/05(水) 22:47:30.36 ID:wbEqpjsSo
>>448
凛の誕生日に書き終わらせるつもりです
450 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:49:17.70 ID:wbEqpjsSo

・・・・・・

凛は、つかさからの電話で叩き起こされた。どんよりと雲が低く立ち込める朝だった。

「おはよう、ありがとうつかさ、助かった」

『え、なんのこと?』

開口一番の謎の感謝に、つかさは虚を突かれた。

「起こされたとき、厭な夢にうなされてたところだったから」

『……そうか』
451 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:50:06.25 ID:wbEqpjsSo
最近、夢見が滅法悪い。

ファンタジーな内容から現実味あるものまで幅は広いが、そのどれもが何らかの形で蝕まれる悪夢だった。

叫んで起きるか、寝汗をびっしょりかいて息を切らしながら起きるかのどちらかだ。

して、つかさは何の用事だろう。この日の凛の仕事は夜から。まだまだ時間があるはずだ。

『ああそうそう、そうだ、Pが今どこにいるか知らね? 会社に来てないんだよ』

いつも堂々と構えているつかさにしては珍しく、少し焦燥の声音が混じっていた。
452 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:51:25.96 ID:wbEqpjsSo
「プロデューサーが? まさか寝坊なんてする人じゃないでしょ、どこかへ直行直帰とかじゃなくて?」

『今日はアタシのトレーニング方針会議があるんだ。トレーナーさんと管理栄養士さんを交えてのヤツ。
電話は電波が届かない。今までこんなこと一度もなかったのに』

その実つかさは緊張しいではあるのだが、鋼のプロ根性でそれを表に出すことがほとんどない。

相棒への電話だからあまり取り繕わなくて済むと云うこともあろうが、彼女の気骨でも隠し切れないほど心を砕いていることが伝わってきた。

「……わかった。私は仕事までまだ時間あるから、調べてみる。つかさは、一旦プロデューサーなしで進められる?」

『あ、ああ。たぶんそこまで大きな舵取りの変更はないはずだから……』

了解、とお互いに頷き合って電話を切る。
453 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:52:28.74 ID:wbEqpjsSo
――プロデューサー……まさか、気に病んで自殺なんてしてないよね……。

凛は不穏な思考が浮かぶのを、「ううん、そんなわけない」と頭を激しく振って掻き消した。

「ちひろさんとか、会社関係で動ける人は全員動いているはず。私が思いつくことならもうみんな済ませてるよね……」

凛は、Pに関する独自のオンリーワンな情報網は持ち合わせていなかった。早速詰んだ。

「プロデューサーが行きそうな場所を虱潰しに調べるしか……」

凛は取るものも取り敢えず、自宅を飛び出す。

天候のせいで陰鬱な重さが支配する窓の外を見ながらマンションのエントランスを走り抜けると、前方から、大きなサングラスで目元を覆い、黒いスーツとオーラを纏って歩いてくる人物があった。
454 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:53:59.15 ID:wbEqpjsSo

===

Pはずっと潮騒を聞いていた。

聞いていた、と云う表現は語弊があるかもしれない。

P自身は耳に届く空気の振動を意識していないからだ。

人気のない、ごつごつした岩場から釣り糸を海へと垂らし、それでいてリールを巻く気が微塵もない体で、寄せては白い泡となって消えてゆく波をずっと網膜に映しているだけだった。

今、Pの頭の中を支配しているのはたった一つ。

凛の、泪に濡れた顔。
455 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:54:52.33 ID:wbEqpjsSo
どうやってもその顔を晴れさせる方策が思い浮かばず、前にも後ろにも進められず、気付いたらこんなところにいた。

今日はつかさ関係の業務があったはずだ。

また彼女に迷惑を掛けてしまった。合わせる顔がない。

こんなに不甲斐ない人間だったか。

こんなに情けない男だったか。

だがこの立場でどうしろと云うのだ。

Pの脳内をぐるぐるいつまでも遣る瀬無い思考が渦巻く。
456 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:56:03.15 ID:wbEqpjsSo
「――釣れるかい」

ふと、後ろから声を掛けられた。

こんな荒涼としたところに一体誰が――そう思いながら振り向くと、かつて見た人懐っこい顔は封印して、真面目な笑みを浮かべた沈が立っていた。

「……ふむ、どうやら釣る気はないようだ」

竿の状態を一瞥して云う。

「なら浮きも入れない方がいい。期待して集まる魚が気の毒だ」

そう忠告しながら、よいしょ、とPの傍の突き出た岩に腰掛けた。
457 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:57:02.53 ID:wbEqpjsSo
「沈社長、なぜあなたがここへ?」

「たまたま通り掛かっただけだよ。私は海が好きなんだ。そうしたら妙な雰囲気の人が一人ぽつんといるのでね。様子を見にきてみたらPプロデューサーだった。こんなこともあるもんだね」

私の放浪癖もあながち無駄ではないもんだ、と沈は相好を崩した。

「Pプロデューサー、やはりあなたは姜プロデューサーと似ているな」

「……え?」

「彼も失意の底にいるとき、こうやって釣る気もない竿を波打ち際で掲げていたよ」

「あの彼が?」

いつも見掛ける彼は泰然自若とし、強力なリーダーシップでR.G.Pを率い、悩みとは無縁そうな振る舞いをしているのに。
458 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:57:53.13 ID:wbEqpjsSo
Pの感想に沈は、825を超人集団だとでも思っているのかね、と声を出して笑った。

やや呼吸を落ち着けて、遠くの海原を眺める。

「渋谷さんの件ではだいぶ揺れているようだね。いや、激震と云えるか」

Pは何も答えなかった。

いや、答えられなかった。

今回の騒動に関して迂闊なことは何も喋れないからだ。

そう、社内でさえ口に出すのが憚られるくらいに。
459 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:58:47.69 ID:wbEqpjsSo
「大丈夫さ――」沈は海を見たまま優しく云った。

「日本芸能界の人間だと全員が利害関係者になってしまうだろう。一種、外様の私が最もニュートラルだ」

Pを向いて頷いた。

「……お恥ずかしい次第です」

Pは竿を仕舞おうと引き揚げながら、ようやく一言だけ返した。
460 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:00:36.32 ID:wbEqpjsSo
沈は大きく息を吸って空を見上げ、ふぅ、と吐く。

「姜プロデューサーを825へスカウトしたのもこんな天気の日だった」

そのまましばらく厚い雲の広がる白い天を仰ぎ続ける。

「……かつて姜プロデューサーは担当アイドルを死なせてしまったことがある」

沈の訥々とした語りに、Pは驚愕の目を見開いた。

あんな栄光を謳歌する姜にそのような過去があったと? 俄には信じられなかった。
461 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:02:37.29 ID:wbEqpjsSo
「スジの双子の妹さんでね。彼はそのせいで一旦芸能界から身を引いたんだ」

でも、と沈は目を閉じる。これまでの825の軌跡を反芻しているようだった。

「当時一般人だったスジと偶然出会ったことで、そしてR.G.Pと云う導くべき船ができたことで、彼は立ち直れた。ま、大部分は私が嗾―けしか―けたせいでもあるがね」

彼は幸運だったんだ、と目を細めてPに笑い掛けた。
462 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:03:18.34 ID:wbEqpjsSo
「Pさんの場合はもっと幸運だ。なぜなら、まだみんな生きているじゃないか。生きているなら幾らでもやり直せる機会がある」

「果たして自分にやり直せるか……凛を事実上殺してしまったようなものです」

Pは沈の目を見て、静かに息を吐いた。

少しだけ考える時間を取ってから、沈は「云い方を変えよう」と人差し指を立てる。

「生きていれば、人間誰しも幸福を目指すことができるんだ」

「幸福を……目指す……」
463 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:04:09.41 ID:wbEqpjsSo
「そう。では幸せとはなんだろう? 金持ちになること? 有名になること? いや、それらは本質ではない。幸福とは、精神の在り方なんだ」

沈は自らの胸板を軽く叩く。

「心次第だからこそ、生きてさえいれば、Pさんは渋谷さんと再び向き合って、幸福を追い求める手助けをすることができる」

それがプロデューサーの役目だよ、と沈は笑った。Pはその笑顔をじっと見る。

「生きてさえいれば、いま少しだけ立ち止まってしまったとしても、再び幸福を追い求めて歩き出すことができる……」

「そう、その通りだ」
464 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:05:12.38 ID:wbEqpjsSo
Pはシンデレラを輝かせるための魔法使いに思いを馳せた。

シンデレラの幸福を手助けする魔法使いは、他ならぬ自分たちプロデューサーだと云うことを忘れてやいまいか?

魔法使いが塞ぎ込んでいて、シンデレラに魔法をかけてやれると思うのか?

何をぼさっと立ち竦んでやがる。お前の足は飾りか? 担当アイドルを導くための担当プロデューサーだろうが、さっさと歩けこのヘッポコPめ。

Pは、自らの心の中に燻っていた凛への様々な想いが、コークスを炉に入れたような滾りを見せるのを感じた。
465 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:06:16.25 ID:wbEqpjsSo
「お、瞳に光が戻ったようだ」

一瞬の変化を沈は見逃さずに破顔した。

「沈社長、ありがとうございます。本気で凛と向き合ってこなかった自分を戒めて、やり直そうと思います。でも――」

Pがほんの少し逡巡するのを見て沈は小首を傾げた。

「……どうして825でもない他人の私にこのような救いの手を?」

ああそんなことか、と肩を揺らす。

「ライバルが元気じゃないと、お互いに成長できないものさ。寡占市場はいづれ腐る」

よいしょ、と沈は立った。潮風に上着をはためかせ、Pをじっと見る。

「日本市場のトップが元気ないのは、我々にとっても不幸だからね」
466 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:06:54.14 ID:wbEqpjsSo
国内の芸能関係者ではこのような一種堂々とした開き直りは不可能だっただろう。

それでも、いまPに必要なのはそれによって齎される発破だった。

「さっき私は魚を気の毒だと云っただろう? それは担当アイドルに対しても同じなんだ」

期待をさせるだけさせて、放置するのは悲しいこと。

担当アイドルときちんと向き合う刻がきたよ。そう云って沈はPの後方を指差す。

示す方向を振り返ると、姜の隣に、凛がいた。
467 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/05(水) 23:07:37.79 ID:wbEqpjsSo

今日はここまで
468 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:27:31.67 ID:FbMZBPjoo

「――どうして私のところへ?」

姜が運転するプジョーの助手席で、凛はハンドルを握っている隣の男に、迎えにきた理由を問うた。

「魔法使いの首領―ドン―に仰せつかってね。城へ向かうシンデレラを乗せる馬車の馭者役をしているのさ」

シンデレラにフィーチャーすることの多いCGプロに合わせた表現をして、姜は使い走りの状況に若干「やれやれ」と云う空気を纏わせつつ笑った。

「私が家を出ようとしたまさにそのタイミングで来るなんて、まるで狙いすましたかのよう」

そもそも詳しい居住地はCGプロ内のごく一部と栗栖にしか知らせていなかったはずだが。
469 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:28:34.40 ID:FbMZBPjoo
「蛇の道は蛇、ってことだ」

