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不幸病にかかった。余命半年、初めて好きな人ができた。
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48 :
プロタゴラス
:2019/02/14(木) 22:14:24.69 ID:v9zCIZVA0
僕はそれから、長々とした説明をさらに聞かされた。母は心配こそしていたが、彼女にとっての最もの心配は僕が死ぬことらしく、とうとう例の手術の件について男たちの意見を飲んだ。
彼らは僕の方に、またあの気味の悪い笑顔を向けた。社交辞令のつもりなのだろうが、僕にはそれが理解しがたい。
「あの……」
説明を終えた里山に、僕は質問をした。
「治療すれば、僕は幸せになるんでしょうか?」
「あぁ、保証するよ。君は絶対に、幸せになる。この世に最高の幸福を感じ、毎日が素晴らしいものに感じるようになるよ」
49 :
プロタゴラス
:2019/02/14(木) 22:15:38.02 ID:v9zCIZVA0
魅惑の妙薬とは程遠い。声はまるで長いパイプを通して遠くから聞かされているみたいで、まるで耳に入ってこない。砂浜でおしゃべりをする観光客の言葉より、向こうから聞こえる海鳥の鳴き声の方がよく聞こえるのに似ていた。
「そうですか……なら先生方……」
僕は彼らの前に立ち、そして言い放った。
「ご遠慮します。お気遣いは嬉しいですが、僕は今のままでいいです」
英十郎が呆気にとられたような顔をした。それを見た里山が、冗談ですよね? と震えながら言った。僕はそれを押しのけるように、堂々と、言葉を口にした。
「これは僕の意思です」
50 :
プロタゴラス
:2019/02/14(木) 22:18:28.00 ID:v9zCIZVA0
二人の男が呆然を立ちすぐしていた間、母になんてことを言うのかと言われた。僕は無視をした。騒ぎを聞きつけて祖母と祖父が自室からやってきたが、男たちはすぐに元の笑顔を取り戻すと、大丈夫です、また来ます、と言って家から出て行った。
隙を見計らって、僕は部屋へと階段を駆け上がった。鍵を閉め、部屋を暗くしてベッドの上に倒れこむ。カーテンの隙間から、わずかに月の光が、変わらない光を漏らしている。憂鬱の中で、漏れ出るような感情を声にした。目を閉じて、呟く。
「幸せなんて、糞食らえ」
自然と、意識が閉じた。
51 :
プロタゴラス
:2019/02/14(木) 22:20:34.94 ID:v9zCIZVA0
>>47
アイデア自体はその曲からもらってたり、ここの板で見たいろんな作品を元に、書きたい、と思ったものを書いている感じです。
他にも質問等あれば答えます。
52 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/02/15(金) 10:00:34.04 ID:+xGkBVk2O
乙です
53 :
プロタゴラス
:2019/02/17(日) 23:09:24.65 ID:YrlpamUr0
忙しくて少ししか書けなかった。とりあえず上げます。
翌朝、僕は朝食もとらずに家を出た。
初めての経験だ。腹の中が空っぽで、胃酸が出てキリキリと痛む。目もあまり覚めていない。
森の中を、例の屋敷へ向けて走っていく。昨日着たズボンのままだ。ポケットの中の名刺の住所と、記憶を頼る。流石にめまいがひどいが、そんなことを理由に家に居たくなかった。もしいれば、あの親たちが僕を「更生」するための治療に専念させようとすることが目に見えていたからだった。
54 :
プロタゴラス
:2019/02/18(月) 13:52:18.83 ID:mB22k5AG0
森は静寂だ。
幻想によく似た様相を呈している。朝霧の合間を日差しが差し込む。夏だと言うのに、この辺りの朝はいつも涼しかった。その気温差ゆえに、霧が出ることも少なくない。
僕はその深い霧と森の中を、ほとんど勘を頼りに歩いていく。下手をすれば道を失うだろう。都会じゃこんな冒険はなかった、と心の中で思った。カラスの鳴き声。リスが木々の間を走り抜けて葉が揺れる。
広い交差点に出て、僕は車道沿いに村の方向へ歩き出す。この辺りの村は、昔僕が育った時そのままの風景を保っていた。生まれは東京だったが、育ちはこの小さな村だ。湖が綺麗で、村人の笑顔が好きだった。都会のような愛想だけの笑顔でなく、心のこもった笑顔。
55 :
プロタゴラス
:2019/02/18(月) 13:52:47.44 ID:mB22k5AG0
一応訂正しておくが、僕は田舎と都会とどっちがいいのかなんて言う話をするようなタチじゃないし、そう言う話を馬鹿らしいと思っている。心のこもった笑顔とか、こもってないとか、そう言うありとあらゆるものが嫌いだ。嫌い、というより関心がない。
