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田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)
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254 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 20:56:15.13 ID:RC2/md2co
*
15章
紬も唯と梓の後を追って駆け、コスモワールドから出た。
晩夏の夜とはいえ、蒸す気温の中で走れば汗は滲んで息も上がる。
体力的にも易しい訳ではないが、翻せばダイエットにはなるだろう。
率先して先頭を走る唯は、ダイエットなどは頭を掠めてさえもいまい。
ただ、獲物を付け狙う野獣の如く、律とその彼氏を追っているだけだ。
観覧車を降りる直前から、唯は律達の向かう方向を凝視している。
先行して逃げていようとも、辿り得るルートは限定されているのだ。
方向さえ分かれば、律達を見付ける事など造作もない。
律が目立つ服を着ているのだから、なおの事である。
尤も、ゴンドラが頂点に達した辺りで、唯は酔っていたようだった。
その日の体調や乗り物の揺れ具合如何にもよるが、
唯は乗り物酔いしてしまう事があるらしい。
以前に、急発進したタクシーで車酔いした経験を、唯本人が話していた。
今日は疲労や緊張、そして慣れない乗物という要素が重なり、
乗り物酔いを催してしまったのだろう。
律との約束を違えた唯を責め立てていた梓も、
酔った姿を前にしては気勢を削がれたようである。
詰責の文句を気遣う言葉に変えて、唯に投げ掛けていた。
だが、大人しく酔ったまま終わる唯ではない。
律達のゴンドラが降車地点に近付くと、首を擡げて注視している。
顔は苦しげながらも、瞳だけは肉食獣の鋭さが宿っていた。
その肉食獣の瞳が、降りた律達の向かう先に沿って動く。
その執拗さを間近にしては、紬も律に同情してしまう。
とんだ相手に狙われているものだ、と。
唯は興味のある事ならば極限まで集中して追求する所がある、とは、
唯の幼馴染である和の弁だ。
その性格が今、律へと牙を剥いている。
255 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 20:58:39.45 ID:RC2/md2co
和の弁を裏付けるように、唯の執着する力には目を瞠るものがあった。
ゴンドラから降りた途端、唯は不調の身体をものともせずに走り出しているのだ。
同席していた紬をしても、乗り物酔いの直後の動きだとは思えなかった。
勿論、梓の説教を躱す為に、酔ったように装っていた可能性も否定はできない。
だが、紬の印象としては、乗り物酔いを演技だとは感じていなかった。
唯の浮かべていた蒼白な顔色が、疑う必要性を否定している。
紬も唯とは浅からぬ付き合いだ。彼女の直情的な性格は熟知している。
演技の説を採るよりも、関心事への忘我故の復活だと考えた方が、
自分の知る唯と照らし合わせての納得ができた。
例えば車酔いの直後でも食事の話が出れば即座に復活し、
あろう事かローストビーフをリクエストしそうな貪欲さが、紬の知る唯にはある。
実際に今も、ローストビーフを前にしたような貪欲さで、律達を追っているのだ。
今、律達は国際橋の上を走っていた。
紬達が来たルートを逆走するコースで、律達は逃げている。
遠目でも、律の黄色いチャイナドレスは目立っていた。
汽車道からコスモワールドへと至ったチェイスでも、紬は律の後姿を捉えている。
あの時は距離を詰めていたので、暗夜の中でも律の尻の形まで鮮明に見えていた。
肢体のラインを強調するチャイナドレスが、
律の小振りで形の良い臀部の曲線を綺麗に映えさせる。
走るリズムに合わせてスリットがはためき、裾が臀部を滑らかに撫で上げていた。
服のサイズが窮屈なのか、汗が貼り付かせたのか。
裾が二度ほど臀部の割れ目に食い込んで、律が手で引っ張る場面もあった。
そんな事まで憶えているくらい、そしてそんな仕草にまで見入ってしまうくらい、
見るものを引き付ける可愛らしく艶っぽい尻だった。
だが今は律の後方にあっても、その可愛らしい臀部を堪能できる距離ではない。
例え時間帯が白昼だったとしても、同様に愛でられなかっただろう。
目に捉えるは、それが律のものだと色合いで分かる朧な後姿だけだ。
紬が国際橋に差し掛かる頃には、律はもう渡り終える所に達している。
追い付ける訳もないが、先頭の唯は一向に諦める様子を見せていない。
だが、唯の息は上がっていた。
律は体力がなく格好も走りづらいもののはずだが、
追う側も困憊の為に詰める距離は遅々としたものになっている。
256 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 20:59:53.05 ID:RC2/md2co
先行する律に倣い、国際橋を通過した直後の横断歩道も渡った。
律はまだ走り続けているが、体力も限界なのか恋人に背を抱えられている。
律は勿論、唯も梓もそして紬も困憊する中、流石は彼氏と言うべきか、
サングだけは無尽の体力を披露していた。
クイーンズタワーを過ぎた辺りで、何処まで走るのだろう、
と弱音に似た心持で紬は思った。
自分達がワールドポーターズまで辿った道を、今もなお律とサングは逆走し続けている。
律達は逃避の目的地を定めているのか、それとも、唯が諦めるまで走り続けるつもりなのか。
そして、唯は何処まで追いかける積もりなのだろう。
ダイエットで動機付けしても、紬の心身はともに音を上げつつある。
いい加減、唯を諦めさせるべきだろう。
梓とて辛いのに違いはないのだ。きっと加勢してくれるはず。
そう信じて、紬は口を開く。
「ねぇ、唯ちゃん」
──もう止めにしない?