姜はそう云ってはぐらかすように加速した。

このSUVは姜の愛車だそうで、本拠地である韓国でも同じ車種に乗っているらしい。

ドライブフィーリングは日本車ともドイツ車とも違い、フランス車に特有の、ふわっとしていながらしなやかなコシがとても新鮮だ。

「この車が、スジさんと熱愛スキャンダルが報じられた時のものなんですね。私を乗せてるとまたあらぬ誤解のネタになってしまうんじゃないですか」
470 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:30:56.41 ID:FbMZBPjoo
「……よく知ってるな」

姜は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

凛はこれまでR.G.Pの情報を収集してきた中で、熱愛報道のログに触れていた。

姜もまた、雨降りしきる夜に私用車の中でスジと並々ならぬ雰囲気を出していたと、激写スクープされたことがあったのだ。

「正確には、この車ではなく韓国での俺の愛車だが。ハンドルの位置が左右違う」

ウインカーを出しながら、右ハンドルには中々慣れないとぼやく。

「あのスキャンダルは、R.G.Pそして俺にとって試練だった」

姜にとってあまり話したくない記憶だろうに、一つ一つ言葉を選んで、ゆっくり語る。

説明によれば、実態は、スジの家族についての繊細な話をしていたに過ぎなかったらしいのだが、外から見ている人間に判ろうはずがない。

姜やR.G.Pもまた、自らの意志とは関係なしに火事が拡がってゆく経験があったのだ。
471 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:31:41.65 ID:FbMZBPjoo
「それもあって、渋谷さんの今の状況には同情を禁じ得ない部分があってね」

「私の場合は……自らの我儘が招いた結果ですし」

「人間なら仕方のないことさ。アイドルは機械じゃない」

感情もあれば生死もある、と姜は深い溜息を吐いた。

「……そのように“先輩”に云って頂けると、救われます」

「不祥事の先輩――ね」

複雑な感情を顔に出しつつ、違いない、と姜は笑った。
472 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:32:50.26 ID:FbMZBPjoo
凛は進行方向をまっすぐ見据える。

「確かに、アイドルは……私は機械ではありません。ですが、人間だからこそ責務があります。各方面に、そして何よりプロデューサーに大きな迷惑を掛けてしまいました」

凛の、芯のはっきりとした独白に、姜は静かに耳を傾けている。

「どうして自分はあのような行動を取ってしまったのか、今では自分で自分のことがわからないんです。悔やんでも悔やみきれません」

しばし会話が途切れる。エンジンやタイヤの生み出すロードノイズが車内を支配する中、姜はおもむろにハンドルを切った。

「その気持ちがあるだけで充分なんじゃないだろうか。少なくとも俺はそう思う」
473 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:34:05.31 ID:FbMZBPjoo
速度を落としたプジョーが、海浜公園の駐車場へと滑り込んでゆく。

先端まで走って、キッと軽い音を立てて止まった。

「舞踏会の会場へ到着ですよ、お姫様」

「……こんなところに?」

天候もさほど良くない上に時間帯の所為もあってか、人影が全くない。

アイドルがこの地を歩くと云う観点からは誰もいない方が歓迎すべき状況ではあるが、本当にPがいるのか、俄かには信じ難かった。

「社長からの連絡によれば、ここらしい」

姜が先に降りて、助手席側のドアを開けて云った。

「この先の岩場だそうだ。行こう」
474 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:34:55.40 ID:FbMZBPjoo
姜と連れ立って歩くと、海浜公園とは名ばかり、すぐに景色は岩場の荒涼としたものになった。

「懐かしい雰囲気がする場所だな……」

独り言が姜の口をついたので、凛は鸚鵡返しに問う。

「懐かしい?」

「自分が沈社長にスカウトされたのもこんな天気、こんな場所でのことだった」

「……プロデューサー職種の人間って、行動パターンが同じなんですかね」

凛の、冗談とも本気とも受け取れる言葉に、姜は肩を竦める。
475 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:36:20.67 ID:FbMZBPjoo
10分ほど歩いて、いよいよ波打ち際が近づいてくると、静かに海を見つめているPと沈の姿を岩陰に認めた。

向こうはまだこちらに気づいていない。

「姜プロデューサー、ありがとうございました」

凛は隣の姜を向いて、改めて礼を述べた。その顔は、天気と同じくだいぶ曇っている。

「ここまで連れてきてもらっておいてこう云うのもどうかと思うんですが」

ちらりとPや沈の方を横目に見遣って、視線を戻す。

「……私は本当にプロデューサーに会う資格があるんでしょうか」
476 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:36:57.04 ID:FbMZBPjoo
今時分の必要な連絡だけ姜からお願いできないか――凛はしゅんと気落ちした声音で云うが、姜は首を横に振った。

「それは俺の役目じゃない」

「……ですよね。甘えです。ごめんなさい」

「でも――」

凛が溜息を吐きそうになる一瞬前に姜が続けた。

「渋谷さんに今語るのが、沈社長から受けた俺の役目なんだろう」

軽く咳払いをして、一度息を大きく吸う。
477 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:37:51.18 ID:FbMZBPjoo
「迷惑を掛けたことを悔やんでいるとさっき渋谷さんは云ったが……
プロデューサーってのは、担当アイドルのためなら、どんなことでも幸せに感じられるものなんだ。俺だって、R.G.Pのみんなを迷惑だなんて思ったことはない」

担当アイドルを輝かせるため、担当アイドルを守るため、担当アイドルを癒すため――

担当アイドルを思ってする行動は、プロデューサー自身の歓びでもあるのだと。

「迷惑を掛けた過去は変えられない。だが、その過去の結果を受けて未来をどうするか。それはプロデューサーとアイドルが共に向き合うことで構築してゆけるものだ」

姜はそこまで云って、「第三者の視点ならこんなにも簡単に理解できるんだがな」と自らの過去に苦笑しているようだった。
478 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:38:23.35 ID:FbMZBPjoo
「姜プロデューサーも、袋小路に入ったことが?」

「ああ、色々な人に助けられて、俺は今ここにいる」

遠くの沈を向いて云った。沈の占めるウェイトが相当なものなのだと、その仕種だけで凛は理解した。

「今度は俺がその役目を果たす時と云うことか」

姜は自らの因果に「フッ」と笑う。

「さあ、馭者の出番はここまでだ。あとは渋谷さん自身の肩に掛かっている」

「最後に一つ、いいですか」

ん? と姜は凛を向いて首を傾げた。
479 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:39:17.25 ID:FbMZBPjoo
「……どうして、私――いや私たちにここまでしてくれるんです? ライバルのような関係なのに」

「ライバルだからこそだよ。日本のトップアイドルには元気でいてもらわないと我々も張り合いがないからな」

ニヤリと不敵に笑って姜は云った。

「ま、それはちょっと云い過ぎか。R.G.Pの成長のためにも、日本側のアイドル業界と切磋琢磨する必要があるのさ」

よろしく頼む、と姜が右手を差し出した。

凛はおずおずと、それでいてしっかり握り返す。

沈が立ち上がって、こちらを指差した。
480 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:40:27.23 ID:FbMZBPjoo

Pと凛が、お互いに手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った。沈と姜は離れたところで別途合流したようだ。

「プロデューサー、会社サボりはよくないよ」

「面目次第もない」

凛が、悪戯をした我が子を諫めるかの如し口調で云うので、Pはバツが悪そうに答えた。

「つかさは、今日の会議は自分だけで大丈夫だ、って云ってたから。ここへ来るまでの間にちひろさんにも連絡してある」

「何から何まで、すまん」

プロデューサー失格だ、とPは頭を下げた。
481 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:41:10.22 ID:FbMZBPjoo
凛が何も云わないので、不思議に思って視線を上げる。凛は、静かにかぶりを振っていた。

「ううん、私こそ、ごめんなさい。プロデューサーをこんな状態にしてしまったのは、私の所為だから」

「いや、この一連のことは全面的に俺が至らなかったのが悪い」

「違うって。私の我儘が全部引き起こしたことだよ」

「俺が」

「私が」

お互いに自らの責を主張して退かない。
482 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:41:42.68 ID:FbMZBPjoo
Pは、何かが無性に可笑しくて、矢庭に噴き出した。

「……まずは凛と俺と二人でつかさに謝ろうか」

「……そうだね。まずはそれが第一かも。他のことはその後、かな」

凛もバツが悪そうに両肩を上げた。

「すぐに戻ろう。積もる話は、車の中ででもできるから」

「うん、行こ」

二人、岩場を歩き出す。両者の胸はこれまでと違ってしっかり張っていた。
483 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:42:36.96 ID:FbMZBPjoo
引き潮に取り残された水たまりに嵌らないよう注意し合って、大股小股で進んだり、小さくジャンプしたり。

単純に車へ戻るだけの道のりが、二人には久しく味わっていなかったアトラクションのように思える。

「こんな些細なことが幸せだって、見えてなかったんだね、私」

凛は独り言ちた。

Pが「どうした?」と振り返って問うので、「失敗してから判ってくるものが多すぎるな、って」と凛は足元を見ながら答えた。
484 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:44:28.16 ID:FbMZBPjoo
楽しい時間は実際より圧倒的に短く感じてしまうもので、視線を上げれば、先ほど姜が停めた場所とはまた別の駐車場がもう目前だ。

「ねえプロデューサー、私たちはどこでボタンを掛け違っちゃったんだろう」

Pの車の助手席に乗って、シートベルトを締めた凛が問うた。

掛け違えた、と云う表現は正解でも不正解でもある。掛け違える前段階から既にズレが生じてしまっていたからだ。

凛は考え込んで、もう一言を添える。

「そもそも業務時間外に彼と直接的な交流を持ったのがいけなかったんだよね」
485 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:45:01.22 ID:FbMZBPjoo
乃木公園で個人的な関わりを持ち始めてしまったこと。

1回だけならまだしも、それが習慣化してしまったのがまずかった。

「それを云うなら、坡州での連絡先交換を俺が許可したのが始まりだよ。全てはそこからだ」

「あれはプロデューサーが私を信頼してくれた証でしょ? それを私が裏切りの形にしてしまったのは、やっぱり事実だし」

「うーん……早い時期から凛と彼はお互いに悪く思ってないんだろうな、と感じて微笑ましく見てたよ」

凛が「えっ?」と息を呑んだ驚きの声と、エンジンのイグニッションが被った。
486 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:46:29.94 ID:FbMZBPjoo
だいぶ昔の話を蒸し返してしまって少し気恥ずかしいが――とPが云いながら、駐車場から出すために車を後退させた。

「アイドルを始めたての頃だ。凛が俺に対して恋煩いみたいな状態になったことがあっただろ。その時は俺が断固阻止したけど」

「うん。あの頃の私も青かったよね。プロデューサーがあんなに怒ったところ初めて見たし、アイドルとしての自覚を持つきっかけでもあった」

「実は――あの出来事は俺にとって負い目でもあるんだ」

凛が目だけで問うてくる。感謝してるんだよ? とでも云いた気の視線だ。
487 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:47:25.36 ID:FbMZBPjoo
「確かにアイドルとしては正しいんだろうな。でも、そう云う類の感情を殺すのは、果たして人間として正しいことを俺はしたんだろうか、って」

「人間、として……?」

「ああ。ただでさえ、普通の人なら味わうであろう青春をお前は代償にした。
尊い犠牲の許で輝いている凛に対して、その上さらに人間らしさまで人身御供に捧げろと要求しているような気分だった」

――これでは、アンドロイドと何が違うのだ?