森の中で煙の匂いがした。炭炊き小屋の近くに来ているのだ。その煙が頭上へと登っていく。
高校へ通う時、僕はいつも、電車の窓から見える景色を眺めるのが好きだった。特に、夏。山あいから細く伸びる煙が描く、現代アートのような空が好きだったのだ。かといって、絵描きになるつもりなんてない。僕はその空が好きなだけだった。
56 :
プロタゴラス
:2019/02/18(月) 13:53:41.39 ID:mB22k5AG0
大通りをしばらく歩き、住宅街のすぐ横にある自動販売機からスポーツドリンクを買う。ようやく喉を潤すことができた。こんなに美味い味だっただろうか。額から滴る汗が失った塩を、体の中に一気に吸収したみたいで、僕は少し目が眩んだ。
淀んだ視界の中で、僕はその交差点に猫を見た。
赤い首輪と金色の鈴が印象的な、黒猫だった。あぁ、シャムじゃないか。僕は思わず声を出して喜んだ。
57 :
プロタゴラス
:2019/02/18(月) 13:54:19.38 ID:mB22k5AG0
シャム、というのはこの猫に僕がつけた名前だ。どこの家に定住することもなく、気ままに村の家々を転々とするその姿を見て、僕はシャムという名を思いついた。「舎無」という、つまり、家が無いという意味のダジャレだった。だがどうも、この猫はこの名前を気に入ったらしく、シャム、と呼ぶと、彼は振り返るようになっていた。
帰ってきたのか。
そんなことを言いそうな目つきで、シャムは僕を見つめた。背中と尾を一直線に伸ばし、朝の目覚めの運動と言わんばかりに、道のど真ん中であくびをした。
58 :
プロタゴラス
:2019/02/18(月) 13:54:53.28 ID:mB22k5AG0
ドリンクをもう一口飲むと、僕はシャムに手を伸ばしてみせた。相変わらず、愛想の悪い猫だ。愛想が悪い、というより、感情がないの方が正しい。
そもそも猫に感情なんてないよな。
59 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/02/20(水) 07:50:02.21 ID:hyh6z/P1O
乙です!
次も待ってます
60 :
プロタゴラス
:2019/02/23(土) 13:31:04.87 ID:rl9Uk2WT0
お久しぶりです。作者です。
ちょっと今リアルの方が忙しくて執筆が追いついていません。多分来週いっぱいこんな感じが続くと思います。一応、書けるときには随時更新するつもりですがその他は浮上が難しいと思いますので、みなさま保守の方よろしくお願いします。
61 :
プロタゴラス
:2019/02/24(日) 19:23:56.00 ID:jaOAK7Fh0
シャムの首を軽く掻いてやると、小さくないて体を丸めた。首輪の鈴がちりり、と音を立てた。人を警戒するそぶりがない、というより、人は警戒するに値しない、と言わんばかりの自由人だ。
すると、シャムは僕の手元から突然走り出した。なにか気に触ることでもしただろうか。僕はシャムを呼びながら目で追った。彼はブロック塀に飛び乗ると、意味ありげに僕を見て鳴いた。そして、そのブロック塀の向こうに姿を消した。
62 :
プロタゴラス
:2019/02/24(日) 19:24:46.22 ID:jaOAK7Fh0
僕は顔を上げて、その建物を見た。
あぁ、そうだ。僕は思い出した。この建物だ。さっきまでは全く気がつかなかったが、よく見てみればちゃんとその姿を留めているのが分かった。特徴的な黒い屋根。二階建ての古い建物だ。壁は赤煉瓦で作られていて、窓枠などは焦げ茶色の枠が付いている。
63 :
プロタゴラス
:2019/02/24(日) 19:25:11.94 ID:jaOAK7Fh0
そういえば、ここは昔廃墟だったはずだ。しかし、その建物は明らかに工事が行われたようだった。肝試しのときに空いていたはずの巨大な壁の穴には、周囲とは色味の違う、新しいレンガがきっちり埋め込まれていた。空の先にぼうっと伸びていた灰色の煙突の先からは、もうもうと煙が上がっている。屋根の四方に付けられていた、この建物の不気味さを象徴するようなガーゴイルの像は、撤去されたようだ。
64 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/02/25(月) 20:44:01.77 ID:NDpM8yiUO
乙です
年度末はなにかと忙しいからね
お身体ご自愛くださいませ
65 :
プロタゴラス
:2019/03/03(日) 15:45:37.39 ID:A04JWL9p0
お久しぶりです。どうにか空き時間を縫って書いた分だけ上げます。
