【ミリマスR-18】舞浜歩の抱えたトラウマを上書きする話

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1 : ◆yHhcvqAd4. [sage saga]:2021/03/14(日) 00:17:59.20 ID:Xw+hWuzl0
こんばんは。投下しに来ました。

【概要】
・舞浜歩さんが出てきます
・ダンス留学のくだりを勝手に捏造しています
・辛い目に遭っている描写が出てきます

以上の項目に目を瞑って頂けるならばよろしくお願いします。
19レス分続きます。
2 :オーバーライト 1/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:20:05.15 ID:Xw+hWuzl0
 十一月の某日。いつものようにアイドルの付き添い兼外回り営業から戻ると、事務所に一通の封筒が届いていた。テレビ局からだ。手に持つとずっしりと重たかったその封筒の中には、ドラマの制作委員会名義で、様々な資料が入っている。封筒の最前にあったドキュメントに目を通すと、我がプロダクション所属のアイドルの名前が書かれているのが目についた。

 名指しのオファーだ。画像を撮影して本人にすぐさま送りつけたかった。きっと飛び上がって喜ぶだろう。だが、内容も把握せず飛びつくのは軽率だ。ムズムズするが、まずはこちらでひとしきり目を通しておかねばならない。

 それから三日後。レッスンを終えた舞浜歩を劇場の事務室へ呼び出した。オファーのあった旨を伝えると、グレートだのマーベラスだのと叫びながら、彼女は拳を高く突き上げてはしゃいでいた。

 温かい紅茶を差し出して、事務室のテーブルへ資料を広げた。歩にオファーがあったのは、月9ドラマの脇役だった。脇役とはいってもほぼ毎回登場の機会があり、主役との関係も頻繁に描かれる。劇中での比重が異なる程度で、扱いは主役と大して変わらないと言っても過言では無かった。受けることになれば相当強力なプロモーションになる。

 歩が打診された役は、幼少期から様々なダンスに触れてきたストリートダンサーの少女(名前はなく【仮】とついている)。高校卒業を前にしても自分の魂を本当に燃やせるダンスに中々出会うことができなかった。ほんの小さなきっかけから彼女が次に足を踏み入れようとしたのは、社交ダンスの世界だった。街の片隅にある小さな社交ダンス教室の門を叩いた彼女は、そこで、背景も動機も全く違う三人と出会い、二組のペアになって新たな世界へ飛び込んでいく。

「ワオ……! 社交ダンスかー。やったことはないけど、面白そう!」
「ダンサーとして確かな実力があり、社交ダンスは未経験、見た目が派手な感じの人を役にあてたい考えらしくて、それで歩へオファーが来たって流れなんだ」
「いいじゃんいいじゃん! その話、受けたい!」
「うん。歩にも資料をよく見てもらう必要があるから最終決定はまだ先にするけど、前向きな返事がもらえてよかった。ただな……」
「ただ……なに?」

 付箋を数ヶ所つけたシナリオを歩に見せた。本格的な台本になる前の、物語全体の筋と言ってもよい。事務所からのNG事項として修正を加えて欲しい所につけた付箋を目印に、そのページをめくった。

 少女がカップルを組む相手は、病弱な読書好きの大学院生だ。就職が目前に迫り、部屋の中でばかり生きていた彼は外の世界を知りたい欲求に目覚めた。公園のベンチに落ちていた社交ダンス教室のチラシを手に取り、地図に誘われるままに歩いていく。先にカップルを作っていた主役の二名の様子を外から見て、自分を変えたい思いに駆られる彼は、相手もいないのに教室へ飛び込み、入室の希望届を書いてしまう。ダンスの相手としての交流を深める内に、二人は親密になり、互いに恋心を抱くようになる。ここまではよかった。

 一向に溝の埋まらない主役の二人と対比するように、脇役の二人は接近し続ける。そして、ベッドシーンが挿入される筋書きになっていることが、そこには明記されていた。

「ベッドシーン……って、アレだよね。その、はっ、裸で……うわ、キスシーンもある……マイガー……!」
「ああいうのって、実際に裸になることは無いよ。カメラに映らないようにチューブトップの水着を着けて撮影するんだ。本当に脱いで撮影する映画なんかもあるにはあるんだが。問題はそこじゃない。アイドルをやっている歩にそんなシーンを演らせるのは、歩本人の負担になるだけじゃなくて、イメージダウンにも繋がりかねない。だから、そのシーンを変えてもらおうと交渉する予定なんだ」
3 :オーバーライト 2/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:21:18.66 ID:Xw+hWuzl0
 資料を見ていた歩が、顔を上げた。