そう続けかけた紬の目の前で、律とサングが方向を変えて減速していた。
その大きく落とした速度は、曲がる為でもなければ諦めた訳でもない。
高く聳えるタワーに入場する直前の、減速だ。
「ランドマークタワーッ」
唯の叫ぶ声が、後ろを走る紬にも流れてきた。
言われるまでもなく、確と紬も目に収めている。
追い詰められて逃げ込んだのか、ここを目的として逃げてきたのか、
何れにせよ律とサングはランドマークタワーに入っていったのだ。
「急ぐよっ」
唯が焦りを露に叫んで、走る速度を増した。
エレベーターに乗り込まれると、探し出すのは非常に難しくなる。
その前に追い付きたいのだろう。
257 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:00:51.36 ID:RC2/md2co
「唯先輩っ。手出しは駄目ですよっ」
梓も追い縋っていた。こうなっては、自分だけ怠ける訳にもいかないだろう。
「目指せマイナス三キロッ」
自棄気味に叫んで、紬も続いた。
流石の唯も入り口の付近では速度を落としていたが、
それでも焦燥を抑えられないらしく早足だった。
タワー内に入った後も、忙しく首を動かしている。
「あっちか」
瞬時に目的地を定めたらしく、
唯がランドマークタワー一階に広がるプラザを奥へと進んでゆく。
追走する紬にも、唯の目指す場所は分かった。
頭上の案内板にも示されている通り、エレベーターホールへと向かっているに違いない。
間違っていない着眼点だと、紬も共感する所だ。
確かに、ランドマークタワーの人混みに紛れて唯達の目を晦ました後で、
別の出口から逃げるという策も捨て切れるものではない。
だが、律の体力から考えるに、これ以上走れるものか疑わしかった。
ランドマークタワーに潜んで唯達を撒く案の方が、現実的かつ効果的に思えてならない。
その場合、エレベーターで階を跨いでしまうのが、最も見つかり難くなる。
但しそれは、唯達が見つかる前に階を移動できた場合だ。
尚且つ、こちらに行き先を推理する材料が何もない場合だ。
紬の脳裏に、いつかの律の自慢げな顔が浮かび上がってくる。
唯も、あの日の事を憶えていたのならば──
「居たっ」
唯が前方のエレベーターホールへと指を向けながら、甲高い声を放つ。
連れて目を向けた紬も、扉が閉まっていくエレベーターの向こうに律の姿を捉えた。
これだけ距離を隔てていても、
律の纏う煩いほど鮮明に主張する黄色だけは見落としようがない。
258 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:02:06.99 ID:RC2/md2co
律とサングが上階へと向かっても、唯に追跡を切り上げる気はないらしい。
歩調を緩める事無く、律達の消えたエレベーターホールへと向かっていった。
まるでまだ、そこに標的が居ると認識しているように、迷いのない足取りで。
紬は梓を見た。梓も紬を見返してきた。
視線の交錯は一瞬で終わり、次の瞬間には二人揃って早足で唯を追っている。
単に、同意を求め合っただけだ。唯を放置して引き返す気など、自分達にもない。
「唯ちゃん」
エレベーターの前で到着を待つ唯に追い付いて、紬は彼女の名を呼び掛けた。
唯の視線が向くのを待って、紬は続ける。
「もう、いいでしょ?お手上げでしょ?」
唯は首を緩やかに振った。
「まだだよ。私は最後まで手を抜かない。
私達の仲はそんな軽くないし、りっちゃんにだって軽く思って欲しくない。
でも、それでも私を振り切れたのなら」
唯の首が、再び左右に振れる。
「んーん、嘘でも祝福するなんてまだ言いたくないね。本音だから尚更。
それに私、まだ手は上げない。手詰まりじゃない。
向かった場所なら、分かるから」
「分かるんですか?」
問い掛ける声は梓のものだ。梓とて、本当に分かっていない訳ではないのだろう。
”そこ”まで踏み込むのか、という確認の問いに違いない。
「分かるでしょ?