「だから、俺が取り上げてしまった人間の感情を、今回久しぶりに凛が取り戻したように見えて、凛と彼が接近してゆくのを止められなかったんだ」

ハンドルを操作しながら、Pは「うまく立ち回れなくて、すまない」と顎を引いた。
488 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:49:58.78 ID:FbMZBPjoo
「え、あー……プロデューサーはそう云う風に思ってたんだ……」

凛はPの心根に触れて、視線を自らの足許へ落とした。

「……ごめん」

ややあって、ようやく一言だけ。変装用のサングラスの下から、一筋の泪が伝った。

「プロデューサーときちんと話すでもなく、勝手に勘違いして、勝手に間違った方向へ進んじゃって、ごめんなさい」
489 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:50:39.05 ID:FbMZBPjoo
額に腕を当てて「あーもう……どうして独り突っ走っちゃうかな私」と天を仰いだ。

「でも、一つだけ云わせて。私は、プロデューサーに感情を殺されたとも、人生を捧げさせられたとも思ってないよ。アイドルとして生きてきたこの8年、私はとても楽しかった」

たしかに、凛は志願者ではなくスカウトで芸能界に入った人間だ。しかし。

「私は、アイドルが好きだからやってきたんだよ。義務感じゃないんだ。プロデューサーとの二人三脚が楽しかったの」

「凛……」
490 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:51:08.65 ID:FbMZBPjoo
Pが、長い長い息を吐く。

「――勝手に自滅してたんだな、お互いに」

「うん、そうだね……お互いに」

再び、今度は二人とも大きく嘆息した。

「すまなかった」

「私こそ、ごめん」
491 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/06(木) 23:51:45.16 ID:FbMZBPjoo
不器用な二人だった。

きちんと話せばすぐに分かり合えるはずのズレを、これほどまでに拗らせてしまうとは。

「……失態は行動でカバーしなきゃね」

凛は、決別するように泪をハンカチでしかと拭って云った。

「当座、どこから立て直しを図るのがいいのかな。やっぱりツクヨミ? それともソロの足場から、かな?」

「そうだな……様々な選択肢がある。社に戻ったらリカバリープランを早めに二人で練ろう」

突破すべき難題は、眼前に山積している。
492 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/06(木) 23:53:08.04 ID:FbMZBPjoo

今日はここまで
493 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:32:55.97 ID:DXxvvhP2o

・・・・・・

人間如きがいくら悩もうが、いくら悔やもうが、時間は待ってはくれない。

せいぜい神の造り給うた庭の中で走り回ることしかできないのだ。

摂理に抗うこと能わず。凛の、24度目の誕生日がきた。

せっかくの誕生日だと云うのに、仕事は容赦なく入れられている。

いや、むしろこれまでの失態を考えれば、こんな日でも仕事の予定が入っていることこそ感謝しなければならないのだろう。

それに、自らの仕出かしたことを思えば、今年は家族や近しい者で祝うのみに抑えるべきだとも云えた。
494 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:34:02.39 ID:DXxvvhP2o
この日は歌番組の収録だ。

復活の狼煙として先日リリースした曲を披露する場。

かつてのような、意地悪なバラエティではなく、純粋に歌姫として活躍できるステージになるはずである。

騒動以降、Pは凛に可能な限り付き添うようになった。

凛のプロデュースに注力するため、色々な身辺整理をした。

何人か受け持っているアイドルを、ユニットを組んでいるつかさを除いて他の手すきのプロデューサーへ移譲したり、こまごました事務処理はちひろに全部任せたりと、可能な限り身軽になろうと東奔西走した。

ツクヨミは、騒動の引責としてPと田嶋が共に退き、経験豊富な765のプロデューサーが新しく立つことになった。

Pは陰からサポートする役目に徹している。

各方面への“戦後処理”を進めたことで、Pは本来の存在意義である担当アイドルを見守る者へと回帰できたのだ。
495 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:35:35.22 ID:DXxvvhP2o
楽屋入りすると、化粧台の横にいくつか箱が置かれていた。先に楽屋に入っていたPが持ってきたらしい。

どれにも『お誕生日おめでとう』と書かれている、有志一同が贈ってくれたプレゼントだった。

中には古参のファンが単独で用意してくれたものもあった。

「うわ……嬉しい。誕生日のプレゼントをこんなに嬉しいと思ったのなんて、いつ以来かな」

包装を解いて中身を確認しながら、凛の顔が綻ぶ。

「ほんと、ありがたい存在だよな」

Pが頷いて、プロテインのシェーカーを寄越す。

「今日はまだ昼メシ食ってないんだろ? これだけでも飲んでおいた方がいい」

午前中は収録のための最終レッスンをこなしていたのだ。ドタバタしていて食べそびれてしまった凛をPはきちんと見ていた。

昼食を引き換えにはしたが、その甲斐あって、今日のステージでは最高の歌を披露できるはずだ。
496 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:36:07.38 ID:DXxvvhP2o
「ありがとう。お腹が減っていると、プロテインでも美味しいと感じられるよ」

あっという間に飲み干して凛は顔を綻ばせた。

プロテインの、どろりと喉を犯す感覚が、いつぞやのまぐわいを思い起こさせたが、意識の封をして押し込めた。

代わりに、時計を見遣って立ち上がる。

「そろそろだね。着替えるよ。新しいデザインのドレス、楽しみだな」

岩見沢が腕を鳴らした、健康的な露出を復活させた衣装のお披露目だ。
497 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:36:36.89 ID:DXxvvhP2o
ヘアスタイルは、服飾を活かすため一部を垂れ残してアップに結っている。

この戦闘服を纏えば、歌姫・渋谷凛は準備万端。

スモークの焚かれたステージ脇で出番を今かと待つ後ろ姿に、Pはかつて15歳だった凛の初舞台の様子を投影していた。

少女は、大人の女になった。

フレッシュな渋谷凛から、艶やかな渋谷凛になった。

さあこれから、どんな渋谷凛になってゆくのだろう。
498 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:38:05.67 ID:DXxvvhP2o

スタッフからのキューで、凛は舞台に出た。

曲が流れ始めて、凛は全身、四肢の指先まで最大の意識を注ぎ込む。

肺から発せられる熱気が音波となって弾け飛び、慣性の法則に真正面からぶつかり合う鋭い動作で舞った。

間奏では、アダルティでありつつもフレッシュで勢い豊かなダンスを披露する。きっとこのオンエアを見た視聴者は凛に釘付けになるはずだ。
499 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:38:39.90 ID:DXxvvhP2o
歌が2番へと突入し、凛はマイクを持ち直す。あえて強く、ぎゅっと握った。

……しっかり握ったはずなのに、皮膚感覚へのフィードバックがなぜか感じられないのが不思議だ。

心臓が、全身に酸素を届けようとポンプを最大稼働させる。

……袖で待機している頃から、心拍数が上がって、動悸が激しかったのは緊張のせいだろうか。

額や頬そして首筋を汗が伝い、ステージの照明を反射して煌めく。

……これら水の珠が熱く感じられないのは、露出が多めの衣装ゆえ身体が効率的に放熱できるからなのだろうか。
500 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:39:49.73 ID:DXxvvhP2o
――いつもより肌を色白に見せる方針だったか? 照明班に、白さを活かすよう色調を微調整させるか。

――唇まで寒色のメイクを徹底してるのは演出なんですかね。

スタジオの裏側で、番組ディレクターとリードカメラマンが小声で話し合っている。

クールな歌姫って云うより氷の歌姫って感じだね、とスタッフが形容した。

季節柄ゆえの演出だろうと皆が信じ込んでいる。
501 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:40:37.64 ID:DXxvvhP2o
「あれ……?」

凛は、視覚から入ってくる情報と、自らの三半規管が伝えてくる位置情報に齟齬があることを自覚した。

まっすぐ前を見据えて、きちんと歌っているはず。

なぜ、自分に光を浴びせている照明群が、目の前に見えるのだろう?

首筋から、全身の体温が根こそぎ奪われていく感覚に襲われる。

なぜ、スタジオ内の冷房を一気に強めたのだろう?

凛が脳内で問うのと、女性スタッフの悲鳴が響くのは同時だった。
502 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:41:33.14 ID:DXxvvhP2o
まるで石像を倒してしまったかの如く無機的な動きで、凛が地に散った。

「凛!」

Pがカメラなど眼中にない様相でステージへ駆け寄った。生放送ではないのが救いだった。

顔を覗き込むと、意識はあるが双眸の焦点はあまり定まっておらず、皮膚は白いを通り越して土気色に、唇は青紫へと変色している。

それでも自らの状態を知覚できていないのか、瞳にはたくさんの疑問符が浮かんでいるように見えた。

なんで自分は歌っているはずなのにプロデューサーがいるのか? と。
503 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:42:09.05 ID:DXxvvhP2o
額や首筋に手を当てると、恐ろしいまでに温度を感じない。

「貧血か」

長い髪をアップに結っていたのは、完全な偶然とは云え不幸中の幸いだった。

もしこうしていなければ、倒れた際の勢いで頭部を固い床に強打していたはずだ。

そうなったら素人は手出しできず、救急隊が担架を運んでくるまで手をこまぬいて見守ることしかできなかっただろう。
504 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:42:52.90 ID:DXxvvhP2o
Pが凛の耳元で「すまんが抱えるぞ」と断ってから、華奢な身体と冷たい地面との間に腕を滑り込ませた。

上体に力を入れれば、ふわりと難なく凛は持ち上がる。

羽根のように軽い体躯だった。

Pが立ち上がると、凛が持つマイクは地球の引力に逆らえず手指から零れ、ゴトンと落ちる音をスピーカーが増幅し、妙に響き渡らせる。

いわゆる“お姫様抱っこ”の格好だが、喜んだり茶化したりできる状況ではなかった。

再度凛の様子を覗き込めば、意識が徐々に消失しつつあり、されど口許だけは歌うために動き続けている。

それも楽屋へ戻りつく頃には止まってしまった。
505 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:44:07.73 ID:DXxvvhP2o
===

凛は純白の世界にいた。

何もかもが白くて、自分が今どのような状況に置かれているのか判らなかった。

白以外の光もなければ音もない。匂いも触覚もない。

今、自分は歩いているのか、走っているのか、いや、もしかしたら浮遊しているのかさえ判らなかった。

「落ち着いて、周りを見渡そう」

自らに云い聞かせるようにして目を凝らす。
506 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:53:44.23 ID:DXxvvhP2o
そのうちに、何か輪郭が不明瞭なものがぼうっと浮かび上がる。