 露出やお色気の絡む話になると途端に恥ずかしがる歩だったが、今日は違った。真っ直ぐにこちらを見つめる吊り目の視線には血気がある。

「……やるよ、アタシ」
「本気か?」
「うん」
「無理をすることはない。今回はこちらから交渉を持ち掛けることができるんだ。お願いされる立場なんだから」
「それでもだよ。だってこれって、一種のチャレンジだろ? す、すごく恥ずかしいけどさ……自分の都合のいいように変えてもらうなんて逃げみたいで、アタシは……そっちの方が嫌だ」

 歩が、金色のメッシュが入った前髪を指に巻き付けている。

 それから彼女は、かつての自分が衝動的にボイストレーニングを抜け出してしまったことを引き合いに出した。「苦手だから」「うまくいかないから」「自信が持てないから」と言い訳してできない自分に目を瞑っていたら、失敗しないが、進歩もない。弱い自分を弱いままにしているのが我慢ならない。歩は静かに、だがきっぱりとそう告げた。

「あのさ……自分で言うのもなんだけど、アタシの歌、上手くなったよね?」
「ああ、ファンレターでもよく書かれてるし、間違いないな」
「諦めずにブチあたってみればさ、何かしらいい結果になるって信じたいんだ。何が、って言われると分からないけど、もっとこう……何て言えばいいんだろ。とにかく、自分の成長に繋がると思うんだ」

 多少の言い淀みこそあれ、歩の言葉には一本の筋が通っている。弱気になりながらも壁を乗り越えようとする意志が、カップを逆さまにして紅茶を飲み干す姿に表れていた。

「分かった。じゃあ、このオファーを受ける方向でいこう。先方にも、歩の意向については伝えておく。もしかしたら、全く別の要因で脚本が変わる可能性はあるけどな」

 歩は頷いた。カップをソーサーに戻し、タオルで口元を拭ってから、「あのさ」と話を切り出そうとした。

「……ちょっと確かめたいことがあるんだけど、いい?」
「ん、何だ?」

 ガタッと椅子が鳴った。ゆっくり立ち上がった歩は椅子をしまい、後ろにぽつんと置かれたソファの上に横たわった。ポニーテールの髪が、ひじ掛けに広がっている。

「えっと……こう、上から覆いかぶさる感じに」

 突然何を言い出すんだ。ああ、早速ベッドシーンのフリだけでもやってみようということだろうか。
4 :オーバーライト 3/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:21:57.99 ID:Xw+hWuzl0
 あまり深く考えずにソファーの背もたれに手を突き、脚をまたいで右膝をその根元へ沈める。ギチギチ、と皮革が悲鳴をあげた気がした。

「……!」
「……歩?」
「う……ぁ……っっ……!」

 色よい健康的な顔から、さあっと血の気が引いていく。数秒もしない内に首筋まで真っ青になってしまった。上半身がカタカタと震えている。瞼から涙がどっと溢れるのと、右手が口元を覆うのはほぼ同時だった。

「歩っ!」
「うぷ……!」

 考えるよりも先に、目についたライトブルーのバケツをひったくった。ソファーの足元にあった清掃用具の一切が床に散らばり、からんからんと乾いた音が反響した。そして、差し出したバケツに歩が顔を突っ込んだ瞬間、聞くに堪えない音がした。

「おい、大丈夫か、おいっ」
「おえっ……! ごほ……げほっ……!」

 具合が悪いのか、という問いかけは無意味だった。そんなものは明白だ。歩は力無く、幽霊みたいに真っ白な首を横に振った。他の人がいない状況だったのは、どちらにとっても幸いだった。

 それから何度かの嘔吐を経て、「口をゆすいでくる」と消え入りそうな声で言い残し、歩はヨロヨロと事務室の出口へ歩いていった。バケツの中身はこちらで処理しておくことにした。熱中症や過労で倒れてしまうアイドルは何度か見かけたが、こんなケースは初めてだ。風花を呼ぼうとスマートフォンを取り出したが、彼女は別の仕事に行っている最中だ。

 なるべく直視しないように残滓の始末を終え、ポリ袋の口を閉じる頃になると、事務室の扉がそっと開いた。

「歩、平気か?」
「う、うん……大丈夫。ごめん、突然酷いところ見せちゃって」

 戻ってきた歩の顔にはまだ生気がなかった。ほんの数分前までのエネルギーを全て吐き出してしまったかのようだ。ソファーに深く腰掛けると、歩は深呼吸した。

「ねえプロデューサー。少し、時間もらえる? あっ、でも仕事があるか……」
「事務仕事はあるけど、そんなのは後でもできる。目の前のアイドルの方が大事だよ」
「……そ、そっか……へへへ……」