僕は建物の正面に回り込んだ。入り口まで来るのに随分と時間がかかった。その門は、前に来た時と同じようなツタや草まみれの石レンガ製の塀だった。そこにかかっている表札は、元々……つまり僕がここに探検にくる以前、はるか前に住んでいた人物……住んでいた人が使っていたものの上に、ただ、養生テープを貼り付けて、マッキーの太い方を使った、ダイナミックな文字で
「狩野邸」
と書かれていた。例の研究所の看板などは見当たらない。けれども、僕の記憶の正しい限り、ここがその目的地であることは明白だった。
インターホンは、最近取り付けたばかりのようで、白い新品のそれだった。カメラはうだるような暑さの日差しを反射してギラギラと輝いている。僕の身長の2倍くらいはある鉄格子の扉が、まるで異世界への入り口であるかのような佇まいで出迎えている。
僕はそのボタンを二度押した。なぜ二度押したのかというと、手が震えたからだった。
66 :
プロタゴラス
:2019/03/03(日) 15:46:29.62 ID:A04JWL9p0
今週の火曜日いっぱいまではリアルの方が忙しいので低浮上です。楽しみにしてくださってる方々には本当に申し訳ない……
67 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/03/05(火) 07:36:58.51 ID:V7VUblsrO
乙です
リアル優先で気長に待ちます
68 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:51:52.58 ID:yuSPG/se0
乾いたインターホンの音声から、若い女性の声が聞こえた。「はい、どちら様ですか?」僕は、「狩野さんに、名刺を渡されたものです」と、手元に持った例のしおりを、カメラの前にはっきり見えるように出した。
「研究所は、奥の本館の方です」声は妙に通った感じで言った。「今開けますので、そのまま真っ直ぐ進んでください」
音が途切れると、ガシャリという音と共に、扉がゆっくりと開かれた。多分どこかから遠隔操作をしているようで、僕は自動で開くその扉を横目に、恐る恐る足を踏み出した。
69 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:52:18.45 ID:yuSPG/se0
内側にはそれなりの大きさの庭園が広がっていた。ホテルによくあるようなロータリーの中央には、石でできた噴水が付いている。しかしそれはヒビが入って壊れ、水が無造作に流れ出すだけで、よくある美しい庭園とは程遠い姿だった。それを囲むように置かれたいくつかのベンチも、管理する人がいなくなったことで腐食が進み、一部に穴が空いている始末。数日前の雨のせいか、全体的に色が暗く見えた。
70 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:53:16.55 ID:yuSPG/se0
目的の本館というのは、僕がさっき目にした赤煉瓦でできた建物のことだった。玄関のドアには、悪趣味な悪魔の姿をしたノッカーと、重々しい雰囲気が同時に漂っていた。そのすぐ足元に、不釣り合いなサイズの机と、よれよれの墨字で、
「ご自由にお入りください」
とただ、記されていた。
71 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:54:16.53 ID:yuSPG/se0
僕はその指示に従って建物の中に足を踏み入れた。玄関には靴を脱ぐ場所もない。多分洋館としてその昔、富豪の外国人によって建てられたりでもしたのだろう。入ってすぐの吹き抜けの階段は、その天井のステンドグラスから差し込む光で、解放的な雰囲気を醸し出している。
僕がそのステンドグラスをじっと眺めていると、すぐそばからヒッ、という女性の、怯えるような悲鳴聞こえたのを、僕は聞き逃さずその方向に顔を向けた。
72 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:55:02.54 ID:yuSPG/se0
「ゆ……由美?」
そこにいたのは……ちょうど何日か前に図書館で会った由美だった。尻餅をついて倒れている。僕は彼女の手を取って、立ち上がるように促した。
「怪我は?」
「私は大丈夫……ただ……」
彼女の視線を追うと、廊下の床に高価そうなティーカップ……幸いなことに、割れてはいないようだった……と、そこから茶色い液体が溢れているのがわかった。すぐに、由美の服にもそれがかかっていることに気がついた。もちろん僕の服にも、それが少しばかり、かかっていることが分かったし、多分淹れたてのコーヒーだったのだろうというところまで察しがついた。僕は途端に申し訳なくなって「ごめん……びっくりさせて」と、ありきたりな謝罪をした。
