【グラスリップ】透子「かけるくん?」

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22 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/04(木) 00:27:19.72 ID:dmglIwuH0
「幻覚のようなものが見えるとき、何かきっかけがあるだろう?」

「……うん」

「それがあると、たぶん見えやすい」

 すると、透子は首から下げたネックレスの飾り玉に触れた。

「ガラス、でいいの?」

「うん。きらきらしたものとかなんだけど、ガラスが特に」

「じゃあ、そのまま、ガラスに意識を集中させて」

 百聞は一見に如かず――この場で互いの体験を共有することができれば、透子の不安や悩みもいくらか和らぐに違いない。

 透子はガラスの飾りをじっと見つめる。俺も母さんの演奏を聴くように集中を高める。

 果たして――『それ』は起こった。

 最初に『見えた』のは、鮮やかな静止画。

 昼間の日乃出浜港駅のホーム。

 線路の上に並んで立つ、透子の四人の友人たち。

 そして反対側には、一人で立つ透子。

 そのイメージはやがて中心に向かって歪み、直後、



《――私も、未来が見たいの――》



 透子の《声》が、『聞こえた』。

「……今の、私?」

 透子が驚きに満ちた表情で俺を見上げる。思っていた以上の収穫に、俺は自信を持って頷いた。

「やっぱり君がいると、俺にも《映像》が見える」

「こんなにはっきり見えたこと……今までなかった。それに声まで」

 自身の《未来の欠片》の変化を反芻する透子。と、彼女は小さな疑問を口にした。

「でも、どうしてこれが未来だってわかるの?」

 改めて問われると、客観的な根拠はない。あるのは経験則のみだ。

「俺がそうだったからとしか」

「ん……?」

 納得しているような、いないような、なんとも言えない表情。

 もちろん《未来の欠片》には不明な点も多い。というか、そこを解明したくて、俺は今こうして透子と一緒にいる。初回でこれだけの結果を出せたのだから、十分だといえよう。

「今の通り、二人の時は《映像》と《声》、両方がわかるんだ」

 俺がまとめると、透子は、きょとん、と大きな瞳を俺に向けた。

「それを知って、どうするの?」

「っ…………!」
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/04(木) 00:35:01.58 ID:dmglIwuH0
 どうする――?

 素朴な質問に、俺は虚を衝かれた。

 俺にとって《未来の欠片》は、それ自体が目的であって、何かを為すための手段ではない。

 俺が完全な形になるのに、《未来の欠片》を拾い集めることが必要だというだけ。

 そして透子といれば、よりはっきりとした《未来の欠片》を手に入れることができる。

 今日のような実験を繰り返せば、さらに鮮明で、意味のある《未来の欠片》を聞いたり見たりできるかもしれない。

 そう思って俺は透子に声を掛けたわけだが――。

 《未来の欠片》を集めて……それで、俺はどうする……?

 欠落が埋まって、完全な形になれたとして、それから先のことは……?

 ――ダメだ、考えがまとまらない。いや、でも、とりあえず今はわからないことがたくさんある。なぜ透子がいると《未来の欠片》が変化するのか。その変化にどんな意味があるのか。この夏休みのうちに、できる限り調べておきたい。

「一応これ、番号」

「これって、もしかして家電!?」

 やたらと驚かれたが、理由はよくわからない。

 ともあれ、そろそろ切り上げ時だろう。続きはまた、なるべく早いうちに。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/04(木) 00:38:09.78 ID:dmglIwuH0
 *

 家に帰ってからも、透子の問いに対する明確な答えは出なかった。

 考え過ぎで疲れた頭をすっきりさせようと、俺は海沿いを走ることにした。

 その途中、俺は透子の友人の一人に会った。

 イミ、ユキナリ。

 喫茶店で透子の隣に座っていた、目つきの鋭い彼。

 お互い名乗りあっただけで、他に言葉は交わさなかったが――。

 俺を追い抜き、ぐんぐんと遠ざかる背中が雄弁に語っていた。

『負けねえからな』

 と。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/04(木) 00:41:09.60 ID:dmglIwuH0
 *

 次の日の夕方、家の電話が鳴った。

「はい、沖倉です」

『あの! あ、えっと、深水ですけど、同じ学校の』

「ああ、俺だよ」

『あっ、沖倉くん、あのね――』

 小さく息を吸い込んで、透子は言う。



『私、未来が見たいのっ!』



 瞬間、麒麟館での《未来の欠片》が脳裏を過ぎる。



《――私も、未来が見たいの――》



 透子もそうだったのだろう、はっと息を飲む音が、受話器を通して間近に聞こえた。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:02:17.87 ID:4h98r15f0
 †

 山登りは、元々は父さんの趣味だった。

 子供の頃は、正直、父さんとの山登りにはあまり気が乗らなかった。

 大人の足ならなんてことのない山道も、子供の足にはかなりきつかった。景色だってほとんどの道のりはただ木々が見えるだけで退屈だった。

 それでも、一度習慣になったことは、なかなか抜けないもので。

 一人になりたいとき、考えを整理したいとき、気分を変えたいとき、俺の足は自然と山へ向いた。

 丈夫な靴とバックパックがあれば事足りるくらいの、そう高くない、街からもさほど離れていない山を、散歩感覚でぶらぶらと巡る。

 身体が成長し、歩幅が大きくなるにつれ、それは俺自身の趣味になっていった。

 しっかり自分の足で歩けるようになったことで、物事の感じ方や、景色の見え方が変わったのだろう。

 大人になるって、たぶん、こういうことなんだと思う。

 背が伸びて、力がついて、色んなことを知って、苦手だったことも楽しめるようになる。

 けれど、それでも、まだ歩くことを覚えただけ。

 自由に飛び回る母さんの背中は、今もなお、ずっと遠くにある。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:07:02.95 ID:4h98r15f0
<第3話 ポリタンク>

『あ……今の――』

 初めてガラス球越しに逆さまの風景を見たときのように、透子は《未来の欠片》が実際に『未来の欠片』であることに感じ入っていた。俺はそっと手を取るように、うん、と肯定し、話を本題に――透子が未来が見たいと言い出した件に――戻す。

「それは今から?」

『うん、今から』

 透子の声からは、何かしらの強い決意が感じられた。むろん断る理由はない。《未来の欠片》を見聞きする機会が増えるのは俺も望むところである。

「とにかく会って話をしよう。透子の家に行くよ」

『えっ?』

「これからだと、帰りが遅くなる」

『いや、それは悪いよ。私なら平気だから』

「用事を片付けてからいく」

『あっ……』

 結局、俺が押し切る形で、透子の家へ向かうことになった。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:12:50.32 ID:4h98r15f0
 *

『YATAGLASS
 studio』

 透子から聞いた住所に着くと、烏の意匠の看板を掲げた建物がまず目に入った。ここが透子が待ち合わせに指定した工房だろう。電気が点いていたので、俺は正面の入り口ではなく、ガラス張りになっている側面へと回る。

 透子は工房の中に一人でいた。Tシャツにジーパンというラフな格好で、髪を一つに結んでいる。作業中のようで、竿の先についたオレンジ色に煌めくガラスの表面を、特殊な紙か布のようなもので磨いていた。透子は慣れた手つきで、くるくると竿を動かし、ガラスの形を整えていく。

 俺はそんな彼女の姿を黙って見つめた。扱っているものがものだけに不用意に声は掛けられないし、それに、誰かが一心に仕事をしている姿は、それだけで絵になるものだ。

 しかし、鑑賞の時間は長く続かなかった。透子が俺の視線に気づいて振り返ったのだ。

「うっ、ああ……」

 俺に気を取られているうちに、透子のガラスは、誰の目にも失敗だとわかるくらいに、ひどく変形してしまった。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:20:25.51 ID:4h98r15f0
 *

 作業場の隣には、長テーブルと椅子が置かれた談話室のような部屋があり、俺はそこに案内された。

 片付けを終えた透子が、作業場の電気を消し、部屋に入ってくる。その表情はどこか暗い。先ほどの失敗を引きずっているのかとも思ったが、理由はまた別にあった。

「……やなちゃんを泣かせちゃう」

 やなちゃん――眼鏡の彼女、永宮が『さっちゃん』だったから、透子が言っているのはリボンの子のことだろう。

「未来が見えた?」

 尋ねると、透子は沈んだ面持ちで頷いた。

 俺に電話をしてから今までの間に、透子は単独で《未来の欠片》を見たのだ。

 しかし、それももっともだと、部屋に並ぶガラス製品の数々を見て、俺は思った。

「なるほど。透子のための媒体がガラスである理由はこれか」

「そうかも……」

 俺にとって母さんのピアノがそうであるように、幼少から慣れ親しんでいるものが媒体になりやすいのだろう。これも《未来の欠片》を紐解くヒントになりそうだ。

 そうして興味深く部屋を眺めていると、隣の作業場に明かりが灯った。そして――、

「あっ、お客さんだったの?」

 中学生くらいのショートカットの少女が、ひょこりと扉から顔を出し、こんばんは、と明るく挨拶してくる。

「いつも姉がお世話になっております」

 少女は透子の妹だった。かなり人懐っこい性格のようで、初対面の俺に臆する様子もない。それどころか、俺が何者なのか、透子とどういった関係なのか、好奇心に目を輝かせていた。

「今、お茶を――」

「大丈夫! 沖倉くんはもう帰るから!」

 俺を接待しようとする妹さんを、透子は強引に部屋の外へ追い出す。そして姉妹の間で短い密談が交わされ、妹さんは工房を去り、透子は申し訳なさそうな顔で俺の前に戻ってくるのだった。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:35:19.41 ID:4h98r15f0
 *

「ごめんね、来てもらったのに追い返すような……」

「別に気にしなくていい」

 少なくとも、透子とガラスの関わりについてわかったのは収穫だった。

 それより気がかりなのは、透子が『未来を見たい』といった理由のほうだ。

 何か、透子にとって重大なことが起きたのではないかと思ったのだが――。

「私、やなちゃんとゆきくんの未来を見たかったの」

 ぽつりと、そう零す透子。

 ゆきくん――その名がイミユキナリと繋がった瞬間、走り去っていく彼の背中が、脳裏に蘇った。

「……イミユキナリに、告白されでもした?」

 鎌をかけてみる。すると透子は丸々と目を見開いて、

「なあっ……!? なぜそれを!?」

 と大げさな身振りで驚愕をあらわにした。

 彼女の感情表現の大胆さと豊かさに、俺は少し笑ってしまう。

 だが、もちろん、端からは可笑しく見えたって、当人にとっては冗談では済まない。

 俺に言い当てられた衝撃が収まると、透子は深刻な表情で事情を話した。

「やなちゃん、ゆきくんに好きな人がいるって気づいて、私に相談してくれたの」

 イミユキナリの好きな人――そんな存在がいるとすれば、透子以外にありえないだろう。

 カゼミチという喫茶店で彼を見たときから、その可能性は考慮していた。

 なにせ彼は、あんなにもわかりやすく、透子に話しかける俺を睨んできたのだから。

「恐らく、気づいてなかったのは君だけだろうね」

「えぇ……?」

 カチューシャの彼はわからないが、やなちゃんというリボンの子が気づいたのなら、きっと永宮も気づいているだろう。

 まあ、透子がその方面に疎いのは仕方あるまい。

 いま考えるべきは、直面している問題をどう解決するかだ。

 イミユキナリが透子に告白したのは、俺の出現も原因の一つなのだろうし。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:46:36.55 ID:4h98r15f0
「透子は彼らの未来を見て、どうするつもりだった?」

 『どうする?』――麒麟館での透子の問いかけが脳内に反響する。

 《未来の欠片》を手段にして現実を変えようとする透子。

 《未来の欠片》そのものを追い求める俺とは違う。

 そんな彼女は一体何を求め、何を願うというのだろう?

「離ればなれにならなくて済む方法を考えたくて……」

 真剣な面持ちでそう答える透子は、やはり、俺とは根本から違っていた。

 離ればなれになりたくない――なんて、俺にはまず思い至らない。

「……叶うかどうかはともかく」

 仲間思いで、純粋で、自分の気持ちに正直で、流されやすく脆そうに見えるのに、その核は頑として堅固。

 仲間と呼べる者はなく、ひねくれ者で、嘘も平気でつけて、自分本位のように振る舞っているのに、中心を覗いてみればそこには何もない。

 別離を繰り返し、そのたびに色々なことを諦めてきた俺と、透子は、真逆の存在。

「何事にも懸命なのは、君の美点だな」

 透子は俺にないものばかり持っている。

 それは、しかし、不思議と嫌な感覚ではなかった。

 ちょうど工房の外からそうしていたように、何事にも一生懸命な彼女を、俺はいつまでも見つめていたいと思った。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 10:56:12.58 ID:4h98r15f0


「ここでいいよ、ありがとう」

 見送りは透子の家の敷地から出たところで固辞した。と、透子に呼び止められる。

「明日、山にみんなで行くの!」

 喫茶店にいたメンバーでハイキング――それがどうかしたのだろう。イミユキナリと会っても気まずくならない方法とかなら、対症療法は思いつくが……。

「沖倉くんも行かない?」

 ……本当に、この子は予想もつかないことばかり言う。

「どうして?」

「えっ!? ……その、こっちに来て友達とか、まだ少ないかなー、とか……」

 純粋な好意からのお誘いだったらしい。

 一瞬、イミユキナリと対決させられるのかとも思ったが、自意識過剰だったようだ。

 まあ、透子にその気はなくたって、俺が飛び入りで参加したら彼は黙っていないだろう。

 もちろん透子の気持ちは嬉しい。が、だからこそ俺はできるだけそっけなく返した。

「山には、一人で登るようにしてるんだ」

 角が立たない言い訳を探したが、咄嗟に思いついたのはこれくらいだった。

 すげなく断られた透子は、あからさまにショックを受けていた。その心細げな俯き顔を見ていると、前言を撤回したくなる。だが、不可能だ。仲良しグループの和をいたずらにかき乱すような真似はしたくない。透子には悪いが――。

「……じゃあ、また」

 後ろめたい気持ちを抱えながら、俺は透子に背を向けた。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:02:03.78 ID:4h98r15f0
 *

 その帰り道のことだった。

『見ろよ、夕日が綺麗だ』

 《俺》に声を掛けられ、俺はそちらから肩を叩かれたように、海へと視線を向けた。

 岸に泊められた船舶の向こうで、赤々と輝く、大きな太陽。

 逆光の中を影絵となって飛び交う、悠然たる鳶。

 絶えることのない波音。

 風に運ばれてくる、強い潮の香り。

『こんないい景色がすぐ横にあるのに、素通りしようとするんだもんな』

 仕方ないだろう、考え事をしていたんだ。

『考え事か。《俺》たちにも黙って、何をそんなに?』

 揶揄うような《俺》の問いに、はっと、胸を突かれたような気持ちになる。

 気づけば、古の哲学者にでもなったみたいに、一心不乱に歩いていた。

 誘いを断り、逃げるように別れてから、ここまでずっと。

 沈みゆく夕日に目をくれることなく、《俺》たちの声に耳を傾けることもなく。

 俺は、ただ、彼女のことを。

 彼女の未来や、願いや、大切な友人たちとの関係について。

 考えていたのは、そんな、他の何でもない。

 透子のことばかりだった。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:20:54.06 ID:4h98r15f0
 †

 自分の名前について調べてみることは、誰でも一度は経験があるだろう。

 俺――沖倉駆も、例に漏れず漢字辞典を開いた口だった。

 『馬』に、『区』。

 意味は、走ること。特に、馬に乗って。

 そこから、馬を追い立てるとか、鞭を打って走らせるとか、強要や排斥といった意味も派生する。

 正直、プラスよりもマイナスのニュアンスが強いように思った。

 同じ『カケル』ならば、『翔』のほうがずっと印象も良くなるのに、とも。

 けれど、学校で『駆』の字を習う頃には、考えが変わっていた。

 俺にぴったりなのは、『翔』ではなく、『駆』なのだと。

 俺は母さんのように大空を翔ぶことはできない。

 置いていかれないように、追い立てられるように地を走るだけで、精一杯。

 そうして必死に駆けていくうちに、何かを取り零し、掴み損ね、欠けていく。

 母さんも父さんも、俺がこうなるとわかって『駆』と名付けたのだろうか?