 気の抜けた、ちょっとだらしない笑みを零しながら、歩は俺が手渡した水を啜った。隣に座るように促されたが、ついさっきの異変が胃の底から突き上げてきた。

 できるだけゆっくりと腰を下ろす。今度は……何とも無かったようだ。

「じゃあ、話すね。あんまりハッピーな話じゃないんだけど……」

 糸を紡ぐように、歩は話し始めた。
5 :オーバーライト 4/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:22:34.63 ID:Xw+hWuzl0
 高校在学中に歩が留学先としてやってきたのは、アメリカ合衆国の大都市ニューヨーク。費用を負担してくれる家族にゴーサインを出させたのは、ダンススクールの先生の熱心で粘り強い説得と、国内の数々のコンテストでの実績と、何よりも歩がダンスにかける情熱だった。

 言葉が通じなくても、人と人は分かりあえる、と歩は小さい頃から信じていた。実際、ニューヨークのセントラルパークで出会った一人目の師匠とは、ダンスを通じて、魂で相互理解を出来ていたという実感があった。頭で思い描く通りに動けず悔し涙を流す少女の苦悩も、彼は理解していた。

 渡米して最初の内は、彼の下で歩はダンスを学んだ。ホームステイ先のブルックリンから地下鉄に乗って、マンハッタン島へ通い詰めた。セントラルパークのベンチの前、タイムズスクエアの街角、ユニオン・スクエア駅の構内、歩のダンスステージは場所を選ばなかった。チームメンバーに混じって踊っている内に、老若男女を問わず、見知らぬ通行人が足を止める。彼らは、彼女らは、オーディエンスとなって集まってくる。一緒になって踊ろうとする者も珍しくなかった。その体験はどうしようも無く歩を高揚させ、ダンスに対する情熱は留まる所を知らず高まり続けた。

 しかしながら、プロのダンサーとして師匠のデビューが決まった時にチームの解散が決まり、歩に一度目の別れが訪れた。I miss you, Ayumu.と何度も繰り返し、Eメールのアドレスを書いて渡してきた彼の顔つきから、英語の理解が浅かった歩にも、それが別れの言葉であるとはっきり刻み込まれた。涙はこらえた。夢を手にした彼を祝いたいという思いが勝っていた。

 次に歩の目に入ったのは、セントラルパークの更に北で見た、サウスブロンクスのストリートダンスバトルだった。時には誰かが持ち込んだカセットデッキから流れるランダムな音楽に、時にはDJが作り上げたセットリストに合わせ、リアルタイムに紡ぎ出されるライム。その音の流れに乗って、どちらがよりクールなダンスで己を表現できるのか、という正々堂々の勝負。多種多様な人種が雑多に集まっていたが、間違いなく、彼らには共通言語があった。

 飛び入りで参加した歩はその場の視線を独り占めした。師匠に教わったステップやターンが、歩は誇らしくなった。音楽が止んだ時、彼女に声をかけてきたのが、二人目の師匠だった。彼は日本語も(多少の片言ではあるが)話すことができた。言語の不自由から歩が解放された瞬間だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けていたチームは、ジャパニーズガールの加入でストリートのトップに躍り出た。
6 :オーバーライト 5/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:23:14.56 ID:Xw+hWuzl0
 一人目の師匠よりも若く、言葉の壁も無く、何かと世話を焼いてくれる二人目の師匠に、歩はプライベートな信頼も寄せていた。次第にそれは好意となっていき、彼女にとって初めてのボーイフレンドにもなった。

 十七歳の誕生日を迎えてしばらくした、ある日のことだった。その日も歩は、ハイスクールの授業を終えてすぐに地下鉄に飛び乗り、「いつもの場所」に向かった。ダンスに打ち込める幸福、新たな成長への期待、そして、恋人との一時を過ごせるときめき――色とりどりの興奮が内心で泡立っていた。

 その日のストリートから引き上げる頃になって、歩は師匠から「今日は泊まっていかないか」と誘われた。歩は了承した。そういった体験は耳にしたことはあっても、実体験は無かった。不安もあったが、彼とならば大丈夫だろう、という漠然とした安心感に、歩は身を任せきっていた。