73 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:55:52.26 ID:yuSPG/se0
「一体何の騒ぎだね?」
ふと、聞き覚えのある声がして僕は振り返った。そこにいたのは、山の中で出会った狩野本人だった。耳に鉛筆を一本さして、二つのメガネをおでこのところまで上げているその姿は、さながらステレオタイプの研究者と言わんばかりの姿だった。前に会った時は気にならなかったが、ズボンから少しはみ出た贅肉の主張が強い。
「これはこれは…すみません、うちの姪が失礼なことを……すぐに着替えを用意させますので」
「別に、大した服装を着てきたわけじゃないので大丈夫ですよ」僕はそう言って、由美の方をじっと見た。
「知り合いなの?」
「森で会ったんだ。話をするために、ここにきた」
僕はそのまま、来客用の小さな部屋に通された。
74 :
プロタゴラス
:2019/03/06(水) 21:56:35.60 ID:yuSPG/se0
リアルに余裕ができたのでまた投稿を本格的に再開しようと思います。お待たせしてすみません。
75 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/03/10(日) 14:16:36.59 ID:KbqEUVBeo
乙です
待ってるよ
76 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:20:49.49 ID:mD2ovhCq0
その部屋に入ったとき、まず目に入ったのは大量の書籍で埋め尽くされた巨大な本棚! 床を埋め尽くしうず高く積もった挙動のような本!! そしてその間を縫うように歩く、一匹の黒猫だった。それがシャムであることに気がついたのは、彼がしゅっと地面に降りて、僕の方をじっと見た時に、その首についた鈴がチリリと鳴ったのを聞いた時だった。
「まぁ、適当に、そこらへんの本をどかして、座ってくれ。いや、別に、なんの不都合もないから」
そういうと、高村はそこにあった大きな本の山を一つ、なぎ倒すように動かした。ガサ、という音ともに、埃が部屋にまった。シャムはそれに(きっと足の毛が敏感なのだろう)やられて、前足の汚れをなんども念入りに舐めている。
77 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:22:12.86 ID:mD2ovhCq0
僕は部屋の、その中央をほとんど占領していた本の山を、なんとか最小限踏むだけで済むよう細心の注意を払って、その椅子に腰掛けた。高村は、部屋の隅っこに……おそらくそこが、普段座る、主人用の席なのだろうが……置いてある、かなり古い時代のものと思われる椅子に腰掛けた。
「それでだ、あー」
高村は全く、森にいた時の落ち着きから、すっかりかけ離れていた。僕は、一応の礼儀を保つようにしていたが、次第に、なんだかそれがバカらしく感じられるようになった。
78 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:22:46.31 ID:mD2ovhCq0
「何くんだったかな?」
「北見誠治です」
「そうだ、北見くん……そう」高村は顎に手を当ててなんども擦りながら、「どうして、急に来てくれたんだい。いや、別に不都合があったりするわけじゃないよ。ただ、純粋に気になったんだ」
「理由……別に大したものじゃないんです」
僕はそう言いながら、頭の中でどう言おうか悩んだ。別に、自分が例の幸福を感じられない精神疾患であると告白してもよかったし、彼……高村の研究に興味が湧いたとか、あとは単純に、ぶらぶらしていたら、ここへたどり着いたと言えば良い。しかし、僕はどうもそれらの行動について、少なからずの背徳感があった。それは、正直に全てを告白することも、それを偽ることについても、その両方においての話だった。
「ふむ……まぁ、特に気にしないでくれ」
僕は、目の前の人物が、この前森の中で出会ったその人であると信じることができなかった。
79 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:23:13.12 ID:mD2ovhCq0
「それより、さっきは本当に済まなかった。あとで着替えを用意させるよ、今日はゆっくりしていきなさい」
「いや、別に、すぐ帰るので」
僕はまた、なぜか嘘をついた。
そして、その嘘が口から出た時、なぜか高村は僕の顔をじっと、まじまじと、見つめた。その視線は、まるでその奥にあるものを見透かす、超能力者の千里眼によく似ていた。あの瞳の向こうには、暗黒の世界と混沌にまみれた虹、あるいは、宇宙を内包した潜在的なエネルギーの胎動が映るのではないか。僕はそれが不思議でたまらなかった。