りっちゃんが乗ったこのエレベーターが停止する階層の中で、
一番行きそうな所と言えば?」
259 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:03:08.03 ID:RC2/md2co
エレベーターホールには、階毎の施設が刻まれたボードが掲げられている。
律の乗ったエレベーターは高層階に接続しているものの一つだが、
展望台には向かっていない。
そこに向かうには、別のエリアから専用の直通エレベーターを使う必要がある為だ。
ならば、オフィスフロアの多い高層階の群の中、
律が用のありそうな場所と言えばどこなのだろうか。
答えは一つしかない。
「ホテル」
梓が観念したように呟いた。
同時に、近くでエレベーターが開く。
紬達は一斉に反応したが、律達の向かった階層とは異なる低層階に停止するものだった。
だが、向かう階層ごとに幾つもエレベーター乗り場を連ねたこのエリアでは、
唯の待ち望むエレベーターもすぐに着くだろう。
「その通り」
自信有り気に唯が頷いた。
高層階、五十階を過ぎた辺りから展望台の直下の階辺りまで、
ホテルが占拠している階層だ。
そして律の乗ったエレベーターが向かう階層の中で、
唯一彼女に用のありそうなテナントだ。
「という訳で、五十二階に行くよ。
そこにフロントがある以上、必ずそこに一度は寄る。
まだ、フロントに居てくれるといいんだけどね」
紬としてはチェックインを済ませて入室しているよう、祈るばかりだ。
律の逢瀬が気になるとはいえ、ホテルにまで踏み込むのは気が引ける。
かと言って、違背に躊躇いのない唯を放って帰る訳にもいかないのだ。
「もうチェックインしているんじゃないですか?」
紬の願望を、梓が口に出してくれた。
唯とてその懸念を抱いているに違いないが、引き返させる一撃とはなり得ないだろう。
260 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:04:28.98 ID:RC2/md2co
「かもね。でも、フロントが別の客の応対とかでつっかえてるかも。
それでなくても、りっちゃんたら、すっかり安心して急ぐ発想もなくなってるだろうし。
ま、ダメ元で行ってみる価値はあるよ」
行った結果間に合わなかったとしても、僅かばかりの時間を失うに過ぎない。
そして僅かの時間さえ惜しむなら、そもそも他人のデートなど見に来ていない。
行かずに見逃す考えなど、今の唯が採るはずもなかった。
「律先輩がエレベーターに乗り込む瞬間を見れたみたいに、
また偶然、間に合う事を期待しているんですか?」
尚も抗する梓とて、悪足掻きでしかないとは自覚しているに違いない。
それでも半畳を入れずに居られないのだろう。
「ま、確かにさ。エレベーターに乗り込むりっちゃんを見れたのは、偶然だったよ。
でも、別に乗り込むエレベーターが分からなかったとしても、
りっちゃんの向かう先は分かってた」
応える唯の後ろで、エレベーターの到着を知らせるランプが灯った。
開いた扉から、人が吐き出されてゆく。
「それにしては、建物に入ってからも大急ぎでしたよね、唯先輩」
「のんびりしていると、間に合うものも間に合わなくなるからね。
チェックインされて、入室されたらお手上げだよ」
人の捌けたエレベーターに乗り込みながら、唯が続けて言う。
「あずにゃんだって、分かってたんじゃない?