 ベッドルームに案内されたとき、歩は突然、埃っぽいベッドに力づくで押し倒された。心を許していた彼と同じ顔があるのに、そこに彼はいなかった。口を押さえて覆いかぶさろうとしてくる恋人のギラついた眼光に、歩は身の毛がよだつ覚えがした。ショートパンツの中へゴツゴツした手が押し入ってきた。そのまま体内に、指のようなものが突き入れられた。鋭い痛みが脳天を貫いた。彼の背後にはもう一人の男がいた。Tシャツが裂かれる音が、遠雷のように歩の鼓膜を打った。その刹那、右脚が唸りをあげた。目の前のシャツの中央にあった三日月を、思い切り蹴り飛ばし、体が命じるままに歩は飛び起きた。

 恋人から強姦魔へ成り下がった彼がひるんだのを尻目に、跳ね起きた歩はもう一人の男も突き飛ばし、内開きのドアを抜け出して一心不乱に走り出した。タンクトップの上に重ね着していたTシャツはもう使い物にならなくなっており、疾走しながら破って放り投げた。

 歩は無我夢中で走った。サウスブロンクスの街中を、沈みゆく太陽に追い縋るように。脚の間がズキズキする。後ろを振り向くのが怖くて、必死に自らへ鞭を入れた。道端に停車していたイエローキャブが、薄暗さの中できらきら輝いていた。警察署に駆け込む選択肢を思いつかなかったことに歩が気付いたのは、タクシーが動き出して十分以上経ってからだった。

 自宅のあるブルックリンに戻るまでの間、歩は、夏なのに尋常ではない寒気を覚えた。タクシーの運転手に冷房を止めてもらうよう頼まなければならないほどだった。牙を剥いたオスへの本能的恐怖と、身を浸していた世界が音を立てて壊れたことへのショックが、全身をどろどろと対流していた。それなのに、涙は出なかった。あらゆる感情の出口が塞がってしまったようだった。

 ステイ先の自宅へ戻ってからも歩はひどく錯乱しており、「何も無かったことにしよう」「あれは自分では無かった」「悪い夢だった」と、念仏のように頭の中で唱えていた。傷を負った股からは血が流れていた。すぐに洗い流して見なかったことにしたが、じくじくとお湯がしみて痛かった。

 その日一日に蓋をしなければ、自分のあまりの無警戒を責め続けて、後悔で頭がどうにかなってしまいそうだった。サウスブロンクスが危険地域であることを知っていながら、歩は目を背けていたのだ。

 震えながら眠った翌朝、不思議なぐらいに歩の頭はスッキリしていた。本当は大変な目に遭っていたはずなのに、地球の反対側で大雨が降った程度に思えてならなかった(それが「解離」と呼ばれる精神の無意識的防衛機制であったのを歩が知るのは、半年以上経ってからのことである)。
7 :オーバーライト 6/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:23:49.24 ID:Xw+hWuzl0
 二人目の師匠との別れはあまりにも突然で、あまりにも無感動だった。サウスブロンクスどころか、マンハッタン島にも歩は近づかなくなっていた。ブルックリンのハイスクールと自宅とを、怯えて往復する日々が続いた。

 ストリートから遠ざかって生きがいの喪失を覚えていたある日、体育の授業で特別講師として招かれてきた男の顔を見て、歩に稲妻が落ちた。セントラルパークの師匠だった。特別授業が始まる前からボロボロと涙を零す歩へにこやかに話しかける彼は、後光の射した神様だった。

 詳細は話さなかった、というよりもその時は記憶から抜け落ちていたが、魂を注ぎ込んでダンスに打ち込めていないことを、授業の中で少し見ただけで、師匠は看破していた。そんな歩に師匠は、自分がダンサーの他に副業で勤めているスクールを紹介してくれた。ブロードウェイダンスセンター、通称BDC――タイムズスクエア駅のすぐ近くにあるダンススタジオだった。通うのには当然費用がかかるが、自分が担当するレッスンに参加する分には、そして、レッスンの中で合格を出せるだけのパフォーマンスを発揮できたならば、費用を負担しても構わない……と彼が申し出てきた。

 歩には明確なタイムリミットがあった。日本に帰る日は一歩一歩近づいてきていた。このままアメリカでの滞在を続けたい思いは当然あったが、それは叶わなかった。ダンススクールの最終日、近日中にアメリカを離れなくてはならないとたどたどしい英語で伝えようとする歩に耳を傾け、彼は一つの封筒を差し出した。不合格として師匠へ何度か支払った授業料が、全額歩の手元へ戻ってきたのだ。