 いや、そんなわけはない――頭ではわかっているけれど、時々、自信がなくなる。

 自由に飛翔する母さんの姿を間近で見ていると、尚更に。

 俺は『駆ける』ことしかできない、『馬』では空は飛べないのだ、と。

 ため息をついて、ふと、ある思いつきが頭に浮かんだ。

 もし『馬』ではなかったとしたら、俺はどうなっていただろう。

 もしも、俺が『鳥』だったら――?

 ぱらぱらと漢字辞典をめくり、俺はその一字を見つけ出す。

 『鳥』に、『区』。

 ノートの余白に書きつけて、横に『沖倉』と添えてみる。

 ひどく間が抜けているような、ある意味では似合いのその名に、俺は苦笑するしかなかった。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:23:59.70 ID:4h98r15f0
<第4話 坂道>

 庭に張ったテントで寝起きすることにも、少しずつ慣れてきた。

 日が昇り、まどろみの心地よさと、覚醒しようとする意思とが、いつものように戦っていると、

「どうだ、住み心地は?」

 そう、テントの入り口から父さんが顔を出した。

「おはよう。思ったほど悪くないよ」

 少なくとも夏の間は保つだろう。その先のことは――まだ、わからない。

「虫、食わないか」

「ああ。……ん?」

 気遣う父さんの背後から、耳慣れた旋律。

 早朝に聴く、夜想曲。

 それは、日乃出浜に沈む夕日のように。

 あるいは、麒麟館に飾られていた、エッシャーの『昼と夜』のように。

 性質の異なるもの同士の、奇妙な融和だった。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:28:07.43 ID:4h98r15f0
 *

「長いこと、おまえには迷惑かけたな」

 芳ばしく薫るハムを皿に盛りつけながら、父さんはそんなことを言った。

「朝からなんだよ」

「いや、これから一緒に暮らすわけだしな。最初に少し真面目な話をしたほうがいいかと思ってな」

 改まって、なんの話だろう――まあ、候補は限られるが。

 俺は父さん特製の炙りハムに舌鼓を打ちつつ、続きを待った。

「一般的には、親の都合で子供が右往左往させられるのは……」

「扶養家族だし。まあ、ある程度は仕方ないことだよね」

「そう言ってくれると助かるよ」

 父さんの口元がふっと安堵に緩む。しかし、それはすぐ真剣な表情に変わった。

「だが、それも子供が小さくて自立できないときの話だ」

 真面目な話とは、俺の進路のことだった。

 確かに、今までの俺は、父さんの言葉を借りるなら、親の都合に合わせて生活せざるをえなかった。

 だが、高校を卒業して大人になれば、話は別。

 どこで、何をして、どう生きるのか、それは俺自身が決めること。

 わかってる。俺が父さんのところへやってきたのは、それを考えるためなのだから。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:31:39.20 ID:4h98r15f0
 それに、俺なりに、こうしてみたい、という漠然とした希望もある。

 母さんのようになりたい、という気持ち。

 色々な場所を飛び回るような仕事をして、生きてみたい。

 ただ、それ以上のことを考えようとすると、決まって胸の中に暗い靄が立ちこめる。

 迷っている……いや、踏ん切りがつかない、というほうが正しいか。

 不安が拭えない。躊躇いに足を取られている。

 今のままでは、いけない。

 胸に支えるこの気持ちに、どうにか決着をつけなければならない。

 そのためにも、今は彼女の……。



《――一緒に行こう――》



 その《声》は、ごく自然に、俺の耳に届いた。

 優しく、どこかへと誘う、彼女の呼びかけ。

 さらに、



《――違うのかもしれない――》



 暗い部屋で呟くような、不安げな自問。

 またしても、俺は無断で透子の未来の《声》を聞いてしまった。

 油断していた?

 ……いや、むしろ俺は今、望んでいたんじゃないか?

 『未来を見たい』と言った透子が、ほどなくして《未来の欠片》を見たように。

 俺もまた、心のどこかで彼女の《声》を聞きたいと思っていたのではないか――?
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:35:20.74 ID:4h98r15f0
 答えを求めるように、俺は母さんの演奏を再現するオーディオプレイヤーに目を向け、ふと思う。

 俺にとっての《未来の欠片》と、父さんにとってのこれは、似たようなものかもしれない、と。

「いつも聴いてるの?」

 ずっと母さんと一緒にいた俺は、父さんがこの家で一人、どんな風に暮らしていたのかよく知らない。けれど、

「ああ。おまえがいると恥ずかしいんだが……まあ、聴いてるかな」

 少し照れつつも、穏やかに目を細める父さんを見て、俺は同志を見つけたような気持ちになる。

「俺も母さんの演奏の中じゃ、好きなほうかな」

「……そうか」

 きっと父さんは、こんな朝を何度も過ごしてきたのだ。

 離れて暮らしていても、この旋律によって、父さんと母さんは繋がっている。

 二人の子供として、俺はそのことを純粋に嬉しく思った。

 ただ、それと同時に。

 独り立ちの時が迫ってもなお決心がつかず、

 《未来の欠片》という不安定なものしか頼るよすがのない俺は、

 深い繋がりを持つ二人を、心の底から羨ましいと思った。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:38:26.85 ID:4h98r15f0


 朝食を済ませると、俺は出かける準備を始めた。

 透子の誘いを断った手前、というわけではないが、近辺を散策することにしたのだ。

 結論から言うと、その散策で、俺は二つのものに遭遇した。

 そのうちの一つは、人物。

 透子の友人――泣いてしまう未来が見えたという、渦中のリボンの子だった。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:42:49.91 ID:4h98r15f0


 麒麟館近くの坂道を下っていたときのことだ。

 近づいてくる雨の気配に、俺はバックパックから雨具を取り出した。

 そのとき、坂下に見覚えのある女の子の姿を見つけた。

 会うのは二度目で、まともに喋ったことは一度もないが、傘も持っておらず、その上、足を引きずっていた。

 さすがに無視するのは後味が悪い。

「――こっち」

 問答無用で合羽を羽織らせ、ちょうどよく蔦が屋根になっている擁壁の下にリボンの子を案内する。彼女は驚いた様子だったが、状況が状況なのですんなりと俺についてきた。

「……ありがと。一人だったら、やばかったかも」

 礼を言う彼女に、俺はとりあえず名乗ろうとしたが、

「ダビ――沖倉、カケル」

 透子か誰かから聞いたのだろう、彼女は既に俺のフルネームを知っていた。

「君、透子の友達だよね」

「高山やなぎ」

 やはり、この子が『やなちゃん』か。

 幸い、永宮やイミユキナリほどには俺を警戒していないようだ。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:48:04.28 ID:4h98r15f0
「足、つらそうだけど」

「ただの捻挫」

「そんな足で出歩くのは感心しないな」

 つい口調がきつくなって、自分でも少し驚く。

 透子から彼女が『泣いてしまう』と聞かされていたからだろう。

 軽率な行動を咎める気持ちが声に出てしまった。

 なぜなら、彼女が悲しめば、透子が悲しむ。

 俺は透子が悲しむ姿を見たくなかった。

「……カケル、って変な名前」

 俺の小言に反発してか、高山は揶揄うようにそんなことを言った。

 ひとまず、さほど気分を害した様子はないことに安堵する。

「やなぎ。いい名前だ。ひらがな?」

「漢字だと幽霊みたいだから、ひらがな」

 『柳』ではなく、『やなぎ』。

 彼女の名付け親が、どんな思いを込めたのか、想像を巡らせる。

「しなやかにして強靭」

「へ?」

「ひっそりとしてしたたか」

「あっ、それって――」

 名前を褒められたと思ったらしく、高山は少し笑顔を見せ、今度は俺の名前を話題に挙げた。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 11:52:51.19 ID:4h98r15f0
「カケルって――」

「馬偏に区」

 誤った変換をされないように、食い気味に答える。

 『翔』ではなく、『駆』なのだと。

「馬を走らせるとか、追い立てるとか、そういう意味。もしかしたら、名付け親は何かの欠如という意味も付加したかったのかも」

「親は子の名前にそんな意味かけたりしないと思うけど」

 もちろん、俺だってそんなことはわかっている。

 高山も「当たり前じゃない」と明朗な声で否定してくれる。しかし、

「……そう、かな」

 現に俺は今、自分が不完全であると感じる。

 何かが欠けている――そんな感覚が、影のように付き纏う。

「雨が、上がる……」

 降り始めと同様、急速に過ぎ去る雨脚。

 空を見上げれば、散らばる雨滴に光が反射して、きらきらと輝いている。

 透子なら、こういった光景でも《未来の欠片》が見えるのだろうか。

 今頃どこかで、同じように雨上がりの空を見ているだろうか。

 透子に会いたい……。

 そう、俺が思っていると。

「あっ、これありが――痛っ」

 合羽を返そうとした高山が、体勢を崩してこちらに倒れてくる。

 咄嗟にその身体を支えながら、俺は心の中でため息をついた。

 今この瞬間に透子と鉢合わせたら、不本意な誤解を生みそうだな……と。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:17:32.32 ID:4h98r15f0
 †

 そこは、誰からも見落とされたような場所だった。

 それでいて、誰かに見つけられることを待ち望んでいるような場所だった。

 山歩きの途中、引き寄せられるように、俺はその高台に辿り着いた。

 四方に解放されているのに、立ち寄る人はなく、閑散としている。

 重荷になるから途中で捨ててしまったみたいに、特別なものは何もない。

 そんな寂しげなところなのに、不思議と気が落ち着くのは、たぶん、ここが俺によく似ているからだろう。

 一人で考え事をするにはうってつけの場所だ、と思った。

 でも、実際に草の上に寝転がって、木漏れ日を浴びながら、ぼんやりと過ごしてみると。

 隣に誰かいてくれたら、とも思う。

 ……いや、誰か、なんてはっきりしない言い方はよそう。

 ここに深水透子がいてくれたら。

 風の音に耳を澄ませながら、俺は彼女のことを思った。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:27:28.54 ID:4h98r15f0
<第5話 日乃出橋>

 通り雨の日に高山と話をしてから、数日。

 工房で会って以来、透子から連絡はない。

 ゆえに、高山を泣かせてしまう、という件がどうなったのか、俺はわからないままだった。

 かといって、俺の都合で透子を呼びつけるのも気が引けた。

 恐らくだが、高山を泣かせてしまうことと、透子がイミユキナリに告白されたことは、無関係ではない。

 透子とその友人たちの人間関係に、何かしらの変化が生じている。

 発端はどう考えても、俺が透子に声を掛けたことだ。

 透子は『離ればなれになりたくない』と言った。

 透子がこの街で積み上げてきた交友関係。

 部外者の俺が不用意に透子に近づけば、彼女が大切にしているものを壊しかねない。

 事態が落ち着くか、あるいは透子から連絡があるのを待つしかなかった。

 そうして晴れない気持ちのまま山歩きに出かけ、帰りに駅の近くを通りかかった――そのときだった。

「っ……!」

 振り返れば、何やらただ事ではない様子の、高山やなぎがそこにいた。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:29:54.98 ID:4h98r15f0
 *

 高山に案内されてやってきたのは、急な階段の上にある小さな神社だった。

 日陰になっている社の軒下、礎石に腰を下ろし、俺は高山が何か言い出すのを待った。

「こないだは、ありがと」

「そんなこと言うために、わざわざ息切らせて追いかけて来たのか?」

 当然そんなことはなく、高山は静かに切り出した。

「……話を少し聞いてほしくて。あなたならあるでしょ? 美術室のデッサン用の石膏像に話しかけて、自分の気持ちを整理したりしたこと」

「ないけど」

「透子はあるって」

 ……揶揄われているのか、これは。

「じゃあ俺は返事しないでもいいわけ、かな?」

 石膏像扱いに不満を呈してみるが、返答はない。

 振り向くと、高山は何かの決心がついたように、顔を上げた。

 俺は要望に従い、黙って聞くことにした。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:33:37.85 ID:4h98r15f0
 *

 高山がまず話してくれたのは、井美雪哉のことだった。

 彼は陸上部で、一年の夏に足を怪我して以来、リハビリ中なのだという。

 今日は記録会があり、高山はそれに付き合って会場まで行ったようだった。そして、結果はというと――。

「あんまりよくなかった」

 悔しそうな表情で、高山は言う。

 俺は一度だけ見た、井美雪哉の走る姿を思い浮かべた

 それこそ翔ぶように、力強く駆けていた背中。

 あれで『リハビリ』だというのだから、怪我をする前の彼はきっと有望な選手だったのだろう。

 怪我から回復したことも含めて、彼がどれだけ陸上に打ち込んできたのかは、素人の俺にも察せられる。

 ただ、競技の世界は、結果が全て。

 今は夏で、彼は高校三年生、最後の大会も近いはずだ。

 本人も、傍らで支えてきたのだろう高山も、焦りを覚えて当然だと思う。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:38:52.68 ID:4h98r15f0
「未来が見えるといいのに」

 思わず、俺は高山のほうに振り返った。

 透子から何か聞いたのだろうか――そう思ったが、

「ユキは……すごい不安だと思う。みんな未来が知りたいもんだよね」

 高山の口ぶりから、ごく一般的な仮定の話だとわかり、俺は落ち着きを取り戻す。

 それにしても……『未来が見えるといいのに』か。

 現在の自分が直面している問題。

 未来が見えれば、それを解決することができる。

 透子はきっとそう考えている。だから《未来が見たい》と、彼女は言った。

「……ほんとに喋らない気なの?」

 黙考していたら、高山が呆れたように声を掛けてきたが、俺はわざと返事をしなかった。

 正直、先の見えない不安に駆られているのは俺も同じなので、的確なアドバイスができるとも思えない。

 それに話題が話題だ。《未来の欠片》について口を滑らせないとも限らない。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:42:28.34 ID:4h98r15f0
 そうして俺がだんまりを決め込んでいると、高山は諦めたように俺から視線を外して、

「ううん、ウチは見ない」

 決然と、そう宣言した。

 それは、小さな池に投げ込まれた石のように、俺の胸に波紋を広げる。

 未来を見ない――仮に未来が見えたとしても、彼女はそれをしないという。

 俺は横目で高山を見る。毅然と前を向く姿が、とても眩しく映る。

 透子の見た未来では、『泣いてしまう』らしい彼女。

 しかし、彼女ならば、たとえ悲しみに涙しても、それを乗り越え、前に進めるのではないだろうか。

 その名のように、しなやかに、強靭に、したたかに。

「…………」

 俺は何も言えなかった。もちろん石膏像だからではない。

 強くあろうと胸を張る高山の姿に、胸を打たれたからだ。

 同時に、そんな高山が特別な感情を抱いているのだろう、井美雪哉についても。

 彼もまた挫折を経験し、今も苦しい状況にありながら、それでも走り続けている。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:46:31.59 ID:4h98r15f0
 それに比べて、今の俺はどうだ……。

 透子に迷惑をかけるかもしれないから、連絡を待つしかない――本当にそれでいいのか?