りっちゃんの体調を管理した手帳、忘れるはずないんだし。
だぁって、あんなに目立っちゃってるんだもん。
あのケバいハートマーク、忘れようがないよ。危険日、りぃーっ、だってさ」
律の声音を唯が真似た。
それを聞く紬の脳裏にも、あの日の律の得意気な顔が蘇っている。
やはり唯も憶えていたのだ。
261 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:05:23.13 ID:RC2/md2co
エレベーターパネルの前に立った梓は、
人が乗り込み終わるまで『開』のボタンを押していた。
それも途切れた今、梓の人差し指がボタンから離れ、
呼応して扉がゆっくりと閉じてゆく。
「人前で、止めてくださいよ。
大体、ここにホテルがあるかなんて、唯先輩知ってたんですか?」
上昇を始めたエレベーターの中、梓は周りの耳目を憚ってか小声で唯に言った。
「ほら、ムギちゃんが教えてくれたでしょ?ホテルがあるって。ねぇ」
唯の声と視線が紬に向く。
「憶えていてくれてとっても嬉しいわぁ、忘れてくれても全然いい説明だったのに。
でも私、二つあるって言わなかったかしら。真ん中くらいの階層と、高層階にって。
さっきのインフォメーションボードにも、ホテルは二つ記されていたはずよ」
応じる紬は言葉と語勢で、梓への加勢の意を示した。
唯は律が乗り込んだエレベーターを見て、ホテルを特定したに過ぎない。
そう、言外に込めてやった。
今更、唯を遣り込めても意味はないが、梓に与さずには居られない。
「分かるよ。高い方だって」
唯が両の掌を上に向けながら微笑んだ。
その脇を人が通り過ぎ、オフィスフロアへと降りてゆく。
エレベーターは通過する階層を通り過ぎ、停止する階層へと到達しているらしい。
エレベーターは待っている時よりも、動いている時の方が早く感じる。
そして実際に、待ち時間よりも遥かに短い時間で、目標へと到達してしまう。
紬と梓が訝る視線を唯に向けて黙する短い間にも、
次の停止階、その次の停止階と、人の受け渡しを行っていった。
262 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:06:47.21 ID:RC2/md2co
「乗り込む律先輩を見た後だから言えるんですよ。
高層階の方だって、乗り込む律先輩を見ずとも本当に分かったんですか?」
沈黙に堪りかねたように、梓が口を尖らせた。
その問いを待っていたとばかりに、唯が胸を張って言う。
「分かるよ。だって、私ちゃんと言ってたよね?
りっちゃんてば、高い所が好きそうだって」
唯には勝てない。紬は改めて痛感した。
梓も同じ思いらしく、二の句も告げずに目を見開くばかりだ。
「勿論、私達もね」
唯が勝ち誇った顔で宣した直後、紬は体に重力を感じた。
床に足が吸い付けられるようなこの感覚は、
利用者の乗降でエレベーターが停まる度に何度も味わっている。
だが、今までのように乗降する者を、見送り迎える停止ではない。
自分達が、その”乗降する者”に列する停止だった。
唯の前方で、扉が重々しく動く。唯が、歩き出す。
目的地である五十二階、フロントに着いたのだ。
「一人で行かないでください、唯先輩」
唯に並ぶ形で、梓も飛び出した。紬も遅れまいと二人に続く。
唯は間違いなく、フロントへと直行するだろう。
その前に、律とサングがチェックインを終えて、部屋に入っていればいいが。
そう思考しながら、フロアに出て数歩進んだ時。
甘酸っぱい強烈な匂いが、鼻腔の奥を鮮烈に刺す。唯の足も、急に止まる。
直後には、驚愕に満ちた顔を、三者揃って後ろへと振り向けていた。
紬達の乗ってきたエレベーターに、カードキーを手にした律が乗り込んでいた。
拗ねたような顔を見せているが、
本人としては違約への怒りを表した貌のつもりなのだろう。
一方で、傍らにサングの姿は見えない。
唯が彼氏の情報を欲していたのなら、その試みは失敗に終わったと言える。
唯が、負けたのだ。律が、勝ったのだ。
263 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:08:27.29 ID:RC2/md2co
閉まってゆく扉の向こうで、律が赤い舌を唇から覗かせた。
唯の息を呑む音が、紬の耳にも届く。
沸騰したような激しい動作で、唯が身を反転させた。