「いつかアユムのステージを見せてくれ」。最後に師匠は確かにそう言っていたのだと、歩は信じていた。

帰国する直前ちらりと見かけた新聞に、見覚えのある顔が映っていた。サウスブロンクスのあの男だった。アメリカに来て初めて、歩は自ら新聞を購入した。性暴行の現場を押さえたNYPDによって逮捕、その後複数の性暴行の罪で起訴されている、というニュースだったらしいことを、歩は電子辞書を片手に何とか解読した。そこまで分かると、手近にあったゴミ箱に歩は新聞紙を放り捨ててしまった。
8 :オーバーライト 7/19 [sage saga]:2021/03/14(日) 00:24:31.41 ID:Xw+hWuzl0
 日本の高校を出て東京に来てからは新宿のBDCに通い始めた、ということを最後に、歩が話を終えて大きく深呼吸した。もうすっかり日が暮れていた。一枚のソーサーの上に、使い切ったティーバッグがいくつも積みあがっている。

「歩、この話を知っている人はいるのか?」
「ダンスの話なら何人もいるけど……その……今みたいな話をしたのは、プロデューサーが初めてだよ。誰にも言えなかったんだ。誰にも言わず忘れちゃった方がいいと思ってて。忘れられたと思ってたんだけど、色々、思い出しちゃった……」

 返答に迷った。さっき見せた異変は、心的外傷(トラウマ)の発露かもしれない。芸能界でも性暴行は水面下で起こっている。全て弾いているが、枕営業を暗に要求してくる者もいた。未遂であったとはいえ、目の前に性暴行被害者がいるなんて思いもよらず、迂闊に自分の思ったことを話すのは危険だった。

「大変な目に遭ってたんだな……。話してくれてありがとう。口外はしないから安心してくれ。だが、今すぐに俺からコメントをすることは控えておく。非常に重大なことだと思うから、とにかく慎重になりたい」
「……うん」
「それで……こういうことがあってもなお、ドラマのシナリオにはそのまま乗ろう、って言っているんだな?」
「うん。あんな傷が自分に残ってたってのも、さっき初めて分かったんだけどさ……イヤなヤツにイヤな思いをさせられて、そのせいで心の自由が失われるっていうか、そんなの……ごめん、うまく言えないや……」
「言わんとすることは分かるよ。過去の出来事に未来を狭められたくないってことだろ?」
「そう、そう! それだよ。さすがプロデューサーだな〜」

 歩の声に張りが戻り始めた。ちょうど、渡したミネラルウォーターを飲み切ったところだった。

「それでさ……その、プロデューサーに、協力してほしいんだ」
「ああ、もちろん、俺にできるだけの協力をしよう。どんなことを?」

 それから歩は一つの提案をしてきた。実際のベッドシーンを演じるにあたって問題のある行為や姿勢、シチュエーションを見つけて、それを乗り越える必要がある。ところが、現状ではフラッシュバックの引き金を自分でも把握できていないために、まずはそこを探るための相手を務めて欲しい、ということだった。自分の傷口に向き合って歩自身が辛い思いをするかもしれない。そう伝えはしたが、「向き合わなければずっとこのままだから」と搾り出すように呟いた歩の言葉が、決め手になった。

「ごめん、ワガママ言って」
「謝ることじゃない。ただ……どうしてもうまくいかなかったときのために、先方へ交渉を持ち掛ける準備だけはしておくが、それは構わないな?」
「そうならないようにしたいけど……仕方ないよね」
「そもそもの話なんだが……」

 ついティーバッグを取り出し忘れた紅茶が、温かいのに渋い。

「俺が相手役をすることに抵抗は無いのか?」
「全く無いわけじゃないけど、頼むならプロデューサーしかいないかなって。そのー……まぁ、信頼してるし。好き、っていうか。あっ、ライクだからね! ライク!」
「分かった、分かった」

 広げた両手をヒラヒラさせて首を振る歩の表情に、ようやくいつもの調子が戻ってきたように見えた。こうでなくては、と思ったが、目の前で照れ笑いを浮かべる彼女の精神に無残な傷口が残っているのだと思うと、どうにかして塞いでやりたかった。

「歩、夕飯食いに行こうと思うんだが、体調がマシになってるなら、来るか?」

 プレッシャーのかかる話が終わって気が抜けたからか、急に空腹感が込み上げてきた。砂糖も入れないまま紅茶を飲み続けていたが、昼食を取ってからもう六時間以上経っていたのだから当然といえた。

「マジで? イエーイ! で、で、どこ行くの?」
「この間、他所の事務所のプロデューサーさんに、寿司屋教えてもらったんだ。『なみだ巻』っていうわさびの巻き寿司が美味くてな。歩を連れて行こうと思ってたんだよ」

 わさび、という音を認識した瞬間、歩は目を細めた。あの青ざめた絶望を思えば、今の緩んだ表情を見られるだけでもホッとすることができた。だから、「もう成人してるんだからいいよね」と飲酒の許可をせがんできたのも、今日は快諾した。
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