 透子を思い遣っているようで、その実、透子に会って何かを変えるのが恐くて、二の足を踏んでいるだけじゃないのか……?

 とどのつまり、自分の気持ちに自信がないから。

「ウチ、ユキに告白するつもり」

 ぐだぐだと迷う俺の耳に、またしても高山の毅然とした宣言が響く。

 井美雪哉は透子に思いを伝えた――恐らくはそれを承知の上で、高山は井美雪哉に思いを伝えるという。

 その堂々とした姿に感化されて、迷いが晴れる。

 高山はさらに話を続ける。すると、おあつらえむきに透子に伝言を頼まれた。

 背中を押してもらったばかりか、口実まで与えられる。

 雨合羽の礼には釣り合わない気もするが……さておき。

 家に帰ったら、透子に電話を掛けよう。

 そう、俺は決めた。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:49:30.86 ID:4h98r15f0


 家に帰ると、父さんがきまりの悪そうな顔で待っていた。

「さっき、女の子からおまえに電話があったぞ」

 透子だ。間違いない。

「私をおまえだと思ったみたいでな。『あの夜に言われたこと』がどうこうって……結果的にだが、おまえたちのプライベートに立ち入ってしまった。しかも相手は若い娘さんだ。本当に申し訳ない」

 電話を取った相手を確認せずに喋り出す透子の姿が目に浮かぶ。そして、相手が俺ではなく父さんだとわかったときの、頓狂な反応も。

「お詫びと言ってはなんだが、ちょうどおやつどきだし、軽食でもご馳走しようと思うんだ。ついては、駆……今から彼女をうちに招待してはどうだ? 彼女もおまえに用があるようだったしな。もちろん、おまえと彼女さえ良ければだが」

 なんだかんだ言って、父さんも透子に興味があるらしかった。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 12:52:44.34 ID:4h98r15f0


 父さんから話を聞いてすぐ、俺は透子にリダイヤルした。ちなみに父さんは気を遣ってリビングから出ていった。

『はい、深水ですけど』

 電話越しだが、本物の透子の声。久しぶりに聞くような気がする。

「やあ。さっきは留守しててごめん」

『あっ、いや……あの、さっき』

「若い娘さんに申し訳なかったって、親父が謝ってたよ。俺からも」

『私が勝手に間違えただけだから……』

 少し間が空く。俺は小さく息を吸い込み、なるべく自然な調子で尋ねた。

「今からうちに来ないか?」

『えっ?』

「もし君に時間があるなら、親父がお詫びに手料理ご馳走したいってさ」

『手料理!?』

「親父、一人暮らしが長かったんで、料理うまいんだ」

『いや、でも――』

「俺になんか用だったんだろ?」

『えっ……それは、そうなんだけど』

 気後れしているのか、遠慮がちな透子。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は押しの一手で続けた。

「俺も君に、伝えなきゃならないことがあるし」

『――え?』

「うち、わかる?」

『あっ……わからない……』

 そうして半ば強引に、俺は透子を家に招いたのだった。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:02:17.07 ID:4h98r15f0


 透子に電話を掛けてから、一時間ほどして。

 俺と透子は、俺の部屋という名のテントが張られた庭でコーヒーを飲みつつ、父さんの料理が出来上がるのを待っていた。

「……あの」

 話を切り出したのは、透子が先だった。電話で父さんに話したことかと思ったが、どうも違うらしかった。

「こないだ、ほら、にわか雨の日、麒麟館の坂道で……」

 躊躇いがちに言って、俯く透子。

 彼女がなんの話をしたいのかはすぐにわかった。

 まさか本当に目撃されていたとは。しかも案の定、あらぬ誤解をされているらしい。

「……見てたのか。でも俺は高山を抱きしめてたんじゃない。支えてたんだ」

 努めて淡々と、言い訳がましくならないように注意しながら――途中、透子が何か呟いたような気もしたが――俺は続けた。

「彼女、足を痛めてて。知ってるだろ? で、坂道でこけそうになって――」

 ちらりと透子の反応を伺う。ものすごい形相でこちらを睨んでいた。

 ……誤解は解けたのだろうか? 定かではない。が――、

「ま、大したことじゃない」

 この話はここで終わらせるのが最善だというのは、いくら俺でも理解できた。

 それに、大したことじゃない、というのは実際その通り。

 ちょうど高山の話が出たことだし、大したことがある用件のほうを話すとしよう。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:04:19.57 ID:4h98r15f0
「でも、今日来てもらった俺のほうの理由は、その高山のことなんだ」

 昼間に石膏像として聞いた内容を、俺は一息に告げる。

「高山、井美雪哉に告白するらしい」

「…………え?」

 透子は、ぽかん、と口を開けた。どうやらうまく伝わらなかったらしい。俺は放送委員にでもなったつもりで、同じことを繰り返す。

「だから、高山が、井美雪哉に告白するらしい」

 やがて理解が追いついた透子は、ひどく混乱した様子で声を張り上げた。

「なにっ!? なになに!? どうしてやなちゃんのそんなこと知ってるの!? 未来を見たの!?」

「本人から聞いた」

「ええっ!?」

「君に伝えてほしいと頼まれた」

「えええええーっ!?」

 慌てふためく彼女の姿は――透子には悪いが――とても可愛らしかった。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:09:30.03 ID:4h98r15f0
 *

 ひょっとすると、俺は気恥ずかしかったのかもしれない――というのは、後から気づいたことだ。

 高山からの伝言を透子に伝えると、途端に俺の口は、チェーンの外れた自転車のように回らなくなった。

 食事の席について、父さんがいたから話しにくいというのもあったのかもしれないが……。

 本来、高山の伝言は口実に過ぎず、俺自身が透子に伝えたいことがあったはずなのに。

 思いがけず聞こえてくる透子の《声》について話したかった。

 あの夜から今まで、透子が何を考えて過ごしてきたのか訊きたかった。

 《未来の欠片》のことを深く知るために、また透子に力を貸してほしかった。

 あるいは、もっとプライベートなことも――井美雪哉の告白にどんな返事をしたとか――知りたかった。

 結局、透子との会食は、父さんが話すのに相槌を打っているうちに終わった。

 料理に満足している透子の顔が見られたのは嬉しかったが、これではただの伝言係だ。

 何か言わなければ。

 他の誰かではなく、俺自身のことを、伝えなければ。

 このまま付かず離れずの距離でいたって、何も変わらない。

 踏み出して、踏み込んでみようと、決めたはずだろう――。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:12:34.86 ID:4h98r15f0
「なんかすっかりご馳走になっちゃって」

 見送りの玄関、靴を履き終えて、扉の前に立つ透子。

「お邪魔しました」

 何を躊躇う? 何を怖がる? いつまで同じことを繰り返す?

「それじゃ……」

 なんでもいい、透子に伝えたいこと、聞かせたいこと、本当はたくさんある、そのたった一つでいい――。

「――こないだ、面白い場所を見つけた」

 前置きもなく切り出すと、扉に手を掛けた透子が、「ん?」と振り返る。

「すぐ近くなんだ。見つけたとき、どうしても君をつれていきたくて、いつか誘おうと思ってた。これから行ってみないか?」

 決心が鈍らないよう、俺は一気にまくしたてる。

 その勢いが功を奏したのか、透子は、うん、と小さく頷いた。

「……待ってて。すぐ用意する」

 必要なものを取りに、俺は家の中へ引き返す。

 心臓がどくどくと高鳴っているのは、きっと、無駄にばたばたと動いたせいばかりではない。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:17:09.41 ID:4h98r15f0
 *

 そこは、あの通り雨の日に、たまたま遭遇した二つのうちの、もう一つ。

 家から山のほうへ少し歩いたところにある高台、木々がまばらに生えた、開けた場所。

 そこだけ人の目から見落とされたような、ひっそりとした空間。

 道も通ってなければ、ベンチの一つも置かれていない。

 それでも、葉の擦れ合う音や、野鳥のさえずり、木漏れ日の暖かさが、俺をとても穏やかな気持ちにしてくれる。

 なんて、言葉ではうまく説明できる気がしなくて、とにかく俺についてくるよう透子に言って、あとはひたすら無言で歩き続けた。

 やがて、目的の場所に辿りつく。

 そよそよと風が吹き、さわさわと木々が囁き合う。

「……あっ……」

 後ろをついてくる透子が、静かに息を飲んだ。

 たぶん、ここを気に入ってくれたのだろうと思う。

 そのことに俺はひどく安心し――情けないことに――その瞬間に緊張の糸が切れてしまった。

 しかし、気持ちはいくらか上向いたように思う。

 自分にとって特別な場所を、自分にとって特別な存在が、受け入れてくれた。

 それだけで何か得がたい繋がりを手にしたような気持ちになる。

 事ここに至っては言葉など不要――いや、飾らずに言おう。

 今の俺の対人能力では、これが精一杯だった。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/07(日) 13:21:28.27 ID:4h98r15f0
「………………」

 何も言わず、俺は草の上に寝転がり、目を閉じる。

 すると、それがここでの作法と思ってくれたのか、透子も同じように横になった。

 夏草のベッドがさわさわと涼やかな音を立てる。

 風に乗って透子の呼吸が伝わる。

 緊張から解放された心地よさと、透子がそばにいる安心感で胸がいっぱいになる。

 ほどなくして、俺はまどろみの中へと落ちていった。



 ……そうして、どれくらい経っただろう……。



 指先に何かが当たったような感触がした。

 がさがさ、と透子が慌てて起き上がる音が聞こえる。

「ん……?」

 俺が目を開けて身体を起こしたときには、既に透子は立ち上がっていた。

「今日はありがとう。すっごくおいしかった。お父さんによろしく。私このまま帰ります。さようなら」

 箇条書きにされたメモを読み上げるように言って、透子はぱたぱたと元来た道を走っていく。

 俺は何か言わなければと口を開くが、結局、ぼんやりと見送ることしかできなかった。

 透子を引き留めるための適切な言葉が出てこなかった。

 でも、それも当然かもしれない。

 確固とした理由や口実なんて、初めからありはしないのだから。

 ただ、もう少し君とここにいたかった――なんて。

 俺の胸にあったのは、そんな漠然とした気持ち一つ。

 そんなもの、そのまま本人に伝えられるはずもなく。

「……透子の用事、まだ聞いてないぞ」

 もう見えない透子の背中に向かって、ぽつりと、俺は未練がましく呟いた。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 11:37:03.76 ID:W+HAaMa50
 †

 あの夏祭りでの出来事は、俺のその後に大きな影響を与え、また様々なものをもたらした。

 そのうち一つは、不思議な《声》――《未来の欠片》。

 もう一つは、《俺》という存在だ。

 初めて《俺》が現れたのは、移動中だった。

 古い街を去り、新しい街へ向かう道すがら。

 俺は母さんの運転する車の助手席で、あの夏祭りのことや、その帰り道で聞こえたよくわからない《声》、そしてその《声》が時を置いて実際の俺自身の声になったことなんかを、とりとめもなく考えていた――そのときだった。

『あの《声》は、先のことを暗示する予知夢みたいなものなのかもな』

 サイドミラーに映る自分が、こちらに向かって話しかけてきた。

『もしくは、俺の秘められた能力が目覚めたのかもしれない』

 その《俺》は、俺の頭の中の、浮かんでは沈む思考の断片を掬っているようだった。さらに、

『未来の《声》をラジオのように受信する力、とかか?』

 最初の《俺》とは微妙に違う《俺》が、《俺》と意見交換を始める。

 《俺》たちの議論を聞くうちに、俺は自分の中で考えが整理されていくように感じた。

『まあ、なんにせよ情報が足りないな』

『同じようなことがまた起きれば、いずれあれがなんなのかもわかるだろう』

 それからというもの、《俺》たちはわりと頻繁に現れるようになった。

 あの《声》に《未来の欠片》という名称をつけたのも、《俺》たちがきっかけだった。

 今となっては、《俺》たちは俺の一番の友人といっていいくらい、ごく自然に俺とともにある。

 何か大きな問題に直面したときや、一人では抱えきれない感情の揺らぎが生じたときに、俺と《俺》たちはその負荷を等分して、俺自身の負担を軽減する。

 透子が、何かややこしい出来事があると、急に饒舌になって動揺を紛らわせようとするのと同じ。

 胸に収まりきらない気持ちを、それでも自分の中に閉じ込めようと、足掻いた結果なのだった。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 11:44:25.46 ID:W+HAaMa50
<第6話 パンチ>

 透子に驚愕されたテント生活だが、利点を一つ挙げるなら、目覚まし時計が要らないことだろう。

 なにしろ幕一枚隔てた先は屋外だ。自然と、日の出と目覚めが同期する。

 いつものようにのそのそとテントを出て、庭の水道で顔を洗う。

 すると、水音に交ざって、ピアノの音色が耳に届いた。

 栓を締めて水を止める。リビングから漏れるのは、母さんの夜想曲。

《――駆くん――》

 聞こえてくる《未来の欠片》――透子の《声》。

 下の名前で呼ばれたことなど一度もないのに、不思議としっくりくる。

 これは確定した未来だろうか?

 それとも、俺の願望だろうか?

 浅い眠りから目覚めた朝に夢の続きを求めるように、俺はピアノの音のするほうへ向かう。

 リビングに上がると、父さんがパイプをくゆらせていた。

「おはよう」

「おはよう。起こしたかな?」

「……いや」

 なおざりな返事をして、俺はオーディオプレーヤーに目をやり、耳を澄ます。

《――そこにいたの?――》

 弾むような、透子の《声》。

《――探しちゃった――》

 ……自分でも、よくわからない。

《――俺はずっとここにいた――》

 俺は《未来の欠片》を聞きたいのか?

 それとも、透子の声を聞きたいのか?