レンズのピントを合わせるように徐々に凝縮してゆくと、それは凛だった。

少しだけ幼さの残る凛。

黒いシンプルなゴシック調ドレスは、今から思えば極低予算で頑張っていたと思い出す。

「デビューしたときの私、か……」

15歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。
507 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:54:12.03 ID:DXxvvhP2o

渋谷凛+
https://i.imgur.com/9laxFF0.jpg
508 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:54:48.89 ID:DXxvvhP2o
次に浮かんだのは、ベースを肩に掛ける凛だった。

「CDを出したときの私」

16歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。

続いて、ガラスの靴を手に持つ凛。

「シンデレラガールになったときの私」

18歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。
509 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:55:16.27 ID:DXxvvhP2o

[CDデビュー] 渋谷凛+
https://i.imgur.com/6KsgEzH.jpg

[アニバーサリープリンセス] 渋谷凛
https://i.imgur.com/GTqQ7Pw.jpg
510 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:56:01.63 ID:DXxvvhP2o
その後も、これまでの凛の軌跡が浮かんでは吸収され消えてゆく。

紅白出場の際の衣装を纏った22歳の凛までそれが繰り返された。

「23歳の私だと何が浮かぶんだろうね」

途中から、次は何が浮かび出てくるのか、ほんの少し楽しみになっていた凛の前に、再び何かが浮かび上がる。

――それは、凛ではなかった。

「栗栖……」
511 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:56:29.94 ID:DXxvvhP2o
未来は、過去を積み重ねてゆくと云うこと。

過去の連続が現在となり、そして未来へとつながってゆく。

未来の土台となるのは、過去である。

これまで浮かんでは消えていったもの、それは、自らの歩んできた軌跡であり、栗栖もまた、凛にとっての軌跡だった。

確かに、その辿ったレールが正しいものだったかどうかはわからない。

むしろ、決して正解ではなかったのだろう。

それでも、栗栖を好いた凛の感情は、その時こそは本物だったのだ。
512 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/07(金) 23:57:46.83 ID:DXxvvhP2o
「ごめんね、栗栖」

凛の贖いの言葉に、栗栖は柔らかく微笑んだ気がした。

これまでの凛同様に輪郭が崩れ、こちらへと重なるように近づいてきて消えゆく。

白い靄が晴れてゆく。世界に色が少しずつ戻ってくるように感じる。

――っかりしろ……りん……凛、凛、大丈夫か、凛

霞の向こうで、Pがこちらを見ている。
513 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:01:36.24 ID:YE7fR/gko
「う……ここ、は……? 私……いったい……」

急速に様々な感覚が戻ってくる。

目に入ってくるのは、楽屋の光景だった。

視界の端に、焦りの色を隠さずに覗き込むPの姿が映り込む。

「凛、目が覚めたか!」

よかった、と心の底からPは大きな息を吐いた。
514 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:02:29.41 ID:YE7fR/gko
身を起こすと、寒いような、暑いような、相反する感覚が全身から首筋へぞわぞわと上がってくる。

一度大きな身震いをして、自らの置かれた状況を見た。

「あれ、私……ステージに出てなかったっけ……」

記憶違いか、夢でも見ていたのか。

Pは首を横に振って、「ステージで倒れたんだよ。たぶん貧血だ」と、凛の額に手を当てて体温を診る。

「あー……ごめん……」

朧げに記憶が戻ってきた。

この背水の状況に於いて、なお失態を晒してしまったのかと、凛は肩を落とした。
515 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:04:13.45 ID:YE7fR/gko
「いいんだよ。リカバリーは俺に任せとけ。白湯を用意したから、とりあえず飲んでおくといい」

Pに渡されたカップを両手で持ち、ゆっくりと飲む。

食道を温めながら降りてゆく様子が、自身ではっきりわかった。

ありがとう、と静かに云って、何度か口をつけた。

「私……倒れている間、なんだか不思議な夢を見ていた気がする」

「不思議な夢?」
516 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:04:45.25 ID:YE7fR/gko
「私の、これまで歩んできた道を、良くも悪くも再確認させられるような……」

最後にプロデューサーが迎えに来てくれたんだ、と凛は弱々しく笑った。

「ごめんね、心配かけて。少し血圧を上げたら、もう一回撮り直せると思うから――」

頑張るよ、と言葉を続けようとしたところで、不意に何かが溢れ出す感覚がした。
517 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:05:42.93 ID:YE7fR/gko
喉元がキュッと絞まるような。

それでいて、鳩尾は中から押し上げる圧力を掛けてきた。

Pは、突如として表情を変えた凛の様子に、只事ではないと直感した。

「どうした、大丈夫か」

すぐさま腰を上げて問うが、凛に返答する余裕はない。

喉と口を手で押さえて首を微かに振るので、急いで抱きかかえて手洗いに運び込む。
518 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 00:06:47.37 ID:YE7fR/gko
すぐさま、凛がえずいた。

今しがた飲んだばかりの白湯ごと、胃の中身が逆流する。

「倒れた際に実は頭を打ってたのかも知れないな……凛、大丈夫か、頭は痛いのか?!」

背中を擦りながら問うPに、凛はかぶりを振って再度吐いた。

呼吸がままならない。空気を求めて喘ぐも、それを鳩尾の締め付けが上書きしてくる。

不快感を排出せむとする身体の硬直を、一瞬息を吸って得られる酸素だけで支えなければならない。

ただでさえ貧血で体力を削ったのに、1回1回が途方もなく長い時間に思えた。

やがて酸欠に敗北した凛の意識と身体は、力なく崩れ落ちた。
519 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/08(土) 00:07:26.36 ID:YE7fR/gko

今日はここまで
520 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:25:04.55 ID:YE7fR/gko

・・・・・・

覚醒すると、凛の目にはクリーム色の天井が映った。

虫食いのような、皺の寄った和紙のような特徴あるトラバーチン模様の石膏ボードをしばらく見つめたままで、自らの置かれた状態を理解すべく記憶を引き出そうとする。

さっきまでステージに上がって歌っていたはず――いや、違う。その後ステージで倒れ、楽屋へ運ばれたのだった。

たしか、貧血と云われた気がする。だから、落ち着かせるために、体温を上げるために白湯を呑んだはずだ。

つまりここは楽屋か、と凛は訝しんだ。
521 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:26:08.10 ID:YE7fR/gko
その割には違和感がある。
メイクをするためのどぎつい明かりや大きな鏡が視界の中に全く入ってこないし、テレビ局スタッフの、指示をやり取りする大声の会話が聞こえてこない。

そもそも、自分は今ベッドに寝ている。

どうやらこの場所は、天井の雰囲気は似ているが楽屋ではないらしい。

目が覚めたら別の場所にいるとは、まるでこれはテレポーテーションやタイムリープをしたようではないか。

凛は目線と顔を動かして、ここがどこなのかを知ろうとした。
522 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:27:00.86 ID:YE7fR/gko
「あ」

すぐにその必要はないとわかった。左腕には点滴の管がつながれていて、Pがベッドの隣にいたからだ。搬送されたのだと理解した。

「プロデューサー……」

「……よかった、目が覚めたか」

Pは、凛が身じろぐ音と微かに問う声で、顔を挙げた。

「ここは……病院?」

「ああ。楽屋で再度倒れたから、救急車を呼んだんだ」
523 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:27:59.24 ID:YE7fR/gko
「えーと、つまり……私は今日、2回連続で倒れたんだね?」

体調のセルフマネジメントは基本中の基本だと云うのに。凛はベッドに沈む身体を更に沈めて嘆息した。

「……ごめん、大ごとにしちゃって」

「いいんだ。意識を失っている間に色々と精密検査をしてもらったよ」

凛自身は、一瞬だけ目を閉じて再度開けたら病室にいた、と云う感覚だった。しかし実際には長いこと電源が落ちていたらしい。

なるほど、皮膚をよく見れば、倒れている患者から無理矢理採血したのであろう痣が出来ていた。
524 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:30:01.29 ID:YE7fR/gko
「結果、身体に異常はないから安心していい」

あれほど体調が悪かった割には、幸いにも病気ではなかったらしい。

過労に負けないよう、栄養摂取にもう少し気を付けるべきだろうか。

どのように改善すべきか思考する中、Pが下を向いて黙りこくっているので、凛は訝しんだ。

じっと見つめても、何かを考え込むように顔を伏せている。

どうにも、異常なしと云う本来なら歓迎すべき話の内容と、様子の重苦しさが一致しなくて妙だ。

「……まだ続きがあるんじゃないの? その様子」

凛の問いに意を決したPは、軽く息を吐いた。
525 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:30:50.13 ID:YE7fR/gko
「検査をしてもらったからこそ、わかったこともあるんだ」

顔を挙げて凛を見る。その表情は硬かった。

「……妊娠。2箇月あたりだろう、って」

凛は、しばらく眼をぱちぱちと瞬かせた。

Pの言葉が、自分の状況と紐づけられなかったのだ。

「……え?」
526 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:31:37.98 ID:YE7fR/gko
まさか。

これ以上堕ちることはない、そう思っていたのに、まだまだ下はあったようだ。

収録中に倒れ、あまつさえそれが悪阻―つわり―のせいだったと?

「……そんな。いくら私がこれまで男女の機会がなかったと云っても、避妊の知識くらいはちゃんと持ってるし、しっかり実践したはずだよ。栗栖だってそこはきちんとしてた」

15歳でデビューして以来、アイドルになったからこそ、この身体を男と交わらせることはしてこなかった。

たとえ齢23になるまで生娘だった身でも、アイドルと云う、或る意味で肉体を異性向けの仕事道具とする以上、万一に備える意味でも性知識は適切に学んでいた。
527 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:32:20.96 ID:YE7fR/gko
栗栖とて、状況は同じ、充分に承知していたはずだ。まぐわう際には、毎度々々避妊具をしかと装着していた。

俄かには認められない事象を否定したくて、これまでの努力を必死で訴える。

だが、血液検査をした科学的なデータの裏付けがある。身籠っている事実を直視しなければならないのだ。

そのうち、凛はもはや何も二の句を継げなくなった。

看護師が終わった点滴を回収しにくるまで、病室に掲げられた秒針の音だけが響き続けた。
528 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:32:56.57 ID:YE7fR/gko
===

「いったい……いつ……どこで……」

凛はリビングで顔を覆っていた。

点滴が完了すれば、身体に異常のない凛が病院にいる道理などない。

Pに自宅まで送ってもらい、せめて落ち着こうと二人分の緑茶を淹れたところ。

テーブルの対面に座るPは、湯飲みを両手で包み込み、深い緑を見つめたままだ。
529 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:33:55.98 ID:YE7fR/gko
帰る道すがら、Pに連れ添ってもらって極秘裏に婦人科を受診すると、腹部超音波エコーの白黒画面に表示される胎嚢が、しっかり確認できた。

これで確定だ。

トップアイドル渋谷凛は、子を孕んだのだ。

「おめでとうございます。正常に育っています。7週ですね」と云う医師の言葉が、ずっと脳内をこだましている。
530 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:34:53.19 ID:YE7fR/gko
2ヶ月前は何をしていた? 栗栖との関係が終わりかけていた頃の話だ、精神の不調でセックスの頻度は確かに高かったが――

「……もしかして」

最も精神が狂っていた頃に、捨て鉢になってハーブをキメながら狂乱的な交接をした記憶がうっすらと浮かぶ。

あの時は口を犯されていた微かな覚えしかない。

しかし、最も深くキマっていたときにどのような行為をしたのだ? どんな求め方をしたのだ?