80 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:24:02.57 ID:mD2ovhCq0
「……まぁ、君が帰るというなら構わないよ。あとで彼女に送り返させよう」
「いや、やっぱり残ることにします。その……親と喧嘩したんです。少なくとも、僕を今日1日の間は許してくれないでしょうから、どうか、泊まらせてください」
怯えていた僕は、その部屋のなかの、膨大な本の方に視線を向けて、その中にあった太宰治の全集に視線を向けた。赤茶けた背表紙には、彼の晩年の作品群がいくつも……人間失格…グッドバイ……それから……
「借りたいものがあるなら、自由に持って行ってくれ。というより、君にあげてもいいよ。ここの本はあまりに多すぎるんだ。それから、二階の客室の鍵を渡しておこう。君の部屋は、ここの真上にするといい」
彼は自分が座っていた椅子のすぐ横(本棚の向こう側であったこと、間に本の山があったことで僕にはそれが確実にどこにあるかわからなかった)から、一本の銀の鍵を取り出すと、放って僕に手渡した。それは、見た目通りの銀でできているからなのか、ずっしりとしていた。
「どれがいい?」
僕はとっさに、目に留まった本を指して
「ジキル博士とハイド氏」
と答えた。
81 :
プロタゴラス
:2019/03/16(土) 18:24:47.85 ID:mD2ovhCq0
前に投稿した部分で、狩野という人物が出ていますが、そこは高村です。間違えてしまいました。すみません。
82 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/03/21(木) 07:57:30.69 ID:yV85RCI2O
乙です
よきよき
83 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[sage]:2019/04/08(月) 21:51:54.87 ID:b3WHaWjBo
待ってるよー
84 :
プロタゴラス
:2019/04/09(火) 07:43:36.66 ID:iogyqI8E0
遅れました……はい。
すみません。投稿頑張るとか言い出した後すぐ失踪しかけてしまって……
上げます。
85 :
プロタゴラス
:2019/04/09(火) 07:44:25.76 ID:iogyqI8E0
例の、多重人格という概念について、僕は特に明確な意見を持っているというわけではなかった。多重人格は、ある種の人物に発生する精神の病などではなく、ただ、「普通と違う」ことを指しているだけなのだと、僕はそう思っている。
86 :
プロタゴラス
:2019/04/09(火) 07:45:23.62 ID:iogyqI8E0
ジキル博士とハイド氏の薄い文庫本を読み終えた僕の元に、沸き立ての紅茶をまた持ってきたのは、由美だった。服装を着替え、清楚なメイド服を着たその姿は、昔の記憶の中にあった彼女と相容れないイメージがあった。
「……やっぱ、飲まない?」
「いや、飲む」
シンプルな問答の後、彼女はコーヒーをゆっくりと注いだ。注いだカップからたった湯気が、彼女の吐く息で渦を巻いた。
87 :
プロタゴラス
:2019/04/14(日) 12:20:22.65 ID:Su8UC00C0
遠慮がちな彼女と話すのは、何だかとても奇妙な感覚だった。まるで、浦島太郎にでもなったような気分だ。僕が知らぬ間に、世界の時間はすっかり進んでしまったのかもしれない。もしくは、彼女の方が、ただ単に乙姫であるというだけなのかもしれない。僕から見たら、世界が変わったのか、彼女が元に戻ったのかというのは、区別できるわけでもなく、ただ、変化の結果がそこにあるだけなのだ。
88 :
プロタゴラス
:2019/04/14(日) 12:21:20.56 ID:Su8UC00C0
コーヒーを一口飲み、そして、彼女の横顔をじっとみた。ベッドの脇に二人で腰掛け、カップを持っている。彼女の方は、両手で、息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ飲んでいる。
89 :
プロタゴラス
:2019/04/14(日) 12:22:08.98 ID:Su8UC00C0
「……なんで、由美がここにいるんだ?」
「……叔父の手伝いよ。あの人、一人じゃ何にもできないから」
「叔父?」
「あの人、私の叔父にあたる人なの。ちょっと変なところがあるから、家族とうまく馴染めなくて、ずっと一人で海外に行ってたの。三年くらい前に、ここを買い取って、それから暮らしてる」
なるほど、というありきたりな返事も返すことなく、僕はじっと彼女の話を聞いていた。
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