 いくら《未来の欠片》に耳を傾けても、答えは出てきそうにない。

「ん……?」

 プレーヤーを見つめたまま佇む俺に、父さんが不思議そうに首をかしげる。

「……まだ、少し眠いかな」

 考えが纏まらない言い訳のように、俺はそう返した。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 11:48:25.82 ID:W+HAaMa50
 *

 その日、俺は午前中と昼過ぎの二度、透子に電話を掛けた。

 会う約束を取りつけるつもりだったが、一度目は慌ただしく切られ、二度目も要領を得ないまま早々に切られてしまった。

 父さんが「何かやったんじゃないか?」なんて言ったせいで、もやもやと落ち着かない時間を過ごす羽目になった。

 例の高台まで行って考えを整理したいが、透子から電話がかかってくるかもしれないと思うと、家を動けない。

 ……俺も持つべきなのだろうか、携帯電話。

 なんて益体もないことを考えていた、そのときだ。

 玄関のベルが、何者かの来訪を告げる。

 透子だろうか、と期待を抱きつつ、俺は努めて冷静にインターフォンに出た。

 返ってきたのは、硬く強張った、低い声。

「井美といいます」

 ――嫌な予感しかしなかった。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 11:53:20.77 ID:W+HAaMa50
 *

 外で話したい、と言った井美雪哉は、要件はおろか、どこに行くのかも告げずに、ひたすら俺の前を歩き続けた。

 そうしてやってきたのは、例の急な階段の上にある神社。

 井美雪哉は俺に背を向け、海を眺めながら言った。

「本当はおまえなんて呼びたくねえんだ」

 無愛想で、ぶっきらぼうな第一声。案の定、愉快な会話にはなりそうになかった。

「……なら、呼ばなければいいじゃないか。なんの問題が?」

「やりたいこととやりたくないことだけで世の中回ってねえんだよ」

「そうか……。で、なに?」

 背中に問いかけると、井美雪哉は感情を押し殺したように告げた。

「いつもの面子で花火をする。それのお誘いだ」

 いつもの面子――つまりは井美雪哉と、高山と永宮、カチューシャの彼、そして、透子。

「……なるほど。君は誘いたくないけれど、理由があって仕方なく誘いにきたってことか」

「そう」
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 11:57:00.91 ID:W+HAaMa50
 状況的には、以前に透子からハイキングに誘われたときと同じ。答えは決まっていた。

 ただ、今回は相手が井美雪哉――気を遣う必要もないので、俺はあけすけに突っぱねる。

「なら断るよ。わざわざ波風を立てる必要もないだろ」

 俺が関わりを持ちたいのは透子だけだ。仲良しグループの和を乱すつもりはない――もう手遅れかもしれないが。

「おまえが来た時点で波風立りまくりだよ」

 苛立ちを隠さず、事実を告げる井美雪哉。

「……そうだろうな」

 後ろめたさは、もちろんある。

 俺さえ現れなければ、きっと彼らは今頃――あの日喫茶店でそうしていたように――五人で仲良くだべって、ハイキングや海水浴の計画を立て、高校生最後の夏休みを楽しく過ごしていたのだろう。

 全ては、俺が《未来の欠片》を――透子を求めたから。

「知っててやってるのか?」

「……ある程度は」

 俺の投げやりな物言いに神経を逆撫でされたのか、とうとう井美雪哉が振り返った。

「楽しいか?」

「楽しいわけないだろ。……副次的なものだ。君同様、やりたくてやってるわけじゃない」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:03:57.56 ID:W+HAaMa50
 俺が透子に関わり、透子の友人関係に変化をもたらす可能性は、考慮していた。

 それでも、引き下がるという選択肢はなかった。

 透子は、俺がずっと探していて、やっと見つけた、《未来の欠片》を解き明かす鍵。

 否、《未来の欠片》のことを抜きにしても、今や透子は俺の中でとても大きな存在になっている。

 彼女から手を引くつもりはない。

 井美、高山、永宮――君たちに配慮はしても、遠慮はしない。

「なんだよ、それ……っ」

 歯切れの悪い言い回しばかりの俺に業を煮やしたのだろう、井美雪哉が声を荒らげる。

「透子との関係はなんなんだ!? おまえ透子の気持ちに気づいてねえのかよ!?」

「っ……!!」

 なんだよ、それ――瞬間、そっくり言い返してやりたくなった。

 透子との関係?

 透子の気持ち?

 そんなもの……俺だって知りたいくらいだというのに。

「――透子からは、何も聞いていない」

 透子が俺をどう思っているのか。

 透子が俺に何を求めているのか。 

 透子は俺とどうなりたいのか。

 そもそも、透子の中で俺は、どれほどの存在になれているのか。

 大事なことは何も話せていない。

 それどころか、俺自身の透子に対する気持ちだって、はっきりと言葉で表せているわけではないのだ。

 俺は透子をどう思っていて、透子に何を求めていて、透子とどうなりたいのか――?

 自分でもよくわからない。

 それに、これがもし仮に、透子と答え合わせをして、全てを理解できたところで、だ。

「君に言う必要もない」

 それは俺と透子の問題であって、井美雪哉――君には関係がない。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:11:21.45 ID:W+HAaMa50
「おまえ……っ!」

 ほとんど挑発のような俺の言葉に、井美雪哉の顔がみるみると気色ばむ。

 睨み合いは数秒続いた。先に目を逸らしたのは俺だった。

 花火とやらには参加しない。用件は済んだ。もう彼と話すこともない。

「おいっ、待てよ!」

 立ち去ろうとしたが、井美雪哉に肩を掴まれる。

 その力があまりに強く、直接的な痛みに、俺もとうとう我慢の限界がきた。

「――高山から告白はされたのかい?」

 振り向いて、彼を狼狽させるのにうってつけの一言をぶつける。

「っ……!?」

 目に見えて動揺する彼に、残酷な気持ちが湧き上がってくる。

 それは、羨望であり、嫉妬だった。

 この街でずっと暮らしてきた彼らに対する、羨望と嫉妬。

 透子の隣に寄り添って、彼女を外敵から守ろうと立ちはだかった永宮。

 透子のことを近くから見てきて、自然に恋愛感情を抱くことができて、想いを告白することができた井美。

 そんな井美雪哉に好意を持ち、傍らで支え続け、一方で透子とも親しい友人のままであろうとする高山。

 当たり前のように一緒にいて、当たり前のように想い合う。

 そんな当たり前の絆で結ばれている彼らが、羨ましく、妬ましい。

「まさか、まだ返事をしていないってことは――」

 どろどろとした気持ちが、棘だらけの言葉となって吐き出される。

 そして気づいたときには……。

「っ――!!」

 目の前が真っ白な光で埋め尽くされる。

 それが引くと、今度は視界いっぱいに青空が広がった。

 じわじわと頬が熱を持つ。井美雪哉に殴られたのだと、理解した。

「…………っ」

 身体を起こし、口元を拭う。鋭い痛み。手の甲を見れば、掠れた血の跡。

 しかし、涙も、ため息も、恨み言さえ出てこない。

 わかりきったこと。

 こんなのは、最悪の、自業自得。

 今の俺は――正真正銘の、バカだった。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:43:08.86 ID:W+HAaMa50
 *

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、乱れた心中はなかなか治らなかった。

 じっとしていても仕方がない――俺は足元に気をつけながら、急な階段を下りていく。すると、

「あっ……」

 間がいいのか悪いのか、息を切らした透子と出くわした。

 心配そうに揺らいでいた視線が、俺の頬のあたりでぴたりと止まる。

「……どうしたの、それ?」

 君を巡って井美雪哉と揉めた、とはさすがに言えない。

「とりあえず、痛かった」

「なんでこんな……」

 透子は困惑しながらも、すぐに事情を察して、驚愕に目を見開いた。

「まさか、まさかまさか、ゆきくんに……?」

 ああ、と俺は頷く。ひどい……、と透子は震える声で呟いた。ショックに青くなっている顔を見て、俺は白状する。

「いや、俺が言い過ぎたんだ」

「えっ?」

 俺が井美雪哉を擁護したように聞こえたのか、透子は意外そうな声を上げる。俺はさっさとこの話を切り上げたくて、微妙に話題をズラした。

「高山は彼に、自分の気持ちを伝えたみたいだね」

 しかし、透子は悲しげに俯いてしまう。

「私、ゆきくんにひどいことしてるのかな……」
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:47:02.52 ID:W+HAaMa50
 思いつめたように、井美雪哉のことを案じる透子。

 俺の胸にまた暗い靄が立ちこめる。

 部外者の俺は、透子たちの過ごしてきた日々を何も知らない。

 俺は透子たちの現状、それぞれの感情が縺れ合う今を、総合的に分析できるだけの材料なんて持ち合わせていない。

 だから、透子が井美雪哉にしているのがひどいことなのか――俺には評価しようがない。

「……どうだろ」

 考えが纏まらない。

 俺は何がしたいのか。どうしたらいいのか。

 ずっと《未来の欠片》の本当の意味を知りたいと思っていた。

 透子と出会って、その答えに手が届くと思った。

 それがいつしか、《未来の欠片》は、まるで透子に会うための口実のようになって。

 今の俺は、透子に特別な感情を抱いているように思う。

 けれど、それは伝えていいことなのか?

 透子には大切な友人たちがいて、俺はそこに要らぬ波風を立てる部外者で、彼らが悲しめば透子も悲しむ。

 俺は透子とどうなりたい?

 そして肝心の――透子は、俺をどう思っている?

「実は最近……色んなことがよくわからないんだ」

 《未来の欠片》のこと、俺のこと、透子のこと。

 わからないことばかりが増えていく。

 全ては、透子に出会ってからだ。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:48:29.69 ID:W+HAaMa50
 *

「うちに寄っていかないか?」

 自転車を押しながら後ろをついてくる透子に、俺は言った。

「……え?」

 深い意味はない。俺は透子を安心させるように、言葉に微笑を含めた。

「父もいるよ」

「あっ……、うん」

 そう、深い意味はない。

 ただ、透子と、もう少し一緒にいたいだけ。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 12:56:40.24 ID:W+HAaMa50
 *

 家の扉を開けると、玄関に女性物のパンプスが置かれていた

 それに、リビングからうっすらと聞こえてくる、華やいだ声。

「母だ……」

 俺が日乃出浜にやってきてから、母さんが家に立ち寄るのはこれが初めてだった。

 俺の声色に驚き以外の感情を読み取ったのだろう、透子は優しく微笑む。

「私、今日は帰るね」

 ほとんど反射的に、俺はその腕を掴んでいた。

「っ……?」

 咄嗟のことで、言葉が出てこない。

 透子をむりやりに引き止めて、俺は――一体、何を言うつもりだった……?

「透子――」

 リビングから漏れ聞こえる、母さんの生演奏。

 振り向いた透子の、驚きに大きくなった瞳に、吸い込まれそうになる。

 そして、次の瞬間――。



《――俺は見つけたのか――》



 俺の《声》――透子が息を飲む。彼女にも聞こえたのだ。

 俺はそのまま透子をつれて家を飛び出した。

「どこ行くの……?」

 どこか、どこでもいい、とにかく母さんの演奏が聞こえないところまで。

 《未来の欠片》が聞こえないところまで。

 おかしな話だ。俺は《未来の欠片》が聞きたくて透子を求めたはずなのに。

 今、この瞬間は、透子に未来の俺の《声》を聞かれたくない。

 未来の俺が透子に何を伝えるにしろ、それは今の俺が透子に伝えなきゃいけないことだから。

 今はまだ、何を伝えたらいいのかさえわかってない今は、未来なんて知りたくもない。

 俺は透子をどう思っていて、透子とどうなりたいのか――?

《――やっと見つけた――》

《――俺はずっとここにいた――》

《――俺は見つけたのか――》

 今までに聞こえた俺の《声》が、耳の奥に反響する。

 思考の断片や感情の破片が、頭の中に次々に湧いては散らばって、何一つ纏まった形になりやしない。

 わからないことだらけだ。

 でも、一つだけ、はっきりしていることがある。

 なんであるにせよ、答えはきっと、今の俺自身で見つけなければいけないんだ。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:00:37.07 ID:W+HAaMa50
 *

 例の高台までやってきて、乱れた息を整えると、俺は草の上に寝転がった。

 透子は俺の隣に腰を落ち着けて、同じように呼吸を整えている。

「ここに来ると、落ち着くんだ」

 ようやく人心地つけた気がして、俺はそうこぼした。透子も笑顔で同意してくれた。

「……わかるよ」

 透子は足を伸ばし、空を見上げて尋ねてきた。

「お母さんって、どんな人?」

「そうだな……一か所に留まらない人かな。職業柄なのか、人柄なのか、わからないけど」

「活発な人なんだね」

「幼い俺には、母が何をしても正しいことをしているように見えた――なんていうと、マザコンなのかな」

「まさか。私もそう思うときあるよ」

 風が吹き抜ける。俺は透子の様子を伺いつつ、間を埋めるように、聞きそびれていたことを訊いた。

「二度も電話したけど、例の透子の用事、そろそろ教えてくれないか?」

「ごめん、二回とも、ちゃんと話せなくて……」

 透子は少し硬い声で語り出す。

「さっちゃん、入院するんだって。さっちゃんは検査入院だから心配ないって言うんだけど、入院してる未来も見ちゃったし」

「……心配、なんだな」

「うん……」

 友達思いで、懸命で、優しい透子。

 透子はいつも他人の心配ばかりしているように思う。

 高山のこと、永宮のこと、井美のこと。もしかしたら、カチューシャの彼のことも。

 しかし、なら、俺のことは……?

 透子は、突然現れた俺のことを、どれほど気にかけてくれているのか?
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:06:03.49 ID:W+HAaMa50
 そう疑問を抱いた直後、無粋な電子音が穏やかな空気に割って入った。

「あっ――もしもし、ゆきくん?」

 電話の相手は、井美雪哉らしかった。

「……沖倉くんを殴ったことでしょ?」

 二人は俺の話をしているらしい。「いま一緒にいる」と透子が言ったところで、俺は透子から彼女の電話を取り上げた。

「えっ?」

 突然のことにぽかんと固まる透子。俺は電話の向こうの井美雪哉に、一方的に告げる。

「校庭に来い。はっきりさせよう」

 そして彼の返事も聞かずに通話を切った。

 ――はっきりさせよう。

 思わず、失笑したくなるような、安っぽい台詞だ。

 それは、確固たる意志で以って前に進もうという、勇ましい決意表明なんかでは、決してない。

 後に引けない状況に自らを追いやることで、無理にでも答えを出そうという、姑息な売り言葉。

「……透子は俺の味方だろ?」

 不安に胸がざわつき、尋ねる。

 困惑する透子からの答えはない。

 それでも、もう後戻りはできない。

 俺はほとんど自棄になって、大股に歩き出した。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:11:42.55 ID:W+HAaMa50
 *

 俺と透子が学校に着いたとき、井美雪哉は既に校庭にいた。

 俺は、決闘に向かう闘技者というよりは、法廷に立たされる被告人のような気持ちで、彼の前に立つ。

 透子はどうしていいのかわからずにおろおろしていた。時折校門のほうに目をやるのは、途中で電話を掛けていた高山を待っているのだろう。

 一触即発の危うい空気が漂う中、最初に言葉を発したのは井美雪哉だった。

「突然殴ったことは謝る。悪かった」

 正々堂々、筋は通すとばかりに、彼は手を出したことを謝罪した。

 むろん、あのとき俺は殴られるようなことを故意に口にしたわけで、そこに関して彼を咎めるつもりはない。

 ただ、せいぜい状況は利用させてもらう。悪く思うなよ、井美雪哉。

「あっ、やなちゃん!」

 透子の声で高山が来たことを知る。これで役者は揃った。

「……本当に悪いと思っているなら、俺と勝負しないか?」

 そう切り出すと、井美雪哉は俺の意図を探るように目を細めた。

「ちょうど、ここにはいいグラウンドがある」

 井美雪哉は俺の言わんとすることを理解し、ぴくりと眉根を寄せた。

「っ……走る? おまえが、俺と……?」

「君が本気になれるのは、走ることくらいだろう」

「っ――!?」

 暗に、今の彼が高山の告白に真摯に向き合えていないであろうことを指摘する。神社でも一度触れている逆鱗だ。頭に来ないわけがない。俺はさらに畳み掛ける。

「君が勝てば、俺はもう二度と透子には会わない。俺が勝てば、透子は俺のものだ」

 そして最後に、駄目を押した。

「君には、高山がいる。わざと負けても構わない」

「っ――――!!」
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:15:18.92 ID:W+HAaMa50
 ここまで言われて、彼が黙っていられるわけがない。現に彼は拳を握ってわなわなと震えている。

 そう、それでいい――俺の口元が意地悪く歪む――そうして激情に任せ、拳を振り上げ、俺に襲いかかってこい――!