栗栖にも効いていたはずだから、避妊のことを考える余裕などなかったのではないか。

眼を見開いて表情を蒼白にした様子を見て、Pは凛に心当たりが浮かんだことを察した。
531 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:35:43.94 ID:YE7fR/gko
「私、さすがにもう、ツクヨミには……いられないね」

凛は俯いて、深く息を吐き出した。

Pが一瞬だけ逡巡してから、口を開く。

「……既に田嶋さんと話は済ませてある。八馬口さんの件もだいぶ落ち着いてきたし、遠家さんに替わってもらう方向で進んでる」

「そう……ありがとう」
532 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:36:51.01 ID:YE7fR/gko
凛は、慚愧や後悔、感謝など様々な想いを一言に載せて、震える手で茶を一口飲んだ。

呼吸も、手と同様に震えていた。

「……うっ」

茶すらも受け付けない胃がすぐさま反乱を起こし、たまらずトイレへ駆け込む。

Pが「大丈夫か、大丈夫か」と必死で背中を擦ってくれるのが申し訳なくて、惨めで、身の置き所がなかった。
533 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:37:41.65 ID:YE7fR/gko
嘔吐が落ち着くと、凛は、新しく芽吹かむとする存在を――自らの下腹部を見た。

「この……このせいで……」

視線を鋭くして、よろよろと壁に手をつきながら台所へ向かう。

かつて栗栖からもらった包丁を取り出して、力強く逆手に握り、手を振り上げた。

「おい、やめろ!」

凛の意図を理解したPが慌てて抑えつける。
534 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:38:36.92 ID:YE7fR/gko
「莫迦! 自分の腹に刃を突き立てる奴があるか!」

「この包丁なら切れ味いいから! 一回突き立てればすぐに済むから! 一回刺すだけなら私は死なないから!」

凛は錯乱して、掴まれた手を振り払おうと身を捩りながら叫んだ。

Pは無理矢理に刃物を毟り取って、部屋の反対側に投げ捨てる。鈍い光を反射しながら、ゆっくりと放物線を描いた。

凛は、がくりとうなだれて、床にへたり込んだ。

すぐに思い直したように顔を挙げ、「じゃあ、今すぐ中絶を――」とPの腰に縋りついて云う。さめざめと泪が溢れている。
535 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:39:35.43 ID:YE7fR/gko
「それもダメだ! 新しい命に罪はないだろう!? 母体にも相当な負担が掛かる!」

「だって、それじゃアイドル辞めなきゃいけなくなる……!」

「それよりもお前の身体の方が大事だ!」

肩で息をするPが、深呼吸して、しゃがみ込んだ。

凛の上体を両手で支えて、「落ち着いて、ゆっくり、話を聞いてくれ」と柔らかく諭す。

しばらくの時間を待ってから。
536 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:40:17.72 ID:YE7fR/gko

「……俺の子だ」
537 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:40:52.47 ID:YE7fR/gko
凛は瞠目した。

「凛を、この世界に連れてきた、縛り付けた業は、俺が全部背負う」

「プロデューサー……自分が何を云っているか、わかっているの?」

「いいか、これは、何も義務感や責任論だけで出す言葉じゃない」

お互いの視線が、真っ直ぐに交差する。

「――結婚、してほしい」
538 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:41:37.29 ID:YE7fR/gko
凛の瞳が揺れる。

「プロ……デューサー……。その言葉が義務感じゃないって……どう云うこと……」

「9年間、封印してきた想いだ。俺は、ずっとお前に惚れていた」

「嘘……だったらつまりあの時、両想いになってたってことじゃない。なのになんであんなに私を怒ったの」

「当たり前だろう。お前はアイドルだ。一般人ならまだしも、プロデューサーである俺の個人的な感情を注ぐことが到底赦される存在じゃない。
俺を恋愛対象外の人間に仕立て上げる必要があった」

心を鬼にして振らなきゃいけなかったに決まってるだろう、と云って、Pは目を苦しそうに閉じた。
539 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:42:13.17 ID:YE7fR/gko
――サガ、だね。

ふと横から、凛の耳に自らの声が届いた。

振り向けば、そこには大きな姿見があって自分が映っている。だが、座り込んだ自分ではない。

15歳の凛が、制服姿で立っていた。

「私は、アイドルの世界の熱さを知ってしまった。そして、それ以上に――」

鏡がぼうっと白く光ると、映るのは17歳の凛に変わった。アイドル衣装の姿だ。
540 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:42:39.82 ID:YE7fR/gko

[ピュアバレンタイン] 渋谷凛+
https://i.imgur.com/Lv3PVFl.jpg
541 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:43:19.02 ID:YE7fR/gko
フリルやリボンを多用した、柔らかい印象のドレス。赤とクリーム色がバランス良く、深緑のワンポイントがプレゼント包装を彷彿とさせる。

かつて想いを漏らしてしまった時に着ていたものだ。

「人を想う温かさも芽生えた。ただ、これは赦されないことだったよね。だからあの時のこと、理解はしているつもりだよ、私」

でも――そう息を吐いて、鏡に映る凛が目を閉じた。ふわり飛び出て、目の前に浮かぶ。

「もうそろそろ、解放してくれてもいいんじゃないかな」

やがて数多の白い光の珠となって、24歳の凛に溶け込んでゆく。
542 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:43:58.29 ID:YE7fR/gko
心の奥底に深く固く仕舞い込んだ宝箱が開き、まるで涸れない湧水のように想いが溢れ出す。その奔流は泪となって止め処なく凛の頬を濡らした。

「プロデューサー、ごめんね、私も本当はずっと好きだった……」

凛の慟哭にPはハッと目を開けた。

「アイドル失格でごめんね……本当はあれからずっと、想いの宝箱に鍵をかけて大切に仕舞っておいたんだ……」

「凛……!」

Pが凛の華奢な身体を力強く抱き寄せた。
543 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:45:38.87 ID:YE7fR/gko
凛も両腕をPの背中へ回す。

「こんな状態で応える形になっちゃって本当にごめんなさい。莫迦な私を……赦して……」

「いい、いいんだ。俺こそすまなかった、凛をこんなに傷つけて。赦してくれ」

二人、これまでの時間を取り戻すかのように、いつまでもいつまでも抱きしめ合う。

凛は、初めて自らの泪がこんなにも暖かいものだったのかと知覚し、声を上げて泣き続けた。


544 :エンディングテーマ代わりに ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/08(土) 22:46:52.46 ID:YE7fR/gko



「愛は夢の中に」
原題:I won't last a day without you (あなたなしでは生きてゆけない)
https://www.youtube.com/watch?v=bbPf8lDp1ek


545 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/08(土) 22:48:03.89 ID:YE7fR/gko

今日はここまで
546 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/09(日) 00:05:26.73 ID:VuvpEA8DO
あー、やっぱり妊娠か

さて、最後どうなる(明日が野獣の日です)
547 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:01:51.97 ID:VEW2G1XCo




エピローグ
・・・・・・・・・・・・



548 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:02:39.43 ID:VEW2G1XCo
チャオプラヤー川の雄大な流れのほとりに、バンコクの街は横たわっている。

高層建築のミラーガラスがぎらぎらした陽の光を反射する東南亜屈指の国際都市でありながら、人々にはホスピタリティが溢れ、どことなくお茶目な社会。

旧市街の決して舗装状態が良好とは云えない小道には露店が立ち並び、合間を縫うようにしてトゥクトゥクと呼ばれる自動三輪車が駆け抜けるのは毎日の光景だ。

交通渋滞が作り出す排気ガスの空気が吹き抜け、その中に混じる南国の風の匂いが、ここが常夏の国だと云うことを教えてくれる。

経済成長著しいバンコクにあって、新興住宅街には高層マンションがまるで雨後の筍のように伸びる。

現地でコンドミニアムと呼ばれるそれら建築物の袂を通る道路は、かつての雑然とした泥臭さから、カフェやアパレルなどお洒落でハイセンスな場所へと変貌している。
549 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:03:06.69 ID:VEW2G1XCo
陽気なストリートを溌溂とした快活な足取りで歩く少女の姿が見えた。

年端はさほどでもないとみられる割に相当な美人だ。

大きな瞳は碧く澄んで潤いのある光沢を放ち、甘い栗色をした長い髪はさらさらと流れ、風を受けて踊っている。

舞う髪の隙間から、サファイアのピアスが見え隠れした。
550 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:03:51.83 ID:VEW2G1XCo
南国タイには珍しく、肌の色素が濃くない。

確かに強い紫外線から守ろうとやや日に焼けた色ではあるのだが、土台となる肌そのものが、東南亜の人間とは根本的に異なる白さを持っていた。

大通りに面したコンドミニアムへと少女が入ってゆくと、エントランスに立つ警備員が、手を挙げて明るい挨拶を寄越す。

この守り人は、コンドミニアムに入居する全ての世帯にとって家族同様の存在だ。

エレベーターを待つ間に、一言二言、タイ語の世間話をしてから手を振った。
551 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:04:38.21 ID:VEW2G1XCo

「ただいま」

「おかえり。遅かったね、また寄り道?」

玄関の扉を閉めてから飛び出た会話は、意外にもタイ語ではなく日本語だった。

「まあ、寄り道っちゃ寄り道だけど。でも、そんなに云うほど道草食ってなくない?」

少女は頬を膨らませて軽い抗議の様相を見せた。

抗議された側はどこ吹く風で包丁を上下させている。
552 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:05:22.18 ID:VEW2G1XCo
「あら。月曜だってわざわざタークシン橋を越えて高島屋に行っていたそうじゃない」

「うえっ、なんでそれを……」

「お母さんの情報網を甘く見ないことだね、ふふっ」

切り終わった野菜を鍋へ放り込んでから、少女の方を振り向いてニヤリと笑った。

アップに結った髪の先端が緩やかに揺れ、耳朶には白銀のピアスが輝く。

長い睫毛に囲われた大きな碧い瞳は、その美しさが母から娘へ正当に受け継がれていることを示していた。
553 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:05:57.63 ID:VEW2G1XCo
「さ、夕飯までの間に宿題を済ませちゃいなさい」

調理へ戻ろうと再び包丁を持った母親に促され、少女は肩を竦めて「はーい」と回れ右をした。

くるりと回る際に、柔らかく艶やかな髪が遠心力で揺れた。

シルクのように電燈の光を反射するさまを見て、母親は郷愁に似た感覚を受けた。

「ほんと、似てきたね……」

つと呟いて、西日に照らされる窓際の棚へ視線を遣る。
554 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:06:24.17 ID:VEW2G1XCo
木の素朴なフォトフレームが置かれている。