そして、一歩目を踏み出しかけた動作のまま、唯は固まる。
直後、唯の目だけが動いて、梓を睨み殺さんばかりに見下ろしていた。
対する梓は手刀を唯の首元に宛がったまま、睥睨に怯む事なく見返している。
エレベーターの扉が閉まりきるまで、二人の少女は互いに一歩も退かなかった。
鬼気迫る対峙を前にしては、紬は息を詰めて見守る事しかできない。
如何に自分が”お嬢様”なのか、痛感させられる。
この二人の迫力も律の危うい色気も、自分には出せない。
エレベーターが閉まった後も、自分からは何も言い出せなかった。
律を乗せたエレベーターが上階に向かってしまうと、唯も梓から視線を外した。
代わって唯の双眸は、扉の直上の壁に設えられた階数表示パネルへと向けられる。
階数の刻まれた表示板が光る事で、
エレベーターが何階に到達しているか一目で分かるものだ。
「ゲームオーバーですよ、唯先輩」
唯の未練を断ち切るように、梓が凛とした声で宣言した。
唯の瞳が、再び梓を見下ろす。
だが、先ほどと違い、人を射殺さんとする凶暴な視線ではなかった。
「これ以上、足掻かないでください。もう、終わりなんです。
帰りますよ」
唯の首元から手を退けて、梓が付け足した。
「分かってるよ。これ以上の追跡は、暴力でしかない。
ていうか、私がかっこ悪いだけだよね。完敗っと」
首を竦めた唯が、エレベーター脇に設えられた矢印のボタンを押した。
言葉に違わず、下を向いた矢印のボタンだった。
264 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:09:24.90 ID:RC2/md2co
「チェックインを終えたりっちゃんと、偶然、擦れ違ったのね」
雰囲気の軟化を確認してから、紬は二人に話し掛けた。
下へ向かうエレベーターが来るまで、律に出し抜かれた話題で時間を潰す積もりでいる。
それだけの余裕が、戻ってきていた。
「ええ、降りる人を遣り過ごそうと、脇で待っていたんでしょうね。
まさかその降りる人間に、私達が混じっているとは思わなかったでしょうけど」
「気付かず通り過ぎちゃったけどさ。全然、惜しくもなかったよね。
だって、サング君、居なかったんだし。
偶然を装って近付くなんて事、できなくなってた」
唯が天を仰ぎながら言う。
その声色に、自嘲の色が滲んでいる。
律に気付いていれば間に合っていたような話ではない。
唯の狙いの真意が、律の彼氏のより詳しい情報を入手する事だけなのか、
或いは逢瀬そのものへの介入になっているのかは不明である。
だが何れにせよ、律一人の場面を抑えて成就するものではない。
「律先輩の彼氏が一緒に居ても、唯先輩は近づけなかったですよ。
私が絶対に、近付かせませんから」
梓が鼻息を荒げて言う。
先ほど実際に暴走しかけた唯を阻止しており、口先だけではない事を証している。
「間違いないね。あずにゃんの事、見直しちゃった。
守るべきラインを死守するだけの腰は定まってるし、胆力もあるね。
可愛い後輩の骨のある所を見られただけでも、収穫かな」
対する唯は満足そうだった。
当の唯も、自身の行動が暴走気味であるとの自覚はあるのだろう。
殊に、律の乗るエレベーターに闖入しようとした事は、過ぎた行いだった。
そこから追跡しようとしても、手段は手荒にならざるを得ない。
結果、律とサングの逢瀬を台無しにしてしまう可能性もあった。
そうならずに済んだのは、梓のお蔭でもある。
265 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:10:10.04 ID:RC2/md2co
「どうしたんですか、急に。
そんな事より、律先輩の彼氏は何処に行ったんでしょうね。
やっぱり先に部屋で待っているんですかね?」
真っ向から褒めちぎられて照れたのか、梓が話題をサングの行方へと転じていた。
「きっとそうだよ。フロントで私達と鉢合わせないよう、先に行かせたんだよ。
りっちゃんたら、本当に用心深いんだから。
何もそこまでして私達を避けなくてもいいのにー」
唯の口が拗ねたように尖る。
ゲームオーバーを認めても、律の態度に納得まではしていないのだろう。
「何もここまでして追いかけて来なくていいのに、って律先輩も思ってるはずですよ。
無理に探ろうとするから警戒されるんじゃないですか?