「……っ!?」

 直後、俺の前に立ったのは、井美雪哉でも透子でもなく、高山やなぎだった。



 ――ぱぁん!



 目が覚めるような、いい音がした。

「どうせ走る気なんてないんでしょ!? 何が目的かは知らない! けど、あんたの取ったやり方は最っ低!!」

 グラウンド中に響き渡るような大声でそう叫んだ高山は、俺の浅はかな心を見限ったように踵を返した。

「……帰ろ」

 高山は井美雪哉の手を取り、有無を言わせず彼を連れ去っていく。

 打ち捨てられた空き缶のようにグラウンドに残された俺は、激しい自己嫌悪に襲われた。

 そのとき、視界の端に透子が高山を追って動き出すのが見えて、

「――行くなっ!!」

「っ……」

 自分でも驚くほど、大きな声が出た。

 透子がびっくりしたように振り返る。

 俺は祈るような気持ちで透子を見つめた。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:20:48.78 ID:W+HAaMa50
 *

 俺はグラウンド横の階段に腰掛けて、哲学者の名前を与えられた鶏たちが思い思いに歩き回るのを茫然と眺めていた。

「……やなちゃんの言ったこと、本当?」

 隣に座る透子が探るように訊いてくる。俺は取り繕う気力もなく、白状する。

「ああ……走る気なんてなかった。そんなことして俺が勝てるわけない」

「……じゃあ、どうして……?」

「殴り合いに持ち込んで……どうしたかったのかな――俺、よくわからない……」

 ――いいや、本当は、心の底ではちゃんとわかってる。

 ああして切迫した状況になれば、透子が俺をどれくらい気にかけているのか、確かめられると思った。

 窮地に陥る俺を見て、透子がどんな行動を取るのか、試したかった。

 透子なら、きっと俺を庇って――守ってくれるんじゃないかと、期待して。

 あの花火大会の翌日、この校庭で初めて透子と言葉を交わしたとき。

 透子は、俺という理不尽な脅威に晒された鶏を、全力で守ろうとした。



『それならジョナサンは、私が守るからっ!』



 あんな風に、俺も透子に言ってほしかった。

 そうすれば、まるで不透明な彼女の本心がわかるんじゃないかと。

 直接訊けばいいものを、そんな度胸もなくて。

 嫉妬に駆られ、井美雪哉や高山まで巻き込んで、自棄を起こした。

 本当に、高山の言う通り――俺は最低だ。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:24:53.80 ID:W+HAaMa50
「……そんなのひどい。そんなの、なんの説明にもなってない」

「だよな……」

 透子が心を痛めているのが伝わってきて、さすがにだんまりを決め込むことはできなかった。

「とにかく透子に、『私は駆の味方』って、言ってほしかったのかもしれない」

「えっ……?」

 周りの哲学者たちに馴染めず、一羽だけ浮いていたジョナサンを、守ろうとした透子。

 あのとき俺は、俺にもそんな存在があればいいのにと、たぶん、そんな風に思った。

《――俺は見つけたのか――》

 もしかして、《未来の欠片》が本当に意味するものとは。

 俺がずっと探していたのは――。

「透子にとって……《未来の欠片》ってどんな存在?」

 散らかった頭の中を整理しようと、思いつくままに尋ねてみる。

 透子はなぜかもじもじと恥ずかしそうに答えた。

「に、二度楽しめる、心の準備……?」

 楽しめる――透子は未来を見ることを楽しんでいるのか。

 ならばきっと、彼女の目に映る《未来の欠片》は、ガラスのようにきらきらと輝いているのだろう。

「本当に君は面白い」

 俺とはまるで違った物の見方をする、透子。

 俺にはないものばかり持っている、透子。

 ころころと表情が変わって、いつも慌ただしく感情を動かして、前向きで、友達思いで、時々とんちんかんなことを言って、俺を驚かせる――心を、揺さぶってくる。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:29:44.63 ID:W+HAaMa50
「あれを《未来の欠片》と名付けたのは、俺にとって、あれが自分に欠けているピースのような存在だと思ったからなんだ」

 どこに行っても、自分のいるべき場所はここではないような気がしていた。

 そんな中で聞こえてくる《未来の欠片》は、俺が向かうべき場所――俺がいていい場所を指し示す、道しるべのように思えた。

 童話に出てくるちぎったパンのかけらのように、それを拾い集めていけば、いつか辿りつくのではないかと。

 この胸にぽっかりと空いた穴を、埋めてくれるのではないかと。

 最後にはジグソーパズルが完成するように、弱々しく、不完全な俺でも、強く安定した形になれるのではないかと。

 そう思って、長い間、儚い願かけのように、俺は《未来の欠片》に耳を傾けてきた。

「でも、そのピースも、弱々しいただの音だったり、人の声だったり、それ以上のものじゃなかった」

 何もわからなかった。

 何も変わらなかった。

 《未来の欠片》の本当の意味も、その行く先も、不完全な俺自身も。

 手がかりさえ掴めないまま時が過ぎて、いくつもの街を通り過ぎて、その間もずっと胸の内が晴れることはなかった。

 もはや、俺の居場所は永遠に見つからないのだ、と。

 そう、思っていた。

「透子と、会うまでは」
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage saga]:2019/04/09(火) 13:34:45.88 ID:W+HAaMa50
 全ては、透子に出会ってから、変わった。

「……少しずつ、わかってきたんだ。俺が欲しがっていたのは、なんだかよくわからないピースみたいなものじゃない。もっとはっきりとした、もっと実体のあるものじゃなかったのかって」

 俺が必要としていたのは、概念上の強さや完全さなどではなく。

 弱く不完全な俺を、懸命に守ってくれる、絶対の味方。

 隣にいて、言葉を交わして、その手に触れられる、誰かの存在なのではないか?

「それって……」

 はっと、大きく開かれる透子の瞳を見つめ、俺は彼女の頬に手を伸ばし、そっと、触れる。

「君の声ばかりなんだ。聞こえてくる声が」

 透子の《声》が聞こえれば。

 透子が手を差し伸べてくれれば。

 透子の心からの笑顔を見られれば。

 そんなことばかり考えて、だから、君の《声》ばかり聞こえてくる。

「私も……駆くんの姿ばかり見える……」

 透子も?

 透子も、俺と一緒にいることを望んでくれている?

 だとしたら、俺は辿り着いたのか?

 俺は、透子の元に、君の隣に。

 ここにいても、いいのか?

「俺……見つけたのか……?」

 ずっと何か掴もうとして、空を切ってきた俺の手に。

 透子の手が重なり、そのぬくもりがゆっくりと胸を満たす。

 気づけば、俺の目から一筋の涙が零れ落ちていた。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 20:33:42.74 ID:W+HAaMa50
<第7話 自転車>

 少しずつ日が傾いていく。藍色と茜色が混じり合う空に、ひぐらしの声が溶けていく。

「今度、海、行こう」

 その誘いは、透子には何気ない一言だったのかもしれないが、俺には新鮮に響いた。

 海のある街に訪れたことは何度かある。

 しかし、そこは休みにふらっと出掛けるような場所ではなかった。

 大抵は、いつも遠くから潮騒に耳を傾けるだけだった。

「俺、波の音が、少しくすぐったい」

「えっ?」

 透子はきょとんとしたが、俺の答えがイエスであることを察すると、柔らかに微笑んだ。

「そろそろ帰ろっか」

「ああ」

 こんなに心安らかでいられたのは、いつ以来だろう。

 友人とか、恋人とか、そんな明確な形にはなっていないけれど。

 この日、少なくとも俺にとって、透子の存在は特別なものとなった。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 20:40:03.38 ID:W+HAaMa50
 *

 母さんが父さんの家に帰ってきた次の日、俺は早起きして例の高台へ行った。

 考えていたのは変わらず透子のことだった。

『今までだって、好きな女の子いただろ?』

 《俺》と話すのも久しぶりだった。《俺》の興味ももちろん透子にある。

「不思議な感触……以上の感じがしなくて」

 今まで異性に一定以上の好感を持ったことはある。

 だが、それはどうにもあやふやな、はっきりとしない気持ちだった。

 当然、相手に想いを伝えたこともない。

 しかし、透子はそうではなかった。

「我ながら驚いた」

 こんな気持ちは初めてだ。

 彼女と一緒にいたい、触れて存在を確かめたいと、強く思う。

『あんな天然な子が好きだったとは驚きだよ』

 確かに彼女は予測できないことを言ったりする。が、それも透子の魅力の一つだ。

「悪く言うなよ」

 たしなめるように言うと、『悪くないよ』と《俺》たちが苦笑する。俺も可笑しくなって、つられて笑ってしまった。

『《俺》たちが要らなくなるといいよな』

 その一言に、俺は一瞬、胸がいっぱいになったような、切ない気持ちになる。

 思えば、今まではずっと、彼らが俺を守ってくれていたんだ。

「俺……おまえたちのこと、嫌いじゃない」

 俺の不完全な心が生み出した、想像上の話し相手。

 彼らとしては、たぶん、もっと早くに役目を終えるつもりでいたと思う。

 それが、もうそこにいるのが当たり前になるくらい、長い付き合いになってしまった。

 ……でも、おまえたちには、悪いと思うけれど。

 あと少しだけ、俺のこれからを見守っていてほしいんだ。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 20:53:04.25 ID:W+HAaMa50
 *

 昼食を終えてしばらくすると、家の電話が鳴った。

 透子かもしれないと思い、父さんや母さんに先んじて受話器を取る。

 果たして、電話回線の向こうにいたのは透子だった。

「あ……うん、俺。……いいよ。……じゃあ、あとで」

 麒麟館で待ち合わせる約束をして、電話を切った。

 特に急ぎの用事があるわけではないようだった。

 ただ、ちょっと顔を見て、話したいから、会わないか、と。

 他愛のないことだけれど、俺の心はにわかに弾んだ。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 20:55:27.00 ID:W+HAaMa50
 *

 麒麟館にやってくると、透子は熱心にエッシャーの絵を眺めていた。

 声を掛けると、嬉しそうに振り返り、そのまま俺を外に連れ出した。

 前と同じように、外に出るなり、暑い、と透子は言う。

 手を庇にして空を見上げ、それから、あっ、と何かを見つけて声を上げる。

 どうやらツバメが飛んでいたらしい。軒下に巣があることを教えたら、やけに感心された。

「あんなとこにツバメの巣があったなんて全然知らなかった。あっ、ヒナがいる!」

「……みたいだな。二羽、確認している」

 ツバメは渡り鳥だ。あの雛たちもやがて巣立ちして、夏が終わる頃には南へ旅立つのだろう。

 夏が終わる頃――そのとき、俺や透子はどうなっているだろうか。

 頭の片隅でそんなことを考えつつ、俺は透子と展望台を巡っていく。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:00:09.21 ID:W+HAaMa50
「なんか、私ずっとここで暮らしてるのに、駆くんのほうがいろんなこと知ってるみたいで、なんか悔しい」

 唇を尖らせる透子から、海岸沿いの平地に寄り集まる家々に視線を移して、俺は少し感傷的な気分で言った。

「この街の些細なことを知ったからって、透子が暮らしてきた事実に比べたら、つまらないことだよ」

 すると、透子は「えっ?」と意外そうに目を丸くして、

「そんなことないよ、駆くん、すごいよ」

 と力強く励ましてくれる。

 そのことに甘やかな心地よさを覚えるが、昨日の一件を思い出し、反省した。

 いたずらに自己否定して、それを誰かに肯定してもらうこと。

 自分を守ってくれる誰かがいると確認することは、実際、麻薬のような危うい快楽を得られる。

 しかし、俺のそうした自分本位で甘えた思考が昨日の騒動を引き起こした。

 結果的に、こうして透子との関係が深まりはしたけれど――。

「俺、なんか恥ずかしいところ見せた」
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:04:09.63 ID:W+HAaMa50
「…………そんなこと、ない」

 同じ過ちは繰り返すまい、と決意を込めて透子を見つめていると、透子は照れたように視線を逸らした。

 すると、透子も透子で、今のやりとりから何か思うところがあったのか、高山のことを話題に出す。

「今日、やなちゃんがうちに来て。で、昨日のこと話したの」

 もしかして、それがきっかけで俺の家に電話してきたのだろうか?

 高山と何を話したかはわからないが、ためらいがちな口ぶりからすると、案外、俺の悪口でも言い合って意気投合したのかもしれない。

「友達なんだな」

 透子が高山を大切に思っていることは、透子の家の工房で相談を受けたから、知っている。

 高山が透子を大切に思っていることも、神社で石膏像として話を聞いたから、知っている。

 同じことは、井美にも、永宮にも、たぶんカチューシャの彼にも言えるだろう。

 強い絆で結ばれた友人たちに囲まれた透子のことを、羨ましいと、やはり思う。

 けれど、そんな透子だったから、俺はきっと彼女に惹かれた。

 惹かれて、それで、俺は、そんな透子の――。

「あの、私と駆くんは……なに?」

「えっ……?」

 じっ、と上目遣いにこちらを見つめてくる透子。

 なんと言っていいのか、一瞬頭が真っ白になる。

 我に返ったときには、透子の視線は俺から外れていた。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:06:02.57 ID:W+HAaMa50
「……ごめん、急に駆くんを見れなくなった」

 いや、気恥ずかしくて目を逸らしたのは俺も同じだ。

 透子を直視できなかった。

 透子との関係に、まだ自信が持てないから。

 友人だ、というには高山たちの手前、厚かましいように思うし。

 ましてや、恋人、なんて口にするのも烏滸がましい。

 だが、それでも、

「俺たち、変な力を持ってるもの同士以上の関係に、なれたのかな?」

「えっ……」

 《未来の欠片》以外に繋がりのなかった最初より、俺たちの関係は進んでいるはずだ……と思いたい。

 透子も同じ気持ちでいると、信じたい。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:14:47.81 ID:W+HAaMa50
「…………」

 俺があんまり見つめるからか、透子はまた俯いてしまった。

 何か掛けるべき言葉を探したが、見つからない。

 そうして微妙な沈黙が続く中、不意に上空を鳶が過ぎ去り、足元にその影が落ちて――。



「っ――――危ない!!」



 いきなりそう叫んだかと思うと、透子は血相を変えて俺を壁際へと追い立てた。

 何が起きたのかわからなかったが、次の透子の一言で事態が飲み込める。

「今、駆くんが落ちるのが見えた!!」

 《未来の欠片》――俺には何も『聞こえなかった』。でも、透子には『見えた』のだ。

「こうしていれば、大丈夫だよね……っ!?」

 狼狽と困惑で強張った透子の顔が間近に迫る。

 透子がどんな《未来の欠片》を『見た』のかはわからない。だが、経験上言えることは――、

「……未来は、変えられない」

 少なくとも、俺の聞いてきた《声》はそうだった。

「やっぱり海にする! そのほうが安全っ! 明日は海――絶対ね!?」

 確かに、海ならば、わざわざ崖の上にでも登らない限り、落ちることはないだろう。

 透子の見た映像が具体的にわかれば気をつけることもできるが……この取り乱し様では、今すぐ聞き出すのは難しいか。

 一体、『落ちる』というのは、どこから?