かつて、自らが第3代シンデレラガールとして頂点へ駆け上がった時に撮ったもの。

その写真の中で擁いているガラスの靴そのものが、隣で陽を受けて輝く。

それらも、もはや遠い昔のことだ。

季節は移ろい、すべての物事が、未来から現在そして過去へと流れてゆく。

「14年も経てば、そりゃ似てくるよね」

凛は、写真の中で笑う過去の自分と、窓から見えるバンコクの空を交互に見て独り言ちた。
555 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:06:55.07 ID:VEW2G1XCo

15年前の秋。

渋谷凛は、突如として芸能界を去った。

トップアイドルのあまりにも唐突な引退劇に、理由を完全に隠すことは不可能だった。

――渋谷凛は、一般男性と結婚いたします。

表向きは結婚だけが理由。

しかし、結婚をする理由が妊娠であることは、アンオフィシャルな情報として伝播した。人の口に戸は立てられなかった。
556 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:07:22.93 ID:VEW2G1XCo
Pは、担当アイドルを孕ませた汚名を背負い、事務所を辞めた。

凛を守るために全ての責任を被った担当プロデューサーは、懲戒解雇の槍玉に挙げられたが、事情を知るちひろとつかさの根回しで、依願退職扱いとなった。

「アタシのことは気にするな。ソロもベキリもセルフプロデュースで充分やっていけるさ。ベキリはジュニが凛を継いで入ってくれるだろ」

全てを告白した凛とPに、つかさは驚きの後、そう云って笑った。きっと心配させないようにわざと大きく破顔したのだろう。

「長い間トップをコミットし続けるのも大変だったろ。おつかれ」と送り出してくれる笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
557 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:07:58.83 ID:VEW2G1XCo
凛は全国民が知るトップアイドルだっただけに、国内に安住の地はない。

人の目の多い都市部は当然無理だし、逆にどれだけ辺鄙な場所であろうと――いや、辺鄙だからこそ著名人は目立ってしまう。

結局、トップアイドルそしてトッププロデューサーと云う椅子に腰掛けていた少しの間の貯蓄を使って、バンコクへと飛んだ。

Pたちがこの街を選んだのは、邦人の居住しやすい環境が揃っているからだ。

タイの人々は親身になって接してくれるし、中心街に出れば伊勢丹や東急デパートもあり、海の向こうの地でありながら、日本の空気を感じることもできる。

基本的にはPが外で用事をこなせばよく、どうしても凛が外出しなければならないときも、そこまで周りの目を気にする必要はない。

どこからか嗅ぎ付けた邦人が現地まで来たところで、エントランスに構える警備員が全てを跳ね返してくれたし、外国人の滞在可能日数は限られているから長期戦も不可能。

バンコクは凛たちにとって、デビュー以降初めて、安息の時間を手に入れられるシャングリラだったのだ。
558 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:08:28.81 ID:VEW2G1XCo
この地に腰を据えて、はや15年。

14歳になった娘は、棚の写真が何なのか、何の靴なのかまだ知らない。

幼い時分に訊かれはしたが、詳しい説明を省いたので、単純に母親の若い頃の写真と、シンデレラ童話をモチーフにした置物としか思っていないようだ。

しかしそれも、そろそろ思春期自我の発達に伴って疑問が浮かんでくるのだろう。

もしこのまま訊かれなければ、15歳になった時に話そうと思っている。
559 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:09:20.31 ID:VEW2G1XCo
わざわざ目につく場所に飾っているのは、凛なりの想いがあってのことだ。

――アイドル、幸せだった?

そう自らに問うた時、或いはPに問われた時、何度訊ねられても必ず彼女は首肯する。

Pへの罪悪感に因るものではない。

現役当時は確かに幸せな生活だったのだ。アイドルだったことに誇りを持っている。

その過去を否定することは、彼女にはできなかった。

絶頂期の写真を掲げるのは、幸せだったことを示す、人生の栞なのだ。
560 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:09:50.07 ID:VEW2G1XCo
そして隣に鎮座するガラスの靴は、写真と対になる、自らへの十字架。

元々この靴はPから贈られて以来、ずっと大切に仕舞っていたものだった。

凛は、本当に大切なものはしっかり保管しておく性質だ。

だからこそ、今は戒めとして飾っている。

宝物を自らの意志に反していつでも目に入ってくるよう掲げるのは、苦い薬であることを示す、人生の羅針盤なのだ。
561 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:10:16.06 ID:VEW2G1XCo
これらが一体何なのか? 娘に改めて詳細を尋ねられた際の覚悟は、既にできている。

お腹を痛めて産んだ時から、自らの背負うべきカルマを一瞬たりとも忘れたことはない。

先に帰宅していた弟と共にリビングで参考書と睨めっこする長女の横顔は、真の父親たる栗栖の特徴をどんどん顕してゆく。

男女それぞれのトップアイドル遺伝子が融合したその存在は、まさにサラブレッド。美しく育たない方がおかしいとさえ云える。

明るい栗色の髪、中性的に整った目鼻立ち、すらりとバランスの良い体躯。
562 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:10:42.43 ID:VEW2G1XCo
わずか14歳にして、かつての凛を超えるポテンシャルが顕現してきている。

仮にアイドルとしてデビューすればきっと途轍もない逸材になるだろう。

恵まれた身体に、実の娘ながら嫉妬してしまう。

同時に、時として美しさが引き起こす悲劇がこの娘にも降り懸かり得るのかと思うと、胸が痛んで仕方がなかった。

娘が自らの生まれを呪うことのないよう、命を懸けてさえ守らなければ。凛はその想いを片時も離さなかった。
563 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:11:09.68 ID:VEW2G1XCo

やがてコンソメとブイヨンの芳醇な香りが漂う頃合に、Pが仕事から帰宅した。

正直なところを云えば、現役時代に二人で稼いだ金額があれば、タイで慎ましやかに生活する限り一生困らない。

それでも人間とは難儀なもので、何かできることを探して動かずにはいられないのだ。

Pは旅行代理店のプランナーとして、かつての経験を活かせる職場にいた。

「いただきます」

一家揃って夕食を摂るのが、欠かさない日課。

うまいなあ、と云いながらPが平らげてゆく横で、その日の出来事をお喋りするのだ。
564 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:12:10.29 ID:VEW2G1XCo
「恋―レン―ったらまた学校帰りに遊び歩くんだから。お父さんからも何か云ってよ」

凛が奔放な娘に若干手を焼くように云った。

母親ほど娘といる時間を長くとれないPは、凛以上に甘かった。

「まあBTS―スカイトレイン―やMRT―バンコクメトロ―で移動できる場所なら問題ないんじゃないか。昔ほど治安の悪い場所はなくなったから。恋だって場所の善し悪しは判るだろう」

な? と恋を見て問うと、当の本人は笑顔を咲かせた。

「でしょ? やっぱりお父さんは私の味方だよね」

同時に凛のPへの視線が鋭くなったので、慌てて真剣な顔を作って、恋と向き合う。

「でも恋は年頃だし、もう少し自覚して気を付けるようにな。お前は自慢の娘なんだから」

「はーい」
565 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:12:47.18 ID:VEW2G1XCo
およそ真面目とは遠いトーンで返事をする恋に、凛が問う。

「大体、今日はどこで寄り道してたの。友達の誰も今日は恋と一緒に遊んでないって云ってたよ」

「んー……」

急に恋が歯切れ悪く黙り込む。

Pと凛は予想外の反応にお互いの目を見合わせた。
566 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:13:22.59 ID:VEW2G1XCo
「……笑わない?」

両親の様子を窺いつつポケットをまさぐっている。二人とも「もちろん」と頷くので、恋は1枚の紙きれを出した。

「こんなの、貰っちゃって」

Pと凛の心臓が、ドクンと跳ねた。
567 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:13:48.26 ID:VEW2G1XCo
テーブルに置かれたのは、紛れもなく芸能プロダクションの名刺だった。

そう断言できるのは、かつて二人が所属していた事務所、つまりCGプロのロゴがしっかりと記されていたからだ。

それだけではない。

最も目立つように書かれていた名前は――桐生つかさ。肩書は、プロデューサーになっていた。
568 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:14:21.39 ID:VEW2G1XCo
懐かしい匂いが甦る。
目を瞑れば、今でも15年以上前に駆け回っていた社屋の光景が瞼の裏に浮かんでくる。

古巣との思わぬ邂逅。

かつて熱く燃え盛った時分への回顧が齎す甘さと、それと同等以上に心臓を突き刺す痛み。

「一体、これは」

ようやっとのことでPが一言だけ訊ねた。
569 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:14:58.05 ID:VEW2G1XCo
「……スカウト、されちゃった。綺麗な人だった」

「えっマジ? 姉ちゃんすげえじゃん!」

それまで食事に夢中だった食べ盛りの弟が、初めて顔を挙げて会話に割り込んだ。

恋は弟からの尊敬の眼差しをくすぐったそうに受け止めながら、日本に行ってみたいな……と呟いた。

2030年代に入り、経済規模をインドに追い抜かれて久しく、タイの隣国インドネシアが世界上位入りを虎視眈々と狙う位置に成長してきた昨今に於いても、東南亜には未だに日本への憧憬を持つ人間が少なくなかった。

極東の島国へ行けば、日本と云う名の魔法使いがお城へ連れていってくれる――シンデレラのような羨みが、20世紀から綿々と続いたままだ。
570 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:15:32.52 ID:VEW2G1XCo
名刺に書いてあるのは知らない番号だった。15年もの歳月が経っていれば、連絡先なんて変わるだろう。

「この人、1週間くらいはタイにいるみたい。アユタヤとかプーケットとか回るって云ってた。その気になったら連絡くれれば喜んで駆けつける、って……」

同じ国の空の下に、かつてペアを組んでいた相方が歩いていると知って、凛は胸が締め付けられる思いだった。

「……恋は、どうしたい? アイドルにスカウトされて、どんな人生を歩みたい?」

痛みを表に出さないよう必死に押し込めて、凛は問うた。
571 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:16:02.28 ID:VEW2G1XCo
「よく……わからない。ワクワクする気持ちもあるし、未知への不安も当然ある。でも、少なくとも今までは……あまり自分の人生に興味なんてなかったんだ」

その美貌ゆえ、恋は自らの予想通りにしか動かない世界に閉じ込められていた。

相手の――特に異性であれば容易に――行動の予想がついてしまう。

何の刺激もない日常。遊び歩きがちだったのはその反動もあったからだ。

「チャンスがあるなら、やってみようかな、っていう気持ちが……今はある」

恋は訥々と言葉を選んで、独り言つように小さく語った。
572 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:16:28.38 ID:VEW2G1XCo
「……サラブレッドは、宿命に引き寄せられるんだな」