北風と太陽ですよ。そのうち私達にも、自慢話と一緒に彼氏の事を聞かせてくれますって」
梓の言葉に、紬も続く。
「りっちゃん、恥ずかしがりやさんなのよ。
まだ彼氏を見せるのに照れちゃうから、先に行かせておいたに違いないわ。
もう少し、待ちましょう?きっとりっちゃん、心を開いてくれるはずだから」
「うん、ここまでして逃げられた以上、待つしかないよね。
少なくとも、サング君がりっちゃんに惚れているって事だけは、分かったんだし。
それを見せたり見たりするのが、今日の本来の趣旨だった訳だしさ。
ま、我侭なお姫様と、それに付き合う素敵な王子様のデートでしたって事でいっか」
唯の語調は、自分へと無理矢理に言い聞かせているようだった。
だが、サングが律に惚れているという内容自体は本心だろう。
我侭なお姫様とそれに付き合う素敵な王子様という喩えも、紬の共感する所だ。
266 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:11:12.50 ID:RC2/md2co
律は今日一日、サングを振り回している。
それは勿論、自分達の所為でもあるのだが、サングには与り知らぬ所だ。
律はサングを自分達から遠ざける為、この逢瀬で多くの注文を付けたに違いない。
観覧車のあるコスモワールドにもサングの手を引き走り、半ば強引に連れ込んでいた。
観覧車の後にホテルまで駆けたのも、唯達から逃げたいとする律の都合である。
サングに唯達を避ける理由などあろうはずもないのだから。
律がサングにどう説明したにせよ、
面倒且つ骨の折れる作業をサングは厭わずに受けているのだ。
掛けた手間の数々が、律をそれだけ愛している証左に他ならない。
「ええ、観覧車の待ち時間に律先輩を担ぎ上げた時はサドい事してるな、
って思いましたけど。
律先輩も股で彼の顔を挟み込んだりと、乗ってましたから。
お似合いのカップルかもですね」
「あの時のりっちゃん、大胆だったよねー。
ここで一発始める積もりなのかなって、目を疑っちゃったよ」
唯が笑い声を響かせると同時に、エレベーターが到着した。
乗り込んだ唯が一階を押下して、扉を閉める。
下に到着するまでの短い時間、紬達は黙って過ごした。
話に性的な色が混ざりつつある。
狭い個室内に密集する耳目の中では憚られる話題の上、
どうせ待ち時間とは比べ物にもならない僅かばかりの時間で一階に着いてしまう。
無理に続けるほど重要な話題でもない。また、急いでもいなかった。
それでも唯にとっては、言及を続けたい話題らしい。
エレベーターが一階に着いて個室から解放されると同時に、口を開いていた。
「大胆って言えばさ。
りっちゃん、彼氏を伴わないで一人エレベーターに乗り込んでたよね。
あんなエッチな格好で、無防備だよね。
他のお客さんだって乗るのにー」
267 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:12:04.31 ID:RC2/md2co
「流石にこんな所で、危ない目に遭ったりはしないんじゃ。
カメラとかだってあるでしょうし。
ホテル内の移動で危険なら、外じゃ一人でトイレにも行けませんよ」
「そこはあずにゃんの言う通りなんだけどさぁ。
りっちゃんって格好だけじゃなくって、匂いもエロかったでしょ?
擦れ違うだけでも、こっちまで濡れてきそうなレベルで、
パンチの効いた匂いが鼻を衝いたし」
唯は含み笑いを浮かべてから、続けて言う。
「エレベーターみたいな狭い個室の中じゃ、りっちゃんの匂いが篭っちゃうよ。
他の乗客は大変だったろうねー」
紬も自身の嗅覚を以って体感している。
エレベーターを降りてすぐ律と擦れ違ったあの時の事だ。
紬の鼻は間違いなく、甘酸っぱく淫らな香りを捉えている。
嗅覚に留まらず、味覚さえもが酸味を感じ取って、
口中に多量の唾液が分泌される程だった。
その鮮烈なる酸味とともに、心を蕩けさせて溶かし込むような甘味も感じている。
蜂蜜を想起させる柔らかい甘さだった。
僅かに、シナモンのような爽やかな甘い香りも混じっていたように思う。
「もうっ。唯先輩はまたそんな話ばっかりして」
梓は呆れたように言うが、
彼女の鼻も唯や紬同様に律の香りを感じ取っていたに違いなかった。
「そんな事言ってぇ。あずにゃんだって、エッチだなって思ったでしょ?