 この展望台か? 学校の校舎? 例の高台? 神社の急な階段?

 あるいは……と、俺は妙な連想をした。

 軒下で透子と身を寄せ合っているからだろうか。

 脳裏に、先ほどの二羽の雛がいたツバメの巣が思い浮かんだ。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:32:57.22 ID:W+HAaMa50
 *

 その日の夜、俺はテントの前で昼間の出来事について考えを巡らせていた。

 俺は透子の見たという《未来の欠片》を整理してみる。

 俺が透子から聞いたのは、『泣いている高山』と『入院している永宮』。

 これらは実際にそうなった――厳密に確認はしていないが――《未来の欠片》だ。

 それに、透子は俺のことも見たと言っていた。

 細かい内容までは聞いていないが、少なくとも俺は透子のそばにいることを望んでいるわけだし、その分だけ未来の透子は様々な俺の姿を見ることになるだろう。

 今回の『落ちる俺』も、そのうちの一つと考えるべきか。

『高所恐怖症になりそうだ』

 そう、《俺》が言う。

『引きこもりになるのもいいな』

 ロクな対策が出てこない。

 俺は次に、俺の聞いた《未来の欠片》を思い返してみる。

 透子と出会ってから、幾度となく彼女の《声》を聞いてきた。

 未来を見たいと言う声、俺の名を呼ぶ声、どこかへと誘う声、探し求める声――。

 それらは多少形を変えて現実になったように思うが……。



《――違うのかもしれない――》



 明るい《声》が多い中、一つだけ妙に翳っていた《声》に、引っかかりを覚える。

「……まさか……」

 名前を付ける、というのは不思議なものだ。

 そうすることで見えてくるものもあるし、見えなくなるものもある。

「未来じゃない、のか……?」

 結局、夜が更けても、確かな答えは出ないままだった。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:38:15.39 ID:W+HAaMa50
 *

 約束の時刻より早く日乃出浜にやってきた俺は、砂浜に座り、寄せては返す波を眺めながら、昨日の考察の続きに耽っていた。

「待った?」

 明るい声がして、俺は振り返る。もちろん、そこにいたのは透子だ。

「いや、待つのは嫌いじゃないし」

 約束の時刻に遅れるのは避けたいしな。

「って、待ったのね……?」

 期待した答えと違っていたようで、透子は拗ねたように呟き、それから俺の隣に腰を下ろした。

「くすぐったい?」

「えっ?」

「波の音」

 戯れに言ったことを覚えてくれていたらしい。些細なことなのに、やけに照れくさく感じる。

「以前とはちょっと違う感じかな。こんな時間に海に来たのは初めてかもしれない」

 波の音だけではない。透子に出会ってからは、初めてのことばかりだ。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:42:28.11 ID:W+HAaMa50
「これ、あげる」

 透子はそう言うと、鞄からきらりと光を放つものを取り出した。

 乳白色の渦が巻く、群青と淡紅のガラス球。

「蜻蛉玉?」

「おそろい」

「……ありがとう」

 それは透子の手作りらしく、紐が通されて身につけられるようになっていた。

 そういえば、いつかの永宮も似たようなものを首に下げていた気がする。

 透子なりの親愛の証なのだろう――自宅の工房で、一生懸命にガラスと向き合う透子の姿が思い浮かんだ。

 俺は透子からの贈り物を受け取り、その確かな重みを手に感じながら、昨日のことを切り出す。

「少し、気になることがあるんだ」

「え?」

「透子が言ってた、『落ちる俺』って――」

「そうよ。絶対高いところ登っちゃダメだからね?」

 妙に明るい声で言い含める透子。

 そんな彼女に、俺は一晩考えた仮説を話して聞かせる。

「そんなことが本当に可能だと思っているのかい?」

「えっ?」

「大袈裟に言えば、俺はこれから一生、少しでも落ちる可能性のある場所には登れない」

 しかし、そんなことは不可能だ。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:52:33.62 ID:W+HAaMa50
「……じゃあ、どうすれば……?」

 不安げな目でこちらを見る透子に、俺は肝心の問題提起をする。

「本当に、『未来の欠片』だったのかな……?」

 それを聞いた透子は、「でもっ!」と声を大にして反論した。

「駆くんが『未来だ』って教えてくれたんだよ?」

 その通り――『あれ』に《未来の欠片》という名前を付けたのは、他ならぬ、俺自身。

 だが、透子と出会ってから《未来の欠片》は劇的に変化した。

 二人でいれば映像と声の両方がわかる。そして単独で見聞きする《欠片》も、以前より明瞭なものになった。

 今まで漠然とそうだと信じてきたことを鵜呑みにしていると、真実を掴み損ねるかもしれない。

 俺の中でも結論が出ているわけではないので、強くは言えないが――。

「もう少し、よく考えたほうがいい」

「私、ジュース買ってくる!」

 この話はこれでおしまい、とばかりに、透子は勢いよく立ち上がる。

「駆くんは、何がいい?」

「俺は水を……」

「私、子供の頃、大人がなんでわざわざお金出して自販機で水やお茶買うのか、ほんと不思議だったわ。横にハルピスウォーターとかあるのに」

 急に饒舌になる透子を、悪いと思いつつも、俺は可笑しいと感じてしまう。

 緊張したり動揺したりしたとき、突然本題と関係ないことを話し始めるのは、俺にとっての《俺》のような、透子のお決まりの癖だ。

 子供っぽく振る舞う透子を見られて、なんだか急に親しくなれた気がして、微笑ましくなる。

 しかし、まあ、これは完全に俺が考えなしだった。

 せっかく海にデートしにきて、のっけからくどくどと小難しい話を始める男がどこにいるというのだろう。

 透子が戻ってきたら、もっと何気ない、それでいて気の利いた話をしよう。

 できるかどうかは、別にして。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 21:56:03.20 ID:W+HAaMa50
「…………」

 海を見つめながら、俺は透子を待った。

 やがて、ざっ、ざっ、と足音が近づいてきて、俺の傍で止まる。

 振り返ると、高山やなぎが立っていた。

 ……どうして高山がここにいる?

 さすがに昨日の今日なので、平然としてはいられない。

 高山のほうも顔つきが険しい。

「そっか。あんたも呼ばれてたんだ」

 呼ばれていた? 待て、なんのことだ?

「透子は一緒じゃないの?」

「今、飲み物を買いに――」

「そう。じゃあ、いい機会だから今のうちに言っとく」

 高山は、次に俺に会ったらそうすると心に決めていたように、断然と言った。

「ユキがかっこ悪くなったのはあんたのせい」
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/09(火) 22:01:08.76 ID:W+HAaMa50
 ……これは、断罪、なのだろうか?

 それにしては高山の言い方に俺を詰るようなニュアンスが感じられない。

 むしろ、今の高山は俺を責めるというより、何かを『守ろう』としているように思える。

 透子に近づくな、と俺の前に立ち塞がった永宮のように。

 でも、それもそのはずだ――なぜなら高山は井美雪哉に好意を持っていて、彼の『味方』なのだから。

 高山は、井美雪哉の歯車を狂わせた俺を許さないと表明している。

 そこにはたぶん、彼を傷つけてまで透子を求めた、その責任をしっかり果たせ、という要求も含まれているのだろう。

 高山にとって、井美雪哉は想い人で、透子も大切な友人なのだから。

「っ……邪魔してごめん、もう帰るから」

 そのとき、タイミング悪く透子が戻ってきて、高山は気まずそうに――透子には俺と対決しているところを見られたくなかったのだろう――呟いて、足早に去ろうとする。

 そんな高山を、両手に飲み物を持ったまま呼び止めようとする透子。

「あっ、あの……!」

 二人がすれ違い、透子が高山に振り返った。

 その、直後、



「っ――嫌ああああああああっ!!」



 耳を擘くような透子の悲鳴が、浜辺に響き渡った。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 18:09:26.16 ID:sOMkQtx30
<第8話 雪>

「透子――ッ!?」

 海のほうに走り出した透子に追いつき、俺はくずおれる彼女の肩を支えた。

「いや……っ! いやああああっ!?」

 透子はひどい恐慌状態に陥っていた。とにかく落ち着かせなくては。俺は休めるところを探す。

「どこか、日陰っ……!」

 俺の言葉に、高山が後ろを振り返る。休憩所のテントが見えた。俺は透子を抱き上げ、そこまで運ぶと、シートの上に寝かせた。

 透子は悪夢に魘されるように唇を震わせ、ものすごい力で俺の腕を掴んでくる。

「っ……!」

 瞬間、目が合って、透子の瞳に正気の光が戻った。

「――今の――」

 弱々しく何かを呟く透子。しかし、それは高山の心配そうな声にかき消された。

「透子、大丈夫……? びっくりしたわよ。何があったの?」

「なにが、って――」

 透子はふらつきながらも上体を起こし、眩暈を振り払うように首を振る。

「――ごめん、よくわからない」

「……とりあえずは、心配なさそうね」

「うん……」

 透子が表面上は落ち着きを取り戻し、高山が安堵のため息をつく。

 だが、俺の心臓は、なおもどくどくと不快な脈動を続けていた。

 その不安を裏付けるように、透子の怯えた目が俺を捉える。



《――お似合いのカップルね――》



 突き放すような高山の《声》とともに、透子へ襲いかかった鳶の群れ。

 《未来の欠片》というには、あまりに不穏で、不吉な断片だった。

「うちまで送るわ」

 なんと声を掛けるべきか迷っていると、高山が事態の収拾に動き出した。そうしてやってほしい、と頼む以外に、俺は何もできない。

「きっちり説明してもらうから」

 高山は、透子だけでなく俺の様子もおかしいと気づいて、こっそりと、だが力強い口調で、そう告げた。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 18:17:12.39 ID:sOMkQtx30
 *

 ……今日はもうダメだ。一度切って、明日また掛け直そう。

 十コール目が鳴ったとき、俺は諦めて受話器を下ろしかけていた。

「っ――!」

 ざっ、と回線が繋がる短い信号が聞こえ、慌てて受話器を耳に押しつける。

『………………』

 透子の息遣いが感じられるようで、思わず手に力がこもった。

「大丈夫か?」

 恐る恐る尋ねると、透子はいくらか回復したような声色で、うん、と答え、

『あれ……なんだったの?』

 と問い返した。

「すまない。俺にもよくわからないんだ」

 だが、わからないからと言って、投げ出すつもりはない。

「会わないか?」

『えっ……』

「またあんなの見そうで怖い?」

 気が逸り、語気が強くなってしまう。透子は躊躇いに言葉を詰まらせたが、心を奮い立たせるように言った。

『……どこにする?』

「そうだな……」

 麒麟館や海には近づきたくない。例の高台に行くには少し時間が遅いし、となると――。

『私、ジョナサンに会いたいかな』

 学校――それはいい考えだ。

「じゃあ、一時間後に」

『うん』

 透子に拒絶されなかったことに胸を撫で下ろし、俺は急いで支度に取り掛かった。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 18:24:00.72 ID:sOMkQtx30
 *

 制服に着替えて家を出るとき、母さんに妙なことを訊かれた。

「駆、ここの生活、楽しい?」

 母さんの意図はわからなかったが、俺は素直に肯定した。

「あぁ……楽しい、かな」

 すると、母さんは僅かに驚いたように瞬きをして、そう、とだけ呟いて家の中に引っ込んだ。

 ……なんだったんだ?

 気になったけれど、いずれ話してくれるだろう、とそれ以上考えるのをやめて、俺は学校へと急いだ。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 18:36:59.66 ID:sOMkQtx30
 *

 空は黄昏れつつあった。時計を見ると、そろそろ六時になろうとしている。

 透子は校庭にいて、一心に鶏の素描をしていた。俺に気づくと立ち上がって、でも、あるところで迎えの足が止まる。

 脳裏をよぎるのは、海で見た不吉な《未来の欠片》。

「私たちって……もう並んで座れないのかな?」

「……そんなことはない」

 そんなことに、するつもりもない。

 ただ、もちろん不安がないわけではなく、やがて俺たちは並んで座ったが、しかし、

「あれ、なんだったのかな。私、駆くんに近づくのが少し怖い。……ひどいよね」

 そこには、以前まではなかった距離があった。

「……俺もあれがなんだったのかわからない。だから、確かに透子に近づくことに、今は少し躊躇する」

 沈んだ面持ちで黙りこむ透子。

 どうにかしなければ――そう考えるが、焦りばかりが募る。

 互いに言葉が見つからない、気詰まりな沈黙。

 そのとき、ぴんぽんぱんぴん、と透子の携帯が空気を読まずに鳴った。どうやらメールが届いたらしい。差出人は高山あたりだろうか、と推測していると、

「ぅえええっ!?」

 いきなり上がった頓狂な声に、俺は驚いて振り返った。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 18:42:13.59 ID:sOMkQtx30
「あっ、い、いや、妹から。ゆきくんがやなちゃんになっちゃったって」

 ちょっと状況がよくわからない。だが――。

「こないだひなちゃんに、あっ、妹、陽菜、っていうの。ひなちゃんに、ゆきくんが実は水泳部の――」

 こういった他愛ないお喋りは、透子の不安を和らげる助けになる。

「あっ……ゆきくんの話、嫌じゃない?」

 話を中断して、俺の反応を伺う透子。気遣いはありがたいけれど、今は透子の精神衛生のほうが大事だ。

「水泳部の、なに?」

 続きを促すと、透子は表情を明るくして話を再開した。

「あっ、うん。水泳部のアイドルだって――」

 それから透子は、ランニングでいつも同じ時間に現れる井美雪哉が、妹の所属する水泳部で話題になっていること、それが今日になって、井美雪哉の代わりに高山が走って現れたこと、などを話してくれた。

 なぜ井美雪哉の姿が見えなくなったのか、なぜ代走のように高山が現れたのか、透子はそのあたりが気にかかるようだった。

「やなちゃんに電話したんだけど、なんか繋がらなくて……」

「話だと、高山が慌ててるって感じでもないし、心配は要らないと思う」

「そうかなぁ、だといいなぁ……。あっ、駆くん、もしかして私のこと心配してくれてる?」

 もちろん、心配している。今の透子はひどく不安定に見える。懸念はできるだけ少ないほうがいい。

「井美雪哉のことなら、心配する必要はないと思うけど、そんなに気になるなら、あとで彼の家に一緒に行ってもいい」

「……うん」

 少し照れたように頷く、透子。

 話が一段落し、また間が空くが、先程のような気まずい沈黙にはならなかった。

 透子のお喋りを聞いて、俺もいくらか落ち着けた。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 23:48:14.96 ID:sOMkQtx30
 改めて、《未来の欠片》について考えを巡らせる。