Pがぽつり、洩らした。

真意を測りかねた恋が首を傾げるが、気にしなくてよいとの意味で手を振った。

「つかさを、呼ぼうか」

Pの慈愛に満ちた声音。凛は心の中で静かに一雫の泪を禁じ得なかった。
573 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:17:09.49 ID:VEW2G1XCo

恋から来訪要請を受けたつかさは、告げられた住所のコンドミニアムエントランスへ辿り着いた。

「ここで合ってるよな? バンコクは似たような建物多すぎてロストしちまうわ」

やれやれと肩を鳴らして中へ入ると、明らかに非友好的なオーラを出す警備員が何か云いながら寄ってきた。

さしずめ部外者は立ち入り禁止だ、みたいな内容なのだろうが、聞き取りもできなければ話すこともできない。

「すまねぇ、タイ語はさっぱりなんだ」

つかさは眉の尻を下げて、若干困ったようにアポがある旨を英語で返す。

しかしタイ人の訛りのきつい英語は、意思の疎通が非常に困難でお手上げだった。
574 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:17:36.28 ID:VEW2G1XCo
「あーもうこれどうすりゃいいんだ、セキュリティきつすぎだろ」

「――つかさ」

後頭部を掻いて考えあぐねるつかさに呼び掛ける声。しかめていた眼が、大きく見開く。

「……凛」

声のした方を向いて、たっぷりの時間を要してからようやく一言だけ発された。
575 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:19:00.19 ID:VEW2G1XCo
「久しぶり、つかさ」

「凛……お前……やっぱり……」

突然の展開に警備員は混乱の顔をしている。

凛は、つかさが凛への来客である旨を告げて、エレベーターへと乗り込んだ。

「アタシ、最初あの子を見て、なんとなく凛に似てるって思ってたんだよな」

「そっか。……幸か不幸か、私の特徴も、栗栖の特徴もはっきり半分ずつ受け継いでるよ。性格は……育ての父の影響を受けてるかな」

「とんでもねえ血統だな」

二大トップアイドル同士から生まれた、先天的な血統。そして、トッププロデューサーに育てられた、後天的な血統。

普通なら、アイドルにならないなんて実にもったいない、と云われて当然の存在だ。
576 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:20:18.89 ID:VEW2G1XCo
上層へ運ぶ鳥かごの中で、鏡のように磨かれたドアを向いたままかつての相棒同士が言葉を交わす。

「私は、どうやっても芸能界の呪縛から逃れられないみたい」

凛が「どうしたらいいんだろう」と頬を一筋濡らした。

「あの子がアイドルになったら、きっと私のせいで色々辛いことが降り懸かると思う。娘に直接関係ないはずのことで苦しめちゃう。それでも――」

顎先へと流れゆく水粒―みつぼ―を見せまいと拭って、大きく息を吐く。

「母親として、あの子の希望は叶えてあげたい。私にできる唯一の罪滅ぼしのはずだから」

「優しいお母さんだね凛は」
577 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:21:27.35 ID:VEW2G1XCo
やがて上昇が止まると、恋とPが出迎えていた。

「久しぶりだな、つかさ。あの頃のまま綺麗だ」

「久しぶり。お前も変わらないな。当然老けたけど」

「……お父さん、この人と知り合いなの?」

恋が怪訝な表情で二人を見比べる。まるで旧知の間柄の会話ではないか。

「アタシはね、お父さんの元部下みたいなモンだよ」

つかさが、目線の高さを合わせるようにほんの少しだけ屈んで、ニヤリと白い歯を見せた。
578 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:22:29.26 ID:VEW2G1XCo
「詳しいことは家で話そう」

Pにそう促されて、全員が家へと入る。

玄関をくぐれば、すぐに大きな窓が目に入り、眼下には発展著しいバンコクの、熱く集積した街並みが広がる。

「グッドシティービューだね。部屋の内装も日本と遜色ない」

いいところじゃん、と破顔するつかさに、Pもつられて「お粗末様」と笑った。
579 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:23:41.38 ID:VEW2G1XCo
「バンコク、アツいね――気温的な意味じゃなくてな。アタシのブランドも、そろそろこっちに進出しようと考えてたんだ。
まずはジャカルタかなって思ってたけどバンコクも候補に挙げてみるか」

「まだ二足のわらじを続けてたのか」

「まだ、っていうか、アタシは昔も今もJK社長なんでね。アイドルからプロデューサーになっても、そこは変わんねーよ」

ウェーブの掛かった金色に輝く髪を掻き上げて、つかさは不敵に笑んだ。

その奥では凛がバンコクで人気のレモングラスティーを淹れている。

「はい、どうぞ」

テーブルに四つの湯気が立ち、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
580 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:24:07.50 ID:VEW2G1XCo
「お、サンキュ。主婦っぷりが眩しいね」

「もう、茶化さないでよ」

「はは、わりぃわりぃ」

ベキリの相棒時代と変わらない軽妙なやりとりが懐かしい。

そしてそれを懐かしく感じてしまうほどに年月が重ねられてしまった事実を、凛は少し哀しく思った。
581 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:24:34.60 ID:VEW2G1XCo
恋は、3人の会話から並々ならぬものを感じ取ったか、真剣な表情になっていた。Pが肩に手を乗せる。

「さ、じゃあ飲もうか」

「……うん」

席に着いて、一口、二口。暑い空気を癒すアロマ効果を兼ねた飲み物が、南国の生活には欠かせない。

首筋の後ろで澱んだ諸々の邪気が、緩やかに祓われるような感覚がある。
582 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:25:30.32 ID:VEW2G1XCo
「……なあ、つかさ。俺たちの娘――恋は、アイドルに乗り気だ」

お茶をしばし味わったのち、Pが話を切り出した。

「だが、俺たちの因果で、きっと苦しむこともあるはずだ。だから、親としては諸手を挙げて送り出すことができない」

隣に座る恋は、アイドルになることを父親が応援してくれているのか反対しているのかわからなくなった。

「ねえ、お父さん。私がアイドルになるのはダメなの?」

「いや、決してダメなわけじゃない。
むしろ恋は凄い逸材になるだろうし、お前がやりたいのなら応援したい。でもきっと、苦難がお前の身に降り懸かると思う」

「一体、どう云う……」

困惑した疑問符の浮かぶ恋を、Pはまっすぐ見つめた。
583 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:26:28.97 ID:VEW2G1XCo
「お母さんは、昔、アイドルだった。そしてお父さんは、そのアイドルのプロデューサーだった」

「……え?」

恋は動きを止めた。

「あの棚に飾ってある写真やガラスの靴。あれは、お母さんが日本でトップアイドルを獲ったときのものだ」

「あれ、ただの置物じゃなかったの……」

目を見張る恋に、凛はやや申し訳なさそうな顔をした。

「恋が15歳になったら私から話そうと思っていたんだけど」

まさかこのタイミングでスカウトされるなんてね、と横目で見るので、つかさは苦笑して肩を上げた。
584 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:27:00.96 ID:VEW2G1XCo
Pは、恋の目をしっかり覗き込んで云う。

「お前のやりたいことをもちろん応援したい。でも芸能界を知っているからこそ、親としては手放しで送り出せない。ヂレンマに右往左往するお父さんを赦してくれ」

「お父さん……」

Pは背もたれに体重を預けて、深い息を吐いた。

「かつては他人をホイホイスカウトしまくってたのに、自分の娘となると途端にこんな憶病になるもんなんだな」

天を仰いで情けなく云うPに、つかさは「だからこそアタシは声を掛けることができたわけ」とティーカップを揺らした。
585 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:27:47.66 ID:VEW2G1XCo
「二つ、提案な」

つかさがカップを置いて云った。

「一つ、恋ちゃんのことは、“元トップアイドルの娘”と云う扱いをしないし、させない。ハイエナにわざわざ餌を与える必要もねえし、なにより親の七光りなんて、本人も厭っしょ」

Pと凛が頷く。

「もう一つは」

つかさが両手を組んで、「ちょっと酷な話かもしんねーけど」と眼の力を強くした。

「――二人とも、プロダクションにリターンしなよ」
586 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:32:00.44 ID:VEW2G1XCo
つかさの物云いに、二人は口をあんぐり開けた。

「つかさ、お前な。今更俺たちが戻れるわけが――」

「もう15年経つんだ、時効だろ時効」

社長以外に当時のお偉方はもう誰も残ってねーよ、と手をぞんざいに振って云う。

「社長は元から二人の状況を理解してくれてた方だし、あの時、お前や凛を糾弾しようとした取締役会のデブたちは10年かけてとっくにパージ済み。ま、誰の手回しかは云うまでもねーけど」

黄緑色の制服に身を包み、いつも笑顔を絶やさない事務員の姿が頭の中に浮かんだ。
587 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:33:00.25 ID:VEW2G1XCo
「まあ……仮に復帰が許される環境だとしてもだ、今更戻ったところで、俺たちが力になれるかどうか……」

つと自信なさげに呟くPに、つかさは「なるよ、充分」と断言した。

凛が、Pとつかさ両方の顔を見てから短く息を吐いた。

「……むしろ、私たちが頑張って這いずり回ってでも力になれるようになるべきなんだろうね。
聞くところによれば、825が最大勢力になってるらしいから、沈社長や姜プロデューサーへの恩返しも兼ねて引き摺り下ろさないと。つかさが『酷な話』って云ったのもそれでしょ」

――CGプロ、ひいてはアイドル業界への罪滅ぼしとして。今こそ贖いの旅が始まるべき時なのだ。

つかさは、凛の言葉に口を動かしかけて、結局何も云えずにゆっくりと1回だけ首を縦に振った。
588 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:34:21.26 ID:VEW2G1XCo
「恋」

Pがしっかり芯のあるトーンで呼んだ。恋は口を一文字に結んで、真面目な表情を向ける。

「お父さんはお前のことを、最高の素質を持つ逸材だと思っている。最後の確認だ。たとえ苦労することになったとしても、アイドルになりたいか?」

「うん。私は、アイドルになりたい」

強い視線で、父の眼を射抜く。

かつて凛が初めてPと相対した時に寄越したのと同じ、深く吸い込まれるような碧い瞳に力が宿っていた。
589 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:36:02.56 ID:VEW2G1XCo
Pが、「わかった」とゆっくり立ち上がった。

「日本へ行こう」

そして、どうせやるなら、トップアイドルを目指してやろうじゃないか。

恋は破顔して、力強く頷いた。
590 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:38:34.99 ID:VEW2G1XCo

・・・・・・

黄昏の広がる空は、夜の帳の足音を響かせて情熱的な朱色の地平線を包み込んでゆく。

ドーム建築が、徐々に隠れる太陽を背にして、コントラストのはっきりした黒い影を浮かばせている。

ドーム内のライブ会場にひしめくサイリウムの渦は、天文観測の聖地マウナケア山頂から見る星空よりも美しく、幻想的だった。

ゆらゆらと揺れる明かりは蝶や妖精が舞うかのようだ。間違いなくこの場所は今、地球上で最も素敵だと云える。
591 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:40:56.38 ID:VEW2G1XCo
碧と紫を基本に配色された華やかなステージ衣装を纏って、歌い踊るアイドルたち。そのどれもが、フレッシュな魅力を放っていた。