まぁ私達はそんなんで済むけど、エレベーター内じゃそうもいかないよ。
エレベーターボックスの中に充満しちゃって、咽せ返っちゃった人も居たんじゃない?」
密閉された狭い空間内では、匂いは分散せずに高濃度で留まり続ける。
決して不快な香りではなく、どころか芳醇で病み付きになる香りなのだが、
如何せん嗅覚の受容器にとっては刺激が強過ぎるのだ。
唯の言う通り、咽る者が居ても不思議ではない。
268 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:12:59.46 ID:RC2/md2co
紬はそこまで思考を及ぼしてから、ふと気付く。
「そういえば、りっちゃんの彼氏さん、
コスモワールドでは一緒のゴンドラに乗ったのよね。
エレベーターなんかより体積の少なそうな空間内で、十五分間もの長時間。
ゴンドラ内、凄かったんじゃないかしら」
エレベーターに同乗する時間は僅かなものだが、ゴンドラは違う。
一周するまでの十五分間、狭い密室で超高濃度の匂いと接し続ける事になるのだ。
「あはっ、きっつ。匂いが染み付いちゃうじゃん。
サング君だけじゃなくって、後に乗るお客さんも、掃除する係員も大変だ。
しかも密閉だけじゃなくって、密着もさぞ凄まじかったと思うよ」
言いながら、唯が身を乗り出してくる。
「サング君ったら、りっちゃんを持ち上げた時、顔のすぐ真横に股があったからね。
もうさ、凄まじい匂いが怒涛の如く間近の鼻に押し寄せたんじゃない?」
「その後で、顔面を股に挟み込まれて、生殖器を押し付けられてましたからね。
ゼロ距離であんな匂いを喰らって耐えられるなんて、肉体も精神も強靭に過ぎます」
梓が後を引き取って言い足した。
「匂いだけじゃないわ。あの見せ付けるみたいに盛り上がった恥丘の感触だって、
きっと柔らかくて滾らせただろうし」
紬も続いて言った。
歩きながらの雑談では、周囲の耳も然程は気にせずに済む。
「っていうか、やっぱりあの強烈に芳しい匂いって、
律先輩のあの部分から出てるんですかね。
私もその前提で、つい話しちゃいましたけど」
梓は今更のように”あの部分”などと暈しているが、
つい今しがた同じ口から”生殖器”と発したばかりだ。
269 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:14:04.00 ID:RC2/md2co
「じゃない?チャイナドレスって、下着を着けないのが本来なんでしょ?
だからさ、いつもはショーツで蓋してるけど、今日はダイレクトで匂っちゃったんだろうね」
「蓋だなんて。いくら律先輩でも、常時ああいう訳では。
合宿とかで一緒にお風呂入っても、あそこまで強烈な匂いはしませんでしたよ。
まぁ、その興奮かなんかで、今日は濡れちゃってたっていうか」
言葉足らずな唯に梓が補足を試みるが、
直截な表現が憚られた故か言葉尻は萎んでいった。
「ああ、勿論興奮して、
愛液かなんかの匂いの成分が分泌された、って事だよ。
いくらりっちゃんでも、あんな発情真っ盛りな匂いを常時放っていないだろうからね。
合宿の時は寧ろ、りっちゃんより澪ちゃんやあずにゃんの方が、ねぇ」
「なっ、唯先輩には言われたくありません。
憂が家事を率先してやるのだって、
唯先輩とは下着やタイツの洗濯を別けたいからですよ、きっと」
含み笑う唯に、梓が噛み付いた。
確かに合宿で一緒に入浴した時は、澪や梓、そして唯の方がより峻烈な匂いを放っている。
それも、律のものとは違い、生物にとってあまりにも過酷なものだ。
一緒の湯船に入るのも躊躇われ、
その後も紬は当該の宿泊施設の風呂に入ろうとは思えないでいる。
同時に、コンプレックスも覚えていた。
あれが即ち、雌としての濃度でもあるのだろう。
潔癖の如く忌んだ自分の方が、雌として成熟できていないように思えてくる。
「えーっ。そんな事しないよー。憂だって人の事言えないくらいだし。
まぁ、熟成に要した年月と、タイツという蒸れる環境下で、
確かに私の方が多少は」
「二人とも、何て話で競っているの。その話は場を改めて詳しく聞かせてもらうわ。
その前にほら、出口よ。この後の予定だけでも、先に決めるのはどうかしら?」
紬は唯を遮って言った。場所柄、看過できないほど話が生々しくなってきている。
丁度、駆け込んできた入口へと戻ってきていた。
誰が言い出すともなく、来た道を漫然と辿っていたのだ。
270 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:15:02.17 ID:RC2/md2co
「場を改めて、聞きたいんでしょ?