 麒麟館で透子から『落ちる俺』を見たと聞かされてから、俺はずっと考えていた。

 《未来の欠片》は、必ずしも確定した未来を示すものではなく。

 その内容は、見聞きする当人の精神状態に左右されるのかもしれない、と。

 俺はずっと自分の場所を求めてきたが、透子に出会う以前、その『場所』というのは具体性を伴わない、漠然とした夢想のようなものでしかなかった。

 そして透子に出会う以前の《未来の欠片》も同様、はっきりとしない、曖昧な《声》でしかなかった。

 それが透子と出会い、彼女に惹かれるにつれ、俺は彼女の隣にいたいと強く願うようになった。

 すると《未来の欠片》はそれに呼応するように、透子の《声》ばかりを、それもはっきりとした《声》を、俺に届けるようになった。

 透子にしても、高山や永宮の未来を見たのは、それがその時の透子にとって重要な関心事だったから。

 俺の姿を頻繁に見るようになったのも、俺のことを考える頻度が増えたからと考えれば説明がつく。

 《未来の欠片》に、その時々の当人の感情が影響を及ぼすのだとすれば、求められるのは現時点での懸念を晴らすことだろう。

 『落ちる俺』が見えたなら、『落ちる俺』という未来を回避するのではなく、あの時の透子が『落ちる俺』を見た理由のほうを突き止めて、解消するのが正しい対処なのではないか。

 海で見た不吉な《未来の欠片》も、解決すべきは、あんなものを見てしまう現在の透子の心理なのではないか。

 そのためには、今よりもっと、透子の内面に踏み込んでいく必要がある。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 23:51:47.29 ID:sOMkQtx30
「――こないだここで、ほんとこんな感じでスケッチしてたら、ゆきくんと会ったの」

 ぽつ、と透子が静かに語り出す。俺は耳を傾ける。

「それで、美術準備室に二人でコンテ取りに行って……」

 しりすぼみに声が小さくなっていく。見ると、俯く透子の顔は赤かった。

「……で、その美術準備室で……」

 透子は、ためらいがちに、そのときのことを話してくれた。

 透子はそこで、井美雪哉に俺のことを尋ねられたという。

 気になっているのか、と。

 好きなのか、と。

「で、私、自分でもびっくりしちゃって――」

 恐らくは、透子が俺のことを意識したのは、そのときが初めてだったのだろう。

 ……ひょっとすると、これは透子の気持ちを知る手がかりになるかもしれない。

「あっ、またゆきくんの話……」

 下を向いて考え込んでいた俺を見て、気を悪くしたと誤解したのか、透子が落ち込んだように呟く。

 まあ、井美雪哉と二人きりだったのは気にならなくはないが――いま重要なのはそこではない。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 23:53:38.61 ID:sOMkQtx30
「そうか、そんなことがあったのか」

「あっ、いや、ほんとそれだけ! それ以外は何も……」

「でも、透子はそこで、激しく動揺したってことだろ?」

「え……?」

 透子が一瞬こちらを見る気配がした。けれど、俺は振り返らずに考えを続けた。

《――お似合いのカップルね――》

 あの高山の台詞が、透子の不安によって形作られたものならば、今の透子が悩んでいるのは、俺との関係だ。

 なら、俺を意識するきっかけとなった場所――すなわち、美術準備室に行けば。

「《未来の欠片》について、新しいことがわかるかもしれない」

「本当……?」

「今度は俺と一緒に行ってみないか?」

 何気ない会話の端々から、透子が高山や井美のことを気にしているのは察せられる。

 透子と彼らの間にあるすれ違いは、主に俺が原因で起こっている。

 もし、透子が俺と関係を持つ上で、彼らに負い目や引け目を感じているのなら。

 始まりの場所に行ってみることで、それが少しは解きほぐせるのではないだろうか。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/13(土) 23:58:11.44 ID:sOMkQtx30
「……あっ、でも――」

「なに?」

 気まずそうに目を逸らす透子。俺は先に立ち上がり、彼女の返事を待つ。

「……うん、そうだよね。何か――」

 透子の気持ちが固まると、俺は昇降口へ向かった。

「どこ?」

「あっ、玄関入って右!」

 校舎に入り、電気の点いていない薄暗い廊下を右に曲がって、奥へ進む。

 そのうちに透子が追いついて、俺を先導した。

「……こっちよ」

 辿りついたのは、廊下の突き当たり。

 透子は部屋の前に立ち、気持ちを奮い立たせるように、呼吸を整える。

「ここがそう」

 扉を開け、思い切って中に入っていく透子。その後ろ姿を目で追いながら、俺は部屋の様子を観察した。

 木製のテーブルの上にはデッサン用の小物が置かれている。壁際の棚には美術道具が雑多に並び、古びた埃と絵の具の匂いが漂ってくる。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/14(日) 00:06:07.48 ID:yy9rkK6R0
「……井美雪哉か高山に、話したほうがいいかもしれない」

 中に入ると透子が緊張するかもしれないと思い、廊下に立ったままで俺は言った。

「えっ? どうして? どうしてみんなに言ったほうがいいの?」

 透子は落ち着かなそうに胸に手を当てて、振り返る。

「高山は、こないだの海での俺たちを見て、どう思っただろう」

「どうって……。きっと、驚いたよね」

「……それだけかな」

「え?」

「高山は必ず透子に、あれはなんだったのか訊いてくる」

 実際、高山は俺に説明を要求してきた。

 つまり現状、透子は、《未来の欠片》のことや、それを俺と共有していることを、高山や井美には話していない――隠し事をしている、ということになる。

 それが彼女にとって負担になっている部分もあるだろう。

「でも、なんて説明するの? 絶対信じてくれないよ?」

 大事なことは何かと胸にしまいこみがちな透子は、俺の提案に難色を示す。

 しかし、俺は食い下がった。なぜなら、

「これからも、何度もあんなことが起きるとしたら……」

 そのたびに透子の心の負担は増していくことになる。

 また高山や井美とすれ違いが起こるかもしれない。

 何より、《未来の欠片》の問題が解決しなければ、俺と透子の関係も破綻を免れない。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/14(日) 00:19:15.90 ID:yy9rkK6R0
 ――そう説明しようとしたが、透子は急に険しい顔つきになって、目をさ迷わせ始めた。

「えっ……起きるの? また、あんなことが――――」

 さっと影が落ちるように、透子の表情が硬く強張る。

 と、次の瞬間、透子は何かに驚いたように目を見開き、窓のほうを振り返った。

「……へ?」

 そう力無い声を漏らし、透子の身体がふらふらと傾く。

 様子がおかしい――そう思ったが、理由がわからない。

「……今のっ、《未来の欠片》……!?」

 驚愕に満ちた透子の声が、俺の混乱に拍車をかけた。

 《未来の欠片》……?

 だが、今、俺には何も――。

「おい、どうした……?」

 何かに怯えるように、身を縮こませて教室を出ていこうとする透子。

 その顔は見たこともないほど蒼白で、明らかに尋常ではないことが起きていた。

 俺は慌てて彼女の腕を掴む――その肌は粟立ち、まるで凍えているように、小刻みに震えていた。

「きゃっ……!?」

 ぎゅっと身を固くし、短い悲鳴を上げ、かと思うと、

「――ダメっ!!」

 透子は俺の手を振りほどいて、逃げるように走り出した。

「透子ッ!? おい、どうした……! 何を見た!?」

 悪夢の中で怪物に追われるように、透子は足をもつれさせながら外へ飛び出す。

 そうして昇降口を出ると、彼女は絶望したような悲痛な声を上げた。

「ああ、そんな……っ!?」

 強い西日が鋭角に射し、濃い影が伸びるグラウンド。

 練習に精を出す野球部員の声や、硬球を打つ金属音が、こだまのように繰り返される。

 先程までと何も変わらないその光景を前に、透子はどうしてか立ち竦んでいた。

「透子……っ!」

 俺はようやく透子に追いつき、呆然と佇む彼女の肩に手を置いて、振り向かせた。

 その大きな瞳が俺を捉える。

 しかし、一向に焦点が定まらない。

 何が起きている――?

 透子には何が『見えている』?

 聞きたいことが次々に浮かぶが、俺は寸前で飲みこんだ。

 荒い呼吸を繰り返す透子は、とても話ができる状態ではなかった。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:05:23.50 ID:SWPDcXJr0
<第9話 月>

 翌日の昼下がり。

 家のリビングから夜想曲が流れてくる。

 いつものCDの再生ではない――生身の母さんの演奏。

 その旋律を俺はテントの中で聴いていた。

 さっきからずっと同じことを考えている。

 あの美術準備室で透子に何が起きたのか。

 いや、教室の中だけではない。外に出てからも異変は続いていたようだった。

 それに、腕を掴んだ時の、怯えきった表情――。

 透子は何を見たんだ……?

「………………」

 そうして、母さんの演奏をBGMに、透子のことを考えていて、ふと俺は気づく。

 俺の音は……?

 耳を澄ませる。だが、母さんの演奏以外、何も聞こえてこない。

 俺はテントを出て、リビングのガラス窓の前まで行って、演奏する母さんの姿を見ながら、また耳を澄ませる。

 やはり何も聞こえてこない。

 さらに確信を得ようと、俺は家を飛び出した。

 例の高台までやってくると、乱れた呼吸を整え、母さんの演奏と透子のことを思い浮かべながら目を閉じた。

 しかし、それでも。

「《欠片》が……聞こえない……?」

 異変が起きたのは、透子だけではなかった。
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:11:35.88 ID:SWPDcXJr0
 *

 いっぺんに色々なことがあり過ぎて、考える気力も尽きそうだった。

 ぼんやりとしたまま夕食を終え、俺は父さんを手伝い食後のコーヒーを淹れる。

「ねえ、駆。卒業したらどうするの?」

 ソファに座って雑誌を読んでいた母さんが、そんなことを訊いてきた。

「……ああ、どうしようかな……」

 目の前の問題にかかりっきりの俺は、明快な答えを返せない。

「相変わらずねぇ」

 苦笑する母さんの前に、俺はコーヒーを置く。

 と、キッチンから出てきた父さんが、自分と俺の分のコーヒーをテーブルに置きながら、会話に加わった。

「俺はそろそろ将来を見据えたほうがいいと思うな」

「……そうだね」

「堅実な職に就いたほうがいいぞ。ま、俺が言える義理じゃないが」

「ふふっ」

 父の冗談に、母さんが微笑む。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:13:40.05 ID:SWPDcXJr0
「父さんも母さんもわりと小さい頃からなりたいものって決まってたけど、あんたはそうならなかったもんね」

「母さん、留まらないもんな。次、海外だろ」

「んー、今回は少し長くなりそうなの」

 相変わらずなのは母さんのほうじゃないか、と俺は苦笑する。

 相変わらず、自由奔放に、飛ぶように生きている。

 小さい頃から憧れてきた、理想の大人の姿。

「……そっか」

 俺もこうしてはいられない。

 夏休みは着実に終わりへ向かっている。

 透子のことはもちろん、俺自身のことも、きちんと答えを出さなければならない。

「俺、戻るよ」

 一人で落ち着いて考えたくて、俺はリビングを後にした。

『あの子ここが気に入ってるって言ってたから、やりたいことでも見つかったのかと思ったけど』

『ガールフレンドだろ』

『一度でいいから会ってみたいわ』

『夏休み中にまた来てくれたらな。ま、邪魔はしてやるなよ』

 ……聞こえてるぞ、母さん、父さん。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:15:35.45 ID:SWPDcXJr0
 *

 翌日、俺は透子に連絡を取ろうとしたが、朝食を終えたあと、母さんに呼び止められた。

「昨日の話の続きなんだけどね、駆」

 ルージュの艶めく唇を笑みの形にして、母さんは言う。

「母さん、あなたに一つ、提案があるのよ」

 果たして、それは俺の将来を左右する重大な『提案』だった。

 結論は、もちろん、すぐには出せない。

 それどころか、動揺を鎮め、気持ちの整理をするだけで、俺は一日のほとんどを費やしてしまった。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:19:59.28 ID:SWPDcXJr0
 *

 透子に連絡を取り、会う約束を取りつけたのは、夕方になってからだった。

 透子の家に着く頃には、完全に日が暮れていた。

 工房の前までやってくると、透子が俺に気づき、ガラス張りの戸を開けようとして――寸前で手が止まる。

「……仕方ないよな」

 覚悟はしていたが、こうして明確に距離ができると、落胆を隠すのは難しい。

 だが、気を落とすわけにはいかない。俺は短く息を吸い込んで、拳を握った。

「そのままで聞いてくれ。あの美術室に行きたいんだ」

 俺がそう言うと、透子は表情を強張らせたまま、俯いてしまう。

「……また、何を見るかわからないよ」

 消極的な透子――だが、それでは何も変わらないままだ。

「この間の美術室で何を見たか、話せるようになった?」

「それは……」

 よほど怖いものを見たのだろう、透子の口は重かった。

 普段はあんなにお喋りで、あからさまで、天然気味な失言をすることさえあるのに。

 本当に大事なことに限って、胸の内にしまいこんでしまう。

 もどかしい……と、俺は気が逸る。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:24:44.56 ID:SWPDcXJr0
「あそこへ行けば、《欠片》について何かわかるかもしれない」

 俺は、《欠片》こそが透子に繋がる唯一の糸と信じて、亡者のように縋り、辿ろうとする。

「駆くんは……そんなに《未来の欠片》について知りたいの?」

「俺たちには、《欠片》についての情報が足りない」

「……足りない?」

 俺と透子の関係は良くも悪くも《欠片》と切り離せない。

 《欠片》によって出会い、《欠片》によって一時は結ばれたように思えた。

 そして今また、《欠片》によって翻弄されている。

 俺たちが前に進むために、《欠片》の謎を紐解くことはどうしても必要なんだ。

「考察も足りていないと思う。だから同じ場所で、同じ状況を作りたい」

 そう、俺が言った、直後だった。

「っ……そうじゃない! そんなことじゃないッ!」

 突然、声を荒らげた透子に、俺は言葉を失った。

「私、雪を見たのっ!」

 透子はわなわなと拳を握って、何かに耐えるように下を向く。

「……あの場所で……一面の銀世界だった。周りじゅうが雪……あんなの初めて……」

 そして小さく、それでいてはっきりと、拒絶した。

「私は、行かない」

 ガラスの向こう側、一人で苦しむ透子の姿を見て、俺の頭から血が引いていく。

 ……俺は、何を、やっているんだ……?
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 09:29:19.89 ID:SWPDcXJr0
 《欠片》のことを気にするあまり、透子のことがまるで見えていなかった。

 透子がどれだけ不安なのかも、どれだけ苦しんでいるのかも、何も――。

「……そうか。そんなものが見えていたのか」

 細い糸が、する――と、手から滑り落ちていく感触がした。

「俺にはこないだから……《欠片》が、聞こえない」

「……えっ?」

「もう、聞こえることはないかも」

 どうしたらいいのか、迷子のように何もわからなくなって、俺は透子に背を向けた。

 あの空虚さとは違う――剃刀で切られるような鋭い痛みが、胸を灼き焦がす。

 もう二度と透子には会えないかもしれない。

 いま交わした会話が透子との最後の会話になるかもしれない。

 逃げるように歩いていく。

 怖くて後ろを振り返られなかった。

 あのガラスの向こう側で、透子も俺に背を向けているように思えて。

 透子の家の敷地を出たところで、俺はたまらなくなって走り出した。

 ぐんぐんと速度を上げていく。心臓が狂ったように脈打ち、全身が熱くなる。

 なのに、胸の内側だけが、大きな風穴が空いたように、どんどん冷たくなっていく。

 透子の苦しみに寄り添えなかった後悔と、彼女を失うかもしれない恐怖に追い立てられて。

 俺は夜の街を駆けた。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:16:48.67 ID:SWPDcXJr0
<第10話 ジョナサン>

 目覚めは最悪の気分だった。

 一晩で何歳も老け込んだみたいだ。

 透子に拒まれたショックから立ち直れない。

 母さんの提案に対する答えもまだ出せない。

 家にいても落ち着けなくて、俺はそこが唯一の避難場所であるかのように、朝食を済ませるとすぐに例の高台に向かった。

 古びたアルバムを手繰るように、透子のことを思い出しながら、時間だけが無為に過ぎていく。

 どれだけ透子のことを考えても、集中しても、耳を澄ませても、失われたものは戻らなかった。

「……やっぱり、聞こえてこない」

 《未来の欠片》は、全て幻だったみたいに、ノイズさえ捉えられなかった。

『もう《未来の欠片》は聞こえない』

 《未来の欠片》は――透子との繋がりは、消えたのだ。

『でも、なぜ?』

『透子に出会ったからなのか?』

『もしかして、必要がなくなった?』

 俺自身の迷いの反響のように、《俺》たちから疑問の声が上がる。

 俺は彼らの問いを頭の中で再構築し、瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。

「っ――!?」

 《俺》たちは――俺は、いま、なんと言った?