この年のCGプロ基幹公演は、新人や若手を選抜した、次世代を担う新プロジェクト御披露目を兼ねた大掛かりなもの。

ニュービーたちの緊張感、どこかぎこちなさが残るところも微笑ましい。

全てのファンが保護者の心持で見守る中、センターに立つ長い髪の少女だけは、別格のオーラを放っていた。

影の出来やすいスポット照明の下でも、眼を開けて会場内を射抜き煌々と輝く碧い瞳は、後列席からでさえしっかりと視認できる。
592 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:42:01.50 ID:VEW2G1XCo
すらりと伸びた四肢はしなやかで、女性的な柔らかさの中に男性的な力強さを包含し、会場のスクリーンにアップで映し出される相貌は、まるで人工的に造形されたかの如く美しい。

明るく照らされた栗色の髪は、それ自身が意思と思考を持っているように、宿主を彩らむと舞う。

堂々と歌い、緻密に踊るさまは、もはやルーキーとは思えない風格だ。

件の人物――恋は、後のメディアからステージの主役の一人に数えられたほどの存在感を以て、鮮烈なデビューを飾った。
593 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:43:02.49 ID:VEW2G1XCo
将来の覇権を握るかもしれない大型新人のステージに来場者は熱狂し、やがて演目が終わってぴたりとポーズを固定すると、怒濤の歓声が場内にこだました。

「これが、お母さんとお父さんの見てきた世界……」

撤収の直前に会場を見渡した当人の呟きは、喝采に抱き込まれ空間へ溶け込んでゆく。
594 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:45:36.88 ID:VEW2G1XCo

野太い声援に見送られて、アイドルがステージから袖へ引き揚げてきた。

「おつかれ。いいステージだった」

そう云って労うのは、プロデューサー職に復帰したPだ。近くにはつかさもいて、腕を組んで満足気に頷く。

「演りきったな。ファーストショーでこれだけフルコミットなら上出来っしょ。アタシの初めての時より断然よくできてるよ」

「桐生プロデューサーより上手くできてたなんて、そんなことありません……まだまだです。途中で何回もトチりました……」

若手の一人が、緊張と悔しさと安心感とが綯い交ぜになった面持ちで、今や重鎮とも云えるつかさに対して謙遜した。
595 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:47:27.61 ID:VEW2G1XCo
「――いや、ホントつかさのデビューのときよりよっぽど良かったよ? つかさ、いきなりライブに放り出されてとんでもなく困惑した顔でステージ立ってたからね」

プロデューサー陣二人の後ろから、くすくす笑う声が届いた。

目を向ければ、白いタンクトップに深緑のノースリーブカーディガンを羽織り、薄地のデニムパンツと云う動き易さを重視した出で立ちの人間が歩み寄ってくる。

ラフな格好の胸元には、スタッフ章が提がっていた。
596 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:48:00.09 ID:VEW2G1XCo

[マスタートレーナー]渋谷凛
https://pbs.twimg.com/media/Ee-7lO6UcAEEZKI.jpg
597 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:49:01.12 ID:VEW2G1XCo
「あっ、マ、マスタートレーナー……!」

「みんな、おつかれさま」

「おっおつかれさまですっ!」

その場のアイドル全員が表情を引き締め、背筋を伸ばした。

最も厳しい指導をするトレーナー中のトレーナーは、新人にとっては畏怖の対象であり雲の上の存在。

この人間に教わることこそが上位ランク入りの証とも云われ、それを第一の目標にするアイドルも多い。

直立不動の若い芽たちに「もう出番終わったのに、こんな場所でまで肩肘張らなくていいよ」と苦笑するが緩む気配がない。
598 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:50:04.09 ID:VEW2G1XCo
「凛! お前なぁー、他人のヒストリーを軽々とカミングアウトすんなよ!」

何も反応できないアイドルたちに代わって、つかさがあたふたと汗を飛ばして抗議を寄越した。

凛もまたCGプロに復帰し、今度はマスタートレーナーとして、かつて習得してきた自らのスキルを次世代に伝える役目を担っている。

そのマスタートレーナーは、物申すつかさにどこ吹く風。

「だって事実じゃない?」

「コンプラだコンプラ!」

「ふふっ、ごめんごめん」

有力者同士のじゃれ合いにぽかんとするアイドルたち。
599 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:51:05.22 ID:VEW2G1XCo
凛は一度咳払いをして、「プロデューサー二人の云うとおり、本当にいいステージだったよ」と微笑み掛ける。

「今のあんたたちが出せる120%……いや、200%のパフォーマンスが実現できてた。これからも頑張ろう。期待してるから」

マスタートレーナーの優しい労いに緊張の糸が切れたのだろう、初めて実戦を経験した者の多くは安堵から泣き出し、Pはスポーツタオルで拭ってやった。

一点、恋だけは、戦後の高揚感からワクワクが抑えられない顔をしていた。早く次のステージに出たい――そんな訴えを纏った笑みで凛を視る。

凛は、活躍した我が子に親指を上げて応えた。
600 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:52:58.78 ID:VEW2G1XCo
Pが両手を叩いて行動を促す。

「さ。ここでずっと団子にもなっていられない。楽屋へ戻って。ドレスをしっかり整理して衣装さんに引き渡すまでがお前たちのステージだ」

優しい喝に、泣きじゃくっていた者も姿勢を直して頷いた。

「綺麗な衣装だから脱ぐのが惜しいかもしれんが、またきっとこの服を着る機会がくるだろう。例えいま時計の針が12時を超えても、すぐに別の舞踏会が開かれるんだ」

「はい!」
601 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:54:09.00 ID:VEW2G1XCo
威勢のよい返事に、Pは満足そうに相好を崩して、改良の要望があれば桐生プロデューサーに直談判してもいいぞ、と肩を揺らした。

CGプロの衣装デザインは、碧と紫の2色をコーポレートカラーとしたブランド『ベキリ』が一手に手掛けるようになっていた。

つかさが5年前に立ち上げたそのハイファッションブランドは、今やヨーロッパで最も注目されるトレンドの一つに数えられる。

「いいぜ、いつでも受け付ける。ただし、アタシをアグリーさせられたらな!」

不敵に笑ったつかさが「ついてきな」とアイドルを引き連れてその場を後にした。
602 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:55:28.38 ID:VEW2G1XCo
「ねえ、あなた」

新世代たちの背中を目で追いながら、凛が隣に立つPを呼ぶ。

「久方ぶりの復帰でも、セリフの内容がポエティックなのは相変わらずなんだね。12時の時計だとか舞踏会だとか」

「まあ……アイドルたちはいつだって夢見るシンデレラから一歩を踏み出すしな」

Pは照れを隠すように鼻を掻いた。凛と同様にアイドルたちを見送る視線は、実に穏やかだ。
603 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:56:36.71 ID:VEW2G1XCo
凛はPを見上げて問う。

「プロデューサーに戻ることができて嬉しい?」

「そりゃ、もちろんさ。恋のことを抜きにしたって、アイドルたちを輝かせるのはやっぱり天職だったようだ」

「うん。あなたは根っからの魔法使いさんだね」

Pが「違いない」と眉を上げて、唇の端を歪める。
604 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:58:23.28 ID:VEW2G1XCo
「そう云う凛だって、もう今はシンデレラを助ける魔法使いの仲間入りをしたんだからな?」

「ふふっ、そうだね。私も魔法使いさん。何だか不思議な感覚、かな」

「どうだ、マスタートレーナーの役目はこなしていけそうか?」

Pの問いかけに、凛は、ゆっくり大きな首肯で、全く問題ない旨を応えた。

「……色々あったけど、私もやっぱりアイドルが好きだ、って再認識してるよ。あなたが連れてきてくれたこの世界がね」

振り返って、サイリウムに包まれた喧騒やまないステージに目を向ける。

シンデレラから魔法使いさんへ。立つ位置が移ろいでも、胸を強く焦がす熱さは変わらない。
605 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/09(日) 23:59:10.55 ID:VEW2G1XCo
Pも凛の視線を追って、光輝くステージを、眩さに目を細めてしばらく眺める。

「凛は今、幸せか?」

「うん」

答えるのに迷う時間など必要なかった。

「きっと困難はあると思う。
私を助けてくれた、あらゆる人たちへの恩返しをしていかなきゃいけないし、恋を守るためにいつか厳しい試練もやってくると思う。でも私は、今この瞬間が幸せだよ」

Pの方にしっかり向き直って、はにかんだ。
606 :凛、誕生日おめでとう! ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/10(月) 00:00:01.54 ID:y8awIlrco
「おとぎ話―アイドル―の世界で、私の一番好きな、魔法使いさん―プロデューサー―と一緒だからね」

天は黄昏が終わって群青に深まり、ドームのライトアップを映えさせる絶好の天然スクリーンとなった。

肌を撫でる風の涼しさが心地よい。夏の訪れは、もう少し先だ。


〜了〜

607 :真エンディングテーマ代わりに ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/10(月) 00:01:04.55 ID:y8awIlrco




愛は夢の中に
https://www.youtube.com/watch?v=dYieCmbaySE



608 : ◆SHIBURINzgLf [sage saga]:2020/08/10(月) 00:02:05.72 ID:y8awIlrco
なぜか波ダーシが消えてしまっていたのでいくつか訂正です

>>42
「私としては坡州って板門店―パンムンジョム―とアウトレットモールの印象だけどね〜♪」

>>54
「いいね〜賛成♪ この隣にアウトレットモールもあるよ!」

>>142
「えぇ〜〜僕のパート、譜面がワケわかんなすぎて弾けるかどうか到底怪しいんだけど……これ本当に人間ができるの?」
609 : ◆SHIBURINzgLf [sage]:2020/08/10(月) 00:03:53.64 ID:y8awIlrco

これにて終了です。お付き合いありがとうございました。

謝辞:
◆eBIiXi2191ZO / ◆Rin.ODRFYM
書くきっかけをくれて感謝。


余談:
実は>>201が正鵠を射ていてどう反応したもんかと当時冷や汗流してました
610 : ◆SHIBURINzgLf [sage saga]:2020/08/10(月) 00:14:50.73 ID:y8awIlrco

過去作も置いておきます。気が向いたら読んでみてください。
凛「私は――負けない」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1379170591/
渋谷凛「私は――負けたくない」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1439132414/

凛「庭上のサンドリヨン」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1383229880/
モバP「ユーレイ・アイドル」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1434635496/
モバP「不夜城は、眠らない」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1434122780/


このSSは、基本的には「私は――負けたくない」の時間軸から継続しています。
一応「私は――負けたくない」→「私は――負けない」が通常ルートで、
ifルートとして「私は――負けたくない」→「愛は夢の中に」という感じです。
611 :腐ってもかつての経済大国 [sage]:2020/08/10(月) 06:49:52.65 ID:+YRRg2XDO
長らくお疲れ様でした



……そうか、偶然とはいえ爆沈する運命が待ち構えていたのでしたか
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