いいよ、今夜。話してあげる。即帰るようなテンションでもないし。
あずにゃんはどうする?いや聞いてるんじゃなくって、誘ってるんだけどね」
「私だって勿論付き合いますよ。
ムギ先輩一人じゃ、唯先輩の話相手は大変でしょうし。
あ、ムギ先輩も付き合うんですよね?」
「ええ。でも、あまり過激な話だと、私が足を引っ張っちゃうかも」
予定を訊いた紬が下りる訳にもいかない。
そもそもが、真っ直ぐ帰るつもりなら、二人に予定を決めようなどと投げ掛けていない。
ランドマークタワーの外には、
通行人の邪魔にならないよう会話を出来る場所が幾らでもあった。
そのうちの一つ、花壇の脇に紬達は一旦身を寄せる。
「で、何処の店に行きます?」
落ち着く間もなく、気の早い梓が移動を急かして来た。
それでも不都合はない。紬にせよ、元よりこの場に長居する積もりなどなかった。
「あー、適当な居酒屋、って冗談だよあずにゃん、睨まないで。
そうだねぇ、やっぱファミレスとか、洒落ても喫茶店とかになるのかなぁ。
ムギちゃんは何か考えある?」
唯が紬を見た。梓も、唯に倣って紬へと視線を送ってきている。
この三人の中で最も地理に通じた人間に期待したいと、二人の視線が語っていた。
紬は回答の用意があるものの、自分の考えという訳でもない。
寧ろ、問うた側の考えであったはずだ。
「あら?私に訊くの?変ねぇ、唯ちゃん、行きたい場所あったはずだけど」
唯は思い当たらないらしく、眉根を寄せていた。
271 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:16:15.52 ID:RC2/md2co
「お昼、集合した時に言っていたじゃない。ここ、ランドマークタワーでね。
唯ちゃんたら、電車に乗っている時から、
元町・中華街駅の方が気になっていたんでしょう?
中華街に行きたかったんでしょう?
だから、行きましょうよ、中華街に」
唯と梓は互いに目を見合わせてから、紬に向き直ってきた。
「いいっ、いいよ、ムギちゃん。グッドアイデアだよ。
そうだよ、行きたかったんだよね、中華街。
りっちゃんの所為ですっかり忘れてたよ。そういえば、夕ご飯も食べてないじゃん。
あずにゃんや、意識したら急にお腹が空いてきたねぇ」
唯が目を輝かせて、猛然と身を乗り出す。
同意を求められた梓も、満更でもない提案らしい。
「もうっ、唯先輩ったら、いっつも食い気なんですから。
でも、そっちの方が、唯先輩らしいです。
正直に言えば、私だってお腹が空いていますし」
「決まりね。
お昼はコーヒーで白けちゃったけど、今度はちゃんとお茶を飲みましょう?
中華には紅茶でも緑茶でもなく、ウーロン茶が一番合うの」
二人の顔を見れば分かる。
紬の提案に、異論はないのだと。
確認した紬は、先頭を切って歩き出した。
ランドマークタワーを回り込み、クイーンズタワーの裏を歩いていけば、
東急みなとみらい線みなとみらい駅に着く。
そこから元町・中華街行きの電車に乗るのだ。
「そうそう、香港とかだと、
点心を摘みながらお茶する事を飲茶っていうのよ」
歩みを弾ませながら、紬は言った。
272 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2016/08/18(木) 21:17:09.33 ID:RC2/md2co
「私達で言う、ティータイム、ですね」
即座に返してきた後方の梓は、紬の言いたい事を瞬時に察してくれている。
次期部長として、順調に自分達の哲学を受け継ぐ素質があるようだ。
「りっちゃんに先を越されちゃった事だし。
今日はどかっと自棄食いしようねー。
それで英気を養って、明日はりっちゃんを質問攻めにして冷やかしてあげないと」
提案する唯の声に迷いはなく、元気が漲っていた。
唯は太らない体質だから迷いなく自棄食いできるのだ、自分はそうもいかない。
だから自分は自制すべきだと、紬とて分かっている。
だが──
今日は走ったりと、いつになく運動している。
だから今夜くらい、過食に淫しても大丈夫だろう。
一瞬にして自棄食いを正当化させた自分に、紬は思わず苦笑を漏らす。
だが、意図せず食べ過ぎてしまう普段とは違い、今は自己嫌悪に陥る事もなかった。
腹が減っては、恋もできないのだから。
「そうね。いっぱい、食べちゃおっか。
いっぱい運動したもの。お腹空いちゃったわ。
そして明日は、りっちゃんに色々訊いて、冷やかして、
そして、勉強させてもらわないとね」
紬は後ろを歩く二人に笑いかけ、逸る気持ちのまま急ぐよう手招いた。
*
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