 《未来の欠片》が消えたのは、透子と出会って、必要がなくなったから……?

 もし、その仮定が正しいとしたら――。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:20:31.40 ID:SWPDcXJr0
 《未来の欠片》は、俺にとって闇夜の灯台だった。

 その示す先に向かえば、いつかどこかへ辿り着いて、自分の場所を手に入れられると思っていた。

 そして俺は透子に出会った。

 透子との出会いは俺の《欠片》に大きな変化を齎し、ついには《欠片》を消し去った。

 透子との唯一の繋がりは断たれた。

 ……本当に、そうか?

 だって、俺はあの時、透子に触れて、確かに感じたはずだ。



《――やっと見つけた――》



 そうだ、俺は見つけたんだ。

 ここにいたい、そう思える場所に辿り着いた。

 そばにいたい、そう思える存在にこの手で触れた。

 《未来の欠片》を追い求める日々は終わった。

 『なにか』や『どこか』を探す旅は終わったんだ。

 かつての俺が漠然と欲していた『未来』は、既に今ここにある。

 たとえ《欠片》が失われても、俺が透子に抱くこの想いまでは消えていない。

 ……こんなところで腐ってる場合じゃないだろ。

 透子は今も一人で苦しんでいる。

 まだ俺にできることはあるはずだ。

 気持ちを奮い立たせるように、勢いよく立ち上がる。

 なりふり構ってなんていられない……!

 俺はとある場所を思い浮かべながら、即座に駆け出した。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:21:43.37 ID:SWPDcXJr0
 *

 ここに来れば、目的の人物に会えると思った。

 カゼミチ――透子たちがたまり場にしていた喫茶店

 扉を開くと、前回と同じように、からん、と耳心地のいい音がした。

「いらっしゃいませ。……おっ、どうも、ご注文は?」

 迎えてくれたのは、透子の友人たちの中で唯一俺が話したことのない相手――カチューシャの彼だった。

「烏龍茶」

 全力疾走して喉が渇いていたので、俺はメニューも見ずにそう注文した。

「烏龍茶ないんだ」

 ……なら、ブレンドを。
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:24:59.76 ID:SWPDcXJr0
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「ブレンドお待ちどお様」

 エプロン姿のカチューシャの彼が、湯気の立ち上るマグカップを持って、俺のテーブルへとやってくる。

「真夏にホットコーヒーなんて、大人だねえ」

 皮肉や揶揄ではなく、純粋に感心しているらしく、彼はそんなことを言った。

 人の良さそうな顔を見上げながら、俺は心の中で謝罪しつつ、単刀直入に訊く。

「彼女の名前、永宮幸だったよね」

「っ……!?」

「住んでいるところ、知ってたら教えてほしい」

 永宮の名前を出すと、さすがに険しい顔つきになった。カチューシャの彼はわざとらしくそっぽを向いて――慣れていないのだろう――たどたどしく突っぱねた。

「ただでは教えられないな……!」

 対価を払えば教えてくれるあたり、彼のお人好しさが透けて見える。

「何が知りたい?」

 間髪入れずにそう切り返すと、彼は呆れたように振り向き、じれったそうな表情で詰め寄ってきた。

「おまえさあ、透子さんが好きなのか? 大事にしてるんだろうな……? 透子さんは、俺たちの大事な友達なんだよ」

「…………」

 誰も彼もが友達思いな彼らに、俺は言いようのない後ろめたさを感じる。

 その上、透子を大事にできているかといえば、目下かなり怪しいところだ。

 俺が黙って俯いていると、カチューシャの彼は根負けしたように言った。

「さっちゃんの住んでる場所、教えるよ」

「……俺、君の聞きたいことに、何も答えていないけど」

「俺、なんかうまく言えないけど、俺に……答えなくていいよ」

 わかるだろ、とでも言いたげな視線を寄越すカチューシャの彼。

 彼は俺に、透子が好きなのか、大事にしているのか、と問うた。

 その答えを伝えるべき相手は――確かに、そうだ、彼ではない。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:25:47.32 ID:SWPDcXJr0
 *

「ごめんください」

 声を掛けると、しばらくしてがらがらと玄関の扉が開き、ワンピース姿の永宮が出てきた。

「白崎祐に聞いてきた」

「……そう」

 永宮はそれだけ言うと、俺に少し待つよう言って、家の中へ戻っていった。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:31:36.82 ID:SWPDcXJr0
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 外出の準備を整えた永宮とやってきたのは――恐らく彼らは込み入った話をしたいときによくここへ来るのだろう――あの急な階段の上にある神社だった。

 高山や井美のときと違ったのは、きちんと神様に挨拶をしたこと。

 賽銭を投げ、からからと鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝する。

 それから俺たちは、海を眺めながら透子のことを話した。

「きらきらしたもののこと、教えてくれないか?」

 俺は、俺に出会う前の透子の《未来の欠片》について、何も知らない。

 そこに、あのとき透子が見た《欠片》を紐解く――透子の抱えている不安を取り除く手がかりがあるかもしれないと思い、事情を知っていそうな永宮を訪ねたのだった。

「このあいだ、やなぎちゃんが訊いてきた」

 海での一件だろう。そうか、と俺が相槌を打つと、永宮は続けて、

「あなた、透子ちゃんのこと全然守ってない」

 と、厳しい口調で断じてきた。反論のしようもない。

「ああ、そうだな。高山にも言われた」

 はっきり言われたわけではないが、しっかりしろ、と思われていることは間違いない。

 俺がそんなに大したやつなら――強く完全な人間だったなら、そもそもこんな不甲斐ない状況にはなっていないが。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:36:03.06 ID:SWPDcXJr0
「……でも、深水透子は、守ってほしがっているのかな」

 透子を守る俺、という絵面がうまく想像できなくて、そんな言葉が漏れた。

 永宮は、え、と不思議そうな目でこちらに振り返った。

「彼女といると、落ち着くんだ」

 そこにいていいんだと、心穏やかでいられる。

「俺……俺が透子に助けてもらってもいいかな」

 透子を想うと、そんな本音がぽろりと零れた。

「――私も、透子ちゃんに助けてもらってるかも」

 否定されると思ったが、意外にも永宮は同意を示した。

 いや、実際のところ、『意外』ではないのかもしれない。

 俺は永宮のことをよく知らないので、はっきりとはわからないが……。

「私、きっとあなた以上には、そのきらきらしたもののことは知らないと思う」

 きっぱりと、突き放すように永宮は言う。

 けれど、それは最初にカゼミチや麒麟館で相対したときのような、敵意のある反発ではなく。

 海で俺を断じた高山と同様、言外に、俺が透子のそばにいることを認めるような、そんな意味が込められているように、俺には感じられた。

「あなた、透子ちゃんのこと……好きなの?」

 鋭い視線で、核心を射抜く永宮。

 しかし、彼女も白崎と同じく、この場で俺の口から答えを聞きたいとは思っていないだろう。

 わかっている。

 俺がその答えを伝えるべき相手は、ただ一人だ。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:40:01.89 ID:SWPDcXJr0
 *

 街のあちこちを歩いて回った。

 透子がずっと住んできた街。

 俺にとっては、ついこの前、ふらりとやってきた街。

 けれど今では、印象深い場所がいくつもある。

 駅前。砂浜。麒麟館。透子の家の近くにも行ってみた。

 少しでも透子のことを知る手がかりがほしかった。

 どんなに些細なことでもいい。

 欠片でも、破片でも、断片でも、なんでもいいから。

「……もう、俺一人じゃダメなのか……」

 染みついた感覚はなかなか抜けないもので、無理だとわかっているのに、つい耳を澄ませてしまう。

『私、未来が見たいのっ!』

 あの時、そう言った透子の気持ちが、今ならわかる。

 大切な相手と離ればなれになるかもしれない。

 また傷つけてしまうかもしれない。

 未来が見えたらいいのに――そう思わずにはいられない。

 透子と一緒に。

 透子と一緒の。

 そんな未来が、見えたらいいのに。

 天高く輝いていた太陽が、西の空へ、海の向こうへ、ゆっくりと落ちていく。
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:42:02.65 ID:SWPDcXJr0
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 最後に訪れたのは、学校だった。

(……ここでどうする?)

 あちこちさ迷い過ぎて、何がしたかったのかよくわからなくなっていた。

 手がかりは掴めない。

 《欠片》は聞こえない。

 ただ、想いばかりが募る。

(あんなに面倒だったのに……聞こえなくなると、なんだか寂しいな……)

 俺は透子に貰った群青の蜻蛉玉を取り出して、夕暮れの空に翳した。

(深水透子――おまえに会いたいよ)
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:49:05.03 ID:SWPDcXJr0
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 透子が雪を見たという、美術準備室。

 何か手がかりがあるとすれば、残るはここだけだった。

 佇んでいると、遠くから声が聞こえた。

「ジョナサン!」

 それは《未来の欠片》による幻の《声》ではない。

「待って……!」

 今この瞬間、確かに誰かが発した生の声。

 振り向くと、廊下の真ん中に透子が立っていた。

 透子はゆっくりとこちらにやってくる。

「……駆くん……」

 透子は俺と、いつの間にやってきたのか俺の足元をうろつき回るジョナサンを見、それから視線を美術準備室の窓の外へ向けた。

 この間と、ちょうど時間帯も見える景色も同じ。

 窓という額縁に切り取られた一枚絵――強い西日の中、濃い緑を背景に、簡素な鶏小屋が建っている。

 ありふれた夏の風景。

 俺の目に透子が見たという雪は見えない。

 透子の抱える不安を、俺は何もわかってやれていない。
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:51:03.96 ID:SWPDcXJr0
「駆くんも、やっぱりここに来てたの?」

「ここに来れば、《未来の欠片》が聞こえなくなった理由がわかるかもしれないと思って」

 この期に及んで《未来の欠片》を引き合いに出すあたり、俺はどうしようもない意気地なしだ。

「そう……」

 含みのある言い方をする透子に、俺は首を傾げる。

「透子もそうなんじゃないのか?」

 昨日あれだけ頑なに拒んでいたのだから、まさか散歩がてら立ち寄ったとか、急に美術用具が必要になったとか、そんな日常的な理由であるはずがない。

 しかし《未来の欠片》でもないなら、他に一体どんな理由が――。

「私は……駆くんの《唐突な当たり前の孤独》が知りたくて!」

「っ――!?」

 透子が口にした言葉に、俺はかつてない衝撃を受けた。

「それ……」

 なぜ?

 どういうことだ?
 
 なんで透子が、そのことを知っている?
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 10:57:39.24 ID:SWPDcXJr0
「――ご両親に聞いた」

 返ってきた答えはシンプルなものだった。

 言いたいことはいくつもある。しかし、それらは透子の顔を見た瞬間に全部どこかへ行ってしまった。

 透子は、何か、とても強い覚悟を決めて、ここに来ている。

「駆くんには、窓の外の雪が見える?」

「雪が降ってるのか?」

 あの時だけではなく、今、この瞬間も?

「うん……さっきからずっと」

 声を震わせ、透子は語り出す。

「すごい雪が降ってて、私がその中にいるの……っ」

 はじめは静かだった透子の声に、徐々に力がこもっていく。

「《欠片》が見えるんじゃない! 周りじゅうに雪が降ってる!」

 透子は俺に詰め寄り、感情を爆発させるように言った。

 俺は一旦、透子に落ち着くよう声を掛ける。

 透子はぎゅっと手を握って、大丈夫、平気、怖くない……と、おまじないのように口の中で呟く。そして、

「――でも、まだ、続きがあるっ!」

 これこそが本題、というように、昂奮に頬を赤らめる透子。

 雪が降っている――今も――それは確かに、昨日も聞いたことだ。

 それとは別に、まだ何かあるのか……?

 一体、透子は、何を見た――?
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 11:02:57.73 ID:SWPDcXJr0
「……駆くんが……」

 俺?

「駆くんが、その中で……私に――っ」

「……なに?」

「えっと………………」

 そう、下を向いたまま、

「……キス、を……」

 震える唇で、透子は囁いた。

「駆くんがっ、私に、キスするの……っ!!」

 困惑に絶句する俺をよそに、透子は身を守るように胸に手を当てて、押し隠していた不安や恐怖をさらけ出した。

「私……おかしいのかもっ! だって、その前も見たの! あの時で二回目……!!」

 透子は瞳を潤ませ、顔を真っ赤にして俺に迫ってくる。

「私ってなに!? だってそうでしょ? 駆くんはこないだ、私たちが見てるものって、もしかしたら未来じゃないかもしれないって――――じゃあ、なに!? 私が見えるものってなに? それとも……っ」

 火照っていた透子の頬が、一転して、凍えるように白くなっていく。

 あまりに急な変化に、全て理解したわけではないが、それでも、わかったことがある。

「……そんなときが……来るの……?」

 透子は怯えている。

 さっき、透子自身がおまじないのように口にしていた――透子は今、怖いのだ。

 たぶん、俺との関係が進むことが。

 関係が進み、変化していくだろう未来を前にして、立ち竦んでいる。

 『落ちる俺』も『襲いくる鳶の群れ』も『雪』も『俺との口付け』も、そんな透子の怖れや気後れ、躊躇い、心細さ――そういったものが形作った幻影なのかもしれない。
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